一
前島林右衛門
板倉修理は、病後の疲労が
稍恢復すると同時に、はげしい神経衰弱に襲われた。――
肩がはる。頭痛がする。日頃好んでする書見にさえ、身がはいらない。
廊下を通る人の足音とか、
家中の者の話声とかが聞えただけで、すぐ注意が
擾されてしまう。それがだんだん
嵩じて来ると、今度は
極些細な刺戟からも、絶えず神経を
虐まれるような姿になった。
第一、
莨盆の
蒔絵などが、黒地に
金の
唐草を
這わせていると、その細い
蔓や葉がどうも気になって仕方がない。そのほか
象牙の
箸とか、青銅の火箸とか云う先の
尖った物を見ても、やはり不安になって来る。しまいには、畳の
縁の交叉した
角や、天井の
四隅までが、丁度
刃物を見つめている時のような切ない神経の緊張を、感じさせるようになった。
修理は、止むを得ず、毎日陰気な顔をして、じっと居間にいすくまっていた。何をどうするのも苦しい。出来る事なら、このまま存在の意識もなくなしてしまいたいと思う事が、度々ある。が、それは、
ささくれた神経の方で、許さない。彼は、
蟻地獄に落ちた蟻のような、いら立たしい心で、彼の周囲を見まわした。しかも、そこにあるのは、彼の心もちに何の理解もない、
徒に万一を
惧れている「
譜代の臣」ばかりである。「
己は苦しんでいる。が、誰も己の苦しみを察してくれるものがない。」――そう思う事が、既に彼には一倍の苦痛であった。
修理の神経衰弱は、この周囲の無理解のために、一層昂進の度を早めたらしい。彼は、
事毎に興奮した。隣屋敷まで聞えそうな声で、わめき立てた事も一再ではない。
刀架の刀に手のかかった事も、度々ある。そう云う時の彼はほとんど誰の眼にも、別人のようになってしまう。ふだん黄いろく肉の落ちた顔が、どこと云う事なく
痙攣して眼の色まで妙に殺気立って来る。そうして、
発作が甚しくなると、必ず左右の
鬢の毛を、ふるえる両手で、かきむしり始める。――
近習の者は、皆この鬢をむしるのを、彼の逆上した
索引にした。そう云う時には、互に
警め合って、誰も彼の側へ近づくものがない。
発狂――こう云う怖れは、修理自身にもあった。周囲が、それを感じていたのは云うまでもない。修理は勿論、この周囲の持っている怖れには反感を抱いている。しかし彼自身の感ずる怖れには、始めから反抗のしようがない。彼は、発作が止んで、前よりも一層幽鬱な心が重く頭を圧して来ると、時としてこの怖れが、稲妻のように、
己を
脅かすのを意識した。そうして、同時にまた、そう云う怖れを抱くことが、既に発狂の予告のような、
不吉な不安にさえ、襲われた。「発狂したらどうする。」
――そう思うと、彼は、
俄に眼の前が、暗くなるような心もちがした。
勿論この怖れは、一方絶えず、外界の刺戟から来るいら立たしさに、かき消された。が、そのいら立たしさがまた、他方では、ややもすると、この怖れを眼ざめさせた。――云わば、修理の心は、自分の尾を追いかける猫のように、休みなく、不安から不安へと、廻転していたのである。
―――――――――――――――――――――――――
修理のこの逆上は、少からず一家中の憂慮する所となった。中でも、これがために最も心を労したのは、家老の前島
林右衛門である。
林右衛門は、家老と云っても、実は本家の
板倉式部から、
附人として来ているので、修理も彼には、日頃から
一目置いていた。これはほとんど病苦と云うものの経験のない、
赭ら顔の大男で、文武の両道に
秀でている点では、
家中の侍で、彼の右に出るものは、幾人もない。そう云う関係上、彼はこれまで、始終修理に対して、意見番の役を勤めていた。彼が「板倉家の
大久保彦左」などと呼ばれていたのも、
完くこの
忠諫を進める所から来た
渾名である。
林右衛門は、修理の逆上が眼に見えて、進み出して以来、夜の目も寝ないくらい、主家のために、心を
煩わした。――既に病気が本復した以上、修理は近日中に
病緩の御礼として、
登城しなければならない筈である。所が、この逆上では、登城の際、
附合の諸大名、座席同列の旗本仲間へ、どんな無礼を働くか知れたものではない。万一それから
刃傷沙汰にでもなった日には、板倉家七千石は、そのまま「お取りつぶし」になってしまう。
殷鑑は遠からず、
堀田稲葉の
喧嘩にあるではないか。
林右衛門は、こう思うと、居ても立っても、いられないような心もちがした。しかし彼に云わせると、逆上は「体の病」ではない。全く「心の病」である――彼はそこで、
放肆を
諫めたり、
奢侈を諫めたりするのと同じように、敢然として、修理の神経衰弱を諫めようとした。
だから、林右衛門は、
爾来、機会さえあれば修理に
苦諫を進めた。が、修理の逆上は、少しも鎮まるけはいがない。
寧ろ、
諫めれば諫めるほど、
焦れれば焦れるほど、眼に見えて、進んで来る。現に一度などは、危く林右衛門を手討ちにさえ、しようとした。「
主を
主とも思わぬ奴じゃ。本家の手前さえなくば、切ってすてようものを。」――そう云う修理の眼の中にあったものは、既に怒りばかりではない。林右衛門は、そこに、また消し難い憎しみの色をも、読んだのである。
その
中に、主従の間に
纏綿する感情は、林右衛門の重ねる苦諫に従って、いつとなく
荒んで来た。と云うのは、独り修理が林右衛門を憎むようになったと云うばかりではない。林右衛門の心にもまた、知らず知らず、修理に対する憎しみが、芽をふいて来た事を云うのである。勿論、彼は、この憎しみを意識してはいなかった。少くとも、最後の一刻を除いて、修理に対する彼の忠心は、終始変らないものと信じていた。「
君君為らざれば、臣臣為らず」――これは
孟子の「道」だったばかりではない。その
後には、人間の自然の「道」がある。しかし、林右衛門は、それを認めようとしなかった。……
彼は、
飽くまでも、臣節を尽そうとした。が、苦諫の効がない事は、既に苦い経験を
嘗めている。そこで、彼は、今まで胸中に秘していた、最後の手段に訴える覚悟をした。最後の手段と云うのは、ほかでもない。修理を押込め隠居にして、板倉一族の中から養子をむかえようと云うのである。――
何よりもまず、「家」である。(林右衛門はこう思った。)当主は「家」の前に、犠牲にしなければならない。ことに、板倉本家は、
乃祖板倉四郎左衛門
勝重以来、
未嘗、
瑕瑾を受けた事のない名家である。二代又左衛門
重宗が、父の跡をうけて、
所司代として
令聞があったのは、数えるまでもない。その弟の
主水重昌は、慶長十九年大阪冬の陣の和が
媾ぜられた時に、
判元見届の重任を
辱くしたのを始めとして、寛永十四年島原の乱に際しては
西国の軍に将として、将軍家
御名代の旗を、
天草征伐の陣中に
飜した。その名家に、万一汚辱を蒙らせるような事があったならば、どうしよう。臣子の分として、
九原の
下、板倉家
累代の父祖に
見ゆべき
顔は、どこにもない。
こう思った林右衛門は、
私に一族の
中を物色した。すると幸い、当時若年寄を勤めている板倉
佐渡守には、
部屋住の子息が三人ある。その子息の一人を
跡目にして、養子願さえすれば、
公辺の首尾は、どうにでもなろう。もっともこれは、事件の性質上修理や修理の内室には、密々で行わなければならない。彼は、ここまで思案をめぐらした時に、始めて、明るみへ出たような心もちがした。そうして、それと同時に今までに覚えなかったある悲しみが、おのずからその心もちを曇らせようとするのが、感じられた。「皆御家のためじゃ。」――そう云う彼の決心の中には、彼自身
朧げにしか意識しない、何ものかを弁護しようとするある努力が、月の
暈のようにそれとなく、つきまとっていたからである。
―――――――――――――――――――――――――
病弱な修理は、第一に、林右衛門の頑健な体を憎んだ。それから、
本家の
附人として、彼が
陰に持っている
権柄を憎んだ。最後に、彼の「家」を中心とする忠義を憎んだ。「
主を
主とも思わぬ奴じゃ。」――こう云う修理の語の
中には、これらの憎しみが、
燻りながら燃える火のように、暗い焔を蔵していたのである。
そこへ、突然、思いがけない
非謀が、
内室の口によって伝えられた。林右衛門は修理を押込め隠居にして、板倉佐渡守の子息を養子に迎えようとする。それが、偶然、内室の耳へ
洩れた。――これを聞いた修理が、
眦を裂いて憤ったのは無理もない。
成程、林右衛門は、板倉家を大事に思うかも知れない。が、忠義と云うものは現在
仕えている主人を
蔑にしてまでも、「家」のためを計るべきものであろうか。しかも、林右衛門の「家」を
憂えるのは、
杞憂と云えば杞憂である。彼はその杞憂のために、自分を押込め隠居にしようとした。あるいはその物々しい忠義
呼わりの後に、あわよくば、家を横領しようとする野心でもあるのかも知れない。――そう思うと修理は、どんな
酷刑でも、この不臣の
行を罰するには、軽すぎるように思われた。
彼は、内室からこの話を聞くと、すぐに、以前彼の
乳人を勤めていた、田中宇左衛門という老人を呼んで、こう言った。
「林右衛門めを
縛り首にせい。」
宇左衛門は、半白の頭を傾けた。年よりもふけた、彼の顔は、この頃の心労で一層
皺を増している。――林右衛門の
企ては、彼も快くは思っていない。が、何と云っても相手は本家からの
附人である。
「縛り首は
穏便でございますまい。武士らしく切腹でも申しつけまするならば、格別でございますが。」
修理はこれを聞くと、
嘲笑うような眼で、宇左衛門を見た。そうして、二三度強く頭を振った。
「いや人でなし
奴に、切腹を申しつける
廉はない。縛り首にせい。縛り首にじゃ。」
が、そう云いながら、どうしたのか、彼は、血の色のない
頬へ、はらはらと涙を落した。そうして、それから――いつものように両手で、
鬢の毛をかきむしり始めた。
―――――――――――――――――――――――――
縛り首にしろと云う命が出た事は、
直に腹心の
近習から、林右衛門に伝えられた。
「よいわ。この上は、林右衛門も意地ずくじゃ。手を
拱いて縛り首もうたれまい。」
彼は昂然として、こう云った。そうして、今まで彼につきまとっていた
得体の知れない不安が、この沙汰を聞くと同時に、跡方なく消えてしまうのを意識した。今の彼の心にあるものは、修理に対するあからさまな憎しみである。もう修理は、彼にとって、主人ではない。その修理を憎むのに、何の
憚る所があろう。――彼の心の明るくなったのは、無意識ながら、全く彼がこう云う論理を、
刹那の間に認めたからである。
そこで、彼は、妻子家来を引き具して、白昼、修理の屋敷を立ち
退いた。
作法通り、立ち退き先の所書きは、座敷の壁に
貼ってある。
槍も、林右衛門自ら、
小腋にして、先に立った。武具を
担ったり、足弱を
扶けたりしている若党
草履取を加えても、一行の
人数は、漸く十人にすぎない。それが、とり乱した気色もなく、つれ立って、門を出た。
延享四年三月の末である。門の外では、
生暖い風が、桜の花と
砂埃とを、一つに武者窓へふきつけている。林右衛門は、その風の中に立って、もう一応、往来の右左を見廻した。そうして、それから槍で、一同に左へ行けと相図をした。
二 田中宇左衛門
林右衛門の立ち
退いた後は、田中宇左衛門が代って、家老を勤めた。彼は
乳人をしていた関係上、
修理を見る眼が、
自らほかの家来とはちがっている。彼は親のような心もちで、修理の
逆上をいたわった。修理もまた、彼にだけは、比較的従順に振舞ったらしい。そこで、主従の関係は、林右衛門のいた時から見ると、遥に
滑になって来た。
宇左衛門は、修理の
発作が、夏が来ると共に、漸く
怠り出したのを喜んだ。彼も万一修理が殿中で無礼を働きはしないかと云う事を、
惧れない訳ではない。が、林右衛門は、それを「家」に
関る大事として、惧れた。併し、彼は、それを「
主」に関る大事として惧れたのである。
勿論、「家」と云う事も、彼の念頭には
上っていた。が、変があるにしてもそれは単に、「家」を亡すが故に、大事なのではない。「
主」をして、「家」を亡さしむるが故に――「
主」をして、不孝の名を負わしむるが故に、大事なのである。では、その大事を
未然に防ぐには、どうしたら、いいであろうか。この点になると、宇左衛門は林右衛門ほど明瞭な、意見を持っていないようであった。恐らく彼は、神明の加護と自分の赤誠とで、修理の逆上の鎮まるように祈るよりほかは、なかったのであろう。
その年の八月一日、徳川幕府では、
所謂八朔の儀式を行う日に、修理は病後初めての
出仕をした。そうして、その
序に、当時
西丸にいた、若年寄の板倉佐渡守を訪うて、帰宅した。が、別に殿中では、何も
粗
をしなかったらしい。宇左衛門は、始めて、
愁眉を開く事が出来るような心もちがした。
しかし、彼の悦びは、その日一日だけも、続かなかった。
夜になると間もなく、板倉佐渡守から急な使があって、早速来るようにと云う沙汰が、
凶兆のように彼を
脅したからである。夜陰に及んで、突然召しを受ける。――そう云う事は、林右衛門の代から、まだ一度も聞いた事がない。しかも今日は、初めて修理が登城をした日である。――宇左衛門は、
不吉な予感に襲われながら、
慌しく佐渡守の屋敷へ参候した。
すると、果して、修理が佐渡守に無礼の振舞があったと云う話である。――今日出仕を終ってから、修理は、
白帷子に
長上下のままで、西丸の佐渡守を訪れた。見た所、
顔色もすぐれないようだから、あるいはまだ快癒がはかばかしくないのかと思ったが、話して見ると、格別、病人らしい
容子もない。そこで安心して、暫く世間話をしている中に、偶然、佐渡守が、いつものように前島林右衛門の安否を訊ねた。すると、修理は急に額を暗くして、「林右衛門めは、
先頃、手前屋敷を
駈落ち致してござる。」と云う。林右衛門が、どう云う人間かと云う事は、佐渡守もよく知っている。何か
仔細がなくては、
妄に
主家を駈落ちなどする男ではない。こう思ったから、佐渡守は、その仔細を尋ねると同時に、本家からの
附人にどう云う間違いが起っても、親類中へ相談なり、知らせなりしないのは、
穏でない旨を忠告した。ところが、修理は、これを聞くと、眼の色を変えながら、刀の
柄へ手をかけて、「佐渡守殿は、別して、林右衛門めを
贔屓にせられるようでござるが、手前家来の仕置は、不肖ながら手前一存で取計らい申す。如何に当時
出頭の若年寄でも、いらぬ世話はお置きなされい。」と云う口上である。そこでさすがの佐渡守も、あまりの事に
呆れ返って、御用繁多を幸に、早速その場を
外してしまった。――
「よいか。」ここまで話して来て、佐渡守は、今更のように、苦い顔をした。
――第一に、林右衛門の立ち退いた趣を、一門衆へ通達しないのは、宇左衛門の罪である。第二に、まだ逆上の気味のある修理を、登城させたのも、やはり彼の責を免れない。佐渡守だったから、いいが、もし今日のような
雑言を、列座の大名衆にでも云ったとしたら、板倉家七千石は、
忽ち、
改易になってしまう。――
「そこでじゃ。今後は必ずとも、他出無用に致すように、別して、出仕登城の儀は、その方より、堅くさし止むるがよい。」
佐渡守は、こう云って、じろりと宇左衛門を見た。
「
唯だ
主につれて、その方まで逆上しそうなのが、心配じゃ。よいか。きっと申しつけたぞ。」
宇左衛門は眉をひそめながら、思切った声で答えた。
「よろしゅうござりまする、しかと
向後は慎むでございましょう。」
「おお、二度と
過をせぬのが、何よりじゃ。」
佐渡守は、吐き出すように、こう云った。
「その儀は、宇左衛門、一命にかけて、承知仕りました。」
彼は、眼に涙をためながら懇願するように、佐渡守を見た。が、その眼の中には、
哀憐を請う情と共に、犯し難い決心の色が、浮んでいる。――必ず修理の他出を、禁ずる事が出来ると云う決心ではない。禁ずる事が出来なかったら、どうすると云う、決心である。
佐渡守は、これを見ると、また顔をしかめながら、面倒臭そうに、横を向いた。
―――――――――――――――――――――――――
「
主」の意に従えば、「家」が
危い。「家」を立てようとすれば、「主」の意に
悖る事になる。
嘗は、林右衛門も、この苦境に陥っていた。が、彼には「家」のために「主」を捨てる勇気がある。と云うよりは、むしろ、始からそれほど「主」を大事に思っていない。だから、彼は、
容易く、「家」のために「主」を
犠牲にした。
しかし、自分には、それが出来ない。自分は、「家」の利害だけを計るには、余りに「
主」に親しみすぎている。「家」のために、ただ、「家」と云う名のために、どうして、現在の「主」を無理に隠居などさせられよう。自分の眼から見れば、今の修理も、
破魔弓こそ持たないものの、幼少の修理と変りがない。自分が
絵解きをした絵本、自分が手をとって習わせた
難波津の歌、それから、自分が尾をつけた
紙鳶――そう云う物も、まざまざと、自分の記憶に残っている。……
そうかと云って、「
主」をそのままにして置けば、独り「家」が亡びるだけではない。「主」自身にも
凶事が起りそうである。利害の打算から云えば、林右衛門のとった策は、
唯一の、そうしてまた、最も賢明なものに相違ない。自分も、それは認めている。その癖、それが、自分には、どうしても実行する事が出来ないのである。
遠くで
稲妻のする空の下を、修理の屋敷へ帰りながら、宇左衛門は
悄然と腕を組んで、こんな事を何度となく胸の中で繰り返えした。
―――――――――――――――――――――――――
修理は、翌日、宇左衛門から、佐渡守の云い渡した一部始終を聞くと、忽ち顔を曇らせた。が、それぎりで、格別いつものように、とり
上せる
気色もない。宇左衛門は、気づかいながら、幾分か
安堵して、その日はそのまま、下って来た。
それから、かれこれ十日ばかりの間、修理は、居間にとじこもって、毎日ぼんやり考え事に耽っていた。宇左衛門の顔を見ても、口を
利かない。いや、ただ一度、
小雨のふる日に、
時鳥の啼く声を聞いて、「あれは鶯の巣をぬすむそうじゃな。」とつぶやいた事がある。その時でさえ、宇左衛門が、それを
潮に、話しかけたが、彼は、また黙って、うす暗い空へ眼をやってしまった。そのほかは、勿論、
唖のように口をつぐんで、じっと
襖障子を見つめている。顔には、何の感情も浮んでいない。
所が、ある夜、十五日の総出仕が二三日の中に迫った時の事である。修理は突然宇左衛門をよびよせて、人払いの上、陰気な顔をしながら、こんな事を云った。
「
先達、佐渡殿も云われた通り、この病体では、とても御奉公は
覚束ないようじゃ。ついては、身共もいっそ隠居しようかと思う。」
宇左衛門は、ためらった。これが本心なら、元よりこれに越した事はないが、どうして、修理はそれほど容易に、家督を譲る気になれたのであろう。――
「
御尤もでございます。佐渡守様もあのように、仰せられますからは、残念ながら、そうなさるよりほかはございますまい。が、まず一応は、御一門衆へも……」
「いや、いや、隠居の儀なら、林右衛門の成敗とは変って、相談せずとも、一門衆は同意の筈じゃ。」
修理、こう云って、
苦々しげに、微笑した。
「さようでもございますまい。」
宇左衛門は、
傷しそうな顔をして、修理を見た。が、相手は、さらに耳へ入れる
容子もない。
「さて、隠居すれば、出仕しようと思うても出仕する事は出来ぬ。されば、」修理はじっと宇左衛門の顔を見ながら、一句一句、重みを
量るように、「その前に、今一度出仕して、西丸の大御所様(吉宗)へ、御目通りがしたい。どうじゃ。十五日に、
登城させてはくれまいか。」
宇左衛門は、黙って、眉をひそめた。
「それも、たった一度じゃ。」
「恐れながら、その儀ばかりは。」
「いかぬか。」
二人は、顔を見合せながら、黙った。しんとした部屋の中には、油を吸う燈心の音よりほかに、聞えるものはない。――宇左衛門は、この暫くの間を、一年のように長く感じた。佐渡守へ云い切った手前、それを修理に許しては自分の武士がたたないからである。
「佐渡殿の云われた事は、承知の上での頼みじゃ。」
ほどを経て、修理が云った。
「登城を許せば、その方が、一門衆の
不興をうける事も、修理は、よう存じているが、思うて見い。修理は一門衆はもとより、
家来にも見離された乱心者じゃ。」
そう云いながら、彼の声は、次第に感動のふるえを帯びて来た。見れば、眼も涙ぐんでいる。
「世の
嘲りはうける。家督は人の手に渡す。天道の光さえ、修理にはささぬかと思うような身の上じゃ。その修理が、今生の望にただ一度、出仕したいと云う、それをこばむような宇左衛門ではあるまい。宇左衛門なら、この修理を、あわれとこそ思え、憎いとは思わぬ筈じゃ。修理は、宇左衛門を親とも思う。兄弟とも思う。親兄弟よりも、
猶更なつかしいものと思う。広い世界に、修理がたのみに思うのは、ただその方一人きりじゃ。さればこそ、無理な頼みもする。が、これも決して、一生に二度とは云わぬ。ただ、
今度一度だけじゃ。宇左衛門、どうかこの心を察してくれい。どうかこの無理を許してくれい。これ、この通りじゃ。」
彼は、家老の前へ両手をついて、涙を落しながら、
額を畳へつけようとした。宇左衛門は、感動した。
「御手をおあげ下さいまし。御手をおあげ下さいまし。
勿体のうございます。」
彼は、
修理の手をとって、無理に畳から離させた。そうして泣いた。すると、泣くに従って、彼の心には次第にある安心が、
溢れるともなく、溢れて来る。――彼は涙の
中に、佐渡守の前で云い切った
語を、再びありありと思い浮べた。
「よろしゅうございまする。佐渡守様が何とおっしゃりましょうとも、万一の場合には、宇左衛門
皺腹を
仕れば、すむ事でございまする。
私一人の
粗忽にして、きっと御登城おさせ申しましょう。」
これを聞くと、修理の顔は、急に別人の如く喜びにかがやいた。その変り方には、役者のような巧みさがある。がまた、役者にないような自然さもある。――彼は、突然調子の
外れた笑い声を
洩らした。
「おお、許してくれるか。
忝い。忝いぞよ。」
そう云って、彼は嬉しそうに、左右を顧みた。
「皆のもの、よう聞け。宇左衛門は、登城を許してくれたぞ。」
人払いをした居間には、彼と宇左衛門のほかに誰もいない。皆のもの――宇左衛門は、気づかわしそうに
膝を進めて、
行燈の
火影に恐る恐る、修理の眼の中を
窺った。
三
刃傷
延享四年八月十五日の朝、五つ時過ぎに、
修理は、殿中で、何の
恩怨もない。肥後国熊本の城主、
細川越中守宗教を
殺害した。その
顛末は、こうである。
―――――――――――――――――――――――――
細川家は、諸侯の中でも、すぐれて、武備に富んだ大名である。
元姫君と云われた
宗教の内室さえ、武芸の道には
明かった。まして宗教の
嗜みに、
疎な所などのあるべき筈はない。それが、「
三斎の末なればこそ細川は、
二歳に
斬られ、
五歳ごとなる。」と
諷われるような死を遂げたのは、
完く時の運であろう。
そう云えば、細川家には、この
凶変の起る前兆が、
後になって考えれば、幾つもあった。――第一に、その年三月中旬、品川
伊佐羅子の
上屋敷が、火事で焼けた。これは、邸内に
妙見大菩薩があって、その神前の
水吹石と云う石が、火災のある
毎に水を吹くので、
未嘗、焼けたと云う事のない屋敷である。第二に、五月上旬、門へ打つ守り札を、
魚籃の
愛染院から奉ったのを見ると、御武運長久
御息災とある可き所に災の字が書いてない。これは、上野
宿坊の
院代へ問い合せた上、早速愛染院に書き直させた。第三に、八月上旬、屋敷の広間あたりから、夜な夜な大きな怪火が出て、芝の方へ飛んで行ったと云う。
そのほか、八月十四日の昼には、天文に通じている家来の
才木茂右衛門と云う男が
目付へ来て、「明十五日は、殿の
御身に大変があるかも知れませぬ。
昨夜天文を見ますと、将星が落ちそうになって居ります。どうか御慎み第一に、御他出なぞなさいませんよう。」と、こう云った。目付は、元来余り天文なぞに信を
措いていない。が、日頃この男の予言は、主人が尊敬しているので、取あえず
近習の者に話して、その旨を越中守の耳へ入れた。そこで、十五日に催す
能狂言とか、登城の帰りに客に行くとか云う事は、見合せる事になったが、御奉公の一つと云う
廉で、出仕だけは
止めにならなかったらしい。
それが、翌日になると、また
不吉な前兆が、加わった。――十五日には、いつも越中守自身、
麻上下に着換えてから、八幡大菩薩に、
神酒を備えるのが慣例になっている。ところが、その日は、
小姓の手から
神酒を入れた
瓶子を二つ、
三宝へのせたまま受取って、それを神前へ備えようとすると、どうした拍子か瓶子は二つとも倒れて、神酒が外へこぼれてしまった。その時は、さすがに一同、思わず顔色を変えたと云う事である。
―――――――――――――――――――――――――
翌日、越中守は登城すると、
御坊主田代祐悦が供をして、まず、大広間へ通った。が、やがて、大便を催したので、今度は御坊主黒木
閑斎をつれて、湯呑み
所際の
厠へはいって、用を
足した。さて、厠を出て、うすぐらい
手水所で手を洗っていると突然
後から、誰とも知れず、声をかけて、斬りつけたものがある。驚いて、振り返ると、その拍子にまた二の太刀が、すかさず
眉間へ
閃いた。そのために血が眼へはいって、越中守は、相手の顔も見定める事が出来ない。相手は、そこへつけこんで、たたみかけ、たたみかけ、
幾太刀となく浴せかけた。そうして、越中守がよろめきながら、とうとう、
四の
間の縁に
仆れてしまうと、
脇差をそこへ捨てたなり、慌ててどこか見えなくなってしまった。
ところが、伴をしていた黒木閑斎が、不意の大変に
狼狽して、大広間の方へ逃げて行ったなり、これもどこかへ隠れてしまったので、誰もこの
刃傷を知るものがない。それを、暫くしてから、
漸く本間
定五郎と云う
小拾人が、
御番所から
下部屋へ来る途中で発見した。そこで、すぐに
御徒目付へ知らせる。御徒目付からは、御徒組頭
久下善兵衛、御徒目付土田
半右衛門、
菰田仁右衛門、などが駈けつける。――殿中では忽ち、
蜂の巣を破ったような騒動が
出来した。
それから、一同集って、
手負いを抱きあげて見ると、顔も体も血まみれで誰とも更に見分ける事が出来ない。が、耳へ口をつけて呼ぶと、漸く
微な声で、「細川越中」と答えた。続いて、「相手はどなたでござる」と尋ねたが、「
上下を着た男」と云う答えがあっただけで、その後は、もうこちらの声も通じないらしい。
創は「
首構七寸程、
左肩六七寸ばかり、右肩五寸ばかり、左右手四五ヶ所、鼻上耳脇また
頭に
疵二三ヶ所、背中右の脇腹まで
筋違に一尺五寸ばかり」である。そこで、当番御目付土屋長太郎、橋本
阿波守は勿論、大目付
河野豊前守も立ち合って、一まず手負いを、
焚火の
間へ
舁ぎこんだ。そうしてそのまわりを
小屏風で囲んで、五人の御坊主を附き添わせた上に、大広間詰の諸大名が、代る代る来て
介抱した。中でも松平
兵部少輔は、ここへ
舁ぎこむ途中から、最も親切に
劬ったので、わき眼にも、情誼の
篤さが忍ばれたそうである。
その間に、一方では
老中若年寄衆へこの急変を届けた上で、万一のために、玄関先から大手まで、厳しく門々を打たせてしまった。これを見た
大手先の大小名の
家来は、
驚破、殿中に
椿事があったと云うので、立ち騒ぐ事が一通りでない。何度目付衆が出て、制しても、すぐまた、
海嘯のように、押し返して来る。そこへ、殿中の混雑もまた、益々甚しくなり出した。これは御目付土屋長太郎が、
御徒目付、火の番などを召し連れて、番所番所から勝手まで、根気よく
刃傷の相手を探して歩いたが、どうしても、その「
上下を着た男」を見つける事が出来なかったからである。
すると、意外にも、相手は、これらの人々の眼にはかからないで、かえって
宝井宗賀と云う
御坊主のために、発見された。――宗賀は大胆な男で、これより先、一同のさがさないような場所場所を、独りでしらべて歩いていた。それがふと
焚火の
間の近くの
厠の中を見ると、
鬢の毛をかき乱した男が一人、影のように
蹲っている。うす暗いので、はっきりわからないが、どうやら鼻紙
嚢から
鋏を出して、そのかき乱した
鬢の毛を鋏んででもいるらしい。そこで
宗賀は、側へよって声をかけた。
「どなたでござる。」
「これは、人を殺したで、髪を切っているものでござる。」
男は、しわがれた声で、こう答えた。
もう疑う所はない。宗賀は、すぐに人を呼んで、この男を
厠の中から、ひきずり出した。そうして、とりあえず、それを御徒目付の手に渡した。
御徒目付はまた、それを
蘇鉄の
間へつれて行って、大目付始め御目付衆立ち合いの上で、
刃傷の
仔細を問い
質した。が、男は、物々しい殿中の騒ぎを、茫然と眺めるばかりで、更に答えらしい答えをしない。
偶々口を開けば、ただ
時鳥の事を云う。そうして、そのあい間には、血に染まった手で、何度となく、鬢の毛をかきむしった。――修理は既に、
発狂していたのである。
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細川越中守は、焚火の間で、息をひきとった。が、
大御所吉宗の内意を受けて、
手負いと
披露したまま
駕籠で中の口から、平川口へ出て引きとらせた。
公に死去の届が出たのは、二十一日の事である。
修理は、越中守が引きとった
後で、すぐに水野
監物に預けられた。これも中の口から、平川口へ、
青網をかけた
駕籠で出たのである。駕籠のまわりは水野家の足軽が五十人、一様に新しい柿の
帷子を着、新しい白の股引をはいて、新しい棒をつきながら、
警固した。――この行列は、
監物の日頃不意に備える
手配が、行きとどいていた証拠として、当時のほめ物になったそうである。
それから七日目の二十二日に、大目付石河土佐守が、
上使に立った。上使の趣は、「其方儀乱心したとは申しながら、細川越中守
手疵養生不相叶致死去候に付、水野監物宅にて切腹
被申付者也」と云うのである。
修理は、上使の前で、短刀を法の如くさし出されたが、茫然と手を膝の上に重ねたまま、とろうとする
気色もない。そこで、
介錯に立った水野の家来吉田
弥三左衛門が、止むを得ず
後からその首をうち落した。うち落したと云っても、
喉の皮
一重はのこっている。弥三左衛門は、その首を手にとって、下から検使の役人に見せた。
頬骨の高い、皮膚の黄ばんだ、いたいたしい首である。眼は勿論つぶっていない。
検使は、これを見ると、血のにおいを
嗅ぎながら、満足そうに、「見事」と声をかけた。
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同日、田中宇左衛門は、板倉式部の屋敷で、縛り首に処せられた。これは「修理病気に付、禁足申付候様にと
屹度、板倉佐渡守兼ねて申渡置候処、自身の計らいにて登城させ候故、かかる
凶事出来、七千石断絶に及び候段、言語道断の
不届者」という罪状である。
板倉
周防守、同式部、同佐渡守、酒井
左衛門尉、松平
右近将監等の一族縁者が、遠慮を仰せつかったのは云うまでもない。そのほか、越中守を見捨てて逃げた黒木
閑斎は、
扶持を召上げられた上、追放になった。
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修理の
刃傷は、恐らく過失であろう。細川家の
九曜の星と、板倉家の九曜の巴と衣類の
紋所が似ているために、修理は、佐渡守を
刺そうとして、誤って越中守を害したのである。以前、
毛利主水正を、水野
隼人正が斬ったのも、やはりこの人違いであった。殊に、
手水所のような、うす暗い所では、こう云う間違いも、起りやすい。――これが当時の定評であった。
が、板倉佐渡守だけは、この定評をよろこばない。彼は、この話が出ると、いつも苦々しげに、こう云った。
「佐渡は、修理に刃傷されるような覚えは、
毛頭ない。まして、あの乱心者のした事じゃ。
大方、何と云う事もなく、肥後侯を斬ったのであろう。人違などとは、迷惑至極な臆測じゃ。その証拠には、大目付の前へ出ても、修理は、
時鳥がどうやら云うていたそうではないか。されば、時鳥じゃと思って、斬ったのかも知れぬ。」
(大正六年二月)