碑文

――近代伝説――

豊島与志雄




 ある河のほとりに、崔という豪家がありました。古い大きな家ですが、当主の崔之庚が他から買い取って住んでいるのでした。
 崔之庚は六十歳ばかりの矍鑠たる老人で、一代で富をなしたのだといわれています。大地主で、農産物の売買などもしていますが、大体閑散な生活を送っていて、時々旅に出ることがありました。他の土地に第二第三の夫人たちがいるとの噂もありました。また、済南の紅卍字教の母院と青島の后天宮によくお詣りをするとの噂もありました。
 崔之庚が自慢にしているものが二つありました。
 一つは、高さ二尺ばかりの円い壺で、年代のほども分らない古ぼけたものでした。ただ古いというだけで、美術品としての価値はありませんが、崔之庚はそれを飾り床の上に据えて、大切にしていました。――昔彼が青島の一漁夫にすぎなかった頃、沖で魚網を投ずると、魚は一尾もはいらず、重い壺が一つかかってきた。天から授ったその壺の中には、金銀が一杯はいっていたという。そういう因縁が、親密な者には彼自身の口から語られる、その壺だったのであります。
 もう一つは、夫人の崔範でありました。三日月型のやさしい眉、澄みきった瞳を宙に浮かした切れの長い眼、細い鼻、小さな口、頬の皮膚が薄く透いて蒼ざめていました。背丈は五尺に足りない細そりした身体でした。崔之庚は家庭の宴席で酒の興に乗ると、この夫人を椅子に坐らしたまま軽々と持ち上げて、客たちの間を運び廻り、最後に奥の室へ連れて行くのでした。夫人はにこにこ笑っていました。彼女は三十五ほどの年配で、崔之庚とは年齢の差が大きすぎました。彼女がまだ極めて年若な頃、崔之庚は彼女を娶る時、彼女の家から老酒の一甕を貰っただけで、彼女に対して、黄絹七反、柴絹七反、毛皮三枚、五個五色の宝石、それに若干の黄金を贈物にしたということであります。「それが私の全財産の半分でありましたよ。」と崔之庚は酔余の上機嫌でいったことがありました。
 崔範は身体が弱く、外出することもあまりなく、いつも香りの高い煎薬をのんでいました。僅かな感動にも頬から血の気が去りました。
 初夏の暑い或る日、崔之庚は早くから用達しに出かけていて、崔範と娘の崔冷紅とが午の食卓に向っていました。崔範は朝から気分が悪く、食物にもちょっと箸をつけたきりで、食卓に片肱をつき、掌に頬をもたせて、ぼんやり物思いに沈んでいました。
 側には徐和がついていました。四十歳ばかりの逞ましい男で、崔家の一切のことを取締り、多くの男女の召使を指図し、来客のある盛宴には自ら料理の腕も振うという、いわば執事であり召使頭であり料理人でありました。若い頃船員だったことがあり、各地の事情にも通じ、いろいろな知識を持っていましたが、どういうわけか、崔家に仕えて、未だ妻も迎えずに暮していました。頑丈な体躯とひどく慇懃鄭重な物腰とが、不思議にしっくりと調和してる男でありました。
 徐和は崔範の様子に目をつけながら、全く没表情な顔で丁寧にいいました。
「なにかお気に召すものを、拵えることに致しましょうか。」
 崔範はちらと笑みを見せて、答えました。
「いいえ、これで結構です。ちょっと、気分がわるいものだから……。」
「でも、少し召上らなくてはいけないわ。」と冷紅がいいました。
「御心配なことでもありますの。」
 崔範は静かに頭を振りました。
「御心配なことなどはございません。いえ決して、そのようなことはございません。」
 徐和は強くいいきって、それでも全く表情の分らない顔付で、熱い茶をくんできて差出しました。
 崔範は茶碗を無心にもてあそびながら、ゆっくり茶をすすり、それから扇を取って立上りました。
「少し外へ出てみましょうか。」
「ええ、それがよろしいわ。」と冷紅は答えました。
 少し薄暗い次の室を通りぬけると、広庭へおりる石段がありました。そこの扉を開いて、徐和が頭をさげて佇んだ時、冷紅は声を立てて駆け出し、崔範は石段の上に竦んでしまいました。
 その時、明るい真昼の中に見えたのは、冷紅にとっては、空低く飛んでる真白な美しい一羽の鳥でした。けれど崔範の眼には、それが真黒な鳥と見え、その暗い影がたちまち眼界を蔽い、頭のしんまでおしかぶさってきました。彼女は瞼をふさぐ力もなく、手の扇を半ば開いて持ち上げかけて取落し、自分も棒のように倒れかけました。
 瞬間に、徐和が彼女を支えました。彼女の全身の重みが託されてくるのを徐和は両腕にしかと抱きとめ、しばしその顔を眺めていましたが、俄に身震いをして、彼女を軽々と胸に抱きあげ、彼女の私室へ駆けてゆき、その寝床に彼女を横たえ、それから室の外に向って、大声に人を呼びました。
 冷紅がやって来、大勢の召使たちがとんで来ました。
 崔範は意識を失ったまま、ただ細い呼吸を続けていました。

 月光の美しい晩のことでありました。広庭の小亭で、二十五歳ばかりの青年がただ一人、ウイスキーを飲んでいました。白皙な顔容に長髪、クリーム色の背広服に革の白靴、崔家ではちょっと異様な身装でした。崔範の甥に当る者で、曹新といって、幼い時から崔家に引取られ、外国へ行って社会学を修め、帰国後もなお北京にいて勉強を続けていましたが、崔範の病気に慌ててかけつけて来たのであります。
 彼は何か物憂げな様子で、ウイスキーのグラスを幾杯も空けていました。
 そこへ、殆んど足音も立てず、古ぼけた目立たない支那服の徐和が、やって来ました。
「何か持って参りましょうか。」
「うん、いいよ。」と曹新はそっけなく答えました。
 徐和はウイスキーの瓶を取上げ、酌をしました。
「北京からお持ちになりましたのですか。」
「そう、万一の用心にね。」
 徐和が黙っているので、曹新はいいそえました。
「危篤な病人のそばでは、こちらに気付薬が必要だからね。」
 徐和は上目使いに曹新の顔を見てそこに腰をおろして尋ねました。
「そして、お医者のことは、如何でございました。」
「だめだ。」と曹新は吐き捨てるようにいいました。「伯父さんはどうしても承知しない。」
「左様でございましょう。私には分っておりました。」
「なに、分っていた………どうしてだい。」
 徐和は黙っていました。
「その訳を聞こうじゃないか。どうしてだい。」
「それでは申しますが、私はあの時、旦那様の厳しいお眼を、二度拝見しました。奥様がお倒れなさる時、両手で抱きとめましたことをお話しますと、旦那様は恐ろしい眼付で私を御覧になりました。それから、御介抱申す時、お足に湯たんぽをあてて差上げお胸に芥子からしをはって差上げたことをお話しますと、旦那様は一層恐ろしい眼付で私を御覧になりました。」
「それが一体、どういうことになるのか。」
「私にはよく分っております。下男の身分で憚りもなく、奥様を抱きかかえたり、お肌に手を触れたりするのは、不埓なことだというのでございます。」
 曹新は立上りました。
「ですから、何処の何者とも知れない他人のお医者に、奥様のお身体を任せるなどということを、御承知になる筈はございません。」
 曹新はつっ立ったまま、徐和の顔をじっと見ましたが、その表情に何物も読み取ることは出来ませんでした。月明りで見る徐和の顔は、まるで木の面でもかぶったようでありました。
「君は本気でそんなことをいってるのか。」と曹新は徐和のそばにつめ寄りました。
「はい、嘘は申しません。」
「それなら、尋ねるが、君はふだん、伯母さんを……好きだったのかい。打明けてくれないか。」
「滅相もないことを仰言います。奥様を御大切には思っておりますが、召使の身分として大それた考えは決して致しません。」
「然し、伯父さんは僕に、医者とか医学とかを信用しないといって、昔風の煎薬と塗薬とだけを頼りにしていられるが、それと、君が今いったことと、どちらが本当だろう。」
「どちらも本当でございましょう。」
「どちらも本当……。」
 曹新は何かにぶつかったように口を噤みましたが、ふと調子を変えました。
「も一つ、杯を持って来てくれないか。」
「はい、何になさいますか。」
「なんでもいいから、持って来てくれ。」
 そして月の光の中を、歩きまわりました。
 やがて徐和が、水瓜の種と落花生とを盛った皿と、グラスを、銀の盆にのせて持って来ますと、曹新は彼を自分の横に坐らせて、ウイスキーをついでやりました。
「いろいろ君に聞きたいこともあるから、まあ、飲みながら話そう。」
 徐和は素直にグラスを受けました。
 曹新は声を低めて、ゆっくりといい出しました。
「君はいろいろ知識もあり、頭もよく、それにもう相当な年配になっていながら、伯父さんのいうことには何一つ逆らわず、こんどの伯母さんのこともそうだし、全く盲従しているようだが、それは一体、どういうわけかね。」
「私は召使の身分でございます。」
「召使はそういうものかね。」
「それにまた、これはいつぞや申したことでございますが、私の親父はもと旦那様と御懇意を願っておりまして、何かとお世話になったこともありますそうで、その親父が亡くなります時に、善悪ともにこちらの旦那様のために尽すように、善悪ともにと、くれぐれもいい遺しました。」
「善悪ともに……。」
「はい、これはもうどうにもならないことでございます。」
 曹新は黙りこんで、ウイスキーの杯を重ねた。そして突然きりだした。
「君は伯父さんのことは万事知っているだろうが、隠さずにいってくれないか。一体、伯父さんの今の財産は、どうして出来たんだね。」
「自然に出来たのでございましょう。」
「自然に……。それなら伯父さんが自慢にしていられるあの壺、金銀が一杯はいっていたとかいう壺は、あれは本当に海から出たのかね。」
「それは私は存じません。けれど、あなた様はどうお考えでございますか。」
「分らないから聞くんだよ。」
「私はもと船乗りをしておりまして、海のことはよく知っておりますが、あの壺が長く海につかっていたものでしたなら、貝殻がついたり藻が生えたりしまして、なかなか容易に落ちるものではなく、むりに落せばいろいろ傷がつきます。あの壺にはそういう傷はないようでございます。」
「うむ分った。……それから、伯父さんは時々旅に出られるが、別に商売の用でもなさそうだし、いつも曖昧らしいが、大体どの方面におもに行かれるのかね。」
「私もよく存じませんがあなた様はどうお考えでございますか。」
「分らないから聞くんじゃないか。」
「奥様やお嬢様へのおみやげ物は、大抵、上海あたりの品物のようでございます。」
「ああそうか。……それから、家に時々、穀物類の商人とかがやって来て、奥の室で人を遠ざけて、伯父さんと長い間話しこんでゆくことがあるそうだが、それは本当の商人かね。」
「私には分りませんが、あなた様はどうお考えでございますか。」
「またか。分らないから聞いてるんだよ。」
「普通の商人でありましたなら、それほど長い時間、秘密に話しこむこともございますまい。」
「そうか。……それにしても、伯父さんはよく、済南の紅卍字教の母院や青島の后天宮に、詣られるそうだが、本当かね。」
「本当でございましょう。紅卍字会には相当な寄附金をなすっておいでになります。また、青島の后天宮は、何を祭ってありますところか御存じでございますか。」
「知らないね。」
「あれは、舟神と財神とを祭ってあるところでございます。けれど旦那様はもう、船の方には関係はございません。」
「すると財神だが………まだ財産を殖したいのかな。」
「財産はいかほどあっても足りない場合がございましょう。」
「どんな場合かね。」
「私にはよく分りませんけれど、財産はほかのものと直接につながることが多いようでございます。」
「何とだね。」
「まあ例えて申せば、政治とか権力とか、そのほかのものでございましょう。」
 そこで、会話は途切れてしまいました。曹新はしきりにウイスキーを飲み、徐和にも勧め、徐和ももう遠慮なく受けました。
 長く沈黙が続いた後で、曹新は足で地面を一蹴りしていいました。
「僕は加担しない。」
 徐和は眼を挙げました。
「それでよく分った。僕が内々気遣ってた通りだ。断っておくが、僕には僕の考え方があるから、まあ放っておいて貰おう。」
 徐和はその太い眉の下から、怪訝そうに曹新を見つめました。
「よく分ったよ。」と曹新はくり返しました。「いつぞや、君は僕によい忠告をしてくれたことがあったね。これまで研究してきた社会学が、国に帰って来てみると、何だか尺度が違ってる感じがして、僕が途方にくれてることを、君に打明けた時、君はこういうことをいったね。社会学とか政治学とか、そういう法則的なものは、こちらにはあてはまらない。そうした抽象的な法則よりも、なぜ物の学問をしないか。雲の学問でもよいし、実際の物の学問をなぜしないか。言葉は違うが、そういう意味のことを君はいった。その後僕もいろいろ考えて、君の意見に或る真理があることを、この支那の土地で悟った。然しその真理は真理としておいて、君があの時いったことは、みな、今日の伏線だったんだね。秩序や法則の破壊が、君達の目指すところだろう。伯父さんも君も同類だ。だが、変に持って廻ったいい方をして僕を引き込もうとするのは、当分やめたがよかろう。僕にも別に信ずるところがあるんだ。」
 徐和は落着きはらって、きっぱりといいました。
「あなた様は、なにか、大変な考え違いをなすっていられます。私はただお尋ねなさいますことに、お答えしただけでございます。」
 狼狽の気も皮肉の気もない、まともな調子でした。
「それなら、君は伯父さんの一味ではないのか。」
「旦那様がどういうことをなすっておられますか、私はよく存じません。」
「では、伯父さんは成功されると思うか、失敗されると思うか。」
「私には全く分りません。」
「それで君はいいのか。」
「私はただ召使で、旦那様のお側に、善悪ともに、おつきしているだけでございます。」
「それだけで本望なのか。」
「親父もそういい遺しました。仕方がございません。」
「なに、仕方がない。」
「仕方がございません。」
 曹新は我を忘れたようにつっ立って、右の拳で徐和の頬を殴りつけました。徐和はじっと頭を垂れました。その逞ましいそして従順な姿を見据えて曹新は自分の頭の髪をかきむしり、鋭く叫びました。
「あっちに行き給え、穢らわしい。」
 徐和は静かに立上って、向うへ歩み去りました。
 曹新は暫く茫然と佇んでいましたが、頭を強く打振り、ウイスキーをたて続けに飲み、まだいくらかはいっているその瓶を地面に叩きつけ、瓶の砕ける音を聞いてから、腰掛の上に仰向けに寝そべりました。

 崔範は病床に横たわったきりで、朦朧とした意識のまま、殆んど食餌を摂らず、十日ばかりで息絶えました。
 その盛大な葬儀は、徐和がおもに指図して、万事手落ちなく済まされました。墓地は家から一キロほどの西方の野に占選され、煉瓦と白堊の小廟が築かれました。
 崔之庚は殆んど客にも逢わず、口も利かず室に籠りがちでした。崔冷紅は墓参りにおもな時間を費しました。曹新は散歩ばかりしました。徐和は鄭重な物腰で家事を取締りました。そして一家の空気が、中心のない寂寥なものになりかけました。
 その時、葬儀がすんでから半月ばかりたった頃ですが、崔之庚はふいにいい出しました。
「庭の池に水をいれて、金魚を泳がしてみたいと、故人がいっていた。面白い思いつきだ。それを果してみよう。故人生前の希望だから、なるべく家人だけの手でやりたい。日数はどれだけかかってもよろしい。」
 広庭には粗らな木の植込の中に、※(「敖/耳」、第4水準2-85-13)牙な太湖石がさまざまに積み重ねられていまして、奇体な雲形を至る所に現出し、或は仙人を、或は昇竜を、或は怪獣を、彷彿せしむるものがありました。そして彼方に小亭があり、笹の茂みが背景となっていました。
 その太湖石の重畳の間に、深さ三四尺の空地が延びていて、熊笹や雑草が周縁に生えていました。この池を掘り拡げ、掘り深め、底をセメントで固めて水を張り、赤や緋の魚を放とうというのであります。
 日数の制眼はなく、下男達は隙にあかして仕事にかかりました。崔之庚は時々出て来て指図し、池の形状について曹新にも意見を求めました。徐和も熱心に仕事を手伝い、自ら鍬を執ることもありました。
 曹新は何気なく池の中におりて行き、鍬を手にしている徐和とばったり出逢った時、その前に立止って、探るような視線をなげかけました。
「伯母さんは、実際、このようなことを望まれたことがあるのかね。」
「よくは存じませんけれど、お望みになられた筈でございます。」
「なに、望まれた筈だと………。」
「左様に存じます。」
 汗かいたその浅黒い顔には、言葉以外に何物も浮んではいませんでした。曹新が黙っていますと、彼は呟くようにいいました。
「私は早く仕上がるようにと思いまして、出来るだけ手伝っております。」
「早い方がよいのかね。」
「はい、こんどのことに限って、旦那様はお気が長うございます。それもまあ、仕方がございません。」
 へんに底まで見通しているようで、しかもそれを顔に現わさない様子と、仕方がないという最後の言葉とに出逢って、曹新はちらと眉をしかめ、そのまま歩き去ってしまいました。そして池から出るとほーっと大きく息をしました。
 その翌日の夕方のことでした。徐和が一人で池の底にいて、深さや縁取りの工合を見調べ、腕を拱いて考えていました時、突然、頭の上から、巨大な太湖石が崩れ落ち、彼は声を立てるまもなく岩角に頭と背とを砕かれました。
 物音に、下男がやって来まして、太湖石が二三崩れ落ちてるのを見て取り、その下に、徐和が血にまみれて横たわってるのを見出しました。彼は死の叫び声を立てました。大勢かけつけました。多くの叫び声が起りました。
 崔之庚は徐和の悲惨な死体を見て、激しい憤怒の色を現わしました。然し、物に動じない言葉の調子でした。
「死体は鄭重に扱うがよい。」
 それから、急に声を震わしました。
「その太湖石は血に汚れたものだ。河に運んで沈めて来い。池のことはもう中止だ。前よりも浅く埋めてしまえ。」
 どうしてその惨事が起ったかを取調べようともしませんでしたことを、誰も気付く者がありませんでした。
 命ぜられた通りに行われました。召使達は徐和の死体をその生前の室に運び、泥を拭き清め、血を拭き清めました。
 そして薄暗くなりかけた頃、大きな太湖石は数人の者に運ばれて、曹新もその供をし、遙か下手の方で、河の中に投ぜられました。夕闇の中で、石は水面にちょっと浮いて止ったように見えましたが、すぐにすーっと沈んで、泡がたち、泡のあとに、真黒な渦が巻いて流れました。
 一同は、無言のまま、後をも見ずに家へ帰りました。
 徐和の葬儀は簡略に行われました。崔範の小廟から少し離れたところに、小さな石をのせた土饅頭が一つふえました。
 数日後、崔之庚は済南へ出かけました。紅卍字教母院の道院にこもって、二十一日間の祈念修道をして来るのだといい置きました。

 早朝のことでありました。曹新と崔冷紅とは、崔範の墓参から戻って来て、人目につかない裏庭の片隅に坐っていました。大きな槐の木影で側の夾竹桃の茂みには、薄紅い花がまだ幾つか散り残っていました。
 曹新は洋服のハイカラな身装で細いステッキを手にしていました。崔冷紅は黒い薄絹の服をまとい、十七歳のすらりとした姿で、小麦色の頬にかすかな紅を呈し、母親譲りの長い眼をしばたたいていました。
「なにか御用なの。」と彼女はいって、眩しそうな眼付をしました。
「うん、いよいよ決心をしたよ。」と曹新は答えました。
 崔冷紅は黙っていました。
「僕は今日出立するつもりだ。」
「お父さまが帰られてからになすっては……。」
「いつのことか分らないし……。」
「でも、二十一日間と仰言ったわ。それに、使の者もお目にかかって来たことだし、やはり、済南の道院にいらっしゃるのだから、二十一日すぎたら帰ってみえるわよ。あともう一週間ばかりでしょう。」
「だけど、僕はなんだか、伯父さんに逢うのが怖いような気がするんだ。」
「どうしてでしょう。」
「君にすっかり話そうかどうしようかと、随分迷ったけれど、やはり出立前に話しておこうときめたんだ。さっき君は、どんなことにも驚かないといったね。」
「ええ、その通りよ。」
「では打明けるがね、驚いちゃいけないよ。徐和が死んだ時のことだ。僕はなんだかあの池のことが気になり、奇怪な太湖石のこともへんに眼について、あの時、窓からのび上がって、庭の方を覗いていた。すると、誰か、あの太湖石の方へ忍びよってゆく者がある。暫くすると、その男が、両手で太湖石を池の中へ押し倒した。そしてあの椿事だ。あの大きな岩が、セメントで固めてあった筈の岩が、容易くころげ落ちたのも不思議だが、その男が、岩を押し落し、身をかわすが早いか、ぱっと逃げ去った、その素早さには、僕は驚嘆してしまった。その男を、君は誰だと思うかい。」
「お分りになったの。」
「それが、伯父さんじゃないか。」
「まあ、お父様が……そんなことを……。」
 崔冷紅は顔色を変えて、石のように固くなりました。
「だからさ、驚いちゃいけないといったんだよ。」
「だって、どうしてお父様が、そんなことを……。嘘でしょう。」
「本当だよ、この眼で見たんだから。そのわけは僕にもよくは分らない。けれど、いろいろのことから察すると、伯父さんはなにか政治上の危険な秘密な運動に加わっていられるらしい。よく上海方面に旅行されたり、怪しい男たちが商人にばけて来て、奥の室で長い間話しこんでいったりするだろう。昔、青島の海からあがったという壺の中の金銀の話も、どうも嘘らしい。そういうことを徐和が知っていて、ただじっと見ていたらしい。」
「それで、お父様の立場が、危険になったというの。」
「まあそんなこともあるだろう。それから、伯母さんが倒れられた時、徐和が抱きとめたり、いろいろ手当したりしたのをきいて、伯父さんはひどく気を悪くなすったそうだ。」
「どうしてでしょう。」
「どうしてだか、まあ……伯母さんは、伯父さんにとって、ひどく大切なものだったんだね。だから、いくら勧めても、医者にもおかけなさらなかった。結婚の時も黄絹七反、紫絹七反、毛皮三枚、五つの五色の宝石を、お贈りなすったという評判だろう。無理に買い取りなすったようなものだ。」
「いいえ、それは違うわ、違ってよ。お母様は、その残りのものかどうか分らないけれど、黄絹と紫絹と五色の宝石を、たいへん大事にしていらしたのよ。それで、お亡くなりになった時、私一人で、ちょっと棺のそばにいさして貰ったでしょう。あの時、私、その黄絹と紫絹と五色の宝石を、棺の中へ入れてあげたのよ。お母様のお望み通りにしたのよ。」
「え、本当なの。」
 崔冷紅はうなずきました。曹新は考えこみました。そして二人とも暫く黙っていましたが、崔冷紅はふいに涙ぐんで、ハンカチを口にくわえてすすり泣きました。
「どうしたの。」と曹新は尋ねました。
「だって、お兄さんは、つまらないことばかり気にしているんですもの。」
 曹新は言葉につまって、立上ってその辺を歩きだしました。それから戻ってきて、崔冷紅の肩に手をかけて、いいました。
「ねえ、も一度北京に出て、勉強してみる気はないの。」
 崔冷紅は頭を振りました。
「お父様が、とてもお許しにならないわ。」
 それきり、二人は口を噤んでしまいました。時間がたって、槐の木影が次第に移ってゆきました。
 曹新は、決心の眼を宙に据えていいました。
「僕はやはり、今日出立しよう。伯父さんにお逢いしない方がよさそうだ。伯父さんが帰られたら、こう伝えておいておくれよ。考えることがあって居所を隠すかも知れないし、学費ももういらないし、これから特別な勉強をするんだと、ね、分ったろう。その勉強がすむまでは、君とも逢うこともあるまい。ただ、打明けるが、僕は君を愛していた。」
 崔冷紅はハンカチをかみしめて泣きました。曹新は涙をはらい落して、そこを歩き去ってゆきました。

 崔之庚は紅卍字教の道院にありまして、祈念修道の日々を送り、或は道士の導きにより、或は跌坐専念放心の方法によって、得る所が多くありました。そしてその格子窓だけの薄暗い室で、断片的な多くの幻影を見ました。幻影といっても、時には明確な形態のものもあれば、時には浮雲のように定かならぬ想念のものもありましたが、それを綜合して一つの形にまとむれば、大体次のようなものだったのであります。

 広い空間です。明るくもなく、暗くもなく、明暗の度を全く超越した、ただの空間です。その中に、眼が一つあります。
 おかしな眼です。まばたきもせず、ただじっと見開かれてる眼です。おや、目玉だけの眼です。
 目玉だけの眼は、四方八方を見ています。いや見てるのではなく、向いているのです。開いてるのです。四方八方に向いて開いてる眼です。
 その眼は、澄んでるのか、濁ってるのか、全く分りません。そんなことは問題でありません。ただじっと開いてる眼です。
 何を見てるのでしょうか。いや、見てるのではありません。おのずから見えるのです。見通し見抜く鋭い眼ではなく、ただ何でも見える眼です。
 何物でも、何事でも、その眼に映ります。いくら映っても、その眼は一杯になることがありません。底なしの眼です。次々に、あらゆることを見て取ります。見て取って、それをどうしようというのではありません。ただ見て取るだけです。
 だから、なんという豊富さでしょう、なんという知識の堆積でしょう。然し、ただそれだけのことです。それを利用すれば、商売は儲かるでしょう、出世は出来ましょう。然し、それを消化して血肉にまで生かことは、出来ないのです。それは石ころを寄せ集めたようなものです。
 そのような眼です。それが一つ処にいつまでもじっとしています。
 重いのでしょうか、死んでるのでしょうか。死んではいません。重いのでしょう。重そうです。なんだかずっしりと重そうです。風が吹いても揺がないでしょう。
 動くことが嫌いなのです。動こうという気持さえ失ってるのです。だから重いのです。そしていつまでも一つ処にじっとしているのです。
 その眼が、広い空間に……。いや、地面があるようです。明暗定かでない空間の下に、茫とした地面が、大地があります。何処まで続いてるか分らない、はてしもない大地です。
 眼は大地の上に据っているのです。そして動こうともせず、揺ごうともせず、自身の重さで、いつも一つ処にじっとしています。
 おかしなまた癪にさわるような眼です。大きな石で地面の中に叩き込んでやりたいような眼です。四方八方に見開かれてる目玉だけの眼です。
 転がることさえ出来ないのでしょうか。そう、地面の上にどっしり居坐っています。下の方は少し地面にめり込んでいます。自身の重さでめり込んでいます。
 動こうとしないから重いのです。重いから動かないのではありません。長い間にはだんだん地面にめり込んでゆくでしょう。今も少しずつめり込んでいます。
 地面が柔いのでしょうか、眼がよほど重いのでしょうか。眼は次第にめり込んでゆきます。もう半分ばかりになっています。更に沈んでゆきます。
 遂に眼は地面に没しました。明暗定かならぬ空間と大地です。
 ……その眼を、崔之庚は徐和のなかに見出しました、また自分のうちにも見出しました。

 五年後の春さきのことでした。風もなく随って紅塵もないうららかな日、曹新が崔家へ戻って来ました。
 崔家はよほど様子が変っていました。崔之庚はこれまで、貧しい姻戚の人々は殆んど寄せつけませんでしたから、家族の者とては前記の通り数名で、ただ男女の召使ばかり大勢いました。ところが、道院から戻って来ると彼は、親戚間の往き来を初め、貧しい人たちには彼の家へ来て住むことを許しました。そして次々に、小さな屋翼が増築され、周囲の土塀も広げられて、今では多人数の一家となっていました。彼等の農耕のためには充分の所有地がありました。そして家族が増すと反対に、崔之庚は次第に孤独な生活に閉じ籠り、遂には殆んど外出することもなくなり、来客にも余り逢わず、読書のうちに蟄居しがちになりました。
 曹新は大勢の者に珍らしげに迎えられました。彼はもう洋服ではなく、ごく平凡な支那服をまとっていました。その代り、沢山の荷物を携えていました。
 その荷物の中から、黄絹七反、紫絹七反、毛皮三枚、五個五色の宝石を、彼は取出して、人前も構わず、予告もなくいきなり、崔冷紅の前に差出しました。
「崔家の慣例に従ったのだ。受けてくれますか。」
 崔冷紅の顔には真赤な血が漲りました。彼女は五年前と同じようにすらりとした体躯でしたが、顔立は母親に似てきて、その頬の皮膚が薄く透いて見えました。
「受けてくれますか。」と曹新はくり返しました。
 崔冷紅は顔を伏せてじっと立っていましたが、ほろりと涙を落すと、とたんに昔の態度そのままに戻って、曹新の側にかけより、その袖をつかんで、誰もいない次の室へ引張ってゆき、彼の胸に身を投げかけて泣きました。
「嬉しいわ、お兄さん。」
「いや、もうお兄さんなんていうんじゃないよ。」
 そこで二人は初めて笑いました。そして奥の室へゆきました。
 崔之庚が待っていました。崔之庚の様子はだいぶ変っていました。小さな頭巾をかぶり、火桶の上にかざした両手を揉み合せながら、小首をかしげて応対する態度は、全く温和な柔かさと円みとを具えていました。ただその眼の光に以前通りの鋭さが残っていました。
 彼は曹新から崔冷紅への贈物のことを聞いて、心から何度もうなずきました。
「お前がまた戻ってくることを、わしははっきり感じていた。」と彼はいいました。「吾々のうちには、どうにも出来ない根深いものがいつも残っているからね。」
「ええそうです。」と曹新はいいました。「ただ、戻って来ましたについて、お許しを願わなければならないことが、二つあります。」
「許すも許さないもない、お前の好きなようにするがよい。だがまあ話してみなさい。」
 曹新は顔を下に向けたままいいました。
「一つは、私はこれから、この土地で医療をやりたいと思います。そのために、五年間医学の勉強をしてきました。どうにか実際の治療もやれます。気をつけて見ますと、この家にだって、眼病にかかってる者がいくらもありますし、近村にはいろいろな病人が多いことでしょう。それを、出来るだけ面倒みてやりたいと思います。それからも一つは、これは私一個人の気持ですが、あの徐和が災難を受けた時、庭の太湖石を河に沈めましたが、あの場所に、ちょっとした碑を建てたいと思っています。徐和のためにではありません。私の生き方のためにです。つきつめたところをいいますと、私個人ではなく、徐和のような存在に対して、吾々はこれから闘ってゆかねばならないという信念が、だんだんはっきりしてきました。」
 曹新は一気にいってしまって、そっと崔之庚の顔色を窺いました。崔之庚はただうなずきながら、やはり温和な柔い態度をしていました。
「ああ、それはよいことだ。」と彼は答えました。「どちらも、お前の気の向くようにするがよかろう。それから、わしについてもまた、なにかの碑を建てたくなるようなことが、近いうちに起るかも知れないよ。」
「それは、どういう意味ですか。」
「お前にも大体分ってると思うが、わしはもうすっかりあらゆる野心を捨てて、こういう生活をしている。徐和とは違った意味での隠遁だな。どうも吾々は、結局のところ、変なところへ突き当ってしまう癖があるらしい。ところが、そのために却って、危険な地位に立つこともあるらしいよ。」
 崔之庚は微笑を浮べて何気なく話していましたが、それが、曹新には大きな不安となって響きました。
「まあ話はいつでもゆっくり出来る。」と崔之庚はふいにいいました。「冷紅がみごとな贈物を貰ったお礼に、早速、老酒の古い甕を開けることにしよう。紹興の本場物だよ。」
 隅の卓子で古い絵本を繰っていた崔冷紅が、顔を挙げて、睨むような笑うような眼付を、崔之庚と曹新との方へ向けました。
 崔之庚は立上りました。いと満足げな温良な様子でした。

 そして、十日ほど後には、河のほとりの野原で、短刀に胸をえぐられて死体となってる崔之庚が見出されたのでありました。
 その河のほとりに、今でも小さな然し頑丈な碑が一つ建っております。何のためのものとも分らない無銘の碑でありますが、もしそれに文字が刻まれたとしたなら、その文字を読み解けば大凡このような物語となるでありましょうか。





底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「文芸春秋」
   1940(昭和15)年12月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月13日作成
2008年1月15日修正
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