訳者のことば
「ワンダ・ブック」A Wonder Book for Boys and Girls, 1852. は「少年少女のために」書かれたものではありますが、それがために調子をおろしてかかったようなものでないことは、作者ナサニエル・ホーソン Nathaniel Hawthorne, 1804―1864. が、その「はしがき」で述べている通りです。ホーソンはアメリカ文学史上、一二をあらそう大作家であります。そんな立派な人が、こうした美しい物語を書きのこしてくれたことは、少年少女にとって、非常な
ホーソンは、一八〇四年に、マサチウセッツ州のセイレムという古い港町に生れました。彼の祖先は英国から渡って来た清教徒でした。彼の祖父は独立戦争の時、船長として勇ましい働きをしました。父もまた船長でしたが、ホーソンの小さい時になくなりました。母一人の手で育てられながら、彼が「今に船乗りになって二度と帰って来ない」などと言い出したのも、祖父や父のことが頭にあったからでしょう。しかし彼は、ふとしたことから、本を読むことが好きになり、自然をこまかく見たり、物事を深く考えたりするようになりました。そして、作家になろうという決心は、大学へはいる前からついていたようです。母に宛てた手紙の、興味ある次のような一節で、それがよく分ります。
『私は、他人の病気で食べて行くお医者さんにも、他人の罪で食べて行く牧師さんにも、また他人のあらそい事で食べて行く弁護士にもなりたくありません。すると、私は作家になるほか道がないと思うのです。お母さんは今に、息子の書いた「ホーソン全集」で、本棚をお飾りになる日が来るのを、嬉しいとは思いませんか。』
こんな考え方が正しいとばかりはいえませんが、とにかく、いかにも清教徒の血をうけた少年ホーソンらしい手紙だと思います。
大学へはいってからの彼は、ギリシャ語やラテン語が特によく出来て、また即座に空想的な物語を考え出して、それを上手に話して聞かせるので評判になりました。「ワンダ・ブック」のお話は、どれもユースタス・ブライトという大学生が、休暇で帰って来て、子供達に話して聞かせる形になっていますが、作者はおそらく、自分の学生時代のことを思い出しながら、それを書き綴ったものと思われます。さて、「ワンダ・ブック」のことはあとにして、ホーソンの大学時代の友人の中には、後にアメリカ第一の詩人となったロングフェロウ、大統領に選ばれたピヤース、海軍にはいって名をあげたホレイショウ・ブリッヂなどがいました。
この人達は、えらくなってからも、みんなで、ホーソンにたいへん親切をつくしました。というのは、名前が少し売れて来た時でも、隣り近所の人達さえホーソンの顔を知らなかったというくらい、彼は世間ばなれのした生活を送っていたので、友達としては、何とか彼を早く世に出して、その真価を一般に知らせたい気がしたからでした。
ホーソンは、一八六四年、彼が六十歳の時、友人の元大統領ピヤースに誘われて、旅行に出たまま、旅先プリマスの宿でなくなりました。
さて、「ワンダ・ブック」はホーソン自身の「はしがき」にもある通り、ギリシャ、ローマの神話から材料を取って、それを極めて自由に書きこなしたものです。最初の話「ゴーゴンの首」は「メヅサの首」といった方が分りが早いかも知れません。二番目の「何でも金になる話」は、慾ばりのマイダス王の話で原作の表題は
最後に、それぞれの話の前後に添えられた「タングルウッドの玄関」その他の短い文章について、一言附加えておきたいと思います。それらは、前にもちょっと言った、作者の学生時代を思わせる青年ユースタス・ブライトが、子供達にそれぞれの話をして聞かせた、時と所と情景とを、まず描いて見せることによって、読者を聴き手の中へ誘って、話がすむとまた子供達に意見を述べさせたりして、読者にも考えさせるといったような、いずれも非常に暗示的な、面白いものだと思います。但し、話の本文とは少し行き方を
昭和十二年七月
三宅幾三郎
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目次
はしがき
―――――――――――――
タングルウッドの玄関(「ゴーゴンの首」の話の前に)
ゴーゴンの首
タングルウッドの玄関(話のあとで)
―――――――――――――
シャドウ・ブルック(「何でも金になる話」の前に)
何でも金になる話
シャドウ・ブルック(話のあとで)
―――――――――――――
タングルウッドの遊戯室(「子供の楽園」の話の前に)
子供の楽園
タングルウッドの遊戯室(話のあとで)
―――――――――――――
タングルウッドのいろりばた(「三つの金のりんご」の話の前に)
三つの金のりんご
タングルウッドのいろりばた(話のあとで)
―――――――――――――
丘の中腹(「不思議の壺」の話の前に)
不思議の壺
丘の中腹(話のあとで)
―――――――――――――
禿げた頂上(「カイミアラ」の話の前に)
カイミアラ
禿げた頂上(話のあとで)
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はしがき
著者は、ずっと前から、ギリシャ、ローマの神話の多くは、少年少女のために、とてもすばらしい読み物に書きかえることが出来るという意見を持っていた。ここに公にする小冊子に於て、著者はそうした目標のもとに、六つの神話物語を書き上げてみた。このもくろみのためには、思いきった自由な取扱い方が必要だった。しかし誰でも、これらの伝説を、自分の頭の中で
だから著者は、二三千年の歴史によって神聖化せられているその外形に対して、空想のおもむくままに、時に改変を加えたからといって、別に勿体ないことをしたとは思っていない。いかなる時代も、これら不滅の神話を、自分のものだと主張するわけには行かない。それらは、つくられたものだという気がしないくらいであって、たしかに、人類が存在する限り、ほろびようがないのである。しかし、そうして不滅であればこそ、いつ、いかなる時代が、それらの神話に、その時代固有の形式と感情のころもを着せ、またその時代固有の道徳を吹き込んでも、一向さしつかえはないのだ。この本の中では、神話はその古典的な外貌の多くを失ったかも知れない(いずれにしても、著者はそれをつとめて保存しようともしなかったのであるが)、そして、おそらく、
この愉快な仕事をするに当って――というのは、それはほんとに夏向の仕事だったし、また、著者が今までにくわだてた文学的な仕事のうちで、最もこころよいものの一つだったから――著者は、子供達によく分らせるために、常に調子を下げて書かなくてはならないとも考えなかった。話の性質上、自然にそうなって行く時とか、また著者の気持が話につれて、われ知らず高揚して行くような時には、大抵の場合、話の調子が高くなるがままに放任した。子供達は、想像の上でも感情の上でも、それがどんなに深く、或は高いものであっても、同時に単純でさえあれば、おそろしく分りのいいものだ。子供達を
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タングルウッドの玄関
――「ゴーゴンの首」の話の前に――
天気のいい、秋の
この白い霧は、その家から百ヤードとも離れないあたりまで迫っていた。それから先はすべて霧にかくれて、ただ見える物とては、あちらこちらに頭を突き出して、霧のおもてと一しょに、朝の陽に美しく照らし出されている赤や黄色の樹の
さっき言った子供達は、はち切れるほど元気に満ちていたので、始終タングルウッドの玄関から外へ飛び出しては、砂利道をかけ廻ったり、露にぬれた芝草の上をつき抜けたりしていた。子供の数は幾人だったか、よく分らないが、九人十人以下ではなく、それかと云って十二人は越えていなかった。そして男の子も女の子も、その様子や、からだの大きさや、年恰好はいろいろだった。彼等は、兄弟、姉妹、いとこ達で、そこへ二三人の小さな友達も加わっていたが、それはこのいい季節の一部をここの子供達と一しょにタングルウッドで過ごすようにと、プリングルさん夫婦に招かれて来ている子供達だった。私は彼等の名前をいうことも、又今まで世間の子供達につけられたどんな名前で彼等を呼ぶこともやめておき
彼等が、誰か特に真面目な年長者の監督なしに、森や野原を
この博学の学生は、ほっそりとしていて、アメリカの大学生がみんなそうであるように、
さて、ここで是非言っておきたいのは、ユースタス・ブライトが、不思議な話の
『そうよ、ユースタス
『意地悪のプリムロウズ、』と、六つになるカウスリップが叫んだ。『あたし、いねむりなんかしなかったわよ。ただ、ユースタスにいさんがお話していることが見えるかと思って、目をつぶっていただけよ。にいさんのお話は、夜聞いてもいいわ。だって、寝てからその夢が見られるんだもの。それから朝だっていいわ。その時は起きたまま夢のように考えてればいいんだもの。だからあたし、にいさんが今すぐお話して下さるといいと思うわ。』
『小さなカウスリップ、ありがとう、』とユースタスは言った。『いいとも、僕が考えついた一番いいお話をして上げよう。意地悪のプリムロウズに対して、カウスリップがこんなにまで、僕の肩を持ってくれたことだけのためにもね。しかし、みなさん、僕は今迄にあんまり
『そんなことはない、ない、ない!』と、ブルー・アイやペリウィンクルや、プランティンや、その他五六人が叫んだ。『私達、前に二三度聞いた話なら、よけいに好きなんです。』
そして、子供達の場合に限って、話というものは、二度や三度はおろか、幾度でも繰返せば繰返すほど、彼等の興味が深くなって来るらしいということは事実である。しかし話の種はいくらでも持っているユースタス・ブライトは、もっと年取った話手ならばよろこんで捉えたかも知れないこうした
『自分の頭で話を作り出す力はいうまでもないこと、学問も僕ほどある人が、一年中を通じて、一日でも、君達子供のために、新しい話が出来ないようじゃ
『まあいいよ、まあいいよ、ユースタスにいさん!』と子供達はみんな一しょに叫んだ。『話の説明はもういいから、始めて下さい。』
『じゃ、一人残らず坐って、』とユースタス・ブライトは言った。『そしてみんな二十日鼠のように静かにしてらっしゃい。たとえそれが大きな、いたずらのプリムロウズからでも、小さなダンデライアンからでも、或は又ほかの誰からでも、ちょっとでも邪魔がはいったら、僕はお話を途中で切ってしまって、あとはもう言わないことにするよ。しかし、はじめにちょっと訊いておくが、君達のうちで誰か、ゴーゴンってどんなものだか知ってる人がある?』
『あたし知ってます、』とプリムロウズが言った。
『じゃ黙ってらっしゃい!』とユースタスが言った。彼は
そして彼は、読者が次の頁から読み始められる通りに、話をした。彼は大学二年の学識をもとに、豊富な才気を働かして、アンサン教授のおかげを大いに蒙りながら、しかも彼の空想の奔放な大胆さが命ずる場合には、すべての古い典拠を無視して、話を進めた。
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ゴーゴンの首
パーシウスは或る王様の娘ダネイの子でした。そしてパーシウスがまだほんの小さな子供の頃、悪い人達が、お母さんと彼とを箱に入れて、海へ流してしまいました。風がいきおいよく吹いて来て、その箱を沖へ押し出し、こわい大波がそれを上下にゆすぶりました。その間、ダネイは彼女の子供を胸に抱きしめて、今に大きな波が、その泡立った
仕合せなことには、この漁師はとても人情深い、
若者が王宮へまかり出て見ると、王様は玉座に坐っていました。
『パーシウス、』とポリデクティーズ王は、ずるそうに彼にほほ笑みかけながら言いました、『お前も立派な若者になったなあ。お前とお前のよい母親とは、わしの兄弟の漁師からだけでなしに、わし自身にも大変世話になった。だからその幾分なりとも、恩返しするのがいやだとは言うまいな。』
『はい、陛下、』とパーシウスは答えました、『御恩にむくいますためには、命をも惜しみません。』
『うむ、それでは、』と王様は、ずるそうな微笑を唇に浮かべながら、つづけました、『わしはお前に、ちょっとした冒険を頼みたいのじゃ。そして、お前は勇敢な、冒険好きの若者だから、きっとそれを、お前が
『して、それを手に入れますについて、私が陛下のお役に立つことが出来ますでしょうか?』とパーシウスは熱心に叫びました。
『出来る――もしお前がわしの信じているほど勇敢な若者であったなら、』とポリデクティーズ王は、この上もなくやさしい調子で言いました。『わしが是非美しいヒポデイミヤに捧げたいと思っている婚礼の贈物は、頭に蛇の髪が生えたゴーゴン・メヅサの首じゃ。そしてパーシウスよ、わしはお前の力でそれを取って来てもらいたいと思っている。そんなわけで、わしは姫との話を取りきめたいと熱望しているので、お前がゴーゴンを探しに出かけてくれるのが早ければ早いほどうれしいのじゃ。』
『明朝出発いたします、』とパーシウスは答えました。
『どうかそうしてくれ、わが
パーシウスは王宮から下がって来ました。ところが、彼がやっと聞えない位の所へ行くか行かないうちに、ポリデクティーズは、わっはっはと笑い出しました。彼はいかにも悪い王様だけに、その若者がこうまでたやすく
『ほう、ほう!』と彼等は叫びました、『あいつはメヅサの蛇に
さてその頃には、三
しかし人々は、空高く飛んでいる彼等のきらきらした輝きをちょっとでも見ると、立止まって眺めるどころか、駆け出して出来るだけ早く身をかくすのでした。多分君達は、彼等がゴーゴンの髪の毛の代りになっている蛇に咬まれるとか――そのおそろしい牙で頭を喰い切られるとか――真鍮の爪でずたずたに引裂かれるとかするのを恐れているのだと思うでしょう。そう、たしかにそんなことも危険のうちにははいっていたが、決してそれらが一番大きな危険でもなければ、一番のがれにくい危険でもなかったのです。というのは、これらの恐しいゴーゴン達の何よりこわいところは、もしわれわれ無力な人間が、彼等の顔をまともに見つめでもしようものなら、間違いなく、温い肉と血とが、たちまち冷たい、死んだ石になってしまうということでした。
だから、君達にもすぐ分る通り、悪い王様ポリデクティーズが、この罪もない若者のために考え出したことは、とてもあぶない冒険だったのです。パーシウス自身も、そのことをよく考えてみると、彼がそれを無事に切り抜けて来るという見込みはほとんど立たず、蛇の髪をしたメヅサの首を持って帰って来るよりも、
こんなことを考えると、たいへん悲しくなって来て、彼は、やりましょうと引受けたことを、お母さんにお話しするに忍びませんでした。そこで彼は、盾を取り、剣をつけて、島から本土へと渡りましたが、淋しい所に一人で坐ってこぼれて来る涙を抑えかねました。
しかし、彼がこうして悲しい気持でいると、すぐ
『パーシウス、』とその声は言いました、『何故お前は悲しんでいるのだ?』
彼は伏せていた顔を、手から上げました。ところがどうでしょう、パーシウスが自分一人だけだと思っていたのに、この淋しい所に一人の見知らぬ人がいたのです。それは元気そうな、才智ありげな、そしてとても利口そうな顔附をした青年で、肩に外套をかけ、頭には妙な帽子をかぶり、手には変に曲りくねった杖を持ち、そして腰には短い、ひどく
『僕はそんなに悲しんではいません、』と彼は言いました、『ただ僕が引受けた冒険について考え込んでいただけです。』
『おほう!』とその見知らぬ人は答えました。『まあいいから、わたしにすっかりその話をしてごらん、そうすれば、わたしが君の力になって上げられるかも知れない。わたしは今までに、沢山の若者を助けて、やって見ないうちは随分とむずかしそうに見えた冒険を仕遂げさせたこともあるんだから。多分君はわたしのことを聞いたことがあるだろう。わたしには、いろんな名前がある。しかしクイックシルヴァという名前が、他のどれよりもわたしに適している。まあ、君の心配事をわたしに聞かせなさい。そうすれば、二人でよく相談して、何かうまい方法が見つかるかも知れない。』
その見知らぬ人の言葉と態度とが、パーシウスを、まるで前とは打って変った気持にしました。彼はどうせ今までよりも悪いことになりっこはないし、それにどうかすると、この新しい友達が、結局大変よかったというようなことになりそうな、何かいい智恵でも貸してくれそうな気がしたので、彼の心配事をすっかりクイックシルヴァに話してしまうことにきめました。そこで彼は、かいつまんで、ありのままに事情を打明けました、――つまり、ポリデクティーズ王が、美しいヒポデイミヤ姫に対する婚礼の贈物として、蛇の髪をしたメヅサの首をほしがっていること、それから彼が王様のためにそれを取って来て上げることを引受けはしたものの、石にされてしまうことを心配していることなどを話したのです。
『石になっちゃ可哀そうだ、』とクイックシルヴァは人の悪いほほ笑みをうかべて言いました、『尤も、君は大変立派な大理石の像になるだろうがね。そして、ぼろぼろになってしまうまでには、何百年もかかるだろう。しかし大抵誰でも、石像になって何百年も立っているよりは、数年間でもいいから青年でいたいからね。』
『ええ、全くその方がいいですよ!』とパーシウスは、また目に涙をうかべながら叫びました。『それに、もしもかわいい息子が石にされてしまったら、僕の大事なお母さんはどうするでしょう?』
『まあ、まあ、そんな縁起でもないことにはしたくないもんだ、』とクイックシルヴァは元気づけるような調子で答えました。『もし誰かが君を助けることが出来るとすれば、わたしを
『あなたのお姉さんですって?』とパーシウスは
『そう、わたしの姉だよ、』と見知らぬ人は言いました。『本当に、彼女は大変聡明なんだ。それにわたし自身としても、大した智恵はないが、どんなことにぶっつかっても、途方に暮れるというようなことはまずないね。もし君が大胆に、そして細心になって、わたし達の言うことをきいてれば、まだ当分は石像になるなんて心配は御無用だ。しかし、君は先ず第一に、君の盾を、鏡のようにはっきりと顔が映るようになるまで、磨かなくてはならない。』
これはまた、冒険の手始めとしては随分変なものだなと、パーシウスは思いました。というのは、盾などというものは、顔が映って見えるほど光ったりしているよりも、ゴーゴンの真鍮の爪から彼を
『君の目的に役立つ剣は、わたしの剣のほかにはないのだ、』と彼は言いました、『その
『三人の白髪婆さんですって!』とパーシウスは叫びました。彼は冒険の途中に、また新しい面倒が起ったとばかり思ったからです。『一体その三人の白髪婆さんって誰でしょう? 僕はそんな婆さん達のことは聞いたこともありませんが。』
『彼等は三人の大変奇妙なおばあさん達なんだ、』とクイックシルヴァは笑いながら言いました。『彼等は仲間でたった一つの目と、たった一つの歯としか持っていない。その上、星明りか、夕方の薄闇の中かで見つけなければならない。というのは、彼等はお日様やお月様が出ている時は、決して姿を見せないからだ。』
『しかし、』とパーシウスは言いました、『僕はどうしてそんな三人の白髪婆さんのことで暇をつぶさなければならないんでしょう? すぐ、あの恐ろしいゴーゴン達を捜しに行った方がよくはないでしょうか?』
『いや、いや、』と彼の友達は答えました。『君はゴーゴン達の居る所へ行く迄には、ほかにいろんなことをしなければならないんだ。さしあたり、これらのおばあさん達を捜すほかないのだ。そしてわれわれが彼等に出遇えば、もうゴーゴン達からあまり遠くない所へ来たと思って間違いないんだ。さあ、出かけようじゃないか!』
パーシウスは、この時までに、彼の道連れのかしこさを大変頼みに思うようになっていましたので、もうその上文句は言わないで、すぐにでも冒険旅行に出かけていいと答えました。そこで彼等は出発しました。そして
『さあ!』とクイックシルヴァはとうとう叫びました――というのは、彼も相当人を喰ったもので、パーシウスが彼と歩調を合せて行くのにどんなに難儀しているかということは、ようく知っていたからです――『この杖を持ち給え。わたしよりもずっと君の方が、それが必要だからね。セライファス島には、君よりも足の速い人はいないのかね?』
『僕だって翼の生えた靴さえあれば、相当速く歩けるんですがね、』と、パーシウスはちらっとずるそうに、彼の道連れの足の方に目をやりながら言いました。
『君にも
しかし、さっき貸してもらった杖が、すばらしく彼の歩く助けになったので、パーシウスはもう少しも疲れを覚えなくなりました。実際、その杖は彼の手の中で生きていて、その生命のいくらかを彼に貸してくれるような気がしました。彼とクイックシルヴァとは、今では、仲よくお話をしながら、
そのうちに、ふと彼は、彼等がこれから目指して行く冒険に力を貸してくれる筈になっている姉さんのことを、クイックシルヴァが話していたのを思い出しました。
『その
『正にその時機だという時になったら出て来るよ、』と彼の道連れは言いました。『しかしちょっとことわっておくが、わたしのこの姉は、わたしとはまるで性質が違うんだ。彼女は大変真面目で、用心深く、にっこりとすることも少なく、声を立てて笑うなんてことはまるでない。そして何か特別に意味の深いことを言う時のほかは、一言も口をきかないことにしている位だ。その代り、こちらからも、よほど立派なことを言わないと、相手にはしてくれないんだ。』
『これは驚いた!』とパーシウスは叫びました、『僕なんぞはうっかり口をきけませんね。』
『本当に彼女は、実に何でも出来る人なんだ、』とクイックシルヴァはつづけて言いました、『そしてどんな技芸にも学問にも通じている。つまり彼女は、あまり馬鹿馬鹿しくかしこいので、みんなが彼女のことを智恵の
この時にはもうあたりはすっかり薄暗くなっていました。彼等は今や、
『シッ! シッ!』と彼の道連れは小声で言いました。『騒いじゃいけない。ちょうどこんな時分に、こんな所で、三人の白髪婆さんに
『でも、僕達が彼等に出遇った時に、僕はどうすればいいんでしょう?』とパーシウスは
クイックシルヴァは、三人の白髪婆さん達が、一つの目でどういう風に間に合わせているかをパーシウスに説明して聞かせました。彼等はいつもそれをお互に、まるで眼鏡みたいにやり取りしているらしいのです。いや、それは片眼鏡といった方がいいかも知れない。彼等にはその方が向いているんだから。そして、三人のうちの一人が、その目を或る時間の間使うと、それを
パーシウスもやっぱりそう思ったのでした。そして、どうかすると、彼の道連れが彼をからかっているのであって、世の中にそんな婆さん達なんてあるものかと考えたほどでした。
『わたしが本当のことを言ってるかどうか、今に分るよ、』とクイックシルヴァは言いました。『耳をすまして! 静かに! シッ、シッ! さあ、来たぞ!』
パーシウスは一心に夕闇をすかして見ました。すると、果して、あまり遠くないところに、三人の白髪婆さんが目につきました。よほど暗くなっていたので、彼等がどのような姿をしているかは、よく見えませんでしたが――それでも、長い白髪だけは分りました。そして、彼等がだんだん近づいて来るのを見ると、彼等のうちの二人は、その
こうして彼等は、大体のところ、まるで三人一しょに見ているのと同じような具合に、
しかし、彼等がその藪まで来ないうちに、三人の白髪婆さんの一人が口を切りました。
『もし! スケヤクロウさん!』と彼女は叫びました。『あんたは十分長く見たじゃないか。もうあたしの番だよ!』
『もうちょっとの間、あたしに
『へん、それがどうしたっていうの?』とナイトメヤはすねたように言い返しました。『あたしには、あんたのようにたやすく茂った藪の中が見えないとでもいうの? その眼はあんたのものでもあり、あたしのものでもあるんだよ。そしてあたしはあんたに負けない位、その眼の使い方を知っている。いや、どうかすると、もっと上手かも知れない。どうあっても、すぐにちょっと見せて貰わないと困るよ!』
しかしこの時、三人目のシェイクヂョイントという姉妹が、ぶつぶつ言い出しました。彼女の言い分は、彼女が見る番だのに、スケヤクロウとナイトメヤとが、いつでも二人きりで眼を持っていたがるというのでした。この口論をやめるために、スケヤクロウ婆さんは、額から眼をはずして、それを手に持って差出しました。
『どちらでもお取りよ、』と彼女は叫びました、『そして、このくだらない喧嘩を止してよ。あたしは、まあしばらく
そこで、ナイトメヤとシェイクヂョイントとは、二人とも手をのばして、スケヤクロウの手から眼をひったくろうとしてさぐり廻しました。しかし二人とも同じようにめくらですから、スケヤクロウの手の
クイックシルヴァは、シェイクヂョイントとナイトメヤが二人とも、眼をさぐり廻って、それぞれスケヤクロウを怒って見たり、お互に悪口を言ったりしているのを見ていると、あまりおかしくて、声を立てて笑うまいとするのに骨が折れました。
『さあ今が君の
パーシウスは時を移さず、三人の白髪婆さん達がまだお互に
『おばあさん
『お前さんが! お前さんがあたし達の眼を持っているんだって! そしてお前さんは誰だい?』と、三人の白髪婆さんは、みんな一度に言いました。というのは、彼等はいう迄もなく、聞きなれない声を聞き、彼等の眼が何処の何者とも知れない人の手に渡ったことを知って、ひどくびっくりしたからでした。『おう! あたし達どうしましょう、姉妹達? あたし達どうしましょう? あたし達はみんな
『彼等が君に、
『親切な、立派なおばあさん方、』とパーシウスは白髪婆さん達に向って言いました、『何もそんなにびっくりなさることはありません。僕は決して悪い男じゃないんです。あなた方が僕にニンフ達の居処を教えて下されば、すぐにあなた方の眼を、そっくりそのまま、もと通りよく光っているのをお返しします。』
『ニンフ達だって! これはまあ! 姉妹達、この人はどんなニンフのことを言ってるんだろうねえ?』とスケヤクロウは叫びました。『何でもいろんなニンフがいるそうだよ。森で猟をしているのもあれば、樹の中に棲んでいるのもあり、また泉の中で楽しく暮らしているのもあるそうだ。あたし達はニンフ達のことはちっとも知らない。あたし達は三人の不仕合せな婆さん共で、うす暗がりの中をうろつき廻っていて、仲間に眼が一つしかない。それをお前さんが盗んでしまいなすった。おう、何処の人だか知らないが、それを返しておくんなさい!――どなただか知らないが、それを返して下さい!』
その間も始終、三人の白髪婆さん達は手をのばして探りながら、一生けんめいにパーシウスをつかまえようとしました。しかし彼はつかまらないように十分気をつけました。
『立派なおばあさん方、』と彼は言いました――というのは彼のお母さんは彼に、いつも出来るだけ丁寧に口をきくようにと教えていたからです――『僕はあなた方の眼を、しっかりと手に持っています。そしてあなた方がニンフの居処を教えて下さるまで、それを大切に預かっておきましょう。僕の言っているのは、魔法の袋と、
『おやまあ、姉妹達! この兄さんは何のことを言ってるんだろうねえ?』スケヤクロウとナイトメヤとシェイクヂョイントとは、如何にもびっくりしたような風に、お互に叫びました。『
パーシウスは彼等がこんな風にいうのを聞いて、白髪婆さん達がそのことをなんにも知らないのだと、本当に思いかけました。そして彼等を大変困らしたことが気の毒になって、今少しで彼等の眼を返してやって、それを奪い取った無礼を詫びるところでした。しかしクイックシルヴァが彼の手をおさえました。
『彼等にだまされちゃいけない!』と彼は言いました。『ニンフ達の居処を君に教えることが出来るのは、世界中でこの三人の白髪婆さんだけなんだ。そして、君はそれを知らないでは、蛇の髪をしたメヅサの首を首尾よく
後で分ったことですが、クイックシルヴァの言ったことに間違いはありませんでした。眼ほど人間が大切にするものはちょっとありません。それに白髪婆さん達は、もともと三人で六つの眼がある筈のところ、一つしかなかったのですから、それを六つの眼に負けないくらい大切に思っていました。それを取返す方法がほかにないと知って、彼等もとうとうパーシウスに彼の知りたがっていることを教えました。彼等が教えてくれるとすぐに、パーシウスはこの上もなく
どうもこの三人の白髪婆さん達は、いつもよくこうした喧嘩をして、お互の平和をみだしていたらしいのです。彼等はお互に誰が欠けても困るわけですし、それに離れられない仲間として生れて来たことは明らかなのですから、これは尚更困ったことでした。一般的に言って、
一方その間に、クイックシルヴァとパーシウスとは、ニンフを見つけようとして、一生けんめいに道を急いでいました。彼等はおばあさん達から大変詳しく教わっていましたので、間もなくニンフ達を見つけました。会って見ると、ニンフ達はナイトメヤやシェイクヂョイントやスケヤクロウなどとは、大変違った人達だということが分りました。というのは、彼等はおばあさん連ではなく、若い、美しい女達で、姉妹仲間に眼が一つというようなこともなく、めいめいとてもぱっちりとした自分の眼を二つずつ
『パーシウス、
そこでパーシウスは、他の方を彼の傍の地面においたまま、一方のスリッパを履きにかかりました。とこが、
『もっと気をつけたまえ、』彼はそれをパーシウスに返してやりながら言いました。『空高く飛んでいる鳥が、もしも彼等の中へスリッパが飛び込んで来たのを見たりしちゃ、びっくりするじゃないか。』
パーシウスがこの不思議なスリッパを両方共はいてしまった時には、あんまり身が軽くなって、土を踏むことも出来ませんでした。
やさしいニンフ達は、波打った
『パーシウス、君は何処にいるんだい?』とクイックシルヴァは尋ねました。
『え、ここですよ、ほんとに!』とパーシウスは落着き払って答えました。しかしその声は、
『なるほど、見えない!』と彼の友達は答えました。『君は兜の中にかくれてしまったんだ。しかし、わたしに見えないとすれば、ゴーゴンにだって見えはしない。だから、わたしについて来るがいい。一つ君が
クイックシルヴァがこう言うと、彼の帽子が
もうすっかり夜も更けていました。パーシウスは目を上げて、円い、明るい、銀色の月を見ました。そして、あそこまで飛んで行って、一生をそこで暮すほどいいことはないような気がしました。それから彼はまた下を向いて、下界を眺めました。海や、湖水や、銀の糸を引いたような河や、雪をかぶった山のいただきや、広い野原や、黒々とかたまった森や、白い大理石で出来た町などが見えました。そして、その全体の景色の上に、月の光が眠るようにさしたところは、月の世界にも、又どんな星の世界にも、劣るまいと思われました。又彼は、他のいろいろなものの間に、彼のなつかしい母の住むセライファス島を見ました。時々、彼とクイックシルヴァとは、雲に近づきましたが、それは遠くから見ると、羊の毛のような銀で出来ているようでいながら、その中へ飛び込んで見ると、灰色の霧であって、からだが冷たく濡れるのでした。しかし、彼等の飛び方は大変速かったので、すぐに雲を抜けて、また月光の中に出るのでした。高く飛んでいた鷲が、見えないパーシウスに向って、まともにぶっ突かって来そうになったことなどもありました。何よりもすばらしかったのは、まるで空に大
二人連れでどんどん飛んで行くうちに、パーシウスは、彼のすぐ傍に
『誰の着物でしょう、僕のすぐ傍で、そよ風にさらさらと鳴りつづけているのは?』とパーシウスは尋ねました。
『ああ、わたしの姉の着物だよ!』とクイックシルヴァは答えました。『わたしがそう君に言った通り、彼女はわたし達と一しょに来ているんだ。われわれはわたしの姉の手を借りなくちゃ何も出来ないんだ。彼女がどんなにかしこいか、君にはちょっと分らないよ。彼女はその上、とてもいい眼をしているんだ! だって君、こうしていても、彼女には君が隠兜をかぶっていない時と同じように、君が見えるんだぜ。彼女が第一にゴーゴンを見つけるだろうってことは、今から言っといてもいいね。』
空中をずんずん飛んでいた彼等は、この時にはもう、大きな海の見えるところまで来ていましたが、やがてその上にさしかかりました。彼等のはるか下の方では、波が海のまん中にどうどうと逆巻き、長い海岸線に沿うて筋を引いたように白い磯波を打上げ、岩の断崖に当っては泡と砕けて、下界では雷のような響を立てていました。尤もその響も、半分ねむりかかった赤坊の声のような、静かなつぶやきとなって、パーシウスの耳に届いて来るのでしたが。ちょうどその時、彼のすぐ傍の空中で声がしました。それは女の声らしく、音楽的ではあるが、世間でいう
『パーシウス、』とその声は言いました、『ゴーゴンがいますよ。』
『何処にです?』とパーシウスは叫びました。『僕には見えませんが。』
『あなたの下の島の海岸にいます、』とその声は答えました。『あなたの手から小石を落したら、ちょうど彼等のまん中に落ちるでしょう。』
『彼女が第一にゴーゴンを見つけるだろうとわたしは君に言ったろう、』[#「』」は底本では欠落]とクイックシルヴァはパーシウスに言いました。『そら、いるだろう!』
彼の真下二三千フィートのところに、パーシウスは小さな島を見ました。岩で出来た岸をぐるっと取巻いて、海は白い泡となって砕けていましたが、ただ一方の岸だけは、雪のように
ゴーゴン達は、とても大きな、金の
『今だ、』とクイックシルヴァは、パーシウスの傍を飛び廻りながら小声で言いました、『今こそ君がゴーゴンの首を切る時だ! 早くしたまえ、もしゴーゴンのうちのどれかが目を覚ましでもしたら、もうおしまいだから!』
『どれに切ってかかればいいんでしょう?』とパーシウスは、剣を抜いて、も少し下の方へおりて行きながら言いました。『彼等三疋はみんな同じようじゃあありませんか。三疋とも蛇の髪をしています。三疋のうちどれがメヅサですか?』
これらの竜みたいな怪物のうち、パーシウスが首を落すことが仮りにも出来るのは、メヅサだけだったということを知っておかなければなりません。他の二疋に至っては、パーシウスが、それまでに鍛えられたどんな銘刀を持って来て、何時間ぶっ続けに切りつけようが、少しも
『気をつけて、』と、前にもパーシウスに話しかけた静かな声が言いました。『ゴーゴン達のうちの一つが、寝ながらむくむく動いて、ちょうど寝がえりをしかけているでしょう。あれがメヅサです。彼女を見ないで! 見たらあなたは石になってしまいますよ! あなたのよく光った盾の鏡に
パーシウスはこの時初めて、クイックシルヴァがあんなに熱心に、盾を磨けと言ったわけが分りました。盾のおもてに映して、はじめて彼は安全に、ゴーゴンの顔の
頭の蛇もまたメヅサの夢がうすうす分るらしく、それがために一層眠れない様子でした。彼等は互にからみ合って、ごちゃごちゃのかたまりになり、はげしく身をよじって、目を閉じたまま、しゅっしゅっといいながら、百の鎌首をもたげました。
『さあ、さあ!』少しじれったくなって来たクイックシルヴァは、低い声で言いました。『メヅサに飛びかかれ!』
『でも落ち着いて、』と、パーシウスにつきまとっている真面目な、響のいい声が言いました。『下へおりて行く時、盾をよく見て、最初の
パーシウスは、盾に映ったメヅサの顔から目を離さないで、注意深く下の方へおりて行きました。近づけば近づくほど、蛇の生えた頭と鉄のような胴体とは、いよいよ物凄くなって来ました。とうとう、メヅサの上から手の届くあたりまで舞下ったと思った時、パーシウスは剣を振上げました。と同時に、メヅサの頭の蛇が恐しい勢で一つ残らず立上って、メヅサはくわっと目を見開きました。しかしもう遅かったのです。剣は
『
パーシウスが驚いたことには、彼が頸にかけていた、今まで財布ほどの大きさしかなかった、小さな、縫取りをした袋が、たちまちメヅサの首がはいるほどの大きさになりました。目にもとまらないほどの早さで、彼はまだ蛇がしきりにうごめいているメヅサの首をつかんで袋の中に押込みました。
『あなたの仕事はすみました、』と静かな声は言いました。『さあ逃げなさい。メヅサを殺された仇を討とうとして、他のゴーゴン達が命がけでかかって来るでしょうから。』
実際、逃げる必要がありました。というのは、パーシウスがメヅサの首を落す時、いくら静かにやろうとしても、剣を打ちおろす音、蛇がしゅっしゅっという声、それからメヅサの首が海辺の砂の上にどさっと落ちる音などがしたので、他の二疋が目を覚ましたからです。彼等はちょっとの間、ねむそうに真鍮の指で目をこすりながら坐っていましたが、一方彼等の頭の蛇は、おどろきと、相手は何ものとも知らないながらも毒気を含んだ敵意とで、みんな棒立になりました。しかしその二疋のゴーゴン達が首のなくなった、うろこだらけのメヅサの死骸と、すっかり
ゴーゴン達はすっかり目が覚めるとすぐに、がらがらというような音を立てて空中に舞上って、真鍮の爪を振上げ、物凄い牙をばりばりと鳴らし、その大きな翼をあまりはげしく
パーシウスが帰る途中で、今にも一人の美しい少女を呑もうとしているおそろしい海の怪物を
とうとう、勇敢なパーシウスは島へ帰り着きました。そしてなつかしい母親に会えると思っていました。ところが、彼の留守の間に、悪いポリデクティーズ王が、ダネイに対して大変ひどくしましたので、彼女は逃げ出さずにはいられなくなって、或るお寺に隠れていました。そのお寺では、年取った、いいお坊さん達が、彼女にたいそう親切にしてくれました。これらの感心なお坊さん達と、それからダネイと小さなパーシウスとが箱に入れられて流されて来たのを見て最初に彼等二人をいたわってくれたあの漁師とだけが、この島では正しいことをしようと心がけている人達のようでした。そのほかの人達は、ポリデクティーズ王に限らず、みんな
お母さんが家に見えないので、パーシウスはまっすぐに王宮へ行きました。そしてすぐに王様の前へ通されました。ポリデクティーズは彼に会うことをちっとも喜んでいませんでした。というのは、彼は意地悪い心の中で、ゴーゴン達が哀れなパーシウスをずたずたに引裂いて、彼の邪魔にならないように、呑んでしまってくれたものとばかり思っていたからでした。ところが、彼がけろりとして帰って来たので、王様はそれに対して出来るだけいやな顔を見せないようにして、パーシウスがどんな風にして成功したかを尋ねました。
『お前は約束を果したかね?』と王様は訊きました。『お前は蛇の髪をしたメヅサの首を持って帰ったかね? でないと、お前、ひどい目に遇うぞよ。わしは、美しいヒポデイミヤ姫に対する婚礼の贈物が是非ほしいのだが、メヅサの首ほど姫の気に召すものは外にないのじゃから。』
『はい、おそれながら、』とパーシウスは、落着いて、メヅサ退治くらいは彼ほどの若者にとっては別に大して驚くほどのことでもないといった風に答えました。『私はメヅサの首を、蛇の髪も何もついたままそっくり持参いたしました!』
『それは本当か! どれどれ見せなさい、』とポリデクティーズ王は言いました。『もしも旅人達の言うことがみんな本当だとしたら、それはまことに珍らしい見ものに違いない!』
『仰せの通りにございます、』とパーシウスは答えました。『それは本当に、誰でも一ぺん見たら、もうその方に目を吸いつけられてしまうことは、ほぼ間違いのないものでございます。そして、もしも陛下さえよろしいとお思召すならば、休日をおふれだしになり、陛下の人民を全部お呼び集めになりまして、このすばらしい珍品をお見せ遊ばしてはいかがでございましょう。私が思いまするに、ゴーゴンの首を今までに見た者も、またおそらくこの先二度と見る者もあまりございますまいから!』
王様は彼の人民が、どうにもならないような怠け者の集まりで、そうした連中の常として、たいへん物見高いということをよく知っていました。そこで彼は若者の意見を
露台が一杯に見える一段高くなった所には、半円形にずらりと
『その首を見せろ! その首を見せろ!』と人々は叫びました。彼等の叫びには、もしもこれから出して見せる物が彼等を満足させる程のものでなかったら、パーシウスをずたずたに引裂きかねないような烈しさがありました。『蛇の髪をしたメヅサの首を見せろ!』
若いパーシウスは、悲しいような、気の毒なような気持になりました。
『おう、ポリデクティーズ王様、』と彼は叫びました、『そして
『ああ、この悪党の卑怯者!』と、人々は前よりもはげしくわめき立てました。『あいつはわれわれを馬鹿にしてやがる! あいつはゴーゴンの首なんぞ持っていないんだ! もし持っているんなら、われわれにそれを見せろ! でないとお前の首をもらって、フットボールにしてしまうぞ!』
いけない顧問官達は、王様に耳打して、悪い智恵をつけました。廷臣達は一斉に、パーシウスが彼等の王様であり主君である陛下に対して不敬を敢てしたと呟きました。そして、えらいポリデクティーズ王自身は、手を振って、威厳のある、きびしい、太い声で、わが身の危険も知らずに、その首を出して見せよとパーシウスに命じました。
『わしにゴーゴンの首を見せよ。さもなければお前の首を打ち落すぞ!』
それを聞いて、パーシウスは溜息をつきました。
『今すぐに、』とポリデクティーズはまた言いました、『でなければ命がないぞ!』
『では、お目にかけましょう!』とパーシウスは、喇叭を吹き鳴らしたような声で叫びました。
そして彼がメヅサの首を、さっと差上げると
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タングルウッドの玄関
――話のあとで――
『大変面白いお話じゃなかった?』とユースタスは訊いた。
『ええええ、面白いお話だったわ!』とカウスリップは手をたたいて叫んだ。『そしてあの、仲間で目が一つしかない、おかしなおばあさん達なんて! あたしそんな不思議なことって今まで聞いたことがないわ。』
『でも、そのおばあさん達がやりとりしていた一本の歯のことなら、』とプリムロウズが言い出した、『別に驚くほどのことはないわ。それは
『じゃ、あれは姉妹じゃなかったのかね?』とユースタス・ブライトは訊いた。『僕それに早く気がついていたら、彼女を梟なんか可愛がって飼ってるようなお嬢さんに仕立てるんだったなあ!』
『あら、それでも、あなたのお話で霧が晴れちゃったらしいわ、』とプリムロウズは言った。
実際、その話がつづけられているうちに、野山から霧はすっかり消え去っていた。彼等の前に繰りひろげられた景色は、この前に見た時と方角一つ違っているわけでもないのに、まるで新しくつくり出されたもののような気がするほどだった。半マイルばかり先の谷間の
こうした眺め一杯に快い日の光がさして、それにまつわるかすかな
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シャドウ・ブルック
――「何でも金になる話」の前に――
お昼に、子供達の一行は、或る
そうして金色になった水路を伝って流れる谷川は、この辺でちょっと

ユースタス・ブライトとその小さな仲間達とは、このシャドウ川の谿で
『ここで休んで、ユースタスにいさんに、また何かいいお話をしてほしいなあ、』と子供達の幾人かが言った。
しかし子供というものは、他人がくたくたに疲れていたって、
『ユースタスにいさん、』とカウスリップが言った、『ゴーゴンの首のお話はとても面白かったわ。あれに負けない位のお話を、も一つお出来になりそう?』
『出来るよ、君、』とユースタスは言って、これから
『ねえ、プリムロウズとペリウィンクル、にいさんのおっしゃったこと聞いて?』と叫んで、カウスリップはよろこんで踊り出した。『ユースタスにいさんは、ゴーゴンの首の話より、もっと面白いのを一ダースもして下さるんですって。』
『一つだってするとは言ってやしないよ、この小さなカウスリップのお馬鹿さん!』とユースタスは半分怒ったように言った。『しかし、どうもさせられそうだね。これもあんまり評判を取ったおかげだ! 僕はもっとずっとのろまに生れるか、それとも、天から授った立派な才能を少し隠すかしとけばよかったなあ。そうすれば、静かに、気楽に
しかし、従兄ユースタスは、私が前にもちょっとそんなことを言っておいたと思うが、子供達が話を聞くのが好きなのと同じように、彼はまた話をして聞かせることが好きなのであった。彼の心は自由な、愉快な状態にあって、それ自身の活動に喜びを感じ、それを働かすのにほとんど外部からの刺戟を必要としなかった。
こうした頭の自発的活動というものは、中年者の、訓練の結果から来た勤勉などとは、まるっきり違ったものだ。というのは、中年時代になると、長い習慣によって、つとめは
ユースタス・ブライトは、子供がそれ以上せがむまでもなく、次のような実にすばらしい話を始めた。その話は、彼が寝ながら、
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何でも金になる話
昔々一人のたいへんなお金持がありました。その
このマイダスという王様は、世の中の他の何よりも
そのくせ、もっと若い時分、まだ彼がそんなにお
とうとう(一体人間はだんだん利口になるように心がけないと、必ずだんだん馬鹿になるにきまったものだから)、マイダスは金でないものは、どんなものでも、ほとんど見ることも手にすることもいやだというような、てんで物の分らない人間になってしまいました。その結果、彼は毎日の大部分を、彼の王宮の土台の下の、暗い、淋しい地下室で送るような癖がつきました。彼はそこに金をしまっていたのです。彼は特に幸福になりたい時はいつでも、この陰気な穴の中――というのは、そこは土牢も同然だったから――へはいって行きました。彼はそこで、念入りに扉に錠を下してから、金貨のはいった袋や、洗盤ほどもある金のコップや、重い金の
マイダスは自分を仕合せな人と呼んでは見たものの、まだ自分の望んでいるほど幸福になり切っていないという気がしました。全世界が彼の宝の庫となって、それに全部自分のものである黄金が一杯にでもならなければ、すっかり満足し切るところまでは行かなかったのでしょう。
さて、君達のような利口な子供には、こんなことを言う必要はないかと思うが、マイダス王が生きていた古い古い昔には、
マイダス王が或る日例によって、宝の庫にはいって楽しんでいる時、山と積んだ金の上に影がさすのに気がつきました。ふと顔を上げると、これはまたどうしたことか、一人の見たことのない人の姿が、明るい、細い日光の中に立っているのです! それは快活そうな、血色のいい顔をした青年でした。あたりの物すべてが金色を帯びて見えるのは、マイダス王の気のせいか、それとも何かまた原因があるかは知らないが、彼はその見知らぬ人が彼に向ける微笑の中に、一種の金色の光が含まれているような気がしてなりませんでした。たしかに、見知らぬ人の姿が日の光をさえぎっているにも拘らず、積み重ねられたすべての宝が、今では、前よりも一層光り輝いているのです。一番隅っこの方までが、その人がにっこりと笑うと、まるで
マイダスは錠前の鍵をちゃんと下しておいたこと、それから人間の力ではとてもこの宝の庫に侵入することが出来ないことを知っていましたので、勿論、この人は人間以上の何者かに違いないと判断しました。その人は誰だったかということは、別にここで言わなくてもいいでしょう。まだ地球が比較的新しい物だったその頃には、男や女や子供達の喜びや悲しみに、半分は冗談に、半分は真面目に、興味を持った、超自然な力を
見知らぬ人は部屋を眺めまわしました。そして彼の光を放つような微笑で、部屋の中の金で出来たいろいろの品物をみんなきらきらと光らせてから、またマイダスの方に向きなおりました。
『マイダスさん、あなたはお金持ですね!』彼は言いました。『こうしてあなたが一生けんめいこの部屋に積上げられたほどの金のはいった部屋は、世界中何処へ行っても、ほかにはなさそうですね。』
『わしもかなり集めましたよ――かなりね、』とマイダスは、まだ満足出来ないといった調子で答えました。『しかし結局、これだけ集めるのに、一生かかったことを思うと、あんまり少なすぎますよ。人間も千年くらい生きられるものなら、金持になる暇もありましょうがね!』
『何ですって!』と見知らぬ人は叫びました。『それじゃあなたは、まだ不足なんですか?』
マイダスは
『では一体、どうなったら満足するんです?』と見知らぬ人は尋ねました。『あんまり変っているので、ちょっとお訊きするだけのことですが、是非一つ、うかがいたいものですなあ。』
マイダスはちょっと考え込みました。彼は、やさしい微笑に金色の光をさえ含んだ、この見知らぬ人は、彼の最大の望みを叶える力もあり、またそれを叶えてくれるつもりで来たのじゃないかというような虫の知らせを感じました。だから、今こそ、彼の頭に浮かんだ、出来そうな相談は勿論、ちょっと出来ないような相談でも、ただ口に出して頼みさえすれば、聞いてもらえるという、またとない機会なのです。そこで彼は考えに、考えに、考えて、黄金の山の上に、また黄金の山と、頭の中でいくつも積み重ねて見ましたが、なかなかこれでいいという大きさにはならないのでした。とうとう、すばらしい考えがマイダスの胸に浮かびました。それは本当に、彼の大好きな金にも負けない位すばらしいもののような気がしました。
彼は頭を上げて、この光り輝く見知らぬ人をまともに見ました。
『どうしました、マイダスさん、』とその人は言いました。『何か気に入った考えが浮かんだようですね。あなたの望みを言って下さい。』
『ただこういうことなんですが、』とマイダスは答えました。『こんなに骨を折って宝を集めて、力一杯やった結果が、こんなちっぽけなものかと思うと、わしはうんざりしてしまうのです。わしはさわった物が何でも金になってくれたら、どんなにいいかと思いますな!』
その見知らぬ人の微笑が、あまりあからさまになったので、それは、こんもりとした谿間へお日様がぱっと
『さわれば何でも金になる力ですって!』とその人は叫びました。『そんなすばらしいことを考えつくなんて、マイダスさん、あなたもたしかに相当なもんですね。しかし、それで間違いなくあなたは満足するでしょうか?』
『それで満足しないなんてことがあってたまるもんですか!』
『そんな力が出来て、あとで困ったなんてことは、絶対にないでしょうか?』
『一体、どうして困るなんてことになるでしょう?』とマイダスは問い返しました。『わしは、このことさえ聞き入れてもられえば、完全に幸福になれるんです。』
『では、あなたの望み通りになるように、』と、その見知らぬ人は答えて、別れのしるしに手を振りました。『明日、日の出る時になれば、あなたは何でも金にする力を授っているでしょう。』
と言ったと思うと、その見知らぬ人の姿がとても光り出したので、マイダスは思わず目を閉じました。今度目をあけて見ると、部屋の中にはただ、一筋の日の光と、それから、彼の
マイダスがその晩、平常通り眠ったかどうかは、この話に出ていません。しかし、眠ったにしても、覚めていたにしても、彼の心はおそらく、明日になったら新しい、いい玩具を上げようと約束された子供みたいに、わくわくしていたことだろうと思われます。とにかく、お日様が山から顔を出すか出さないうちに、マイダス王はすっかり目を覚まして、寝床の中から腕を伸ばして、手の届くところにある物をさわり始めました。彼は果してあの見知らぬ人の約束通り、何でも金にしてしまう力が出来たかどうか、ためして見たくてならなかったのです。だから彼は寝台の傍の椅子や、そのほかいろいろなものに指を触れて見ましたが、それがまるでもとのままで、少しも変ったものにならないので、ひどくがっかりしました。実際彼は、どうかするとあの光り輝く見知らぬ人の夢を見ていただけなのか、それともあの人が彼をからかったのではないかしらと、たいへん心配になって来ました。あんなに楽しみにしていたのに、何でもちょっとさわって金にしてしまうというのではなくて、相変らず普通の方法で、わずかな金を掻き集めて行くことに満足しなければならないとしたら、どんなにつまらないでしょう!
その時はまだ明け方のうす暗がりで、東の空の下の方が、ほんの一すじ明るくなっていただけでしたが、マイダスの寝ているところからは、それは見えませんでした。彼は大変がっかりした気持になって、あてがはずれてしまったのをいまいましく思い、だんだん悲しくなるばかりでしたが、そのうちにとうとう朝の最初の日影が窓からさしこんで来て、彼の頭の上の天井を金色に染めました。マイダスには、この黄色い日影が、寝床の白い
マイダスは喜びのあまり、気違いのようになって飛び起きました。そして部屋中を駆け廻って、何でもその辺にある物を手当り次第につかみました。彼が寝台の柱の一つをつかむと、それはたちまち
どうしたわけか、このハンカチが金になったということだけは、マイダス王もあまりうれしく思いませんでした。彼も、小さな姫の手芸品だけは、姫が彼の膝に上って、彼の手に渡した時そのままであってほしかったのです。
しかし
『しかし、大したことじゃない、』と、マイダスは大変落着いて、独り言をいいました。『多少の不便が伴わないで、大変いいことがあるなんて思うのは虫がよすぎるんだ。さわれば何でも金になるような力のためには、少なくとも
お目出度いマイダス王は、彼の幸運をあんまり喜んでしまって、王宮さえも彼がはいっているには少し狭いような気がしました。そこで彼は

しかしマイダスは、彼一流の考え方から云って、この庭の薔薇を、今までのどんな薔薇よりもずっと値打のあるものとする方法を知っていました。そこで彼は一生けんめいに薔薇の藪から藪へと飛び廻って、とても根気よく彼の魔力を
マイダスの時代には、王様の朝御飯がどんなものだったかは、僕は本当に知らないし、又ここでそれを
小さなメアリゴウルドは、まだ姿を見せませんでした。マイダスは彼女を呼ぶように言って、朝飯を始めるために食卓について、姫の来るのを待っていました。公平に見て、彼は本当に姫を愛していました。今朝はまた、彼にふりかかって来た幸運のために、その愛情が一層深くなっていました。しばらくするうちに、姫がひどく泣きながら廊下をやって来るのが聞えました。姫が泣くなんて彼には意外なことでした。何故なら、メアリゴウルドは夏の日に遊びたわむれているのをよく見かけるような子供達のうちでも一番元気な一人で、年中ちょっとでも涙を流すようなことのない子でしたから。マイダスは彼女が泣きじゃくるのを聞いた時、あっと驚いて喜びそうなことをやって見せて、可愛いメアリゴウルドの機嫌を直させようと決心しました。そこで、テイブルの上へ乗り出して、彼女の鉢にさわりました。それは支那
そのうちにメアリゴウルドが、しぶしぶと扉をあけて、目にエプロンを当てたまま、まだ胸も張り裂けるばかりに泣きじゃくりながらはいって来ました。
『おや、どうしたの、姫や!』とマイダスは叫びました。『このお天気のいい朝に、一体どうしたことじゃ?』
メアリゴウルドは目にエプロンを当てたまま、手をさし出しましたが、その手にはマイダスが今しがた金にしたばかりの薔薇の一つがありました。
『
『ああ、お父さま!』と姫はすすり泣きのうちにも、出来るだけはっきりと答えました。『これ
『なあんだ、わしの可愛い姫や――そんなことで泣くんじゃないよ!』とマイダスは言ったものの、姫をこんなにひどく悲しませた変化を自分の手でおこなったのだと打明けることは、恥ずかしくて出来ませんでした。『坐ってパン入りのミルクをおあがり! 何百年でも
『あたしこんな薔薇はいやです!』とメアリゴウルドは叫んで、それを三
姫はもう食卓についていましたが、黄色くなってしまった薔薇に対する悲しみで心が一杯だったので、彼女の支那鉢の驚くべき変化にも気がつきませんでした。多分その方がずっとよかったのでしょう、というのは、メアリゴウルドは、鉢のまわりに描いてある奇妙な人物や、変った木や家を見て、いつも喜んでいたのに、今ではそれらの絵がすっかり金の黄色の中に消え去っていたからです。
その間にマイダスは、一杯のコーヒーを
こんなことを考えながら、彼はコーヒーを一匙すくって口へ持って行きました。そしてすすって見て、それが唇に触れた瞬間に、熔かした金になり、次の瞬間には、金のかたまりになったのを見てびっくりしました。
『はあ!』マイダスはすこしあきれて叫びました。
『どうしたの、お父さま?』と小さなメアリゴウルドは尋ねて、目に涙をためたままで、じっと彼を見つめました。
『何でもない、姫や、何でもないんだよ!』マイダスは言いました。『
彼は皿の上のおいしそうな川鱒を一尾取って、試験の意味で、その
『これじゃ一体どうして朝飯を食べたものか、まるで分らなくなってしまう、』とマイダスは独りで考えました。
彼がほやほやのホットケイキの一つを取って、こわすかこわさないうちに、ひどく困ったことには、一瞬間前まで真白な小麦粉で出来ていたものが、
『はてさて、これは困ったことじゃ!』と彼は考えながら、椅子にもたれて、小さなメアリゴウルドの方をひどくうらやましそうに見ました。彼女はもう大変おいしそうに、パン入りのミルクを食べているのでした。『自分の前にはこんなに贅沢な朝飯がある。それでいて、何一つ食べられるものはないのだ!』
今では相当厄介な気がして来た、何でも金にしてしまう力も、大急行で食べれば、避けられるかも知れないと思って、マイダス王は、今度は
『お父さま、ねえお父さま!』と孝行者の小さなメアリゴウルドは叫びました、『一体どうなさったの? お口が
『ああ、可愛い姫よ、』マイダスは悲しそうにうなりながら言いました、『お前のお父さんはどうなってしまうか分らないよ!』
本当に君達、生れてからこんななさけない話って聞いたことがありますか? 王様の前に供えることの出来る、文字通りこの上なしの
こんなことをいろいろと考えて見ると、さすが欲馬鹿のマイダス王も、心配になって来て、果してお
それにしても、お
『わしの大事な、大事なメアリゴウルドよ!』と彼は叫びました。
しかしメアリゴウルドの返事はありませんでした。
ああ、彼は何ということをしてしまったのでしょう! あの見知らぬ人が彼に与えた力は、何とおそろしいものだったのでしょう! マイダスの唇がメアリゴウルドの額に触れたその瞬間に、一つの変化が起ったのです。あんなに深い愛情に満ちていた彼女の可愛い、薔薇色の顔が、きらきらした金色に変り、頬を伝う涙さえそのまま黄色くかたまってしまいました。彼女の美しい
そうです、彼女はやさしく、悲しく、気の毒そうに、お父さまどうしたのとでも問いたげな表情のままで、顔が固まってしまったのでした。それはこれまで人間が見たうちで、一番可愛らしく、しかも一番いたましい姿でした。メアリゴウルドの目鼻立や特徴はすべてそのままで、可愛らしい小さな
いよいよ彼の願いが十分に叶えられた時になって、彼が手を揉み絞って嘆き始めた有様や、メアリゴウルドを正視するにも忍びないし、それかといって彼女から目を離すことも出来なかった彼の心のうちなどを、一々述べていたら、随分と悲しい話になってしまうでしょう。とにかく、彼の目がその像に
こうして絶望にあがき苦しんでいた時、彼は見知らぬ人が戸口の傍に立っているのにふと気がつきました。マイダスは頭を垂れて、いう言葉もありませんでした。というのは、それが昨日彼の宝の庫に現れて、何でも金にするという飛んでもない力を彼に授けて行ったのと同じ人の姿だということが分ったからです。その人は相変らず顔に微笑を含んでいましたが、その微笑は部屋中に黄色い光を放って、小さなメアリゴウルドの像や、そのほかマイダスの手に触れて金になったいろんなものを照らしているような気がしました。
『どうです、マイダスさん、』とその人は言いました、『何でも金にする力は、うまく行きましたかね?』
マイダスは頭を振りました。
『わしはとても不幸です、』と彼は言いました。
『とても不幸ですって、まさか!』と見知らぬ人は叫びました。『それはまたどうしてでしょう? わたしはあなたに対して忠実に約束を守ったじゃありませんか。あなたは心の願いのすべてを得たんじゃないですか?』
『
『ああ! それじゃあなたは、昨日より一つ利口になりましたね?』と見知らぬ人は言いました。『それじゃちょっと
『おう、それはもう有難い水の方です!』とマイダスは叫びました。『ところが、わしはいくら
『何でも金にする力ですか、』見知らぬ人はつづけて言いました、『それとも一片のパン屑ですか?』
『一切れのパンは世界中の金ほどの値打があります!』とマイダスは答えました。
『何でも金にする力ですか、』見知らぬ人はまた訊きました、『それとも一時間前のような、暖い、やわらかい、愛情のある、あなたの小さなメアリゴウルドですか?』
『おうそれはわしの子、わしの可愛い子にきまっています!』と気の毒なマイダスは、手を揉み絞りながら叫びました。『この大きな地球全体を金のかたまりにしてしまうような力と取りかえようと言われても、わしはあの子の
『あなたは前よりも
『何でも金にする力なんてもういやです!』とマイダスは答えました。
蠅が一匹彼の鼻にとまったと思うと、すぐ
『では、あなたの庭の下をしずかに流れているあの川へ行って、水に飛び込みなさい、』と見知らぬ人は言いました。『それと一しょに、あそこの水を
マイダス王は低く頭を下げました。そして彼が顔を上げた時には、もうその光り輝く人は消えてしまっていました。
マイダスがすぐさま大きな土焼の瓶を取り上げて(しかし、ああ! それも彼がさわったらもう土製ではなくなりました)、川へ急いだことはすぐ君達にも分るでしょう。彼が駆けながら、灌木の間を押分けて行くと、ほかはそうでないのに、彼の通ったあとだけが、秋が来たように木の葉が黄色くなって行く有様を見ていると、全く不思議な気がしました。川の縁まで行くと、彼は服を脱ぐ暇も待たないで、頭から飛込みました。
『プーッ、プーッ、プーッ!』と、マイダス王は水から頭を出して鼻を鳴らしました。『なるほど、これは気持のいい行水だ。これですっかり、何でも金にする力を洗い落としてしまったに違いないと思う。さて、これから瓶一杯に水を入れるとしよう!』
彼は川の水に瓶を
マイダス王は王宮へ急いで戻りました。召使達は、陛下が土焼の瓶に一杯水を入れて、大切そうに持っておいでになるのを見た時、さっぱりわけが分らなかったことだろうと思います。しかし、彼のおろかさから来たわざわいのすべてをもと通りにしてくれる筈の、その水は、マイダスにとっては
彼女に水がかかると、みるみる姫の頬に薔薇色が返って来るやら――くさめをしたり、ぺっぺっと水を吐いたりし始めるやら――自分がびしょ濡れになっているのに、まだお父さんが水をぶっかけているので、びっくりするやらで――君達がその有様を見ていたら、
『ほんとに
というのは、彼女は小さな黄金像になっていたなんてことは知らなかったし、また、気の毒な父を慰めようとして、腕をひろげて、駆けて行った瞬間から、あとはもうどんなことが起ったのか、なんにも覚えがなかったからでした。
彼女のお父さんは、可愛い娘に、自分がどんなに大馬鹿だったかをわざわざ話す必要もないと思ったので、今ではどんなに賢くなったかを見せるだけにしておきました。そうして賢くなったところを見せるために、彼はメアリゴウルドを庭へつれて行って、残りの水をすっかり薔薇の藪の上にふりかけました。するとその
マイダス王は、すっかりいいおじいさんになって、いつもメアリゴウルドの子供達を膝にのせて、ぴょんぴょんさせたりしながら、この不思議な話を、僕が今君達にしたのと大体同じように、話して聞かせるのが好きでした。そのあとで、いつも彼は孫達のつやつやした巻毛を撫でながら、だからお前達の髪もお母さんの筋を引いて、やっぱり豊かな金色をしているんだよと教えるのでした。
『そして、本当のことを言えばね、わしの可愛い孫達、』と、しきりにその間も子供を膝の上でぴょんぴょんさせながら、マイダス王は言うのでした、『その朝からというものは、わしはこのほかの金色のものはすべて、見るのもいやになってしまったんだよ!』
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シャドウ・ブルック
――話のあとで――
『どう? 君達、』と、
『だって、マイダス王の話なんて、』と、生意気なプリムロウズが言った、『ユースタス・ブライトさんが生れる前から、何千年も有名だったんだし、また、にいさんが死んだあと何千年でもやっぱり評判は落ちないでしょう。しかし、世の中には「何でも鉛にする力」といったようなものを持っていて、その人の手にかかったら、どんなものでも退屈で、面白くなくなるってこともあるわねえ。』
『まだ年も行かないのに、君はなかなか
『あたし、右の人さし指で何でも金にする力があって、』と
『どんなことか聞き
『だって、』とペリウィンクルは答えた、『あたし左の人さし指で、この辺の金色になった木の葉をみんなさわって、すっかりもとの緑にして見たいんですもの。そしたら、いやな冬なんかその間になくて、すぐまた夏になるでしょ。』
『おう、ペリウィンクル!』ユースタス・ブライトは叫んだ、『そりゃ君間違っているよ、そしていろいろ困ったことが出来るよ。僕がもしマイダスだったら、今日のような金色の秋の日を幾度でも繰り返して、一年中つづくようにするほかは、なんにもしたくないね。僕のいい考えは、いつもあとになって浮かぶんでね。僕はどうして、マイダス王が年取ってからアメリカへ来て見て、ほかの国に見るような陰気な秋を、この辺のような輝くばかりの美しい姿に変えたということにしなかったんだろう? つまり彼が自然という大きな書物の
『ユースタスにいさん、』とスウィート・ファーンが言った。彼は可愛い小さな男の子で、
『彼女は大体君くらいの高さだったんだ、』とユースタスは答えた、『そして、金は大変重いから、少なくとも二千ポンド位はかかったね。金貨にすれば、三、四万
彼等はそうした。太陽は正午の位置から、一、二時間廻っていたので、西陽のかがやきが谷の大きな窪みに一杯になって、なごやかな光がそこに満ちあふれて、まるで鉢になみなみと
『さあ、さあ、みんな!』とユースタス・ブライトは叫んだ。『もっと、もっと、もっと
こうして彼等は帰って行った。彼等はみんな大変な元気だったが、ただ一人小さなダンデライアンは、可哀そうに、栗のいがの上に坐っていたので、その
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タングルウッドの遊戯室
――「子供の楽園」の話の前に――
毎年十月が来て、また去って行くように、金色の十月の日が過ぎて、
しかし今ではもう、青草もたんぽぽも見られなかった。これはまたひどい吹雪なんだから! 大気を真白にして渦巻く吹雪の中で、もしもそんなに遠目が利くものとしたら、タングルウッドの窓からタコウニック山の円い
でも、子供達はこの吹雪をとても喜んだ。彼等は一番深い
だから子供達は吹雪を祝福して、それがだんだんひどくなるのを見て喜び、門から玄関につづく並木道に長い
『ああ、わたし達は春まで閉じ込められるんだねえ!』と彼等はこの上もなく喜んで叫んだ。『お家が高すぎて、雪にすっかり埋まってしまわないなんて、つまんないなあ! 向うの小さな赤い家は、軒まで埋まってしまうだろう。』
『このお馬鹿さん達、この上雪に降られてどうしようというの?』とユースタスは尋ねた。彼は走り読みしていた何かの小説に
『おう、本当にお気の毒だわ!』とプリムロウズは、笑いながら答えた。『しかしあなたを慰めるために、あたし達、あなたが玄関や、シャドウの谷川の窪地でして下さったような、昔のお話をまた聞かしていただきましょう。木の実がなっていたり、お天気がとてもよかったりする時分よりも、なんにもすることがない今みたいな時の方が、お話がよけいに面白いと思うわ。』
そこで、ペリウィンクルや、クロウヴァや、スウィート・ファーンや、そのほかまだタングルウッドにいるきょうだいや、いとこ達の三四人が、ユースタスのまわりに集まって来て、熱心にお話をせがんだ。その大学生はあくびをして、のびをして、それから子供達がとても感心して見ている前で、椅子の上を三度前後に跳び越えた。彼が子供達に説明したところによると、頭を活動させるために、そんなことをするのだそうだった。
『まあ、まあ、君達、』と、そんな予備運動の
『そんな話今まで聞いたことがないわ、』とプリムロウズが言った。
『勿論、そうだろう、』とユースタスは答えた。『僕のほかには誰も考えたこともないような話でね、――子供の楽園の話だけど――ちょうどこのプリムロウズみたいな、小さないたずらっ児がいけなかった為めに、それがめちゃめちゃになってしまうというわけなんだ。』
そこでユースタス・ブライトは、今その上を跳び越えて見せたばかりの椅子に坐って、カウスリップを膝に乗せて、みんなに静かにするように言ってから、パンドーラという困ったいたずらっ児と、その遊び相手のエピミーシウスとの話を始めた。次の頁から、ユースタスが話した通りに、その話を皆さんに読んでいただきましょう。
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子供の楽園
この古い世界が、まだ出来たばかりの、遠い遠い昔のこと、エピミーシウスという子がいました。その子は、はじめからお父さんもお母さんも無しでした。それではあんまり淋しかろうというので、やっぱりお父さんもお母さんもない今一人の子供が、エピミーシウスと一しょに暮らして、彼の遊び友達ともなり、相談相手にもなるようにと、遠い国から遣わされて来ました。彼女の名はパンドーラといいました。
パンドーラがエピミーシウスの住んでいる小さな家へはいって来た時、第一に目についたのは、一つの大きな箱でした。そして、彼女が
『エピミーシウス、あの箱には何がはいっているの?』
『僕の大好きな小さなパンドーラ、』とエピミーシウスは答えました、『それは秘密なんだ。後生だから、あの箱のことはなんにも訊かないでおくれよ。あの箱は大切に取っておくようにと言って、ここに置いて行かれたんで、僕も何がはいっているか知らないんだ。』
『でも、誰があんたにそれをくれたの?』パンドーラは尋ねました。『そして何処から来たもんなの?』
『それもやっぱり秘密なんだ、』エピミーシウスは答えました。
『なんてじれったいんでしょう!』パンドーラは唇を尖がらして叫びました。『あたしあんな大きな、いやな箱はどっかへ持って行ってしまってほしいわ!』
『さあ、もう箱のことなんか考えないで、』とエピミーシウスは叫びました。『そとへ飛び出して行って、ほかの子供達と何か面白いことをして遊ぼうよ。』
エピミーシウスとパンドーラとが生きていた時からは、もう幾千年にもなります。そして
とりわけ驚くべきことは、子供達がお互にちっとも喧嘩をしないし、まるで泣くということがないし、又、世の始まりからこの方、子供達が一人も、仲間を離れて隅っこの方でふくれていたりしたことがないということでした。ああ、そんな時代に生きていたらどんなにいいでしょう! 実際、今では夏の蚊みたいに沢山いる「わざわい」という、いやな、小さな、
これもはじめのうちは、ただ「わざわい」のかすかな影みたいなものでしたが、日がたつにつれて、だんだん本物になって来て、そのうちには、とうとうエピミーシウスとパンドーラの家が、ほかの子供達の家にくらべて何だか陰気になって来ました。
『一体あの箱は何処から来たんでしょう?』と、始終パンドーラは独りごとにも言い、またエピミーシウスにも
『いつもこの箱のことばかり言ってるんだねえ!』とエピミーシウスは、とうとう言いました。というのは、彼はもうこの話には、すっかりあきあきしていたからでした。『何かほかの話をしてほしいなあ、パンドーラ。さあ、熟した
『いつも葡萄や
『それじゃ、いいよ、』と、その時分のたいていの子供達と同じように、大変気立てのいい子だったエピミーシウスは言いました、『そとへ出て、お友達と面白く遊ぼうよ。』
『あたし、もう面白いことなんか厭きちゃった。そしてもしも、この上面白いことがちっともなくなってもかまわないわ!』と、だだっ児のパンドーラは答えました。『それにあたし、面白いことなんか、ちっともないんだもの。このいやな箱がいけないんだわ! あたしもう、しょっちゅうそのことばかり気にかかってるの。その中に何がはいってるか、どうしても聞きたいわ。』
『もう五十遍もくりかえして言った通り、僕知らないんだよ!』と、エピミーシウスも、少し腹を立てて答えました。『知らないのに、中に何があるか、言えるわけはないじゃないか?』
『あけたらいいでしょう、』パンドーラはエピミーシウスを横目で見ながら言いました。『そしたら、あたし達で見られるじゃないの。』
『パンドーラ、君はなんてことを考えてるんだ?』エピミーシウスは叫びました。
そして彼が、決して開けないということにして彼に預けられた箱をのぞいて見るなんて、如何にもおそろしいといったような顔をしたので、パンドーラも、もうこの上そんなことは言い出さない方がいいと思いました。しかし、それでもやはり、彼女はその箱のことを考えたり、言ったりせずにはいられませんでした。
『でも、それがどうしてここへ来たか位なことは言えるでしょう、』と彼女は言いました。
『ちょうど君が来る前に、大変にこにこした、利口そうな人が、それを戸口の傍に置いて行ったんだ、』とエピミーシウスは答えました、『それを置きながら、その人は何だか笑い出したくてたまらないといったような風だったぜ。その人はおかしな外套を着て、半分
『その人はどんな杖を持っていて?』とパンドーラは尋ねました。
『ああ、とてもおかしな、見たこともないような杖だったねえ!』とエピミーシウスは叫びました。『二匹の蛇が杖に巻きついたようになっていて、その蛇があんまり本物みたいに
『あたしその人を知ってるわ、』とパンドーラは、考え込んだように言いました。『ほかにそんな杖を持ってる人はないんですもの。それはクイックシルヴァだわ。箱だけじゃなしに、あたしをここへ連れて来たのもその人よ。きっと彼はその箱をあたしにくれるつもりなのよ。そして多分、その中には、あたしの着る着物か、あんたとあたしとが持って遊ぶ玩具か、それとも二人でたべる何か大変おいしいものかがはいっているんだわ!』
『そうかも知れない、』エピミーシウスは横を向いて答えました。『しかし、クイックシルヴァが帰って来て、あけてもいいと言うまでは、僕達どちらにも、この箱の蓋をあける権利はないんだ。』
『なんて煮え切らない子だろう!』エピミーシウスが家を出て行く時、パンドーラはそうつぶやきました。『もう少し勇気があればいいのに!』
パンドーラが来てから、エピミーシウスが彼女を誘わないで出て行ったのは、これが初めてでした。彼は一人で
とにかく、エピミーシウスは、可哀そうに、朝から晩まで、箱のことばかり聞かされるなんて、本当につらい気がしました。殊に、そんな楽しい時代には、地上の子供達も、
エピミーシウスがいなくなったあとで、パンドーラはじっとその箱を見つめて立っていました。彼女はその箱のことを、百遍以上も、
その箱の
顔のうちで一番美しいのは、蓋のまん中に、
もしもその口が物を言ったとしたら、大抵、次のようなことででもあったでしょう。
『こわがるんじゃないよ、パンドーラ! この箱をあけたって何事があるものかね? あの可哀そうな、馬鹿正直のエピミーシウスのことなんか気にすることはないよ! お前さんはあの子より賢いし、十倍も勇気がおありだ。この箱をあけなさい、そして、何か大変きれいなものがありはしないか、見てごらん!』
僕はも少しで言うのを忘れてしまうところだったが、その箱は
『あたし本当に、それがどんな風に出来ているか、分って来た気がするわ、』と彼女は一人で言いました。『いや、あたしはそれをほどいてから、また結び直すことさえ出来そうだわ。ほんとに、それ位なことをしたって、何でもありはしないわ。いくらエピミーシウスだって、それ位なことを怒りはしないでしょう。あたしその箱をあけなくともいいんですもの。そして、もしも結び目がほどけたにしても、あのお馬鹿さんにきかないで、開けたりなんぞしちゃ悪いわ。』
こんな風に始終この一つ事ばかりを考えなくともすむように、彼女にちょっとする仕事でもあるとか、何か考えることでもあるとかした方がよかったのでしょう。しかし、世の中に「わざわい」というものが出て来るまでは、子供達は大変気楽に暮らしていたので、ほんとにあまり暇がありすぎたのです。彼等だって、
しかしよく考えて見ると、この箱はまたこの箱なりに、彼女にとっての一つのめぐみでなかったと言い切るわけにも行かないと思います。それは彼女がいろいろと想像をめぐらして考える材料ともなり、また誰か聞いてくれる人がある時には、いつでも話の種ともなったでしょう! 彼女が機嫌のいい時には、その胴のぴかぴかとした
というのは、箱に何がはいっているかと想像して見ることは、実際きりのない仕事でしたから。本当に、何がはいっているんでしょう? 仮に、家の中に大きな箱があったとして、そんな気がするのも、無理はないことだが、クリスマスかお正月にいただく何か新しい、きれいな物がはいっているらしいとなると、どんなに君達は夢中になっていろいろと頭の中で考えて見るか、まあ君達、想像してごらんなさい。君達はパンドーラみたいにそれを知りたがりはしないと思いますか? もしその箱と一しょに、一人きりでおいておかれたら、ちょっと蓋をあけて見たくなったりしないでしょうか? しかし君達はそんなことはしないでしょうね。おう、馬鹿な。とんでもないことだ! ただ、もしも君達がその中におもちゃがはいっていると思ったら、ちょっと
それにしても、僕達がこうして長いことお話をして来た、この日はまた特別に、彼女の好奇心がいつもより強くなって来て、とうとうその箱に近づいて行きました。彼女は、もし出来たら、その箱をあけてみようと、大方決心していました。どうも、しようのないパンドーラですね!
しかし、最初に、彼女はその箱を持ち上げてみました。それは重かった、パンドーラのような弱い力の子にとっては、まるで重すぎました。彼女はその片端を床から何インチか持ち上げましたが、かなり大きな、どしんという音をたてて、またそれをおろしました。すぐそのあとで、彼女は何だか箱の中でごそごそと動く音がしたように思いました。彼女は出来るだけぴったりと耳をあてて、聴きました。たしかに、中で、何だかぼそぼそとつぶやいているような気がします! それとも、ただ彼女の耳が鳴ってるのでしょうか? 或はまた、彼女の心臓の打つ音でしょうか? パンドーラは本当に何か聞えたのかどうか、自分でもはっきりときめてしまうことが出来ませんでした。しかし、いずれにしても、彼女の好奇心は、いよいよ強くなって来ました。
彼女が頭をもとへ戻した時、彼女の目は、金の紐の結び目にとまりました。
『これを結んだ人は、大変器用な人にちがいないわ、』とパンドーラは一人で言いました。『それでもあたし、それをほどけそうな気がするわ。あたし、せめて、その紐の両はしくらいは見つけなくちゃ。』
そこで彼女はその金の結び目を指につまんで、出来るだけはっきりと、その込み入ったところを調べて見ました。殆どそんなつもりもなく、また何をしようとしているかもはっきりとわきまえないで、彼女はやがて一生けんめいに、それをほどきにかかっていました。そのうちに、明るい日の光が、あけ放した窓から
しかし、その間もずうっと、彼女の指は半分無意識に、しきりとその結び目をいじっていました。そしてふと、この不思議な箱の蓋についた、花の冠をかぶった顔が目についた時、彼女はそれがずるそうに、彼女にむかって歯をむき出して笑っているのを見たような気がしました。
『あの顔はいじわるそうだこと、』と彼女は思いました。『もしかあたしが悪いことをしてるから笑ってるんじゃないかしら! あたしほんとにもう、逃げ出したくなっちゃった!』
しかしちょうどその時、ほんのちょっとしたはずみで、彼女はその結び目をひねるようにしましたが、それが思いもかけぬ結果になりました。金の紐は、まるで魔法をかけたように、ひとりでほどけてしまって、箱は
『こんな変なことって知らないわ!』パンドーラは言いました。『エピミーシウスは何というでしょう? そしてあたし、一体どうしてこれを、もと通りに結べるでしょう?』
彼女は一二度、その結び目をもと通りにしようと、やってみましたが、すぐにそれは彼女の手に合わないということが分りました。それがあんまり、だしぬけにほどけてしまったので、彼女はその紐がお互にどういう風にからみ合せてあったか、少しも思い出すことが出来ませんでした。それからまた、彼女がその結び目の形や様子を思い浮かべようとしても、それがすっかり頭から消えてしまったように思われるのでした。だから、エピミーシウスが帰って来るまで、その箱をそのままにしておくよりほかには、どうにもしようがありませんでした。
『でも、』とパンドーラは言いました、『この紐がほどけているのを彼が見れば、あたしがやったということが分ってしまうわ。でも箱の中は見なかったということを、彼にどういう風にして信じさせたらいいんでしょう?』
それから、彼女の
『出して下さい、パンドーラさん――私達をそとへ出して下さい! 私達はあなたにとって、とてもいい、可愛い遊び相手なんですよ! ちょっと私達を出して下さい!』
『あれは何だろう?』とパンドーラは考えました。『箱の中に何か生きたものがいるのかしら? ええ、ままよ! あたしちょっと一ぺんのぞいてやりましょう! ほんの一度だけ、それから蓋をいつもの通り、ちゃんとしめておけばいいんだわ! ちょっと一ぺんのぞいて見るくらいで、別になんの事もある筈がないわ!』
しかしもうそろそろこの辺で、僕達はエピミーシウスがどうしていたかを見ることにしましょう。
パンドーラが来て、彼と一しょに暮らすようになってから、彼女を入れないで彼が何か面白いことをしようとしたのは、この時がはじめてでした。しかし何をしても、うまく行きませんでした。そしてまた、いつものように楽しくもありませんでした。甘い葡萄も、熟した
とうとう、どうしたものか、何の遊びをはじめても、彼のせいでそれが
ここで僕は、大きな黒雲が少し前から空にわきおこっていたことを言わなければなりません。尤もそれは、まだお日様を
彼はそうっとはいって行きました。というのは、彼は出来ることなら、パンドーラのうしろにしのび寄って、彼が傍へ来たことを彼女がさとらないうちに、花環を彼女の頭に投げかけてやろうと思ったからでした。しかしちょうどその時には、彼は何もそんなに、
しかしエピミーシウスは、あまり箱のことを口に出しては言わなかったが、自分でもやはり、その中に何がはいっているか知りたい気持はあったのでした。パンドーラがいよいよその秘密を知ろうと決心したことが分ると、彼の方でも、この家の中でそれを知っているのがパンドーラだけであってなるものかと思いました。それに、もしもその箱の中に何かきれいなものか、値打のあるものがはいっていたら、彼もその半分は自分がもらうつもりでした。こんなわけで、パンドーラにむかって、好奇心など起してはいけないと、真面目くさってお説教をしておきながら、エピミーシウスは彼女とまるで同じように馬鹿になり、このあやまちについて責任があるという点で彼女とあまり変りはないことになってしまいました。だからわれわれは、この出来事について、パンドーラを責める時にはいつでも、エピミーシウスにむかっても、やはり同じように不満の意をあらわすことを忘れてはならないのです。
パンドーラが蓋を持ち上げた時に、家は大変暗く、陰気になって来ました。というのは、黒雲がもうすっかりお日様をかくしてしまって、まるでそれを
『おう、僕刺されっちゃった!』と彼は叫びました。『僕刺されっちゃった! 意地悪のパンドーラ! どうして君はこのおそろしい箱をあけたんだ?』
パンドーラは蓋をおろして、びっくりして立上り、エピミーシウスの上に何事が起ったのかと、あたりを見廻しました。夕立雲のために、部屋が大変暗くなっていたので、彼女は中のものがあまりはっきりと見えませんでした。しかし何だかとても沢山の大きな蠅か、大きな蚊か、又はわれわれがかぶと虫とかはさみ虫とかいっている虫みたいなものが飛び廻っているような、ぶうんという、いやなうなりが聞えました。そして、彼女の眼が薄暗がりに
さて、その箱から逃げ出したこれらのいやなものは一体何かということを君達が聞きたがるなら、それはこの世の「わざわい」の全一族だったと、僕は答えなければなりません。その中には、悪い「情欲の虫」もいました、とてもいろんな種類の「心配の虫」もいました、百五十以上の「悲しみの虫」もいました、みじめな、いたましい恰好をした、とても沢山の「病気の虫」もいました、それから、「いたずらの虫」の類に至っては、お話にもなんにもならないほどいました。つまり、その時から今日まで、人間の心やからだを苦しめて来たものは、すっかりその秘密の箱の中に閉じ込められていたもので、大切に取っておくようにといって、エピミーシウスとパンドーラとに渡されたのも、世の中の子供達がそんなものに苦しめられることのないようにしたかったからでした。もしも彼等が頼まれた通りにしていたならば、万事都合よく行ったことでしょう。その時から今に至るまで、悲しい思いをする大人もなかったでしょうし、子供達にしたって、涙一滴こぼすわけもなかった筈なんです。
しかし――これで見ても、誰か一人でも間違ったことをすると、世間全体が迷惑するというわけが君達にも分るでしょうが――パンドーラがそのとんでもない箱の蓋をあけたことと、それからまた、エピミーシウスがそれをとめなかったというおちどとによって、これらの「わざわい」がわれわれの間に足がかりを得て、急には追っぱらえそうにもなくなったのです。というのは、君達にもたやすく分る通り、この二人の子供は、そのいやなものの群を、彼等の小さな家から出さないでおくというわけには行かなかったからです。それどころか、彼等はそんなものは早く出て行ってほしかったので、何よりも先に、戸口と窓とをあけ放しました。すると、果して、その翼の生えた「わざわい」達はみんな外へ飛び出して行って、そこいら中の子供達をひどく苦しめ悩ましたので、その後幾日もの間、彼等の誰もが、にこりともしなかったほどでした。それから、大変不思議なことには、これまでどれ一つ
さて、仕方のないパンドーラと、それに負けないくらいのエピミーシウスとは、家の中にじっとしていました。彼等は二人ともひどく刺されて、大変痛かったのですが、それが世界始まって以来感じられた最初の痛さであっただけに、彼等には一層
不意に、箱の蓋を、中から静かに、低くたたく音がしました。
『あれは一体何でしょう?』とパンドーラは叫んで、頭を上げました。
しかしエピミーシウスは、そのとんとんという音が聞えなかったか、それともあんまり腹を立てていたので、それに気がつかなかったのでしょう。とにかく、彼は何とも答えませんでした。
『あんたひどいわ、あたしに口を利かないなんて!』とパンドーラは言って、また
またとんとんと音がします! それは妖精の手の小さな拳骨のような音で、軽く冗談半分みたいに、箱の内側をたたくのでした。
『お前は誰だい?』とパンドーラは、少しまた、前の好奇心を出して尋ねました。『だあれ、このいけない箱の中にいるのは?』
小さな、いい声が中から言いました、――
『蓋をあけてさえ下されば、分りますよ。』
『いや、いや、』とパンドーラは、また
彼女はそう言いながら、多分エピミーシウスが彼女の分別をほめてくれるだろうと思って、彼の方を見ました。しかし怒っているエピミーシウスは、彼女が今から分別を出したって、少し手おくれだ、とつぶやいただけでした。
『ああ、』とその小さな、いい声はまた言いました、『あなたはわたしを出して下さった方が、ずっといいんですよ。わたしは、あんなお尻に
そして、実際この小さな声で頼まれると、どんなことでも何だかことわりにくくなってしまうような、一種の愉快な魅力が、その調子の中に含まれていました。パンドーラの心は、その箱の中から聞えて来る一語々々に、知らず識らず軽くなっていました。エピミーシウスもまた、まだ隅の方にはいましたが、半分こっちを向いて、前よりもいくらか機嫌がよくなっている様子でした。
『ねえエピミーシウス、』とパンドーラは叫びました、『あんたこの小さな声を聞いて?』
『うん、たしかに聞いたよ、』と彼は答えましたが、まだあまりいい機嫌ではありませんでした。『で、それがどうしたんだい?』
『あたしもう一度、蓋をあけたもんでしょうか?』とパンドーラは訊きました。
『そりゃ君の好きなようにするさ、』とエピミーシウスは言いました。『君はもう大変な悪いことをしちゃったんだから、その上もうちょっぴり悪いことをしたっていいだろうよ。君が世間にまき散らしたような「わざわい」の大群の中へ、もう一匹ほかのやつが出て来たところで、別に対したことはありっこないさ。』
『あんた、もう少し親切に口を利いてくれたっていいでしょう!』とパンドーラは、目を拭きながら言いました。
『ああ、しようのない児だねえ!』と箱の中の小さな声は、ずるそうな、笑い出しそうな調子で言いました。『あの児は自分でも、わたしを見たくてならないのは分っているんですよ。さあ、パンドーラさん、蓋をあけて下さい。わたしはあなたを慰めてあげようと思って、大変気が
『エピミーシウス、』とパンドーラは叫びました、『何だってかまわないから、あたし箱をあけて見るわ!』
『じゃ、蓋が大変重そうだから、僕が手伝って上げよう!』とエピミーシウスは叫んで、部屋の向うから駆けて来ました。
こうして、双方承知で、二人の子供はまた蓋をあけました。すると、明るい、にこにこした小さな人が飛び出して来て、部屋の中を舞って歩きましたが、彼女の行くところは何処でも明るく見えました。君達は鏡のかけらで日光を反射させて、暗いところでちらちらさせて見たことはありませんか? とにかく、この妖精のような見知らぬ人が、薄暗い家の中を愉快そうに飛び廻る有様は、そんな風に見えました。彼女がエピミーシウスのところへ飛んで来て、「わざわい」に刺されて赤くなったところを、ちょっと指でおさえると、すぐにその痛みは消えてしまいました。それから、彼女がパンドーラの
こうした親切をつくしてくれたあとで、その光を帯びた見知らぬ人は、愉快そうに子供達の頭の上を飛び廻って、大変やさしく彼等を見たので、彼等は二人とも、箱をあけたことはそう大して悪くもなかったという気がして来ました。というは、もしもあけていなかったら、このうれしい訪問者までが、あのお尻に
『美しい方、一体、あなたは誰なの?』とパンドーラは尋ねました。
『わたしを「
『あなたの翼は、虹のような色をしてるわねえ!』とパンドーラは叫びました。『まあ、なんて美しいんでしょう!』
『ええ、虹みたいでしょう、』ホウプは言いました、『何故かといえば、わたし陽気なたちなんですけど、にこにこしているだけじゃなくて、少しは涙をこぼすこともあるんですから。』
『そしてあなたは、いつまでもいつまでも、あたし達のところにいて下さる?』とエピミーシウスは尋ねました。
『あなた方がわたしに用がある間はいつまでも、』とホウプは、気持のいい笑顔をして言いました、――『つまり、あなた方がこの世に生きているかぎりということになるでしょうね、――わたしは決してあなた方を見捨てて行かないことを約束しますよ。時により、季節によっては、時々わたしが全然逃げてしまったのかと思うようなことがあるかも知れません。しかし、多分あなたが思いもかけないような時に、ひょっこり、ひょこりと、わたしの翼の光があなた方の家の天井に見えて来るでしょう。本当ですよ、わたしの大好きな子達、そしてわたしはこれから先あなた方がいただくことになっている大変いい、美しいものを知っているんですよ!』
『おう、聞かして下さい、それが何だか聞かして下さい!』と彼等は叫びました。
『訊いてはいけません、』とホウプは、薔薇色の口に指をあてて言いました。『しかし、万一あなた方がこの世にいるうちにそんなことがなくても、気を落してはいけません。わたしの約束を信じて下さい、それは本当なんですから。』
『私達はあなたを信じます!』とエピミーシウスとパンドーラとは、二人一しょに叫びました。
そして彼等は本当にホウプを信じました。いや、彼等ばかりでなく、その後この世に生れ出た人は、誰でもその通りホウプを信じました。そして、実際のことをいうと――(たしかに彼女がそんなことをしたのは、とても悪かったには違いないにしても)――僕は馬鹿なパンドーラが箱の中をのぞいて見たということを喜ばずにはいられないのです。そりゃもう――たしかに――「わざわい」が今もなお世の中を飛び廻っていて、
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タングルウッドの遊戯室
――話のあとで――
『プリムロウズ、』とユースタスは、彼女の耳をつねりながら訊いた、『どう、この小さなパンドーラって子は気に入ったかい? 彼女はまるで君そっくりだと思わない? しかし君なら、その箱をあけるのに、そんなにぐずぐずしてやしないだろうねえ。』
『もしあけていたら、あたしそのわるさのために、随分ひどい目にあっていたでしょう。だって、蓋をあけると、
『ユースタスにいさん、』スウィート・ファーンが言った、『その時からこの世界に来たいやなものは、みんなその箱にはいっていたんですか?』
『何から何まではいっていたのさ!』ユースタスは答えた。『僕のスケート遊びを出来なくしてしまったこの吹雪も、やっぱりその中につめ込まれていたんだ。』
『そして、その箱はどれくらいの大きさだったんですか?』スウィート・ファーンは訊いた。
『そうさ、長さは三フィートもあったかなあ、』ユースタスは言った、『幅は二フィート、高さは二フィート半といったところだね。』
『ああ!』とスウィート・ファーンは言った、『僕をからかってるんだね、ユースタスにいさん! 僕はそんな大きな箱に一杯になるほども、いやなことが世界にありはしないってことは分ってるよ。それに、吹雪なんて、ちっともいやなことじゃなくって、面白いことだい。だから、その箱にはいっている筈はないやい。』
『まあ、あの児のいうことったら!』プリムロウズは姉さんぶって叫んだ。『世の中の苦労なんて、てんで知らないんですものねえ! 可哀そうに! あの子もあたしほど世間を見て来たら、も少しかしこくなるでしょう。』
そう言って、彼女は縄跳びをはじめた。
そのうちに日が暮れかかって来た。戸外の風景はたしかに淋しかった。濃くなってゆく夕闇の中を、遠く広く、灰色に雪がふりつもっていた。中空と同じように、地上には道も何も見えなかった。玄関の階段に高くつもった雪で、幾時間もの間誰も出入りした者がないことが知られた。もしも子供がただ一人でタングルウッドの窓際に立って、この冬景色に見入っていたとしたら、おそらく悲しくなったであろう。しかし、子供が五六人も集まると、たとえ世界をすっかり楽園に変えてしまうことは出来ないまでも、
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タングルウッドのいろりばた
――「三つの金のりんご」の話の前に――
朝飯がすむとすぐに、みんなそろって、毛皮や外套をうんと着込んで、雪の中へめちゃくちゃに飛び込んで行った。これはまた、寒中あそびには、なんというおあつらえむきの日であったろう! 彼等は、幾度も幾度も、丘の上から谷にむけて、どこまで飛んで行ってしまうか分らないほど滑った。その上更に愉快だったことには、底まで無事に着く度に、
彼等が丘から滑り降りることにも飽きて来た時、ユースタスは子供達に、その辺の一番大きな
そこで彼は逃げ出して、森の中へはいって行った。それからシャドウの谷川の縁へ出た。そこでは、彼は、昼間の光もほとんど
陽もすっかり沈んだ時、われらの友ユースタスは、夕食をするために家へ帰って来た。食事がすんでから、彼は書斎に引取ったが、私の想像では、彼が沈む夕日のまわりに見た、紫や金色の雲をほめたたえるために、一篇の抒情詩か、二三の小曲か、そのほかどんな形式にせよ、とにかく詩を作るつもりであったのだと思う。しかし、彼が最初の詩句もまとめ上げないうちに、扉があいて、プリムロウズとペリウィンクルとが現れた。
『君達、むこうへ行ってらっしゃい! 僕は今君達にかまっていられないんだ!』その学生はペンをもったまま、肩越しにふりかえって、そう叫んだ。『一体ここに何の用があるんだ? 君達はもうみんな寝たと思っていたのに!』
『ペリウィンクル、まあどうでしょう、にいさんがまるで大人みたいな口のきき方をして!』とプリムロウズは言った。『そして、にいさんはあたしがもう十三にもなって、大方自分の好きなだけ起きていたっていいんだってことを忘れているらしいわ。しかし、ユースタスにいさん、あなた気取ることは
『ちぇっ、ちぇっ、プリムロウズ!』と学生は少し腹を立てて叫んだ。『僕はああいう話を大人の前でちょっとやれないなあ。それに君んとこのお父さんは、古典を知っていらっしゃるだろう。しかし別にお父さんの学問をおそれるわけじゃないよ。というのは、それはもうとっくに、古い
『それはみんな本当かも知れないわ、』プリムロウズは言った、『でも来なくちゃいけないことよ! あなたうまいことをおっしゃったけど、そのあなたのナンセンスというのを、少しみんなに聞かせて下さらないうちは、お父さんは本を開こうとなさらないし、お母さまはピアノをあけようとなさらないんですもの。だから、おとなしくついていらっしゃい。』
どんな顔をして見せたにせよ、その学生は、よく考えてみると、古代の神話を現代風につくりかえる彼の立派な腕前はこんなものだということを、プリングル氏の前で実地に見せる機会が出来たことは、いやなどころか、寧ろ嬉しいくらいだった。実際、青年は、
それは大きな、立派な部屋で、一方の端に半円形の窓があって、そこの壁の凹んだところに、グリーナウ作の「天使と小児」の大理石の複製が飾ってあった。いろりの一方の側には、
プリングル氏は随分とやさしく学生の方を振り向いたのであったが、それでも学生の方ではその態度に
『ユースタス、』とプリングル氏は微笑を浮かべて言った、『君は話の腕前のいいところを見せて、タングルウッドの子供達の間で、大変評判になっているそうだね。この子――子供達仲間じゃプリムロウズといってるそうだが――それからほかの子供達もみんな、あまりやかましく君の話をほめるんで、家内とわたしとも、是非その見本を一つ聞いてみたくなったんだがね。殊にそれが、ギリシャ、ローマの古い寓話を現代的な空想や感情を
『こうした気まぐれな想像でやっている話を、おじさんなんかに聞かれるのは、ちょっと困るなあ、』と学生は言った。
『そうかも知れない、』プリングル氏は答えた。『しかし、一番苦手だという気がする人こそ、若い作家にとって最も有難い批評家じゃないかとわたしは思うんだが。だから、是非わたしに聞かしてくれたまえ。』
『同情ということも、批評家の資格として、多少なくてはならないと僕は思うんです、』ユースタス・ブライトは、つぶやくように言った。『しかし、おじさん、辛抱して聞いて下さるなら、僕話を考えましょう。しかし、僕は子供達の想像と共鳴とを目やすとして話すのであって、おじさんにむかって話すんじゃないということを、頭においといていただきたいんです。』
そこで、学生は心に浮かんだ最初の
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三つの金のりんご
ヘスペリディーズの庭になっていたという
そして、ヘスペリディーズの庭がまだ雑草で蔽われていなかった、古い、古い、半分忘れられてしまったような昔でさえも、たいていの人達は、中まで
僕なんかから見ると、中まで金の林檎だからといって、それほどの危険をおかす値打はなさそうに思います。それがまた、実においしい、やわらかい、おつゆのたっぷりある林檎だったら、話は別です。その時には、たとえ百の頭を
しかし、前に言った通り、あまり長い平和と休息にあきて来ると、ヘスペリディーズの庭を捜しに行くということが、青年達には全く普通のことだったのです。そして
そうして、彼はやはり同じことを訊きながら、どんどん旅をつづけて、とうとうおしまいに、或る河の縁へ来ました。そこには幾人かの美しい若い女達が坐って、花環をあんでいました。
『可愛らしい娘さん達、ちょっとうかがいますが、ヘスペリディーズの庭へは、この道を行けばいいのでしょうか?』とその見知らぬ人は尋ねました。
その若い女達は、花を輪にあんで、お互の頭にかぶせ合って、みんなで楽しく遊んでいたのでした。そして彼等の指には、一種の不思議な力があると見えて、彼等がもてあそんでいると、花はもとの茎に咲いていた時よりも、よけいにいきいきと水気を含んで、色合いも一層あざやかに匂いも更に強くなるのでした。しかし、その見知らぬ人の質問を聞くと、彼等は花をみんな草の上に取り落して、おどろいて彼を見つめました。
『ヘスペリディーズの庭ですって!』と一人が叫びました。『あんなに幾度も失敗したんだから、人間はもうその庭を捜すのはいやになったんだろうとあたし達は思っていましたわ。そして、冒険好きの旅の方、一体あなたはその庭へ行って、どうなさろうというの?』
『僕のいとこに当る、或る王様が、金の林檎を三つ取って来いと僕に言いつけたんです、』と彼は答えました。
『あの林檎を捜しに来る若い男の人達は、たいてい、自分でそれがほしいか、でなければ、好きなきれいな娘さんに上げたがるんだけどねえ、』と今一人の若い女が言いました。『それじゃ、あなたは、いとこの王様がそんなにお好きなんですか?』
『あまり好きでもないんです、』とその見知らぬ人は、溜息をつきながら答えました。『彼は度々僕に対して、つらく、ひどく当るのです。しかし、彼に従うのは僕の運命です。』
『そしてあなたは、百の頭を
『ようく知っています、』と見知らぬ人は静かに答えました。『しかし、小さい時から、毒蛇や竜を相手にすることは、僕の仕事みたいな、いや、ほとんど楽しみみたいなものでした。』
若い女達は彼の大きな棍棒と、彼の着ているもじゃもじゃの獅子の皮と、それからいかにも勇士らしい彼の手足や
『お帰りなさい、』彼等はみんなで叫びました。『御自分のおうちへお帰りなさい! あなたのお母さまは、あなたの無事息災な姿を見て、うれし涙にくれるでしょう。たとえあなたが竜に勝って帰ったところで、お母さまがそれ以上お喜びになれるわけはないでしょう。金の林檎なんか、どうだっていいじゃありませんか! あなたのひどいいとこの王様なんか、かまうものですか! あたし達は、百の頭をしたあの竜なんかに、あなたをたべさせたくないのです!』
見知らぬ人は、こんな風にいろいろといさめられて、じれったくなって来た様子でした。彼は何の気もなく、彼の大きな棍棒を上げて、その辺の、半分土に埋まった石の上にどんとおろしました。そうして何の気もなしに、とんとやっただけで、その大きな石はがらがらにこわれてしまいました。こうした巨人のような力わざをやるにも、その見知らぬ人には、娘達の一人が、花で姉妹の頬をなでるほどの力しか要らなかったのでした。
『こんな風にどんとやると、その竜の百の頭の一つくらいは、ぺしゃんこになると思いませんか?』と彼は、にこやかに娘達を見ながら言いました。
それから彼は草の上に坐って、彼の身の上話、といっても、最初彼が戦士の真鍮の盾の上で育てられてからこの方、おぼえているだけのことを彼等に話しました。彼が盾の上にねていた時、二疋の大きな毒蛇が
『だって、ヘスペリディーズの竜には、百も頭があるんですよ、』と娘達の一人が口を入れました。
『それでも、』と見知らぬ人は答えました、『僕は、そんな竜が二疋でかかって来ても、ハイドラ一疋よりも、
娘達は話が大分長くなりそうだということを察して、見知らぬ人がおしゃべりの間にとって食べられるように、パンと葡萄との食事を用意していました。彼等は喜んでこの簡単な食事を彼にすすめました。そして、彼一人でたべるのがきまりが悪いといけないからというので、娘達も時々、おいしい葡萄をつまんで、薔薇色の口に入れました。
旅の人はつづいて、彼が一年間ぶっ続けに、息を入れるために休みもしないで、大変足の速い牡鹿を追っかけて行って、とうとうその
『そんなことが大した手柄だとおっしゃるんですか?』と若い娘の一人が笑いながら訊きました。『田舎のどんなお百姓だって、それ位なことはしますわ!』
『もしもそれが普通の厩だったら、僕はなにもわざわざこんな話をしやしませんよ、』と見知らぬ人は答えました。『しかしそれはとても大仕事で、もしも僕が川の流れを、その厩の入口へ向けるといううまいことを考えなかったら、その掃除に一生かかったかも知れません。ところが、川のおかげで、すぐ掃除が出来てしまったのです!』
美しい娘達がいかにも熱心に聞いているのを見て、彼は次には、幾羽かの怪鳥を射落したこと、野牛を
『それは女達を美しくするヴィーナスの帯ですか?』と、娘達のうち一番きれいな子が尋ねました。
『いいえ、』と見知らぬ人は答えました。『それはもと、ローマの軍神マアスが剣をつるしていた革帯です。ただ、それを締めると、勇気と元気とが出るのです。』
『剣をつっていた帯のお
『そりゃそうでしょう、』と見知らぬ人は言いました。
なお彼は驚くべき話をつづけて、今までの冒険のうちで一番変っていたのは、六本足の男ヂェリオンと
六本の足と大きなからだ一つ! たしかに、彼は見るも奇妙な怪物だったにちがいありません。それにまあ、どんなに靴の皮がへったことでしょう!
見知らぬ人は彼の冒険談を終った時、熱心に聞いていた娘達の顔を見廻しました。
『多分あなた方は、僕のことをこれまでに聞いたことがあるでしょう、』と彼は別に威張りもしないで言いました。『僕の名はハーキュリーズというんです!』
『さっきから見当がついていましたわ、』と娘達は答えました、『だって、あなたのめざましい働きは世界中に知れ渡っているんですもの。もうあたし達は、あなたがヘスペリディーズの金の林檎を捜しにお出かけになるのを、変だなんて思いませんわ。さあ、みんな、この勇士に花の冠をかぶらせましょう!』
そこで彼等は美しい花環を、彼の立派な頭と大きな肩との上に投げかけたので、獅子の皮は殆どすっかり薔薇におおわれてしまいました。彼等は彼の重い棍棒を取って、この上もなくきれいな、やさしい、匂いのいい花をそのまわりに巻きつけたので、中の樫の木は指の幅ほども見えなくなってしまいました。何のことはない、まるで大きな花束のようでした。おしまいに、彼等は手をつないで、彼のまわりを踊りながら歌いましたが、その言葉はおのずから詩となり、天下に鳴り響くハーキュリーズをほめたたえる合唱となって行きました。
ほかのどんな勇士だってそうでしょうが、ハーキュリーズも、これらのきれいな娘達が、彼が大変骨を折り、あぶない目にもあって、なしとげた勇ましい行いを聞いて知っていてくれたことを、うれしく思いました。しかし、まだまだ、彼は満足していませんでした。彼はまだほかにやるべき、勇気の
『娘さん達、』彼等が息を入れるために休んだ時、彼は言いました、『あなた方が僕の名前を知ったからには、ヘスペリディーズの庭へはどう行っていいのか、僕に教えてくれませんか?』
『ああ、そんなにお急ぎにならないといけないんですか?』と彼等は叫びました。『あなた――そんなに沢山すばらしいことを仕遂げ、そんなに骨の折れる月日を送っていらしって――少しはこの静かな川の縁でお休みになる気にもなれないんでしょうか?』
ハーキュリーズは頭をふりました。
『僕はもう出かけなくてはなりません、』と彼は言いました。
『それじゃ、あたし達出来るだけくわしくお教えしましょう、』と娘達は答えました。『あなたは海岸へ出て、「
『「
『そして、一体その「
『あーら、あの「海の老人」にきまってるじゃありませんか!』と娘の一人が答えました。『彼には五十人も娘があって、その娘達は大変美人だといってる人もあります。しかしあたし達は、その娘と知合いになることはよくないと思っています。なぜって、その人達は、海のように青い髪の毛をして、からだがおさかなみたいにすぼまっているんですもの。とにかく、あなたはこの「海の老人」と話をしなくてはなりません。彼は船乗り
そこでハーキュリーズは、どの辺へ行けば、一番その「
しかし、彼がまだ声が届かないほど遠くへ行かないうちに、娘の一人が、うしろから彼に呼びかけました。
『「
ハーキュリーズは重ねて彼女に礼を言って、旅をつづけました。一方娘達の方は、また楽しい花環つくりの仕事をやり出しました。彼等はハーキュリーズが行ってしまった後も、長い間彼の噂をしました。
『あの方が百の頭をもった竜を退治て、三つの金の林檎を持ってここへ帰っていらしったら、あたし達の一番美しい花環をかぶらせて上げましょうよ、』と彼等は言いました。
その間に、ハーキュリーズは、丘や谷を越え、淋しい森を抜けて、どんどん旅をつづけました。時々彼は棍棒を高く振り上げて、樫の大木を一打ちでたち割ってしまいました。巨人や怪物と
ちょうどその森を通り合せた人は、彼が大きな棍棒で木を打っているのを見て、びっくりしたにちがいありません。ただ一打ちでもって、幹は雷にうたれたように裂け、大きくひろがった枝は、ざわざわと音を立てて、崩れるように落ちて来ました。
彼は少しも立止ったり、あとをふりかえったりしないで、どんどん先を急ぐうちに、やがて遠くから
しかし、それは実際、間違いなく老人だったでしょうか? たしかに、ちょっと見ると、それはいかにも老人のようでした。しかしもっとよく見ると、それはむしろ、何か海に棲んでいる動物みたいでした。というのは、彼の脚や腕には、魚にあるようなうろこがありました。彼は足や手に、家鴨みたいなみずかきがついていました。そして彼のあごひげは、緑色をしていて、普通のあごひげというよりも、一束の海藻のように見えました。君達は船材の
そうです。これこそあの親切な娘達が彼に話して聞かせた「海の老人」にほかならなかったのでした。ちょうどうまく、その老人が眠っているところを見つけるなんて、自分はよほど運がいいのだと喜びながら、ハーキュリーズはしのび足で彼の方へ近づいて行って、彼の腕と脚とをつかまえました。
『ヘスペリディーズの庭へは、どう行けばいいか、教えてくれ、』老人がまだよく目もさまさないうちから、彼はそう叫びました。
君達にもたやすく想像がつく通り、「
ここでことわっておき
しかし、ハーキュリーズがどうしても手をはなさず、「
『一体、あなたはわたしにどんな御用があるんです?』「
『僕の名はハーキュリーズというのだ!』と、力持の見知らぬ人は割れるような声で言いました。『君がヘスペリディーズの庭への一番の近道を教えてくれるまでは、決して手を放してやらないぞ!』
老人は彼を
『あなたは、こう行って、こう行かなくてはなりません、』と、「海の老人」は方角をしらべてから言いました、『するとおしまいに、大空を肩にしょって立っている大変背の高い巨人が見えてくるでしょう。そして、その巨人は、もしも、上機嫌だったら、ヘスペリディーズの庭がちょうどどの辺にあるか、あなたに教えてくれるでしょう。』
『そして、もしもその巨人が機嫌の悪い時にぶっつかっても、』と、ハーキュリーズは彼の棍棒を、指の先に、天秤みたいに平均をとって乗せながら言いました、『多分僕は、何とかして彼に言わせるよ!』
「海の老人」にお礼を言い、又彼をあんなに乱暴に締めつけたことを詫びて、その勇士はまた、旅をつづけました。彼は実に沢山の変った冒険に出遇いました。それは詳しく話す値打があるもので、もしもそうしている時間さえあれば、君達にも十分聞きごたえがあると思うのですが。
神様が実にうまく工夫して、地べたにつく度に前より十倍も強くなるという、おそろしい巨人をおつくりになっていましたが、ハーキュリーズがそれに出くわしたのは、たしかにこの旅行の時でした。その巨人の名前は、アンティーアスといいました。そんな男と
この
彼の前には、泡立ち、湧き返る、かぎりない大海のほか、何もありませんでした。しかし、彼が水平線の方を見ると、ずうっと遠くに何か、ふと目についたものがありました。それは大変きらきらと輝いて、まるでちょうど地のはてに、昇るか落ちるかする円い太陽を見るようでした。それはたしかに、だんだんと近づいて来ました。というのは、この不思議な物は、刻一刻と大きくなり、光を増してくるからです。とうとうそれが大変近くなったので、ハーキュリーズは、それが金か又はよく磨いた真鍮で出来た、大きなお椀かお鉢だということが分りました。それがどうして海へ流れて来たかということは僕も知りません。とにかく、それは立騒ぐ大波にもまれていました。しかし波はそれを上下にゆりうごかして、泡立った
『僕は今まで 沢山の巨人を見て来た、』とハーキュリーズは考えました、『しかし、こんな大きな椀で酒を飲まなければならないほどの巨人を見たことはない。』
そして、本当に、それはどんなに大きな椀だったことか知れません! それはとても――とても大きくて――いやしかし、つまるところ、僕はそれがどんなに途方もなく大きかったかを言いかねる位です。内輪にいっても、それは大きな水車の輪の十倍もあったでしょうか、そして、全部が
そうなるとすぐに、彼はどうすればいいかが分りました。というのは、彼は今までに幾つとなくめざましい冒険を仕遂げて来たので、何か少しでも普通と違ったことが起った時には、いつでもそれに応じた処置のとり方を相当よく心得ていたからです。このおそろしく大きな椀が、ハーキュリーズを乗せて、ヘスペリディーズの庭へと海を渡って行くために、何か目に見えない力によって海に浮かべられて、こちらへ流されて来たのだということは、火を見るよりも明らかでした。そこで、すぐさま、彼は縁を乗り越えて、その中にすべり込み、そこに獅子の皮を敷いて少し横になって休むことにしました。彼はあの川の縁で娘達に別れてからというものは、今までほとんど休まないで来たのでした。彼はうつろな椀のまわりに、こころよい、響のいい音を立ててぶっつかりました。椀は軽くゆらゆらと揺れて、その動揺があまりいい気持なので、ハーキュリーズは揺られながら、たちまちこころよいねむりにさそわれて行きました。
彼のうたたねが相当長くつづいたと思ううちに、彼の乗っている椀が、一つの岩に触れて、そのために、金か真鍮か、とにかくその椀が出来ている
いいえ、なかなか見当がつかないでしょう。たとえ五万たび言って見たところで、当らないでしょう! 僕にもこれは断然、彼の驚くべき旅と冒険との全行程のうちで、ハーキュリーズが今までに見た一番驚くべき光景だったと思われます。それは、切られるとすぐ倍になって生えて来る九つの頭を
しかし、お話にもなんにもならないような巨人だったのです! 山のように高い巨人で、あまり大きいので、雲がおおよそ彼の腰のあたりにかかって、帯をしめたように見えたり、白いあごひげみたいに頤の下にかかったりしました。また彼の大きな眼の前も通って行くので、彼はハーキュリーズも、その乗っている金色の椀も見えませんでした。それに、何よりもおどろくべきことには、その巨人は彼の大きな手をさし上げて、空を
その間に、きらきら光った椀は、前へ前へと流れて、とうとう岸に着きました。ちょうどその時、風が巨人の顔の前から雲を吹きのけたので、ハーキュリーズはとても大きな目鼻立ちをしたその顔を見ました。両方の眼はそれぞれ向うの湖ほどもあり、鼻の長さは一マイル、それから口の幅も同じくらいありました。それは何分にも大きいので、恐しくはありましたが、何だか
可哀そうに! 彼は明らかに、長い間そこに立っていたのです。古い森が、彼の足のまわりにだんだん成長して、まただんだんと朽ちて行きました。どんぐりから芽を吹いた、六七百年もたった樫の木が、彼の足の指の間から無理に生えていました。
折しもその巨人は、とても高いところにある彼の大きな眼から、下の方を見おろしました。そしてハーキュリーズをみとめて、ちょうど彼の顔から吹きのけられたばかりの雲の中から鳴り出す雷の音かと思われるような声で、吼え出しました。
『わしの足もとにいる奴は誰じゃ? そしてお前は、あの小さな椀に乗って、どこから来たのじゃ?』
『僕はハーキュリーズだ!』その勇士は、巨人の声と大方同じ位な、いや、全くそれに負けない位な大きな声で、どなり返しました。『そして僕は、ヘスペリディーズの庭を捜しているのだ!』
『ほう! ほう! ほう!』巨人はびっくりするほど大きな声で、吼えるように、笑い出しました。『それはまことに結構な冒険じゃのう!』
『結構でなくってどうする?』ハーキュリーズは、巨人の冗談に少しむっとして叫びました。『僕が百の頭をもった竜をこわがっているとでも思うのか!』
こうして彼等が話をしている折しも、いくつかの黒雲が巨人の腰のまわりに集まって来て、かみなりといなずまとの大変な嵐となり、あまりやかましくて、ハーキュリーズには、相手の言葉が一ことも聞き取れませんでした。ただ巨人のどれ位あるとも分らないような足が、暗い嵐の中に、にゅっと立っているのが見えるだけです。そして、もうもうとした雲に包まれた彼の全身が、時々、ちらっちらっと目に
とうとう、嵐は来る時と同じように、突然晴れ上ってしまいました。そして、からりとした空や、うんざりしながらそれをさし上げている巨人や、それから気持のいい日の光が高い高い彼の上からさして、陰気な夕立雲を背景として彼の姿を明るく照らし出しているのが、また見えて来ました。彼の頭は夕立よりもはるか上の方にあったので、髪の毛一筋にも、雨のしずくはかかっていませんでした!
巨人はハーキュリーズがまだ海岸に立っているのを見ると、彼にむかって、また怒鳴り出しました。
『わしはこの世で一番力の強い巨人アトラスじゃ! そして、わしは空を頭の上に乗せているのじゃ!』
『そうのようだね、』ハーキュリーズは答えました。『ところで、君は僕にヘスペリディーズの庭へ行く道を教えてくれないかね?』
『そこに何の用があるじゃ?』巨人は訊きました。
『僕は、いとこの王のために、金の林檎を三つ取りたいんだ、』ハーキュリーズは大声で言いました。
『ヘスペリディーズの庭へ行って、金の林檎をもげる者は、わしのほかに誰もない、』巨人は言いました。『この、空を持ち上げているという小仕事さえなければ、わしが海を
『それはどうも御親切に、』ハーキュリーズは答えました。『そして、君は空をその辺の山の上にちょっと
『それほど高い山が一つもないんだ、』アトラスは、首を振りながら言いました。『しかし、もしもお前があの一番近い山の上に立てば、お前の頭はどうかこうかわしの頭と同じ高さになるだろう。お前はいくらか力のある男らしいな。わしがお前の使いをしてやる間、わしの荷物をお前の肩に乗せていてくれたらどうじゃ?』
よく覚えていてほしいんですが、ハーキュリーズは大した力持でした。そして、空を支えるには、大変な筋力が
『空って大変重いかしら?』彼は尋ねました。
『さようさ、はじめのうちは、別にそんなでもないね、』巨人は肩をすぼめながら答えました。『しかし、千年も持っていると、多少重くなって来るね!』
『そして、君が金の林檎を取って来てくれるのに、どれくらい時間がかかるだろう?』勇士は尋ねました。
『ああ、それはちょっとの間で出来るんだ、』アトラスは叫びました。『わしは
『それじゃ、まあ、』ハーキュリーズは答えました、『僕はあの、君のうしろの山に登って、君の荷物を持っててあげよう。』
実際のところ、ハーキュリーズは親切な心の持主だったので、こうして一度散歩に出る機会をあたえてやれば、巨人に対して大変いいことをしてやることにもなると考えました。その上また、単に百の頭の
それが無事にすむと、巨人はまず第一に、のびをしました。その時の彼がどんなに大した見ものだったかは、君達も想像出来るでしょう。次に、彼は一方の足を、そのまわりに生えた森から、ゆっくりと上げました。それからまた、他の足を上げました。それから、自由になったうれしさに、突然、跳ねまわったり、飛び上ったり、踊ったりし始めました。空中どれくらい高く飛び上るものやら見当もつかない位で、また不器用にどんと落ちて来ると、大地がぶるぶるっと震えました。それから――ほう! ほう! ほう!――と笑い出しましたが、それが、あちこちの山々にこだまして、雷のように鳴りひびくので、まるで巨人にそれだけの兄弟があって、みんなで喜んでいるのかと思われるくらいでした。彼の嬉しさが少し静まった時、彼は海の中へ足を踏み入れました。最初の
ハーキュリーズは、巨人がまだまだ向うへ進んで行くのをじっと見ていました。というのは、この大きな人間の恰好をしたものが、三十マイル以上も向うの方で、腰まで海の中へはいって、それでもまだ上半身が、まるで遠くの山のように高く、かすんで、青く、見えているのは、実にあきれるばかりだったからです。その大きな姿は、だんだんぼんやりして来て、おしまいには、すっかり見えなくなってしまいました。こうなると、ハーキュリーズは、もしもアトラスが海に溺れるとか、ヘスペリディーズの金の林檎をまもっている百の頭をした竜に咬まれて死ぬとかした場合には、どうしたものだろうと、心配になって来ました。もしも何かそうした不幸が起ったら、一体この空という荷物を、どうしておろすことが出来るでしょうか? それに、もうそろそろ、空の重みが、彼の頭と肩とに少々こたえて来たのでした。
『本当にあの気の毒な巨人は可哀そうなものだ、』とハーキュリーズは思いました。『十分間で僕がこんなにひどくくたびれるんだから、千年の間もこうやっていた彼は、どんなにくたびれたことか、思いやられる!』
おう、可愛い小さな君達よ、君達には、われわれの頭の上に、あんなにやんわりと、軽そうに見えているあの青空がどんなに重いものか、見当もつかないでしょう! それにまた、
それから、遠く海の向うの端に、巨人の大きな姿が、雲のように見えて来て、彼が何ともいえないほど嬉しく思うまでに、どれ位の時間がたったか、僕は知りません。とにかく、アトラスはもっと近づいてから、手を上げましたが、ハーキュリーズはその手に、一本の枝に垂れた、
『よく帰って来てくれたね、』声が届くほどのところへ巨人が来た時、ハーキュリーズは叫びました。『で、金の林檎を取って来てくれたんだね?』
『そう、そう、』アトラスは答えました、『そして、なかなかいい林檎だよ。ほんとに、わしはあの木になっているうちで、一番立派なのを取って来たんだから。ああ! ヘスペリディーズの庭って、美しい所だ。そう、それから百の頭をした蛇は、誰でも一ぺん見とく値打はあるねえ。何といっても、お前は自分で林檎を取りに行った方がよかったぜ。』
『そんことはどうだっていいよ、』ハーキュリーズは答えました。『君は気持よく散歩して来たんだし、それに僕が行っても同じで、用は足りたんだから。お
『どうも、そいつは、』と、巨人は金のりんごを空中へ二十マイルかそこいら、ぽいとほうり上げてまた落ちて来るところを受けとめながら、言いました、――『そいつは、お前、少しお前の方が無理だと思うんだがね。わしの方がお前よりもずっと早く、お前のいとこの王様のところへ、金の林檎を持って行けはしないかね? 陛下がそんなにお待ちかねなんだから、わしは出来るだけ大股で行くことをお前に約束するよ。それにまた、わしはちょっと今のところ、空を
そこでハーキュリーズは、じれったくなって来て、大きく肩をすぼめました。もうそろそろ暗くなりかかっていたので、その場にいたら、お星様が二つ三つその座からころがり出すのが見えたでしょう。地上の人はみんなびっくりして上を向いて、次には空が落ちて来はしないかと思いました。
『おう、そんなことをしちゃいけない!』巨人アトラスは、大きな声で吼えるように笑って言いました。『わしはこの五百年間にだって、そんなに沢山の星を落っことしはしなかったよ。わしほど長い間そこに立っているうちには、お前も辛抱というものを覚えて来るようになるだろう!』
『なんだと!』ハーキュリーズはひどく腹を立てて叫びました、『君は僕にいつまでも、この重いものを
『そのことについちゃ、いずれ日を改めて相談するとしよう、』巨人は答えました。『いずれにしても、お前は、もしもこの先百年、いやどうかすると千年もそれを背負っていなければならないことになっても、不平を言っちゃいかん。わしは背中が痛かったのに、それよりも大分長く背負ってたからなあ。まあ、その上で、千年もたって、もしもわしの気が向くようなことがあったら、また交代することになるかも知れない。お前はたしかに、大変強い男だ、そして、それを証明するのに、決してこれ以上の機会はありっこないよ。後世の語り草になること
『ちぇっ! 後世の語り草なんか、ちっともありがたくないや!』ハーキュリーズは、もう一ぺん肩をしゃくりながら叫びました。『ほんとにちょっとの間でいいんだから、空を君の頭に乗っけといておくれよ、ねえ、いいだろう? 重みのかかるところへ、獅子の皮を当てたいんだよ。重みで肩や背中が赤むけになって、何百年もここに立ってる間には、よけいな痛い目をすることになるからね。』
『そりゃ尤もだ。わしが持っててあげよう!』と巨人は言いました。というのは、彼はハーキュリーズに対して、別に不親切な気持はなく、ただ自分で
ああ、この巨人のじいさん、総身に智恵が廻りかね、というところです! 彼は金の林檎を
そして、その巨人は、
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タングルウッドのいろりばた
――話のあとで――
『ユースタスにいさん、』大きな口をあけて、話手の足のところに坐っていたスウィート・ファーンが訊き出した、『その巨人の背の高さは、本当にどれくらいあったの?』
『おう、スウィート・ファーン、スウィート・ファーン!』と学生は答えた、『僕がその場にいて、彼を物差で計ったとでも思うのかい? でも、君がもしも是非くわしいところを知りたいというんなら、まあ、まっすぐに立って三マイルから十五マイル、そして、タコウニック山に腰かけて、モニュメント山を足置台くらいにはしただろうと思うね。』
『おやまあ!』その可愛い小さな男の子は、満足したように喉を鳴らしながら叫んだ、『ほんとに、それじゃ巨人だなあ! そして彼の小指はどれくらいあったの?』
『タングルウッドから、あの湖まではあったさ、』ユースタスは言った。
『ほんとに、それじゃ巨人だなあ!』スウィート・ファーンは、こうして長さがはっきりと分ったので、嬉しくてたまらないといったように、また叫んだ。『そして、ハーキュリーズの肩幅は、どれくらいあったのかなあ?』
『そればかりは、僕にもどうもわからないよ、』学生は答えた。『しかし、僕のよりも、君のお父さんのよりも、また
『僕ね、』スウィート・ファーンは、学生の耳に彼の口をくっつけるようにして、小さな声で言った、『巨人の足の指の間から生えた樫の木に、どれくらい大きなのがあったか、聞きたいんだけど。』
『それらは、キャプテン・スミスの家の向うにある、大きな栗の木より、まだ大きかったさ、』ユースタスは言った。
『ユースタス、』とプリングル氏は、しばらくじっと考えたのち、言い出した、『わたしはこの話に対して、作者としての君の誇りを少しでも満足させそうな意見を吐くことは出来ないねえ。どうもわたしは、君にもうこれ以上、古典の神話に手を出さないように、忠告したいんだ。君の想像は、全然
『僕はその巨人を、自分の思った通りに話しただけです、』学生は少々腹を立てて答えた。『そして、おじさん、もしもあなたがギリシャ神話をつくり変えるために必要なような心構えになって、それらに臨んでさえ下されば、古代のギリシャ人だけに独占権があるわけではなく、現代のアメリカ人にだって、やって見る権利があるということが、すぐお分りになるでしょう。ギリシャ神話は全世界の、そしてまた、すべての時代を通じての、共有物です。古代の詩人は、それらを好きなようにつくり変えて、彼等の手でどうにでもしました。それが僕の手にかかって、同じように、自由になってはいけないというわけがあるでしょうか?』
プリングル氏は微笑を抑えることが出来なかった。
『それにまた、』とユースタスはつづけた、『古典の型の中へ、少しでも温い心を、情熱か愛情を、或は人間又は神の道徳を、
『君は、きっと、それを救うために生れて来たというんだろう、』とプリングル氏は言って、からからと笑い出した。『まあ、いいや、これからもつづけてやるんだね。しかし、忠告しとくがね、決して君の滑稽な作りかえを文章に書かないことだ。そして、次の仕事として、アポロウの伝説のうちのどれかを手がけて見たらどうかね?』
『ああ、おじさん、それはちょっと出来そうもないから、そうおっしゃるんでしょう、』学生はちょっと考え込んだのち言った、『そして、成程ちょっと考えると、
以上の議論がつづいている間に、その中の一言も分らない子供達は、すっかりねむくなってしまって、もう、寝床へ追いやられた。彼等がねむそうな声でしゃべりながら、階段を上って行くのが聞えた。一方、タングルウッドの
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丘の中腹
――「不思議の壺」の話の前に――
さて次に、われわれは例の子供達を、いつ、どこで見かけると読者は思われるか? もうその時は、冬ではなく、楽しい五月になっていた。場所も、もはやタングルウッドの遊戯室や、いろりばたでなく、或る大きな丘の五合目よりまだ少し登った辺だった。この丘はおそらく、山と云ってやった方が一層よろこぶかも知れないほどの大きさだった。彼等はこの高い丘を、その禿げた
そして、従兄ユースタスはみんなと一しょだったか? それは確かだと思ってもらっていい。でなければ、どうしてこの本が、一歩だって先にすすむことが出来よう? 彼は今、春休みの中程だった。そして、四五ヶ月前に見た時とほとんど同じだったが、ただ彼の上唇をよく見ると、とてもおかしな口髭がちょっぴりと目につく点だけが違っていた。大人になったという、このしるしを別にすると、彼は読者と初めてお
五月の月は、その頃までは、例年よりは一層気持がよく、今日はまた大人にも子供にも、こんなこころよい、さわやかな日はないという気がした。丘を登るみちみち、子供達は、紫や白や、それからまるでマイダスがさわったのかと思われるような金色などの菫を見つけた。花草のうちでも一番かたまって生えるのが好きな、小さなフサトニヤが、一杯あった。それは決してひとりでは生えないで、仲間を
林の中へはいったばかりのところに、おだまき草があった。それらは大変内気で、出来るだけお日様に当らないように引込んでいるのをたしなみと心得ているとみえて、赤いというよりも蒼ざめた色に見えた。また、野生のゼラニウムや、沢山の白い苺の花も咲いていた。岩梨もまだ花時を過ぎてはいなかったが、その大切な花を、母鳥が小さな雛を大事に羽根の下にかくすように、林の去年の落葉の下にかくしていた。それは大方、自分の花がどんなに美しく、またいい匂いがするかを知っていたのであろう。それはあまりうまくかくれていたので、子供達はどこから匂って来るのか分らないうちから、その何ともいえない、いい匂いを嗅ぐことさえ時々あった。
こんなに沢山の新しい生命のある中に、野原や牧場のあちこちで、もう種になってしまったたんぽぽの白い
それはさておき、われわれは春と野の花草とについてこれ以上おしゃべりをして、貴重な頁を無駄にしてはならない。何かもっと面白い話題がありそうなものだ。もしも読者が子供達の
その話のことなら、わたしはその辺の藪のかげにいて、それを聞いたので、次の頁からまた、それを読者にお伝えしようと思う。
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不思議の壺
ずっと昔の或る夕方のこと、フィリーモン爺さんと、そのおかみさんのボーシス婆さんとが、彼等の小さなお
『ああ、婆さん、』とフィリーモンは叫びました、『誰か気の毒な旅人が、向うの村で宿を乞うているのに、御飯をたべさしたり、宿を貸したりするどころか、村人達はまたいつものように、犬をけしかけたりしているんじゃないかなあ!』
『ほんとにねえ!』とボーシスは答えました、『村の人達が、も少し他人様に親切な気持になってくれるといいのにねえ。それにまあ、子供達をあんな悪い育て方をして、よその人に石を投げつけると頭をなでてやるというわけなんだからねえ!』
『あの子供達は、決してろくなものにならないね、』フィリーモンは
『そうだとも、じいさん! わたし達はそうしましょうとも!』ボーシスは言いました。
この老人夫婦は――いいですか――まるで貧乏で、食べて行くためには、かなりひどく働かなくてはならなかったんですよ。フィリーモン爺さんは、お庭で一生けんめいに働きました。一方、ボーシス婆さんは、いつもいそがしそうに糸をつむいだり、おうちの牛の乳から少しばかりのバタやチーズをつくったり、そのほか、何や
彼等の小さな家は、半マイルばかりの幅の、くぼんだ谷にある村から少しはなれた、小高いところにありました。その谷というのは、まだ世界が新しかった昔の時代には、おそらく湖の底にでもなっていたのでしょう。その湖には、魚が深いところをあちこちと泳ぎまわり、岸の方には水草が生え、木や丘はその広い、静かな水面に影をうつしたことでしょう。しかし、水がだんだんと
しかし、困ったことには、この美しい村の人達は、神様がこれほどやさしく、いつくしみを垂れた場所で暮らす値打はありませんでした。彼等は大変
これ以上悪いことはちょっと考えられない気がしますが、しかしなお悪いことには、お金持の人達が、揃いの服を着た召使達を引きつれて、馬車に乗ったり、立派な馬に跨がったりして通りかかると、この村の人達ほど
フィリーモン爺さんが、村の通りの向うの端の方から聞えて来る子供達の叫び声や、犬の吠える声を聞いた時、あんなに悲しそうに口をきいたわけが、これで君達にも分ったでしょう。そのがやがやした騒ぎは、相当長くつづいて、大方谷の向うの端からこちらまでやって来たようでした。
『わしはまだ犬がこんなに大きな声で吠えるのを聞いたことがない!』といいおじいさんは言いました。
『子供達があんなに乱暴に騒いだこともありませんね!』といいおばあさんは答えました。
彼等はお互に、頭を振りながら坐っていました。その間に、騒ぎはだんだん近づいて来ました。そしてとうとう、彼等の小さな家の
旅人は二人とも、大変粗末な
『さあ、お前、』とフィリーモンがボーシスに言いました、『あの気の毒な人達を迎いに行こうじゃないか。きっとあの人達は、がっかりしてしまって、丘を登って来られないかも知れないから。』
『お前さん行ってお迎えして下さいよ、』ボーシスは答えました、『その間にわたしは急いでうちへはいって、あの人達に何か晩御飯を差上げられるかどうか見ましょう。一杯のおいしいパン入り牛乳は、あの人達の元気を引立てるのに、不思議なくらいききめがあるでしょう。』
そこで、彼女は急いで家へはいりました。一方、フィリーモンは出かけて行って、この上もなく親切な調子で、
『ようこそ、旅の
『ありがとう!』大変くたびれて、また困っていたにも拘らず、二人のうちの若い方が、元気な調子で答えました。『これはまた、向うの村で受けたのとは、まるで違った挨拶ですね。一体、あなたはどうしてこんなに
『ああ!』フィリーモンは、静かに、やさしく笑って言いました、『ほかにもわけはありましょうが、神様はわしをここに置いて、村の人達がひどくしたお前さん方に、出来るだけの
『よくも言って下さった、おじいさん!』と旅人は笑いながら叫びました、『そして、実際のことをいうと、僕の連れと僕とは、本当に何とかしてもらいたいところなんですよ。あの子供達(まるで小ギャングですね!)は、泥のかたまりを投げつけて、僕達をすっかり泥だらけにしてしまいました。それから、やくざ犬のうちの一疋が、もとから大分ぼろだった僕の外套を引裂いてしまうし。しかし僕はそいつの鼻っぱしを、杖で横から打ってやりましたよ。こんなに遠くても、そいつが鳴いたのが聞えたろうと思いますがね。』
フィリーモンは彼が大変元気なのを見て、嬉しく思いました。また、実際、誰しも、彼の顔附や様子を見ると、長い一日の旅に疲れ切っている上に、最後になってひどい目に遇ったのでがっかりしているとは思えなかったでしょう。彼は何だか変な
『わしも若い時分には、いつも足の早い方だったが、』とフィリーモンはその旅人に言いました。『それでも、夕方になって来ると、いつも足が重くなったものですがねえ。』
『いい杖ほど歩いて行く助けになるものはありませんよ、』その旅人は答えました、『それにちょうど僕は、ごらんの通り、とてもいい杖を持ってるものですから。』
この杖は、実際、フィリーモンが今までに見たこともないような、変てこな杖でした。それはオリーヴの木で出来ていて、頭の方に近く、一対の小さな翼のようなものがついていました。それから、木彫の二疋の蛇が、その杖に巻きついているところになっているのですが、それがまたあまりよく出来ているので、フィリーモン爺さんは、(だんだん眼もかすんでいたでしょう、だから)ほとんどその蛇が生きているのかと思って、それがくねくねとうごめいているのが見えるような気がしました。
『ほんとに、妙な細工物ですね!』彼は言いました。『翼の生えた杖なんて! こういったような杖は、小さな男の子が、馬乗りになって遊ぶのに持って来いですね!』
この時にはもう、フィリーモンと彼の二人のお客様とは、家の戸口のところへ来ていました。
『お前さん方、』と老人は言いました、『このベンチにかけて、休んで下さい。うちの家内が、何か夕飯にさし上げるものはないか、見に行っていますから。わし達は貧乏人です。しかし、何か膳戸棚にありさえすれば、喜んで御馳走しますよ。』
若い方の旅人は、無頓着に、どっかりとベンチに腰をおろしましたが、それと一しょに杖を落しました。そしてこの時、ほんのつまらないことながら、ちょっと不思議なことが起りました。その杖がひとりでに地面から起き上って、その小さな両方の翼をひろげて、半分
爺さんが何か訊いてみようと思っているうちに、年上の方の旅人が彼に話しかけて、その不思議な杖から彼の注意を
『ずうっと古い昔には、いま村のあるところ一帯が、湖だったんじゃありませんか?』とその旅人は、大変深い調子の声で尋ねました。
『わしが知ってからは、そんなことありませんよ、お前さん、』とフィリーモンは答えました、『わしもごらんの通りの年寄ですがね。以前から、今の通りの野原や牧場ですよ、それから、古い木も、谷のまん中をせせらぎ流れる小川もね。わしの知っている限りじゃ、おやじの代にも、またそのおやじの代にも、同じことだったようですよ。そしてこのフィリーモンじじいが、死んで、忘れられる時が来ても、やはり同じことでしょうよ!』
『そうとばかりも言いきれない、』と見知らぬ人は言いましたが、その深い声には、どことなく大変きびしいところがありました。そのうえ、彼は頭を振りましたが、そのために彼の黒い、どっしりとした巻毛が、ぶるぶるとふるえました。『向うの村に住む人間たちが、彼等の天性の愛と
その旅人の顔附があまりきつかったので、フィリーモンはほんとにちょっとこわくなったくらいでした。それに、彼が顔をしかめると、夕闇が俄かに一層暗さを増すように思われ、彼が頭を振ると、空中でごろごろと雷のような音がするので、よけいにこわくなりました。
しかし、すぐそのあとで、その見知らぬ人の顔が、大変やさしく、おだやかになったので、老人はすっかりこわさを忘れてしまいました。それでも彼は、この年上の方の旅人は今こそこんな見すぼらしいなりをして、徒歩で旅行をしているけれども、決してただの人ではないにちがいないと感じないではいられませんでした。しかし、フィリーモンは彼をお
ボーシスが夕飯の用意をしている間に、その旅人達は、フィリーモンと大変うちとけて話し合うようになりました。若い方の人は、本当に、とてもよくしゃべって、なかなか鋭い、気のきいたことをいうので、いいおじいさんはもう大笑いに笑いつづけて、お前さんは近頃にない面白い人だと言いました。
『ねえ、お若い方、』彼は、二人がだんだん親しくなると、そう言い出しました、『わしはお前さんの名を、どう呼んだらいいかな?』
『そうですねえ、僕は、ごらんの通り、すばしこいでしょう、』その旅人は答えました。『だから、僕をクイックシルヴァと呼んで下されば、かなりぴったりした名だと思います。』
『クイックシルヴァ? クイックシルヴァ?』とフィリーモンは繰り返して、もしかその若い人が彼をからかっているのではないかと思って、その顔をのぞき込みました。『それは随分おかしな名ですね! そして、そのお連れの方は? やっぱりそんな妙な名前ですかい?』
『それは雷に訊いてもらわないと分らない!』とクイックシルヴァは、謎のような顔をして答えました。『雷ほどの声をしていないと言えないんです。』
これは、本気か冗談か知らないが、もしもフィリーモンがおそるおそる年上の旅人の顔を見て、いかにもなさけ深そうだということが分らなかったら、とても
しかし、フィリーモンは、単純な、やさしい心の老人だったので、打明ける秘密とても、あまりありませんでした。それでも、彼は今までの生活について、随分しゃべりました。その長い年月の間、彼はこの家から、二十マイルと離れたこともないのでした。彼の妻ボーシスと彼とは、若い時分からずっと、この小さな家に住んで、正直に働いて食って、いつも貧乏でしたが、それでも満足していました。彼はボーシスがどんなにいいバタやチーズをこしらえるか、そして彼が庭につくる野菜物がどんなにおいしいかを話しました。それからまた、彼等夫婦はお互に深く愛し合っているので、
見知らぬ人はそれを聞いて、顔一杯に微笑しましたが、その表情はおごそかでありながら、またやさしいものでした。
『あなたはなかなかいいおじいさんだ、』と彼はフィリーモンに言いました、『そして、つれあいとしていいおばあさんをお持ちだ。あなた方の願いはかなえられていいと思う。』
そして、フィリーモンには、ちょうどその時、夕焼雲が西の空から輝かしい光を発して、空が急にぱっと明るくなったような気がしました。
ボーシスはやっと夕飯の支度が出来たので、戸口のところへ出て来て、どうも大変つまらないものしかお客様達に差上げられないけれどもと、ことわりを言いはじめました。
『もしもあなた方がおいでなさることが分っていたら、』とばあさんは言いました、『じいさんとわたしとは、なんにも食べないでも、もっといい夕飯を差上げるのでしたに。しかしわたしは、今日の牛乳は大方チーズをこしらえるのに使ってしまったし、残っていたパンも半分たべてしまったところでした。ほんとにまあ!
『万事うまく行きますよ。心配無用だ、おばあさん、』と年上の旅の人は、やさしく言いました。『本当に、心から、客を喜んで迎えれば、食べ物や飲み物に奇蹟が起って、どんな粗末なものでも、神の酒となり神の食物となり
『それは喜んでお迎え申しますよ、』ボーシスは叫びました、『それに、少し残っていた蜂蜜と、それから紫の葡萄の一房くらいはございますから。』
『そりゃ、ボーシスおばあさん、大した御馳走だ!』クイックシルヴァは笑いながら叫びました、『全くの御馳走だ! そして、僕がそれをどんなに盛んにたべるか、見ていて下さいよ! 僕は生れてから、こんなに腹がへったことはない気がする。』
『まあ困ってしまったねえ!』とボーシスは、おじいさんに小声で言いました。『あの若い
彼等はみんなで家の中へはいって行きました。
さてこれから、君達、僕は君達が目をまるくしそうなことを聞かせましょうか? それはほんとに、この話全体のうちでも一番奇妙なことの一つなんです。クイックシルヴァの杖、――覚えているでしょう――それはひとりで家の壁にもたれかかりましたね。そうでしたね。ところが、この不思議な杖をそのままにして、主人が戸口をはいって行った時、その杖はどうするかと思うと、これはまた、すぐその小さな翼をひろげて、ぴょんぴょんと跳ねて、ばたばたと戸口の階段を上って行くじゃありませんか! それからとんとんと台所の床を歩いて行って、大変もったい振って、礼儀正しく、クイックシルヴァの椅子の傍に立って、はじめてその杖はとまりました。しかし、フィリーモン爺さんも、彼の妻と同じように、お客をもてなすことにすっかり気をとられていたので、その杖のしていることには、ちっとも気がつきませんでした。
ボーシスが言ったように、二人のおなかのすいた旅人には、とても足りそうもない夕食が出ていました。テイブルのまん中には、黒パンの残りが置かれ、その一方には一きれのチーズ、他方には蜂蜜が一皿ありました。お客にはめいめい、ちょっとした葡萄の房もついていました。それから、牛乳を大方一杯入れた、中位な大きさの壺がテイブルの隅に置いてありましたが、ボーシスが二つの鉢にそれを
しかし、現在出した夕食が、こんなにわずかなものである以上は、客達のおなかがそんなにすいていなければよかったのに、と思わずにはいられませんでした。ところがどうでしょう、旅人達は食卓につくと、早速、二つの鉢の牛乳を一息に飲んでしまいました。
『ボーシスおばあさん、よかったら、もう少し牛乳を下さい、』クイックシルヴァが言いました。『今日は暑かったんで、僕とても喉が
『ところが、あなた方、』と、ボーシスは大変困って答えました、『ほんとにおあいにくで、申しわけありません! が、ほんとに、壺の中には、ほとんどもう一しずくの牛乳もないんです。おう、お前さん! お前さん! どうしてわたし達は、夕食抜きにしなかったんだろうねえ?』
『だって、僕には何だか、』とクイックシルヴァは叫んで、食卓から立上って、壺の
彼はそう言いながら、ボーシスが大変驚いたことには、ほとんど
『しかし、わたしは年を取っている、』とボーシスはひとりで考えました、『そして忘れっぽくなっている。わたしはきっと思いちがいをしたんでしょう。それにしても、二度までも鉢に一杯
『なんて結構な牛乳だろう!』クイックシルヴァは、二杯目注いだのを、がぶ飲みしたあとで言いました。『すみませんが、親切なおかみさん、本当にもう少しだけいただきたいんです。』
今度こそはボーシスも、何よりもはっきりと、クイックシルヴァがその壺をさかさにして、――だから、おしまいの一杯を注ぐ時に、一しずくも残さず牛乳をあけてしまったことを見ていたわけです。勿論、少しだってあとに残っている筈はありませんでした。でも、もう本当にないのだということを、はっきりとクイックシルヴァに見せてやろうと思って、彼女は壺を取り上げて、彼の鉢へ牛乳を
それにまた、その牛乳はなんともいえない、いい匂いがしました! まるでフィリーモンの一頭きりの牛が、その日は、世界のどこにもないくらいいい草をたべて来たのかと思われるほどでした。僕は、大好きな君達みんなが、夕飯の時に、こんないい牛乳を飲むことが出来たら、どんなにいいだろうと思いますね!
『それから今度は、黒パンを一きれいただきましょう、ボーシスおばあさん、』クイックシルヴァは言いました、『それから、その蜂蜜を少しばかり!』
そこで、ボーシスは彼にパンを一きれ切ってやりました。彼女とおじいさんとが切ってたべた時、そのパンはどちらかといえば、ぱさぱさしていて、皮が固くて、うまくなかったのに、今度は、まるで焼いてからまだ幾時間もたっていないかのように、軽くて、しめり気があるのでした。テイブルにこぼれた屑をたべてみると、今までにパンをこんなにおいしいと思ったことがないほどいい味がするので、おばあさんは、ほとんど自分がこねて焼いたパンとは思えないくらいでした。しかし、ほかのパンである筈はありませんでした。
おう、しかし、蜂蜜と来たら! 僕はここで、それがどんなにいい匂いがして、どんなにいい色をしていたかを、くどくどと説明したりしないで、そっとしておいた方がいいかも知れません。その色は、少しもまじりけのない、澄み切った金の色で、匂いといったら、千も花を集めたようでした。それも、地上の花園に咲く花ではなくて、蜜蜂が雲の上高く飛んで行かなくては、見つからないような花の匂いです。ここにただ不思議なのは、それほどいい匂いで、
ボーシス婆さんは、何も知らない年寄でしたが、いろいろこうしたことが起っているのは、どうも何にしても、ただごとではないと思わずにはいられませんでした。そこで、お客様達にパンと蜂蜜とをすすめ、めいめいの皿に葡萄を一房ずつおいてから、フィリーモンの傍に坐って、彼女の見たことを、小声で彼に話しました。
『お前さん、こんなことって、今までに聞いたことがあるかい?』彼女は尋ねました。
『いや、まるでないね、』フィリーモンは、にっこり笑って答えました。『そして、お前、わしはどうもお前が、夢みたいな気持になって、ふらふらしていたんだと思うんだがね。もしもわしが牛乳をついでいたら、その辺のことはすぐに見抜いてしまっていただろうに。どうかして、お前が思ったよりもいくらか沢山、壺の中に牛乳が残っていたんだろうよ――ただそれだけのことさ。』
『ああ、うちの人、』とボーシスは言いました、『お前さんが、何と言おうと、この
『まあ、まあ、』とフィリーモンは、まだ笑いながら答えました、『多分そうだろう。あの人達はたしかに、もとは相当にやっていたらしい様子が見える。わしはあの人達が、こんなにおいしそうに夕飯を食べているのを見ると、嬉しい気がするよ。』
お客様達は今度は、めいめい自分の皿の上の葡萄を取りました。ボーシスは(もっとよく見るために、自分の目をこすってみたのですが)葡萄の房が何だか大きく、立派になって、一つ一つの葡萄のたまも、もう少しで熟した汁ではち切れそうになっているように思いました。小屋の壁に這っている、古い、いじけたあの葡萄の木に、どうしてこんな実がなったか、それが彼女には全く分らない気がしました。
『大変うまい葡萄だな、これは!』クイックシルヴァは、一つ一つむしってたべながらそう言いましたが、一向
『うちの木からですよ、』とフィリーモンは答えました。『その枝の一つが、向うの窓をくねくねと横切っているのが見えるでしょう。しかし、うちの家内もわしも、この葡萄をうまいなんて思ったことはないんですが。』
『僕はこんなうまいのをたべたことはありませんね、』とそのお客は言いました。『よかったら、このおいしい牛乳をもう一杯下さい。そうすれば、僕はもう殿様以上の夕飯をたべたことになるでしょう。』
今度はフィリーモン爺さんが立上って、壺を取り上げました。というのは、彼はボーシス婆さんが彼に小声で話して聞かせた不思議なことが、一体本当なのかどうか知り
『不思議をおあらわしになる旅の
『こうして御邪魔に上った客ですよ、フィリーモンじいさん、そしてあなたの友達さ、』年上の方の旅人は、どことなくやさしくていて、自然に頭が下るような、おだやかな、深味のある声で答えました。『わたしにも牛乳を一杯下さい。そしてこの壺が、困っている旅人のためと同じく、親切なボーシスとおじいさんとのためにも、決して
もう夕飯もすんだので、見知らぬ人達は寝室へ案内してほしいと言いました。老夫婦はもう少し彼等と話をして、自分達の感じている不思議の思いを述べたり、貧弱な夕飯が、あんな思いもよらないような、結構な、そして十分な御馳走となった喜びを語ったりしたいと思いました。しかし、彼等は年上の方の旅人の威厳に打たれてしまって、物を訊いてみる元気なんか出ませんでした。そして、フィリーモンがクイックシルヴァを脇へ引張って行って一体どうして古い土焼の壺の中へ牛乳の泉なんかがはいって来たんでしょうと訊くと、クイックシルヴァは彼の杖の方を指さしました。
『不思議のもとはすべてあれなんです、』クイックシルヴァは言いました、『そして、もしもおじいさんにそれが分ったら、一つ教えていただくとありがたいですね。僕にも自分の杖のことを何といっていいか分らないんです。それは、時々僕に夕飯を食べさしてくれるかと思うと、また時々それを盗んでしまったりするというような、変ないたずらを始終やるんです。僕がまあそんな馬鹿気たことを信じるとすれば、この杖には魔法がかかっているとでも言いますかね!』
彼はそれ以上何も言わないで、ずるそうに彼等の顔を見たので、彼等は何だか彼にからかわれているような気がしました。クイックシルヴァが部屋を出て行くと、その魔法の杖は、彼のあとについて、ぴょんぴょん飛んで行きました。二人きりになってからも、その老夫婦は、しばらくその夕方の出来事について語り合って、それから
おじいさんとおばあさんとは、あくる朝、小早く起出しましたが、見知らぬ人達も、お日様と一しょに起きて、出発の用意をしました。
フィリーモンは彼等に、ボーシスが牛の乳をしぼって、いろりで菓子を焼いて、それから多分いくつかの産みたての卵を見つけて、朝飯の用意をするまで、も少し出発を延ばすようにと、親切にすすめました。しかし客達は、暑くならないうちに、沢山歩いておいた方がいいと考えたようでした。そんなわけで、彼等はすぐ出発するといってききませんでしたが、その代り、フィリーモンとボーシスに、少し一しょに歩いて、どちらの道を行けばいいか教えてほしいと頼みました。
そこで彼等四人はみんなで、古くからの友達のように話合いながら、家を出ました。老夫婦が知らず識らずのうちに年上の方の旅人と親しくなり、彼等の善良単純な心が、まるで二滴の水が限りない大海にとけ込むように、彼の心にとけ込む有様は、本当に不思議な位でした。そしてクイックシルヴァの方は、彼の鋭い、
『ああ! ほんとになあ!』家を出て少し歩いてから、フィリーモンは叫びました。『旅の人に親切をつくすことがどんなにありがたいことかということが、あの村の者に分りさえしたら、彼等とても犬をみんなつないでしまって、これからは子供に石を投げさせるようなことはしないだろうに。』
『あんなことをするなんて、罪な、恥ずかしいことだ、――ほんとにそうだ!』年取ったボーシスは激しく言いました。『そしてわたしは今日にも出かけて行って、村の或る人達をつかまえて、彼等がどんなにいけない人間かということを言ってやるつもりです!』
『行ってみたところで誰も家にいないかも知れませんよ、』とクイックシルヴァは、ずるそうに笑いながら言いました。
ちょうどその時、年上の方の旅人の顔が、おだやかでいながらも、たいへん真面目な、きびしい、おそろしいばかりの威厳を帯びて来たので、ボーシスもフィリーモンも一言だって口をきく勇気がなくなってしまいました。彼等はまるで空を見上げるように、おそるおそる彼の顔を見つめました。
『どんな見すぼらしい初対面の人にでも、
『それはそうと、おじいさんとおばあさん、』クイックシルヴァは冗談といたずら気分たっぷりという目つきで叫びました、『あなた方のお話の、その村ってのは、どこでしたっけ? どっちの方にあるんですかね? 一向その辺には見えないようですが。』
フィリーモンとボーシスとは、つい昨日の夕方まで、牧場や、家や、庭や、木立や、子供達の遊んでいる、広い、街路樹の植わった通りや、それから商売をしたり、楽しく遊んだりして、立派に暮らしているらしい様子などがいろいろ見えていた谷の方に振り向きました。ところが、彼等はどんなに驚いたことでしょう。いつのまにか、村らしいものはまるで無くなっているではありませんか! 村がその底の方にあった、ゆたかな谷さえも、なくなってしまっていました。その代りに、彼等は湖の、広い、青い水面を見ました。それは大きな鉢のようになった谷の端から端まで満たして、まるで世のはじめからそこにあったかのように、まわりの山々の静かな姿を、その中にうつしていました。ちょっとの間、湖は少しの波も立てないで静まり返っていました。それから、風が少し出て来て、水を朝日影に踊らせ、光らせ、かがやかして、さらさらと快い音を立てて、こちらの岸にぶっつけました。
その湖は、妙に見なれたもののような感じがするので、老人夫婦はまったく狐につままれたようで、そこに村があったというのは夢に過ぎなかったかのような気がしました。しかし、次の瞬間には、彼等は無くなってしまった民家や、そこに住んでいた人の顔や性質を、夢にしてはあまりにはっきり思い出しました。村はたしかに昨日まであったのです。そして今はもうないのです!
『ああ! あの村の人達は、可哀そうに、どうなったのでしょう?』と、心のやさしい老夫婦は叫びました。
『彼等は、もはや男や女としては生きていない、』と、年上の旅人は、荘重な、深味のある声で言いましたが、その時、遠くの方で、雷がそれに
『それから、あのおろかな人達はどうなったかというとね、』と、クイックシルヴァは例のいたずららしい笑い方をして言いました、『みんな魚にされてしまったのさ。別に大して変えることも要らなかった、というのは、彼等はもとからうろこの生えたような下等な奴等で、またあれほど冷たい血をした人間共もなかったんだから。そんなわけだから、ボーシスばあさん、あなたかおじいさんかが、焼いた鱒でも食べたくなった時には、いつでもおじいさんが糸を投げ込んで、もとの村人達の五六尾も釣上げればいいんですよ!』
『ああ!』ボーシスは身ぶるいしながら叫びました、『わたしは、どんなことがあっても、彼等を焼網に乗せたりしたくありません!』
『そうだ、』と、フィリーモンも、顔をしかめて附け加えました、『わし達は彼等をうまがってたべたりなんぞ、どうして出来るものかね!』
『善良なフィリーモンよ、』年上の旅人は、
フィリーモンとボーシスとは互に顔を見合せました、そして、――二人のうちのどっちが口をきいたのか、僕は知らないが、とにかく二人の心のねがいを述べました。
『わたし達が、生きている間は、一しょに暮らして、死ぬ時には、一しょに死なせて下さりませ! と申しますのは、わたし達は常に愛し合ってまいりましたのですから!』
『その通りになるように!』と、見知らぬ人は、おごそかなやさしさを以て答えました。『さて、お前達の家の方を見るがいい!』
彼等は言われるままに家の方を見ました。しかし、大きくあけひろげた玄関のある、白い大理石の高い建物が、ついさっきまで彼等のみすぼらしい
『あれがお前達の家だ、』と言って、見知らぬ人は彼等二人にやさしくほほ笑みました。『お前達が昨晩、われわれを見すぼらしいあばらやに喜び迎えた時と同じように、物惜しみすることなく、あの立派な家にはいってからも人々を親切にもてなせよ。』
老夫婦はひざまずいて彼にお礼を言おうとしました。しかし、これはどうしたことか! 彼もクイックシルヴァも、そこにいませんでした。
こうして、フィリーモンとボーシスとは、その大理石の立派な邸宅にはいって、この方面を通りかかる人を、だれかれの差別なく喜ばせ、楽しませることを、自分達もこの上なく満足に思って、日を送りました。それから、言い忘れてはならないことは、あの牛乳壺が、一杯になってくれればいいなあと思う時は、いつでも一杯になって、決して
その老夫婦は、こんな風にして、長い長い間その邸宅に暮らして、だんだん年を取って、大変な年寄になりました。ところが、とうとう夏の或る朝のこと、いつもならば二人のやさしい顔に、同じような、親切な微笑を一杯に浮かべて、ゆうべから泊まっている客を朝飯に呼びに来るのに、その姿が見えませんでした。客達は、その広い邸宅の上から下まで、
これまでになるには少くとも百年はかかったろうと思われるこれらの木が、どうして一晩のうちにこんなに高く、古くなったものかと客達がおどろいていると、俄かに風が吹いて来て、二本の木の、からみ合った大きな枝をゆり動かしました。そして、まるでその二本の不思議な木が物を言っているように、空中で、深い、はっきりした
『わしは年取ったフィリーモンです!』と樫の木は囁きました。
『わたしは年取ったボーシスです!』と菩提樹は囁きました。
しかし、風がもっと強くなって来ると、二本の木は一しょに――『フィリーモン! ボーシス! ボーシス! フィリーモン!』――と、まるで一身同体[#「一身同体」はママ]となって、お互の心の奥底で語り合っているように、言いました。あのいい老夫婦が若返って、フィリーモンは樫の木に、ボーシスは菩提樹になって、これからまた、静かな、うれしい百年程の間を送ろうとしているのだということは、いわずとも知れたことでした。おう、それから、彼等は何という親切な蔭をまわりに投げかけたことでしょう! 旅人がその下に休んだ時にはいつでも、頭の上の葉が気持よく囁くのを聞いて、その音がまたどうして次のような言葉によく似ているのかを不思議に思いました――
『ようこそ、ようこそ、旅のお方、ようこそ!』
そして、どういうことをすれば、ボーシスばあさんとフィリーモンじいさんとが一番喜ぶかを知っていたどこかの親切な人が、両方の木の幹のまわりに、円く腰掛をつくりました。それからずっとのちまで、長い間、疲れた人や、おなかのへった人や、喉の
そして僕は、われわれみんなのために、その壺が、今、ここにあったら、どんなにいいだろうと思います!
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丘の中腹
――話のあとで――
『その壺は、どれくらいはいったの?』とスウィート・ファーンは尋ねた。
『一リットルくらいしか、はいらなかったさ、』学生は答えた、『しかし、その中からどんどん牛乳をあけて、大樽一杯にしようと思えば、出来たんだよ。本当に、それはいくらでも湧いて来て、真夏になっても、からからになるようなことはなかったのさ、――この丘の中腹をささやき流れる、向うの小さな谷川でもそうは行かないかも知れないね。』
『そして、その壺は、今はどうなってるの?』小さな男の子は尋ねた。
『惜しいことには、それは二万五千年ばかり前に、こわれてしまったの、』従兄ユースタスは答えた。『それをみんなが出来るだけうまく修繕したんだけどね、牛乳はどうにか入れておくことは出来ても、もうそれからというものは、ひとりでに一杯になるということは決してなくなってしまったの。だからね、ひびのはいった普通の土焼の壺と、ちっとも変らないものになってしまったのさ。』
『ああつまんない!』と、子供達は一斉に叫んだ。
犬のベンは、もっともらしい顔をして、一行のお供をしていたが、今日は、ニューファウンドランド種の大分大きくなった仔犬も一しょにお供をしていた。この方は、ちょうど熊のように黒かったので、
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禿げた頂上
――「カイミアラ」の話の前に――
ユースタス・ブライトと連れの子供達とは、急な、森になった丘の中腹を、どんどんと上の方へ登って行った。木はまだ青葉にはなっていなかったが、芽は既にうすい影を落すくらいには
とうとう、ユースタスと子供達とは、森の上のはずれまで辿りついて、ほとんど丘の頂上へ来たことを知った。この丘の頂上は、
丘の一番高いところには石が積んであって、そのまん中に長い棒を立て、その棒のさきには、小さな旗がひるがえっていた。ユースタスは子供達をそこへ連れて行って、彼等に、四方を眺めて、われわれの住む美しい世界がどんなに広く
南の方に見えるモニュメント山は、相変らず景色の中心にはなっていたが、何だか、低く落ち込んでしまって、今では沢山の丘のかたまりのうちの、あまり目立たない一つのような気がした。その向うに、タコウニック山脈が、今までよりも、高く、大きく見えた。われわれのきれいな湖が、その小さな湾や入江をすっかり見せていた。そして、それ一つだけではなく、今まで見たことのない湖が二つ三つ、太陽にむかって
白い、羊の毛のような雲が空に浮かんで、
はるか西の方に、青い山脈が見えていたが、ユースタス・ブライトは、それがキャッツキルの山々だと子供達に教えた。あのぼんやりとかすんだ山の中に、幾人かの年取ったオランダ人が、いつ終るとも知れない九柱戯をやっていたところがあって、またリップ・ヴァン・ウィンクルという
『でも、』とペリウィンクルは言った、『あたし達がここで休んで、方々を眺めている間に、あなたは御自分でつくった、ほかの話をして下さるくらいなことは出来るでしょう。』
『そうよ、ユースタスにいさん、』とプリムロウズは叫んだ、『あたしあなたがここでお話をして下さるようにおすすめするわ。何か高尚な題を考えて、あなたの空想がそこまで行けないものか、ためしてごらんなさい。多分山の空気が今日に限って特別にあなたを詩的にすると思うわ。そして、そのお話が、どんなに変った、不思議なものでもかまいません。あたし達はこうして雲の中にいるんだから、どんなことでも信じることが出来ますわ。』
『じゃ、昔、翼の生えた馬がいたなんてことを本当に出来る?』とユースタスは尋ねた。
『ええ、』と生意気なプリムロウズは言った、『しかし、あなたはとてもそれをつかまえられそうもない気がするわ。』
『それくらいなことはなんだ、プリムロウズ、』と学生は答えた、『僕は多分ペガッサスをつかまえることは出来そうだ。その上、僕の知っている十人以上の人物に負けないくらい上手に、それに乗ることも出来そうだな。とにかく、ペガッサスについての話があるんだ。そして、ほかのどんなところよりも、その話をするには、こうした山の上がいい。』
そこで、彼は積んである石の上に腰をおろし、子供達はその下にかたまって、ユースタスは、近くを飛んで行く白い雲をじっと見つめながら、次のように話しはじめた。
[#改ページ]
カイミアラ
古い、古い昔のこと(というのは、僕がお話するような不思議なことはみんな、誰も覚えていないような大昔に起ったことですから)、不思議の国、ギリシャの或る丘の中腹から、一つの泉が湧き出ていました。そして、何千年もたった
『これは大変おいしい水ですね、』彼はその娘から瓶を借りて水を飲んでから、それをすすいで、水を一杯入れながら言いました。『この泉に何か名があるかどうか、僕に教えてくれませんか?』
『名はございます。ピリーニの泉といって、』と娘は答えて、それからつけ加えて言いました、『このきれいな泉は、もとは美しい女でしたが、彼女の息子が女猟人ダイアナの矢に当って死んだ時、その女が溶けてすっかり涙となってしまったのだと、私のおばあさまが申しておりました。ですから、あなたがそれほどつめたくておいしいとお思いになるこの水も、実はその可哀そうな母親の心の悲しみなんです!』
『どくどくと
この泉の水を飲ませるために牝牛をつれて来ていた中年の田舎者が、若いビレラフォンと彼が手に持っている立派な馬勒とを、じっと見つめました。
『お前さんの土地じゃ、川の水が減ってしまったんだね、にいさん、』彼は言いました、『こんなに遠くまで、ピリーニの泉を見つけるだけのことで、やって来なさったところを見るとね。しかし、一体、お前さんは馬に逃げられなさったかね? お前さん、手に馬勒を持っていなさるじゃないか。それも二列に、光った宝石のついた、きれいな品だ。もしも馬が、その馬勒みたいに立派なものなら、それに逃げられたお前さんは、随分気の毒な方だ。』
『馬なんかなくしゃしませんよ、』ビレラフォンはにっこり笑って言いました。『しかし、僕はちょうど、大変名高い馬を捜しているところなんです。かしこい人達が僕に教えてくれたところによると、その馬が、何処かにいるとすれば、この辺にちがいないというのです。翼のある馬ペガッサスが、あなた方の祖先の時代によくこの辺にあらわれたように、今でもやはりやって来るかどうか、御存じですか?』
しかし、これを聞くと、その田舎の人は笑い出しました。
君達のうちには、多分、このペガッサスというのは、美しい銀色の翼をした、真白な
おう、翼のある馬になったら、どんなにすばらしいでしょう! ペガッサスは事実、夜は高い山の
夏の時分、この上もない上天気の日には、ペガッサスはよく地上におりて来て、その銀色の翼をたたんで、気晴らしに、丘や谷を越えて、風のような速さで駆けることがありました。ほかのどこでよりも、ピリーニの泉の近くで、おいしい水を飲んだり、岸のやわらかい草の上にころがったりしている姿が、
だから、今の人達の大おじいさん達が、若くて、翼のある馬がいるということを信じていた間は、美しいペガッサスを
そして、その男が笑い出したわけも、そこにあったのでした。
『ペガッサスだって、へーえ!』その男は平べったい鼻を出来るだけ高く上に向けながら叫びました、『ペガッサスだって、へーえ! 翼の生えた馬、なるほどね! ほんとに、お前さん、正気ですかい? 馬にとって、翼がなんの役に立ちますかい? そんな馬が、うまく
『僕はそうではないと考えるわけがあるんです、』とビレラフォンは静かに言いました。
それから彼は、杖によりかかって、首を前に突き出して、一心に二人の話に耳を傾けていた
『そして、おじいさん、あなたの御意見は?』と彼は尋ねました。『あなたの若い時分には、きっとその翼の生えた馬を度々ごらんになったにちがいないと思うんですが!』
『ああ、若い旅の人、わしは覚えが悪うなってな!』とそのおじいさんは言いました。『もしもわしの記憶に間違いがなければ、わしは若い時分に、いつも、そんな馬がいるものと思っていたし、ほかの者もみんなそう思っていましたよ。しかし今では、どう考えていいやらちょっと分らないし、第一、翼のある馬のことなんか、あまり考えもしませんよ。もしもわしがそれを見たことがあったにしても、ずっとずっと前のことだし、それに、本当のことをいうと、実際に見たのかどうかも
『そして、美しい娘さん、あなたはペガッサスを見たことはありませんか?』水瓶を頭にのせて、彼等の話を傍で聞いていた娘に、ビレラフォンは尋ねました。『もしも誰か見ることが出来るものとすれば、ぱっちりとした眼をしているあなたが、きっとペガッサスを見そうなものですがねえ。』
『私、いつかペガッサスを見たように思いました、』その娘は、にっこり笑って頬を染めながら答えました。『それはペガッサスだったか、それとも大きな白い鳥だったか知りませんが、とにかくずうっと上の方を飛んでいました。それからまた、別な時に、瓶を持ってこの泉へ来ると、馬のいななきが聞えました。おう、それはどんなに元気な、響のいい声だったでしょう! それを聞いて、私の心は喜びにおどり上りました。そのくせ、私はびっくりしてしまって、瓶に水を汲みもしないで、家へ逃げて帰りました。』
『それはほんとに残念でしたね!』ビレラフォンは言いました。
それから彼は子供の方に向きました。子供がいたことは、話のはじめにもちょっと言いましたが、彼は子供がよその人を見る時によくやるように、赤い口を大きくあけて、じっとビレラフォンを見つめていました。
『ええ、坊や、』と、彼の巻毛の一つを冗談に引張りながら、ビレラフォンは言いました、『君は翼の生えた馬を幾度も見たんじゃないかね?』
『見たよ、』と、待ちかまえていたように、子供は答えました。『僕は昨日もそれを見たし、その前にだって幾度も見たよ。』
『君はなかなかいい子だ!』ビレラフォンは彼を近く引きよせながら言いました。『さあ、その話をすっかり聞かしてくれたまえ。』
『あのう、僕ねえ、』子供は答えました、『泉でおもちゃの舟を走らしたり、底からきれいな小石を拾ったりしに、よくここへ来るんだ。そして、水の中を見ていると、そこに映っている空の影の中に、時々、翼の生えた馬の姿が見えるよ。僕は、それがおりて来て、僕を背中に乗せて、お月様まで飛んで行ってくれるといいと思うなあ! しかし、僕がその方を見ようとして、ちょっとからだを動かしても、もうそれはどこか遠くの方へ飛んで行ってしまって、見えないんだ。』
そしてビレラフォンは、荷馬車をひく馬しか知らないような中年の田舎者や、若い時分の美しいものを忘れてしまったおじいさんなどの言うことよりも、水に映ったペガッサスの姿を見たという子供と、それが大変いい声でいななくのを聞いたという娘とを信じました。
そこで彼は、その後幾日も幾日も、ピリーニの泉の辺へ、始終出かけて行きました。彼は翼のある馬の水にうつる姿か、或はその不思議な実物を見たいと思って、絶えず注意をして、空を見上げているか、でなければ水の中を見下していました。彼は光った宝石と金のくつわとのついた馬勒を、用意のために、いつでも手に持っていました。近くに住んでいて、牛をつれて泉の水を飲ませに来る田舎の人達は、度々気の毒なビレラフォンをあざ笑ったり、時には彼を責めたりしました。彼等はビレラフォンに、彼のような、いいからだをした若者は、そんなつまらないことに、暇をつぶしていないで、もっと立派な仕事をするのが本当じゃないかと言いました。彼がもしも馬が入用なら、馬を売ってやろうと彼等は言いました。ビレラフォンが馬なんか買わないといってことわると、彼等は、それなら彼の立派な馬勒を売らせようとかかりました。
田舎の子供達までが、ビレラフォンを大変な馬鹿だと思ってしまって、彼の真似をしてふざけ散らして、失敬にも、彼がそれを見ていても、聞いていても、一向平気でした。たとえば、一人の小さな男の
さて君達は、どうしてビレラフォンが翼のある馬をつかまえようとしたか、そのわけが聞きたいというでしょう。そして、そのことについて話をするのに、彼がペガッサスの現れるのを待っている間ほど、いい機会はありますまい。
もしも僕がビレラフォンの今までの冒険をすっかりお話ししていたら、それだけで結構長い長い話になってしまうでしょう。だから、ただ、アジアの或る国に、カイミアラというおそろしい怪物が現れて、今から日が暮れるまでの間にはとても話し切れないほどの害をしていたというだけで沢山でしょう。僕が読んだうちでも一番いい本によると、このカイミアラというのは、今までに土からうまれた生き物の中でも、断然とまでは行かなくとも、おおよそ一番みにくい、有毒な動物で、また最も奇妙不可思議で、相手に廻してこれほど厄介なものはなく、逃げようにもなかなか逃げられない
おう、この兇悪な動物は、実に限りない害をしました! その燃える
この憎むべきけもの(無理にもそれをけものと云えるとすれば)が、いろいろこうした恐ろしいことをやっている最中に、ちょうどビレラフォンが、その国の王様を訪ねてやって来ました。その王様の名前はアイオバティーズといい、治めている国はリシアといいました。ビレラフォンは世にも勇ましい青年の一人で、彼の何よりの望みは、世界中の人にほめられ、愛されるほどの勇ましい、そして世のため人のためになるような手柄を立てることでした。その時代には、青年が名をあらわすためには、彼の国の敵と
しかし、
そして、彼がはるばるリシアからギリシャへやって来たのも、美しく飾った馬勒を持って来たのも、このためでした。その馬勒には魔法がかけてありました。もしも彼がペガッサスの口に、うまくその金のくつわをはめることが出来さえすれば、翼のある馬もおとなしくなって、ビレラフォンを主人として、彼の手綱の引き方一つで、どっちへでも飛んで行くでしょう。
しかし、実際、ペガッサスがいつかはピリーニの泉へ水を飲みに来るだろうと思って、ビレラフォンが待ちに待っている間というものは、いやになってしまうほど長く、そして気がもめました。彼はカイミアラから逃げ出したという風に、アイオバティーズ王に思われはしないかと心配しました。また彼は、カイミアラと闘いもしないで、きれいなピリーニの泉の水がきらきらした砂の中から湧き出して来るのを、こうして仕方なしにぼんやりと眺めている間に、あの怪物がどれほど多くの害をしているかを考えると、心苦しくなりました。そして、ペガッサスは、近年ではこっちへ出て来ることは稀で、人の一生の間に一度くらいしかおりて来ないので、ビレラフォンは、その翼のある馬が現れるまでに、彼はおじいさんになってしまって、腕の力も心の勇気もなくなってしまうのではないかと心配しました。おう、一人の冒険的な青年が、この世に生れて来た役目を果して、世界に名を挙げる日を待ちこがれているのに、なんと時間はのろくさくたって行くのでしょう! 待つということは、何というつらい教訓でしょう! われわれの一生は短い、それなのに、ただそれだけのことをわれわれに教えるために、何と長い時間をとるのでしょう!
あのおとなしい子供が、彼にすっかりなついてしまって、少しも厭きることなく彼の傍についていてくれたのは、ビレラフォンにとって仕合せでした。毎朝その子供は、彼の胸の昨日の希望が
『ビレラフォン兄さん、』彼の顔を、希望に満ちて見上げながら、その子はいつも叫ぶのでした、『僕達、今日はペガッサスを見そうな気がするよ!』
そして、もしもこの小さな男の子の、ぐらつくことのない信念がなかったら、ビレラフォンはおしまいに希望をすっかり捨ててしまって、リシアへ帰って、翼のある馬の力を借りないで、一生けんめいカイミアラを倒そうとしていたかも知れません。そして、その場合には、気の毒なビレラフォンは、少なくとも、その怪物の
或る朝、例の子供は、いつもよりも一層希望に満ちて、ビレラフォンに言いました。
『大好きなビレラフォン兄さん、』と彼は叫びました、『僕なぜだか知らないけれど、今日こそたしかにペガッサスを見そうな気がするよ!』
そして、その日は一日中、彼はビレラフォンの傍から一歩も動こうとしませんでした。そんなわけで、二人は固くなった一きれのパンを分けてたべ、泉の水を飲みました。午後になっても、彼等はそこに坐って、ビレラフォンはその子供に腕をかけ、その子供の方でもまた、ビレラフォンの手の中に彼の小さな手を置きました。ビレラフォンは自分の考えに気を取られて、ただぼんやりと、泉に影を落す木の幹や、その枝にからんでいる葡萄のつるを見つめていました。しかし、おとなしい子供の方は、じっと水の中を見おろしていました。彼は、これまで幾日も幾日もそうであったように、今日もまた希望が裏切られるのではないかと、ビレラフォンのために、心を痛めているのでした。そして、二三滴の静かな涙が彼の目からこぼれて、子を失った時にピリーニが流した多くの涙だといわれている泉の水にまじりました。
しかし、少しもそんなことをあてにしていない時に、ビレラフォンは子供の小さな手がぎゅっと力を入れるのを感じ、静かな、ほとんど聞き取れないほどの囁きを聞きました。
『あれごらん、ビレラフォン兄さん! 水の中に影が映っています!』
青年は、さざなみ立った泉のおもてを見おろしました。そして、ずうっと空中高く、真白か銀色かの翼を日の光にかがやかして飛んでいるらしい鳥の影とおぼしいものを見ました。
『あれはとてもすばらしい鳥にちがいないよ!』と彼は言いました。『そして、雲よりも高く飛んでいるにちがいないのに、なんと大きく見えるんだろう!』
『あれを見ると、からだがふるえる!』と子供は小さな声で言いました。『僕は空を見上げるのがこわい! それはとても美しいんだけど、僕は水に映った影だけしか見る勇気が出ない。ビレラフォン兄さん、あれが鳥じゃないってことが分らないの? あれは翼のある馬、ペガッサスですよ!』
ビレラフォンの胸は、どきどきして来ました! 彼は一心に見上げましたが、鳥だか馬だか、とにかくその翼の生えたものは見えませんでした。何故なら、ちょうどその時、それは羊の毛を浮かべたような夏雲の奥へ飛び込んだところだったからです。しかし、すぐまたそれは、雲の中から軽く下に向って姿を現しました。それでもまだ、地上からは大変な距離がありましたが、ビレラフォンは子供を腕にかかえ込んだまま、あとずさりをして、二人とも泉のまわりに生えている繁った
君達は鳩がおりて来る時にそんな風にするのを見たことがあるでしょうが、大きく輪をかいて飛びながら、この空の驚異はだんだんと近づいて来ました。そうした広い、大きな輪を、少しずつ地上に近づくにつれて、だんだん狭く、小さくしながら、ペガッサスはおりて来ました。だんだん近くで見るほど、それは一層美しく、その
こうして心ゆくまで水を飲み、そして、贅沢屋がうまいものだけちょっと味を見るといったような、草の食べ方をしてから、この翼のある馬は、あちこちはね廻ったり、まるで退屈半分、遊び半分みたいに踊ったりしはじめました。このペガッサスほど、飛んだり跳ねたりするのが好きなものもありませんでした。だから、考えただけでも気持がいいくらい跳ねまわって、その大きな翼を、
一二度ペガッサスは立止まって、耳を立て、頭を振って、ぐるっと四方に頭を向けながら、何だか知らないが悪いことがありそうだということを多少感づいたような風に、くんくんとその辺を嗅ぎました。しかし、何も見えないし、何の音も聞えないので、すぐまた、おどけた身振りをしはじめました。
とうとう――へとへとになったというのではなく、ただ怠けて、いい気持になっているだけなんですが――ペガッサスは翼をたたんで、やわらかい緑の草の上にねそべりました。しかし、あまりにも軽快な生気に満ちているので、長い間つづけてじっとしていることが出来ず、すぐに、ほっそりとした四本の脚を上にあげて、
とうとう、ころがるだけころがってしまうと、ペガッサスはくるりと起きなおって、呑気そうに、ほかのどんな馬でもする通りに、立とうとして前脚を突き出しました。ペガッサスがこうするだろうと、かねて見当をつけていたビレラフォンは、この時不意に繁みから飛び出して行って、その背中にひらりと跨がりました。
そうです、彼はその翼のある馬の背中にまたがったのです!
しかし、はじめて人間の重みというものを腰に感じた時、ペガッサスはどんなに飛び上ったでしょう! 全く、ものすごい飛び上り方でした! 息もつかないうちに、ビレラフォンは五百フィートも高いところへ上っていました。ペガッサスは、びっくりと腹立ちとで、鼻を鳴らし、からだをふるわせながら、なおも上に向けて鉄砲玉のように飛んで行くのでした。上へ上へと、どんどん昇って行って、とうとう、つめたい、霧のような雲の中へ飛び込んでしまいました。それは、つい今さっき、ビレラフォンが下から眺めて、随分気持のよさそうなところだなあと思っていたのでしたが。それからまた、雲のまん中から飛び出して、自分も乗り手ももろとも、岩にぶっつけるつもりかと思われるほどの勢いで、雷のように落ちて行きました。それから彼は、今までに鳥でも馬でもやったことはあるまいと思われるような荒っぽい跳ね方を、おおよそ千ほどもしました。
僕はペガッサスのやったことの半分だって話すことは出来ません。彼はまっすぐに飛んで行くかと思うと、さっと横にそれたり、ぱっとあとへもどったりしました。彼は輪のようになった雲の上に前脚を乗せて、後脚の足場がまるでないところで、棒立ちになりました。彼は後脚をうしろへ投げ出して、翼をまっすぐに立てながら、頭を前脚の間へ突込みました。地上から二マイルも上のところで、宙返りもやりました。その時には、ビレラフォンも真逆様になって、空を見上げるのではなくて、見下しているような気がしました。彼はくるりと首をよじって、らんらんと燃えるような眼で、ビレラフォンの顔をにらみながら、おそろしい勢いで咬みつこうとしました。彼はあんまりはげしく翼をばたばたやったので、銀色の羽根の毛が一つ振り落されました。それはひらひらと地上にむかって落ちて行って、あの子供に拾われ、その子はそれを、ペガッサスとビレラフォンとの形見として、一生持っていました。
しかし、ビレラフォン(彼が、今までに馬を走らせたどんな人にも負けないほどの乗り手だったことは、君達も判断がつくでしょうが)は機会を待っていて、とうとうあの魔法のかかった馬勒の金のくつわを、ペガッサスの口にはめ込みました。こうしてくつわをはめてしまうと、たちまちペガッサスは、小さい時からビレラフォンに飼われて来た馬ででもあるかのように、いうことをきき出しました。僕の本当の気持をいうと、あんなにあばれた馬が、急にこんなにおとなしくなったのを見ると、何だか悲しくなるくらいでした。そしてペガッサスは、自分でもやはりそんな気持がしたようでした。彼はつい今しがた、らんらんと火を発していたその美しい眼に、今度は涙をうかべて、ビレラフォンを振り返って見ました。しかし、ビレラフォンが彼の頭を軽く叩いて、ふたことみこと威厳のある、しかしやさしく慰めるような言葉をかけると、ペガッサスの目つきはまた変って来ました。というのは、何百年もの間、ひとりぼっちでいたあとで、こうして友達とも主人とも思う人が見つかったことは、彼も心の中で喜んでいたからです。
翼のある馬とか、すべてそういったような荒々しい、ひとりぼっちの動物は、必ずそうしたものです。もし彼等をつかまえて、圧倒してしまうことが出来れば、それが彼等の愛情を得る一番たしかな道でした。
ペガッサスは全力をつくしてビレラフォンを背中から振り落そうとしている間に、随分遠い道を飛んでいました。そして、くつわが彼の口にはめられるまでに、或る高い山の見えるところまで来ていました。ビレラフォンは前にもこの山を見たことがありました。そして、それは
急に湧いて来た、こうした義侠心に駆られて、ビレラフォンは、魔法のかかった手綱をペガッサスの頭からはずし、くつわも口から取ってやりました。
『ペガッサス、僕を捨てて行け!』と彼は言いました。『僕を捨てて行くか、僕を愛するか、二つに一つだ。』
その翼のある馬は、ヘリコン山の
その晩、彼等は仲よくならんで寝ました。ビレラフォンはペガッサスの頸を抱くようにしていましたが、それは逃げられない用心のためではなく、親切からでした。そして彼等は明け方に目をさまして、それぞれ自分の言葉で、お互に朝の挨拶をかわしました。
こんな風にして、ビレラフォンとその不思議な馬とは数日を過ごして、日一日と、互に一層
そこで、明け方目をさますとすぐに、彼はペガッサスを起すために、その耳をつねりました。ペガッサスはすぐに跳ね起きて、高く五百メートルばかりも飛び上って、すっかり目をさましているから、どんな旅にでもすぐ出かけられるということを見せるつもりで、山の
『うまいぞ、ペガッサス! うまいぞ、わが天馬!』とビレラフォンは、やさしくその馬の頸を撫でながら叫びました。『さあ、僕の速い、美しい友よ、僕達は朝飯を食べなくちゃ。今日僕達はおそろしいカイミアラと
彼等が朝飯をたべて、ヒポクリーニという泉のきれいな水を飲むと、すぐにペガッサスは自分からすすんで頭をさしのべて、彼の主人に馬勒をかけさせました。それから、盛んにはしゃいで、跳ねたり、空中を飛びまわったりして、出発を待ちかねているところを見せました。一方ビレラフォンは、剣を腰に下げたり、盾を頸からつるしたりして、戦いの用意をしていました。用意がすっかり出来た時、ビレラフォンは馬上の人となりました。そして、遠くへ出かけようとする時いつも彼がやる通りに、自分の進んで行く道がよく分るように、まっすぐに五マイルほど上って行きました。彼はそれから、ペガッサスの頭を東の方に向けて、リシアをさして飛びました。飛んで行くうちに、彼等は一羽の鷲に追いついて、それが彼等をよけることも出来ないうちに、すぐ近くまで行ったので、ビレラフォンは手を出しさえすれば、わけなくその脚をつかむことが出来たでしょう。こんな速さで、どんどん急いだので、彼等が深い、木の繁った谷のあるリシアの高い山々を見たのは、まだ午前中も早いうちのことでした。ビレラフォンが聞いて来たことが本当なら、おそろしいカイミアラが
目的地ももうすぐ近くなったので、ペガッサスはビレラフォンを乗せたまま、だんだんおりて行きました。そして山の
『カイミアラがこんな害をしたものに違いない、』とビレラフォンは考えました。『しかしその怪物は一体どこにいるんだろう?』
僕がさっき言ったように、最初見た時には、切立ったような高い山の間にある、どの谷間にも峡谷にも、別に目立ったものは何も見つかりませんでした。全くなんにもありません。ただ、たしかに、
しかし、あとを振り返って見て、ビレラフォンは何か目についたとみえて、まず手綱をしぼり、つづいてぐるっとペガッサスの向きを変えました。彼が合図をすると、ペガッサスはそれを解して、ゆっくりと空中を舞下って、とうとう彼の
その
ひどい、憎むべき奴! 三つの頭のうちの二つは居眠りしながら、そいつはまだ、おそろしい爪で、あわれな小羊の食い残りをつかんでいました――そうは考えたくないけれども、どうかすると、それは可愛い小さな子供だったかも知れません――いずれにしても、二つの頭がまだ起きていた時、三つの口でそれをむしゃむしゃ食っていたのです!
突然、ビレラフォンは夢から
一方、カイミアラの方は、全く尻尾の
『さあ、僕の愛するペガッサスよ、』と彼は翼のある馬の耳に囁きました、『お前は僕がこの
ペガッサスはいなないて、それから首をうしろに向けて、その鼻をやさしく乗り手の頬にすりつけました。こうしてペガッサスは、翼のある不死の馬ながら、もしも不死の命も死ぬことが出来るものなら、ビレラフォンを捨てて帰るよりも死んだ方がいいという意味を伝えたのでした。
『ありがとう、ペガッサス、』とビレラフォンは答えました。『さあ、それではあの怪物めがけて突撃しよう!』
そう言いながら、彼は手綱を振りました。そこでペガッサスは、その間もずっと、出来るだけ高くつき出していたカイミアラの三つになった頭をめがけて、矢のような速さで、
しかし、その埋合せに、蛇首と獅子首とは、死んだ山羊首のはげしさを全部彼等で引受けて、前よりもはるかにものすごく、火を噴き、しゅっしゅっと鳴き、そして吼え立てました。
『大丈夫だ、勇敢なペガッサス!』とビレラフォンは叫びました。『いま一太刀あんなのをあびせて、しゅっしゅっと鳴いている方か、吼え立てている方かを、やめさせて見せるから。』
そしてまた彼は手綱を振りました。前と同様、
『ああ、ああ! カイミアラが、きっとわしを呑みに来るのだ!』と、可哀そうな王様は思いました。
その間に、ペガッサスはまた空中に止まって、憤然としていななきましたが、その眼からは、すきとおった水晶のような火花が、ぴかぴかと飛び出しました。カイミアラの気味の悪い赤いような火とは、なんという違いでしょう! 天馬の勇気は、全身に湧き立ちました。ビレラフォンもまた同様でした。
『お前ひどく血が出るか、不死の馬よ!』若者は自分の
そこで彼は手綱を振って、
二番目の首を落されたカイミアラは、この時までに、あまりの痛さに火がついたように苦しんで、たけり狂っていました。そして、あまり激しくころげ廻ったり、飛び上ったりするので、一体地上にいるのか、空中にいるのか分らないくらいでした。それは蛇の口をおそろしく大きくあけたので、ペガッサスは翼をひろげたまま、乗り手も何も一しょに、その喉の中へ飛び込んでしまいそうだったと言いたいくらいです。彼等が近づいて行くと、それは火の息をものすごい勢で噴き出して、ビレラフォンと馬とをすっかり火の中に包んでしまって、じりじりとペガッサスの翼を焦がし、青年の金色の巻毛の片側を焼いてしまいました。彼等は二人とも、頭から足の先まで、
しかし、そのあとで起ったことから見ると、これくらいなことは何でもなかったのです。
ペガッサスが空中を突進して行って、百ヤード以内に近づいた時、カイミアラはぱっと跳び上って、その大きな、不格好な、毒のある、とてもいやな胴体を、可哀そうに、まともにペガッサスにぶっつけて、力一杯に彼をかかえ込んで、その蛇のような尻尾を結んだように巻いてしまいました。天馬は、山の峯よりも、雲よりも、高く、ほとんど地上が見えなくなるまで、ぐんぐん舞上りました。しかしそれでも、土に生れたその怪物は、ぐっとつかまえて放さず、光と空に生きるペガッサスにくっついて、一しょに上って行きました。その間に、ビレラフォンが振向いて見ると、カイミアラのおそろしい、すごいような顔と、鼻をつき合わさんばかりになっていたので、盾をさし上げて、やっとのことで焦げ死んだり、真二つに喰切られたりすることを
しかしカイミアラは、痛さのために気違いのようになってあばれていたので、ほかの時のように、よく身をまもっていませんでした。おそらく、結局のところ、カイミアラと闘うには、出来るだけぴったりとそれにくっついているのが一番いいようでした。一生けんめい敵にそのおそろしい鉄の爪を立てようとして、カイミアラは自分の胸をすっかり敵にさらしていました。これを見て取ったビレラフォンは、彼の剣を、そいつの残忍な心臓に、
そして、ビレラフォンは、こうして勝利を得た時、前かがみになって、ペガッサスに接吻しました。その時、彼の眼には涙がうかんでいました。
『さあ帰ろう、わが愛馬よ!』彼は叫びました。『ピリーニの泉をさして帰ろう!』
ペガッサスはこれまでよりも更に速く、滑るように空中を飛んで、いくらもかからないで、その泉へ着きました。そこにはあの老人が杖にもたれ、百姓男は牛に水を飲ませ、きれいな娘は瓶に水を汲んでいました。
『今になって思い出したが、』と老人は言いました、『わしはまだ全くの若者だった頃、一度この翼のある馬を見たことがあるよ。しかし、その時分には、この馬も今の十倍も立派だったがなあ。』
『わしはこの馬の三倍の値打のある荷馬車馬を持っているよ!』と百姓男は言いました。『もしもこの小馬がわしのものだったら、第一にわしはその翼を
しかしあの気の弱い娘は何も言いませんでした。というのは、彼女はいつも、こわがらなくてもいい時にこわがるようなことになってしまうのでしたから。そんなわけで、彼女は逃げ出して、水瓶をひっくりかえして、それをこわしてしまいました。
『あのおとなしい子供はどこにいます?』とビレラフォンは尋ねました、『いつも僕の傍にいて、決して信念を失わず、
『僕ここです、ビレラフォンさん!』とその子供は、やさしく言いました。
その小さな子は、実は、毎日々々ピリーニの泉の傍で、彼の友達が帰って来るのを待っていたのですが、ビレラフォンがペガッサスに跨がって、雲の中からおりて来るのを見ると、灌木の中へ逃げ込んでしまったのでした。彼は気の弱い、やさしい子だったので、彼の目から涙がぽろぽろとこぼれて来るところを、老人と百姓男とに見られるのがいやだったのです。
『あなたは勝ちましたね、』と彼は言って、まだペガッサスに跨がっているビレラフォンの膝の方へ、嬉しそうに駆け寄りました。『僕、あなたが勝つだろうと思っていた。』
『勝ったよ、君!』と答えて、ビレラフォンは馬からおりました。『しかし、もしも君の信念の助けがなかったら、僕は決してペガッサスを待たなかっただろうし、雲の上へも上れなかっただろうし、またおそるべきカイミアラを退治ることも出来なかっただろう。僕の大好きな小さな友達の君が、みんなやったようなものだ。さていよいよ、ペガッサスを自由にしてやろうじゃないか。』
そこで彼は、その非凡の馬の頭から、魔法の馬勒をはずしてやりました。
『我がペガッサスよ、永久に、自由になれ!』と彼は叫びましたが、その調子はどことなく悲しそうでした。『お前の速さに負けないくらい自由になれ!』
しかし、ペガッサスはその頭をビレラフォンの肩に乗せて、何と言って聞かせても、飛んで行こうとはしませんでした。
『それじゃ、まあ、』ビレラフォンは天馬を撫でてやりながら言いました、『お前の好きなだけ僕の傍にいるがいい。これからすぐに、われわれは一しょに行って、アイオバティーズ王に、カイミアラを退治たことを知らせよう。』
それからビレラフォンは、そのおとなしい子供を抱きしめて、また来るからと約束して、出かけて行きました。しかし、後年に至って、その子供は天馬に乗って、ビレラフォンよりも一層高く大空を駆けって、カイミアラ退治よりも更に名誉ある仕事をなし遂げました。というのは、彼はおとなしい、やさしい子供でしたが、大きくなって、とてもえらい詩人になったからです!
[#改ページ]
禿げた頂上
――話のあとで――
ユースタス・ブライトはビレラフォンの伝説を、まるで本当に彼が翼のある馬に乗って飛ばしているかのような熱意と元気とで話した。話し終った時、聞いていた子供達の顔が真赤にほてっていたので、彼等がどれほど興味を感じていたかが分る気がして、彼は嬉しかった。みんなは眼をくるくるさせていたが、プリムロウズだけはそうでなかった。彼女の眼には本当に涙がうかんでいた。というのは、ほかの子供達はまだ小さいので分らないような、この話の中の或る物に、彼女は感動したからだった。子供相手の話ながら、ユースタス・ブライトは、それによって、青年の熱情と、高邁な希望と、空想的な冒険とを、うまく子供達に吹き込もうとしたのであった。
『プリムロウズ、君は僕や僕の話を随分ひやかしたけれど、もうかんべんしてあげるよ、』彼は言った。『沢山笑ったことも、一滴の涙でつぐなわれるからね。』
『それはそうと、ブライトさん、』と、プリムロウズは目を拭いて、またいたずららしい笑い方をして彼を見ながら答えた、『たしかにあなたの頭は、雲の上へ来ると、考えが高尚になるわ。だからあたし、あなたに、ちょうど今みたいに山の頂上にいる時じゃないと、これから話をしないようにすすめるわ。』
『それとも、ペガッサスの背中に跨がってやるかだね、』とユースタスは笑いながら答えた。『僕があの驚くべき小馬をつかまえて来た手際は、なかなかの成功だったと君は思わない?』
『それはあなたが時々やる、
『僕としちゃ、今ここに、ペガッサスがいればいいと思うなあ、』とその学生は言った。『そうすれば、僕はすぐにそれに跨がって、仲間の作家達の間を文学巡礼しながら、ぐるっと幾マイルか廻って来るんだけれど。タコウニック山の麓にいるデューイ博士のところへも行けるだろう。向うのストックブリッヂには、歴史や小説を山ほど書いて、世に名高いヂェイムズさんもいる。ロングフェロウは、たしか、まだオックスボウへ来ていない筈だが、もし彼の姿が見えたら、ペガッサスがいななくだろう。しかし、こっちのレノックスでは、バークシアの風景と生活とをすっかり自分のものにしてしまった、われわれの最も真実な作家に会えるだろう。ピッツフィールドのこっち側では、ハーマン・メルヴィルが、大きなグレイロックの姿が窓をふさがんばかりにそびえている書斎で、彼の長編「白鯨」の雄大な構想を練っていることだろう。それからペガッサスがもう一飛びすれば、僕はホウムズの家の戸口に着くだろう。僕がこの人のことを最後に廻したわけは、ペガッサスがもし彼を見たら、すぐに僕をおろして、この詩人に乗ってほしいと言い出すにきまっているからなんだ。』
『あたし達のすぐ隣りにも作家がいるんじゃないの?』とプリムロウズは尋ねた。『タングルウッドの並木道の傍の古い赤い家に住んでいる、あの黙った人、時々森の中や湖の傍で、二人の子供をつれて歩いているのに出遇う、あの人よ。あたし、あの人が詩か、小説か、算術の本か、歴史の教科書か、それとも何かほかの本かを書いたことがあると聞いたように思うんだけど。』
『しっしっ、プリムロウズ!』とユースタスは、唇に指を当てながら、鋭い囁き声で叫んだ。『こんな山の上ででも、あの人のことは
『そして、タングルウッドもあたし達と同じように煙になってしまうんでしょうか?』ペリウィンクルは、破滅させられるとおどかされて、すっかりこわくなって尋ねた。『そしてベンや
『タングルウッドはそっくり今のままだけど、まるで違った家族がはいるだろう、』と学生は答えた。『そしてベンと
『なんて馬鹿々々しいことをあなたは言ってるんでしょう!』とプリムロウズは叫んだ。
そんな無駄口をききながら、みんなはさっきから山を下りはじめていたが、もう森の蔭へ来た。プリムロウズは山月桂樹の枝を少し取ったが、その葉は去年の葉だのに、霜や
『あなたの話に感心して、あなたに月桂冠を捧げるような人は、ほかには無さそうだわ、』と生意気なプリムロウズは言った、『だから、あたしからこれをお受けなさい。』
『これらの不思議な、面白い話によって、僕がほかからも月桂冠を受けないとは限らないよ、』と答えたユースタスは、つやつやした巻毛に月桂冠をつけて、本当に青年詩人のようだった。『僕はこれから休みの間、暇を見て、それから大学に帰ってからも、夏の学期中、今までの話を原稿に書いて、出版するつもりだ。去年の夏、バークシアで知合いになった人だが、出版もやれば、詩も書くというヂェイ・ティー・フィールヅ氏は、
『かわいそうに!』とプリムロウズは半分ひとりごとのように言った。『彼は当てがはずれて、どんなにがっかりするでしょう!』
も少し下へおりて行くうちに、