山上湖

豊島与志雄




 十月の半ばをちょっと過ぎたばかりで、湖水をかこむ彼方の山々の峯には、仄白く見えるほどに雪が降った。翌日からは南の風で少し温く、空晴れて、宵に大きな月がでた。
「まあ、きれいな月……。外に出てみよう。」
 誘うともなく、誘わぬともなく、言いすてて、私は外套をまとい、スカーフを首に巻きつけた。
「ちょっと待って。これで大丈夫かな。」
 寒くはないかという意味なのだ。シャツの上に湯上りと丹前を重ねただけの平田は、あわてて、ジャケツを着、帯をしめ直し、合のオーバアを肩にひっかけて、私のあとについて来た。
 そんなこと、なんでもないことなのだが、今では、私の気にさわるのだ。月夜の湖畔のそぞろ歩き、それも二度と出来るかどうか分らない私達ゆえ、出かける時に、それにふさわしいしっとりした言葉のやりとりが、感情の照応が、あってもよい筈だった。私の方もわるいけれど、平田の方がなおわるい。外に出てみようと言う私へ、ただ犬のようについて来るだけではないか。第一、身なりが見っともない。私はお風呂の後でも、寝るまでは服装をきちんと整えているのに、平田の方は、この旅館に着いたその日から、湯上りと丹前姿で、あぐらをかいて酒を飲んでいる。落着いていると言えばそれまでだが、思いつめているのとは違うようだ。追手が来たら、のこのこ連れ戻されるだろうし、さあこれからすぐに、と私が言ったら、殆んど無関心に、つまり無意味に、一緒に死んでくれるかも知れない。そんなのは、思いつめてるんじゃない。思いつめてるのだったら、積極的に、私を死へ誘う筈だ。
 いいえ、私はもう一緒には死なない。その代り、月夜の湖畔の散歩には、連れてってあげる。
 停電のあとで電燈がついたような、ぱっと明るい月夜だった。旅館の前は広場で、この山間を走ってるバスの事務所があるが、それはもう閉め切ってあり、旅館は一つだけで他に人家もなく、人の姿は全然見えず、暗い木立の向うに、湖水がきらきら光っていた。
「わりに暖いね。」
 丹前の肩からずり落ちそうなオーバアの、胸の釦を一つ平田はかけている。物を考える人の姿じゃない。
 私はスカーフの中に深々と、頬まで顔を埋めて、ゆるい斜面を湖水の方へ下っていった。道路からそれて、湖岸の砂地に立った。冷々とした空気が湖上から流れてくる。
 平田は煙草を取り出して、私にも一本すすめた。ライターの火が螢の光りほどに淡く見える。その明るさの中で、湖面の漣が白銀色に躍り跳ねている。彼方は茫とかすんで、湖中に突き出てる半島にかかえられて、幾つかの灯がある。湖岸のバス道路を一里ばかり行ったところにある小さな町だ。

 町といっても、この湖水の神社を中心にして、宿屋や店屋が数十軒並んでる部落にすぎない。三日前、私達はそこへ行ってみた。私としては、もしこの湖水が死所となるなら、この湖水の神社というものも見ておきたかったのである。
 神社は普通の、むしろさびれたものだった。ただ、紅葉の季節なので、観光客が雑沓していて、興ざめの感じがした。トラックで乗りつける団体などもあった。――私達は迂濶だったのだ。山上の幽邃な湖水ということだけを当にして、紅葉の季節ということを忘れていた。けれども遊覧の客が多いほど、却って人目につかないかも知れないし、いよいよだめなら、逃げ出すだけのことだと、ひそかに考えもした。
 神社の裏手に、嶮しい登り道がある。岩角や木の根を頼りに、匐うようにして登ってゆく。ずいぶん遠い。木立が深くて見通しは利かない。ふいに、断崖の上に出る。下に何があるのか、覗き見ることも出来ない高い絶壁で、鉄の梯子がさがっている。若い人たちが昇り降りしていた。
 その鉄の梯子から少し離れた横手に、私達は腰を下した。断崖の中途に生えてる大木の梢が、すぐ眼前にある。真下は深い淵らしい。その深淵が更に深々と広がって、濃藍色の湖面となり、漣もないほど静まり返っている。こちらは湖中に突き出た半島で、対岸もやはり半島。半島の山には、針葉樹が多く、闊葉樹は紅葉し、代赭色の岩肌が絶壁の中に散見される。それらが、とろりとした湖面に影を落している。その辺の湖心の深さ、三百五十メートルほどもあり、水の透明度は高く、しかも美しい藍色なのだ。
 私は身をずらして、断崖の縁のところまで出た。
「危いよ。」と平田は言った。私は彼の眼を見返した。彼も私の眼を見たが、すぐに視線をそらした。
 細い灌木の幹を、私は片手で握っていた。身内がぞくぞくして、もし手を離したら墜落するかも知れなかった。だけど、真昼間、すぐ人目につくところで、身投げなどするものか。
「大丈夫よ。今は。」
 こちらを向いた彼の眼へ、私はまた言った。
「一人じゃ、いや。」
「分っている。僕も一人きりになるのはいやだ。危いから、こっちへおいでよ。」
「じゃあ、どうするつもりなの。」
「あとで、ゆっくり相談しよう。」
 なにをまだ相談することがあるのかしら。約束した筈ではなかったか。私がじっと見つめていると、彼は言い直した。
「もっとよく、考えてみよう。」
「生きること? 死ぬこと?」
「どちらだって、同じだよ。分ってるじゃないか。さあ……。」
 差し出された手には縋らないで、私は崖縁から身を退いた。
 そして立ち上った。
「ばかね、あなたは。わたしがここから飛びこむとでも思ったの。」
「思やしないよ。」
「思ったでしょう。」
「そんなこと思わないから、危いと言ったんだよ。」
「では、あやまって落っこったら。」
「ほんとに危い。」
「ほんとに危い。……」と私は繰り返してみた。
「もう行こう。」
 なんという愚かな会話だったろう。私はもう彼をからかうのはやめようと思った。彼はへんに憂欝になったらしい。首垂れて、黙って、坂道を下っていった。

 バスの停留所では、二時間ばかり待たねばならないことが分った。面白いこともないし、湖岸の道をぶらぶら歩くことにした。
 雲が次第に多くなり、そして雲行きはけわしくなった。旅館まで半分ほど来たかと思われる頃、雨が降りだした。木陰によけた。それから歩きだすと、やがてまた雨になった。杉木立にかこまれた稲荷堂に雨宿りした。雨がやんだので、急いで帰りかけると、ちょっと雷鳴がして、こんどは可なりの雨となった。避難の場所が見当らなかった。大木の陰も雨雫で同じことだ。濡れながら行くと、野の中に、屋根だけふいてある四方開け放しの小屋があった。その中に飛びこんだ。木片や藁屑があったから、焚火をした。
 それほど寒くもないのに、平田はへんに震えてるようだった。やたらに木片を火にくべて、ぱっと燃え立つと、嬉しそうに手をこすった。
「ああ、これで助った。」
 雨は強く、その中での小屋の焚火は、悲しくて美しかった。私の心は躍った。平田は私を抱きしめてくれるだろう。熱いキスで息をつまらせてくれるだろう。いつまでも私を離さないだろう。けれどもそんなことは、少しもなかった。彼は煙草を吸うのも忘れて、上衣やズボンをしきりに乾かしてばかりいる。私は焚火の焔を見つめながら、佗びしい思いに沈んでいった。そこから浮び出るようにして、あたりを見廻わすと、雨脚の廉ごしに、つき立った山腹が見える。全山紅葉だが、赤色から黄色にいたる色どりがぼーっとかすんでいる。私の眼もかすんできて、泣きたくなった。
「なにをぼんやりしてるの。服を乾かしてごらん。ほら、こんなに湯気がたってきた。」
 彼の服からはほかほかと湯気がたっていた。けれど、そんなことはどうでもよいのだ。靴の中がじめじめしてるのが、服の濡れたのよりは、私には気になる。靴の中のじめじめよりは、心の湿っぽいのが、一層悲しいのだ。
 心情がぼんやりしてるのは、私よりもむしろ彼の方だったではないか。あの山腹の上の方、あすこの峠を、バスは通ってきた。峠の上で、バスは止って、乗客に下車を許すのである。そこで突然に眼界が開けて、湖水が一望のうちに俯瞰される。四方を取り巻いてる山々の中に、二つの半島を抱いて、湖水は青々と深々と広がっている。対岸は茫とかすんでいるが、近くの山々や半島は、黝ずんだ針葉樹林をちりばめて、眼がさめるほどの鮮かな紅葉である。
 私は身も心も硬直する思いをし、とっさに平田を顧みた。
「ほう。」ただ一言、それも殆んど感情のこもらぬ歎声を発して、平田は前屈みに、あちこち頭を動かして眺めている。私には何とも言ってくれないし、どこかを凝視するのでもなく、呆けたように視線をばらまいているのだ。
 その時から、私が期待していた心の的は、どこか遠くへ消えていった。山上の湖水の清冽な空気が、平田には強すぎたのであろうか。それとも、男とは、四十すぎの分別男とは、そういうものなのであろうか。旅館が遊覧客で混み合っているのもいけなかったかも知れない。然し私達はわりに静かな室に案内された。泊り客が少くひっそりしていたとすれば、どうだというのだろうか。平田はへんに情熱を失っていた。東京から二十時間足らずの汽車の旅に、疲れるほどのこともあるまい。前夜は山の下で、ゆっくり眠ったのである。そして湖畔の旅館では、酔ってうっとりしてる彼を、ああ、恥しくも私の方から揺り起した。彼は俄に年老いたようだ。年老いて愚かにさえなったようだ。あの精気と智慧とはどこへ行ったのであろうか。
 月光はいくら明るくても、少し遠くの物のけじめはなかなかつき難い。湖岸からでは、ここへ下りてくる峠道はどの辺か、見定められないし、雨宿りして焚火をした小屋など、見当もつかない。
「あの小屋は、どのあたりになるかしら。」
「そうだね、遠くない筈なんだが。」
 見えないことは私には分っていた。こんもり茂った木立の彼方、少し引っ込んだところにあるのだ。それを平田はしきりに物色している。
「月の光りでは、紅葉はだめね。」
「そう、色が消えてしまう。」
「赤いのから、黄色いのへかけて、いろいろあるわね。あれ、葉っぱの性質によるのかしら。」
「さあ。植物学者に聞いたら分るかも知れないが……。」
 それきり、私は黙りこんでしまった。もっと気のきいた返事はないものかしら。植物学者……はことにひどい。以前の平田は、こんなとき、詩人らしい楽しい返事をしてくれたものだ。そして私は彼と、どんなつまらないことをどんなに長く話しても倦きなかったのだ。ここに来て、確かに彼はどうかしている。熊の彫り物のせいだろうか。
 あの神社の前の土産物店に、いろいろな品に交って、熊と蟇の木彫があった。平田はそれを長い間眺めていた。そして旅館に帰ってから、増築中の仕事場からであろうか、木目の美しい木片を一つ拾ってきて、ナイフで熊を彫りはじめたのである。
 神社のところまで行っただけで、私は遠くへ外出したくなかった。湖水には、毎日遊覧船が出ていたが、それにも乗りたくなかった。どうせ、何々の岩とか、何々の松とか、何々の浦とか、何々の島とか、そんなものにきまっている。彼方の対岸には、山水や湧水を湛えてる八十平方キロに近いこの広い湖水の水を、ただ一方の口から流出さしてる急湍があるけれど、それも見に行く気がしなかった。普通の溪流とさして変りはないだろう。他には大して見物するところもないようだ。私はただ旅館の近くをぶらついた。平田も、私を一人残して遠くへ行きたがらず、近くをぶらつくだけで、その他の時間は、新聞をかりてきて丹念に読むか、熊の木彫かだ。どうして熊なんか彫る気になったのだろう。外にする仕事がないからだ、と彼は言った。詩を作ることも面倒くさくなったのかしら。毎晩、濁酒を飲んだ。
 彼は詩人なのだ。私立大学の語学教師をし、外国の詩を日本語に飜訳したりしていたが、本当の仕事は詩作にあった筈だ。私は彼の詩の純粋無垢な情緒に心を抉られた。その詩作はどうなったのだろうか。
 そこまで尋ねることは、私には恐ろしかった。私自身、ひそかに手に入れた毒薬を、カバンの底に秘めている。彼もたぶん、毒薬をどこかに秘めてることであろう。私達は互に、そのことをおぼろに感じながら、あらわに打ち明けはしなかった。服毒入水、それが最も気安いと、熱い抱擁のうちに嘗て囁き交わしたことがある。
 けれども、生きるも死ぬるも一緒だと誓い合っただけで、死をはっきり覚悟してるわけではなかった。外部の事情だけが切迫していた。私と平田とのことを感ずいた私の夫は、他の女に二人も子供を産ませ、戸籍には私との間に出来たものだと届けておきながら、私の恋愛を厳しく訊問した。私は潔白だと言い張った。夫は更に激怒して、もし潔白でなかった場合には、誰彼の用捨なく相手を殺してやると威嚇した。男の面子とやらいうものであろうか。ほんとに殺しかねない夫の性格を私は知っている。平田の方にも妻子がある。その妻は彼の恩師の娘なのだ。事が表立てば、彼は学校をも世間体をもしくじるだろう。而も既に、私達の仲は知人間に噂が高い。その上、私も彼も無理な金策をしており、その点でも破綻しそうになっている。私の夫が旅行に出たのを幸に、私と平田はこの湖畔に逃亡してきた。前後の見境いはなかった。
 こうした場合、彼に命がけの詩作を求めるのは無理であろうか。然したとい詩は出来なくとも、心は、精神は、詩の中にあってほしかった。それが、熊の木彫での時間つぶしとは、どうしたことであろう。

 砂地に横たわってる大きな朽木に、私は腰を下して、両手に額をもたせた。掌も額も冷たい感じだ。ひたひたと、足先の岸べにかすかな水音がする。平田はそこいらを歩き廻っていた。近くに来て、ふいに私の名を呼んだ。
「美津子さん。」
 私はじっとしていた。
「美津子さん。僕は人生がつまらなくなった。何もかもばかばかしく思われる。どうしていいか分らないんだ。ねえ、お願いだから、こうしろとか、ああしろとか、何とか言ってくれない。どんな些細なことだって、大きなことだっていい。君の言う通りにする。」
 私は顔を挙げた。彼は月の光りを斜め後ろから受けて、影法師がつっ立ってるようにも見える。
 私は言葉を出しかけてやめた。彼の名を、平田さんではなく、良彦さんと、ただ呼んでみたかったのだ。そして泣きたかった。けれど、なにか冷りとするものに心が鎖された。私は孤独なのだ。
 彼はまったく、私の言う通りになるだろう。私が黙って歩きだせば、私のあとについて来るだろう。湖水の中にすっとはいってゆけば、深い底までもついて来るだろう。そう私は感じた。そしてそのことが、月光の中で、私を孤独にした。
 私は立ち上って歩きだした。彼はすぐ後ろについて来た。
 掛け網が幾つも並んで、木に渡して干してある。そのわきに、高い木梯子が、櫓のように立っている。添木でとめて地面に定着さしてある。魚見の櫓だ。ここは姫鱒の人工養殖所で、孵化した稚魚を湖水に放流すれば、育った親鱒は三年後に、その回帰性によって、放流された場所へ産卵に戻ってくる。群れをなして戻ってくる。その魚群の到来を見極める魚見の櫓だ。
 その梯子へ、平田はこないだ、数段だけよじ登ったことがある。何も見えないと、すぐに降りてきた。
 梯子は夜空に白々とつっ立っている。
 私は立ち止り、じだんだふむような気持ちで言った。
「あれに登ってみて下さらない。いちばん上までよ。」
 彼は怪訝そうに私の顔を見た。
「自分で登りたいんだけど、危なっかしいから、代りに登ってみてよ。」
「そんなこと、何の役にもたちゃあしない。」
「ためすのよ。自分の勇気をためすのよ。あなたの勇気をためすのよ。」
「勇気なんかいりゃあしないが……。」
 彼はちょっと考えたが、肩にかけてるオーバアをぬごうとした。
「もういいの、いいのよ。」私はあわててとめた。
 梯子のそばをぬけて、道路に出た。
 道路の片側に、小さな溝があり、養魚池から来る水がちょろちょろ流れている。この僅かな水流にまで、鱒はさか上ってくることがある。湖水にそそぐ土管をくぐり、瀬を跳ねあがり、窪み窪みを辿って、浅いところは背中を半ば出して砂上を匐うように泳ぎ、産卵のためにさか上ってくる。そういう一匹を私は見つけた。それは本能からであろう。無我夢中でもあろう。然しなんという勇敢な積極的なことか。それは恋愛をする女性の姿だ。
 私はもう、恋愛をしていないのであろうか。
 男性はどうなのか。平田はどうなのか。
「鱒を見にいきましょう。月の光りで見たら、どんなかしら。」

 道路から少し上ったところに、コンクリート造りの池が幾つも並んでいる。春夏は鯉や鮒が飼ってあるそうだが、秋には姫鱒がいっぱいはいっている。産卵に戻って来るのを、地引網で捕えて、雌雄よりわけて放ってあるのだ。上方から順次に山水が流れ落ちている、その水流に逆らって、群れ静まっているが、些細な物音や物影にも、ぱっと乱れ散って渦を巻く。
 私達は足音を忍ばして近づいたが、池のそばに植えてある桜の立木に月光が遮られて、よくは見えない。眼が馴れてくると、池の中には黒いものが縦横に動乱しているのが分った。やはり足音か人影かに驚いたのであろう。三年以上の親鱒は、肌や鰭に赤みを帯びているのだが、木立をもれる斑らな月光では、ただ黒々と見える。しばらく静かに拝んでいると、魚も寄り集まって静かになる。少しでも身動きすれば、ぱっと散る。なんという敏感なことか。
 私達は順々に池を見ていった。
「昼間と同じだね。」
 私が黙っていると、平田はまた言った。
「どの池も同じだね。」
 いいえ、違う。私はそのことを知っているのだ。昼間とは色も感じも違う。それはともかく、池の形はみな同じでも、中のものはたいへんな違いだ。私はそれに突き当って、もう魚の姿は求めずに、ただ水面に視線を据えた。私は人工受精の作業を何度も見た。上方の建物の中で、毎日行われている。
 池の水を半ば切って落し、手網で魚をすくい取り、池に浸してある竹籠に入れる。籠の中の魚は、一匹一匹手掴みにして、腹中の卵が検診される。雌鱒の池のことだ。卵が成熟しておれば、ちょっと腹をしぼると、赤い卵が一粒ずつ放出される。そういうのだけが作業に堪えるのだ。棒切れで頭部を叩けば、魚は痙攣して生態の機能が止まる。それをブリキ箱に一杯並べ、作業場へ運ぶ。直ちに腹を裂いて、卵だけ取り出し、瀬戸引きの鉢に移す。
 作業場の小さな水槽には、池から捕えられた雄鱒が群れている。それを一匹ずつ手掴みにして、腹をしぼり、放出する白い精液を、赤い卵のはいってる鉢に注ぎかける。用済みの雄鯵は、他の水槽の中に投げ込まれる。そして鉢の中を攪拌すれば、卵は受精し、暫くおいて、水中に鉢のまま安置する。あとはもう孵化を待つだけのことである。
 私はいやな気がしながらも、その作業に心惹かれた。ここの鱒はすべて人工養殖に依るのであるが、産卵に戻ってくる雌鱒は、放流された場所だけを覚えていて、腹を裂かれたことは忘れているのであろうか。本能にその選択があるのであろうか。いずれにしても、宿命的に観れば、彼女等は一身を捧げて戻ってくるのだ。献身のために、争って岸辺へ群れ寄ってくるのだ。
 水槽に投げ込まれた雄鱒は、また精子の成熟をまって、三度ぐらいは使用出来るのである。三度も。なんという有能さであろう。けろりとして三度も。
 それらのことは、彼女等や彼等の知ったことではない。けれどもそれらの作業を行うのは人間である。それが実感として私の胸に来る。
 私の夫は、私以外の女に二人も子供を産ませた。そして私が恋愛をすれば、相手の男を殺してしまうと猛りたった。平田にしても、妻子がありながら、私をあんなに熱烈に愛撫した。やがては、私より他の女にその情熱は向けられるかも知れない。そのようなことが、女性には出来ないと言うのではない。女にも出来得るだろう。貞操の問題を離れてのことだ。ただ然し、女には妊娠というものがある。一人の子供を産むのだけで、一つの生である。一つの生の積極的な献身だ。男にそんなものはない。
 だが私は、不妊の体かも知れない。いくら私の腹をしぼっても、腹を裂いても、成熟した赤い卵は出て来ないだろう。
 鱒の人工繁殖作業は、悪夢みたいだ。平田はあれを見て、どう感じたであろうか。
「あなたも、あれを見たでしょう。」
 私は月光の中に眠ってる作業所を指さした。
「うむ。案外簡単なことで、つまらなかった。」
「ほんとにつまらなかったの。」
「もっと精巧な微妙なことかと思っていたんだ。」
 嘘ではないらしい。彼は愚かに鈍感になったのであろうか。愛情の上の思いつめたものを、取り失ってしまったのであろうか。
 私は池のほとりを離れて、湖水の方へまたおりていった。彼は素直についてくる。旅館の貸下駄をかたかた音立て、丹前姿にオーバアを引っかけて、それは恋愛する男の姿ではない。
 私はまだまだ外を歩きたかった。旅館の狭苦しい室に戻りたくなかった。
 湖水の岸の砂地を、行けるところまで行ってみよう。
 月はもうだいぶ昇って、湖面の光りの反映は狭まり、沖の方は黝ずんで盛り上っている。
「この湖水には、伝説があるのね。」
「たいていの湖水には、伝説があるものだが、どういうの。」
 話すのも、つまらなくなった。神様と、坊さんと、怪物、その三つの型に多くはきまっているのだ。
 断雲が空を流れて、時々月光が隠される。
「それに、怪談もあるわ。」
「怪談……伝説と同じことじゃないかな。」
「いいえ、怪談というより、事実かも知れないわ。この湖水、たいへん深いでしょう。山の上にあるけれど、真中の底は、海面に近いぐらいよ。それで、水死人が、深く深く沈んでゆくと、水圧のために浮き上らなくなり、立ったまま、底のへんを、ふらりふらり歩いてるの。そんなのが、たくさん歩いてるのよ。」
 ほんとにそんな風に、私は信じたかった。
 しばらく間を置いて、平田は言った。
「それは、おかしい。水圧で浮き上れなくなることは、あるかも知れないが、人間の身体は、頭の方が重くて足の方が軽い筈だから、立っているとすれば、逆立ちになるわけだが……。」
 私は一歩足をとめて、彼をちらと顧みた。彼は沖の方は見ずに、月を仰いでいる。湖水の底の死体どもが、真直に立たずに、逆立ちして、ふらりふらり動いてるとすれば、それはなんと奇怪な光景だろう。そんなことは到底信じられない。
「ほんとかしら。」
「何が。」
「死体の話。」
「君がそう言ったんじゃないの。」
 声の調子は、私の話をばかにしてるのではなかった。それかと言って、真実と思ってるのでも勿論なかろう。逆立ちのことは、ただ理論的訂正なのだ。ただ理論的訂正。
 私はローレライの歌を口ずさみかけて、やめた。
 はっと思い出したことがある。――平田の奥さんの知人に、霊感の強い中年婦人がいる。日蓮宗の信者で、さる修験者について修業をし読経中ばかりでなく、日常の間にも、ふっと精神統一の境にはいることがある。そして霊感で得る言葉を口走る。予言的なことがよく的中する。人の生死を言い当て、吉凶を予見し、ものの怪のたたりをあばきだす。勿論彼女は、普通の行者のようにそれを業とはしない。頼まれても頼まれなくても、自然に発するのだ。その婦人が、よその家で、平田の奥さんに向って、危難を免れる、と二度ほど口走った。何のことやら、彼女自身にも奥さんにも分らないのだ。解釈はどうとも御自由だというのである。そのことを、奥さんは平田に話した。丁度私の夫が、私の恋愛の相手を殺すとか殺さないとか、いきり立ってた時のことだ。平田は私に笑い話として伝えた。だが私は胸にこたえた。私は日蓮宗を信ずるのでもなく、霊感とか霊気とかを信ずるのでもないが、その婦人に逢ってみたくなった。平田はてんで取り合わなかった。彼にとっては、すべて迷信なのだ。
 迷信排除と、理論的訂正。
 平田は唯物論者なのだ。それもよい。だけど、思いつめたあげくのこの山上の湖水で、強い精神的閃めきを私は彼に期待した。唯物論者にも精神の光輝はあろう。彼の純粋無垢な詩情は、彼の情熱は、唯物論とか唯心論とかには関係なく、精神の純一な光耀から起るものではなかったか。それを彼はどこかに取り落して、愚鈍な不感症みたいになってしまったのであろうか。
 私は彼の方へきっと向き直った。頬の肉が引きつるのを押し切って言った。
「わたしの行く通りについて来て下さいますか。」
「ついていくよ。」
「どんな所へでも。」
「ええ、どんな所へでも。」
 事もなげな気安い返事だ。
 私はくるりと向き直って、真直ぐに湖水へはいって行った。靴のまま、服と外套のまま、水へはいって行った。彼はすぐ私のあとからついてきた。冷徹な水は、膝から腰へ、腰から胸へ、ひたひたと迫ってくる。足先がしびれてくる。よろけかかって、首まで沈もうとした、とたんに、私は両肩を引戻された。
「ちょっと待って。忘れていた。僕は薬を持っている。あれを飲んでから、一緒にはいろう。」
 切れ切れの言葉と共に、私は巨大な感じのする力に引き戻された。
 ずぶぬれの姿を、私は湖岸の砂上に投げ出した。
 なんという大きな力だったろう。そしてなんという分別くさい考慮だったろう。それだけで、なんの感激も情熱もなかった。手を握り合いさえもしなかった。薬を飲んだら、彼は白痴のように、犬のように、ただ白々しく、私のあとにどこまでもついて来ることだろう。
 私は彼を殴りつけたかった。蹴飛ばしたかった。そして泣きたかった。だがその力も、もう私にはなかった。
 彼は私を扶け起そうとしたが、私がぐったりしてるので、手を離して、そこにしゃがみこんだ。
「許してくれよ。僕はすっかりだめなんだ。どこか麻痺してるんだ。」
 彼は小児のようにしくしく泣きだした。いつまでも泣いた。
 私は半身を起して、膝でいざり退いた。怪しい戦きが心を走った。――彼は気が変になりかけたのではあるまいか。白痴になりかけたのではあるまいか。見つめているうちに、身体が震えてきた。突然、月が私を眺めているぞと、へんなことを考えた。
 私は立ち上った。まだ泣いてる彼を扶け起した。彼は逆らわずに殆んど自力で立ち上った。その腕を私は抱いて、旅館の方へ歩きだした。
 私は決心していた。決して死ぬものか、この人と一緒になど死ぬものか。決心して且つ自ら誓った。それにしても、私達の恋愛はどこへ行ってしまったのだろう。残ってるものは何もない。慾情のみはまだ残ってるかも分らないが、それももういやだ。それからもし必要とあらば、この人に対するちょっとした看護婦めいた務めが……。それだけは果してやってもよい。
 だがそれも、つまりは私の精神的空想だったろう。
 彼はもう泣きやんで、呼吸も正しく、しっかりと歩いた。私はそっと彼の腕から手を離した。彼はぶるぶると震えた。私も震えた。だが寄り添いもせず、無言で歩いた。――遊びとしては真剣すぎるのだ。





底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「新潮」
   1949(昭和24)年1月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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