小知恵にとらわれた現代の法律学

末弘厳太郎




 概念的に美しく組み立てられた法律学がだんだんと世間離れしてゆくことは悲しむべき事実である。そうしてそれは従来の法律学がその対象たる「人間」を深く研究せずして単純にそれを仮定したことに由来するのである。その意味において私は現在の法律学を改造する第一歩として一種のロマンチシズム運動が必要だと考えるのである。この文章は元来「法律学における新浪漫主義」と題して大正一〇年の春、中央法律新報社主催の通俗講演会のためにやった講演の速記に手を入れて出来上ったものであって、もともときわめて通俗的なものである。これを本書[#「嘘の効用」]に採録するについて標題を改めた理由は、私はみずからの主張にみずから何々主義というような名をつけることはあまり好ましくないと考えたからである。
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一 緒言


 法律というものはむずかしいものです。ところがそのむずかしい法律の話をわざわざ三〇銭も出して諸君が聴きに来るのですから、そこにはそれ相当の理由がなくてはならないと思います。それで私は、諸君が法律に対してなにか興味をもたれ、また同時にある不足を感じておられる、その不足を充たすべき何物かをどこかに求めたいという希望が諸君の足を自然ここに引きつけたのではあるまいかと考えております。
 ところで、法律はそんなむずかしいものでしょうか、またむずかしかるべきものでしょうか? 学者や法律家はよくこんなことを申します。「法律は別にむずかしいものではない、素人にはわからないかもしらぬが、われわれには非常によくわかっている」と、こう申すのです。ところが私など一〇年あまりもだんだんと法律学を研究してみましたが、法律学は依然としてむずかしく、そうしてわれわれ法律家にとってもいやに不自然なむずかしいことがたくさんあるように思われてならない。どうもわれわれの本当の人間らしいところに何かしっくりと合わない点があるように思われてならない。そうしてその感じは時とともにだんだん強くなるばかりです。
 私が外国に行く前によくこんな話を聞きました。イギリスでは法律を学ぶためにロンドンの弁護士や裁判官を養成する学校に通う。そうしてその学校を卒業するためには一定の年限の間学校の食堂で飯を食わなければいけない。飯を食うことが日本でいえば法学士になる一つの要件である。その飯を食わなければ裁判官や弁護士にはなれない。その話を聞いたときに私は、イギリスには古来の伝習にもとづいて今日ではもはやなんら意味のないことがたくさん行われている、この飯を食うのも多分その例にすぎないのだろうと簡単に考えていました。ところが日本をたってアメリカに行ってみると、アメリカの大学における法律の教え方をみて第一に驚かされました。いったい日本では先生が高い壇へあがって非常にえらそうな顔をしてせきばらいをしながら、ひげをひねりつつもったいぶって講義をする。生徒はまるで蟹のようになって筆記をしている。これが日本の法律の教え方である。ところがアメリカでは最初一年生に法律を教えるのにでもそんなことはしない。裁判所の判決例を集めたかなり厚い本を各生徒にあてがう。そうして生徒は法律もなにも知らないのだが、とにかく先生の指図に従って下読みをして行く。ところが先生が「誰々! この事件は何が書いてあるか」と法律もなにも知らぬ者に対して質問する。生徒は「これこれこういうことが書いてある」と答える。すると先生はだんだんに追及して、ついには生徒みずからむりやりに正確なことをいわなければならないようにもちかける。その結果、法律を教える教場に行くと、あたかも討論会でもやっているようで、生徒と生徒とが討論する。先生がまた中に入って指導しかつ討論の相手にもなる。そうして結局法律の原則は生徒みずから自分の努力で探し出すようにさせる。何のためにこんな教え方をするかというと、例えば化学を教える際に先生が頭から「これは何とか何とかなり」とえらそうな顔をして教えるよりは、生徒自身をして実験をさせてみずから原理を会得させるほうがいい。それと全く同じ考えを法学教育に応用したものです。これが現在のアメリカ法律の教え方ですが、この方法の実際に行われるところを毎日毎日みていると、だんだんと今お話ししたような長所が目についてくるとともに、ほかにいっそう大事な長所を発見しました。それはほかでもありません。従来日本の法律学者は人というものを、ただ理屈や小知恵や理知の持ち主として取り扱います。ところがわれわれが朝から晩までなしたことをあとから反省してみると、たくさんの行為の中には、自分の理知を標準とし理知のみにもとづいてすることが多いか、それともあるいは憤慨してみたり、あるいは赫怒してみたり、あるいは美術を見、音楽を聞いて非常に感心してみたり、なにかわからず朝から晩までの間に、われわれはとうてい理知をもって律すべからざる、実にいろいろなことをするものです。ところで法律というものはわれわれが朝から晩までするいろいろなことをそれぞれ法律の型に入れて、あるいは刑罰を科してみたり、あるいは金を借りたのならば返さねばならぬというようなふうに決めるものです。いわばわれわれが朝夕なすところを法律的見地から規律するもの、それが法律です。それならば人間をただ理知の持ち主としてのみならず、あらゆる心理作用の持ち主として取り扱い、そのありのままの人間を法律の上にも踊らせ、かかる自然の人間として法律が規律し、学者が説明することにしてはどうだろうか。こう考えてきたときに、今申しましたアメリカ式の法律の教え方には、この私の希望が自然に実現されていることを私は感じたのです。先ほども申しました学生のもっている判例集には判決の事実がそのまま書いてある。それをよく読んでくる。そうして討論をする。世の中の出来事がそのまま教室において生徒の眼の前に展開されるのです。そうして結局裁判所はこれこれの事実なるによりこれこれに判決を下したと、先生が最後に教えてくれる。先生は理屈よりも生徒をよい方に導くことに全力を尽くしているのです。しかるに日本の先生は壇の上からえらそうな顔をして抽象的な原則のみを教える。したがって真に人間の世の中を離れない生きた本当の法律を教えることができない。法律はどうしても人間味を離れた変なものにならざるをえないのです。アメリカの教え方をみるに、先生は学生にまっさきに判決例を読ませている。したがって、かくして教えられる法律は、われわれが小さな理知をもととして研究したり教えたりする法律にくらべると、はるかに複雑なものである。すなわち人間の情けも出れば涙も出てくる。あるいは怒りあるいは喜ぶ。そのすべての事柄が法律の上に出てきている。かくして法律が取り扱われるところをみると、なるほど法律というものは非常に複雑なものであると同時に、人間離れのしているものではないということに誰しも気がつくのであります。ここに至って初めて私は先に申しましたイギリスにおいて学生たちが学校の食堂で一定の年限飯を食わなければ法学士になれない理由がわかったのです。つまり、たとえ理屈だけがわかっても、真に法律家らしい生活経験をした者でなければ、法律家として完全なものだといえない、というわけなのだと思います。
 今までのところ、日本において法律とは何であるかといえば、法律家がホンの小さな小知恵の持ち主として作ったにすぎない。そうしてその小知恵にもとづいて作られた法典をさらに小知恵の力でいろいろと論議をなし、これをもって「これわが法なり」と主張され教えられるのである。そもそも法律に最も利害関係の多い人間は誰かといえば、例えば刑法についていうならば犯罪をおかした犯罪人であり、また民法についていえば、例えば金を借りたとか物を売ったとかいうようなことで権利をもったり義務を負うたりする本人たち、それが一番法律の何たるかにつき利害関係を有する人である。かかる人にとっては法が何を命じているかが明瞭であることが何より必要なのです。しかるに現在たくさんある法律書をあけて自分の心配事を相談してみると、あるいは消極説だとか積極説だとかいうものがあり、さらにまた折衷説なるものがあり、そうしてまた時には「余輩は第四説を採る」などとさらに異説をたてる先生もある。全く異説の展覧会である。ここにおいて誰が一番迷惑するかといえば、それは現に心配事をもった当人で、いろいろ先生の著書を見たり先輩学者の意見を聞くが、いろいろ説があってなんのことだか一向に判然しない。学者はわずかな小知恵をもとにしてひたすら異説をたてることのみを志し、これで結構オリジナリティーを出したような顔をしている。しかしいったい学者の本分ははたしてそんなものでしょうか。否、私はそう思わない。学者の役目は、裁判所や立法府と協力して、一方においては現在の法律はかくかくのものであるということを一般国民に示して、そのよるところを知らしめるにある。であるから、できるならば、いわゆる学説の数を減らすことをひたすら心がけてこそ立派な学者である。そうしてまた他方においては、大きな眼からみて将来法律の進みゆくべき道を示すことに努力してこそ、真に学者の本分が発揮されるわけである。いたずらに小知恵にとらわれて末節にのみ走り、積極説、消極説に次いで折衷説さらに第四説、第五説を生み出すごときに至っては、全く法律家のまさにとるべき態度を踏み違えたものといわなければなりません。
 しかしながら、よくよく考えてみると、かくのごときことは、現在の日本においてひとり法律家のみの行うところではない。実際からいえば現在の世の中のすべてが、いわば小知恵の行きづまりである。第一八世紀以来漸次に自然科学が発達をとげると同時に、自然科学の力を借りれば万事がたちどころに説明がつく、したがって万事が経験と理知とで説明されうるというようなことを、世の中一般の人が軽々しく考えるようになり、ついには現在まだわずかしか発達していない自然科学をもってすでになにかよほど完全なもののように考え、これで万事きりもりしてゆけると考えるようになった。ところが実際の宇宙はもっともっと複雑な深遠なもので、とうてい今日の程度の自然科学ではいかんともしがたいのである。ところがこの種の考え方はすべての方面を支配して、かつては文学にも美術にまでも現われたのである。しかし世の中はもっと複雑です。理屈だけではとうてい説明できず、またわれわれが満足しないのです。そこで小さな理屈にのみ拘泥せずに、人生そのものの現実を直視して、真相をとらえなければならぬ。その傾向は文学、美術などの諸方面においてはすでに大きく現われていると思う。しかるに法律学においては今日なお小知恵が専制しています。それで小知恵をふるい万事を理屈どおりやってみたが、さて出来上ったものはなんとなく人間味が欠けている。これが真に生きた世の中を規律しうるとはどうしても思えない。そこで私はいいたいのです。理屈大いに可なり、しかしその理屈が小さな狭いものであれば、すでになんの役にも立たぬ。また世の中には理屈だけではどうしても解けない複雑なことがたくさんある。人間の生活関係のごときはその最もいちじるしいものの一つで、これを規律する法律および法律学にはどうしても理屈を超越した、現実そのものをありのままに観察して得られるところの幾多の非理知的分子を附加して考えなければならないと思います。これがまず今晩のお話の緒言であり、同時に解題となるわけであります。
 それでこれから以下、以上の思想をもとにして、現在の法律をしてもっと人間味のある誰にもなるほどと思われるようなものにするにはどうしたらよいのか、それを説明してみたいと思います。
 そこで、法律の存在が一般に諸君の眼に触れるところはどこかというと、第一には、裁判所を通しておりおり法律の存在を知らしめられる。第二には、議会が開かれて、法律の出来上るのをみると、誰しもなるほど法律があるということに気がつきます。また第三には、学校へ行って法律を教えられる、なるほど法律があることをたしかに感じます。これがまず普通われわれが法律の存在を意識する最も主な場合です。それでこれからこの三点を順序にとらえて、一々これに人間味を注射する法を考えてみたいと思います。

二 人間味のある裁判はどうしたらできるか


 昔の裁判にはなんとなく人間味がありました。例えば大岡越前守の講談などを聞くとつくづくそういうことを感じます。それで私はいつもその理由がどこにあるのかをいろいろと考えているのです。
 そこでまず第一に考えたのは、いったい裁判官が裁判をするにあたっては事件を審理した上で結論が先に出るのだろうか、それとも法文と理屈とが先に出てその推理の結果ようやく結論が出るものだろうかという問題です。この問題は日本の裁判官はもちろん外国の裁判官にもしばしばたずねてみました。ところがこれに対する答えはほとんど常に「結論が直感的に先に出る、理屈はあとからつけるものだ」というのでした。しからばその直感的に出てくる裁判の結論なるものはいかなる心の働きから出てくるのか、私は次にこの問題を考えたのです。裁判が理屈から生まれてくるのではないとすれば何から生まれてくるのか。単なる感情とか好悪から生まれてくるのでないことだけは明らかです。それで私の考えでは、それは裁判官の全人格の力で生み出されるのだと思うのです。したがって裁判官として一番大事なものは人格の完成です。これを完成する一要素としてむろん法律の知識は必要です。しかし、それはほんの一部分です。もしも最も理想的にいえば、「なんじ人を議することなかれ」という言葉のとおり、人間には人を裁くだけの力はないのかもしれません。しかしとにかく裁判官になった以上、人を裁かないわけにはいかないから、そのみずから心がけて努むべきことは人格の完成、一分でも一厘でも神に近づかんとする努力、それが裁判官として最も大切なことだと思います。それにはそのわけを知るということもむろん必要であるが、単にそれだけではすまない。人間としてあらゆる修養を積んで本当の人間らしい人間にならなければならぬ。この人間は神さまにかたどって作られたものである。したがって本当に人間らしくなれば神さまに一番近くなったものである。それで初めて人を裁く資格ができてくるのである。かくのごとき立派な人格の持ち主によって与えられる裁判にして初めて真に勇気もありまた人間味もあり、しかも法律にもはずれないものになるのである。
 それで、私は、もし大岡裁判に関する巷説のすべてが真実であるとすれば、大岡越前守はおそらくこの理想によほど近づいていた立派な人格者であったのだと思います。
 ところが、今日では裁判には結論のほかに理由が必要になってきました。いかに結論がよくても理由がなければ今日の裁判として不完全なものです。それはなぜかというと、フランス革命を境として世界至るところに平等思想が生まれました。その思想は第一九世紀から二〇世紀にかけてますます発達し、初め形式的なものであったのがだんだんと実質的なものになってゆきます。この平等思想が裁判制度の上に現われたのは何かというと、それはいわゆる法治主義です。法治主義はこれを最もひらたくいえば一種の物差しのようなものです。あらかじめ法律という物差しをこしらえておいてこれを裁判官に渡す、裁判官はあたかも呉服屋の番頭さんが物差しで切地をはかるように、与えられた物差しで事件を裁きます。そうすれば最も公平に厳正に事件が裁かれる。これがすなわち法治主義の考えです。その結果、裁判官は万事物差しに拘束されて自由な働きができないことになるのですが、これというのも畢竟裁判官の専断を防ぎ不公平を防がんとする主旨から生まれたもので、それがため今日の裁判官は物差しさえもっておればほかのことは何も知らないでもいいのだなどと誤解してはいけません。呉服屋でさえ物差しだけもっておれば商売ができるというものではありません。ところが世の中には、裁判官に物差しを与えかつこれを扱う技術さえ教えてやればそれで立派な裁判官ができる、それが法治主義の理想のように考えている人も少なくないようですが、それはきわめて間違った考えです。法治主義の理想は、公平にやれ、裁判官がわがままかってな処分をやってはならぬ、というにあるのです。決して人情を無視していいとか、法の技術さえ心得ておれば法の精神や理想については何も知らなくてもよろしい、裁判官は肉挽き器械のように自動的に裁判を絞り出せばそれでよろしい、というようなものではないのです。法治国における裁判官といえども昔の大岡越前守と同じように人間として立派な人でなければいけない。人間として最も完全に近づくように心がけなければいけない。ただその昔の裁判官と違うところは、自分の全人格から自然に流れ出てきた裁判に、現行法を基礎とする理由を附し、裁判を受ける人および世の中一般の人をして自分は決して裁判官の任意な処分で裁判されたのではない、という感じをいだかせなければならないのです。そこが昔と今の違うところで、今日の裁判官のむずかしいところなのです。裁判官には法の理想に関する信念がなければならない。しかも同時に法律に束縛される。この理想の要求と公平の命令とをいかに調和すべきかが、今の裁判官にとって最もむずかしい大事な問題なのです。
 それでこの調和問題については私は理想の要求に重きを置くべきであるということをいいたいのですが、このことについて一つのおもしろい話がありますから、それをお話しいたします。
 それはイタリアの音楽家の話ですが、その話によると、音楽家が例えばオペラを作る、そうして役者を指導して上演させる。作者はむろん全力を尽くして自分の最もいいと信ずる楽譜を作るわけなのですが、いよいよこれを実際の舞台にかける段になってみると、役者が本式の衣裳をつけて舞台に出る。そうして見物人もいっぱいいる、立派な背景があり、オーケストラもコーラスもまた相手の役者も出て、いよいよ本式に作曲家の作ってくれたものを歌ってみると、なかなか実際上作曲家が自分の全知をふるって考えだした歌が舞台の実際に合わないことが出てくる。役者が実際の場にあたってみると、作曲家の希望や予定とは違った種々のことが出てくる。例えば、このところはこれこれの長さに歌うように、もとの譜はできていても、役者がその場合どうしてもかくかくにしか歌えないということであれば、かくかくに歌うよりほか致し方がない。しからずんば本当に自然な美が出てこないからです。また役者がここは熱情が出るという場合には、その熱情に従って譜を無視して歌ってしまう、それよりほかに仕方がない。ところがイタリアの作曲家はこの最初の上演における役者の実験を是認し、したがって最初の上演において誰々が、こういうふうに歌ったとすれば、それが元来の譜とは違っていても、どんどん歌われてゆく。そこが特にイタリアのオペラがなんともいわれぬ柔らかみをもち、人心の奥底にしみこむような力をもっているゆえんの一つなのだろうという話です。
 そこで私はこの話とわれわれの商売たる法律とを思いくらべてみて、その間に大変おもしろい類似点を発見したのです。それはほかでもありません。法律はいわば作曲にあたるもの、それを裁判官が衣裳をつけ舞台に出て実際の上演をやる。そのときの裁判官は真剣です。立法者が空に考えたり、学者が抽象的に考えたりするのとは違って、眼の前には実際の利害関係をもった当事者本人がいるのです。そうしてその人間のいろいろの事情なども知っているのです。その本舞台でいよいよ本式に作曲家から渡された音譜を歌わなければならないのです。どうして譜だけを頼りにしてただそのとおりに歌いさえすればいいというようなことがありましょう。そんなことでは聴者はさらに感心しないのです。ところが今日の日本においては作曲家たる立法者にも役者たる裁判官にもこの考えが十分に呑み込めていないように思われてなりません。しかし今日の裁判官といえどもこの心得がなくてどうしましょう。裁判官は、前にも述べたように、その全人格によって判断を下す。しかし今日は法治国であるから、それになにか法律という物差しをあてなければ世の中の人が承知しない。しかのみならず物差しをあててみなを感心させるには種々な材料を使ってあるいは法律第何百何条にこう書いてあるから、おまえもしかじかこれこれと心得ろといえば聞く者もなるほどそうかと思う。またあるいは法律には明文がない、けれどもこれは多年当裁判所においてかくのごとく判決したるをもっておまえだけが特にかくかくの取扱いを受けるわけにはいかないといって聞かせれば、なるほどそうかと思う。またさらにある場合には、どうも判例もなし法律にもうまいことが書いてない。そのときには裁判所はなんというかというと、これこれの点はかくかくとならなければならないが、これはわが学界、学者の説を聞いてみても「通説おおむねかくのごとし」だから、おまえもそう思え、といって聞かせれば、これを聞く人も感心して、なるほどこんなえらい学者たちがそういっているのならば私もやむをえない、裁判に服します、というようなぐあいで判決が正当な理由あるものとして一般に取り扱われることになるのです。要するに裁判は最初議会の作ってくれた物差しを機械的に動かしただけでできるのではありません。裁判所は一方においてはまずその全人格を基礎として結論を下し、これに種々の物差しをあて、この判決は決して不公平ではない、ということを一般に呑み込ませる。そこが裁判官の役目でかつ最もむずかしいところなのです。
 かくして初めて、本当の人間らしい上にも人間らしい結論が出て、ひとり議会が作ってくれた物差しのみでなく、いろいろの物差しが適当に使われて判決が下されるから、結局聴く人も感心するというわけです。
 かくのごとくなってゆけば、法律が裁判所によって今少しく人間らしいものとして取り扱われるようになりうると思うのです。
 次に裁判が今少しくわれわれの人間としての感じに合うようになるには、どうしたらよいかという同じ題目をも一つ違った方面から話してみたいと思います。諸君も御承知のとおり、ただいま陪審法なるものが枢密院から内閣にもどったり、内閣から枢密院にきたりして、われわれが将来支配を受けようとする法律の案が、秘密のうちに空の上を歩いております。まことに気味の悪いしだいでありますが、あの陪審法に対しては世の中に賛否の声が種々あります。ところが裁判官の大多数はあれに反対である。それは自分の信念にもとづいてなすところの判決が、客観的にみて公平であるか正当であるかは別問題として、少なくとも自分の信念において、正しくいっているものを、素人のなにもわけのわからない者が出てきて、いい加減に有罪、無罪といわれては困る。これが裁判官の反対論で、裁判官としてはまことにもっとも至極な言い分だと思います。しかし裁判官の中で陪審制度に反対する人々の多数はなによりも、もしも陪審制度を採用するときは、理屈のない裁判ができるということを恐れるようですが、そのいわゆる理屈なるものがはたしてどんなものであるかをよく審査してみた上でないと、おいそれとこの説に賛成できないのです。裁判官御自身は正しい理屈だと思っても、世の中の普通の人間が変な理屈だと思って、それを承知しなければ結局裁判としては目的にかなわないのですから、いかなる裁判が最もいい裁判かということは専門の裁判官だけでうまく判断できるものではないのです。専門家からみたら無知かもしれないが、ともかく実社会に立って働いている生地の人間を一二人もつれてきて、理屈はとにかくとして、おまえは素人としてこの事件をどう思うかと問うてみる。すると、よって得られる結果は、あるいは理屈からいうと首肯されえないものでも、人をしてなるほどと思わせるなにものかが自然にこもっている。理屈のみを法律と思っている人は必ず陪審制度に反対するのであるが、しかし陪審制度を設ければ、理知を超越したなんともいえないおもしろみが、必ず裁判の中に出てくると思う。日本の陪審制度反対論者はただときたま出てくる悪いところばかりをとらえて、やれカイヨー夫人が無罪になったのは陪審官を買収したのだとか、アメリカのシカゴにおいては女が男を殺しても死刑にならないとか、いかにも日本人には悪く聞こえるようなところだけを伝えるのです。しかし裁判は理屈だけのものであるか、それとも理知を超越したなにものかが附け加わってできるものであるか、この点をよくよく考えてみると、陪審制度というものもそう一概に排斥すべきものではなくて、私はむしろこれが裁判を人間らしくすることのいとぐちであるように思います。

三 人間味のある法律はどうしたらできるか


 次に、どうしたらもっと人間味のある適切な法律を作ることができるか、という問題を考えてみたいと思います。
 現在わが国において法律がいかなる手続で作られるかというと、まず司法省なりその他の役所で案を立てて議会に提出するのが普通の場合ですが、それからあと議会が何をするかというと、これは全く言語道断で、政府の案なれば御用党の力で理が非でも議会を通過します。反対の少数党中にかなり理屈のあることをいう人もあるのですが、多数党はそのいうことをきいてさえくれません。だから議会は法律の通ったりつかえたりする所で、法律を作る所ではない。法律はむしろ司法省なり内務省なり、その他お役所の役人によって作られるのだといっても、たいした間違いとはなりません。そこで、今日、法律の起草をされる方々はどんな方々かというと、それはそろいもそろって知恵者です。そうして吾輩出ずるにあらずんば天下のこと明らかならずとか、余輩出ずれば天下のこと定まるとかいうようなぐあいに、自分のもっている知恵をえらく尊信して万事がこれで解決できるというように考えている方々のように思われます。ところが私から遠慮なく申しますと、その先生がたがみずからたのむところの知恵が、たとえ、その先生がいかにえらい人であるとしても、はたしてそんなに頼りにできるほどたいしたものであるかどうかを、私は大いに疑うのです。どうせ人間一人ですから、その一つの頭の中から幾千万かの人間から成り立つ社会に立派にあてはまるような法律が容易に出てくるわけがないのです。ですから、これらの先生が法律を作られるならば、実際の事情や外国の法制などをできるだけよく調査し、人間の小知恵の足らざるところをできるだけ補ってこれを大智たらしめるだけの努力をせねばならず、またそれをするだけの謙遜な気持ちがなければならないのです。そうして事の許すかぎりは法案をまず公表してひろく江湖の批評を乞うだけの雅量がなければならないのです。ところが、例えば最近の議会に借家法案が提出されたときなども、法は最後まで秘密でわれわれ人民にはみせてくれない。私などもようやく新聞紙の六号活字でわずかにこれを知りえたにすぎませんでした。それでいよいよ議会に出た法案なるものをみたときに私は全く驚きました。遠慮なくいわせていただくと、全く穴だらけだからなのです。いったい、この借家法なるものは、今までのごとくただ個人主義的に考えて作られるべき法律ではない。問題がもっと複雑しているのです。人間はふえる、物は足りない。その調節をいかにしてゆくべきかを考える問題の一場合に相当するのです。ですから、この種の立法をするについては、従来の単純な資本主義や個人主義の頭脳だけを頼りにしたのでは、うまい法律のできるわけがないのです。それで、この同じ問題が、諸外国においても、わが国におけるよりはむしろ大仕掛けに起こり、これに対する立法も実にたくさんあるのですから、この外国の立法例だけでも十分調査し、また進んでは実際わが国における住宅難がどんなものであるか、またこれに関する法律上の争いは実際上どんなものであるかを、十分調査してかからなければならないわけです。ところが司法省のしたところをみていると、外国の法律を参考した形跡が少しもないのみならず、わが国の実情についてもほとんどなんらの調査もないのです。現在、裁判所に提起される借家に関する事件の統計があるかというとない。例えば借家人のほうから起こす訴訟の数はいったいどのくらいあるか、家主の起こす訴訟はどのくらいあるか、あるいは訴訟の金額はどのくらいか、これらの点を東京区裁判所の管轄区域内だけでもよろしいから知りたいと思ったのですが、そういうものは司法省にはないのです。いったい立法例を調査するでもなく、世の中の実情を調査するでもなく、ただ立案者がありあわせの小知恵をふるって書いたのでは、いかに立派な小知恵の持ち主にやらせてもうまくいくわけがない。そうしてその案がやがて同じく知恵一点張りの法制局あたりをまわった上議会を通過する、これではたしていい法律ができるでしょうか。私は大いに危ぶむのです。それでは真に社会の実情に適合した法律のできるわけがないのです。それから次に今の立法者――世の中でいわゆる官僚と称される方々――は非常に世論なるものをばかにしておられます。ですから法案はなるべく秘密にすればするほどいいと考えておられます。なるほど世論は理屈に合わないものです。しかし世の中のことをすべて理屈に合わせようと思えば、しゃくにさわって仕方がなくなる、できない相談だからです。しかしながら、法律は理屈だけで動くものではないと同時に、世論といえども決してばかにすべからざるものである。決して軽視することは許さざるものである。世論は理屈の代表者ではない。しかし世論にはなんともいわれない大きな価値がある。そこに人情の機微に触れた微妙な力強いところがあるのです。それを基礎にして法律を作らないで、どこに人間の気持ちに合う、本当の法律を作りうるか。法案を立てる人が、我輩はかく書いた、これより以上によいものはない、世論など衆愚のいうことがなにになるか、というような調子で、学者のこれに対する公平な批評すらきらうというに至っては、いったい国家民衆のために法律を作るのか、自己のヴァニティーのためにむりに我を押し通すのかわからなくなります。かかる結構な法律のもとで租税を納めるわれわれこそ実に迷惑千万な話であります。
 私はこの点が一日も速やかに改良されて、もっと念入りに小智をたのまずに、真に人間味のある法律が作られるようになることを希望してやまないのです。

四 もっと人間味のある法律の教え方はないものか


 終りに、もっと人間味のある法律の教え方はないものか、それを簡単に考えてみます。このことは今日のお話の初めにも詳しく申しましたが、今日わが国で学者の学生に教えるところはただ抽象的な理屈だけである。ところが法律は理屈だけでできているのではないから、学生に本当の法律を教えるには、理屈を超越した、言葉では言い表わせない、味をも教えなければならないのです。それには現在アメリカでやっているように、判例を材料にしてこれを批判させてみるのが、一番適当な方法のように思われるのです。
 今、一つ日本の大審院判決を例にひいてお話をしますと、ある時ある所に一人の男がありました。ところが父の言葉にそむいてどこかのある女とよろしくきめこんで互いに一家をもった。父がいくら帰ってこいといっても帰ってこないから、仕方なく、父もそのまま放任しておいた。爾来数年を経たが帰ってこない。そこで父親は民法にいわゆる戸主の居所指定権なるものを行使した。ところがその男は頑として応じないので父親は憤慨して、一週間内に立ちもどるべし、しからざれば家から離籍してしまうぞ、という最後通牒を発した。それにもかかわらず、その男が期間内に帰らないのでとうとう離籍されてしまった。そこで今度は子供のほうからおやじを訴えて離籍の取消を請求した。その理由にいわく、一週間で帰ってこいというのはあまりにひどい、法律をみると「戸主は相当の期間を定め其指定したる場所に居所を転ずべき旨を催告することを得若し家族が其催告に応ぜざるときは戸主之を離籍することを得」とあって、わずか七日という期間はこれを相当と認めがたいと、こう息子のほうではいうのです。それを私たちが机の上で教えるときには、はたしてこの七日の期間が相当なりや否や、を適当に教えることは実際上不可能です。いうまでもなく、これは学者の領分外です。裁判所の領分に属すべきものです。ところで日本の大審院はこれをどう判決したかというと、七日の期間が相当なりや否やは一概には決められない。この息子がその婦人と数年このかた同居している。この同居している事実を父親は是認しているのか。それとも父親は今日といえども従来どおり、ひきつづいて反対しているのか。そのいずれかで結論が違う。親がもともと認めて同居していたのだとすれば、わずか一週間で帰れというのはむりである。これに反して、親が早く帰ってこいこいと始終いいつづけて反対していたのならば、一週間といえども決して短くないと、こう判決を下しております。私はこれをもってまことに人情にかなった結構な判決だと思いますが、かくのごとき解決は学者が机の上で考えてはとうてい出てきません。やはり裁判官が本舞台に出て実際の事実をみて初めて考えつく考えです。
 判決というものが、すべてこんなものだとは限らないのですが、とにかく実際の事実と離れない、いうにいわれぬ趣きのあるものです。ですから私はかようの判決をたくさん集めたものをもとにして、法律を教えるがいい、そうすればひとり学生みずからをして自発的に法律を発見し学ばしめることをうるのみならず、理屈ではとうてい説明のつかない法律の機微を学生に教えこむことができて、いわば一挙両得になります。ですからこれからの法学教育はこういう方向に向かってしかるべきだと私はかたく信じます。

五 結論


 これでだいたい私のお話は終ったのですが、体裁のために簡単に結論をつけておきたいと思います。
 今まで申しましたところを要約すると、こういうことになります。理知はよろしい、理屈も知恵もよろしかろう。しかしながら小知恵ではだめだ。理知も徹底したのでなければだめだ。これに反して徹底した理知ならば必ず人間らしいものになる。いったい世の中のことは、理知で解きうる範囲は実にきわめて狭いので、少し行けばすぐ突き当るのである。しかし少なくともその理知だけでも徹底するように努力せねばならぬ。それが今の法律学者に対する私の要求の一つである。その次は理知はみずからその身のほどを知れ、理知によって進みうるところは広くはない、人間というものは理知だけで動いているものではない、あるいは信仰であるとか、あるいは悲しみであるとか、あるいは喜びであるとか、あるいは恋愛とか、あらゆる心理作用をもって、朝から晩まで動いているものであるから、それらの複雑な作用をも加えて万事を考えなければならぬ。理知のみを引き離して、それだけで法律現象を説明し規律しようなどとは全くだいそれた話である。むろん理知は一八世紀このかた自然科学の発達によって得たところのわれわれの既得権である。私はこれをすてよというのではない。かえってさらにいっそう徹底して大きな理知たらしめるように努力せよというのである。ただそれと同時に理知をもってなしうることの範囲はきわめて狭いのだということを、一般に悟ってもらいたいと私は思います。要するに理知を徹底してついには理知によって理知の上にまで出る。そうしてそこに本当に人間らしいなにものかを認めうるのである。今後は法律のできる人間も、できない人間も、また現在、学べる人間も、あるいは今後大いに学ばんとする人間も、このことをよく心がけてほしいと私は思います。そうすれば必ず法律の社会化というごときことも、この中央法律新報社の努力とあいまって、漸次に実現されるであろうとみずから信じているしだいであります。そうしてこのことはひとり法律家の腕のみをもってできることではない。国民がみな一様にその考えでなければ不可能である。法律は一部の限られた人間のものでもなければ、権力階級のものでもない、われわれのものである。だからこの法律が真にわれわれの法律であるということが本当に実現される時代が一日も早く到来するようにわれわれは一致協力しなければならぬ。いささかこの意味において愚見を述べたしだいであります。





底本:「役人学三則」岩波現代文庫、岩波書店
   2000(平成12)年2月16日第1刷発行
初出:「嘘の効用」改造社
   1923(大正12)年7月3日発行
入力:sogo
校正:noriko saito
2008年4月11日作成
2011年3月31日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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