一 大雅の画
僕は日頃
大雅の
画を欲しいと思つてゐる。しかしそれは大雅でさへあれば、金を惜まないと云ふのではない。まあせいぜい五十円位の大雅を一
幅得たいのである。
大雅は偉い
画描きである。昔、
高久靄崖は
一文無しの窮境にあつても、一幅の大雅だけは手離さなかつた。ああ云ふ
英霊漢の筆に成つた
画は、何百円と
雖も高い事はない。それを五十円に値切りたいのは、僕に余財のない悲しさである。しかし大雅の画品を思へば、たとへば五百万円を投ずるのも、僕のやうに五十円を投ずるのも、安いと云ふ点では同じかも知れぬ。芸術品の価値も小切手や
紙幣に換算出来ると考へるのは、
度し難い俗物ばかりだからである。
Samuel Butler の書いた物によると、彼は日頃「出来の
好い、ちやんと保存された、四十シリング位のレムブラント」を欲しがつてゐた。処が実際二度までも
莫迦に安いレムブラントに遭遇した。一度は一
磅と云ふ
価の為に買はなかつたが、二度目には友人の Gogin に
諮つた上、とうとうそれを手に入れる事が出来た。その
画はどう云ふ画だつたか、どの位の金を払つたか、それはどちらも明らかではない。が、買つた時は千八百八十七年、買つた場所はストランド(ロンドン)の或
質店の店さきである。
かう云ふ先例もあつて見ると、五十円の
大雅を得んとするのは、
必しも不可能事ではないかも知れぬ。
何処か寂しい町の古道具屋の店に、たつた一幅売り残された、
九霞山樵の水墨山水――僕は時時退屈すると
弥勒の出世でも待つもののやうに、こんな空想にさへ
耽る事がある。
二 にきび
昔「
羅生門」と云ふ小説を書いた時、主人公の
下人の
頬には、大きい
面皰のある由を書いた。当時は王朝時代の人間にも、面皰のない事はあるまいと云ふ、
謙遜すれば
当推量に拠つたのであるが、その
後左経記に
二君とあり、
二君又は
二禁なるものは今日の面皰である事を知つた。
二君等は勿論当て字である。
尤もかう云ふ発見は、僕自身に興味がある程、
傍人には面白くも
何ともあるまい。
三 将軍
官憲は僕の「
将軍」と云ふ小説に、
何行も抹殺を
施した。処が
今日の新聞を見ると生活に窮した廃兵たちは、「隊長殿にだまされた閣下連の
踏台」とか、「後顧するなと大うそつかれ」とか、種種のポスタアをぶら下げながら、東京街頭を歩いたさうである。廃兵そのものを抹殺する事は、官憲の力にも
覚束ないらしい。
又官憲は今後と雖も、「○○の○○に○○の念を失はしむる」物は、発売禁止を行ふさうである。○○の念は恋愛と同様、
虚偽の上に立つ事の出来るものではない。虚偽とは過去の真理であり、今は通用せぬ
藩札の
類である。官憲は虚偽を
強ひながら、○○の念を失ふなと云ふ。それは藩札をつきつけながら、金貨に換へろと云ふのと変りはない。
無邪気なるものは官憲である。
四 毛生え薬
文芸と階級問題との関係は、頭と
毛生え
薬との関係に似ている。もしちやんと毛が生えてゐれば、
必しも塗る事を必要としない。又もし
禿げ頭だつたとすれば、恐らくは塗つても
利かないであらう。
五 芸術至上主義
芸術至上主義の極致はフロオベルである。彼自身の言葉によれば、「神は
万象の創造に現れてゐるが、しかも人間に姿を見せない。芸術家が創作に対する態度も、
亦斯くの如くなるべきである。」この故にマダム・ボヴアリイにしても、ミクロコスモスは展開するが、我我の情意には訴へて来ない。
芸術至上主義、――少くとも小説に於ける芸術至上主義は、確かに
欠伸の出易いものである。
六 一切不捨
何の
某は
帽子ばかり上等なのをかぶつてゐる。あの帽子さへなければ
好いのだが、――かう云ふ言葉を
做す人がある。しかしその帽子を除いたにしても、何の某の服装なるものは、
寸分も
立派になる次第ではない。唯貧しげな外観が、全体に
蔓延するばかりである。
何の
某の小説はセンテイメンタルだとか、何の某の戯曲はインテレクチユアルだとか、それらはいづれも帽子の場合と、選ぶ所のない言葉である。帽子ばかり上等なるものは、帽子を除き去る
工夫をするより、上着もズボンも
外套も、上等ならしむる
工夫をせねばならぬ。センテイメンタルな小説の作者は、感情を抑へる工夫をするより、理智を
活かすべき工夫をせねばならぬ。
これは独り芸術上の問題のみではない。人生に
於ても同じ事である。五欲の克服のみに骨を折つた
坊主は、偉い坊主になつた事を聞かない。偉い坊主になつたものは、常に五欲を克服すべき、他の熱情を
抱き得た坊主である。
雲照さへ坊主の
羅切を聞いては、「
男根は
須く
隆隆たるべし」と、
弟子共に教へたと云ふではないか?
我等の内にある
一切のものはいやが上にも伸ばさねばならぬ。それが我等に与へられた、
唯一の
成仏の道である。
七 赤西蠣太
或時
志賀直哉氏の愛読者と、「
赤西蠣太の恋」の話をした事がある。その時僕はこんなことを言つた。「あの小説の中の人物には
栄螺とか
鱒次郎とか
安甲とか、
大抵魚貝の名がついてゐる。志賀氏にもヒユウモラス・サイドはないのではない。」すると客は驚いたやうに、「
成程さうですね。そんな事には少しも気がつかずにゐました」と云つた。その癖客は僕なぞよりも「赤西蠣太の恋」の筋をはつきり覚えてゐたのである。
客は決して
軽薄児ではない。学問も人格も兼備した、
寧ろ珍しい文芸通である。しかもこの事実に気づかなかつたのは、志賀氏の作品の型とでも云ふか、
兎に
角何時か頭の中にさう云ふ物を
拵へた上、それに
囚はれてゐた為であらう。これは独り客のみではない。我我も気をつけねばならぬ事である。
八 釣名文人
古来作家が本を出した時、その本の好評を
計る為に、新聞雑誌に載るべき評論を利用する事は
稀ではない。中には手加減を加へるどころか、作者自身然るべき
匿名のもとに、
手前味噌の評論を書いたのもある。
ド・ラ・ロシユフウコオルは名高い格言集の作家である。処がサント・ブウヴの書いたものによると、この人さへジユルナアル・デ・サヴアンに出た評論には、彼自身修正を施したらしい。しかもジユルナアル・デ・サヴアンは、当時発行された
唯一の新聞であり、その評論の載つたのは、千六百六十五年三月九日だと云ふのだから、作家の評論を利用するのも、ずいぶん
淵源は古いものである。僕はロシユフウコオルの格言を思ひながら、この記事を読んだ時、実際
苦笑せずにはゐられなかつた。それを思へば日本の文壇は、新開地だけに悪風も少い。売笑批評とか
仲間褒め批評とか云つても、まづ害毒は知れたものである。
因に云ふ。この評論の筆者はマダム・ド・サブレ、評論されたのは例の格言集である。
九 歴史小説
歴史小説と云ふ以上、一時代の風俗なり人情なりに、多少は忠実でないものはない。しかし一時代の特色のみを、――殊に道徳上の特色のみを主題としたものもあるべきである。たとへば日本の王朝時代は、男女関係の考へ方でも、現代のそれとは
大分違ふ。
其処を
宛然作者自身も、
和泉式部の友だちだつたやうに、虚心平気に書き上げるのである。この種の歴史小説は、その現代との対照の
間に、自然或暗示を与へ易い。メリメのイザベラもこれである。フランスのピラトもこれである。
しかし日本の歴史小説には、
未だこの種の作品を見ない。日本のは
大抵古人の心に、
今人の心と共通する、云はばヒユマンな
閃きを
捉へた、手つ取り早い作品ばかりである。誰か年少の天才の中に、上記の新機軸を出すものはゐないか?
十 世人
西洋雑誌の載せる所によると、二十一年の九月
巴里にアナトオル・フランスの像の建つた時、彼自身その除幕式に演説を試みたと云ふ事である。この頃それを読んでゐると、かう云ふ一節を発見した。「わたしが人生を知つたのは、人と接触した結果ではない。本と接触した結果である。」しかし世人は書物に親しんでも、人生はわからぬと云ふかも知れない。
ルノアルの言つた言葉に、「
画を学ばんとするものは美術館に行け」とか云ふのがある。しかし世人は古名画を見るよりも、自然に学べと云ふかも知れない。
世人とは常にかう云ふものである。
十一 火渡りの行者
社会主義は、
理非曲直の問題ではない。単に一つの必然である。僕はこの必然を必然と感じないものは、
恰も
火渡りの
行者を見るが如き、驚嘆の情を禁じ得ない。あの過激思想取締法案とか云ふものの如きは、正にこの好例の一つである。
十二 俊寛
平家物語や
源平盛衰記以外に、
俊寛の新解釈を試みたものは現代に始まつた事ではない。
近松門左衛門の俊寛の如きは、最も著名なものの一つである。
近松の俊寛の島に残るのは、俊寛自身の意志である。
丹左衛門尉基康は、俊寛
成経康頼等三人の
赦免状を携へてゐる。が、
成経の妻になつた、島の女
千鳥だけは、舟に乗る事を許されない。
正使基康には許す気があつても、副使の
妹尾が許さぬのである。
妻子の死を聞いた俊寛は、千鳥を船に乗せる為に、
妹尾太郎を殺してしまふ。「
上使を斬りたる
咎によつて、改めて今
鬼界が
島の
流人となれば、
上の
御慈悲の筋も立ち、
御上使の
落度いささかなし。」この英雄的な俊寛は、成経康頼等の乗船を
勧めながら、
従容と又かうも云ふのである。「俊寛が乗るは
弘誓の船、浮き世の船には望みなし。」
僕は以前
久米正雄と、この
俊寛の芝居を見た。俊寛は故人
段四郎、
千鳥は
歌右衛門、
基康は
羽左衛門、――他は記憶に残つてゐない。俊寛が乗るは
云云の文句は、当時大いに久米正雄を感心させたものである。
近松の俊寛は
源平盛衰記の俊寛よりも、遙かに偉い人になつてゐる。勿論
舟出を見送る時には、嘆き悲しむのに相違ない。しかしその
後は近松の俊寛も、安らかに余生を送つたかも知れぬ。少くとも盛衰記の俊寛程、悲しい
末期には
遇はなかつたであらう。――さう云ふ心もちを与へる限り、「苦しまざる俊寛」を書いたものは、
夙に近松にあつたと云ふべきである。
しかし近松の目ざしたのは、「苦しまざる俊寛」にのみあつたのではない。彼の俊寛は「
平家女護が
島」の登場人物の
一人である。が、
倉田、
菊池両氏の俊寛は、俊寛のみを主題としてゐる。
鬼界が
島に流された俊寛は
如何に生活し、又如何に死を迎へたか?――これが両氏の問題である。この問題は殊に菊池氏の場合、かう云ふ形式にも換へられるであらう。――「我等は俊寛と同じやうに、島流しの境遇に陥つた時、どう云ふ生活を営むであらうか?」
近松と両氏との立ち場の相違は、盛衰記の記事の改めぶりにも、
窺はれると云ふ事を
妨げない。近松はあの俊寛を作る為に、俊寛の悲劇の
関鍵たる赦免状の
件さへも変更した。両氏も勿論近松に劣らず、盛衰記の記事を無視してゐる。しかし両氏とも近松のやうに、赦免状の
件は改めてゐない。与へられた条件の内に、俊寛の解釈を試みる以上、これだけは保存せねばならぬからである。
丁度その場合と同じやうに、倉田氏と菊池氏との立ち場の相違も、やはり盛衰記の記事を変更した、その変更のし方に見えるかも知れぬ。倉田氏が俊寛の娘を死んだ事にしたり、菊池氏が島を
豊沃の地にしたり、――それらは皆両氏の俊寛、――「苦しめる俊寛」と「苦しまざる俊寛」とを描出するに便だつた為であらう。僕の俊寛もこの点では、菊池氏の俊寛の
蹤を追ふものである。唯菊池氏の俊寛は、
寧ろ外部の生活に安住の因を見出してゐるが、僕のは
必しもそればかりではない。
しかし
謡や
浄瑠璃にある通り、不毛の孤島に取り残された儘、しかもなほ悠悠たる、偉い俊寛を考へられぬではない。唯この
巨鱗を
捉へる事は、現在の僕には出来ぬのである。
附記 盛衰記に現れた俊寛は、機智に富んだ思想家であり、
鶴の
前を愛する
色好みである。僕は特にこの点では、盛衰記の記事に忠実だつた。又俊寛の歌なるものは、
康頼や
成経より
拙いやうである。俊寛は議論には長じてゐても、詩人肌ではなかつたらしい。僕はこの点でも、盛衰記に忠実な態度を改めなかつた。又盛衰記の鬼界が島は、たとひタイテイではないにしても、
満更岩ばかりでもなささうである。もしあの盛衰記の島の記事から、
辺土に対する都会人の恐怖や
嫌悪を除き去れば、
存外古風土記にありさうな、愛すべき島になるかも知れない。
十三 漢字と仮名と
漢字なるものの特徴はその漢字の意味以外に漢字そのものの形にも美醜を感じさせることださうである。
仮名は勿論使用上、
音標文字の一種たるに過ぎない。しかし「か」は「加」と云ふやうに、祖先はいづれも漢字である。のみならず、いつも漢字と共に使用される関係上、自然と漢字と同じやうに
仮名そのものの形にも美醜の感じを含み易い。たとへば「い」は落ち着いてゐる、「り」は
如何にも鋭いなどと感ぜられるやうになり易いのである。
これは一つの可能性である。しかし事実はどうであらう?
僕は実は
平仮名には
時時形にこだはることがある。たとへば「て」の字は出来るだけ避けたい。殊に「何何して何何」と次に続けるのは
禁物である。その癖「何何してゐる。」と切れる時には
苦にならない。「て」の字の次は「く」の字である。これも
丁度折れ釘のやうに、上の文章の重量をちやんと受けとめる力に乏しい。
片仮名は平仮名に比べると、「ク」の字も「テ」の字も落ち着いてゐる。或は片仮名は平仮名よりも進歩した音標文字なのかも知れない。或は又平仮名に
慣れてゐる僕も片仮名には感じが
鈍いのかも知れない。
十四 希臘末期の人
この頃エジプトの砂の中から、ヘラクレニウムの熔岩の中から、
希臘人の書いたものが発見される。時代は 350 B.C. から 150 B.C. 位のものらしい。つまりアテネ時代からロオマ時代へ移らうとする中間の時代のものである。種類は論文、詩、喜劇、演説の草稿、手紙――まだ
外にもあるかも知れない。作者は従来書いたものの少しは知られてゐた人もある。名前だけやつと伝つてゐた人もある。
勿論全然名前さへ伝はつてゐなかつた人もある。
しかしそれは
兎も
角も、さういふ
断簡零墨を近代語に訳したものを見ると、どれもこれも我我にはお
馴染みの思想ばかりである。たとへば Polystratus と云ふエピクロス派の哲学者は「あらゆる虚偽と心労とを脱し、人生を自由ならしむる為には万物生成の大法を知らなければならぬ」と論じてゐる。さうかと思へば Cercidas と云ふ
所謂犬儒派の哲学者は「
蕩児と
守銭奴とは
黄白に富み、予ばかり貧乏するのは
不都合である! ……正義は
土豚のやうに盲目なのか? Themis(正義の女神)の
明は
蔽はれてゐるのか?」と大いに憤慨を
洩らした後、「
遮莫我徒は病弱を救ひ、
貧窶を恵むことを任にしたい」と勇ましい信念を
披露してゐる。更に又彼に先立つこと三十年余と伝へられる Colophon の Ph

nix は「何びとも金持ちには友だちである。金さへあれば神神さへ必ず君を愛するであらう。が、万一貧しければ母親すら君を憎むであらう」と
諷刺に満ちた詩を作つてゐる。最後に

noande の Diogenes は「予の所見に従へば、人類は百般の無用の事に百般の
苦楚を
味つてゐる。……予は
既に老人である。生命の太陽も沈まうとしてゐる。予は唯予の道を教へるだけである。……天下の人は
悉く互に虚偽を移し合つてゐる。
丁度一群の
病羊のやうに」と救援の道を教へてゐる。
かう云ふ思想はいつの時代、どこの国にもあつたものと見える。どうやら人種の進歩などと云ふのは
蛞蝓の歩みに似てゐるらしい。
十五 比喩
メタフオアとかシミリイとかに文章を作る人の苦労するのは遠い西洋のことである。我我は皆せち
辛い現代の日本に育つてゐる。さう云ふことに苦労するのは
勿論、
兎に
角意味を正確に伝へる文章を作る
余裕さへない。しかしふと目に止まつた西洋人の
比喩の美しさを愛する心だけは残つてゐる。
「ツインガレラの顔は
脂粉に荒らされてゐる。しかしその
皮膚の下には
薄氷の下の水のやうに何かがまだかすかに
仄めいてゐる。」
これは Wassermann の書いた売笑婦ツインガレラの肖像である。僕の訳文は
拙いのに違ひない。けれどもむかし Guys の
描いた、優しい売笑婦の
面影はありありと原文に見えるやうである。
十六 告白
「もつと
己れの生活を書け、もつと
大胆に告白しろ」とは
屡諸君の
勧める言葉である。僕も告白をせぬ
訣ではない。僕の小説は多少にもせよ、僕の体験の告白である。けれども諸君は承知しない。諸君の僕に勧めるのは僕自身を主人公にし、僕の身の上に起つた事件を
臆面もなしに書けと云ふのである。おまけに巻末の一覧表には主人公たる僕は勿論、作中の人物の
本名仮名をずらりと並べろと云ふのである。それだけは
御免を
蒙らざるを得ない。――
第一に僕はもの見高い諸君に僕の暮しの奥底をお目にかけるのは不快である。第二にさう云ふ告白を種に必要以上の金と名とを着服するのも不快である。たとへば僕も
一茶のやうに交合記録を書いたとする。それを又中央公論か何かの新年号に載せたとする。読者は皆面白がる。批評家は一転機を来したなどと
褒める。友だちは、
愈裸になつたなどと、――考へただけでも
鳥肌になる。
ストリンドベルクも金さへあれば、「
痴人の
告白」は出さなかつたのである。又出さなければならなかつた時にも、自国語の本にする気はなかつたのである。僕も
愈食はれぬとなれば、どう云ふ活計を始めるかも知れぬ。その時はおのづからその時である。しかし今は貧乏なりに
兎に
角露命を
繋いでゐる。且又体は多病にもせよ、精神状態はまづノルマアルである。マゾヒスムスなどの徴候は見えない。誰が御苦労にも恥ぢ入りたいことを告白小説などに作るものか。
十七 チヤプリン
社会主義者と名のついたものはボルシエヴイツキたると然らざるとを問はず、悉く危険視されるやうである。殊にこの間の
大地震の時にはいろいろその為に
祟られたらしい。しかし社会主義者と云へば、あのチヤアリイ・チヤプリンもやはり社会主義者の
一人である。もし社会主義者を迫害するとすれば、チヤプリンも
亦迫害しなければなるまい。試みに某憲兵大尉の為にチヤプリンが殺されたことを想像して見給へ。
家鴨歩きをしてゐるうちに突き殺されたことを想像して見給へ。
苟くも一たびフイルムの上に彼の姿を眺めたものは義憤を発せずにはゐられないであらう。この義憤を現実に移しさへすれば、――
兎に
角諸君もブラツク・リストの
一人になることだけは確かである。
十八 あそび
これはサンデイ毎日所載、
福田雅之助君の「最近の米国庭球界」の一節である。
「テイルデンは指を切つてから、
却つて
素晴らしい当りを見せる様になつた。なぜ指を切つてからの方が、以前よりうまくなつたかと云ふに、一つは彼の気が緊張してゐるからだ。彼は非常に芝居気があつて、勝てるマツチにもたやすく勝たうとはせず、或程度まで相手をあしらつて
行くらしかつたが、今年度は「指」と云ふハンデイキヤツプの為に、ゲエムの始めから緊張してかかるから、
尚更強いのである……」
ラケツトを握る指を切断した
後、
一層腕を上げたテイルデンはまことに偉大なる選手である。が、指の満足だつた彼も、――同時に又相手を
翻弄する「あそび」の精神に富んでゐた彼も
必しも偉大でないことはない。いや、僕はテイルデン自身も時時はちよつと心の底に、「あそび」の精神に富んでゐた昔をなつかしがつてゐはしないかと思つてゐる。
十九 塵労
僕も
大抵の売文業者のやうに
忙たる暮しを営んでゐる。勉強も中中思ふやうに出来ない。二三年
前に読みたいと思つた本も未だに読まずにゐる
始末である。僕は又かう云ふ
煩ひは日本にばかりあることと思つてゐた。が、この頃ふとレミ・ド・グルモンのことを書いたものを読んだら、グルモンはその晩年にさへ、毎日ラ・フランスに論文を一篇、二週間目にメルキユウルに対話を一篇書いてゐたらしい。すると芸術を尊重する
仏蘭西に生れた文学者も甚だ
清閑には乏しい
訣である。日本に生れた僕などの不平を云ふのは間違ひかも知れない。
二十 イバネス
イバネス氏も日本へ来たさうである。滞在日数も短かかつたし、まあ通り一ぺんの見物をすませただけであらう。イバネス氏の評伝には Camille Pitollet の V.Blasco-Ib


ez, Ses romans et le roman de sa vie などと云ふ本も流行してゐる。と云つて読んでゐる次第ではない。唯二三年
前の横文字の雑誌に紹介してあるのを読んだだけである。
「わたしの小説を作るのは作らずにはゐられない結果である。……わたしは青年時代を
監獄に暮した。少くとも三十度は入獄したであらう。わたしは
囚人だつたこともある。度たび
野蛮な決闘の為に重傷を
蒙つたこともある。わたしは又人間の堪へ得る限りの肉体的苦痛を
嘗めてゐる。貧乏のどん底に落ちたこともある。が、
一方には代議士に選挙されたこともある。
土耳古のサルタンの友だちだつたこともある。宮殿に住んでゐたこともある。それからずつと
鉅万の金を扱ふ実業家にもなつてゐた。
亜米利加では村を一つ建設した。かう云ふことを話すのはわたしは小説を生活の上に実現出来ることを示す為である。紙とインクとに書き上げるよりも更に数等巧妙に実現出来ることを示す為である。」
これはピトオレエの本の中にあるイバネス氏自身の言葉ださうである。しかし僕はこれを読んでも、文豪イバネス氏の云ふやうに、格別小説を生活の上に実現してゐると云ふ気はしない。するのは唯小説の広告を実現してゐると云ふ気だけである。
二十一 船長
僕は
上海へ渡る途中、
筑後丸の船長と話をした。
政友会の横暴とか、ロイド・ジヨオジの「正義」とかそんなことばかり話したのである。その内に船長は僕の名刺を見ながら、感心したやうに小首を傾けた。
「アクタ川と云ふのは珍らしいですね。ははあ、大阪毎日新聞社、――やはり御専門は政治経済ですか?」
僕は
好い加減に返事をした。
僕等は又
少時の
後、ボルシエヴイズムか何かの話をし出した。僕は
丁度その月の中央公論に載つてゐた誰かの論文を引用した。が、
生憎船長は中央公論の読者ではなかつた。
「どうも中央公論も
好いですが、――」
船長は
苦にがしさうに話しつづけた。
「小説を余り載せるものですから、つい買ひ
渋つてしまふのです。あれだけはやめる
訣に
行かないものでせうか?」
僕は出来るだけ情けない顔をした。
「さうです。小説には困りますね。あれさへなければと思ふのですが。」
爾来僕は船長に格別の信用を博したやうである。
二十二 相撲
「負けまじき
相撲を寝ものがたりかな」とは名高い
蕪村の相撲の句である。この「負けまじき」の解釈には思ひの
外異説もあるらしい。「蕪村句集講義」によれば
虚子、
碧梧桐両氏、近頃は又
木村架空氏も「負けまじき」を未来の意味としてゐる。「
明日の相撲は負けてはならぬ。その負けてはならぬ相撲を寝ものがたりに話してゐる。」――と云ふやうに解釈するのである。僕はずつと以前から過去の意味にばかり解釈してゐた。今もやはり過去の意味に解釈してゐる。「
今日は負けてはならぬ相撲を負けた。それをしみじみ寝ものがたりにしてゐる。」――と云ふやうに解釈するものである。もし将来の意味だつたとすれば、蕪村は必ず「負けまじき」と調子を張つた
上五の下へ「寝ものがたりかな」と調子の延びた
止めを持つて来はしなかつたであらう。これは文法の問題ではない。唯「負けまじき」をどう感ずるかと云ふ芸術的
触角の問題である。
尤も「蕪村句集講義」の中でも、
子規居士と
内藤鳴雪氏とはやはり過去の意味に解釈してゐる。
二十三 「とても」
「とても安い」とか「とても寒い」と云ふ「とても」の東京の言葉になり出したのは数年以前のことである。勿論「とても」と云ふ言葉は東京にも全然なかつた
訣ではない。が従来の用法は「とてもかなはない」とか「とても
纏まらない」とか云ふやうに必ず否定を伴つてゐる。
肯定に伴ふ新流行の「とても」は
三河の国あたりの方言であらう。現に三河の国の人のこの「とても」を用ゐた例は
元禄四年に
上梓された「
猿蓑」の中に残つてゐる。
秋風やとても芒はうごくはず 三河、子尹
すると「とても」は三河の国から江戸へ移住する
間に二百年余りかかつた訳である。「とても手間取つた」と云ふ外はない。
二十四 猫
これは「
言海」の猫の説明である。
「ねこ、(中略)
人家ニ
畜フ
小サキ
獣。
人ノ
知ル
所ナリ。
温柔ニシテ
馴レ
易ク、
又能ク
鼠ヲ
捕フレバ
畜フ。
然レドモ
竊盗ノ
性アリ。
形虎ニ
似テ
二尺ニ
足ラズ。(
下略)」
成程猫は
膳の上の
刺身を盗んだりするのに違ひはない。が、これをしも「
竊盗ノ性アリ」と云ふならば、犬は風俗壊乱の性あり、燕は家宅侵入の性あり、蛇は
脅迫の性あり、
蝶は浮浪の性あり、
鮫は殺人の性ありと云つても
差支へない道理であらう。按ずるに「言海」の著者
大槻文彦先生は少くとも鳥獣
魚貝に対する
誹謗の性を具へた老学者である。
二十五 版数
日本の版数は出たらめである。僕の聞いた風説によれば、或相当の出版業者などは内務省への献本二冊を一版に数へてゐるらしい。たとひそれは

としても、
今日のやうに出たらめでは、五十版百版と云ふ広告を
目安に本を買つてゐる天下の読者は
愚弄されてゐるのも同じことである。
尤も
仏蘭西の版数さへ甚だ当てにならぬものださうである。例へばゾラの晩年の小説などは二百部を一版と号してゐたらしい。しかしこれは悪習である。何も香水やオペラ・バツクのやうに輸入する必要はないに違ひない。且又メルキユルは出版した本に一一何冊目と記したこともある。メルキユルを学ぶことは困難にしろ、一版を何部と
定めた上、版数も
偽らずに広告することは当然日本の出版業組合も
行して然るべき企てであらう。いや、かう云ふ見易いことは賢明なる出版業組合の諸君のとうに気づいてゐる筈である。するとそれを実行しないのは「もし佳書を得んと欲せば版数の少きを選べ」と云ふ教訓を垂れてゐるのかも知れない。
二十六 家
早川孝太郎氏は「
三州横山話」の巻末にまじなひの歌をいくつも揚げてゐる。
盗賊の用心に唱へる歌、――「ねるぞ、ねだ、たのむぞ、たる木、夢の
間に何ごとあらば起せ、
桁梁」
火の用心の歌、――「霜柱、氷の
梁に雪の
桁、雨のたる木に露の
葺き草」
いづれも「
家」に生命を感じた
古へびとの
面目を見るやうである。かう云ふ感情は我我の中にもとうの昔に死んでしまつた。我我よりも
後に生れるものは
是等の歌を読んだにしろ、
何の感銘も受けないかも知れない。或は又鉄筋コンクリイトの
借家住まひをするやうになつても、是等の歌は
幻のやうに山かげに散在する
茅葺屋根を思ひ出させてくれるかも知れない。
なほ
次手に広告すれば、早川氏の「三州横山話」は
柳田国男氏の「
遠野物語」以来、最も興味のある伝説集であらう。発行所は
小石川区茗荷谷町五十二番地
郷土研究社、定価は僅かに七十銭である。
但し僕は早川氏も知らず、勿論広告も頼まれた
訣ではない。
付記 なほ四五十年
前の東京にはかう云ふ歌もあつたさうである。「ねるぞ、ねだ、たのむぞ、たる木、
梁も聴け、明けの
六つには起せ
大びき」
二十七 続「とても」
肯定に伴ふ「とても」は東京の言葉ではない。東京人の古来使ふのは「とても及ばない」のやうに否定に伴ふ「とても」である。近来は肯定に伴ふ「とても」も盛んに行はれるやうになつた。たとへば「とても
綺麗だ」「とてもうまい」の類である。この肯定に伴ふ「とても」の「
猿蓑」の中に出てゐることは「
澄江堂雑記」(随筆集「
百艸」の
中)に辯じて置いた。その
後島木赤彦さんに注意されて見ると、この「とても」も「とてもかくても」の「とても」である。
秋風やとても芒はうごくはず 三河、子尹
しかしこの頃又乱読をしてゐると、「
続春夏秋冬」の春の部の中にもかう言ふ「とても」を発見した。
市雛やとても数ある顔貌 化羊
元禄の
子尹は肩書通り三河の国の人である。明治の
化羊は
何国の人であらうか。
二十八 丈艸の事
蕉門に
龍象の多いことは言ふを待たない。しかし誰が最も
的的と
芭蕉の
衣鉢を伝へたかと言へば恐らくは
内藤丈艸であらう。少くとも
発句は蕉門中、誰もこの俳諧の
新発知ほど芭蕉の
寂びを
捉へたものはない。近頃
野田別天楼氏の編した「
丈艸集」を一読し、殊にこの感を深うした。
前書略
木枕の垢や伊吹にのこる雪
大原や蝶の出て舞ふおぼろ月
谷風や青田を廻る庵の客
小屏風に山里涼し腹の上
雷のさそひ出してや火とり虫
草芝を出づる螢の羽音かな
鶏頭の昼をうつすやぬり枕
病人と撞木に寝たる夜寒かな
蜻蛉の来ては蝿とる笠の中
夜明けまで雨吹く中や二つ星
榾の火や暁がたの五六尺
是等の句は
啻に
寂びを得たと言ふばかりではない。一句一句変化に富んでゐることは作家たる力量を示すものである。
几董輩の
丈艸を
嗤つてゐるのは
僣越も
亦甚しいと思ふ。
二十九 袈裟と盛遠
「
袈裟と
盛遠」と云ふ
独白体の小説を、四月の中央公論で発表した時、或大阪の人からこんな手紙を貰つた。「袈裟は
亘の義理と盛遠の
情とに迫られて、
操を守る為に死を決した烈女である。それを盛遠との
間に情交のあつた如く書くのは、烈女袈裟に対しても気の毒なら、国民教育の上にも面白からん結果を
来すだらう。自分は君の為にこれを取らない。」
が、当時すぐにその人へも返事を書いた通り、袈裟と盛遠との間に情交があつた事は、自分の創作でも
何でもない。
源平盛衰記の
文覚発心の
条に、「はや
来つて女と共に
臥し居たり、
狭夜も
漸更け行きて
云云」と、ちやんと書いてある事である。
それを世間一般は、どう云ふ量見か黙殺してしまつて、あの
憐む
可き
女主人公をさも人間ばなれのした烈女であるかの如く広告してゐる。だから史実を勝手に
改竄した罪は、あの小説を書いた自分になくして、
寧ろあの小説を非難するブルヂヨア自身にあつたと云つて
差支へない。
改竄するしないは格別大問題だと心得てゐないが、事実としてこの機会にこれだけの事を発表して置く。勿論源平盛衰記の記事は

だと云ふ考証家が現れたら、自分は甘んじて
何時でも、改竄者の焼印を押されようとするものである。
三十 後世
私は
知己を百代の
後に待たうとしてゐるものではない。
公衆の批判は、常に
正鵠を
失しやすいものである。現在の公衆は元より云ふを待たない。歴史は既にペリクレス時代のアゼンスの市民や文芸復興期のフロレンスの市民でさへ、
如何に理想の公衆とは縁が遠かつたかを教へてゐる。既に
今日及び
昨日の公衆にして
斯くの如くんば、
明日の公衆の批判と
雖も
亦推して知るべきものがありはしないだらうか。彼等が百代の
後よく砂と
金とを辨じ得るかどうか、私は
遺憾ながら疑ひなきを得ないのである。
よし又理想的な公衆があり得るにした所で、果して絶対美なるものが芸術の世界にあり得るであらうか。
今日の私の眼は、唯今日の私の眼であつて、決して
明日の私の眼ではない。と同時に又私の眼が結局日本人の眼であつて、西洋人の眼でない事も
確である。それならどうして私に、時と処とを超越した美の存在などが信じられよう。
成程ダンテの地獄の火は、今も
猶東方の
豎子をして
戦慄せしむるものがあるかも知れない。けれどもその火と我我との
間には、十四世紀の
伊太利なるものが
雲霧の如くにたなびいてゐるではないか。
況んや私は尋常の文人である。後代の批判にして誤らず、
普遍の美にして存するとするも、書を名山に蔵する
底の事は、私の為すべき限りではない。私が知己を百代の後に待つものでない事は、問ふまでもなく明かであらうと思ふ。
時時私は廿年の
後、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が来ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、
堆い
埃に
埋もれて、
神田あたりの古本屋の
棚の隅に、
空しく読者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの
図書館にたつた一冊残つた儘、無残な
紙魚の
餌となつて、
文字さへ読めないやうに破れ果ててゐるかも知れない。しかし――
私はしかしと思ふ。
しかし誰かが偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の
何行かを読むと云ふ事がないであらうか。
更に虫の
好い望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。
私は
知己を百代の
後に待たうとしてゐるものではない。だから私はかう云ふ私の想像が
如何に私の信ずる所と
矛盾してゐるかも承知してゐる。
けれども私は
猶想像する。
落莫たる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき
一人の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、
朧げなりとも浮び上る私の
蜃気楼のある事を。
私は私の
愚を
嗤笑すべき
賢達の士のあるのを心得てゐる。が、私自身と
雖も私の愚を笑ふ点にかけては
敢て人後に落ちようとは思つてゐない。唯、私は私の愚を笑ひながら、しかもその愚に恋恋たる私自身の
意気地なさを憐れまずにはゐられないのである。或は私自身と共に意気地ない一般人間をも憐れまずにはゐられないのである。
三十一 「昔」
僕の作品には昔の事を書いたものが多いから、そこでその昔の事を取扱ふ時の態度を話せと云ふ註文が来た。態度とか
何とか云ふと、
甚大袈裟に聞えるが、何もそんな大したものを持ち合せてゐる次第では決してない。まあ僕の昔の事を書く時に、どんな眼で昔を見てゐるか、云ひ
換れば僕の作品の中で昔がどんな役割を勤めてゐるか、そんな事を話して見ようかと思ふ。元来
裃をつけての上の議論ではないのだから、どうかその
心算でお聴きを願ひたい。
お
伽噺を読むと、日本のなら「昔々」とか「今は昔」とか書いてある。西洋のなら「まだ動物が口を
利いてゐた時に」とか「ベルトが糸を
紡いでゐた時に」とか書いてある。あれは
何故であらう。どうして「今」ではいけないのであらう。それは
本文に出て来るあらゆる事件に或可能性を与へる為の前置きにちがひない。何故かと云ふと、お
伽噺の中に出て来る事件は、いづれも不思議な事ばかりである。だからお伽噺の作者にとつては、どうも舞台を今にするのは
具合が悪い。絶対に今ではならんと云ふ事はないが、それよりも昔の方が便利である。「昔々」と云へば
既に
太古緬
の世だから、小指ほどの
一寸法師が住んでゐても、竹の中からお姫様が生れて来ても、
格別矛盾の感じが起らない。そこで
予め前へ「昔々」と
食付けたのである。
所でもしこれが「昔々」の由来だとすれば、僕が昔から材料を
採るのは大半この「昔々」と同じ必要から起つてゐる。と云ふ意味は、今僕が或テエマを
捉へてそれを小説に書くとする。さうしてそのテエマを芸術的に最も力強く表現する為には、或異常な事件が必要になるとする。その場合、その異常な事件なるものは、異常なだけそれだけ、
今日この日本に起つた事としては書きこなし
悪い、もし
強て書けば、多くの場合不自然の感を読者に起させて、その結果
折角のテエマまでも犬死をさせる事になってしまふ。所でこの困難を除く手段には「
今日この日本に起つた事としては書きこなし
悪い」と云ふ
語が示してゐるやうに、昔か(未来は
稀であろう)日本以外の土地か或は昔日本以外の土地から起つた事とするより
外はない。僕の昔から材料を採つた小説は
大抵この必要に迫られて、不自然の
障碍を避ける為に舞台を昔に求めたのである。
しかしお
伽噺と違つて小説は小説と云ふものの要約上、どうも「昔々」だけ書いてすましてゐると云ふ訳には
行かない。そこで
略時代の制限が出来て来る。従つてその時代の社会状態と云ふやうなものも、自然の感じを満足させる程度に
於て幾分とり入れられる事になつて来る。だから
所謂歴史小説とはどんな意味に於ても「昔」の再現を
目的にしてゐないと云ふ点で区別を立てる事が出来るかも知れない。――まあざつとこんなものである。
序につけ加へて置くが、さう云ふ次第だから僕は昔の事を小説に書いても、その昔なるものに大して
憧憬は持つてゐない。僕は
平安朝に生れるよりも、江戸時代に生れるよりも、
遙に
今日のこの日本に生れた事を
難有く思つてゐる。
それからもう一つつけ加へて置くが、或テエマの表現に異常なる事件が必要になる事があると云つたが、それには
其外にすべて異常なる物に対して僕(我我人間と云ひたいが)の持つてゐる興味も働いてゐるだらうと思ふ。それと同じやうに或異常なる事件を不自然の感じを与へずに書きこなす必要上、昔を選ぶと云ふ事にも、さう云ふ必要以外に昔
其ものの美しさが
可也影響を与へてゐるのにちがひない。しかし主として僕の作品の中で昔が
勤めてゐる役割は、やはり「ベルトが糸を
紡いでゐた時に」である、或は「まだ動物が口を
利いてゐた時に」である。
三十二 徳川末期の文芸
徳川末期の文芸は
不真面目であると言はれてゐる。
成程不真面目ではあるかも知れない。しかしそれ等の文芸の作者は果して人生を知らなかつたかどうか、それは僕には疑問である。彼等
通人も
肚の中では
如何に人生の
暗澹たるものかは心得てゐたのではないであらうか? しかもその事実を
回避する為に(たとひ無意識的ではあつたにもせよ)
洒落れのめしてゐたのではないであらうか? 彼等の
一人、――たとへば
宮武外骨氏の
山東京伝を読んで見るが
好い。ああ云ふ生涯に住しながら、しかも人生の
暗澹たることに気づかなかつたと云ふのは不可解である。
これは何も
黄表紙だの
洒落本だのの作者ばかりではない。僕は
曲亭馬琴さへも彼の
勧善懲悪主義を信じてゐなかつたと思つてゐる。馬琴は或は信じようと努力してはゐたかも知れない。が
饗庭篁村氏の編した馬琴日記抄
等によれば、馬琴自身の矛盾には馬琴も気づかずにはゐなかつた筈であらう。
森鴎外先生は確か馬琴日記抄の
跋に「馬琴よ、君は幸福だつた。君はまだ
先王の道に信頼することが出来た」とか
何とか書かれたやうに記憶してゐる。けれども僕は馬琴も
亦先王の道などを信じてゐなかつたと思つてゐる。
若し

と云ふことから言へば、彼等の作品は

ばかりである。彼等は彼等自身と共に世間を
欺いてゐたと言つても
好い。しかし善や美に対する
欣求は彼等の作品に残つてゐる。殊に彼等の生きてゐた時代は
仏蘭西のロココ王朝と共に実生活の
隅隅にさへ美意識の行き渡つた時代だつた。従つて美しいと云ふことから言へば、彼等の作品に
溢れた空気は
如何にも美しい(勿論多少
頽廃した)ものであらう。
僕は
所謂江戸趣味に余り尊敬を持ってゐない。同時に又彼等の作品にも頭の
下らない
一人である。しかし単に「
浅薄」の名のもとに彼等の作品を一笑し去るのは彼等の為に
気の
毒であらう。若し彼等の「
常談」としたものを「
真面目」と考へて見るとすれば、
黄表紙や
洒落本もその中には幾多の問題を含んでゐる。僕等は彼等の作品に
随喜する人人にも賛成出来ない。けれども
亦彼等の作品を一笑してしまふ人人にもやはり
軽軽に賛成出来ない。
(大正七年―十三年)