或る男の手記

豊島与志雄




 もう準備はすっかり整っている。準備と云っても、新らしい剃刀かみそりと石鹸と六尺の褌とだけだ。それが、鍵の掛った書棚の抽出の中にはいっている。私としては、愈々やれるかどうか、それを試してみるだけのことだ。然しその前に、一切のことを書き誌してみたい――と云うより寧ろ、文字というはっきりした形で考えてみたい。馬鹿げた欲求だということは分っているが、そうにでもしなければ、何かしら心に落着おさまりがつきにくいのだ。
 とは云え、どこからどう書いていったものか、一寸見当がつきかねる。いろんなことが一時に持上った混乱した事件だけに、本当の筋道を辿りそこなうこともあるだろうし、重大な事柄を見落していることもあるだろうし、私の知らない隠れた事実もあるだろう。然しそんなことを心配していてはきりがない。自分を中心に――そうだ、この場に及んでもやはり自分だけが中心だ――ぐんぐん書いてゆく外はない。
 ある日……表面的にはあの日が発端だった。からりと晴れた小春日和で、田舎には小鳥でも鳴いていそうな日だった。実際井ノ頭の木立の中には、小鳥の声が爽かに響いていた。そして私は、郊外の大気と日の光とに我を忘れてる光子みつこを眺めて、小鳥のような女だと思ったのだった。そして私もまた、何かしら心が浮々としてきたのだった。……が、こんなに筆が先へ滑っては仕方がない。
 その日の午前十時頃、私が会社の室で、何だか満ち足りない焦燥のうちに茫然としてる時……と云っても、そんな気持はその日に限ったことではなく、もう長い間の私の心の状態となっていたのだが、それは後で云おう。でその日もやはり、落着いたような落着かないような気分に浸って、ぼんやり煙草を吹かしていると、女の人から電話だと給仕が取次いできた。何の気もなく電話口に立つと、それが月岡光子だった。「月岡光子でございます、」と彼女は姓までつけ加えて名のった。彼女の姓が月岡だということは前からよく知ってはいたが、電話で改めて聞かされると、それが私の頭の中で物珍らしく躍ったものだ。
「お目にかかって至急お話申上げたいことがございますが、そちらへお伺いしても宜しゅうございましょうか。」
「さあ……。」と私は口籠りながら、余りの意外さに躊躇したものの、相手のき込んだ語気からして、何かしら切羽せっぱつまった心を感じて、兎も角もお出でなさいと承知してしまった。
 彼女が私に逢いに会社の方へやって来るということは、私と彼女とのこれまでの関係からすれば、全く調子外れのものだった。来るなら自宅の方へ来そうなものだ、そして私の帰りが待ちきれないというなら、妻へ話しても用は足りる訳だ、などと私は考えながら、また一方には、それを押して会社へ出かけてくるくらいだから、何かよっぽどの事件に違いない、などという好奇な期待の念が、私の心に甘えかけてきた。
 一時間ほどたって、彼女は会社へやって来た。その間に私は、大体の仕事を急いで片付けて、いつ会社を退出してもいいようにしておいた。勿論意識してそうしたわけではなく、自然に気がいてそういう結果になったのだった。一体私は、平素はのらくらしていて随分なまけ者だが、一朝事があると――と云えば大袈裟だけれど、例えば子供が病気で入院したりなんかしてる場合には、人手の少い家の中でいろんな用をしながらも、平素の幾倍となく自分の仕事を捗らすのである。「あなたくらい妙な人はない、忙しい時ほど仕事がよくお出来になるんだから。」と妻はよく私に云ったものだが、私としては、泰平無事な時よりも、苦しい脅威が迫ってくればくるほど、心に張りが出来るし働き甲斐があって、ぐんぐん仕事が進むのである――仕事といっても、英語の小説の飜訳くらいなものだが。然しそういう状態はいけないものだった、少くとも変則のものだった。多くの人は落着いて仕事をしたいと云うのに、私だけは、落着いていては仕事が出来ないというのだから。それに……いやこのことも先で云うことにしよう。
 私は光子を応接室に通さしておいて、ゆっくりと心構えをしながら出て行った。光子は私の姿を見ると、喫驚したように立上ったが、ぎごちないお辞儀を一つすると同時に、微笑とも苦笑ともつかない影を顔に漂わして、そのまま腰を下ろしてしまった。そして、私が腰を下ろしてからやや間を置いて、改まった調子で初めて口を開いた。
「あの……お邪魔ではございませんでしょうか。」
「いいえ別に……。」そして私は一寸落着かない心持で尋ねた。「何か急なお話があるんですか。」
「ええ、是非先生に聞いて頂きたいことがございましたんですけれど……。」
 だんだん語尾の調子をゆるくしながら口籠ってしまって、変に固苦しくかしこまった。その様子を私はじろじろ見やりながら、遠廻しにそれとなく話を引出そうとした。然し彼女はなかなかそれらしい話を切出さなかった。河野さんの家に於ける生活状態などを、私の問に対して簡単な文句で答えはしたが、心が外に向いてることは、その様子にも明かだった。時々辻褄の合わないことを云っては、それを自ら意識してる風もなく平気で、私の方へちらと黒目を向けるのだった。
 黒目を向ける……とは変な云い方だけれど、実際彼女の眼には特長があった。私は初めて彼女に逢った時から、その眼に一寸興味を惹かれた。初めて逢ったと云っても、そう遠い前のことではない。今年の六月、一寸した用件のついでに、北海道を暫く旅して廻って、登別の温泉に泊った時、髪の結い方から服装から言葉遣いまで、女中というよりは寧ろ女学生といった風な二十歳ばかりの女が、私の許へ夕食の膳を運んできた。そしてお給仕をしながら、そういう場合のありふれた会話の間々に、彼女は私の方へちらちらと黒目を向けた。もっと詳しく云えば、両方の黒目が薄い上眼瞼に引きつけられて、恰も近視の人が額に物をかざして眺める時のような眼付、もしくは、若い女優が舞台の真中に立って空を仰ぐ時のような眼付、そういった風などこか不安な色っぽい眼付なのである。それでいて決して上目を使っているのではなく、真正面に私の方を見てるのだった。私がそれに注意を惹かれて捕えようとすれば、瞳にさっと細やかな光が揺れて、黒目は元の――普通の――位置に復してしまう。後で私は知ったのであるが、北海道の女には、殊に不品行な女には、そういう眼付を持ってる者が多いようである。然しただ彼女の眼付には、不品行などという影は少しもなく、固より処女ではなさそうだけれど、濁りのない純な光が輝いていた――が或はそれも、純白な白目のせいかも知れない、と今になって私は思う。この女が、月岡光子だった。私はその温泉に五六日滞在していたので、光子とは可なり親しみが出来た。彼女自身の云う所に依れば、彼女は札幌の文房具屋の娘で、遠い縁続きになるその温泉宿へ、保養旁々来ていた所が、女中の手が足りなくなったために、一時余儀なく手伝いをしてるのだそうだった。やがては女中も来るから、そしたら暫くの間、見物がてら東京へ出るつもりだなどと云って、先生と私のことを呼びながら、私の住所なんかを聞きただした。話の調子や趣味やなんかから、私を文士かなんぞのように誤解したものらしい。私は面倒くさいから強いてその誤解を解こうともせず――実は私も英語の小説の飜訳なんかを内職にしてるので、文士のはしくれと云えば云えないこともなかったのだ――また、別に彼女に対してどういう気持もなく、ただその黒目を見るだけで満足していた。それから旅を続けると共に、彼女のことは忘れるともなく忘れてしまった。そして八月の半ば、若い女が不意に東京の私の自宅へ飛び込んできて、月岡光子と女中へ名前を通した時、私はそれが彼女であるということを、逢ってみるまでは思い出せなかった。
 所で、会社の応接室で、いつまでも肝心の話を持出しそうにない光子を相手に、多少じれったい気持になりながらも私は、彼女がもじもじすればするほど、表面だけは益々落着き払って、時々黒目が上眼瞼に引きつけられる彼女の眼付を、物珍らしそうに待受けてるうちに、ふと、北海道の温泉宿のことをまざまざと思い浮べ、次には、窓の外の澄みきった蒼空を眺めやり、次には、いつ人がはいって来ないとも限らない鹿爪らしい応接室を、そぐわない気持で見廻して、こんな所で彼女が話しにくいのも無理はないと考えた。と同時に、解放された晴々とした所に出てみたくなって、少し外を歩いてみようかと云ってみた。
 光子は喫驚したように黒目を据えて眼を見張ってから、暫く何とも云わなかった。
「それに、もう時間だから、何処かで昼飯でも食べましょう。」と私は云った。
 彼女は御飯は頂きたくないと答えたが、お差支えがなければ外を歩いた方がいいと云い出した。
 私は社の上役に断っておいて、光子と一緒に外へ出た。丁度その日私は和服をつけていたので、袴が多少邪魔になりはしたけれど、洋服よりは都合がよかった。ステッキを打振ったり引きずったりしながら、内幸町から宮城前の堀端の方へ歩いていった。街路の地面は心地よく乾いていて、ほっこりとしたぬくみのある日の光が、私達の身体を包み込んだ。光子は軽快な足取りで私と並んで歩きながら、変に黙り込んでしまった。それも何かを思い耽ってるという風ではなく、顔付も眼付ものびやかになって、何だかこう夢をでもみてるかのようだった。昼飯を食べようかと云っても、欲しくないとだけ答えた。一体どうしたというんだろう? 私にはさっぱり訳が分らなくなった。思い切って真正面から、話というのはどんなことですかと、少しきつい調子で尋ねてみた。
「もういいんですわ。先生にお目にかかったら、どうでもいいような気がしてきたんですもの。」
「それで?」
「それでって……。」
 そして彼女は一寸地面を見つめたが、何を思い出したのかくすくすと一人笑いをした。たったそれだけのことだが、それが私の心を軽く憤らした。この軽い憤りほど始末の悪いものはない。殊に相手が、反感も憎悪もない快い異性の時にそうである。私は甘っぽくかさにかかってゆく気持になって、急な大事な話というのを聞かないで、このまま光子を放すものかと決心した。そして、どうしたら彼女が話し出すだろうかと思い惑ってる所へ、高い角張った建物や電車自動車の響きや忙しげな通行人など、眩しい錯雑した都会と、私が朧ろげながら推察してる彼女の話の内容――恐らくは恋愛問題――とが、相容れない世界となって心に映ってきたので、こんな風ではとても駄目だと思って、知らず識らず歩みを止めた。もういつのまにか堀端に来ていた。葉の散った柳の細い枝影を、派手な大柄な絣の米琉の着物にまばらに受けて、一二歩先で足を止めて私の方を振向いた彼女の姿が、堀の水と空とを背景にくっきりと浮出して見えた。
「いい天気だから、郊外でも少し歩いてみましょうか。」と私は、その瞬間の咄嗟の思いつきに自ら微笑みながら云った。
「ええ、先生さえお差支えございませんでしたら。」と彼女は平気で答えた。そして日傘の先で、ぐいぐいと地面をつっついた。――水浅黄に黒で刺繍のしてある日傘を、彼女はその日一度もささないでステッキのように持ち歩いたのを、私は今はっきりと思い出す。
 私達は東京駅へ折れ込んで、それから電車に乗った。初め私はただ漠然と郊外でも歩くつもりで、中野までの切符を買ったが、乗り込んだ電車が吉祥寺まで行くものだったから、一層のこと井ノ頭へ行ってみようと思った。
「東京にも、北海道ほどじゃないが、静かな落着いた公園があるから、案内してあげましょうか。」と私は小声で云った。
「ええ。」と彼女はまたどうでも構わないという調子で答えた。
 電車の中に彼女と並んで腰掛けて、ステッキの頭に両手をのせ、ぼんやり車外の景色に眼をやってるうちに、私は一寸そうした自分の姿に苦笑したが、別に他意あって光子を連れ出すわけではなく、心さえしっかりしていて過を犯さなければ、彼女と半日の秋の光を浴びるくらい何でもないことだと、至極呑気な気持に落着いていった。たとい友人に出逢って何とか揶揄されても、私は顔に一筋の赤味も浮べないで、反対に相手を揶揄することが出来たかも知れない。後で妻とひどく喧嘩をして、私は北海道の時から光子と関係がついてるのに、それをのめのめと家に引張り込み、光子が河野さんの家に行ってからも、時々媾曳してたに違いないと、とんでもない邪推を受けた時、私は落着いて次のように云ったのである。
「馬鹿なことを云っちゃいけない。いくら僕が呑気で図々しくても、もし光子と北海道で変なことがあったのなら、何で家の中にお前の側に引張り込むものか。僕はまだそれほど精神的に堕落はしていないつもりだ。勿論結果から見れば、僕はお前に何と云われたって仕方ないけれど、初めから破廉恥な計画なんかは少しもなかったのだ。僕は光子を井ノ頭に連れて行く時、別に何という気持も持ってやしなかった。ただ彼女からその大事なという話を聞こうと思っただけだ。光子が女だったのがいけないのだ。僕が誰か或る男と井ノ頭に散歩に行っても、お前は気を揉みもしなければ、何とも思いはしないだろう。女だって同じさ。僕はこう思ってる、夫婦というものは一つの生活をしてるのであって、その一つの生活ということのために、恋人同志やなんかよりも、もっと深く堅く結び合されてるのだと。もし僕が独身だったら、若い女やなんかと一緒に歩いたりする時、僕は屹度妙な気分に心をそそられるに違いない。然しお前と夫婦の生活をしてるので、一つの生活をしてるので、若い女の前に出ても僕は平気でいられるのだ。そういう所に、夫婦生活の強みと自由とがあるわけだ。妻を持ってる身の上だから若い女と一緒に歩くのは悪いというのは、本当の夫婦生活を知らない者の言葉だ。夫婦生活とはそんな堅苦しい窮屈なものではない。僕は光子と井ノ頭に行った時、少しも心にやましさを感じはしなかった。僕はお前と一緒の生活にしっかり腹を据えているので、どんなことをしても大丈夫だと思い、何の危険もないものと思っていた。この僕の心持だけは、どうか誤解しないで信じてくれ。ただ僕は、そういう信念の下に余り油断してたのがいけないのだ。」
 この言葉は嘘ではない。全く私はそういう信念を持っていた。所が、そんな信念なんかを吹き飛ばしてしまうほどの、もっと深い所に潜んでるいけないものが――油断なんかという言葉で蔽いつくせないものが、私の生活の中にあったのだ。がそのことはもっと先で云おう。
 吉祥寺で電車から降りて、井ノ頭公園の方へ歩き出した時、私は光子の様子の変ったのに驚いた。東京駅で電車に乗るまで彼女は、私に対してあれほど和やかな心持を示して、何か遠い夢の跡をでも追ってるようなぼんやりさで、私に信頼し私に凡てを打任せていたのであるが、今私と並んで田舎道を歩いている彼女には、すぐ眼の前に浮んでる何かを一心に見つめて、じっと凝り固ってるような様子が、顔付や足取りに現われていた。それが一種の反感に似た冷さで、私の方へ対抗的に迫ってきた。彼女に何か悪いことでもしたのではないかしらと、私は妙にぎごちなくなりながら、わざと冗談の調子で尋ねてみた。
「どうしたんです、変に真面目くさった顔をして……。」
 彼女はちらと私の方へ黒目を挙げてから、なお四五歩進んだ後で云った。
「私いろいろ考えてみましたけれど……。」
 いくら待っても後の言葉がないので、私は静かに促した。
「で……どういうんです?」
「どうしたらいいか分らないんですもの。」
「一体何のことですか。話してしまったらいいじゃありませんか。私の顔を見てどうでもよくなったなんて……。」
「でもあの時は一寸そんな気がしましたけれど……やっぱり……。」
「話してしまった方がいいでしょう。私の顔に何か書いてあるわけでもないでしょうから。」
 私は冗談にしてしまおうとしたけれど、今の彼女には手答えもなかった。日傘の先で地面をつっついて歩きながら、恐ろしく真剣に考え耽ってる様子だった。私は何となく不吉な予感を覚えた。実は彼女にその話をさせるために連出したのだったが、そして会話の調子でなおそれを求めてはいたが、公園にはいりかける頃から、もう聞かない方がよいかも知れないという気持が起ってきた。然しやがて、彼女の方から話し出してしまったのである。
 日曜日でないせいか、公園の中には余り人はいなかった。杉の木立のほろろ寒い下蔭にはいって暫く行った時、光子は一寸足を止めてあたりを見廻したが、今度はゆっくりと歩き出しながら云った。
「私やっぱり先生に、何もかもお話してしまいますわ。」
「ええ。」と私は簡単に素気なく答えた。
 私達は足の向くままに――と云っても池の縁の道を――長く歩き続けた。光子の話は調子が早くなったり遅くなったり、事柄が前後したり、私に聞き返されて云い直したりして、余りまとまりのよいものではなかったが、大体の筋道はよく通っていたし、彼女にとっては可なり真剣なものだった。
「私何よりも先に、先生にお詫びしなければならないことがございますの。先生お許し下さいますわね。初めのうちに申上げておけばよかったのですけれど、何だか云い悪くて……。あの……先生の所へよく遊びにいらっしゃる松本さん、あの人と私変な風になってしまったんですの。河野さんの所へ参ってからは、始終お手紙を下さいますし、私も時々手紙を上げていましたが……。でも、今じゃもう何でもありませんわ。あんな意気地のない人のことなんか、どうだって構わない、私心の外におっぽり出してしまいますわ。そりゃ変なことを仰言るんですもの。あなたはこれまで幾人の男に関係したかなんて、まるで人を芸者か女郎とでも思っていらっしゃるような調子なんでしょう。私口惜しいから突っかかっていってやると、悪かったら謝罪するとこうなんですもの。そして、たといあなたの過去はどういうことがあろうと、そんなことを私は咎めはしない、現在のあなたが私一人を想っていて下さればそれでいいんです、けれど、お互に過去のことをすっかり打明け合って、さっぱりした気持で愛し合わなければいけない……とそんなことを繰り返し仰言るんです。変な理屈ですわ。過去のことを打明け合うのはいいけれど、それをくどくど話すというのは、やっぱり過去のことをいつまでも忘れない証拠じゃないんでしょうか。私はもう昔のことなんか綺麗に忘れてしまっていますわ。先生にだけお話しますけれど、私札幌で一人恋し合った人がありましたの。でも今ではもう、松本さんの仰言るように、それも言葉だけでなしに本当に、過去は過去として葬ってしまってるつもりですわ。それを根掘り葉掘り尋ねておいて、おまけに昨夜ゆうべは私をあんな室に置きざりにして……。先生、何もかもありのままお話しますわ。ねえ、聞いて下さいまして? 私本当に困ってるんですの。私奥様のお世話で、河野さんの所へ参りまして、昼間は学校に通わして貰えますし、夜分は家庭教師の真似事みたいなことをして、ほんとに願ってもない仕合せな境遇だと、初めのうちはどんなに喜んだか知れませんわ。けれど、先生は御存じかどうか知りませんが、河野さんてそりゃあひどい人なんですの。松本さんも私の話を聞いて、それは立派な色魔だと仰言っていらしたわ。私はそれほどには思いませんけれど……或はお酒のせいかも知れないと思っていますけれど、松本さんに云わせると、酒は男の計略ですって。そうでしょうかしら? 夜晩く帰っていらして、夜の一時二時頃まで召上ることなんか、珍らしくもありません。奥様は御病気で片瀬に行っていらっしゃいますし、女中さんは二人共まるで山出しの田舎者なんですもの、お酒の相手……いえ私お酒なんかあすこで一杯も頂きませんけれど、お側についていてお燗をしたりなんかするのは、いつも私の役目ですの。だって外に誰もいないんですから、仕方ありませんわ。そして酔っ払った揚句には、私の手を握りしめたり、便所はばかりに立つふりをして、私の首にかじりつこうとなすったり、この頃では昼間お酒の気がない時でさえ、妙な眼付をして私のお臀を叩いたりなさるんです。それも冗談ならいいんですけれど、時々変なことを仰言るんですの。俺は草野の細君みたいな女が大好きだ、昔から好きだった、が人の細君では仕方がない、お前ならその向うを張れるから、一つ俺と一緒にならないか、あんな病身なくよくよした妻なんか、今すぐにでも追ん出してみせる……なんてもっとひどいことだって仰言るんです。草野の細君という言葉を私は二三度聞きましたが、ひょっとすると、あなたの奥様に変な気を持っていらっしゃるのかも知れませんわ。そんなひどい心の人ですもの、私なんかを手に入れるのは訳はないと、どうもそういった調子なんですの。お前もいい加減意地っ張りだねと、私の耳を火の出るほどひどく引張ったりなさるんです。なぜうんと怒ってやらなかったかって、松本さんはひどく憤慨していらしたけれど……いえそれは昨晩のことなんですの。いくら何だって、私そんなことを松本さんに話せはしなかったんですもの。でも昨日はとうとう逃げ出してしまいましたわ。それまでに幾度逃げ出そうとしたか分りません。松本さんは私が前に手紙でそんなことを少しも匂わせなかったと云って、少し疑っていらっしゃるようですけれど……そのためかも知れませんわ、私に過去のことをいろいろお聞きなすった。のは。男には女の心なんか分らないでしょうかしら。私がそれまで隠してたのは、事を荒立てたり松本さんに心配さしたりしたくないというだけで、外に訳は何もないんですの。でもやっぱり駄目でしたわ。一昨日おとといの晩は愈々困ってしまいました。夜の二時頃までお酒を召上っていらしたが、餉台の上の小皿を一枚ふいに取上げて、いきなり側の鉄の火鉢に投げつけて、粉微塵に壊しておしまいなすったんです。何でも、差された杯の酒を私が飲まないとか何とか、そんな風なことだったんです。でも私にはその乱暴が、全く不意だったものですから、すっかりまごついたせいか、自分でもよく分りませんが、急に変な気持になって、その杯の酒をぐっと飲んでしまいましたの。後ではっとしましたが、もう追っつきません。河野さんは恐い眼付で私の方をじろりと見て、うむ、お前が皿一枚に一杯ずつ飲むなら、夜明けまでに何枚でも壊してやると、こうなんでしょう。そうなると私も意地っ張りで、もう一言も口を利かないで、室の隅にじっと坐っていました。それからまた皿を一二枚お壊しなすって、暫くすると、畳の上にごろりと寝転んでいらしたが、私が気がついてみると、少し鼾をかいて眠っていらっしゃるんでしょう。私ほんとにどうしたらいいかと思いましたわ。しまいには腹を据えて、夜着を上からそっとかけてあげて、私は一番遠い隅っこへ火鉢を持っていって、それによりかかりながら朝まで坐り通しに坐っていました。その間の恐ろしいようななさけないような気持ったら、今考えてもぞっとしますわ。そして朝になってから私は、女中達の手前今起きたような風をして、顔を洗ったり庭に出てみたりしました。河野さんは平気でしゃあしゃあとしていらして、女中に小言を云いながら室を片付けさして、それから私に向っては、人の居ない所で、昨晩夜着をかけてくれた親切は忘れないって……。それを聞くと、私は頭から水でも浴びたように、ぞーっと身体が竦んでしまいました。どうしてそんなに恐ろしかったのか、自分でもいくら考えても分りませんが、ほんとに恐ろしくてじっとしていられなかったんですの。そしてその日の午後に、私は身体一つで松本さんの下宿へ飛んでいきました。松本さんは私がやって行くと、ただ遊びに来たものとでもお思いなすったのでしょう、初め何だか嬉しそうにそわそわしていらしたが、私の様子がやはり変だったと見えて、いやに真面目な鹿爪らしい調子で、いろんなことをお聞きなさるんです。私も初めから何もかも訴えて縋りつくつもりだったものですから、これまでのことを残らず話してしまいましたの。すると、松本さんは非常に憤慨なすったので、私もまた更に腹が立ってきて、二人でさんざん河野さんの悪口を云っていますと、途中から、松本さんはいやに黙り込んでおしまいなさるんです。晩の御飯を頂いてる時なんか……だって外に出かける間がないうちに、日が暮れてしまったんですもの。下宿屋の御飯なんか、薄穢くて私もうつくづく厭ですわ。それを松本さんはうまそうに召上りながら、何だかじっと考え込んで、碌々私に返辞もなさらないんでしょう。そして御飯が済んで暫くたつと、いきなり私の方に向き直って、河野さんのやり方は何処までも悪い、然しあなたは全然正しいかって、そう仰言るんです。全然正しいって……まあ何のことでしょう。私呆れて返辞も出来ませんでしたわ。それからが過去の問題なんです。……ああ、もうお話しましたわね。で私は、松本さんが私と河野さんとの間を疑っていらっしゃるのだと思って、そんな邪推を受ける覚えはないと、繰り返し云ってやりましたの。所が松本さんは、あなたの方が私の云うことを邪推してるんだって、そう仰言るじゃありませんか。それから面倒くさい理屈になって、私ほんとに弱ってしまいましたわ。恋愛は人間の一種の煉獄で、それに飛び込むには、過去を懺悔し合い赤裸々になって、なお未来を誓うだけの勇気がなければ、いけないんですって。それからまだいろんなむつかしいことを仰言ったけれど、私一々覚えてやしません。そして私が、愛というものは理屈じゃなくて、どうにも出来ない気持の上のものだと云うと、それにも賛成なさるんでしょう、結局何のことだか分りやしないわ。それから変にちぐはぐな気持になって、長い間黙り込んだりしてるうちに、時間がたってしまいましたの。松本さんは喫驚したように時計を見て、もう帰らなけりゃいけないんでしょうと仰言るんです。河野さんの家へ帰るのは厭だと云うと、でも今晩は帰らなけりゃいけないと仰言るんです。私むっとして、じゃあ帰りますって立上ると、屹度私の顔色が変ってたのかも知れませんわ、慌ててお引止めなすって、泊っていってもいいってことになったんですの。それでも、今晩は同じ室に寝ない方がいいと云って……それも私を愛してるからですって!……御自分は別の室に寝ようとなさるんです。そうなりゃ私も意地で、是非帰ると云ったんですけれど、とうとう、私が外の室に寝ることにして、泊ってしまいました。それも下座敷の穢い室で、畳のへりは擦り切れ、壁に新聞の附録か何かの美人画がはりつけてあって、狭い床の間には古机が一つ横倒しになっています。その中で私は、下宿屋の薄い穢い布団にくるまって、涙が独りでにこぼれてきました。松本さんは私に、今晩はこれで辛抱して下さい、こんな風にするのもあなたを愛してるからで、後で分る時が来ますって、そう仰言ったけれど、そんな愛し方ってあるものでしょうか。私が何もかもうっちゃって縋りついていったのに、帰れと云ったり別の室に寝かしたりして……あら私、何も一緒にどうのっていうんじゃありません、せめて同じ室にくらい寝かしたってよさそうなものですわ。私口惜しくって、夜中過ぎまで震えながら泣いていましたが、もうどうとでもなれと諦めて、それに前の晩一眠りもしなかったんですもの、朝遅くまで寝入ってしまいましたの。松本さんは早くから起上って、何度も私の室を覗きにいらしたんですって。私ほんとに恥をかかされちゃったんですの。そのまま飛び出してやろうかと、よっぽど思ったんですけれど、無理に我慢していますと、松本さんは変にしおれ返った様子で、私の手をじっと握りしめなさるんです。でも私知らん顔をしてやりましたわ。それから、二人で先生の家へ行こうと仰言るのを、逃げるようにして飛び出してきました。そして一人で外を歩いてるうちに、どうしていいか分らなくなって、やはり先生にお話してみようと思って、お伺いしたんですの。一昨日おとといの晩からのことを考えると、何だか夢のような気がしたり、またいろんなことが眼の前に押し寄せてきたりして、自分で自分が分らなくなってしまいますわ。どうしたらいいんでしょう? でも、どうせ私は……。」
 光子はぷつりと言葉を切って、突然何かに腹を立てでもしたように、早めにすたすたと歩き出した。私達はそれまでに、池を一周半ばかりしたのだった。
 光子の話の中で、殊に私の注意を惹いたことが三つあった。河野さんの口から洩れたという私の妻のことと、河野さんが殆んど毎晩のように酒を飲むということと、最後のは全く馬鹿げてるが、松本の下宿で光子が朝遅くまでぐっすり寝入ったということだった。それから、後で松本から聞いた所に依ると、光子が泊った室はそれほどむさ苦しいものではなかったそうだし、また、光子は自分の過去を話すのを厭いながらも、松本の過去をしきりに聞きたがったそうである。……だが、こんな細かな詮索はぬきにして、彼女の話全体は、初めの不吉な予感に反して、淋しいようでまた伸々とした自由さを私の心に伝えた。うち晴れた秋の空を見るような感じだった。それは恐らく、何処かの狭苦しい室の中ではなく、ああいう場所で聞かされたせいかも知れない。そして不吉な予感は、ずっと先の方に対してのものだった。
 光子は何かに立腹でもしたように、とっとと歩いてゆく。私はその後から、余裕のある心持でついて行きながら、わざとこんな風に尋ねかけてみた。
「あなたは一体松本君を愛してるのですか、どうなんです?」
「あんな人のこと何とも思ってやしませんわ。」と彼女は振向きもしないで答えた。
「じゃ河野さんは?」
「考えるのも厭ですわ。」
「それではどうしようって云うんです?」
「分りませんわ。」
「そりゃ誰にだって分らないでしょうけれど……でも何だか変ですね。」
 此度は彼女も本当に腹を立てたらしかった。私の言葉には返辞もしないで、自棄やけ気味に日傘を引きずりながら、真直ぐを見つめて歩き続けた。私も黙って後からついていったが、次第に心の落着き場所を失ってきた。彼女の真剣な話を変な風にはぐらかしてしまったのはよいとして、その納りをつけるのに困った。しっくりと彼女の腑に落ちる事を云ってやりたかったが、その言葉が見付からなかった。そして知らず識らず足をゆるめていると、彼女はふいと向き直って、だいぶ後れてる私の方へ焦れったそうに呼びかけた。
「先生、もっと早く歩きましょうよ。私この池のまわりを何度も廻ってみたいんですの、幾度廻れるか。」
「そんなことをしてどうするんです。」と私は云ったが、彼女のぼーっと上気してるらしい顔と、眸の据った輝いてる眼とを見ると、すぐそれにつり込まれてしまった。
「私もう何にも考えないわ、馬鹿馬鹿しい!」と彼女は投げやりの調子で云った。「この池のまわりを七度廻って、それでおしまい。」そして彼女はとってつけたように笑った。
 西に傾いた日脚が赤々と杉の梢に流れていて、池の水は冴々と澄みきっていた。藻の影にじっと浮んで動かない鮒の群がいたり、水の面に黄色い花が一つぽつりと咲き残っていたりした。そして杉の林と古い池とから醸される幽寥な気が、それらのものに塵外の静けさを与えていた。でも私は淋しくなかった。あたりの景色が静かであればあるほど、遠い旅にでも出た気になって、解き放された自由な喜びを感ずるのだった。殊に光子は溌刺としていて、明るい日向に出ても薄暗い森影にはいっても、同じような眼の輝きを失わなかった。
「私何だかさっぱりして、気が清々せいせいして、もうどうなったって……この池にはまって死んじゃったって、構いませんわ。」
 そんなことを云いながらぐんぐん歩いて行った。先刻の訳の分らない腹立ちがけし飛んで、その昂奮だけが残ってるような調子だった。小鳥が鳴いてる、花が咲いている、鮒が浮いてる、杉の芽が綺麗だ、ほんとにいい天気だ、などとそんなことを短い言葉で独語のように云いながら、それでも心の底には、何かしらじっとしていられないものが渦巻いてるといった風に、出来るならば宙を飛んだり地面に転がったりしたいような素振だった。で私は彼女を見てるうちに、勝手気儘に飛び廻り囀り散らす小鳥を連想した。実際立木の中にはいろんな小鳥の声が響いていた。それからまた私の頭には、北海道の広漠たる平野やアカシアの都会や山の湯のことなどが浮んできた。そして平素の陰鬱な窮屈な生活を遁れて自由なのびのびとした世界に出たような気がして、性質から境遇から凡ての点でその世界のものであり、その世界に我を忘れてる光子に対して、羨しいような小憎らしいような感情が起ってきた。
 そして更に、その感情をなお刺激することが起った。私達は池を何周したか覚えていないが、日脚が益々傾いて、杉林の中や池の面に、ほろろ寒い靄影がこめかけてきた時、次第に私は空腹を覚えてきて、光子にそう云うと、彼女もやはり腹が空ききってると答えた。それでは栗飯でも食べて行こうかということになったが、私はふと気がついて、帰りが遅くなってはいけないだろうと注意してみた。
「構いませんわ。」と彼女は答えた。「私今晩は新宿の叔母の家に泊っていきます。」
 私は喫驚して足を止めた。八月に彼女が私の家へやって来た時には、いきなり東京へ飛び出して来たものの、身寄りの者も知人もないし、上野駅前の宿屋に一晩泊ったが、何だか恐ろしくて仕方がないから……というような話だった。それから詳しい事情を――農科大学生との失恋や嫂との喧嘩などが重って、札幌の家に居られなくなった訳だの、何処かの家で働きながら昼間は絵を習いたいという志望など――いろいろ聞かされてるうちに、つい私も妻も同情をそそられて、暫く家に留めておくことにしたのだった。実際彼女はその翌日になって、駅に預けっ放しにしてるという柳行李を一つ取って来たりした。それから私の家に半月ばかりいて、妻から河野さんに願って、子供の家庭教師みたいな風で置いて貰い、昼間は画塾に通っているのである。新宿に叔母がいるなどということを、彼女は今迄匂わせもしなかった。で私は何気なく、その点を軽くつっ込んでいった。すると彼女は平気で答えた。
「だってあの時はああ申さなければ、先生が置いて下さらないような気がしたんですもの。本当は少し前から新宿の叔母の家に来ていたんですの。所がその叔母が大変なやかましやで、私喧嘩をして飛び出して、それから先生の所へ伺いましたの。でも札幌の話はみんな本当ですわ。私よく喧嘩をする女だと、自分でも厭になっちまう時がありますの。」
 そして彼女は駄々っ児のように私の顔を覗き込んできた。それを私は、張り倒してやりたいような、また抱きしめてやりたいような、変梃な気持でじっと見返したまま、どうにもすることが出来なかった。
 栗飯を食べるために、私は静かな奥まった家へ何の気もなくはいっていったが、やがて自分の迂濶さに面喰った。私達を出迎えた女中は、銀杏返しに結って銘仙の着物をつけ、何を云うにも取澄した顔をしながら、身体全体で愛想を示す、可なり年増な女だった。通された室は奥の八畳の間で、衣桁から床の間の掛軸や水盤など、程よく整っていて、而も違棚の上には大きな鏡台が据えてあった。それになお、生憎今日はお風呂がございませんで……とわざわざ断られた。とんだことをしたと思ったが、もう取返しはつかなかった。女学生とも令嬢ともつかない光子の様子と自分の袴とに、変に気が引けながらも、いい加減に料理を註文しておいて、私はおずおず光子の方を窺った。彼女は何を考えてるのか、さも疲れたらしくぐったりと坐って、餉台にもたせた片手で頬を支え、室の隅にぼんやり眼をやっていた。私は弁解のつもりで云った。
「うっかりはいり込んだけれど……少し変な家でしたね。」
 彼女は私の方へちらと黒目を向けて、こんなことを云った。
「でも、これで温泉と谷川とがあったら、登別のような気がしそうですわ。」
 不思議なことには、彼女のその言葉に私は全然同感したのだった。登別と井ノ頭とは、どの点から云っても全く異った景色なのに、私の心にはそれが一緒になって映ったのである。今から考えると、その時の登別というのは一つの符牒に過ぎなくて、ただ漠然と自由な一人っきりの境涯というくらいな意味のものだったらしい。私はその日初めて聞かされたのであるが、彼女はあの時既に札幌の家に居にくくて登別に来てたのだそうだし、私はまた、漂泊の旅にでもいるような気で旅をしてたのである。
 私達は馬鹿馬鹿しくも、登別と井ノ頭とを比較して話し初めた。そのうちにいろんな物が運ばれた。女中は物を持って来たり用を聞いたりすると、すぐに室から出て行ったが、全体の調子や素振りで愛想よく待遇してくれた。一つあいだを置いた向うの室で、男女の笑い声が聞えていた。私はいい気になって酒を飲んだ。光子も自ら進んで私の相手をした。それから何だかごたごたして、今私ははっきり記憶していないが、やがて食事を済まして林檎をかじりながら、私は縁側の戸を一枚そっと開けて、外を眺めてみたのである。庭の植込からその向うの木立へかけて、薄い靄が一面に流れていて、空高く星が光っており、西の空にどす赤い下弦の月が懸っていた。その不気味な月に暫く見入っているうち、俄にぞっと寒けを感じて、ふと振向いてみると、光子は半身を餉台にもたせかけ火鉢の上にのり出して、震えながら歯をくいしばっていた。私は雨戸をしめて戻ってきた。
「どうしたんです?」
 彼女はぎくりとしたように顔を挙げて、黒目が三分の一ばかり上眼瞼に隠れてる眼付を私の顔に見据えていたが、そのまま瞬きもしないで、はらりと涙をこぼした。私は残忍な気持になって、それに乗じていった。
「あなたはやはり心から松本君を愛してるんですね。」
「嘘、嘘、」と彼女は叫んだ、「誰も愛してなんかいません、誰も。」
「じゃあなぜそんなに……絶望してるんです?」
 彼女は病的な表情をした。そして暫く黙った後に言った。
「やっぱり私一人だけだわ。」
「何が?」
「いろんなことを考えたってやっぱり……私一人だけだわ。」
「だから考えない方がいいんです。」
「それでも私……。」
「欝憤を晴らすのなら、めちゃくちゃに歩き廻るのが一番いいですよ。」
「先生だって……。」
「だから池のまわりを七回まわったんです。」
「七回なんてまわりやしませんわ。」
「然し……一体どうしたらいいんです?」
 そして私は不意に顔が赤くなった。やたらに煙草を吹かした。彼女も黙っていた。虫の声がいやに耳につくような静けさだった。長い間たってから、私は不意に彼女の手を握りながら小声で云った。
「泊る?……帰る?」
「泊るわ。」
 そして私達は敵意を含んだ眼付で見合った。
 茲で私は一寸断っておかなければならない、筆が余り滑りすぎたようだから。実は私は、いつの頃からか覚えないが、性慾の衰退に可なり悩まされていた。原因は毎日の晩酌と過度の喫煙とに在ると、医者も云うし自分でも思っていたが、それがどうしても止められなかった。なぜなら、生活全体が早熟してしまって、本当の決心というものが私には不可能だったから……がこのことはもっと先で云おう。兎に角私は性慾が著しく衰退して、そういう事柄にさっぱり興味がなくなってしまっていた。私はいつも何だか満ち足りないような焦燥のうちに暮していたと、前に一寸述べておいたが、それも一つはこれが原因だった。たまに玄人くろうとの女に接することがあっても、後の感銘は実に索漠たるものだった。殊に家庭に於てはそれが甚しかった。そのために私の家庭には、冷かな風が流れ込んできた。子供に乳房を含ましたり頬ずりをしたりしながら、私の方へじろりと投げる妻の眼付に、私は或る刺々とげとげしいものを感じて、ぞっとするようなことがあった。どうして子供なんか出来たんだろうと、そんな風に溯ってまで考えることがあった。それかと云って私は、何も君子然たる心境に到達したわけではない。頭の中にはいろんな妄想が、以前と同じように去来するのだった。云わば性慾そのものが、肉体を離れて頭の中だけに巣くったようなものである。そして一時私は、頭の中だけでいろんな女性を探し求めて、精神的に彷徨し続けたこともあった。然しそういう空しい幻はやがて崩壊してしまって、私は非常に虚無的な気持へ陥っていった。それから漸く辿りついたのは、性慾の蔑視ということだった。単に性慾ばかりではなく、肉体に関する一切のものの蔑視だった。凡て肉体に関するものは、一時的で皮相で無価値なものだと思った。この思想は一夫一婦主義の家庭生活とよく調和した。私は若い女性と一緒に談笑しても平気だったし、時折不道徳な行いをしても、自ら良心に咎める所が少しもなく、それを妻に隠したのは、ただ妻から小言を喰わないためにばかりだった。妻と一つの生活――この一つの生活というのに力点を付して――一つの生活をしている、という意識さえしっかりしていれば、下らない肉体的な過失くらいは取るに足らない、そう思って私は、どんなことをしても危険を殆んど感じなかった。光子を平気で井ノ頭まで連れ出したのも、右のような持論を持ってるからだった。所が、光子からああいう話を聞き、次に自由奔放な彼女の魂を見、最後に家庭なんかの煩いを離れた伸々とした気持になって、私の心の中には別なものが頭をもたげてきた。それが更に、酒を飲んでるうちに光子の眼付から度々そそられた。そして、前にはただ「何だかごたごたして」とだけ書いたが、このごたごたのうちに私は意を決したのである。前日来のことで絶望して苛立ってる奔放な光子を見、その挑みかかるような眼付を見て――だが彼女がどういう心持だったかは私にはよく分らない、彼女自身にも恐らく分っていないだろう、実際その場の空気はごたごたしていたから……でもその間に、私は彼女を対象として自分をためしてみようと思ったのである。そしてそれは、性慾を蔑視する平素の持論にも矛盾しなかった。
 そういう風にして凡ての調子が狂っていった。光子も私の気持を無意識的に感じて、更に絶望的に苛立っていったらしい。
 呪わしい一夜だった。
 私達は飯も食べずに、七時頃その家を飛び出した。朝靄が靉いて、地面はしっとりと露に濡れていた。木立には雀が鳴いていた。森を掠めてる清らかな朝日が、私には眩しかった。光子は足先を見つめながら歩いた。蒼い顔色をして、唇の端を軽く痙攣さし、時々病的な光が眼に現われてきた。池の縁に出た時、私は皮肉に微笑を浮べながら云った。
「これをも一度一周りしようか。」
「厭よ。」
「なぜ?」
「あなたのような……卑劣な人とは。」
 私はむっとした。が突然、顔が真赤になるのを感じた。
「でも僕は……。」
「いや、いやよ。」と彼女は私の言葉を押っ被せた。「いろいろうまいことを云っても、やっぱりあなたには、愛も何もないんだわ。」
「じゃあなぜ、昨日は、僕にあんな話をしたんだい? そして……。」
「そして……何なの?」
 彼女は病的に光る眼で私の方をじろりと見たが、ふいに真蒼になった。
「もうお互にはっきりしておこうじゃないか、何もかも万事を。」
「ええ、私はもう何もかもはっきり分ったわ。」
「そんなら、僕のこともよく分ってくれてるんだね。」
「分ってるわ、あなたがそんな人っていうことは。」
「またお前は……。」
「それから、自分がこんな女ってことも分ってるわ。だから私あなたを有難く思ってるのよ。」
 そして彼女はヒステリックに笑い出したが、その笑を中途でぷつりと切って、毒々しく光る眼で私の方を睥めた。
「いいえ、あなたばかりじゃない。何もかも有難く思ってるわ。」
「お前はまた、心にあることと反対のことばかりを云ってるね。もうこうなったからには真正直に物を云おうじゃないか。」
「ええ、私は昨日からずっと真正直だったわ。」
「そうも云えるけれど……。」
「反対だとも云えると仰言るの? 私何もあなたに隠しはしなかったわ。あなたこそ……いいえもういいわ。何だっていいわ。よく分ってることだから。」
 そして彼女は非常に陰欝な顔付になって、眼の光も消えてしまった。私はぞっとした。
「ねえ、お前は僕を許してくれる?」
「許すも許さないもないわ。」
「そうだ、許すも許さないもないというのは本当だ。この気持でいようじゃないか。そして、どちらかに心が落着くまで待とう。」
 彼女は何とも答えなかった。私達は森をぬけて停留場の方へ歩いていった。靄を通した薄赤い朝日の光に照らされてる、彼女の蒼ざめた顔や乱れた髪が、私には驚くほど美しく見えた。
「これからどうする?」と私は低い声で尋ねた。
「河野さんの家に帰るわ。」
 それきり私達は切符を買うまで黙っていた。電車に乗っても、彼女は窓の外の景色を一心に眺めていた。私もいつしか外の景色に見入ってしまった。
 そして、私にとっては長い間のような気がするが、実は僅かに昨日の午後からの短い間に、事情は他の方面で、退引のっぴきならない方へ進展してしまった。
 私は光子と別れてから、その半日を会社で過し、午後は暫く街路を歩いてみたが、やはり何だか気にかかって、三時頃家に帰ってきた。そして、妻に向ってこんな風に云った。
「昨日は会社の用で急に横須賀に行くことになって、つい知らせる隙がなかったものだから……。電話がないとほんとに不便だね。」
 実際私は、会社の用で時折横須賀へ行って一泊してくることがあった。俊子は変な顔付で――それも私の思いなしかも知れないが――私の方を見ていたが、やがて、会社のことなんかどうでもいいという風で、困ったことが出来たのでお帰りを待っていた、と云い出した。けれど私も、家のことなんかどうでもいいという風で、着物を着換え初めた。所が光子とか松本とかいう言葉に、忽ち注意を惹かれてしまった。
 俊子の話を概略するとこうだった――昨日の朝、松本が慌しく駆け込んできた。そして光子とのこれまでのことを告白し、前日光子がやって来たことから、その朝までの一部始終を話した。それは私が光子から聞いた所と大同小異だった。そして松本の願いとしては、光子を救うと思って、暫く家に置くかまたは他の所へ世話するかして、兎に角河野さんの家から引出してほしい、とのことだった。俊子はひどく狼狽して、主人が帰ったらよく相談して、すぐに何とかしようと答えた。所が、晩に松本はまたやって来て、河野さんの家へ電話をかけたら光子はまだ帰っていない、ということを報告した。
「それから今まで、私は一人でどんなに気を揉んでたか知れませんよ。」と俊子は云った。
 大体の話が分ると、私は少し安心して、また冷淡な態度を取った。
「厄介なことになったものだね。だがまあ、そのことは後でゆっくり相談しよう。僕は会社のごたごたした問題で、昨日から非常に疲れてるから、少し寝かしてくれ。」
 彼女が不平そうにぶつぶつ云ってるのを知らん顔で、無理に布団を敷かして、私はその中に頭までもぐり込んだ。実際私は非常に疲れてもいた。けれど眠れはしなかった。
 外部の事情からしてもまた私自身の気持からしても、光子のことに関して何とか解決を迫られてるのを、私は重苦しく感じてきた。然し私は何等解決の方法をも見出しはしなかったし、たとい見出しても、その方へ歩を進めるだけの元気がなかったろう。光子と別れてから後私は、全く無批判な盲目的な心境へ落ち込んでいた。善とか悪とか意志とか、そういったものを全然抜き去った、深い落莫の心地だった。自分の性的――否人間的――無気力を証明された痛ましい一夜から、じかにつながってきてるものだった。いろんな取止めもない妄想に耽りながらも、どうなるかなるようになってみろ! と捨鉢などん底に自然と腹が据っていた。
 それで、その晩松本がやって来ても、私はわりに泰然とした皮肉さで、彼に接することが出来た。殊に私のそういう皮肉さを助長するかのように、松本は私が晩酌をやってる所へ飛び込んできたのである。
 晩酌は私の日課になっていた。そしてその晩の晩酌は、いつもより少し長引いていた。俊子がくどくどと先刻の話を繰返すのへ、ぼんやり耳だけを貸しておいて、私は自分の陥った落莫とした心境に、じっと心を潜めていた。食事を済した子供達が隣りの室で、「チイチイパッパ、チイパッパ、雀の学校の……。」といったようなことをして遊んでるのを、靄越しにでも見るような不思議な心地で、ぼんやりと眺めながら、知らず識らず杯の数を重ねた。そこへ松本がふいに姿を現わした。彼は座敷へ通されるのを待たずに、私達がいる茶の間の方へ自分からやって来た。その自信ありげな露わな眼付を見た時、私の気持に不思議な変化が起った。今までもやもやと立罩めていた霧が急に霽れて、自分の周囲がぱっと明るくなったような心地だった。そして私の頭には、三人の子供を隣室に遊ばせ、台所に女中を控えさし、妻を側に坐らして、その真中に納まりながら――何の能もない自分が家庭という巣の中に納まり返りながら、酒にほてった赤い顔をし、額に泰平無事の快い汗をにじまして、ちびりちびり晩酌をやってる、おめでたい自分の姿が、一瞬の間はっきりと映ったのである。それは単にその晩だけの姿ではなくて、これまでの良い家庭生活を通じての、総括的な自分の姿だった。私は突然或る反抗心に駆られて苛立ったが、それに光子のことがからまってきて、次の瞬間には、反対にぐっと皮肉に落着いてしまったのである。
 松本は私に一寸挨拶をしておいてから、いきなりこう云い出した。
「奥さん、光子さんは帰っていますよ。」
 それを聞いて、俊子が変にぎくりとしたことを、私は後になって思い出した。後で分ったことだが、俊子は既にその時から、私の珍らしい外泊や帰宅後の様子などによって、一抹の疑惑を懐かせられて、そのために却って、私の行動については一切尋ねなかったものらしい。でもその時私は、そんなことには少しも気付かなかった。
 私は松本に対して、皮肉な調子に出てしまった。
「だいぶ面白い話があるそうじゃないか。」
 松本はちらと私の方を見たが、すぐに眼を伏せてしまった。それへ、俊子が気忙しなく尋ねかけた。
「え、光子さんはいつ頃帰ったのですって? どうしてあなたにそれが分りましたの?」
 松本は一寸考えてから答えた。
「私は昨日から、光子さんの行方が心配でならなかったんです、何だかひどく苛立ってるようでしたから。それで、今朝また河野さんの家へ電話をかけてみました。所がまだ帰っていないとの答えです。それから、晩になっても一度かけてみました。出て来たのは確かに光子さんです。月岡さんおいでですか、と私が云うと、はい、という返辞でしょう。私はすっかり喜んで、松本です、と思わず云ってしまったのです。すると、それからいくら呼んでも返辞がありません。でも確かに光子さんです。何を私に怒ってるんでしょう。」
 それから変に皆黙り込んでしまった。私は松本の綺麗にかき上げられてる髪に眼をつけていたが、三四杯酒を干してから、煙草に火をつけながら尋ねてみた。
「一体君、初めからどういう話なんだい。」
 松本は苦しそうな表情をしたが、底に頼る所ありげな諦めの態度で、一切のことをまた話してきかした。私は既に光子からと俊子からと二度も聞いてるその話を、新たな興味で聞き初めた。そして実際彼の話は、光子のそれと違って、落着いたしっかりした歩調で進んでいった。最後には、私が草野さんに相談して必ずあなたを救い出してあげるから、二三日辛抱して待っていてくれと、固く約束をしたから……とそんなことがつけ加えられた。
 私は心に一種の圧迫を感じてきたが、それを強いてはねのけるようにしながら、じかに突込んでいった。
「君は一体、本当に光子さんに恋してるのかい?」
 松本は少しもたじろがなかった。
「今の所恋してるかどうかは自分にもはっきり分りませんが、愛してることは確かです。」
「愛と恋と違うのかい。」
「私は違うと思っています。」そして彼の眼は輝いてきた。「私が深く光子さんを恋していたのでしたら、一昨日の晩、別々の室になんか寝なかったろうと思うんです。夢中になって取返しのつかないことをしたろうと思います。また、恋しても愛してもいなかったとしたら、別な興味で臨んでいったろうと思います。私はこう思っています。男が女と肉体的に接触する場合は、深い恋か単なる性慾かのどちらかだと。所が私は光子さんに対して、盲目的な深い恋を感じてもいませんし、単に性欲で臨むほど無関心でもいません。何と云ったらいいですか、こう……あのひとを清くそっとしておきたいというような心持、愛……愛です。私は本当にあのひとを愛しています。」
「君は全くの理想家だね。」と私は冷かに云った。
「ええ、私は理想家です。自分のあらゆる行動を理想で律してゆきたいと思っています。単なる理想でなしに、実際の行動をも支配するほどの強い理想が、本当に新らしい時代を生長させるのであって、もし……。」
 云いさして彼は俄に口を噤んだ。私の皮肉な眼付に気付いたのだろう、ぴくりと眉根をしかめて、眼を伏せてしまった。私は空嘯いて煙草を吹かした。彼が理想家であることは前から分っていたが、その理想を光子に対しても応用して……そして、彼が光子に長々と恋愛論をしてきかしたという話を、私はふと思い出したりして、変に皮肉な苦笑的な気持が募ってきた。
「まあ君の理想はいいとして、一体光子さんの方は、君に対してどうなんだろう?」
「私を愛しているようです。ただ私が苦痛なのは……。」
 彼はまた口を噤んで私の眼を見た。
「何が苦痛だって?」
「一昨日私の所へ飛び込んできたのは、本当に私が恋……私を愛してるからか、それとも一時河野さんを避けるためにぼんやり頼ってきたのか、その辺がよく分らないんです。」
「君が苦痛だというのは、ただそれだけなのかい。」
「それだけって……。」
「君は光子さんをどんな女だと思ってるんだい。」
「比較的真正直な怜悧な……いや何だかよく分りません。」
 彼は急に苛立ってきた。私はそれをなおつっ突いてやった。
「例えば、河野さんと実は関係がついていたり、北海道でいろんなことがあったり、そんな風な奔放な女だったとしたら?」
「え、そんな女でしょうか。」
「いやそれはただ仮定だよ、君の気持をはっきりさせるためにね。で、もしそうだったとしたら、それでもやはり君は、彼女を愛し続けてゆけるのか。」
 私の執拗な眼付に対して、彼は顔を伏せて暫く唇をかみしめていたが、やがてきっぱりと云った。
「愛し続けてゆきます。責任上愛し続けるつもりです。」
「責任だって?」
 然し彼は口を噤んで答えなかった。私には今以て、それがどういう責任の意味だか分らない。彼はやがて徐ろに云い出した。
「私はお宅で初めて光子さんに会って、それから次第にこういう気持へ落込んできたのですが、光子さんの身の上については実際よく知ってはいないんです。もし何か……ありましたら、教えて頂きたいのですが。」
「僕だって何も知りやしないよ。まあ、過去として葬るがいいさ。」
「でも……。」
 私は彼の露わな眼付にぎくりとした。と同時に、話の工合がいつしか自分にとって危険なものとなってるのを感じた。それで話の方向を一度に変えてしまった。
「で結局君は、どういうことにするのが一番望みなんだい。」
「私は、出来るならば、光子さんを暫くお宅に置いて頂いて、私と交際を許して頂きたいんですが。」
「今だって君は、自由に交際してるんだろう。」
「文通はしていますが……。」
「交際はしていないというのかい。へえー、僕はまた君達をもっと深い間柄だと思っていた。」
 少し腹立ち気味の反抗的な気勢で、腕を組み眼を伏せて考え込んだ彼の姿を、私は小気味よく眺めやった。それを余りひどいとでも思ったのか、俊子が突然中にはいってきた。
「理屈はどうだって、兎に角光子さんをこのまま河野さんの所へ置いとくのはいけませんわ。北海道から遙々頼ってきたのをあすこへやったのですから、あんな話を聞いてこのままにしておくのは、私達としても済まないじゃありませんか。」
「だから僕はどうしたものかと考えてるんだよ。」と私は云った。
「あなたはいつもそれですもの、考えてばかりいて、はっきりと決断なすったことは、一度だってありゃあしません。そんな風では、いつまで待ったって片付くものですか。」
「ではどうすればいいんだい?」
「もう松本さんの心はきまっていますし、この上は光子さんの心だけでしょう。私が参って、一体光子さんはどう思ってるか、それをよく聞いてきましょう。河野さんには義理もあるけれど、穏かに話をすれば、あれだけの人ですもの、そう分らないことは仰言るまいと思いますわ。」
 勿論それ以外に解決の方法がありようはなかった。然し彼女の調子は幾分私を驚かした。前から一々準備したようによく整った簡潔な文句を、もうきまりきったことのようにきっぱりと云ってのけて、それで一挙に事柄を決定してしまったのである。私にくどくどいろんなことを述べ立てて相談した彼女とは、すっかり異った調子だった。恐らく彼女は、私と松本との話を聞いてるうちに、何となくそれだけの決心を強いられたものらしい。そう私は咄嗟の間に感じて、何故となく不安の念に駆られてきた。
「勿論お前が行ってくれなければ、外に一寸行く人はないんだけれど……。」
「だから私が行きますわ。ねえ、松本さん、それでいいでしょう?」
「ええ。済みませんが、そうお願いします。」と松本はきっぱり答えた。
 私は自分の立場が急になくなったような気がした。と一方には、それを自ら皮肉に顧みる気も起って、松本に杯をさしたりなんかしながら、こんなことを云ったものだ。
「そうきまったからには、もう君も心配しないでいいよ。なあに場合によっては、河野さんと一談判したって構わないし、僕達で君達二人の間の媒妁人になってもいい。」
 何て馬鹿なことを私は云ったものだろう! 心ではつゆほどもそんなことを思ってはしなかったのだ。明日一杯明後日までには何とかなるだろうという約束で、松本が再び元気づいた自信ありげな眼付をして帰っていった後、私はなお酒の燗を命じてちびりちびりやりながら、そんなにお目出度く事件が片付くものかと考えて、理想主義者の松本のために――この理想主義者だということが、なぜだかその時私にはひどく必要だった――彼理想主義者のために、軽蔑的な苦笑が自然と浮んできた。それから、片付かないとすれば一体どうなるのだ? という所へ考が落込んでいった時、訳の分らない憤りと苛立ちとを覚えてきた。私の方をじっと窺っているらしい俊子の落着き払った様子にも、私はまた心を乱された。
「明日は大役だよ。よく考えて失敗しくじらないようにしなければいけない。」などと私は平気を装って云ったが、口元の軽い震えをどうすることも出来なかった。
 然し彼女の答えは、冷淡な調子ではあったが、案外素直な不平のみに止った。
「あなたがあんまり呑気で意気地がないから、こんな役目までも私がしなければならないんです。」
 そしてなお幸いなことには、彼女は子供の面倒をみてやらなければならなかったし、私は銚子に残ってる酒を飲みながら、すっかり酔っ払った風をすることが出来た。
 実際にも私は少し酔っ払ってたかも知れない。その晩いくら酒の廻りが悪かったからといっても、平素よりは随分長く多量にやったのだから。そして布団の中に蹲りながら、陰欝な妄念に弄ばれてるうち、私にも似合わない決心をしてしまった。その決心が翌朝になると、自分のこれまでの生活に対する反撥心から、更に益々固められた。
 私は学校を出ると間もなく結婚して家庭を持った。勿論恋愛結婚やなんかではなく、私の例の煮えきらない態度のために、いつしか媒妁人のために引きずり込まれてしまったのである。然し妻の俊子は善良な女だった。私によく仕え家庭をよく整えてくれた。そして三人の子供を設けた。家族が増すにつれて私の収入だけでは生活困難だったけれど、一番上の子が病気で入院した時をきっかけに、金のいる時にいつも妻が河野さんから借りてくる習慣になってしまった。河野さんは昔妻の父から恩義に預ったことがあるとかで、心よく私達の世話をしてくれた。向うでは何でもないことだったろうけれど、実業界に羽振のいい河野さんがついていてくれることは、私達にとっては非常に力強く、自然とその庇護に安んずるような惰性がついた。そして表面上、私達はまあ幸福な生活をしていたのである。所がその安穏幸福というやつがいけなかった。私達の生活にはいつしか、張りがなくなり、力がなくなっていた。私は元来文学が好きで、法科をやりながらも文芸書ばかり読み耽った。卒業後もずっと、会社員になり済そうか、それとも文学で身を立てようかと、それを迷い続けてきた。生活の脅威と重圧とがなかったために、いっまでも決心がつかなかった。河野さんの口利きで、今の会社の社長秘書といった無為閑散な冗員になり、一方では英語の小説の飜訳などをしていた。然し両方とも私の本当の仕事ではなかった。本当の仕事は、ずっと遠い所に……雲をでも掴むような所にあった。そして、その本当の仕事がいつまでも掴めないし、張りのない安穏な生活にはまってしまうし、子供は殖えてくるし、自分はいつしか三十の年を越してゆくし、遙かの先まで平坦な道の続いている自分の一生が、妙に味気なく見渡されて、何か或る驚異を求める焦燥の心が萠し、それかって別に面白い冒険もなし得ずに、いつしか酒と煙草とに耽るようになった。外で飲まなければ家で必ず晩酌をやり、敷島を手から離すことがなかった。酒と煙草とは精神の一種の手淫である。その不自然な精神的淫蕩に沈湎してるうちに、私の脳力も体力も衰えてきて、その直接の現われとしては、前に述べたようなひどい性慾減退を来し、また内的には、全く意志の力を失ってしまった。もう今迄のあやふやな生活を擲って、何か一つ自分の一生の仕事というものを選ぼうと思ったり、また直接当面の事柄としては、酒と煙草とを止そうと思ったりしたが、本当の決心が私には出来なくて、いつもぐずぐずに終っていった。そして私の精神はだらけきり、私の生活はなまぬるい陰欝なものになり、而も私の魂はまだ諦めきれずに、いつも落着かない焦燥のうちに悶えていた。
 妙に暖い薄曇りの日だったが、そのなま白い朝の明るみの中で、私は自分の姿を堪らなく惨めに感じ、その感じが前々日来の記憶に更に助長せられて、凡てに反撥するような心地から、前夜妄想のうちにふと浮べた決心を、私はほんとに固めてしまったのである。その決心とは、光子に逢ってみることだった。逢ってどうしようというのではない。逢ったらどうにかなるだろうというのだった。恐らくは、前夜松本に余り歯が立たなかった不満や、俊子の様子から受ける不安や、事情の切迫から来る脅威や、光子に対する好奇心や、自分の性的無力を証拠立てられた苛立ちや、其他いろんなこと――自分にだって一々分るものか――何やかやがつけ加わってはいたろうけれど――要するにそれは私にとって、凡てのものに対する最後の反抗の試みだった。道徳的な批判や良心なんかは、私には少しもなかった。
 そこで私は、その午前中には俊子が出かけられないことを推測し――俊子より前に光子へ逢わなければいけなかった――会社へ行く風をして朝早めに出かけ、河野さんの家のまわりをひそかにぶらつき、十町ばかり離れた所に場所を選定し――他に適当な場所が見当らなかったので、電車通りから一寸はいった洋食屋の二階にした――それからわざわざ自動電話を探して、河野さんの家へ――光子へ――電話をかけた。私はごく冷静に落着き払って、それだけのことをしたのである。
 電話口に出て来たのは、たしかに光子らしかった。所が私が名前を云うと、向うはぴたりと口を噤んでしまった。話しかけても答えがないので、「もしもし」と呼んでみると「はい」という返辞がした。話しかけるとまた答がない。呼ぶと返辞だけする。そんなことを三度ばかり繰返した後、私は確かに光子が聴いてだけはいると信じて、是非逢いたいことがあるから来てくれと繰り返して執拗に頼んだ。所がやはり答がなかった。私は暫く待ってから再び懇願した。すると突然怒ったような声が響いた。
「それでは参りますわ、じきに。」
 そして電話は切られた。私はぼんやり自動電話の箱から出て、約束の洋食屋へやって行ったが、どうしたのか、目的を達したという喜びは少しも感じなかった。否喜びどころではなく、次第に不安を感じてきた。
 可なり立派な西洋料理店だったが、朝のうちのせいか、階下の広間に四五人の客がいるきりで、落着きのない静けさにがらんとしていた。二階に上ると、幸にも二室に仕切られていたので、私は狭い方の室を占領して、葡萄酒一本と林檎のパイ二人前とを註文しながら、女が一人訪ねて来たらすぐに通してくれとボーイに頼んだ。そして一人になると、腰掛に坐っておれなくて、室の中をぐるぐる歩き出した。期待の念にわくわくしながらも、心は深い穴の底へでも落ちて行くかのような気持だった。然し私は長く待たされはしなかった。註文の品が運ばれて、葡萄酒を一杯飲むか飲まないうちに、光子は性急な足取りで階段を上ってきた。
 彼女は電話口に出て来た時と同じ服装のままですぐにやって来たものらしい。着くずれた銘仙の着物にメリンスの帯をしめていたが、髪だけは綺麗に取上げて、大きな鼈甲の簪を一つ無雑作に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)していた。ボーイが開けてくれた扉を斜め後ろ手に閉めきっておいて、挨拶もせずに私の方へつかつかと進んできた。その様子を一目見ると、私はもう何もかも駄目だという衝動を受けた。顔は真蒼と云ってもいいくらいに血の気が失せ、変に総毛立って、化粧のためにぼーと鼠色の陰を帯びていた。唇がかさかさに乾き、痙攣的に震える眉の下から、薄黒いくまで縁取られてる眼が異様に輝いていた。殊に私の眼を捉えたものは、臙脂色の襟から覗き出してる頸筋に、紫色のなまなましい痣が二つ三つ見えていて、それが今朝結い立ての髪と病的な対照をなしていることだった。そして私は、窓からさし込んで天井の高い白壁に湛えられてる、薄曇りの昼間の影のない明るみの中では、見るに堪えないようなものを、彼女の全体から嗅ぎ出したのである。
「まあお坐りよ。」と私は眼を外らしながら云った。
 彼女は黙って私の正面に坐った。卓子の上に少し萎れかけた菊の花瓶があって、それでやや二人の間が距てられた。その影から私は彼女を見据えていたが、黒目が半ば上眼瞼に隠れて光ってる彼女の眼付に出逢うと、もう我慢が出来なかった。
「お前は……。」
 彼女は同じ眼付で後を尋ねかけて来た。
「お前はとうとう……。」
 それでもやはり先が云えないでつまっていると、彼女はふいにいきり立った。
「ええ、そうなったわ。それがどうしたの!」
「それでお前は……いいのかい?」
「いいも悪いもないわ。どうせ私みたいな私は……。あんな風にぐれ出したんだから、どうなったって構やしない。」
 その絶望的な憤激が、私の方へ向けられないで、彼女自身の方へ向けられてるのを感じて、私はその隙に乗じようとした。
「そういう風にお前は、自分自身をいじめているが……実は……。」
「いいえ、」と彼女は私の言葉を押っ被せた。「実はだの本当はだの、そんなもの何もありゃしないわ。何にも……。私はただこうなっただけよ。あの時からもう……。」
「それじゃなぜ、今日やって来たんだい?」
「あなたが是非来いと仰言るから……。」
「それだけ?」
「ええ、それだけよ。」
 乾ききった唇を少し歪め加減にくいしばって、彼女はじっと私の方を見つめた。色褪せた菊の花の影から、先の尖った大きな鼈甲の簪が細かく震えているのが、しきりに私の心へ触れてきた。私は立上って少し歩きながら云った。
「僕は今日、お前と喧嘩をするために此処まで来て貰ったのじゃない。ゆっくり落着いて話してみたかったのだ。お前の心をよく聞いてみたかったのだ。お前の心次第で……。」その時私の頭に非常な勢で新たな考が閃めいた。「初めはあんな風だったけれど、何にも囚われない自由なのびのびとしたお前に、僕は……恋したのかも知れない。何もかも打捨ててしまって、お前と勝手気儘な放浪の生活をしてもいい。僕にはそれが、何だか新らしい本当の生活のような気もする。何処に行こうと自由だ。何をしようと自由だ。お前さえ承知してくれるなら……。」
「じゃあ一人でそうなすったがいいわ。」
 私は立止って振向いた。彼女は両肱をぐったりと卓子にもたせて、毒々しい軽侮の眼付で私を見ていた。
「お前は、僕を憎んでるね。」
「憎んでやしないわ。もう誰も怨んでも愛してもいないわ。ただ……。」
「え?」
「自分が憎いだけ。」
 ぶっきら棒に云ってのけて、突然、彼女ははらはらと涙をこぼした。私は呆気にとられて、その涙をぼんやり眺めていたが、不思議にぱっと一切のことが明るくなった。私は眼がくらむような気がして、椅子の上に身を落した。
「そうだったのか。やはりお前は……。」
 彼女はぎくりとして涙の顔を上げた。
「やはり松本君を愛してるのだろう。」
 そして私は惹きつけられるように彼女の眼に見入った。その眼は黝ずんでじっと据っていたが、私から徐ろに菊の花の方へ移ると、俄かにぎらぎらと輝いてきた。
「じゃあ私が松本さんを愛してるとしたらどうすると仰言るの? また愛していないとしたら、どうすると仰言るの?」
 真剣だとも皮肉だともつかないその調子に、私は遠くへ突き離された気がした。そして両手で頭を押えながら、それでもなお縋りついてゆこうとした。
「どうすることも、僕にはどうすることも出来ない。ただお前が何とか云ってさえくれれば……。」
 彼女は黙っていた。
「いろんなことがさし迫ってるのだ。……もう何もかも云ってしまおう。実は昨晩松本君が来て、すっかり打明けてから、お前を僕の家へ引取っておいて暫く交際さしてくれと、そう云うのだ。そして結局、俊子が今日お前の所へ行って、お前の心をよく聞いた上で……ということになっている。午後には行くだろう。それで僕は……。」
「え!」彼女は声を立てた。「奥さんが私の所へ?」
 彼女の喫驚した様子に私は眼を見張った。
「本当?」
「本当だとも。だから僕は……。」
 私は云いかけて止した。彼女はふいに飛び上ろうとしたが、それをじっと押しこらえるような表情をして、頬をぴくぴく痙攣さした。それから突然顔色を変えて、その引きつったままの口元に、嘲るような影を浮べて、いきなり病的に笑い声を立てた。
「いらっしゃるがいいわ。昼間よりか、晩にでも、そして……河野さんの所へでもいらっしゃるがいいわ。」
「何だって!」
 彼女はまた病的な笑い声を立てた。
「河野さんの所へいらっしゃるがいいわ。どんな風だか、私影から覗いててやるから。……男って可笑しなことばかり考えるものね。私を捉えて、俺はお前だとは思っていない、草野の細君だと思ってるんだって……。だから私も云ってやったわ。私もあなただとは思っていない、草野さんだと思ってるって。その時の喫驚なすった顔ったらないわ。それで私はなお云ってやった、私はもう身体は草野さんの奥さんと同じだから、どうか思う存分にって。いくら恐い眼付で見られたって、私びくともしやしない。そして云うことが振ってるわ、俺が悪かった、草野の細君というのはただお前の心をそそるための手段で、実は誰の細君でも何処の女でもいいんだ、そんな者はいやしない、俺が悪かったから誤解しないでくれ……そう云って頭を下げなさる所へ、私かじりついていってやったわ。人を馬鹿にして、じじいのくせに!……でも、何もかも馬鹿げてるわ、初めからみんな馬鹿げてるわ。」
 彼女の真蒼な顔はなお蒼ざめて、眼だけが異様に輝いていた。私はそれに堪えられなくなって、菊の花の影に隠れるようにして両手で額を押えた。もう何もかもめちゃくちゃになった気がした。彼女の言葉の奥には、いろんな感情がごったに乱れていた。単に河野さんとのことばかりではなく、私や松本のことなんかも、主客転倒して一緒にはいっていたかも知れない。私は頭の中で、何もかもめちゃくちゃになってそしてこんぐらかってしまった。その上なおいけないことには、妻に対する疑惑が頭の隅に引っかかってきた。
 私達はそれきり長い間黙っていた。何処かで小鳥の鳴く声がしたようなので、私はふと顔を上げた。光子は彫像のように固くなって考え込んでいた。が私の視線を感じてか、ふいに彼女は立上った。私も立ち上ったが、不覚にも涙をこぼした。
「どうする?」
「やっぱり……仕方がないわ。」
「それでも……。」
「もう駄目よ。」
 私は屹となって涙を拭いた。
「僕が河野さんに逢いに行こう。そして……。」
「いえ、いけないわ、どうしてもいけないわ。」と彼女は何故かむきになって遮った。
「じゃあ止すよ。」
 私達はじっと眼を見合せたが、心に相通ずるものは何もなかった。彼女はぴくりと眉根を震わして云った。
「私、もう帰るわ。」
 私は黙って首肯うなずいた。
「では、先生、これで……。」
 そして彼女は改まったお辞儀を一つした。その先生というあの時以来初めての言葉と、その時彼女の頸筋にはっきり見えた生々しい紫色の痣とが、今でも私の心にはっきり残っている。
 彼女が出て行った後、私は椅子に身を落して両手に顔を埋めた。涙がしきりに出て来た。その泣いている自分自身に気がつくと、急に訳の分らない苛立ちを覚えて、前にあった葡萄酒を半分ばかり飲んでしまった。それから其処を出て、その足ですぐ会社へ行き、急な雑用をすっかり片付けておいて、途中で食事を済まし、晩の八時頃家に帰った。
 私は平素の自分を取失ったようになっていた。絶えず万一のことを期待する気持に駆られていた。その万一が何のことだかははっきりしなかったが、光子からあの変な話をきかされた時から、何もかもこんぐらかって圧倒されるような心地の底に、ただ一つ、或る漠然とした万一の場合を予想する念が萠して、それが次第に私を囚えていった。泣いてる自分自身に気付いて苛立ったのも、会社へ行って大体の用を片付けたのも、食事後すぐに家へ帰ってきたのも、みなそのためだった。家へ帰って私は書斎の山を片付けるつもりだった。
 この万一の場合を予想する気持は、これまでにも時々、ふっと日が影るような風に、何等はっきりした理由もなく起ってくることがあった。それは生活気分がたるんで心身がだらけてる結果だったろうが、その日のは変な重苦しい重圧となって、私の上にのしかかってきた。光子との会見があんな風に終って、愈々もう駄目だという絶望が濃くなるにつれて、私は一刻もじっとしてはいられなかった。多分河野さんの家へ行ってもう帰ってる筈の俊子と顔を合せることも、ひどく不安であったけれど、そんなことに構ってはいられなかった。
 所が家へ帰ってみると、俊子は不在だった。女中に聞けば、俊子は午後中じっと家にいて、それから晩になると慌だしく支度をして、俥に乗って出かけたそうである。後で分ったことだが、彼女は河野さんの家へ行くのが何だか嫌で、ぐずぐずしているうちに夕方になって、いつも三時頃には社から帰る私が帰って来ないし、不安な思いが募ってきて、どうにでもなれという気で出かけたのだった。
「虫が知らしたんです。」と彼女は云った。「私はどうしても行きたくなかった。そしてぐずぐずしているうちに、あなたは先廻りをして、あの女と落合っていらしたんでしょう。図々しいにも程があるわ。あなたはそれでも恥しくないんですか。」
「いや僕は会社に行って遅くまで用をしていたんだ。」と私は臆面もなく云った。「嘘だと思うなら、会社に電話で聞いてみるがいい。」
「いいえ、嘘です、嘘です。」
 そして彼女はどうしても聞き入れなかった……がそれは後のことである。
 私は俊子がいないのにほっと安心すると共に、また一方には不安にもなりながら、二階に上って、飜訳の原稿や五六通の書信を片付けたり、書棚の中の書物を並べ直したり、机の抽出の中のこまごました物を見調べたり、額縁の曲ってるのを掛直したり――何のためにそんな下らないことをしたのだろう!――そして合間合間には腕を組んで室の中を歩いたりしてるうちに、今迄甞て知らない種類の焦慮に襲われてきた。「晩に河野さんの所へでもいらっしゃるがいいわ、」という光子の言葉から糸を引いて、俊子がいつも河野さんに金を借りにいったこと、彼女が結婚前から――子供の時から――河野さんと往来していたこと、河野さんの性情や私達の冷かな夫婦生活、そんなことが一時に忌わしい影を拵えて、私の頭に映ってきた。思うまいとしてもまたいつしかその方へ考えが向いていった。そして自身のことと彼女のこととが、頭の中に渦を巻いた。私は幾度も時計を眺めた。十一時近くまで彼女は帰って来なかった。
 表に俥が止った時、私は物に慴えたように立竦んだ。それから机の前に坐って、書物を一冊披いて読み耽ってる風を装った。俥屋の声や、女中の声や、戸締りをする音や、茶の間で何かかたかたやる音などが、相次いで聞えてきたが、やがてしいんと静まり返った。私は苛ら苛らしてきた。そして十分ばかりたつと、梯子段を鈍い足音が上ってきた。
 俊子は半ゴートだけをぬいだ外出着のままで、静かに室へはいって来て、火鉢の向うに坐ってから、改まった調子で云った。
「只今。河野さんの家へ行って参りました。」
 その全体の様子から私はただならぬものを感じて、一寸口が利けないでいると、彼女は急にはらはらと涙をこぼして、それからまた立上って出て行こうとした。
「俊子!」と私は呼び止めた。
 振向いた彼女の顔は、ぞーっとするほど冷たく凝り固まっていた。
「どうしたんだい?」と私は強いて尋ねた。
 彼女は一寸考えてから、また火鉢の向うに戻ってきて坐った。そして燃えるような眼付を私に見据えながら、震える声で云い出した。
「どうしたのか、御自分の胸にお聞きなすったら、分る筈です。あんな事をしておいて、よくも私を……。私、のめのめとあの女の前に出ていったかと思うと、口惜しくて、口惜しくて!……。」後の言葉は息と共に喉元につめて、こまかく肩を打震わした。
 私はどしりと打ちのめされた気がした。万一の場合を予想する気持になってはいたが、その万一は、そんなことではなくて、もっと遠い他の漠然とした所にあった。何れ俊子に分るかも知れないとは思っていたが、河野さんの家で彼女がそれを聞き出そうとは、夢にも思ってはいなかった。私は彼女について他のことを懸念していたのである。所が……。私は我を忘れて飛び立とうとした。
「え、誰から、誰から聞いたんだ?」
 すると彼女は、俄に嘲笑的な調子に変った。
「誰から聞こうと私の勝手ですわ。あなたは、分るまではごまかしておくつもりだったんでしょう。立派なお考えですわ。そして松本さんに向って、場合によっては媒妁人になってあげてもいいなんて、よくも図々しい口が利けたものですね。昨日からどうも様子が変だとは思ったけれど、まさかあの女と……そう思い直して……。私あなたを買いかぶっていました。もっと立派な人だと思いっていました。北海道で関係をつけた女を、二人でしめし合せて家に引張り込んで、私の前では少し都合が悪いものだから、河野さんの家へ追いやって、始終媾曳をして、井ノ頭なんかに泊り込んだりして……。またあの女も女ですわ。あなたに倦きてくると松本さんを誘惑したり、河野さんに身を任せたり、丁度あなたには似寄っています。ほんとに似寄りの夫婦よ。あの女と結婚なさるがいいわ。私邪魔も何にもしやしません。黙って出て行きます。あの女が私の代りになって、私があの女の代りに河野さんの女中にでもなります。あなたよりか河野さんの方が、まだ男らしく立派です。」
 彼女はもうめちゃくちゃになって、自分で思っていないことまで口走ってるのが、私には感じられた。と共に、彼女が或る点まで確かな事実を知ってることも、私には感じられた。もうごまかせやしない、そう思うと却って腹が据って、私は初めからのことを告白して、そして納得させようとした。
「もう僕も隠しはしない。何もかも云ってしまうから、つまらない邪推はしないでくれ。」そして私は、北海道では何事もなかったことを諄々と説き、次に一昨日光子が会社へやって来たことから、光子を井ノ頭へ誘い出したことを話し、その時の気持を前に書いておいたような風に説明し、それから井ノ頭でつい遅くなって泊ったことを話したが、その弁解には可なりゆきづまった。「兎に角僕は油断をしていた。性慾を軽蔑していた。人生を甘く見ていた。お前と一緒の生活をしているという腹が据っているので、何をしても危険はないと思っていた。そして遂に躓いたのだ。心は少しもぐらつきはしなかったが、肉体的につい躓いたのだ。」そんな風に私は云ったのである。勿論それも、私としては全然嘘ではなかったけれど、これ以外のことはどうしても云えなかった。云えば自分達の生活の否定になるのだったから。
 それまで黙って聞いていた俊子は、そこで急に私の言葉を遮った。
「じゃあ何をしようと油断からならいいんですね。私もこれからせいぜい油断をしてみましょうよ。他の男と一緒に泊ってきて、つい油断をして躓いた、とそう云ってあげますわ。あなたがどんな顔をなさるか……。もう分っています、あなたの心なんかすっかり分っています。いつも私にはあんなに冷淡にしておいて、他の女に逢うと愛情が起るんでしょう! 性慾を軽蔑していたなんて、よくも図々しいことが云えたものですわ。」
「いや実際少しも光子に心を動かしたのじゃない。肉体的に躓くことはあったにしろ、僕は心の上では一度もお前に背いたことはないつもりだ。それだけはお前も信じてくれていい筈だ。」
「それでは、あなたはどうして私を河野さんの家へおやりなすったのです? なぜその前にこうこうだと仰言らなかったのです? 私にあんな恥しい目を見さしておいて、何が心の上では……でしょう。私河野さんの前で、ほんとに穴でもあればはいりたいような、泣くにも泣かれず、額からじりじり汗が出て……。」
「え!」と私は思わず声を立てた、「河野さんが……河野さんがお前に云ったのか。」
 私の心の奥に巣くっていた浅間しい感情が、突然はっきりと姿を現わしてきた。そういう私がそういう場合に彼女に嫉妬するとは、何ということだったろう! 然しその時私は忌わしい想像を振り落すだけの力がなかった。
「どんな風に、どんな場合に、河野さんはお前にそれを話したのか?」
 彼女は呆気に取られたように私の顔を見守った。私はなお執拗に迫っていった。すると突然、彼女の顔にはありありと恐怖の色が浮んだ。それが私を更に駆り立ててきた。
「お前は前から河野さんとは親しくしていたろう。恥しい思いをしたことはないのか。」
 云ってしまってから私はぎくりとした。余りに忌わしい調子だった。もっともっと落着いて……そう思って云い直そうとしたが、もう遅かった。彼女はまるで死人のような顔色になった。顔色ばかりではなく、眼も頬も口も冷たくこちこちになってしまった。
「浅間しいとも何とも、あなたは!」
「いや僕はただ……。」
「聞きたくありません!」ぷつりと云い切ってから、暫くすると、こんどはひどく激昂してきた。「あなたは自分がそうだから私までもそんな女だと思っていらっしゃるのですか。あなたがそのつもりなら、私だってそうなってみせます。それこそ油断をして、性慾を軽茂して、世の中を甘く見て、河野さんを立派に誘惑してみせますわ。それがあなたのお望みなんでしょう。あなたは自分が疚しいものだから、私にもけちをつけたいんでしょう。」
「お前はそんなめちゃなことを云って、自分で恥しくないのか。」
「あなたこそめちゃなことを仰言るんです。」
 会話はそんな風に実際めちゃになっていった。何もかもごったになってはてしがつかなかった。それを一々書くのは無駄でもあるし、また書ききれるものでもない。私達は口早に云い争ったり、長々と説明したり、可なりの間黙り込んだりして、夜中の三時過ぎまで起きていたのである。そして全体としては、彼女は次第に攻撃的になってかさにかかってき、私は次第に受太刀になって詭弁を弄したが、それも結局二人の間を益々乖離させるばかりだった。彼女は私の云うことを真正面から受け容れはしなかったし、私は彼女の問に卒直な答をすることが出来なかった。その上彼女も私に対して卒直な口の利き方をしなかった。殊に河野さんの家でどんなことが起ったかについては、初めから一度もはっきりしたことを話さなかった。私は後で彼女の言葉を綜合して、大凡次のようなことを知ったばかりである。
 俊子が俥で乗りつけた時、河野さんはまだ晩酌をやっていた。で彼女は一寸挨拶をしておいて、光子に別室へ来て貰った。そして松本がやって来た転末からその希望などを話して、光子の心を聞きに来た由を告げた。所が光子は顔を伏せたまま、初めから一言も口を利かなかった。いくら尋ねても「石のように押黙って」いた。そしてしまいには、河野さんに話して下さいとただそれだけ云った。俊子は仕方なしに河野さんへ相談した。そして松本と光子との恋愛だけを話したが、話はそればかりじゃあるまいと河野さんに突っこまれて、遠廻しに事情を匂わした。河野さんは黙って耳を傾けて、「火鉢の底がぬけやしないかと思われるほど、火箸を灰の中につき立ててぎりぎりやって」いたが、ふいに「眼をぎょろりとさして」一切のことを打明け、私のことまでさらけ出した――勿論私と光子とのことを、彼はどの程度まで知っていたか、またどの程度まで俊子に話したか、それは私には分らない、が兎に角、俊子はそれを聞いて「消え入るような思い」をした。河野さんは彼女を慰めた上で、そういうことになってる以上は松本の方の意志次第だと云った。松本という人がある以上はこれから自分が光子を清く保護してやると誓った。
 俊子の心を絶望的に激昂さしたのは、勿論私と光子との関係が第一ではあったろうけれど、河野さんの取った処置もまたその一つだった。翌日私は、松本がやって来ないことにふと気付いて、さすがにしきりと気にかかってきて、思いきって俊子へ尋ねてみた。
「松本君はどうして来ないんだ?」
 彼女は恰もその問を待っていたかのように、朝から堅く噤んでいた口を俄に開いた。
「松本さんはいらっしゃりゃしません。河野さんの所へでもいらしたんでしょうよ。あなたよくお聞きなさるがいいわ。河野さんは私にこうお云いなすったのです。今更光子をあなたの家へ引取るわけにもゆくまいし、それかといって、光子の心はひどくすさんでるようだから、他処へやるのもどうかと思う。それで事がきまるまで、私が預っておくとしよう。知らない前は兎に角、松本という人のことを知った以上、私は誰にも指一本ささせないようにして、光子を清く保護してみせる。それから松本という人には、まさかあなた達から話をする訳にもゆくまいから、一層全く知らない他人の私から、ざっくばらんに打明けてその上の心持を聞くとしよう……とそうなんです。それでもあなたは恥しくないんですか。私は顔から火が出るような思いをしました。まだあの女を家に連れて来た方が、どれだけいいか分りません。それも出来ないようなことに、誰がなすったのです!」
 彼女の眼は憎悪に燃え立っていた。然しその憎悪は、単に私にばかりではなく、一切の成り行きにも向けられてることを、私ははっきり感じた。そしてその時から、私は凡てに復讐する気持で、河野さんに決闘を申込んでやろうかとも考えたのである。
 でもそれは翌日のことだった。何だか筆が先へ滑ってごたごたしたが、実際私はこれから先をはっきりと書き分けるのに困難を感ずる。私は何が何やら見分けのつかない気持になっていたのだから。
 所で、その晩、私は俊子と三時まで諍い続けて、三時が打つと、その音がまた不思議にはっきり聞えたのであるが、私達は急に黙り込んでしまった。そして長い間黙ってた後に、「もう私は寝ます。」と彼女は云いすてて、不意に立上った。その様子が異様だったので、私は喫驚して、心を静めてくれとまた哀願した。
「二三日考えてみます。」と彼女は云った。
 それでも、私は安心しかねて、彼女の後に引きずられるようについていって、寝室へはいり、彼女が寝てしまうのを見定めて、自分もやはり布団にもぐり込んだ。それから夜が明けるまでのうちに幾度か、夢現ゆめうつつのうちにふっと不安な気に駆られて、頭をもたげながら彼女の方を眺めやった。
 それは何とも云えない怪しい気持だった。昼間になってもそれが続いた。一瞬間でも眼を離したらどういうことになるか分らない、という恐れもあれば、眼を離したらもう永久に彼女を失ってしまう、という恐れもあったが、また一方には、どうなったって構うものか、彼女を失ったって平気だ、と思う心が却って不安の念をそそって、彼女の側を離れ難かったのである。私は恰も鉄が磁石に引きつけられるように、始終彼女の方へ気を惹かれた。そして私は、じっと坐り込んでる彼女から、少し離れた所をぶらついたり、食事の時にはやはり一緒の餉台に坐ったり、彼女の側でいつまでも新聞を見てる風を装ったりした。
 そういう私に、彼女は殆んど一瞥をも与えなかった。二三日考えてみるという言葉を、常住不断に実行してるかのようだった。いつも口をきっと結び眼を見据えて、額に冷酷な専心の影を漂わしていた。そして時々思い出したように、三歳になる末っ児の達夫を、いきなり膝の上に引き寄せ、その上に屈み込んで頬をくっつけながら、力限りに抱きしめた。達夫が苦しがっていくら蜿いても、彼女はなかなか離さなかった。それでも一度手を離すと、もう忘れてしまったかのように見向きもしないで、自分一人の沈思に耽っていった。かと思うとまた三人の子供達を呼び集めて、一番好きな御馳走を拵えてあげようとか、一番好きな玩具を買ってあげようとか、一番好きな遊びごとをしてごらんなさいとか、兎に角子供の一番喜ぶことを尋ねておいて、女中に云いつけてその通りにさせた。けれどもやがてまた、自分自身の中に潜み込んで、苦しそうに眉根を寄せるのだった。そういう様子を神経質な長女の清子は、子供心にも痛々しく感じたのであろう、私の方を窺ったり俊子の方を窺ったりして、それから妙に涙ぐんだような眼付で、俊子の側にいつまでも坐り込んで小布を弄ったりしていた。次の子の秀夫は何事にも無頓着で一人で騒ぎ廻っていたが、いつも遊び相手の清子が取合わないので、つまらなそうな顔をして、女中の所へ菓子をねだりに行った。末っ児の達夫は、三歳とは云え漸く駈け廻れるくらいで、玩具箱をかき廻すのに倦きると、しきりに母親の後ばかり追っかけた。それを俊子は時々の気分によって、突き放したり抱擁したり愛撫したりして、泣かせたり苦しませたり喜ばせたりした。それから女中は変におずおずして――と私には思われた――影の方に引込んでばかりいた。皆一緒になって和やかにいっていた家庭の調子が、何だかばらばらに壊れて狂ってきた。其の中で俊子は、殆んど用事だけの口をしか利かないで、冷たい蒼ざめた顔をして、何処かの隅にぽつねんと考え込んでいた。そして突然気付いたかのように、子供達に対していろんなことをしてやるのが、益々家庭内の空気を不安になすのだった。
 その不安な空気に堪えられなくなると、私は彼女から身をもぎ離すようにして、二階の書斎に上っていった。そして家庭的な空気が少しずつ遠くへかすんでゆくにつれて、外部の新たな不安な空気が、私へ重くのしかかってきた。松本や光子や河野さんのことなどが、解くことの出来ない縺れをなして、壁のように立塞がっていた。それをじっと見つめて、苛立たしい焦燥のうちに室の中を歩き廻りながら、私は次第に或る忌わしい想像を打立てていった。まだ眼に残ってる光子の頸筋の斑点やら、俊子に対して懐いた恥しい疑惑やら、殊には河野さんが光子を渡さない処置などから、其他全体の事件の成り行きから、私はこのままで河野さんと光子との間が終るものかと想像して、云い知れぬ恥しさと憤激とを覚えた。その時私の頭に映った河野さんは、荒い赤毛を頭の上にむりに撫でつけ、太い眉の下にぎろりとした眼を光らし、皮膚のたるんだ頬に太い筋のある、ただ一個の人間ではなくて、獣的な力強い性慾を具体化したものだった。そして私はこんどの一切のことに復讐する気で、河野さんと決闘してみようかと思った。初めふと浮んだその考えは、何度も頭に戻ってくるうちに、ただそれだけがあらゆる屈辱を払いのける唯一の手段のように思われてきた。日本人だからとて決闘していけないわけはない、そう自ら心に叫んで、私は拳銃を手に入れる方法を考えたり、河野さんから借りた金額を胸勘定したりした。どうせやるなら堂々と、金を返した上で拳銃で打合いたかった。所が私には、一体どれほど河野さんから借金があるのか、はっきりしたことが分らなかった。五千円を越してるかも知れないとぼんやり思うだけで、明確な所は俊子に聞かなければならなかった。家財道具を売払ったり友人に借りたりしても必ず金は返してみせる、その上で……と決心して俊子の方へやっていった。然し俊子の冷たい眼付に出逢うと、私はそれを云い出しかねた。浅間しい疑惑の一件が、しきりに邪魔となってきた。
 その上俊子は、私の一身からひどい嫌悪と圧迫とを感じてるらしかった。絶えず私に顔を外向けて背を向けようとしたし、私の前を避けようとしていた。夜中に私がふと不安な心地で我に返って、彼女の寝ている方を窺うと、二燭の電燈のぼんやりした光の中で、布団の上に坐ってる彼女の寝間着姿が見えた。私は喫驚して息を凝らした。やがて彼女はぶるっと一つ身震いをして、傍に寝ている達夫の方に屈み込んで、その額に頬を押当てた。暫くすると立上って、ふらふらと室を出て行こうとした。私は飛び上ってその手首を捉えた。
「何処へ行くんだ!」
 私の手の中で彼女の手首はぶるぶると震えた。それから石のように冷たく固くなった。
「放して下さい、退いて下さい。」と彼女は夢遊病者のような声で云った。「私はあなたの側にいるのが厭です。他の室へ行って下さい。他の家へ行って下さい。暫く旅に行って下さい。それでもあなたが此処にいると仰言るなら、私が出て行きます。暫く何処かへ行ってきます。いえ、放して下さい。」
 彼女は無理に身を遁れようとした。私は力の限りそれをねじ伏せて、彼女の布団の中に押入れた。
「お前が僕と一緒に暮すのを厭がるなら、そのようにしてやる。僕は考えてることがあるから、今に何もかも片をつけてやる。二三日待っててくれ。」
 そして私は自分の布団にもぐり込みながら、河野さんとの決闘の計画をまた思いめぐらしてみた。
 然し今考えると、私は本当に河野さんと決闘するつもりではなかったらしい。ただ息苦しさの余りそういう空想に縋りついていったものらしい。河野さんからの借金の額を俊子に尋ねもしなかったし、金を拵えようともしなかったし、拳銃を手に入れようともしなかった。そして松本に逢うと、その決心は跡形もなく消え失せてしまったのである。
 私が光子に逢った日から中二日おいて、雨のしとしと降る三日日の午前、松本がふいにやってきた。
 その時私は二階の書斎で、火鉢にかじりついて雨音をぼんやり聞いていた。前々日来一歩も外に出ないで、会社のことなどは勿論頭の外に放り出し、飜訳のやりかけにも手をつけず、ただ息苦しい空気の中に浸り込んでた間の時間が、非常に良いことのように思われた。そして影絵のようにぼんやりと、いろんなことが見渡されて、陰欝な佗しい影に包み込まれた。これまで嘗て、これが本当の自分の仕事だと思って働いたこともないし、はっきりした心の苦しみや喜びを感じたこともないし、物事に対して明確な批判を下したこともないし、妻や子を真面目に愛したこともないし、ただのらくらと時を過しているうちに、心も身体もだらけきって、そしてこんどの出来事で一度に圧倒されてしまった……そういう自分自身の空虚な生活が――恰も受精しない果実が早熟して自らの重みで地に落ちたような生活が、堪らなく淋しく感じられて来た。而も事件は――妻や松本や光子や河野さんなどと四方に糸を引いている関係は、益々こんぐらかってゆくばかりで、そして私に屈辱を重ねさすばかりで、どう解決がつくのか見当さえつかなかった。それをぶつりと断ち切るような気持で、河野さんと決闘しようなどと考えたが、実際はその方へ一歩も踏み出してはいなかった。あれやこれやを考えて、いっそ決闘で殺されてしまったら……なんかと想像してみたりした。そしてそれが馬鹿馬鹿しくなると、またいつしかぼんやり雨音に聞き入っていた。
 そこへ女中がやって来て、松本さんをこちらへお通ししてもよいかと云った。私は驚いて眼を見張った。
「え、松本君が? 今来てるのか。」
「先程からいらして、奥様とお話していらっしゃいます。」
 私はまた喫驚した。いつも階下したに誰か来た時は、何かの気配を感じないことはなかったのに、その時ばかりは少しも感じなかった。私は心にぎくりとしながら、通してくれと女中に云って居住いを直した。
 やがてやって来た松本は、私に或る印象を与えた。頬がひどくこけたせいか鼻がつんと高く額が白々と秀でて、眼には澄んだ奥深い光を湛えていたが、唇の薄い口元には毒々しい軽侮の影を漂わしていて、その二つが変に不調和な対照をなしていた。彼は私の前方にぴたりと坐って、私の方を見ないで云った。
「奥さんにだけお逢いしてゆくつもりでしたが、あなたにもお目にかけておく方がよいと思って、持って来ました。光子からの手紙です。」
 私は無言のまま、差出された手紙を取って読んだ。一枚のペーパーに万年筆で細かく書かれたものだった。

松本さん、何もかも許して下さいまし、ほんとに何もかも。私はあなたがお許し下さることは存じておりますが、やはりこうお願いしずにはいられませんの。
私はあの時二度とも、次の室からすっかり聞いておりました。あなたが一日考えてからと仰言ってお帰りなすったその一日が、私にはどんなに苦しかったか分りませんわ。そして次の朝いらして、やはり私は光子と結婚したいと仰言った時、私はぞっと震え上って逃げ出しました。恐ろしくて恐ろしくてなりませんでしたし、次には悲しくてたまりませんでした。私は生れて初めて本当に心から泣きましたの。
私はもうとてもあなたにはお目にかかれませんわ。この手紙が届く頃には、私は他の処へ行っていますでしょう。どうか行方を探さないで下さいまし。お目にかかれる気持になりましたら、私の方からあなたの所へ参ります。ただそれまでは、どうしてもいけませんわ。
今になって私はあなたのお心がようく分ったような気が致しますの。ほんとに何もかもお許し下さいまし。
光子

 中身は月日も宛名もないただそれだけのものだった。私はくり返し読みながら、いつまでも顔が上げられなかった。
 松本は暫くして、自ら進んで云い出した。
「私は河野さんに呼ばれて全部の話を聞かされました。そして一日中考えてから、是非とも光子さんと結婚する気になったのです。あのひと一本な一徹な性格がひどく私の心を惹きつけたのです。今ではもう恋してると云ってもいいかも知れません。」
 私は俄に顔を上げた。
「それで、君は彼女を探そうというのか。」
「いえ、探しはしません。今探し出して捕えるのは却って悪いと思います。私はただ待ってるつもりです。あのひとは屹度私の所へ戻ってきます。半年か一年か二年か、それは分りませんが、鍛えられた心で必ず私を訪ねてくると信じています。……そう云えばまた、理想主義者だとあなたに笑われるかも知れませんが、私はどこまでも理想主義で押し通してみます。」
 彼の言葉の調子からかまたはその表情からか、どちらからとも分らなかったが、その時私は心に電気をでも受けたような感じを覚えた。
「君は……僕に意趣晴しをするために来たのか。」
「いいえ、ただこういう風になったとお知らせに上っただけです。」
 そして私達はじっと眼と眼を見合った。ぴたりとぶつかった視線で力一杯に押合ってると、やがて彼の眼の光がむき出しになってきた。
「そうです、」と彼は云った、「私はあなたをこのままでは済ませないと思っていましたが、もうそんなことはどうでもいいような気がしてきました。馬鹿げきったことです。」
 私は俄にかっとなって、顔を真赤にした……と思うだけでなおかっとなって、大きな声を立てた。「帰り給え。もう出ていってくれたまえ。」
「ええ帰ります。」
 彼は飛び上るように立ち上って、室から出て行った。その力強い足音が階段に消え去ると、私は急に気力がぬけはてたようになって、机の上にもたれかかった。そして暫く惘然としているうちに、全く無用な自分自身を見出した、と同時に、或る広々とした所へぬけ出した気がした。
 それは一寸名状し難い気持だった。世界が俄に晴々としてきて、自分自身が遠くへ薄らいでいって、何もかもどうでもよくなった。松本がどうしようと、光子がどうしようと、俊子がどうしようと、私がどうしようと、生きようと死のうと、どうでもよくなった。死ぬことだって自由だ。そして私は死へ微笑みかけていった。
 一時間ばかりして俊子と顔を合した時、彼女は私を睥み据えた。
「あの女の手紙を御覧になりましたか。」
「ああ見たよ。」と私は落着いた調子で答えた。「なるほど、お前が松本君をすすめて僕の方へも見せに来さしたんだね。お蔭で僕はすっかり安心したよ。」
「安心ですって! まあ何て恥知らずな卑劣な……。私もうあなたの顔を見るのも厭です!」
 そして彼女は物に慴えたように肩をぴくりとさして、向うへ行ってしまった。
 俺が死んだら彼女はどう思うだろう、と想像して私は微笑を洩した。俺にだって死ねないとは眼らない! そして私はいろんな自殺の方法を考えて見た。首を縊る……毒を飲む……頸動脈を断ち切る……頭か心臓かに拳銃を打ち込む……然しどれも面白くなかった。もしその瞬間に死ぬのが厭になってももう間に合わない。生きるも死ぬるも自由な方法が私には必要だった。いろいろ考えているうちに、ふといいことを思い出した。手首の動脈を切って徐々に貧血してゆく死に方は非常に快いものだと、何かで読むか聞くかしたことがあった。これだと私は思った。生きたくなれば出血を止めればいいし、やはり死にたければそのままにしておけばいい。そしてその方法を頭の中でこね廻しているうちに、私は湯槽の中でやってみようときめた。死んだ場合に余り醜くないように、身体をよく洗っておいて、褌をしめて、それから剃刀で手首の動脈を切って……大して痛くもないだろう……それを湯の中につけておけば、出血が途中で止ることもなく、面白い幻覚をみ続けながら、苦痛もなく徐々に死ぬことが出来る。女中は何処かに使に出しておけばよいし、俊子は私の方を見向きもしないから大丈夫だ……。
 私は雨のしとしと降る中を出かけていって、もっと降れもっと降れという明るい気持で、新らしい石鹸と剃刀と白布とを買って来た。その白布を六七尺の長さに鋏で切った。猿股でなく褌を用いるのが私の気に入った。馬鹿に高価だと思いながら一番匂がいいと云われて買って来た石鹸は、見馴れない黒い真円いものだった。それも私の気に入った。よく切れるのをと云って買ってきた剃刀は、まだ本当に刃が立っていないらしかった。私は仕方なしに革砥ですっかり研ぎ上げた。そしてその三品を書棚の抽出にしまった。
 所が、一切の準備が出来上ってから、これで俺は死ぬのかしら、本当に死ぬのかしら……という疑いが起ってきた。何しろ私はごく自由な晴々とした気持になっていた。松本と光子よ、君達は輝かしく生きるがいい、河野さんよ、あなたは金の力で勝手な真似をなさるがいい、俊子よ、お前は俺から解放されて自由な途を歩くがいい、子供等よ、お前達は力強く生長するがいい、其他私の知ってる人々よ、君達は健在であれ!……そう呼びかけたいような気に私はなっていた。これで死ぬのかしら……と私は不安になり初めた。そして、いや死ぬものか! という思いと、いや死ぬのだ! という思いとが、同じ強さで起ってきた。
 私は自ら茫然としているうちに、ふと思いついて、この気持に落着おさまりをつけるために、事件の一切を書き誌してみようと決心した。そして殆んど寝食を忘れて書き続けてきた。すると、妙なことが起ってきた。
 井ノ頭の翌朝、私は一種無批判な盲目的な心境に陥ったことがあるが、それと似寄って而も気分は全く異った心境に、私は次第に浮び上っていった。あの時は陥ったのであるが、こんどのは浮び上ったのである。無批判ではなくて一切の批判を絶した、盲目的ではなくて眼をじっと見開いた、昼でもなく夜でもない薄ら明りの、落着いた静かな空しい心境だった。何のために? ということがないと共に、なぜ? ということも一切なかった。そして心の奥から、そうだそうだ! という声が響いていた。何がそうだかは分らないが……と云うより寧ろ、何がそうだかは問題でなくて、ただ静かにそうだった。髪の毛一筋も埃一粒も揺がないで、ただ静かにそうだった。
 斯くてあれかし!……ふとそんな文句が私の心に浮んだ。死も生もその境をなくして、ただ斯くてあれかし!
 私は死ぬかも知れない、或は死なないかも知れない。どちらだって結局は同じことだ。私が生きようと死のうと、何処にも波紋一つ立たないだろう、ただ空しい時間だけが流れ去ってゆくだろう。兎に角私は、三つの品を実際に用いてみようと思う。どうなるかは、誰にだって分るものか。ただ静かな晴々とした空しい世界だ……。





底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「中央公論」
   1924(大正13)年1月
※「嘗」と「甞」の混在は底本通りです。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2006年5月2日作成
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●表記について