常識

豊島与志雄




     一

 富永郁子よ、私は今や、あらゆるものから解き放された自由な自分の魂を感ずるから、凡てを語ろう。語ることは、あなたに別れを告げることに外ならない。別れを告げる時になってほんとに凡てを語る――これは人間の淋しさである。
 あなたの生活について、行動について、私が最初に或る要求をもちだした日のことを、あなたは覚えているだろう。あの日の午後、私たちは鎌倉山のロッジの前で自動車を棄てた。ロッジは何かの普請中でしまっていたが、私たちはそれを遺憾とも思わないで、初秋の冷かに澄んだ光の中を、恋人どうしのように歩いていった。秋草の花、薄の穂、青い海、そして富士山がくっきりと空に浮出していた。晩になると、あの富士山の左手、箱根の山に、航空燈がきらめく……と、そんなことをあなたは話した。そうした言葉を私がなぜはっきり覚えているかというと、その頃丁度私は、航空燈の光のようなものを求める気持になっていたからである。
 私は一個のルンペンに過ぎなかった。会社の金を拐帯して上海へ飛び、非合法な商売で生活に困らないだけのものを得て、また東京にまい戻り、さてこれから如何なる生活を為すべきかと思い迷ってる、一介の不徳なルンペン坪井宏に過ぎなかった。だから、あなたと知りあって、不覊奔放な気分から、ああした間柄になったのも、別に大した意味はない。あなたにとって私は単に享楽の道具にすぎなかったし、私にとってもあなたは単に享楽の道具にすぎなかった。いつからそうなったか、その最初の日附さえ私たちは覚えていない。最初の日附を覚えていないとは、ちょっと心細い、と云って私が苦笑すると、あなたも苦笑した。だが朗かな苦笑だった。
 それが、鎌倉山のあの時からちがってきた。海を眺め、空を仰ぎ、富士山を見やり、路傍の秋草を見い見い、恋人どうしのように……全く恋人どうしのように、言葉少い漫歩の後、片瀬から大船へぬける道に出る三辻の、あの家で、夜までゆっくりくつろいだ時、単なる遊びは生活力を萎微させる以外の役には立たない、ということを私が説きだすと、あなたはふいに――意外にも――泣きだしてしまった。なぜあなたは泣いたのか。それはあなたの本心ではあったろう。だが、本心というものは、前後の見境もなくさらけだすべきものではない。私はあなたのその涙に誘惑された。
 硝子張りの明るい湯殿で、のんびりと湯に浸りながら、暮れかけてる空を眺めた。それから酒をのみながら、丘陵の間の、松や杉の木立の影の、小さな村落の藁屋根から立昇る煙を眺めた。丘陵の谷間に夕靄が立ちこめると、いつのまにか月が出ていた。そうしたことが、旅に似た気分を私達に与えたにもせよ、そして旅にある男女は恋愛の危険に最も曝されるにせよ、あなたの涙がなかったならば、私は恋愛の楼閣を築き初めはしなかったろう。「もう遊びはいやです。あたしをほんとに愛して下さいますの。」あなたは泣きながら云った。「私一人を守って下さるなら……。」と私は云った。おう、何という言葉遣いをしたものか。そういう云い方を何が私たちにさしたのだろう。もうそれは遊びではなかった。私たちは誓った。大船から横浜をすぎて品川を出るまで、自動車の中で、私たちは手を握りあっていた。
 その誓いを私たちは守った。そしてそれからは、公然と振舞った。ホールへ行ってもあなたは私とだけ踊った。銀座の人中をも二人で歩いた。友人たちが出入するカフェーへも私は平然とあなたを連れこんだ。あなたの応接室で煙草をふかしながら新聞を見てる私の姿も、いろいろな人の目についたろう。二人そろって自動車に乗り降りするところも、いろいろな人から見られたろう。だが構わない。私は信念を持っていた。私はあなたの心を信じ、また、自分があなたを愛してると信じ、そうした信念に生きてゆこうと覚悟していた。その信念が多少ともぐらつく度に、自分で自分の心に鞭打った。信念がゆらぐのは、生活の様式から来るのだと考えた。ダンス、カフェー、芝居、麻雀……最も平凡な最も有閑的な娯楽、それがいけないのだと考えた。それ故に、私はあのまじめな計画、農園の計画に、本気で身を入れ、あなたにも相談し初めたのだった。
 東京にまい戻ってから、私がいろいろな仕事を考え廻したこと、そして最後に農園経営に心を向けていったこと、その消息はあなたもよく知っていよう。私はロンドンやパリーの郊外に於ける菜園の現状を調べ、その集約的栽培法の理論と実際とを研究し、肥沃土の人工的製作、電熱が植物の苗根に及ぼす作用、苗床の温度の測定、殊に困難な苗床の湿度の測定、それらを研究するために、私がある専門家の助力のもとに、市内の不便な裏通りの奥のあばら家で、意外に広い庭の片隅を利用して、如何に苦心していたかは、あなたもよく知っていよう。物置の中のいろいろな硝子の堆積を見て、あなたは硝子の種類の豊富さに驚いたことがあった。そして私が今もなおあなたに感謝することがあるとすれば、あなたを愛したことによって自分の研究が促進されたことである。
 私があなたに語りたいことは、実はこれから先のことであり、そしてこれから事柄が急に複雑になるので、注意して聞いていただきたい。
 富永郁子よ、私はこう考えた。本当の愛というものは、或る方向を持った生活――或る何等かの仕事をめざした生活――の上にしか生長しない。隙な時間にだけ享楽される愛というものは、単に動物的な性慾にすぎない。あなたが本当に私を愛し、私が本当にあなたを愛するならば、私たちはその愛を有閑的な娯楽のうちにのみ置かないで、二人の生活的なつながりで基礎づけなければならない。勿論それは結婚の意味ではなく、仕事の上の実際的な意味に於てである。そう考えて私は、農園の仕事をあなたと共同経営にしたいと思った。あなたも同意した。
 これまでは順当な経過である。そしてここで見誤ってならないのは、私たちの愛の誓が先にあって、それから農園経営の話が次に出てきたことだ。実際問題として、私の財産が農園の単独経営には不安な程度のものだったことも事実だし、またあなたの亡夫の遺産が亡夫の兄の漁業失敗の余波を受けて意外な損害を受けていたことも事実だが、そうしたことが農園経営に不適当だったとしたら、何も農園と限ったことではなかった。そうはっきりと分れば、私は他にもっと手頃な仕事を考えてみればよいのであった。だが私の愛は、多少の冒険をも辞しなかった。あなたはまた、所謂有閑婦人的な軽快さで、それから生活の倦怠と新奇な期待とで、他愛なくうち喜び、小鳥が囀るように、岡部周吉に何やかや饒舌りちらしてしまった。
 岡部にあなたが饒舌りちらしたことを、私は咎めはしない。結果に於てそれは有益だったかも知れない。実際に農園を初めていたら、私たちの財産がどうなっていたか私にも見当はつかない。あなたの小さな小供の家庭教師というか補導者というか、あなたの亡夫の兄から推薦されてあなたの家に出入してる岡部が、私たちの仕事に不安を覚えたのは無理もない。そして親切な彼のことだから、あなたから話すだけでなく、いろいろききただして、必要以上にあなたに饒舌らしたというのも、不当とは思われない。彼は親切な常識家である。物の道理や人情についてはよい理解を持っている。ただその理解が、平面的に働いて、立体的には――高さや深さの方面には――少しも働かないだけのことである。常識の有難さはそういうところにあるのであろう。あなたの多少の不行跡、私との関係も、三十そこそこのブールジョア独身婦人としてはまあ大目に見てもよいことだと、彼は考えたにちがいない。けれども、私とあなたとの公然たる振舞や、殊には金銭上の関係になると、寒心すべきことだと考えたにちがいない。あなたのためにもまた私のためにも、そうだ、私たちどちらのためにも寒心すべきことだと。
「君は富永さんから金を引出そうとしてるという噂だが、噂だけだとしても、僕は君のために心配でならない。」
 農園の話が出た時、酒の席ではあったが、岡部は私にそう云った。それが、ほんとに心配そうな、私のことを思う親切気を眼色に浮べてのことだ。その眼色と冷かな批判の言葉とに、私はいちどにまいってしまった。彼に少しでも悪意の色があったら……それとも、どうせ私たちのことをよく知ってる彼だから、どういういきさつからかという動いた気持からの言葉であったら……私は助かった筈である。だがいきなり、金を引出そうとしてる云々と、而も親切気を以てなので、私は答える言葉がなかった。ごくつまらない平凡な言葉で、其の時の調子によっては、ぐさと人の胸をつき刺す[#「刺す」は底本では「剌す」]ようなものがある。
 なんでこの男に分るものかと、反撥的に私は考えて、黙殺する態度をとった。そしてそのことをあなたに黙っていたのは、私の心が痛手を受けたからに外ならない。私は卑怯だったのだろう。心の痛手にふれたくなかった。そしてやはり農園の夢想を続けた。あなたにもその夢想を分ち続けた。
 そこへ相次いで、あなたの裏切が起った。
 富永郁子よ、このことについては、私の認識は明確ではない、然し結局のところ、裏切りという言葉でしか、私の胸に響いたものは云い現わせない。あなたの真情の動きがどういうものだったかは、私は知らない。だがあなたはこう云った。
「みますの娘と御自分とのことはどうなの。それに比べれば、あたしのことなんか、何でもないじゃないの。」
 そしてあなたは煙草をくゆらしながら朗かに笑っていた。それはもう、鎌倉山より以前のあなただった。あなたがそんなにたやすく、現在の自分をふみにじって昔に逆戻りが出来ようとは、考えただけでも私は情けなくなった。而もあなたは、みますの娘のみよ子と私のことを、本気でそう信じたのか。其後私がいろいろときき出し得たところでも、あなたは確実なことは少しも知っていなかった。「今からあの娘のパトロンになって、そして芸者につきだそうというのは、坪井君もなかなか利口ですよ。」そういう岡部の言葉を、あなたはどういう根拠で信じたのか、あなた自身にも分ってはいない。岡部はやはり、ほんとに親切な調子で、あなたのことを思って、そう云ったのであろう。それは私にもよく分る。そしてその、坪井君もなかなか利口ですよという平凡な言葉が、私の胸を刺す[#「刺す」は底本では「剌す」]以上に、あなたの胸を刺した[#「刺した」は底本では「剌した」]ろうこともよく分る。けれども、それは単に言葉にすぎないし、岡部の誤った言葉に過ぎなかった。
「みます」のことも、私にとっては、そんなつまらない事柄ではなかった。七年間の上海でのうらぶれた生活のあとで、東京にまい戻ってきた時、私がふれた一番深い感情は、みますの娘のみよ子のうちにあった。以前東京で遊蕩の生活をしていた時、花柳界のそばのその小料理店みますへ、私は度々出入した。芸者などつれて、昼飯をたべにいったり、夜遅く腹拵えにいったりした。みよ子は小学校にあがったばかりの子供で、私たちは玩具や文房具などを持っていってやった。そのことを私は思い出したのである。もう花柳界に足を入れる興味など更になかったが、へんにみますのことは思い出されて、一寸飲みに行ってみた。まだ夕方には間のある明るいうちで、他に客はなかった。お幾も料理番も店の有様も、以前と変りはなかった。そして私たちが、そういう場所にありがちな事もなげな気安さで、七年間の年月をとびこして話をしてると、帳場の障子蔭から顔をだしてじっと私の方を眺めてる日本髪の少女があった。私が見返していると、その眼がしずかに涙ぐんで、美しくぱっとまばたきをした。それがみよ子だった。背丈がぐっとのびて、子供のままの顔に、眼だけが大人になりかかっていた。お幾に呼ばれて出てきたが、飛びつきたいような親しみを見せた躊躇の素振だった。ただそれだけのものが、東京で私がふれた一番深い感情だったのである。
 それから私は、食事をしに或は酒をのみに、しばしばみますへ行くようになった。お幾とまじめな話をすることもあった。みよ子は小さいときから、三味線と踊りを仕込まれていたが、見どころがあると土地の姐さんのすすめで、芸妓になることになっていた。お酌から出したいのだがいろいろ都合もあり、もう一年たって十七になったら一本でつきだすつもりだと、そんなことをお幾は、以前その土地の花柳界になじんでいたことのある私へ、話とも相談ともつかずもちかけてくるのだった。私もしんみに受け答えするうちに、遂にみよ子の肩を入れて、多少の面倒はみてやるようになった。それは少しも浮いた気持からではなかった。芸妓稼業というものはどうせ浮気な水商売だと一般に見られているが、そして大体はそうであるが、中には、堅気の女よりももっと地道なしっかりした心掛でやってる者もあるのを、私はよく知っていた。みますの片隅の卓子に腰を下して、自分の今後の生活のことを考えたりしながら、お幾親子のその日その日を稼いでゆく生活を頭の中に映して眺めていると、それがひどく嬉しいことに思われ、あらくれすさんだ上海の生活から初めて人の世に立戻ったような気がするのだった。四十を越すまで放浪の生活を続けてきた私にとっては、みよ子の多少の面倒をみてやることは、結局自分の心をいくらかでもいたわることに外ならなかった。それを常識家の岡部から見れば、なかなか利口なやり方だとなるのであろう。あなたまでほんとにそう思ったかどうかは、私の知るところではないが、少なくともあなたは岡部の言葉を有力な楯とした。
 而も、あなたが私を裏切ったその相手の男が、どういう人間であったか。時間をどうしてつぶしたらよいか思い惑ってるような、無為怠惰な成金の次男坊で、水を離れた魚のようにぴちぴちはしてるが、精神の張は少しもない、蒼白いにやけた二十五六歳の、ハイカラボーイだった。香油をぬりたてた頭髪と、縞の絹の襟巻と、女物みたいな細い金鎖とだけで、私にはその人物がすぐに分った。それはあなたの享楽の相手としても危い。私を裏切るための相手としては、あまりにあなた自身をも私をもふみにじるものだった。かりに、芸人だとか、力士だとか、ダンスの教師でも、まだいい。あなたが金をだして買えるような男なら、最もいい。またかりに、あなたが金に困ってるとして、会社の重役などに身を売ったとしても、まだよろしい。そうした一時の享楽の取引は、さっぱりとして、後に滓を残すことは少い。だがああいう男を相手にしては、ねちねちした臭気が身体にこびりつく。あなたのつもりでは、小料理屋の小娘に対する代償として、勝ちほこった見せしめだったかも知れない。然し、かりに私とみよ子との間が、お酌と接客との間のようなものだったと仮定しても、あなたのその評価は全然あべこべだったろう。人間同士の関係として、あなたとあの男とのことよりも、私と小料理屋の娘とのことの方を、私は比較にならぬほど高く評価する。
 あの男とあなたのことは、前からいくらか私の気にならないでもなかった。だが私は無理にも信じてきた。けれども事実の方が力強い。あなたたちが綱島に行き、磯子に行き、伊豆へまで行ったことは、私の耳にも伝わってきた。あの男の内気そうな伏目がちな眼の中の、厚顔な誇りの色は、その曖昧な言葉以上に、いろいろなことを匂わせるのだった。それを、親切な岡部がまた裏付けてくれた。
「あの男はいろんな謎をふりまいてるようで、困ったものだ。今のうちに、なんとか、君の力で富永さんを引止めてくれるといいんだが……。」
 それは、まじめな常識的な言葉だった。その時私はまだ、「みます」のことを彼があなたに話していようとは知らなかった。私はうちのめされた気持で、あなたにぶつかっていった。がその時あなたはもう、煙草をもてあそびながら笑っていた。
 あなたの涙はどこへいってしまったのか。私の信念はどこへいってしまったのか。私たちは互に愛しあってると信じたいと、私はつとめてきた。農園のことまでも考えてきた。それが一度に崩壊してゆくのを、私はどうすることも出来なかった。真心というものは、或る大きさのものが初めから存在するのではない。小さなものから次第に大きく生長してゆくのだ。その生長の途中で、ふいに踏みつぶされてしまった。私は「みます」のことを弁解し、互の愛を説きたてたが、もう万事過去のことになっているのがはっきり感ぜられた。それくらいのこと、お互にどうだっていいじゃないの、というのがあなたの最後の結論だった。恐らくそれがあなたの本心だったろう。
 私の心の中には廃墟が出来た。そのなかにあなたの残骸がはっきり見えた。凹んだ眼と尖った鼻とのあたりに漂ってる異国人めいた風貌、断片的に無連絡的に理智めいた唇、反りのいい手指、毛皮の襟巻、特別あつらえの踵のひきしまった白足袋、または、大戸がしめきってある石の門、玄関まえの美しい砂利、日当りのいい応接室、亡夫の肖像、銀の煙草セット、置戸棚の中の大きな人形……。古人は、国亡びて山河在りと云った。私にとってはそれらのものが、あなたが亡びた後の山河であった。
 富永郁子よ、これまでは普通の愛慾のいきさつである。この後に、あの思いもよらぬ問題が起ってきた。私がそれに最初にふれたのは「みます」でだった。
 私一人でぼんやり酒をのんでいた時、お幾は酌をしてくれながら、もう身を固めたらどうかというような話をもちだした。前にもあった話なので、気にもとめないでいたが、彼女は案外真剣だった。私が茶化せば茶化すほど、ますます彼女は真顔になって、遂にあなたの名前までもちだし、二人は結婚するのが当然だと説くのである。彼女はあなたのことをよく知っていた。私とあなたとの仲もよく知っていた。
「これまでに、そんなことお考えにならなかったというのは、不思議ですねえ。何か差し障りでもあるんですか。」
 そうつきこまれてみると、私はへんに考えこんでしまった。結婚などということを、私は一度でも考えたことがあったか。断じてない。あなたの方でも恐らくそうだったろう。而も私は、二人の生活とか、農園経営とか、そんなことまで考えていた。結婚、そのことだけをどうして考えおとしたのか。而もそうした問題に、私たちの愛が絶望状態に陥ってからぶつかったのである。
 理屈ではなく、私はその時なぜか腹がたった。私には結婚ということも考えるのが当然だったろう。とそう考えることが、私の感情を苛立たせた。私とあなたとの結婚、それは本能的に私を反撥させるものを持っていた。何故か。私には分らない。恐らく、私たちの愛は結婚とは相背馳するような種類のものだったかも知れない。或は私のなかに結婚などというセンスが全然欠けていたのかも知れない。
「僕はあのひとと結婚するくらいなら、むしろみよちゃんと結婚しますよ。」と私はお幾に断言した。それから云い添えた。「でも安心なさいよ。みよちゃんとは結婚もしなければ、指一本ふれもしませんから。僕はみよちゃんの小父さんだからなあ。」
 もし蒼白い微笑というものがあるとすれば、私はそうした微笑を浮べていたろう。みよ子が銚子をもってきた時、私はその可愛い手に握手をして云った。
「僕はいつまでもみよちゃんの小父さんだよ。覚悟しておいで。芸者になっても、何になっても、しっかりしていなくちゃいけない。そうでなけりゃ、ぶんなぐってやるよ。」
 みよ子はその子供の顔に、唇の片端をきゅっとまげて、こまっちゃくれた反抗の表情をした。眼が女らしく笑って、肉の足りない※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)がつんと澄している……。
 私は胸がすっきりと朗かになった。然しその朗かな中に妙に淋しさがすくった。その淋しさは後まで続き、それが私を少し高くへ引上げてくれて、私はなおあなたと連立って人中に出ることが出来た。
 私はまだあなたを愛しているような風を装った。何もかも知りながら高くからあなたをいたわってるような風を装った。だが他人から見れば、あなたに引ずられてるように見えたかも知れない。あなたは無頓着な高慢な態度を持ち続けていた。その側で私は、もしあなたと結婚したら……などと自嘲的に考えながら、ともすると暗い気持に沈むのだった。結婚、ただそれだけの考えが、針のように私の心を刺す[#「刺す」は底本では「剌す」]のは不思議だった。そういう時私は、わざわざあなたに寄り添って歩いた。カフェーの明るい光のなかで、あなたの側で、女給に戯れてもみた。ホールの明暗の色彩のなかで、じみな凝った日本服のあなたを我物のように抱いて、ステップはいい加減に、バンドのつまらない音楽に耳を澄した。そうした私の調子外れに、あなたは好奇な楽しみを覚えたのであろう、ちらと、眼ではいぶかしげな視線を送って、あでやかに笑って見せた。
 そしてあの晩、私は妙に神経が疲れて、早めにダンスホールを出て、あなたを自動車で先に帰して、一人街路を歩いたのだった。気持のせいか街燈の光に力なく、雨でもきそうな空合らしく思われた。私はただ真直に歩いた。そのうち、誰からか後をつけられてることを感じた。その感じがますますはっきりしてきて、或る板塀の上から椎の枝葉がこんもりと差出てる下影まで来た時、立止って振向いてみた。濃茶のソフトをかぶった細そりした身体附の若者が、じっと私の方に眼をつけたまま近よってきた。あの男……あなたが私を裏切るために選んだあの男を、私はその時、平野亮二と名前で呼べる気持になっていた。
「何か用ですか。」
 私はそう言葉をかけておいて、返事もまたないで歩きだした。彼も私と並んで歩いた。暫くして、私はくり返した。何の用ですか。暫くして、彼は云いだした。あなたは富永さんと結婚なさるとかいう噂があるが、本当ですか。暫くして、私は答えた。結婚などは決してしない。電車道と平行したわりに広い静かな裏通りだった。私たちの対話は、数歩の間をおいて、独語の調子で、水中ででもあるように落付いて響いた。私は云った。私と富永さんのことが、一対君に何の関係があるんですか。数歩してから、彼は云った。結婚はなさるまいと思っていたが、もし結婚して下されば、私は助かるんだけれど……。私は立止った。彼の蒼白い整った横顔が、貝殼のように冷たく見えた。そして率直な厚かましい眼付が、たじろぎもしなかった。その眼付を受止めておいて、私はまた歩きだした。僕はもう彼女とは無関係な立場だから、そんな話はやめにしよう。そして歩いてるうちに、彼の姿はいつか消えていた。まるで夢のように浮動した而も明確な情景だった。
 あなたは平野のあの行為を狂言だというけれど、私はそうは思わない。彼のような男にあっては、狂言と真実とは殆んど間一髪の差にすぎなくて、偶然の機会がそれを支配する。彼は私と別れて、あなたに電話をかけた。あなたは丁度家にいた。彼は服薬してあなたのところへ飛びこんだ。そしてあなたの前で昏倒した。手当が早かったので助った。それだけのことである。もしあなたが不在だったら、彼は決して服薬などはしなかったろうし、もし往来で倒れていたら、彼は死んだかも知れない。
 あなたが真先に岡部を電話で呼びよせたのは、賢明な策だった。夜遅く、迎えの自動車で私がかけつけた時には、岡部の配慮でもう万事かたずいていた。岡部と平野の兄と医者と、三人の間に事は秘密に保たれた。平野は翌日はもう回復して、三日目には病院から出た。その間あなたは、家の奥にひきこんで、人にも逢わないようにしていた。高慢なあなたの心は硬直して、一片の情味もたたえていないかのように見えた。平野の行為をでたらめな狂言だとして、癪にさわるという様子だった。その上、あなたは私にまでも攻勢をとってきた。結婚してはどうかという話があるが、聞いたかというのである。私はただ微笑して、あなたの顔に蝋細工のような美しさを認めた。
「そのことは、考えにいれないでおいて下さい。お断りしておきます。」とあなたは云った。
 そんなばかなことをわざわざ断る必要がどこにあったろう。私はただ唖然とした。そして私が知りたいのは、そういう話が一体どこから出たかということだった。あなたは苦しげな苛立った表情をした。感情が押しつぶされて、理智だけが荒立っていた。
「岡部君から出た話でしょう。」と私は云った。
 あなたは黙っていたが、私にはそれでもう凡てが分った。岡部はあなたのことを心配したのだ。結婚が最善の途だと考えたのだ。それは親切な常識からくる解決案だったろう。そしてその親切な常識が動きだしたために、私にもいろいろなことが分ってきた。
 富永郁子よ、私は今やはっきり云うことが出来る。私たちの間には少しもほんとの愛はなかった。ただあるのは、愛してると信じようとする観念上の努力と、肉体的享楽だけだった。私たちこそ狂言をやってきた。真剣なのは平野だけだったかも知れない。ああいう男との享楽には、或る粘液質な繋がりや滓を残すと私が恐れたのは、そのところを指すのである。情意と肉体とが一つになって絡んでくる。あなたがもし結婚するとすれば、平野とすべきであって、断じて私とではない。
 私は今やあなたからすっかり解放された自分の心を感ずる。その自分の心の自由を護ってゆこう。
 この意味で、私は岡部の親切な常識に感謝する。あなたもいろいろな感謝を覚えているだろう。ただ、私は感謝はするが、憎悪の念をどうすることも出来ない。そういうものの存在に対して、本能的な嫌悪を覚ゆる。この感謝と憎悪とを調和させることの出来ないのが、私の悩みである。調和させることが出来ないとすれは、私は感謝をもち続けてゆくべきであろうか、それとも憎悪に執すべきであろうか。
 富永郁子よ、せめてこれくらいのことだけは平静な心で考えていただきたい。私とあなたとに結婚の意のないことを知って、平野はなぜああいう絶望的な行為をしたのか。あなたは病院に平野をなぜ一度も見舞わなかったのか。結婚の話をわざわざ私に断ることによって、果してあなたは救われた気持になったか。これまでのことを狂言としてあなたの許から立去ることによって、果して私は満足だったか……。
 私は今や自由であるが、然し淋しい。それは私一人のことだ。私は一個のルンペン坪井宏にすぎない。無益な夢想からぬけだした野人にすぎない。

     二

 初めから、何かしらなごやかでないものがあった。それでも、どこがどうと際立ったものはなかった。みな、相当に酒がまわっていた。「みます」の二階のただ一つきりの室で、光度の少し足りない電燈の光が、静かな一座をてらしていた。餉台の上には、食いちらされた料理の皿が並んでいて、銚子の白い肌が目立っていた。岡部周吉が赤い顔をして、一人で饒舌っていた。村尾庄司が聞手になって、短い言葉を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)んだりうなずいたりしていた。島村陽一は黙って、時々にやにや笑いながら、頭の奥では自分一人の夢想を追ってるような様子で、なお酒をのんでいた。片隅に坪井宏はねそべって、煙草ばかりふかしていた。酔っていつまでも飲み続ける島村の酒量は、話の種もつきた折の座の白けを救う助けとなるのであったが、岡部の饒舌はそれよりもっと効果があった。彼の話はいつも尤もで、随って平凡で退屈だったが、飲み疲れたり語り疲れたりした場合には、そんなのが穏当なつなぎとなるものである。だがその晩、彼の平凡な退屈な饒舌には何かしら神経的なものがあって、沈黙を恐れてるもののようだった。初め島村と村尾と坪井とが飲んでいて、そこへ後から彼はやって来、つかまって仲間にはいったという事情もあるし、三人とは気合がしっくりいかないという点もあったが、そんなことよりも、時としては太々しいという感じを与えるほど落付いてる彼の態度に、うわついたところがあった。そこへ、電話だった……。
 その時彼は少女の心理というようなことを論じていた。みよ子が銚子をもってやって来たのを、じっと見やって、だんだん綺麗に女らしくなるじゃないかと、それも坪井に対する皮肉やあてつけではなく、まじめな調子で云いだしたのがきっかけで、昔、女学校の教師をしていた時のことを話していた。その頃彼はまだ独身だったが、独身の若い教師というものは、女学校では、その一挙手一投足が生徒たちの注目の的となる。それはまだ恋愛と名のつくものではないが、若い男性は一種の光で、少女たちは花で、太陽の光の方へ花はおのずから顔をむける。花弁の一つ一つが出来るだけ多くの光を吸収しようとする。期待と競争とが起る。だから若い教師は、教室でも運動場でも、空高く超然と照ってる太陽でいなければならない。もし誰か一人にだけ眼を留め顔をむけると、他の全部に嫉みと反感とが起る。それで彼は教室の中で、いつも天井ばかり眺めて話をした。そうした習慣が癖となって、男の学校に転職した時、ひどく困った。男子の学校では、天井を眺めて講義することは、気取った生意気な態度となるのである。そうしたむずかしい呼吸があるので、女学校では、独身の若い教師は出来るだけ採用しないようにしてある。ところで、こうした理由は消極的な一面で、むしろどうでもよいことだ。多くの生徒のうちに起る嫉みや反感などは、時がたつにつれて、跡方もなく消え失せてしまう。問題の起るのは積極的な方面だけだ。光を特別に受けた花、教師の注視を受けた生徒は、その微妙な作用を身内にはぐくんで、次第にそれを大きく育てあげる。光がかげり、注視がわきにそれても、痕跡はいつまでも残って、独自の生長をとげる。それだけが危険なのだ。多くの女に聞いてみるがいい。初恋の記憶はみな持っているが、初めての失恋の記憶は誰も持っていない。消極的な方面の感情は、すぐに消えて、失恋とまでは生長しないが、積極的な方面の感情は、ひとりでに生長して、恋愛にまでなってくる。ここの、みよちゃんにだって聞いてみれば分る。嫌らしいとか憎らしいとかいう気持は、すぐに消えてなくなるものだが、好きだという気持は、ただ大きくなってゆくばかりだ。次第に大きくなって、恋愛の像をくみたてる。少女は愛の彫刻家なのだ。島村さんは専門家だから御分りだろうが、何かの像を刻む時、その像がいつか或る瞬間に生き上るということはないだろう。初めの一鑿が既に生命の芽で、その芽が、鑿の一刻み一刻みにのびてゆく。少女は自分の心のうちに、好きだという鑿が一つおろされて、それからはもうむちゅうになって、愛の像を刻んでゆく。だから、その最初の一刻みの原因を与えることだけが、危険な問題であって、他のことはどうでもよい。ところが、大人になると、事情が全くちがってくる。積極的な方面ばかりでなく、消極的な方面までが……。
「岡部さん……。」いつのまに階段を上ってきたか、お幾が、畳とすれすれに顔だけ覗き出していた。「お電話ですよ。富永さんから……。」
 はっと、飛礫つぶてを投げられたようなもので、息をつめてから、岡部はいきなり立上って、お幾の横をすりぬけながら慌てて降りていった。
 坪井がむっくり起上ったのへ、島村はにやにや笑かけた。
「あいつ、でたらめばかり云ってやがる。彫刻のことなんかもちだして……。」
 坪井の眼がじっと見つめていた。
「初めの一鑿から像が生きてるなんて、それは商売人の云うことだ、芸術はそんなものじゃない。これでもかこれでもか……という苦心のうちに、或る瞬間、ほんのりと肉体が眼醒めてくるんだ。そこにぶっつかればもうしめたものだが、どうかすると、しまいまで、そうした瞬間を探りあてられないことがある。」
 坪井がやはり黙っているので、島村は興ざめた顔で、杯をとりあげた。酒はつめたくなっていた。島村は手をたたいた。やがて、みよ子が上ってきて、用もきかないうちに云った。
「ちょっと、来て下さいって……。」
 視線は坪井に向いていた。坪井が立っていくと、島村は銚子をたのんだが、何かしら腑におちない眼付を、村尾と二人で見合したのだった。
 階下には他に客はなく、土間に並んでる卓子の一つに、岡部がよりかかっていた。坪井はつかつかと歩みよった。それを見上げた岡部の眼は、静かな落付を保っていた。
「弱ったことが出来ちゃった……。」
 低い落付いた声だった。――富永郁子からの電話で、ここへ来ると、ただそれだけのことである。
「来るなら来てもいいじゃないか。」と坪井は云った。
「それが……どうも、僕はいやなんだ。ただ気まぐれで……。実は今日、富永さんのところへ行ったんだが、何のことからだったか、ふいに、みますへ行ってみたいと、云い出されて、弱っちゃった……。あれっきり、君は逢ったことはないんだろう。それが、あの人にとっては、淋しい……というわけもあるかも知れないが、何もここまで来なくったって……。そう思ったものだから、坪井なら、連れてきてあげましょう、と云ったところ、ばかに気を悪くされちゃって……それから、ぜひみますへ行くと、そうこじれてしまった。それを、何とかごまかして、晩になったら、僕が様子をみてきてあげると、約束してしまったが、気になるので、とにかく来てみると、君たちにつかまって困った。そこへ、今の電話だ。坪井君や、大勢いるから……といったところ、そんならなおいい、これから行くと、そのまま電話は切れちゃった。君、出てしまおう。こんなところへ来られちゃあ……面白くないし……。」
 何か物を考え考え云ってるそのゆっくりした調子に対して、坪井は怒ったような言葉を投げつけた。
「何が面白くないんだ。来るなら来るで、ほっとけばいいじゃないか。」
「だって、前々からのいろんなこともあるし、ここじゃあ、君も嫌だろうと思ったので……。僕は別にかまわないが、何と云ったらいいか、君たちの、デリケートな気持が、へんにこじれると、後で困ると、よけいなことだが……。構わないから、すっぽかして、出てしまった方がよくはないか。どうせ、あちらも気まぐれだから、こっちも、気まぐれにしちゃって……。それとも、すぐ一緒に、どっかへ行ったっていいが……。」
 贅肉の多いしまりのない頬が、酒のために赤味を帯び、厚ぼったい唇が女性的な赤みにそまっていた。それをじっと坪井は見つめて、黙っていた。それからふいに、大きな声を立てた。
「お幾さん、珍らしいお客様があるんだ。御馳走して下さいよ。富永郁子さん、僕と結婚しろという話の、あの女の人だ。お酒を下さい。」
 お幾は帳場から身をのりだして、眼をまるくしていた。
「まあ……。」
 その、冗談ひとつ云わない驚いた様子が、坪井をますます落付かしたらしかった。椅子の上に両肱をついた。
「僕が引受けるから、君は二階にいってて構わないよ。」
 そして彼は、岡部にかまわず、お幾にもかまわず、卓子の上に眼を据えて、酒を飲み初めたのだった。いつまでも黙っていた。じっとしていた。岡部はお幾と何やら囁きあって、二階に上っていった。お幾がやってきて、酌をしてくれたが、坪井は口を噤んだきりだった。
 徐行する自動車の音がして、やがて、表の硝子戸が開いた時、坪丼は顔を上げた。郁子の姿が、真正面に光を受けて、くっきり浮出していた。紫地に花の押模様の繻子のコート姿が、皺も襞もなくすらりと伸びて、細そりした肩に薄茶色の毛皮の襟巻が軽くふくらみ、顔の輪廓が蝋細工のようにきっぱりしていた。彼女はそこにちょっと立止っていたが、立上った坪井の方へ、足さばきの揺ぎも見せないで滑るようにやっていった。お幾があわてて出て来た時には、彼女は手袋をぬぎながら、坪井へ云いかけていた。
「お一人なの。」
「岡部君ですか。二階にいます。呼びましょうか。」
 彼女は笑顔でそれを打消して、瀬戸の火鉢に細い指先をかざした。凹んだ眼のあたりの他国人めいた風貌に丁度ふさわしい好奇な眼付で、お幾をじろじろ眺め、室の中を眺めまわした。それから坪井の方へ向きなおった。
「何かたべますか。」
「もうたくさん。それより、お酒をいただいてみようかしら……。」
 お幾が酌をすると、彼女は器用に受けた。
 そうして坪井と郁子とは、酒をのんだり煙草をふかしたりしながら、黙って向い合っていた。始終逢ってる仲で、何も話すことも聞くこともないというような、落付いた様子に見えた。そういう時、時間は何の支障もなくたっていく……。すると、ふいに、郁子は声を出して笑った。
「変ね……こしうしていると、まるでかたきどうしのようじゃなくって。」
 坪井は別なことを考えているようだった。
「出ましょうか。くるまも待たしてあるから……。」
「どこへ行くんです。」
「どこへでも……。」
 坪井の顔に、冷かな微笑が浮んだ。
「あなたは岡部君に用があったんじゃないんですか。」
 郁子はじっと坪井の顔を眺めた。眺めているうちに、眉がぴりっと動いた。
「岡部さんは、あたしたちがもう一度ゆっくり逢わなけりゃいけないって、そういっていました。まるで、喧嘩別れでもしたようね。……だからあたし、癪にさわったから、その忠告に従ってやっただけです。」
「忠告に……。」
「癪にさわったからよ。ばかばかしい。じゃあ、もういくわ。岡部さんによろしく……。」
 郁子は立上った。全く突然だった。立上ってそして、手袋を片手に握りながら、神経的な……けだかいとも云えるような……高慢さで、室の中をぐるりと見廻して、坪井の方へ向いた。
「送って下さる?」
 坪井は黙って立上った。頭を垂れ、眼を伏せて、彼女のあとについて外に出た。
 淡い光が街路の上に流れていて、自動車の黒塗りの箱が、余りに目近に大きく聳えていた。その影で、坪井は手を差出した。
「ここで、失礼します。」
 彼は郁子の手を握りしめて、眼を地面におとしていた。郁子は立止って待った。運転手はあわてて飛びおりてきて、扉を開いた。
 自動車が走り去ったあと、坪井は暫く棒のようにつっ立っていたが、それから家の中にかけこんだ。
「岡部君……。」と彼は叫んだ。お幾が訝怪そうに彼を見ていた。「すぐ、岡部をよんで下さい。」
 岡部がおりてきた時、坪井は煙草をすいながら歩いていた。梟を思わせる眼が殊に大きく見開かれていた。
「岡部君……よく分った。」と彼は天井の片隅の方を見ながら云った。「こんなところで逢っちゃいけないという意味はよく分った。こんなところで……。」ひどく皮肉な調子だった。「それで、もう帰ってもらった。君も、用が済んだわけだから、行ったらどうだい。あっちで、君に用があるかもしれない。」
 岡部は顔色をかえた。坪井はそれを見つめた。抗弁を許さない眼色だった。
「君は何か……誤解してやしないか。」と岡部は呟いていた。「僕は何もしやしない。ただ……あのひとが来るというもんだから……余計なことだとは思ったが……。一体どうしたんだ……。」
「分ってるよ。君の意味はよく分ってる。僕はいま一人でいたいんだ。帰ってくれ。」
 その気合が、殆んど腕力だった。だが彼の身体は硬直していた。岡部に身体ごとぶつかっていって、外に送りだした。
 彼は両腕を差上げて、大きく伸びをした。その様子を、帳場の上り口からみよ子が眺めて、とんきょうな眼付をして首をすくめた。彼はそれをつかまえて、いきなり抱き上げた。彼女は大きな甲高い声を立てた。身体をもがき、足をばったつかせ、笑いたてながら、両手で坪井の髪の毛を掴んだ。坪井はそれを抱きかかえて、土間を歩き廻った。みよ子は笑い疲れて、ぐったりとなった。坪井の頸にかじりついて、顔をかくしてしまった。坪井は涙ぐんだ眼で、見廻した。お幾が呆気にとられた顔をしていた。島村と村尾とが二階からおりてきて、お幾の後につっ立っていた。
「さあ、こんどは島村さんにおんぶしてみるんだ。」
 坪井はみよ子を皆の前にほうりだした。みよ子は真赤になって逃げていった。その後ろ姿に、坪井の梟のような眼が濡れたまま笑いかけていた。





底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「改造」
   1934(昭和9)年2月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年3月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について