死の前後

豊島与志雄




 その朝、女中はいつもより遅く眼をさまして、本能的に遅いのを知ると、あわててとび起きた。いつもは、側にねているおしげが、眼ざまし時計のように正確に起上って、彼女を呼びさますのだったが、そのおしげの床が空っぽだった。それだけのことに彼女は変に心打たれ、いちどにはっきり眼をさまし、急いで寝間着を着かえ、帯を結びながら台所へやっていった。電気をつけると、そこの……旧式の台所で、板敷のところから一段ひくくなってる洗い場の前の置板の上に、おしげが、白い浴衣地の寝間着のまま横倒しに蹲っていた。「まあ……。」つかつかと歩みよって、ばあやさん……と言葉は喉の奥だけで、肩に手をかけた、とたんに、彼女ははっと、身を退いた。そしてまた覗きこんで、両手でゆさぶった時、おしげの身体は凍りついた枯木同様だった。
 声を立てたか立てなかったか、それも彼女は自分では覚えず、奥の室に馳けていって、主人夫婦を呼起した。
 島村がおしげの身体をしらべた。病身な細君は――まだ生きてた頃のことで――真蒼な顔をして棒のようにつっ立っていた。その後ろに、若い女中は屈みこんで震えていた。おしげは片方の眼を白目にうち開き、両手をつっ張り、膝を痙攣的に折曲げて、横倒しになっていた。頭の近くにバケツがひっくり返って、恐らく水が一杯はいっていたものだろう。彼女の髪と肩とを濡らしていた。外傷はなく、中毒の模様もなく、台所の雨戸はしまっていた。島村は死体の眼瞼をなでて閉してやった。それから、タオルと叫んだ。女中がもってきた新らしいタオルで、濡れた髪と肩とを拭いてやった。
「手をかしてくれ。寝かしてやろう。」
 その時、女中が急にわっと泣き出した。そして声をかみしめ、涙をぽたぽたこぼしながら、抱きつくように死体の足にすがった。島村は肩の方をかかえた。軽かった。女中部屋の布団に死体は長々と薄べったく寝かされた。
「しばらく、子供たちが起きないように、たのむよ。」と島村は云った。
 細君は血の気を失い、蝋のような顔をして、眼にためてる涙だけが生々いきいきと輝いていた。島村は電話口へいった。
 晩春の白々しい夜明の光が、欄間の硝子戸から、電燈の明るみの中にさしこんでいた。
 島村と懇意な田中医学博士が、急報をきいてすぐに来てくれた。おしげは死後四五時間経過したらしく、策の施しようがなかった。死因に怪しい点はなかったが、家族ではなく、急死なので、一応警察医の立会も求めることになった。既往症は動脈硬化、脳溢血による急死……。恐らく夜中に軽い苦悶を覚えて、水を飲みに立っていった時、急激な脳溢血で倒れたものであろう。もう六十歳になっていた。「死因は明かだが、そうした脳溢血を招いた間接の原因が何かあるかも知れない……、」と田中は島村に囁いた。彼女の縁故としては、東京には本所で小さな折箱屋をやってる遠縁の者と、下谷で芸奴になってる姪の娘きりだった。それらの人たちを呼んで、島村の家で死体を棺に納め、一通りの読経をし、遺骨を郷里の新潟県下に運ぶことになった。

 知人の紹介で島村のところに世話になってる三ヶ年余の間、おしげは本所の折箱屋とあまり往き来をしなかった。その代り、時々姪の娘を訪れていた。芸者だからお邸に出入りさしては悪いといって、一度も向うから来さしたことはなかったが、月に一二度くらいはどちらからともなく電話で話し、三月に一度くらいはこちらからたずねていき、小遣や平素着を貰ってくるのだった。ほんとうに孝行なやさしい娘だといって、女中にはしじゅう噂をしていた。その娘に頼りきってる風だった。実の親子と同様な気持でいたらしく、いまにあのと家を持つのだと、それが理想でもあり目的でもあるらしかった。そのためでもあろう、彼女はふだん極端に倹約で、給金の大部分を郵便貯金にしていた。娘から二十円三十円とまとまった小使をもらってくると、「奥さま」に必ずそれを見せて、貯金がふえるのを子供のように喜んでいた。彼女の唯一の贅沢は――入費は――肌着の類と紙とだった。うわべは粗末な着物をきていても、肌にはいつも真白な布をつけ、白い清潔な紙を使うのが、自慢だった。あの娘が――みち子が――そう申しました、と彼女は云い添えるのだった。恐らくみち子から仕込まれたのであろうところの、その白い清潔な肌着と腰巻と紙とが、島村夫妻の苦笑を招くこともあったが、其他の点では、彼女は一銭の金も無駄にしなかった。そして前からのいろんなものを合せて貯金が千円余りになってることを、そっと打明けられた時、島村の妻君は少なからず驚かされたのだった。
 おしげは、死ぬ三日前に、みち子から電話で呼ばれて半日隙をもらって出かけていった。帰ってくると、何かじっと考えこんで、も一人の女中にもろくに口を利かなかった。それから中一日おいて、晩に、またみち子のところへ出かけていった。そしてその翌朝は、もう死体になっていたのである。その前夜の様子を、島村の妻君はくわしく若い女中から聞いた。
 島村の妻君は、病身なので、大抵九時頃には床につくのだったが、その晩は、島村も早く寝てしまった。その後に、おしげは帰ってきた。
 奥は皆さんおやすみになったというのを聞いて、おしげは一本欠けてる歯並を見せて、にやりとした。その笑いが、変に凄みをおびて見えたが、すぐに、いつもの善良な笑顔に返って、風呂敷包を開いてみせた。きんとんや蓮や蝦や肴などの煮物の折詰と、酒の二合瓶がはいっていた。これまでに嘗てないことなので、女中がびっくりしていると、今日は特別にないしょだよとおしげは云って、笑っていた。その様子がまた嘗て見ないほど上機嫌だった。内心に何か感情のたかぶりがあって、それが上機嫌となって発散してるかのようだった。その上、少し酒を飲んできているらしかった。彼女はいやに頭を小刻みに揺り動かしながら台所に立っていって、二合瓶をそのままお燗してきた。どうかすると銚子の底に残ってる酒を一二杯のむことはあったが、自分で酒を買ってきて内緒で飲むということは、まだ一度もなかったのである。
「これは、あのがくれたんです。あんたなんかがまねしてはいけませんよ。いいですか。」
 睥むようにそう云って、そして彼女は笑った。それから折詰の物をつっつき、酒をのみはじめ、女中にもすすめた。だが無理には強いなかった。若いうちは酒をのまない方がよいとも云った。そしてふいに思いだしたように、奥に御挨拶をしてきたいがお起ししては悪いかしらとも云った。同じことを何度もくり返し云ったり、矛盾したことを云ったりした。そのうちに、ふいに涙ぐんで、その涙に誘われて泣きだした。泣きながら笑った。泣くのが嬉しく、笑うのが悲しい、そういう調子になっていった。うすい少い髪の毛が、色艶を失ってぱさぱさで、そのくせ、皺よった厚ぼったい顔の皮膚が、ぼーっと上気じょうきしていた。
「あの娘ほど親切な者はありませんよ。わたしは今日、みち子……みち子……と、胸の中でくりかえして帰ってきました。わたしに御馳走をしてくれましてね、その上、これをぜひ持っていって、たべてから、ぐっすりおやすみなさいと、どうしてもきかないんです。それというのも、わたしが泣いたからですよ。嬉しいから泣くんだと、いくら云っても分らないらしい……。若い者って、そうですかねえ。悲しいから泣くのはあたりまえで、ほんとうに泣くのは、嬉しくて泣く時ですよ。あんたにも、分らないかも知れないねえ。年をとってくると、悲しいのなんか何ともありゃあしません。嬉しい時こそ、涙がぼろぼろ出て来ますよ。あの娘があんまり心配するんで、可哀そうになりましたよ。だけど、有難いものですね。こうしてお料理とお酒とをもたしてくれたんですものね。帰ったら、御主人にすっかりわけを話して、お酒をのんで下さいと、そういってきかないんです。そりゃあね、旦那様も奥様も、ほんとによい方で、話せば何でも分っては下さるけれど……。お起しして……いえ、やめたがいいですね。よいお方だけれども、わたしから云わせると、ただ一つお分りにならないことがある。……あんな風に、ありったけお金を使ってしまって……それも、無くなればまたはいるからよいようなものの、世の中は、いつもそうばかりはいきませんよ。貯金をしておかなければいけません。あんたなんかも、これから心掛けて、いくらでもよいから、貯金をなさい。わたしは、これで、もう十年近く、一生懸命に貯金してきましたよ。十年といえば、長いものです。あんたは、丁度だから、十年たてば、三十……女の二十と三十とは、たいへんなちがいですよ。その時になって、あわてても、貯金がなくては、どうにも出来ません。わたしなんか、活動ひとつ見るじゃなし、買い食いなんてことも、一度もしたことはありません。それでも、やれ歯が痛いとか、風邪をひいたとか、なんとかかんとか、人間の身体というものは、お金がいるように出来ています。それから、ふだんの心掛け……。肌襦袢とお腰と紙だけは、白いきれいなものを使わなければ、女の恥ですよ。襦袢の襟が汚れていたり、黒い浅草紙を使ったりしてごらんなさい……みられたものじゃありません。なに、いくらもかかるものですか。わたしだって、そうしたなかから貯金をしてきたんです。貯金をするったって、あの世にしょっていくためじゃありませんよ。いつか一度、生きているうちに、きっと役にたつことがあるもんです。わたしに貯金がなかったら、あの娘はどうでしょう……。役にたったんですよ。十年間の苦労が、役にたったんです。もうこれで、わたしは何にも思い残すことはありません。ほっとしました。それが、まだあの娘には分らないんですからねえ……。無理もありません、まだ若いんですから……。わたしくらいの年になると、役にたってほっとしたという気持が、どんなものだか、ようく分りますよ。そりゃあわたしだって、一日二日は考えました。考えたからって、決して惜しがったわけじゃあありません。ほんとに役にたつかどうか、それが肝腎ですからね。十年間の苦労でしょう。それが役にたてば、誰だってほっとしますよ。もう何にも考えることはありません。わたしはあの娘のために、ほんとに仕合せですよ。」
 だが、頭をふりふり、そんなお饒舌しゃべりをしながら、彼女は泣いているのだった。酒をのんで、眼がどんよりしてくると、足がしびれたらしく、膝頭を両手でもみ初めた。その時にはもう、若い女中はうとうとしていた。おしげは折箱と酒瓶とを片附けて、押入のなかに頭をつきこんで、行李のなかをかきまわして、みち子の美しい芸妓姿の写真を、幾枚も、また改めて、彼女に見せるのだった。それから、床を並べて寝てからも、彼女が眠ってしまうまで、あかずにそれらの写真をみていた……。
 若い女中のそうした話が、島村夫妻の心を惹いた。殊には千円余りだと額面まで聞きかじっていた貯金を、そのままにしておくわけにはいかないように考えられた。おしげの荷物を調べるのは憚られるが、何か深い関係がありそうなみち子へ、内々耳に入れておく方がよさそうだ。
 蔦子という名前で芸妓に出てた彼女は、本所の折箱屋夫婦に連れられて、初めて島村の家の敷居をまたいだ。おとなしい七三のハイカラに髪を結って、指輪もすっかりぬきとっていたが、その全体の感じが、島村の妻君は何となくなじめなかった。痩せがたの、顔立も相当ととのった、二十二三の女だったが、縁のたるんだ浮わついた眼、生気と血色との乏しい滑らかな頬、顔は殆んど素肌で頸筋を白くぬった化粧の工合、襟のくり方が素人とちがう黒の紋服の着附工合、腰から膝への体重のもたせ方など、その全体の感じに、いつでもひょいと動きだしそうな不安定さがあって、病身の神経質な島村の妻君には、しっくりと話がしにくいように思えた。殊にその細そりした鼻筋と受け口の下唇とが、変に彼女の心を反撥した。彼女はそのことを島村に云った。それで、島村が話を引受けた。
 合間を見計って、島村は彼女を別宅によんで、おしげの貯金のことを話しだした。よく知っておりますとの、事もなげな返事だった。
昨日きのう来ました時、貯金と通帳と印章はんを、あたしのところへ置いていきました。あなたにあげると云っていましたけれど、こんなことになりましたので、お葬いの費用やなんか、それから致したいと思っていますの……。」
「なに、そんなことはどうでもいいんですが、そうしたものがあったということを、あなたが知ってさえおれば、それでいいんです。本人がたいへん気にしていたようですから……。」
「よく存じております。」
 それだけで話はすんだ。彼女は涙ひとつ浮べず、頬の筋肉を硬ばらして、心の扉をかたく閉め切ってるようだった。それにあまり長く対座してもいられなかった。いろいろ用があった。
 おしげの棺が、その夕方、本所の方へ運ばれていく時、若い女中はすすり泣いていた。十歳をかしらの子供たちは、慴えたような不思議な様子で、寄り添って棺を見送った。
 それから一週間ばかりたって、蔦子がふいに訪れてきた。其後、島村は一度さる料亭で彼女に逢った。なお、一ヶ月ほど後に、蔦子と深い仲になっていた坪井宏の訪問を受け、次いで上海から可なり詳しい手紙を貰った。そして彼等のことが島村にも大体分ったのだったが、真相がはっきり掴めたのは、それよりもずっと後になってからのことだった。それ故、叙述の筆はここで島村陽一から離れざるを得ないのである。なお序に云っておけば、おしげの遺骨は、暫く寺に預けておかれた後、蔦子の手で郷里の墓地に納められた。

 蔦子は島村のところでは一生懸命にとり澄していたが、そうした態度をとらなければいられなかったほど、おばさん――おしげ――の急死に心打たれたのだった。死因ははっきり説明してきかされたし、疑わしい点もなかったが、最後に逢った晩のことが、いつまでも頭について離れなかった。それに丁度、ひるま、坪井と頼りない別れかたをしたばかりのところだった。
 坪井が五十円の金を都合してきて、不義理のない新らしい出先で前晩から逢って、朝九時頃に起上り、それから正午頃まで、二三本の銚子だけで、ぼんやり過してしまったその時のことが、まるで夢の中のようだった。別に話すこともなかった。薄曇りの昼間の明るみの中で、そうして差向いになっていると、坪井が好きなのかどうかさえ分らなくなってくるのだった。
 もともと、好きあった仲でもなかった。坪井はどこか田舎者めいたがっしりとした体格で、流行唄とききかじりの端唄とにがらにない節廻しを見せるきりで、好きだからというのでなくただ飲むために飲むという風に、どこか捨鉢な速度で酒杯を重ね、その飲みかたに蔦子もひきこまれて、酔った揚句、偶然といってもよい程のことで出来合ったのだった。而も蔦子にしてみれば、抱えの身ではあり、出てから四年にしかならないし、堅くしていられる身分でもなかったので、普通の稼ぎにすぎなかった。それが、次第に馴れあってゆくに従って、いつしか深くなってしまったのである。そしていくらか噂にものぼり、朋輩たちからからかわれて、珈琲を奢らされるのが嬉しくなる頃になると、坪井の方では金に困ってきた。そして坪井は皮肉になり、嫉妬の情を示すようになり、それと丁度同じ比例で、蔦子の心は坪井へ傾いていった。その頃から、お互に無理をしあい、出先へは不義理がかさなっていった。それがお互の気持を煽って、屡々逢わずにはいられなくなったのだった。そうなっても、不思議なことには、本当の愛が二人の心を繋いでるかどうか疑問だったし、それかといって、別れてしまうことが出来るかどうかも疑問だった。
 寒いからっ風の強い晩、十時すぎ、蔦子はもう可なり酔って、お座敷から帰りかけた。その時、そこの電車通りの、さほど明るくない絵葉書やの前に、マントの男が、首をかしげたまま棒のように立っていた。蔦子はつかつかと歩みよって、黙って肩をならべた。いつまでも男がじっとしているので、彼女はじれったくなって声をかけた。
「坪井さん……。」
 振向いた坪井の顔には、淋しい苦笑が浮んでいた。
「いつまで、何をしていらしたの。あたしが分ってたくせに……。」
「うむ……考えていたんだ。」
 二人は一寸顔を見合ったが、蔦子はいきなり彼を引張って歩きだした。
「いいわ、あたしに任しといて頂戴。」
 狭い通りにはいっていって、蔦子の知ってる初めての家に上りこんだ。そういう時のいつもの癖で、坪井は何だか落付がなく不機嫌だった。何かと嫌味を云ったり、わざと冷淡な調子を見せた。蔦子もそれを平然と受流して笑いながら、でたらめな調子になった。酒の飲み方が早くなり、流行唄をくちずさんだりして、そして坪井は何度も立ちかけた。まだ早いわと蔦子は云った。それがしまいには、帰るのがいやと云いだした。その時にはもう、二人とも酔っていた。酔ってからの時間は、知らないまにたってしまう。坪井は腹をたててるようだった。蔦子はひどく冷淡になっているようだった。
「今晩は送っていかないよ。」
「ええ、どうぞ。」
 蔦子は足がよろけていた。表通りで坪井に別れると、彼女は電柱によりそったり、時々立止っては熱い息を吐き、そしてまたふらふらと歩き出した。島田にいった頭が、風に吹かるる罌粟の花のように揺いでいた。お座敷着の身体が細そり痩せて、黄色のかった帯が大きく目立っていた。その後ろから、坪井は見えがくれにつけていった。狭い裏通りを、遠廻りにぐるりとまわって、彼女は家の前までいくと、そこの格子わきの柱に両手でよりかかって、その手の甲に額をおしあて、いやいやをしながら甘えるように身体を揺っていた。
「何をしてるの。」
 坪井が歩みよって声をかけると、彼女はきょとんとした顔をあげて、遠くを見るような眼で眺めた。
「まだ帰らないの……。大丈夫よ、酔ってなんかいないから……。」
 大きな声なので、坪井は、酔いきれないでいる胸のどこかで気がひけて、彼女の手を握りしめて低く云った。
「じゃあ、僕は帰るよ、早く家におはいりよ。」
 彼女ががらりと格子を引開けたとたんに、坪井ははっと身を引いて、両手を懐の中で組合せ、首垂れて、真直に歩き出した。もう何時頃なのか、人通もまばらで、小さなカフェーや小料理屋の中だけが、明るく、而も静かだった。彼はうるさい空自動車をよけながら、いつしか不忍池の方へ出て、寒い風に吹きさらされてる池の面を眺めやった。そこへ、ふいに、蔦子が馳けつけて、彼に縋りついた。
「どうしたの……。」
「探したわよ、随分。何だか心配になって……。」
 酔ったまま緊張した彼女の顔が、石のように冷たく見えた。それだけで、坪井の眼は涙でくもった。
「いやよ、家に帰るのはいや。」
「僕もいやだ。一緒に歩こう。」
 池のほとりを少し歩いて、それでもすぐにまた、二人は先刻出て来たばかりの家の方へ戻っていった。そして、表の戸を叩いて、出て来た女中へ蔦子が何やら囁いてる間、坪井はそこの物影にしょんぼり立っていた……。
 そうした感傷的な酔狂が、二人の不義理の範囲を少しずつ拡げていって、坪井に金が出来なくなると、その負担が蔦子の上にかぶさってきた。蔦子のところの姐さんはそれを見るに見かねて、初めはそれとなく注意を与えていたが、しまいにはほんとに心配しだして、まじめに意見をすることもあった。それが、しらふの蔦子にとっては、済まないように思われたり擽ったく思われたりした。坪井とは、お互に、いつでも切れてしまえるつもりでいた。そうした油断が、だんだん二人を深みへ引きずりこんで、従って不義理が方々にかさんできた時、初めて顧みると、もうどうにも出来ないような状態になっていた。坪井だけのことならばいいけれど、彼女自身の方々の出先に対する不義理は、やがて彼女にとっては土地にいられないことを意味するものだった。そして彼女はふと、大連行きのことを考えたのである。或る朋輩が、先年大連に住みかえて、今では大変のんきに仕合せに暮しているという便りを、一寸耳にしたのがもとで、いろいろ聞き合せてみると、ひどい処のようでもあれば、らくな処のようでもあり、とにかく、彼女の無智な想像力がひどく煽られた。それでも、その大連行きということも、結局は気紛れな想像にすぎなかったが、或る日姐さんから少し手きびしい注意を受けて、この頃のお前さんの評判はとてもよくないとか、いつまでもそんなじゃあ家においとくわけにはいかないなどと云われると、急に淋しくなって、何となしに、おばさんに――おしげに――電話をかけてしまった。おしげは心配してやって来た。それを口実にして、一緒に近所の映画を一寸のぞき、帰りにソバ屋で休んだのだった。
 おしげの顔を見ると、蔦子はいつも母親にめぐりあったような気になり、どんなことでも甘えられるのだった。時々の小遣や贈物など、するだけのことはしているという腹が、猶更甘えやすくするのだった。そのおしげが、映画をみてもソバをたべても、ちっとも楽しそうな顔をせず、落付のない眼付でそっと蔦子の様子を窺っているらしいのが、蔦子には意外だった。
「なにか、相談ごとがあると云っていたじゃありませんか。」
 とうとうおしげからそう尋ねられると、蔦子は笑いだした。
「ええ。でももういいのよ、おばさん。」
 おしげは呆れかえったように、歯の一本欠けてる口をもぐもぐさした。それからまた心配そうに、どんなことでも打明けてくれなければいけないとも云った。わたしはお前一人が頼りだとも云った。
「ほんとにいいのよ。」と蔦子は云った。「ただちょっと……大連にでも行ってみようかと、そんなこと考えたことがあったけれど……。」
「え、大連に……とんでもない……。どうしてまたそんなことを……。」
 おしげが余りびっくりしたので、蔦子はへんにしみじみとした気持になって、この土地ではいろいろ働きにくいことを話しはじめた。むすめさんだとか、おしゃくから出てるひとだとか、よい看板の家から長年出てるひとだとか、そうした区別がやかましいことなどを述べた。おしげの方では、大連という土地が、まるで地獄のように遠いひどい処だと云いたてた。そんなことから、蔦子は、坪井のことやその結果の不始末のことなどを、つい話してしまった。おしげの顔はひどく曇った。
「その人と、いっしょになるつもりですか。」
「いいえ、おばさん、そんなんじゃないのよ。すっかり切れてしまうつもりだけれど、さしあたって、お出先への不義理を片附けなければならないから、それで困ってるのよ。あたしがばかだったの……。」
 それでもおしげは、ほんとにその人とは別れるつもりかと、何度も念を押した。蔦子は眼を丸くした。これからよい旦那をみつけて、おばさんにも楽をさしてあげると、なだめるように誓った。おしげは深く溜息をついていた……。
 そうした翌日の晩、坪井がお金をこさえてきて、二人でのんびり飲みくらして、翌朝正午頃までも、ぼんやり顔を見合せたのだから、思いだすと、蔦子はおかしくてたまらなかった。
 彼女は坪井の顔を眺めながら、自分はほんとにこの人を好きなのだろうかと考えてみた。髪の毛のこわい、色の浅黒い、がっしりした体格で、濃い眉の下に、眼がくるくるっと太く丸く見えるのが特長だった。それを見てると、彼女は梟の眼を思いだした。
「ねえ、坪井さんと情死しんじゅうしたら、あたしたちのこと、新聞に出るでしょうか。」
「そりゃあ、一応は出るだろうよ。」
 それだけで、坪井もぼんやりしていた。第一、情死だとかいっしょになるとか、愛の誓いだとか、そんなこととは凡そ縁の遠い二人の関係だった。それでも深い仲で、無理をしいしい逢い続けて、馴れない家の二階に追いつめられてる身の上だった。それにまた、蔦子の方はもとより、坪井の方も、性的の強い慾望もないのだった。坪井は珍らしそうに、蔦子のなめらかな頬や、細そりした鼻筋や、肉感的な受口の下唇などを、微笑しながら眺めた。
「この頃、やつれたようだね。早く、いい旦那でも見つけたらどうだい。」
 それが、少しも皮肉な調子ではなかった。
「ええ。だけど、あたしに旦那がついても、やっぱり逢って下さる。」
「そうさねえ、逢ってくれれば逢ってあげるかも知れないが……。」
「まあー、恩にきせるの。」
 突然、彼女はひどく艶をおびた眼付をした。坪井は煙草に火をつけた。そして、東京はもう八方塞がりになってしまったから、郷里の知人に少しまとまった借金を申込んでいるが、それが出来れば面白い、というようなことを無関心な調子で話した。蔦子も、大連にでも行ってしまおうかと思っておばさんに話したら、ひどく叱られた、というようなことを他人事ひとごとのように話した。そのうちに腹が空いてきたので、簡単な食事をして、それから別れた。坪井の梟のような眼が、なんだか曇りをおびていた……。
 その、何の印象もない頼りない別れかたが、却って蔦子の頭に残った。夕方、おつくりをしてるうちに、それがまた頭に浮んできて、涙ぐましい心地になった。そして夜になっても、どこからもかかってこず一人残っていた。そこへ、おしげが不意に訪れてきたのだった。
「だいじな話ですが……。」
 さも秘密らしく、玄関で彼女は蔦子の耳にささやいて、ほかのひとたちが出払ってるがらんとした室の中を、じろりと見渡した。その様子に、蔦子はただならぬものを感じ、ばあやさんにあとをたのんで、おしげを近くの小料理屋の二階に連れていった。
 おしげは赤茶けた後れ毛をふるわせ、きつい眼付で、いきなり尋ねかけてきた。
「大連に行くとかいう話は、どうしました。」
 その改まった調子に、蔦子はけおされた。笑うことも出来ず、まがおになって、あれはただ一寸したお話で、決してそんなことはしないと誓った。
「それから、」とおしげはなお追及してきた、「あの……わるい人とは、ほんとに別れる決心がつきましたか。」
 坪井のことだと分ると、蔦子は返事に迷った。おしげが真剣なだけに、嘘は云えなかった。考え考え答えた。決して悪い人ではないこと、けれど、初めから好きでも嫌いでもないこと、ここで切れようと思えばお互にどうにでもなること、方々に不義理をしているので、それで困って、やはり逢っていること……。そのおしまいの理由が、おしげによくのみこめないらしかった。くわしく説かれて、いくらか分りかけると、ほっとしたような顔をした。
「それでは、お金がどれくらいあったら、すっかりよくなるんですか。」
「どれくらいって、少しでいいのよ。でもそんなこと、おばさんが心配なさらなくってもいいわ。どうにかなるわ。」
 蔦子はそこで初めて笑った。おしげに酒をすすめた。おしげは一杯うまそうに干して、それから、両手を懐につきこんで、長い間かかって、郵便貯金の通帳と印章とを取出した。
「これを、すっかりあげるから、役にたてて下さいよ。わたしがもってるものは、何もかもそれだけだから、役にたつように使うんですよ。」
 蔦子はあっけにとられた。おばさんにお金の相談をしたのではないと、いくら云っても、おしげはきかなかった。通帳を開いてみると、千円をこした金額なのに、蔦子は更に驚いた。おしげはむりにおしつけた。それではしばらく拝借しとくわといって、蔦子は通帳と印章を帯の間にさしこんだ。その無雑作な手附を、おしげはじっと眺めていたが、またたきもしないその眼から、涙がはらはらと、だしぬけに流れおちた。
「あら、どうしたの、おばさん。」
 おしげはなお泣いた。蔦子はすり寄ってその肩に手をかけ、おしげの堅い指先を膝に感ずると、そこから痛みに似たものが胸に伝わってきて、涙ぐんでしまった。
「ねえ、おばさん、あたしこれから一生懸命に働いて、きっと御恩報じをするわ。どうにかなったら、家を一軒持ちたいと思ってるの。そしたら、おばさん来て下さるわね。」
 おしげは一語一語うなずいていた。それから泣きやんで、何か美しい幻をでも見るような眼付で、蔦子の顔を見守った。蔦子はしぜんに微笑んでみせた。珍らしくその頬に生々いきいきとした血が流れた。おしげはがっくりと卓子によりかかっていたが、小首をかしげてから、杯をとりあげた。
「おばさんと、こうして飲むのは、ほんとに久しぶりよ。」
 おしげはだまってうなずいてみせた。蔦子はいろんなとりとめもない話をしながら、杯をかさねた。おしげは殆んど口を利かないで、うなずいてるきりだったが、嬉しそうだった。蔦子の家から電話がかかってきた。蔦子は料理の折詰とお酒の瓶とを包んで、おしげにむりに持たしてやった。御主人にわけを話して、うちでゆっくりおあがりなさいと云った。おしげは帯のところをつっついて、通帳を落さないようにと、何度も注意した。蔦子は子供にでも対するようにうなずいてみせた。
 蔦子は家に帰って、鏡台の前に坐ったが、ふいに、何か腹だたしいかのように、かかってきてるお座敷を断らせた。そして鏡の中をぼんやり眺めながら、煙草を吸いながら、考えこんでしまった。

 おしげの郵便貯金のこと、彼女の急死のこと、蔦子がその貯金によって救われたこと、それらの話を蔦子から聞かされた時、坪井は心に復雑な[#「復雑な」はママ]衝撃を受けたのだった。それらの話をしながら蔦子は、絶望的とも云えるような朗らかさを示していたが、聞く方の坪井は、次第に憂欝な気分に沈んでいった。
 彼はその憂欝の底から、蔦子と知り合った初めのこと、なおそのも一つ前のことを、まざまざと思い浮べるのだった。
 彼が勤めていた依田商事会社に、貿易品を取扱う或る大きな株式組織の商会から、金融の相談があった。担保物件は価格明記の倉荷証券で、台湾製のパイナップル缶詰四千箱について、一万二千円の申込だった。その三ダース入の一箱は、当時の担保相場としては五円ほどのもので、一箱三円とはむしろ少額にすぎる要求だった。社長の依田賢造は直ちに承諾した。然るに、それから三ヶ月ほどたって、その三ヶ月が融資期限で、それがきれると、社長は坪井を呼んで、会社のために骨折って貰いたいといいだした。用件というのは、担保流れになっているパイナップル四千箱の倉荷証券で、金融の途を、而も出来るだけ多額の金を、向う一ヶ月間の期限で、見付けてほしいとのことだった。而も第一に相談してみるがよいとて、他のある商事会社の名まであげてくれた。坪井は意外な気がした。他に先輩もあるのに、ただ機械的に事務をとっているだけの無能視されている筈の自分に、そういう大任が、而も内々にということで云いつけられたのである。
「どうだ、やってくれるかね。」
 社長はその太い指先で、卓上の万年筆を無関心らしく弄びながら、小さな眼で坪井の顔を眺めていた。やさしくもまた鋭くも見えるその眼の底のものを、坪井は判読しかねて躊躇した。
「では、これからすぐに行って、返事をきいてきてくれないか。」
 坪井はいきなり押しつけられて、それに従った。どうにでもなれという気だった。
 ところが、先方へいってみると、すぐに主任が自身で逢ってくれた。彼は坪井の説明をきいてから、大体よろしいが、金額の点は一人できめかねるから、後で御返事しようとのことだった。
 ただそれだけのことだった。社長は其後、その用件については彼に一言も云わなかった。恐らく先方と直接に話がまとまったのであろう。それから二ヶ月後の年末賞与に、彼は月給の十ヶ月分の包みを貰って驚いた。
「これは特別のはからいだから、内緒にしておいてくれよ。君には今後いろいろ頼みたいこともある。こんな仕事も、次第に面白くなるよ、辛棒し給え。」
 社長のその好意が何によるものか、坪井には腑におちなかった。ところが間もなく、例の倉荷証券のことについての、同僚たちのひそひそ話を耳にした。一箱五円五十銭のわりであの証券は他へ担当流れにされてしまったというのである。そうなると、坪井にも凡その想像がついてきた。一万二千円から二万二千円になって、その間のさやは、一体どこにころげこんだのであろう。恐らく依田氏一人の懐へではあるまい。あの少額のままで流してしまった商会の仕打にも、また彼が名目だけの使者に立った話の筋道にも、疑問は持てないことはなかった。彼はやはり平素の通り、他の同僚たちからは除外された形で、非社交的に黙々として事務をとり続けた。そして何かしら息苦しいものを周囲に感じて、賞与をみな使いはたしてやれという気になった。そうした機会に、蔦子と出逢ったのだった。それからはずるずると惰性の赴くままに賞与などは使いはたし、国許から無理な送金を受け、他に借金を拵え、それでもまだ足りなかったのである……。
「考えちゃいけないわよ。」と蔦子ははれやかに云っていた。
 その顔を、坪井はぼんやり眺めた。
「そして君は、おばさんの貯金を、全部引出してしまったの。」
「いいえ。どうせ足りやしないでしょう。それも、自由に……看板借りにでもなれるなら、みんな引出したっていいんだけれど……。少しは残しておかなくちゃ、可哀そうよ。」
「可哀そうって……誰に……。」
「……ただ……坪井さん、そんな気がしない……。」
「うむ……。だが、君は朗かそうじゃないか。」
「ええ朗かよ。これから、うんと働いてやるわ。」
 自分の腕からするするとぬけだしていく彼女を、坪井は感じたのだった。そして何かが……単に彼女自身でもなくおばさんでもないだろう……何かが、可哀そうだという気持で、而もそこに朗かに立ってる彼女は、一寸したことで、ひどい莫連に向うか生真面きまじめに向うか、どうせ中途半端ではすみそうもない、危い瀬戸際にあるようだった。そして坪井も、自分が同じ様な瀬戸際にあるのを感じた。彼は半ば自棄的な苦笑を浮べて云った。
「どうだい、僕と結婚しないか。」
「だめよ。」
「なぜ。」
「なぜでも……。結婚するくらいなら、あたしたち、情死しんじゅうしちゃうかも知れないわね。」
「じゃあ、情死しようか。」
「ええ、いいわ。……あたし今日は、酔いたいの。酔って……駄々をこねてもいいでしょう。」
 だが、坪井は少しも酔いたくはなかった。胸の底にへんにまじまじと眼醒めてるものがあって、そいつが、蔦子を、また彼自身を、じっと見つめていた。
「おばさんは、いくつだったの。」
「五十……九かしら。でも、年よりずっと老けてたわ。」
 彼女は眉根をくもらせて、杯をとりあげた。坪井も杯をとった。そうして酒をのむのはばかばかしかったが、ばかばかしいことは、一番ほかに仕様のないことかも知れなかった。そして彼はまた考えこんだ。おばさんの死の前後のことをもっとくわしく聞きたかったが、蔦子はもうそんなことに心を向けたくないらしかった。生きてる者の、生きてる間だけのこと……そういうところに彼女の気持はあった。それなのに、彼女の真剣に生きることを何が妨げているのか。坪井はまた考えこんだ。
「考えちゃいけないわ。」
「考えやしないよ。」
 そして坪井は立上ったのだった。
「帰るの。」
「うむ。」
 蔦子は別に引止めなかった。坪井は一人で、薄ら寒い春先の夜更の街路を歩いていった。俺がもし金をもっていたら、蔦子なんかには眼もくれないかも知れないと、そんなことが考えられるのだった。もしひどくせっぱつまったら、彼女を殺すかも知れないと、そんなことも考えられるのだった。
 それから一ヶ月ばかりの間――その頃坪井は島村陽一に一寸逢ったのだが――坪井は薄暗い憂欝のなかに浸りこむと共に、蔦子からも次第に遠のいてゆくようだったが……。
 或る日、坪井は会社で、また社長の依田賢造から呼ばれた。
「君にまた頼みたい用件が出来たよ。」
 依田氏は声をひそめて云った。これから某会社の専務取締のところへ出かけていって、現金七千円と引替に、一ヶ月期限の約束手形八千円の証書を貰ってきてほしいと、ただそれだけのことだった。但し振出人は先方の専務個人で、宛名はこちらの会社だから、それを注意してこなければならなかった。坪井はつまらない用件なのに不審がって、依田氏の顔色を窺った。すると、依田氏はなお声をひそめて、自分が出かけていっては工合がわるいことがあると弁解し、個人にせよ会社にせよ、時として秘密な窮地に立つことがあるものだと云い、この商事会社の立前として無抵当金融は絶対に謝絶しているので、秘密を守るためには君より外に使者がないと云うのだった。もしこの秘密が少しでも外部にかぎ出されたら、いろんな思惑が行われる懸念があると、その点を彼はくどいほど注意した。坪井はぼんやり聞いていた。貪慾そうな彼の口から出るばかにやさしい細い声が、まるで彼自身の声とは思えなかったし、而もその声の背後には、人の心のなかまで見通そうとするような光をひそめた小さな眼が、油断なく監視しているのだった。それらの肉体的な特長に対して、坪井は一種の恐怖と反撥とを覚えて、七千円の包みを抱えながら、静かに室を出ていった。
 街路に出て、大きく息をついたとき、坪井は軽い眩暈を覚えた。春の陽光が空に満ちて、その反映のため、大建築の立並んでる丸の内のオフィス街は水中にあるかのようだった。彼は円タクを呼止めるのを忘れて、ぼんやりつっ立った。その時彼の意識の中は、広漠たる空白で、而もその空白のなかに無数の超現実的な映像が立罩めていた。後になって彼は、そうした頭脳の働きを、自分の非社交的な性格の根柢に関係があるものだとし、人工に対する自然の反逆の癲癇的発作だと称した。がそれはとにかく、彼はその時、無数のビルディングの屋根をはぎ壁をはいで、その内部を素裸にして眺めた。出勤時刻のサラリーマン階級の群像が、その上につみ重った。依田賢造の顔が大映しになって前景に浮出した。彼はたえ難い寂寥を覚えた。その寂寥のうちに、肉体的とも精神的ともつかない嘔吐の気を感じた……。
 それはただ一瞬間のことだった。彼はすぐに自分自身を見出し、落付いた気持に返った。嘲笑的なものが顔の筋肉を和らげた。彼は歩きだし、往来に唾を吐いた。あらゆるものに反抗したかった……。
 其後のことは、簡単に述べておこう。彼は日比谷公園の木影のベンチに一時間ばかり休んだ。それから自動車で上野の方へ向った。懇意な家の一室で、夕方まで蔦子を相手に酒をのんだ。暫く郷里へ帰ってくるという言葉と、二千円の現金とを、呆気にとられてる彼女へ残した。その夜彼は東海道線の列車に乗りこんでいた。至って落付払って、慴えてる様子などは少しもなかった。――こうした犯罪はこのように冷静に行われることが多い。
 坪井は長崎から上海に渡った。

 それから七年たって、島村陽一は、突然、坪井宏の訪問を受けた。おしげの生前の生活の有様をききにだしぬけに訪れてきたことのあるその不思議な男のことを、そして真偽不明な犯罪の告白を上海から書いてよこしたその男のことを、島村はもう忘れていた。がとにかく逢ってみると、骨格の逞ましい眉宇の[#「眉宇の」は底本では「眉字の」]精悍な四十年配の男だった。彼は装わない磊落な親しみを示した。その眼が変に人の心を惹くものを持っていて、梟の眼付を[#「眼付を」は底本では「着付を」]思わせた。島村は思いだした。
「ああ、君でしたか……。」
「お忘れでしたか、はははは。」
 力強いが然し感情の空疎な笑いかただった。そして彼はなつかしそうに島村の顔を眺めるのだった。その無遠慮なほど卒直な視線に、島村はちょっと眼を合せかねる心地がした。
「こちらに帰ってきて、急にお逢いしたくなったものですから、ぶしつけに伺ったのですが、皆さんお変りもありませんか。」
「ええ、まあ……。」
 考えてみると、島村は妻が病死していたし、思想感情にもだいぶ変化を来していた。然し坪井の方が、あの当時とはよほど変っているようだった……というよりも、内的ないろんなものが力強く生長しているようだった。彼は饒舌ではなかったが、ぽつりぽつりと短い言葉でいろんなことを話した。――上海からの手紙のことは真実で、あの時持ち逃げした金の残りで、一寸公言をはばかる非合法な仕事をやって、まあ相当の財産が出来たので、東京へ舞戻ったのだった。これから何をするかは、まだ考慮中だった。あの時上海へ行って内地からの新聞を注意していたが、依田賢造が事件をあのままに葬ったのは、賢明な処置と云うべきだそうだった。然しあのような男にはもう用はないのだった。あの当時はいろいろばかなことを考えたもので、それも「人工に対する自然の反逆の癲癇的発作」のせいだったらしい。――そして彼はその「発作」についてくわしく説明をして、只今では、それを利用する方法を知ってると云うのだった。
「今でも起るんですか。」
「どうかすると、起りそうです。」
 島村は安らかな微笑を浮べた。そしてそんな話から、島村も彼の梟の眼付に親しみを覚えて、蔦子の話などを持ちだした。これから旧跡を訪れてみないかと誘ってみた。
「そうですね、あなたさえよろしかったら……。」
 もう蔦子のことなんかは気にもとめていない様子だった。島村にしても、あれきり蔦子のことなんか忘れてしまっているのが、ふしぎなほどだった。
 二人は出かけた。丁度島村は、その土地に長く出てる静葉というのと懇意だったので、それを呼んで、蔦子のことを尋ねてみた。よく聞きただすと、蔦子というのがいるにはいたが、それは別人で、先の蔦子はもう数年前にやめて、只今はどうしてるか分らないらしかった。
「それでは、こんどの蔦子を呼んでみますか。」
「いや、よしましょう。」
 坪井は言下に答えた。そして島村と静葉との様子をしきりに見比べていたが、ふいに、島村をどうして好きになったかと、静葉にたずねかけた。静葉がただ笑ってると、坪井は、自分が島村を好く理由を話しだした。――まだあの事件以前のこと、彼は島村の彫刻を見たことがあった。その中に、女の胸像が一つあって、少しグロテスクだが、人間的な審美感をぬきにした物質的な動物的な肉体そのものの温みがよく出ていた。島村にもそういう嗜好があるらしい。その頃から彼は島村を知っている、というのだった。
「どうだい、島村さんには、ひどく人情深い善良なところと、ひどく人間離れのしてる冷いところとが、いっしょにまじっているだろう。」
「あなたも、そうらしいわね。」と静葉は答えた。
「ああ、それが僕の悩みだ。その悩みを感じない島村さんは、実際幸福だなあ。」
 そして坪井は、またしげしげと島村の顔を眺めるのだった。その視線の前に、島村はもうすっかり自分をなげだすだけの親しみがもてた。





底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「経済往来」
   1933(昭和8)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年3月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について