ワンダ・ブック――少年・少女のために――

A WONDER BOOK FOR BOYS AND GIRLS

ナサニエル・ホーソン Nathaniel Hawthorne

三宅幾三郎訳




     訳者のことば

「ワンダ・ブック」A Wonder Book for Boys and Girls, 1852. は「少年少女のために」書かれたものではありますが、それがために調子をおろしてかかったようなものでないことは、作者ナサニエル・ホーソン Nathaniel Hawthorne, 1804―1864. が、その「はしがき」で述べている通りです。ホーソンはアメリカ文学史上、一二をあらそう大作家であります。そんな立派な人が、こうした美しい物語を書きのこしてくれたことは、少年少女にとって、非常な仕合しあわせといわなければなりません。
 ホーソンは、一八〇四年に、マサチウセッツ州のセイレムという古い港町に生れました。彼の祖先は英国から渡って来た清教徒でした。彼の祖父は独立戦争の時、船長として勇ましい働きをしました。父もまた船長でしたが、ホーソンの小さい時になくなりました。母一人の手で育てられながら、彼が「今に船乗りになって二度と帰って来ない」などと言い出したのも、祖父や父のことが頭にあったからでしょう。しかし彼は、ふとしたことから、本を読むことが好きになり、自然をこまかく見たり、物事を深く考えたりするようになりました。そして、作家になろうという決心は、大学へはいる前からついていたようです。母に宛てた手紙の、興味ある次のような一節で、それがよく分ります。
『私は、他人の病気で食べて行くお医者さんにも、他人の罪で食べて行く牧師さんにも、また他人のあらそい事で食べて行く弁護士にもなりたくありません。すると、私は作家になるほか道がないと思うのです。お母さんは今に、息子の書いた「ホーソン全集」で、本棚をお飾りになる日が来るのを、嬉しいとは思いませんか。』
 こんな考え方が正しいとばかりはいえませんが、とにかく、いかにも清教徒の血をうけた少年ホーソンらしい手紙だと思います。
 大学へはいってからの彼は、ギリシャ語やラテン語が特によく出来て、また即座に空想的な物語を考え出して、それを上手に話して聞かせるので評判になりました。「ワンダ・ブック」のお話は、どれもユースタス・ブライトという大学生が、休暇で帰って来て、子供達に話して聞かせる形になっていますが、作者はおそらく、自分の学生時代のことを思い出しながら、それを書き綴ったものと思われます。さて、「ワンダ・ブック」のことはあとにして、ホーソンの大学時代の友人の中には、後にアメリカ第一の詩人となったロングフェロウ、大統領に選ばれたピヤース、海軍にはいって名をあげたホレイショウ・ブリッヂなどがいました。
 この人達は、えらくなってからも、みんなで、ホーソンにたいへん親切をつくしました。というのは、名前が少し売れて来た時でも、隣り近所の人達さえホーソンの顔を知らなかったというくらい、彼は世間ばなれのした生活を送っていたので、友達としては、何とか彼を早く世に出して、その真価を一般に知らせたい気がしたからでした。
 かえって英国の方で、早くから、ホーソンの書いたものに感心している人がありましたが、彼の名が第一流の小説家としてアメリカ中に知れ渡ったのは、一八五〇年、彼が「緋文字スカアレット・レタ」を公にしてからでした。その次の年には「七つの破風ある家ザ・ハウス・オブ・セヴン・ゲイブルズ」を出し、またその翌年には、「ワンダ・ブック」を出しました。だから、「ワンダ・ブック」は、はじめにもちょっといっておいた通り、「少年少女のために」とはいっても、作者の一番脂の乗った時分に出来た立派な文学的作品です。なお、彼の本のうちで、言い忘れてならないものに、右の諸作よりもずっと前に書かれた、不思議な美しさをもつ短編集「云い古された話トワイス・トウルド・テイルズ」があります。
 ホーソンは、一八六四年、彼が六十歳の時、友人の元大統領ピヤースに誘われて、旅行に出たまま、旅先プリマスの宿でなくなりました。
 さて、「ワンダ・ブック」はホーソン自身の「はしがき」にもある通り、ギリシャ、ローマの神話から材料を取って、それを極めて自由に書きこなしたものです。最初の話「ゴーゴンの首」は「メヅサの首」といった方が分りが早いかも知れません。二番目の「何でも金になる話」は、慾ばりのマイダス王の話で原作の表題は THE GOLDENゴウルドン TOUCHタッチ ですが、「さわるものすべてを金にする魔力」という意味を漢字などであらわすと、よけいにむずかしくなるので、ちょっと変えて見ました。第三の「子供の楽園」は「パンドーラの箱」の話。第四の「三つの金の林檎」は英雄ハーキュリーズ(ヘラクレス)がヘスペリディーズの庭の金の林檎を取りに行く話です。第五の「不思議の壺」は「何でも金になる話」と共に、この本の中では最も教訓的なものですが、作者ホーソンのやさしい、正しい、そしてきびしい一面が、よく出ていると思います。最後の「カイミアラ」は青年英雄ビレラフォンが、天馬ペガッサスを得て、怪物カイミアラを退治する話です。ところが、ギリシャ、ローマの神話を読んで見ると、面白いことには、ビレラフォンを助けてカイミアラを討たせた、世にも美しい天馬ペガッサスは、パーシウスに首を落された、あの怪物メヅサの胴体から生れたということになっています。また、その時一しょに生れた今一人の兄弟の子が、「三つの金の林檎」の中に、六本足の怪物として、ハーキュリーズの手柄話にちょっと出て来るヂェリオンだったりするというようなわけで、「ワンダ・ブック」を読んでから、ギリシャ、ローマの神話にはいって行くならば、多くの旧知に出遇であうような喜びを感じるでしょう。
 最後に、それぞれの話の前後に添えられた「タングルウッドの玄関」その他の短い文章について、一言附加えておきたいと思います。それらは、前にもちょっと言った、作者の学生時代を思わせる青年ユースタス・ブライトが、子供達にそれぞれの話をして聞かせた、時と所と情景とを、まず描いて見せることによって、読者を聴き手の中へ誘って、話がすむとまた子供達に意見を述べさせたりして、読者にも考えさせるといったような、いずれも非常に暗示的な、面白いものだと思います。但し、話の本文とは少し行き方をことにしていて、むしろ父兄の理解を助けるために添えられたものともいえるので、訳文の調子も少し変えておきました。

昭和十二年七月
三宅幾三郎


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    目次

はしがき
       ―――――――――――――
 タングルウッドの玄関(「ゴーゴンの首」の話の前に)
ゴーゴンの首
 タングルウッドの玄関(話のあとで)
       ―――――――――――――
 シャドウ・ブルック(「何でも金になる話」の前に)
何でも金になる話
 シャドウ・ブルック(話のあとで)
       ―――――――――――――
 タングルウッドの遊戯室(「子供の楽園」の話の前に)
子供の楽園
 タングルウッドの遊戯室(話のあとで)
       ―――――――――――――
 タングルウッドのいろりばた(「三つの金のりんご」の話の前に)
三つの金のりんご
 タングルウッドのいろりばた(話のあとで)
       ―――――――――――――
 丘の中腹(「不思議の壺」の話の前に)
不思議の壺
 丘の中腹(話のあとで)
       ―――――――――――――
 禿げた頂上(「カイミアラ」の話の前に)
カイミアラ
 禿げた頂上(話のあとで)


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    はしがき

 著者は、ずっと前から、ギリシャ、ローマの神話の多くは、少年少女のために、とてもすばらしい読み物に書きかえることが出来るという意見を持っていた。ここに公にする小冊子に於て、著者はそうした目標のもとに、六つの神話物語を書き上げてみた。このもくろみのためには、思いきった自由な取扱い方が必要だった。しかし誰でも、これらの伝説を、自分の頭の中できたえ直してみようとすれば、それらが実に、すべての一時的な形式や事情から独立したものであるということに気がつくであろう。ほとんどほかのものはすべて、もとの形を失ってしまうほどの変化を与えても、神話そのものの本質は少しも変らないのである。
 だから著者は、二三千年の歴史によって神聖化せられているその外形に対して、空想のおもむくままに、時に改変を加えたからといって、別に勿体ないことをしたとは思っていない。いかなる時代も、これら不滅の神話を、自分のものだと主張するわけには行かない。それらは、つくられたものだという気がしないくらいであって、たしかに、人類が存在する限り、ほろびようがないのである。しかし、そうして不滅であればこそ、いつ、いかなる時代が、それらの神話に、その時代固有の形式と感情のころもを着せ、またその時代固有の道徳を吹き込んでも、一向さしつかえはないのだ。この本の中では、神話はその古典的な外貌の多くを失ったかも知れない(いずれにしても、著者はそれをつとめて保存しようともしなかったのであるが)、そして、おそらく、粗野ゴシックな、あるい浪漫的ロマンチックなものになってしまったかも知れない。
 この愉快な仕事をするに当って――というのは、それはほんとに夏向の仕事だったし、また、著者が今までにくわだてた文学的な仕事のうちで、最もこころよいものの一つだったから――著者は、子供達によく分らせるために、常に調子を下げて書かなくてはならないとも考えなかった。話の性質上、自然にそうなって行く時とか、また著者の気持が話につれて、われ知らず高揚して行くような時には、大抵の場合、話の調子が高くなるがままに放任した。子供達は、想像の上でも感情の上でも、それがどんなに深く、或は高いものであっても、同時に単純でさえあれば、おそろしく分りのいいものだ。子供達を面喰めんくらわせるものは、ただあまりにひねくりまわした、こみ入ったものだけなのである。


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     タングルウッドの玄関
       ――「ゴーゴンの首」の話の前に――

 天気のいい、秋のる朝のこと、タングルウッドという田舎のお屋敷の玄関先に、の高い青年を取りかこんで、愉快な子供達の一群が集まっていた。彼等は木の実拾いに出かけることになっていたので、丘の斜面から霧が晴れ上がって、お日様が野原や牧場の上一杯に、それから、色とりどりに紅葉した森の奥まで、小春日のあたたかさをふりまいてくれるのを、今か今かと待っているのであった。この美しい、気持のいい世界の様子を更に引立てて見せる上天気のうちでも、今日はまた飛切りの上天気になりそうだった。しかし、今のところ、霧はまだ谷間の長さ一杯、幅一杯に立ちこめて、お屋敷はそれに浮くように、なだらかにり上がった丘の上に建っているのであった。
 この白い霧は、その家から百ヤードとも離れないあたりまで迫っていた。それから先はすべて霧にかくれて、ただ見える物とては、あちらこちらに頭を突き出して、霧のおもてと一しょに、朝の陽に美しく照らし出されている赤や黄色の樹の天辺てっぺんだけだった。南の方、四五マイルはなれて、モニュメント山のいただきがそびえていた。それがまた雲の上に浮かんでいるようだった。同じ方角の更に十五マイルほど向うに、一層高いタコウニック山の円い頭が見えていたが、青くかすんで、ほとんどそれを包んでいる雲の海よりもかすかなくらいだった。谷間たにあいを取巻く、もっと近い山々は、半分霧の中に没して、それから頂上までの間に、点々として巻雲をうかべていた。こうして全体を見渡したところ、あんまり雲霧くもが多く、大地がほとんど見えないので、何だか夢のような感じがするのであった。
 さっき言った子供達は、はち切れるほど元気に満ちていたので、始終タングルウッドの玄関から外へ飛び出しては、砂利道をかけ廻ったり、露にぬれた芝草の上をつき抜けたりしていた。子供の数は幾人だったか、よく分らないが、九人十人以下ではなく、それかと云って十二人は越えていなかった。そして男の子も女の子も、その様子や、からだの大きさや、年恰好はいろいろだった。彼等は、兄弟、姉妹、いとこ達で、そこへ二三人の小さな友達も加わっていたが、それはこのいい季節の一部をここの子供達と一しょにタングルウッドで過ごすようにと、プリングルさん夫婦に招かれて来ている子供達だった。私は彼等の名前をいうことも、又今まで世間の子供達につけられたどんな名前で彼等を呼ぶこともやめておきい。というのは、物を書く人が彼等の著書の中の人物に、たまたま実在する人の名前をつけたがために、大変厄介なことになるような場合が間々ままあるということを、私はよく知っているから。そんなわけで、私は彼等を、プリムロウズ、ペリウィンクル、スウィート・ファーン、ダンデライアン、ブルー・アイ、クロウヴァ、ハックルベリ、カウスリップ、スクォッシュ・ブロッサム、ミルク・ウィード、プランティン、それからバタカップという風に呼んでおこうと思う。もっとも、こんな名前は、人間の子供達の仲間によりも、一群の妖精達につけた方がふさわしいような気もするけれども。
 彼等が、誰か特に真面目な年長者の監督なしに、森や野原を方々ほうぼう歩き廻るというようなことは、彼等の注意深い父や母や、叔父や叔母や、あるいまた祖父母達から許されようとは思えない。どうしてどうして、とんでもない! この本の書出しのところで、背の高い青年が子供達のまん中に立っていたと私が言ったことを、読者は思い出して下さるだろう。彼の名――(これだけは本名を知らしておこう、というのは、彼はこうして活字になるような話をしたことを、非常な名誉と心得ているのだから)――彼の名はユースタス・ブライトといった。彼はウィリヤムズ大学の学生で、たしかこの時には、もう十八歳にもなっていたかと思う。だから彼は、ペリウィンクル、ダンデライアン、ハックルベリ、スクォッシュ・ブロッサム、ミルク・ウィード、その他、彼の半分か三分の一くらいな年の子供達に対しては、まるでお祖父じい様のような気がしていた。彼はちょっと眼を痛めて(今日こんにちの学生は、熱心に読書をしたことを証拠立てるために、そんな風にちょっと眼を痛めたりするのを必要なことのように考えているらしいが)、学期が始まってから一二週間学校を休まなければならなかったのだった。しかし私などは、ユースタス・ブライトほど、遠くも見え、物もよく見えそうな眼をしている人には、めったに会ったことがないような気がするくらいなんだが。
 この博学の学生は、ほっそりとしていて、アメリカの大学生がみんなそうであるように、蒼白あおじろかった。そのくせ健康そうで、まるで靴にはねが生えているのかと思われるほど、身軽で活発だった。それに、小川をわたったり、草原を歩いたりすることは、何よりも好きなので、今日の遠足にも、ちゃんと牛の皮の深靴をいて来ていた。彼はリンネルの寛衣ブラウスを着て、羅紗ラシャの帽子をかぶり、緑色の眼鏡をかけていたが、この色眼鏡は、おそらく眼のためというよりも、それがために何だかえらそうに見えるという伊達だてからかけていたのであろう。しかし、いずれにしても、彼はそれを別にかけなくともよかったのだ。何故なら、小さないたずらっのハックルベリが、玄関の段に腰かけている彼のうしろへそっと廻って、彼の鼻から眼鏡を手早くはずして、自分でかけていて、彼が取りもどすのを忘れているうちに、草の中へ落してしまったのが、翌年の春までそのままうっちゃってあったようなわけなんだから。
 さて、ここで是非言っておきたいのは、ユースタス・ブライトが、不思議な話の語手かたりてとして、子供達の間に大変な人気があって、彼等がもっともっとと、いつまでも際限なくせがんだりすると、たまにはいやな顔をして見せるけれども、彼が果してそうした不思議な話をして聞かせること以上に好きなことがあるかどうかは疑わしいということである。だから、クロウヴァやスウィート・ファーンやカウスリップやバタカップや、その他彼等の仲間の大部分が、霧の晴れ上がるのを待つ間、何かお話をして頂戴ちょうだいと彼にせがんだ時、彼の眼が輝いたことは読者も想像出来るだろう。
『そうよ、ユースタス従兄にいさん、』と、笑ったような眼の、鼻がちょっと天井を向いた、十二歳になる利口な少女のプリムロウズが言った。『あなたがよくあたし達を根負こんまけさしてしまうようなお話をして下さるのに、朝ほどいい時はたしかにないことよ。一番面白いところへ来て、いねむりをしたりなんかして、あなたに怒られる心配がないんですもの――小さなカウスリップとあたしとは昨夜ゆうべそうだったでしょ。』
『意地悪のプリムロウズ、』と、六つになるカウスリップが叫んだ。『あたし、いねむりなんかしなかったわよ。ただ、ユースタスにいさんがお話していることが見えるかと思って、目をつぶっていただけよ。にいさんのお話は、夜聞いてもいいわ。だって、寝てからその夢が見られるんだもの。それから朝だっていいわ。その時は起きたまま夢のように考えてればいいんだもの。だからあたし、にいさんが今すぐお話して下さるといいと思うわ。』
『小さなカウスリップ、ありがとう、』とユースタスは言った。『いいとも、僕が考えついた一番いいお話をして上げよう。意地悪のプリムロウズに対して、カウスリップがこんなにまで、僕の肩を持ってくれたことだけのためにもね。しかし、みなさん、僕は今迄にあんまり沢山たくさん君達にお伽話をして上げたので、少なくとも二度以上しない話なんて一つもないんじゃないかしら。もし僕がその中の一つをまた始めると、何だかあなた方は本当に眠ってしまいそうだね。』
『そんなことはない、ない、ない!』と、ブルー・アイやペリウィンクルや、プランティンや、その他五六人が叫んだ。『私達、前に二三度聞いた話なら、よけいに好きなんです。』
 そして、子供達の場合に限って、話というものは、二度や三度はおろか、幾度でも繰返せば繰返すほど、彼等の興味が深くなって来るらしいということは事実である。しかし話の種はいくらでも持っているユースタス・ブライトは、もっと年取った話手ならばよろこんで捉えたかも知れないこうした附目つけめを利用することは、いさぎよしとしなかった。
『自分の頭で話を作り出す力はいうまでもないこと、学問も僕ほどある人が、一年中を通じて、一日でも、君達子供のために、新しい話が出来ないようじゃなさけない、』と彼は言った。『だから今日は一つ、われわれの大きなお祖母ばあさんともいうべきこの地球が、まだ上張うわっぱりを着て、よだれかけをかけていたような時代に、よろこんで聞いたような、大昔のお話をして上げよう。そんなお話なら百ほどもあるんだが、それがとっくの昔にどうして少年少女達のための絵本にならなかったか、僕には不思議なくらいだ。それどころか、そんなお話を、白いおひげを生やした、えらいおじさん達が、ギリシャ語の黴臭かびくさい本の中で研究して、それが何時いつ、どうして、何のために出来たかなんて、頭をひねっているだけなんだからね。』
『まあいいよ、まあいいよ、ユースタスにいさん!』と子供達はみんな一しょに叫んだ。『話の説明はもういいから、始めて下さい。』
『じゃ、一人残らず坐って、』とユースタス・ブライトは言った。『そしてみんな二十日鼠のように静かにしてらっしゃい。たとえそれが大きな、いたずらのプリムロウズからでも、小さなダンデライアンからでも、或は又ほかの誰からでも、ちょっとでも邪魔がはいったら、僕はお話を途中で切ってしまって、あとはもう言わないことにするよ。しかし、はじめにちょっと訊いておくが、君達のうちで誰か、ゴーゴンってどんなものだか知ってる人がある?』
『あたし知ってます、』とプリムロウズが言った。
『じゃ黙ってらっしゃい!』とユースタスが言った。彼はむしろ彼女がそんなことを知っていない方がよかったと思ったんだが。『みんな黙ってらっしゃい。僕がゴーゴンの首についての、面白い、いいお話をして上げるからね。』
 そして彼は、読者が次の頁から読み始められる通りに、話をした。彼は大学二年の学識をもとに、豊富な才気を働かして、アンサン教授のおかげを大いに蒙りながら、しかも彼の空想の奔放な大胆さが命ずる場合には、すべての古い典拠を無視して、話を進めた。


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    ゴーゴンの首

 パーシウスは或る王様の娘ダネイの子でした。そしてパーシウスがまだほんの小さな子供の頃、悪い人達が、お母さんと彼とを箱に入れて、海へ流してしまいました。風がいきおいよく吹いて来て、その箱を沖へ押し出し、こわい大波がそれを上下にゆすぶりました。その間、ダネイは彼女の子供を胸に抱きしめて、今に大きな波が、その泡立った波頭なみがしらを彼等二人の上にぶっつけて来やしないかと、びくびくしていました。しかしその箱はどんどん流れて、沈みもしなければ、ひっくり返りもしませんでした。そしてとうとう、日も暮れかかった頃になって、或る島の近くに漂って行ったので、一人の漁師の網にかかって、無事に砂浜の上に引上げられました。その島はセライファス島と云って、ポリデクティーズ王がそれを治めていましたが、この王様はちょうどその漁師の兄弟でした。
 仕合せなことには、この漁師はとても人情深い、真直まっすぐな人でした。彼はダネイとその小さな子とに、たいそう親切をつくし、パーシウスがたいへん強い、活発な、そして武芸に達者な、立派な若者になるまで、彼等の面倒を見ました。これよりずっと前に、ポリデクティーズ王は、この流れ箱に乗って彼の領地へ来た母子おやこの他国者を見ていました。彼は彼の兄弟の漁師のように善良な、親切な人間ではなく、とても悪い人でしたので、パーシウスをあぶない冒険に出して、き者にし、その上でお母さんのダネイに対して、何かたいへん悪いことをしようと決心しました。そこで悪者の王様は、ずいぶん暇をつぶして、一体若者が引受けそうなことで、何が一番危険だろうかと考えました。そしてとうとう、彼の注文通り、命にもかかわるようなことになりそうな冒険を思いついて、若いパーシウスを呼びにやりました。
 若者が王宮へまかり出て見ると、王様は玉座に坐っていました。
『パーシウス、』とポリデクティーズ王は、ずるそうに彼にほほ笑みかけながら言いました、『お前も立派な若者になったなあ。お前とお前のよい母親とは、わしの兄弟の漁師からだけでなしに、わし自身にも大変世話になった。だからその幾分なりとも、恩返しするのがいやだとは言うまいな。』
『はい、陛下、』とパーシウスは答えました、『御恩にむくいますためには、命をも惜しみません。』
『うむ、それでは、』と王様は、ずるそうな微笑を唇に浮かべながら、つづけました、『わしはお前に、ちょっとした冒険を頼みたいのじゃ。そして、お前は勇敢な、冒険好きの若者だから、きっとそれを、お前がいさおをたてるための願ってもない機会にめぐり合ったものとして、仕合せに思ってくれるだろう。まあ聞いてくれ、パーシウス、わしは美しいヒポデイミヤ姫と結婚しようと思っている。ところが、こうした場合、花嫁に対して何か遠い国から持って来た美事みごとな珍品を贈るというならわしになっている。正直なところ、わしは彼女のようなすぐれた趣味を持った姫の気に入りそうなものを、何処で手に入れたものかと少々困っていた。しかし今朝になって、それにうってつけの品物を思いついて、われながら得意になっているのじゃ。』
『して、それを手に入れますについて、私が陛下のお役に立つことが出来ますでしょうか?』とパーシウスは熱心に叫びました。
『出来る――もしお前がわしの信じているほど勇敢な若者であったなら、』とポリデクティーズ王は、この上もなくやさしい調子で言いました。『わしが是非美しいヒポデイミヤに捧げたいと思っている婚礼の贈物は、頭に蛇の髪が生えたゴーゴン・メヅサの首じゃ。そしてパーシウスよ、わしはお前の力でそれを取って来てもらいたいと思っている。そんなわけで、わしは姫との話を取りきめたいと熱望しているので、お前がゴーゴンを探しに出かけてくれるのが早ければ早いほどうれしいのじゃ。』
『明朝出発いたします、』とパーシウスは答えました。
『どうかそうしてくれ、わが天晴あっぱれの若者、』と王様も言いました。『それから、パーシウス、ゴーゴンの首を切る時、その形をそこなうようなことのないように、ばっさりと、きれいに切るように気をつけてくれ。お前はそれを、美しいヒポデイミヤ姫のすぐれた趣味にかなうように、少しもいためないで持って帰らなければならない。』
 パーシウスは王宮から下がって来ました。ところが、彼がやっと聞えない位の所へ行くか行かないうちに、ポリデクティーズは、わっはっはと笑い出しました。彼はいかにも悪い王様だけに、その若者がこうまでたやすくわなにかかったのを見て、ひどく喜んだのでした。パーシウスが蛇の髪をしたメヅサの首を切って来ることを引受けたというこの噂は、すぐぱっと世間にひろがりました。みんなはうれしがった、というのは、この島の住民達は大抵、王様に負けないくらい悪い人達で、何か大変なわざわいがダネイとその息子の上に起ることを、何よりも喜んだからです。この不幸なセライファス島には、あの漁師ただ一人しか善人はいなかったらしいのです。だから、パーシウスが歩いて行くと、人々は彼にうしろ指をさしたり、口を曲げたり、互に目くばせをしたり、また思いきって出せるだけの声で彼を嘲弄したりしました。
『ほう、ほう!』と彼等は叫びました、『あいつはメヅサの蛇に見事みごとに咬まれてしまうぜ!』
 さてその頃には、三びきのゴーゴンが棲んでいました。そして彼等は、世界始まって以来その時まで、その時から今日こんにちまで、なおその上この先何年たっても、ほかに見られそうもないような、この上もなく奇怪な、恐しい怪物でした。何獣といおうか、何のおばけといおうか、とにかくほとんど名のつけようもない代物しろものでした。彼等三疋は姉妹であって、どこかちょっと人間の女に似たところもありましたが、本当は非常におそろしい、有害な竜の一種だったのです。全くもって、これらの三疋がどんなに凄いものだったか、想像するのも困難な位です。だって、君達は嘘だというかも知れないが、彼等の頭にはそれぞれ、髪の毛の代りに、大きな蛇が百も生えていました。それもみんな生きていて、身をよじったり、のたくったり、くるくる巻きになったり、それから、さきの方がまたになって毒をった舌をぺろぺろと出したりしました。ゴーゴン達の歯はおそろしく長い牙になっていて、手は真鍮で出来ており、からだ一面はうろこで、それは鉄ではないにしても、それに負けないくらい堅くて突き通しにくいものでした。その上、彼等には翼があって、それがまた本当に、すばらしく立派なものでした。というのは、その羽の毛が一枚々々、まじりけのない、光った、きらきらした、磨いた金で出来ていたのですから。ゴーゴン達がお日様の光をうけて飛び廻る時には、きっと、ひどくまぶしく見えたに違いありません。
 しかし人々は、空高く飛んでいる彼等のきらきらした輝きをちょっとでも見ると、立止まって眺めるどころか、駆け出して出来るだけ早く身をかくすのでした。多分君達は、彼等がゴーゴンの髪の毛の代りになっている蛇に咬まれるとか――そのおそろしい牙で頭を喰い切られるとか――真鍮の爪でずたずたに引裂かれるとかするのを恐れているのだと思うでしょう。そう、たしかにそんなことも危険のうちにははいっていたが、決してそれらが一番大きな危険でもなければ、一番のがれにくい危険でもなかったのです。というのは、これらの恐しいゴーゴン達の何よりこわいところは、もしわれわれ無力な人間が、彼等の顔をまともに見つめでもしようものなら、間違いなく、温い肉と血とが、たちまち冷たい、死んだ石になってしまうということでした。
 だから、君達にもすぐ分る通り、悪い王様ポリデクティーズが、この罪もない若者のために考え出したことは、とてもあぶない冒険だったのです。パーシウス自身も、そのことをよく考えてみると、彼がそれを無事に切り抜けて来るという見込みはほとんど立たず、蛇の髪をしたメヅサの首を持って帰って来るよりも、むしろ石仏になってしまう心配の方が、ずっと多そうな気がしないではいられませんでした。というのは、他のいろんな困難は言うに及ばず、ここに、パーシウスよりも年取った人でも、それをどう突破していいか分らなくなってしまうような困難が一つあったからです。彼は単にこの金の翼、鉄のうろこ、長い牙、真鍮の爪、蛇の髪などをった怪物とたたかわなければならないというだけではなく、目を閉じたままか、或は少なくとも、現に闘っている相手をほとんどちらっと見ることもしないでたおさなければなりません。でないと、打ちかかろうとして腕を上げている間に石になってしまって、その腕を上げたままの姿勢で、年月と風雨とが彼をすっかりぼろぼろにしてしまうまで、何百年でも立っているようなことになるでしょう。これは、輝かしく美しいこの世界で、彼のようにこれから沢山の手柄もたて、いろいろいい目にも会いたいと思っている青年の上に起るにしては、あまりにも悲しいことです。
 こんなことを考えると、たいへん悲しくなって来て、彼は、やりましょうと引受けたことを、お母さんにお話しするに忍びませんでした。そこで彼は、盾を取り、剣をつけて、島から本土へと渡りましたが、淋しい所に一人で坐ってこぼれて来る涙を抑えかねました。
 しかし、彼がこうして悲しい気持でいると、すぐそばで声がしました。
『パーシウス、』とその声は言いました、『何故お前は悲しんでいるのだ?』
 彼は伏せていた顔を、手から上げました。ところがどうでしょう、パーシウスが自分一人だけだと思っていたのに、この淋しい所に一人の見知らぬ人がいたのです。それは元気そうな、才智ありげな、そしてとても利口そうな顔附をした青年で、肩に外套をかけ、頭には妙な帽子をかぶり、手には変に曲りくねった杖を持ち、そして腰には短い、ひどくった剣を下げていました。彼はそのからだつきが、常に運動をしていて、んだり走ったりすることが上手な人のように、如何にも軽く、活発でした。殊に、その見知らぬ人は、たいへん快活な、抜目ぬけめのない、頼りになりそうな(その上、たしかにちょっといたずららしいところはあるにはあったが)様子をしていたので、パーシウスはその人をじっと見ていると、自分もだんだん元気づいて来るような気がしないではいられませんでした。それに、彼は本当は勇気のある若者だったので、よく考えて見ると何もそんなに気を落すほどのこともなさそうだのに、臆病な小学生のように目に涙をためているところを他人ひとに見られて、たいそう恥ずかしい気がしました。そこでパーシウスは涙をいて、出来るだけ勇ましい顔になって、その見知らぬ人に向ってなり元気に答えました。
『僕はそんなに悲しんではいません、』と彼は言いました、『ただ僕が引受けた冒険について考え込んでいただけです。』
『おほう!』とその見知らぬ人は答えました。『まあいいから、わたしにすっかりその話をしてごらん、そうすれば、わたしが君の力になって上げられるかも知れない。わたしは今までに、沢山の若者を助けて、やって見ないうちは随分とむずかしそうに見えた冒険を仕遂げさせたこともあるんだから。多分君はわたしのことを聞いたことがあるだろう。わたしには、いろんな名前がある。しかしクイックシルヴァという名前が、他のどれよりもわたしに適している。まあ、君の心配事をわたしに聞かせなさい。そうすれば、二人でよく相談して、何かうまい方法が見つかるかも知れない。』
 その見知らぬ人の言葉と態度とが、パーシウスを、まるで前とは打って変った気持にしました。彼はどうせ今までよりも悪いことになりっこはないし、それにどうかすると、この新しい友達が、結局大変よかったというようなことになりそうな、何かいい智恵でも貸してくれそうな気がしたので、彼の心配事をすっかりクイックシルヴァに話してしまうことにきめました。そこで彼は、かいつまんで、ありのままに事情を打明けました、――つまり、ポリデクティーズ王が、美しいヒポデイミヤ姫に対する婚礼の贈物として、蛇の髪をしたメヅサの首をほしがっていること、それから彼が王様のためにそれを取って来て上げることを引受けはしたものの、石にされてしまうことを心配していることなどを話したのです。
『石になっちゃ可哀そうだ、』とクイックシルヴァは人の悪いほほ笑みをうかべて言いました、『尤も、君は大変立派な大理石の像になるだろうがね。そして、ぼろぼろになってしまうまでには、何百年もかかるだろう。しかし大抵誰でも、石像になって何百年も立っているよりは、数年間でもいいから青年でいたいからね。』
『ええ、全くその方がいいですよ!』とパーシウスは、また目に涙をうかべながら叫びました。『それに、もしもかわいい息子が石にされてしまったら、僕の大事なお母さんはどうするでしょう?』
『まあ、まあ、そんな縁起でもないことにはしたくないもんだ、』とクイックシルヴァは元気づけるような調子で答えました。『もし誰かが君を助けることが出来るとすれば、わたしをいてないのだ。今じゃ恐しいような気がするけれども、君がその冒険を無事に切り抜けるように、わたしの姉とわたしとが出来るだけ骨を折って上げよう。』
『あなたのお姉さんですって?』とパーシウスはき返しました。
『そう、わたしの姉だよ、』と見知らぬ人は言いました。『本当に、彼女は大変聡明なんだ。それにわたし自身としても、大した智恵はないが、どんなことにぶっつかっても、途方に暮れるというようなことはまずないね。もし君が大胆に、そして細心になって、わたし達の言うことをきいてれば、まだ当分は石像になるなんて心配は御無用だ。しかし、君は先ず第一に、君の盾を、鏡のようにはっきりと顔が映るようになるまで、磨かなくてはならない。』
 これはまた、冒険の手始めとしては随分変なものだなと、パーシウスは思いました。というのは、盾などというものは、顔が映って見えるほど光ったりしているよりも、ゴーゴンの真鍮の爪から彼をまもるだけの丈夫さのある方が、ずっと大切だと彼は考えたからでした。しかし結局彼よりもクイックシルヴァの方に深い考えがあるのだろうと思ったので、彼はすぐ仕事に取りかかりました。そして大変精を出して、熱心に盾をすり磨きましたので、すぐそれは秋のお月様のように光って来ました。クイックシルヴァはそれを見てにっこりとして、よしよしといったように、うなずきました。それから、自分の短い、そりのついた剣をはずして、パーシウスが前から下げていた剣の代りに、それを彼につけてやりました。
『君の目的に役立つ剣は、わたしの剣のほかにはないのだ、』と彼は言いました、『そのはこの上もなく切れ味がよくて、鉄でも真鍮でも、まるで細い細い小枝を切るように切れてしまう。さあ、これから出かけよう。お次は、三人の白髪しらがの婆さん捜しだ。その婆さん達が、水精ニンフ居処いどころをわれわれに教えてくれるんだからね。』
『三人の白髪婆さんですって!』とパーシウスは叫びました。彼は冒険の途中に、また新しい面倒が起ったとばかり思ったからです。『一体その三人の白髪婆さんって誰でしょう? 僕はそんな婆さん達のことは聞いたこともありませんが。』
『彼等は三人の大変奇妙なおばあさん達なんだ、』とクイックシルヴァは笑いながら言いました。『彼等は仲間でたった一つの目と、たった一つの歯としか持っていない。その上、星明りか、夕方の薄闇の中かで見つけなければならない。というのは、彼等はお日様やお月様が出ている時は、決して姿を見せないからだ。』
『しかし、』とパーシウスは言いました、『僕はどうしてそんな三人の白髪婆さんのことで暇をつぶさなければならないんでしょう? すぐ、あの恐ろしいゴーゴン達を捜しに行った方がよくはないでしょうか?』
『いや、いや、』と彼の友達は答えました。『君はゴーゴン達の居る所へ行く迄には、ほかにいろんなことをしなければならないんだ。さしあたり、これらのおばあさん達を捜すほかないのだ。そしてわれわれが彼等に出遇えば、もうゴーゴン達からあまり遠くない所へ来たと思って間違いないんだ。さあ、出かけようじゃないか!』
 パーシウスは、この時までに、彼の道連れのかしこさを大変頼みに思うようになっていましたので、もうその上文句は言わないで、すぐにでも冒険旅行に出かけていいと答えました。そこで彼等は出発しました。そしてなり速い足どりで歩いて行きました。それが実際また、あまり速かったので、パーシウスは足早あしばやの友達クイックシルヴァについて行くのが、少し難儀なんぎになって来ました。実をいうと、彼はクイックシルヴァが翼の生えた靴をはいていて、勿論そのおかげで、彼の足が不思議に早いのだというような、妙なことを考えたのです。それからまた、パーシウスが目の隅っこから、横目でクイックシルヴァを見ると、彼の頭の横っちょにも翼が生えているような気がするのでした。尤もパーシウスがまともに振向いて見ると、何もそんなものは目につかないで、ただおかしな帽子をかぶっているだけでしたが。しかしいずれにしても、あの曲りくねった杖が、クイックシルヴァにとって、たいへん大切なものであることは明らかで、そのために彼がこんなに速く歩けるので、たいそう元気な青年であるパーシウスも、だんだん息が切れて来ました。
『さあ!』とクイックシルヴァはとうとう叫びました――というのは、彼も相当人を喰ったもので、パーシウスが彼と歩調を合せて行くのにどんなに難儀しているかということは、ようく知っていたからです――『この杖を持ち給え。わたしよりもずっと君の方が、それが必要だからね。セライファス島には、君よりも足の速い人はいないのかね?』
『僕だって翼の生えた靴さえあれば、相当速く歩けるんですがね、』と、パーシウスはちらっとずるそうに、彼の道連れの足の方に目をやりながら言いました。
『君にも一足いっそく心がけておかなくちゃ、』とクイックシルヴァは答えました。
 しかし、さっき貸してもらった杖が、すばらしく彼の歩く助けになったので、パーシウスはもう少しも疲れを覚えなくなりました。実際、その杖は彼の手の中で生きていて、その生命のいくらかを彼に貸してくれるような気がしました。彼とクイックシルヴァとは、今では、仲よくお話をしながら、らくに旅をつづけました。そしてクイックシルヴァが、彼の今までの冒険談や、いろんな場合に彼の機転がどんなに役に立ったかというような話を、いろいろ沢山してくれたので、パーシウスは彼を実にすばらしい人だと思うようになりました。彼は如何にもよく世間のことを知っていました。そして青年にとっては、そうしたことをよく知っている友達ほどいいものはありません。パーシウスは、だから、いろいろと話を聞いて自分の機転に磨きをかけたいと思って、一層熱心に耳を傾けました。
 そのうちに、ふと彼は、彼等がこれから目指して行く冒険に力を貸してくれる筈になっている姉さんのことを、クイックシルヴァが話していたのを思い出しました。
『そのかたは何処にいらっしゃるんです?』と彼は尋ねました。『すぐにはお目にかかれないんでしょうか?』
『正にその時機だという時になったら出て来るよ、』と彼の道連れは言いました。『しかしちょっとことわっておくが、わたしのこの姉は、わたしとはまるで性質が違うんだ。彼女は大変真面目で、用心深く、にっこりとすることも少なく、声を立てて笑うなんてことはまるでない。そして何か特別に意味の深いことを言う時のほかは、一言も口をきかないことにしている位だ。その代り、こちらからも、よほど立派なことを言わないと、相手にはしてくれないんだ。』
『これは驚いた!』とパーシウスは叫びました、『僕なんぞはうっかり口をきけませんね。』
『本当に彼女は、実に何でも出来る人なんだ、』とクイックシルヴァはつづけて言いました、『そしてどんな技芸にも学問にも通じている。つまり彼女は、あまり馬鹿馬鹿しくかしこいので、みんなが彼女のことを智恵の化身けしんだといってる位だ。しかし、実を云うと、少し元気がなさすぎるので、僕はどうも好きになれない。君だって彼女を、僕のように気持のいい旅の道連れだとは思わないだろうと思う。但し彼女にもいいところはある。そして君も、ゴーゴンとたたかうについては、そのおかげを蒙ることになるだろう。』
 この時にはもうあたりはすっかり薄暗くなっていました。彼等は今や、蓬々ぼうぼうとした藪が一面に生え茂って、今まで誰も住んだこともなければ来たこともなさそうな、ひっそりとした、淋しい荒野原あれのはらへ来ました。あたりのものすべては、灰色の夕闇の中にもの淋しく、しかもその夕闇が刻々に深くなって行くのでした。パーシウスは何だか悲しくなって、あたりを見まわしながら、まだずっと先へ行くんでしょうかと、クイックシルヴァに尋ねました。
『シッ! シッ!』と彼の道連れは小声で言いました。『騒いじゃいけない。ちょうどこんな時分に、こんな所で、三人の白髪婆さんにうんだ! 君が彼等を見ないうちに、向うから見つけられないように気をつけ給え。というのは、彼等は三人仲間で目が一つしかないけど、それが三人分の目に負けないくらい鋭いんだから。』
『でも、僕達が彼等に出遇った時に、僕はどうすればいいんでしょう?』とパーシウスはきました。
 クイックシルヴァは、三人の白髪婆さん達が、一つの目でどういう風に間に合わせているかをパーシウスに説明して聞かせました。彼等はいつもそれをお互に、まるで眼鏡みたいにやり取りしているらしいのです。いや、それは片眼鏡といった方がいいかも知れない。彼等にはその方が向いているんだから。そして、三人のうちの一人が、その目を或る時間の間使うと、それを眼窩めのあなからはずして、次の番に当った姉妹きょうだいの一人に渡す。するとその一人が、すぐそれを自分の頭にめて、明るい世間を見て楽しむというわけなんです。だから、三人の白髪の婆さんのうち誰か一人だけには物が見えるが、ほかの二人は真暗闇まっくらやみだということ、それから、その目が手から手へと渡されているちょっとの間は、この可哀そうなおばあさん達の誰もが、ちっとも物が見えないということが、すぐ分るでしょう。僕は今まで、いろいろ変ったことを沢山聞きもし、また自分で見たことも少なくありません。それにしても、みんなで一つの目から覗いているというこの三人の白髪婆さんにくらべることが出来るほど不思議なことは一つもなかったと思います。
 パーシウスもやっぱりそう思ったのでした。そして、どうかすると、彼の道連れが彼をからかっているのであって、世の中にそんな婆さん達なんてあるものかと考えたほどでした。
『わたしが本当のことを言ってるかどうか、今に分るよ、』とクイックシルヴァは言いました。『耳をすまして! 静かに! シッ、シッ! さあ、来たぞ!』
 パーシウスは一心に夕闇をすかして見ました。すると、果して、あまり遠くないところに、三人の白髪婆さんが目につきました。よほど暗くなっていたので、彼等がどのような姿をしているかは、よく見えませんでしたが――それでも、長い白髪だけは分りました。そして、彼等がだんだん近づいて来るのを見ると、彼等のうちの二人は、そのひたいのまん中に、からっぽの眼窩めのあなだけがあいているのでした。しかし、三人目の姉妹の額のまん中には、たいへん大きな、ぎょろぎょろした、鋭い眼がついていて、それがまた、指輪についた大きなダイヤモンドのように、きらきらしていました。その眼があまりきつそうなので、真暗まっくら夜中よなかにでも、昼間と同じようによく見える力をそなえているに違いないと、パーシウスは思わずにはいられませんでした。三人の眼の視力をかして、それを一つに集めて出来上ったのがその眼です。
 こうして彼等は、大体のところ、まるで三人一しょに見ているのと同じような具合に、らくに歩き廻るのでした。ちょうど額にその眼を嵌めている者が、その間中、鋭くあたりを見廻しながら、他の二人の手を引いて歩くのでしたが、その目附があまりきついので、パーシウスは彼とクイックシルヴァとが隠れている深々ふかぶかと茂った藪まで突き通して見られやしないかと、びくびくものでした。いやどうも、そんな鋭い目の届くところにいるのは、本当に恐しいことでした。
 しかし、彼等がその藪まで来ないうちに、三人の白髪婆さんの一人が口を切りました。
『もし! スケヤクロウさん!』と彼女は叫びました。『あんたは十分長く見たじゃないか。もうあたしの番だよ!』
『もうちょっとの間、あたしにしといておくれ、ナイトメヤさん、』とスケヤクロウは答えました。『あの茂った藪の蔭に、あたし何かちらっと見えたような気がするからさ。』
『へん、それがどうしたっていうの?』とナイトメヤはすねたように言い返しました。『あたしには、あんたのようにたやすく茂った藪の中が見えないとでもいうの? その眼はあんたのものでもあり、あたしのものでもあるんだよ。そしてあたしはあんたに負けない位、その眼の使い方を知っている。いや、どうかすると、もっと上手かも知れない。どうあっても、すぐにちょっと見せて貰わないと困るよ!』
 しかしこの時、三人目のシェイクヂョイントという姉妹が、ぶつぶつ言い出しました。彼女の言い分は、彼女が見る番だのに、スケヤクロウとナイトメヤとが、いつでも二人きりで眼を持っていたがるというのでした。この口論をやめるために、スケヤクロウ婆さんは、額から眼をはずして、それを手に持って差出しました。
『どちらでもお取りよ、』と彼女は叫びました、『そして、このくだらない喧嘩を止してよ。あたしは、まあしばらく真暗闇まっくらやみを楽しみましょう。でも、はやくお取りったらさあ。でないと、あたしがまた額に嵌めてしまうよ!』
 そこで、ナイトメヤとシェイクヂョイントとは、二人とも手をのばして、スケヤクロウの手から眼をひったくろうとしてさぐり廻しました。しかし二人とも同じようにめくらですから、スケヤクロウの手の在処ありかが容易に分りません。スケヤクロウも亦、今はシェイクヂョイントやナイトメヤと同様真暗闇ですから、眼を渡そうにも、すぐにはどっちの手にも出くわさないのです。こうして(君達利口な子にはすぐ分る通り)これら三人のおばあさん達は、おかしな風にまごついてしまいました。というのは、スケヤクロウが差出していると、その眼はお星様のように光り輝いているのですが、それでも白髪婆さん達にはその光がちらりとも見えず、それを見たいとあせれば、よけいに三人とも真暗闇になるのでしたから。
 クイックシルヴァは、シェイクヂョイントとナイトメヤが二人とも、眼をさぐり廻って、それぞれスケヤクロウを怒って見たり、お互に悪口を言ったりしているのを見ていると、あまりおかしくて、声を立てて笑うまいとするのに骨が折れました。
『さあ今が君の出時でどきだ!』と彼はパーシウスに耳打しました。『早く、早く! 誰かが額にあの眼をはめ込まないうちに。おばあさん達にむかって飛びかかって行って、スケヤクロウの手から眼をもぎ取るんだ!』
 パーシウスは時を移さず、三人の白髪婆さん達がまだお互に小言こごとを言い合っている暇に、藪の蔭から飛び出して行って、獲物をせしめてしまいました。その不可思議な眼は、彼の手の中でとてもぎらぎらと光って、さかしげに彼の顔を見上げて、上下うえしたまぶたさえあれば、ぱちくりとでもやりそうな様子に見えました。しかし白髪婆さん達はそんなことになっていようとはつゆ知らず、お互に姉妹達のうちの誰かが眼を取ったものと思い込んで、また新しく喧嘩を始めました。パーシウスは年取ったおばあさん達を、何もこれ以上無闇に困らせる気はなかったので、とうとう、わけを話してやった方がいいと考えました。
『おばあさんがた、』と彼は言いました、『どうぞあなた方同志を怒らないで下さい。もし誰かが悪いとすれば、それは僕なんです。というのは、僕があなた方の輝かしい、立派な眼を持たせてもらっているのですから!』
『お前さんが! お前さんがあたし達の眼を持っているんだって! そしてお前さんは誰だい?』と、三人の白髪婆さんは、みんな一度に言いました。というのは、彼等はいう迄もなく、聞きなれない声を聞き、彼等の眼が何処の何者とも知れない人の手に渡ったことを知って、ひどくびっくりしたからでした。『おう! あたし達どうしましょう、姉妹達? あたし達どうしましょう? あたし達はみんな真暗まっくらだ! あたし達の眼を返して下さい! あたし達のたった一つの、大切な、掛替かけがえのない眼を返して下さい! お前さんは自分の眼が二つもあるじゃないか! あたし達の眼を返しておくれ!』
『彼等が君に、飛行靴とびぐつと魔法の袋と隠兜かくれかぶととを持っている水精ニンフ達の居る所を教えてくれたら、すぐにも眼を返してやろうと彼等に言い給え、』と、クイックシルヴァはパーシウスに耳打しました。
『親切な、立派なおばあさん方、』とパーシウスは白髪婆さん達に向って言いました、『何もそんなにびっくりなさることはありません。僕は決して悪い男じゃないんです。あなた方が僕にニンフ達の居処を教えて下されば、すぐにあなた方の眼を、そっくりそのまま、もと通りよく光っているのをお返しします。』
『ニンフ達だって! これはまあ! 姉妹達、この人はどんなニンフのことを言ってるんだろうねえ?』とスケヤクロウは叫びました。『何でもいろんなニンフがいるそうだよ。森で猟をしているのもあれば、樹の中に棲んでいるのもあり、また泉の中で楽しく暮らしているのもあるそうだ。あたし達はニンフ達のことはちっとも知らない。あたし達は三人の不仕合せな婆さん共で、うす暗がりの中をうろつき廻っていて、仲間に眼が一つしかない。それをお前さんが盗んでしまいなすった。おう、何処の人だか知らないが、それを返しておくんなさい!――どなただか知らないが、それを返して下さい!』
 その間も始終、三人の白髪婆さん達は手をのばして探りながら、一生けんめいにパーシウスをつかまえようとしました。しかし彼はつかまらないように十分気をつけました。
『立派なおばあさん方、』と彼は言いました――というのは彼のお母さんは彼に、いつも出来るだけ丁寧に口をきくようにと教えていたからです――『僕はあなた方の眼を、しっかりと手に持っています。そしてあなた方がニンフの居処を教えて下さるまで、それを大切に預かっておきましょう。僕の言っているのは、魔法の袋と、飛行靴とびぐつと、それから――何だったっけ?――そう、隠兜かくれかぶととを持っているニンフ達のことなんです。』
『おやまあ、姉妹達! この兄さんは何のことを言ってるんだろうねえ?』スケヤクロウとナイトメヤとシェイクヂョイントとは、如何にもびっくりしたような風に、お互に叫びました。『一足いっそく飛行靴とびぐつとあの人は言ったよ! もし彼がうっかりそんなものをこうものなら、彼のかかとぽいと頭よりも高く飛び上ってしまうだろうに。それから、隠兜かくれかぶとだってさあ! その中に彼がとっぽりとはいれる程の大きさがなくちゃ、どうして兜が彼を見えなくしてしまうことが出来るものかね。それから魔法の袋だって! それはまたんな仕掛になってるものやら? いや、いや、他所よそのお人! あたし達はそんな不思議な物のことは一向知りませんよ。お前さんは御自分の眼が二つもあるじゃないか。ところがあたし達には三人に一つしきゃない。お前さんの方が、あたし達のような三人のめくら婆さんよりも、そういったような不思議なものを、よく見つけることが出来ますよ。』
 パーシウスは彼等がこんな風にいうのを聞いて、白髪婆さん達がそのことをなんにも知らないのだと、本当に思いかけました。そして彼等を大変困らしたことが気の毒になって、今少しで彼等の眼を返してやって、それを奪い取った無礼を詫びるところでした。しかしクイックシルヴァが彼の手をおさえました。
『彼等にだまされちゃいけない!』と彼は言いました。『ニンフ達の居処を君に教えることが出来るのは、世界中でこの三人の白髪婆さんだけなんだ。そして、君はそれを知らないでは、蛇の髪をしたメヅサの首を首尾よく討取うちとることは決して出来ない。その眼をしっかりとつかんでいるんだよ。そうすれば万事うまく行くんだから。』
 後で分ったことですが、クイックシルヴァの言ったことに間違いはありませんでした。眼ほど人間が大切にするものはちょっとありません。それに白髪婆さん達は、もともと三人で六つの眼がある筈のところ、一つしかなかったのですから、それを六つの眼に負けないくらい大切に思っていました。それを取返す方法がほかにないと知って、彼等もとうとうパーシウスに彼の知りたがっていることを教えました。彼等が教えてくれるとすぐに、パーシウスはこの上もなく慇懃いんぎんな態度で、その眼を彼等のうちの一人の額にあるからっぽの眼窩めのあなへはめ込んで、彼等の親切を謝し、彼等に別れを告げました。しかしパーシウスが聞えないほどの遠さまで行かないうちに、彼等はまた新しく喧嘩を始めました。何故かというと、彼等とパーシウスとの間に騒ぎが持上った時に、もう番のすんでいたスケヤクロウに、彼は何の気もなく眼玉をやってしまったからなのでした。
 どうもこの三人の白髪婆さん達は、いつもよくこうした喧嘩をして、お互の平和をみだしていたらしいのです。彼等はお互に誰が欠けても困るわけですし、それに離れられない仲間として生れて来たことは明らかなのですから、これは尚更困ったことでした。一般的に言って、姉妹しまいであれ兄弟であれ、年寄であれ若い人達であれ、例えば仲間に眼が一つしかないというような場合には、お互に辛抱するようにして、みんなで一度に覗こうなどと意地を張らないようにすることを、僕は世の人達に忠告しておきたいと思います。
 一方その間に、クイックシルヴァとパーシウスとは、ニンフを見つけようとして、一生けんめいに道を急いでいました。彼等はおばあさん達から大変詳しく教わっていましたので、間もなくニンフ達を見つけました。会って見ると、ニンフ達はナイトメヤやシェイクヂョイントやスケヤクロウなどとは、大変違った人達だということが分りました。というのは、彼等はおばあさん連ではなく、若い、美しい女達で、姉妹仲間に眼が一つというようなこともなく、めいめいとてもぱっちりとした自分の眼を二つずつっていて、大変やさしくパーシウスを見たからです。彼等はクイックシルヴァとは知合いのようでした。そしてクイックシルヴァがパーシウスの引受けた冒険の話をすると、彼等は自分達が預っている大事な品々をパーシウスに渡すについても、少しも面倒なことは言いませんでした。第一に彼等は、鹿皮で出来ていて、変った縫取りをした、小さな財布のような物を取り出して来て、パーシウスに必ずそれを大切にするように言いました。これが魔法の袋でした。次に、ニンフ達は、踵に一対の可愛い小さなはねのついた短靴みたいな、スリッパみたな、草鞋サンダルみたいな物を取り出しました。
『パーシウス、いてごらん、』とクイックシルヴァが言いました。『これから先の道中、君はいくらでも望み通り足が軽くなるだろう。』
 そこでパーシウスは、他の方を彼の傍の地面においたまま、一方のスリッパを履きにかかりました。とこが、出抜だしぬけに地面においた方のスリッパが、翼をひろげて、地上から舞上りました。そして、もしもクイックシルヴァが跳び上って、うまくそれを空中でつかまえなかったならば、恐らくどこかへ飛んで行ってしまったかも知れません。
『もっと気をつけたまえ、』彼はそれをパーシウスに返してやりながら言いました。『空高く飛んでいる鳥が、もしも彼等の中へスリッパが飛び込んで来たのを見たりしちゃ、びっくりするじゃないか。』
 パーシウスがこの不思議なスリッパを両方共はいてしまった時には、あんまり身が軽くなって、土を踏むことも出来ませんでした。一足ひとあし二足ふたあし歩いて見ると、これはまたどうでしょう! 彼はクイックシルヴァやニンフ達の頭よりも高く、ぽんと跳び上ってしまって、再び下りて来るのに大変骨が折れました。翼の生えたスリッパとか、すべてこういう高く飛ぶ仕掛などというものは、誰でもそれに幾らかれるまでは、なかなか取扱いが容易なものではありません。クイックシルヴァはパーシウスの、自分ではどうすることもできない活発さを面白がりました。そして、まあそう滅茶めちゃに急がないで、隠兜かくれかぶとを待っていなくちゃいけないよ、と言いました。
 やさしいニンフ達は、波打った羽毛はねの黒いふさのついた兜を、いつでもパーシウスの頭にかぶらせることが出来るように、用意していました。そしてこの時、僕が今まで君達に話したどんなことよりも不思議なことが起ったのです。その兜をかぶせられるすぐ前までは、パーシウスは金色の巻毛と薔薇色の頬をして、腰にはりを打った剣を下げ、腕にはぴかぴかに磨かれた盾をつけた美しい青年として立っていました――その姿は、すべてこれ勇気と、元気と、輝かしい光とで出来ているかと思われました。ところがその兜が彼の白い額にすっぽりとかぶせられると、もうパーシウスは消えてなくなりました! あとはただからっぽの空気だけです! 隠す力を以て彼をおおうた兜さえも、もう見えませんでした!
『パーシウス、君は何処にいるんだい?』とクイックシルヴァは尋ねました。
『え、ここですよ、ほんとに!』とパーシウスは落着き払って答えました。しかしその声は、透徹すきとおった空気の中から出て来るとしか思えませんでした。『今し方までいたのとまるで同じ所ですよ。あなたは僕が見えないんですか?』
『なるほど、見えない!』と彼の友達は答えました。『君は兜の中にかくれてしまったんだ。しかし、わたしに見えないとすれば、ゴーゴンにだって見えはしない。だから、わたしについて来るがいい。一つ君が飛行靴とびぐつを使う手際を拝見しようじゃないか。』
 クイックシルヴァがこう言うと、彼の帽子がはねをひろげましたので、彼の首が肩から抜け出して飛んで行くかと思いのほか、彼のからだ全体が軽々かるがると空中に持上りました。パーシウスもそれにつづきました。彼等が百フィートも昇り切らないうちに、パーシウスは、退屈な地上を遠く下にして、鳥のようにすいすいと飛び廻ることが出来るというのは、実に愉快だなあと感じ始めました。
 もうすっかり夜も更けていました。パーシウスは目を上げて、円い、明るい、銀色の月を見ました。そして、あそこまで飛んで行って、一生をそこで暮すほどいいことはないような気がしました。それから彼はまた下を向いて、下界を眺めました。海や、湖水や、銀の糸を引いたような河や、雪をかぶった山のいただきや、広い野原や、黒々とかたまった森や、白い大理石で出来た町などが見えました。そして、その全体の景色の上に、月の光が眠るようにさしたところは、月の世界にも、又どんな星の世界にも、劣るまいと思われました。又彼は、他のいろいろなものの間に、彼のなつかしい母の住むセライファス島を見ました。時々、彼とクイックシルヴァとは、雲に近づきましたが、それは遠くから見ると、羊の毛のような銀で出来ているようでいながら、その中へ飛び込んで見ると、灰色の霧であって、からだが冷たく濡れるのでした。しかし、彼等の飛び方は大変速かったので、すぐに雲を抜けて、また月光の中に出るのでした。高く飛んでいた鷲が、見えないパーシウスに向って、まともにぶっ突かって来そうになったことなどもありました。何よりもすばらしかったのは、まるで空に大篝火かがりびを焚いたように、俄に輝き出して、百マイルばかりにわたって月も光を失ったほどの、隕石落下の光景でした。
 二人連れでどんどん飛んで行くうちに、パーシウスは、彼のすぐ傍に衣摺きぬずれの音が聞えるような気がしました。それがクイックシルヴァの見えているのとは反対の側から聞えるのでしたが、見えるのはやっぱりクイックシルヴァだけでした。
『誰の着物でしょう、僕のすぐ傍で、そよ風にさらさらと鳴りつづけているのは?』とパーシウスは尋ねました。
『ああ、わたしの姉の着物だよ!』とクイックシルヴァは答えました。『わたしがそう君に言った通り、彼女はわたし達と一しょに来ているんだ。われわれはわたしの姉の手を借りなくちゃ何も出来ないんだ。彼女がどんなにかしこいか、君にはちょっと分らないよ。彼女はその上、とてもいい眼をしているんだ! だって君、こうしていても、彼女には君が隠兜をかぶっていない時と同じように、君が見えるんだぜ。彼女が第一にゴーゴンを見つけるだろうってことは、今から言っといてもいいね。』
 空中をずんずん飛んでいた彼等は、この時にはもう、大きな海の見えるところまで来ていましたが、やがてその上にさしかかりました。彼等のはるか下の方では、波が海のまん中にどうどうと逆巻き、長い海岸線に沿うて筋を引いたように白い磯波を打上げ、岩の断崖に当っては泡と砕けて、下界では雷のような響を立てていました。尤もその響も、半分ねむりかかった赤坊の声のような、静かなつぶやきとなって、パーシウスの耳に届いて来るのでしたが。ちょうどその時、彼のすぐ傍の空中で声がしました。それは女の声らしく、音楽的ではあるが、世間でいう美声いいこえとも少し違った、重々しい、おだやかな声でした。
『パーシウス、』とその声は言いました、『ゴーゴンがいますよ。』
『何処にです?』とパーシウスは叫びました。『僕には見えませんが。』
『あなたの下の島の海岸にいます、』とその声は答えました。『あなたの手から小石を落したら、ちょうど彼等のまん中に落ちるでしょう。』
『彼女が第一にゴーゴンを見つけるだろうとわたしは君に言ったろう、』[#「』」は底本では欠落]とクイックシルヴァはパーシウスに言いました。『そら、いるだろう!』
 彼の真下二三千フィートのところに、パーシウスは小さな島を見ました。岩で出来た岸をぐるっと取巻いて、海は白い泡となって砕けていましたが、ただ一方の岸だけは、雪のように真白まっしろな砂浜になっていました。彼はその方に向っておりて行って、黒い岩の崖の下に何だかきらきらとかたまったような、重なり合ったようなものをよく見ると、これはしたり、あのおそろしいゴーゴン達がいるのでした! 彼等は雷のような海鳴うみなりの音で、いい気持になって、ぐっすり寝込んでいました。というのは、こんな獰猛どうもうな動物を眠りに誘うためには、他のものならつんぼになってしまうほどの騒音が必要だったからです。月の光は彼等の鋼鉄のようなうろこや、砂の上にだらりと垂れた金の翼の上にきらきらと光っていました。彼等が、見るもおそろしい真鍮の爪をにゅっと出して、波に打たれた岩のかけらをぎゅっとつかんでいたのは、誰か哀れな人間をずたずたに引裂いている夢でも見ていたのでしょう。彼等の頭の髪の代りに生えている蛇も、やはり眠っているようでした。尤も、時々、身をよじって、頭をもたげ、ねむいような、しゅっしゅっという音を立てて、またになった舌を出すのもいましたが、それもすぐ仲間の蛇の間にもぐってしまいました。
 ゴーゴン達は、とても大きな、金のはねをした甲虫というか、蜻蛉とんぼというか、まあそういったもの――醜いと同時に美しくて――とにかく他のどんなものよりも、恐しい、大きな一種の昆虫に似ていました。ただそれが昆虫の千倍も百万倍も大きかっただけです。それでいながらまた、どことなく人間みたいなところもありました。仕合せなことは、彼等の寝ている姿勢によって、彼等の顔はパーシウスの方から見ると、すっかりかくれていました。というのは、彼がちょっとでもその顔を見たら、たちまち死んだ石の像になって、空中からどうっとちてしまったでしょうから。
『今だ、』とクイックシルヴァは、パーシウスの傍を飛び廻りながら小声で言いました、『今こそ君がゴーゴンの首を切る時だ! 早くしたまえ、もしゴーゴンのうちのどれかが目を覚ましでもしたら、もうおしまいだから!』
『どれに切ってかかればいいんでしょう?』とパーシウスは、剣を抜いて、も少し下の方へおりて行きながら言いました。『彼等三疋はみんな同じようじゃあありませんか。三疋とも蛇の髪をしています。三疋のうちどれがメヅサですか?』
 これらの竜みたいな怪物のうち、パーシウスが首を落すことが仮りにも出来るのは、メヅサだけだったということを知っておかなければなりません。他の二疋に至っては、パーシウスが、それまでに鍛えられたどんな銘刀を持って来て、何時間ぶっ続けに切りつけようが、少しも手応てごたえはなかったでしょう。
『気をつけて、』と、前にもパーシウスに話しかけた静かな声が言いました。『ゴーゴン達のうちの一つが、寝ながらむくむく動いて、ちょうど寝がえりをしかけているでしょう。あれがメヅサです。彼女を見ないで! 見たらあなたは石になってしまいますよ! あなたのよく光った盾の鏡にうつったメヅサの顔や姿を見るんです。』
 パーシウスはこの時初めて、クイックシルヴァがあんなに熱心に、盾を磨けと言ったわけが分りました。盾のおもてに映して、はじめて彼は安全に、ゴーゴンの顔の映像かげを見ることが出来るのでした。なるほど映っています――あのおそろしい顔が――月光を一杯にうけて、その物凄さをすっかりあらわしながら、ぴかぴかした盾の中に映っています。頭の蛇は、わが身にった毒のために十分眠ることが出来ないのでしょうか、メヅサの額の上で、始終からだをよじりつづけています。とにかくそれは、今まで見たこともなく、想像もしたこともないような、この上もなく獰猛どうもうな、何ともいえないおそろしい顔でした。それでいて、一種不思議な、ぞうっとするような、野性的な美しさがその中にあるのでした。目を閉じて、ゴーゴンはまだぐっすりと眠っていましたが、何だかいやな夢でも見て、うなされてでもいるように、その顔附には悩ましそうなところが見えました。そして白い牙をばりばりと鳴らし、真鍮の爪は砂の中へ喰い込んでいました。
 頭の蛇もまたメヅサの夢がうすうす分るらしく、それがために一層眠れない様子でした。彼等は互にからみ合って、ごちゃごちゃのかたまりになり、はげしく身をよじって、目を閉じたまま、しゅっしゅっといいながら、百の鎌首をもたげました。
『さあ、さあ!』少しじれったくなって来たクイックシルヴァは、低い声で言いました。『メヅサに飛びかかれ!』
『でも落ち着いて、』と、パーシウスにつきまとっている真面目な、響のいい声が言いました。『下へおりて行く時、盾をよく見て、最初の一太刀ひとたちをしくじらないように気をつけなさい。』
 パーシウスは、盾に映ったメヅサの顔から目を離さないで、注意深く下の方へおりて行きました。近づけば近づくほど、蛇の生えた頭と鉄のような胴体とは、いよいよ物凄くなって来ました。とうとう、メヅサの上から手の届くあたりまで舞下ったと思った時、パーシウスは剣を振上げました。と同時に、メヅサの頭の蛇が恐しい勢で一つ残らず立上って、メヅサはくわっと目を見開きました。しかしもう遅かったのです。剣は業物わざもの、それがまた雷光いなずまのように打ちおろされたのだからたまりません。流石に兇悪なメヅサの首も、ぽろりと胴体からころがり落ちました!
天晴あっぱれの手並だ!』とクイックシルヴァは叫びました。『急いでその首を魔法の袋の中へ入れるんだ。』
 パーシウスが驚いたことには、彼が頸にかけていた、今まで財布ほどの大きさしかなかった、小さな、縫取りをした袋が、たちまちメヅサの首がはいるほどの大きさになりました。目にもとまらないほどの早さで、彼はまだ蛇がしきりにうごめいているメヅサの首をつかんで袋の中に押込みました。
『あなたの仕事はすみました、』と静かな声は言いました。『さあ逃げなさい。メヅサを殺された仇を討とうとして、他のゴーゴン達が命がけでかかって来るでしょうから。』
 実際、逃げる必要がありました。というのは、パーシウスがメヅサの首を落す時、いくら静かにやろうとしても、剣を打ちおろす音、蛇がしゅっしゅっという声、それからメヅサの首が海辺の砂の上にどさっと落ちる音などがしたので、他の二疋が目を覚ましたからです。彼等はちょっとの間、ねむそうに真鍮の指で目をこすりながら坐っていましたが、一方彼等の頭の蛇は、おどろきと、相手は何ものとも知らないながらも毒気を含んだ敵意とで、みんな棒立になりました。しかしその二疋のゴーゴン達が首のなくなった、うろこだらけのメヅサの死骸と、すっかり逆立さかだって、半ば砂の上にひろげられた金の翼とを見た時に立てた叫びと悲鳴と来ては、本当に、聞いていて身の毛がよだつほどでした。それからまた蛇もです! 百もそろって一斉にしゅっしゅっというものですから、メヅサの頭の蛇もまた、魔法の袋の中からそれにこたえるのでした。
 ゴーゴン達はすっかり目が覚めるとすぐに、がらがらというような音を立てて空中に舞上って、真鍮の爪を振上げ、物凄い牙をばりばりと鳴らし、その大きな翼をあまりはげしくばたきしたので、羽根の毛が幾つか抜けて、ひらひらと海岸の方へ落ちて行きました。そしておそらくそれらの羽根の毛は、今でもそこに落ちているでしょう。ゴーゴン達は高く舞上って、それはもう、誰でも石にしてしまおうというので、物凄くあたりを睨みまわしました。もしもパーシウスが彼等の顔をまともに見るとか、彼等の爪にかかるとかしていたら、彼の気の毒なお母さんは、二度とわが子に接吻する時は来なかったでしょう。しかし彼はゴーゴン達の方を見ないように、よく気をつけました。それに彼は隠兜をかぶっていたので、ゴーゴン達は彼をどっちへ追っかけていいか分らなかったのです。又彼は飛行靴とびぐつを出来るだけ利用することを忘れないで、まっすぐに一マイルばかりも上って行きました。その辺まで昇って、あの怪物達の鳴声が下の方からかすかに聞えるようになった時、彼はポリデクティーズ王のところへメヅサの首を持って帰るために、セライファス島をさして一直線に飛びました。
 パーシウスが帰る途中で、今にも一人の美しい少女を呑もうとしているおそろしい海の怪物を退治たいじたとか、又ちょっとゴーゴンの首を見せただけで、とても大きな巨人を石の山にしてしまったとかいったような、幾つかの驚くべき出来事もあるが、時間がないから略しておきましょう。しかし巨人を石の山にした話などは眉唾ものだと思うなら、君達そのうちにアフリカへ行って見るといい。今でもその巨人の名で知られている山が、ちゃんとあるんだから。
 とうとう、勇敢なパーシウスは島へ帰り着きました。そしてなつかしい母親に会えると思っていました。ところが、彼の留守の間に、悪いポリデクティーズ王が、ダネイに対して大変ひどくしましたので、彼女は逃げ出さずにはいられなくなって、或るお寺に隠れていました。そのお寺では、年取った、いいお坊さん達が、彼女にたいそう親切にしてくれました。これらの感心なお坊さん達と、それからダネイと小さなパーシウスとが箱に入れられて流されて来たのを見て最初に彼等二人をいたわってくれたあの漁師とだけが、この島では正しいことをしようと心がけている人達のようでした。そのほかの人達は、ポリデクティーズ王に限らず、みんなおこないが悪くてちょうどこれから起ろうとするような目に遇うのがあたりまえでした。
 お母さんが家に見えないので、パーシウスはまっすぐに王宮へ行きました。そしてすぐに王様の前へ通されました。ポリデクティーズは彼に会うことをちっとも喜んでいませんでした。というのは、彼は意地悪い心の中で、ゴーゴン達が哀れなパーシウスをずたずたに引裂いて、彼の邪魔にならないように、呑んでしまってくれたものとばかり思っていたからでした。ところが、彼がけろりとして帰って来たので、王様はそれに対して出来るだけいやな顔を見せないようにして、パーシウスがどんな風にして成功したかを尋ねました。
『お前は約束を果したかね?』と王様は訊きました。『お前は蛇の髪をしたメヅサの首を持って帰ったかね? でないと、お前、ひどい目に遇うぞよ。わしは、美しいヒポデイミヤ姫に対する婚礼の贈物が是非ほしいのだが、メヅサの首ほど姫の気に召すものは外にないのじゃから。』
『はい、おそれながら、』とパーシウスは、落着いて、メヅサ退治くらいは彼ほどの若者にとっては別に大して驚くほどのことでもないといった風に答えました。『私はメヅサの首を、蛇の髪も何もついたままそっくり持参いたしました!』
『それは本当か! どれどれ見せなさい、』とポリデクティーズ王は言いました。『もしも旅人達の言うことがみんな本当だとしたら、それはまことに珍らしい見ものに違いない!』
『仰せの通りにございます、』とパーシウスは答えました。『それは本当に、誰でも一ぺん見たら、もうその方に目を吸いつけられてしまうことは、ほぼ間違いのないものでございます。そして、もしも陛下さえよろしいとお思召すならば、休日をおふれだしになり、陛下の人民を全部お呼び集めになりまして、このすばらしい珍品をお見せ遊ばしてはいかがでございましょう。私が思いまするに、ゴーゴンの首を今までに見た者も、またおそらくこの先二度と見る者もあまりございますまいから!』
 王様は彼の人民が、どうにもならないような怠け者の集まりで、そうした連中の常として、たいへん物見高いということをよく知っていました。そこで彼は若者の意見をれて、四方にお触役ふれやくや使者を送って、街角や市場や、また至る処の四辻で喇叭らっぱを吹かせて、人民を全部宮廷に呼び集めました。そこで、やくざな浮浪者の大群が宮廷さして集まって来ましたが、彼等はみんな、ただ他人ひとの不幸をよろこぶ心から、パーシウスがもしもゴーゴン達との勝負で何かひどい目に遇っていたら、うれしがったような人間ばかりでした。もしその島にもっといい人達がいたとしたら(この話にはそんな人達のことはちっとも出て来ないけれども、僕はそんな人もいただろうと本当に思うのですが)、彼等は静かに家に残って、自分の仕事にいそしんだり、子供達の面倒を見たりしていたでしょう。それはとにかく、人民の大部分は一目散に王宮へ駆けつけて、露台バルコニへ近づこうとして夢中になって、互に突飛ばしたり、押したり、かき分けたりし合いました。露台にはパーシウスが現れて、縫取りをした袋を手に持っていました。
 露台が一杯に見える一段高くなった所には、半円形にずらりとならんだ、悪い顧問官達や、おべっか使いの廷臣達にかこまれて、えらいポリデクティーズ王が着座していました。王様や顧問官や廷臣や人民は、みんな熱心にパーシウスの方を見つめていました。
『その首を見せろ! その首を見せろ!』と人々は叫びました。彼等の叫びには、もしもこれから出して見せる物が彼等を満足させる程のものでなかったら、パーシウスをずたずたに引裂きかねないような烈しさがありました。『蛇の髪をしたメヅサの首を見せろ!』
 若いパーシウスは、悲しいような、気の毒なような気持になりました。
『おう、ポリデクティーズ王様、』と彼は叫びました、『そして大勢おおぜい方々かたがた、私はあなた方にゴーゴンの首をお見せすることは、ひどく気がすすまないのです!』
『ああ、この悪党の卑怯者!』と、人々は前よりもはげしくわめき立てました。『あいつはわれわれを馬鹿にしてやがる! あいつはゴーゴンの首なんぞ持っていないんだ! もし持っているんなら、われわれにそれを見せろ! でないとお前の首をもらって、フットボールにしてしまうぞ!』
 いけない顧問官達は、王様に耳打して、悪い智恵をつけました。廷臣達は一斉に、パーシウスが彼等の王様であり主君である陛下に対して不敬を敢てしたと呟きました。そして、えらいポリデクティーズ王自身は、手を振って、威厳のある、きびしい、太い声で、わが身の危険も知らずに、その首を出して見せよとパーシウスに命じました。
『わしにゴーゴンの首を見せよ。さもなければお前の首を打ち落すぞ!』
 それを聞いて、パーシウスは溜息をつきました。
『今すぐに、』とポリデクティーズはまた言いました、『でなければ命がないぞ!』
『では、お目にかけましょう!』とパーシウスは、喇叭を吹き鳴らしたような声で叫びました。
 そして彼がメヅサの首を、さっと差上げるとまばたきをする暇もなく、悪いポリデクティーズ王と、いけない顧問官達と、獰猛な全人民とは、単に王とその人民との群像でしかなくなっていました。彼等はみんな永久に、その瞬間の顔附と姿勢とのままで、固まってしまったのです! 恐るべきメヅサの首を一目見ただけで、彼等は白い大理石になってしまったのです! そこでパーシウスは、またメヅサの首を袋に入れて、もう悪いポリデクティーズ王をこわがる必要のなくなったことを知らせに、なつかしいお母さんのもとへ急ぎました。


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    タングルウッドの玄関
       ――話のあとで――

『大変面白いお話じゃなかった?』とユースタスは訊いた。
『ええええ、面白いお話だったわ!』とカウスリップは手をたたいて叫んだ。『そしてあの、仲間で目が一つしかない、おかしなおばあさん達なんて! あたしそんな不思議なことって今まで聞いたことがないわ。』
『でも、そのおばあさん達がやりとりしていた一本の歯のことなら、』とプリムロウズが言い出した、『別に驚くほどのことはないわ。それは義歯いればだったのよ。しかし、にいさんはマーキュリをクイックシルヴァにしてしまったり、また彼の姉妹の話を入れたりなんかして! あんまりおかしいじゃないの!』
『じゃ、あれは姉妹じゃなかったのかね?』とユースタス・ブライトは訊いた。『僕それに早く気がついていたら、彼女を梟なんか可愛がって飼ってるようなお嬢さんに仕立てるんだったなあ!』
『あら、それでも、あなたのお話で霧が晴れちゃったらしいわ、』とプリムロウズは言った。
 実際、その話がつづけられているうちに、野山から霧はすっかり消え去っていた。彼等の前に繰りひろげられた景色は、この前に見た時と方角一つ違っているわけでもないのに、まるで新しくつくり出されたもののような気がするほどだった。半マイルばかり先の谷間のくぼに、美しい湖水が姿を見せて、その岸辺の林と、向うの山々の頂とをくっきりと映していた。その水面は鏡のように静かに光って、どこにも微風そよかぜの吹くあとさえ見えなかった。その向う岸には、殆ど谷間を横に仕切ったように、ながながと寝そべったような恰好のモニュメント山があった。ユースタス・ブライトはその山を、波斯ペルシャ風のショールにくるまった、首のないスフィンクスに譬えた。そして実際、その山の木々きぎの秋の葉は、とても美事で、色彩の変化に富んでいたので、波斯ペルシャショールの譬えも決してその現実を誇張したものではなかった。タングルウッドと湖水との間の低地の、こんもりとした木森きもりや林の縁廻りなどは、山腹の木の枝葉えだはよりもひどく霜を受けたと見えて、大抵は金色か焦茶色に紅葉していた。
 こうした眺め一杯に快い日の光がさして、それにまつわるかすかなもやのために、何とも言えない柔味やわらかみとやさしみとを帯びていた。おう、今日こそどんなに気持のいい小春日になることだろう! 子供達は勢よくバスケットを取上げて、飛んだり跳ねたり、思いきりはしゃいだり、ふざけたりしながら出発した。一方従兄いとこのユースタスは子供達の思い思いのはしゃぎ方のまだ上手うわてを行って、いろいろ変ったふざけ方をして見せたので、子供達も、とてもその真似は出来ないと諦めてしまった位で、立派にこの一行の首領たる資格を証明したわけであった。そのあとからは、ベンという立派な老犬がついて行った。ベンは動物としては珍らしいくらい立派な、親切な犬だったが、どうやら、このおっちょこちょいのユースタス・ブライト以上の監督なしで、これらの子供達を親達のもとから離れさしては、自分の責任になるとでも感じているらしかった。


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    シャドウ・ブルック 
       ――「何でも金になる話」の前に――

 お昼に、子供達の一行は、或る谿間たにまに集まった。その底の方を小さな谷川が流れていた。谿は狭くて、その両側が、川のふちから急な斜面になっていて、樫や楓まじりに、主として胡桃くるみと栗の木とが深く茂っていた。夏の頃には、小川の両岸から突き出して互に入りまじった沢山の枝が、ぎっしりと、昼も暗いほどに深くしげっていた。蔭谷川シャドウ・ブルックの名は、そこから来ているのである。しかし、この奥まった場所へも秋がしのび込んで来た今では、小暗おぐらい青葉もすべて金色に変って、谿間に蔭を落すどころか、本当にそこをぱっと明るくしていた。曇った日でさえ、その明るい黄葉のところは、日の光が照り残っているように見えたであろう。そしてまた、川のとこにも縁にも一杯に、沢山の黄葉が落ちて、日の光をばらまいたようだった。こうして、夏もここで涼んで行ったかと思われる小暗おぐら谷蔭たにかげが、今では何処にも見られないような明るい場所になっていた。
 そうして金色になった水路を伝って流れる谷川は、この辺でちょっとよどんで、たまりのようになっていて、その中には※(「魚+條」、第4水準2-93-74)やなぎばえがすいすいと泳ぎ廻っていた。流れはそれからまた速くなって、湖へ行き着くのを急ぐもののようであった。そのうちに、川幅一杯に根を張った木があって、その根にぶっつかった水は、もんどり打って、ちょっと行きどころを忘れたようにとまどいした。そうして不意を喰らった谷川が、大袈裟に立てている水の音を聞いていると、おかしくなる程だった。それからは、どんどん流れて行きながらも、まるで迷路へはいってしまって独り口でも利いているように、川のささやきは止まなかった。思うに、暗い筈の谿がこんなに明るくはなっているし、その上、沢山の子供達がおしゃべりをしたり、騒ぎまわったりしているので、川もびっくりしたのであろう。とにかく、そんな風にして、川はどんどん谿間をくぐって、湖水の中へとそそいでいた。
 ユースタス・ブライトとその小さな仲間達とは、このシャドウ川の谿で昼食ちゅうじきをした。彼等はタングルウッドからうまい物をどっさりバスケットに入れて持って来て、それを木の切株や、苔むした木の幹の上にひろげて、愉快に騒ぎながら、とてもおいしくいただいた。それがすむと、みんながっかりしてしまった。
『ここで休んで、ユースタスにいさんに、また何かいいお話をしてほしいなあ、』と子供達の幾人かが言った。
 従兄カズンユースタスだって、当然、子供達同様草臥くたびれていた。というのは、この楽しかった午前中に、彼はいろいろと離技はなれわざを演じて見せたのだから。ダンデライアンやクロウヴァやカウスリップやバタカップなどは、パーシウスがニンフ達から貰ったような、翼の生えたスリッパを、ユースタスが履いているのだと、も少しで本当に思い込むところだった。実際この学生は、今し方まで地上にいたかと思うと、たちまちにして胡桃くるみの木の天辺てっぺんに上っているようなことが度々たびたびあったのだ。すると今度は、胡桃の大雨をばらばらと子供達の頭の上に降らして、彼等は大急ぎでそれをバスケットの中へ拾い集めるのであった。つまり彼は栗鼠りすか猿かのように飛び廻ったあとなので、今度は、黄色い落葉の上に身を投げ出して、ちょっと休みたい様子だった。
 しかし子供というものは、他人がくたくたに疲れていたって、なさけも容赦もあるものではない。もしも一息でもく息が残っていれば、それでお話をしてくれとせがむのである。
『ユースタスにいさん、』とカウスリップが言った、『ゴーゴンの首のお話はとても面白かったわ。あれに負けない位のお話を、も一つお出来になりそう?』
『出来るよ、君、』とユースタスは言って、これから仮睡うたたねでも始めようかとでもいったように、帽子のひさしを目の上までぐっと下した。『あれ位なのは、いや、やろうと思えばもっと面白いのを、一ダースくらいは出来るよ。』
『ねえ、プリムロウズとペリウィンクル、にいさんのおっしゃったこと聞いて?』と叫んで、カウスリップはよろこんで踊り出した。『ユースタスにいさんは、ゴーゴンの首の話より、もっと面白いのを一ダースもして下さるんですって。』
『一つだってするとは言ってやしないよ、この小さなカウスリップのお馬鹿さん!』とユースタスは半分怒ったように言った。『しかし、どうもさせられそうだね。これもあんまり評判を取ったおかげだ! 僕はもっとずっとのろまに生れるか、それとも、天から授った立派な才能を少し隠すかしとけばよかったなあ。そうすれば、静かに、気楽に仮睡うたたねも出来たんだが。』
 しかし、従兄ユースタスは、私が前にもちょっとそんなことを言っておいたと思うが、子供達が話を聞くのが好きなのと同じように、彼はまた話をして聞かせることが好きなのであった。彼の心は自由な、愉快な状態にあって、それ自身の活動に喜びを感じ、それを働かすのにほとんど外部からの刺戟を必要としなかった。
 こうした頭の自発的活動というものは、中年者の、訓練の結果から来た勤勉などとは、まるっきり違ったものだ。というのは、中年時代になると、長い習慣によって、つとめはらくになり、一日でも仕事を休むと気持が悪いというくらいになる代りに、そのほかのことはぬけがらみたいになってしまうからである。しかし、こんなことはあまり子供達には聞かせない方がいいかも知れないが。
 ユースタス・ブライトは、子供がそれ以上せがむまでもなく、次のような実にすばらしい話を始めた。その話は、彼が寝ながら、深々ふかぶかと繁った木を仰ぎ見て、秋のおとずれが青葉をことごとく純金のように変えてしまった有様をつくづくと目にとめた結果、頭に浮かんだものだった。そしてわれわれのすべてが、始終見ているこの変化は、ユースタスが今から始めるマイダス王物語の中で話したどんなことにも劣らず不思議なことなのだ。


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    何でも金になる話

 昔々一人のたいへんなお金持がありました。そのかたはおまけに王様で、名はマイダスといいました。この王様には、一人の小さな王女がありましたが、その王女のことは僕のほかに知っている者はなく、その僕でさえ、王女の名はつい聞きもらしたか、或は聞いたにしても、すっかり忘れてしまいました。だから、小さな女の子には妙な名前をつけることの好きな僕は、その王女を仮にメアリゴウルドと呼んでおくことにしましょう。
 このマイダスという王様は、世の中の他の何よりもきんが好きでした。彼が自分の王冠を大切に思うのも、おもにそれが金で出来ているからでした。もしも彼が何か金以上に、或はほとんど金と同じ位に、愛していたものがあるとすれば、それは彼の足置台のまわりで楽しく遊ぶただ一人の姫でした。しかし彼は姫を可愛く思えば思うほど、一層おかねが欲しくなるのでした。彼はおろかにも、彼がこの可愛い姫のためにしてやれる一番いいことは、この世が始まって以来、まだ積まれたこともないような、山吹色の、光り輝く金貨の大きな山を、彼女にのこしてやることだと考えました。そんなわけで、彼は彼の頭と時間との全部を、この一つの目的のために費しました。彼はふと日没の金色の雲に目をとめて、しばらくそれに見入ることでもあれば、それが本当の金であって、彼の金庫の中へ大切にしまっておくことが出来たらどんなにいいだろうと考えるのでした。また、メアリゴウルドが、きんぽうげやたんぽぽの花束を持って、彼の方へ駆け寄って来る時には、彼はいつも、『へん、つまらない、姫や! もしもその花束が見かけ通り本当の金だったら、摘む値打があるんだがね!』と言うのでした。
 そのくせ、もっと若い時分、まだ彼がそんなにおかねほしさの気違いになり切らないうちは、マイダス王も大変草花に趣味を持っていたのでした。彼は花園を造って、そこには誰も今までに見たことも嗅いだこともないような、大きな、美しい、匂いのいい薔薇が植えてありました。その薔薇は、マイダスがいつもそれを眺めたり、匂いを嗅いだりしながら何時間も過ごした時と同様に、大きく、美しく、匂いもそのままに、今もその花園に咲いていました。しかし今では、彼が仮にそれをちょっとでも見るとすれば、もしもその数え切れない程の花びらの一つ一つが薄い金の板で出来ているとして、この花園がどれ位の値打になるだろうと勘定して見るために過ぎませんでした。それからまた、(彼の耳は驢馬のようだったなんて、つまらない噂を立てる人もありますが)、一時彼は音楽を好いたこともあったのですが、今では、気の毒なマイダスにとっての唯一の音楽は、金貨同志がかち合ってちんちんと鳴る音でした。
 とうとう(一体人間はだんだん利口になるように心がけないと、必ずだんだん馬鹿になるにきまったものだから)、マイダスは金でないものは、どんなものでも、ほとんど見ることも手にすることもいやだというような、てんで物の分らない人間になってしまいました。その結果、彼は毎日の大部分を、彼の王宮の土台の下の、暗い、淋しい地下室で送るような癖がつきました。彼はそこに金をしまっていたのです。彼は特に幸福になりたい時はいつでも、この陰気な穴の中――というのは、そこは土牢も同然だったから――へはいって行きました。彼はそこで、念入りに扉に錠を下してから、金貨のはいった袋や、洗盤ほどもある金のコップや、重い金の延棒のべぼうや、十リットルもある金粉を取り出し、それを部屋の薄暗い隅っこから持ち出して来て、土牢のような窓からし込む一筋の、明るい、細い日光に当てて見るのでした。彼が日光を有難く思ったのは、その助けがなくては彼の宝も光らないからだけのことでした。それから彼は、袋の中の金貨をすっかり数えて見たり、延棒を抛り上げて、落ちて来るところを受けて見たり、指の間から金粉をさらさらと落して見たり、それから、コップのつるつるした胴廻りにうつる自分の顔のおかしな映像かげを眺めたりしては、『おう、マイダス、お金持の王様マイダスよ、御身おんみは何という仕合せ者だろう!』と独りでささやいて見るのでした。しかし、彼の顔のかげが、コップのつるつるした表面から、彼に向って歯をむき出して笑ってる様子は、見るも滑稽なものでした。それは彼のおろかなおこないをちゃんと知っていて、彼を馬鹿にしがっているようにも見えました。
 マイダスは自分を仕合せな人と呼んでは見たものの、まだ自分の望んでいるほど幸福になり切っていないという気がしました。全世界が彼の宝の庫となって、それに全部自分のものである黄金が一杯にでもならなければ、すっかり満足し切るところまでは行かなかったのでしょう。
 さて、君達のような利口な子供には、こんなことを言う必要はないかと思うが、マイダス王が生きていた古い古い昔には、今日こんにちこの国で起ったならば、われわれも不思議だと思うようなことが、いろいろ沢山ありました。その代りにまた、今日こんにちのいろいろの出来事のうちには、われわれにとって不思議な気がするばかりでなく、昔の人が見たら目をまるくしてしまうような事も沢山あるでしょう。全体からいうと、昔と今とでは、今の方が僕は不思議な時代だと思う。しかし、それはどうでもいいとして、僕は話を進めなければならない。
 マイダス王が或る日例によって、宝の庫にはいって楽しんでいる時、山と積んだ金の上に影がさすのに気がつきました。ふと顔を上げると、これはまたどうしたことか、一人の見たことのない人の姿が、明るい、細い日光の中に立っているのです! それは快活そうな、血色のいい顔をした青年でした。あたりの物すべてが金色を帯びて見えるのは、マイダス王の気のせいか、それとも何かまた原因があるかは知らないが、彼はその見知らぬ人が彼に向ける微笑の中に、一種の金色の光が含まれているような気がしてなりませんでした。たしかに、見知らぬ人の姿が日の光をさえぎっているにも拘らず、積み重ねられたすべての宝が、今では、前よりも一層光り輝いているのです。一番隅っこの方までが、その人がにっこりと笑うと、まるでほのおや火花に照らされたように、ぱっと明るくなるのでした。
 マイダスは錠前の鍵をちゃんと下しておいたこと、それから人間の力ではとてもこの宝の庫に侵入することが出来ないことを知っていましたので、勿論、この人は人間以上の何者かに違いないと判断しました。その人は誰だったかということは、別にここで言わなくてもいいでしょう。まだ地球が比較的新しい物だったその頃には、男や女や子供達の喜びや悲しみに、半分は冗談に、半分は真面目に、興味を持った、超自然な力をそなえた、神様みたいな人が、よくやって来たらしいのです。マイダスは前にもそんな人に出会ったことがあるので、またやって来られて困ったとは思いませんでした。実際、その見知らぬ人の様子は、慈悲深いとは云えないまでも、たいへん愛想がよく、やさしそうなので、何か悪いたくらみがあって来たのではないかと疑ったりすることは間違っているような気がしました。それよりもずっと、マイダスに好意を持って来てくれたらしい気がしました。とすれば、彼の宝の山をもっと大きくしてやろうという以外に、好意はない筈じゃないかしら?
 見知らぬ人は部屋を眺めまわしました。そして彼の光を放つような微笑で、部屋の中の金で出来たいろいろの品物をみんなきらきらと光らせてから、またマイダスの方に向きなおりました。
『マイダスさん、あなたはお金持ですね!』彼は言いました。『こうしてあなたが一生けんめいこの部屋に積上げられたほどの金のはいった部屋は、世界中何処へ行っても、ほかにはなさそうですね。』
『わしもかなり集めましたよ――かなりね、』とマイダスは、まだ満足出来ないといった調子で答えました。『しかし結局、これだけ集めるのに、一生かかったことを思うと、あんまり少なすぎますよ。人間も千年くらい生きられるものなら、金持になる暇もありましょうがね!』
『何ですって!』と見知らぬ人は叫びました。『それじゃあなたは、まだ不足なんですか?』
 マイダスはかぶりを振りました。
『では一体、どうなったら満足するんです?』と見知らぬ人は尋ねました。『あんまり変っているので、ちょっとお訊きするだけのことですが、是非一つ、うかがいたいものですなあ。』
 マイダスはちょっと考え込みました。彼は、やさしい微笑に金色の光をさえ含んだ、この見知らぬ人は、彼の最大の望みを叶える力もあり、またそれを叶えてくれるつもりで来たのじゃないかというような虫の知らせを感じました。だから、今こそ、彼の頭に浮かんだ、出来そうな相談は勿論、ちょっと出来ないような相談でも、ただ口に出して頼みさえすれば、聞いてもらえるという、またとない機会なのです。そこで彼は考えに、考えに、考えて、黄金の山の上に、また黄金の山と、頭の中でいくつも積み重ねて見ましたが、なかなかこれでいいという大きさにはならないのでした。とうとう、すばらしい考えがマイダスの胸に浮かびました。それは本当に、彼の大好きな金にも負けない位すばらしいもののような気がしました。
 彼は頭を上げて、この光り輝く見知らぬ人をまともに見ました。
『どうしました、マイダスさん、』とその人は言いました。『何か気に入った考えが浮かんだようですね。あなたの望みを言って下さい。』
『ただこういうことなんですが、』とマイダスは答えました。『こんなに骨を折って宝を集めて、力一杯やった結果が、こんなちっぽけなものかと思うと、わしはうんざりしてしまうのです。わしはさわった物が何でも金になってくれたら、どんなにいいかと思いますな!』
 その見知らぬ人の微笑が、あまりあからさまになったので、それは、こんもりとした谿間へお日様がぱっとし込んだように、部屋中を照らすかに見えました。そして金塊や金粉は、明るい光の中に散り敷いた、黄色い秋のの葉のように見えたのでした。
『さわれば何でも金になる力ですって!』とその人は叫びました。『そんなすばらしいことを考えつくなんて、マイダスさん、あなたもたしかに相当なもんですね。しかし、それで間違いなくあなたは満足するでしょうか?』
『それで満足しないなんてことがあってたまるもんですか!』
『そんな力が出来て、あとで困ったなんてことは、絶対にないでしょうか?』
『一体、どうして困るなんてことになるでしょう?』とマイダスは問い返しました。『わしは、このことさえ聞き入れてもられえば、完全に幸福になれるんです。』
『では、あなたの望み通りになるように、』と、その見知らぬ人は答えて、別れのしるしに手を振りました。『明日、日の出る時になれば、あなたは何でも金にする力を授っているでしょう。』
 と言ったと思うと、その見知らぬ人の姿がとても光り出したので、マイダスは思わず目を閉じました。今度目をあけて見ると、部屋の中にはただ、一筋の日の光と、それから、彼のまわり中に、彼が一生かかってため込んだ金がきらきらと輝いているのとが見えるばかりでした。
 マイダスがその晩、平常通り眠ったかどうかは、この話に出ていません。しかし、眠ったにしても、覚めていたにしても、彼の心はおそらく、明日になったら新しい、いい玩具を上げようと約束された子供みたいに、わくわくしていたことだろうと思われます。とにかく、お日様が山から顔を出すか出さないうちに、マイダス王はすっかり目を覚まして、寝床の中から腕を伸ばして、手の届くところにある物をさわり始めました。彼は果してあの見知らぬ人の約束通り、何でも金にしてしまう力が出来たかどうか、ためして見たくてならなかったのです。だから彼は寝台の傍の椅子や、そのほかいろいろなものに指を触れて見ましたが、それがまるでもとのままで、少しも変ったものにならないので、ひどくがっかりしました。実際彼は、どうかするとあの光り輝く見知らぬ人の夢を見ていただけなのか、それともあの人が彼をからかったのではないかしらと、たいへん心配になって来ました。あんなに楽しみにしていたのに、何でもちょっとさわって金にしてしまうというのではなくて、相変らず普通の方法で、わずかな金を掻き集めて行くことに満足しなければならないとしたら、どんなにつまらないでしょう!
 その時はまだ明け方のうす暗がりで、東の空の下の方が、ほんの一すじ明るくなっていただけでしたが、マイダスの寝ているところからは、それは見えませんでした。彼は大変がっかりした気持になって、あてがはずれてしまったのをいまいましく思い、だんだん悲しくなるばかりでしたが、そのうちにとうとう朝の最初の日影が窓からさしこんで来て、彼の頭の上の天井を金色に染めました。マイダスには、この黄色い日影が、寝床の白い覆布おおいに何だか変な風にうつっているような気がしました。それをもっとよく見て、リンネルの布地が、まるでまじりけのない、きらきらした金の織物のように変っていたことを知った時の彼の驚きと喜びとはどんなだったでしょう! さわれば何でも金になる力が、朝日の光と一しょに、彼に授ったではありませんか!
 マイダスは喜びのあまり、気違いのようになって飛び起きました。そして部屋中を駆け廻って、何でもその辺にある物を手当り次第につかみました。彼が寝台の柱の一つをつかむと、それはたちまち丸溝まるみぞのついた金の柱になりました。彼は自分がおこなっている奇蹟を、もっとはっきりと見るために、窓掛を一枚引きよせましたが、窓掛のふさがまた手の中で重くなったと思うと――もう金のかたまりになっていました。彼は机から一冊の本を取上げました。ちょっとさわっただけで、その本はわれわれが近頃よく見るような立派な装幀そうていの、金縁きんぶちの本みたいになりましたが、指を紙の間に通すと、これはしたり! それは金箔をじたようになって、中に書いてあった立派な文句はすっかり見えなくなってしまいました。彼はいそいで着物を着ました。それがまた金の布地で仕立てた堂々たる衣装に変ったので、彼は夢中になりました。それはいくらかその重みで、荷になるような気がしましたが、地質の柔軟やわらかさはもとのままに残っていました。彼は小さなメアリゴウルドが縁取ふちどりをしてくれたハンカチを取り出しました。そのハンカチもまた、可愛いメアリゴウルドが手際よく、きれいに縁をずうっと縫ったあとが金糸となってついたまま、金になってしまいました。
 どうしたわけか、このハンカチが金になったということだけは、マイダス王もあまりうれしく思いませんでした。彼も、小さな姫の手芸品だけは、姫が彼の膝に上って、彼の手に渡した時そのままであってほしかったのです。
 しかし些細ささいなことで気を揉んでもつまりません。マイダスはそこで、自分のやっていることを一層はっきりと見るために、ポケットから眼鏡を取り出して、鼻にかけました。その時分には、一般の人達が使う眼鏡は出来ていなかったが、王様達はもうかけていました。でなければ、どうしてマイダスだって眼鏡を持っている筈がありましょう? ところが、彼が大変面喰めんくらったことには、そのガラスは上等だのに、ちっとも見えないことが分ったのです。しかしこれほど当り前なことはないわけで、というのは、はずして見ると、透徹すきとおっていた筈の上等ガラスが、金の板になってしまっていて、勿論、金としては値打があっても、眼鏡としては使いものにならなくなっていたからでした。いくらお金があっても、役に立つだけの眼鏡を二度と持つことが出来ないような貧乏人も同様になったということは、どうも困ったことだとマイダスは思いました。
『しかし、大したことじゃない、』と、マイダスは大変落着いて、独り言をいいました。『多少の不便が伴わないで、大変いいことがあるなんて思うのは虫がよすぎるんだ。さわれば何でも金になるような力のためには、少なくともめくらにさえならなければ、眼鏡の一つ位は棒に振ってもいい。わしの目は普通のことには不自由はしないし、それに小さなメアリゴウルドも、じきにものを読んで聞かせてくれる位の大きさにはなるだろう。』
 お目出度いマイダス王は、彼の幸運をあんまり喜んでしまって、王宮さえも彼がはいっているには少し狭いような気がしました。そこで彼は階下したへ下りて行きましたが、そのとき彼が手でずうっと撫でて下りた階段の手欄てすりが、磨いた金の棒になってしまったので、またにこにこ顔になりました。彼は扉の※(「金+巽」、第4水準2-91-37)かきがねを上げて(それもほんの今し方まで真鍮だったものが、彼の指が離れた時にはもう金になっていた)、庭へ出ました。ちょうどそこでは、沢山の美しい薔薇が満開で、そのほかに蕾やら、八分咲きやら、いろいろありました。それが朝のそよ風の中に、えもいわれぬ香気においをただよわせていました。それらの薔薇の、美しい赤らみは、ほかではちょっと見られない程のもので、とてもやさしく、つつましく、何ともいえない静かさに満ちていました。
 しかしマイダスは、彼一流の考え方から云って、この庭の薔薇を、今までのどんな薔薇よりもずっと値打のあるものとする方法を知っていました。そこで彼は一生けんめいに薔薇の藪から藪へと飛び廻って、とても根気よく彼の魔力をふるいましたので、とうとう花も蕾も一つ残らず、いやそのしんにもぐっていた虫までが、金になってしまいました。この結構な仕事がすっかり終らないうちに、マイダス王は朝飯に呼ばれましたが、朝の空気のために大変おなかがすいていたので、急いで宮殿へ帰って行きました。
 マイダスの時代には、王様の朝御飯がどんなものだったかは、僕は本当に知らないし、又ここでそれを穿鑿せんさくしているわけにもゆきません。しかし、この記念すべき朝の食卓には、ホットケイキ、おいしい小さな川鱒かわます、ロース焼の馬鈴薯ばれいしょ、新鮮な茹卵ゆでたまご、それからコーヒーなどをマイダスに、そして姫のメアリゴウルドのためには一杯のパン入りミルクが供えてあったことと思います。とにかく、これならば王様の前に供えても恥ずかしくない朝飯でしょう。マイダス王が果してこんな朝飯を食べたかどうかは分らないが、まあこれ以上のことはなかったろうと思います。
 小さなメアリゴウルドは、まだ姿を見せませんでした。マイダスは彼女を呼ぶように言って、朝飯を始めるために食卓について、姫の来るのを待っていました。公平に見て、彼は本当に姫を愛していました。今朝はまた、彼にふりかかって来た幸運のために、その愛情が一層深くなっていました。しばらくするうちに、姫がひどく泣きながら廊下をやって来るのが聞えました。姫が泣くなんて彼には意外なことでした。何故なら、メアリゴウルドは夏の日に遊びたわむれているのをよく見かけるような子供達のうちでも一番元気な一人で、年中ちょっとでも涙を流すようなことのない子でしたから。マイダスは彼女が泣きじゃくるのを聞いた時、あっと驚いて喜びそうなことをやって見せて、可愛いメアリゴウルドの機嫌を直させようと決心しました。そこで、テイブルの上へ乗り出して、彼女の鉢にさわりました。それは支那出来しゅったいの鉢で、まわりに綺麗な人物が描いてありましたが、それをきらきらした金の鉢にしてしまったのです。
 そのうちにメアリゴウルドが、しぶしぶと扉をあけて、目にエプロンを当てたまま、まだ胸も張り裂けるばかりに泣きじゃくりながらはいって来ました。
『おや、どうしたの、姫や!』とマイダスは叫びました。『このお天気のいい朝に、一体どうしたことじゃ?』
 メアリゴウルドは目にエプロンを当てたまま、手をさし出しましたが、その手にはマイダスが今しがた金にしたばかりの薔薇の一つがありました。
美事みごとじゃ!』と父は叫びました。『してこの大したきんの薔薇の何処が気に入らなくて泣くのかね?』
『ああ、お父さま!』と姫はすすり泣きのうちにも、出来るだけはっきりと答えました。『これうつくしかあないわ、こんなきたない花ってないわ! あたし着物を着るとすぐに、薔薇を摘もうと思ってお庭へ駆けて行ったのよ。だって、お父さまは薔薇がお好きでしょ、あたしが摘んだのは余計にお好きでしょ。だのに、まあ、まあ! どんなことになっていたと思って? とてもひどいことになっちゃったのよ! あんなにいいにおいがして、あんなにとりどりのきれいな紅色べにいろをしていた美しい薔薇が、みんな病気になってめちゃめちゃになっちゃったのよ! これ、この通り、みんなまるで黄色くなっちゃって、もう匂いもなんにもないの! 一体どうしたというんでしょうね?』
『なあんだ、わしの可愛い姫や――そんなことで泣くんじゃないよ!』とマイダスは言ったものの、姫をこんなにひどく悲しませた変化を自分の手でおこなったのだと打明けることは、恥ずかしくて出来ませんでした。『坐ってパン入りのミルクをおあがり! 何百年でもつような、こんな金の薔薇を持ってれば、一日でしぼむようなただの薔薇となら、何時でも取換えられるからね。』
『あたしこんな薔薇はいやです!』とメアリゴウルドは叫んで、それを三もんの値打もないもののように投げ棄てました。『ちっとも匂いはないし、固い花弁が鼻を刺して痛いんだもの!』
 姫はもう食卓についていましたが、黄色くなってしまった薔薇に対する悲しみで心が一杯だったので、彼女の支那鉢の驚くべき変化にも気がつきませんでした。多分その方がずっとよかったのでしょう、というのは、メアリゴウルドは、鉢のまわりに描いてある奇妙な人物や、変った木や家を見て、いつも喜んでいたのに、今ではそれらの絵がすっかり金の黄色の中に消え去っていたからです。
 その間にマイダスは、一杯のコーヒーをいでいました。勿論コーヒー注ぎも、彼がそれを取り上げた時はどんな金属かねで出来ていたにせよ、それを下に置いた時にはもう金になっていました。彼は自分みたいな質素な日常を送る王様としては、金づくめの食器で朝飯をたべるなんて、随分贅沢なやり方だなあと、独りで考えました。そして、こんな風にどんどん出来て来る宝物を安全にしまっておくことは容易じゃないので、閉口し始めました。もはや戸棚や台所では、金の鉢やコーヒー注ぎのような高価なものをしまっておく場所としては、大丈夫とは云えませんでした。
 こんなことを考えながら、彼はコーヒーを一匙すくって口へ持って行きました。そしてすすって見て、それが唇に触れた瞬間に、熔かした金になり、次の瞬間には、金のかたまりになったのを見てびっくりしました。
『はあ!』マイダスはすこしあきれて叫びました。
『どうしたの、お父さま?』と小さなメアリゴウルドは尋ねて、目に涙をためたままで、じっと彼を見つめました。
『何でもない、姫や、何でもないんだよ!』マイダスは言いました。『めないうちにミルクをおあがり。』
 彼は皿の上のおいしそうな川鱒を一尾取って、試験の意味で、その尻尾しっぽを指でさわって見ました。驚いたことには、そのおいしそうに出来た川鱒のフライが、金の魚になってしまいました。但し金の魚といっても、客間の装飾としてガラス鉢の中によく飼われているような金魚になったのではありません。そうじゃなくて、本当に金で出来た魚になったのでした。そして、世界一の金細工師の手でたくみに作られたかのように見えました。その小さな骨は、今では金の針金となり、ひれと尻尾とは薄い金の板となり、フォークで突ついたあとまでついていて、上手に揚がった魚の、こまかい、つぶつぶした外観までが、すべてそっくりそのまま金で出来ているのでした。君達も想像がつくことと思うが、実にきれいな細工物でした。ただマイダス王も、この時ばかりは、こんな手の込んだ、高価な魚の模型よりも、真物ほんものの川鱒がお皿に乗っていた方がどんなにいいか知れないと思いました。
『これじゃ一体どうして朝飯を食べたものか、まるで分らなくなってしまう、』とマイダスは独りで考えました。
 彼がほやほやのホットケイキの一つを取って、こわすかこわさないうちに、ひどく困ったことには、一瞬間前まで真白な小麦粉で出来ていたものが、玉蜀黍とうもろこしの粉でつくったように黄色がかって来ました。実のところ、もしそれが本当に出来たての玉蜀黍のお菓子だったら、ずっと有難かったのですが、最早その固さと急に重くなったこととで、これもまた金になってしまったことが、はっきり分り過ぎて、一向に有難くないのでした。殆どやけになって、彼は茹卵ゆでたまごを取って食べようとしましたが、これもすぐに川鱒やお菓子と同じように、金になってしまいました。その卵は実際、お話の本に出て来るあの有名な鵞鳥が、いつも産んでいたという金の卵の一つと間違えられそうでした。しかしその卵が金になってしまったのは、誰のせいでもなく、マイダス王自身がそうしてしまったのです。
『はてさて、これは困ったことじゃ!』と彼は考えながら、椅子にもたれて、小さなメアリゴウルドの方をひどくうらやましそうに見ました。彼女はもう大変おいしそうに、パン入りのミルクを食べているのでした。『自分の前にはこんなに贅沢な朝飯がある。それでいて、何一つ食べられるものはないのだ!』
 今では相当厄介な気がして来た、何でも金にしてしまう力も、大急行で食べれば、避けられるかも知れないと思って、マイダス王は、今度はあつい馬鈴薯をつかんで、口の中へ押込み、それを急いでのみ込もうとしました。しかし、触れたものをたちまち金にしてしまう力の速さにはかないませんでした。彼の口は、粉を吹いた馬鈴薯じゃない、こちこちの金のいもで一杯でした。それがまた彼の舌を焼いたので、彼は大声でうなって、食卓から跳び上って、痛さとびっくりとで、踊ったり、どたばたと足を踏み鳴らしたりして、部屋の中を飛び廻り始めました。
『お父さま、ねえお父さま!』と孝行者の小さなメアリゴウルドは叫びました、『一体どうなさったの? お口があつかったの?』
『ああ、可愛い姫よ、』マイダスは悲しそうにうなりながら言いました、『お前のお父さんはどうなってしまうか分らないよ!』
 本当に君達、生れてからこんななさけない話って聞いたことがありますか? 王様の前に供えることの出来る、文字通りこの上なしの金目かねめの朝飯が出ているのに、その金目かねめのためにこそ、却ってそれがなんにもならないものになっているのです。これでは、本当にその重さだけのきんの値打があるような御馳走を前にしたマイダス王よりも、パン屑と水とですましているような、この上もなく貧乏な労働者の方が、ずっと暮向くらしむきがいいということになるわけです。じゃ、どうすればいいんでしょう? 朝飯の時に、もうマイダスは大変おなかがすいていました。昼御飯までにそれ以上おなかがすかないわけはありません。すると、晩御飯の時にでもなったら、どんなにがつがつして来るか分りません。しかも、晩御飯とても、きっと今目の前にあるのと同じような不消化な御馳走に違いありません! こうして、金づくめの贅沢な御馳走つづきで、彼が幾日生きて行けると君達は思いますか?
 こんなことをいろいろと考えて見ると、さすが欲馬鹿のマイダス王も、心配になって来て、果しておかねさえあればほかになんにも要らないで通せるものかどうか、又いろいろとほしい物のうちでお金が第一のものかどうかさえも疑わしくなって来ました。しかしこんなことは、ちょっと考えて見ただけのことでした。黄金の光に対するマイダスの迷い方と来ては、大変なものでしたので、朝飯のようなつまらないことのために、何でも金にする力を棒に振ってしまう気には、まだまだなれませんでした。そんなことでもしたら、一回分の食膳がどんなに高いものにつくか、まあ考えてもごらんなさい! 少しばかりの川鱒と卵と馬鈴薯とホットケイキとコーヒー一杯とに対して、何百万円も何百万円も、いやその上いつまで数えても数え切れないほどのお金を払うのと同じじゃありませんか?『それじゃ全く高すぎるわい、』とマイダスは思いました。
 それにしても、おなかのすき方はあまりひどいし、全くどうしていいやら分らないので、彼はまた大きな声で、その上たいへん悲しそうに唸りました。可愛いメアリゴウルドは、もうこの上辛抱は出来ませんでした。彼女はちょっとの間父を見つめたまま坐って、一生けんめい小さな頭を絞って、父がどうしたのかを知ろうと努めました。それから、父を慰めようとのやさしい、いじらしい気持から、椅子を立って、マイダスのところへ駆け寄り、かたく彼の膝にすがりつきました。彼は屈み込んで、姫に接吻しました。彼は何でも金にする力によって得たものよりも、彼の小さな姫の愛情の方が何千倍貴いか知れないと思いました。
『わしの大事な、大事なメアリゴウルドよ!』と彼は叫びました。
 しかしメアリゴウルドの返事はありませんでした。
 ああ、彼は何ということをしてしまったのでしょう! あの見知らぬ人が彼に与えた力は、何とおそろしいものだったのでしょう! マイダスの唇がメアリゴウルドの額に触れたその瞬間に、一つの変化が起ったのです。あんなに深い愛情に満ちていた彼女の可愛い、薔薇色の顔が、きらきらした金色に変り、頬を伝う涙さえそのまま黄色くかたまってしまいました。彼女の美しい鳶色とびいろの巻毛も同じような色になりました。彼女のやわらかい小さなからだは、父の腕に抱かれたまま、固く、しゃちこばってしまいました。おう、何というおそろしい災難でしょう! 彼のきりのないお金に対する欲望の犠牲となって、小さなメアリゴウルドは、最早生きた子供ではなく、黄金の像になってしまったではありませんか!
 そうです、彼女はやさしく、悲しく、気の毒そうに、お父さまどうしたのとでも問いたげな表情のままで、顔が固まってしまったのでした。それはこれまで人間が見たうちで、一番可愛らしく、しかも一番いたましい姿でした。メアリゴウルドの目鼻立や特徴はすべてそのままで、可愛らしい小さなえくぼさえ、その金色のあごに残っていました。しかし、そっくりそのままに似てれば似てるほど、娘の残して行った形見のすべてともいうべきこの黄金像を眺める父の悲しみは大きいのでした。姫が可愛くてならない時にはいつでも、お前はお前の重さだけの金の値打があると言うのが、マイダスの好きなおきまり文句でした。そして今やその文句は、文字通りほんとうになってしまいました。そして遂にもう間に合わない今となって、彼は彼を愛してくれる暖い、やさしい心の方が、天地の間に積み上げることの出来る、どれほどの宝よりも、どんなに貴いか知れないということを、しみじみと感じたのでした。
 いよいよ彼の願いが十分に叶えられた時になって、彼が手を揉み絞って嘆き始めた有様や、メアリゴウルドを正視するにも忍びないし、それかといって彼女から目を離すことも出来なかった彼の心のうちなどを、一々述べていたら、随分と悲しい話になってしまうでしょう。とにかく、彼の目がその像にそそがれている時のほかは、彼はどうしても姫が金になってしまったとは信じられませんでした。しかし、またちらっと盗見ぬすみみすると、やはり黄色い頬に黄色い涙をつけた、大事なわが子の像があるのです。そのいじらしい、やさしい顔附といったら、まるでその表情の力で、きっと金をやわらげて、再びもとの生身いきみに返るに違いないと思われるほどでした。しかし、そうは行きませんでした。だから、マイダスはただ手を揉み絞って、もしも彼の財産を全部投げ出して可愛い姫の顔に少しでももとの薔薇色が返って来るものなら、どんな貧乏人になってもいいと思うばかりでした。
 こうして絶望にあがき苦しんでいた時、彼は見知らぬ人が戸口の傍に立っているのにふと気がつきました。マイダスは頭を垂れて、いう言葉もありませんでした。というのは、それが昨日彼の宝の庫に現れて、何でも金にするという飛んでもない力を彼に授けて行ったのと同じ人の姿だということが分ったからです。その人は相変らず顔に微笑を含んでいましたが、その微笑は部屋中に黄色い光を放って、小さなメアリゴウルドの像や、そのほかマイダスの手に触れて金になったいろんなものを照らしているような気がしました。
『どうです、マイダスさん、』とその人は言いました、『何でも金にする力は、うまく行きましたかね?』
 マイダスは頭を振りました。
『わしはとても不幸です、』と彼は言いました。
『とても不幸ですって、まさか!』と見知らぬ人は叫びました。『それはまたどうしてでしょう? わたしはあなたに対して忠実に約束を守ったじゃありませんか。あなたは心の願いのすべてを得たんじゃないですか?』
きんさえあればいいというわけにはゆきません、』とマイダスは答えました。『その上、わしは本当に大切に思っていたものの全部を失ってしまいました。』
『ああ! それじゃあなたは、昨日より一つ利口になりましたね?』と見知らぬ人は言いました。『それじゃちょっときますがね。何でも金にする力と、一杯のきれいな、つめたい水と――この二つのうちじゃ、どっちが本当に値打があると思いますか?』
『おう、それはもう有難い水の方です!』とマイダスは叫びました。『ところが、わしはいくらのどが乾いても、二度と水を飲むことが出来ないのです。』
『何でも金にする力ですか、』見知らぬ人はつづけて言いました、『それとも一片のパン屑ですか?』
『一切れのパンは世界中の金ほどの値打があります!』とマイダスは答えました。
『何でも金にする力ですか、』見知らぬ人はまた訊きました、『それとも一時間前のような、暖い、やわらかい、愛情のある、あなたの小さなメアリゴウルドですか?』
『おうそれはわしの子、わしの可愛い子にきまっています!』と気の毒なマイダスは、手を揉み絞りながら叫びました。『この大きな地球全体を金のかたまりにしてしまうような力と取りかえようと言われても、わしはあの子のあごにある小さなえくぼ一つもくれるんじゃなかった!』
『あなたは前よりもかしこくなりましたね、マイダス王、』と見知らぬ人は、真面目な顔になって言いました。『なるほど、あなたの心までが、まだすっかり肉から金になってしまっていたわけではなかったんですね。もしもそうなっていたら、あなたは本当にもう見込みはなかったでしょう。しかしあなたはまだ、誰の手でも届くような所にある極く平凡なものの方が、大勢の人達がそれをほしがって溜息をついたり、争ったりしている財宝よりも貴いのだということがお分りのようですね。さあ、あなたは心底しんそこから、何でも金にする力を捨てたいと思っているのか、それを聞かして下さい。』
『何でも金にする力なんてもういやです!』とマイダスは答えました。
 蠅が一匹彼の鼻にとまったと思うと、すぐゆかに落ちてしまいました。それもやはり金になってしまったからでした。マイダスはぞっと身ぶるいしました。
『では、あなたの庭の下をしずかに流れているあの川へ行って、水に飛び込みなさい、』と見知らぬ人は言いました。『それと一しょに、あそこの水をかめに一杯持って来て、何でも金から再びもとの物にしたい思うものにふりかけなさい。もしもあなたが本気で心からそうすれば、あなたの欲ばりから起ったわざわいを、もとに返すことが出来るでしょう。』
 マイダス王は低く頭を下げました。そして彼が顔を上げた時には、もうその光り輝く人は消えてしまっていました。
 マイダスがすぐさま大きな土焼の瓶を取り上げて(しかし、ああ! それも彼がさわったらもう土製ではなくなりました)、川へ急いだことはすぐ君達にも分るでしょう。彼が駆けながら、灌木の間を押分けて行くと、ほかはそうでないのに、彼の通ったあとだけが、秋が来たように木の葉が黄色くなって行く有様を見ていると、全く不思議な気がしました。川の縁まで行くと、彼は服を脱ぐ暇も待たないで、頭から飛込みました。
『プーッ、プーッ、プーッ!』と、マイダス王は水から頭を出して鼻を鳴らしました。『なるほど、これは気持のいい行水だ。これですっかり、何でも金にする力を洗い落としてしまったに違いないと思う。さて、これから瓶一杯に水を入れるとしよう!』
 彼は川の水に瓶をけた時、彼がそれを手にする前の通りに、金から立派な、ほんものの土焼のうつわになったのを見て、心からうれしく思いました。彼はまた、自分のからだにも変化を覚えました。冷たく、固く、のしかかって来るような重みが、彼の胸から消え去って行くような気がしたのです。きっと彼の心臓も、だんだんと人間らしい性質を失って、死んだ金に変りかかっていたのですが、今度はまたもと通りのやわらかい肉に返ったのでしょう。川の岸に生えている菫の花を見つけて、指でちょっとさわって見ましたが、もう黄色に変ってしまうようなこともなく、その可憐な花が紫のままだということが分ったので、マイダスは飛び立つばかりに喜びました。つまり、さわれば何でも金になるという厄介な力が、本当に彼から無くなったのでした。
 マイダス王は王宮へ急いで戻りました。召使達は、陛下が土焼の瓶に一杯水を入れて、大切そうに持っておいでになるのを見た時、さっぱりわけが分らなかったことだろうと思います。しかし、彼のおろかさから来たわざわいのすべてをもと通りにしてくれる筈の、その水は、マイダスにとってはかした金の海よりも貴かったのです。彼が先ず最初にしたことは、云うまでもなく、その水を手に一杯すくっては、小さなメアリゴウルドの黄金像にふりかけることでした。
 彼女に水がかかると、みるみる姫の頬に薔薇色が返って来るやら――くさめをしたり、ぺっぺっと水を吐いたりし始めるやら――自分がびしょ濡れになっているのに、まだお父さんが水をぶっかけているので、びっくりするやらで――君達がその有様を見ていたら、き出してしまったことでしょう!
『ほんとにして頂戴、お父さま!』と彼女は叫びました。『あたしが今朝着たばかりのいい洋服を、こんなにびしょびしょにしてしまったじゃないの!』
 というのは、彼女は小さな黄金像になっていたなんてことは知らなかったし、また、気の毒な父を慰めようとして、腕をひろげて、駆けて行った瞬間から、あとはもうどんなことが起ったのか、なんにも覚えがなかったからでした。
 彼女のお父さんは、可愛い娘に、自分がどんなに大馬鹿だったかをわざわざ話す必要もないと思ったので、今ではどんなに賢くなったかを見せるだけにしておきました。そうして賢くなったところを見せるために、彼はメアリゴウルドを庭へつれて行って、残りの水をすっかり薔薇の藪の上にふりかけました。するとその利目ききめがとてもよくあらわれて、五千以上の薔薇の花が、もと通り美事に咲き匂いました。しかし、死ぬまでマイダス王に、何でも金にする力を思い出させたものが二つありました。その一つは、庭の下を流れる川の砂で、いつまでも金のように輝いていました。他の一つは、今では金色になっているメアリゴウルドの髪の毛で、彼の接吻の力で彼女が金になるまでは、そんなことはなかったのでした。この色合いろあいの変化は、本当に前よりもよくなったというもので、メアリゴウルドの髪を赤ちゃんの時よりも立派に見せました。
 マイダス王は、すっかりいいおじいさんになって、いつもメアリゴウルドの子供達を膝にのせて、ぴょんぴょんさせたりしながら、この不思議な話を、僕が今君達にしたのと大体同じように、話して聞かせるのが好きでした。そのあとで、いつも彼は孫達のつやつやした巻毛を撫でながら、だからお前達の髪もお母さんの筋を引いて、やっぱり豊かな金色をしているんだよと教えるのでした。
『そして、本当のことを言えばね、わしの可愛い孫達、』と、しきりにその間も子供を膝の上でぴょんぴょんさせながら、マイダス王は言うのでした、『その朝からというものは、わしはこのほかの金色のものはすべて、見るのもいやになってしまったんだよ!』


[#改ページ]



     シャドウ・ブルック
       ――話のあとで――

『どう? 君達、』と、聴手ききてからはっきりした意見を引出すことの好きなユースタスは尋ねた、『生れてから、この「何でも金になる話」よりもいい話を聞いたことがある?』
『だって、マイダス王の話なんて、』と、生意気なプリムロウズが言った、『ユースタス・ブライトさんが生れる前から、何千年も有名だったんだし、また、にいさんが死んだあと何千年でもやっぱり評判は落ちないでしょう。しかし、世の中には「何でも鉛にする力」といったようなものを持っていて、その人の手にかかったら、どんなものでも退屈で、面白くなくなるってこともあるわねえ。』
『まだ年も行かないのに、君はなかなか辛辣しんらつだね、プリムロウズ、』と、ユースタスは彼女の批判のきびしさに驚いて言った。『でも、いくら意地悪の君だって、僕がマイダスの古い金をすっかり新しく磨き上げて、それを今までになく光らせたということは、十分わかるだろう。それから、メアリゴウルドの像なんかはどうだい! その辺がなかなかのお手際だとは思わない? そして、この話に含まれた教訓も、僕は大変うまく出して、それをまた深めたと思っているんだが。スウィート・ファーンやダンデライアンやクロウヴァやペリウィンクルの意見はどう? この話を聞いても、君達のうちには、何でも金にする力がほしいなんていうような馬鹿がいるかしら?』
『あたし、右の人さし指で何でも金にする力があって、』と十歳とおになる女の子のペリウィンクルが言い出した、『その代り、金にしたものが気に入らなかったら、左の人さし指で、もと通りにすることが出来るといいと思うわ。そしたら、今日のお昼からでも、早速やって見たいことがあるんだけど!』
『どんなことか聞きいもんだね、』とユースタスは言った。
『だって、』とペリウィンクルは答えた、『あたし左の人さし指で、この辺の金色になった木の葉をみんなさわって、すっかりもとの緑にして見たいんですもの。そしたら、いやな冬なんかその間になくて、すぐまた夏になるでしょ。』
『おう、ペリウィンクル!』ユースタス・ブライトは叫んだ、『そりゃ君間違っているよ、そしていろいろ困ったことが出来るよ。僕がもしマイダスだったら、今日のような金色の秋の日を幾度でも繰り返して、一年中つづくようにするほかは、なんにもしたくないね。僕のいい考えは、いつもあとになって浮かぶんでね。僕はどうして、マイダス王が年取ってからアメリカへ来て見て、ほかの国に見るような陰気な秋を、この辺のような輝くばかりの美しい姿に変えたということにしなかったんだろう? つまり彼が自然という大きな書物のページを金色に塗り上げたという風にね。』
『ユースタスにいさん、』とスウィート・ファーンが言った。彼は可愛い小さな男の子で、巨人ヂャイアントの身のたけは正確にいうといくらあったかとか、妖精フェアリが小さいといっても幾センチ位だったかというような、こまかい質問をいつもするのだった。『メアリゴウルドはどれ位の大きさだったの、そして金になってからはどれ位の重さだったの?』
『彼女は大体君くらいの高さだったんだ、』とユースタスは答えた、『そして、金は大変重いから、少なくとも二千ポンド位はかかったね。金貨にすれば、三、四万ドルも取れたでしょう。僕はプリムロウズが、その半分の値打もあればいいと思うなあ。さあ、みんな、この谿から上って、その辺を見ようじゃないか。』
 彼等はそうした。太陽は正午の位置から、一、二時間廻っていたので、西陽のかがやきが谷の大きな窪みに一杯になって、なごやかな光がそこに満ちあふれて、まるで鉢になみなみといだ金色の酒のように、まわりの丘の間からこぼれて行きそうだった。昨日もちょうどこんなだったし、明日もまたちょうどこんなだろうに、思わず、『こんないい日は今迄になかったなあ!』と言わずにはいられなくなるような日だった。ああ、しかし一年を通じて、こんな日はそうざらにあるものではない! こうした十月の日は、その日その日が大変長いような気がするのが、その著しい特長である。ところが、この季節には、太陽はどちらかというと、ぐずぐずとおそく上って、そのくせ行儀よく六時か、或はもっと早く、ちょうど小さな子供達がしなければならないように、さっさと西の山に眠ってしまうのである。だから、われわれはその頃の日が長いなんて言えないのだ。しかし、どういうものか、その短さも、そのたっぷりした幅の広い感じで補われるのである。そしてひいやりとした夜になると、両腕で抱え切れないほど、今朝から人生を楽しんだという気がするのである。
『さあ、さあ、みんな!』とユースタス・ブライトは叫んだ。『もっと、もっと、もっと胡桃くるみを拾って! 君達のかご一杯にするんだよ。そしたら、クリスマス時分には、僕がみんなにそれを割って上げて、いろいろいい話を聞かして上げるからね!』
 こうして彼等は帰って行った。彼等はみんな大変な元気だったが、ただ一人小さなダンデライアンは、可哀そうに、栗のいがの上に坐っていたので、そのとげが針山にささったように彼にささっていた。まあ、彼はどんなに痛かったことだろう!


[#改丁]



     タングルウッドの遊戯室
       ――「子供の楽園」の話の前に――

 毎年十月が来て、また去って行くように、金色の十月の日が過ぎて、鳶色とびいろの十一月も同じく過ぎ、寒い十二月もまた大方終りに近づいた。とうとう楽しいクリスマスになって、それと一しょにユースタス・ブライトが来たが、彼が一枚加わると、クリスマスも一層楽しいものとなるのであった。そして、彼が大学から帰って来た翌日、ひどい吹雪ふぶきになった。その日まで冬もためらっていたのか、幾日も温和な日がつづいたが、それはちょうど冬の皺くちゃの顔に浮かんだ微笑みたいなものだった。丘の南向の斜面だとか、石塀で風をよけたところなどには、まだ緑のままの草が残っていた。つい一二週間前、十二月になってからのことだが、子供達はシャドウの谷川が谿間から流れ出るあたりの岸辺に、たんぽぽが一つ咲いているのを見つけたりした。
 しかし今ではもう、青草もたんぽぽも見られなかった。これはまたひどい吹雪なんだから! 大気を真白にして渦巻く吹雪の中で、もしもそんなに遠目が利くものとしたら、タングルウッドの窓からタコウニック山の円いいただきまで、一目で二十マイルの吹雪が見られるわけだった。その辺の山々を巨人達とすれば、それらの巨人達がでかい雪合戦を始めて、おそろしく大きな雪の玉を、お互に投げ合っているようにも見えた。ひらひらと舞下る雪片があまりに繁く、大抵は、谷の中程の立木さえそれに消されて見えなかった。尤も、時々は、モニュメント山のぼんやりした輪郭や、その麓に凍る湖水のなめらかな白いおもてや、もっと近くの黒や灰色の森林地帯などが、タングルウッドにこもる子供達の目に見分けられることもあった。しかしそれとても、吹雪をすかしてちょっと見えるだけのことだった。
 でも、子供達はこの吹雪をとても喜んだ。彼等は一番深い吹溜ふきだまりの中へとんぼ返りを打って見たり、われわれがさっきこのバークシア地方の山々がやっているように想像した雪投げをしたりして、とっくに吹雪とは仲よしになってしまった。それから今度は、彼等の広い遊戯室に引揚げて来たのだが、そこは大広間に負けないほど大きくて、大小いろいろの遊び道具で一杯だった。中でも一番大きいのは揺木馬で、本当の子馬みたいだった。それから、屑布人形のほかに、木製や、蝋細工や、石膏や、瀬戸物などの人形の大家内おおがないがならんでいた。また、独立戦争記念のバンカ・ヒルの碑が積めるほどの積木、九柱戯の道具、いろんなボール、うなり独楽ごま、羽子板、輪投遊びの棒、跳縄とびなわ、その他一々ここに書き切れないほど、いいものが沢山あった。しかし、子供達はそんなもののすべてよりも、吹雪の方がもっと好きだった。それは明日から、冬中ずっと、元気に面白くあそべることを思わせたから。そりで方々乗りまわしたり、丘の上から谷へ滑っておりたり、いろんな雪達磨を作ったり、雪のとりでを築いたり、雪合戦をしたりすることが出来るのだ!
 だから子供達は吹雪を祝福して、それがだんだんひどくなるのを見て喜び、門から玄関につづく並木道に長い吹溜ふきだまりが出来て、それがもう誰の頭よりも高くなったのを、如何にも楽しみらしく見守るのであった。
『ああ、わたし達は春まで閉じ込められるんだねえ!』と彼等はこの上もなく喜んで叫んだ。『お家が高すぎて、雪にすっかり埋まってしまわないなんて、つまんないなあ! 向うの小さな赤い家は、軒まで埋まってしまうだろう。』
『このお馬鹿さん達、この上雪に降られてどうしようというの?』とユースタスは尋ねた。彼は走り読みしていた何かの小説にきて、ぶらぶらと遊戯室へはいって来たのだった。『折角僕が冬中やれると思っていたスケートも、これじゃ出来なくなってしまうし、雪のいたずらもこれ位で沢山だよ。もうわれわれは四月まで湖も見られないよ。僕は今日初めてあそこへ行って見ようと思ったのに! プリムロウズ、僕が気の毒だとは思わない?』
『おう、本当にお気の毒だわ!』とプリムロウズは、笑いながら答えた。『しかしあなたを慰めるために、あたし達、あなたが玄関や、シャドウの谷川の窪地でして下さったような、昔のお話をまた聞かしていただきましょう。木の実がなっていたり、お天気がとてもよかったりする時分よりも、なんにもすることがない今みたいな時の方が、お話がよけいに面白いと思うわ。』
 そこで、ペリウィンクルや、クロウヴァや、スウィート・ファーンや、そのほかまだタングルウッドにいるきょうだいや、いとこ達の三四人が、ユースタスのまわりに集まって来て、熱心にお話をせがんだ。その大学生はあくびをして、のびをして、それから子供達がとても感心して見ている前で、椅子の上を三度前後に跳び越えた。彼が子供達に説明したところによると、頭を活動させるために、そんなことをするのだそうだった。
『まあ、まあ、君達、』と、そんな予備運動ののち、彼は言った、『みんなもそんなに言うんだし、プリムロウズも熱心に希望しているんだから、何とかやって見ることにしよう。そして、こんな吹雪なんてものがまだなかった時代には、どんなに楽しい時があったかということを君達に知ってもらうために、この世界がスウィート・ファーンの真新しい唸独楽うなりごまみたいに新品のぱりぱりだった古い昔のうちでも一番大昔のお話をしましょう。その時代には一年に一つの季節しかなく、それがまたうれしい夏だけでした。それから、人間の年齢にも一種類しかなく、子供ばかりでした。』
『そんな話今まで聞いたことがないわ、』とプリムロウズが言った。
『勿論、そうだろう、』とユースタスは答えた。『僕のほかには誰も考えたこともないような話でね、――子供の楽園の話だけど――ちょうどこのプリムロウズみたいな、小さないたずらっ児がいけなかった為めに、それがめちゃめちゃになってしまうというわけなんだ。』
 そこでユースタス・ブライトは、今その上を跳び越えて見せたばかりの椅子に坐って、カウスリップを膝に乗せて、みんなに静かにするように言ってから、パンドーラという困ったいたずらっ児と、その遊び相手のエピミーシウスとの話を始めた。次の頁から、ユースタスが話した通りに、その話を皆さんに読んでいただきましょう。


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    子供の楽園

 この古い世界が、まだ出来たばかりの、遠い遠い昔のこと、エピミーシウスという子がいました。その子は、はじめからお父さんもお母さんも無しでした。それではあんまり淋しかろうというので、やっぱりお父さんもお母さんもない今一人の子供が、エピミーシウスと一しょに暮らして、彼の遊び友達ともなり、相談相手にもなるようにと、遠い国から遣わされて来ました。彼女の名はパンドーラといいました。
 パンドーラがエピミーシウスの住んでいる小さな家へはいって来た時、第一に目についたのは、一つの大きな箱でした。そして、彼女がしきいをまたいでから、ほとんど最初に彼に尋ねたことは、こうでした。
『エピミーシウス、あの箱には何がはいっているの?』
『僕の大好きな小さなパンドーラ、』とエピミーシウスは答えました、『それは秘密なんだ。後生だから、あの箱のことはなんにも訊かないでおくれよ。あの箱は大切に取っておくようにと言って、ここに置いて行かれたんで、僕も何がはいっているか知らないんだ。』
『でも、誰があんたにそれをくれたの?』パンドーラは尋ねました。『そして何処から来たもんなの?』
『それもやっぱり秘密なんだ、』エピミーシウスは答えました。
『なんてじれったいんでしょう!』パンドーラは唇を尖がらして叫びました。『あたしあんな大きな、いやな箱はどっかへ持って行ってしまってほしいわ!』
『さあ、もう箱のことなんか考えないで、』とエピミーシウスは叫びました。『そとへ飛び出して行って、ほかの子供達と何か面白いことをして遊ぼうよ。』
 エピミーシウスとパンドーラとが生きていた時からは、もう幾千年にもなります。そして今日こんにちでは、世の中もその頃とは大変違ったものになりました。その頃には、誰もみんな子供でした。その子供達の面倒を見るお父さんやお母さんは要りませんでした。何故かというと、あぶないなんてことはないし、心配なことなんかもなんにもないし、又、着物をつくろうこともいらないし、それから、食べ物や飲み物は何時いつでもどっさりあったからです。御馳走がたべたくなれば、いつでも木を見ればそれがなっていました。朝、木を見ると、その日の晩御飯の花が咲いていました。また、夕方には、明日の朝御飯の新しいつぼみが目につきました。本当にとても愉快な生活でした。する仕事もなければ、調べる学課もなく、ただ長い一日を朝から晩まで、子供達が遊んだり踊ったり、可愛らしい声でしゃべったり、鳥のように楽しく歌ったり、わあっと面白そうに笑ったりしているだけでした。
 とりわけ驚くべきことは、子供達がお互にちっとも喧嘩をしないし、まるで泣くということがないし、又、世の始まりからこの方、子供達が一人も、仲間を離れて隅っこの方でふくれていたりしたことがないということでした。ああ、そんな時代に生きていたらどんなにいいでしょう! 実際、今では夏の蚊みたいに沢山いる「わざわい」という、いやな、小さな、はねの生えた怪物は、まだ地上にあらわれていなかったのです。子供がその時までに経験した一番大きな苦労といえば、おそらく、あの不思議な箱の秘密が分らないからといって、パンドーラが気を揉んでいたこと位のものだったでしょう。
 これもはじめのうちは、ただ「わざわい」のかすかな影みたいなものでしたが、日がたつにつれて、だんだん本物になって来て、そのうちには、とうとうエピミーシウスとパンドーラの家が、ほかの子供達の家にくらべて何だか陰気になって来ました。
『一体あの箱は何処から来たんでしょう?』と、始終パンドーラは独りごとにも言い、またエピミーシウスにもくのでした。『そしてまた、一体あの中には何がはいっているんでしょう?』
『いつもこの箱のことばかり言ってるんだねえ!』とエピミーシウスは、とうとう言いました。というのは、彼はもうこの話には、すっかりあきあきしていたからでした。『何かほかの話をしてほしいなあ、パンドーラ。さあ、熟した無花果いちじゅくでも取りに行って、木の下で夕飯にそれを食べようよ。そして、僕は誰もたべたことがないくらい甘くて、お汁のたっぷりあるのなる葡萄の木も知ってるんだ。』
『いつも葡萄や無花果いちじゅくのことばかり言ってるわ!』と、パンドーラはすねたように叫びました。
『それじゃ、いいよ、』と、その時分のたいていの子供達と同じように、大変気立てのいい子だったエピミーシウスは言いました、『そとへ出て、お友達と面白く遊ぼうよ。』
『あたし、もう面白いことなんか厭きちゃった。そしてもしも、この上面白いことがちっともなくなってもかまわないわ!』と、だだっ児のパンドーラは答えました。『それにあたし、面白いことなんか、ちっともないんだもの。このいやな箱がいけないんだわ! あたしもう、しょっちゅうそのことばかり気にかかってるの。その中に何がはいってるか、どうしても聞きたいわ。』
『もう五十遍もくりかえして言った通り、僕知らないんだよ!』と、エピミーシウスも、少し腹を立てて答えました。『知らないのに、中に何があるか、言えるわけはないじゃないか?』
『あけたらいいでしょう、』パンドーラはエピミーシウスを横目で見ながら言いました。『そしたら、あたし達で見られるじゃないの。』
『パンドーラ、君はなんてことを考えてるんだ?』エピミーシウスは叫びました。
 そして彼が、決して開けないということにして彼に預けられた箱をのぞいて見るなんて、如何にもおそろしいといったような顔をしたので、パンドーラも、もうこの上そんなことは言い出さない方がいいと思いました。しかし、それでもやはり、彼女はその箱のことを考えたり、言ったりせずにはいられませんでした。
『でも、それがどうしてここへ来たか位なことは言えるでしょう、』と彼女は言いました。
『ちょうど君が来る前に、大変にこにこした、利口そうな人が、それを戸口の傍に置いて行ったんだ、』とエピミーシウスは答えました、『それを置きながら、その人は何だか笑い出したくてたまらないといったような風だったぜ。その人はおかしな外套を着て、半分羽毛はねで出来たような帽子をかぶってね、だからその帽子にはまるで翼が生えているように見えたよ。』
『その人はどんな杖を持っていて?』とパンドーラは尋ねました。
『ああ、とてもおかしな、見たこともないような杖だったねえ!』とエピミーシウスは叫びました。『二匹の蛇が杖に巻きついたようになっていて、その蛇があんまり本物みたいにってあるんで、僕はちょっと見た時、生きているのかと思ったよ。』
『あたしその人を知ってるわ、』とパンドーラは、考え込んだように言いました。『ほかにそんな杖を持ってる人はないんですもの。それはクイックシルヴァだわ。箱だけじゃなしに、あたしをここへ連れて来たのもその人よ。きっと彼はその箱をあたしにくれるつもりなのよ。そして多分、その中には、あたしの着る着物か、あんたとあたしとが持って遊ぶ玩具か、それとも二人でたべる何か大変おいしいものかがはいっているんだわ!』
『そうかも知れない、』エピミーシウスは横を向いて答えました。『しかし、クイックシルヴァが帰って来て、あけてもいいと言うまでは、僕達どちらにも、この箱の蓋をあける権利はないんだ。』
『なんて煮え切らない子だろう!』エピミーシウスが家を出て行く時、パンドーラはそうつぶやきました。『もう少し勇気があればいいのに!』
 パンドーラが来てから、エピミーシウスが彼女を誘わないで出て行ったのは、これが初めてでした。彼は一人で無花果いちじゅくや葡萄をもぐか、それともパンドーラ以外の誰かと一しょに、何か面白い遊びをしようと思って出たのでした。彼はその箱のことを聞くのが、すっかりいやになってしまって、その使いに来た人の名は、クイックシルヴァだか何だか知らないが、その箱をパンドーラの目につかないような、誰かほかの子供の家の戸口に置いて行ってくれればよかったのにとしんから思いました。パンドーラがその一つ事を、くどくどしく言っている根気のよさと来たら! 箱、箱、ただ箱のことばかりでした! まるでその箱に魔法がかかっていて、それがこの家にはあまり大きすぎて、それがあるとパンドーラが始終それにつまずき、エピミーシウスも同じようにそれにつまずいて、ころんでばかりいて、二人とも向脛むこうずね生疵なまきずが絶えないとでもいったような気持がしました。
 とにかく、エピミーシウスは、可哀そうに、朝から晩まで、箱のことばかり聞かされるなんて、本当につらい気がしました。殊に、そんな楽しい時代には、地上の子供達も、屈託くったくというものにまるでれていなかったので、それをどうしていいか分らなかったのです。そんなわけで、その頃には、ちょっとした屈託でも、今日こんにちの大きな心配事と同じ位に人の心を乱したのでした。
 エピミーシウスがいなくなったあとで、パンドーラはじっとその箱を見つめて立っていました。彼女はその箱のことを、百遍以上も、みにくいように言いました。しかし、さんざんけなしつけはしたものの、それはたしかに家具としては大変美事なもので、どんな部屋に置いても立派な装飾になったでしょう。それは黒ずんだ、ゆたかな木理もくめがおもて一杯にひろがった、美しい木で出来ていました。そのおもてがまた、小さなパンドーラの顔が映って見えるほど、よく磨かれていました。彼女には、ほかに鏡とてはなかったのですから、このことだけからでも、彼女がこの箱を大切に思わないのは、おかしいわけでした。
 その箱のふちかどには、実に驚くべき腕前で彫物ほりものがしてありました。ふちには、ぐるっと、美しい姿の男や女や、見たこともないような可愛らしい子供達があらわしてあって、それらが一面の花や葉の中に、りかかったり、遊んだりしているのでした。これらのいろんなものが、とてもよく出来ていて、しっくりとまとまっているので、花と葉と人とがつながり合って、複雑な美しさを持った一つの花環とも見えました。しかしパンドーラは、一二度、そのきざまれた葉のかげから、あまり美しくない顔だか何だか、いやなものが、ひょいひょいと覗いたような気がして、それがために、すべてほかのものの美しさが台なしになりました。しかし、なおよく見て、何か覗いたような気のした辺を指でさわって見ても、何もそんなものはありませんでした。本当は美しい、どの顔かが、横目でちらっと見ると、醜いように見えたのでしょうか。
 顔のうちで一番美しいのは、蓋のまん中に、高浮彫たかうきぼりという彫り方で出来ている顔でした。蓋の板は、磨きをかけて、黒っぽい、なめらかな、ゆたかな美しさを出し、そのまん中に、ひたいに花の冠を巻いたその顔があるだけで、ほかに細工はしてありませんでした。パンドーラはこの顔を幾度も幾度も眺めて、その口もとは、生きた口と同じように、笑おうと思えば笑えもし、真面目な顔つきになろうと思えば、またそうもなれそうな気がしました。実際、その顔つき全体が、大変いきいきとした、そしてどちらかといえば、いたずららしい表情をしていて、それがきっとその木彫きぼりの唇から、言葉になって飛び出して来そうに思われるくらいでした。
 もしもその口が物を言ったとしたら、大抵、次のようなことででもあったでしょう。
『こわがるんじゃないよ、パンドーラ! この箱をあけたって何事があるものかね? あの可哀そうな、馬鹿正直のエピミーシウスのことなんか気にすることはないよ! お前さんはあの子より賢いし、十倍も勇気がおありだ。この箱をあけなさい、そして、何か大変きれいなものがありはしないか、見てごらん!』
 僕はも少しで言うのを忘れてしまうところだったが、その箱はめてありました。錠前とか、何かほかのそういったようなものでなしに、金の紐を大変込み入ったむすび方にして留めてあったのです。この結び目には、終りもなければ、始めもないように見えました。大変むずかしくひねくり廻して、とても沢山の出入りがあって、それがどんな手先の器用な人でも、ほどけるならほどいて見よと、憎らしくも威張っているように思えるのですが、こんな結び目もないものでした。しかし、それをほどくのが大変むずかしそうなので、よけいにパンドーラはその結び目をしらべて、それがどんな風に出来ているか、ちょっと見たくなって来ました。彼女はもう、二三度はその箱の上にかがんで、その結び目を親指と人差指との間につまんで見たことはありましたが、それをいよいよほどいて見ようとまではしなかったのでした。
『あたし本当に、それがどんな風に出来ているか、分って来た気がするわ、』と彼女は一人で言いました。『いや、あたしはそれをほどいてから、また結び直すことさえ出来そうだわ。ほんとに、それ位なことをしたって、何でもありはしないわ。いくらエピミーシウスだって、それ位なことを怒りはしないでしょう。あたしその箱をあけなくともいいんですもの。そして、もしも結び目がほどけたにしても、あのお馬鹿さんにきかないで、開けたりなんぞしちゃ悪いわ。』
 こんな風に始終この一つ事ばかりを考えなくともすむように、彼女にちょっとする仕事でもあるとか、何か考えることでもあるとかした方がよかったのでしょう。しかし、世の中に「わざわい」というものが出て来るまでは、子供達は大変気楽に暮らしていたので、ほんとにあまり暇がありすぎたのです。彼等だって、何時いつ何時いつも、花の咲いた灌木の中でかくれんぼをしたり、花環で目かくしをして鬼ごっこをしたり、そのほか地球がまだ新しかったその頃に、もう出来ていたいろんな遊びばかりもしていられませんでした。毎日遊んで暮らしていると、働くことが却って本当の遊びとなります。その頃には、まるですることはなんにもありませんでした。まあ、家の中をちょっと掃いたり、拭いたりする、それから新しい花を切る(それも至るところ、いやになってしまうほど沢山咲いているんです)、そしてそれを花瓶に生ける、――それでもう、可哀そうに、小さなパンドーラの一日の仕事はおしまいです。それからあとは、寝るまで、箱のことが気になるばかりでした。
 しかしよく考えて見ると、この箱はまたこの箱なりに、彼女にとっての一つのめぐみでなかったと言い切るわけにも行かないと思います。それは彼女がいろいろと想像をめぐらして考える材料ともなり、また誰か聞いてくれる人がある時には、いつでも話の種ともなったでしょう! 彼女が機嫌のいい時には、その胴のぴかぴかとしたつやや、まわりの美しい顔や葉を彫った立派なふちなどを見て感心することも出来ました。又、何かのはずみで気がむしゃくしゃした時には、それに一撃をくわせたり、小さな足でじゃけんに蹴飛ばしたりすることも出来ました。そしてこの箱は、幾度も幾度も足蹴あしげにされたのでした(でも、あとで分る通り、この箱は悪い箱でしたから、そうして足蹴にされたりするのが当り前だったのです)。それにしても、もしこの箱がなかったら、何か始終考えていずにはいられない小さなパンドーラは、今みたいに、箱のことで思わず時間がたってしまうというわけにはとても行かず、退屈で困ったことでしょう。
 というのは、箱に何がはいっているかと想像して見ることは、実際きりのない仕事でしたから。本当に、何がはいっているんでしょう? 仮に、家の中に大きな箱があったとして、そんな気がするのも、無理はないことだが、クリスマスかお正月にいただく何か新しい、きれいな物がはいっているらしいとなると、どんなに君達は夢中になっていろいろと頭の中で考えて見るか、まあ君達、想像してごらんなさい。君達はパンドーラみたいにそれを知りたがりはしないと思いますか? もしその箱と一しょに、一人きりでおいておかれたら、ちょっと蓋をあけて見たくなったりしないでしょうか? しかし君達はそんなことはしないでしょうね。おう、馬鹿な。とんでもないことだ! ただ、もしも君達がその中におもちゃがはいっていると思ったら、ちょっと一目ひとめのぞいてみる機会をのがすのは大変つらいことでしょう! 僕はパンドーラが、おもちゃなんかをあてにしていたかどうかは知りません。というのは、子供達が住んでいた世界そのものが、一つの大きな遊び道具だったその頃には、まだおもちゃなどは一つも出来ていなかったでしょうから。しかしパンドーラは、その箱の中に何か大変美しい、値打のあるものがはいっているにちがいないと思いました。だから彼女は、ここで僕の話を聞いている小さな女の子たちの誰にも負けないくらいに、ちょっとのぞいて見たくてならない気がしました。いや、どうかすると、もちっとよけいにそんな気がしたかも知れません。しかし、きっとそうだとは僕も言い切れないが。
 それにしても、僕達がこうして長いことお話をして来た、この日はまた特別に、彼女の好奇心がいつもより強くなって来て、とうとうその箱に近づいて行きました。彼女は、もし出来たら、その箱をあけてみようと、大方決心していました。どうも、しようのないパンドーラですね!
 しかし、最初に、彼女はその箱を持ち上げてみました。それは重かった、パンドーラのような弱い力の子にとっては、まるで重すぎました。彼女はその片端を床から何インチか持ち上げましたが、かなり大きな、どしんという音をたてて、またそれをおろしました。すぐそのあとで、彼女は何だか箱の中でごそごそと動く音がしたように思いました。彼女は出来るだけぴったりと耳をあてて、聴きました。たしかに、中で、何だかぼそぼそとつぶやいているような気がします! それとも、ただ彼女の耳が鳴ってるのでしょうか? 或はまた、彼女の心臓の打つ音でしょうか? パンドーラは本当に何か聞えたのかどうか、自分でもはっきりときめてしまうことが出来ませんでした。しかし、いずれにしても、彼女の好奇心は、いよいよ強くなって来ました。
 彼女が頭をもとへ戻した時、彼女の目は、金の紐の結び目にとまりました。
『これを結んだ人は、大変器用な人にちがいないわ、』とパンドーラは一人で言いました。『それでもあたし、それをほどけそうな気がするわ。あたし、せめて、その紐の両はしくらいは見つけなくちゃ。』
 そこで彼女はその金の結び目を指につまんで、出来るだけはっきりと、その込み入ったところを調べて見ました。殆どそんなつもりもなく、また何をしようとしているかもはっきりとわきまえないで、彼女はやがて一生けんめいに、それをほどきにかかっていました。そのうちに、明るい日の光が、あけ放した窓からし込んで来ました。また、遠くで遊んでいる子供達の楽しそうな声も、それと一しょに、聞えて来ました。そして多分その中にはエピミーシウスの声もまじっていたのでしょう。パンドーラは手を休めて、それに聞き入りました。なんといういいお天気でしょう! もしも彼女が、そんな面倒くさい結び目なんぞうっちゃっておいて、その箱のことなんかもう考えないことにして、彼女の小さな遊び友達のところへ飛んで行って、仲間になって面白く遊んでいたら、その方が利口じゃなかったでしょうか?
 しかし、その間もずうっと、彼女の指は半分無意識に、しきりとその結び目をいじっていました。そしてふと、この不思議な箱の蓋についた、花の冠をかぶった顔が目についた時、彼女はそれがずるそうに、彼女にむかって歯をむき出して笑っているのを見たような気がしました。
『あの顔はいじわるそうだこと、』と彼女は思いました。『もしかあたしが悪いことをしてるから笑ってるんじゃないかしら! あたしほんとにもう、逃げ出したくなっちゃった!』
 しかしちょうどその時、ほんのちょっとしたはずみで、彼女はその結び目をひねるようにしましたが、それが思いもかけぬ結果になりました。金の紐は、まるで魔法をかけたように、ひとりでほどけてしまって、箱は締物しめものなしになってしまいました。
『こんな変なことって知らないわ!』パンドーラは言いました。『エピミーシウスは何というでしょう? そしてあたし、一体どうしてこれを、もと通りに結べるでしょう?』
 彼女は一二度、その結び目をもと通りにしようと、やってみましたが、すぐにそれは彼女の手に合わないということが分りました。それがあんまり、だしぬけにほどけてしまったので、彼女はその紐がお互にどういう風にからみ合せてあったか、少しも思い出すことが出来ませんでした。それからまた、彼女がその結び目の形や様子を思い浮かべようとしても、それがすっかり頭から消えてしまったように思われるのでした。だから、エピミーシウスが帰って来るまで、その箱をそのままにしておくよりほかには、どうにもしようがありませんでした。
『でも、』とパンドーラは言いました、『この紐がほどけているのを彼が見れば、あたしがやったということが分ってしまうわ。でも箱の中は見なかったということを、彼にどういう風にして信じさせたらいいんでしょう?』
 それから、彼女の横着おうちゃくな小さな胸に、どうせ箱の中を見たと疑われるなら、今すぐ見ておいたって同じことだという考えが浮かびました。おう、ほんとにいけない、ほんとに馬鹿なパンドーラよ! お前は、正しい事はする、間違った事はしないということだけを考えて、お前の遊び仲間のエピミーシウスが言ったり、信じたりすることを気にとめるべきではなかったのだ。そして彼女とて、もしもその箱の蓋についた不思議な顔が、そんなに誘惑するように彼女を見なかったら、そして又、箱の中の小さなつぶやき声が、前よりも一層はっきりと聞えるような気がしなかったら、多分そうしたことでしょう。それが彼女の気のせいかどうかは、彼女にはよく分りませんでした。しかし、彼女の耳には、小さな声でひどく騒いでいるように聞えるのです――それともまた、ささやくのは彼女の好奇心なのでしょうか。
『出して下さい、パンドーラさん――私達をそとへ出して下さい! 私達はあなたにとって、とてもいい、可愛い遊び相手なんですよ! ちょっと私達を出して下さい!』
『あれは何だろう?』とパンドーラは考えました。『箱の中に何か生きたものがいるのかしら? ええ、ままよ! あたしちょっと一ぺんのぞいてやりましょう! ほんの一度だけ、それから蓋をいつもの通り、ちゃんとしめておけばいいんだわ! ちょっと一ぺんのぞいて見るくらいで、別になんの事もある筈がないわ!』
 しかしもうそろそろこの辺で、僕達はエピミーシウスがどうしていたかを見ることにしましょう。
 パンドーラが来て、彼と一しょに暮らすようになってから、彼女を入れないで彼が何か面白いことをしようとしたのは、この時がはじめてでした。しかし何をしても、うまく行きませんでした。そしてまた、いつものように楽しくもありませんでした。甘い葡萄も、熟した無花果いちじゅくも見つかりませんでした(エピミーシウスに一つ悪いところがあるとすれば、それは無花果があんまり好きだという点でした)。また、折角熟していたと思えば、今度はあまり出来すぎていて、甘ったるくて食べられないのでした。いつもならば、ひとりでに声が飛び出して来て、一しょに遊んでいる仲間までが一層陽気になる位なんだが、今日はちっともそうした愉快な気持になれませんでした。結局、彼はとても落着かない、不満な気持になるばかりで、ほかの子供達は、一体エピミーシウスはどうしたのか、わけが分りませんでした。彼は自分でも、ほかの子供達と同様に、どこがどういけないのか分らないのです。それというのは、僕達が今話している時代には、幸福に日を送るということが、みんなの性質であり、いつも変らぬ習慣だったからだということを忘れないで下さい。世間は、まだ不幸なんていうことを知らなかったのです。これらの子供達が、楽しく暮らすために地上に送られて来てから、誰一人として、病気をしたり、調子が悪かったりしたことはなかったのです。
 とうとう、どうしたものか、何の遊びをはじめても、彼のせいでそれがめになってしまうということが分ったので、エピミーシウスは、今の彼の気持には却ってよく合っているパンドーラのところへ帰るのが、一番いいと思いました。それにしても、彼女を喜ばせたいという気持はあったので、彼は花をつんで、花環につくり、それを彼女の頭につけてやろうと思いました。花は薔薇や、百合や、オレンヂの花や、そのほかもっと沢山あって、とても美しく、エピミーシウスがそれを持って歩いたあとには、いい匂いが残りました。そしてその花環は、男の子としては、これ以上を望む方が無理だと思われるくらいうまく出来ていました。僕はいつも、花環を編むには、女の子の指の方が向いていると思っていました。しかし男の子も、その頃には、今の男の子よりも大分上手だったのです。
 ここで僕は、大きな黒雲が少し前から空にわきおこっていたことを言わなければなりません。尤もそれは、まだお日様をおおいかくすまでにはなっていませんでした。しかし、エピミーシウスが家の戸口に着いたちょうどその時、それが日光をさえぎりはじめました。そうして、急に、うら悲しいような薄暗がりになりました。
 彼はそうっとはいって行きました。というのは、彼は出来ることなら、パンドーラのうしろにしのび寄って、彼が傍へ来たことを彼女がさとらないうちに、花環を彼女の頭に投げかけてやろうと思ったからでした。しかしちょうどその時には、彼は何もそんなに、抜足ぬきあし差足さしあしで行く必要はなかったのです。彼が好きなだけ大きな足音を立てても――大人のように――いや、象のようにと僕は言いたい位だが――どしんどしんと歩いても――それでもたいていは、パンドーラの耳にはいりそうもありませんでした。彼女は自分の考えにすっかり気をとられていたのです。彼が家へはいって行った時、ちょうどその仕方のない子は、蓋に手をかけて、秘密の箱をあけようとするところでした。エピミーシウスは彼女のすることを見ていました。もしも彼が声を立てていたら、パンドーラは多分手をひっ込めて、その箱のおそろしい秘密も分らずにしまったことでしょう。
 しかしエピミーシウスは、あまり箱のことを口に出しては言わなかったが、自分でもやはり、その中に何がはいっているか知りたい気持はあったのでした。パンドーラがいよいよその秘密を知ろうと決心したことが分ると、彼の方でも、この家の中でそれを知っているのがパンドーラだけであってなるものかと思いました。それに、もしもその箱の中に何かきれいなものか、値打のあるものがはいっていたら、彼もその半分は自分がもらうつもりでした。こんなわけで、パンドーラにむかって、好奇心など起してはいけないと、真面目くさってお説教をしておきながら、エピミーシウスは彼女とまるで同じように馬鹿になり、このあやまちについて責任があるという点で彼女とあまり変りはないことになってしまいました。だからわれわれは、この出来事について、パンドーラを責める時にはいつでも、エピミーシウスにむかっても、やはり同じように不満の意をあらわすことを忘れてはならないのです。
 パンドーラが蓋を持ち上げた時に、家は大変暗く、陰気になって来ました。というのは、黒雲がもうすっかりお日様をかくしてしまって、まるでそれを生埋いきうめにしたように見えたからです。少し前から、低いうなりみたいな、つぶやきみたいなものが聞えていましたが、俄かにそれが大きな雷鳴となってとどろき渡りました。しかしパンドーラは、そんなことには一向おかまいなく、蓋を大方まっすぐに上げて、中を見ました。何だか急に、翼の生えたものが一杯彼女の傍をかすめて箱から飛び出したような気がしたと思うのと一しょに、エピミーシウスが、悲しそうな調子で、何だか痛そうに叫ぶのが聞えました。
『おう、僕刺されっちゃった!』と彼は叫びました。『僕刺されっちゃった! 意地悪のパンドーラ! どうして君はこのおそろしい箱をあけたんだ?』
 パンドーラは蓋をおろして、びっくりして立上り、エピミーシウスの上に何事が起ったのかと、あたりを見廻しました。夕立雲のために、部屋が大変暗くなっていたので、彼女は中のものがあまりはっきりと見えませんでした。しかし何だかとても沢山の大きな蠅か、大きな蚊か、又はわれわれがかぶと虫とかはさみ虫とかいっている虫みたいなものが飛び廻っているような、ぶうんという、いやなうなりが聞えました。そして、彼女の眼が薄暗がりにれて来ると、蝙蝠のような翼をして、とても意地が悪そうで、お尻におそろしく長いはりを持った、いやな小さなものが一杯いることが分りました。エピミーシウスを刺したのは、そのうちの一匹なのでした。まもなくパンドーラもまた、エピミーシウスに負けないくらい痛がったり、こわがったりして、悲鳴をあげ始めましたが、その騒ぎ方はずっとひどいものでした。一匹の小さな怪物が彼女のひたいにとまっていましたが、もしもエピミーシウスが飛んで行って、それを払いのけなかったら、彼女はどんなに深く刺されていたか知れません。
 さて、その箱から逃げ出したこれらのいやなものは一体何かということを君達が聞きたがるなら、それはこの世の「わざわい」の全一族だったと、僕は答えなければなりません。その中には、悪い「情欲の虫」もいました、とてもいろんな種類の「心配の虫」もいました、百五十以上の「悲しみの虫」もいました、みじめな、いたましい恰好をした、とても沢山の「病気の虫」もいました、それから、「いたずらの虫」の類に至っては、お話にもなんにもならないほどいました。つまり、その時から今日まで、人間の心やからだを苦しめて来たものは、すっかりその秘密の箱の中に閉じ込められていたもので、大切に取っておくようにといって、エピミーシウスとパンドーラとに渡されたのも、世の中の子供達がそんなものに苦しめられることのないようにしたかったからでした。もしも彼等が頼まれた通りにしていたならば、万事都合よく行ったことでしょう。その時から今に至るまで、悲しい思いをする大人もなかったでしょうし、子供達にしたって、涙一滴こぼすわけもなかった筈なんです。
 しかし――これで見ても、誰か一人でも間違ったことをすると、世間全体が迷惑するというわけが君達にも分るでしょうが――パンドーラがそのとんでもない箱の蓋をあけたことと、それからまた、エピミーシウスがそれをとめなかったというおちどとによって、これらの「わざわい」がわれわれの間に足がかりを得て、急には追っぱらえそうにもなくなったのです。というのは、君達にもたやすく分る通り、この二人の子供は、そのいやなものの群を、彼等の小さな家から出さないでおくというわけには行かなかったからです。それどころか、彼等はそんなものは早く出て行ってほしかったので、何よりも先に、戸口と窓とをあけ放しました。すると、果して、その翼の生えた「わざわい」達はみんな外へ飛び出して行って、そこいら中の子供達をひどく苦しめ悩ましたので、その後幾日もの間、彼等の誰もが、にこりともしなかったほどでした。それから、大変不思議なことには、これまでどれ一つしぼんだことのなかった草花や露を帯びた花までが、今度は一日二日たつと、だらりとなって、花びらが散りはじめました。その上、今までは、いつまでも小さいままでいそうに思われた子供達が、今度は一日々々と年を取って、まもなく青年や年頃の娘になり、やがては大人になり、そんなことは夢にも思わないうちに、じいさん、ばあさんになってしまいました。
 さて、仕方のないパンドーラと、それに負けないくらいのエピミーシウスとは、家の中にじっとしていました。彼等は二人ともひどく刺されて、大変痛かったのですが、それが世界始まって以来感じられた最初の痛さであっただけに、彼等には一層え難く思われました。いうまでもなく、彼等は苦痛にはまるでれていなかったので、それが何のことやら、わけが分りませんでした。そこへもって来て、彼等は二人とも、自分自身に対して、それからお互同志に対しても、ひどく不機嫌になっていました。思いきりその不機嫌に耽るために、エピミーシウスはパンドーラに背中を向けて、隅っこの方で、ふくれっつらをして坐っていました。一方パンドーラは、床の上に身を投げ出して、頭をあの恐しい、いやな箱に乗せていました。彼女はひどく泣いて、胸も張り裂けそうにすすり上げていました。
 不意に、箱の蓋を、中から静かに、低くたたく音がしました。
『あれは一体何でしょう?』とパンドーラは叫んで、頭を上げました。
 しかしエピミーシウスは、そのとんとんという音が聞えなかったか、それともあんまり腹を立てていたので、それに気がつかなかったのでしょう。とにかく、彼は何とも答えませんでした。
『あんたひどいわ、あたしに口を利かないなんて!』とパンドーラは言って、またすすり上げました。
 またとんとんと音がします! それは妖精の手の小さな拳骨のような音で、軽く冗談半分みたいに、箱の内側をたたくのでした。
『お前は誰だい?』とパンドーラは、少しまた、前の好奇心を出して尋ねました。『だあれ、このいけない箱の中にいるのは?』
 小さな、いい声が中から言いました、――
『蓋をあけてさえ下されば、分りますよ。』
『いや、いや、』とパンドーラは、またすすり上げはじめながら答えました、『あたし蓋をあけることは、もう沢山だわ! お前は箱の中にいるんでしょ、意地悪さん、いつまでもそこに入れといてやるから! お前のいやな兄弟や姉妹は、もう、一杯世の中を飛び廻っているよ。お前を出してやるほど、あたしが馬鹿だと思ってもらっちゃ困るわ!』
 彼女はそう言いながら、多分エピミーシウスが彼女の分別をほめてくれるだろうと思って、彼の方を見ました。しかし怒っているエピミーシウスは、彼女が今から分別を出したって、少し手おくれだ、とつぶやいただけでした。
『ああ、』とその小さな、いい声はまた言いました、『あなたはわたしを出して下さった方が、ずっといいんですよ。わたしは、あんなお尻にはりのくっついたような悪い者とは違うんです。彼等はわたしの兄弟や姉妹じゃありません。それはあなたがわたしを一目ひとめごらんになりさえすれば分ります。さあ、さあ、可愛らしいパンドーラさん! きっとわたしを出して下さるでしょうね!』
 そして、実際この小さな声で頼まれると、どんなことでも何だかことわりにくくなってしまうような、一種の愉快な魅力が、その調子の中に含まれていました。パンドーラの心は、その箱の中から聞えて来る一語々々に、知らず識らず軽くなっていました。エピミーシウスもまた、まだ隅の方にはいましたが、半分こっちを向いて、前よりもいくらか機嫌がよくなっている様子でした。
『ねえエピミーシウス、』とパンドーラは叫びました、『あんたこの小さな声を聞いて?』
『うん、たしかに聞いたよ、』と彼は答えましたが、まだあまりいい機嫌ではありませんでした。『で、それがどうしたんだい?』
『あたしもう一度、蓋をあけたもんでしょうか?』とパンドーラは訊きました。
『そりゃ君の好きなようにするさ、』とエピミーシウスは言いました。『君はもう大変な悪いことをしちゃったんだから、その上もうちょっぴり悪いことをしたっていいだろうよ。君が世間にまき散らしたような「わざわい」の大群の中へ、もう一匹ほかのやつが出て来たところで、別に対したことはありっこないさ。』
『あんた、もう少し親切に口を利いてくれたっていいでしょう!』とパンドーラは、目を拭きながら言いました。
『ああ、しようのない児だねえ!』と箱の中の小さな声は、ずるそうな、笑い出しそうな調子で言いました。『あの児は自分でも、わたしを見たくてならないのは分っているんですよ。さあ、パンドーラさん、蓋をあけて下さい。わたしはあなたを慰めてあげようと思って、大変気がいているんです。ほんのちょっとわたしにいい空気を吸わせて下さい。そうすれば、あなたが考えているほど、そうひどく悲観したものでもないということが分るでしょう。』
『エピミーシウス、』とパンドーラは叫びました、『何だってかまわないから、あたし箱をあけて見るわ!』
『じゃ、蓋が大変重そうだから、僕が手伝って上げよう!』とエピミーシウスは叫んで、部屋の向うから駆けて来ました。
 こうして、双方承知で、二人の子供はまた蓋をあけました。すると、明るい、にこにこした小さな人が飛び出して来て、部屋の中を舞って歩きましたが、彼女の行くところは何処でも明るく見えました。君達は鏡のかけらで日光を反射させて、暗いところでちらちらさせて見たことはありませんか? とにかく、この妖精のような見知らぬ人が、薄暗い家の中を愉快そうに飛び廻る有様は、そんな風に見えました。彼女がエピミーシウスのところへ飛んで来て、「わざわい」に刺されて赤くなったところを、ちょっと指でおさえると、すぐにその痛みは消えてしまいました。それから、彼女がパンドーラのひたいに接吻すると、彼女の傷もまた、同じようになおってしまいました。
 こうした親切をつくしてくれたあとで、その光を帯びた見知らぬ人は、愉快そうに子供達の頭の上を飛び廻って、大変やさしく彼等を見たので、彼等は二人とも、箱をあけたことはそう大して悪くもなかったという気がして来ました。というは、もしもあけていなかったら、このうれしい訪問者までが、あのお尻にはりを持った小悪魔達にまじって、箱の中に閉じ込められていなければならなかったでしょうから。
『美しい方、一体、あなたは誰なの?』とパンドーラは尋ねました。
『わたしを「希望ホウプ」と呼んでいただきましょう!』とその明るい人は答えました。『そしてわたしはこんな陽気な者ですから、人達に対して、あの大勢のいやな「わざわい」の埋合うめあわせをつけるために箱の中に入れられたんです。どうせ「わざわい」は人達の間にまき散らされることになっていたんですからね。決して恐れることはありませんよ! 「わざわい」がいくらいたって、わたし達はかなり面白くやって行けますよ。』
『あなたの翼は、虹のような色をしてるわねえ!』とパンドーラは叫びました。『まあ、なんて美しいんでしょう!』
『ええ、虹みたいでしょう、』ホウプは言いました、『何故かといえば、わたし陽気なたちなんですけど、にこにこしているだけじゃなくて、少しは涙をこぼすこともあるんですから。』
『そしてあなたは、いつまでもいつまでも、あたし達のところにいて下さる?』とエピミーシウスは尋ねました。
『あなた方がわたしに用がある間はいつまでも、』とホウプは、気持のいい笑顔をして言いました、――『つまり、あなた方がこの世に生きているかぎりということになるでしょうね、――わたしは決してあなた方を見捨てて行かないことを約束しますよ。時により、季節によっては、時々わたしが全然逃げてしまったのかと思うようなことがあるかも知れません。しかし、多分あなたが思いもかけないような時に、ひょっこり、ひょこりと、わたしの翼の光があなた方の家の天井に見えて来るでしょう。本当ですよ、わたしの大好きな子達、そしてわたしはこれから先あなた方がいただくことになっている大変いい、美しいものを知っているんですよ!』
『おう、聞かして下さい、それが何だか聞かして下さい!』と彼等は叫びました。
『訊いてはいけません、』とホウプは、薔薇色の口に指をあてて言いました。『しかし、万一あなた方がこの世にいるうちにそんなことがなくても、気を落してはいけません。わたしの約束を信じて下さい、それは本当なんですから。』
『私達はあなたを信じます!』とエピミーシウスとパンドーラとは、二人一しょに叫びました。
 そして彼等は本当にホウプを信じました。いや、彼等ばかりでなく、その後この世に生れ出た人は、誰でもその通りホウプを信じました。そして、実際のことをいうと――(たしかに彼女がそんなことをしたのは、とても悪かったには違いないにしても)――僕は馬鹿なパンドーラが箱の中をのぞいて見たということを喜ばずにはいられないのです。そりゃもう――たしかに――「わざわい」が今もなお世の中を飛び廻っていて、るどころか、却って数もふえて、それが大変いやな小悪魔達で、お尻にとても毒のあるはりを持っていることも知っています。僕は今までにも彼等に苦しめられたし、これからも年を取って行くにつれて、もっと苦しめられることは覚悟しています。しかしその代りに、この美しい、明るい、ホウプの可愛らしい姿があるじゃありませんか! われわれは一体「希望ホウプ」なしで、どうすることが出来ましょう? ホウプは世の中を高尚にしてくれます、ホウプは世の中を常に新しくしてくれます。たとえ世の中が、どんなに明るく見えた時でも、それがただ、もっと後にやって来る限りない幸福の影に過ぎないということを、ホウプは教えてくれます!


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     タングルウッドの遊戯室
       ――話のあとで――

『プリムロウズ、』とユースタスは、彼女の耳をつねりながら訊いた、『どう、この小さなパンドーラって子は気に入ったかい? 彼女はまるで君そっくりだと思わない? しかし君なら、その箱をあけるのに、そんなにぐずぐずしてやしないだろうねえ。』
『もしあけていたら、あたしそのわるさのために、随分ひどい目にあっていたでしょう。だって、蓋をあけると、真先まっさきにひょいと飛び出して来るのは、「わざわい」の姿をしたユースタス・ブライトさんだったでしょうからねえ、』プリムロウズは、手きびしく返答をした。
『ユースタスにいさん、』スウィート・ファーンが言った、『その時からこの世界に来たいやなものは、みんなその箱にはいっていたんですか?』
『何から何まではいっていたのさ!』ユースタスは答えた。『僕のスケート遊びを出来なくしてしまったこの吹雪も、やっぱりその中につめ込まれていたんだ。』
『そして、その箱はどれくらいの大きさだったんですか?』スウィート・ファーンは訊いた。
『そうさ、長さは三フィートもあったかなあ、』ユースタスは言った、『幅は二フィート、高さは二フィート半といったところだね。』
『ああ!』とスウィート・ファーンは言った、『僕をからかってるんだね、ユースタスにいさん! 僕はそんな大きな箱に一杯になるほども、いやなことが世界にありはしないってことは分ってるよ。それに、吹雪なんて、ちっともいやなことじゃなくって、面白いことだい。だから、その箱にはいっている筈はないやい。』
『まあ、あの児のいうことったら!』プリムロウズは姉さんぶって叫んだ。『世の中の苦労なんて、てんで知らないんですものねえ! 可哀そうに! あの子もあたしほど世間を見て来たら、も少しかしこくなるでしょう。』
 そう言って、彼女は縄跳びをはじめた。
 そのうちに日が暮れかかって来た。戸外の風景はたしかに淋しかった。濃くなってゆく夕闇の中を、遠く広く、灰色に雪がふりつもっていた。中空と同じように、地上には道も何も見えなかった。玄関の階段に高くつもった雪で、幾時間もの間誰も出入りした者がないことが知られた。もしも子供がただ一人でタングルウッドの窓際に立って、この冬景色に見入っていたとしたら、おそらく悲しくなったであろう。しかし、子供が五六人も集まると、たとえ世界をすっかり楽園に変えてしまうことは出来ないまでも、老耄おいぼれの冬でも、毎日のように吹く風でも来い、へこたれはしないぞというくらいな元気は出るものだ。その上、ユースタス・ブライトが、即席に、いくつかの新しい遊び方を考え出したので、彼等はそれをやって、寝る時まで大陽気おおようきで騒ぎつづけたが、その新しい遊び方はまた、次の荒天の日にも役に立った。


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     タングルウッドのいろりばた
       ――「三つの金のりんご」の話の前に――

 吹雪ふぶきはあくる日もつづいた。しかし、その後、それがどうなったものやら、私にはちょっと見当がつかない。とにかく、それは夜の間に、からりと晴れあがってしまった。次の朝、さしのぼった太陽が、あかあかと照らし出したこのバークシアの丘陵地帯は、世界のどこをさがしても、またとはあるまいと思われるほど荒涼としていた。霜が窓ガラス一面に紋様をえがいて、そとの景色はほとんどちらりとも見えなかった。しかし、タングルウッドの子供達は、朝飯を待ちながら、指の爪でのぞき孔をこしらえて――崖になった丘の腹が一ところ二ところむき出しになっているのと、黒い松林とまざり合って、雪が灰色がかって見えているのとをのけては――山も野も一面に白い布をのべたようになっているのを見て大よろこびだった。なんというこころよさであろう! そして、なおさらいいことには、鼻がちぎれてしまうかと思われるほど寒かった! もしも人達がそれに堪えるだけの活気さえあれば、輝かしい、はげしい霜ほど、元気をふるいおこさせ、且つ、全身の血を、山の斜面をながれおちる渓流のように敏活に、波立たせ、躍らせるものはまたとあるまい。
 朝飯がすむとすぐに、みんなそろって、毛皮や外套をうんと着込んで、雪の中へめちゃくちゃに飛び込んで行った。これはまた、寒中あそびには、なんというおあつらえむきの日であったろう! 彼等は、幾度も幾度も、丘の上から谷にむけて、どこまで飛んで行ってしまうか分らないほど滑った。その上更に愉快だったことには、底まで無事に着く度に、そりをひっくりかえして、真逆様にころがった。そして、一ぺん、ユースタス・ブライトは、途中何事もないようにというので、ペリウィンクル、スウィート・ファーン、スクォッシュ・ブロッサムなどを一しょに乗せてやって、全速力で降りて行った。ところが、これはまたどうしたことか、半分どころで、橇がかくれた切株にぶっ突かって、乗っていた四人全部が折重なって投げ出された。そして、起上って見ると、小さなスクォッシュ・ブロッサムが一人見えない! おやおや、あの子は一体どうなってしまったんだろう? ところが、みんなが驚いてあたりを見廻していると、高くつもった雪の中から、スクォッシュ・ブロッサムが、今まで見たこともないような赤い顔をして、ひょっこり立上った。それがまた、大きな真赤な花が、この冬の最中に、急にのびて来て咲き出したかのように見えた。この時みんなはどっと笑い出した。
 彼等が丘から滑り降りることにも飽きて来た時、ユースタスは子供達に、その辺の一番大きな吹溜ふきだまりに穴を掘らせた。ちょうど穴が出来上って、みんながその中にぎゅうぎゅう詰めになった時、運悪く、屋根が彼等の頭の上に落ちて来て、一人残らず生埋めになってしまった! すぐにみんなは、くずれた穴の中から、小さな頭をにょきにょきと出したが、そのまん中の、背の高いユースタスの頭は、鳶色の巻毛の中に粉雪がくっついて、白髪のおじいさんのようだった。それから、こんな、すぐに崩れてしまうような穴を掘れなどといったユースタスにいさんをやっつけてしまえというので、子供達は一団となって彼におそいかかって、めちゃくちゃに雪を投げつけたので、彼は逃げ出したくなってしまった。
 そこで彼は逃げ出して、森の中へはいって行った。それからシャドウの谷川の縁へ出た。そこでは、彼は、昼間の光もほとんどし込まないくらいに、おびただしい両岸の氷雪が蔽いかぶさったようになった下を、谷川がつぶやくように流れて行く音を聞くことが出来た。小さな滝のようになったところは、どこでも、ダイヤモンドのような氷柱が、そのまわりにきらきらと光っていた。それから、ぶらぶらと湖の岸へ来て見ると、彼の足もとからモニュメント山の麓まで、真白の、足跡一つない雪原が見渡された。そして、今はもう日没に近かったので、ユースタスはそこの景色ほど清らかな、美しいものを見たことがないと思った。彼は子供達と一しょでなかったことを喜んだ。というのは、彼等のはち切れるような元気と、ころげまわらずにはいないような活動欲とは、彼の高尚な、深い気分をすっかり追払ってしまったであろうから。そうなったら、彼は(今日も一日中そうだったように)ただ愉快になれるというだけのもので、山間地方の冬の日没の美しさを味うことは出来なかったであろう。
 陽もすっかり沈んだ時、われらの友ユースタスは、夕食をするために家へ帰って来た。食事がすんでから、彼は書斎に引取ったが、私の想像では、彼が沈む夕日のまわりに見た、紫や金色の雲をほめたたえるために、一篇の抒情詩か、二三の小曲か、そのほかどんな形式にせよ、とにかく詩を作るつもりであったのだと思う。しかし、彼が最初の詩句もまとめ上げないうちに、扉があいて、プリムロウズとペリウィンクルとが現れた。
『君達、むこうへ行ってらっしゃい! 僕は今君達にかまっていられないんだ!』その学生はペンをもったまま、肩越しにふりかえって、そう叫んだ。『一体ここに何の用があるんだ? 君達はもうみんな寝たと思っていたのに!』
『ペリウィンクル、まあどうでしょう、にいさんがまるで大人みたいな口のきき方をして!』とプリムロウズは言った。『そして、にいさんはあたしがもう十三にもなって、大方自分の好きなだけ起きていたっていいんだってことを忘れているらしいわ。しかし、ユースタスにいさん、あなた気取ることはして、あたし達と一しょに客間へ来なくちゃ駄目よ。みんながあなたのお話のことを、あんまりしゃべっちゃったもんで、お父さまもそれが悪い話じゃないかどうか、一ぺん聞いてごらんになりたいんですって。』
『ちぇっ、ちぇっ、プリムロウズ!』と学生は少し腹を立てて叫んだ。『僕はああいう話を大人の前でちょっとやれないなあ。それに君んとこのお父さんは、古典を知っていらっしゃるだろう。しかし別にお父さんの学問をおそれるわけじゃないよ。というのは、それはもうとっくに、古い鞘附さやつきナイフみたいにさびっちゃっているにきまっているからね。しかし、その代りに、僕が自分の思いつきで、ああした話の中へ入れたすばらしいナンセンスに対して、きっと文句をつけられるよ。それがあるから、ああした話が君みたいな子供達にとって、大変面白くなっているんだけどね。若い時分にギリシャやローマの神話を読んだ五十代の人には、それらの神話の改作者、改良者としての僕の功績は、どうしたって分りはしないんだから。』
『それはみんな本当かも知れないわ、』プリムロウズは言った、『でも来なくちゃいけないことよ! あなたうまいことをおっしゃったけど、そのあなたのナンセンスというのを、少しみんなに聞かせて下さらないうちは、お父さんは本を開こうとなさらないし、お母さまはピアノをあけようとなさらないんですもの。だから、おとなしくついていらっしゃい。』
 どんな顔をして見せたにせよ、その学生は、よく考えてみると、古代の神話を現代風につくりかえる彼の立派な腕前はこんなものだということを、プリングル氏の前で実地に見せる機会が出来たことは、いやなどころか、寧ろ嬉しいくらいだった。実際、青年は、二十はたちになるまでは、自分の詩や文章を見せることを、どちらかといえば恥ずかしがるものだ。しかし、そのくせ、彼等は、それが一旦世間に知れたら、文壇の王座にでも坐れるもののように考え勝ちである。そんなわけで、ユースタスも、あまりさからおうとしないで、プリムロウズとペリウィンクルとに、客間の中へひきずり込まれて行った。
 それは大きな、立派な部屋で、一方の端に半円形の窓があって、そこの壁の凹んだところに、グリーナウ作の「天使と小児」の大理石の複製が飾ってあった。いろりの一方の側には、重々おもおもしく、しかし贅沢に装幀した本が、幾段にも棚にならんでいた。アストラル・ランプの白い光と、よく燃えている石炭の赤い火とで、部屋はあかあかと気持よく照らされていた。そして、いろりの火の前の深い肱掛椅子には、プリングル氏がかけていたが、その様子は、そうした部屋の、そうした椅子に坐るのに、いかにもふさわしかった。彼はひたいの禿上った、背の高い、大変立派な紳士だった。そしていつも大変きちんとした身なりをしていたので、ユースタス・ブライトでさえ、彼の前に出る時には、少なくとも閾のところでちょっと止まって、シャツのカラーをちゃんと直さないと気がすまなかった。しかし今は、プリムロウズが彼の一方の手を、そしてペリウィンクルが他の方の手をつかまえているので、彼はまるで一日じゅう雪の中をころがりまわっていたような、だらしのない恰好ではいって行くほかなかった。また事実、一日じゅう雪の中にいたにはちがいなかったが。
 プリングル氏は随分とやさしく学生の方を振り向いたのであったが、それでも学生の方ではその態度にされて、自分がまるで櫛もブラシも当てないで来たこと、それに心も考えも、身なりと同じように、まるで、まとまっていないというので、気が引けるのであった。
『ユースタス、』とプリングル氏は微笑を浮かべて言った、『君は話の腕前のいいところを見せて、タングルウッドの子供達の間で、大変評判になっているそうだね。この子――子供達仲間じゃプリムロウズといってるそうだが――それからほかの子供達もみんな、あまりやかましく君の話をほめるんで、家内とわたしとも、是非その見本を一つ聞いてみたくなったんだがね。殊にそれが、ギリシャ、ローマの古い寓話を現代的な空想や感情をった言いあらわし方に変えようとする試みらしいので、わたしには一層面白そうに思える。子供達からの又聞またぎきだが、話の中のいくつかの出来事から、わたしは、少くともそう判断したのさ。』
『こうした気まぐれな想像でやっている話を、おじさんなんかに聞かれるのは、ちょっと困るなあ、』と学生は言った。
『そうかも知れない、』プリングル氏は答えた。『しかし、一番苦手だという気がする人こそ、若い作家にとって最も有難い批評家じゃないかとわたしは思うんだが。だから、是非わたしに聞かしてくれたまえ。』
『同情ということも、批評家の資格として、多少なくてはならないと僕は思うんです、』ユースタス・ブライトは、つぶやくように言った。『しかし、おじさん、辛抱して聞いて下さるなら、僕話を考えましょう。しかし、僕は子供達の想像と共鳴とを目やすとして話すのであって、おじさんにむかって話すんじゃないということを、頭においといていただきたいんです。』
 そこで、学生は心に浮かんだ最初の題目テーマを捉えた。それは、ちょうど彼が炉棚の上に見つけた一皿の林檎から思いついたものであった。


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    三つの金のりんご

 ヘスペリディーズの庭になっていたというきん林檎りんごのことを君達は聞いたことがありますか? ああ、もしも今そんなのが果物畑になっているのが見つかったとしたら、一ブッシェルでも大したおかねになろうというような林檎でした! しかし、この広い世界にも、その林檎から接木つぎきした木は一本だってないだろうと思います。その林檎の種一つぶだって、もうありはしません。
 そして、ヘスペリディーズの庭がまだ雑草で蔽われていなかった、古い、古い、半分忘れられてしまったような昔でさえも、たいていの人達は、中まできんで出来た林檎がその枝になっている木が本当にあるかどうか、うたがっていました。みんなその話を聞いていたのですが、誰もそれを見たおぼえはありませんでした。それでも、子供達は、金の林檎のなる木の話を夢中になって聞いていて、大きくなったらそれを見つけてやろうと思いました。仲間の誰よりも勇ましいことをやって見たいと思っている冒険好きの青年達は、この林檎を捜しに出かけました。彼等の多くは、そのまま帰って来ませんでした。勿論、そんな林檎を持って帰ったものは一人もありません。誰が行っても、それをもげないのも無理はありませんでした。その木の下には一疋の竜がいて、その竜の頭は百の蛇になっていて、そのうちの五十が眠っている間は、あとの五十が見張りをしているという話なんですから。
 僕なんかから見ると、中まで金の林檎だからといって、それほどの危険をおかす値打はなさそうに思います。それがまた、実においしい、やわらかい、おつゆのたっぷりある林檎だったら、話は別です。その時には、たとえ百の頭をった竜がいたところで、それを取ろうとすることは、多少の意味があったかも知れません。
 しかし、前に言った通り、あまり長い平和と休息にあきて来ると、ヘスペリディーズの庭を捜しに行くということが、青年達には全く普通のことだったのです。そしてある時、この冒険が一人の勇士によって企てられましたが、この勇士と来ては、この世へ出てから、ほとんど平和や休息を味わったことのないような荒武者でした。ちょうど僕がこれから話をしようと思っている頃のことでしたが、彼はとても大きな棍棒を手に持ち、弓と箭筒やづつとを肩にかけて、気持のいいイタリーの国中を旅して歩いていました。彼はこれまでに現れたこともないような、大きな、はげしい獅子を自分で退治て、その皮をはいで着ていました。そして、大体に於て、彼は親切で、度量があって、人物も高尚でしたが、心にはまるでその獅子のようにはげしいところが大いにありました。彼は旅をつづけながら、始終、あの有名な庭へはこう行っていいのかどうかを尋ねました。しかし、田舎の人達は誰もそんなことは一向知らなかったので、多くの者は、もしも、その見知らぬ人がそんな大きな棍棒をさげていなかったら、その質問を笑ってやるんだがといったような顔をしました。
 そうして、彼はやはり同じことを訊きながら、どんどん旅をつづけて、とうとうおしまいに、或る河の縁へ来ました。そこには幾人かの美しい若い女達が坐って、花環をあんでいました。
『可愛らしい娘さん達、ちょっとうかがいますが、ヘスペリディーズの庭へは、この道を行けばいいのでしょうか?』とその見知らぬ人は尋ねました。
 その若い女達は、花を輪にあんで、お互の頭にかぶせ合って、みんなで楽しく遊んでいたのでした。そして彼等の指には、一種の不思議な力があると見えて、彼等がもてあそんでいると、花はもとの茎に咲いていた時よりも、よけいにいきいきと水気を含んで、色合いも一層あざやかに匂いも更に強くなるのでした。しかし、その見知らぬ人の質問を聞くと、彼等は花をみんな草の上に取り落して、おどろいて彼を見つめました。
『ヘスペリディーズの庭ですって!』と一人が叫びました。『あんなに幾度も失敗したんだから、人間はもうその庭を捜すのはいやになったんだろうとあたし達は思っていましたわ。そして、冒険好きの旅の方、一体あなたはその庭へ行って、どうなさろうというの?』
『僕のいとこに当る、或る王様が、金の林檎を三つ取って来いと僕に言いつけたんです、』と彼は答えました。
『あの林檎を捜しに来る若い男の人達は、たいてい、自分でそれがほしいか、でなければ、好きなきれいな娘さんに上げたがるんだけどねえ、』と今一人の若い女が言いました。『それじゃ、あなたは、いとこの王様がそんなにお好きなんですか?』
『あまり好きでもないんです、』とその見知らぬ人は、溜息をつきながら答えました。『彼は度々僕に対して、つらく、ひどく当るのです。しかし、彼に従うのは僕の運命です。』
『そしてあなたは、百の頭をった、おそろしい竜があの金の林檎の木の下で見張りをしていることは御存じですか?』と最初口をきいた娘が尋ねました。
『ようく知っています、』と見知らぬ人は静かに答えました。『しかし、小さい時から、毒蛇や竜を相手にすることは、僕の仕事みたいな、いや、ほとんど楽しみみたいなものでした。』
 若い女達は彼の大きな棍棒と、彼の着ているもじゃもじゃの獅子の皮と、それからいかにも勇士らしい彼の手足や身体からだつきを見ました。そして彼等は、この人なら、いかにもほかの男達の力にはとても及ばないようなことでもやってのけようというのも尤もだと、お互にささやき合いました。しかし、それにしても、百の頭をったあの竜がいては! たとえ百の命があったとて、そんな怪物の毒牙をのがれる見込みのある人間なんているでしょうか? その娘たちは大変やさしい心をしていたので、彼等はこの勇敢な、立派な旅人がそんなあぶないことを企てて、九分九厘、あの竜の百もある口に食われて、命を捨てるのを見るにしのびない気がしました。
『お帰りなさい、』彼等はみんなで叫びました。『御自分のおうちへお帰りなさい! あなたのお母さまは、あなたの無事息災な姿を見て、うれし涙にくれるでしょう。たとえあなたが竜に勝って帰ったところで、お母さまがそれ以上お喜びになれるわけはないでしょう。金の林檎なんか、どうだっていいじゃありませんか! あなたのひどいいとこの王様なんか、かまうものですか! あたし達は、百の頭をしたあの竜なんかに、あなたをたべさせたくないのです!』
 見知らぬ人は、こんな風にいろいろといさめられて、じれったくなって来た様子でした。彼は何の気もなく、彼の大きな棍棒を上げて、その辺の、半分土に埋まった石の上にどんとおろしました。そうして何の気もなしに、とんとやっただけで、その大きな石はがらがらにこわれてしまいました。こうした巨人のような力わざをやるにも、その見知らぬ人には、娘達の一人が、花で姉妹の頬をなでるほどの力しか要らなかったのでした。
『こんな風にどんとやると、その竜の百の頭の一つくらいは、ぺしゃんこになると思いませんか?』と彼は、にこやかに娘達を見ながら言いました。
 それから彼は草の上に坐って、彼の身の上話、といっても、最初彼が戦士の真鍮の盾の上で育てられてからこの方、おぼえているだけのことを彼等に話しました。彼が盾の上にねていた時、二疋の大きな毒蛇がゆかの上をって来て、おそろしい口をあけて彼を呑もうとしました。彼はまだ幾月にもならない赤坊でしたが、そのおそろしい蛇を一疋ずつ、小さな両手につかんで、それらを締め殺してしまいました。彼はまだほんの少年の頃、彼が今その大きな、もじゃもじゃの毛皮を肩にかけている獅子と殆ど同じくらい大きなやつを退治ました。その次に彼がやったのは、ハイドラというおそろしい怪物とのたたかいでした。それは九つも頭があって、その一つ一つに、とても鋭い歯をもっていました。
『だって、ヘスペリディーズの竜には、百も頭があるんですよ、』と娘達の一人が口を入れました。
『それでも、』と見知らぬ人は答えました、『僕は、そんな竜が二疋でかかって来ても、ハイドラ一疋よりも、らくだと思うなあ。というのは、ハイドラと来ちゃ、一つ頭をちょんったと思うと、すぐそのあとから二つの頭が生えて来るというわけですからね。その上、どうしても死なないで、切り落したあとでも長い間、同じような激しさで、いつまでも咬みに来るという頭が一つあるんです。だから僕は仕方なしに、それを石の下に埋めて来ましたが、そいつはきっと今でも生きているでしょう。しかし、ハイドラの胴体と、ほかの八つの頭とは、もうこの上害をするようなことは決してないでしょう。』
 娘達は話が大分長くなりそうだということを察して、見知らぬ人がおしゃべりの間にとって食べられるように、パンと葡萄との食事を用意していました。彼等は喜んでこの簡単な食事を彼にすすめました。そして、彼一人でたべるのがきまりが悪いといけないからというので、娘達も時々、おいしい葡萄をつまんで、薔薇色の口に入れました。
 旅の人はつづいて、彼が一年間ぶっ続けに、息を入れるために休みもしないで、大変足の速い牡鹿を追っかけて行って、とうとうそのまたになった角をつかまえて、生捕いけどりにして家につれて帰った話をしました。それからまた彼は、半分人間で半分馬みたいな、とてもおかしな人種とたたかって、こんないやな形のものが、この先、人の目につかないようにするのは自分の務めだというような考えから、それらをみんな退治てしまいました。いろいろそんなことをした上に、彼は或るうまやの掃除をしたことを大変手柄のように言いました。
『そんなことが大した手柄だとおっしゃるんですか?』と若い娘の一人が笑いながら訊きました。『田舎のどんなお百姓だって、それ位なことはしますわ!』
『もしもそれが普通の厩だったら、僕はなにもわざわざこんな話をしやしませんよ、』と見知らぬ人は答えました。『しかしそれはとても大仕事で、もしも僕が川の流れを、その厩の入口へ向けるといううまいことを考えなかったら、その掃除に一生かかったかも知れません。ところが、川のおかげで、すぐ掃除が出来てしまったのです!』
 美しい娘達がいかにも熱心に聞いているのを見て、彼は次には、幾羽かの怪鳥を射落したこと、野牛を生捕いけどりにして、また放してやったこと、沢山の野生の馬を馴らしたこと、それから、アマゾン女族の戦争好きの女王ヒポリタを征服したことなどを話して聞かせました。それからまた、ヒポリタの魔法にかかった帯を取上げて、それを彼のいとこの王様の娘にくれてやったことも話しました。
『それは女達を美しくするヴィーナスの帯ですか?』と、娘達のうち一番きれいな子が尋ねました。
『いいえ、』と見知らぬ人は答えました。『それはもと、ローマの軍神マアスが剣をつるしていた革帯です。ただ、それを締めると、勇気と元気とが出るのです。』
『剣をつっていた帯のおふるですか!』と、その娘は首をしゃくって叫びました。『それじゃ、あたし欲しかあないわ!』
『そりゃそうでしょう、』と見知らぬ人は言いました。
 なお彼は驚くべき話をつづけて、今までの冒険のうちで一番変っていたのは、六本足の男ヂェリオンとたたかった時のことだと娘達に話しました。君達にも十分見当がつくと思うが、それはとても変てこな、おそろしい恰好のものでした。砂か雪かについた彼の足跡を見たら、誰だって、三人の仲のいい友達が一しょに歩いたのだと思うでしょう。少しはなれて彼の足音を聞くと、幾人いくたりかの人が来るのにちがいないという気がするのも、決して無理はありません。しかし、ただヂェリオンという不思議な人間が、六本足でがらごろとやって来るのでした!
 六本の足と大きなからだ一つ! たしかに、彼は見るも奇妙な怪物だったにちがいありません。それにまあ、どんなに靴の皮がへったことでしょう!
 見知らぬ人は彼の冒険談を終った時、熱心に聞いていた娘達の顔を見廻しました。
『多分あなた方は、僕のことをこれまでに聞いたことがあるでしょう、』と彼は別に威張りもしないで言いました。『僕の名はハーキュリーズというんです!』
『さっきから見当がついていましたわ、』と娘達は答えました、『だって、あなたのめざましい働きは世界中に知れ渡っているんですもの。もうあたし達は、あなたがヘスペリディーズの金の林檎を捜しにお出かけになるのを、変だなんて思いませんわ。さあ、みんな、この勇士に花の冠をかぶらせましょう!』
 そこで彼等は美しい花環を、彼の立派な頭と大きな肩との上に投げかけたので、獅子の皮は殆どすっかり薔薇におおわれてしまいました。彼等は彼の重い棍棒を取って、この上もなくきれいな、やさしい、匂いのいい花をそのまわりに巻きつけたので、中の樫の木は指の幅ほども見えなくなってしまいました。何のことはない、まるで大きな花束のようでした。おしまいに、彼等は手をつないで、彼のまわりを踊りながら歌いましたが、その言葉はおのずから詩となり、天下に鳴り響くハーキュリーズをほめたたえる合唱となって行きました。
 ほかのどんな勇士だってそうでしょうが、ハーキュリーズも、これらのきれいな娘達が、彼が大変骨を折り、あぶない目にもあって、なしとげた勇ましい行いを聞いて知っていてくれたことを、うれしく思いました。しかし、まだまだ、彼は満足していませんでした。彼はまだほかにやるべき、勇気のる、むずかしい冒険が残っているうちは、彼が今までにやったこと位では、こんなにほめてもらう値打があるとは思えませんでした。
『娘さん達、』彼等が息を入れるために休んだ時、彼は言いました、『あなた方が僕の名前を知ったからには、ヘスペリディーズの庭へはどう行っていいのか、僕に教えてくれませんか?』
『ああ、そんなにお急ぎにならないといけないんですか?』と彼等は叫びました。『あなた――そんなに沢山すばらしいことを仕遂げ、そんなに骨の折れる月日を送っていらしって――少しはこの静かな川の縁でお休みになる気にもなれないんでしょうか?』
 ハーキュリーズは頭をふりました。
『僕はもう出かけなくてはなりません、』と彼は言いました。
『それじゃ、あたし達出来るだけくわしくお教えしましょう、』と娘達は答えました。『あなたは海岸へ出て、「老人オウルド・ワン」を見つけて、金の林檎のありかを無理にも言わせなければなりません。』
『「老人オウルド・ワン」ですって!』とハーキュリーズは繰り返して、そのおかしな名前を笑いました。
『そして、一体その「老人オウルド・ワン」というのは誰なんです?』
『あーら、あの「海の老人」にきまってるじゃありませんか!』と娘の一人が答えました。『彼には五十人も娘があって、その娘達は大変美人だといってる人もあります。しかしあたし達は、その娘と知合いになることはよくないと思っています。なぜって、その人達は、海のように青い髪の毛をして、からだがおさかなみたいにすぼまっているんですもの。とにかく、あなたはこの「海の老人」と話をしなくてはなりません。彼は船乗り稼業かぎょうをしていて、ヘスペリディーズの庭のことは、なんでも知っています。というのは、その庭は、彼がいつも出かけて行く島にあるのですから。』
 そこでハーキュリーズは、どの辺へ行けば、一番その「老人オウルド・ワン」に会えそうかと訊きました。そして娘達がそれを教えてくれた時、彼はパンや葡萄を御馳走になったことや、美しい花をかぶらせてもらったことや、歌や踊りでほめてもらったことなど、一々礼を述べ、とりわけ、本当の道を教えてくれたことに対して娘達に感謝して、すぐに旅に出ました。
 しかし、彼がまだ声が届かないほど遠くへ行かないうちに、娘の一人が、うしろから彼に呼びかけました。
『「老人オウルド・ワン」に出会ったら、彼をぎゅっとつかまえていらっしゃい!』彼女はほほ笑みながら叫んで、その注意を一層よく頭に入れさせるために指を上げて見せました。『どんなことが起っても、びっくりしちゃいけませんよ。ただ彼をしっかりと、つかまえていらっしゃい、そうすれば彼はあなたの知りたいことを教えてくれるでしょう。』
 ハーキュリーズは重ねて彼女に礼を言って、旅をつづけました。一方娘達の方は、また楽しい花環つくりの仕事をやり出しました。彼等はハーキュリーズが行ってしまった後も、長い間彼の噂をしました。
『あの方が百の頭をもった竜を退治て、三つの金の林檎を持ってここへ帰っていらしったら、あたし達の一番美しい花環をかぶらせて上げましょうよ、』と彼等は言いました。
 その間に、ハーキュリーズは、丘や谷を越え、淋しい森を抜けて、どんどん旅をつづけました。時々彼は棍棒を高く振り上げて、樫の大木を一打ちでたち割ってしまいました。巨人や怪物とたたかうことが彼の一生の仕事だけに、心は彼等のことで一杯だから、おそらく大きな木までが巨人や怪物のように見えたのでしょう。そして、ハーキュリーズは彼の引受けたことをやりとげようと、大変はりきっていたので、あの娘達を相手に、無用の冒険談などをして、大変暇をつぶしたことを後悔するような気持にさえなりました。しかし、大きな仕事を仕遂げるように生れついた人は、必ずそうした気持になるものです。彼等が既にやってしまったことは、実につまらなく思えてくるのです。そして、これからやろうとすることが、骨折りと、危険と、そして命にさえも値するような気がするのです。
 ちょうどその森を通り合せた人は、彼が大きな棍棒で木を打っているのを見て、びっくりしたにちがいありません。ただ一打ちでもって、幹は雷にうたれたように裂け、大きくひろがった枝は、ざわざわと音を立てて、崩れるように落ちて来ました。
 彼は少しも立止ったり、あとをふりかえったりしないで、どんどん先を急ぐうちに、やがて遠くから海鳴うみなりの音が聞えて来ました。それを聞くと、彼は更に足を早めて、まもなく、とある海岸へ出ました。そこには、大きな磯波が、真白な泡の長い線を引いたように、堅い砂の上に打上げていました。しかし、その海岸の一方の端には、ちょっとした灌木林が崖を這い上るように生えていて、その岩になった表面を、やわらかく、美しく見せている気持のいい場所がありました。匂いのいいうまごやしが沢山まじった、毛氈を敷いたような青草が、その崖と海との狭い間を蔽うていました。そして、ハーキュリーズがそこに見つけた人こそ、ぐっすりと眠っている一人の老人でした!
 しかし、それは実際、間違いなく老人だったでしょうか? たしかに、ちょっと見ると、それはいかにも老人のようでした。しかしもっとよく見ると、それはむしろ、何か海に棲んでいる動物みたいでした。というのは、彼の脚や腕には、魚にあるようなうろこがありました。彼は足や手に、家鴨みたいなみずかきがついていました。そして彼のあごひげは、緑色をしていて、普通のあごひげというよりも、一束の海藻のように見えました。君達は船材の切端きれはしが、長いあいだ波にもまれて、藤壺が一杯くっついて、とうとうしまいに、深い深い海の底から打上げられたのかと思われるような風になって、岸に漂着しているのを見たことがありますか? とにかく、その老人を見ていると、ちょうどそういったような、波にもまれた材木を思わせるものがありました。しかしハーキュリーズは、その不思議な姿を見るとすぐに、これこそ彼に道を教えてくれる筈の「老人オウルド・ワン」にちがいないと思いました。
 そうです。これこそあの親切な娘達が彼に話して聞かせた「海の老人」にほかならなかったのでした。ちょうどうまく、その老人が眠っているところを見つけるなんて、自分はよほど運がいいのだと喜びながら、ハーキュリーズはしのび足で彼の方へ近づいて行って、彼の腕と脚とをつかまえました。
『ヘスペリディーズの庭へは、どう行けばいいか、教えてくれ、』老人がまだよく目もさまさないうちから、彼はそう叫びました。
 君達にもたやすく想像がつく通り、「老人オウルド・ワン」はびっくりして目をさましました。しかし、彼がびっくりしたよりも、次の瞬間には、ハーキュリーズの方がもっとびっくりした位でした。というのは、急に「老人オウルド・ワン」が、彼のつかまえている手から消えたように思うと、いつのまにか彼は牡鹿の前足と後足とをつかまえているのでした! それでも彼は、しっかりとつかまえて放しませんでした。すると牡鹿が消えて、今度は海鳥になって、ハーキュリーズがその翼と足とをつかんでいると、ばたばたとあばれて啼き立てました! しかし、鳥は逃げ出すことが出来ませんでした。すぐその次には、三つも頭のある、おそろしい犬になって、ハーキュリーズにむかって、唸ったり吠えたりして、つかまえている手に、はげしく咬みつこうとしました! けれどもハーキュリーズは放そうとしませんでした。三つあたまの犬から、すぐにまた何になったかというと、あの六本足の怪人ヂェリオンで、つかまえられている一本を振放そうとして、五本の足でハーキュリーズを蹴りました! しかしハーキュリーズは、やっぱりつかまえていました。やがてヂェリオンの姿が見えなくなって、今度は、ハーキュリーズが赤ちゃんの時締め殺したのに似た、しかしその百倍もあろうかと思われる大きな蛇になりました。それは彼の頸や胴にぐるぐると巻きついて、尻尾を高く振上げ、彼を丸呑みにでもしそうな風に、おそろしい口をあけました。だからそれは本当に大変おそろしい有様でした! それでもハーキュリーズは少しもおそれず、その大きな蛇を、うんときつく握り締めましたので、まもなくそれは苦しがって、しゅっしゅっというような声を出して鳴きはじめました。
 ここでことわっておきいのは、その「海の老人」は、まるで波に打たれた船首像みたいでしたが、なんでも好きなものに化ける力を持っていたということです。彼がハーキュリーズにそんなに手荒くつかまえられていたと知った時、その魔力でいろんなものに化けて、彼をおどかし、こわがらせて、さっさと手を放させてやろうと思ったのでした。もしもハーキュリーズが手をゆるめていたならば、「老人オウルド・ワン」はきっと海の底へもぐり込んでしまって、一旦そこへはいってしまったとなると、ぶしつけな質問などに答えるためにわざわざ浮き上って来てくれるなんてことは、なかなか無かったでしょう。百人のうちの九十九人までは、僕が思うのに、彼が最初いやなものに化けた時に、もうすっかりたまげてしまって、早速逃げ出したことでしょう。というのは、本当の危険と、ただ危険そうに見えるだけのものとを見分けるということは、この世の中で一番むずかしいことの一つですから。
 しかし、ハーキュリーズがどうしても手をはなさず、「老人オウルド・ワン」がいろんなものに化けるたびによけいに強く締めつけて来て、本当に随分痛い思いをさせられたので、彼もとうとう、もとの自分の姿になるのが一番いいと思いました。そこで彼は再び、さかなみたいで、うろこがあって、足にみずかきがついていて、頤に一束の海藻みたいなものが生えた人間の姿に返りました。
『一体、あなたはわたしにどんな御用があるんです?』「老人オウルド・ワン」は息がつけるようになるとすぐ、そう叫びました。というのは、そんなにいろいろほかのものに、次から次へと化けることは、まったく骨の折れる仕事でしたから。『どうしてわたしをそんなにきつく締めつけるんです? すぐ放して下さい、でないと、あなたを非常に失礼な人だと思いますよ!』
『僕の名はハーキュリーズというのだ!』と、力持の見知らぬ人は割れるような声で言いました。『君がヘスペリディーズの庭への一番の近道を教えてくれるまでは、決して手を放してやらないぞ!』
 老人は彼をおさえている人の名を聞いた時、これはもう彼の知りたがっていることは何でも教えないといけないということを、すぐにさとりました。前にも言ったように、「老人オウルド・ワン」は海に棲んでいて、ほかの、海で暮らす人達と同じように、どこでも歩き廻っていました。勿論、彼はハーキュリーズの評判は度々聞いていて、彼が世界の至る処で常にすばらしい事をやっていることや、彼が一旦やろうと思った事は必ず思切ってやるということを知っていました。だから彼はもう逃げようなどとはしないで、その勇士に、ヘスペリディーズの庭への道を教えた上に、彼がそこへ行きつくまでに切り抜けなくてはならない、いろんな困難についての注意までもしてやりました。
『あなたは、こう行って、こう行かなくてはなりません、』と、「海の老人」は方角をしらべてから言いました、『するとおしまいに、大空を肩にしょって立っている大変背の高い巨人が見えてくるでしょう。そして、その巨人は、もしも、上機嫌だったら、ヘスペリディーズの庭がちょうどどの辺にあるか、あなたに教えてくれるでしょう。』
『そして、もしもその巨人が機嫌の悪い時にぶっつかっても、』と、ハーキュリーズは彼の棍棒を、指の先に、天秤みたいに平均をとって乗せながら言いました、『多分僕は、何とかして彼に言わせるよ!』
「海の老人」にお礼を言い、又彼をあんなに乱暴に締めつけたことを詫びて、その勇士はまた、旅をつづけました。彼は実に沢山の変った冒険に出遇いました。それは詳しく話す値打があるもので、もしもそうしている時間さえあれば、君達にも十分聞きごたえがあると思うのですが。
 神様が実にうまく工夫して、地べたにつく度に前より十倍も強くなるという、おそろしい巨人をおつくりになっていましたが、ハーキュリーズがそれに出くわしたのは、たしかにこの旅行の時でした。その巨人の名前は、アンティーアスといいました。そんな男とたたかうのは大変面倒なことだということは、君達にもよく分るでしょう。というのは、彼は相手がそっとしておいてくれるよりも、度々なぐり倒してくれた方が、一層強く、きつく、武器を使うことも上手になって、起き上れるというわけなんですから。そんなわけで、ハーキュリーズが彼の棍棒で、その巨人をひどくなぐり倒せばなぐり倒すほど、勝つ見込みがなくなってくるような気がしました。僕はちょうどそんな風に、やっつけられればやっつけられるほど、一層いきり立って来るような人と議論をしたことは時々あるが、なぐり合いをして見たことはありません。さて、ハーキュリーズが、これならばこの喧嘩に勝てるということが分ったのは、アンティーアスの足が地べたにつかないようにさし上げて、そのまま彼を締めて締めて締め抜いて、とうとうおしまいに、彼の大きなからだから、力をすっかりしぼり出してしまうという手一つでした。
 このたたかいに勝つと、ハーキュリーズは旅をつづけて、エジプトの国へ来ました。そこで彼はとりこになりましたが、もしもその国の王様を倒して、逃げ出していなかったら、彼の方が殺されてしまうところでした。アフリカの沙漠を通り抜けて、一生けんめい道をいそぐうちに、彼はとうとう大きな海の岸へ出ました。そして、ここまで来ると、大波の頭の上でも踏んで行けない以上は、当然彼の旅もおしまいになりそうでした。
 彼の前には、泡立ち、湧き返る、かぎりない大海のほか、何もありませんでした。しかし、彼が水平線の方を見ると、ずうっと遠くに何か、ふと目についたものがありました。それは大変きらきらと輝いて、まるでちょうど地のはてに、昇るか落ちるかする円い太陽を見るようでした。それはたしかに、だんだんと近づいて来ました。というのは、この不思議な物は、刻一刻と大きくなり、光を増してくるからです。とうとうそれが大変近くなったので、ハーキュリーズは、それが金か又はよく磨いた真鍮で出来た、大きなお椀かお鉢だということが分りました。それがどうして海へ流れて来たかということは僕も知りません。とにかく、それは立騒ぐ大波にもまれていました。しかし波はそれを上下にゆりうごかして、泡立った波頭なみがしらがその胴にぶっつかってり上がるだけで、しぶきは決してそのお椀の縁を越えることはありませんでした。
『僕は今まで 沢山の巨人を見て来た、』とハーキュリーズは考えました、『しかし、こんな大きな椀で酒を飲まなければならないほどの巨人を見たことはない。』
 そして、本当に、それはどんなに大きな椀だったことか知れません! それはとても――とても大きくて――いやしかし、つまるところ、僕はそれがどんなに途方もなく大きかったかを言いかねる位です。内輪にいっても、それは大きな水車の輪の十倍もあったでしょうか、そして、全部がかねで出来ていたにも拘らず、小川を流れていくどんぐりの皿よりももっと軽々かるがると、り上がって来る磯波の上に浮かんでいました。波がそれをごろごろころがすように押して来て、とうとう、ハーキュリーズの立っているすぐ近くの岸に、その底がつきました。
 そうなるとすぐに、彼はどうすればいいかが分りました。というのは、彼は今までに幾つとなくめざましい冒険を仕遂げて来たので、何か少しでも普通と違ったことが起った時には、いつでもそれに応じた処置のとり方を相当よく心得ていたからです。このおそろしく大きな椀が、ハーキュリーズを乗せて、ヘスペリディーズの庭へと海を渡って行くために、何か目に見えない力によって海に浮かべられて、こちらへ流されて来たのだということは、火を見るよりも明らかでした。そこで、すぐさま、彼は縁を乗り越えて、その中にすべり込み、そこに獅子の皮を敷いて少し横になって休むことにしました。彼はあの川の縁で娘達に別れてからというものは、今までほとんど休まないで来たのでした。彼はうつろな椀のまわりに、こころよい、響のいい音を立ててぶっつかりました。椀は軽くゆらゆらと揺れて、その動揺があまりいい気持なので、ハーキュリーズは揺られながら、たちまちこころよいねむりにさそわれて行きました。
 彼のうたたねが相当長くつづいたと思ううちに、彼の乗っている椀が、一つの岩に触れて、そのために、金か真鍮か、とにかくその椀が出来ているかねが、たちまち、どんなに大きな音をたてる教会の鐘よりも百倍も大きく鳴りひびきました。その音で目をさましたハーキュリーズはすぐ立上って、どこへ来たのかと思って、あたりを見まわしました。彼はやがて、その椀が海を大方渡ってしまって、どこかの島らしい海岸に近づいていたことを知りました。そしてその島に、彼が何を見たと君達は思いますか?
 いいえ、なかなか見当がつかないでしょう。たとえ五万たび言って見たところで、当らないでしょう! 僕にもこれは断然、彼の驚くべき旅と冒険との全行程のうちで、ハーキュリーズが今までに見た一番驚くべき光景だったと思われます。それは、切られるとすぐ倍になって生えて来る九つの頭をったハイドラよりも、あの六本足の怪人よりも、アンティーアスよりも、ハーキュリーズの時代より前に、或は後に、誰が見たどんなものよりも、またこれから先ずうっと次から次へあらわれて来る旅行者が見るかも知れないどんなことよりも、更に驚くべきものでした。それは一人の巨人でした!
 しかし、お話にもなんにもならないような巨人だったのです! 山のように高い巨人で、あまり大きいので、雲がおおよそ彼の腰のあたりにかかって、帯をしめたように見えたり、白いあごひげみたいに頤の下にかかったりしました。また彼の大きな眼の前も通って行くので、彼はハーキュリーズも、その乗っている金色の椀も見えませんでした。それに、何よりもおどろくべきことには、その巨人は彼の大きな手をさし上げて、空をささえているらしいのです。ハーキュリーズが雲をすかして見たところでは、空は彼の頭に乗っていました! これは実際、話が大きすぎて、ちょっと信じられない気がするくらいですが。
 その間に、きらきら光った椀は、前へ前へと流れて、とうとう岸に着きました。ちょうどその時、風が巨人の顔の前から雲を吹きのけたので、ハーキュリーズはとても大きな目鼻立ちをしたその顔を見ました。両方の眼はそれぞれ向うの湖ほどもあり、鼻の長さは一マイル、それから口の幅も同じくらいありました。それは何分にも大きいので、恐しくはありましたが、何だかいやになってしまったような、疲れ切ったような顔でした。自分の力以上のものをかつがされている人を、今日こんにちでも君達はよく見るでしょうが、まああんな顔と思っていいでしょう。その巨人にとっての空は、ぺしゃんこにされてしまいそうになって苦しんでいる人達にとっての地上の苦労とちょうど同じでした。そして、人は自分の柄にもないことをすれば、必ずこの巨人が遇ったのとちょうど同じような、ひどい目に遇うのです。
 可哀そうに! 彼は明らかに、長い間そこに立っていたのです。古い森が、彼の足のまわりにだんだん成長して、まただんだんと朽ちて行きました。どんぐりから芽を吹いた、六七百年もたった樫の木が、彼の足の指の間から無理に生えていました。
 折しもその巨人は、とても高いところにある彼の大きな眼から、下の方を見おろしました。そしてハーキュリーズをみとめて、ちょうど彼の顔から吹きのけられたばかりの雲の中から鳴り出す雷の音かと思われるような声で、吼え出しました。
『わしの足もとにいる奴は誰じゃ? そしてお前は、あの小さな椀に乗って、どこから来たのじゃ?』
『僕はハーキュリーズだ!』その勇士は、巨人の声と大方同じ位な、いや、全くそれに負けない位な大きな声で、どなり返しました。『そして僕は、ヘスペリディーズの庭を捜しているのだ!』
『ほう! ほう! ほう!』巨人はびっくりするほど大きな声で、吼えるように、笑い出しました。『それはまことに結構な冒険じゃのう!』
『結構でなくってどうする?』ハーキュリーズは、巨人の冗談に少しむっとして叫びました。『僕が百の頭をもった竜をこわがっているとでも思うのか!』
 こうして彼等が話をしている折しも、いくつかの黒雲が巨人の腰のまわりに集まって来て、かみなりといなずまとの大変な嵐となり、あまりやかましくて、ハーキュリーズには、相手の言葉が一ことも聞き取れませんでした。ただ巨人のどれ位あるとも分らないような足が、暗い嵐の中に、にゅっと立っているのが見えるだけです。そして、もうもうとした雲に包まれた彼の全身が、時々、ちらっちらっと目にうつるのでした。彼はその間も、ほとんどしゃべりつづけているようでした。しかし彼の大きな、深い、荒っぽい声は、雷がごろごろと鳴る音と一しょになって、それと同じように、山の向うへ響いて行ってしまいました。こうして、むやみやたらにしゃべって、その馬鹿な巨人は、計り知れないほどの息を無駄に費しました。というのは、彼の言ってることは、全く雷の音と同じように、一向わけがわからなかったからです。
 とうとう、嵐は来る時と同じように、突然晴れ上ってしまいました。そして、からりとした空や、うんざりしながらそれをさし上げている巨人や、それから気持のいい日の光が高い高い彼の上からさして、陰気な夕立雲を背景として彼の姿を明るく照らし出しているのが、また見えて来ました。彼の頭は夕立よりもはるか上の方にあったので、髪の毛一筋にも、雨のしずくはかかっていませんでした!
 巨人はハーキュリーズがまだ海岸に立っているのを見ると、彼にむかって、また怒鳴り出しました。
『わしはこの世で一番力の強い巨人アトラスじゃ! そして、わしは空を頭の上に乗せているのじゃ!』
『そうのようだね、』ハーキュリーズは答えました。『ところで、君は僕にヘスペリディーズの庭へ行く道を教えてくれないかね?』
『そこに何の用があるじゃ?』巨人は訊きました。
『僕は、いとこの王のために、金の林檎を三つ取りたいんだ、』ハーキュリーズは大声で言いました。
『ヘスペリディーズの庭へ行って、金の林檎をもげる者は、わしのほかに誰もない、』巨人は言いました。『この、空を持ち上げているという小仕事さえなければ、わしが海を五足いつあし六足むあしで渡って行って、それをお前に取って来てやるんだがなあ。』
『それはどうも御親切に、』ハーキュリーズは答えました。『そして、君は空をその辺の山の上にちょっとっけておくというわけには行かないのかしら?』
『それほど高い山が一つもないんだ、』アトラスは、首を振りながら言いました。『しかし、もしもお前があの一番近い山の上に立てば、お前の頭はどうかこうかわしの頭と同じ高さになるだろう。お前はいくらか力のある男らしいな。わしがお前の使いをしてやる間、わしの荷物をお前の肩に乗せていてくれたらどうじゃ?』
 よく覚えていてほしいんですが、ハーキュリーズは大した力持でした。そして、空を支えるには、大変な筋力がりましたが、それでも、誰か人間のうちでそんな芸当が出来そうな者があるとすれば、彼こそその人でした。それにしても、あまりむずかしそうな仕事なので、彼は生れてから初めて、二の足を踏みました。
『空って大変重いかしら?』彼は尋ねました。
『さようさ、はじめのうちは、別にそんなでもないね、』巨人は肩をすぼめながら答えました。『しかし、千年も持っていると、多少重くなって来るね!』
『そして、君が金の林檎を取って来てくれるのに、どれくらい時間がかかるだろう?』勇士は尋ねました。
『ああ、それはちょっとの間で出来るんだ、』アトラスは叫びました。『わしは一足ひとあしが十マイルか十五マイルだ。だから君の肩が痛くなり出さないうちに、あの庭へ行って、また帰って来るよ。』
『それじゃ、まあ、』ハーキュリーズは答えました、『僕はあの、君のうしろの山に登って、君の荷物を持っててあげよう。』
 実際のところ、ハーキュリーズは親切な心の持主だったので、こうして一度散歩に出る機会をあたえてやれば、巨人に対して大変いいことをしてやることにもなると考えました。その上また、単に百の頭のる竜を退治るというだけの平凡なことよりも、空を持上げたといって自慢することが出来れば、自分自身の名誉のためには一層たしになるだろうと思いました。そこで、それ以上何も言わないで、空はアトラスの肩から、ずるずるっと、ハーキュリーズの肩へ移されました。
 それが無事にすむと、巨人はまず第一に、のびをしました。その時の彼がどんなに大した見ものだったかは、君達も想像出来るでしょう。次に、彼は一方の足を、そのまわりに生えた森から、ゆっくりと上げました。それからまた、他の足を上げました。それから、自由になったうれしさに、突然、跳ねまわったり、飛び上ったり、踊ったりし始めました。空中どれくらい高く飛び上るものやら見当もつかない位で、また不器用にどんと落ちて来ると、大地がぶるぶるっと震えました。それから――ほう! ほう! ほう!――と笑い出しましたが、それが、あちこちの山々にこだまして、雷のように鳴りひびくので、まるで巨人にそれだけの兄弟があって、みんなで喜んでいるのかと思われるくらいでした。彼の嬉しさが少し静まった時、彼は海の中へ足を踏み入れました。最初の一足ひとあしで十マイル、それですねの半分どころの深さでした。二足ふたあし目も十マイル、その時には、水がちょうど彼の膝の上まで来ました。それから三足みあし目で、もう十マイル、すると彼は大方腰の辺までつかりました。これが海の一番深いところでした。
 ハーキュリーズは、巨人がまだまだ向うへ進んで行くのをじっと見ていました。というのは、この大きな人間の恰好をしたものが、三十マイル以上も向うの方で、腰まで海の中へはいって、それでもまだ上半身が、まるで遠くの山のように高く、かすんで、青く、見えているのは、実にあきれるばかりだったからです。その大きな姿は、だんだんぼんやりして来て、おしまいには、すっかり見えなくなってしまいました。こうなると、ハーキュリーズは、もしもアトラスが海に溺れるとか、ヘスペリディーズの金の林檎をまもっている百の頭をした竜に咬まれて死ぬとかした場合には、どうしたものだろうと、心配になって来ました。もしも何かそうした不幸が起ったら、一体この空という荷物を、どうしておろすことが出来るでしょうか? それに、もうそろそろ、空の重みが、彼の頭と肩とに少々こたえて来たのでした。
『本当にあの気の毒な巨人は可哀そうなものだ、』とハーキュリーズは思いました。『十分間で僕がこんなにひどくくたびれるんだから、千年の間もこうやっていた彼は、どんなにくたびれたことか、思いやられる!』
 おう、可愛い小さな君達よ、君達には、われわれの頭の上に、あんなにやんわりと、軽そうに見えているあの青空がどんなに重いものか、見当もつかないでしょう! それにまた、吹荒ふきすさぶ風、いやりとした、しめっぽい雲、焼けつくような太陽、といったようなものが、交代でハーキュリーズを苦しめるのだから、たまりません! 彼は、巨人がもう帰って来ないのではないかと心配になって来ました。彼はうらやましそうに、下界を眺めました。そして、こんな目まいがしそうな山の頂上に立って、力一杯に大空をさし上げたりしているよりも、山のふもとで羊飼でもしている方が、ずっと仕合せだということを思い知りました。というのは、勿論、君達にもすぐ分る通り、ハーキュリーズは彼の頭と肩との上に重みを背負っているばかりではなく、心に大変な責任を感じていたからです。だって、もしも彼がじっと立って、空を動かないようにしていないと、おそらくお日様がぐらつき出すでしょう! 或は又、夜になって、沢山のお星様がその座からずり出して、人々の頭の上へ、火の雨のように降って来るでしょう! そして、もしも、彼がその重みでよろめいたがために、空が裂けて、大きな割目われめが端から端まで出来たりしたら、その勇士はどんなに面目ない気がするでしょう!
 それから、遠く海の向うの端に、巨人の大きな姿が、雲のように見えて来て、彼が何ともいえないほど嬉しく思うまでに、どれ位の時間がたったか、僕は知りません。とにかく、アトラスはもっと近づいてから、手を上げましたが、ハーキュリーズはその手に、一本の枝に垂れた、南瓜かぼちゃほどもある、三つの大きな金の林檎を見ました。
『よく帰って来てくれたね、』声が届くほどのところへ巨人が来た時、ハーキュリーズは叫びました。『で、金の林檎を取って来てくれたんだね?』
『そう、そう、』アトラスは答えました、『そして、なかなかいい林檎だよ。ほんとに、わしはあの木になっているうちで、一番立派なのを取って来たんだから。ああ! ヘスペリディーズの庭って、美しい所だ。そう、それから百の頭をした蛇は、誰でも一ぺん見とく値打はあるねえ。何といっても、お前は自分で林檎を取りに行った方がよかったぜ。』
『そんことはどうだっていいよ、』ハーキュリーズは答えました。『君は気持よく散歩して来たんだし、それに僕が行っても同じで、用は足りたんだから。お骨折ほねおりねがって、ほんとうにありがとう。しかし、もう、僕は道も遠いし、かなり急いでもいるし、――それに、僕のいとこの王が金の林檎を待ちかねているしするから、――何とかもういっぺん、僕の肩から空を受取ってもらえまいか?』
『どうも、そいつは、』と、巨人は金のりんごを空中へ二十マイルかそこいら、ぽいとほうり上げてまた落ちて来るところを受けとめながら、言いました、――『そいつは、お前、少しお前の方が無理だと思うんだがね。わしの方がお前よりもずっと早く、お前のいとこの王様のところへ、金の林檎を持って行けはしないかね? 陛下がそんなにお待ちかねなんだから、わしは出来るだけ大股で行くことをお前に約束するよ。それにまた、わしはちょっと今のところ、空を背負込しょいこもうなんて気はないね。』
 そこでハーキュリーズは、じれったくなって来て、大きく肩をすぼめました。もうそろそろ暗くなりかかっていたので、その場にいたら、お星様が二つ三つその座からころがり出すのが見えたでしょう。地上の人はみんなびっくりして上を向いて、次には空が落ちて来はしないかと思いました。
『おう、そんなことをしちゃいけない!』巨人アトラスは、大きな声で吼えるように笑って言いました。『わしはこの五百年間にだって、そんなに沢山の星を落っことしはしなかったよ。わしほど長い間そこに立っているうちには、お前も辛抱というものを覚えて来るようになるだろう!』
『なんだと!』ハーキュリーズはひどく腹を立てて叫びました、『君は僕にいつまでも、この重いものを背負しょわしとくつもりか?』
『そのことについちゃ、いずれ日を改めて相談するとしよう、』巨人は答えました。『いずれにしても、お前は、もしもこの先百年、いやどうかすると千年もそれを背負っていなければならないことになっても、不平を言っちゃいかん。わしは背中が痛かったのに、それよりも大分長く背負ってたからなあ。まあ、その上で、千年もたって、もしもわしの気が向くようなことがあったら、また交代することになるかも知れない。お前はたしかに、大変強い男だ、そして、それを証明するのに、決してこれ以上の機会はありっこないよ。後世の語り草になること請合うけあいだ!』
『ちぇっ! 後世の語り草なんか、ちっともありがたくないや!』ハーキュリーズは、もう一ぺん肩をしゃくりながら叫びました。『ほんとにちょっとの間でいいんだから、空を君の頭に乗っけといておくれよ、ねえ、いいだろう? 重みのかかるところへ、獅子の皮を当てたいんだよ。重みで肩や背中が赤むけになって、何百年もここに立ってる間には、よけいな痛い目をすることになるからね。』
『そりゃ尤もだ。わしが持っててあげよう!』と巨人は言いました。というのは、彼はハーキュリーズに対して、別に不親切な気持はなく、ただ自分でらくがしたさに、身勝手な振舞をしていただけなんですから。『ほんの五分間だよ。そしたらまた、空を返すからね。五分間だけだよ、いいかね! わしは今までの千年を送ったような風に、またこれからの千年を送るつもりは更にない。目先が変るということに、生活の味があるというものさ!』
 ああ、この巨人のじいさん、総身に智恵が廻りかね、というところです! 彼は金の林檎をほうり出して、ハーキュリーズの頭と肩から、もともとそれが乗っていた自分の頭と肩へ、空を受取りました。そこでハーキュリーズは、南瓜かぼちゃほどもある、いやそれよりも大きいくらいの三つの金の林檎を拾い上げて、あとから大きな声で彼を呼んでいる巨人の雷のような叫びには一向おかまいなく、さっさと帰りの旅路に就きました。また新しい森が、巨人の足のまわりに生え出して、古くなって行きました。それから、また前のように、彼の大きな足指の間でそんなに年月を経た、六七百年にもなる樫の木も出来たでしょう。
 そして、その巨人は、今日こんにちもなおそこに立っています。いや、とにかく、彼と同じくらい高い山があって、彼の名がついています。そして、その山のいただきの辺で、雷がごろごろと鳴る時には、われわれは、巨人アトラスがハーキュリーズのあとからどなっている声だと思っていいでしょう!


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     タングルウッドのいろりばた
       ――話のあとで――

『ユースタスにいさん、』大きな口をあけて、話手の足のところに坐っていたスウィート・ファーンが訊き出した、『その巨人の背の高さは、本当にどれくらいあったの?』
『おう、スウィート・ファーン、スウィート・ファーン!』と学生は答えた、『僕がその場にいて、彼を物差で計ったとでも思うのかい? でも、君がもしも是非くわしいところを知りたいというんなら、まあ、まっすぐに立って三マイルから十五マイル、そして、タコウニック山に腰かけて、モニュメント山を足置台くらいにはしただろうと思うね。』
『おやまあ!』その可愛い小さな男の子は、満足したように喉を鳴らしながら叫んだ、『ほんとに、それじゃ巨人だなあ! そして彼の小指はどれくらいあったの?』
『タングルウッドから、あの湖まではあったさ、』ユースタスは言った。
『ほんとに、それじゃ巨人だなあ!』スウィート・ファーンは、こうして長さがはっきりと分ったので、嬉しくてたまらないといったように、また叫んだ。『そして、ハーキュリーズの肩幅は、どれくらいあったのかなあ?』
『そればかりは、僕にもどうもわからないよ、』学生は答えた。『しかし、僕のよりも、君のお父さんのよりも、また今日こんにちわれわれが見る、どんな人の肩よりも広かったにちがいないと思うねえ。』
『僕ね、』スウィート・ファーンは、学生の耳に彼の口をくっつけるようにして、小さな声で言った、『巨人の足の指の間から生えた樫の木に、どれくらい大きなのがあったか、聞きたいんだけど。』
『それらは、キャプテン・スミスの家の向うにある、大きな栗の木より、まだ大きかったさ、』ユースタスは言った。
『ユースタス、』とプリングル氏は、しばらくじっと考えたのち、言い出した、『わたしはこの話に対して、作者としての君の誇りを少しでも満足させそうな意見を吐くことは出来ないねえ。どうもわたしは、君にもうこれ以上、古典の神話に手を出さないように、忠告したいんだ。君の想像は、全然野蛮ゴシック趣味だよ。だからどうしても、君の手にかかると、すべてが野蛮ゴシック趣味になってしまうんだ。まるで、大理石の像に、絵具をぬりたくるようなものだ。それから、この巨人にしてもだ! 上品に出来たギリシャ神話の筋の中へ、君はどうしてあんな大きな、不釣合なものを無理に持込んで来るんだろうねえ? 一体、ギリシャ神話の傾向としては、大きく言いたいところも、その全体に行渡った上品さによって、度を越えないように遠慮してあるという風なんだ。』
『僕はその巨人を、自分の思った通りに話しただけです、』学生は少々腹を立てて答えた。『そして、おじさん、もしもあなたがギリシャ神話をつくり変えるために必要なような心構えになって、それらに臨んでさえ下されば、古代のギリシャ人だけに独占権があるわけではなく、現代のアメリカ人にだって、やって見る権利があるということが、すぐお分りになるでしょう。ギリシャ神話は全世界の、そしてまた、すべての時代を通じての、共有物です。古代の詩人は、それらを好きなようにつくり変えて、彼等の手でどうにでもしました。それが僕の手にかかって、同じように、自由になってはいけないというわけがあるでしょうか?』
 プリングル氏は微笑を抑えることが出来なかった。
『それにまた、』とユースタスはつづけた、『古典の型の中へ、少しでも温い心を、情熱か愛情を、或は人間又は神の道徳を、注込つぎこんだら、その瞬間に、もう前のものとはまるで違ったものになってしまいます。僕の見るところでは、ギリシャ人は、これらの伝説(それはずうっと古くから人類に伝わって来たものです)を受けついで、いかにもそれに不滅の美しさを持った形を与えましたが、しかし一方からいえば、その形が冷たく、且つ情味のないものであったがために、ずうっと後世にわたって、計り知れないほどの害毒を流したのです。』
『君は、きっと、それを救うために生れて来たというんだろう、』とプリングル氏は言って、からからと笑い出した。『まあ、いいや、これからもつづけてやるんだね。しかし、忠告しとくがね、決して君の滑稽な作りかえを文章に書かないことだ。そして、次の仕事として、アポロウの伝説のうちのどれかを手がけて見たらどうかね?』
『ああ、おじさん、それはちょっと出来そうもないから、そうおっしゃるんでしょう、』学生はちょっと考え込んだのち言った、『そして、成程ちょっと考えると、野蛮ゴシック趣味のアポロウなんて、随分おかしな気がします。しかし、僕はおじさんの発案について十分想を練って見ることにします。そして成功は必ずしも覚束おぼつかないとは思いません。』
 以上の議論がつづいている間に、その中の一言も分らない子供達は、すっかりねむくなってしまって、もう、寝床へ追いやられた。彼等がねむそうな声でしゃべりながら、階段を上って行くのが聞えた。一方、タングルウッドの木々きぎの梢に北西風が高く鳴って、家のまわりに喜びの歌をかなでていた。ユースタス・ブライトは、書斎へ帰って、再び何か詩を作ろうと頭をひねったが、一句書いて、次の詩句を考えているうちに眠ってしまった。


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     丘の中腹
       ――「不思議の壺」の話の前に――

 さて次に、われわれは例の子供達を、いつ、どこで見かけると読者は思われるか? もうその時は、冬ではなく、楽しい五月になっていた。場所も、もはやタングルウッドの遊戯室や、いろりばたでなく、或る大きな丘の五合目よりまだ少し登った辺だった。この丘はおそらく、山と云ってやった方が一層よろこぶかも知れないほどの大きさだった。彼等はこの高い丘を、その禿げた天辺てっぺんまで登ろうという、大した意気込みで家を出たのであった。尤も、それはエクアドルのチンボラアゾウとか、アルプスのモン・ブランほど高くもないし、またこの地方第一といわれる、わがグレイロック山にくらべても、まだずうっと低いものだった。しかし、とにかく、千の蟻塚よりも、百万の土竜丘もぐらづかよりも高く、小さい子供達の短い股で計れば、大変高い山ということになるであろう。
 そして、従兄ユースタスはみんなと一しょだったか? それは確かだと思ってもらっていい。でなければ、どうしてこの本が、一歩だって先にすすむことが出来よう? 彼は今、春休みの中程だった。そして、四五ヶ月前に見た時とほとんど同じだったが、ただ彼の上唇をよく見ると、とてもおかしな口髭がちょっぴりと目につく点だけが違っていた。大人になったという、このしるしを別にすると、彼は読者と初めてお馴染なじみになった時と少しも変らない少年だった。彼は今までと同じように、快活で、元気で、上機嫌で、足も心も軽く、そして小さな子供達に好かれていた。この山登りも、全く彼の考え出したことだった。急な道をのぼりながら、ずっと彼は、元気な声で大きな子供達をはげまして来た。そして、ダンデライアンやカウスリップやスクォッシュ・ブロッサムがくたびれて来ると、彼はかわるがわる彼等を背中に負ってやって登った。こんな風にして、彼等は丘の裾の方の果樹園や牧場を過ぎて、林のところまで登って来たのだった。その林は、それから禿げになった頂上の方まで、ずうっとつづいていた。
 五月の月は、その頃までは、例年よりは一層気持がよく、今日はまた大人にも子供にも、こんなこころよい、さわやかな日はないという気がした。丘を登るみちみち、子供達は、紫や白や、それからまるでマイダスがさわったのかと思われるような金色などの菫を見つけた。花草のうちでも一番かたまって生えるのが好きな、小さなフサトニヤが、一杯あった。それは決してひとりでは生えないで、仲間をしたって、いつも好んで大勢の友達や肉親に取巻かれて生えていた。時には手平てのひらほどしかない広さに、一家族で生えているのを見ることもあれば、時には放牧場全体を真白にするくらい大きな社会をつくって、お互に元気をつけ合って、楽しく暮らしているのを見ることもある。
 林の中へはいったばかりのところに、おだまき草があった。それらは大変内気で、出来るだけお日様に当らないように引込んでいるのをたしなみと心得ているとみえて、赤いというよりも蒼ざめた色に見えた。また、野生のゼラニウムや、沢山の白い苺の花も咲いていた。岩梨もまだ花時を過ぎてはいなかったが、その大切な花を、母鳥が小さな雛を大事に羽根の下にかくすように、林の去年の落葉の下にかくしていた。それは大方、自分の花がどんなに美しく、またいい匂いがするかを知っていたのであろう。それはあまりうまくかくれていたので、子供達はどこから匂って来るのか分らないうちから、その何ともいえない、いい匂いを嗅ぐことさえ時々あった。
 こんなに沢山の新しい生命のある中に、野原や牧場のあちこちで、もう種になってしまったたんぽぽの白いかつらを見ると、何だか変でもあり、ひどくいたましい気もするのであった。それらは夏の来ないうちに夏を済ませてしまったようなものだ。それらの、羽根の生えた種で出来た小さなたまの中だけは、もう秋になっているのだった!
 それはさておき、われわれは春と野の花草とについてこれ以上おしゃべりをして、貴重な頁を無駄にしてはならない。何かもっと面白い話題がありそうなものだ。もしも読者が子供達のむれに目をやったならば、彼等がみんなでユースタスを取巻いて集まっているのを見るだろう。彼は木の切株に腰かけて、ちょうどこれから何か話を始めるところらしい。実は、子供達のうちの小さい方の連中には、この丘の長い登り道が、彼等の小さい股ではとてものぼり切れないということが分ったのだ。だから、従兄ユースタスは、ほかの連中が頂上まで行って帰ってくるまで、登り道の中程にあたるこの辺のところに、スウィート・ファーンとカウスリップとスクォッシュ・ブロッサムとダンデライアンとを残しておくことにきめたのだ。しかし、彼等が不平を言って、あまりあとに残りたがらないので、彼はポケットからいくつかの林檎を出して来て、彼等にくれてやり、その上、彼等に大変いい話を聞かせてやろうと言って見た。すると彼等は機嫌をなおして、泣面なきつらが大にこにこに変ってしまった。
 その話のことなら、わたしはその辺の藪のかげにいて、それを聞いたので、次の頁からまた、それを読者にお伝えしようと思う。


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    不思議の壺

 ずっと昔の或る夕方のこと、フィリーモン爺さんと、そのおかみさんのボーシス婆さんとが、彼等の小さなおうちの戸口に坐って、静かな、美しい日暮時ひぐれどきを楽しんでいました。彼等はもう、つましい夕飯もすんで、寝るまでの一二時間を、静かに過ごそうというのでした。そんなわけで、彼等は家の庭のことや、乳牛のことや、蜜蜂のことや、葡萄の木のことなどを語りあいました。葡萄の木はお家の壁一杯に這っていて、葡萄が紫色になりかけていました。しかし、すぐ近くの村で聞える子供達の乱暴な叫び声と、はげしく吠える犬の声とが、だんだん高くなって来て、とうとうおしまいに、ボーシスとフィリーモンとは、お互の言ってることが、ほとんど聞き取れないくらいになってしまいました。
『ああ、婆さん、』とフィリーモンは叫びました、『誰か気の毒な旅人が、向うの村で宿を乞うているのに、御飯をたべさしたり、宿を貸したりするどころか、村人達はまたいつものように、犬をけしかけたりしているんじゃないかなあ!』
『ほんとにねえ!』とボーシスは答えました、『村の人達が、も少し他人様に親切な気持になってくれるといいのにねえ。それにまあ、子供達をあんな悪い育て方をして、よその人に石を投げつけると頭をなでてやるというわけなんだからねえ!』
『あの子供達は、決してろくなものにならないね、』フィリーモンは白髪頭しらがあたまを振りながら言いました。『本当のところ、お前、彼等が行いを改めないと、あの村の人達全体の上に、何かおそろしいことが起りそうだぜ。しかし、お前とわしとは、神様がパンの一かけらでも恵んで下さる間は、気の毒な宿のない旅の人が通りかかって、ほしいといったら、いつもその半分を上げることにしたいもんだね。』
『そうだとも、じいさん! わたし達はそうしましょうとも!』ボーシスは言いました。
 この老人夫婦は――いいですか――まるで貧乏で、食べて行くためには、かなりひどく働かなくてはならなかったんですよ。フィリーモン爺さんは、お庭で一生けんめいに働きました。一方、ボーシス婆さんは、いつもいそがしそうに糸をつむいだり、おうちの牛の乳から少しばかりのバタやチーズをつくったり、そのほか、何ややと家の中で立働いていました。二人のたべものは、パン、牛乳、お野菜、それから時々、おうちの蜜蜂の巣から取った蜂蜜がすこし、たまには、おうちの壁になった一房の葡萄、といったようなもので、ほかにはほとんど何もありませんでした。しかし、彼等はこの上もない親切な老夫婦で、戸口に立つ、疲れ切った旅人に対して、一きれの黒パンや、一杯の新しい牛乳や、一匙の蜂蜜をことわるよりも、いつでも喜んで自分達の御馳走を抜きにするという風でした。彼等は、そうした客には、何かしら神聖なところがあるような気がしました。だから、そうした人達を、彼等自身よりも大事に、十分にもてなさなければならないと思ったのです。
 彼等の小さな家は、半マイルばかりの幅の、くぼんだ谷にある村から少しはなれた、小高いところにありました。その谷というのは、まだ世界が新しかった昔の時代には、おそらく湖の底にでもなっていたのでしょう。その湖には、魚が深いところをあちこちと泳ぎまわり、岸の方には水草が生え、木や丘はその広い、静かな水面に影をうつしたことでしょう。しかし、水がだんだんと退いて行ってしまった時、人達はそこの土をたがやし、そこに家を建てました。そして今では地味の肥えた所となって、ほんの小さな谷川のほかには、昔の湖のあとはなんにも残っていませんでした。その谷川は、村のまん中をうねうねと流れて、村人達がその水を使っていました。この谷の水が退いてからは、もう随分久しくなるので、樫の木が生え出して、大きく、高くなり、年月を経て枯れて行って、またそのあとのが生えて、最初のと同じくらい高く、立派になっていました。これほどきれいな、これほどみのりのよい谷は、またとありませんでした。こうして、あたりのものすべてが豊かであるということを見ただけでも、そこに住む人々は、やさしく、親切になって、他人をよくしてあげることによって、すすんで神の御心に対する感謝をあらわすべき筈でした。
 しかし、困ったことには、この美しい村の人達は、神様がこれほどやさしく、いつくしみを垂れた場所で暮らす値打はありませんでした。彼等は大変身勝手みがってな、薄情な人達で、貧乏な人達を憐れみもしなければ、家のない人達に同情もしませんでした。彼等は誰かが、人間というものは、神様から受けた愛と保護との御恩を、ほかに返しようがないから、人間同志お互に愛し合うようにしなければならないと教えても、ただあざ笑ったでしょう。僕がこれから君達に話そうとすることを、君達はほとんど本当にしないかも知れません。これらの悪い人達は、彼等の子供達を彼等よりもいい人になるように教えないばかりか、小さな男の子や女の子が、どこかの気の毒な旅の人のあとを追っかけて、あとからはやし立てて、石を投げつけているのを見ると、えらいえらいといったように、いつも手をたたくのでした。また彼等は、大きな、きつい犬を飼っていて、旅人が思い切ってその村の通りへはいって行こうものなら、早速このやくざ犬の一群が飛び出して来て、吠えたり、唸ったり、歯をむき出したりするのでした。そして、旅人の脚にでも、着物にでも、手あたり次第にくいつきました。だから、来る時からぼろをまとっていた人などは、やっとのことで逃げ出すまでに、もう大抵は目もあてられないような姿になってしまいました。君達にも想像がつくでしょうが、気の毒な旅人が病気だったり、衰弱していたり、びっこだったり、年寄だったりした場合には、とりわけこれはおそろしいことでした。そうした旅人達は、これらの不親切な村人や、いけない子供達や犬共が、いつもどんなに悪いことをするかということが一ぺん分ったら、もう二度とその村を通り抜けようとはしないで、わざわざ幾マイルも幾マイルも廻り道をして行くのでした。
 これ以上悪いことはちょっと考えられない気がしますが、しかしなお悪いことには、お金持の人達が、揃いの服を着た召使達を引きつれて、馬車に乗ったり、立派な馬に跨がったりして通りかかると、この村の人達ほど丁寧ていねいで、ぺこぺこする連中もないという有様でした。彼等は必ず帽子をとって、この上もなく丁寧におじぎをしました。もしも子供がお行儀が悪かったら、たいてい横面よこつらの一つも張り飛ばされました。それから犬にしても、沢山いる中の一疋でも唸ったりしようものなら、たちまち主人に棍棒で打たれて、めしを食わせられないでしばりつけられました。これもみんな大変結構なことに違いありません。しかし、人間の心の中には、乞食にでも殿様にでも、同じように貴いものがあるのですが、そんなものには一向おかまいなく、ただお金持の旅人の財布の中のお金を目あてに、この村の人達はそんなことをするのだということがすぐ分りました。
 フィリーモン爺さんが、村の通りの向うの端の方から聞えて来る子供達の叫び声や、犬の吠える声を聞いた時、あんなに悲しそうに口をきいたわけが、これで君達にも分ったでしょう。そのがやがやした騒ぎは、相当長くつづいて、大方谷の向うの端からこちらまでやって来たようでした。
『わしはまだ犬がこんなに大きな声で吠えるのを聞いたことがない!』といいおじいさんは言いました。
『子供達があんなに乱暴に騒いだこともありませんね!』といいおばあさんは答えました。
 彼等はお互に、頭を振りながら坐っていました。その間に、騒ぎはだんだん近づいて来ました。そしてとうとう、彼等の小さな家のっている小高い丘のふもとを、二人の旅人が歩いてこちらへやって来るのが見えました。彼等のすぐあとから、くっつくようにして唸りながら、きつい犬共がついて来ました。それから少しはなれて、子供達の一群が駆けて来て、金切り声をはり上げて、その二人の旅人に向って、力いっぱい石を投げつけていました。二人のうちの若い方の男(彼はほっそりとして、大変活発な身体からだつきをしていました)が、一二度うしろに向きなおって、手に持った杖で犬を追払いました。彼の連れの、大変背の高い方の人は、犬共にも、またその犬の真似をしているらしい子供達にも、目をくれることさえ馬鹿らしいといったような風に、平気で歩いて来ました。
 旅人は二人とも、大変粗末な身形みなりをして、財布には宿賃を払うだけのお金もなさそうに見えました。そして、この人達に対して、子供や犬があんなに乱暴なことをしているのに、村の人達が黙って見ていたのは、おそらくこのためではなかったかと思います。
『さあ、お前、』とフィリーモンがボーシスに言いました、『あの気の毒な人達を迎いに行こうじゃないか。きっとあの人達は、がっかりしてしまって、丘を登って来られないかも知れないから。』
『お前さん行ってお迎えして下さいよ、』ボーシスは答えました、『その間にわたしは急いでうちへはいって、あの人達に何か晩御飯を差上げられるかどうか見ましょう。一杯のおいしいパン入り牛乳は、あの人達の元気を引立てるのに、不思議なくらいききめがあるでしょう。』
 そこで、彼女は急いで家へはいりました。一方、フィリーモンは出かけて行って、この上もなく親切な調子で、
『ようこそ、旅の方々かたがた! ようこそ!』と言いましたが、彼の手をさし出す時の、いかにも喜んで迎える様子で、そう言われないまでも旅人達には彼の親切がよく分りました。
『ありがとう!』大変くたびれて、また困っていたにも拘らず、二人のうちの若い方が、元気な調子で答えました。『これはまた、向うの村で受けたのとは、まるで違った挨拶ですね。一体、あなたはどうしてこんなにがらの悪い所に住んでいるんです?』
『ああ!』フィリーモンは、静かに、やさしく笑って言いました、『ほかにもわけはありましょうが、神様はわしをここに置いて、村の人達がひどくしたお前さん方に、出来るだけのつぐないをするようにとのお心だと思いますのじゃ。』
『よくも言って下さった、おじいさん!』と旅人は笑いながら叫びました、『そして、実際のことをいうと、僕の連れと僕とは、本当に何とかしてもらいたいところなんですよ。あの子供達(まるで小ギャングですね!)は、泥のかたまりを投げつけて、僕達をすっかり泥だらけにしてしまいました。それから、やくざ犬のうちの一疋が、もとから大分ぼろだった僕の外套を引裂いてしまうし。しかし僕はそいつの鼻っぱしを、杖で横から打ってやりましたよ。こんなに遠くても、そいつが鳴いたのが聞えたろうと思いますがね。』
 フィリーモンは彼が大変元気なのを見て、嬉しく思いました。また、実際、誰しも、彼の顔附や様子を見ると、長い一日の旅に疲れ切っている上に、最後になってひどい目に遇ったのでがっかりしているとは思えなかったでしょう。彼は何だか変な身形みなりをして、頭には、両方の耳の上へつばが突き出したような一種のふち無し帽をかぶっていました。夏の夕方だのに、彼は外套を着て、それをぴったりと身にまとっていましたが、多分下に着ているものが見すぼらしかったからでしょう。フィリーモンは、また、彼が変った靴をいているのに気がつきました。しかし、もうそろそろ暗くなりかけていたし、年寄の目はあまりよくなかったので、そのどこのところが変っているのかは、はっきり分りませんでした。しかしたしかに、一つ不思議なことがありました。それは、その旅人が、おそろしく身軽で、活発で、何だか足が時々ひとりでに地面から浮き上るようでもあり、骨を折って、やっと地面につけて歩いているようにも見えることでした。
『わしも若い時分には、いつも足の早い方だったが、』とフィリーモンはその旅人に言いました。『それでも、夕方になって来ると、いつも足が重くなったものですがねえ。』
『いい杖ほど歩いて行く助けになるものはありませんよ、』その旅人は答えました、『それにちょうど僕は、ごらんの通り、とてもいい杖を持ってるものですから。』
 この杖は、実際、フィリーモンが今までに見たこともないような、変てこな杖でした。それはオリーヴの木で出来ていて、頭の方に近く、一対の小さな翼のようなものがついていました。それから、木彫の二疋の蛇が、その杖に巻きついているところになっているのですが、それがまたあまりよく出来ているので、フィリーモン爺さんは、(だんだん眼もかすんでいたでしょう、だから)ほとんどその蛇が生きているのかと思って、それがくねくねとうごめいているのが見えるような気がしました。
『ほんとに、妙な細工物ですね!』彼は言いました。『翼の生えた杖なんて! こういったような杖は、小さな男の子が、馬乗りになって遊ぶのに持って来いですね!』
 この時にはもう、フィリーモンと彼の二人のお客様とは、家の戸口のところへ来ていました。
『お前さん方、』と老人は言いました、『このベンチにかけて、休んで下さい。うちの家内が、何か夕飯にさし上げるものはないか、見に行っていますから。わし達は貧乏人です。しかし、何か膳戸棚にありさえすれば、喜んで御馳走しますよ。』
 若い方の旅人は、無頓着に、どっかりとベンチに腰をおろしましたが、それと一しょに杖を落しました。そしてこの時、ほんのつまらないことながら、ちょっと不思議なことが起りました。その杖がひとりでに地面から起き上って、その小さな両方の翼をひろげて、半分ねるように、そして半分は飛ぶようにして、家の壁のところに立てかけたようになったのです。そのままそれはじっとしてしまって、ただ巻きついた蛇が、相変らずうごめいているだけでした。しかし、僕の考えでは、フィリーモン爺さんの眼が悪いから、またそんな風に見えたのかと思います。
 爺さんが何か訊いてみようと思っているうちに、年上の方の旅人が彼に話しかけて、その不思議な杖から彼の注意をらしてしまいました。
『ずうっと古い昔には、いま村のあるところ一帯が、湖だったんじゃありませんか?』とその旅人は、大変深い調子の声で尋ねました。
『わしが知ってからは、そんなことありませんよ、お前さん、』とフィリーモンは答えました、『わしもごらんの通りの年寄ですがね。以前から、今の通りの野原や牧場ですよ、それから、古い木も、谷のまん中をせせらぎ流れる小川もね。わしの知っている限りじゃ、おやじの代にも、またそのおやじの代にも、同じことだったようですよ。そしてこのフィリーモンじじいが、死んで、忘れられる時が来ても、やはり同じことでしょうよ!』
『そうとばかりも言いきれない、』と見知らぬ人は言いましたが、その深い声には、どことなく大変きびしいところがありました。そのうえ、彼は頭を振りましたが、そのために彼の黒い、どっしりとした巻毛が、ぶるぶるとふるえました。『向うの村に住む人間たちが、彼等の天性の愛となさけとを忘れてしまった上は、湖が再び彼等のすまいの上に、さざなみをたてた方がいいかも知れない!』
 その旅人の顔附があまりきつかったので、フィリーモンはほんとにちょっとこわくなったくらいでした。それに、彼が顔をしかめると、夕闇が俄かに一層暗さを増すように思われ、彼が頭を振ると、空中でごろごろと雷のような音がするので、よけいにこわくなりました。
 しかし、すぐそのあとで、その見知らぬ人の顔が、大変やさしく、おだやかになったので、老人はすっかりこわさを忘れてしまいました。それでも彼は、この年上の方の旅人は今こそこんな見すぼらしいなりをして、徒歩で旅行をしているけれども、決してただの人ではないにちがいないと感じないではいられませんでした。しかし、フィリーモンは彼をおしのびの殿様とか何とかいったような人と思ったわけではなく、寧ろどこかの非常な賢人で、お金やそのほか世間的な慾をすっかり捨てて、こんなきたないなりをして世の中を歩きまわって、至るところで、少しずつでも智慧をみがこうとしているのだと思ったのです。この想像の方がずっと当っているようでした。何故ならば、フィリーモンは目を上げてその人の顔を見た時、彼が一生かかって学ぼうとしても及ばないような深い考えが、その顔にあらわれていることが、一目ひとめ見て分る気がしたからです。
 ボーシスが夕飯の用意をしている間に、その旅人達は、フィリーモンと大変うちとけて話し合うようになりました。若い方の人は、本当に、とてもよくしゃべって、なかなか鋭い、気のきいたことをいうので、いいおじいさんはもう大笑いに笑いつづけて、お前さんは近頃にない面白い人だと言いました。
『ねえ、お若い方、』彼は、二人がだんだん親しくなると、そう言い出しました、『わしはお前さんの名を、どう呼んだらいいかな?』
『そうですねえ、僕は、ごらんの通り、すばしこいでしょう、』その旅人は答えました。『だから、僕をクイックシルヴァと呼んで下されば、かなりぴったりした名だと思います。』
『クイックシルヴァ? クイックシルヴァ?』とフィリーモンは繰り返して、もしかその若い人が彼をからかっているのではないかと思って、その顔をのぞき込みました。『それは随分おかしな名ですね! そして、そのお連れの方は? やっぱりそんな妙な名前ですかい?』
『それは雷に訊いてもらわないと分らない!』とクイックシルヴァは、謎のような顔をして答えました。『雷ほどの声をしていないと言えないんです。』
 これは、本気か冗談か知らないが、もしもフィリーモンがおそるおそる年上の旅人の顔を見て、いかにもなさけ深そうだということが分らなかったら、とても怖気おじけづいてしまったことでしょう。しかし、こんな小屋の戸口の傍に坐ったこともないようなえらい人が、今ここに来て、ただの人間みたいにして坐っていられるのだということだけは、間違いなさそうでした。その見知らぬ人は、いかにもおごそかに、フィリーモンがいやでも心の奥底まで打明けて言ってしまわないではいられなくなるような風に口をききました。これは、人々が、彼等のいいことも悪いこともすっかり分ってくれて、しかもそれを少しも馬鹿にしないほどかしこい人に出あった時に、必ず感じる気持です。
 しかし、フィリーモンは、単純な、やさしい心の老人だったので、打明ける秘密とても、あまりありませんでした。それでも、彼は今までの生活について、随分しゃべりました。その長い年月の間、彼はこの家から、二十マイルと離れたこともないのでした。彼の妻ボーシスと彼とは、若い時分からずっと、この小さな家に住んで、正直に働いて食って、いつも貧乏でしたが、それでも満足していました。彼はボーシスがどんなにいいバタやチーズをこしらえるか、そして彼が庭につくる野菜物がどんなにおいしいかを話しました。それからまた、彼等夫婦はお互に深く愛し合っているので、死別しにわかれはいやだから、一しょに暮らして来たように、一しょに死にたいというのが、二人の願いだと話しました。
 見知らぬ人はそれを聞いて、顔一杯に微笑しましたが、その表情はおごそかでありながら、またやさしいものでした。
『あなたはなかなかいいおじいさんだ、』と彼はフィリーモンに言いました、『そして、つれあいとしていいおばあさんをお持ちだ。あなた方の願いはかなえられていいと思う。』
 そして、フィリーモンには、ちょうどその時、夕焼雲が西の空から輝かしい光を発して、空が急にぱっと明るくなったような気がしました。
 ボーシスはやっと夕飯の支度が出来たので、戸口のところへ出て来て、どうも大変つまらないものしかお客様達に差上げられないけれどもと、ことわりを言いはじめました。
『もしもあなた方がおいでなさることが分っていたら、』とばあさんは言いました、『じいさんとわたしとは、なんにも食べないでも、もっといい夕飯を差上げるのでしたに。しかしわたしは、今日の牛乳は大方チーズをこしらえるのに使ってしまったし、残っていたパンも半分たべてしまったところでした。ほんとにまあ! 平常ふだんはなんとも思いませんが、こうしてお気の毒な旅のかたが、立寄って来られた時ばかりは、貧乏が悲しくなりますわい。』
『万事うまく行きますよ。心配無用だ、おばあさん、』と年上の旅の人は、やさしく言いました。『本当に、心から、客を喜んで迎えれば、食べ物や飲み物に奇蹟が起って、どんな粗末なものでも、神の酒となり神の食物となりるのです。』
『それは喜んでお迎え申しますよ、』ボーシスは叫びました、『それに、少し残っていた蜂蜜と、それから紫の葡萄の一房くらいはございますから。』
『そりゃ、ボーシスおばあさん、大した御馳走だ!』クイックシルヴァは笑いながら叫びました、『全くの御馳走だ! そして、僕がそれをどんなに盛んにたべるか、見ていて下さいよ! 僕は生れてから、こんなに腹がへったことはない気がする。』
『まあ困ってしまったねえ!』とボーシスは、おじいさんに小声で言いました。『あの若いかたがそんなにひどくおなかがへっているんなら、夕飯が半分にも足らないかも知れない!』
 彼等はみんなで家の中へはいって行きました。
 さてこれから、君達、僕は君達が目をまるくしそうなことを聞かせましょうか? それはほんとに、この話全体のうちでも一番奇妙なことの一つなんです。クイックシルヴァの杖、――覚えているでしょう――それはひとりで家の壁にもたれかかりましたね。そうでしたね。ところが、この不思議な杖をそのままにして、主人が戸口をはいって行った時、その杖はどうするかと思うと、これはまた、すぐその小さな翼をひろげて、ぴょんぴょんと跳ねて、ばたばたと戸口の階段を上って行くじゃありませんか! それからとんとんと台所の床を歩いて行って、大変もったい振って、礼儀正しく、クイックシルヴァの椅子の傍に立って、はじめてその杖はとまりました。しかし、フィリーモン爺さんも、彼の妻と同じように、お客をもてなすことにすっかり気をとられていたので、その杖のしていることには、ちっとも気がつきませんでした。
 ボーシスが言ったように、二人のおなかのすいた旅人には、とても足りそうもない夕食が出ていました。テイブルのまん中には、黒パンの残りが置かれ、その一方には一きれのチーズ、他方には蜂蜜が一皿ありました。お客にはめいめい、ちょっとした葡萄の房もついていました。それから、牛乳を大方一杯入れた、中位な大きさの壺がテイブルの隅に置いてありましたが、ボーシスが二つの鉢にそれをいで、客の前に出してしまうと、その壺の底には、ほんの少ししか牛乳が残っていませんでした。ああ! 物惜しみをしない人が、貧乏な境遇に苦しめられて、どうにもならないということは、なんと悲しいことでしょう。気の毒なボーシスは、もしもこれから一週間何もたべないでいると、このおなかのすいた客達に、もっと十分な夕食が出せるのだったら、そうするのにと思いつづけました。
 しかし、現在出した夕食が、こんなにわずかなものである以上は、客達のおなかがそんなにすいていなければよかったのに、と思わずにはいられませんでした。ところがどうでしょう、旅人達は食卓につくと、早速、二つの鉢の牛乳を一息に飲んでしまいました。
『ボーシスおばあさん、よかったら、もう少し牛乳を下さい、』クイックシルヴァが言いました。『今日は暑かったんで、僕とても喉がかわいてるんです。』
『ところが、あなた方、』と、ボーシスは大変困って答えました、『ほんとにおあいにくで、申しわけありません! が、ほんとに、壺の中には、ほとんどもう一しずくの牛乳もないんです。おう、お前さん! お前さん! どうしてわたし達は、夕食抜きにしなかったんだろうねえ?』
『だって、僕には何だか、』とクイックシルヴァは叫んで、食卓から立上って、壺の把手とってを持ちました、『ほんとに、あなたがおっしゃるほど、困ったことになっているようには思えないんですが。たしかに壺の中には、まだ大分牛乳がありますよ。』
 彼はそう言いながら、ボーシスが大変驚いたことには、ほとんどからだとばかり思っていた壺から、自分の鉢だけでなしに、連れの人の鉢にまで、一杯に牛乳を注ぎました。おばあさんは、ほとんど自分の目を信じることが出来ませんでした。彼女はたしかに牛乳を大方みんないでしまって、そのあとで壺をテイブルに置く時に、中をのぞくと、底が見えていたのでした。
『しかし、わたしは年を取っている、』とボーシスはひとりで考えました、『そして忘れっぽくなっている。わたしはきっと思いちがいをしたんでしょう。それにしても、二度までも鉢に一杯いでまわったんだから、もういくらなんでも壺はからにならずにはいないでしょう。』
『なんて結構な牛乳だろう!』クイックシルヴァは、二杯目注いだのを、がぶ飲みしたあとで言いました。『すみませんが、親切なおかみさん、本当にもう少しだけいただきたいんです。』
 今度こそはボーシスも、何よりもはっきりと、クイックシルヴァがその壺をさかさにして、――だから、おしまいの一杯を注ぐ時に、一しずくも残さず牛乳をあけてしまったことを見ていたわけです。勿論、少しだってあとに残っている筈はありませんでした。でも、もう本当にないのだということを、はっきりとクイックシルヴァに見せてやろうと思って、彼女は壺を取り上げて、彼の鉢へ牛乳をぐ真似をして見せましたが、少しでも牛乳が出て来ようなどとは、勿論夢にも思っていなかったのでした。だから、沢山の牛乳がどくどくと流れ出して、泡を立てながら、たちまち鉢一杯になって、それからテイブルの上まで溢れ出した時の彼女の驚きはどんなだったでしょう! クイックシルヴァの杖にからんでいる二疋の蛇は、首をのばして、こぼれた牛乳をなめはじめました(但し、ボーシスもフィリーモンも、ちょうどこれには気がつきませんでしたが)。
 それにまた、その牛乳はなんともいえない、いい匂いがしました! まるでフィリーモンの一頭きりの牛が、その日は、世界のどこにもないくらいいい草をたべて来たのかと思われるほどでした。僕は、大好きな君達みんなが、夕飯の時に、こんないい牛乳を飲むことが出来たら、どんなにいいだろうと思いますね!
『それから今度は、黒パンを一きれいただきましょう、ボーシスおばあさん、』クイックシルヴァは言いました、『それから、その蜂蜜を少しばかり!』
 そこで、ボーシスは彼にパンを一きれ切ってやりました。彼女とおじいさんとが切ってたべた時、そのパンはどちらかといえば、ぱさぱさしていて、皮が固くて、うまくなかったのに、今度は、まるで焼いてからまだ幾時間もたっていないかのように、軽くて、しめり気があるのでした。テイブルにこぼれた屑をたべてみると、今までにパンをこんなにおいしいと思ったことがないほどいい味がするので、おばあさんは、ほとんど自分がこねて焼いたパンとは思えないくらいでした。しかし、ほかのパンである筈はありませんでした。
 おう、しかし、蜂蜜と来たら! 僕はここで、それがどんなにいい匂いがして、どんなにいい色をしていたかを、くどくどと説明したりしないで、そっとしておいた方がいいかも知れません。その色は、少しもまじりけのない、澄み切った金の色で、匂いといったら、千も花を集めたようでした。それも、地上の花園に咲く花ではなくて、蜜蜂が雲の上高く飛んで行かなくては、見つからないような花の匂いです。ここにただ不思議なのは、それほどいい匂いで、しぼむ日もなく咲きほこる花壇にとまりながら、蜜蜂がフィリーモンの庭にある巣などへ、よくもまあ帰って来たものだということです。こんな結構な蜂蜜は、誰もまだ、たべたことも、見たことも、かいだこともないでしょう。その香気は、台所のあたりにただよって、何ともいえないほど気持がいいので、目を閉じると、たちまちにして低い天井や、くすぶった壁を忘れてしまって、この世のものとも思えないような匂いを放つすいかずらが一杯にからんだ東屋あずまやにいるような心地がしたことでしょう。
 ボーシス婆さんは、何も知らない年寄でしたが、いろいろこうしたことが起っているのは、どうも何にしても、ただごとではないと思わずにはいられませんでした。そこで、お客様達にパンと蜂蜜とをすすめ、めいめいの皿に葡萄を一房ずつおいてから、フィリーモンの傍に坐って、彼女の見たことを、小声で彼に話しました。
『お前さん、こんなことって、今までに聞いたことがあるかい?』彼女は尋ねました。
『いや、まるでないね、』フィリーモンは、にっこり笑って答えました。『そして、お前、わしはどうもお前が、夢みたいな気持になって、ふらふらしていたんだと思うんだがね。もしもわしが牛乳をついでいたら、その辺のことはすぐに見抜いてしまっていただろうに。どうかして、お前が思ったよりもいくらか沢山、壺の中に牛乳が残っていたんだろうよ――ただそれだけのことさ。』
『ああ、うちの人、』とボーシスは言いました、『お前さんが、何と言おうと、この方々かたがたは、どうして、普通の人じゃないよ。』
『まあ、まあ、』とフィリーモンは、まだ笑いながら答えました、『多分そうだろう。あの人達はたしかに、もとは相当にやっていたらしい様子が見える。わしはあの人達が、こんなにおいしそうに夕飯を食べているのを見ると、嬉しい気がするよ。』
 お客様達は今度は、めいめい自分の皿の上の葡萄を取りました。ボーシスは(もっとよく見るために、自分の目をこすってみたのですが)葡萄の房が何だか大きく、立派になって、一つ一つの葡萄のたまも、もう少しで熟した汁ではち切れそうになっているように思いました。小屋の壁に這っている、古い、いじけたあの葡萄の木に、どうしてこんな実がなったか、それが彼女には全く分らない気がしました。
『大変うまい葡萄だな、これは!』クイックシルヴァは、一つ一つむしってたべながらそう言いましたが、一向ふさは小さくもならないようでした。『一体、おじいさん、これはどこからもいで来たんです?』
『うちの木からですよ、』とフィリーモンは答えました。『その枝の一つが、向うの窓をくねくねと横切っているのが見えるでしょう。しかし、うちの家内もわしも、この葡萄をうまいなんて思ったことはないんですが。』
『僕はこんなうまいのをたべたことはありませんね、』とそのお客は言いました。『よかったら、このおいしい牛乳をもう一杯下さい。そうすれば、僕はもう殿様以上の夕飯をたべたことになるでしょう。』
 今度はフィリーモン爺さんが立上って、壺を取り上げました。というのは、彼はボーシス婆さんが彼に小声で話して聞かせた不思議なことが、一体本当なのかどうか知りくなったからでした。彼は自分の年取った妻がうそのつける人間ではないということ、そして、彼女が本当らしいと思ったことで間違っていたためしは殆どないということを知っていました。それにしても、これはまたあまりに不思議なことなので、彼は自分の目で、それを突き止めてみたいと思ったのでした。だから、彼は壺を手に取った時、こっそりと中をのぞいて見て、一滴だってはいっていなかったので、すっかり得心しました。ところが、たちまち壺の底から、小さな白い泉がもくもくと湧き出して来て、泡立った、いい匂いの牛乳で、壺の口まで一杯になってしまいました。フィリーモンが、驚いてその不思議な壺を取り落さなかったのが、めっけものでした。
『不思議をおあらわしになる旅の方々かたがた御身おんみ達は何人なにびとであらせられますか?』フィリーモンは、さきにボーシスが驚いたよりもなお一層驚いて、そう叫びました。
『こうして御邪魔に上った客ですよ、フィリーモンじいさん、そしてあなたの友達さ、』年上の方の旅人は、どことなくやさしくていて、自然に頭が下るような、おだやかな、深味のある声で答えました。『わたしにも牛乳を一杯下さい。そしてこの壺が、困っている旅人のためと同じく、親切なボーシスとおじいさんとのためにも、決してからになることのないように!』
 もう夕飯もすんだので、見知らぬ人達は寝室へ案内してほしいと言いました。老夫婦はもう少し彼等と話をして、自分達の感じている不思議の思いを述べたり、貧弱な夕飯が、あんな思いもよらないような、結構な、そして十分な御馳走となった喜びを語ったりしたいと思いました。しかし、彼等は年上の方の旅人の威厳に打たれてしまって、物を訊いてみる元気なんか出ませんでした。そして、フィリーモンがクイックシルヴァを脇へ引張って行って一体どうして古い土焼の壺の中へ牛乳の泉なんかがはいって来たんでしょうと訊くと、クイックシルヴァは彼の杖の方を指さしました。
『不思議のもとはすべてあれなんです、』クイックシルヴァは言いました、『そして、もしもおじいさんにそれが分ったら、一つ教えていただくとありがたいですね。僕にも自分の杖のことを何といっていいか分らないんです。それは、時々僕に夕飯を食べさしてくれるかと思うと、また時々それを盗んでしまったりするというような、変ないたずらを始終やるんです。僕がまあそんな馬鹿気たことを信じるとすれば、この杖には魔法がかかっているとでも言いますかね!』
 彼はそれ以上何も言わないで、ずるそうに彼等の顔を見たので、彼等は何だか彼にからかわれているような気がしました。クイックシルヴァが部屋を出て行くと、その魔法の杖は、彼のあとについて、ぴょんぴょん飛んで行きました。二人きりになってからも、その老夫婦は、しばらくその夕方の出来事について語り合って、それからゆかの上にごろりと横になって、ぐっすり眠ってしまいました。彼等は寝室を客達にゆずってしまったので、そこの板ののほかに寝るところはなかったのですが、僕はその板のが彼等の心のようにやさしく、やわらかであったことを心から祈ります。
 おじいさんとおばあさんとは、あくる朝、小早く起出しましたが、見知らぬ人達も、お日様と一しょに起きて、出発の用意をしました。
 フィリーモンは彼等に、ボーシスが牛の乳をしぼって、いろりで菓子を焼いて、それから多分いくつかの産みたての卵を見つけて、朝飯の用意をするまで、も少し出発を延ばすようにと、親切にすすめました。しかし客達は、暑くならないうちに、沢山歩いておいた方がいいと考えたようでした。そんなわけで、彼等はすぐ出発するといってききませんでしたが、その代り、フィリーモンとボーシスに、少し一しょに歩いて、どちらの道を行けばいいか教えてほしいと頼みました。
 そこで彼等四人はみんなで、古くからの友達のように話合いながら、家を出ました。老夫婦が知らず識らずのうちに年上の方の旅人と親しくなり、彼等の善良単純な心が、まるで二滴の水が限りない大海にとけ込むように、彼の心にとけ込む有様は、本当に不思議な位でした。そしてクイックシルヴァの方は、彼の鋭い、さとい、冗談好きの頭のよさで以て、彼等の心にちょっとでも浮かぶ考えはどんな小さなものでも、本人達の気のつかないうちに見抜いてしまうらしいのでした。彼等も流石に時々は、クイックシルヴァがこんなにさとりが早くなくて、それに巻きついた蛇が始終身をよじっているあの不思議にいたずら好きな杖も打ちゃってしまえばいいのにと思いました。かと思うと、彼等はまた、クイックシルヴァがあまり愛想がいいので、杖も蛇も一しょでいいから、彼を毎日朝から晩まで喜んで家にひきとめておきたいような気もしました。
『ああ! ほんとになあ!』家を出て少し歩いてから、フィリーモンは叫びました。『旅の人に親切をつくすことがどんなにありがたいことかということが、あの村の者に分りさえしたら、彼等とても犬をみんなつないでしまって、これからは子供に石を投げさせるようなことはしないだろうに。』
『あんなことをするなんて、罪な、恥ずかしいことだ、――ほんとにそうだ!』年取ったボーシスは激しく言いました。『そしてわたしは今日にも出かけて行って、村の或る人達をつかまえて、彼等がどんなにいけない人間かということを言ってやるつもりです!』
『行ってみたところで誰も家にいないかも知れませんよ、』とクイックシルヴァは、ずるそうに笑いながら言いました。
 ちょうどその時、年上の方の旅人の顔が、おだやかでいながらも、たいへん真面目な、きびしい、おそろしいばかりの威厳を帯びて来たので、ボーシスもフィリーモンも一言だって口をきく勇気がなくなってしまいました。彼等はまるで空を見上げるように、おそるおそる彼の顔を見つめました。
『どんな見すぼらしい初対面の人にでも、同胞はらからのような気持を感じない人間は、この世に生きている値打がない。この世界は、人類という大きな同胞の住むべきところとしてつくられたのだから、』とその旅人は、オルガンのような深い響きを持った声で言いました。
『それはそうと、おじいさんとおばあさん、』クイックシルヴァは冗談といたずら気分たっぷりという目つきで叫びました、『あなた方のお話の、その村ってのは、どこでしたっけ? どっちの方にあるんですかね? 一向その辺には見えないようですが。』
 フィリーモンとボーシスとは、つい昨日の夕方まで、牧場や、家や、庭や、木立や、子供達の遊んでいる、広い、街路樹の植わった通りや、それから商売をしたり、楽しく遊んだりして、立派に暮らしているらしい様子などがいろいろ見えていた谷の方に振り向きました。ところが、彼等はどんなに驚いたことでしょう。いつのまにか、村らしいものはまるで無くなっているではありませんか! 村がその底の方にあった、ゆたかな谷さえも、なくなってしまっていました。その代りに、彼等は湖の、広い、青い水面を見ました。それは大きな鉢のようになった谷の端から端まで満たして、まるで世のはじめからそこにあったかのように、まわりの山々の静かな姿を、その中にうつしていました。ちょっとの間、湖は少しの波も立てないで静まり返っていました。それから、風が少し出て来て、水を朝日影に踊らせ、光らせ、かがやかして、さらさらと快い音を立てて、こちらの岸にぶっつけました。
 その湖は、妙に見なれたもののような感じがするので、老人夫婦はまったく狐につままれたようで、そこに村があったというのは夢に過ぎなかったかのような気がしました。しかし、次の瞬間には、彼等は無くなってしまった民家や、そこに住んでいた人の顔や性質を、夢にしてはあまりにはっきり思い出しました。村はたしかに昨日まであったのです。そして今はもうないのです!
『ああ! あの村の人達は、可哀そうに、どうなったのでしょう?』と、心のやさしい老夫婦は叫びました。
『彼等は、もはや男や女としては生きていない、』と、年上の旅人は、荘重な、深味のある声で言いましたが、その時、遠くの方で、雷がそれにこたえるようにごろごろと鳴ったような気がしました。『彼等のような生活は、何のやくにも立たなかったし、またちっとも美しいところもなかった。というのは、彼等は人と人との間のやさしい愛情を働かして、人間の苦しい運命をやわらげて、少しでも楽しいものにしようとは決してしなかったから。彼等の胸には、もっといい生活の面影が少しも残っていなかった。だから、ずっと前にあった湖が、再びひろがって来て、ただ空をうつすというようなことになってしまったのだ!』
『それから、あのおろかな人達はどうなったかというとね、』と、クイックシルヴァは例のいたずららしい笑い方をして言いました、『みんな魚にされてしまったのさ。別に大して変えることも要らなかった、というのは、彼等はもとからうろこの生えたような下等な奴等で、またあれほど冷たい血をした人間共もなかったんだから。そんなわけだから、ボーシスばあさん、あなたかおじいさんかが、焼いた鱒でも食べたくなった時には、いつでもおじいさんが糸を投げ込んで、もとの村人達の五六尾も釣上げればいいんですよ!』
『ああ!』ボーシスは身ぶるいしながら叫びました、『わたしは、どんなことがあっても、彼等を焼網に乗せたりしたくありません!』
『そうだ、』と、フィリーモンも、顔をしかめて附け加えました、『わし達は彼等をうまがってたべたりなんぞ、どうして出来るものかね!』
『善良なフィリーモンよ、』年上の旅人は、いで言いました、――『そして、親切なボーシスよ、――お前達においては、家をはなれた他郷者を、かくまで心からの親切をこめてもてなしたによって、牛乳は神の御酒の尽きざる泉となり、黒パンと蜂蜜とは神のお口にかなうものとなった。かくして、神々は、お前達の食卓において、オリンパスの饗宴に供えられるのと同様の食物で、もてなしを受けた。年寄達、上出来であったな。そこで、何でもお前達の一番の望みをいうがよい。かなえてつかわすぞ。』
 フィリーモンとボーシスとは互に顔を見合せました、そして、――二人のうちのどっちが口をきいたのか、僕は知らないが、とにかく二人の心のねがいを述べました。
『わたし達が、生きている間は、一しょに暮らして、死ぬ時には、一しょに死なせて下さりませ! と申しますのは、わたし達は常に愛し合ってまいりましたのですから!』
『その通りになるように!』と、見知らぬ人は、おごそかなやさしさを以て答えました。『さて、お前達の家の方を見るがいい!』
 彼等は言われるままに家の方を見ました。しかし、大きくあけひろげた玄関のある、白い大理石の高い建物が、ついさっきまで彼等のみすぼらしい住居すまいのあった場所に建っているのを見た時の彼等のおどろきはどんなだったでしょう!
『あれがお前達の家だ、』と言って、見知らぬ人は彼等二人にやさしくほほ笑みました。『お前達が昨晩、われわれを見すぼらしいあばらやに喜び迎えた時と同じように、物惜しみすることなく、あの立派な家にはいってからも人々を親切にもてなせよ。』
 老夫婦はひざまずいて彼にお礼を言おうとしました。しかし、これはどうしたことか! 彼もクイックシルヴァも、そこにいませんでした。
 こうして、フィリーモンとボーシスとは、その大理石の立派な邸宅にはいって、この方面を通りかかる人を、だれかれの差別なく喜ばせ、楽しませることを、自分達もこの上なく満足に思って、日を送りました。それから、言い忘れてはならないことは、あの牛乳壺が、一杯になってくれればいいなあと思う時は、いつでも一杯になって、決してからっぽになることがないという不思議な力を、いつまでもそのまま持っていたことです。正直な、機嫌のいい、けちけちしない客が、その壺の牛乳を飲むと、それはいつでもきまって、これまでに飲んだこともないような、おいしくて、元気のつく牛乳でした。しかし、もしも機嫌の悪い、不愉快な、けちんぼうがそれをすすったら、大抵はむずかしいしかめっつらをして、この壺の牛乳はすっぱいというにきまっていました。
 その老夫婦は、こんな風にして、長い長い間その邸宅に暮らして、だんだん年を取って、大変な年寄になりました。ところが、とうとう夏の或る朝のこと、いつもならば二人のやさしい顔に、同じような、親切な微笑を一杯に浮かべて、ゆうべから泊まっている客を朝飯に呼びに来るのに、その姿が見えませんでした。客達は、その広い邸宅の上から下まで、くまなく捜してみましたが、まるで駄目でした。しかし、いろいろと頭をひねった末、彼等は玄関の前に、二本の古い木を見つけました。昨日まで、誰もそんなところに木の生えているのを見た覚えはなかったのです。それでも、それらの木は、根を深く土におろして生えていて、その大きくひろがった枝葉えだはが、邸宅の正面一杯に影を落していました。一本は樫の木で、他の一本は菩提樹でした。両方の木の大きな枝は、互にからみ合い、抱き合って、ちょうど二本の木が別々に生えているのではなくて、お互の胸によりかかって生えているといった具合なのですが、――それが、見た目に、いかにも不思議な、美しいものでした。
 これまでになるには少くとも百年はかかったろうと思われるこれらの木が、どうして一晩のうちにこんなに高く、古くなったものかと客達がおどろいていると、俄かに風が吹いて来て、二本の木の、からみ合った大きな枝をゆり動かしました。そして、まるでその二本の不思議な木が物を言っているように、空中で、深い、はっきりしたささやきが聞えました。
『わしは年取ったフィリーモンです!』と樫の木は囁きました。
『わたしは年取ったボーシスです!』と菩提樹は囁きました。
 しかし、風がもっと強くなって来ると、二本の木は一しょに――『フィリーモン! ボーシス! ボーシス! フィリーモン!』――と、まるで一身同体[#「一身同体」はママ]となって、お互の心の奥底で語り合っているように、言いました。あのいい老夫婦が若返って、フィリーモンは樫の木に、ボーシスは菩提樹になって、これからまた、静かな、うれしい百年程の間を送ろうとしているのだということは、いわずとも知れたことでした。おう、それから、彼等は何という親切な蔭をまわりに投げかけたことでしょう! 旅人がその下に休んだ時にはいつでも、頭の上の葉が気持よく囁くのを聞いて、その音がまたどうして次のような言葉によく似ているのかを不思議に思いました――
『ようこそ、ようこそ、旅のお方、ようこそ!』
 そして、どういうことをすれば、ボーシスばあさんとフィリーモンじいさんとが一番喜ぶかを知っていたどこかの親切な人が、両方の木の幹のまわりに、円く腰掛をつくりました。それからずっとのちまで、長い間、疲れた人や、おなかのへった人や、喉のかわいた人などがそこへ来て、いつも休んでは、不思議の壺から、堪能たんのうするほど牛乳を飲みました。
 そして僕は、われわれみんなのために、その壺が、今、ここにあったら、どんなにいいだろうと思います!


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     丘の中腹
       ――話のあとで――

『その壺は、どれくらいはいったの?』とスウィート・ファーンは尋ねた。
『一リットルくらいしか、はいらなかったさ、』学生は答えた、『しかし、その中からどんどん牛乳をあけて、大樽一杯にしようと思えば、出来たんだよ。本当に、それはいくらでも湧いて来て、真夏になっても、からからになるようなことはなかったのさ、――この丘の中腹をささやき流れる、向うの小さな谷川でもそうは行かないかも知れないね。』
『そして、その壺は、今はどうなってるの?』小さな男の子は尋ねた。
『惜しいことには、それは二万五千年ばかり前に、こわれてしまったの、』従兄ユースタスは答えた。『それをみんなが出来るだけうまく修繕したんだけどね、牛乳はどうにか入れておくことは出来ても、もうそれからというものは、ひとりでに一杯になるということは決してなくなってしまったの。だからね、ひびのはいった普通の土焼の壺と、ちっとも変らないものになってしまったのさ。』
『ああつまんない!』と、子供達は一斉に叫んだ。
 犬のベンは、もっともらしい顔をして、一行のお供をしていたが、今日は、ニューファウンドランド種の大分大きくなった仔犬も一しょにお供をしていた。この方は、ちょうど熊のように黒かったので、熊公ブルインの名で通っていた。ベンは相当年も取っていたし、たいへん用心深いたちでもあったので、従兄ユースタスは、四人の小さな子供達に何事もないように、番をするため、御苦労ながら彼等の傍に居残ってもらうことにした。黒い熊公ブルインの方は、それ自身がまだほんの仔犬だから、子供達に、めちゃにじゃれついて、彼等の足にからみついて、山からごろごろところがり落ちさせたりしてはいけないというので、ユースタスは自分で連れて行くのが一番いいと思った。カウスリップとスウィート・ファーンとダンデライアンとスクォッシュ・ブロッサムとに、ここにおいて行くから、なるべくじっと坐って待っているようにと注意して、ユースタスはプリムロウズその他の大きい方の子供達をつれて、また丘を登りはじめたが、まもなく木立の中へ消えて行った。


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     禿げた頂上
       ――「カイミアラ」の話の前に――

 ユースタス・ブライトと連れの子供達とは、急な、森になった丘の中腹を、どんどんと上の方へ登って行った。木はまだ青葉にはなっていなかったが、芽は既にうすい影を落すくらいにはえ出ていて、一面に日の光をうけて緑色に輝いていた。古い、茶色の落葉に半ばうずまった、苔むした岩があった。ずっと以前に倒れたままの場所に、長々と横たわっている腐った木の幹があった。冬の嵐に振り落されて、そこら中に散らばっている朽ちた大きな枝があった。そうしたいろいろのものは、大変古く見えているにもかかわらず、森はやはり、今生れ出たばかりの生命の姿だった。というのは、どっちへ目を向けても、生々いきいきとした、緑色のものが芽を吹いていて、今にも夏を迎えようとしていたから。
 とうとう、ユースタスと子供達とは、森の上のはずれまで辿りついて、ほとんど丘の頂上へ来たことを知った。この丘の頂上は、とがった峰でもなく、大きな円味まるみを持った天辺てっぺんでもなく、かなり広い平地、つまり高台になっていて、少し向うの方に、納屋なやのある家が一軒建っていた。その家には、世の中とはかけはなれたような一家族が住んでいた。そして、雨を降らしたり、谷間に吹雪ふぶきを積らせたりする雲が、このわびしい、淋しい住居よりも下の方にかかることもめずらしくなかった。
 丘の一番高いところには石が積んであって、そのまん中に長い棒を立て、その棒のさきには、小さな旗がひるがえっていた。ユースタスは子供達をそこへ連れて行って、彼等に、四方を眺めて、われわれの住む美しい世界がどんなに広く一目ひとめで見渡せるか、まあ見るがいいと言った。そして、子供達は四方の景色を見て、目をまるくした。
 南の方に見えるモニュメント山は、相変らず景色の中心にはなっていたが、何だか、低く落ち込んでしまって、今では沢山の丘のかたまりのうちの、あまり目立たない一つのような気がした。その向うに、タコウニック山脈が、今までよりも、高く、大きく見えた。われわれのきれいな湖が、その小さな湾や入江をすっかり見せていた。そして、それ一つだけではなく、今まで見たことのない湖が二つ三つ、太陽にむかってあおい眼をあけていた。それぞれ教会堂のある、いくつかの白い村が、遠くの方に散らばっていた。幾町歩ちょうぶもある森林や、牧場や、草刈場や、耕地などのある農家が、あまり沢山あるので、子供達の頭は一杯になってしまって、そうしたいろいろのものを、みんな詰め込みきれないほどだった。それからまた、彼等が今日まで世の中のとても大切な頂上のように思っていた、タングルウッドがあった。それが、こうして見ると、ほんのちょっとした場所を占めているだけなので、その在処ありかを見つけるまでには、とんだ遠方を眺めたり、右や左を見たりして、みんなで相当長い間捜したのだった。
 白い、羊の毛のような雲が空に浮かんで、山野さんやのここかしこに、黒い影を投げていた。しかし、まもなく、影になっていたところに陽が当って、影はほかのところへ移って行った。
 はるか西の方に、青い山脈が見えていたが、ユースタス・ブライトは、それがキャッツキルの山々だと子供達に教えた。あのぼんやりとかすんだ山の中に、幾人かの年取ったオランダ人が、いつ終るとも知れない九柱戯をやっていたところがあって、またリップ・ヴァン・ウィンクルという怠者なまけものが、二十年もぶっ続けに眠ったというのもそこだと彼は話した。子供達はユースタスに、その不思議な事柄について、すっかり話してくれと熱心に頼んだ。しかしその学生は、その話はもう、前に一度話した人があって、それ以上上手にはまたと誰もやれないくらいで、それが「ゴーゴンの首」や「三つの金の林檎」その他の不思議な伝説ほど古くなるまでは、誰にもその一言ひとことだってつくり変える権利はないのだと答えた。
『でも、』とペリウィンクルは言った、『あたし達がここで休んで、方々を眺めている間に、あなたは御自分でつくった、ほかの話をして下さるくらいなことは出来るでしょう。』
『そうよ、ユースタスにいさん、』とプリムロウズは叫んだ、『あたしあなたがここでお話をして下さるようにおすすめするわ。何か高尚な題を考えて、あなたの空想がそこまで行けないものか、ためしてごらんなさい。多分山の空気が今日に限って特別にあなたを詩的にすると思うわ。そして、そのお話が、どんなに変った、不思議なものでもかまいません。あたし達はこうして雲の中にいるんだから、どんなことでも信じることが出来ますわ。』
『じゃ、昔、翼の生えた馬がいたなんてことを本当に出来る?』とユースタスは尋ねた。
『ええ、』と生意気なプリムロウズは言った、『しかし、あなたはとてもそれをつかまえられそうもない気がするわ。』
『それくらいなことはなんだ、プリムロウズ、』と学生は答えた、『僕は多分ペガッサスをつかまえることは出来そうだ。その上、僕の知っている十人以上の人物に負けないくらい上手に、それに乗ることも出来そうだな。とにかく、ペガッサスについての話があるんだ。そして、ほかのどんなところよりも、その話をするには、こうした山の上がいい。』
 そこで、彼は積んである石の上に腰をおろし、子供達はその下にかたまって、ユースタスは、近くを飛んで行く白い雲をじっと見つめながら、次のように話しはじめた。


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    カイミアラ

 古い、古い昔のこと(というのは、僕がお話するような不思議なことはみんな、誰も覚えていないような大昔に起ったことですから)、不思議の国、ギリシャの或る丘の中腹から、一つの泉が湧き出ていました。そして、何千年もたった今日こんにちでも、やはりそれは全く同じ場所から湧き出ていることだろうと僕は思います。とにかく、その気持のいい泉が、金色の入日をうけて、こんこんと湧き出して、きらきらと光りながら丘を流れ下りていると、ビレラフォンという立派な青年がその水際みずぎわに近づいて来ました。彼はその手に、光りかがやく宝石で飾って、金のくつわをつけた馬勒ばろくを持っていました。その泉のそばには、一人のおじいさんと、中年の男と、小さな男の子と、それからまた、かめで水を汲んでいる娘とがいましたが、それを見ると、彼は立止まって、水を一杯御馳走して下さいと頼みました。
『これは大変おいしい水ですね、』彼はその娘から瓶を借りて水を飲んでから、それをすすいで、水を一杯入れながら言いました。『この泉に何か名があるかどうか、僕に教えてくれませんか?』
『名はございます。ピリーニの泉といって、』と娘は答えて、それからつけ加えて言いました、『このきれいな泉は、もとは美しい女でしたが、彼女の息子が女猟人ダイアナの矢に当って死んだ時、その女が溶けてすっかり涙となってしまったのだと、私のおばあさまが申しておりました。ですから、あなたがそれほどつめたくておいしいとお思いになるこの水も、実はその可哀そうな母親の心の悲しみなんです!』
『どくどくとき出して、蔭から日向ひなたへと嬉しそうに踊って行くように流れるこんなにきれいな泉が、その中に一滴の涙でも含んでいようなんて、僕は夢にも思わなかったなあ!』見知らぬ青年は言いました、『それでつまり、これがピリーニの泉なんですね? きれいな娘さん、この泉の名を教えて下さって、どうもありがとう。僕は遠い国から、実はここをたずねて来たんです。』
 この泉の水を飲ませるために牝牛をつれて来ていた中年の田舎者が、若いビレラフォンと彼が手に持っている立派な馬勒とを、じっと見つめました。
『お前さんの土地じゃ、川の水が減ってしまったんだね、にいさん、』彼は言いました、『こんなに遠くまで、ピリーニの泉を見つけるだけのことで、やって来なさったところを見るとね。しかし、一体、お前さんは馬に逃げられなさったかね? お前さん、手に馬勒を持っていなさるじゃないか。それも二列に、光った宝石のついた、きれいな品だ。もしも馬が、その馬勒みたいに立派なものなら、それに逃げられたお前さんは、随分気の毒な方だ。』
『馬なんかなくしゃしませんよ、』ビレラフォンはにっこり笑って言いました。『しかし、僕はちょうど、大変名高い馬を捜しているところなんです。かしこい人達が僕に教えてくれたところによると、その馬が、何処かにいるとすれば、この辺にちがいないというのです。翼のある馬ペガッサスが、あなた方の祖先の時代によくこの辺にあらわれたように、今でもやはりやって来るかどうか、御存じですか?』
 しかし、これを聞くと、その田舎の人は笑い出しました。
 君達のうちには、多分、このペガッサスというのは、美しい銀色の翼をした、真白な駿馬しゅんめで、大抵はヘリコン山のいただきで暮らしているのだということを聞いた人があるでしょう。それは空中を飛ぶ時、雲の中までも舞上るほどのどんな鷲にも負けないくらいに、荒く、速く、身軽でした。世の中に、これほどのものは、ほかにありませんでした。それは仲間もなく、またそれに乗ったり、馬勒をかけたりして、主人となった人もまだありませんでした。そして、長年の間、それはひとりきりで、幸福に暮らしていました。
 おう、翼のある馬になったら、どんなにすばらしいでしょう! ペガッサスは事実、夜は高い山のいただきに眠り、昼間は大方、空中を飛び廻っていて、ほとんど地上のものとは思えませんでした。それが人々の頭上高く、銀色の翼に陽をうけて飛んでいるのを見ると、それは空のものだという気がしたでしょうし、また少し低く降りすぎた時には、地上の霧や雲にふみ迷って、帰りの道を捜しているのだと思われたことでしょう。それが白く光った羊の毛のような雲のまん中へ飛び込んで行って、ちょっとの間その中に姿を消したかと思うと、今度は反対の側から飛び出して来るのを見ていると、実にきれいでした。また、陰気な雨風になって、空が一面の灰色の雲におおわれている時、この翼のある馬がまっすぐに雲を突き抜けて下りて来て、そのあとから雲の上の嬉しい光がさすようなことが時々ありました。次の瞬間には、もっとも、ペガッサスもその嬉しい光も一しょに、消え去ってしまうのでしたが。しかし、運よくこの不思議な光景を見た人は誰でも、その後一日中、嵐のつづいている間は、愉快な気持になりました。
 夏の時分、この上もない上天気の日には、ペガッサスはよく地上におりて来て、その銀色の翼をたたんで、気晴らしに、丘や谷を越えて、風のような速さで駆けることがありました。ほかのどこでよりも、ピリーニの泉の近くで、おいしい水を飲んだり、岸のやわらかい草の上にころがったりしている姿が、度々たびたび見られました。時々、その上に(でもペガッサスは大層たべものがやかましい方でしたから)、たいへんおいしいうまごやしの花でもあると、ちょっとだけ食べてみたりしました。
 だから、今の人達の大おじいさん達が、若くて、翼のある馬がいるということを信じていた間は、美しいペガッサスを一目ひとめ見たいと思って、ピリーニの泉へと、いつもやって来たものでした。しかし、近年では、ペガッサスはほとんど姿を見せませんでした。実際、その泉へ三十分以内で行けるくらいな範囲に住んでいる土地の人のうちにも、ペガッサスを見たこともなければ、またそんなものが本当にいようとは思わないというような人達が沢山ありました。ビレラフォンが話しかけた田舎の人は、ちょうどこの、信じない方の人達のうちの一人だったのです。
 そして、その男が笑い出したわけも、そこにあったのでした。
『ペガッサスだって、へーえ!』その男は平べったい鼻を出来るだけ高く上に向けながら叫びました、『ペガッサスだって、へーえ! 翼の生えた馬、なるほどね! ほんとに、お前さん、正気ですかい? 馬にとって、翼がなんの役に立ちますかい? そんな馬が、うまくすきを引張ることが出来ると、お前さんは思いますかい? 尤も、多少は蹄鉄の倹約にはなりましょう。その代りに、うまやの窓から飛び出されたり、――そう、ちょっと水車場まで乗って行こうと思っているのに、雲の上へ持って行かれてしまったりしたら、どんな気がしますかな? いや、いや! わしはペガッサスなんて信じませんよ。そんな鳥のおばけみたいな、おかしな馬なんてありゃしませんよ!』
『僕はそうではないと考えるわけがあるんです、』とビレラフォンは静かに言いました。
 それから彼は、杖によりかかって、首を前に突き出して、一心に二人の話に耳を傾けていた白髪しらがのじいさんの方に向きました。そのじいさんが、片手を耳に当てていたのは、二十年このかた、耳がだんだん遠くなって来ていたからでした。
『そして、おじいさん、あなたの御意見は?』と彼は尋ねました。『あなたの若い時分には、きっとその翼の生えた馬を度々ごらんになったにちがいないと思うんですが!』
『ああ、若い旅の人、わしは覚えが悪うなってな!』とそのおじいさんは言いました。『もしもわしの記憶に間違いがなければ、わしは若い時分に、いつも、そんな馬がいるものと思っていたし、ほかの者もみんなそう思っていましたよ。しかし今では、どう考えていいやらちょっと分らないし、第一、翼のある馬のことなんか、あまり考えもしませんよ。もしもわしがそれを見たことがあったにしても、ずっとずっと前のことだし、それに、本当のことをいうと、実際に見たのかどうかもあやしいんです。尤も、或る日、まだく若い頃、この泉の岸のまわりに、いくつかのひづめの跡を見たことは覚えていますよ。それも、ペガッサスの蹄の跡かも知れないし、またほかの馬の蹄の跡かも知れませんがね。』
『そして、美しい娘さん、あなたはペガッサスを見たことはありませんか?』水瓶を頭にのせて、彼等の話を傍で聞いていた娘に、ビレラフォンは尋ねました。『もしも誰か見ることが出来るものとすれば、ぱっちりとした眼をしているあなたが、きっとペガッサスを見そうなものですがねえ。』
『私、いつかペガッサスを見たように思いました、』その娘は、にっこり笑って頬を染めながら答えました。『それはペガッサスだったか、それとも大きな白い鳥だったか知りませんが、とにかくずうっと上の方を飛んでいました。それからまた、別な時に、瓶を持ってこの泉へ来ると、馬のいななきが聞えました。おう、それはどんなに元気な、響のいい声だったでしょう! それを聞いて、私の心は喜びにおどり上りました。そのくせ、私はびっくりしてしまって、瓶に水を汲みもしないで、家へ逃げて帰りました。』
『それはほんとに残念でしたね!』ビレラフォンは言いました。
 それから彼は子供の方に向きました。子供がいたことは、話のはじめにもちょっと言いましたが、彼は子供がよその人を見る時によくやるように、赤い口を大きくあけて、じっとビレラフォンを見つめていました。
『ええ、坊や、』と、彼の巻毛の一つを冗談に引張りながら、ビレラフォンは言いました、『君は翼の生えた馬を幾度も見たんじゃないかね?』
『見たよ、』と、待ちかまえていたように、子供は答えました。『僕は昨日もそれを見たし、その前にだって幾度も見たよ。』
『君はなかなかいい子だ!』ビレラフォンは彼を近く引きよせながら言いました。『さあ、その話をすっかり聞かしてくれたまえ。』
『あのう、僕ねえ、』子供は答えました、『泉でおもちゃの舟を走らしたり、底からきれいな小石を拾ったりしに、よくここへ来るんだ。そして、水の中を見ていると、そこに映っている空の影の中に、時々、翼の生えた馬の姿が見えるよ。僕は、それがおりて来て、僕を背中に乗せて、お月様まで飛んで行ってくれるといいと思うなあ! しかし、僕がその方を見ようとして、ちょっとからだを動かしても、もうそれはどこか遠くの方へ飛んで行ってしまって、見えないんだ。』
 そしてビレラフォンは、荷馬車をひく馬しか知らないような中年の田舎者や、若い時分の美しいものを忘れてしまったおじいさんなどの言うことよりも、水に映ったペガッサスの姿を見たという子供と、それが大変いい声でいななくのを聞いたという娘とを信じました。
 そこで彼は、その後幾日も幾日も、ピリーニの泉の辺へ、始終出かけて行きました。彼は翼のある馬の水にうつる姿か、或はその不思議な実物を見たいと思って、絶えず注意をして、空を見上げているか、でなければ水の中を見下していました。彼は光った宝石と金のくつわとのついた馬勒を、用意のために、いつでも手に持っていました。近くに住んでいて、牛をつれて泉の水を飲ませに来る田舎の人達は、度々気の毒なビレラフォンをあざ笑ったり、時には彼を責めたりしました。彼等はビレラフォンに、彼のような、いいからだをした若者は、そんなつまらないことに、暇をつぶしていないで、もっと立派な仕事をするのが本当じゃないかと言いました。彼がもしも馬が入用なら、馬を売ってやろうと彼等は言いました。ビレラフォンが馬なんか買わないといってことわると、彼等は、それなら彼の立派な馬勒を売らせようとかかりました。
 田舎の子供達までが、ビレラフォンを大変な馬鹿だと思ってしまって、彼の真似をしてふざけ散らして、失敬にも、彼がそれを見ていても、聞いていても、一向平気でした。たとえば、一人の小さな男のは、ペガッサスの飛んでいるところだといって、思い切り変てこな恰好をして跳ね廻り、そのあとを、彼の学校友達の一人が、ビレラフォンの飾った馬勒をあらわしているつもりの、がまのよじったものを一本持って、ばたばたと追っかけました。しかし、そうした意地悪小僧達がみんなで、その見知らぬ青年を苦しめる以上に、あの、水の中にペガッサスの影を見たという、おとなしい子供が、彼を慰めてくれました。この可愛い少年は、遊んでいる時には、よく彼の傍に来て坐って、一言ひとことも口をきかないで、実に無邪気な本気さで、泉の中を見下したり空を見上げたりしているので、ビレラフォンも元気が出て来るのを感じないわけに行きませんでした。
 さて君達は、どうしてビレラフォンが翼のある馬をつかまえようとしたか、そのわけが聞きたいというでしょう。そして、そのことについて話をするのに、彼がペガッサスの現れるのを待っている間ほど、いい機会はありますまい。
 もしも僕がビレラフォンの今までの冒険をすっかりお話ししていたら、それだけで結構長い長い話になってしまうでしょう。だから、ただ、アジアの或る国に、カイミアラというおそろしい怪物が現れて、今から日が暮れるまでの間にはとても話し切れないほどの害をしていたというだけで沢山でしょう。僕が読んだうちでも一番いい本によると、このカイミアラというのは、今までに土からうまれた生き物の中でも、断然とまでは行かなくとも、おおよそ一番みにくい、有毒な動物で、また最も奇妙不可思議で、相手に廻してこれほど厄介なものはなく、逃げようにもなかなか逃げられない代物しろものでした。それは尻尾がうわばみみたいで、胴体は何に似ているといっていいか分らないような恰好で、頭は三つになっていて、その一つは獅子、二番目は山羊、三番目はおそろしく大きな蛇になっていました。そして、熱い火の息が、それぞれ三つの口から燃え出していました! 地上の怪物ですから、翼があったかどうかは知りません。しかし、翼があったにせよ、なかったにせよ、それは山羊や獅子のように走り、蛇のようにのたくるという風にして、それら三つのものを全部うまく一しょにしたくらい速く動きまわりました。
 おう、この兇悪な動物は、実に限りない害をしました! その燃える息吹いぶきで以て、それは森林を火の海と化し、穀物畑を焼き尽し、あまつさえ、村をも、垣根や家もろともに焼き払いました。そしてあたり一帯を焼野原としてしまって、その上、人間や動物を丸呑みにしておいて、それから腹の中のかまどで料理をするのでした。おそろしいではありませんか、君達! 僕達はお互に、カイミアラのようなものに出あいたくないものですね。
 この憎むべきけもの(無理にもそれをけものと云えるとすれば)が、いろいろこうした恐ろしいことをやっている最中に、ちょうどビレラフォンが、その国の王様を訪ねてやって来ました。その王様の名前はアイオバティーズといい、治めている国はリシアといいました。ビレラフォンは世にも勇ましい青年の一人で、彼の何よりの望みは、世界中の人にほめられ、愛されるほどの勇ましい、そして世のため人のためになるような手柄を立てることでした。その時代には、青年が名をあらわすためには、彼の国の敵とたたかうか、悪い巨人か、厄介な大蛇かを向うに廻すか、それとも他にそれ以上危険な相手が見つからない時には、野獣を退治て見せるとかするほかありませんでした。アイオバティーズ王は、この若い客人の勇気をみとめて、彼に、行ってカイミアラと闘って見てはとすすめました。ほかの誰もがそれをおそれていて、そのままにしておいては、リシアの国が荒野にされてしまいかねなかったからです。ビレラフォンは少しもためらわないで、彼がこの、みんなのおそれているカイミアラを倒すか、或は闘って自分が死ぬかだと、王様に約束しました。
 しかし、ず第一に、その怪物はおそろしく速いので、彼は徒歩かちで闘っては、とうてい勝てないと思いました。だから、一番利口なことは、どこかで、またとないようなすぐれた、足の速い馬を見つけて来ることでした。ところが、脚のある上に翼まで生えていて、地上でよりも空中において更にからだが利くという不思議な馬ペガッサスほどすばしこい馬が、世界中どこを捜しても、ほかにあるでしょうか? いかにも、大多数の人は、翼の生えた馬なんかあろう道理はない、ペガッサスのことなんか全然つくりごとで、ナンセンスだと言いました。しかし、いくら不思議なようでも、ビレラフォンはペガッサスが本当にいる名馬だということを信じ、どうかしてうまくそれを自分で見つけたいものと思いました。そして、一旦その背にしっかりと跨がれば、もう彼は、カイミアラに対して有利に闘うことが出来ると思いました。
 そして、彼がはるばるリシアからギリシャへやって来たのも、美しく飾った馬勒を持って来たのも、このためでした。その馬勒には魔法がかけてありました。もしも彼がペガッサスの口に、うまくその金のくつわをはめることが出来さえすれば、翼のある馬もおとなしくなって、ビレラフォンを主人として、彼の手綱の引き方一つで、どっちへでも飛んで行くでしょう。
 しかし、実際、ペガッサスがいつかはピリーニの泉へ水を飲みに来るだろうと思って、ビレラフォンが待ちに待っている間というものは、いやになってしまうほど長く、そして気がもめました。彼はカイミアラから逃げ出したという風に、アイオバティーズ王に思われはしないかと心配しました。また彼は、カイミアラと闘いもしないで、きれいなピリーニの泉の水がきらきらした砂の中から湧き出して来るのを、こうして仕方なしにぼんやりと眺めている間に、あの怪物がどれほど多くの害をしているかを考えると、心苦しくなりました。そして、ペガッサスは、近年ではこっちへ出て来ることは稀で、人の一生の間に一度くらいしかおりて来ないので、ビレラフォンは、その翼のある馬が現れるまでに、彼はおじいさんになってしまって、腕の力も心の勇気もなくなってしまうのではないかと心配しました。おう、一人の冒険的な青年が、この世に生れて来た役目を果して、世界に名を挙げる日を待ちこがれているのに、なんと時間はのろくさくたって行くのでしょう! 待つということは、何というつらい教訓でしょう! われわれの一生は短い、それなのに、ただそれだけのことをわれわれに教えるために、何と長い時間をとるのでしょう!
 あのおとなしい子供が、彼にすっかりなついてしまって、少しも厭きることなく彼の傍についていてくれたのは、ビレラフォンにとって仕合せでした。毎朝その子供は、彼の胸の昨日の希望がしぼんだあとへ、新しい希望を与えてくれました。
『ビレラフォン兄さん、』彼の顔を、希望に満ちて見上げながら、その子はいつも叫ぶのでした、『僕達、今日はペガッサスを見そうな気がするよ!』
 そして、もしもこの小さな男の子の、ぐらつくことのない信念がなかったら、ビレラフォンはおしまいに希望をすっかり捨ててしまって、リシアへ帰って、翼のある馬の力を借りないで、一生けんめいカイミアラを倒そうとしていたかも知れません。そして、その場合には、気の毒なビレラフォンは、少なくとも、その怪物の息吹いぶきでひどい火傷やけどをして、その上十中八九までは、殺されて、食われてしまっていたことでしょう。何人なにびとも、まず天馬の背に跨がることが出来なければ、地に生れたカイミアラと闘おうとしてはならないのでした。
 或る朝、例の子供は、いつもよりも一層希望に満ちて、ビレラフォンに言いました。
『大好きなビレラフォン兄さん、』と彼は叫びました、『僕なぜだか知らないけれど、今日こそたしかにペガッサスを見そうな気がするよ!』
 そして、その日は一日中、彼はビレラフォンの傍から一歩も動こうとしませんでした。そんなわけで、二人は固くなった一きれのパンを分けてたべ、泉の水を飲みました。午後になっても、彼等はそこに坐って、ビレラフォンはその子供に腕をかけ、その子供の方でもまた、ビレラフォンの手の中に彼の小さな手を置きました。ビレラフォンは自分の考えに気を取られて、ただぼんやりと、泉に影を落す木の幹や、その枝にからんでいる葡萄のつるを見つめていました。しかし、おとなしい子供の方は、じっと水の中を見おろしていました。彼は、これまで幾日も幾日もそうであったように、今日もまた希望が裏切られるのではないかと、ビレラフォンのために、心を痛めているのでした。そして、二三滴の静かな涙が彼の目からこぼれて、子を失った時にピリーニが流した多くの涙だといわれている泉の水にまじりました。
 しかし、少しもそんなことをあてにしていない時に、ビレラフォンは子供の小さな手がぎゅっと力を入れるのを感じ、静かな、ほとんど聞き取れないほどの囁きを聞きました。
『あれごらん、ビレラフォン兄さん! 水の中に影が映っています!』
 青年は、さざなみ立った泉のおもてを見おろしました。そして、ずうっと空中高く、真白か銀色かの翼を日の光にかがやかして飛んでいるらしい鳥の影とおぼしいものを見ました。
『あれはとてもすばらしい鳥にちがいないよ!』と彼は言いました。『そして、雲よりも高く飛んでいるにちがいないのに、なんと大きく見えるんだろう!』
『あれを見ると、からだがふるえる!』と子供は小さな声で言いました。『僕は空を見上げるのがこわい! それはとても美しいんだけど、僕は水に映った影だけしか見る勇気が出ない。ビレラフォン兄さん、あれが鳥じゃないってことが分らないの? あれは翼のある馬、ペガッサスですよ!』
 ビレラフォンの胸は、どきどきして来ました! 彼は一心に見上げましたが、鳥だか馬だか、とにかくその翼の生えたものは見えませんでした。何故なら、ちょうどその時、それは羊の毛を浮かべたような夏雲の奥へ飛び込んだところだったからです。しかし、すぐまたそれは、雲の中から軽く下に向って姿を現しました。それでもまだ、地上からは大変な距離がありましたが、ビレラフォンは子供を腕にかかえ込んだまま、あとずさりをして、二人とも泉のまわりに生えている繁った灌木かんぼくの中へかくれてしまいました。どうかされはしないかとおそれたわけではなく、もしもペガッサスが彼等をちょっとでも見たら、遠くへ飛び去って、どこかの近づけないような山の上へでもおりてしまうといけないと思ったからでした。というのは、飛んでいたのは本当にペガッサスでしたから。今日まで長い間彼等は待たされましたが、とうとうペガッサスはピリーニの水で喉をしめすためにやって来たのでした。
 君達は鳩がおりて来る時にそんな風にするのを見たことがあるでしょうが、大きく輪をかいて飛びながら、この空の驚異はだんだんと近づいて来ました。そうした広い、大きな輪を、少しずつ地上に近づくにつれて、だんだん狭く、小さくしながら、ペガッサスはおりて来ました。だんだん近くで見るほど、それは一層美しく、その銀翼ぎんよくが輪をかいて飛ぶさまはいよいよすばらしい気がしました。とうとう、それは、泉のまわりの草も倒さず、岸の砂にも、ひづめの跡がつかないほど、ふうわりと地上におり立って、そのたくましい首を垂れて、水を飲みはじめました。それは、長い、気持のよさそうな溜息をしたり、いかにもおいしいといったように、静かにちょっと休んだりしながら、水を飲みました。それから、また一杯、また一杯、また一杯。というのは、世界のどこへ行っても、雲の中をどう捜しても、ペガッサスには、ピリーニの水ほど気に入った水はなかったからでした。そして、喉の渇きがなおると、うまごやしの甘い花を少しばかりむしって、お上品にたべてみました。しかし、こんな平凡な草よりも、ヘリコン山の高い中腹の、雲のちょっと下あたりの草の方が、彼の口にはずっとよく合っているので、おなか一ぱいにたべる気はありませんでした。
 こうして心ゆくまで水を飲み、そして、贅沢屋がうまいものだけちょっと味を見るといったような、草の食べ方をしてから、この翼のある馬は、あちこちはね廻ったり、まるで退屈半分、遊び半分みたいに踊ったりしはじめました。このペガッサスほど、飛んだり跳ねたりするのが好きなものもありませんでした。だから、考えただけでも気持がいいくらい跳ねまわって、その大きな翼を、紅雀べにすずめも及ばないほどの軽さで、ばたばたさせたり、半分は地上を、半分は空中をといった風に、一体飛んでいるのか駆けているのか分らないような走り方で、ちょっと競争みたいなことをやったりしました。立派に飛ぶことの出来る動物は、ただなぐさみに、駆けてみたりするものです。ペガッサスも、ひづめをなるべく土地にくっつけるようにして駆けることは、少し骨が折れましたが、ちょっとそんなことをやってみたのです。一方、ビレラフォンは、子供の手を取ったまま、灌木の中からのぞいて見ましたが、こんな美しい見ものもなければ、また、これほどはげしい、きかん気の眼をした馬もないと思いました。なんだか、あんな馬に馬勒をかけて、乗り廻すなんてことを考えるのは、おそろしいような気もしました。
 一二度ペガッサスは立止まって、耳を立て、頭を振って、ぐるっと四方に頭を向けながら、何だか知らないが悪いことがありそうだということを多少感づいたような風に、くんくんとその辺を嗅ぎました。しかし、何も見えないし、何の音も聞えないので、すぐまた、おどけた身振りをしはじめました。
 とうとう――へとへとになったというのではなく、ただ怠けて、いい気持になっているだけなんですが――ペガッサスは翼をたたんで、やわらかい緑の草の上にねそべりました。しかし、あまりにも軽快な生気に満ちているので、長い間つづけてじっとしていることが出来ず、すぐに、ほっそりとした四本の脚を上にあげて、仰向あおむけにころがりました。同類を神様が決しておつくりにならず、また仲間の必要なんか感じもしないで、何百年も生きて来た、このひとりぼっちの動物が、その何世紀かの長さにも劣らぬ幸福さを味わっているのを見るのは美しいものでした。それが普通の馬がいつもするようなことをすればするほど、よけいに天馬めき、ますますすばらしく見えるのでした。ビレラフォンと子供とは、一つには嬉しいような、こわいような気持から、しかしそれよりもなお、彼等がちょっとでも身動きしたりつぶやいたりしようものなら、ペガッサスが弓をはなれた矢のような速さで、青空のはてまで飛び去りはしないかと心配し、息をころさんばかりにしていました。
 とうとう、ころがるだけころがってしまうと、ペガッサスはくるりと起きなおって、呑気そうに、ほかのどんな馬でもする通りに、立とうとして前脚を突き出しました。ペガッサスがこうするだろうと、かねて見当をつけていたビレラフォンは、この時不意に繁みから飛び出して行って、その背中にひらりと跨がりました。
 そうです、彼はその翼のある馬の背中にまたがったのです!
 しかし、はじめて人間の重みというものを腰に感じた時、ペガッサスはどんなに飛び上ったでしょう! 全く、ものすごい飛び上り方でした! 息もつかないうちに、ビレラフォンは五百フィートも高いところへ上っていました。ペガッサスは、びっくりと腹立ちとで、鼻を鳴らし、からだをふるわせながら、なおも上に向けて鉄砲玉のように飛んで行くのでした。上へ上へと、どんどん昇って行って、とうとう、つめたい、霧のような雲の中へ飛び込んでしまいました。それは、つい今さっき、ビレラフォンが下から眺めて、随分気持のよさそうなところだなあと思っていたのでしたが。それからまた、雲のまん中から飛び出して、自分も乗り手ももろとも、岩にぶっつけるつもりかと思われるほどの勢いで、雷のように落ちて行きました。それから彼は、今までに鳥でも馬でもやったことはあるまいと思われるような荒っぽい跳ね方を、おおよそ千ほどもしました。
 僕はペガッサスのやったことの半分だって話すことは出来ません。彼はまっすぐに飛んで行くかと思うと、さっと横にそれたり、ぱっとあとへもどったりしました。彼は輪のようになった雲の上に前脚を乗せて、後脚の足場がまるでないところで、棒立ちになりました。彼は後脚をうしろへ投げ出して、翼をまっすぐに立てながら、頭を前脚の間へ突込みました。地上から二マイルも上のところで、宙返りもやりました。その時には、ビレラフォンも真逆様になって、空を見上げるのではなくて、見下しているような気がしました。彼はくるりと首をよじって、らんらんと燃えるような眼で、ビレラフォンの顔をにらみながら、おそろしい勢いで咬みつこうとしました。彼はあんまりはげしく翼をばたばたやったので、銀色の羽根の毛が一つ振り落されました。それはひらひらと地上にむかって落ちて行って、あの子供に拾われ、その子はそれを、ペガッサスとビレラフォンとの形見として、一生持っていました。
 しかし、ビレラフォン(彼が、今までに馬を走らせたどんな人にも負けないほどの乗り手だったことは、君達も判断がつくでしょうが)は機会を待っていて、とうとうあの魔法のかかった馬勒の金のくつわを、ペガッサスの口にはめ込みました。こうしてくつわをはめてしまうと、たちまちペガッサスは、小さい時からビレラフォンに飼われて来た馬ででもあるかのように、いうことをきき出しました。僕の本当の気持をいうと、あんなにあばれた馬が、急にこんなにおとなしくなったのを見ると、何だか悲しくなるくらいでした。そしてペガッサスは、自分でもやはりそんな気持がしたようでした。彼はつい今しがた、らんらんと火を発していたその美しい眼に、今度は涙をうかべて、ビレラフォンを振り返って見ました。しかし、ビレラフォンが彼の頭を軽く叩いて、ふたことみこと威厳のある、しかしやさしく慰めるような言葉をかけると、ペガッサスの目つきはまた変って来ました。というのは、何百年もの間、ひとりぼっちでいたあとで、こうして友達とも主人とも思う人が見つかったことは、彼も心の中で喜んでいたからです。
 翼のある馬とか、すべてそういったような荒々しい、ひとりぼっちの動物は、必ずそうしたものです。もし彼等をつかまえて、圧倒してしまうことが出来れば、それが彼等の愛情を得る一番たしかな道でした。
 ペガッサスは全力をつくしてビレラフォンを背中から振り落そうとしている間に、随分遠い道を飛んでいました。そして、くつわが彼の口にはめられるまでに、或る高い山の見えるところまで来ていました。ビレラフォンは前にもこの山を見たことがありました。そして、それはいただきがペガッサスの住処すみかになっているヘリコン山だということが分りました。ペガッサスは、許しを乞うような風に、静かに乗り手の顔を見てから、いよいよその方へ飛んで行きました。そしてそこにおり立ってからも、ビレラフォンが背中からおりてくれるまで、辛抱強く待っていました。そこでその青年は、馬の背中から飛び降りましたが、まだ手綱をしっかりとつかんでいました。しかし、ビレラフォンはペガッサスと目を見かわして、そのおとなしい様子と美しさとに打たれ、それが今まで送って来た自由な生活のことも考えて、もしもペガッサスが本当に、自由を望んでいるならば、こうして手綱でしばっておくに忍びない気がして来ました。
 急に湧いて来た、こうした義侠心に駆られて、ビレラフォンは、魔法のかかった手綱をペガッサスの頭からはずし、くつわも口から取ってやりました。
『ペガッサス、僕を捨てて行け!』と彼は言いました。『僕を捨てて行くか、僕を愛するか、二つに一つだ。』
 その翼のある馬は、ヘリコン山のいただきから、まっすぐに上の方へ飛んで行って、たちまちのうちに、ほとんど見えないくらいになってしまいました。日が沈んでから大分たつので、ちょうど今、ヘリコン山のいただきはたそがれで、そのまわりの地方一帯は夕闇につつまれていました。しかしペガッサスは大変高く昇って行ったので、暮れた日に追いついて、上空に消えのこる日の光を一杯に浴びました。まだまだ高く昇って、彼はぽっつりと光った点のようになり、そしておしまいには、うつろにひろがった空の中にとうとう見えなくなってしまいました。そしてビレラフォンは、もう二度とペガッサスを見られないのではないかと、心配しました。しかし彼が、馬鹿なことをしてしまったと嘆いているうちに、ぽっつりと光った点がまた見えて来て、だんだんと近くなり、とうとう日の光よりも低くおりて来ました。そして、どうでしょう、ペガッサスは帰って来たではありませんか! こうしてためしてみた以上は、もうその翼のある馬にも逃げられる心配はなくなりました。ペガッサスとビレラフォンとは仲よしになり、お互に愛情をこめて信じ合いました。
 その晩、彼等は仲よくならんで寝ました。ビレラフォンはペガッサスの頸を抱くようにしていましたが、それは逃げられない用心のためではなく、親切からでした。そして彼等は明け方に目をさまして、それぞれ自分の言葉で、お互に朝の挨拶をかわしました。
 こんな風にして、ビレラフォンとその不思議な馬とは数日を過ごして、日一日と、互に一層気心きごころも分り、よけいに好きになりました。彼等は長い空の旅に出かけて、地球が大方お月様ほどにしか見えなくなるくらいまで高く昇りました。彼等は遠くの国々をおとずれて、その住民をおどろかしました。彼等は、翼のある馬の背中に乗ったその美しい青年を、天からおりて来たものにちがいないと思ったのです。一日に千マイルくらいは、速いペガッサスにとっては、わけなく飛べる道程みちのりでした。ビレラフォンはそうした生活を喜んで、いつもそんな風に、からりとした、高い空中で暮らせたら一番いいのにと思いました。というのは、下の世界がどんなに陰気で、雨なんぞ降っていようと、上の方ではいつも上天気でしたから。しかし彼は、アイオバティーズ王に、退治て見せると約束した、おそろしいカイミアラを忘れることは出来ませんでした。そこで彼は、空中での乗馬のわざにも十分れ、ほんのちょっと手を動かすだけでペガッサスを意のままにすることが出来、彼の声に従うように仕込んでしまった時、いよいよ、そのあぶない冒険にとりかかろうと決心しました。
 そこで、明け方目をさますとすぐに、彼はペガッサスを起すために、その耳をつねりました。ペガッサスはすぐに跳ね起きて、高く五百メートルばかりも飛び上って、すっかり目をさましているから、どんな旅にでもすぐ出かけられるということを見せるつもりで、山のいただきのまわりを大きく輪をかいて飛びました。こうしてちょっと飛んで見せる間中、彼は大きな、元気な、響のいい声でいなないて、おしまいに、雀が小枝に飛びうつる時でもそうは行くまいと思われるほど軽々かるがると、ビレラフォンの傍におりて来ました。
『うまいぞ、ペガッサス! うまいぞ、わが天馬!』とビレラフォンは、やさしくその馬の頸を撫でながら叫びました。『さあ、僕の速い、美しい友よ、僕達は朝飯を食べなくちゃ。今日僕達はおそろしいカイミアラとたたかうんだからね。』
 彼等が朝飯をたべて、ヒポクリーニという泉のきれいな水を飲むと、すぐにペガッサスは自分からすすんで頭をさしのべて、彼の主人に馬勒をかけさせました。それから、盛んにはしゃいで、跳ねたり、空中を飛びまわったりして、出発を待ちかねているところを見せました。一方ビレラフォンは、剣を腰に下げたり、盾を頸からつるしたりして、戦いの用意をしていました。用意がすっかり出来た時、ビレラフォンは馬上の人となりました。そして、遠くへ出かけようとする時いつも彼がやる通りに、自分の進んで行く道がよく分るように、まっすぐに五マイルほど上って行きました。彼はそれから、ペガッサスの頭を東の方に向けて、リシアをさして飛びました。飛んで行くうちに、彼等は一羽の鷲に追いついて、それが彼等をよけることも出来ないうちに、すぐ近くまで行ったので、ビレラフォンは手を出しさえすれば、わけなくその脚をつかむことが出来たでしょう。こんな速さで、どんどん急いだので、彼等が深い、木の繁った谷のあるリシアの高い山々を見たのは、まだ午前中も早いうちのことでした。ビレラフォンが聞いて来たことが本当なら、おそろしいカイミアラが住処すみかとしているのは、それらのすごいような谷の一つでした。
 目的地ももうすぐ近くなったので、ペガッサスはビレラフォンを乗せたまま、だんだんおりて行きました。そして山のいただきの上にうかぶ雲を利用して、身をかくしました。雲の上について飛びながら、その端からのぞいて、ビレラフォンはかなりはっきりと、リシアの山の多い部分を見渡すことが出来、また蔭になった方々ほうぼうの谷の中も一度に見ることが出来ました。最初は別に変ったものは何も見えませんでした。それは荒涼とした、未開の、岩ばかりの、高い切立ったような山つづきの土地でした。その国のもっと平坦な部分には、焼かれた家の跡があり、牧野ぼくやには、そこで草をたべていた家畜の死骸が、あちこちにごろごろしていました。
『カイミアラがこんな害をしたものに違いない、』とビレラフォンは考えました。『しかしその怪物は一体どこにいるんだろう?』
 僕がさっき言ったように、最初見た時には、切立ったような高い山の間にある、どの谷間にも峡谷にも、別に目立ったものは何も見つかりませんでした。全くなんにもありません。ただ、たしかに、洞穴ほらあなの口みたいなところから湧き出して、しぶしぶと大気の中に立ち昇る三すじの黒い煙があるにはありましたが。山のいただきへ届くまでに、これらの巻くようにして昇って来る煙は、まじり合って一つになりました。その洞穴ほらあなは、ペガッサスとその乗り手の直下、約千フィートほどのところにありました。重そうに立ち昇って来るその煙は、いやな、硫黄臭い、息のつまりそうなにおいがして、ペガッサスは鼻を鳴らし、ビレラフォンはくさめをしました。それに、いつもこの上なくきれいな空気ばかり吸いなれているペガッサスにとっては、あまり気持が悪かったので、彼は翼をあおって、そのいやな煙の辺から半マイルも飛びのきました。
 しかし、あとを振り返って見て、ビレラフォンは何か目についたとみえて、まず手綱をしぼり、つづいてぐるっとペガッサスの向きを変えました。彼が合図をすると、ペガッサスはそれを解して、ゆっくりと空中を舞下って、とうとう彼のひづめが谷底の岩から人間の高さほどもないところまでおりて行きました。前方、石を投げたら届くほどのところに、三すじの巻き昇る煙を吹いている洞穴ほらあなの口がありました。そして、そのほかに、ビレラフォンはそこに何を見たでしょう?
 その洞穴ほらあなの中には、奇妙な、おそろしい動物が、からだを丸くして、ごちゃごちゃとかたまり合っているように見えました。彼等のからだがあまりぴったりくっつき合っているので、ビレラフォンはどれがどれやら区別がつきませんでした。しかし、それらの頭から判断して、一つは大きな蛇で、次が獰猛どうもうな獅子で、三番目はこわいような山羊だということが分りました。獅子と山羊とは眠っていました。蛇はすっかり目をさましていて、ぎらぎらした二つの大きな目で、絶えずあたりを見廻していました。しかし――これが一番不思議なことでしたが――三すじの煙は、あきらかにこれら三つの頭の鼻の孔から出ているのでした! その有様があまりに奇怪だったので、ビレラフォンはそれに出遇うことをずっと心待ちにして来たのでありながら、おそろしい三つの頭をしたカイミアラがここにいるのだという事実に、すぐには気がつきませんでした。彼はカイミアラの洞窟を見つけたのでした。蛇と、獅子と、山羊とは、彼が思ったように、三つの別な動物ではなく、一疋の怪物だったのです。
 ひどい、憎むべき奴! 三つの頭のうちの二つは居眠りしながら、そいつはまだ、おそろしい爪で、あわれな小羊の食い残りをつかんでいました――そうは考えたくないけれども、どうかすると、それは可愛い小さな子供だったかも知れません――いずれにしても、二つの頭がまだ起きていた時、三つの口でそれをむしゃむしゃ食っていたのです!
 突然、ビレラフォンは夢からめたような気がして、それがカイミアラだったことが分りました。ペガッサスも同時にそれが分ったと見えて、一声高くいななきましたが、それはちょうど戦闘開始の喇叭らっぱを吹きならしたようにひびきました。この音に、怪物は三つの頭をまっすぐに立てて、めらめらっと大きな火を噴き出しました。ビレラフォンが次にどうしたらいいかと考える暇もなく、怪物は洞穴から飛び出して来て、大きな爪をのばし、蛇のような尻尾をうしろの方で毒々しくよじりながら、彼にむかって、まっすぐに飛びかかって来ました。もしもペガッサスが鳥のようにはしっこくなかったら、彼も乗り手も一しょに、カイミアラのこのめちゃくちゃな突撃にって、ひっくりかえされて、闘いはろくに始まりもしないで、そのままおしまいになってしまったでしょう。しかし翼のある馬は、そんな手は喰いませんでした。一瞬の後には、彼は雲の半分どころまで昇っていて、怒って鼻を鳴らしました。また彼は、からだをふるわせていましたが、決してこわかったからではなく、三つの頭をした、その毒を持った怪物の憎らしさに、心からむかむかとしたからでした。
 一方、カイミアラの方は、全く尻尾のさきで立っているような恰好で立上って、爪ではげしくくうき、その三つの口から、ペガッサスとその乗り手とにむかって火を噴きかけました。いやはや、それが唸ったり、しゅっしゅっというような声を出したり、吼えたりすることと言ったら! ビレラフォンは、その間に盾を腕につけ、剣を抜きにかかっていました。
『さあ、僕の愛するペガッサスよ、』と彼は翼のある馬の耳に囁きました、『お前は僕がこの小癪こしゃくな怪物を退治るのを加勢しなければならない。それがいやなら、お前の友ビレラフォンを捨てて、お前の淋しい山の峯に飛んで帰れ。カイミアラが死ぬか、お前の頸にもたれて眠った僕のこの頭を、あの三つの口に食われてしまうか、なんだから!』
 ペガッサスはいなないて、それから首をうしろに向けて、その鼻をやさしく乗り手の頬にすりつけました。こうしてペガッサスは、翼のある不死の馬ながら、もしも不死の命も死ぬことが出来るものなら、ビレラフォンを捨てて帰るよりも死んだ方がいいという意味を伝えたのでした。
『ありがとう、ペガッサス、』とビレラフォンは答えました。『さあ、それではあの怪物めがけて突撃しよう!』
 そう言いながら、彼は手綱を振りました。そこでペガッサスは、その間もずっと、出来るだけ高くつき出していたカイミアラの三つになった頭をめがけて、矢のような速さで、ななめ下に飛びかかって行きました。手のとどくところまで来た時、ビレラフォンは怪物に斬りつけましたが、その一太刀に手ごたえがあったかどうか見とどける暇もなく、ペガッサスは先へ行き過ぎてしまいました。ペガッサスはそのまま進んでいましたが、前と同じくらいカイミアラからはなれたところまで来ると、すぐまた、くるりと向きを変えました。その時ビレラフォンは、自分が怪物の山羊首をほとんど切り落して、それが皮だけでだらりとぶら下がって、全く死んでいるらしいのを見ました。
 しかし、その埋合せに、蛇首と獅子首とは、死んだ山羊首のはげしさを全部彼等で引受けて、前よりもはるかにものすごく、火を噴き、しゅっしゅっと鳴き、そして吼え立てました。
『大丈夫だ、勇敢なペガッサス!』とビレラフォンは叫びました。『いま一太刀あんなのをあびせて、しゅっしゅっと鳴いている方か、吼え立てている方かを、やめさせて見せるから。』
 そしてまた彼は手綱を振りました。前と同様、ななめに突進して、ペガッサスはまたカイミアラにむかって矢のように飛んで行きました。そしてビレラフォンは、カイミアラをかすめて行く時、二つの残った首の一つをめがけて、またさっと一太刀斬りつけました。しかし、今度は、彼もペガッサスも、最初のようにうまく逃げられませんでした。その爪の一つで、カイミアラはビレラフォンの肩先に深い掻傷かききずを負わせ、ほかの爪で、ペガッサスの左の翼を少し傷つけました。ビレラフォンの方では、その代りに、怪物の獅子首に致命傷を与えて、それがもうぶらりと垂れてしまって、口の中の火もほとんど消えて、ぱくぱくと濃い黒煙を吐くくらいにしてしまいました。しかし、今ではただ一つだけ残った蛇頭は、そのはげしさも、その毒も、いままでに倍して来ました。それは火を五百ヤードもある噴水のようにふき出して、しゅっしゅっと鳴く声の大きさ、はげしさ、やかましさといったら、五十マイルもはなれたアイオバティーズ王のところまで聞えて来て、王様は玉座ががたがたと動き出すほど震えたくらいでした。
『ああ、ああ! カイミアラが、きっとわしを呑みに来るのだ!』と、可哀そうな王様は思いました。
 その間に、ペガッサスはまた空中に止まって、憤然としていななきましたが、その眼からは、すきとおった水晶のような火花が、ぴかぴかと飛び出しました。カイミアラの気味の悪い赤いような火とは、なんという違いでしょう! 天馬の勇気は、全身に湧き立ちました。ビレラフォンもまた同様でした。
『お前ひどく血が出るか、不死の馬よ!』若者は自分の痛手いたでよりも、今まで痛さというものは味わったことのない筈の、この栄光ある動物の苦痛の方を心配して、叫びました。『この傷の仕返しとして、憎むべきカイミアラの最後に残った首を討取ってくれん!』
 そこで彼は手綱を振って、大音声だいおんじょうをあげて、今度はななめに向わずに、怪物のおそろしい真正面めがけて、天馬を進めました。その進撃はあまりにも速く、はっと思う間に、もうビレラフォンは彼の敵とがっぷりと組んでいました。
 二番目の首を落されたカイミアラは、この時までに、あまりの痛さに火がついたように苦しんで、たけり狂っていました。そして、あまり激しくころげ廻ったり、飛び上ったりするので、一体地上にいるのか、空中にいるのか分らないくらいでした。それは蛇の口をおそろしく大きくあけたので、ペガッサスは翼をひろげたまま、乗り手も何も一しょに、その喉の中へ飛び込んでしまいそうだったと言いたいくらいです。彼等が近づいて行くと、それは火の息をものすごい勢で噴き出して、ビレラフォンと馬とをすっかり火の中に包んでしまって、じりじりとペガッサスの翼を焦がし、青年の金色の巻毛の片側を焼いてしまいました。彼等は二人とも、頭から足の先まで、あつくって閉口しました。
 しかし、そのあとで起ったことから見ると、これくらいなことは何でもなかったのです。
 ペガッサスが空中を突進して行って、百ヤード以内に近づいた時、カイミアラはぱっと跳び上って、その大きな、不格好な、毒のある、とてもいやな胴体を、可哀そうに、まともにペガッサスにぶっつけて、力一杯に彼をかかえ込んで、その蛇のような尻尾を結んだように巻いてしまいました。天馬は、山の峯よりも、雲よりも、高く、ほとんど地上が見えなくなるまで、ぐんぐん舞上りました。しかしそれでも、土に生れたその怪物は、ぐっとつかまえて放さず、光と空に生きるペガッサスにくっついて、一しょに上って行きました。その間に、ビレラフォンが振向いて見ると、カイミアラのおそろしい、すごいような顔と、鼻をつき合わさんばかりになっていたので、盾をさし上げて、やっとのことで焦げ死んだり、真二つに喰切られたりすることをまぬがれることが出来ました。彼は盾の縁起ふちごしに、怪物のものすごい眼を、きっとにらみつけました。
 しかしカイミアラは、痛さのために気違いのようになってあばれていたので、ほかの時のように、よく身をまもっていませんでした。おそらく、結局のところ、カイミアラと闘うには、出来るだけぴったりとそれにくっついているのが一番いいようでした。一生けんめい敵にそのおそろしい鉄の爪を立てようとして、カイミアラは自分の胸をすっかり敵にさらしていました。これを見て取ったビレラフォンは、彼の剣を、そいつの残忍な心臓に、つかも通れと突き立てました。結んだようになっていた蛇のような尻尾は、すぐにほどけました。怪物はペガッサスをつかまえていた手を放して、その大変な高さから、地上に向って落ちて行きました。そして、そいつの胸の中の火は、消えるどころか、前よりも一層はげしく燃立って、たちまちその死骸を焦がしはじめました。そんなわけで、怪物はすっかり火になって空から落ちましたが、それが地にとどくまでに、夕方になったので、流れ星や箒星ほうきぼしと間違えられました。しかし、あくる朝、その辺に住む人達が働きに出ようとして、何町歩ちょうぶかの土地に黒い灰がちらばっているのを見てびっくりしました。或る畠のまん中には、白い骨が乾草堆よりもずっと高く、山のようになっていました。あのおそろしいカイミアラの名残なごりは、そのほかにはなんにもありませんでした!
 そして、ビレラフォンは、こうして勝利を得た時、前かがみになって、ペガッサスに接吻しました。その時、彼の眼には涙がうかんでいました。
『さあ帰ろう、わが愛馬よ!』彼は叫びました。『ピリーニの泉をさして帰ろう!』
 ペガッサスはこれまでよりも更に速く、滑るように空中を飛んで、いくらもかからないで、その泉へ着きました。そこにはあの老人が杖にもたれ、百姓男は牛に水を飲ませ、きれいな娘は瓶に水を汲んでいました。
『今になって思い出したが、』と老人は言いました、『わしはまだ全くの若者だった頃、一度この翼のある馬を見たことがあるよ。しかし、その時分には、この馬も今の十倍も立派だったがなあ。』
『わしはこの馬の三倍の値打のある荷馬車馬を持っているよ!』と百姓男は言いました。『もしもこの小馬がわしのものだったら、第一にわしはその翼をはさんでしまうね!』
 しかしあの気の弱い娘は何も言いませんでした。というのは、彼女はいつも、こわがらなくてもいい時にこわがるようなことになってしまうのでしたから。そんなわけで、彼女は逃げ出して、水瓶をひっくりかえして、それをこわしてしまいました。
『あのおとなしい子供はどこにいます?』とビレラフォンは尋ねました、『いつも僕の傍にいて、決して信念を失わず、きもしないで泉の中を見つめていたあの子は?』
『僕ここです、ビレラフォンさん!』とその子供は、やさしく言いました。
 その小さな子は、実は、毎日々々ピリーニの泉の傍で、彼の友達が帰って来るのを待っていたのですが、ビレラフォンがペガッサスに跨がって、雲の中からおりて来るのを見ると、灌木の中へ逃げ込んでしまったのでした。彼は気の弱い、やさしい子だったので、彼の目から涙がぽろぽろとこぼれて来るところを、老人と百姓男とに見られるのがいやだったのです。
『あなたは勝ちましたね、』と彼は言って、まだペガッサスに跨がっているビレラフォンの膝の方へ、嬉しそうに駆け寄りました。『僕、あなたが勝つだろうと思っていた。』
『勝ったよ、君!』と答えて、ビレラフォンは馬からおりました。『しかし、もしも君の信念の助けがなかったら、僕は決してペガッサスを待たなかっただろうし、雲の上へも上れなかっただろうし、またおそるべきカイミアラを退治ることも出来なかっただろう。僕の大好きな小さな友達の君が、みんなやったようなものだ。さていよいよ、ペガッサスを自由にしてやろうじゃないか。』
 そこで彼は、その非凡の馬の頭から、魔法の馬勒をはずしてやりました。
『我がペガッサスよ、永久に、自由になれ!』と彼は叫びましたが、その調子はどことなく悲しそうでした。『お前の速さに負けないくらい自由になれ!』
 しかし、ペガッサスはその頭をビレラフォンの肩に乗せて、何と言って聞かせても、飛んで行こうとはしませんでした。
『それじゃ、まあ、』ビレラフォンは天馬を撫でてやりながら言いました、『お前の好きなだけ僕の傍にいるがいい。これからすぐに、われわれは一しょに行って、アイオバティーズ王に、カイミアラを退治たことを知らせよう。』
 それからビレラフォンは、そのおとなしい子供を抱きしめて、また来るからと約束して、出かけて行きました。しかし、後年に至って、その子供は天馬に乗って、ビレラフォンよりも一層高く大空を駆けって、カイミアラ退治よりも更に名誉ある仕事をなし遂げました。というのは、彼はおとなしい、やさしい子供でしたが、大きくなって、とてもえらい詩人になったからです!


[#改ページ]



     禿げた頂上
       ――話のあとで――

 ユースタス・ブライトはビレラフォンの伝説を、まるで本当に彼が翼のある馬に乗って飛ばしているかのような熱意と元気とで話した。話し終った時、聞いていた子供達の顔が真赤にほてっていたので、彼等がどれほど興味を感じていたかが分る気がして、彼は嬉しかった。みんなは眼をくるくるさせていたが、プリムロウズだけはそうでなかった。彼女の眼には本当に涙がうかんでいた。というのは、ほかの子供達はまだ小さいので分らないような、この話の中の或る物に、彼女は感動したからだった。子供相手の話ながら、ユースタス・ブライトは、それによって、青年の熱情と、高邁な希望と、空想的な冒険とを、うまく子供達に吹き込もうとしたのであった。
『プリムロウズ、君は僕や僕の話を随分ひやかしたけれど、もうかんべんしてあげるよ、』彼は言った。『沢山笑ったことも、一滴の涙でつぐなわれるからね。』
『それはそうと、ブライトさん、』と、プリムロウズは目を拭いて、またいたずららしい笑い方をして彼を見ながら答えた、『たしかにあなたの頭は、雲の上へ来ると、考えが高尚になるわ。だからあたし、あなたに、ちょうど今みたいに山の頂上にいる時じゃないと、これから話をしないようにすすめるわ。』
『それとも、ペガッサスの背中に跨がってやるかだね、』とユースタスは笑いながら答えた。『僕があの驚くべき小馬をつかまえて来た手際は、なかなかの成功だったと君は思わない?』
『それはあなたが時々やる、突飛とっぴなふざけ方とよく似てるわ!』とプリムロウズは手をたたいて言った。『あたしはあなたが二マイルも高いところで、ペガッサスに乗って、真逆様になってるところが、今も目に見えるような気がするわ! でもあなたは、われわれのおとなしいデイヴィ、或はワン・ハンドレッドより荒い馬に乗って、馬術の腕をためして見る機会がなかったからいいのよ。』
『僕としちゃ、今ここに、ペガッサスがいればいいと思うなあ、』とその学生は言った。『そうすれば、僕はすぐにそれに跨がって、仲間の作家達の間を文学巡礼しながら、ぐるっと幾マイルか廻って来るんだけれど。タコウニック山の麓にいるデューイ博士のところへも行けるだろう。向うのストックブリッヂには、歴史や小説を山ほど書いて、世に名高いヂェイムズさんもいる。ロングフェロウは、たしか、まだオックスボウへ来ていない筈だが、もし彼の姿が見えたら、ペガッサスがいななくだろう。しかし、こっちのレノックスでは、バークシアの風景と生活とをすっかり自分のものにしてしまった、われわれの最も真実な作家に会えるだろう。ピッツフィールドのこっち側では、ハーマン・メルヴィルが、大きなグレイロックの姿が窓をふさがんばかりにそびえている書斎で、彼の長編「白鯨」の雄大な構想を練っていることだろう。それからペガッサスがもう一飛びすれば、僕はホウムズの家の戸口に着くだろう。僕がこの人のことを最後に廻したわけは、ペガッサスがもし彼を見たら、すぐに僕をおろして、この詩人に乗ってほしいと言い出すにきまっているからなんだ。』
『あたし達のすぐ隣りにも作家がいるんじゃないの?』とプリムロウズは尋ねた。『タングルウッドの並木道の傍の古い赤い家に住んでいる、あの黙った人、時々森の中や湖の傍で、二人の子供をつれて歩いているのに出遇う、あの人よ。あたし、あの人が詩か、小説か、算術の本か、歴史の教科書か、それとも何かほかの本かを書いたことがあると聞いたように思うんだけど。』
『しっしっ、プリムロウズ!』とユースタスは、唇に指を当てながら、鋭い囁き声で叫んだ。『こんな山の上ででも、あの人のことは一言ひとこともいっちゃいけない! もしもわれわれのおしゃべりが彼の耳にとどきでもして、それが気に入らなかった時には、彼が紙を一二帖ストウヴに投げ込むだけで、プリムロウズ、君も僕も、ペリウィンクルも、スウィート・ファーンも、スクォッシュ・ブロッサムも、ブルー・アイも、ハックルベリも、クロウヴァも、カウスリップも、プランティンも、ミルク・[#「・」は底本では欠落]ウィードも、ダンデライアンも、そしてバタカップも――そう、それから僕の話をけなした、博識のプリングルさんも、それからまた気の毒なプリングルおばさんまで――みんな煙にされてしまって、煙突をかけ上るようなことになりそうなんだ! 赤いお家の人は、おそらく、われわれをけた世間一般の人達にとっては、一向こわくもなんともない人らしい。しかし、僕には、あの人がわれわれに対しておそろしい力を持っているということが分るんだ。まったくわれわれを破滅させてしまう力があるということがね。』
『そして、タングルウッドもあたし達と同じように煙になってしまうんでしょうか?』ペリウィンクルは、破滅させられるとおどかされて、すっかりこわくなって尋ねた。『そしてベンや熊公ブルインなど、犬はどうなるんでしょう?』
『タングルウッドはそっくり今のままだけど、まるで違った家族がはいるだろう、』と学生は答えた。『そしてベンと熊公ブルインとは、そうなってもまだ生きていて、われわれと一しょに暮らした楽しい時のことなどはまるで考えもしないで、食卓から下げた骨を貰って喜んでいるだろう。』
『なんて馬鹿々々しいことをあなたは言ってるんでしょう!』とプリムロウズは叫んだ。
 そんな無駄口をききながら、みんなはさっきから山を下りはじめていたが、もう森の蔭へ来た。プリムロウズは山月桂樹の枝を少し取ったが、その葉は去年の葉だのに、霜や雪解ゆきどけが交代でその葉の組織で力試しをしたことなどはまるでなかったかのように、青々として弾力があった。これらの月桂樹の枝で、彼女は冠を編んで、それを学生の額にかぶらせようと、彼の帽子を取った。
『あなたの話に感心して、あなたに月桂冠を捧げるような人は、ほかには無さそうだわ、』と生意気なプリムロウズは言った、『だから、あたしからこれをお受けなさい。』
『これらの不思議な、面白い話によって、僕がほかからも月桂冠を受けないとは限らないよ、』と答えたユースタスは、つやつやした巻毛に月桂冠をつけて、本当に青年詩人のようだった。『僕はこれから休みの間、暇を見て、それから大学に帰ってからも、夏の学期中、今までの話を原稿に書いて、出版するつもりだ。去年の夏、バークシアで知合いになった人だが、出版もやれば、詩も書くというヂェイ・ティー・フィールヅ氏は、一目ひとめで僕の話のすぐれた価値が分るだろう。彼はビリングズにでも挿画を描かして、ティックナ社といったような有名な出版書肆しょしから、それを立派に世に出してくれると思うんだ。今から五箇月もしたら、僕はきっと、現代の大家の中に数えられてるね!』
『かわいそうに!』とプリムロウズは半分ひとりごとのように言った。『彼は当てがはずれて、どんなにがっかりするでしょう!』
 も少し下へおりて行くうちに、熊公ブルインが吠えはじめた。すると先輩のベンがもっと重みのある声でそれにこたえた。彼等はまもなく、その感心な老犬が、ダンデライアンとスウィート・ファーンとカウスリップとスクォッシュ・ブロッサムとを、油断なく見張っているのを見た。それらの小さな子供達は、すっかり疲れもなおって、チェッカベリ摘みをはじめていたのだが、みんながおりて来たので、迎いに登って来た。こうしてまた一しょになると、みんなそろって、ルーサ・バトラさんとこの果樹園を抜けて丘をおりて、大急ぎでタングルウッドへ帰って行った。





底本:「ワンダ・ブック 少年少女のために」岩波文庫、岩波書店
   1937年(昭和12)年9月1日第1刷発行
   1950年(昭和25)年7月10日第6刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
底本中でばらばらに用いられている、「匹」と「疋」、「見事」と「美事」などは、そのまま残しました。
ただし、「ちょうど」と「丁度」は「ちょうど」に、「ちょっと」と「一寸」は「ちょっと」に、「ヴァ」と「※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)」は「ヴァ」に、それぞれ統一しました。
「哩」は「マイル」に、「呎」は「フィート」に、「米」は「メートル」に、「其」は「その」に、「其処」は「そこ」に、「此処」は「ここ」に、「這入る」は「はいる」に、「可なり」は「かなり」に、置き換えました。
読みにくい言葉、読み誤りやすい言葉には、適宜振り仮名を付しました。
入力:山本洋一
校正:大久保ゆう
2004年1月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について