醫師と旅行鞄の話

ロバート・ルイス・スティーヴンソン

佐藤緑葉訳




 サイラス・キュー・スカダモーア氏は、單純な、惡氣のない、若い亞米利加人だつた。この男の生れた新英蘭は、同じ新世界のうちでも、特にさういふ性質が缺けてゐると言はれてゐる地方なので、その點が一層彼の信用を増すもととなつてゐた。この男は非常な金持だつたが、自分の小遣と云へば、いつも克明に小さな紙製の手帳につけてゐた。そして羅甸區の所謂家具附ホテルの七階から、巴里の人氣場所などをあれかこれかと調べて樂しみにしてゐた。彼の吝嗇は大方習慣から來てゐた。そして仲間の間で特に有名になつてゐるこの男の長所は、主として遠慮深いといふ事と、年がまだ若いといふことであつた。
 彼の部屋の隣りには一人の婦人が住んでゐた。この婦人の態度にはひどく人を惹きつけるところがあつて、またその身だしなみは極めて上品だつたので、彼が初めてこゝに來た時には、これは伯爵夫人に相違ないと思つた程だつた。だがそのうちに、この婦人がその名をゼフィリーン夫人と呼ばれてゐる事や、この世の中にどんな身分を占めてゐるのか知らないが、肩書などのある人ではないといふことが解つて來た。ゼフィリーン夫人は、大方この若い亞米利加人を迷はせて見たいとでも思つてか、階段で出會つた折などは、丁寧に腰を屈めたり、勿論言葉をかけたり、その黒い眼で相手を惱殺するやうに眺めたりして、これ見よがしに男のそばを通つて、それから衣ずれの音をさら/\ときかせて、見事な脚と足首とを見せて、やがてその姿を消すのが常であつた。だがこんな誘ひの手も、スカダモーア氏の心をそゝり立てるどころか、却つてその勇氣を沮喪させて、益※(二の字点、1-2-22)しり込みをさせるばかりであつた。彼女はあかりをつけさせて貰ひたいとか、自分の尨犬が盜まれたやうな氣がしたのは空想に過ぎなかつたのだ、などゝいひわけなどをして、度々彼の部屋にやつて來た。だがかういふ素晴らしい人の面前では彼の口は閉されて、佛蘭西語も急に出なくなつて、たゞ相手をぢつと見つめて、部屋から立ち去るまでぶす/\吃るだけの事であつた。二人の交際はこんな心細いものだつたが、サイラスは男ばかりの友達の中で、何の心配もいらぬと思ふ時などには、この光榮至極に感ぜらるゝ話を仄めかさない事もないではなかつた。
 この亞米利加人の部屋の反對側の部屋には――といふのは、このホテルには一階に室が三つ宛しかなかつたが――どちらかといふと評判の香ばしくない、年をとつた英吉利人の醫師が住んでゐた。ノーエル博士といふのがその人の名前だが、倫敦で開業してゐて、仕事もだん/\繁昌して來たのに、餘儀なくそこを立ちのかねばならぬ事になつたのであつた。そしてこのやうに住所を更へねばならなくなつたのは、警察から促がされての事だといふ噂であつた。かうしてたうとう、若い頃にはその道で相當名を現はしたのに、今では羅甸區で全く單純孤獨な生活をつゞけて、專ら研究にその朝夕を委ねてゐた。スカダモーア氏はこの醫師と近づきになつた。そして二人は時々筋向ふの料理屋へ出かけて行つて、一緒に質素な食事をする事があつた。
 サイラス・キュー・スカダモーアは、相當念入りなちよつとした惡癖をなか/\澤山持つてゐた。そしていろ/\な變な癖で、それに耽り出すと、うまくそれを切り上げる事が出來なかつた。その弱點のうちで最も甚しいものは好奇心だつた。彼は生れつきの無駄話家だつた。そしてこの世の中の事、殊に自分がまだ經驗した事のない方面のことには、殆ど狂熱といつていゝ程度の興味を感じてゐた。彼は出過ぎた、始末にをへない穿鑿家で、どこまでも粘り強く、無分別に、探し求めるのであつた。例へば郵便を出しに行くにしても、自分の手の上でその目方を量り、幾度も引つくり返して調べ、そして宛名を注意深く吟味するといふ風であつた。そこで、自分の部屋とゼフィリーン夫人の部屋との間の仕切に小さな隙間を見付けた時には、彼はそれを塞がうとはしないで、却つてそれを大きくして、その孔を具合よく繕うた。そして隣の樣子を窺ふ覗き孔に利用したのであつた。
 三月の末のある日のこと、彼は例の氣儘にしてゐる好奇心が募つてくるまゝに、隣の部屋の他の部分までも見えるやうに、孔を前よりも少し大きくした。その晩、いつものやうにゼフィリーン夫人の樣子を覗いて見るつもりで、孔のところへ行つて見ると、驚いたことには、その孔は向ふ側から妙なやり方で見えないやうにしてあつた。そしてその邪魔物が俄に取り除けられて、くすくす笑ふ聲が聞こえて來た時には、彼は一層氣まりが惡くなつた。確かに剥げ落ちた漆喰のかけらから、相手はこの覗き孔の秘密を知つたに相違なかつた。そして隣りの人も同じやうにして仕返しをしたのであつた。スカダモーア氏は非常に困つたといふ氣持になつた。彼は酷たらしくゼフィリーン夫人を咎めだてゝ見たり、また自分を責めて見たりした。だが翌日になつて、夫人の方では少しも彼の好きな慰みの裏をかかうなどゝしてゐなかつたといふ事が分つて見ると、彼は夫人の無頓着をいゝ事にして、つゞけてその馬鹿げた好奇心を滿足させるのであつた。
 その次の日、ゼフィリーン夫人の處へ、一人の背の高い、五十ばかりになる、サイラスのまだ見たことのない、だらけたからだ付の男が訪ねて來て、長い間話してゐた。そのツウィードの着物と、色がはりのシャツと、それからもじや/\した頬髯とで、その男が英國人だといふ事が分つた。またその鈍い灰色の眼は、サイラスに冷いやうな感じを起させた。その男はひそ/\と囁くやうに話してゐたが、その話の間にも、口を左右に、またぐる/\と歪める癖があつた。この若い亞米利加人には、二人の身振がどうも自分の部屋をさしてゐるかのやうに幾度も思はれた。だが極めて細心の注意で讀みとる事の出來た只一つのことは、その英國人が、恰かも女の不承知または反對の言葉に答へるかのやうに、幾らか高い調子で言つた言葉だつた。
「私はその男の趣味を精しく研究しました。そして繰返して云ふが、あなたより外に私が見付けたいと思ふ女はないのです。」
 ゼフィリーン夫人はその返事として溜息をついた。そしてその身振を見ると、資格の無い當局の前に屈する人のやうに、已むを得ず言ひなりになるといふやうな樣子であつた。
 その日の午後觀測所はたうとう塞がれてしまつた。向ふ側のその孔の前に箪笥が持つてこられたのであつた。これはてつきりあの英國人の意地の惡い入智慧に相違ないと考へて、サイラスがこの不幸を嘆いてゐる時、門番が彼の處へ一通の女文字の手紙を持つて來た。それは綴りの餘り正しくない佛蘭西語で記されて、署名は無く、そして頗る熱烈な言葉で、この若い亞米利加人に、その夜の十一時にヴィエー舞踏場のある場所へ來て貰ひたいと招待したものであつた。彼の胸の中では好奇心と臆病とが長い間鬪つてゐた。ある時は全くしをらしい氣持になり、またある時はすつかり熱烈な大膽な氣持になつた。そしてたうとう、その夜の十時にはまだ大分間があるのに、サイラスは申分のない服裝をして、ヴィエー舞踏場の入口に現はれて、相應に面白くない事もないやうな向ふ見ずの惡戲氣分になつて、入場料を拂つたのであつた。
 それは謝肉祭の時節で、舞踏場は人が一ぱいで、頗るざわめいてゐた。その華やかな燈火や、群集の騷がしさで、吾等の若い冒險家は始めはいさゝか尻込みを覺えたのであつた。しかしやがて頭の中が何だか醉つたやうな氣持になつて、自分の本來の持前よりもずつと元氣が出て來たのであつた。彼は惡魔とでも取組むやうな氣持になつて、舞踏の名手然とした態度をして、舞踏場の中を氣取つて歩いてゐた。かうして大氣取りで歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐる間に、彼はゼフィリーン夫人と、例の英國人とが、柱の蔭で何か相談してゐるのに氣が付いた。するともう、立ち聽きしたいといふ猫のやうな心が抑へ切れなくなつて來た。彼はうしろからそろ/\と二人の方へ忍び寄つて、たうとうその話のきこえる處まで行つた。
「あの男ですよ。」と、英國人は言つた。「そら、あの長い金髮の――緑色の着物をきてゐる娘と話をしてゐる。」
 サイラスは小柄の非常に美しい一人の青年に氣が付いた。確かにそれが二人の話してゐる當の人物に相違なかつた。
「まあようござんす。」と、ゼフィリーン夫人は言つた。「出來るだけの事はやつて見ませう。ですがようござんすか、誰が當つて見ても、かういふ事は失敗するかも知れませんよ。」
「ちえつ!」と、相手は舌打ちをした。「私が責任を負ひますよ。三十人の中からあなたを選んだのぢやありませんか。やつて下さい。だが殿下には用心して下さいよ。どうした風の吹き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しであの人が今晩こゝへやつて來たのか、私にはさつぱり分らない。まるでこの巴里には、學生達やお店者などの暴れ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐるこんな處よりほかに、もつと氣のきいた舞踏場はないとでもいふやうですからね。殿下の坐つてゐる處を御覽なさい。休暇をとつてゐる王子といふよりも、寛いでゐる陛下とでもいつたやうぢやありませんか。」
 サイラスは今度も仕合せだつた。彼はどちらかといふと體格のがつちりした、極めて美しい、そして非常に堂々としてゐて、態度の丁寧な人物が、幾らか年下の、矢張美しい青年と、テーブルに着いてゐるのに氣がついた。その青年は非常に謙遜な態度で相手の人に話しかけてゐた。殿下といふ名は、民主國民であるサイラスの耳には、何となく有難いものゝやうに響いた。またその名前で呼ばれた人物の樣子は、いつもの通り彼の心に興味を起させずには置かなかつた。彼はゼフィリーン夫人と英國人の方はそのまゝにすてゝおいて、群集の間を縫ふやうに進んで行つて、殿下とその親友とが腰をおろしてゐるテーブルに近づいた。
「ねえ、ジェラルディーン、」と、その人は言つた。「あの事はどうも狂氣じみてゐるよ。君自身が(私は有難いと思つてゐるが)君の弟を選んで、この危險な仕事に向けたのだから、君は弟の行爲を保護してやる義務があるよ。本人は巴里に幾日もだら/\してゐる事に同意したが、當人が取引しなければならぬ相手の性格を考へると、それが既にもう不謹愼だと思ふね。だが今出發までにもう四十八時間しかなく、そして決審までに二三日しかない時に當つて、ねえ君、こゝは當人がぐづ/\してゐていゝ處かね? 今は道場へ行つて大いに練習してゐなければならないのだ。十分に眠つて、適度の散歩を試み、白葡萄酒やブランデーなどはやらないで、嚴格な食事をとらねばならないのだ。あの男は吾々が皆で喜劇でもやつてると想像してゐるのかな? これは實に容易ならん事だよ、ジェラルディーン。」
「あれの事は私よく存じて居りますが、捨てゝ置いて結構でございますよ。」と、ジェラルディーン大佐は答へた。「御心配遊ばさないで結構でございます。あれは殿下の御想像遊ばされる以上に用心深い人物でございますし、また不撓不屈の精神を持つて居ります。問題が女のことになりますと、私もさうまでしつかりした事は言へませんが、しかしあの會長の事でしたら、私は少しも心配しないで、あれと二人の從者に任せて置けると思ひます。」
「さう言つてくれゝば私も滿足するが、」と、殿下は答へた。「でも、まだ私は安心出來ないよ。成程あの二人の從者はなか/\熟練した間諜だ。ところで、あの曲者はもう三度も二人の眼褄をのがれる事に成功して、何か秘密の、極めて危險性のある仕事に何時間も使つて來たではないか。素人なら手ぬかりで相手に逃げられるといふ事もあらうさ。しかしルードルフとジェロームが撒かれたといふ事になると、それはわざとさうされたので、しつかりした理性と異常な策略のある人間にさうされたに違ひないよ。」
「問題は今は弟と私自身の間のものと思ひますが、」と、ジェラルディーンは、言葉の調子に幾分不快の色を見せて言つた。
「そりやさうだらうと思ふ。」と、フロリゼル殿下は答へた。「恐らくそれでこそ、君は尚更私の忠告を受け容れなければならんと思ふよ。だがもうよさう。あの黄いろい着物をきてゐる娘は踊りがうまいね。」
 そこで話は轉じて、謝肉祭の頃の巴里の舞踏場にありふれた話題に變つて行つた。
 その時サイラスはふと自分がどこにゐるかといふ事を思ひ出した。また自分が約束の場所に行つてゐなければならぬ時間がもう近づいてゐる事も思ひ出した。考へれば考へるほどこれから先の事が面白くなくなつて來た。丁度その折も折、群集の渦卷が彼を戸口の方へ押して行つたので、彼は抵抗しないで運び去られるまゝになつてゐた。すると渦卷は彼を棧敷の下の片隅に押し上げてしまつた。ところがそこへ行くと、直ぐ彼の耳にゼフィリーン夫人の聲がきこえてきた。彼女は、半時間足らずの前に、例の奇妙な英國人が指してゐた金髮の青年と、佛蘭西語で話してゐた。
「私の評判つたら問題になつてるのよ。」と、夫人は言つた。「でなければ、私、自分の氣に入らない條件なんか持ち出しやしませんわ。ですがあなたはたゞ言ふだけの事を門番におつしやればようございます。さうすれば何も言はないで通してくれますわ。」
「併しなぜそんな負債の話なんかなさるんですか?」と、相手は反對した。
「まあ! あなたは私に自分のゐるホテルの事が分らないとでもお思ひになりますの?」
 さう言つて、夫人はいかにも情愛深さうに相手の腕に縋りついて、行つてしまつた。
 それを見ると、サイラスは自分の貰つた手紙の事を思ひ出した。
「今から十分たてば、」と、彼は思つた。「僕もあのやうな綺麗な女と歩いてゐるかも知れないぞ。いやもつと好い着物を着た――多分ほんとの淑女と、事によると貴婦人と。」
 その時彼は手紙の綴りを思ひ出して、いさゝかがつかりした。
「だがあれは女中に言ひつけて書かせたのかも知れない。」と、彼は想像した。
 時計は約束の時間に僅か數分になつてゐた。かうして時間が迫つて見ると、彼の心臟は、奇妙な、そして寧ろ氣持の惡い速さで、打ち出した。だがこちらから少しも伺候する義務は無いのだと思ひ返すと、何だか助かつたやうな氣持になつた。徳操と臆病と兩方の氣持があつた。そして今度は自ら進んで今や反對の方向に動いてゐる人波に逆つて、再び戸口の方へ進んで行つた。恐らくかうして長い間抵抗を續けたので疲れたのか、さもなくば、何分間かたゞ同じ決心をつゞけてゐると、一種の反動作用や違つた目的が起つてくるものだが、彼は恐らくさういふ氣持になつてゐた。確かに彼は少くとも三度は同じ場所をぐる/\※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つた。そして指定の場所から數碼のうちにある隱れ場を見付けるまでは、足をとめる事が出來なかつた。
 こゝで彼は心の惱みに堪へられないやうな氣持になつたので、幾度か助け賜へと言つて神に祈つた。といふのは、サイラスは信仰深く育てられて來たからであつた。彼はもう少しも女に會ひたいと思はなかつた。自分が男らしくないと思はれはしまいかといふ馬鹿な恐れさへなかつたら、そこから逃げ出す事を引留めるものは何もなかつた。だがその氣持が非常に強かつたので、それがあらゆる他の動機を壓へつけてゐた。それで進んで相手を探すといふ氣持にもなれなかつたが、斷然逃げ歸るといふ心にもなれなかつた。そのうちに時計を見ると、約束の時間を十分過ぎてゐた。若いスカダモーアはじれ/\して來たので、あたりを見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)したが、約束の場所には誰も見えなかつた。きつとその知らない手紙の主は待ちくたびれて歸つてしまつたのだ。そこで彼は前に臆病だつただけに大膽になつて來た。いづれにしても約束の場所へ來たからには、たとひ遲れたにしても、臆病者の責は免れると思つた。否、今度は擔がれたのではないかと疑ひ出した。そして自分をだまさうとした人に疑ひをかけて、向ふの裏を掻いてやつた自分の慧眼に獨りで感心してしまつた。若い者の心は全くたわいのないものである!
 こんな風に考へたので氣が強くなつて、彼は大膽にもそこの隅から進み出た。だが二足も歩かないうちに、彼の腕に手をかけた者があつた。振返つて見ると、それは大柄な、何となく凛とした容貌の、しかしその顏付に少しも嚴しい處のない女だつた。
「ほんとに貴方は女たらしの方ですわ。」と、彼女は言つた。「こんなに人を待たせるのですもの。でも私、どうしても貴方にお目にかゝるつもりでしたわ。女が一度自分を忘れてこんな事を言ひ出した時には、つまらない誇などはとうの昔に棄てゝしまつてるのよ。」
 サイラスはその手紙の主の大きなからだや、人を惹きつける力や、いきなり自分に迫つて來た態度などに、壓しつけられてしまつた。併し女は間もなく彼の心を落ちつかせてくれた。その態度は極めて温和で、また寛かで、彼を誘ひ出して冗談を言はせてみたり、また聲をたてゝ喝采してみたりした。そしていつの間にか、その愛嬌と、強いブランデーの手厚いもてなしとで、彼を戀に浸つてゐるやうな氣持にさせたばかりか、非常に強い言葉で自分の情熱を打ちあけさせるやうにさへした。
「あゝ!」と、彼女は言つた。「あなたのおつしやる事をきくと、餘り嬉しいので、私今嘆いたりなんかしてはいけないのかどうか分らなくなりましたわ。今までは私は獨りで苦しんでゐました。けれどももう貴方と二人でせう。自分勝手のからだではなくなりましたわ。私あなたに宅へ來て頂きたいなんて申し上げられませんの。嫉妬家に睨まれてゐるんですもの。えゝと、」と言つて、女はまた附け加へた。「私の方があなたより年上ですわ。そりやずつと弱蟲だけれど。それから私、あなたの勇氣と決心とは頼りにしますが、私はまたお互の利益のために私自身の經驗を利用しなければなりませんわ。貴方は今どこに泊つていらつしやいますの?」
 彼は家具附のあるホテルに泊つてゐるといふ事を話して、それから町の名や番地などを教へた。
 女は一生懸命になつて暫くそれを思ひ返してゐる風だつた。
「分りましたわ。」と、やがて彼女は言つた。「あなたは御親切だから私の言ふ通りになつて下さるわね。ねえ。」
 サイラスは熱心に親切を盡す事を誓つた。
「それでは明晩は、」と、女は氣をもたせるやうな微笑を見せて言葉を續けた。「一晩ぢゆうお宿にゐて下さいな。そしてどんなお友達が訪ねていらしても、直ぐに何とか工夫のつく口實を作つてことわつて下さいな。お宅の入口は多分十時にはしまるのでせう?」と、女はたづねた。
「十一時までです。」サイラスは答へた。
「それでは十一時十五分過ぎにお宅を出て下さいな。」と、女は續けて言つた。「たゞドアをあけろとだけおつしやつて頂きたいのです。門番と話をなすつてはいけませんよ。そんな事をなさると何もかも無駄になつてしまふかも知れませんから。それから眞直ぐに、リュクサンブール公園と廣小路の出合ふ角へ行つて下さいな。そこで私、あなたをお待ちしてゐますわ。あなたはきつと一から十まで私の言ふ通りにして下さいますわね。ようございますか、若したつた一つでも間違つた事をなさると、貴方はあなたといふ方を知つてそして愛したばかりで、外に罪の無い女に、この上もないひどい苦しみを與へることになるのですよ。」
「私にはあなたのお指圖の譯がよく呑みこめませんが。」と、サイラスは言つた。
「もう貴方は御亭主然と私を扱はうとなさいますのね。」と、女は扇で相手の腕を叩いて言つた。「我慢して下さいな、我慢して! いづれはさうなりますわ。女といふものは始めは從つて貰ふのが好きなものよ、後では從ふ方が樂しみだといふ事が分るものですが。どうぞお願ひ通りにして下さいな。でなければ私もう何も知りませんよ。さう/\、私いゝ事を思ひついたわ。」と言つて、女はむづかしい問題をうまく解き得た人のやうな態度をして附け足した。「厄介なお客樣をことわるいゝ方法がありますわ。門番にその晩は負債をとりにくる男の外は誰も入れてくれるなとお話しなさいな。そしてその人に會ふのを心配してでもゐるやうに、思はせぶりな樣子でお話しなさいな。あなたのお言葉を眞に受けるやうに。」
「私は闖入者などには踏み込ませんから、信頼して頂きたいと思ひます。」と、サイラスはいささか不平らしい樣子で言つた。
「さうして頂ければ結構ですわ。」と、女は冷かに答へた。「私は男の方をよく知つてますわ。ところが男のかたは女の評判てものをちつとも考へて下さらないのね。」
 サイラスは赤くなつて、少し頭を垂れた。といふのは、彼が心に抱いてゐた計畫には、友達の前に少し見せびらかしてやりたいといふ考へがあつたからである。
「兎に角、」と、女は附け足した。「お出かけになる時、門番とお話をなすつては駄目よ。」
「それはなぜですか?」と、彼は言つた。「あなたのお指圖の中でも、それが一番つまらない事のやうですが。」
「始めには他人からきいた事をお疑ひになつても、後になると大切な事だと思はれるものがありますわ。まあ私のいふ通りにして下さいよ。これも必要な事ですわ。そのうちお分りになりますよ。始めてお目にかゝつたのに、こんなつまらない事をきいて下さらないやうぢや、あなたの愛情をどうお考へしてよいか分りませんわ。」
 サイラスはあわてゝ、説明したり、言譯をしたりした。さうかうしてゐる最中に、女は時計を見上げて、抑へ付けたやうな叫び聲をあげて、兩手を拍つた。
「あら!」と、彼女は叫んだ。「もうこんなに遲くなつて? 私ぐづ/\しちやゐられないわ。まあほんとに女つて情ないわ。まるつきり縛られてるんですものね! でも貴方のためには隨分無茶をやつてると思はない?」
 かう言つて、女は巧みに色つぽい樣子をしたり、うつゝをぬかしたやうな顏付をしたりして、前の約束を今一度繰返してから、サイラスに別れを告げて、群集の中に消えてしまつた。
 翌る日一日、サイラスは何か大變な事になつたやうな氣持で一ぱいになつてゐた。彼はもう確かに女は伯爵夫人に相違ないと思つた。そこで夜になると、すつかり女の指圖に從つて、約束の時間にリュクサンブール公園の角に出かけて行つた。だがそこには誰の姿も見えなかつた。彼は殆ど半時間も待つてゐた。そしてその邊を通り過ぎる人や、ぶらぶらしてゐる人の顏を、一人一人眺めやつた。それから近くの廣小路の町角へ行つて見たり、公園の柵の周圍を一※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りしてみたりした。だが自分の腕に身を投げかける美しい伯爵夫人などはゐなかつた。たうとう、しかし不承々々に、彼はホテルの方へ戻り出した。その途中で彼はゼフィリーン夫人と金髮の青年とが話してゐた言葉を思ひ出した。すると彼は漠然とした不安を覺えて來た。
「誰でも門番には嘘を言はねばならないらしいな。」と、彼は思つた。
 彼はベルを鳴らした。扉が開いた。門番は寢衣姿で出て來て、彼に燈火を渡してくれた。
「あの方はお歸りになつたのですか。」と、門番はたづねた。
「あの方? そりや誰の事です。」と、彼は少し荒つぽい調子でたづねた。といふのは、がつかりしたので心がいらだつてゐたからでもあつた。
「お歸りになつたのに氣が付きませんでした。」と、門番は續けて言つた。「しかしお拂ひにはなつたのでございませうな。手前どもでは負債をお拂ひ出來ないやうな方はお客樣に願ひたくないのでございます。」
「一體全體何を言つてるんだい?」サイラスは荒々しくたづねた。「私には何の事だかさつぱり分らない。」
「背の低い、金髮の若い人がお金を貰ひに參りました。」と、門番は答へた。「その方の事を言つてるのです。外の人は入れるなつてえお言ひつけですもの、誰のことを申しませう?」
「何だつて、え、そんな者は勿論來やしないさ。」と、サイラスはやり返した。
「お目にかゝつてるんだから仕方がありませんや。」門番はひどくふざけたやうな態度をして、頬をふくらませて言つた。
「貴樣は無禮な奴だな。」と、サイラスは叫んだ。そして馬鹿々々しく突つ慳貪な態度をしたものだと思つたり、同時にいろ/\な妙な出來事に面喰つたりして、ぐるりと向きをかへて、階段を駈け上り始めた。
「では燈火は要らないんですか?」と、門番は叫んだ。
 併しサイラスは益※(二の字点、1-2-22)急いで駈け上つて行つた。そして休まずに七階の踊り場まで辿りついて、自分の部屋のドアの前に立つた。そこで息をついて暫く待つてゐたが、何だか非常に惡い事でもありさうな豫感に襲はれて、殆ど部屋に入るのが恐ろしいやうな氣持になつた。
 だが、たうとう這入つて見ると、部屋は眞暗で、見たところ誰もゐない樣子なので、ほつと助かつたやうな氣持であつた。彼は長い溜息をついた。これでまた無事に自分のうちに歸つたのだ。こんな馬鹿げた事はこれが始めでまた終りでなければならない。マッチは寢臺のそばの小さなテーブルの上に置いてあるので、彼はそちらへ手探りで歩き出した。かうして歩き出してみると、彼はまた不安になつて來た。そして足が何か邪魔物にぶつかつた時、それが椅子で、別にびつくりするやうな物でないといふ事を知つて安心した。たうとう彼は窓掛に觸つた。微かに知れる窓の位置から、自分は今寢臺の脚の邊にゐるに違ひないと思つた。そして探してゐるテーブルのそばへ行くには、たゞそれについて手探りで行かねばならないのであつた。
 彼は手をおろして見た。だが手に觸つたものはたゞの懸蒲團だけではなかつた――懸蒲團の下に何か人間の足のやうな輪廓をした物があつた。サイラスは手を引つ込めて、暫く石のやうになつて立つてゐた。
「や、こりや何てわけだ?」と、彼は思つた。
 彼はぢつと聽耳をたてた。だが息づかひ一つ聞こえてこなかつた。そこで彼は今一度非常な努力で、つい先程手を觸れた場所へ指先を延ばしてみた。だが今度は半碼も跳びのいて、恐ろしさにがた/\顫へて、堅くなつてしまつた。彼の寢臺には何かあつた。それが何であるかは分らないが、兎に角そこに何かあつた。
 何秒かたつてから彼は漸く動くことが出來た。それから本能に從つてつか/\とマッチの方へ進み寄つて、寢臺にうしろ向きになつて、蝋燭に火をつけた。燈火がつくや否や、彼はそろ/\と振り向いて、見るのが怖いと思つてゐるその物を探した。果して彼の想像してゐた最惡の事態が事實となつて現はれた。懸蒲團は氣をつけて枕の上まで引つ張つてあつたが、併しそれは動かずに横たはつてゐる人間のからだの輸廓を型どつてゐた。彼はつか/\と進み寄つて、その上懸けを引き剥いでみると、そこには彼が前夜ブィエーの舞踏場で見た金髮の青年が横たはつてゐた。その眼は開いたまゝで、物を考へてる跡もなく、顏は脹れて、黒くなり、鼻の孔からは一筋の血が流れ出してゐた。
 サイラスは長い顫へる泣聲を出して、蝋燭を取り落し、そして寢臺のそばに膝まづいてしまつた。
 かうした恐ろしい發見から、サイラスは昏睡状態に陷つてゐたのであるが、長くゆつくり戸を敲く音が聞こえて來たので、彼は漸く自分に歸つた。そして自分の地位を思ひ出すのにも相當な時間がかゝつた。そして誰にしても部屋へは入れまいと思ひ、急いで立つて行つたが、もう間に會はなかつた。ノーエル博士が、高い寢帽をかぶつて、ランプを手に持つて、その光で長い白い顏を照させながら、よろ/\した足どりで、或る種の鳥のやうに覗き込むやうに、また頭をあげて、ゆる/\と扉を開け、そして部屋の中へ這入つて來た。
「泣聲が聞こえたやうな氣がしたので、」と、博士は言ひ出した。「若しか君が惡いのぢやないかと思つて、遠慮せずに這入つて來ましたよ。」
 サイラスは顏を赤くして、烈しく胸をどきつかせて、博士と寢臺との間に立ちふさがつた。併し返事をしようにも聲が出なかつた。
「眞暗ぢやありませんか。」と、醫者はつゞけて言つた。「しかも寢る支度もしてゐないんですね。私のこの眼はなか/\胡魔化せないよ。君の顏色を見れば、友達か醫者の助けが要るといふ事がはつきり書いてある――一體どちらが入用なのかね。まあ脈を見せてごらん。それは折々腹の中の事も知らせてくれるものだ。」
 醫者は頻りに後退りをするサイラスの方へ近寄つて、その手頸を捕へようとした。だがこの若い米國人の神經は餘り張りつめてゐるので、殆どこらへる事が出來なかつた。で、熱に冒されてゐるやうな動作で醫者を避けて、床の上に身を投げ出して、いきなり烈しく泣き出した。
 ノーエル博士は寢臺に死人があるのを認めるや否や、その顏を暗くした。そして急いで半ば開けたまゝにして置いたドアの處へ行つて、手早くそれをしめて、二重に錠をおろした。
「立ちたまへ!」と、醫者はかん走つた聲でサイラスに呼びかけた。「泣いてる時ぢやない。一體どうしたんだね? どうしてこの死體が君の部屋へ來たんだ? 頼りになる人には隱さずに話すものだよ。私が君をひどい目にでも合はせると思ふのかね? 君の寢臺の上にこの死體があるので、君に對する私の同情が少しでも變ると思ふのかね? 信念の無い男だな。眼の見えない不當な法律なんて物は、何か事があると怖がるものだが、その人を愛してゐる者の眼には決して怖いものなどはないよ。假に私の親友が血の海から私の方へ戻つてくるのを見たとしても、私の愛情は少しだつて變りはしないよ。さあ立ちたまへ。」と、彼は言つた。「善だの惡だのと言つても、みんな妄想だ。この世の中には運命のほかに何もありはせんよ。どんな目に君が會はうが、最後まで君を助けてやる人間が君のそばに一人ゐるのだ。」
 かういふ具合に勵まされたので、サイラスは漸く元氣を奮ひ起した。そしてとぎれ/\に、また醫者の問にも促されて、たうとうこれまでの事柄を話し出した。併し王子とジェラルディーンの間の話は、自分にもその意味がよく分らず、また彼の不幸に何の關係もないものと思つたので、全く省いてしまつた。
「やれ/\!」と、ノーエル博士は叫んだ。「ひどい目に逢つたものだね。君は何も知らないで歐羅巴中での最も危險な惡黨の手中に陷つたんだよ。可哀さうに、君のやうな單純な男を陷れようとしてこんな穴が掘つてあつたのだ! 何て恐ろしい危險に君の不用心な足は引き込まれたんだ! その男つてのは、」と、醫者は言つた。「君が二度見たといふその英國人、私はそいつをこのたくらみの首腦者だと思ふが、その男がどんな人間だつたか覺えてゐるかね?若い男だつたかね、それとも年寄だつたかね? 背は高かつたかね? 低かつたかね?」
 併しサイラスは、ひどく好奇心の強い男であるにもかゝはらず、頭に眼が無いので、たゞ漠然とした大體の事しか述べないので、まるで眞相をつかむ事は出來なかつた。
「私はあらゆる學校でそれを課目の中に入れて欲しいと思ふよ!」と、醫者は腹だゝしさうに叫んだ。「もし人が自分の敵の人相を觀察したり記憶したりする事が出來なければ、眼だの言葉だのいふ物は何の役にも立たんぢやないか? 私は歐羅巴中のギャング共を知つてるから、大ていそいつに當が付くと思ふのだ。そして君を保護するために新武器を用意する事も出來ると思ふのだ。ねえ君、いまにかういふ技術も修業したまへ、非常に役に立つ事が分るよ。」
「いまに?」と、サイラスは繰返した。「いまにと言つても、私には絞首臺の外に何もありやしないんです。」
「若い折つてものは案外臆病なものだ。」と、醫者は答へた。「それに自分の苦しみは實際よりもひどく見えるものだ。私は年をとつてゐるが、併し決して絶望しない。」
「こんな話を警察に知らせたものでせうか?」と、サイラスはたづねた。
「絶對にいかん。」醫者は答へた。「君が卷込まれてゐる陰謀に就いて、既に私に分つてる處では、その方面では絶望だ。そして當局の狹い眼で見たら、君は間違ひなく罪人にとれるよ。吾々にはこの計畫のたゞ一部分しか分つてゐない、といふ事を覺えてゐたまへ。それからその破廉恥な陰謀家はきつと外にもいろいろな手筈を整へて置いて、それが警察の探索で引つ張り出されると、罪が一層確實に潔白な君に負はされるやうに仕組んであるよ。」
「それぢや私はおしまひだ。全く!」と、サイラスは叫んだ。
「私はそんな事を言つてはゐない。」と、ノーエル博士は答へた。「といふわけは、私は用心深い人間だからね。」
「でも是を見て下さい!」と、サイラスは異議を唱へて、死體を指した。「私の寢臺にこんな物があるんです。説明する事も出來なければ、處分する事も出來ないし、平氣で見る事も出來ない物です。」
「平氣で見る事が出來ないつて?」と、醫者は答へた。「違ふ。かういふ種類の時計でも止つてしまへば、私にとつては、外科刀で研究される精巧な一個の機械に過ぎない。血が一旦冷くなつて滯つてしまへば、もうそれは人間の血ではない。肉が一旦死んでしまへば、もうそれは戀人として欲求し、友人として尊敬した肉ではないのだ。愛嬌も、魅力も、恐怖も、みんなそれに生氣を與へてゐる靈と一緒に拔け出してしまつたのだ。そんな物は平氣で見られるやうに馴れ給へ。といふのは、もし私の計畫が實行出來るとすると、君はこれから幾日も、君が今ひどく恐れてゐるその物と、絶えず接近して暮さねばならないからだよ。」
「あなたの計畫?」と、サイラスは叫んだ。「そりやどんな事です? 早く言つて下さい、先生。私はもう殆ど生きてゐる元氣は無いのです。」
 それには答へないで、ノーエル博士は寢臺の方へ向き直つた。そして死體を調べ始めた。
「すつかり死にきつてゐる。」と、彼は呟いた。「さうだ、私の思つた通りポケットは空つぽだ。さうだ、シャツの名も切り取つてある。あいつらの仕事は手際がよくてぬかりが無い。幸ひにも、この男は小造りだな。」
 サイラスはひどく心配して、これ等の言葉をきいてゐた。やがて醫者は檢屍を濟ますと、椅子に腰をおろして、ほゝゑみながら若い亞米利加人に話しかけた。
「私はこの部屋へ這入つてから、」と、彼は言つた。「休まず耳と口を働かせてゐるが、この眼も遊ばせては置かなかつたよ。私は少し前からあすこの隅に、馬鹿に大きな物があるのに氣が付いてゐたよ。君の國の人達が世界中のどこへでも持つて歩く代物だ――つまり、サラトガ鞄さ。今の今まで私にはあんな圖體の代物の必要な事が考へ付けなかつたが、今やつと、はゝあこれはと氣がついて來た。あれが果して奴隷貿易に便利だつたか、それとも早まつて獵用ナイフを使つた時の後始末に出來てる物だか、私には決める事は出來ない。だが一つだけは私にもはつきり分るよ――あゝいふ箱の本當の目的は人間のからだを入れるにあるね。」
「全く、」と、サイラスは叫んだ。「全く冗談を言つてる時ぢやありませんよ。」
「私も幾らかは冗談が言へるかも知れんが、」と、醫者は答へた。「今の私の言葉の意味は全く眞面目なのだよ。で、吾々が先づやらなければならぬ事は、君、あの中にはひつてる物をすつかり出して了ふことだ。」
 サイラスはノーエル博士の氣位に負けて、その言ふなりになつた。旅行鞄は忽ちそのなかみを吐き出したので、それが床に可なりの山になつて積重つた。そこで――サイラスが踵の方を持ち、醫者が肩の方を支へて――殺された男のからだを寢臺からおろし、そして大分苦心してから、それを二重に折り曲げて、その儘そつくり空の鞄の中に押し込んだ。二人はまた力を併せて、この變つた荷物の上に無理に蓋をした。そして醫者は自分自身それに錠をおろして、綱をかけた。その間にサイラスは鞄から取り出した物を、押入と箪笥とに分けて始末をした。
「さあ、」と、醫者は言つた。「これで君を救濟する手だての第一歩は踏み出されたのだ。あす、いや、けふなら尚いゝが、君が借りてる分を皆拂つてやつて、門番の疑ひを鎭めておかなけりやいかんね。併し安全な結果を得る爲に必要な處置をとる事は私に任せるがいゝ。ところで、私の部屋まで來なさい。安全でよく利く麻醉藥を一服あげよう。何をするにしても先づ休まねばならないからね。」
 翌日はサイラスの記憶の中で最も長い日であつた。それは到底暮れさうにも思はれない程だつた。彼は一切の友達に會はない事として、ぢつと陰氣に考へ込んだまゝ、旅行鞄を睨みつめて、部屋の片隅に坐つてゐた。彼自身の以前の無分別な行爲が、今度はその通りに彼に酬はれる事になつた。といふのは、例の觀測所が再び開かれて、彼はゼフィリーン夫人の部屋から絶えず覗かれてゐる事に氣が付いたのであつた。それにはとてもやり切れなかつたので、彼はたうとう自分の方からその覗き孔を塞がざるを得なかつた。かうして人に見られる心配が無くなると、彼は後悔の涙と祈祷とで可なりに長い時間を費した。
 その晩おそくなつて、ノーエル博士は宛名の無い二通の封書を持つて、彼の部屋へやつて來た。その一通は少し嵩ばつてゐるが、他の一通はひどく薄いので、中味がはひつてゐないかと思はれる程だつた。
「サイラス君。」と、彼はテーブルに向つて腰をおろして言つた。「愈※(二の字点、1-2-22)君を助けてやる私の計畫を説明する時が來たよ。あすの朝早く、ボヘミヤのフロリゼル殿下が倫敦へ歸られる事になつてゐる。巴里の謝肉祭を見て二三日娯しんでゐられたのだがね。これは僥倖なんだが、暫く前のこと、私は殿下の主馬頭のジェラルディーン大佐にちよつとしたお役に立つた事があるよ。それは私の商賣上當りまへの事だが、それが爲に兩方で決して忘れられない事になつてゐるのだ。向ふではそれをどれ程有難いと思つてゐるか、そこらの見當を君に説明する必要はないが、私は相手が私の爲に實行出來る事は何でもしてくれるといふ事を知つてると言へば十分だ。ところで、君にとつては、あの旅行鞄を誰にもあけられずに倫敦まで持つて行くといふ事が必要だよ。それには税關が徹底的に厄介な事を言つて反對するにきまつてゐる。だが、私が思ひ出したのは、殿下のやうな立派な人の荷物は、儀禮上、税關の役人も檢閲しないで通すといふ事だ。そこで、私はジェラルディーン大佐に頼んでみたところが、非常に都合のよい返事をよこしてくれた。もし君があすの朝六時前に殿下の泊つてゐるホテルへ行けば、君の荷物は殿下の荷物の一部として通される事になるし、また君自身は殿下の隨員の一人として旅行する事が出來るやうになるのだ。」
「さう言へば、私はその殿下も、ジェラルディーン大佐も、二人とも前に見た事があるやうな氣がします。この間の晩、ブィエーの舞踏場で二人が話してるのを一寸立ち聞きさへしてゐます。」
「そんな事もありさうだね。殿下はあらゆる社會へ這入つて行くのがお好きだから。」と、醫者は答へた。「ところで倫敦へ着いたなら、」と、彼はつゞけて言つた。「君の仕事は殆ど終つたやうなものだ。この嵩ばつた方の封筒には、わざと宛名は書かなかつたが、君にやる手紙が入れてある。だが今一つの方には、君がその箱を持つて行かねばならぬ家の名前が書いてある。そこでそれを受取つてくれるから、もう君には少しも面倒は無くなるよ。」
「あゝ!」と、サイラスは嘆息した。「私は飽くまであなたを信じたいと思ひます。だがそんな事が出來ることでせうか? あなたは私に明るい前途を見せてくれました。併しそんなありさうもない解決で安心してゐていゝでせうか? もう少し寛大になつて、あなたの思ふ處をもつと分るやうに言つて下さい。」
 醫者は痛ましい感じを受けた樣子であつた。
「君。」と、彼は答へた。「君はどんなに面倒な事を私に求めてゐるか知らないやうだ。だがまあそりやそれでいゝさ。私は今では屈辱に馴れてゐる。それに今まですつかり君のいふ事をきいてゐながら、こゝで若しことわつたら妙なものだからね。それではこれだけの事を覺えてゐてくれ給へ。私は今ではこんな穩やかな樣子をしてゐるが――儉約で、孤獨で、研究に耽つてゐるが――若い時分には私の名は、倫敦でも最も拔目のない、そして危險な人物の間で、評判になつてゐたものだよ。そして表面は尊敬の的となり、重んぜられてゐたが、私の本當の力量は、ごく秘密な、恐ろしい、犯罪的な方面にあつたのだ。今私が君の重荷を除いてやらうと思つて宛名を書いたその男も、その頃私についてゐた人物の一人だよ。連中はいろ/\な國からやつて來た人間で、その技倆も、またいろ/\だつたが、皆恐ろしい誓約のもとに團結して、同じ目的のために働いてゐたのだ。この組合の商賣といふのは人殺しだつた。そして君に話をしてるこの私は、如何にも潔白らしく見えようが、その恐ろしい仲間の首領だつたのさ。」
「えゝ?」と、サイラスは叫んだ。「人殺し? 人殺しを商賣にしてゐた人ですつて? さうと知つてあなたの相手になれませうか? さうまでしてあなたのお世話になれませうか? とんでもない、恐ろしい人だ。あなたは若くつて困つてゐる私を共犯者にするつもりですね?」
 醫者はひどく笑つた。
「君は御機嫌のとりにくい男だね、スカダモーア君。」と、彼は言つた。「だが今ぢや、君が殺された男の仲間にならうと、人殺しの方に加はらうと、君の勝手に任せるよ。もし君の良心が立派過ぎて、私の助けなぞ受けられんといふなら、ありのまゝに言ひたまへ。私は直ぐ立ち去るよ。さうすれば君はその鞄と、その所屬物とを、君の眞直な良心に適ふやうに處分出來るからね。」
「私が間違つてゐました。」と、サイラスは答へた。「自分の潔白な事をまだ御覽に入れぬうちから、あなたがどれ程義侠的に私を庇はうとして下さつたか、私はそれを考へねばならないのでした。私は有難くあなたの御忠告を受けることに致します。」
「それで結構だ。」と、博士は答へた。「君も經驗といふ教訓が幾らか分りかけて來たやうだね。」
「それはさうと、」新英蘭生れの男はまた言ひ出した。「あなたはかういふ悲慘な仕事には馴れてゐると言はれるし、また私を紹介して下すつた人達はあなたの昔の仲間や友達だとおつしやるのですから、如何でせう、あなたがこの箱の運搬を引受けて下すつて、私は直ぐもうこの厭な物から逃れさせて頂けませんでせうか?」
「いやはやどうも。」と、醫者は答へた。「眞實君には感服するよ。もし君が、私をもう十分君の事件に立ち入つてゐると考へないとしても、ねえ君、私は全くその反對の事を考へてゐるよ。私の御用を受けとるか、ことわるか、どちらかにしたまへ。そしてもう有難いといふやうな言葉で私を惱さないでくれ給へ。私は君の智慧もたいして尊重しないが、君の考への方は尚更尊重しないよ。若し君が健全な心で今後何年かの歳月を過ごして行けたら、この事に就いても全く考へが變つてきて、今夜の君の振舞を恥かしいと思ふやうになるだらうよ。」
 さう言つて、醫者は椅子から立ち上つた。そして以前の指圖を簡單に分り易く繰返して、サイラスには返事をする餘裕も與へずに、ずん/\部屋から出て行つた。
 次の朝、サイラスはホテルへ出かけて行つて、ジェラルディーン大佐から丁寧な待遇を受けた。そしてその時から彼は自分の鞄とその中の怖ろしい物の事では、直接何もびくつかなくもよいやうになつた。旅行はさしたる事もなくて濟んだ。尤も彼は船員や鐵道の人夫などが、仲間同志で、殿下のこの荷物の竝外れて重いのをこぼしてゐるのをきいて、ぎよつとさせられはしたが。汽車では、サイラスは從者達と一緒に旅行した。それはフロリゼル殿下がいつも主馬頭と二人でゐる事を望まれたからであつた。しかし船に乘つてからは、サイラスはいつもぢつと積荷を眺めて立つてゐるので、その態度や樣子の陰鬱な事が殿下の注意を惹いた。といふのは、彼はまだ將來の事に就いて不安に滿たされてゐたからであつた。
「あすこに若い男がゐるね。」と、殿下は言つた。「きつと何か悲しい事でもあるのだらう。」
「あの者は、」と、ジェラルディーンは答へた。「供奉の者と一緒に連れて參るお許しを得ました亞米利加人でございます。」
「するとまだ言葉もかけてやらなかつたな。」と、フロリゼル殿下は言つた。そしてサイラスの處へ進み寄つて、優しい謙遜な態度で話しかけた。
「始めまして。ジェラルディーン大佐から承知しましたが、君の望みを滿足させる事が出來たのは結構でした。これからも、私はいつでも君のためにもつとお役に立つてあげたいと思つてゐるものです。」
 それから彼は亞米利加の政治状態などに就いていろ/\問ひ直した。サイラスもそれには分別のあるまた適切でもある返事をした。
「君はまだお若いですね。」と、殿下は言つた。「だが君の年齡にしてはひどく屈託があるやうに見える。多分面倒な研究か何かに沒頭し過ぎてでもゐるのでせうな。それとも反對に、私の無分別から君のお氣の毒な問題にさはりましたかな。」
「私は確かに自分を最も不幸な人間だと思ふ理由があります。」と、サイラスは言つた。「私ほど潔白な人間で、私ほどひどい目に會つてる者はございません。」
「私は君に打ちあけ話をしてくれとは言はぬが、」と、フロリゼル殿下は答へた。「併しジェラルディーン大佐の推薦は確かな通行券だといふ事を覺えてゐたまへ。また私はたゞ君のお役に立つ事を喜んでゐるばかりでなく、多分誰よりもその力がある者と思つてくれていゝですよ。」
 サイラスはこの高貴な人の優しい態度を嬉しく思つた。だが、彼の心はすぐまた例の陰氣な先入主の方へ戻つて行つた。といふのは、一個の民主國民に對する殿下の恩惠も、その胸につかへてゐる心配を拂ひのける事は出來なかつたからである。
 汽車はチェアリング・クロス停車場に到着した。そこでは、收税吏はいつもの態度でフロリゼル殿下の荷物を尊重した。非常に立派な馬車が何臺も待つてゐた。そしてサイラスは他の人達と一緒に、殿下の屋敷まで連れて行かれた。そこでジェラルディーン大佐が彼を探しに來て、自分が非常に尊敬してゐる醫者の友人に、少しでも役に立つ事が出來たのは嬉しいと言つた。
「あなたの陶器は少しも壞れてゐないだらうと思ひます。」と、彼は附け加へた。「殿下のお荷物は途中大切に取扱ふやうに、特別の命令を與へて置きましたから。」
 それから大佐は召使に、馬車を一臺この若い紳士の使用に充てるやうに、また直ぐさま旅行鞄を從者席に積み込むやうに指圖してから、握手して、自分は殿下の御屋敷の用事で忙しいといふ事を辯解した。
 そこでサイラスは、中に宛名のあるといふ封筒の封じ目を破つた。そして物々しい樣子の馬丁に、ストランド町の方へ續いてゐるボックス・コートへ連れて行けと言ひ付けた。その場所は馬丁の全く知らぬ處ではないらしかつた。といふのは、彼はびつくりしたやうな顏をして、今一度その言ひ付けを繰返してくれと願つたので分つた。サイラスの胸は心配で一ぱいであつたが、かうして贅澤な馬車に乘り込んで、その目的地へ向つて行つた。ボックス・コートの入口は非常に狹くて、馬車の通行には向かなかつた。それは柵の間にあるちよつとした歩道で、兩方の端には柱が立つてゐた。その柱の一方に一人の男が立つてゐたが、直ぐに飛び下りて來て、馭者と如何にも親しさうな挨拶を交換した。その間に馬丁は扉を開いて、サイラスに旅行鞄を取り出したものかどうか、また何番地にそれを持つて行つたらいゝかをきいた。
「どうぞ三番地へ。」と、サイラスは言つた。
 馬丁と柱の側に立つてゐた男は、サイラスにまでも手傳つてもらつて、やつとこさと鞄を運び入れた。そしてそれが問題の家の戸口におろされるまでに、若い亞米利加人は澤山のうろついてる人が眺めてゐるので恐ろしかつた。だが彼は出來るだけ落付いた顏をしてドアを叩き、そして戸をあけた男に別の方の封書を差し出した。
「主人は只今留守ですが、」と、その男は言つた。「もしこのお手紙をお預け下すつて、明朝早くお訪ね下さいましたら、主人がお目にかゝりますかどうか、またその時刻などもお知らせ致します。その箱をお預けになりたいのでございますか?」と、男は附け足した。
「是非どうぞ。」と、サイラスは叫んだ。そして次の瞬間に自分の輕率を後悔した。そこで同じ位言葉に力を入れて、どちらかと言へば、箱はホテルに持つて歸りたいのだと言ひ切つた。
 集つて來てゐた群集は、サイラスの不決斷を見て嘲笑つた。そして馬鹿にした言葉を吐きながら、馬車の處までついて行つた。サイラスは恥かしさと恐ろしさに包まれて、召使達に、どこか直ぐ近くの靜かな氣持のよい宿屋へ案内してくれと頼んだ。
 殿下の馬車は、サイラスをクレーヴン町のクレーヴン・ホテルへ連れて行つた。そして宿屋の番頭等にまかせると、そのまゝすぐ歸つて行つた。たゞ一つの空いてる部屋らしかつたのは、階段を四つ上つた上の小さな部屋で、裏通りの方へ向いてゐた。この庵室へ、二人の頑丈な人夫が、大骨折りで、不平たら/″\、例の旅行鞄を擔ぎ上げた。サイラスがそのすぐあとについて登つて行つた事と、曲り角毎にひや/\してゐた事は、言ふまでもない事である。たゞ一足踏み外せば、鞄は手摺から轉がり落ちて、その恐ろしい中味を廣間の板敷の上に放り出し、何もかもすつかり曝け出されるのだ、と彼は思つた。
 部屋に着くと、彼は寢臺の端に腰をおろして、今まで漸く堪へて來た苦しみを癒さうと思つた。だがさうした位置をとるや否や、彼は靴磨きの男の動作を見て、自分が危險な地位に置かれる事に氣が付いた。その男は鞄のそばに跪いて、おせつかひにも、念入りに結んだ紐をときかけたのであつた。
「その儘でいゝんだよ!」と、サイラスは叫んだ。「こゝに泊つてゐる間は、その中の物には何の用も無い筈だよ。」
「それでは廣間にお置きになればようございましたに。」と、男は不平を鳴らした。「まるでお寺のやうに大きくて重い物ですね。何がはひつてるのか見當が付かない。これがみんなお金だつたら、旦那は私よりよつぽどお金持ですね。」
「お金だつて?」と、サイラスは急にどぎまぎして言つた。「お金といふのはどういふわけだね? 私はお金など少しも持つてゐない。馬鹿々々しい。」
「いゝんですよ、旦那。」と、靴磨きは目配せをしながら言つた。「誰も旦那のお金に手をつけようつて者はありませんよ。私は銀行みたいに安全ですよ。」と、彼は附け加へた。「だがこの箱は重いですから、旦那の健康のお祝ひに一杯飮ませて頂くのも惡くありませんね。」
 サイラスは二枚の奈翁金貨を男の手に押し付けて、それと同時に、外國の金で面倒をかけるのは氣の毒だと言譯をしたり、またつい今し方英國へついたばかりだからと言つて申譯をしたりした。すると男はその上にも強い調子でぶつ/\不平を竝べて、自分の掌の金から鞄の方へ馬鹿にしたやうな眼をやり、又鞄の方から掌の金を見返して、漸く滿足して部屋から出て行つた。
 殆ど二日の間、死體はサイラスの鞄の中に詰め込んであつた。そこで不幸な新英蘭人は、部屋の中にたゞ一人となるや、熱心に注意を集めて、あらゆる割目や隙間を嗅いでみた。だが季節が寒かつたので、鞄はまだ恐ろしい秘密を包みおほせてゐた。
 彼は椅子をその側へ持つて行つて、顏を兩手の中に埋めて、深く考へ込んでゐた。若し早く救ひ出されなかつたら、忽ち露見する事になるのは分りきつてゐた。またもし醫者の紹介が役に立たなかつたら、彼は知らぬ町にたゞ一人で、友達もなければ、仲間もなく、迷兒の新英蘭人となることは疑ひの餘地も無かつた。彼は哀れつぽい氣持で、將來に對する野心滿々たる計畫を思ひ出してゐた。今ではもう自分の生れ故郷の、メーン州バンガーの偉人にも代表者にもなれる人間ではなかつた。いつも好んで空想してゐたやうに、ある役目からある役目へ、一つの名譽から他の名譽へと、ずん/\進んで行ける人間ではなくなつた。評判のよい合衆國の大統領となり、譬ひ技巧はどれほど拙くとも、華盛頓の議事堂を飾る立像を後世に殘したいといふ希望も、突然消えてしまつたやうなものだつた。今や彼は一個の旅行鞄の中に折曲げてある死んだ英國人に繋がれてゐた。それはどうしても處分しなければならない。でなければ彼は國家の光榮ある名簿に名を載せる事は出來なかつた。
 この青年が例の醫者や、殺された男や、ゼフィリーン夫人や、ホテルの靴磨きや、殿下の召使ひ達や、一言にして言へば、この怖ろしい不幸に最も關係の薄い人達に向つて浴せかけた言葉は、私の記録する事を恐れるやうなものだつた。
 彼はその夜の七時頃こつそり食事に降りて行つた。だがそこの黄色い酒場は彼をぞつとさせた。他の食事をしてゐる人達の眼は疑はしさうに彼に注がれてゐるやうな氣持がして、自分の心は旅行鞄のある階上に殘つてゐた。で、給仕がチーズをすゝめに來た時には、彼の神經はひどく尖つてゐたので、急に椅子から半ば立ち上つて、殘つてゐた一杯のビールを卓子掛の上に引つくり返してしまつた。
 彼が食事を濟ましてしまふと、給仕は喫煙室に案内しようと言ひ出した。彼はすぐさま危なつかしい寶物の方へ歸りたかつたのだが、それを拒むだけの勇氣もなかつた。そこで階下へ、黒ずんでゐて、瓦斯のあかりの點いてゐる地下室へ案内されて行つた。そこが、今でも多分さうだらうが、クレーヴン・ホテルの喫煙室になつてゐた。
 そこでは二人のひどく陰氣臭い男が、賭で球を突き、じめ/\した、肺病にかゝつてゐるやうなゲーム取りが數をかぞへてゐた。暫くの間サイラスは、部屋にゐるのはたゞそれだけだと思つた。ところが次に眼を移すと、ずつと向ふの隅に、眼を伏せて、先づ相應な、謙遜家らしい樣子の男が煙草を喫んでゐるのが見えた。彼は直ぐにそれは前に見た事のある顏だと思つた。着物はすつかり取りかへてあるが、あのボックス・コートの柱のそばに立つてゐた男で、自分の鞄を手傳つて馬車に積みおろしをしてくれた者だといふ事が分つた。そこで彼は忽ち踵を返して驅け出した。そしてどん/\驅けて行つて、自分の寢室に飛び込んで、中から錠をおろしてしめ切つてしまつた。
 そこで彼は一晩中、非常に恐ろしい空想のとりこになつて、死體の詰まつてゐる箱のそばで夜明かしをした。努めて眼を閉ぢようとしても、鞄には金が一ぱいあるだらうと言つた靴磨きの言葉が暗示になつて、あらゆる種類の新らしい恐怖を起させた。そして喫煙室にあつた事や、明かに變裝してゐて、ボックス・コートからやつて來た男のゐる事は、彼に自分がまだはつきりしない陰謀の中心になつてゐる事を思はせた。
 眞夜中の時計はいつか打つてゐた。その時サイラスは落ちつかない疑惑に驅られて、寢室の戸をあけて廊下を覗いて見た。そこにはたゞ一つの瓦斯の灯がぼんやりついてゐた。そして少し向ふの方に、ホテルの下僕の服裝をした男が、床に眠つてゐるのが見えた。サイラスは忍び足でその男のそばに近づいた。彼は半ば仰向けになり、半ば横向きになつてゐて、右の前腕で顏を見られないやうに隱してゐた。そこで彼がなほ身をかゞめて見てゐると、眠つてゐる男はだしぬけに手を顏から離して眼を開いた。サイラスは又もやボックス・コートののらくら者と顏を見合せたのであつた。
「今晩は。」と、その男は上機嫌で言つた。
 併しサイラスは餘りにひどく驚いたので、返事をする事が出來なかつた。そして默つて自分の部屋に引き返した。
 明け方になつてから、心勞で疲れ果てゝ、彼は椅子に腰をかけたまゝ、鞄に頭をのせかけて眠つてしまつた。非常に窮屈な姿勢で、またひどく恐ろしい枕をしてゐるにもかゝはらず、彼はぐつすりと長い間眠つたのであつた。そして遲くなつてから、ひどく戸を叩く音をきいて、やつと眼を覺ました。
 彼はあわてゝ戸を開けた。すると外に靴磨きが立つてゐた。
「旦那は昨日ボックス・コートへいらした方ですね?」と、男はたづねた。
 サイラスは顫へ聲でそれを認めた。
「するとこの手紙はあなたの處へ來たのですね。」と、その男は附け足して、一通の封書を差し出した。
 サイラスはそれを開けてみた。中にはたゞ「十二時」とだけ書いてあつた。
 彼は正確にその時間に出かけて行つた。鞄は數人のしつかりした召使ひによつて、彼より先に運び込まれ、そして彼はある部屋へ案内された。そこには一人の男が扉に脊を向けて、火にあたつて坐つてゐた。澤山の人が出たり這入つたりする音も、鞄が板敷におろされて引きずられる音も、まるでその人の注意を惹かないやうであつた。サイラスは相手が自分の來た事を認めてくれるまで、恐怖の苦しみにさいなまれて待つてゐた。
 恐らく五分もたつてからであつたが、その人はゆる/\とこちらへ振り向いた。そしてボヘミヤのフロリゼル殿下といふ正體をあらはした。
「ねえ、君は、」と、彼はひどく嚴肅な樣子で言つた。「まるで私の親切といふものを無にしてゐるではないか。多分君は自分の犯罪の結果から遁れたいばかりに、身分のある人達の中に入り込んだのだらう。昨日私が話しかけた時に、君がひどく當惑した譯が分つたよ。」
「全く。」と、サイラスは叫んだ。「私は不幸にあつたといふ外には何も存じません。」
 そして彼はせき込んだ聲で、極めて淡白に、自分の災難の顛末をすつかり殿下に打ちあけた。
「はゝあ、私は誤解してゐたやうだ。」と、殿下は彼の話を最後まで聞いてから言つた。「君は要するに犧牲になつたのだね。よろしい、君を罰せぬ事にする上は、出來る限り助けてあげる事にするよ。では始めよう。」と、彼は續けて言つた。「直ぐその箱をあけたまへ。そして中の物を私に見せてくれ給へ。」
 サイラスは顏色を變へた。
「私はとても見る勇氣はございません。」と、彼は叫んだ。
「いや、」と、殿下は答へた。「君はもうそれを見てゐるのぢやないか。今更見られないなんて女々しいといふものだ。まだ助ける事が出來ると思ふ病人を見る方が、もう助けることも、傷つけることも、また愛することも、憎むことも出來ぬ死人を見るよりも、どれ程感情に徹へるか知れない。確かりしたまへ、スカダモーア君。」さう言つたが、サイラスがまだぐづ/\してゐるのを見て、「私は無理にやつてもらひたいと思つてるわけぢやないがね。」と、附け加へた。
 若い亞米利加人は恰かも夢からでも醒めたやうな樣子だつた。そして嫌惡に顫へながら、革紐を解き、旅行鞄の錠を外しにかゝつた。殿下は傍に立つて、沈着な顏をして、手をうしろに組合せて、見守つてゐた。死體は全く硬くなつてゐた。で、その位置からそれを移して、顏が見えるやうにするには、サイラスは精神的にもまた肉體的にも非常な努力を費した。
 フロリゼル殿下は痛ましい驚きの叫び聲をあげて跳びのいた。
「あゝ!」と、彼は叫んだ。「スカダモーア君。君にはわかるまいが、實に殘酷な贈物を持つてきてくれたものだ。この青年は私の從者の一人で、私が信頼してゐる友達の弟だ。かうして無法な惡者共の手に仆れたのも、私への忠節のためだ。氣の毒なジェラルディーン。」と言つて、恰かも獨り言のやうに續けた。「何と言つて、私はお前にお前の弟の運命を知らせたらいゝかな? どうして私はお前の眼の前に、また神樣の眼の前に、申譯をしたものかな? 勝手な計畫を樹てたばかりに、こんな殘酷な非業な死を遂げさせたのだ。あゝ、フロリゼル! フロリゼル! いつになつたらお前は道徳生活にふさはしい分別を覺えて、何でも勝手に權力が振へるといふやうな考へに惑はされなくなるのだ? 權力!」と、彼は叫んだ。「私ほど無力な者がどこにある? スカダモーア君、私は自分の犧牲となつたこの青年を見て、皇族などゝいふものは實につまらんものだと思ふよ。」
 サイラスは殿下の感動の樣子を見て心を動かされた。そして何か慰めの言葉を述べようとして、たうとう泣き出した。殿下は彼の明白な心持に感じて、傍へ近づいてその手をとつた。
「しつかりし給へ。」と、殿下は言つた。「吾々は二人とも知らねばならぬ事が澤山ある。折角今日出會つたのだから、二人とももつと立派な人間にならうよ。」
 サイラスは懷かしさうな顏をして、默つて感謝の心を表はした。
「それでは、この紙片にノーエル博士の住所を書いてくれ給へ。」殿下は言葉をつゞけて、彼をテーブルの處へ連れて行つた。「それから君に勸めるが、今度巴里へ行つたら、あゝいふ危險な人物の仲間になる事は避けたがよい。あの男も今度の事は義侠的な氣持でしたのだらうと思ふが、若しあの男がジェラルディーンの弟の死に關係があるのだと知つてゐたら、決してこの死體を實際の下手人の處へは送つてはよこさなかつたらうよ。」
「實際の下手人でございますつて!」サイラスは驚いて繰返した。
「全くさうさ。」と、殿下は答へた。「この手紙は、不思議な天意で私の手に渡つたが、實は下手人その人に、破廉恥な自殺倶樂部の會長に宛てたものだ。もうかういふ危險な事件に拘はることはやめて、君自身が不思議に免れたことに滿足して、早速この家を離れ給へ。私には急用がある。それに取り急いでこの可哀さうな死體を處置しなければならん。ついこの頃までは實に雄々しい美しい青年だつたがな。」
 サイラスは有難く、そしておとなしく、フロリゼル殿下に暇を告げた。併し殿下が立派な馬車に乘つて、警察のヘンダスン大佐の處へ出かけるのを見るまでは、ボックス・コートにさまようてゐた。彼は民主國の人間ではあつたが、殆ど獻身的な感情で、引きとつて行く馬車に敬禮した。そしてその晩汽車で倫敦を立つて巴里へ歸つた。
(茲に「醫師と旅行鞄の話」は終る。とアラビヤの原作者は言ふ。原作にあつては甚だ適切だが、吾々西洋人の趣味には殆ど適せぬ神の力に就いての幾つかの考察は省く事として、私は茲にたゞ一つだけ附け加へて置く事にする。スカダモーア氏は既に政治的名聲を博し始めてゐて、近頃の消息によると、彼の故郷の町の執行官になつたといふ事である。)





底本:「新アラビヤ夜話」岩波文庫、岩波書店
   1934(昭和9)年6月30日第1刷発行
   2009(平成21)年2月19日第11刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年12月5日作成
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