自由主義私見

――学芸自由同盟に関連して――

豊島与志雄




 自由主義は、行動方針の問題ではなくて、生活態度の問題である。実践的動向の向うにある目的ではなくて、生活それ自体の翹望である。翹望である以上、固より、対象として「自由」を持つものではあるが、かかる「自由」は、本来、生活それ自身と合体しているものであり、謂わば、生活が本能的に持っている一面である。随って、かかる「自由」は、それのみでは、或る特定の社会構図を画くものではない。
 この「自由」は、必然に、各人のそして同時に万人の自由を意味する。各人の周囲に或る境界線を引いて、その範囲内に於ける限りの自由ではなくて、各人の自由の中に自己の自由の延長を見る自由であり、平等に於ける連帯的自由である。それは性質上、吾々が本能的に有する正義感に似ている。法律的な或は習慣道徳的な正義感ではなく、本能的な原存的な正義感は、各人に分配された正義をではなく、各人のそして同時に万人の正義を意味する。
 由来、「各人のそして万人の」という言葉は、その観念を、至上命題化して、宙に浮遊させがちである。然し上述の「自由」は、それが吾々の生活の本能的一面である以上、上述の正義感と同様、常に実際生活に即した問題となる。そしてこの「自由」を主張する自由主義なるものが、社会進展の実践的動向に対して指導理論を提出しないにも拘らず、常に多くの人々に関心を持たせる所以は、そこにある。
 近日創立されるらしい「学芸自由同盟」なるものが、同盟としての今後の行動に対する明確な見通しがつかないにも拘らず、社会各方面の人々を包括し得る可能性がある所以も、またそこにあるのではないかと、私は考える。この意味で、自由主義者とマルクシストと肩を並べることを非難する人々に対しては、もう一歩手前の考察を希望したい。
 も一歩手前の考察をなす場合、今になって「学芸自由同盟」などの創立が何故に必要であるかとの反問が、当然起ることであろう。そこで、何故に必要であるかよりも何故に創立の議が起ったかを考える時、吾々の生活から、それが本能的に持っている自由なるものが次第に引離されてきた情勢が、先ず眼に映る。
 自由というものは、生活と一体を為すべきものであって、生活から引離された観念的な自由というものは、理論の遊戯である。自由という化物が嘗て存在したことがあるかという人々こそ、却って自由というものを観念的に考えているのではないかと思われる。
 自由というものが、生活から引離されて観念的にしか存在しなくなる時、云いかえれば、自由の一面が生活から切取られる時、生活は不具になる。この生活の不具の苦痛を、自由主義は最も強く感ずる。それは、観念的な自由が、政治的に或は経済的に如何に各人に分与されるかの問題ではなく、生活それ自体が自由の面を如何ほど保有してるかの問題である。自由主義のあらゆる運動の強弱は、生活の自由の面の広狭に正比例する。
「学芸自由同盟」の創立も、恐らくは、現時の吾々の生活に自由の面が如何に縮小されてるか、そしてそのために生活が如何に不具になされ歪曲されてるか、それを苦痛として感ずるところから起ったものであると、私は考える。随ってその態度の基調は、不具ならざる生活――自由を有する生活――の防衛であろう。そしてかかる防衛は、完き生活のためが、唯一の「ため」であって、他の特定なる政治的な或は社会的な或は経済的な「ため」ではないが故に、通常は、思想的には批判者の地位に立つものであり、実践的には後衛の地位に立つものだと思われる。そこに、この同盟の行動の自由性と各種前衛分子をも包括し得る可能性とがある。
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 自由主義の動きは、例えば河の流れに似ている。何物も遮るもののない時には、平静に流れて波をも立てない。然し一度、その流れが堰止められ、その勢いが蓄積される時には、如何なる堤防をも乗り越し破壊する。そしてこの危機に際しては、自由主義はもはや自由主義でなくなり、一躍反対物へ転向することさえある。
「学芸自由同盟」も恐らく、自由主義とほぼ同じ運命を持ってるものであろうと、私は考える。場合によっては、殆んど存在の意義が無くなるかも知れない。或は何等かの堤防に直面して、特定の偏向と行動とを強いらるることにより、四分五裂するかも知れないし、又は創立主旨とは異ったものへ転向するかも知れない。
 然しそれだからといって、この同盟を中間の無用な存在だとは断言出来ない。中間は静止を意味するものではない。人間社会にあっては、中間も常に動いてゆく。そしてこの動きは、自由主義的基調によって成さるる場合には、後退を意味するものではなく、前進を意味する。前進は新らしい地平線の発見を予想させる。そして新らしい地平線の発見を意図する前進こそ、あらゆる文化運動の使命である。非常時に於ても、人間には直接当面の必要以外に、そしてそれと同時に、贅沢なる欲望があると同様、社会には、制度変革を必要とする以外に、そしてそれと同時に、前進的文化の欲求がある。
 学芸のひいては文化の自由なる進歩発達を擁護せんとする「学芸自由同盟」に、その行動の方向があるとすれば、それはただ前進であろうと、私は考える。随ってそれは、あらゆる意味の後退に反抗するであろう。ナチスの焚書をこの同盟の母体は後退的なものと見、滝川教授罷免問題をこの同盟の準備委員会は後退的なものと見たと、私は解釈する。或る人々が揶揄してるソヴィエットに対する問題は、事前に属する事柄だけれども、現在のその強権主義が前進的であるか後退的であるかの見透しがついてから、それに対する同盟の態度も決ることだろうと、私は考える。
 前進的自由主義の動きが、平野の中に於ける河の流れのように静穏である限りは、恐らく「学芸自由同盟」などというものは起らなかったであろう。然るにかかる同盟が創立された所以は、自由主義の動きが何物かに堰き止められたことを証明する。そしてこの堰は、恐らくは後退的ファシズムであろうと、私は考える。
 ファシズムの本体たる権力的社会統制は、その主体が青年期もしくは壮年期にある場合に於てのみ、前進的であって、力と生命と意義とを持つ。然しその主体が、老衰期にはいり、没落期に近づくにつれて、動脈硬化と生命硬化とを来し、その権力的統制は、頑迷な老人に見らるるように焦慮と剛直とが不思議に混和した性質を帯び、そして後退的なファッショ的傾向を将来する。そういうファシズムだと私は日本の現在のそれを見ている。ファッショにも種々あることを考える必要がある。まして、ファシズムとしての政治形態は、その本来の任務を終えた後にも、社会的生命を失った骸骨的権力を残す危険がある。
「学芸自由同盟」は、凡て存在するものは合理的であるというような「自然」の把握の仕方を、恐らくはしないであろうと、私は考える。自由な完き生活の予想から直接把握される「自然」、そういう自然を考えるだろう。そしてこういう「自然」の把握の仕方は、あらゆる学問や芸術に生命を与える為のである。この意味に於て、同盟の仕事と研究或は創作とがしっくり統一出来ないらしく考える人々に対しては、再考を煩わしたいのである。生きることは、意欲を持つことであり、仕事を生かすことは、それに意欲を吹きこむことであって、上述のような「自然」の把握の仕方によってこそ、最も誠実な意欲が培養される。





底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月24日作成
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