坂田の場合

――「小悪魔の記録」――

豊島与志雄




 坂田さん、じゃあない、坂田、とこう呼びずてにしなければならないようなものが、俺のうちにある。というのはつまり、彼自身のうちにあるのだ。
 母親がまだ達者で、二人の女中を使って家事一切のことをやってくれている。家の中はこぎれいに片付き、畳や唐紙も古くなく新らしくなく、家具調度の類も過不足なくととのい、座敷の床の間にはいつも花が活けてある。中流社会の生活伝統といったものが、黴もはやさず、花も咲かせず、しっとりと落付いている恰好で、万事万端につけて、貧相な点もなく、贅沢な点もなく、野心もなく、失意もなく、まさに中庸を得ているというわけなのである。そしてこういう生活には、その背景として、父祖から伝えられてる少しの財産と、凡庸な家長とが、予想されるものである。
 ところが、この二つの背景が、実は均衡がとれていなかった。
 家長、というのは即ち坂田で、彼は或る意味では凡庸なのだが、或る意味では凡庸の枠縁からはみ出していて、而もそれが、賢愚いずれの方へはみ出しているか見当がつかなかった。彼についてはいろんな噂がある。むかし学生だった頃、哲学書を読み耽った揚句、思想の整理がつかなくて、自殺をはかったとの話もある。また、剣道二段の腕前で、街の不良どもを従えて、一方の首領として暴れまわったとの話もある。がっしりした体躯で、脂肪の少いよい肉附で、鼻の秀でた色白の好男子だが、特質としては、頬がひどく蒼ざめていて、血行がとまったかと思われることがあり、眼差しがぼんやりして、ただ宙に浮き、仮睡の直前にあるような感じを与えることがある。そしてごく稀に、何かの感情の激発によって、頬にぱっと赤みがさし、眼の底がぎらぎら光ってくる。云わば、一つの顔の下から、ふいに他の顔が覗きだすといった工合だ。四十歳に近い現在まで、未だに独身生活をしているので、私行についてはさまざまの話もあるが、それがみな、茲に取立てて述べるにも価しないような単なる浮気沙汰で、女と同棲したという噂もないし、恋愛じみた話が少しもないのは、注意を要する。数年前、亡父と縁故のある会社を自ら罷めてからは、別に為すこともなく、或る経済雑誌社に出資者とも顧問ともつかず関係してるだけで、始終ぶらぶら出歩いていて、家にいる時には、経済や文芸や自然科学などの雑書を、全く無秩序に乱読してるか、それよりもなお多く、ねころんでうつらうつらしている。睡眠にかけては実に貪婪なのだ。昼寝をしておいて、夕食に起きてきて、夕刊新聞を見てしまうと、またすぐ寝床にはいることがある。精神的にか肉体的にか、なにか病気なのかも知れない。そして彼は現在では、三十万余の金を持っている。そしてなお殖えつつある。而もそれが殆んど全部、不動産はなくて株券か現金かなのだ。だがこのことについては先に述べよう。
 右のような坂田とその財産とは、落着いた慎ましい中流生活にとっては、不均衡なのは云うまでもない。そしてこの家庭生活は全く、母親の多少の貯蓄と坂田が月々母親に渡す金と、母親自身の人柄、それだけに依存していた。彼女は無口なおっとりとした肥満した老人で、何か悟りすましたようなところがあって、坂田に対して干渉がましい口を利かず、内心では、坂田の貨殖の才と、将来の何かの野望とを、想像し期待していたのかも知れない。それ故、坂田自身は家庭の中にあって、云わば浮き上ってしまっていて、下宿してるのも同様な有様だった。
 坂田の書斎がまた、そのことを裏書きしてるようだった。この書斎は坂田が洋室に改造さしたもので、家の中で全く別個の相貌を呈していた。一方は、三尺の腰板から上、全面の硝子窓で、反対側は、書棚と小窓の下の机、そして左手に、ガス煖炉など、室は和洋折衷の普通のものだが、家具や装飾は全く調和統一がとれていなくて、手当り次第に一つずつ持込まれたかの観があった。文机は楢の分厚な一枚板の無装飾、まるで爼のような感じで、その上には、頑丈な紫檀の硯箱と精巧な玻璃細工のインクスタンドが並んでいる。中央には美事な桜材の大円卓があり、深々とした肱掛椅子がとりまいている。煖炉の前の椅子、横手の長椅子、みな新式の贅沢なものだが、片隅に、西洋渡来の革張りの青い小椅子が二つ忘れられている。壁には、ロダンの女の素描と南洋の仮面とが並んでいる。煖炉棚には、なまなましい木目込人形、アイヌの手彫りの木箱、さびくちた古い鉄の五重塔、其他。凡てそういった調子で、中流生活の伝統的な趣味がどこにも見えないばかりか、室全体が不調和な雑音を立てている。そして煖炉の一方に、小さな戸棚があって、洋酒の瓶やグラスがはいっている。「忙しい時に、睡気ざましにのむのだ。」と坂田は云っていたが、一体彼に忙しい時というものがあったかどうかは疑問だ。
 書斎の横手に、ベッドと小卓と洋服箪笥だけを置いた狭い室がある。夜おそく酔って帰ってきた時など、彼はそこに倒れ伏してしまうのだったが、ふだんは、そのベッドと他の日本室の方と、寝るのは気分によってまちまちだった。
 坂田はその書斎にいて、中津敏子を待っていた。――折入ってお話申したいことがございますので、今晩伺わせて頂きます……それほど懇意でもないのに押しつけがましい簡単な文句の速達便だったのである。坂田はそれをまた読み返し、手にまるめようとしたが、こんどは小さく引裂いて屑籠に投げこんだ。そしてちょっと微笑を浮べかけたが、それは憂欝な表情のうちに溺れてしまい、彼は眉根をよせながら煙草をすい初めた。
 やがて彼は、机の奥から小型の厚い帳簿を取出して、その第一頁からじっと点検しはじめた。数字と日附と簡単な文字とが並んでいる。それを辿りながら、彼は、時々額に手をあてて、記憶を呼び起そうとしてるようだった。
 チェッと俺は舌打ちした。そして彼の側に寄っていった。彼の憂欝な表情がどうもはっきり腑に落ちないし、第一気にくわないのだ。
 第一頁の最初に、一〇〇〇〇という数字が記入してある。これが彼の財産のそもそもの根源で、そしてこれだけは、俺の与り知らないところだったし、また彼の豪いところだといってもいい。
 彼の父が亡くなった後、彼と中学時代からの親友の室井がやって来て、どれくらい遺産があるかと尋ねた。だが遺産というほどのものはなかった。住宅、隣りの貸家一軒、母と彼との名義の貯金少々、他に時価二万円ばかりの株券及び公債、それで全部だった。然し、それで結構だ、と室井は云うのだった。そして五千円ばかりの担保物件を貸せといい出した。少しまとまった金の入用が出来て、五千円ばかり不足だから、銀行からそれだけ借りるための担保を融通してくれ、三年間の期限だ、二倍か三倍にして返してやろう、もし返せなかったら、君自身の力でそれくらいな担保は受戻せるだろうし、それも出来なかったら、遺産が少なかったと思って、諦めればいい……まあざっとそういう話だった。坂田は承諾して、公債を担保に融通してやった。すると三年後に、三倍の一万五千円ほど室井は持ってきた。万事うまくいったと笑っていた。そして彼自身は、可なりの金を懐にして、ぷいと満州に行ってしまった。信用のおけるようなまたおけないような快男子だ。――だが彼のことについては話が別になる。
 坂田は、銀行から担保の公債を受戻し、残りの一万円をそっくり相場に投じた。全く、拾ったも同様な金で、全部すってしまっても構わないという肚があったので、どんなにでも強気に出られたし、運もよかった……尤も、俺がついていたためではあるが。
 そこで、その帳簿の数字というのは、云わば無から湧いて出た金なのである。それを点検しながら坂田が憂欝になっていくのは、どう思っても俺の気にくわない……。俺は甘ったれた声で彼に話しかけてみた。
「どうです、愉快じゃありませんか。無から有を生ずるって、このことですよ。」
 彼はちょっと眉をあげたきりで、何の返事もない。
「無から有を生じ、次に、有から有を生ずる。金儲けの秘訣はそれですよ。私が云った通りでしょう。金をためるには、他の手段によらないで、金そのものをふやさなければいけない。これは真理ですよ。うまくいきましたね。」
「うまくいきすぎてる。」
 気のない返事だ。何か他のことを考えてるらしい。
「いや、そうばかりも云えませんよ。策戦がよかったんです。そら、ここを御覧なさい。随分あぶなかったじゃありませんか。売りにまわってるところを、値はずんずん上っていく、追証おいじきに追証と重ってきたじゃありませんか。それを三ヶ月ももちこたえたからよかったようなものの、もし短気を起すか、怖気を出すかしていたら、随分結果がちがってきたでしょう。」
「そんなことは問題じゃない。」
「では何が問題なんです。」
「必ずあたるというのが不思議だ。」
「まだそんなことを云ってるんですか。あたるのが当然じゃありませんか。天井をついたと思う時に売り、底をついたと思う時に買う、そしてそれが見当ちがいで、天井でなかったり底でなかったりすることがあっても、もちこたえるだけの余裕と胆力とさえあれば、何か大変な……革命みたいなものでも起らない限りは、株の値は時計の振子と同様ですから、やはり或る意味で、天井は天井になり、底は底になろうじゃありませんか。だからあたったことになる。ちっとも不思議じゃありませんよ。」
「いやそうじゃないんだ。必ずあたるのが不思議だというのは、云いかえれば、不思議なほどあたるということだ。そこで、これは単なる数字の遊戯で、架空な観念の遊戯じゃないか。」
「だって、あなたは実際に、その金を、それで儲けた金を、使ってるでしょう。」
「うむ、実際的に使ってる、そしてこの相場そのものは架空だ。そこがおかしいんだ。」
「どうしてです。初めから、お伽噺だといってたじゃありませんか。打出の小槌だといってたじゃありませんか。小槌そのものは架空の観念でも、打出される小判は実質的なものでしょう。そういう……お伽噺じゃあいけませんか。」
「はじめはお伽噺のつもりだった。だから、どこまでもお伽噺にするために、数字のままにしておいて、決して不動産にはしていない。けれども、やはり、すっかり現金というわけにはいかない。株券や公債にもなってくる。公債の方はよいとして、株券の方は、多くなるとどうしても、事業というものが背景に考えられてくる、もう架空のものではなくなる。これはお伽噺の崩壊だ。」
「そんな、背景なんか、考えるには及びませんよ。それとも、主旨に反するのでしたら、全部現金と公債とにしたらいいでしょう。」
「今それを考えてるんだ。」
「じゃあ明日にでも実行なすったら、それでいいじゃありませんか。」
「それはいい。然し、この通り、もう三十七万に達している。五十万になるのは間もなくだ。五十万になれば、百万になるのはたやすい。百万からまた……。」
「それだから、お伽噺ですよ。千万になろうと、十億になろうと、お伽噺だったら、構わないじゃありませんか。」
「いや……危い。」
「危い……って、なんですか。」
「お伽噺が崩れる。」
「そんなことはありませんよ。お伽噺に限度があるでしょうか。千万だの十億だのという数は、お伽噺の中にはないんですか。」
「数はある。然しそれが金となると、もう架空のものでなくなる、お伽噺でなくなる。」
「そんなら却って、すばらしい美術品とか宝石とかにしたら、お伽噺になりますよ。或は、大きな広い森だとか、山だとか、島だとか……。」
「僕もそれは考える。……然し、その前に、やはり危い。」
「どうしてです。」
「無から生じた有という、根本の問題だ。」
「だって、お伽噺はみなそうじゃありませんか。」
「いや、ちがう。初めからあったんだ……架空のものにしろ、実質的なものにしろ……。」
「初めからありゃあしませんよ。」
「初めからあったんだ。」
 とうとう水掛論になってしまった。こうなると、俺は黙りこむ方がいいんだ。
 坂田は深い瞑想に沈んでるようだったが、ふと立上って、室の中を少し歩き廻り、それから帳簿をしまいこみ、長椅子にねそべって、また瞑想に沈んだ。

 中津敏子がやって来たのは、晩の八時すぎだった。坂田は長椅子に身を投げ出して、深い物思いに沈んでいた。頬に血の色がなく、眼差しには薄い幕でも垂れてるような工合だった。彼は敏子の名刺を見ても咄嗟には思い出せない様子だった。それから女中を呼びとめて、座敷の方でなくこちらに通してよいと云った。
 敏子ははいって来ると、お時儀をしてからそこに立止った。引きしまった頬にぽっと上気して、理知的な眼を伏せていた。それを坂田はじっと見やったが、予期していた人とは別な人をでも見るような眼付だった。不自然なほど長く、十秒ほどもかかって、漸く、眼の映像と意識とが会った時、坂田の頬にぱっと赤みがさした。がそれは次の瞬間に消えて、彼は中央の円卓に自らつき、その向うに敏子を招じていた。
「あの……お邪魔ではございませんでしょうか。」と敏子は低い声で云った。
「いえ、かまいません。」
 そして坂田は煙草をふかし、敏子はそれとなく室の中をうかがっていた。室の有様が彼女の想像とはまるで違っていたらしく、そちらに気をとられていた。坂田は煙草の煙の間から、彼女の無雑作な束髪や紫地に太縞のお召銘仙の着物を、ぼんやり眺めていた。彼女は自然の姿態で顔をそむけて、横手の煖炉棚の上の人形に眼をとめ、こわばった微笑が頬に浮びかけた。
「中津君に……お兄さんに、昨晩あいましたよ。」と坂田はふいに云った。
 敏子は明かにぎくりとして、そして初めて彼の顔をまともにじっと見た。意外な衝動を受けて、それが却って彼女の心を緊張させ、彼女を力づけ落着かしたらしかった。
「少しも聞きませんでしたが……どちらで……。」
「中津君はあなたに何とも云わなかったんですか。」
「ええ。昨晩……兄が戻りました時は、あたしはもう寝ていましたし、今朝は……。」
「兄さんの方が寝坊していたんでしょう。昨晩、ずいぶん酔ってましたから……。」
 そして坂田はへんに憂欝な表情になった。
「もう遅かったようです。酒に酔って、銀座裏を歩いていて、ちょっと、或る小さな飲み屋にはいると、中津君が、これも一人で、飲んでいました。それから二人ともほんとに酔っ払って、大に談じて、何が何やら分らなくなったんですが……とにかく、元気でした。」
 坂田の憂欝な表情はなお深まっていた。
「兄は、その時、何か申しておりましたか。」
「別にまとまったこともなく、二人でやたらに饒舌りちらしただけですが……。」
 敏子はじっと探るように坂田の顔を見ていた。
「あなたは、兄をどう御覧になりまして。」
「どうといって、人間はそう急に変るものじゃありませんよ。変るのは境遇だけです。中津君もこの頃は、たいへん朗かになって、前途に光明を認めてるようですね。昨晩はきき落したんですが、どこか、勤めるようにでもなったんですか。」
 そして彼は苦笑をもらした。
 俺はその会話を、煖炉の上の好きな場所、例の古い鉄の五重塔の中から、ぼんやり聞いていたのだが、余りに白々しい坂田の言葉だと思った。殊にその苦笑はいけなかった。
「ちがいます。」と敏子も叫んだ。「あなたの仰言ってることは、みんな嘘です。」
 全くそれは嘘なんだ。俺は昨晩一緒にいたからよく知っているが、中津はあの時、肱に繕いのある上衣をつけ、裾のすりきれたズボンをはき、顔も肉がおちて、胃病でも患ってるらしい色艶だった。坂田がはいっていくと、ぎょっとしたような様子で、それから慌てて立上ってお時儀をした。そして二人で飲みだしたのだが、中津はしきりに、そういう家に寄った理由を説明しだした。弁解のための説明らしかった。この頃酒とは縁遠くなっていたが、友人たちとの或る会合のあとで、久しぶりに来てみたのだとか、或る相談事のためにここで人と落合うことになったのだとか、要するに下らないことで、而も、禁酒を誓った相手にでも云うような調子だった。それから話は一転して、一般の景気のこと、就職難のこと、米穀の価格のこと、米穀統制法のことなどに及んだ。坂田はぼんやり耳をかしてるだけだった。坂田が立上ると、中津も同じく立上ってついてきた。二人はまたとあるバーにはいり、洋酒をのみ、次には鮨屋にはいった。中津は次第に精力的になっていた。政府の施設は悉く民衆を看板にしながら悉く民衆を裏切ってるとも云った。僕もこれから発奮して民衆のために戦ってやるとも云った。或る金持の道楽息子が殊に目をつけて、結婚したいとまで云ってるが、出過ぎたことをしたら殴りつけてやるつもりだとも云った。妹が……あの小切手を引裂いたのは道理だとも云った。「僕はたとえ落伍者であっても、男の意気地は失わないつもりだ。そしてブールジョアの利己心を唾棄するだけの覚悟は、常にある。妹が君のあの小切手を引裂いた心理が、僕にはよく分る。だが君には感謝しているんだよ。全く肝に銘じている。僕はただ一般的のことを云うんだ。妹のあの意気を云うんだ。妹もあとで誤解だったことは分ったらしい。だが、一般的に……一般的にだよ、僕たちは、僕も妹も……ブールジョアは嫌いだ。君をもその点でだけは嫌いだ。もうあんな……不徳義な真似はしないんだろうね。一体、人間の身体を金で買えるものだと思うか。大間違いだ。僕たちが反抗するのは、ただその点だ……。」そんなことを彼はくり返し饒舌りたて、次には、妹の健気な気性をほめ、次には、母親の病気のことや、幼児をかかえてるひ弱な妻のことなど、困窮な家庭生活の内面を曝露するのだった。
 鮨屋から出て、もう人通りもとだえがちな街路で、坂田はきっぱり立止って、中津に十円紙幣を二枚さしつけた。中津はきょとんとしていた。
「取っておけよ。あれからまた一二度借りに来たじゃないか。今日はいらないのかい。もう僕は酒はのめない。これは残りのおつりだよ。」
 中津はふらふらしながら、黙って金を受取った。
 中津をそこに置いて、坂田はさっさと歩きだした。「犬のような眼をして、どこまでもついて来やがる。」そう口の中で云って、それから何度かまた繰返したが、ふしぎに、頬に一筋涙を流していた……。
 それらのことも、すっかり酔っていた彼等二人にとっては、濃霧の中での出来事に過ぎなかったかも知れないが、然し、敏子に対する坂田の言葉は、あまりに白々しすぎるものだった。
「仰言ってることは嘘です。」と敏子は云った。「兄はもう救われなくなってるのかも知れません。毎晩のようにお酒に酔って帰ってきます。それに、あれですっかり整理がついたと思っていましたが、まだいくらか残っていたようですし、なおちょいちょい相場にも手を出して、新たな借金もこさえたようですの。そしてこの頃では、蠣殼町へんをうろついて合百とかいうようなものをやってる様子ですの。なんでも、二三円あれば出来るものとかききましたが……そして、そんなことをするのは、乞食も同様だそうですけれど……。」
 彼女は真赤になってそして真剣に、じっと坂田の顔を見ながら、ずけずけと而も整然と云い進んだ。が坂田は眼をそらして、何か他のことを考えこんでる様子だった。
 坂田はふいに顔をあげて、敏子を眺めた。が然し、まだ遠い視線だった。
「中津君は、なぜ相場なんかに手を出したんですか。」
 ぼんやりした調子だったので、それが却って敏子の胸によくはいったらしく、彼女は曖昧な微笑の影を浮べて答えた。
「やっぱり……お金がほしかったのでしょう。」
「そんなに必要だったんですか。」
「どうですか、あたしには分りませんけど……。」
「そんなに必要だったのなら、なぜ損ばかりしたんです。」
 敏子は返事をしないで、ほんとに微笑んでしまった。
「あんなに貧乏するって法はありません。穏かに暮していけたのに、わざわざ貧乏するということがありますか。母親や……妹がある以上は、そして、結婚までした以上は、子供まで拵えた以上は……じっとしておればいいんです。それを、あんな風に、何もかもめちゃくちゃにして、犬のような眼付をしてうろつきまわって、人につきまとって……。」
 坂田はふいに口を噤んだ。敏子は急に頬をこわばらせ、眼を大きく見開いた。
「では……あの、あれからもまた、お願いにまいったことがありますの。」
 坂田は返事をしなかった。暫くたって、呼鈴に手をふれて、女中をよんで珈琲を命じた。
 それは何だか、話をぶち切る相図のようなものだった。敏子は黙って、かたくなっていた。その眼はうるんでいた。
 坂田は珈琲をすすって、室の中を歩きだした。腹を立ててる様子だった。考えこんでる様子でもあった。やがて、その眼が異様に輝いてきた。彼は屑籠のところにいって、その中をかき廻して、引裂いた敏子の手紙を取出してきた。
「これは、今日あなたから来た速達の手紙です。この通り引裂いて捨てました。あなたが私の……あれを引裂かれたのと、丁度帳消しです。これで、私達は対等に御話が出来るわけです。」
 敏子は顔色をかえ、唇をかみしめて、坂田を見つめていた。坂田は紙片をまるめてまた屑籠に放りこみ、椅子に腰を下した。
「そこで……何の御用ですか。」
 おかしなことには、それまで、敏子の方でも坂田の方でも、まるで用件を忘れてたかのような風だった。だが、それより先に、引裂く云々の一件を説明しておこう。――中津が方々の負債にせめられて、どうにもならなくなった時、そしてなお、自棄やけ気味の放蕩から会社も止めなければならなくなり、家には細君の産後の病気もあり、切端つまって、坂田に相談をもちかけてきた時、坂田はそれを引受けてやった。そして負債全部をすまして、今後相場などには手を出さないという条件で、一万七千円の小切手を書いて渡した。中津は今後のことを誓った。そして心から感謝して、それを妹の敏子へも打明けた。敏子は顔色をかえた。彼女はその頃、生活の苦しい余りに、自ら進んで、或るデパートに勤めていた。ところが、ふとしたことから、そのデパートの朋輩の一人を、坂田が誘惑して弄んだことを知っていた。甘言で誘って、どこかに連れこんで手籠めにしたとか、其の後問題になりかかったのを、デパートの支配人に手を廻してうやむやに葬ったとか、事の真相は茲に明かすべき限りでないが、とにかく金銭を以て非道を行ったとの話である。その上、敏子と坂田との間にも何か感情上のもつれがあったらしく、後になって想像される。要するに敏子はひどく憤慨した。デパートにまで出勤している自分の立場を説き、兄を責め、坂田を罵り、坂田の小切手を引裂いてしまったのである。中津は意外の結果に呆然とした。そしてどうにか敏子をなだめ、引裂かれた小切手の破片を持って、坂田に詫びに来た。事情を隠すわけにもいかなかった。坂田は小切手を書きなおして与えた。そして云った。「僕は弁解はしないが、その事件についてはいろいろ誤解もあるようだ。然し、敏子さんの方が恐らく正しいかも知れない。」それきりで、彼はもうその問題にふれたくない様子だった。というよりも寧ろ、そんなことは些事で、もっと重大な問題が彼の心に浮んできたらしい様子だった。

 坂田は椅子に深く身を托して、返事を待っていた。敏子は彼の顔を見つめたまま黙っていた。
「どういう御用ですか。」と坂田はくり返した。
 敏子の眼には苦悩の色が浮んだ。それをじっともち堪えているうち、彼女の顔は冷くそして美しく輝いてきた。彼女は兄と十二三も年齢がちがい、その間の二人の姉も、一人は結婚し一人は夭折していたが、彼女よりずっと年上だったせいか、彼女のうちにはのんびりした我儘さが残っていて、それが理知的な色に包まれ、更に苦悩の色にそめられると、新鮮な美しさを現わすのだった。そしてまた顔立も、肩が少しくいかついわりに細そりしていて、人中にいる時よりも一人になるほど目立ってくるたちで、切れの短くて深い眼や口が、緊張するに随ってくっきりと浮出してくるのだった。坂田はまともにじっと彼女の顔を見返した。
 彼女は慴えたように眼をそらした。
「もう……申さなくてもよろしいんです。」
「云うのが恐いんですか。」
「あなたは……軽蔑して……ばかにしていらっしゃるのでしょう。分りましたわ。ずうずうしい女だと思っていらっしゃるのでしょう。よく分りました。」
 彼女はふいに、涙をぽろりと落した。そしてそれに自ら反抗するように、声を震わして云い進んだ。
「よく分りました。だけど……だけど、あたしそんなつもりじゃなかったんです。兄はあんなだし、嫂さんはあんなだし、病気のお母さんがお気の毒で……お母さんのためになら、二百円くらい……あなたにとっては何でもないお金高だから……お願いしてもいいと思ったんですの。だけど、もういいんです。あたしの思い違いだってこと、よく分りました。もう決して……お願い致しません。軽蔑していらっしゃるんなら、それを……お返ししておきます。」
 坂田は腕をくんで考えこんでいた。彼女の言葉を聞いていたのかいないのか、長く黙りこんでしまった。それからふいに、立上って歩きだした。そしてぽつりと、石でも投げるように云った。
「あなたはそれでよく我慢が出来ますね。」
 敏子はちらっと彼の方を見たが、彼の言葉は通じなかったらしく、また顔を伏せて唇をかんだ。
 坂田は歩きながら、独語の調子で云いだした。
「私にはよくこういうことがあります。カフェーだとか、レストーランだとか、表に硝子戸がたっていて、そこから往来が見える……そういうところにじっとしているのが好きで、そして往来を見ていると、いろいろな人が通るんです。菓子屋で幾銭かの菓子を買って、その紙袋を風呂敷に包んで、大事そうに抱えて行くお上さんがあります。が一体、なぜそんな物を食わなけりゃならないんですか。大きな荷物を背負って、自転車にのって走ってゆく小僧があります。なぜそんな荷物を背負っていかなけりゃならないんですか。危っかしいハイヒールの靴をはいて、つんとすまして、とっとっと急いでゆく若い女があります。なぜそんな物をはいてそんなに急がなけりゃならないんですか。そして……あなたは、お母さんのために、家のために、二百円の金を調達に、嫌な思いをして私のところに来たんでしょう。なぜそんなことをしなけりゃならないんですか。あなたが、なぜそんなことをしなけりゃならないんですか。……これは、子供じみた、ばかげた、下らない思想です。けれど、そういう思想のために、人間が嫌になり、世の中が嫌になったとしたら、どうです。そして何かしらがーんとぶつかるもの……抵抗、そう抵抗です、それを求めて、酒をのんだり……芸者をくどいたり、デパートの売子うりこを誘惑したり、そんなことをする男があったら、どう思います。而も……抵抗、そんなものがどこにあります。女は大抵売笑掃であり、男は大抵犬みたいな眼付をしていて、何事も金で解決出来るとしたら、どうなります。そして家に引込んで、何もかも嫌になって、始終うとうと居睡りをしてるとしたら、どうなんです。……私はそんな男です。あなたは軽蔑しませんか。しないというのは嘘です。軽蔑するでしょう。」
 坂田は立止って、じっと敏子の方を眺めた。眼の光がへんにうすらいで、本当に見てるのかどうか分らない工合だった。敏子はかるく身震いをした。坂田はまた歩きだした。
「ところが、そんなのが、幸福……幸運というもののせいだったら、どうでしょう。中津君はすっかり相場で外れたが、私はすっかりあたった。運がよかった。そして金が出来た。というのは数字がふえたんです。架空の数字が……。そしてその架空の数字が、人を宙に浮上げる、というより、崖っぷちに押しやる。高い断崖のふちです。……そんな時、その下らない男を、崖からつき落す……つき落してしまおうとは、あなたは思いませんか。」
 敏子はけげんそうに坂田を見た。
「そいつを、殺してしまおうとは思いませんか。」
「いいえ。」
 きっぱりした一言だったが、殆んど本能的に出たもので、敏子はそれを他人の声ででもあるように聞いたらしく、明かにまごついて……そして突然赧くなった。
「なぜ殺さないんです。」
「自分では殺しません。」
「自分で殺さない……。」
「誰かに殺させます。」
 その咄嗟の問答を、二人はじっと眼を見合せながらなしたのだが、それからなお暫く、そのまま釘付けになっていた……。敏子は身を引いた。坂田はよろけるように椅子に坐った。
 坂田は椅子の上で、眼をつぶった。彼の頬は全く血の気がないといってもいいほど蒼かった。
 敏子は二度ばかり、立ち上りかけてはまた腰を下した。それから室内を、その家具や装飾品を一つ一つ、はっきり心にとめるためのように眺め初めた。そして彼女がまた、煖炉棚の上の人形を見ている時、坂田は眼を開いた。
「敏子さん。」そう彼は呼んで、ちょっと間をおいた。「あなたが、子供の時から今までの間に、一番嬉しいと思ったことか、悲しいと思ったことか、どちらでもいいから、聞かして下さい。」
 敏子は黙っていた。
「何でもいいんです。心に残ってることを、一つだけでいいんです。」
 彼は両腕をくみ、また眼をつぶって、深々と椅子によりかかって、待った。
 敏子はだしぬけに、そして静かな調子で、身動き一つしないで話しだした。
「……あたしには、母の乳が足りなかったものですから、乳母がありました。その乳母が、あたしの六つか七つの時まで、小学校にあがる前まで、家にいて、そしてひまをとって帰っていきました。その時、大変悲しかった筈ですけれど、よく覚えていません。そして……一月ばかりたってから、その乳母がたずねてきてくれました。嬉しいような極りわるいような妙な気持でした。乳母は母と話したり、台所を手伝ったりしていましたが、早めに、あたしたちと一緒に夕御飯をいただいて、それから、あたしだけつれて、河の土手に遊びに出かけました。町のすぐそばの河なんです。夏のことで、まだ明るくて、水のおもてに小魚がはねてるのが見えました。乳母はあたしを土手の草の上に坐らせ、自分もすぐそばに坐って、長い間だまっていました。あたしは歌をうたっていましたが、それにもあきて、乳母を見ると、乳母の頬に涙が流れているんです。ばあや、なぜ泣くの、とききますと、こんどはほんとに声をたてて、あたしの肩をだいて泣きだしたんです。あたしもなんだか悲しくなって、涙ぐんでいますと、乳母はじっとあたしの顔を見て、それから、お嬢さま、わるいことをしました。お許し下さいと、頭をさげるんです。あたしには何のことかさっぱり分りません。お許し下さいますかって、なんどもきかれて、あたしはただ、なんでも許してあげる、と云いましたの。すると、乳母はほっと太い息をついて、それから、手にもっている小さな風呂敷包みを……その時まであたしは気にもとめていませんでしたが……その包みを開きました。中はまた、新聞紙包みになっています。その新聞紙をとると……あらッとあたしは声をたてました。あたしの着物……大きな赤い牡丹のついた、友禅模様の金紗の袷です。乳母はそれをあたしの膝の上において、あやまるんですの。お嬢さまに別れるのがつらいから、悪いことと知りながら、このお着物を盗んで持って帰りました。お願いすれば下さることは分っていましたが、なんだか申しにくくって、だまって盗んでいきました。けれど、あとで心に咎めて、どんなにか泣きました。そして今日、お返しにあがりました、盗んだことをお嬢さまにだけ打明けて、罪を許していただくつもりです、お許し下さいませ……とそうなんです。あたしは乳母の首にとびつきました。そしてその着物をあげるといいました。けれど、乳母は受取ろうとしません。罪を許していただくためにお打明けしたので、お着物を頂戴するためではありません、といってきかないんです。でもとうとう、あたしは駄々をこねて、その着物を乳母に受取らせました。乳母はまた丁寧に、新聞紙に包み、風呂敷に包みました。夕日がもう沈んで、ぼーっとした明るさでしたけれど、乳母の顔はとても晴れやかでした。あたしは乳母の手につかまって家に帰っていきました。その時のことが、いつまでも忘れられませんの……。」
 敏子は口を噤んでからも、身動きもしないで、眼を室の隅に据えていた。顔は冷たく澄んで何の表情もなかった。坂田からじっと見られてることに無関心らしかった。
 坂田の眼はぎらぎら光っていた。頬には赤みがさしていた。彼は話をよく聞いていなかったらしい。何かに反抗するように身振をした。暫くして立上ると、敏子を見つめたまま一二歩近づいた。
「そんな話はもうやめましょう。然し……。」
 彼は躊躇した。
「あなたを……愛していたのは本当です……今でも。」
 それは愛するのか憎むのか分らない調子で、そして敏子がかすかにおののいた時には、彼はもう敏子の肩に身をなげかけてそこに顔を伏せていた。敏子は彼を押しのけようとしたが、次の瞬間、眼をとじて、彼の頭を抱きしめた……。

 俺は、ただじっと見ているより外はなかったのだ。二人の応対がばかに真剣だったので、俺が差出口をする隙がなかったし、なお、俺にはよく腑におちない複雑なものが底に隠れていた。それから、その夜の二人のことについては云うべき限りではないだろう。ただ、俺の予想が全く外れたのは、翌日の坂田のことだ。
 翌朝、四時半頃に、坂田と敏子とは、前夜から開け放しの窓にもたれて外を眺めていた。もう東の空は明るくなって、中天の星は淡くまたたいていた。敏子の髪が乱れ、顔が蒼ざめていたが、坂田は髪こそ乱しているが、晴れやかなすがすがしい顔で、眼差しに力がこもっていた。
 二人は東の空の明るみを見ながら、それに眺め入ってる様子をしながら、手を握りあっていた。やがて敏子は力つきたかのように、静に頭を坂田の肩にもたせかけた。坂田は彼女を長椅子につれていった。そしてそこで、互によりかかって、肩と肩とを抱きあいながら眼をつぶった。
 彼等はそうして眠ったのかどうか、実際判断がつかなかった。時々、どちらかがうっすらと眼を開いてはまたつぶった。二三十分おきくらいにそうするのだった。
 六時頃、日の光がさしてきてから、二人は立上った。曖昧な微笑をかわして、それきり眼をそらした。坂田の一本の櫛で、二人とも髪をなでつけた。敏子は室の中を見廻し、隣室の中まで見廻した。それから二人そろって出ていった。
 一時間余りたって、坂田は一人で戻ってきた。まだ女中たちも寝ていた。坂田は大きく伸びをして、それから、ぐるぐる室の中を歩きだした。ふしぎに顔の色艶が、どこか不健康なものを含みながら、輝きだしていた。殆んど一時間くらい彼は歩いていた。ただ機械的に無意識に歩いているようだった。精神的にじっとしておれないが、然し何も考えてはいない、という様子だった。それからふと立止って、小首を傾げたが、つかつかと机に歩み寄って、例の帳簿を取出し、眼もくれずに引裂き初めた。――どうやら、俺の計画はだめになったらしい。俺は例の鉄の五重塔の中に引込んで、新たに考えなおさなければならなかった。然し、俺は坂田を嫌いじゃない。





底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「文芸春秋」
   1936(昭和11)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年4月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について