平塚・山川・山田三女史に答う

与謝野晶子




 女史の経済的独立と母性保護問題とについて、平塚雷鳥さんと私との間にはしなくも意見の相異を見たのに対して、平塚さんからは、再び辛辣しんらつ反駁はんばくを寄せられ、山川菊栄やまかわきくえさんと山田わか子さんのお二人からは、鄭重ていちょうな批評を書いてくださいました。私は何よりも先ず三氏の御厚意に対して十分の感謝を捧げねばなりません。三氏のような豊富な学殖を持たず、三氏のような博詞宏弁をくし得ない鈍根な私の書いたものが、※(二の字点、1-2-22)たまたま三氏のお目に触れたというだけでも、私に取ってはかなり嬉しいことであるのに、「唯だて過ぎよ」とせずに、わざわざ私のために啓蒙の筆を執って下すったということは真に想いがけない光栄であると感じます。
 平塚さんが日本における女流思想家の冠冕かんべんであることは、女史の言説や行動に服すると否とにかかわらず、社会があまねくこれを認めております。山川、山田二女史に到っては、その出処が平塚さんほどに華々しくなかったために、その卓抜な実力がまだ一般世人の注意をくだけの機会に達していないのを私は常に遺憾に思っているのです。教育の世界化に由って、女子の学士をだし、更に女子の博士をも出そうとしている日本に、聡慧篤実な新進女子の次第に殖えて行くべきことは予見されますが、それらの女子の先駆として大きな炬火たいまつを執る一群の星の中に、特に鼎足ていそくの形を成しながら光芒の雄偉を競うものはこれらの三女史であると信じます。私は誇張でなく、真実を述べることの正しさにおいていいます。三女史の如きは女流小説家の翹楚ぎょうそである某々女史たちや、婦人理学士の第一着者である某々女史たちと共に、確かに我国婦人界の宝の人であると思います。否、むしろ現在の日本の状態では、生きた新しい国宝と称すべき女史たちであるとさえ思います。私の望むことは、社会がこれらの三女史に対する従来の冷淡な待遇を改めて、出来るだけ三女史のために、その能力をひがまず、げず、自由に発揮することの出来る機会を与え、社会もまた出来るだけ三女史の意見に聞いてそれを利用して欲しいと思うことです。三女史の自己主張のためには勿論、社会の幸福に資する人物経済の上からもこれを望まねばなりません。この意味から、たとい私の書いた物は粗末であっても、偶※(二の字点、1-2-22)三女史の識見を引出して社会の耳目を集める機縁を一つふやしたことについて自ら喜ぼうと思います。
 無名氏の手紙は、私が今、三女史の包囲攻撃の中に陥っていることを気附かずにいるかと言って注意されました。如何にも私は自分を論争の十字火の下に暴露して立っていることを認めます。私は論争を好まない者です。また論争に習わない者です。けれども必要のための論争は辞すべきものでないと思っています。三女史に対して捧げている前述のような尊敬は尊敬として、たとい三女史の博詞宏弁を以てしても私の意見の自信をくつがえさない限り、私はその十字火をしのいで三女史の前にこの細小の自己を主張せねばなりません。
 私は思います。三女史と私とは決して目的においては異っていないのです。女子の解放と完成――それに由って女子が人類のより高くより善い協同生活の構成に参加すること――を目的としている点について、全く同一の方向を取っているのであると信じますが、その出発点と、歩度と、歩む道程とが互に異っているのです。中にも殆ど同じ道程を取っていながら、出発点と歩度とが異っているに過ぎないのでないかと思われるのは山川さんと私との距離だと思います。既に方向を同じくしている以上、三女史も私も互に敵視すべき間柄でなく、私たちはまさつとめて、その共通の目的の上に親み合わねばなりません。たとい歩趨ほすうの間隔において争うことがあっても、それは同一の目的に早く近づこうとするための競駆であって、互に長短を交換補償する利益こそあれ、恨を遺しきずとどむる力争的の行為でないことを、予めここに断って置きます。私たちは因習に拠る頑強な外敵を控えているのです。それに対して常に一致して当る所の用意を持っておらねばなりません。
 私の与えられた紙数に制限があります。私は出来るだけ簡略にして言いたいだけの事をこの制限の中に書き並べて行こうと思います。
 私が女子の経済的独立を主張しているのは、いにしえ希臘ギリシャの哲人が「人は理想的に生活する前に先ず現実的に生活することを要す」といい、現代伊太利イタリヤの哲学者クロオツェが「道徳性は具体なるものの中に生き、功利に生きている……従って経済的形式と道徳的形式とは全く分離的にこれを区別することは宜しくない」といった意味で主張しているのです。経済が「社会を構成するすべての階級にその精神上の発達の物質的基礎を充実せしむるを以て最重の職分とするもの」(福田博士)であり、「人間に、他のより高き発達、より貴き活動を得せしめんがために必要なる物質的基礎を均等に与えているや否やを意味するもの」(マアシャル氏)であり、「経済とは、つまり物質的外界に向けられたる人間の行為にして、人間の欲望の充足に応ずる物質的条件を作ることを目的とするものの総体」(米田庄太郎よねだしょうたろう氏)であり、「余は人間に向って外部より福をもたらす物体を総称してこれを富といわんと欲す。……人間の体及び心の健全なる発達を助長し、って以て、直接間接に人間をば道徳的に向上せしむるの作用を為す者は、凡てこれを富という。この意味の富の充実を計るもの」(河上博士)である以上、女子に限らず、経済的独立が何人にも必要であることは天日てんじつを指すのと等しく明かな事実です。
 なぜにこれを特に女子に向って高調する必要があるかということは、既に私においては、この八、九年間に度々繰返して述べている所ですから、今は自説を述べる代りに、今春長谷川天渓はせがわてんけいさんが同じ問題について述べられた一文の中から「自己と現実の世界が何らかの関係を保つようになれば、そこに経済問題が生じて来る。私は現在の婦人界がこの方面を閑却してはいないかと思う。経済上の独立ということは詰らぬ問題のようであるが、現実の世界が経済的に組織されてある間は、これを重要視しなければならぬ。今の婦人界の大部分は自己の解放を欲しつつあるか、あるいは解放の喜悦を味いつつあるか、このいずれかであって、まだ経済上の問題に及ぶことが稀薄である。……何に拠りて生きるか。生活の基礎をどの方面に置くか。真に生きているような心を以て朝を迎えるにはどうしなければならぬか。これらは男女両性に共通の問題であるが、解放されたる今日の女性、いわゆるめたる女性に取りては、それが一層痛切に感じられなければならぬはずだ。……そこで生の悦びを味うことから転じて、生活の基礎を精神的に、また経済的に確実にする思索に入らねばならぬ」という数節を引用して置きます。なおこれについては一条忠衛氏の「男女道徳論」にも詳しい主張があり、米田庄太郎氏の「現代の結婚」という論文や、山脇玄やまわきげん博士のいくつかの論文にも適切な解説があります。
 私は今更唯物主義に由って経済一元論などを唱えるのでなく、以上のような相対的の意味で経済的独立を主張しているのです。山田さんがこれを誤解して、人間の絶対の独立を経済的手段に由って私が企画しているかの如く攻撃せられたのは、的なきに矢を放たれたものかと思います。
 その上、山田さんは、人間が果して精神的にも経済的にも独立することの出来るものであろうかといって、経済的独立の思想及び行為を冷笑し、「独立という美くしそうな言葉に魅せられ」とか「独立などという空想に迷わされ」とかいっておられるようですが、これは思いがけない奇論だと思います。山田さんほどの人がまさか「独立」と「孤立」との意味を混淆こんこうされることもないでしょう。人類共同の生活と個人独立の生活とが矛盾すべきものでないことは、「人間はそれ自身を目的として存在する者」として人格の絶対尊貴を教えたカントの哲学に聴いても、「修身」を本として「治国平天下」に拡充し、「人を措いて天を思わば万物の情を失う」(『荀子じゅんし』)といい、「人を治むる所以ゆえんを知るは天下国家を治むる所以を知るなり」(『中庸』)と説いた支那の昔の哲人たちに聴いても明白な道理だと思います。
 近頃有島武郎ありしまたけおさんは「世界の内在的価値は人に由って創造される。……どれほど素朴な自己であっても、自己がある以上は、世界はその人の手に由って新たに創造されているのだ。……自己のない所に世界はない。民衆の意識に共通して少しの出入もない世界は一つもない。世界を創造するものは単位であり、同時に綜和であるものは自己だ」といわれました。また近頃中島徳蔵なかじまとくぞう氏は「今度の戦争について、国家のためか、主権者のためか、と問うなら、彼ら欧米人は一斉に――恐らく独逸ドイツを除いては――「否、人民のため、自己自身のため」と答えるに躊躇ちゅうちょしないであろう。ウィルソンに柔順に服従することは普通の常識的言明で、実は自我が創造し是認した権威に自我が服従するに外ならぬ。服従とは一種の自由である、自我主張である」と言われました。こういう差別の内に平等を抱き、部分の中に全体を含むそれ自身の発展作用を人生だとすれば、人間は共同生活に浸りながら個人の絶対独立を実現することが出来るのです。相対的な経済的独立は、要するに悠久な人間生活の過程にしばらくその絶対独立の一つの因素となるに過ぎません。
 しかし山田さんの奇抜な独立否定説が必ずしも確信を持って述べられていない証拠には、山田さんは同じ文章の中で「私たちは……他人から独立を輔佐ほさされ、いわゆるもちつもたれつして生きて行くものだと思います」といい、「精神上の独立を保ちながら充分なる収入を得ている人もありましょう」といっておられるのを見受けます。議論としては一貫しませんが、とにかく一方に補佐される独立や、立派な精神上の独立やの存在することは認めておられるのです。
 平塚さんと山川さんとは決して独立の否定などはされないのですが、前者は私と方法を異にして「母性の保護こそ女子の経済的独立を完全に実現する唯一の道」であると主張され、後者は平塚さんの母性保護も私のいう意味の経済的独立も、現実の問題としては「共に結構であり、両者はしかく両立すべからざる性質のものでなくて、むしろ双方共に行われた方が現在の社会において婦人の地位を多少安固あんこにするものだと考える」と穏健な仲裁的意見を述べられると同時に、しかしながら、現在の経済関係という禍の大本に斧鉞ふえつを下そうとしない点においては両者とも「不徹底な弥縫策びほうさく」であるといって女史自ら一段高い地歩を占めたと思われるらしい立場から非難されております。
 平塚さんに対しては後にいうとして、私は山川さんに申上げて置きます。私は人間の独立に経済的因素が絶対の必要だとは考えず、あくまでも相対的の必要であると思っています。その必要も人間の進化が精神的に高まって行くに従って減少して行かねばならぬ性質のものです。人間が真の福祉に生きる理想生活の実現される時は経済的労働から解放された時であろうと思います。この意味において、私は資本主義的経済関係に束縛されている現在の低級な人類生活を、更に層一層より善き理想的秩序の中へ進化させようとする共通の目的において一致した凡ての新思想と凡ての新主義に味方する者です。山川さんがこれを反対に忖度そんたくして、私の議論が専ら資本主義の勃興ぼっこうに伴う社会的変化を顧慮し、その範囲において「かかる難境を無難にぎ抜けるにはどうしたら好いかという問題を中心としている」といわれたのは、それは花の日会や救世軍などの慈善運動に奔走する婦人たちにこそ適評となるでしょうが、私に対しては「否」という外はありません。
 しかし千里の路も一歩から初めます。人間生活は長足の進歩をしたとはいえ、高遠な理想生活の全階段からいえば、まだ物質的条件が優勢な位地を占め、主客顛倒てんとうして、財貨の多少が精神生活の上にかえって支配権を持つほどの低級な階段にある以上、私たちはこの眼前の事実を無視する訳に行かず、それが必要である限り、一方に経済生活を充実させることに由って精神生活を維持し、向上し、現在の社会状態に身を置きながら、それと反対の高遠な理想生活の方へ自己の全生活を照準し、現在の境遇と実力との可能な範囲において、社会状態を手近なるより善き秩序の下に次第に征服し、改造して前進することが唯一にして且つ聡明な仕方だと思います。現代の倫理学、経済学、法律学、社会学、美学、政治学の凡てが、この意味の生活改造を私たちに暗示しないものはありません。
 私は山川さんの立場とせらるる社会主義とても、それが物質的社会主義の範囲にある間は、決して絶対最高の理想生活に応じるために設けられる絶対最高の社会的秩序ではなくて、物質的条件の必要な現代生活を眼中に置いて、資本主義的精神と金銭万能主義との不法に優勢である社会状態の中に住みながら、それを幾段か高い、よりよき秩序に拠って改造しようとするに外ならないと思います。
 私は「より善き秩序」のいくつも提供されることを望みます。私が前に、共通の目的において一致した新思想と新主義との凡てに対する味方であると述べたのはこの意味です。そうして、カントのいわゆる「各人に属する、天賦の、唯一の権利」である自由独立の生存を危険にする限り、資本主義の排斥されねばならぬことは、今日において明白な問題ですから、これに代る正当な経済生活の新しい秩序を要求することは、無産階級にある私たちに取って一層痛切なものがあります。しかし米田庄太郎氏がいわれたように、人類は盲目的に新しい社会的秩序を贈られてはなりません。「これを受くるためには、人類は大に奮闘しなければならぬ。つまり、目的意識的に新しい社会的秩序を造るべく努力せねばならぬ」と思います。
 山川さんは、私の文中に「経済的に独立する自覚と努力とさえあれば」といい、「富の分配を公平にする制度さえ人間が作れば」といったのに対して、この二句の間に矛盾のあることを指摘されましたが、私のいうのは、そういう自覚と努力とが各人自身に必要である人間が個人主義的に動き出せば、個人主義の徹底である共同責任主義へ向わずには置かず、そういう精神的にも経済的にも独立的意志の堅実な個人が集って団体生活を理想的に整頓しようとするなら、経済的には富の分配を公平にする制度が相互一致の中に実現されるに違いないという意味であったのです。矛盾はないと思います。
 山川さんは「そういう制度が作られていない現代においては、個人の自覚と努力だけで貧困を免れることは出来ない」といわれましたが、制度は個人の多数が意識的に作るのです。制度が先にあっても宜しいが、個人が多数に目覚めて、その制度を我物として活かすのでなくては、制度も猫に小判ですから、私は先ず個人の自覚と努力とを特にそれの乏しい婦人の側に促しているのです。勿論大多数の人間がその気にならない限り、制度があっても大多数の人間が完全に貧困を免れることは出来ませんが、一人でも早く気が附いて努力すれば、その人は或程度までの経済的独立が得られるものだと信じます。不完全な独立であるにしても、在来のように女子が男子に寄食して遊民と奴隷との位地に堕落していたのに比ぶれば、既に内面的に独立生活の中にあるものです。「道を問うは既に道に入るなり」という意味において、確かにこのようにいうことが出来ると思います。
 経済的独立ということを具体的にいえば、人間が心的に体的に、いずれかの労働に由って自ら物質的の生活を充たして行くことです。「今日の社会にあっては、その種類の何たるを問わず、遊手坐食はいずれの方面より観察するも断じて許さざる所である。……労働を重んずるとさげすむとが新旧世界を分画する最も著明な境界線である」(滝本博士)という思想に何人なんぴとも異論はないと思います。
 しかるに三女史とも共通の、もしくは個別的の種々の理由から、積極的もしくは消極的に女子の労働生活に反対されました。平塚、山田の二女史はこれを「詩人の空想だ」という風にまでいわれました。詩人の空想というものが、そのように安価にかつ悪い意味にのみ用いることの出来ないものであり、現実と離れた空想というものもないこと位は「美学」の一冊でも読んだ人たちには自明の事だと思いますが、しばらく二女史の常識的発言のままに従って置くとして、私はここに三女史に対してお答えします。
 私は決して気紛まぐれな妄想から経済的独立の可能をいうのではありません。子思ししは「あるいは生れながらにこれを知り、あるいは学んでこれを知り、あるいはくるしんでこれを知る」といいましたが、私は実に早くから困んでこれを知ったのです。私は四、五歳の時から貧しい家庭の苦痛を知り初め、十一、二歳より家計に関係して、使用人の多い家業の労働に服しながら、二十二、三歳までの間に、あらゆる辛苦と焦慮とを経験して、幾度か破綻はたんひんした一家を、老年の父母に代り、外に学んでいる兄や妹にも知らせずに、とにもかくにも私一人の微力で、一家を維持し整理して来たのです。他人が中年になって経験する経済生活の試錬を私は娘時代においてめ尽しました。或人においては、一生涯かかって経験する苦労を、私は誇張でなく、全く娘時代の十年間にしのいで来たと思っています。次で結婚生活に入って後の私の経済生活というものも、引き続いて多難なものであるのですが、これを娘時代の苦労に比べると非常に安易な心持を覚えます。こうして、私は私自身の薄弱な力の許す限り周囲に打克うちかって、細々ほそぼそながら自己の経済的独立を建てて来ました。これはごうも自負のつもりでなく、私がこういう実証の上に立っているということの説明にいうのです。
 しかし個人の経験を以て一般を推論することが往々誤謬に陥るとすれば、私は一条忠衛さんが近く富山県の漁婦たちの食糧運動を評された文中に「思うに漁村の女子は、生れ落ちると怒濤どとうの声を聞き、山なす激浪を眺め、長ずればかじも取りも漕ぎ、あるいは深海に飛込んで魚貝をあさって生活しているので、おのずから意志が強固になり、独立自存の気象に富んでいる。海浜または島嶼とうしょに住んでいる女子が男まさりに気概があり、権力が強く、女子の社会的地位の高いのは一般的である。これらの漁村に住む女子は経済的独立の思想が発達しているから、家庭生活に対する困苦と責任とを実感する程度が強い。家庭の経済的責任を男子に委ねて、その従属者として生活しているのでなくて、女子もこれにくわわり、相本位的に独立の主体として解釈している結果である」とある一節を引いて、社会の一部には既存の事実であることを証明して置きます。なお、農家と商工業界との女子にも、今日の努力の程度で許される経済的独立の実例は決してすくなくありません。
 日本の工場労働者の約六割までが婦人であり、それらの婦人労働者の総数が六十三万六千余人であるのを見ても、それら下層階級の婦人が必要の前に如何に労働を回避しない美質を持っているか、如何に不完全きわまる労働制度の中にあって、苛酷な労働を忍びながら、決して正当の報酬でない貧弱な賃銀を以て、なおかつ父兄の厄介とならない独立の生活を申訳だけにも建てつつあるかを思う時、私は一般婦人の経済的独立が十分に可能的なものであることを推定せずにおられません。
 工場労働の現状のいたましさは私も知っています。しかし今日の制度の中においてすら、次第に或程度まで改善されて行く見込があります。現状のみを見て未来を決定してはなりません。或社会主義者のいったように、人間があまねく働くようになれば一人が一日に一時間と二、三十分働きさえすれば充分である時機が来ないとも限らないでしょう。社会主義者ならぬ福田博士も「貧乏と無学とが全く人類社会より断ち得んとの希望は、十九世紀における欧洲労働者の著しき進歩の実績に徴する時は、必ずしも架空に属せざるに似たり」と述べておられます。
 平塚、山田の二女史は工場労働に重きを置いて、女子の屋外労働を批難されましたが、女子の屋内における経済的労働の範囲の広いことは、その大部分を占めている屋内工業だけでも、女子の製品の総輸出額の概算が一カ年四億円――輸出総額の二割五分――に達しているので推断することが出来ます。
 女子は母たる境遇にのみあるものでないのですから、その実力と興味とに従って内外の職業に就くことは可能です。女子の職業範囲は何人なんぴとの反対があっても、生活過程の必要である限り益※(二の字点、1-2-22)拡がって行くでしょう。その過程には新しい悲惨な事実も続出するでしょうが、宇宙はいつも快晴ではないのですから、一つの比較的に最も善い新しい秩序をはじめるためには十の新しい障碍しょうがいが起ってもやむをえません。更にその障碍を除く新しい施設を工夫さえすれば善いのです。
 母の境遇にある婦人といっても、子供の側に附切つききっていねばならないものでなく、殊に子供が幼稚園や小学へ行くようになれば、母の時間は余ります。子供の側を離れられない期間にある女は屋内の経済的労働に服せば宜しい。妊娠や分娩の期間には病気の場合と同じく、保険制度に由って費用を補充するというような施設が、我国にも遠からず起るでしょう。否、大多数の婦人自身の要求でその施設の起る機運を促さねばなりません。
 山田さんは「家事の煩忙」を女子の労働の不可能な一つの条件に数えられましたが、我国の家事は大部分無用なものですから、努力次第で最も早く除き得る小さい障碍しょうがいだと思います。
 人のくいう女子の労働能率を男子より低いとする通俗論は、戦争以来、英国ミッドランド鉄道会社その他の男女工能率の比較表を見ても確かに誤謬ごびゅうを示しております。或所では女工の能率が男工に対して二十パアセント高く、或所では女子を代用したるため一週間の製造高について五百個の減少を予想していたのに、かえって五百個を増加する結果を示しました。欧米において高級な行政事務にも続々と女子を用いていますが、適材を適所に置いたものは、優に男子と匹敵する能率を挙げているといいます。
 世間にはまた妻や母が屋外の職業に就くと、家庭の情味を減じるという反対説があります。我国の現在の程度の職業婦人ことに有夫有子の女教師たちにはそういう弊害が折々あるのを私も認めます。しかしそれは、一つは我国の女子教育が善くないからです。愛と理性との高い教育をおろそかにしている以上、どの家庭婦人も高雅な情味を持つ訳がないのです。家屋の内外には関係がありません。今一つは職業婦人を遇する新しい習慣がまだ社会に出来ていなくて、余りにだらしなく時間を多く使用させるからです。私は巴里パリイで幾人かの有夫女子の会社員や工場労働者の家庭を見ましたが、朝は子供を学校まで送って行き、正午は勤め先から学校へ子供を迎えに行って、同時に他の勤め先から帰って来た良人と、夫婦子供そろって一所に食卓に就くのです。食事は路すがら麺麭パンと冷し肉ぐらいを買って来るのですから、唯だ瓦斯ガス珈琲コーヒーを煮るだけで簡単に済まされるのです。それからまた父か母のいずれかが子供を学校に送って、夫婦は再び勤め先へ行きます。東京のようにだだ広くない都ですから勤め先も近く、少し位遠くても地下電車で訳もなく行かれます。巴里の公私の勤先が、こういう風に一定の時間を労働者夫婦に許しているのは善い習慣だと思います。こういう事も婦人労働者の要求が勢力を持てばきっと我国にも実現されるでしょう。
 平塚さんは、私が母性の保護に反対するのは「子供を自己の私有物視し、母の仕事を私的事業とのみ考える旧式な思想にとらわれているからだ」といわれました。何たる恐しい断言でしょう。
 私は子供を「物」だとも「道具」だとも思っていない。一個の自存独立する人格者だと思っています。子供は子供自身のものです。平塚さんのように「社会のもの、国家のもの」とは決して考えません。平塚さんは「子供の数や質は国家社会の進歩発展と、その将来の運命に至大の関係がある」といって、国家主義者か軍国主義者のような高飛車な口気をもらされておりますが、私たちの子供もきっと国家を愛し、社会を愛し、更に世界人類を愛して、そのいずれもの進歩発展を計る時が来るでしょう。しかしそれは彼ら自身の愛と事業とが――端的に彼らの自我が――世界人類を包容しないではおられない所まで進歩発展するのです。彼らは国家の所有でなくて、彼らが国家を自己の人格の中に一体として所有するのです。前に引用した有島武郎さんのお言葉も私の考えと同じ意味だと思います。
 平塚さんは「母」の意義をいろいろと教えて下さいましたが、私はかつて述べたように、母たる自尊を「世界人類の母」となる所まで拡充して生きたいと考えています。老子ろうしのいわゆる「道、これを生じ、これをやしない、これを長じ、これを育て、これを成し、これを熟し、これを養い、これを覆い、生んで有せず、為して憎まず」という大道的な境地にまで生きたいと考えています。私は最上の愛国者です。それ故に、特に国家とか社会とかいう中間の人生観や倫理観に停滞していたくありません。最上の立場から国家をも社会をも愛したいのです。
 平塚さんは母が国家のお役に立つという意味から、国家の母性保護を至当とされています。私はそういう意味からでなく、食糧に窮する貧困者に施米または廉米を供給するのと同じ意味から、母の職能を尽し得ない貧困者を国家が保護するのは国家の義務だと考えて全く賛成するのですが、精神的にも経済的にも、自労、自活、自立、自衛する可能性を持っている個人が、父にせよ、母にせよ、妻にせよ、国家の保護に由って受動的隷属的な生き方をするのは、個人の威厳と自由と能力とを放棄する意味において反対するのです。
 「保護」という官僚式な言葉には救済的恩恵的の意味があります。現に我国の救済調査会の項目には、白痴低能児の保護、不良少年の保護、細民部落の保護と並んで婦人労働者の保護が掲げられております。
 最近に或識者は、「凡そ中層階級が自らも他からも健全なりと見做みなさるる理由は、自らその生活を保持し、これを充実し向上せしめ、他の施設恩恵をたぬがためである。しかるに今の中層は自己生活の充実向上の施設を、ややもすれば国家社会の手に委ね、それに依って慶福を得んとしている。かかるは中層自らがその地位を捨てて下層と同じからんとする者にして、いわゆるその健全を捨てて社会的疾患たるに甘んぜんとする卑屈なる精神である」と論じました。私は自分と同憂の人のあるのを嬉しく思います。カントが「商人あるいは手工業者の雇人、僕婢ぼくひ日傭ひやとい労働者、小作人及び総ての女子等、約言すれば他人より「食物及び保護」を受くる総ての人々を国民とは認めず、単に国家補助員と見做みなしていた」というのは、その人格論に由来する正当な結論であろうと思います。
 山川さんは「もしそれ保護が屈辱であり、非難に価するならば、恩給や年金に依って生活を保障されている軍人や官吏の古手も皆非難に価する屈辱的生活を送っている訳ではあるまいか」といわれ、他の二女史も同様の詰問をされています。私は答えていいます、「勿論です」と。私は彼らがなお自労自活の能力を持ち、儲蓄ちょちくした財力を持つ限り、併せて彼らと反対の側に、彼らに多大の恩給や年金を支払うために無数の労働者がその労働価値の大部分を間接に彼らにささげている限り、それは厳正な意味において屈辱的生活を以て目すべきものだと思います。唯だ習慣がそれを国家の寄食者として蔑視しないだけの事だと思います。
 平塚さんはその中に「俸給生活」をも数えて質問されましたが、俸給は労働に対する正当な報酬です。それを受取る権利が俸給生活者自身にあります。国家の保護と称すべきものではないでしょう。
 山田さんは「婦人は一家を主宰し、子供を養育する、その報酬として男子に金を払わせる。もらうというのでなくて納めさせるという事にしなければなりません」といって良人の保護を要求し、大学の教授や国会議員が年俸を貰うのと同じく、「場合に由っては、国家から補助を受ける事は当然だ」といわれ、平塚さんも同様の意味で「母が国家から報酬を受けることも恩恵にあずかることでないはずです」といわれ、山川さんもほぼ同様の意見を述べておられます。要するに、母を一面において家庭及び国家の俸給生活者たらしめる事に由って、寄食者の名を免れしめ、経済的無力者の位地に安心して落着かせようとされるのです。
 山川さんはさすがに気がとがめたらしく、「母の仕事を経済的価値に踏むことを今までは一般に嫌っておりました。それに違いありません。……といって母は神様ではないから、衣食の資料はらないといってすましている訳にも行きません」といい添えられました。衣食の必要がありながら、また、どうにかして実現し得る労働の能力と機会とを持っていながら、すべて母の仕事に匹敵する精神的生活者が、心的にも体的にも経済行為を取らずに、唯だ専ら精神的生活者であるという功労を以て国家の俸給に衣食したいと要求したら、山田さんはそれを是認されるでしょうか。
 私は母性の国家的保護に対して多く直観的に不可として来たのですが、近頃河上博士の「経済上の富の意義」を読んで、私の直観に学問的解釈を附け得たことを喜びました。博士は「経済学上の富としからざるものとの間には……理論上明確なる標準あるものにて、即ち人為を以てその生産及び分配を左右し得らるるものはこれを経済上の富とし、しからざるものは経済学上の富にあらずと為す」といわれ、この理由から、人間の労力もその中の或種のものに至っては、生産はともかく、少くもその分配は或程度まで人為を以て左右し得られる結果、経済学上、殊に分配論上の対象となっていることを述べられた中に、家庭外の婦人の労働が経済学上の重大なる問題の一つとなっているに反し、母としての婦人の家庭内における労働は経済上の問題となる性質のものでなく、良妻賢母の「分配」などは今日真面目まじめな問題となしがたいといわれております。私は山川さんが、「家庭における婦人の労働は、畢竟ひっきょう不払労働でなくて何であろうか」と憤慨されたのは、如何なる労働も凡て経済的価値に換算し得るものだと誤解されているからだと思います。
 非常に紙数を超過しました。あとは略して置きます。(一九一八年九月)
(『太陽』一九一八年一一月)





底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年8月16日初版発行
   1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「心頭雑草」天佑社
   1919(大正8)年1月初版発行
初出:「太陽」
   1918(大正7)年11月
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年5月14日作成
2012年9月15日修正
青空文庫作成ファイル:
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