襟二つであった。高い立襟で、頸の太さの番号は三十九号であった。七ルウブル出して買った一ダズンの残りであった。それがたったこの二つだけ残っていて、そのお蔭でおれは明日死ななくてはならない。
あの襟の事を悪くは言いたくない。上等のオランダ麻で
晩には方々歩いたっけ。珈琲店はウィクトリアとバウエルとへ行った。それから
ホテルに帰ったのは、午前六時であった。自動車のテクサメエトルを見たら五の所に針が行っていた。それをどう云うものだか、ショッフヨオルの先生が十二の所へそっと廻した。なんだか面倒になりそうだから、おれは十五に相当する金をやった。部屋に這入って見ると、机の上に鹿の角や花束が載っていて、その傍に
「なんだい」とおれは問うた。
「昨日侯爵のお落しになった襟でございます。」こいつまでおれの事を侯爵だと云っている。
おれはいい加減に口をもぐつかせて謝した。
「町の掃除人が持って参ったのでございます。その男の妻が拾ったそうでございます。四十ペンニヒ頂戴いたしたいと申しておりました。」
「そんなら出しておいてくれい。あとで一しょに勘定して貰うから。」
襟は丁寧に包んで、紐でしっかり縛ってある。おれはそれを提げて、来合せた電車に乗って、二分間ほどすると下りた。
「旦那。お忘れ物が。」車掌があとからこう云った。
おれは聞えない振りをして、ずんずん歩いた。そうすると大騒ぎになった。電車に乗っていた連中が総立ちになる。二人はおれを追い掛けに飛んで下りる。一人は車掌に談判する。今二人は運転手に談判する。車の屋根に乗っている連中は、
晩までは安心して
門番がこう云った。「いや、大した手数でございましたそうです。しかしまあ、万事無事に済みまして結構でございました。すぐに見付かればよろしいのでございますが、もうお落しになってから約八分たっていたそうで、すっかり水を含みまして、沈みかかっていたそうでございます。水上警察がそれを見付けて、すぐに非常号音を鳴らします。すぐに電話で潜水夫を呼び寄せます。無論同時に秘密警察署へも報告をいたしまして、私立探偵事務所二箇所へ知らせましたそうで。」
「なるほど。シエロック・ホルムス先生に知らせたのだね。」
門番はおれの顔を見た。その見かたは
門番は話のあとをする。「潜水夫は一時間と三十分掛かって、包みを見付けたそうでございます。その間に秘密警察署の手で、今朝から誰があの川筋を通ったということを探りました。ベルリン中のホテルへ電話で問い合されました。ロシア人で宿泊しているものはないかと申すことで。」
「なぜロシア人というのだろう」と、おれは切れぎれに云った。
「襟に商標が押してございまして、それがロシアの商店ので。」
おれは椅子から立ち上がった。
「もういいもういい。そこで幾ら立て替えておいてくれたのかい。」
「六百マルクでございます。秘密警察署の方は官吏でございますから、報酬は取りませんが、私立探偵事務所の方がございますので。どうぞ悪しからず。それから潜水夫がお心付けを戴きたいと申しました。」
おれはすっかり気色を悪くして、もう今晩は駄目だと思った。もうなんにもすまいと思って、ただ町をぶらついていた。手には例の
もうパリイへ行こうと思うことなんぞはおれの頭に無い。差し当りこの包みをどうにか処分しなくてはならない。どうか大地震でもあってくれればいいと思う。何もベルリンだって、地震が揺ってならないはずはない。それからこういう事も思った。動物園へ行って、河馬の咽へあの包みを入れてやろうかと云うのである。しかし奴が吐き出すかも知れないと思って、途中で動物園に行くことを
翌朝国会議事堂へ行った。そこの様子は少しおれを失望させた。卓と腰掛とが半圏状に据え付けてある。あまり国のと違っていない、議長席がある。
そしてこう決心した。「どうもこいつの方が信用が置けそうだ。この卓や腰掛が似ているように、ここに来て据わる先生達が似ているなら、おれは襟に再会することは断じて無かろう。」
こう思って、あたりを見廻わして、時分を見計らって、手早く例の包みを極右党の卓の中にしまった。
そこでおれは安心した。しかし念には念を入れるがいいと思って、ホテルを換えた。勘定は大分
引き越したホテルはベルリン市のまるであべこべの方角にある。宿帳へは偽名をして附けた。なんでもホテルではおれを探偵だと思ったらしい。出入をするたびに、ホテルの外に立っている巡査が敬礼をする。
翌日は休日である。議会は休みのはずである。その翌日から予算が日程に上ぼっていて、大分盛んな議論があるらしい。その晩は無事に済んだ。その次の日の午前も無事に済んだ。ところが午後になると、議会から使が来て、大きなブックを出して、それに受取を書き込ませた。
門番があっけに取られたような風をして、両手の指を組み合せて、こう云った。「どうでも大臣か何かにおなりになるのではございますまいか。わたくしは議事堂に心安いものを持っています。食堂の給仕をいたしております。もしこれから何か御用がおありなさるなら、その男をお使い下さるようにお願い申します。確かな男でございます。」
おれの考えは少々違っていた。果せるかな、使は包みを一つ取り出して、それをおれに渡すのである。
門番はこう云った。「勲章でございましょう。銀の勲章でございましょう。これから二つ目の横町を右へお曲がりになる所の角へお持ちになりますと。」
「なんだい、それは。その角に持って行ってどうするのだい。」
「質店でございます。勲章なら、すぐに十マルクは御用立てます。官立典物所なんぞへお持ちになったって、あそこではせいぜい六マルクしかよこしません。なかなかずるうございますから。」
ところがおれの受け取ったのは、勲章でもなければ、大臣の辞令でもない。例の襟である。極右党の先生が御丁寧にも札を附けてくれた。こんな事が書いてある。「露国の名誉ある貴族たる閣下に、御遺失なされ候物品を返上致す機会を
おれはホテルを出て、沈鬱して歩いていた。頼みに思った極右党はやはり頼み甲斐のない男であった。さてこれからどうしよう。なんだっておれはロシアを出て来たのだろう。今さら後悔しても駄目である。幸にも国にはまだ憲法が無い。その代りには、どこへ行って見ても、穴くらい幾らでもある。溝も幾らもある。よしや襟飾を棄てる所は無いにしても、襟くらい棄てる所は幾らもある。
日が暮れた。熱が出て、
おれは余りに愛国の情が激発して頭がぐらついたので、そこの塀に寄り掛かって自ら支えた。
「これは、あなた、どうなさいましたのですか。御気分でもお悪いのですか。やあ、ロシアの侯爵閣下ではございませんか。」
おれは身を
おれはそいつのふくらんだ腹を見て、ポッケットに入れていたナイフを出してそのナイフに付いていた十二本の刃を十二本ともそいつの腹へずぶりと刺した。腹の持主はぐっとも言わない。日本人のやる腹切りのようなわけだ。そしてぐいと引き廻して、腹の中へ包みを入れた。包みの中には例の襟が這入っているのである。三十九号の立襟である。一ダズン七ルウブルの中の二つである。それから腹の創口をピンで留めて、ハンケチで手を拭いて、その場を立ち退いた。誰もおれを見たものはない。おれは口笛を吹いて歩き出した。
その晩はよく寝た。子供のように愉快な夢を見て寝た。翌朝目を覚まして、鼻歌を歌いながら、起きて、鼻歌を歌いながら、顔を洗って、朝食を食った。なんだか年を逆さに取ったような心持がしている。おれは「
停車場へ出掛けた。首尾よく不喫烟室に乗り込むまではよかったが、おれはそこで捕縛せられた。
おれは五時間の予審を受けた。何もかも白状した。しかし裁判官達には、おれがなぜそんな事をしたか分からない。
「襟だって価のある物品ではありませんか」と、裁判官も検事も云うのである。
「あいつはわたくしを滅亡させたのです。わたくしの生涯を破壊したのです。あいつが最初電車から飛び下りて、わたくしを追いかけて、あの包みを渡しさえしなかったら。」
「しかし誰でもあの男の場合に出合ったら、あの男と同じ行為に出でたでしょう。どうも外に
おれは死刑を宣告せられた。それから法廷を侮辱した
「被告の所有者たる襟は没収する限りでないから、一応被告に下げ渡します」と、裁判長が云った。「あの差押えた品を渡せ」と云うや否や、
その時おれは気を失った。それから醒覚したのは、監獄の部屋の中であった。夜である。おれの傍には卓があって、その上に襟の包みが載っている。
明日はおれは処刑を受ける。おれはヨオロッパのために死ぬる。ヨオロッパの平和のために死ぬる。国家の行政のために死ぬる。文化のために死ぬる。
襟は遺言をもって検事に贈る。どうとも勝手にするがいい。
故郷を離れて死ぬるのはせつない。涙が
附言。本文中二箇所の字句を改刪 してある。これは諷刺の意を誤解せられては差支えるので、故意に原文に従わなかったのである。誤訳ではない。