今日の条件

豊島与志雄




 ごく大雑把にそして極めて素朴に、人間の生活の理想的な在り方を考えてみる。――週に六日、毎日六時間ばかり、何等かの社会的な生産的な勤労に徒事し、それで生計を立て、その他の時間を、随意に自由に使用する。そして勤労によるこの生計は、僅かに生存を維持するだけのような低級なものではなく、必要にして充分な余裕を持つ程度のものであらねばならぬ。随って、其他の時間の任意な使用は、原則的に、報酬を目差すものではなく、各人各種の技能の花を咲かせるものとなる。時間は充分にあり、高度の技能も練磨される。芸術もこの中の花の一つに位置する……。
 以上、理想的な考え方で、今日ではまだ空想の域を脱しない。然しながら、理想は目標であり、ここに理念の基盤を置くべきであろう。同時にまた、目標はそれ自体が吾々へ近寄って来るものではなく、吾々の方からそれへ向って歩いて行かねばならぬもの故、到達までには、努力奮闘の務が吾々に負荷される。ここに今日の条件がある。――芸術もさまざまの花の一つだというのは、遙か彼方の社会に於けることで、現在では、今日の条件がいつも重大に付きまとう。
 そこで、早速に言う。文学は衆人に奉仕してその慰安娯楽となるべきであり、文学者は畢竟戯作者たるべきである、というような説、つまり、現実肯定の幇間的立場、それに私は反対する。反対するばかりでなく、そんなものはすべて下らないと軽蔑する。現在吾々が置かれてる現実そのものが、すばらしく立派なものであるならばとにかく、実に下らないものであるからして、それに阿諛するものはすべて下らないのだ。
 文学が現実の再現であろうとする企図が遂に失敗に終ることは、既に経験ずみである。文学は現実の転位の世界に於ける営みであって、この営みでは、常に現実に対して何かがプラスされる。そのプラスが文学の生命とも言える。近代の文学はそのプラスに眼をつける。近代の文学者はそのプラスに身を投げ込む。小説の批判性や思想性はそこから生ずる。――近頃の小説が如何に評論に近づいているか、如何に多く評論的要素を取り入れているかは、周知の通りである。
 また一方、純然たる評論や論説の形式による建造が、可なり頼りないものであること、殊に社会的変動期に於て頼りないものであることを、多くの人々は感じている。そして小説的思考形式、つまり小説的建造の方が、より多く安定で頼りになるように思われてくる。抽象的な思想的な建造にも、建築物的な堅固さが要望される。二度の大戦の激動によって、多くの信条、多くの信念が、次々に崩壊してゆくのを見た後のことだ。而もまだ戦争の闇雲は晴れていない。その上に原子力時代に突入している。不安な思惟はなるべく堅固な建造形式を模索する。ここに小説が新たな役目を提供する。そしてこの役目から、小説にはまた別種のプラスが付加される。
 右の二種のプラス的要素は、それ自体の性質上、現在を基盤にして将来を指向する。そしてこのプラス的要素が主要な創作モチーフである小説も、現在を基盤にして将来を指向する。取材は現在の事実であろうと或は過去の事実であろうと、息吹きは将来へ通う。つまり現実の中に将来が萠芽されるのだ。――ここにレアリズムの限界があり、レアリズムの自己崩壊がある。
 そこで、私はまた早速に言う。写実主義の文学、現実の赤裸々な相貌を呈出することだけに止まる文学を、私は軽蔑する。もとより、文学は単なる夢物語であってはならず、現実の裏付けがなければならず、素材は現在や過去やまたは歴史上のいずこに求めても構わないものであり、自叙伝の存在理由も充分にあるものだが、然し、常に将来への指向を内蔵しているべき筈であり、内蔵していなければならない。この将来への指向を、日本の文学は喪失しがちであったし、また喪失しがちである。極言すれば、それを獲得することに怠慢であるとも言える。――現在、戦争中のことや戦後のことが数多く書かれている。いろいろな面が発掘され曝露されている。だが、ただそこだけに閉鎖されているものが何と多く、将来へ息吹きを通わしているものが何と少いことか。思想性の貧困はその当然の結果である。
 如何に徹底した写実も畢竟はフィクションによって歪曲されるということは、既に自明の理である。そしてこの事情の下に、現実そのものに対比して文学自体の無力が承認されている。然しながら、文学自体のこの種の無力さを、現代の文学者は問題としない。そのようなことはどうでもよいのだ。重要なのは建設にある。将来を指向するその線に沿って如何なるものを建造するかにある。而もこの建造に対して、至るところに障碍がわだかまっている。至るところに障壁がつっ立っている。それを打破しようと文学者は血みどろになって闘う。
 それらの障壁こそ、実は現実なのである。現実のもろもろの形式であり、甲殼である。それを突き破らなければ、将来への息吹きが通わない。それ故文学者は、現実に対する反逆児となり、現実との格闘者となる。
 そこで、私はまた早速に言う。右のような反逆や格闘を内に秘めていない文学を、私は低俗なものとして軽蔑する。もとより、日の光りを楽しみ、自然を愛し、人間を慈しみ、生きてる悦びを歌う、そういう文学は、美しいものであろう。然しそういうことが、今日の条件に於いて果して可能であろうか。可能だとするには、白痴的なものが必要であろう。白痴は精神の一種の麻痺だ。麻痺から覚醒した精神は、今日の条件では、反逆児になり格闘者たらざるを得ない。――それほど大袈裟に言わずとも、一歩妥協して、文学は美しいものであれかしということを是認してみよう。ところで、作品の美しさそのものに、古さと新らしさとを吾々が感ずるのは、何に由来するのか。美に新旧はない筈だ。この問題を追求してゆくと、反逆的な何物をも持たない作品はすべて古く、反逆的なものを持つことの多い作品ほど新らしい、ということが発見される。そして現在、古い感じのする作品が、新人たちのそれにさえ、何と多いことであるか。
 今日の条件、この言葉を私は何の説明もなしに度々使った。そして茲で一言すれば、冒頭にのべたような遙か彼方の社会、私の謂わばユートピア、それの実現をはばむあらゆるものの現存を、私は今日の条件と言うのである。人は誰でもそれぞれのユートピアを持っているに違いない。そしてその種類によって、今日の条件も異った性質となるだろう。然しながら、今日の条件そのものの存在は否定出来ない。そしてこの条件を前にして、絶望が生れる。而も今日の条件は深刻に悪化している。現代の絶望ということが説かれる所以である。
 だが然し、文学に関する限りに於いて、私はそのような絶望に対して絶望はしない。絶望と希望との関係は、文学の場にあっては、偶然と必然とのそれに似ている。時とすると、両者入り交って見分けがつかない。絶望の文学と称せらるる作品を仔細に読んでみるがよい。少くとも私は、それらの絶望が如何にほのぼのとした明るみを湛えていることを大抵は感ずる。その明るさは希望のそれに似ているのだ。もしも希望の文学と言えるような作品があるとするならば、そしてそれが立派な作品であるならば、恐らくはその底に、絶望のそれに似た暗さを湛えてはいないだろうか。――このことは、人間的なもの、人間の本性、それに起因する。文学は常に人間そのものを凝視するのだ。
 それ故に私は、今日の条件というものを、政治的に理解されることを忌避する。もとより、現在から将来に亙る人間の考察に当っては、孤立した個人を抽出することは殆んど不可能であり、個人は常に、何等かの集団の一員、社会の一員として、不可分に存在するものとして理解されなければならない。だから人はみな、広義の政治の中に生きている。けれども、現在の一般通念としては、政治は権力観念と不可分の関係にある。そしてこの権力観念こそは、今日の条件のうちの最悪なものの一つなのだ。文学はそれに反抗する。つまり、所謂政治の線に沿っては進まないで、別なコースを取る。――所謂政治の線にのみ沿って進む文学が、人間的血液の乏しい傀儡ばかり跳梁する拵え物に、ともすると転落する例は、あまりに多く見られた。政治を権力観念から解放することも、文学の一つの仕事であらねばならぬ。
 彼方の社会、そこでは文学が無償のものとなり、数々の技能が咲かせる花の一つとなる、そういう社会が実現するまでは、文学は、私の要望する文学は、常に苦難の途を辿り、反逆闘争の歩みを続けねばならないだろう。そしてそういう文学を背負い込む宿命を甘受する文学者に、私は同感と敬意とをこめた握手の手を差出す。
 さて、この文章は、文壇への提議として書くことを求められたものであり、恐らく何か一つの具体的な発言を期待されたものであろう。私はそれを直接になさず、裏側からの概括的な発言をしてしまった。言いたいことが多すぎたせいもある。だが、要するに評論や感想というものはどうも変梃だ。如何にして小説的表現を多分に取り入れるかが、懸案である。





底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月27日作成
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