手紙

慶応元年九月七日 坂本権平、乙女、おやべあて

坂本龍馬




九月六日朝、はからず京師寺町ニ川村盈進(えいしん)入道ニ行合、幸御一家の御よふす承り御機嫌宜奉大賀候。(つぎ)ニ私共(はじめ)太郎(高松)異儀憤発出(精)罷在、御安慮奉願候。
一、目今時勢御聞入候。
当時さしつまりたる所ハ、此四月頃宇和島(ママ)より長州え送一封の事也。夫ハ此度将軍長征ノ故を、幕史より書付を以て送りタル写也。
其文ニ曰ク、此度進発在ルハ長州外夷と通じ、容易ならざる企有之候。(もつとも)和蘭(オランダ)コンシユル横浜ニ於て申立也と。
又曰ク下の関ニ私ニ交易場を開キたり。
其外三条皆小事件也。
時ニ龍ハ下春江戸より京ニ上リ、夫より蒸気の便をえしより、九国ニ下リ諸国を遊ビ、下の関ニ至る頃、初五月十日前なりし。当時長州ニ人物なしと雖、桂小五郎ナル者アリ。故ニ之ニ書送リケレバ、早速ニ山口ノ砦を出来リ候。数件ノ談アリ。末ニ及ビ彼宇和島より来るの書の事ニ及ビ候。龍此地ニ止ル前後六十日計ナリ。其頃和蘭舶中国海より玄海ニ出ルアリ。
時ニこれを止ム。長官ノ者上陸人数八名、其内英人一名アリ。桂小五郎及(伊)春助(後輔)ラ、大ニ憤リ、アル時ニ当レバ彼ノ宇和島より来ル所の書を以て曰ク、(此時春外長二名及龍馬もアリ。)無種の流言して幕府長との中をたがへ、目今(ママ)将軍大兵を発し大坂ニ来ル、是和蘭の讒より起りし事也。
何故ニ候やと申ヨリ初メ前後談数語別ニ書有、和蘭人も赤面し(ママ)セしナリ。
和蘭曰ク毛も長を讒セし事なし。是則小倉(ママ)ヨリ長州の讒申立しニよりし、則小倉より申立し書付ハ外国奉行より見セくれしより、手帳ニ記シアリし故、御見目かけ申べし。夫を幕史らが和蘭より申立し事と、事をあやしく仕立しなりと申しき。
長、井藤春曰ク、然レバ近日幕兵一戦ニ及バヽ、先初ニ此談ニ及ぶべし。
又小倉えも此国より無種流言其罪を責候べし。
其時ハ立合呉候べきかと尋候。
蘭うなづき承知致セし、夫ハさてをき上の事を一※(二の字点、1-2-22)書付を以て此頃小倉を責問セしニ、小倉言葉なく幕府ニ其長の書と小倉の家老の付紙とを以て、急ニ御詮儀被下度とて願出候。
此上の事(ばかり)ハ先、幕か蘭か小倉か其罪をうけずしてハすまず。
○此頃幕府より長州家老又ハ末藩召出しの儀を下したり。然ニ長州ハ曽てより不出と云儀を定たり。幕ハ不出バ大兵西下と義を定メ、諸々触出したり。
其兵を出スの期(限)ハ九月廿七日也。
此頃、長ハ兵を練候事甚盛。四月頃より今ニ至ルまで、日※(二の字点、1-2-22)朝六時頃より四ツ時頃迄、国中の練兵変ル※(コト、1-2-24)なし。先三百人より四百人を一大隊とす。一大隊ごとニ(総)官参謀あり、郷※(二の字点、1-2-22)※(二の字点、1-2-22)※(二の字点、1-2-22)大隊の練兵す。日本中ニハ外ニあるべからず。
其国ニ入レバ山川谷※(二の字点、1-2-22)※(二の字点、1-2-22)護胸壁計ニて、大てい大道路不残地雷火ニて、西洋火術ハ長州と申べく、(少)し森あれバ、野戦(砲)台あり、同志を引て見物甚おもしろし。
私夫より此頃上京ニ有り、又摂ニ有、唯(ママ)所ニ居申候。
御安心可遣候。申上レバかぎりも無事ニて候間、後便ニのこし候
(九)月七日
稽首謹白。
龍馬
尊兄
大乙姉
於ヲやべどの
追白、乙大姉ニ申奉ル。かの南町のうバヽどふしているやら、時※(二の字点、1-2-22)きづかい申候。もはやかぜさむく相成候から、なにとぞわたのもの御つかハし、私しどふも百里外、心にまかせ不申、きづかいおり候。
此書御らんの後ハ安田順蔵大兄の本ニ御廻願入候。かしこ。





底本:「龍馬の手紙」宮地佐一郎、講談社学術文庫、講談社
   2003(平成15)年12月10日第1刷発行
   2008(平成20)年9月19日第7刷発行
※底本手紙の写真のキャプションに、(高知県立歴史民俗資料館蔵)とあります。
※丸括弧付きの語句は、底本編集時に付け加えられたものです。
※直筆の手紙の折り返しに合わせた改行は、省いて入力しました。
入力:Yanajin33
校正:Hanren
2010年7月24日作成
2011年6月17日修正
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