ものの影

豊島与志雄




 池、といっても、台地の裾から湧き出る水がただ広くたまってる浅い沼で、その片側、道路ぞいに、丈高い葦が生い茂り、中ほどに、大きな松が一本そびえている。そのへんを、俗に一本松と呼ばれていて、昼間は田舎びた風情があり、夜分はちと薄気味わるい。
 この一本松のところを、或る夜遅く、島野彦一は通りかかった。焼酎にしたたか酔って、頭脳はからっぽ、足は宙に浮きがちだった。微風もなく、夜気は冴えていた。
 松の近くまで来て、彦一ははたと足を止めた。なにか、妖気に触れたかのような感じである。
 道路からそれて、葦の茂みの中に、いや、茂みの表面に、和服姿の少年らしい人影が立っていた。月の光りはないが、星明りなのか、透いて見える薄暗がりに、その人影がくっきり浮いていた。彼は、彦一がやって来るのを認め、道を避けて佇み、通りすぎるのを待ってるのか、或るいは、出会いがしらに、ひょいと横へ退いたのか。それはとにかく、足音一つせず、葦の葉擦れの音もしなかった。葦の茂みはひそと静まり返っていて、その表面に、人影だけが、何の厚みもなく、紙のように平べったく、浮き出してるのである。
 とっさに、彦一はぞっとした。鬼気とか、妖気とか、もののけとか、そんなものに触れた感じだ。彼は戦時中、召集されて、北海道で軍隊生活をし、訓練の間には、深山幽谷で孤立した数時間を闇夜のうちに過したこともあるが、嘗て、ぞっとする不気味さを経験したことはなかった。恐怖とか驚駭ならば、まだよいが、へんな不気味さは、どうにもいけない。而もそれが、沼だの葦の茂みだの空襲の焼跡だのがあるにしても、近くに人家が見える東京都内で起ったのだ。
 不気味なのは、その人影が、なまの人間の姿とは見えないことだった。さりとて、幻燈で映し出された像でもない。影の微粒子が寄り集まり凝り固まって、謂わば死気に生きてるのだ。葦の茂みの中を動き廻っても、葉擦れの音さえ立てないだろう。
 酩酊の気魄を眼にこめて、彦一はじっと見つめた。少年の人影は、うつろな眼をこちらに向けてるらしいだけで、身じろぎだにしなかった。死気とも言えるものを、彦一はまともに感じた。一瞬、不気味さが憤りに変った。彼は一歩踏み出した。相手は小揺ぎもしない。彼はまた一歩踏み出し、同時に、拳固の一撃を相手の横※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)に喰わした。
 彦一にとって意外だったのは、たしかに手応えがあったことだ。相手は人影でもなく、死気でもなく、なまの肉体の重みでばったり倒れ[#「倒れ」は底本では「例れ」]、葦の茂みがざわざわ揺れた。夜気が渦巻き、総毛立って、それから冷りと静まる。張り合いのない真剣さだ。何物へともない、憤怒、そして憎悪……。
 彦一は靴の足先に、堅い重いものを意識した。土瓶大の石塊だ。それを彼は両手に取り上げ、地面に伸びてるものに向って、力一杯投げつけた。穢らわしい感じの、鈍い音がした。
 ざまあ見やがれ。吐き捨てるような思いだった。歩き出して、ふと空を仰ぐと、星々が燃えるように光っていた。
 それから彼は、明るい街路に出て、屋台店でまた焼酎をあおった。アパートの室に帰りついたのは、深夜だった。

 翌日の夕刊から次の日の朝刊にかけた新聞に、一本松の事件が簡単に報道されていた。大きく取扱われるほどのものではなかったが、少年の怪死体として、多くの謎を含んだ記事になっていた。
 通称一本松と言われてる路傍の葦の茂みの中に、少年の死体が発見された。縊死する旨の遺書と、縊死に用ゆるつもりだったらしい細紐とが、懐にはいっていた。遺書は彼の自筆であり、細紐は彼の寝間着紐だった。然るに、死体には致命傷と見られる頭蓋骨折があり、そばに血まみれの人頭大の石が落ちていた。なお、左※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)下に打撲傷も見られた。明らかに他殺らしい。それにしても、格闘の形跡もなく、物取りの仕業とも思われなかった。
 この少年は、一キロほど離れたところに中華ソバを営んでる伯父夫婦の、店の手伝いをしていた。少しく低脳、そして浪費癖があった。店の現金を持ち出しては、始終叱られていた。最近では、茨城県下の農家へ追いやられるとかの話があって、それを苦にしての自殺覚悟だったらしい。
 だいたい右のような記事で、真相は明らかでなく、どの新聞のも大同小異である。
 その記事の一つを、島野彦一はふと見つけた。そして各新聞を熱心に読みあさった。アパートにはいろんな新聞がはいっている。それらを彼は、監理人のおばさんの室へ行って借りて読んだ。ふだんは、自分のところへ来る一つの新聞さえろくに覗かない彼である。
 おばさんは眉をひそめて言った。
「たいへん御熱心ね。」
「この近くに起った事件ですよ。」
「自殺でしょうか、それとも、他殺でしょうか。島野さんはどう思いますの。」
「それが、問題です。まあ、自分で死のうと思っていたのに、気後れがして、他人から手伝って貰って死んだ、というところでしょうか。」
 彦一は平然と、多少皮肉な微笑さえ浮べて、自分の見解を披瀝するのだった。
 あの少年は、少しく低能でそして浪費癖があったという。だいたい、低脳な者は大食いだし、随って浪費癖はつきものだ。彼もまた、店の中華ソバばかりでは食い足りなくて、金を持ち出しては買い食いをする。その揚句、農村へ追いやられる話まで起って、これが大打撃となった。農村の労働と、そして粗食を、彼は知ってた筈だ。それからまだ、新聞記者が探り出さない事柄もあったに違いない。伯父夫婦も私生活については余り語りたがらなかったろう。とにかく、いろいろな原因が重って少年は死ぬ気になった。
 なにか衝撃を受けて、一時にかっと逆せ上り、やけくそに自殺する、そんなんじゃない。病人が次第に衰弱してゆくように、気力がじわじわ衰えて、いつしか死ぬ気になった。これが重大な点だ。立ち枯れする樹木と同じだ。こんな奴は、自殺しなくとも、どうせ死ぬ。
 あの一本松の沼のほとりに、彼は子供たちに交って、魚釣りなどにも出かけたに違いない。子鮒とか泥鰌とか、ろくなものはいないだろうが、大食いの懶け者には、手頃な時間つぶしだ。そして松の枝ぶりなどを眺めた。その枝ぶりが、愚かな頭の中に残っていて、首を縊ってぶら下るのに恰好だなどと、ぼんやり考えたのだろう。そして夜遅く、寝間着紐なんか懐に入れて、ふらりと出かけたんだ。自殺の決心とか覚悟とか、そんな気の利いたものがあるものか。遺書とかいうものも、きっといい加減なものだろう……。
 聞いていて、おばさんは、こんどは頬笑んだ。
「島野さん、まるで、小説家みたいね。」
 だが、そこに居合せた中年の止宿人は、不快そうな面持ちで、口を出した。
「然し、問題は、そんなことではなく、自殺か他殺かという点にあるんでしょう。」
 彦一は強い視線を相手に向けた。
「勿論、他殺でしょう。彼は死神にとっ憑かれたように、ぼんやりつっ立ってたんですよ。覚悟したわけでもなく、ただなんとなく死ぬ気でいる。いや、もう死んでたと言ってもいい。はっきりした自意識もなく、ただ、死ぬ気持ち……死気とでも言ったらいいでしょうか、その、死気に包まれて、暗がりにつっ立っていたんです。これは、不気味だとばかりは言えますまい。そんな奴に出合ったら、誰だって張り倒してやりたくなるに違いない。僕だってそうしますね。」
「それにしても、石で頭を打ち割るなんて、どういうもんですかね。」
「それは、時のはずみでしょう。」
「いくら時のはずみにしても、少し残酷すぎはしませんか。前から怨みでも含んでおればとにかく……。あなたの説によれば、犯人はただ通りがかりの者にすぎないことになりますね。」
「そうです。」
「すると、あの少年は、張り倒されたとたんに、自分から頭を石にぶっつけたとも見られますね。それも、倒れるはずみにですよ。そうすると、他殺とは言えませんね。」
「いや、僕は他殺説を執ります。」
 彦一は言い切って、不快そうに口を噤んでしまった。

 新聞の報道はだいたい二回きりで、途切れた。詳報も結論もなく、潮が引いたような工合で、空白な浜地だけが残った。その浜地に、彦一は身を曝してる感じがした。
 潮が引けば、貝は口を閉じる。彦一も口を閉じて、一本松事件に触れることを避けた。
 不用意に、ずいぶん危険な行動をしてきたものである。アパートに来るいろんな新聞をあさり読むばかりか、際どいことまで公言してしまった。単に好奇心からの推理だけだとは言えないものがあった。彼の表情を注視する者があったら、何等かの疑念を懐かないとは限らなかった。
 捜査の手は伸びてるに違いなかった。少年の身元も詳しく洗われたことだろう。死体は解剖に附されたろう。そしてあの石には、彦一の指紋が残ってた筈だ。何か些細な遺留品でもありはしなかったろうか。あの時のことを瞥見した人目はなかったであろうか。
 あの夜、彦一はしたたか酔っていた。その上にまた飲んだ。酔ってるのは珍らしくないとしても、あの夜は少しひどすぎた。そして深夜の帰宅。どこをどう歩き廻ったのか、自分でもよく覚えていなかった。アリバイは困難だろう。
 然し、彦一自身は、冷静に反省してみても、あのことに対してさほど自責の念を覚えてるわけではなかった。
 あれは、殺人ではない、と彼は感じた。また、彼は自殺幇助を罪悪だとは認めなかったが、あれは自殺幇助でさえもない、と彼は感じた。それならば、あれはいったい何だったのか。忌わしいものに対する嫌悪、憎悪、それだけではなかったか。そして、そういう感情も、それに伴う半無意識な行動も、人間に許されてる正当な権利ではないか。
 そうしたことのために、逮捕され、そして投獄されるのは、実にばかげてる。用心しなければいけないぞ、と彼は自分に言いきかした。
 刑務所生活というものは、先ず何よりも、自由の拘束として彼の眼に映じた。贖罪とか悔悛とか、そのようなものではなく、ただ具体的に自由の拘束なのだ。なんとしても忌避すべきだ、と彼は思った。
 ところが、他方、彼はひどく当惑した。口を噤めば噤むほど、あのことを公言してみたい欲望が起ってきた。自分一人だけが知ってることだ。自分一人だけが感じたことだ。それをなぜ言ってはいけないのか。誰にも告げずに、胸中に秘めて、永久に密閉しておかなければならないのか。ミダス王の理髪師の悩みを、彼は思った。口外出来ないということも、それ自体、具体的に自由の拘束なのだ。
 右にも左にも、自由はなかった。眼隠しをして、真直に歩くより外はなかった。そしてあの一本松のあたりが却って、何の気兼ねもない気安いものに思われた。
 はじめのうち、彼はその道を通るのは避けた。然しそこは、彼のアパートから国鉄電車の駅に出る近道だった。わざと迂回するのは、もし彼に目をつけてる者があるとすれば、疑念を招く種になるだろう。また、そこでこそ、彼は天に向って、地に向って、真実のことを囁き得るのである。
 そこに、あの石が転がっていたのだ。石に血痕が附着していたというのは、たぶん本当のことだろう。更に一層本当のことは、石には彼の手証が印せられていた筈だ。
 松の古木は、横へ低く枝をひろげている。葦の茂みは、風にそよいでいる。路面には草が生えて、雨水の流れ跡も見える。あたりは菜園や雑草地で、人家はだいぶ距たり、その彼方に、工場の煙筒が黒い煙を吐いている。
 夢のようだった。だが、呪縛された夢の感じだった。彦一は肩をそびやかし、意識的に歩調をゆるめた。
 おい、ほんとに此処だったのか。
 何かに呼びかける気持ちで、そして見廻すと、胸がむかついてくる。
 夜分は殊にいけなかった。そこを通りかかる前に、彼は焼酎をあおっていた。
 何かの影が、そのへんに立ち罩めてるのである。あの少年の影、というわけではない。あの血の飛沫、というわけでもない。そのようなことを思うほど神経質では、彦一はなかった。事実はそれ自体で完結する、と彼は信じていた。それでも、何かの影のようなものがそこにあって、自然に彼は、肩をそびやかして見廻すのである。反撥の気が眼にこもって、憎悪の念が湧いてくる。
 死神にとっ憑かれたような、あのしょんぼりした姿が、何よりも忌わしいのだった。そしてあれに手をつけたことが、忌わしいのだった。手を洗え。手を洗え。血を流したからではない。
 彼はますますアルコールにしたしむようになった。朝から飲むこともあった。

 そこの、丈高い雑草を押し分けて、しきりに棒で突っついてる男がいた。青いジャケツ、カーキ色の汚れたズボン、なんだか浮浪者めいた姿である。
 彼は背を伸ばし、五十年配の陽やけした顔を挙げ、彦一の方をじろりと見て、軽く会釈をした。田中さんだ。
 狂人、というほどではないが、頭がだいぶおかしいとの評判だった。
 アパート附近の家並の出外れに、荒地があって、その片隅が、塵芥捨場のようになっていた。あちこちからそこへ、塵芥を捨てに来る。塵芥の中には、紙屑や落葉がたくさん交っている。すると、田中さんがやって来て、それに火をつけた。たいてい午後から夕方へかけてだ。塵芥交りの紙屑や落葉は、容易に燃えきらず、いつまでもくすぶっている。田中さんはそれを掻き廻して、丹念に燃やそうとする。そして夕方、薄暗くなると、ふらりと立ち去ってゆく。火はくすぶり続ける。風のある夜など、不用心きわまる。人家に飛び火して大事にならないとも限らない。
 そういうこと、田中さんは一向に平気だ。一日おきぐらいに、必ず火をつける。近所の人々は、不安な眼で眺めながらも半ば気が狂ってる人だというので、注意を促がす者もない。
 或る時、彦一は酒に酔っていた気紛れに、田中さんが火を燃やしてるのを見て、側へ行って一緒に燃やした。二人とも黙っていたが、時々、顔を見合して頬笑んだ。別れる時、互いに軽く会釈をした。
 それから、二人は道で出逢うと、会釈し合うようになった。なんとなく親しみが出来てきたのである。
 一本松の近くの雑草の中の田中さんは、ひどく淋しそうに見えた。彦一は立ち止って声をかけた。
「何をなすってるんですか。」
 田中さんは無表情な顔で答えた。
「探してるんです。」
 彦一も草の中にはいっていった。
「落し物ですか。」
 田中さんは棒で地面を突っついた。
「この辺にある筈だが……。」
 そしてなおあちこち突っついて、呟いた。
「分らん。」
 諦めたように、草の中にしゃがんで、尻を落ちつけてしまった。
 彦一もそこに屈みこんだ。雑草は丈高く、薄荷の匂いがして、世間から遮断された感じで、空が青く高い。
 田中さんは彦一の方へ眼を向けず、誰に言うのか分らない調子で言った。
「たいへん立派な、石の燈籠が、この辺にあって、地面に埋ってる筈です。その恰好といい、苔のつき工合といい、なかなか、ほかでは見られません。」
「地面に埋ってるんですか。」
「誰も盗んでいった者はない。私だけが知ってることです。」
「それじゃあ[#「それじゃあ」は底本では「それじやあ」]、空襲前には、あなたはここに住んでたんですか。」
「住んではいなかったが、私だけが知ってることで、誰にも分りゃしません。」
 それきり、話が途切れた。田中さんは煙草を取り出し、彦一にも一本すすめた。
 その煙草を、半分ばかり吸ってるうちに、彦一は突然、吐き出すように言い出した。
「あの一本松の、葦の茂みの中に、中華ソバ屋の小僧が、殺されていましたね。」
 草の中からは、松だけしか見えなかった。
「石で頭を打ち割られていましたね。」
 田中さんはただ頷いてみせた。
「誰があんなことをしたか、御存じですか。いや、あなたに分る筈はない。警察にも分ってはいない。だが、私は知ってるんですよ。私だけが知ってるんです。なぜなら、私がしたんですから。」
「ほう、あなたがね。」
 無関心らしい返事だった。
 彦一は腹が立った。田中さんの顔を、殴りつけるように見つめた。
「あすこに、あの小僧が立っていたんです。死神にとっ憑かれて、ぶら下ったみたいにふらりと立って、もう半分死んでいたんです。だから、私は、そいつを張り倒して、頭を石でぶち割ってやったんです。どう思いますか。」
「そりゃあ素敵だ。」
「え、素敵だというのは……。」
「とにかく、素敵だ。」
 言葉の調子には何の感動もなく、田中さんは淡々と独り頷いてるだけだった。
「ばかにしてはいけません。私がしたんですよ。」
「素敵だ。」
 彦一の方へは眼も向けず、一本松の方も振り向かず、草の茂みごしに遠くをぼんやり眺めている。事柄を理解していないのではないかとも疑えるし、前から知っていたのではないかとも疑えた。
 然し、その時、彦一ははっと気付いたのである。あのことについて、聊かの罪悪をも彼は感じなかったし、今でも感じてはいない。だが、なにか、ものの影がさしてきたのだ。何ものの影であろうか。得体の知れないその影が、あの現場に立ち罩めているし、それが彼の上にまで覆い被さってくるようだった。
 彼は田中さんを見つめながら言った。
「私の言葉を信じて下さらなければいけません。あれはまったく、私がしたことです。私自身が手を下したのです。その証拠には、あの死体が横たわっていた、一本松の葦の茂みのほとりに、何ものとも知れない暗い影を私は感ずるし、それが私の上にまで被さってくる。こんなことは、当の本人でなければ分るものではない。ね、そうでしょう。勿論私は、罪悪を感じたり、自責の念を覚えたりはしません。彼奴が悪いのだ。」
「そうだ、先方が悪い。」
「然し、なにか影がさしてくる……。」
「そんなもの、焼き捨てればいい。」
「焼き捨てる……。」
 彦一は夢からさめたかのように、ふと苦笑を浮べた。
「紙屑みたいにはいきませんよ。」
「いや、紙屑だって容易じゃない。」
「だから、どうなんです。」
「焼き捨てるのさ。」
 彦一はまた腹が立ってきた。いい加減、狂人のなぶり者になってるような感じだ。
 彼は黙って立ち上り、挨拶もせずに歩き去った。田中さんは草の中にしゃがみこんだまま、空を仰ぎ見ていた。

 翌日の払暁、一本松の葦のほとりに火の手があがった。もとより、その辺に人家はないから火災ではない。然し火先や煙の勢が大きく、ただの焚火とも見えないので、近くの人々が行ってみると、田中さんが葦の茂みを焼いているのだった。木炭の空俵や、藁束や、新聞紙などを、夥しく積み上げて、それに火をつけ、その火種をあちこちに投げ散らして、葦を焼いてるのだ。葦はまだ霜枯れておらず、容易に燃えないのを、田中さんは懸命に燃やそうとしている。
 集まってきた人々は驚いて、田中さんを制止しようとしたが、なかなか言うことをきかなかった。衆人を全く無視した態度で、そして凄い形相で、黙々として火を燃やし続けてるのである。
 その朝、彦一は珍らしく早く眼を覚した。彼の職業は保険会社の外交員で、時には小さな劇場の演出を手伝い、また稀に詩を書いていた。詩作は一文にもならず、芝居の方からは僅少な不時の収入があり、生活は主として外交員の仕事で立てていたが、彼にとっての重要さは、全くその逆だった。保険会社の外交員ほど下らない職業はないと思って、その職業を選んだのである。随って、仕事に勤勉でも忠実でもなかった。朝は遅くまで寝ていた。
 ところがその朝、なにか気にかかる心地がしたし、室外の空気にざわめきが感ぜられたので、寝床の中に落着けず、起き上ってみた。そして田中さんの一件を知った。
 彼は服装をととのえるとすぐ、一本松のところへ駆けつけた。
 田中さんは衆人にかこまれながら、燃え上る炭俵を見つめていた。一人の警官が、その手を押えていた。
 田中さんは大きな声で叫んだ。
「ここで、何事が起ったか、私は知ってる。」
 ちょっと息をついた。
「亡霊の影が出ることも、私は知ってる。」
 またちょっと息をついた。
「葦なんか茂らしておくからだ。」
 警官をちらと見た。
「警察の怠慢だ。だから私が、葦を焼き捨ててやるのだ。」
 彼はあたりをぐるりと見廻した。そして彦一の顔に眼をとめた。
「うむ、丁度よく来たな。あとは君が焼くんだ。」
 そして彼は安心したのか、もうけろりとした表情で、警官から導かれるまま、近くの警察派出所へおとなしくついて行った。
 数名の人々が後に続き、彦一も一番後からついて行った。
 派出所の中で、彼は前と同じようなことを数言怒鳴った。それきりで、もう口を利かなかった。彦一の方は見向きもしなかった。
 彼の身内の者らしい若い男と、町内の有力者らしい老人とが、警官にしきりと何やら釈明していた。一通りの調書を取られて、彼はその二人に守られ、先に立ってすたすた歩み去った。
 別に危険な狂人というわけではなかったのだ。家庭も裕福な方で、彼は謂わば隠居の身の上だった。
 事はそれで済んだ。葦の茂みのそばの燃やし火も直ちに消し止められていた。
 然し、田中さんは拘禁されてるわけではなく、葦はまだ茂っており、いつどういうことが起るか分らなかった。不安な空気が漂っていた。それで、警官や有力者の肝入りで、葦の茂みのある土地の所有者と談合の上、葦はすっかり刈り取られることになった。
 松の古木一本だけで、その下の方に、浅い泥沼が広がり、さっぱりした土地になった。
 少年の怪死事件は、いろんな謎を秘めて、未解決のまま残された。
 おれはまだ自由を欲する、と彦一は胸中で叫んだ。そして間もなく、遠くへ移転して行った。
 ――彦一については、まだ後日物語がある。田中さんについても、後日物語がある。然し、二人が別れ別れになってしまった以上、この物語も一応ここで終止符を打つべきであろう。





底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1-13-25]・戯曲)」未来社
   1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「心」
   1952(昭和27)年1月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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