法学とは何か

――特に入門者のために

末弘厳太郎




一 はしがき


 一 四月は、毎年多数の青年が新たに法学に志してその門に入ってくる月である。これらの青年に、法学が学問として一体どういう性質を持つものであるかについて多少の予備知識を与えるのが、この文章の目的である。
 無論、本当のことは、入門後自らこの学問と取り組んで相当苦労した上でなければわからない。やかましく言うと、法学の科学的本質如何というような根本的の問題は、勉強してみればみるほどかえってわからなくなると思われるほどむずかしい問題で、現に法学の第一線に立っている学者に聴いてみても、恐らくその答はかなりまちまちであろうと考えられるほどの難問である。だから、こうしたむずかしい理論を頭から入門者に説こうとする意思は少しもない。しかし、それにもかかわらず、敢えてここにこの文章を書こうとするのは、次のような理由によるのである。
 二 およそ学問に入る入口で、今これから学ぼうとする学問が大体どういう学問であるかについて一応の知識を持っていることが、学習の能率を上げるのに役立つことは、我々が子供の時からの経験でよく知っている。そうした知識を持たないために無用な苦労をした経験を持つ人は、非常に多いのではなかろうか。例えば、私自らが中学四年の時に初めて三角術を教えられた時のことを思い出してみると、これが算術はもとより幾何学に比べても非常にむずかしいように思われたのであるが、後から考えてみると、そのむずかしかった主な原因は、先生が、講義の入口でこの学問が一体どういう目的を持つものであるかを全く教えずに、頭から教科書に書いてあることを教え込もうとしたことにあったのである。その後中学の数学教育も非常に改善されて、今ではこうした弊害は大体取り除かれたように聞いているから、今の青年諸君にこうした経験を語っても、あるいは十分にわかってもらえないのかも知れないが、類似の経験は多少ともすべての人が持っていると思う。ともかく、今自らが学びつつある学問が一体何を目的としているのか全くわからなければ、結局教えられることを暗記するよりほかに学習の方法はないのだから、いつまでたってもなかなか学問そのものを理解できるようにならないのは当然である。
 ところで、大学の教育はどうであるかというと、理科や医科のような自然科学系統の学部はもとより文学部のようなところでは、大体そこに入学してくる学生は、初めからその学ぼうとする学問について少なくとも常識程度の知識を持っているのが普通であるように思われるのであるが、法学に志して法学部に入ってくる学生の場合は、一般に事情が著しく違うように思う。私などは、父が長年司法官をしていた関係上、普通一般の学生に比べればかなり法学についての予備知識を持っていた筈であるが、それでさえ、いよいよ入学してみると甚だ腑に落ちないものがあった。どうも自分が予期したものとは大分違った学問を教えられているような気がして、甚だ取っ付きが悪い。仕方がないから先生の講義することをそのままノートすることはしたものの、当分の間は五里霧中で、何のために講義を聴くのだか、全く見当がつかないようなありさまであった。
 こういう次第だから、私ほども予備知識を持たない普通一般の学生の迷惑は、恐らく非常なものであったろうと思う。それでも、ともかく大学を出さえすれば官吏にもなれる、一流会社にも採ってもらえることだけは確かであったから、わかろうがわかるまいが一生懸命にノートをとって受験の材料をこしらえるのであるが、こんなことをしているうちに少し心掛けよく本式に勉強した者は、いつとはなしに段々と法学が何であるかを理解して、自然学習に興味を持ってくるようにもなる。しかし私の知っている限り、かなり多数の学生は、卒業するまで何のために法学を学んでいるかを呑み込むことができず、そのため平素はノートを作ることにのみ苦労し、試験期になればそれを丸暗記することに苦労したのが、その頃の実情であった。
 もっとも、法学部に入ってくる学生のことだから、彼らのすべてが初めから法学に多少とも興味を持っているに違いないと思うのがそもそもの間違いで、学生の多数は、法学に志しているのではなくして、単に法学部を卒業すること、そしてできればなるべく良い成績で卒業することを志しているにすぎないから、彼らにとっては、学問そのものはどうでもよいのである。だから、卒業後司法官や弁護士のような法律関係の職業に向おうとする少数の学生以外の者にとっては、学問は要するに受験の具にすぎなかったので、私がその後大学に在職している間に高文試験制度が変って法律関係の試験科目が減ると、それを機会に法律学科の学生が急に減って――法学科目の少ない――政治学科の学生が激増したるがごときは、まさにこの傾向を如実に反映したものと言うことができる。
 だから、当時我々は、ドイツの或る学者が法学は要するに「パンの学問」Brotwissenschaft にすぎないと言ったという説を聞いても、深くその意味を考えてみようともしなかった。また、卒業後官庁や会社に入って相当出世した先輩たちの、「大学で習ったことそれ自身は何の役にも立たない、習ったことをすっかり忘れてしまった頃になって初めて一人前の役人なり会社員になれるのだ」というような話を聞いても、なるほどそういうものかなと感心するぐらいのことで、深くその訳を考えてみる気さえ起さなかったような次第であった。今から考えれば――後に記すように――、この先輩の話にも、「パンの学問」にも、なかなか面白い意味があるのだが、当時としては全くそうしたことに気づかないのが実情であった。
 そういう事情であったから、法学部の講義の中心をなしていた憲法とか民法とかいうようなものは、要するに、現行法制を説明してその知識を与えるのが目的であると学生一般は考えていた。これらの講義を通して法学的なものの考え方を教えるのだということを、意識的に気づくようにはほとんどならなかったのは勿論、現行法の講義と同時にローマ法、法制史、法理学、外国法等の講義を与えられても、それと現行法の講義との間にどういう開係があるのかというようなことは全くわからず、また十分教えられもしなかった。殊に外国法のごときは、外国人が先生であった関係もあって、一般の学生にとっては甚だ苦手な科目で、学校では特に外国法奨励のために成績の良い者には賞金をくれたりしていたにもかかわらず、結局この科目も、暗記の対象である以上にはほとんど何らの教育価値もなかったように思う。
 私は終戦後大学教育を離れてから既に五年以上を経ているので、今の法学部で一般にどういう教育が行われているかについて、ほとんど何らの具体的知識も持っていない。また、このごろの学生の素養や学習態度等についても、全く無知識である。しかし、およそ法学が学問としてどういう性質を持つものであるかを今でも多くの学生は知っておらず、何とはなしに法学部に入学して、ただ卒業することだけを考えている人が、非常に多いのではないかと私は想像している。そういう学生に、多少法学と法学教育の真の目的がどこにあるかを教えようというのが、この文章を書く目的である。

二 近代社会が法学的訓練を受けた人間を必要とする理由


 三 大学に入学してくる青年は、すべて結局は職を求めているのだと言っても言い過ぎではないと思う。しからば、職を求めるために大学教育がなぜ必要なのか、また、少なくともなぜ役に立つのか、その問題を考えることが、大学における教育もしくは学習の目的を理解するために是非とも必要である。殊に法学部の場合には、その必要が最も大きいのであって、ここでは従来この真の理解が十分でないために、教育もしくは学習そのものが著しく能率を害されているように私は考えている。
 裁判官や弁護士のような法律的職業に志す者が法学部に入学する目的は大体わかるが、現在法学部に入ってくる学生のすべてが、必ずしも裁判官や弁護士になりたがっている訳ではなく、むしろその大部分は別な職業に向うことを目的としている。それでは彼らは、果して何のために法学部に入ってくるのか。彼らが法学部に学び法学部を卒業することが、なぜ職業を得ることに役に立つのか。もしも法学部の教育が、単に法律的職業を得るのに役立つにすぎないとすれば、今のように数多くの青年が法学部に入りたがる訳はない。また、今のように多数の学生を収容する官公私立の法学部が沢山必要な訳もわからない。どうしても、今の世の中それ自身が全体として法学教育を受けた人間を沢山必要とするようにできているのだと考えなければ、この訳はわからないのである。
 そこで我々はこの見地から、現在の世の中の特色、国家社会の特質を考えてみる必要がある。今の国家社会が全体として法学的素養を持つ人間を沢山必要とするようにできているのだと考えなければ、どうしてもこの理由を理解することができないからである。
 四 この点で先ず第一に気づくことは、現代の国家が法治主義的にできており、裁判はもとより行政一般が法治主義的に行われていることである。裁判、行政等の国家機能がすべて法治の原理に従って行われている以上、その運用に当る役人に法学的素養が必要なことは言うまでもないし、役所を相手に仕事をする一般国民が、自然、法学的素養を必要とすることになるのも当然だと言わなければならないからである。
 ところが、社会学的に今の世の中全体を考察してみると、法治的機構は必ずしも国家にのみ限られていない。会社その他民間の私企業も、その規模が大きくなるにつれて、すべて法治的機構によらなければ秩序正しい能率的の運営を期することができない。否、更に進んで考えれば、資本主義的経営そのものが初めから機械のように信頼し得る法律の存在を条件としてのみ可能なのであって、裁判や行政のような国家機能が法治的でなければならない主な理由もここにあると考えることができる。
 この理は従来既に多くの学者によって説かれているところであるが、最近京都大学の青山秀夫教授が著された『マックス・ウェーバー』のなかに、この点が比較的手際よく簡単に説明されているから、便宜上以下にその一斑を説明紹介しながら、更に多少の補足を付け加えてみたいと思う(同書中特に「第四章近代社会の特徴」)。
 それによると、先ず第一に、現代社会の特徴としてそこには軍隊・官庁・企業・工場等の「大量成員団体」が多数存在して、そのいずれもが「組織の力」によって、「機械のように」秩序正しく「合理的運営」を行っていることである。そしてそのために、一方では学校という特殊な教育機関に「大量の人間が身分・出生を問うことなく収容され、一定年限の間、専門的知識と規律に対する服従能力とを集団的に教育・陶冶され、やがて一定類型の専門的勤務能力をもつものとして大量的におくり出される」。同時にまた、かかる「専門的勤務能力」は、「しばしば、大衆が理解・習得でき、しかも内部に喰い違いのない無矛盾・斉合的な体系(例えば『教科書』『法典』『操典』など)に編集され、教育はこれにもとづいておこなわれる。実際の勤務にあたって勤務者がこういう無矛盾・斉合的な行為規範にしたがうことが、集団全体のあの「一糸みだれぬ」運営の基礎となるわけである」。このように集団的訓練を身に着けた専門的勤務者によって「事務的に」businesslike 万事が秩序正しく合理的に運営される機構組織を、マックス・ウェーバーは「官僚制」と名づけている。
 次に、近代社会の特徴である資本主義の合理的経営は、一面合理的資本計算を基礎としてのみ可能であるように、同時に近代国家の行政・司法における「官僚制」もまた、その必須の前提条件をなしている。「近代国家がその「官僚制」的中央集権によって広い地域にわたって持続的に治安を確立し、大規模生産に不可欠な市場を形成すること、近代国家が種々の経済秩序(例えば商法・統一的貨幣制度など)を創設・保証・維持すること、さらにまた、専門家としての近代的『官僚』が国家の計画的・合理的な経済政策(たとえば財政・金融政策など)を可能ならしめること、などその顕著な場合である」。そして「近代国家の国家活動は、あらかじめ国民に公示された成文法秩序のもとに、専門的かつ無私的な官僚によって、計画性と安定性とをもって執行される」。かくして国家活動が「偶然性・恣意性を脱し、あらかじめ計算しうる(予見しうる berechenber)ものとなる」によって、「企業は安心して国家活動をその企業活動に織りこむことができ」、「近代的工場経営に特徴的な固定投資はこれによってはじめて可能となるのである」。
 以上の趣旨を、法学的の立場から更に必要と思われることを補足しながら、綜合して要約すると、次の通りになる。
 (1) 近代社会のあらゆる事柄は、主として官庁・企業等の「大量成員団体」により「組織の力」によって運営されているが、かかる大規模経営の秩序正しい機械のように正確な運営を可能ならしめるためには、一方において経営内部の規律を確保するための行為規範体系を必要とすると同時に、他方ではかかる規律に堪え得るように訓練された官僚的の勤務者群を必要とする。即ち、経営の内部秩序それ自身が極めて法律的であって、すべてがあらかじめ定められた行為規範によって秩序正しく行動することが要求される。
 (2) 資本主義的経営が合理的資本計算によってのみ可能であるように、司法・行政等の国家機能も、あらかじめ定められた法規範に従ってすべて結果を予見し得るように正確に運営されることが必要で、それには、その運営に当る官僚群が、かかる目的に従って規律正しい活動をなし得るように特別に訓練されることが必要である。即ち、法治主義的の司法や行政に信頼してのみ近代資本主義的の経営は可能である。
 (3) 従って、団体と団体との関係、人と人との関係も、すべてあらかじめ定められた法規範によって「結果を予見し得るように」規律されていることが必要で、これあるによってのみ、近代社会の基礎である自由主義的秩序が可能であり、かかる法的保障あるによってのみ、個人の行動の自由とそれを基礎とした民主的社会秩序とが成り立ち得る。
 (4) しかし、同時に注意すべきことは、以上のような法的秩序はあらかじめ不動的に定立された法規範の自動的作用によってのみ成り立つのではなくして、特に法学的の訓練を受けた専門家がその運用に当ることが必要なことである。いかに精密な法規範体系を用意しても、それの自動的作用のみでは法秩序の円滑な運用を期することはできない。法には一面、機械のように正確な規整作用を行う非情的な面があり、それこそまさに法の特徴であるけれども、同時に個々の場合の具体的事情に応じて具体的に妥当な処理が行われなければ、全体として円滑に動かない面を持っている。だから、裁判所はもとよりその他の官庁や企業団体等にも、必ずかかる具体的処理を担当する専門家が必要であって、これあるによってのみ法の機械は円滑に動くのである。彼らは既定の法規範体系の単なる法字引でもなければ、見張人でもない。法学的訓練によって特に習得した法学的のものの考え方を活用して法秩序の円滑な動きを保障すると同時に、ひいては、社会の進展変化に応じて法秩序を成長せしめてゆく働きをするのである。
 五 近代社会が特に法学的の訓練を受けた人間を大量的に必要とするのは、近代社会のかくのごとき特徴によるのである。しからば、その所謂法学的訓練とは何か。その意味が一般に十分理解されていないから、法学教育の目的もハッキリせず、法学部卒業生のいかなる能力が――例えば会社などでも――特に役に立つのかが、一般に正しく理解されないのである。
 単に学問が職業を得る手段として役立つというだけの意味であれば、すべての学問が「パンの学問」であって、法学だけが特に「パンの学問」だと言われる訳はない。現代の世の中そのものが法学的の素養がある者を沢山必要とするようにできていればこそ、法学を学ぶによって職業を得ることができるのである。従って法学教育それ自身も、結局そういう目的に役立つのだという意識の下に行われなければならず、新たに法学に志す人々も、初めからその理を心得ている必要があるのである。
 大学で習ったことそれ自身がそのまま役に立つのではなくして、むしろそれを忘れてしまった頃に初めて一人前の役人や会社員になれるという言葉も、法学教育の真の目的を理解してみれば非常に味わうべき言葉で、学生はもとより、現に法学教育に従事している人々にとっても深い教訓的意味を持っている。大学で教えられた知識がそのまま実際の役に立たないことは、ひとり法学教育に限ったことではない。しかるに、法学の場合に限って右の言葉が特に意味を持つように考えられるのは、従来の法学教育それ自身に欠陥があるからであり、しかも学生が一般にそれに気づいていないからである。現在の法学教育は一般に、主として現行法の知識を与えるという形で行われている。そして学生は一般に、かくして与えられた知識を消化することに全力を挙げているから、法学の教育もしくは学習は、結局現行法を理解し、記憶することを目的とするように考えられるけれども、実を言うと、かくのごとき教育もしくは学習を通して、学生は法学的のものの考え方を教え込まれるのである。そして学生が卒業後職についてから実際上役に立つのは、そのものの考え方にほかならないのである。無論、現行法を知らずに、考え方だけを抽象的に習得する訳にはゆかない。しかし、現行法の教育も、究極においては現行法そのものを教えることを目的とするのではなくして、現行法の理解を手づるとして法学的のものの考え方を会得せしめようというのがその目的である。そしてかくのごとくに考えればこそ、大学の法学教育で現行法のほかに法制史や外国法を教える意味もわかるのであり、現行法の教育としても、もっと目的に適った教え方があるのではないかというようなことも、考え得るに至るのである。
 大学で教えられたことを忘れた頃に初めて一人前の役人や会社員になれるというのも、実を言うと、大学で授けられた知識を手づるとして卒業後実務上の修練を重ねた結果、大学では無意識的にしか習得しなかった法学的の考え方が成熟したことを意味するのであって、大学教育が初めから全く無価値であったという意味ではない。しかし従来大学の法学教育には、一般にこの理合が十分に意識されていない。少なくとも、学生にそういう理解を与える努力が意識的に行われていない。そのため教育と学習の能率が著しく阻害されているように、私は考えるのである。

三 現在の法学と法学教育


 六 以上で私は、法学教育の主な目的は、法学的な物事の考え方、もしくは法学的に物事を処理する能力を習得せしめるにあると言った。法学教育を受けて裁判官や弁護士のような職業的法律家になった人々はもとより、普通の役人や会社員などになった人々にとっても、かかる特殊の能力を持っていることが、彼らの職業人としての特色をなしているのだと私は考えている。
 それでは、現在我が国の法学教育は、その目的のために何をなしつつあるか、また現在法学は、いかにしてその目的に役立っているであろうか。
 この問に答えるために、現在大学で行っている法学教育と法学者によって書かれた著書論文を概観してみると、第一に、内容的に言うと、それは大体、(1)現行法令を解説したもの、(2)法制史、ローマ法というような法制の歴史に関するもの、(3)外国法もしくは比較法学的のもの、(4)法哲学、法社会学等の名で法に関する一般理論を説いているもの、の四種類に分れている。
 第二に、形式的に言うと、法学書のほとんどすべては解説的に書かれており、直接法学的能力の訓練を目的とする形で書かれていない。大学の教育も大部分教説的であって、僅かに演習というような形で直接能力の訓練を目的とした教育が多少行われているにすぎない。
 それでは、こうした内容、こうした形式の教育や法学書が、いかにして法学的能力の訓練に役立っているのであろうか。これを理解することは、法学入門者にとって極めて重要であって、さもないと、ややともすると講義や教科書で解説されているものを暗記し、もしくはたかだか理解することが、法学学習の目的であるというような誤解に陥りやすいのである。
 七 現在法学教育の大部分は現行法令の解説から成り立っており、法学書も大部分は現行法令の解説に当てられている。これらの解説が現行法令の内容を教えることに役立つのは言うまでもないが、法学教育の見地から考えてそれよりも重要なことは、「解釈」の名の下に法令から法を導き出し、もしくは構成するために使われている「技術」を習得することである。
「解釈」の本質、また「技術」の使い方等については学者のあいだにかなり意見の開きがあって、その詳細を今ここに説くことはできないけれども、解釈技術を体得することは一人前の法律家たり得る最小限度の要件であるから、以下に問題の要点を簡単に説明する。初学者がこの点を一応心得た上で講義を聴いたり教科書を読めば、法学的能力を養う上に非常に役立つと思う。
 (1) 先ず第一に知らねばならないことは、法令はすべて解釈を予定して書かれていることである。無論、個々の法規のなかには、普通の国語知識を持っていさえすればその法的意味を正しく理解し得るものもあるけれども、それはむしろ稀な場合であって、法令法規の大部分は解釈を予定して書かれており、解釈を通して初めて法が何であるかを知り得るようにできている。これは初学者にとっては恐らく不可能なことで、法令が完全にできていさえすれば解釈を容れる余地はないように考えるであろう。現にナポレオン皇帝でさえ、彼の民法典に初めて解釈を加えた本を作られた際に、「わが法典失われたり」という嘆声を発したと伝えられているくらいだから、初学者がそう考えやすいのは至極尤もなことである。
 ところが、解釈の必要は法令そのものの本質から来るのであって、一見簡単に見える法規でも、解釈を通して初めて、その法的意味がわかるようにできているのが普通である。いわんや、いくつかの法規の組合せでできている法令は、法規相互の間に一定の脈絡をつけて全体が論理的に矛盾のない一つの統一体をなすような仕組で作られているから、法学的素養のある人の解釈を通してのみ、その法令全体の意味も、また一々の法規に含まれている法が何であるかもわかり得るのである。
 理解を助けるために一つの例を引くと、刑法第二三五条の「他人ノ財物ヲ窃取シタル者ハ窃盗ノ罪ト為シ十年以下ノ懲役ニ処ス」という規定のように、一見平明に見える法規でさえも、これを実際に起る個々の具体的の事件に当てはめることを目的として解釈してみると、一つ一つの言葉の意味について、例えば「財物」とは何か、「他人ノ財物」とは何か、また「窃取」とは何かというような具合にいちいち疑問が起り、それをどう解釈するかによって、一定の行為が窃盗罪としてこの規定の適用を受けるかどうかが決るようにできているのである。
 それでは、どうしていちいち解釈を経なければ法が何であるかが解らないような法規を作るのか、もっと平明に法そのものを法規として書き表すことはできないものであろうか。それは要するに、世の中の出来事が複雑多岐を極めているから、そのすべてを予想してその一々に適用される法を法規にしようとすると、非常に複雑な法規を作らねばならないことになり、また、たとえいかに複雑な法規を作っておいても、世の中のほうが更に一層複雑にできているから、結局法規の予想しない出来事が現れて処置に困ることとなるからである。そこで結局、法規としては単に抽象的な法則を作っておくに止めて、あとは解釈によってそこから複雑な法を導き出すような仕組にするのほかないのである。
 法規がかかる性質のものである以上、個々の具体的事実に当てはまるべき法が解釈を待って明らかになるのは已むを得ないことであるのみならず、ときには解釈者の意見によって何が法であるかについての見解が分れることがあり得るのも已むを得ないことで、それほど世の中そのものが、あらかじめいちいち法を明らかにしておくことができないほど複雑にできているのである。
 かくのごとく、法規が初めから解釈を予定してできている以上、法規を取り扱う者は解釈によって法を明らかにする技術を心得ていなければならない。そして、その技術の種類およびその使い方については自ずから一定の決りがあり、またいろいろの理論もあるから、法学を学ぶ者は、少なくともそれらを習得して、自ら解釈を通して個々の場合に当てはまるべき法を見出す能力を体得する必要がある。従って、講義を聴いたり教科書を読む際にも、教師や著者が与えている解釈の結論にのみ重きを置くことなく、むしろその結論がいかなる理論により、いかなる技術を通して導き出されたかの経路に留意して、自らの解釈能力の涵養に役立たせる努力をしなければならない。
 (2) 次に、初学者として是非とも知っておかなければならないことは、今でも法律家のあいだには「法秩序の完全無欠性」というドグマが力を持っていることである。例えば、裁判官は必ず法によって裁判しなければならない、裁判は必ず法―事実―裁判という三段論法の形式をとらなければならない、しかもその法は常に、必ずあらかじめ存在する、裁判官はその存在する法を見出してそれによって裁判をしなければならない、ということが一般に信ぜられているものである。裁判は必ず法によってなされねばならない、裁判官が法によらずに勝手な裁判をしてはならないということは、法治国における司法の根本原理で、これは誰にも理解できることであるが、そのよるべき法が、いかなる場合にも常に、必ずあらかじめ存在しているというのはどう考えても不合理である。それにもかかわらず、今なお法律家は、一般にいろいろな方法でその不合理を否定し、法秩序は全体として常に完全無欠であって、解釈よろしきを得れば必要な法を必ず見出し得ると主張しているのである。
 その方法にはいろいろあるが、そのうち最もよく使われるものは「類推」Analogie である。これは例えば、甲という事実に適用せらるべき法が法規の解釈からはどうしても見出されない場合に、幸い甲と類似した乙に関して法があると、それを類推して甲についても類似の法があるというのである。法がない以上類似の事柄に関する法を類推して類似の法的取扱いをすることそれ自身は、法の基本的理念である公平の見地から考えて、必ずしも不合理ではない。しかし、この場合でも、法があるのではなくして実際の必要から法を作っているにすぎないと考えるほうが合理的であるにもかかわらず、多くの学者はこの当然の理を認めないで、類推を解釈の一手段と考え、これによって法を見出すのだと説いている。
 次に、現在行われている多くの教科書を見ると、一方において裁判は必ず既存の法によってなされねばならないと言っていながら、法令の解釈から出てくるのではない法が別にあるということがしばしば書かれている。
 その一つは「判例法」であるが、従来一般の考え方によると、裁判は法令により法令を解釈するによって与えられるもので、それ自身法を作るものではない。そうだとすれば、裁判から法が生れる筈はあり得ないし、判例を根拠として裁判するのも、法によって裁判するのだとは言いがたい訳である。それにもかかわらず、判例法の存在は多くの学者の認めるところであり、現に、判例を根拠として裁判を与えている事例も、実際に少なくない。そして、学者は一般にそれを肯定しているが、その理由に関して十分我々を納得せしめるに足るだけの説明が与えられていないのが現在の実情である。
 次には、「条理」、もしくは「条理法」という法が別にあって、裁判はそれによって与えても差支えない、更に進んでは、法令の解釈から出てくる法が条理と矛盾する場合には、むしろ条理によって裁判すべきであるというような主張をしている学者も少なくないのであるが、その理論的根拠に至ると、人によってその説くところが必ずしも一でないのみならず、それらの説明の中にも、十分我々の理性を満足せしめるに足るものを多く見出しがたいのが実情である。
 八 以上に説明したように、現在法学といわれている学問の大部分は、「何が現行法であるか」の説明に当てられている。そして学者は一般に、これを「解釈法学」と名づけているが、それは法令の解釈を通して法を見出すことが主な仕事になっているためである。しかし、以上の説明でもわかるように、実際には法令の解釈によって法を見出すと言っていながら、実は法を作っていると考えられる事例が稀でないのみならず、場合によっては、全く法令を離れて何が法であるかが説かれていることさえある。そのうえ法令の解釈によって法を見出すといわれている場合でさえも、それによって見出される法が解釈者によって必ずしも一でなく、同じ法規が人々によっていろいろ違って解釈されている場合が少なくない。それでは、一体かくのごとき解釈上の意見の違いはどこから生れてくるのか。
 その原因の第一は、広い意味での解釈技術に関する考え方が、人によってかなり違っていることである。その違いは実際上いろいろの形で現れているが、その最も顕著な例としては、或る人々が法令の形式的ないしは論理的解釈を通して法を見出し得る限度を非常に広く考えているのに反して、他の或る人々はそれを比較的狭く考えており、またそれらのなかにもいろいろと程度の差異があるという事実を挙げることができる。つまり、法令解釈の限度を広く考えている人々は、とかく眼の前に置かれている事実の具体的特殊性を無視もしくは軽視して、なるべくすべてを法規の適用範囲に入れてしまおうとする傾向がある。これに反して他の人々は、本来法規はすべて或る型として想定された事実を前提として作られているのだから、たまたま眼の前に置かれた事実がその型の範囲に入れば法規をそのままそれに適用してよいけれども、全くもしくは多少ともその型からはずれた事実にはそのまま法規を適用する訳にゆかない、この場合にはその与えられた事実を解釈者自らが改めて一つの型として考えながら、それに適用せらるべき法を自ら作らなければならないと考えるのである。
 次に、解釈上の意見に差異を生ずる第二の原因は、彼ら各自の法的正義観に差異があり得ることである。ここで法的正義観というのは、広く言えば世界観もしくは人生観と言ってもよいが、この場合には、特に法に即して洗練された法律家独得の世界観であって、世間普通にいう世界観とは趣を異にしたものである。一例を挙げると、かつて、電気窃盗を窃盗罪として処罰すべきや否やが問題になったことがある。当時は旧刑法時代で現在の刑法第二四五条に相当する規定がなかった。それにもかかわらず、わが国の裁判官は――前に一言した――「財物」の意味を広く解釈して、窃盗罪の成立を認めたのであるが、同じ頃ドイツの裁判官は窃盗罪の成立を否定したことがある。この場合、電気窃盗を世間普通の意味で正義に反する行為と考えたことは、確かにドイツの場合でも同じであったに違いないのであるが、恐らく彼らは、なるほど電気窃盗は正義に反する行為には違いないけれども、刑法には罪刑法定主義という大切な基本原則がある、そして窃盗罪に関する刑法の規定はもともと普通有体の物を窃取する場合を予定して設けられたものであるから、みだりにこれを有体物以外のものの窃取にまで拡張して解釈することはよろしくない、この場合電気窃盗を罰することも必要かも知れないが、そのために罪刑法定主義を破るのは刑法全体の建前から見て一層よろしくないと考えたに違いないのであって、そこに、彼此ひしの裁判官の間に法的正義観の差異があったと言えるのである。
 かくのごとく、法的正義観は、個々の場合に裁判官が法規の解釈をするについての態度を決定する上に重要な働きをしている。学者の法規解釈が人によっていろいろ違う原因も、多くの場合、各学者それぞれが違った正義観を持っていることにあると言うことができる。法規解釈が純客観的に、無目的に行われるということは事実あり得ない。解釈は、結局技術であり、手段であるにすぎないのであって、それを使うのは人である。従って、その人がいかなる正義観を持っているかによって解釈が違ってくることがあり得るのは当然のことである。
 そうだとすると、いやしくも法学を学ぼうとする者は、単に法規を形式的に解釈する技術を習得するだけでなく、同時にその技術を使うについての指標たるべき法的正義観の涵養に力めなければならない訳であるが、かかる正義観の涵養はどうすればできるのか、現在の法学教育はその点について実際どういうことをしているか。
 九 それには、大体三つの方法がとられていると私は思う。
 第一は、講義なり教科書で法令の解釈をしてみせている間に、教師や著者は――表面上それを口にしないけれども、実は――それぞれ一定の法的正義観に導かれながら、解釈技術を駆使している。彼らはその正義観を特に一定の形式で表現していないけれども、実際には各自それぞれ一定の正義観を持っているのが当然であって、それが自ずから彼ら各自の解釈態度を決定し、解釈となって現れているのである。だから、学生は解釈の形で法令の知識を与えられている間に、一面、解釈技術を習得すると同時に、他面、知らず知らずの間にその教師なり著者が解釈の指標として持っている法的正義観を教え込まれることとなるのである。
 第二は、解釈法学と別に、法哲学というような形で法思想の教育が行われ、その教育を通して法的正義観が理論的に教えられているのが普通である。現在我が国で行われている法哲学の講義においては、先ず第一に法思想史が教えられているのが通例であるが、それは学生に広く法思想の変遷発展した歴史を教えて、彼らが自ずから自己の法思想に批判を加えてその法的正義観を養うことに役立つのである。次には、教師なり著者が自己の抱懐している法的正義観を理論的に展開してみせるのを通例としているが、これによって与えられる思想的訓練が、実際上法令解釈の態度にまで直接影響を及ぼすことは、従来の実情から言うと、むしろ稀である。殊に、法令解釈の具体的体験を持たない学者の法哲学には、そういう傾向が強い。
 第三に、明治このかた我が国の法学教育においては、一般に法史学と外国法が教科目に加えられているが、それらが、教育の主要部分をなしている解釈法学といかなる関係に立つかについては、時代によって考え方の変遷が認められるのみならず、現在でも、学者によって考え方が違っているように思われる。理想の法学体系を考えてみれば――後に述べるように――、法史学および比較法学の研究を通して与えられる法および法に関するデータを豊富に持つことは、我々の法に関する視野を広めるとともに、法的思惟を深めることに寄与し、それがやがて解釈法学にも、また立法上にも非常に役立つこととなるのは勿論であるから、これらの研究および教育を、もっと法学全体との関係を考えて根本的に考え直してみる必要があるように思うのである。
 以上のように考えてみると、現在我が国の法学は、全体として何となく科学的に体系化されておらない。教育の中心をなしている解釈法学の教育にしても、ただ前々からの伝統を追って行われているだけであって、教育は本来の目的を十分に発揮していないように思われるのである。そして、このことが、特に初学者に法学の学習をむずかしい、もしくはつまらないものと感じさせる原因となり、もしくは法学そのものを非科学的に感じさせる原因になっているのではないかと私は考えている。

四 法のあるべき姿――その理想的体系


 十 私は、法学本来のあるべき姿は、もっと科学的なものでなければならないと考えている。現在多くの大学で教えられているいろいろの教科目にしても、それら相互の間に理論的の脈絡をつけて体系立ててみれば、もっと科学の名にふさわしい法学が成り立ち、もっと学生の理性を満足せしめ得るような法学教育が行われ得るのではないかと考えている。
 以下にこの点に関する私の考えを素描すると、先ず第一に、法学の中心をなすものは「実用法学」であって、それは解釈法学と立法学とに大別されるが、その両者に通ずる科学としての本質は法政策学である。立法学は一定の政治目的のために、最もその目的に適った法令を作る科学的方法を研究する学であり、解釈法学は個々の具体的事件に適正な法的取扱いを与える科学的方法を研究する学である。科学としての解釈法学は、単に法令を形式的に解釈することを目的とする技術ではなくして、個々の具体的事件に妥当すべき法を創造することを目的としている。表面上単に法規を形式的に解釈しているように見える場合でも、実は法の創造が行われているのであって、創造を必要としない場合は、初めから解釈を要せずして法が明らかな場合にほかならない。いやしくも解釈が行われる場合には、程度の差こそあれ必ず法の創造が行われるのである。無論、法を創造すると言っても、立法によって法規が作られるのとは違う。立法の場合には、適用の対象たるべき不特定の事実を想定して抽象的な法規を作るのに反し、この場合には、与えられたる具体的事件を法的に処理するために必要な、具体的な法を、その必要の限りにおいて作るにすぎない。しかし、その法といえども、もしも他に別の同種の事件があるとすれば、それにも適用されてよいという想定の下に作られるのであって、その意味においては、なお法たる性質を有するということができる。多くの学者は今でも、一般に解釈の法創造性を認めないのを通例としている。そしてその理由として、解釈に法創造性を認めることは三権分立の政治原則をみだるものだと言うのであるが、かくのごときは、立法における法規の定立と解釈による法の創造性との差異を理解しないものと言わねばならない。
 第二に、法政策学としての実用法学は、一面において「法哲学」によって政策定立の理念と指標とを与えられると同時に、他面においては、「法社会学」によって発見された法に関する社会法則によって政策実現の方法を教えられる。実用法学と法社会学との関係は、たとえて言えば、工科の学問と理科の学問との関係、臨床医学と基礎医学との関係に似ている。技術学としての工科の学問は、一定の文化目的を達するために、自然科学としての物理学や化学によって発見された自然法則を利用する。それと同じように、政策学としての実用法学は、社会科学としての法社会学が発見した法に関する社会法則を利用して、立法や裁判の合理化を図るのである。法哲学は立法、裁判等の法実践にむかって指標を与えるけれども、その指標に従って立法し裁判する実際の動きは、法の社会法則によって制約されるのである。
 かくのごとき意味での法社会学は今のところまだ十分に発達していないから、現在では立法者や裁判官が各自の個人的経験や熟練により、または法史学や比較法学の与える個々の知識を手引として立法し、また裁判しているにすぎないけれども、やがて法社会学が段々に発達してゆくにつれて、それによって発見され定立された法の社会法則が、立法上にもまた裁判上にも利用されるようになり、かくして法政策学としての実用法学が段々に科学化するに至るのだと私は考えている。工科の学問にしても臨床医学にしても、自然科学が今のように発達するまでは、専ら工人や医者の個人的経験や熟練によってのみ行われていたのであって、それらの学問が現在のように科学の名にふさわしい学問にまで発達したのは、自然科学の発達によって自然法則を利用することができるようになったからである。法学の場合には、今なおそれと同じ程度に発達した法社会学がないために、実用法学が十分に科学化していないけれども、最近における法史学や比較法学の発達、その他人種学、社会学等の発達は、ようやく法の社会法則の発見を目指す科学としての法社会学の成立を可能ならしめつつある。私は、この科学が、やがて自然科学と同じ程度に実用法学に必要な社会法則を十分提供し得るところまで発達すれば、法学が真に科学の名にふさわしい学問にまで発展し、立法や裁判のごとき法実践が、もっと無駄と無理のない合理的なものになるに違いないと考えている。
(『法律時報』二十三巻四・五号、昭和二十六年四月・五月)





底本:「役人学三則」岩波現代文庫、岩波書店
   2000(平成12)年2月16日第1刷発行
初出:「法律時報 二十三巻四・五号」
   1951(昭和26)年4月、5月
入力:sogo
校正:noriko saito
2008年8月10日作成
2019年5月16日修正
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