一、病中
閑なるを幸ひ、諸雑誌の小説を十五篇ばかり読む。
滝井君の「ゲテモノ」同君の作中にても
一頭地を抜ける出来
栄えなり。
親父にも、
倅にも、風景にも、
朴にして
雅を破らざること、もろこしの
餅の如き味はひありと言ふべし。その
手際の
鮮かなるは恐らくは九月小説中の第一ならん
乎。
二、
里見君の「
蚊遣り」も
亦十月小説中の
白眉なり。唯
聊か
末段に至つて落筆


の
憾みあらん
乎。他は人情的か何か知らねど、
不相変巧手の名に
背かずと言ふべし。
三、旅に病めることは珍らしからず。(今度も
軽井沢の
寐冷えを持ち越せるなり。)但し最も苦しかりしは
丁度支那へ渡らんとせる前、
下の
関の宿屋に倒れし時ならん。この時も高が
風邪なれど、東京、大阪、下の関と三度目のぶり返しなれば、
存外熱も容易には
下らず、おまけに手足にはピリン
疹を生じたれば、女中などは少くとも
梅毒患者位には思ひしなるべし。彼等の
一人、僕を
憐んで
曰、「注射でもなすつたら、よろしうございませうに。」
東雲の煤ふる中や下の関
四、彼は
昨日「
小咄文学」を罵り、
今日恬然として「コント文学」を作る。
宜なるかな。彼の健康なるや。
五、
小穴隆一、軽井沢の宿屋にて飯を食ふこと
五椀の
後女中の前に小皿を出し、「これに飯を少し」と言へば、
佐佐木茂索、「まだ食ふ気か」と言ふ。「ううん、手紙の封をするのだ」と言へど、茂索、中中承知せず「あとでそつと食ふ気だらう」と言ふ。隆一、
憮然として、「ぢや
大和糊にするわ」と言へば、茂索、
愈承知せず、「ははあ、
糊でも
舐める気だな。」
六、それから又玉突き
場に遊びゐたるに、
一人の年少
紳士あり。僕等の仲間に入れてくれと言ふ。彼の僕等に対するや、
未だ
嘗「ます」と言ふ語尾を使はず、「そら、そこを厚く
中てるんだ」などと命令すること
屡なり。然れどもワン・ピイスを一着したる佐佐木夫人に対するや、
慇懃に礼を施して
曰、「あなたはソオシアル・ダンスをおやりですか?」佐佐木夫人の
良人即ち佐佐木茂索、「あいつは一体何ものかね」と言へば、何度も玉に負けたる隆一、
言下に正体を道破して
曰、「
小金をためた玉ボオイだらう。」
七、
軽井沢に
芭蕉の
句碑あり。「馬をさへながむる雪のあしたかな」の句を刻す。これは
甲子吟行中の句なれば、名古屋あたりの作なるべし。それを何ゆゑに刻したるにや。
因に言ふ、
追分には「吹き飛ばす石は
浅間の
野分かな」の句碑あるよし。
八、軽井沢の或
骨董屋の英語、――「ジス・キリノ(桐の)・ボツクス・イズ・ベリイ・ナイス。」
九、
室生犀星、
碓氷山上よりつらなる
妙義の
崔嵬たるを望んで
曰、「
妙義山と言ふ山は
生姜に似てゐるね。」
十、十項だけ書かんと思ひしも熱出でてペンを続けること
能はず。
(大正十四年十月)