変な男

豊島与志雄




     一

 四月末の午後二時頃のこと、電車通りから二三町奥にはいった狭い横町の、二階と階下と同じような畳数がありそうな窮屈らしい家の前に、角帽を被った一人の学生が立止って、小林寓としてある古ぼけた表札を暫く眺めていたが、いきなりその格子戸に手をかけて、がらりと引開けるなり中にはいった。其処の土間から障子を隔てた、玄関兼茶の間といった四畳半の、長火鉢の前に坐っていた女主人の辰代たつよが格子戸の音に振向きざま、中腰に二三歩して、片膝と片手とを畳につき、するりと障子を引開けてみた。が、互に見知らぬ顔だった。
「甚だ突然ですが、実は……。」
 出迎えが余り早かったので学生は一寸面喰った形で、そう云い出したまま後は口籠ったのを、辰代は人馴れた調子で引取った。
「何か御用でございますか。」
 誘われたのに元気づいてか、学生ははっきりした言葉使いで云い出した。
「私は帝大の文科に通っている、今井梯二という者です。お宅で室を貸して下さることを、友人に聞いて参ったのですが、貸して下さいませんでしょうか。」
「それでは、あの、どなたかお友達の方が……。」
「ええそうです。」と、今井は俄に早口になった。「友人の友人がお宅にお世話になっていましたそうで、大変親切にして頂いて、非常に感謝していました。それを聞きましたので、お室が一つ空いていたら、私に貸して頂きたいと思って、参ったのですが。」
「左様でございますか。宅では、どなたか知り合いの方の紹介があるお方だけに、お願いすることに致して居りますけれど、そういうわけでございましたら、室の都合さえつけば宜しいんでございますが、只今一寸……。」
「いえ紹介なら、すぐにでも貰ってきます。是非貸して頂きたいんです。」
「それでも、空いてるのは四畳半一つでございますし、今日の夕方までに返事をするから、それまで誰にも約束しないでくれと、頼んでおいでになった方もございますし、今すぐと申しましては……。」
 辰代は言葉尻を濁しながら、相手の押しの強い調子を、図々しいのか或は朴訥なのかと、思い惑った眼付で、先ずその服装を――古ぼけた角帽や着くずれた銘仙の袷や短い綿セルの袴や擦りへった山桐の下駄などを、一通り見調べておいて、それから詳しく説明した。二階の八畳と四畳半とを客に貸しているが、今空いてるのは四畳半の方で、食事は朝だけしか世話が出来ず、その一食附きで月に十五円であること、午と晩との食事は、自炊でも他処から取るのでも、それは客の自由であること、それが承知なら貸してもよいが、ただ、夕方までという先約の学生の返事を待たねばならないこと。
「そういうことになっておりますので……もしお宜しかったら、また夕方にいらして頂けませんでございましょうか。」
「夕方……。」と繰返して学生は可なりの間、何やら考えてる風だったが、辰代がまた口を開こうとすると、急に云い出した。「それじゃ、その人が駄目になったら、是非私に貸して下さい。朝飯だけ拵えて頂いて、午と晩とが自炊なら、丁度私に好都合なんです。四畳半で十五円、それで結構です。私は只今、苦学のような形式で勉強してるんですから、万事好都合です。よろしくお願いします。もしお差支なかったら、夕方まで此処で待たして頂けませんでしょうか、もうじきですから。どんな学生か知りませんが、朝飯だけで承知するような者はなかなかいやしません。夕方またやって来るなんて云うのは、ていのいい口実です。大抵来やしません。よし来たって、断るに極っています。私の方に貸して下さい。夕方まで来なかったら、それで宜しいんでしょう。よし来たって、私が談判してやります。では此処で待つことにしますから。」
 そして彼は玄関の式台に腰を下してしまった。辰代は呆気にとられた風で、一寸言葉もなかったが、それなら兎も角も上って待っていて下さいと、ほんのお座なりに勧めてみた。
「そうですか、それじゃ失礼します。」
 躊躇もせずにのこのこ上りこんで、入口に近い片隅に坐り、角帽を傍に引きつけて、きちんとかしこまった。その様子が何だか滑稽じみていたので、辰代は一寸待遇してやる気になった。そして座布団と茶と菓子とをすすめた。然し彼はそれらには手もつけなかった。
「どうぞお構いなく。」
 そう云ったきりで、狭い庭の方をじっと眺めていて、一応室を見るようにと云われても、端坐した膝を立てようともせずに、黙りこくっていた。
「お国はどちらでいらっしゃいますか。」と、辰代は語の接穂がないので尋ねてみた。
「鹿児島です。」と、彼は答えた。「鹿児島はいい処ですよ。」
 そして彼は自ら進んで、鹿児島の風光明媚を説き出した。どの川の水もみな透明に澄みきっていて、一丈二丈ほどもある淵でさえ、底まで手にとるようで、魚の泳いでるのがはっきり見えて、釣をするのなんか実に愉快である。随って、そういう川の水の流れ込む海が、やはり底まで澄んでいて、魚の姿と一緒に桜島の影の写ってるのが、云いようもないほど綺麗である。
「水という水がすっかり、底まで澄みきってると思えば間違いありません。」と彼は結論した。
「それでは、舟になんか乗りましたら、恐うございましょうね。」
「恐いよりか綺麗です。……勿論、今じゃもう濁ってるかも知れませんが。」
「へえー。」と辰代は云ったきり、一寸挨拶に困ったが、それをうまくごまかした。「そうしますと、もう長くお国へはお帰りになりませんのですか。」
「三四年帰りません。」
「では高等学校もこちらで?」
「いえ、大学にはいって三四年になるんです。来年はもう卒業してやろうかと思っています。いつまでいてもつまらないですから。」
「そうでございますね、早くお卒業なすった方が宜しゅうございますよ。」
 そこで彼がまた黙ってしまったので、辰代はそれをしおに座を立った。
「私はこうしてるのが勝手ですから、どうかお構いなく御用をなすって下さい。」
「それでは御免下さい。」
 中腰でそう云い捨てて辰代が次の室へはいると、襖の影に娘の澄子が、今迄立聞きして居たらしくつっ立っていた。彼女はいきなり母の袂を捉えて、台所の方へ引張っていった。
「あの人変な方ね。」
「どうして?」と、辰代は聞き返した。
「だって、鹿児島では川の水も海の水も澄みきってるって、さんざん話してきかしといて、勿論今ではもう濁ってるかも知れないなんて、そんな云い方があるものでしょうか。ここが少し、」と彼女は頭を指先でつっついて、「どうかしてるんじゃないでしょうか。」
「まあ馬鹿なことを云うものではありません。大学生だというではありませんか、そんなことがあるものですか。」
「大学生だって当にはならないわ。三四年も大学にいるけれど、つまらないから来年は卒業してやるんだなんて、どう考えたって少し変だわ。」
「でもねえ、それは質朴そうないい人らしいですよ。」
「だからお母さんは買い被ってるのよ、あんな質朴があるものですか。お慈悲に室を借りてやるというような見幕で、家の中にまで上り込んできて、図々づうづうしいったらありゃあしないわ。お母さんもお母さんですよ、あんな人に上り込まれといて、お菓子まで出すなんて、あんまり人が善すぎるわ。」
「そんなことを云ったって、ああいう風になったのだから、仕方がないではありませんか。」
「いくら仕方がないからって、家に上げて待たせるって法はないわ。もしせんの人が来なくって、晩にでもなったらどうするの。あんな図々しい人だから、明日まで待つと云い出すかも知れないわ。」
「まさか、そんな……。」
「そうでなくっても、もし不良書生の仲間だったらどうするの。」
「そんなこともないでしょうよ。」
「でも分りゃしないわ。」
 澄子から説きつけられて、不安な眼付でじっと見られると、辰代の眼も、疑惑の色から不安の色に変ってきた。
「夕方になったら、何とか云って追い帰してしまいましょう。」
 早口にそう云い捨てて、辰代はぷいと流し場の方へ下りて、娘に対する、また自分自身に対する、軽い腹立ちまぎれに、がちゃがちゃと用をし初めた。それを見て澄子は、またいつもの癖が初まったなという顔付で、そして素知らぬ風を装って、奥の室の隅っこへ行って、雑誌なんかを繰り拡げた。
 所が澄子の杞憂は、それから一時間半もたたないうちに、意外なことのために打消されてしまった。
 表の格子戸の音がして、何やら人声がするようだったので、辰代は一寸小首を傾げたが、濡手を拭きながら急いで出て行った。そして玄関の茶の間の入口に呆れたように立ち止った。その姿を見て、澄子も立っていった。先刻の学生が、玄関の障子を二尺ほど開いて、その向うに立っている誰かと対談しているのだった。
「そして君は、」と彼は云っていた。「本気でここの室に落着くつもりですか、それとも、一時かりに越してくるつもりですか、どちらです?」
「なぜですか。」と相手は尋ねた。
「朝一食だけで、ひると晩とは、自炊をするか他処よそで食べるかしなければならないし、そういう不便を忍んでまで、あの狭い四畳半に落付くというのは、特別な事情のある者ででもなければ、一時の気紛れに過ぎないでしょう。それとも君には、何か特別の事情があるんですか。」
「私はまだ借りるとも借りないとも云いやしません。」
「こちらでもまだ、貸すとも貸さないとも云ってやしません。ただその前に、君の意志をはっきり聞いておきたいんです。」
「一体あなたは、此処の家の方ですか。」
「いや……一寸知り合いの者です。」
「それじゃ、御主人は?」
「不在です。だから私が代りにお話してるんです。」
 辰代は襖の影から一歩踏み出しかけたが、学生の言葉に喫驚して、また身体を引籠めてしまった。
「それではまた来ます。」と向うの男は云った。
「そして室はどうするんです?」
「考えてからにします。」
「其処で考えたらいいでしょう。何もむずかしいことではないんですから。」
「じゃあ借りません。」
「では破約しますね。」
「破約ですって……私はまだ借りると約束した覚えはありません。」
「そんならそれでいいです。お帰りなすって構いません。」
「そうですか。」
 そして手荒く閉める格子の音が聞えたので、辰代は何ということもなしに、慌てて飛んで出た。学生は平気で振向いた。
「やあ、すっかり聞いていられたんですか。」
 辰代は表の方を覗き見ながら云った。
「あなたあんなことを!」
「なあに構うもんですか。あんなあやふやな奴は駄目ですよ。借りるならどんなことがあっても借りる、借りないなら断じて借りない、という風にはっきりしていなければいけません。あんな意志の弱い煮えきらない者をおかれても、碌なことはありません。」
 辰代は仕方なしに腰を下してみたが、それでも心が落付かなくて、また立上って奥の室へはいっていった。其処には澄子がくすくす笑っていた。それを此度は辰代の方が、台所へ引張っていった。
「何を笑ってるのですよ!……どうしましょう?」
「あの人にお室を貸したらいいじゃありませんか。」
「でもねえ、あんなでは……。」
「随分図々しい人だけれど、あの人のは、図々しさを通り越して滑稽だわ。」
 そして澄子はまたくすくす笑い出した。
「笑いごとではありませんよ、あんな人だから、またどんなことを仕出かすか分りはしません。何とか云って断ってしまう工夫はないでしょうかね。」
「大丈夫よ。あれで案外質朴な人かも知れないわ。もし変なことになったら、中村さんにでも伯父さんにでも云って逐い出してしまったらいいじゃありませんか。」
「それもそうですね。」
 そして辰代は恐る恐る出ていった。見ると、学生は首を垂れて考え込んでいた。その顔をひょいと挙げて、辰代の視線にぶつかると、すぐに眼を外らして、いきなり一つお辞儀をした。
「私は何か悪いことをしたんでしょうか。悪いことをしたんでしたら、いくらでも謝ります。」
「いいえ、そんなわけではございませんが……。」
 辰代は口籠りながら奥の室を顧みた。
「それでは私に室を貸して頂けますでしょうか。」
 その懇願するような眼付を見て、辰代は心の据え場に迷った。そして助けをかりるような気持で、奥の室の娘の方へ呼びかけた。
「澄ちゃん、お茶でもおいれなさいよ。」
 澄子が立って来て、お辞儀をすると、学生は眼を見張った。
「あの、どなたかお家の方ですか。」
「娘でございますよ。」
「あそうですか。失礼しました。」
 彼はきちんと坐り直して、とってつけたように低くお辞儀をした。その様子を下目にじろりと見やって、澄子はくくっと忍び笑いをした。辰代はその袖を引張った。
「この方が二階の室を借りたいと仰言るんですが……。」
 云いかけた所を、澄子の笑ってる眼付で見られて、辰代は自分のあんまりな白々しさが胸にきて、文句につまってしまった。それへ向って、学生はまた一つお辞儀をした。
「どうか願います。」
 ぷつりと云い切って、身を固くかしこまったまま、もう身動き一つしなかった。
 暫く沈黙が続いたのを、辰代が漸う口を開いた。
「私共ではこの二人きりで、手不足なものでございますから、何もかも不行届きがちになりますけれど……。」
「なに結構です。それでは今晩参ります。」
「あの今晩すぐに……。」
「ええ。学生の引越しなんか訳はありません。」
 彼はもう立ちかけていた。
「では急ぎますから、失礼します。」
 辰代と澄子とは、彼をぼんやり玄関に見送った。それから障子を閉めきると、辰代はほっと吐息をついた。
「私あんな人は初めてですよ。」
「でも正直そうな人じゃありませんか。少し変ってるけれど、ひょっとすると……あれで天才かも知れないわ。」
 天才という言葉がすぐには腑に落ちかねて、辰代は眼を瞬いた。
「本当に今晩越してくるのでしょうか。」
「あんな人だから、屹度来るに違いないわ。」
「それなら掃除をしておかなければなりませんね。」
 綺麗好きな辰代はすぐに二階の四畳半の掃除にかかった。先ず室を掃き出しておいて、押入や畳に一々雑巾をかけた。それが済むと、もう夕食の時間になっていた。
 食事中に辰代はふと思い出して云った。
「電気会社へ行ってこなければなりませんね。」
「どうしてなの。」
「あの人が来て早々から、電気がなくては困るでしょうよ。」
「いやだ、お母さんは。電気はつけ放しじゃありませんか。」
「そうでしたかしら。」
 それでも彼女は、二階へ上って見て来なければ安堵しなかった。
 卒業したばかりの若い医学士で、二階の八畳を借りてる中村が、病院から帰って来て、和服にくつろいで、玄関の茶の間で煙草を吹かしてる時、そして、辰代が澄子に手伝わして、台所の後片付けをやってる時、大学生は引越して来た。布団の包みと柳行李を一つと白木の机、それだけの荷物をつんだ車の後から、一人でてくてく歩いて来た。
「今日から御厄介になります。」
 かたばかりに膝をついて、誰へともなく云ってから、彼はすぐに荷物を二階へ運び初めた。辰代はそれを手伝って、なおその上に、室の中の整理を手伝おうとした。押入も畳もすっかり雑巾がけをしておいたこと、押入の中には新聞紙を敷いといたから、その上にそっと荷物をのせること、机は窓の下に据えるがいいこと、などといろんな注意をして、今にも自分から荷物へ手をつけそうにした。大学生はその親切を却って迷惑がってる様子で、しまいには坐り直して云った。
「有難うございました。後は自分でしますから、どうか構わないでおいて下さい。」
「それでは、」と辰代は素直に応じて、「少しお片付きになりましたら、階下したにおいで下さいませ。お茶でもおいれ致しますから。手前共はこういう風でございまして、何にもお構い出来ません代りに、家の者同様に思って隔てなくして頂きます方が宜しいんでございます。」
「ええ、どうぞ。」と彼は云った。
 その可笑しな挨拶には気にも留めないで、辰代は階段を下りていった。
 階下したでは、澄子が中村に向って、昼間のことを話してきかしていた。そこへ辰代はいきなり横合から云い出した。
「大学生にしては、随分荷物の少い方ですね。」
「だって、」澄子が応じた、「苦学をしてるとか仰言ってたじゃありませんか。」
「でもねえ、いくら何だって、本箱の一つくらいありそうなものですがね。」
「本箱は頭の中にしまっとく方がいいですよ。」と中村が云った。
「あんまり荷物が少なすぎますよ。」
 辰代は自分一人の繰言をしながら、台所へやっていった。そして残りの用を済し、何か繕い物を持出してきて、室の隅に蹲った。
 澄子はまた話の続きを初めていた。大学生とも一人の学生との応対の所になると、彼女と中村とは、はっと気付いて口を噤まねばならなかったほど、愉快な高笑いを洩らした。
「私あの方を、」と澄子は云った、「まるっきりの田舎者か、それとも偉い天才か、どちらかと思ってよ。」
「そうだね。」そして中村は考え深そうな眼付をした。「わざと衒っているのじゃないかしら。」
「いいえ、ありのままよ。衒うことなんか、これっぱかしも出来そうにない人だわ。」
「もしそうだったら、その変梃なのが正直な所だったら、澄ちゃんが云うように天才かも知れないね。」
「どうして?」
 そこで中村は、医学上の見地から天才というものを解釈して、天才とは結局、頭脳の一部分が極度に発達して、他の部分が萎縮してしまってる、一種の不具者だとした。澄子はそれに反対して、天才にもやはり立派な人格者がいると云い、その例に、トルストイやナポレオンを持ち出した。中村はそれを打消して、そう思うのは遠く離れて見るからだと云い、近寄って見ると天才は皆不具者だと説いた。
「一番いい例は、二階のあの人だね。近く寄って見るから変梃に見えるので、遠く離れると立派な人格者に見えるものだよ。」
「そんなことないわ。」
「じゃあ澄ちゃんは、あの立派な天才を、天才ではないと云うのかい。」
 澄子は眼をくるりとさしたが、瞬間に、手を挙げて打とうとした。
「まあ憎らしい!」
 そのはずみに、火鉢の鉄瓶を危く引っくり返そうとした。
 針仕事の上に首を垂れて、こくりこくりやっていた辰代が、喫驚して眼を開いた。
「何をしてるんですよ!」
 澄子が笑い出したので、彼女ははっきり眼を覚してしまった。
「お二階の、あの方は?」
 それで初めて気がついて、皆は耳を澄してみた。二階はひっそりと静まり返って、ことりとの物音もしなかった。
「そうそう、まだお茶も出さないで……。」
 辰代は慌て気味に茶菓子を用意して、二階の四畳半に上っていった。
 すると大学生は荷物を運び込んだままの室の中で、布団の包みに頭をもたせ、仰向に寝そべって、まじまじと天井を見つめていた。

     二

 斯くて今井梯二は、南に縁側があり東に腰高な窓がある、その四畳半の室に落ち着いた。そして翌朝先ず第一に白木の机をあちこちへ持ち廻って、結局それを窓の下に据えた。この白木の机について、可なりたってから、彼は澄子へこう云った。
「机というものは学生にとっては、最も神聖なものであるべきです。だから私は白木の机を使ってるんです。普通のものは、どれもみな何かが塗ってあります。よく紫檀の机や何かで納まり返ってる者もありますが、紫檀は最もひどいごまかしもので、あれにはみな色が塗ってあるんです。そして生地きじの色らしく見えるのがなおいけません。私のこの白木の机だけは、天然自然の生地のままで、どんなことをしても剥げるということがありません。」
「だって、」と澄子は微笑みながら云った、「あなたはそれを毎日拭いていらっしゃるじゃないの。やっぱりごまかしじゃありませんか。」
「磨きこむのとごまかしとは違います。私は自然を磨きこんでるのです。」
 そして彼は絹のぼろ布で、毎日必ず一回は、白木の机をきゅっきゅっと拭き込んだ。
 さてその朝、机を窓の下に程よく据えてしまうと、次に柳行李の蓋を開けた。中には、四五枚の着物と、幾冊かの書物と、アルミの鍋と、大きなボール箱とがあった。ボール箱の中には、砂糖とパンとがはいっていた。
 ひると晩とを、彼はパンと牛乳とですごした。所が牛乳は、辰代が台所の瓦斯で沸かしてくれたので、アルミの鍋は押入の中に投り出されたままになった。お茶はいつでも玄関の茶の間にあったが、彼は辰代が貸してくれた火鉢の鉄瓶から、湯ばかり飲んでいた。その代り、一週に二度くらいは、近くの店から西洋料理や蒲焼などを取って貰った。
「御馳走は、」と彼は云った、「のべつに食べるものではありません。平素粗食をしていて稀に食べると、それがすっかり消化されて、全部身体の栄養になるんです。いつも御馳走ばかり食べてると、胃袋がそれに馴れきって、素通りさせてしまいます。それで、旨い物ばかり食べてる者には粗食が非常に栄養になると同じに、私みたいにパンばかり噛ってる者には、時々の旨い料理が非常に栄養になるんです。胃袋という奴ほど珍しもの好きはありません。」
 然し、そういう彼の生活を辰代は不経済極まるものだと思った。そしていろいろ経済の途を説いてきかしたが、彼はただ笑ってるばかりだった。
「経済法なんて、人間を愚かにするばかりです。」と彼は云った。
 それならそれでいいと、辰代は思った。実際、彼にそれだけのお金があるのなら、何をしようと彼の勝手だった。けれども、ただ一つ、辰代も我慢しかねることがあった。
 今井の所へは滅多に友人も来なかったが、それでも時々、怪しい風体の者がやって来た。髪を長く伸していたり、または一分刈りに刈り込んでいたり、髯をもじゃもじゃに生やしていたりする、同年配の青年等で、狡猾とか陰険とかいう風貌ではなかったが、少しばかりの朴訥さの見える図々しさを具えていて、それが大抵、雨の降る夜更けなどに訪れてきた。雨の中を傘もささずにやってきて、霽れ間を待ちながら、自分の濡れた着物と今井の乾いた着物とを、着代えては帰っていった。そしてそのまま、いつまでたっても着物を返しに来なかった。夜更けてやって来る者は、よく腹が空いてると云っては、何か食べる物を取寄せて貰った。中には翌朝までいて、飯を食ってゆく者もあった。
「食べるものくらいは、どうにでもなりますが、」と辰代は憤慨の調子で云った、「こんなびしょ濡れの着物を、あなたはどうなさいますか。それも後で取代えにでも来れば宜しいんですが、着て行きっきりですもの。こないだも、あなたの足駄をはいていって、その上御丁寧にも、自分の駒下駄は新聞に包んで持っていって、そのまま姿も見せないでございませんか。こんな風だったら、今にあなたは身体一つになっておしまいなさいますよ。」
「だって、みんな私の所を当にして来るんですからね。」と今井は云った。
「そんなに気がお弱いから、あなたはつけ込まれるんでございますよ。第一、他人の物を当にして来るって法がありましょうか。自分の物も他人の物も区別しないようになりましたら、世の中に働く者はありはしません。」
「いえ、彼奴あいつ等だって、相当には働いてるんです。今働いていなくても、これから、後に、大いに働くつもりでいるのです。それで取返しがつくじゃありませんか。」
「取返しがつきますって! そんなことを云ってらっしゃるうちに、あなた御自身はどうなります? 今に何もかも持ってゆかれてしまうではございませんか。」
「なあに私は、こうしていさえすれば、どんなことがあってもへこたれはしません。意志がしっかりしていますから。」
 辰代は呆れ返ったように相手の顔を見つめた。そしてやがて云った。
「あなたくらい分らない方はありません。私がこんなに心配していますのに、当のあなたがそんなお心なら、もう口出しは致しません。いえ致すものですか。どうとでも勝手になさるが宜しゅうございます。どんなにお困りなすっても、もう一切存じませんから。」
 彼女は腹を立てて、その腹癒せの気味もあって、やたらに気忙しなく用をしたり、そこいらのものをかき廻したりした。それを今井は済まなそうな眼付でちらと見やって、それから首垂れて考え込むのだった。
 然し彼女のそういう腹立ちを、澄子は傍から可笑しがっていた。
「お母さんくらい可笑しな人はないわ。自分のことはそっちのけにして、いつも他人ひとのことばかり心配しているんですもの。」
 それを辰代は聞き咎めた。
「馬鹿なことを仰言い! 自分のことは自分でちゃんとしていますよ。あなたまでそんなことを云うなら、私はもう何にも知りませんから、あなたが何もかもしてみるがようござんす。他人ひとさんのお世話をするのは、そりゃ容易なことではありませんよ。」
「だって、今井さんは初めから変人だと分ってるじゃありませんか。」
「いくら変人だからって、御自分のものを他人に持ってゆかれて平気でいるのは、あんまりひどうござんすよ。」
「それくらいのことは、今井さんには何でもないんでしょうよ、屹度。あんな人のことは、やきもきするだけ損だわ。考えてみれば、何もかも変じゃありませんか。家にいらしてから、一度も学校に行かれた様子もないんでしょう。いくら大学だからって、あんなに休んでばかりいていいものでしょうか。それに角帽が一つあるきりで、制服だって、持っていらっしゃるかどうか分らないし、ノートの一冊もないんでしょう。そして朝から晩まで、あの白木の机を拭き込むばかりで、ぼんやり考え込んでいて、一体、何をなすってるのか、何を考えていらっしゃるのか、まるで見当もつかないわ。私今井さんは屹度、文学とか哲学とか、そんなことをやる人だと思ってよ、いくらお母さんが注意してあげたって、ただ煩さがりなさるばかりだわ。」
 澄子の云うことは事実だった。今井は文科大学生と云ってはいるが、制服は勿論のこと、ノート一冊も持ってはしなかった。そして学校へ出ることも殆んどなかった。朝遅くまで寝ていて、多くは一日室の中に籠っていた。時々外出することもあったが、袴をつけたりつけなかったり、また時間も非常に不規則だった。そんなことを考えると、辰代は漠然とした不安を覚えてきた。
「でもこれは私の思い過ぎかも知れない。」と彼女はまた考え直してもみた。
 実際今井が変人だということは、日常の様子を見てもすぐに分った。辰代や澄子や中村などと顔を合せる時には、馬鹿に丁寧な挨拶をすることもあれば、むっつりとして眼を外らすこともあった。それがまるで気紛れで、こちらから挨拶すべきかどうか、その時々の見当が全くつかなかった。挨拶をしてるのに外方そっぽを向かれることもあるし、黙ってるのに丁寧な挨拶をされることもあった。両方うまく調子が合うことは稀で、大抵は気まずい思いが残った。それからまた、毎晩玄関の茶の間に集って、皆で一寸世間話をするのが、殆んど習慣となっていた。中村は、一日病院で働いてしみ込んだ薬の香を、それによって消し去りたい気もあったろうし、澄子は、いろんなことを云って中村に甘えて、父や兄弟姉妹のない淋しさをまぎらしたい気もあったろうし、辰代は、話の仲間入りしてる風をしながら、自由に居眠りたい気もあったろうが、然し何よりも、皆揃ってのそういう雑談は、それが習慣となってしまうと、欠かしては何だか物足りないような、知らず識らずの淡い魅力を持っていた。所が今井は、辰代がいくら誘っても、越してきて一二度顔を出したきりで、その雑談の席に加わらなかった。辰代もしまいには誘わなくなった。そして時によると、今井に留守を頼んで皆して活動写真や寄席に出かけた。今日は私が留守をするからと中村が云い出し、辰代が今井を案内しようとすることもあったが、そんな所へは行っても退屈するばかりだと、今井はきっぱり断った。
 その退屈という言葉が可笑しいと云って、澄子は笑った。
「あんなに一日中じっとしていて、その方がよっぽど退屈な筈だわ。」
 そして彼女は、そのことを今井に向ってまで云った。
「じっとしていても私は退屈はしません。」と今井は答えた。
「じゃ何が面白いの?」と澄子は尋ねた。
「何にも面白いことはありません。」と今井は答えた。
「それではやっぱり退屈じゃありませんか。」
「いえ、面白くもないが退屈でもありません。」
「では何でしょう?」
「そうですね、何でしょう?」そう彼は繰返して、俄に陰鬱な顔付になった。「まあ、夢をみてるようなものですね。」
「だって夢は面白いものだわ。」
「それは後から考えるから面白いので、みてる当時は、面白くも退屈でもありません。」
「あら、そうかしら……。」
 そして暫くたってから、いろいろ考えてみた上で、そうかも知れないと彼女は思った。と同時に、この新発見を友達に云い触らそうと思いついて、一人にこにこ笑いだした。そしてそれを教えてくれた今井のことを、夢想家だとしてしまった。
 その夢想家の今井が、或る晩十一時頃、酒に酔って帰ってきた。丁度皆茶の間に集って、少し長くなって、雑談の種もつきて、ぼんやりしてる所だった。今井は酒臭い息を吐きながら、それでも足許は確かで、勢よくはいり込んできて、室の片隅に腰を下して、水を一杯ほしいと云い出した。辰代は喫驚した顔付で、台所へ水を汲みに立っていった。帰って来るといつもすぐ二階へ上ってしまう彼が、そして二階には水も湯もある筈なのに、その時に限って、皆の仲間入りをしたのも珍しかったし、また酒は嫌いだと云っていた彼が、酔ってるらしいのも珍しかった。然し水を汲んできて更に彼女が喫驚したことには、今井は立派な西洋菓子の箱を其処に差出して、皆で食べてくれと云った。
「今日はどうなさいましたの。」と彼女は尋ねた。
「一寸愉快なことがあったんです。」と云って今井はさも愉快そうに眼を輝かした。「友人に出逢いまして……そら、こないだ私の着物を着ていった奴です。見ると、私の着物を着て澄し込んでるじゃありませんか。それで私は、着物のことであなたからさんざん小言をくったわけを、そっくり云ってやりましたよ。すると大変恐縮して、今日は少し金がはいったから、御恩返しをしようと云い出したんです。そして私を引張っていって、御馳走を食わしてくれました。私も常なら酒は飲まないんですけれど、そういう意義のある酒ならと思って、可なり飲んでやりました。それから帰りに、彼はこの菓子を買ってきて、是非あなたに上げてくれと云うんです。だから持って来ました。」
「まあ、あの方が!」と辰代は怪訝な顔をしたが、急に何やら腑に落ちたらしい様子で、「へえ左様でございましたか。それでは皆で頂くことに致しましょう。」
 それでも、菓子を半分ばかり食いかけた時、彼女はふと思い出したように云った。
「そして、お召物はどうなさいましたの。」
「彼にくれてきました。」
「えっ!」
「向うでそれだけの好意を見せてくれたんですから、こちらでも好意を以て、着物は君に上げようと云ってきました。」
「まあとんでもない! だからあなたは仕様がございませんよ。それではうまうまひっかかってしまったようなものですよ。向うではあなたがそういう人だということを承知の上で、企んでやったことに違いありません。それなのに、私にお菓子を買って寄来すなんて、図々しいにもほどがありますよ。」
 それでも彼女は、手に残りの半分の菓子を食べてしまった。
「そうばかりでもないでしょう。人の好意は正面から受け容れるのが私の主義です。」と云ってから今井は、俄に話を変えた。「今日だけは小言は止して下さい。珍しく酒を飲んで愉快になってるんですから。……そんな話よりも、全く素晴らしいことを見て来ましたよ。」
「どんなことです?」
 さっきから皮肉な笑顔で二人の話を聞いていた中村が、そう引取って尋ねた。
「私は人間の頭があんなに脆いものだとは思いませんでした。」
「人間の頭ですって?」
「そうです。実はこの菓子折を下げて、友人と二人で、或るカフェーにはいって、酔いざめの冷いものを飲んでいました。すると、不良少年……と云ってももう青年ですが、そういう二三人の連中と。やはり二三人の朝鮮人か支那人らしい、怪しい様子の連中との間に、喧嘩が初ったのです。何がきっかけだかは分りませんが、大きな怒鳴り声がしたので振向いてみると、両方立上って殴り合おうとしてるんです。と思ううちに、その不良青年らしい方の一人が、相手から先を越されて頬辺ほっぺたに拳固を一つ喰わせられましたが、一足よろめきながら、側の卓子の上にあったからのビール瓶を取って、向うの奴の脳天から打ち下したんです。ビール瓶はそのまま壊れもしないで、相手の男はばったり倒れてしまいました。よく見ると、頭の鉢が割れて、血がどくどく流れ出してるじゃありませんか。」
「まあ、本当?」と澄子が声を立てた。
「本当ですとも。私は喫驚してしまいました。空のビール瓶で、それも瓶がわれて、割れ目で切れるとかなんとかなら、まだ分っていますが、丸のままの瓶で、頭蓋骨を叩き割るというのは、いくら腕が冴えていたって、一寸考えつかないことですよ。」
「然しそれは、ただ皮膚が破れたばかりではなかったのですか。」と中村が云った。
「いえ確かに頭蓋骨がわれたんです。頭の形が変梃になって、傷口から石榴のようなぐじゃぐじゃなものが見えていました。」
「そして。それからどうしました?」
「その男が倒れると、カフェー中の者は総立ちになりました。がその隙に、殴った方の連中は、何処かへ逃げ出してしまったんです。そして皆で、倒れてる男を引起したんですが、もう死んでるらしいんです。即死ですね。それから大騒ぎになって、その男は仲間の者から、すぐ病院へかつぎ込まれるし、警官はやって来るし、野次馬はたかるし、ごった返しましたが、どういうものか、警官は皆をカフェーの外に逐い出してしまいました。それを幸に、私達も外に出ました。証人にでも引張り出されちゃつまりませんからね。」
「おまけに、金も払わなくて済んだわけですね。」と中村は云った。
 その言葉に、澄子は一寸微笑を洩らしたが、今井は不快そうに眉根を寄せた。そして暫く黙っていた後、宛も胸の鬱憤をでも晴らすような調子で、口早に云い出した。
「私は人間の頭蓋骨が、あんなに脆いものだとは思わなかったんです。所があれを見てから、空のビール瓶で打割られたのを見てから、変に興奮してしまいました。いつ自分の頭も打割ちれるか分らない、うっかりしてはいられない、とそんな気がしたんです。明かに殺意を以て頭を割られるのは構いませんが、偶然に割られるのは考えても堪りません。あの連中だって、前から遺恨があってのことではなく、また殺そうとか殺されるとかいうつもりでもなく、ただ偶然にああなったまでのことでしょう。それを考えると、何だか私はじっとしていられないような気持になってきます。」
「然し、」と此度は真面目な調子で中村は云った、「偶然だからまだいいんで、初めから殺意があったらなおいけないじゃありませんか。」
「私はその反対だと思うんです。意識的に殺されるのは構わないが、偶然殺されるなんて真平です。」
「では殺す方はどうでしょう。」
「殺す方だって同じです。偶然に人殺しをするような者は、永久に救われない奴です。けれど、意識して人を殺せるくらいな人間は、またどこか偉い所があると思うんです。私は友人からこういう話を聞いたことがあります。ゴリキーの書いたものにあるそうですが、ロシアの革命の頃、或る処の農民は、捕虜にした何十人かの敵の兵隊を、逆様に腿まで地中に埋めて、苦しさに足をぴんぴんやって死んでゆくのを眺めて、何奴どいつが一番我慢強いとか、何奴が一番息が長いとか、そんなことを云い合って面白がったそうです。また或る処では、捕虜の腹から腸の一部を引出して、それを樹木の幹に釘付にし、皆で其奴を鞭で引叩き、其奴が木のまわりを送げ廻る[#「送げ廻る」はママ]につれて、腸がずるずる出てくるのを見て、皆で面白がったそうです。而もそれが、敵の兵士とは云いながら、やはり同胞のロシア人なんです。その話を聞いた時私は、何もかも打忘れて或る者を愛するとか、一身を擲って主義に奉仕するとか、そう云った偉い人間がロシアから出るのは、尤もなことだと思いました。憎悪とか愛情とか、残忍とか親切とか、さういった風な感情は、一方が強ければまたそれだけ他方も強いものです。所が日本人は、あらゆる感情が弱々しくて中途半端です。弱い半端な感情からは、決して偉大な行いは出て来ません。」
「然しそうだとすると、文明の否定ということになりはしませんか。凡て野蛮な悪い感情を洗練してゆくということが、文明の発達のように思えるんですが、あなたの説に依れば、野蛮時代に逆戻りをする方がいいことになりますね。」
「いえ逆戻りじゃありません。善い感情も悪い感情も、一緒に磨き上げてゆくのが文明です。悪い感情を善くなしてゆくとか、または悪い感情を滅して善い感情だけを育ててゆくとか云うのは、痴人の寝言です。そんなことをしてるうちには、感情全体が鈍ってきて、まるで去勢されたようになってきます。善と悪とが相対的のものである以上は、善い感情と悪い感情とは相対的なものです。一方が滅ぶれば他方も滅んでしまいます。両方を強く燃え立たして、ただどちらに就くかだけが問題です。野蛮時代は、いろんな火がごっちゃに燃えていたのですが、その火を選り分けて、純粋な焔を立てさせるのが文明です。そして肝要なのは、そのいろんな焔のどれに就くかという方向だけです。焔を弱める必要はありません。」
「それなら、ただ一つの火だけ燃やしたらいいじゃないですか。」
「それはキリスト教の云う言葉です。ギリシャの多神教ではそんなことは云いません。そしてキリスト教では、三位一体なんてことを鋭いていますが、あの神は実は人間ではなく怪物で、ギリシャの多神教の神々こそ本当の人間です。」
「それでは一層のこと、人間を止してしまった方がいいわけですね。」
「そうです。」
 今井が余り無雑作に肯定したので、中村は一寸意外な顔付で口を噤んでしまった。それから多少皮肉な調子で、病院に人体解剖を見に来ないか、人の頭の割れたのより遥かに参考になるかも知れない、などと云い出した。
「そんなものは駄目です。」と今井は答えた。「死んだ身体の解剖や、麻睡された者の手術なんかは、学者にしか用のないものです。はっきりした意識を持ってるぴんぴんした人体の解剖なら、私も是非見たいと思うんですが、そんなのは、野蛮人の間にしかないでしょう。」
「では戦争に行かれるといいですよ。」
 今井は何とも云えない嫌悪の表情をした。
「あなたの理論から云いますと、」と中村は追求した、「戦争もいいじゃないですか。」
「戦争は人を狂人きちがいになすから嫌です。」
「どうしてです?」
 今井は何とも答えないで、それきり押し黙ってしまった。
「もうそんな話は止しましょうよ。私嫌だわ。」と澄子が口を出した。
 中村は何と思ったか、俄に笑い出した。そして、今晩頭の割れたおばけが出るなどと澄子をからかいながら、話は他の方へ外れていった。ただ今井ばかりは一口も口を利かなかった。十二時が打つと、喫驚したようにして室へ上っていった。
「十二時になって慌てて寝るなんて、今井さんの柄にもないわ。」と澄子は小声で云った。然しそれは当っていなかった。今井は室にはいったが寝もしないで、長い間考え込んでいたのである。
 そしてその晩のことは、或る印象を皆に与えた。辰代は、今井の話がよく分りはしなかったが、その全体から不気味な底深いものを感じて、多少畏敬の念の交った不安さを覚えさせられた。今迄単に変人だと思っていたものが、案外根深い所から来ているのであって、まかり間違えば、善にしろ悪にしろ、どんなことを仕出来すか分らない、といったような気がした。中村は、やはり今井を素直でない人間だと考え、衒っている――というのが悪ければ少くとも――僻んでいるのだと思った。澄子は、今迄通り今井を滑稽化して眺めたかったが、何かしら滑稽だとばかりは見做せないもののあるのを感じた。そしていろいろ考えた上、結局彼を野蛮人だとした。
 所が或る日、その変人で夢想家で野蛮人である今井が、雨にびしょ濡れになって帰って来た。学校から戻ったばかりの澄子が、袴姿のまま出迎えると、彼は雫の垂れる帽子を打振って水を切りながら、足が汚れてるから雑巾を下さいと云った。それを聞いて、台所にいた辰代がバケツに水を汲んできた。今井さんにありそうなことだ、と澄子が思ってると、辰代の方ではこう云っていた。
「雨の中を傘もささずに歩いていらっしゃるってことがあるものですか。あなたも少しお友達の真似をなすって、傘を借りっ放しにしていらっしゃれば宜しいではございませんか。」
「いや図書館に行ってたんです。」
「あら、今井さんでも図書館にいらっしゃることがあって?」と澄子は云った。
「たまに行ってみたから罰が当ったんでしょう。霽れるのを待つつもりだったんですが、少し気分が悪いから帰って来ました。」
 足を洗って上って来た彼の顔は真赤だった。その額に辰代が手をあててみると、火のように熱く感じられた。
「まあ大変なお熱でございますよ。すぐお寝みなさらなければいけません。……澄ちゃん、床を敷いておあげなさいよ。」
 澄子がまだ袴をつけてるのを見ると、辰代は自分から二階に上っていって、寝床を敷いてやり、濡れた着物を寝間着に着代えさしてやって、それから暫く枕頭に坐って様子を見守った。
「大したことじゃありません。」と今井は云った。「雨に当ったからかっとしたんです。少し寝ていればじきになおります。」
「でも兎に角、晩にはお粥が宜しゅうございますよ。拵らえて差上げましょう。」
 そして辰代は夕方、粥や梅干や一寸した煮肴などを持っていったが、今井は何も食べたくないと云って、それには手もつけないで、ただしきりにお茶ばかり飲んでいた。小用こように立って下りてくる時には、足がふらふらしていた。それでも大したことはないと云い張って、薬も手当も一切断った。
 辰代は心配しだした。中村が病院から帰ってくると、診てやってくれと頼んだ。
「どうされたんです? 熱がおありですか。」
 そう云って中村は今井の室にはいっていった。
「いや何でもありません。」と今井は天井を見つめたまま答えた。
「一寸脈を拝見してみましょうか。」
 そして中村がにじり寄ろうとすると、今井は手先を挙げてそれを制した。傍から辰代も勧めてみたが、彼は承知しなかった。
「私で不安心でしたら、懇意な内科の医者を呼んであげましょうか。」と中村は云った。
「いいえそうじゃありません。私は医学を信じないんです。」
 中村は微笑を洩らした。
「医者の大家には、よくそう云う人がありますが……。」
「医学くらい進歩していない学問はありません。」と今井は云い進んだ。「医学が一番進んでいる、などと云う人がありますが、真赤な嘘です。私はこう思うんです。凡そ天地間のあらゆる生物、または現象には、それに反対の生物や現象が必ずあるものです。そして病気に対して、その直接の反対のものを探し出すのが、医学の仕事でしょう。所が現在の医学では、そういうアンチ療法ということは、ごく僅かしか行われてやしません。行うことが出来ないんです。それで大抵は廻りくどい間接療法ばかりです。間接療法をやってるうちには、病気の方で衰えて、それで癒ったように見えることもありますが、それは偶然の結果で、実を云うと、病気は独りでに自然に癒ったのです。そして多くは、間接療法のために他の器官が弱らされて、回復が長引くばかりです。そんなことになるよりは、自然のまま放っておく方がましです。癒るものなら必ず癒るし、死ぬものなら必ず死にます。」
「驚きましたね、あなたから医学の講義を聞こうとは思いませんでしたよ。」そして中村は取ってつけたような笑い方をした。「そうするとあなたは……運命論者ですね。」
「反対です。生きるも死ぬるも自分の手で処置したいから、あやふやなことに望みをかけないだけです。」
 中村が何か云い出そうとすると、辰代はその袖を引張った。それで彼はただこう云った。
「その議論は全快されてからにしておきましょう。そして……いやそれくらい頭がはっきりしていられるんですから、大丈夫必配なことはありません。一寸した冷込みでしょうから、温くして寝ていられるがいいですよ。」
 中村が出て行こうとすると、今井は身を起しかけたが、手で制せられて、またがっくりと頭を枕につけた。
 辰代は中村の後を追っかけて、階下したに下りてきた。
「ほんとに喫驚なさいましたでしょう。私もあんな人だとは思いませんでした。どうぞお気を悪くなさらないで下さいましな。ああいう変った方ですから、悪気わるぎで仰言ったのではございませんでしょうし、熱の加減もあったでしょうし……。」
「なあに私は何とも思ってやしません。それでも、医学の説明を聞かされたには一寸驚きましたね。」
「そして、どうなんでございましょう?」
「自分で大丈夫だと云っていますから、それより確かなことはありませんよ。ただ頭だけは冷してやった方がいいんですがね。」
「ではそう致しましょうか。」
 辰代は水枕をしてやり、額を水手拭で冷してやった。今井は黙ってされるままになっていた。そのうちにすやすやと眠った。辰代は少し安心した。
 所がその晩、辰代と澄子とがもう寝ようと思って、二階の様子に耳を傾けると、かすかな呻き声が聞えた。辰代は驚いて上っていった。見ると、今井は半ば布団から乗り出し、額にじっとり汗をにじませ、夢現ゆめうつつのうちに呻っていた。身体が燃えるように熱くなって、熱っぽい息をつめながら呻っていた。辰代は狼狽し出した。そして澄子を呼んだ。
「まあ、大変な熱だわ。」と澄子は叫んだ。
「中村さんをお起ししましょうか。」
「でもお母さん、またあんなことになったら……。」
「それもそうですね。どうしましょう?」
「氷で冷したらどうかしら。」
 そして取敢えず、澄子が水手拭で額を冷してやってる間に、辰代は氷を買いに出かけた。もう十二時近くだった。近所の氷屋へ行って、幾度も戸を叩いて、漸く起きてきたのに尋ねると、氷は無くなったとの返辞だった。辰代は口の中で不平をこぼしながら、少し遠くの氷屋へ行きかけたが、懇意な家でさえこうだから……と見切りをつけて、急いで帰ってきた。
 それから辰代と澄子とは、寝もしないで今井の頭を冷してやった。水枕の水も金盥の水も、水道ので初めからそう冷くはなかったが、すぐ湯のようになった。幾度も取代えて来なければならなかった。
 雨はまだしとしと降り続いていた。夜が更けるに随って、雨が霽れてゆくのか、或はその音が闇に呑まれてゆくのか、あたりはしいんと静まり返った。時々呻り声を出したりぼんやり眼を見開いたりする今井の顔を、二人はじっと見守っていた。どうしたことか、天井裏の鼠の音さえしなかった。それにふと気付くと、澄子はぞっと水を浴せられたような気になった。
「あなたはもうやすんでいらっしゃい。明日あした学校があるから。」と辰代は云った。
 澄子はただ頭を振った。低い母の声までが無気味だった。今井さんは死ぬんじゃないかしら、とそんな気もした。辰代が水を取代えに立ってゆくと、彼女は自分でも訳の分らないことを一心に念じながら、今井の額の手拭を平手で押えてやった。ずきんずきん……という音のようなものが、手拭越しに伝わってきた。
 そのうち次第に今井の熱は鎮まってゆくようだった。それでも二人は、夜明け近くまで冷してやった。ごく遠くの方から、かすかなざわめきが起ってきて、寝呆けたような汽笛の音がした。それから暫くたった頃、すやすや眠っていた今井は突然眼を開いてあたりを見廻した。
「お気がつかれましたか。」と辰代は云った。「ひどいお熱でございましたよ。」
 今井はぼんやり二人の顔を見比べていたが、ふいに上半身を起しかけた。辰代がそれを引止める間もなく、其処に手をついて頭を下げた。
「有難うございました。」
 そして呆気にとられてる二人の前に、はらはらと涙を流した。
「どうなすったのです! 寝ておいでなさらなければいけません。」
 きつい調子でそう云いながら、辰代は彼を寝かした。彼はおとなしく頭を枕につけたが、閉じた眼瞼からは涙がにじみ出してきた。それを見て、辰代も澄子も何となしに涙ぐんだ。
 暫くすると、今井はまた眼を見開いた。
「まだ夜は明けませんか。」
「もうじきでございますよ。」
 それから、二人でなお頭を冷し続けてるうちに、今井は本当に眠ったらしかった。

     三

 翌日になると、今井は熱が去ってけろりとしていた。それでもまだ顔の色が悪く、何処となく力無げな様子だった。も一日くらい寝ていなければいけない、と辰代は説き勧めたが、今井は曖昧な返辞をしながら、朝から起き上って、そして何をするともなく、室の中にぼんやりしていた。
 それから引続いて、今井の様子は変ってきた。朝起き上って皆と顔を合せる時には、必ず丁寧に頭を下げた。晩にはよく茶の間に坐り込んで、雑談の仲間に加わった。縁側の前の三四坪の庭に下り立って、植込の間の蜘蛛の巣を指先でつっ突いたり、またはいつまでも屈み込んで、苔類を一々見調べたりした。台にのってる小さな木の箱に、二三十銭の駄金魚が六七匹飼ってあった。そんなものにまで興味を覚えてきたらしく、麩をやっては眺め入った。そればかりではなく、今迄の粗暴なぎごちない身体つきに、何処となく角がとれて、弱々しいしなをすることがよくあった。頑丈な身体を変にくねくねとさして、指先で頬辺を支えてる様子などは、一寸滑稽に感ぜられた。
「今井さんの様子は、あれから何だか変じゃなくって?」と澄子は母へ云った。
「まだ病気がすっかりなおりなさらないんでしょう。」と辰代は云った。「表面うわべは癒ったようでも、しんに悪い所があって、それが一度にどっとひどくなることがあるものですよ。注意してあげなければいけません。」
 そして彼女はそれとなく、身体の調子や気分の工合を尋ねてみた。
「天気がいけないんです。」と今井はいつも答えた。
 実際いやな天気が続いた。梅雨期にはいったせいもあろうが、しつっこい雨が絶え間もなく降って、降らなければ陰鬱に空が曇って、何もかもじめじめと汗ばんでいた。今井は縁先に蹲って、その雨脚や曇り空をいつまでも眺めてることがあった。
「今井さんは雨がお好きなの?」と澄子は尋ねた。
「ええ好きです。」と今井は答えた。「雨の降るのを見ていますと、都会の上に雨降る如く、吾が心のうちにも涙降る、というヴェルレーヌの詩を思い出します。」
 澄子は喫驚した顔付で、今井の様子を見守った。
「あなたは詩もお読みなさるの。」
「昔読んだことがあります。夢中になって読み耽ったものです。」
「そう。じゃあ一寸教えて下さらない? 私いくら考えても分らない所があるから。」
 そして彼女は、英語の教科書の中にある短い詩句を持ってきた。今井はそれをすらすらと解釈してきかした。
 澄子はまた意外だという顔付をした。
 その晩彼は中村に云った。
「今井さんはあれで詩人だわ。私喫驚しちゃったの。」
 中村はただふふんといった顔をしてみせた。
「詩の解釈はあなたよりよっぽどお上手よ。」
「それはそうだろう。僕は医者だけれど、あの人は文学者だから。」
 所が、その晩今井が下りて来ると、澄子は試してでもみるような気になって、此度は代数の問題を尋ねてみた。今井は容易く解いてやった。
「私は算術は嫌いですが、」と彼は云った「代数と幾何とは非常に好きです。中学の時に代数で百点貰ったことがありました。」
「じゃあこれから時々教えて頂戴。私数学は嫌で嫌で仕方ないわ。」
「嫌なのより下手なんだろう。」と中村が口を出した。「僕がいくら教えてやっても、さっぱり覚えないんだから。」
「あら、あなたは駄目よ。教え方がぞんざいで、独り合点ばかりなすってて、私がよくのみ込まないのに、先へ先へとお進みなさるんですもの。」
「なあに僕のは天才教育だからさ。」
 そういう中村の眼を見返して、澄子はくすりと笑った。
「こういう凡才を相手だと、骨が折れますよ。」と中村は今井の方に言葉を向けた。
 今井はぼんやり何かを考え込んでいた。それからまた話しかけられても、短い返辞をするきりで、多くは黙っていた。しまいには縁側に立っていって、金魚に見入った。
 その金魚を、今井は自分のもののように大事にし出した。何処から聞いてきたのか、金魚の飼い方をいろいろ述べて、麩なんかをやってはいけないと云った。
「金魚に麩は、人間にお茶のようなもので、食べても少しも滋養にはなりません。その上可なり不消化です。麩よりも、御飯や鰹節をやった方がいいんです。」
「だって、御飯をやれば、眼の玉が飛び出すというじゃありませんか。」
「そんなことはありません。やりすぎて、消化が悪くなって、痩せるから飛び出すんです。」
 そして毎日夕方、彼は水を半ば取代えてやった。大きなバケツに、水を半分ばかり汲んで、それを何度も運んだ。一杯汲んで運んだら早く済むのに、と澄子が云うと、重くって仕方がないと答えた。澄子は笑い出した。
「私水一杯ぐらい平気よ。」
 そして彼女は、バケツに水をなみなみと汲んで、歯をくいしばりながら平気を装って、とっとと運んでいった。
 水ばかりではなく、少し目方のある物に対すると、今井はいつも重いというのを口癖のようにした。それからまた、何をしてもすぐ疲れたと云った。
「今井さんの弱虫!」と澄子は笑った。
「そんなことを云うものではありません。」と辰代はたしなめた。「屹度どこか身体がお悪いんですよ。中村さんに聞いてみましょうか。なおるものなら早くなおしてあげた方がようござんすから。」
「いくら中村さんだって、診察してみなければ分りゃしないわ。そして今井さんは、医者にみて貰うのが、あの通り大嫌いでしょう。とても駄目よ。」
 それでも辰代は気にかかって、或る時中村に相談してみた。中村は注意深く辰代の言葉を聞いていたが、ふいに笑い出した。
「いや何でもありませんよ。」と彼は云った。そして澄子の方を向いた。「澄ちゃん、用心しなけりゃいけないよ。」
「どうして?」
 中村はなお薄ら笑いをしながら、それきり何とも云わなかった。
 その意味が、辰代と澄子とには解せなかった。そして辰代はそれを、やはり何か病気の暗示だという風に考えた。一人気を揉みながら、今井の様子をそれとなく窺ってみると、前よりも外出することが更に少なくなったり、室の中に寝転んでいることが多かったり、庭の隅に萠え出てる草の芽に見入っていたり、雨脚を眺めながら涙ぐんでいたり、月の晩には遅くまで窓によりかかっていたり、始終黙って考え込んでいたり、大声に笑うことがなかったりして、何もかもみな病気を想像させるようなことばかりだった。そして彼女は、或る晩地震のことから、本当に彼を病気だときめてしまった。
 八時頃だった。中村は病院からまだ帰って来ていなかった。辰代と澄子とが茶の間で、一人は裁縫を一人は学校の下調べをしていた。そこへ可なり大きいのが、どしんと一つきて、それからぐらぐらと揺れた。おやと思うまに、もう小揺れになって、天井から下ってる電燈の動くのや、柱時計の振子の乱れたのなどが、自然と眼についた。それが暫く続いた。
「地震ね!」と澄子は分りきったことを云った。
「何時でしょう。」
「八時少し過ぎよ。」
 辰代は胸勘定でもするように頭を動かした。
「五七の雨に四つひでり、というから、まだ雨が続くかも知れませんね。」
 そう云ってる所へ、階段に大きな物音がした。二人が喫驚して眼をやると、息をつめ眼を見張っている今井の顔が、薄暗い階段口からぬっと出てきた。
「どうかなさいまして?」
 今井はすぐには口を利かなかった。天井からあたりをきょろきょろ見廻して、それからほっと吐息をついた。
「地震でしたね。」
「まあ、逃げ下りていらしたんだわ。」と澄子が云った。「あれくらいな地震に……。私もっとひどいのだって平気よ。」
 今井は何とも云わないで、長火鉢の横に坐って、小首を傾げながら耳を澄した。
「また来るかも知れませんよ。」
「ええ、屹度来るわ。」と澄子は肩をそばめて見せた。「揺り返しは初めのよりひどいと云うから、此度は大変よ。そしたら私、今井さんをおぶって逃げてあげましょうか。」
 今井はなお遠くを聞き入りながら、火鉢の縁にしっかとつかまっていた。
 その二人の様子を見比べて、辰代は怪訝な気がした。これまで二三度地震はあったが、それも此度のより強くはなかったが、澄子こそこわがってはいたれ、今井が恐がったためしはなかった。それなのに此度に限って……。そしていろいろ考え合してみても、今井は病気に違いない、と辰代は考えた。
 それにしても変梃な病気だった。今井は普通に食も進み、別段痩せた模様もなく、ただ力が失せ気が弱くなり身体がなよなよとしてきただけで、それも一方から云えば、あの変人がなみの人間に近よってきただけで、何処といって変った様子は見えなかった。
「何処が悪いのかしら?」
 そう思って辰代は、なお今井の様子に眼をつけた。すると今井は、万事澄子にも及ばないほどの弱々しさになっていた。――庭の木戸の輪掛金に、きつい差金を少し強く差込まれたのが、どうしても取れないで、今井はまごまごしていた。それを澄子は見かねて、一度にぐっと引抜いてやった。――自分でお茶をいれて飲むつもりで、今井は茶箪笥から茶の鑵を取り出したが、少し錆のあるその蓋が、なかなか取れなかった。「私が開けてあげるわ、」と澄子が云って、二三度やってみた後、容易く引開けてやった。――箪笥の後ろに落ちた櫛を取るから、手伝ってくれと奥の室に、澄子は今井を呼んできた。そして二人で、二段重ねの箪笥の上の部分を、持ち上げて下しにかかった。それが今井には大変な努力らしかった。箪笥を再び重ねる時には、今井は危くよろけそうだった。澄子は一生懸命に気張りながらも、今井を叱ったり励ましたりして、そして勝誇ったような顔をしていた。――「今井さん指相撲をしましょう、」と云って澄子は手を差出した。今井は一寸躊躇したが、着物の袖口を伸しながら手を出した。そして節の太い頑丈な彼の親指は、反りのよいしなやかな澄子の親指に、何度も他愛なくねじ伏せられてしまった。「それじゃ此度は腕相撲、」と澄子は挑んだ。「よし腕相撲なら負けやしません。」そして彼は居住居を直して、幅広い肩と握り合した手先とに、顔まで渋めて力を籠めたが、澄子のきゃしゃな腕にも余りこたえがなくて、彼女の顔が赤くなる頃には、しなしなと押伏せられてしまった。三度やったが三度とも負けた。「右は駄目です、左でしましょう、」と彼は云った。そして左の腕相撲では、澄子は一たまりもなかった。右手まで手首に添えても、やはり彼にかなわなかった。彼はただにこにこ笑っていた。――或る晩、中村が病院に泊って来ることになってた時、夜遅くなって、裏口に何かしきりに音がした。玄関の茶の間にいた辰代は、うとうと居眠りながらも、耳ざとくそれを聞きつけた。ことことと戸を指先で叩くようなその音は、間を置いてはまた響いてきた。鼠にしては余り根強すぎ、犬にしては余り規則的すぎる、一寸怪しい物音だった。辰代が耳を傾けているのを見て、其処にいた澄子も今井も耳を傾けた。暫くして、「戸締はしてあるでしょうね、」と辰代は不安げに尋ねた。してある筈だと澄子は答えた。「でも何だか怪しいわ。今井さん、見て来て下さらない?」と彼女は云い出した。今井はすぐに立上ったが、奥の室から薄暗い台所の方を覗き込んだばかりで、先へ進もうとはしなかった。「ほんとに意気地いくじなしね、」と澄子は怒ったように云いながら、後から立ってきて、いきなり今井を台所へ押しやり、自分も一緒に進んでいって、ぱっと電燈のねじをひねった。今井はその俄の光に、眼をぱちぱちやっていた。それを見て、澄子はおどけた笑い声を立てた。
 そういう風な今井の様子を、辰代は呆れ返って眺めた。肩幅の広い骨組の頑丈な今井だけに、滑稽でもあれば痛々しくもあった。そして、これは多分肺病の初期とか神経衰弱とか、そういった風の病気に違いない、或はその両方かも知れない、というように彼女は考えた。
「あなたどこかお悪かございませんか。」と彼女は尋ねてみた。
「いえ別に何ともありません。」と今井は答えた。
 それでも辰代は肺病とか神経衰弱とかについて、それとなく中村に問いただして、結局今井の生活がいけないと結論した。朝一度御飯を食べるきりで、時々西洋料理や蒲焼などを取寄せはするものの、大抵はパンと牛乳とで過しているので、身体に精分がつくわけはない。中村のように一日病院につとめてるのなら格別、今井は家にばかりごろごろしてるので、もし家の者同様でよかったら、午も晩も賄をしてやってもよい、と彼女は考えた。
「ねえ、澄ちゃんどうでしょう?」と彼女は娘にも相談した。
「お母さんさえそれでよかったら、今井さんはお喜びなさるでしょうよ。」と澄子は答えた。
 それで辰代の決心はついた。病気のことには触れないようにして、例の不経済をたてに、もしよかったら実費で――全部で二十五円ばかりで――賄付にしてあげてもよいと、彼女は云い出してみた。
「結構です。」と今井は答えた。「どうかお願いします。」
 そして翌日から、今井は辰代の拵えてくれる米の御飯を食べることになった。そのために、辰代の手がふさがっている時には御膳を運んだりなんかして、自然と澄子が二階に上ってゆくことも多くなった、そういう時今井は大抵机に両肱をついてぼんやりと、開け放した窓から空を眺めていた。
「空を見てると、一番心がしみじみ落付いてきます。」と彼は云った。
「だって、こんな曇った陰気な空じゃつまらないわ。」
「私はあの雲の上の、晴れた清らかな空を想像するんです。人間の世界から雲で距てられた、澄みきった清浄な空です。」
 そして、その高い清浄な空を想像ししみじみと心が落付いてる今井は、澄子へ向って、彼女の身の上を尋ねたり、隣室の中村のことを尋ねたりした。殊に中村のことについては執拗だった。
「私はあなたが、中村さんと、親戚とか従兄妹いとこ同士とか、そんな風な関係かと思いました。余り親しそうだから。」と今井は真面目に云った。
「そりゃあ私、中村さんを兄さんのような気がしてるわ。」と澄子は答えた。「だって、高等学校の時からもう六七年も家にいらっしゃるんですもの。私まだ十歳とおばかりだったから、よくおぶさったりしてあげたわ。今でもどうかすると、僕の背中に乗っかったことがある癖に生意気だなんて、人を馬鹿にしてしまいなさることがあってよ。忌々しいから、そんな時には後で仕返しをしてやるわ。こないだなんか、ウェストミンスターの煙草の袋に、アンモニアを一雫垂らしといてやったの。そりゃあ可笑しかったわ。この煙草は臭い臭いって大騒ぎなんでしょう。そして私が放笑ふきだしてしまったものだから、とうとうばれちゃったの。でも平気よ。昔のことを云って人を馬鹿になさるから一寸おしっこをひっかけてやったんだわ、金口なんか吸って生意気だ、と云ってやると、いい気持だったわ。それでも後でお母さんから、嫌というほど叱られたの。」
「然しあなたは、何でも中村さんに相談なさるんでしょう。」
「ええ、時々……。でも何だか、本気に聞いて下さらないから、つまらないわ。」
 今井は暫く黙っていたが、ふいに云い出した。
「私はあの人が嫌いです。皮肉ばかりで固めたような感じがしますから。」
「だって、皮肉な人は頭がいいんでしょう。」
「頭が悪くて皮肉な人だってありますよ。勿論中村さんは頭がいいようだけれど……。この室に来た当時は、そりゃあ変な気がしたもんです。妙にあの人から圧迫されるようで……。第一こちらは、この通り粗末な室だし、向うは立派な八畳の座敷でしょう。それが、壁一重越しで、縁側続きなんだから、まるで私はあの人の徒者といったような感じです。向うの物音が気になって仕方なかったんです。それでも、負けてなるものか、反抗してやれ、という風に心を持ち直して、それからだんだんよくなって、もう今では、こちらが主人で向うが従僕だと、平気で落付いています。」
 澄子は驚いて彼の顔を見つめた。その視線を眼の中に受けると、彼は俄に狼狽の色を浮べた。眼を外らして、煙草に火をつけて、煙草の吸口を親指の爪先で、ぎゅっと押し潰し押し潰しした。そして云った。
「こんなことは、人に云うべきことじゃありませんが、あなただから云ったんです。誰にも云わないで下さい。」
「ええ。」
 そう答えて、澄子は自分の胸の中だけにしまったが、そのことが妙に気にかかった。今井の云っただけのものでなしに、自分自身も関係しているような、そして何だか悪いことになりそうな、或る大きな影が、心の上に落ちかかってきた。
 そして澄子がその方に気を取られてる時、一方では辰代が、以外なことを耳にした。
 今井は越してきて、五月の末になると、洋食屋と鰻屋との払いだけを済し、それから五円紙幣を一枚出して、残りの下宿料と牛乳屋の払いとは、今暫く待ってくれと云った。辰代は別に気にかけないで、その通りにしておいた。それから六月の末になると、今井は如何にも恐縮したような顔付で、十円だけ差出した。金の来るのがどういうものか後れたので、とにかくそれだけ納めておいて、残りと諸払いとは暫く待ってほしい、と云い出した。そして辰代は、すぐに金を催促するからという彼の言葉を信じて、それで我慢していた。所が、晦日みそかに金を取りに来た牛乳屋が、辰代の断りの言葉を聞いて、先月から滞ってるのにそれでは困ると、可なりうるさく云ってから、何と思ったか、下宿人には用心しなければ06.4.20いけないと注意して、次のような話をした。
 やはり或る素人下宿屋で、大学生と称する学生を世話した所が、それが変な男で、毎日家にばかりごろごろしていて学校へ行く様子なんかはてんでなかった。訪ねてくる友人連がまた、みんな破落戸ごろつきみたいな者ばかりだった。そして、やれ洋食だのとりだの牛肉だのと、さんざん贅沢なことを云っといて、月末には五円しか金を払わなかった。次の月もやはり五円だった。三ヶ月目には一文もないと云った。余りひどいので、しまいには主人も腹を立てて、内々調べてみると、なるほど大学に籍だけはあるが、学校に出てる様子は少しもなかった。そしてまた、方々の下宿屋を食いつめた後で、もう正式の下宿屋にはいられなくなってることも分った。それから主人はうろたえ出して、その学生の持ってる品物や書物などを――不思議に書物だけは可なり多く持っていたのを――無理に売払わせて、それでも不足の金はまあ諦めをつけて、とうとう逐い払ってしまった。それがつい二三ヶ月前のことである。
「そんなことがよくありますから、うっかりひっかかっちゃ大変ですぜ。」と牛乳屋は云った。
 辰代は驚いてしまった。話の中の学生が、余りに今井と似通っていた。或は今井であるかも知れなかった。そして狼狽の余り、牛乳屋の払いはさせられてしまって、それから澄子へ相談してみた。
「まさか、あの弱虫の今井さんが!」と澄子は打消した。
「でもあれは、病気のせいではありませんか。家にいらした時からのことを考えてごらんなさい。」
 母にそう云われてみると、澄子も多少の疑惑を持ち初めた。
「ともかくも、家にどなたかお友達がいらしたという話だったから、その名前をそれとなく聞いてごらんなさいよ。」
「お母さんが聞いたらいいじゃないの。」
「いえ、私から聞くと角が立つから……。」
 それは当然もっと早く聞いてみるべきことでもあったし、また何かのついでに訳なく聞けることでもあったが、それを一の手掛りとして気にとめると、変にこだわってしまって、うっかり口に出せない事柄のように思い做された。そういう母の気持が、澄子へも伝わっていった。さも重大な問題ででもあるように、澄子は不承不承にその役目を引受けて、いい機会を窺ってみた。
 その機会がなかなか来なかった。辰代は幾度も催促した。それで澄子も遂に決心して、或る晩、二階の戸を閉めに行った時、今井から学校の試験のことを尋ねられたのをきっかけに、何気なく尋ねてみた。
「あなたはちっとも学校にいらっしゃらなくて、ほんとにそれでいいの?」
「行ったってつまらないから行かないんです。」と今井は答えた。
「だって家にいらした方はみんな、真面目に学校に出ていらしたわ。……そして……あの……あなたの友達で家にいらしたというのは、何という方なの?」
 尋ねながら澄子は、背中が寒くなって顔を伏せってしまった。
「え、私の友人で……。」
「家にいらした方があると、そうあなたは云ってらしたでしょう。」
「あ、あれですか。あんなことはでたらめですよ。」
 澄子が喫驚して顔を挙げると、今井は真面目くさって云い出した。
「私はあの時、静かな宿を探すつもりでぶらついていますと、ふとこの家が眼についたのです。あの二階に置いて貰うといいなあと、二三度表を通りすぎてから、思いきってはいって来ました。全く偶然でした。然し今になってみると、偶然だとばかりは云えない気がします。自分の落付くべき所へ、自分で途を開いて、落付いてしまったような気がします。」
 澄子は言葉もなくて、今井の顔をぼんやり見つめていた。その時今井は、半分机によりかかっていたが、急に向き返って、膝をきちんと合せ、握りしめた両のこぶしで腿の上を押えつけながら、少し頭を傾げて云った。
「澄子さん、私はあなたに真面目に聞いて頂きたいことが……いや、真面目に聞かして頂きたいことがあるんです。」
「なあに?」と口の中で云いながら、澄子は一寸居住居を直した。
「本気で、心から、私に聞かして頂きたいんです。」
「どんなこと?」
「あなたは、私を……どう思っていられるんですか。」
「どうって……。」云いかけておいて彼女は、今井の真剣な気勢に打たれてさし俯向うつむいたが、やがて静に続けた。「私にはよく分らないけれど、あなたは、詩人で夢想家で、そしていくらか野蛮人みたいな……そして一寸変った人だと思ってるわ。」
「いえそんなことじゃありません。……私の云いようが悪かったかも知れませんが、そんなら云い直します。あなたは私を……。」そこで彼は文句につかえて、自分で自分を鞭打つように、膝の拳をぎゅっと押えつけた。そして云い直した。「あなたは私を、どんな眼で見ていられるんですか。」
「私何も変には思ってやしないわ。」
「いえそんなことでもありません。」そして彼はまた、膝の拳固をぎゅっぎゅっとやった。「あなたは私に、ただ友達としての感情で対していられるのですか、それとも、異性としての感情で対していられるのですか。」
「まあ! 私そんなことは……。」
「聞かして下さい。本当のことを聞かして下さい。」
「だって、私、そんなことは考えたことがないんですもの。」
「考えたことがないんですって! でもあなたは、もう来年は女学校を卒業されるんでしょう。そして、やがては結婚もされるんでしょう。愛という問題を考えたことがないんですか。」
「ないわ。」
「本当ですか。」
「ええ。」と澄子は力無い返辞をした。
「嘘です。そんな筈はありません。私はあなたを、中村さんのように子供扱いには出来ません。私はあなたに対すると、ただの友達としてではなく、異性としての感情に支配されてきます。そして、いつもあなたのことばかり考えているんです。」
「だって私……。」
 そして暫く沈黙が続いた後で、澄子は何かぞっとして顔を挙げると、今井は眼に一杯涙ぐんでいた。
「あら、どうなすったの?」
 今井は黙っていた。
「御免なさい。ねえ、私あやまるから……。」
「謝ることなんかありません。」と云って今井は鼻の涙をすすり上げた。
「だってあなたは……。」
「いえ、何でもありません。」
「そんならいいけれど……。」そして彼女はまた繰返した。「御免なさい、ねえ。私には何にも分らないんですもの。」
 今井はぴょこりと頭を下げた。
「私の方が悪いんです。あなたは全く純潔です。ただ、愛のことを考えといて下さい。すぐに分るんです。ほんとに考えといて下さい。」
「ええ。」
「屹度ですね。」
「ええ。」
 それから、今井は黙り込んで、いつまでたっても石のように固くなっていた。澄子は立上って、自分でも訳の分らないことを考え込みながら階下に下りていった。
 奥の室で、箪笥の中を片付けていた母に、ぱったり顔を合して、その顔をぼんやり見つめると、澄子ははっと夢からさめたように、頭の中がすっきりして来て、今井と交えた滑稽な会話が、まざまざと思い浮べられた。そして急に可笑しくなって、其処に笑いこけてしまった。
 辰代は呆気あっけにとられた。
「澄ちゃん! どうしたんですよ。狂人きちがいのように笑ってばかりいて!」
「だって可笑しいんですもの。」
「何が?……どうかしましたか?」
 笑いの発作が静まって、少し落付いてから、澄子はなおくすくす残り笑いをしながら、今井との対話を話してきかした。
 辰代はじっと聞いていた。今井が嘘を云ったことについては、さほど怒りはしなかったが、愛のことになると、むきになって腹を立てた。澄子は喫驚した。
「まあ、可笑しなお母さんだわ!」
 辰代は澄子の云うことなんかは耳にも入れなかった。
「失礼にも程があります。人の娘に向って、それもほんの子供に向って、何というぶしつけな厚かましいことでしょう。お父さんが亡くなられてから、人様をお世話していますが、それほど踏みつけにされるようなことを、私はまだ一度もした覚えはありません。嘘をついて人の家にはいり込んできておいて、こちらで親切にしてやれば、図々しくつけ上って、何をするか分りはしません。私は何も道楽でこんなことをしてるのではありませんよ。払いも満足に出来ないくせに、何ということでしょう。眼に余ることがあっても、お気の毒だと思って、随分親切に尽してあげたつもりです。それなのに恩を仇で返すようなことをされて、いくら私でも、もうそうそうは辛抱出来ません。とっとと出て行って貰いましょうよ。出て行かなければ、私の方で出ていってしまいます。……澄ちゃん何をぼんやりしているのですよ。そう云っていらっしゃい。あなたが嫌なら、私がきっぱりと断ってきます。」
「そんなことを云ったって、お母さん……。」
「いえいえ、止して下さい。もう我慢にも私は嫌です。」
 そして彼女は、そこいらの品物に当りちらした。澄子がいくら宥めても駄目だった。中村が帰ってくると、澄子は飛んでいって、訳を――自分にもよく腑に落ちないその顛末を、かいつまんで話してきかした。そして中村と二人で彼女を宥めた。
「またこんなことがあろうものなら、もう此度こそ許しません。」
 そう云って辰代はまだ怒っていた。
 中村は笑いながら澄子の方を顧みた。
「だから、澄ちゃんは用心しなければいけないと、僕が云っといたじゃないか。」
「だって、」と澄子は不平そうに呟いた、「私何も悪いことをしやしないわ。」

     四

 それから一週間とたたないうちに、辰代も本当に我慢しかねることが起った。
 今井の所へは、なお時々怪しげな青年が訪れてきた。飯を食っていったり、下駄をはいていったり傘を持っていったりして、そのままになることが多かった。そして七月の熱い日に、初めて夕立がして、その雨がまたじとじと降り続いてる夕方、洗いざらしの浴衣に短い袴をつけ鳥打帽を被った男が、びしょ濡れになってやって来た。雨の中を板裏の草履で歩いて来たので、背中まで跳泥はねが一杯上っていた。辰代はそれを、一度見たような男だとは思ったが、はっきり思い出せなかったので、気がつけば放っておけない気性から、袴だけ脱がして、火に乾かして泥を落してやった。そして彼は、夕飯を食って、袴をつけて、雨がまだ少し降ってる中を、緑に礼も云わずに帰っていった。辰代はわざと、傘も貸してやらなかった。今井ももう、自分の傘を持ってはいなかった。
 するとその晩、中村が一寸外出しかけると、足駄が見えなかった。何処を探しても見付からなかった。確かにその足駄は、辰代が昼間洗い清めて、裏口に干していたのを、夕立の時慌てて取込んで、玄関に置きっ放しにした筈だった。そう思って彼女は、なお玄関の土間をよく見ると、隅の方に板裏の汚れ草履が脱ぎ捨ててあった。あの男が足駄をはいていったに違いなかった。
 丁度今井が玄関の茶の間に坐っていたので、辰代はその方へ急き込んで尋ねた。
「この草履は、あなたの所へいらした先刻さっきの人のではございませんか。」
 今井は見に立って来た。
「そうかも知れません。」
「ではあの人が足駄をはいていったのですよ。私もうっかりしていましたが、あなたお気付きになりませんか。」
「そうですね。……いやそうかも知れません。あの男のしそうなことです。いつか私の傘を黙って持っていったこともありますから。」
「まあ!」
「済みませんでした。」
 誰に云うともなくそう云って、今井はまた火鉢の側へ坐り込んで煙草を吹かした。
 その落付払った様子が、辰代の癪にさわった。先日の鬱憤もまだ消えずに残ってる所だった。辰代は本気に怒り出した。あんな上等の足駄をあんな男にはいてゆかれるのも勿体なかったし、殊には中村のを無断でさらってゆかれたのが忌々しかった。
「あんな男が出入りするあなたのような人を置いていたら、私共でどんな迷惑をするか分りません。まるで泥坊をかかえておくようなものです。」と辰代はつけつけ云った。
「然し彼奴あいつもよっぽど困っていたんでしょうから……。」
「困れば人さまの物を盗んでいったって構わないと云うのでございますか。それであなたは平気でいらっしゃるか知れませんが、私共ではそんなだらしのないことは大嫌いです。」
 そして彼女は、傍から中村に宥められても承知しないで、今井の方へにじり寄っていった。
「あなたのような人には、何を申してもこたえがありませんから、もう何にも申しません。明日から、今日からでも、何処へなりといらして下さい。もう私共ではあなたをお世話を致すことは出来ません。」
 調子が落付いているだけに本当の憤りの籠ってるその言葉を、ねっとりと今井へ浴びせておいて、それでもまだ足りないかのように、底光りのする眼を今井の顔に見据えた。今井はその顔をぎくりと挙げて、彼女の視線にぶつかると、固くなって息をつめたが、一秒二秒の間を置いて、ぶるっと身震いするように立上った。その時、室の隅っこで呆気に取られていた澄子が、はっとして同時に我を忘れて、いきなりそこへ飛び出して、母を庇うというよりは寧ろ、母の肩に取縋った。
「お母さん!」
「あなたが出る所ではありません。」と云って辰代は、澄子の手を払いのけた。そして今井の方へ一膝進めた。「つなら打ってごらんなさい。女だと思って馬鹿にして貰いますまいよ。さあ只今からでも、何処へなりと出て行って下さい。」
 今井はつっ立ったまま、握りしめた両の手をかすかに震わしていたが、澄子の驚き恐れた兎のような眼付を見ると、つめた息をほーっと吐くと共に気勢を落して、其処にがくりと膝を折って坐った。その余勢かと思われるほどすぐに、畳へ両手をつき頭を下げた。
「私が悪うございました、許して下さい。」
 余りに急な意外なことなので、辰代も澄子もぼんやりした所へ、今井はまた繰返した。
「許して下さい。謝りますから、許して下さい。」
 真面目だとも不真面目だとも分らない気分に支配された、動きの取れない沈黙が落ちてきた。そこへ、素知らぬ顔で縁側に佇んでいた中村が、のっそりはいって来て火鉢の横手に坐った。
「今井さんも謝ると云うんだから、もういいじゃないですか。」と彼は辰代に云った。
 それが却って、辰代にとっては助けだった。
「謝ってそれで済むことではございません。」と彼女は云い出した。「あんまり人を踏みつけにしています。私は何も、足駄一つくらいどうのこうのと申すのではありません。御自分の胸にお聞きなすったら、大抵分りそうなものです。出ていって頂きましょう。私共ではもうきっぱりとお断りします。」
 そう云い捨てて彼女は、荒々しく奥の室にはいっていった。がすぐに、襖の影から呼びかけた。
「澄ちゃん、あなたもこっちへいらっしゃい。」
 澄子は暫くためらった後に、中村から眼で相図をされて、漸く立っていった。見ると、辰代は押入の中に首をつっ込んで、手当り次第に品物をかき廻していた。
「お母さん、何をしてるの?」と澄子は静に尋ねてみた。
「何でもようござんす。あなたは学校の勉強でもなさい、遊んでばかりいないで!」
 澄子は顔をふくらしながら、机の常に坐って、何を考えるともなく、ぼんやり考えに沈んだ。
 玄関に残っていた中村と今井とは、暫くは口も利かなかったが、ややあって、今井は火鉢の上に伏せていた頻を、徐々にもたげて、度の方を向いてる中村の横顔が、眼にはいる所までくると、ふいに口を開いた。
「私が悪かったんでしょうか。」
「え?」と中村は見返った。
「私の方がそんなに悪いんでしょうか。」
「悪いと思ってあなたは謝ったのではないのですか。」
「悪い……というよりも、済まないと思ったんです。」
「どっちにしたって、結局同じことじゃないですか。」
「いえ違います。……じゃああなたは、私が悪いと思われるんですね。」
「私は何も事情を知らないんですから、悪いとか善いとか、そんなことは分りませんが……、」そして中村は軽い微笑を浮べた、「ただ、あなたは少し……芝居気が多すぎるようですね。」
「え、芝居気が……。」
「と云っちゃ言葉が悪いか知れませんが、兎に角、不真面目さが……その態度にですね、態度に人を喰ったような不真面目さが少しあるので、それで人から悪く思われるのじゃないでしょうか。」
 今井は一寸顔の色を変えた。そして暫く黙った後に、怒りを強いて押えつけたような調子で云った。
「あなたに聞いたのは私の間違いです。あなたは純真なものを、何でも滑稽化して見る人です。ここの小母おばさんのことだって、あなたは滑稽だと思っていられるんでしょう。」
 中村は皮肉な苦笑を洩らした。
「ついでに、澄ちゃんのことも滑稽だと思ってるかも知れませんよ。」
 今井はぎくりと眼を見開いた。そして相手を見据えながら云った。
「あなたとはもう口を利きません。」
「そうですか。御自由に……。」
 中村がそう云ってるうちに、今井はもう立上って、二階の室に上っていった。その姿を見送って、中村はまた苦笑を洩らした。
 台所でじゃあじゃあ水の音がしていた。怒った時にはやたらに用をしないではいられない辰代が、夜遅く、他に仕事もあろうに、何か洗濯物をしてるのだった。中村はその音に耳を傾けたが、やけに敷島をすぱすぱ吹かした。それが灰になってしまおうとする頃、奥の重から澄子が出て来た。眼を赤く泣きはらしていた。
「中村さん、どうしたらいいんでしょう?」
 敷島の吸殻を火鉢に投り込んで向き返った中村に、澄子は縋りついていった。
「私恐くって……どうしたらいいかしら。」
「何が?」
 澄子は片手で中村の手を握りしめながら、片手で二階の四畳半を指さした。
「あんな天才には、」と中村は云った、「凡人が近寄っちゃいけないよ。」
「あら、私真面目に云ってるのに!」と澄子は涙声を出した。
「心配しなくてもいいよ。ああいう人には、つっかかってゆくと始末におえない。そっとしてさえおけば、何でもなく済んでしまうことなんだ。」
「だって、私がもとで、お母さんと今井さんとの間が、あんな風に変にこじれたような気がするんですもの。」
「そんなことなら、心配するには及ばないさ。お母さんもあの人も、あんな風の性質たちだから、いつのまにかけろりとなおって、一寸した心の持ちようで、人一倍親しくならないとも限らないよ。」
「でも、私今井さんが何だか恐くなってきたの。」
「澄ちゃん!」と中村は云って、じっと彼女の顔を眺めた。「澄ちゃんは、今井さんを、好き? 嫌い? どちらなんだい。」
「好きでも嫌いでも……どちらでもないわ。」
「それじゃあ何も恐がることはないよ。恐い恐いと思ってると、しまいにはもう動きがとれないほど、好きで好きでたまらなくなるかも知れない。」
 冗談かと思って澄子は、返辞に迷って中村の眼を見たが、その真剣な眼付に心を打たれた。
「恐がってはいけないよ。」と中村はまた云った。「平気でいさえすれば大丈夫だ。」
 そうかも知れないと思う気持と、しっかりした柱を見出した気持とで、澄子は両手の中に、任せられた中村の片手を握りしめながら、彼の膝に寄りかかっていった。
「でも……万一のことがあったら、あなた助けて下さるわね。」
「ああ、安心しておいでよ。」
 片手をそっと背中にかけられて、憐れむような笑顔で覗き込まれると、澄子はほっと溜息をついて、その溜息と一緒に、頭の中のもやもやを吐き出してしまった。そしてその晩、安らかに眠ることが出来た。
 けれども、その翌日から澄子は、今井に対していくら平気でいようとしても、それがなかなか出来なかった。今井は辰代から云われた言葉を気にも止めていないらしく、今迄通り落付いていて、ただ辰代と中村とに対しては、一言の挨拶もせず見向きもしなかったが、澄子と顔を合せると、丁寧にお辞儀をするのだった。澄子はどうしていいか分らなかった。彼女には何もかも変梃に思われた。母があれきり何とも云わないで、而も三度三度の食事の膳を、自分で今井の所へ運んでゆくのも、また中村が始終笑顔をして、今井の姿を見送るのも、また今井がこれまで通りに、長い間階下したの縁側に屈んでいたり、金魚の水を代えてやったりするのも、凡てが変梃に思われた。そして、茶の間の晩の雑談に、今井が決して加わらなくなったのだけが、はっきり彼女の腑に落ちたけれど、その楽しい雑談に於ても、母と中村とが妙に黙り込むことが多くて、何だか互に腹をでも立ててるかのようなのが、やはり彼女には合点ゆかなかった。何もかも調子が狂ってきた、とそういう気がした。
 そして最もいけないのは、澄子の様子をじっと窺ってる今井の眼だった。澄子はその眼を、あらゆることのうちに感じた。
 彼はこれまで、朝顔を洗うのに、ただ水でじゃぶじゃぶやるだけだったが、或る朝澄子が喫驚したことには、彼女がいつも使うクラブ洗粉を、いつのまにか買ってきて、それで念入りに洗っていた。髯を剃った後には、彼女が用ゆるのと同じホーカー液を、女らしい手附でぬっていた。――彼はいつも朝寝坊だったが、俄に早起になってきて、澄子が学校に行く前に髪を結ってると、少し離れた所に屈み込んで、あかずに眺め入ることが多かった。「澄子さんの髪は綺麗だなあ、」と彼はよく独語の調子で呟いた。――或る時彼は、縁側に屈みこんで、しきりに足の指をいじくっていた。何をしてるのかと思って、澄子がそっと覗いてみると、彼はひょいと振返った。その視線が、彼女の素足の親指に来た。「澄子さんの足の指は、どうしてそうまむしが出来るんです?」その言葉に喫驚して彼女は、力を入れた足の親指に眼を落すと、今迄自分でも気付かなかったが、小さな爪が深く喰い込んでる子供らしい指の間接[#「間接」はママ]に、くりくりしたまむしが出来ていた。
 そういうことのうちに、それからまだいろんな些細なことのうちに、澄子は自分を見つめてる今井の眼を感じた。そしてその眼が、四方から自分の身辺に迫ってくるような気がした。殊に或る日、彼女は台所で一寸母の手伝いをして、其処から出ると、縁側に今井が立っていた。彼女が学校から帰ってきて、脱ぎすてたまま室の隅に片寄せておいた袴を、後ろ前も前と一緒に持ち添えて、それを帯の所にあてがいながら、しきりに首をひねって考えていた。その様子が変に滑稽でまた真面目だった。澄子は思わず放笑ふきだそうとしたが、喉がぎくりとしてつかえてしまった。それからどうしていいか分らなくなった。いきなり台所へ駈け戻って、「お母さん、玄関にどなたかいらしたようよ、」と大きな声で叫び立てた。そして手を拭き拭き出て行く母の後ろから、自分もそっとついて行った。見ると、今井は袴を投り出して、素知らぬ顔でつっ立っていた。彼女はほっと安堵して、彼の方をちらと見やりながら、袴を取ってきて、丁寧にたたんで箪笥の上にのせた。
 それまではまだよかったが、やがて、もうどうにも出来ないことが起った。
 夕方から風がぱったりと止んだ、いやに蒸し暑い晩だった。真夜中に、澄子はふと眼を覚した。物に慴えて息苦しいような、変な心地がしたので、寝呆け眼であたりを見廻すと、古い十燭の電燈に覆いをした、影を含んでるぼやけた光が、薄すらと流れ出してる次の玄関の室に、物の動いてる気配けはいがした。おやと思って、蚊帳越しに眸を定めてみると、薄青の地に白菊くずしの模様のあるメリンスの着物が、室の真中にぶら下っていた。そんな筈はない、と思うとたんに眼が冴えた。長い髪の毛を乱した今井が、横顔をこちらにして、彼女の平常着ふだんぎを引っかけ、襟を合したその両手を、そのまま胸に押しあてて、歩いてみようか坐ってみようかと思い惑った形で、なおじっと立ちつくしてるのだった。それと分った瞬間に、澄子はぶるぶると身体が震えて、何を考える隙もなく、母の方へ手探りに匐い寄って、力一杯に揺り起した。
「お母さん、お母さん、今井さんが……。」
 出すつもりの声が出なかったのか、辰代はきょとんとした眼で見廻したが、澄子に指さされるまでもなく、今井の姿がちらりと動いて、半ば立て切ってある襖の影に、はいってしまおうとしかけた時、彼女はがばとはね起きて、次の室に飛び出していった。
「今井さんじゃございませんか。」
 澄子の着物の中で、今井は棒のように立竦んだ。
「何をなすっていらっしゃるのです?」
 見据えられた眼付を、身体を固めてはね返していたが、やがて今井はふわりと女着物を脱ぎすて、棒縞の寝間着一つになって、押し伏せられるように其処に坐った。辰代は澄子の着物を、片手を差伸して引寄せ、それから前腕に抱え取った。その威猛高な立像の前に、今井は頭を垂れて、一語一語に力をこめながら云った。
「私はお願いがあります。澄子さんを……私に下さいませんか、私と結婚を許して下さいませんか。一生、命にかけても、私は澄子さんを愛してゆきます。許して下さい。一生のお願いです。」
 辰代はぶるぶると身を震わして、なお一寸つっ立っていたが、くるりと向き返って縁側に出で、さも忌々しいといったように、澄子の着物を打ちはたき、それを奥の室の隅に投げやり、玄関の室との間の襖を、手荒く閉め切っておいて、また蚊帳の中にはいって来た。そして、布団の上に坐ってる澄子へ、叱りつけるように云った。
「早く寝ておしまいなさい!」
 澄子は驚いて布団の中にもぐり込んだ。母が今井の言葉に対して一言も云い返さなかったのが、異常な恐ろしいことのような気がした。母が息をつめて歯をくいしばってる様子まで、まざまざと見えてきた。しいんと静まり返った中に、一刻一刻が非常なもどかしさでたっていった。澄子はこらえきれなくなって、おずおず呼んでみた。
「お母さん!」
「まだ眼を覚してるのですか。」と母はすぐに応じた。「早く眠っておしまいなさい!」
 澄子は布団の中に額までもぐり込んだ。息苦しくなってまた顔を出した。
 だいぶたつと、此度は辰代の方から呼びかけた。
「澄ちゃん!」
「なあに?」と澄子はすぐに応じた。
「まだ眠らないんですね。早く眠っておしまいなさいったら!」
 澄子はまた布団を被った。そして顔を出したり入れたりしてるうちに、三時が打った。襖一つ距てた向うの室に、今井がまだいるかいないか、しきりと気にかかった。寝工合が悪くて仕方なかった。何度も枕をなおしてるうち、辰代が本気で叱りつけた。
「何でいつまでも愚図愚図してるんです!」
 澄子は息をひそめた。三時が打ったきり、半時間も一時間も、いつまで待っても打たなかった。時計が止ったのじゃないかしら、と思う耳へ、秒を刻む音がはっきり響いてきた。仕方ないから、その音を一生懸命に聞き入った。そしていつしか、精根つきた重苦しい眠に、何もかも融け去っていった。
 非常に長くたってから……と後で思われた頃、澄子は消え入るような叫び声を立てた。辰代がはね起きてみると、澄子は脂汗を額から流しながら、死んだ者のように両手を胸に組み合わしていた。眸の定まらない眼を一杯見開いて、母の姿を見て取ると、泣声とも叫声とも分らない声を立てて、ひしと縋りついてきた。
「どうしたんです、澄ちゃん!」
「今井さんが……私を……殺そうとするから……。」
「えっ、何ですって!」
 しくしく泣出した澄子を放っておいて、辰代は蚊帳から匐い出した。そして台所の中に消えていった。澄子は泣きやめて、喫驚して起き上った。辰代は間もなく戻ってきて、足音を偸みながら玄関の室の襖に近寄り、そこにぴたりと身を寄せた。後ろ手にした右手に、庖丁を握りしめていた。暗薄い光りにも、ぴかりと光ったその刃先を認めて、澄子は夢中に飛びついていった。その気配に押し進められてか、辰代は澄子の手の届かないうちに、襖をさらりと引開けて、二三歩進んだ。澄子もその後に続いて駈け出た。玄関の火鉢の猫板によりかかって、今井が泣いていた。二人が飛び出したのにも顔を挙げないで、猫板の上を一杯涙で濡らしていた。
 澄子は二人の姿を――髪を乱して庖丁を握りしめながらつっ立ってる辰代と、火鉢によりかかって涙を流している今井とを――見比べてみたが、ぞっと背中が冷くなって、奥の室に逃げ込みかけた。その足を俄に返して、二階の階段を駈け上った。そして中村を激しく揺り起した。
「来て頂戴よ、早く。お母さんと今井さんとが大変です。早く……。」
 中村はゆっくり背伸びをしてから起き上った。そして着物を着代えた。帯を結んでる所を、澄子に引張られて下りてきた。
 辰代と今井とは、先刻のまま身動きもしないでいた。奥の室から流れ寄る薄暗い光に、中村はじろりとあたりの様子を見て、ぱっと電燈のねじをひねった。その明るい俄の光が、非常な効果を与えた。今井は夢からさめたように顔を挙げて、肩をすくめたが、それから寝間着の袖口で、猫板の上の涙を拭き取った。辰代も同じく夢からさめたように、手に握ってた庖丁に自ら気付いて、それを奥の室に投げやって、其処にぐたりと坐った。
「一体どうしたんです?」と中村は誰にともなく尋ねかけた。
 誰も返辞をする者がなかった。いつもあんなにいきり立つ辰代が、その時に限って何とも云わないことから、中村は事の重大なのを見て取って、縁側の方へ身を避けた。澄子もついていって、彼の後ろに身をひそめた。幾匹も蚊が集ってきた。そしてひどく蒸し暑かった。中村は立上って雨戸を二三枚開いた。外にはもう白々と夜明けの光が漂っていた。中村は思い出したように欠伸をして、凉しい空気を胸深く吸い込んだ。その時、今井の声がしたので、振向いてみると、今井は辰代の前にかしこまりながら、乱れた調子で云っていた。
「……私にはどうにも出来なかったんです。いけないと思えば思うほど、益々心が囚えられていったんです。然し自分では、真剣な恋だと思っています。余り真剣すぎる恋だと思っています。がそれももう駄目になりました。いくら※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがいても、どうにもならないことを悟りました。諦めます。一生懸命諦めます。」そして彼は歯をくいしばった。「諦められるかどうか分りませんが、兎に角努力してみます。それで、私は今日から引越すことにします。このまま愚図愚図してるのは、私のためにもあなた方のためにも、いけないことのように思われるんです。ただ私は、金がちっともありません。払いをしないで引越してゆくのを、許して下さい。私には何処からも金のはいる当がないんです。父も母もいないんです。ただ月々十五円ずつ、或る人から補助を受けてるだけです。家庭教師でもして働け、と云ってくれる者もよくありますが、そんな下らないことに、大切な能力を費したくないんです。私は専心に、読書と思索とに日を送ってきました。この前の下宿から追い出される時、書物を取上げられてしまったのが、実に残念でした。然し仕方ありません。一生懸命に勉強します。私一人を食わしてくれるくらいの余裕は、日本の社会にもあることと思っています。それだけの恩は、いつか社会に報いてやるつもりです。十倍も百倍もにして返してやるつもりです。そう思うと愉快です。けれど、実は今日引越すと云っても、行く先がないんです。正式の下宿屋は、何軒も食い逃げした揚句で、偽名でもしなければ置いてくれません。偽名するのはこの上もない屈辱です。それで、私は月々補助してくれる人の所へ、押しかけていってみるつもりです。もし後でその人が何か聞きに来ましたら、ありのままを答えて下さい。或は金を払ってくれるかも知れません、それも当にはなりません。御迷惑をかけて済みませんが、許して下さい。それから、俥を二台お頼みします。俥代くらいは持っています。私は御宅から出て行くのが、どんなに悲しいか分りません。いろんな打算をぬきにして、ただ純粋な感情から、悲しくて堪らないんです。私はいつまでも、あなたと澄子さんのことは忘れません。私のこともどうか覚えていて下さい。あなたの生きているうちには。立派な者に、たとえ世の中に名前は出なくとも、人間として立派なものになってお目にかけます。私は感謝の念で一杯です。」そして彼はまた歯をくいしばった。「でも長くいては悪いことになりそうです。すぐに引越します。何もかも許して下さい。すぐに引越します。」
 今井はぷつりと言葉を切って、一つ丁寧にお辞儀をして、慌しく二階に上っていった。
 辰代はまじろぎもしないで、彼の言葉を聞いていたが、彼からお辞儀されると、やはり丁寧にお辞儀をした。その頭を挙げた時には、彼はもう二階の階段を二三段上りかけていた。彼女は一寸眼を見据えて、それから立上って、彼の後を追ってゆこうとした。その時、縁側の柱の影から、仔細の様子を窺っていた中村が、飛んで出て彼女を捉えた。
「お止しなさい。」
 きつい調子でそう云われて、辰代は面喰ったように眼をきょろつかせた。そして何とも云わないで、奥の室に逃げ込んでいった。
 暫くして、澄子がそっと覗いてみると、辰代は薄暗い電燈の下で箪笥にぐったりよりかかって、涙が頬に流れるのも自ら知らないらしく、寝間着の薄い襟に※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)を埋めて、深く考えに沈み込んでいた。澄子は喫驚して、中村の所に戻ってきた。
「お母さんは、泣いてるのよ。」
「放っとくがいいよ、お母さんも今井さんも、揃いも揃って狂人きちがいばかりだ。」と中村は云って、何故か首を振った。「まあいいさ。これをきっかけに、今井さんに出ていって貰わないと、どんなことになるか分らない。そうなったら、澄ちゃん一人が困るじゃないか。」
「そりゃ困るわ。」
「だから、皆の気が変らないうちに、早く俥を呼んでおいでよ。」
「そうしましょうか。」と澄子はまだ思い惑った調子で云った。
「そして、お母さんには何とも云っちゃいけないよ。」
「ええ。」
 澄子は大急ぎで着物を代え髪を一寸なでつけて、俥屋へ駈け出していった。その俥がまだ来ないうちから、今井は来た時と同じ三個の荷物を、一人で玄関に並べてしまった。そして挨拶もしないで、荷物を積んだ俥の後の俥にのって、朝靄のかけてる通りを、石のように固くなりながら去っていった。
 中村と澄子とがぼんやりその姿を見送った。辰代はまだつくねんと奥の室の隅に黙り込んで、顔をも出さなかった。





底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2006年4月27日作成
2008年5月9日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について