古代人の思考の基礎

折口信夫




     一 尊貴族と神道との関係

尊貴族には、おほきみと仮名を振りたい。実は、おほきみとすると、少し問題になるので、尊貴族の文字を用ゐた。こゝでは、日本で一番高い位置の方、及び、其御一族即、皇族全体を、おほきみと言うたのである。この話では、その尊貴族の生活が、神道の基礎になつてゐる、といふ事になると思ふ。私は、民間で神道と称してゐるものも、実は尊貴族の信仰の、一般に及んだものだと考へる。
平安朝頃までは、天皇の御一族のことを王氏と言ひ、其に対して、皇族以下の家を、他氏と言うてゐた。奈良朝から、王氏・他氏の対立が著しくなつた。正しい意味における后は、元、他氏の出であつて、其上に、一段尊い王氏の皇后があつたことの回顧が、必要である。
尊貴族と、同じ様な生活をしてゐた、国々或は村々に於ても、其と、大同小異の信仰が、行はれてゐた。又その間、かなり違つた信仰もあつたであらうが、其等は、事大主義から、おのづから、尊貴族の信仰に従うて来た。中には、意識して変へた事実もある。其は、近江・飛鳥・藤原の時代を通じて見られる。かの大化改新の根本精神は、実は宗教改革であつて、地方の信仰を、尊貴族の信仰に統一しよう、とした所にあつた。奈良朝から平安朝にかけては、王族中心の時代になりかゝつてゐたが、此頃になると、もう王氏を脇に見て、他氏が、勢力を得て来てゐる。それで尊貴族は、つひに表面に現れないで、他氏が力を振ふやうになつた。
話を単純にする為に、例をあげると、毎年正月十五日頃行はれる御歌会始めは、今では、神聖なといふより、尊い文学行事になつてゐるが、平安朝末頃の記録を見ると、固定して来てはゐるが、まだ神聖な宗教的儀式であつた。其習慣は、平安朝を溯つて、奈良朝より、更に以前から、あつたものと思はれる。
この神聖な宗教上の儀式である御歌会は、元は、男女が両側に分れて、献詠したものであらう。天皇が御製をお示しになる時は、女房が簾越しに出す事になつてゐた。この形式の一分化として、平安朝から鎌倉時代へかけて、しばしば行はれた歌合せの場合にも、其習慣から、天皇・上皇の御歌は、女房名を用ゐて、示されてゐる。宮廷の生活をうつした、貴族の家で行はれた歌合せには、其家の主人が、女房といふ名を用ゐた。大鏡を見ても訣る。後鳥羽院は、歴代の天皇の中で、最すぐれた歌の上手であらせられたが、皆、女房と言ふ名で、歌合せをなさつてゐた。
今でも、御歌会の時には、召人が召されるが、昔は、此召人と言ふものは、大抵武官出であつた。貴族の子弟のなつてゐる武官ではなくして、五位以下の、多くは地下のものであつた。即、位の低い武官が召された。平安朝末から鎌倉へかけて、武官出の名高い歌人の出てゐるのは、即、この習慣の熟したものである。譬へば、源三位頼政・佐藤義清(西行)及び、後鳥羽院の時の藤原能任等の人々が、其である。
召人として召された、武官の相手になるのは、宮中の女房である。其も、時代が下ると、位の低い女房に変つて行つたが、元は位の高い、采女の中から出た。采女と称せられる、女房の範囲は広かつたが、平安朝になつて、此中から、上流の女房といふ階級が出て、采女の地位は、低いものになつて了うた。御歌会に、女房と武官とが対立の位置に立ち、此が発達して、宮中の歌合せとなつた。
宮中の正式な歌合せは、此一つの原因ばかりから出来たのではないが、此形式を取り込んで、厳粛なものになつて来たのである。
采女と地下の武士とが、何故に歌合せに出るやうになつたか。其は、采女は平安朝になると、前述のやうに、低い位のものとなつたが、其前には、郡領――地方の郡の長官――の女であつた。其が召されて京に上り、任期を終へて、稀には京にゐつく者もあつたが、帰国するのが例になつてゐた。帰国した者は、宮廷の諸儀式を、自分の家に伝へ、或は、其家の勢力範囲へ伝播した。
此采女に対立して、やはり郡領の息子が、京に上つてゐる。此は、近代まで続いてゐた、大番役のやうなものであつた。これ等、郡領の一族から出たものを、総括的に舎人と言ふ。此舎人も、後には、任期を勤めあげて、京にゐつくものもあつたが、奈良朝以前には、大抵帰国して、宮廷の信仰を宣伝してゐる。
宮中には、神代以来の歴史を誇る、武官の家々があつたので、舎人等が、地方から沢山上つて来ると、人数があり余る。すると、王氏は勿論、位置の高い者にお下げになる。随身ズヰジンがそれである。随身は又、仕へてゐる王族・貴族によつて、資人又は、帳内とも言うた。要するに、本体は、宮廷の舎人として考へられる。貴族の家々にゐる女房も、同様に宮廷から下されたものだ、といふ仮定も成り立つ訣で、このやうに、宮廷の生活が、次第に下へ移され、貴族の家々でも、宮廷と同様な方式があつたから、舎人・采女によつて移された、宮廷の生活様式を、直ぐに受け入れる事が、出来たのである。
平安朝末になると、武官はほんの召人として、軽く扱はれてゐるが、清輔の「奥義抄」の巻頭に、此事をまじめに書いてゐる。平安朝も末期の記録では、軽く見られてゐるが、元は、意味深く考へられてゐた。
初春朝賀の式が行はれる時に、天皇が祝詞を下されると、群臣が其に御答へとして、寿詞ヨゴトを奉る。此は、天皇のを祝福すると同時に、服従の誓ひを新しくすることである。延喜式祝詞では、祝詞・寿詞の意義が、混同して用ゐられてゐる。
日本の儀式は、同じ事を幾度も繰り返す。其は、たゞ繰り返すのではなく、平易化して複演するのである。宮廷の元旦朝賀の儀式に、寿詞を奏上すると、寿詞なる口頭の散文に対して、今一段くだけた歌なるものを、複演奏上する。歌は、寿詞から分化したもので、寿詞の詞の部分ではなく、独白の文章、自分の衷情を訴へ、理会を求める部分の集つて、分離して来たのが歌である。即、寿詞奏上の後、直会の意味に於て歌会をする。
今の神道では、それが大分くだけて、正式の祭りの後に、神社で直会ナホラヒといふものをする。其が、今は殆、宴会とくつついてゐるが、昔は神まつり(正式儀式)・直会・肆宴トヨノアカリと三通りの式が、三段に分れてゐた。この三通りの式を、次第にくだいて行ひ、直会では歌、肆宴では舞ひや身ぶりが、主になつてゐる。
朝賀の式が終つた後に、直会をする。この直会に当るものが、御歌会であつた。宮廷では、早く其を大直日オホナホビの祭りと言うてゐた。大直日・神直日カムナホビは、祝詞の神である。神授と信じてゐる伝来の祝詞にも、読んでゐる中に、誤りが出て来るかも知れない。誤りがあると、神から、禍ひが下される。
禍ひを下す神を、大禍津日神オホマガツヒノカミ八十禍津日神ヤソマガツヒノカミといひ、神官は嫌うてゐるが、実は大切な神なのである。神道では、此神に対する理解が、変つて来てゐるが、神伝来の祝詞、其に答へる寿詞の誤りを、指摘する神である。今ではどうかすると、祝詞は儀式の上で、なければならないものだから、単に読むものだと考へられさうであるが、昔は、神の言葉と信じ、寿詞では、自分等の思ふ所を述べたのである。
人間に伝はつてゐるのだから、間違ひがある。神に間違うたことを言ふと、罪せられる。誤りがあつた場合に、その誤りを指摘するのが、大禍津日神である。其を、対句式に表現した結果、その性格に分裂を起して、八十禍津日神と言うた。其を後には、悪魔のやうに考へた。誤りの無いやうに、直して貰はねばならない其神が、大直日神・神直日神であつて、神道では、別々の神のやうに考へてゐるが、此は調子をとる為の、対句から発生したものである事は、禍津日神におけると同様である。
その後、大直日・神直日二神をまつると、唱へごとに誤りがあつた場合に、其を訂正してくれた。
平安朝の宮廷では、朝賀の式が済むと、大直日の祭りに相当する事が行はれた。此を分けて、大直日の祭りと、御歌会との二とする。大直日の祭りは、朝賀の式に接して行はれたが、神を祭るだけではなく、其時奉る言葉に、誤りがあつてはならないので、訂正の意味で、これを行ふのである。この大直日の祭りの時に、歌を歌ふ。
古今集巻二十の巻頭に、大直日の歌がある。此が、正月にあるのはをかしいと言ふが、大直日だから、正月にもあるのである。
あたらしき年のはじめにかくしこそ ちとせをかねて たのしきをへめ(つめとあるのは、疑ひもなくへめの誤り)
此は、奈良朝の歌(続日本紀)の形を、少し変へて伝へてゐたのである。其で見ると、大直日の祭りが、朝賀の式に接して行はれてゐたことがわかる。実は御歌会と、大直日の祭りとは、同じものであつたのが、分裂して、別のものゝやうになつて来たのである。
御歌会の時には、男女が両方に分れる。其時の主体は、采女と舎人とであつた。此時の歌は、新作ではなくして、自分の地方々々の歌を出して、神に献じた。この歌を国風クニブリと言ふ。新しく、宮廷に服従を誓ふ意味のもので、毎年初春に、服従を新しくしたのである。
ところが、其前から、世間では、歌合せの元の形と見るべきものが、行はれてゐた。歌垣・歌論義など言ふものが、其である。其方式を、次第に取り込んで、御歌会に、歌を闘はせる事になつて、歌合せが出来て来た。
国々には、国々を自由にする魂があつた。国々の実権を握る不思議な魂即、威霊マナアがあり、其がつくと、其土地の実権を握る力を得る。
地方々々に伝承する歌には、其魂が這入つてゐて、其を歌ひかけられると、其人に新な威力が生ずる。采女・舎人が国風の歌を奉ると、天皇に威霊が著いたのである。そこで、歌を献じた地方は、天皇に服従する事になるのである。
さゞなみの国つ御神のうらさびて 荒れたるみやこ 見ればかなしも(万葉巻一)
近江国の御神の心が荒んで、近江宮廷が、こんなに荒れたのだらう、と説いてゐる――山田孝雄氏に、別解がある――が、此は、魂の考へ方からすると、人間の魂の游離する事が、うらさぶである。魂が游離すると、心が空虚になる故、寂しいといふ事になる。平安朝になると、さび/\し即、さう/″\しと使うてゐた。心が空虚で、物足らない、魂の游離した様子である。この歌は、天皇に著かねばならない近江の国の魂が、弘文天皇から游離して、天武天皇に移つて了うたから、弘文天皇は、国を天武天皇に、御委せにならねばならなくなつたことを、歌うたものである。
国々の郡領、又は其子どもが、自分の家に伝つてゐる歌を唱へると、唱へかけられた天皇に、其力が移る。天皇は、国中のあらゆる魂を持つてゐるから、日本の国を領してゐられるのであつて、此事が訣らなければ、神道の根本に触れる事は出来ない。日本の国は、武力で征服したとか、聖徳で治めたとか言ふが、宗教的に言ふと、国々の魂を献つたからである。
魂を聖躬に著けるのは、本来ならば、一度でよい筈である。其をいつしか、毎年繰り返してせねばならない、と考へて来た。其役を果す為に、郡領の息子・娘である舎人・采女は、宮廷に来てゐたのである。舎人・采女は、宮廷の現神――天皇は、神の御言詔伝達ミコトモチであり、又時には、神におなりになる――に仕へ、任終へて、地方に帰るに及んで、宮廷の信仰は、地方に拡つたのである。
此信仰の行はれた時代は、長く続いたが、武家が勢力を持つに至つて、武力で国を征服する、といふ考へ方がきざし、やがて其が、ずつと溯つた時代までもさうであつた、と考へさせるに至つた。采女達は、各国に帰れば、国神最高の巫女になり、舎人は、郡領又は其一族として、勢力があつた。此人たちが、都の信仰を、習慣的に身体に持つといふ事は、自ら日本宮廷の信仰を、地方に伝播することゝなつた。古代にあつては、信仰と政治上の権力とは、一つであつた。宗教の力のある所、必政治上の勢力も伴うてゐた。即、この舎人・采女達が、宮廷の信仰を、地方に持ち帰つたと言ふことは、日本宮廷の力が、地方に及ぶ、唯一つの道であつた。
大化改新は、今まで国々を治めてゐたクニミヤツコから、宗教上の力を奪つて、政治上の勢力をも、自ら失はせた。改新以後は、従来国造と呼んでゐたものを、郡領と称するやうになつた。郡領は、単なる官吏として、宮廷の代理者としての、政治上の力を有するに止つて、宗教上の力はなくなつた。国造から、宗教上の力を奪はなくては、尊貴族の発展は、期し難かつた。
郡領の女は、地方の神の女であり、子である。舎人は、第二の郡領であるから、其生活を変へて、宮廷式にすれば、宮廷の信仰が、地方に及ぶことになる。この方法は、自然に、無意識の間に行はれてゐたのであるが、後に、意識的に行はれるやうになつて、平安朝まで続いた。
宮廷で、春、御歌会を行ひ、郡領の子女が、其国々の歌を出したのは、国々の魂を奉る意味であつて、此が後に、歌合せに変化した。さう考へると、元旦の朝賀の式のくだけたのが、御歌会である。この歌会以外、いろんな場合に、舎人・采女が天皇即、神なる天皇に、常侍して居て、地方に帰つて後、宗教的の生活をするのであるから、宮廷の風が伝つて、宗教的の統一が行はれた。其はとりも直さず、政治上の統一でもあつた。日本の政教一致といふのは、世間で解してゐるのと異つて、今述べた意味に於いての、政教一致であつた。
舎人が地方に帰る時には、此者が中心となつて、其仕へてゐた天皇の輩下の、舎人部を拵へた。此が……天皇の大舎人部――詳しくは、日奉……大舎人部――といふものであつた。日奉――ほんとうは、日を祀るの義である――部といふものが、代々の天皇の仰せを蒙つて、諸国に散遣してゐた。其が奈良朝になつては、部曲の名のみが残つてゐるばかりであるが、我々の計り知れない昔から、日奉部が、舎人部から出て、天皇に仕へ、地方に帰つて、宮廷から伝つた神秘な力、天体の運行を計る信仰を以て、地方を治めて行つた。すると其国が、天皇の国になる。即、地方から出て、宮廷に仕へた男女が、宮廷の宗教を持つて帰る為に、信仰の非常に違うた地方も、宮廷の信仰と同様になり、宮廷の勢力が及んで、宮廷の領地と考へられるやうになつた。
また、宮廷に似た生活様式を持つたものは、次第に、都の近くに集つて来た。普通これを、大臣オホオミと言うてゐる。以前はおみを、大身と説いてゐた。即、大臣は国を持ち、天皇には、半服従してゐる、といふ位の国の主で、天皇の国に対して、対照の位置に立つ大忌である。宮廷の神道では、大忌オホミ小忌ヲミ(能楽に、小忌衣とて用ゐる)の二通りあつて、をみは直接神にあたつて、厳重な物忌みをする人であつた。後には、此人達の身分は、次第に低くなつたが、元は、その高い人ほど、厳重な物忌みをしたのであつた。今でも、大嘗祭に当つては、天皇が一番、お苦しみになるのである。三度も、風呂をお召しになる。其時小忌が、天皇の御介錯を申し上げる。小忌は、宮廷で一番、高い位置にある人で、今ならば、総理大臣とも言ふべき人である。
廻立殿クワイリフデンの湯は、絶対の神秘で訣らないが、ともかく、女が其役をする。此時に、神秘が行はれるのである。宮殿のは、平安朝まで行はれてゐて、此方は、或点訣るところがある。昔は、宮廷では、天皇が一番、苦しんでゐられた。一年を通じて、殆絶えることなしに続く祭りを、御親祭になるお苦しみは、非常なものであつた。天皇に次いでは、小忌――上達部カンダチメがさうであつた。
上達部とは通称であつて、官名ではない。極自由に用ゐられてゐた為に、平安朝になつて、女の文章が、通用語を記すやうになつてから、記録せられた語である。平安朝の記録に、はじめて現れたと言ふ理由で、此語が、奈良朝には行はれなかつたとするのは、早計であつて、奈良朝時代既に、行はれてゐた語である。当時は、記録の必要を見なかつたから、記されなかつたまでゞある。
上達部とは、上達の団体のことである。上達は神館カウダチで、物忌みをする人の籠る所である。伊勢皇太神宮にもあつた。祭りに、神の召し上るものを作るところ、即、カンダチ[#「广+寺」、378-17]で、其処にゐる人と言ふ意味である。平安朝では、五位以上の人を殿上人といふのに対して、三位以上の公卿を意味してゐる。こゝに到つて、宗教上神館に集つて、物忌みをする人といふ意味は、忘れられて了うた。そして汎称であつたのが、次第に狭くなつて、ある団体だけを言ふことになつた。
其で貴族達――所謂上達部――の生活を見ても、大和に近いところに、国をなしてゐた人達の跡で、宮廷の生活信仰に触れることが多かつた。従つて、宮廷の信仰・生活が、貴族を風化して行つた。それが次第に、地方に拡つて行き、更に民間に伝播した。我々が民間のものと思うてゐるものにも、宮廷の信仰・生活の変化したものが多い。

     二 威霊

天皇には、日本の国を治めるのに、根本的の力の泉がある。此考へが無ければ、皇室の尊厳は訣らない。其は威霊――我々は、外来魂と言うてゐるが、其を威霊と代へて見た。まなあの訳語――である。
天皇は、大和の国の君主であるから、大和の国の魂の著いた方が、天皇となつた(三種の神器には、別に、意味がある)。大和の魂は、物部氏のもので、魂を扱ふ方法を、物部の石上の鎮魂術といふ。此一部分が、神道の教派の中に伝つてゐる。此以外に、天皇になる魂即、天皇霊(敏達紀外一个処)がある。
モシハヾ者天地モロモロ神及天皇霊ニカケセム矣(敏達天皇十年閏二月)
此を平く言ふと、稜威みいつである。神聖な修飾語のやうに考へてゐるが、実は天皇霊で、大嘗祭に、聖躬に著くのである。
悠紀殿・主基殿と分れて建つのは古い事で、天武紀にも見られることである。前述のやうに、此は、初めは一つの御殿だつたに違ひない。其中、一番問題になるのは、御殿の中に、御衾を設けてあることで、神道家の中には、天照大神の御死骸が其中にあるのだ、と言うてゐる人もあるが、何の根拠もない、不謹慎な話である。天孫降臨の時、真床襲衾マドコオフスマを被つて来られたとあるが、大嘗宮の衾も、此形式を執る為のものであると思ふ。今でも、伊勢大神宮に残つてゐるかも知れないが、伊勢の太神楽に、天蓋のあるのは、此意味である。
尊い神聖な魂が、天皇に完全に著くまでは、日光にも、外気にも触れさせてはならない。外気に触れると、神聖味を失ふと考へてゐた。故に真床襲衾で、御身を御包みしたのである。その籠つてゐられる間に、復活せられた。
伊勢にあるのは、太神楽のもつと以前、恐らく三百年も前にあつたもので、近世まで、古い形のまゝ、諸国を廻つてゐる神楽の天蓋の中に、真床襲衾といふものがあつた。
五年目毎に、太神楽が廻つて来て、天蓋で、村の青年を包んで、外気に触れさせず、食物も喰べさせないで、願立てをして、踊りまはる。さうしてゐる間に、其青年は、村の若い衆となる。此は、村の中心勢力として、神事に与る資格を得るのである。実は祭りの時に、神になる資格を持つものが、若い衆である。今の太神楽以前に、諸国を歩いた神楽は、真床襲衾といふ、白い天蓋を持つて廻つた。伊勢の御師オシ達にも、そんな神楽をもつて廻つた時代があつた。其図が現存してゐるが、非常に変つたものである。
真床襲衾に包まれて復活せられた事は、天皇の御系統にだけ、其記録がある。其中で物もお上りにならずに、物忌みをなされた。その習慣がなくなつて後、逆ににゝぎの命が、真床襲衾に包まつて、此国に降り、此地で復活なされたのだと考へて来た。我々は、宮廷で、真床襲衾を度々お使ひになるので、天上から持つて降られたものと思ふが、其は、逆に考へ直す方が、正しいのである。
古代には、死の明確な意識のない時代があつた。平安朝になつても、生きてゐるのか、死んでゐるのか、はつきり訣らなかつた。万葉集にあるアラキミヤ又は、もがりのみやに、天皇・皇族を納められたことが知れる。殯宮奉安の期間を、一年と見たのは、支那の喪の制度と、合致して考へる様になつてからの事で、以前は、長い間、生死が訣らなかつたのである。死なぬものならば生きかへり、死んだのならば、他の身体に、魂が宿ると考へて、もと天皇霊の著いてゐた聖躬と、新しく魂が著く為の身体と、一つ衾で覆うておいて、盛んに鎮魂術をする。今でも、風俗歌をするのは、聖上が、悠紀殿・主基殿に、お出ましになつてゐられる間、と拝察する。
中休みをなさつた聖躬が、復活なさらなければ、御一処にお入れ申した、新しく著く御身体に、魂が移ると信じた。死と生と、瞭らかでなかつたから、御身体を二つ御一処に置けたのである。生と死との考へが、両方から、次第にはつきりして来ると、信仰的には、復活するが、事実は死んだと認識するやうになる。そして、生きてゐた者が出て来ても、一度死んだ者が、復活したのと、同じ形に考へた。出雲の国造家の信仰でも、国造の死んだ時には猪の形をした石に結びつけて、水葬したが、死んだものとは、少しも考へなかつた。其間に、新国造が出来たが、宮廷に於ける古い形と等しく、同じ衾から出て来るので、もとの人即、死者と同じ人と考へられてゐた。従つて、忌服即喪に籠る、といふ事はないのである。
といふ語は、腰巻き又は、平安朝の女房たちの用ゐた裳と思はれてゐるが、ほんとうは紐のない、風呂敷の様な、大きな布で、真床襲衾と称した処のものである。に籠るといふことは、衾に這入る事で、此間のものいみは、非常に広く、且厳重に行はれたもので、ものおもひと言うてゐる。後には、誤つた聯想から、服喪の意味に考へて来た。
元々一つの御殿を、悠紀殿・主基殿に分けたのは、生死を分けて考へる様になつたからであらう。二殿に、衾が別々に置いてあつても、其処で古い方の魂が、新しい方に移ると考へた。万葉の人麻呂の歌を見ても、天武天皇が、飛鳥の真神个原の御陵に移され、それから岩戸を開いて、天に昇られたとあるが、此は、信仰が変つてゐる。昇天するのではなく、其魂が、授受の形式で移るので、信仰的には、復活した事になるのである。
日本民族の、此国土に於ける生活は、長い歴史を持つてゐるのであつて、一部学者の言ふやうに、千年やそこらの事ではなく、かなり久しいものなのである。其長い歴史の間、天皇の魂の授受せられて行く中に、次第に天皇の死を考へて来た。もとは復活なさるとのみ考へ、天皇霊――稜威が著いたと信じてゐた。
天皇が、大和に移られてからは、大和を治める為には、大和の魂を持たねばならなかつた。其大和の魂を持つてゐたのは、物部氏だと考へられてゐた。最初は、にぎはやひの命であつた。神武天皇の大和入りより前に、既に降つてゐて、天孫は御一人である筈なのに、神武天皇の大和入りの時に、ひよつくり出て来て、弓矢を証拠に、天から降つたことを主張してゐる。
此話を正しく解釈出来ないで、政治的の意味があるやうに解いてゐるが、実はにぎはやひの命は、大和の魂で、神にまで昇つて来たのである。この命を擁立してゐたのがながすねひこであつた。にぎはやひの命が離れると、長髄彦は、直ぐに亡びて了うた。大和の国の君主のもつべき魂を、失うたからである。其魂を祀るのが、物部氏であつた。
此処で、日本神道の組織が変つて来て、神と神主との間に、血族関係を認める様になつた事を述べよう。
出雲の国造家では、もと、神と神主との間に、血族関係を認めなかつた。おほくにぬしの命の帰順後、天日隅宮に隠れて、あめのほひの命をして、祭りの事を代り司らしめた。後、おほくにぬしの命を祭ることになつて、神を祭る神主は、神の子であると言ふやうに、信仰が変化して、神と神主の家との血族関係が認められ、神主は神の子だ、といふ統一原理が出て来た。此点について、今までの研究は、非常に偏見に支配されてゐた。古代の神道を正しく見極め、新しい神道の道を進む為には、偏見があつてはならない。
以上のことから、にぎはやひの命と、其を祭る物部氏との間に、血族関係があるものと信ぜられて来た。由来物部氏は、魂を扱ふ団体で、主に戦争に当つて、魂を抑へる役をしてゐた。此点でも、物部氏をもつて、武器を扱ふ団体だ、としてゐた従来の考へ方は、改められねばならない。即、物部氏は、天皇霊の外に、大和国の魂、其他の国々の魂を扱ふ大きな家であつた。
天皇即位の時には、物部氏が魂を著け奉るだけでなく、新しく服従した種族の代表者も、出て来て其を行うた。奈良朝前までは、群臣中から、大臣・大連の人々が出て、天皇の前で、其詞を奏した。後、朝賀式が重視せられるに至つて、寿詞を奏するやうになつたのである。
今から考へると、寿詞の奏上は、新しく服従した国の外は、御一代に一度すればよい訣だが、不安に感じたのであらう、毎年其を繰り返した。新嘗を、毎年繰り返すのと同じ信仰で、魂は毎年、蘇生するものと考へたのである。此復活の信仰は、日本の古代には、強いものであつた。
近世神道で考へてゐる鎮魂の意味は、多少誤解からして、変化してゐるやうである。即游離した魂を、再、身につけるたましづめの意味になつてゐるが、古くは、外来魂(威霊)を身につける、たまふりの意味であつた。

     三 惟神の道

主上の行為を、神ながらといふ。神として・神のゆゑ・神のせいと言ふ意味で、神のまゝ、と言ふ事ではない。ながらは、のからで、神のせいで、さういふ事をする、といふのである。惟神の文字の初めて見えたのは、日本紀孝徳天皇の条で、又随神とも書いてゐる。主上が、神として何々をする、と言ふ時には惟神、神の意志のとほりに行ふ、と言ふ時には随神と書いたやうである。
万葉集などにある、惟神の用語例が、最古のものだ、と考へてゐる人もあるが、さうは思はない。万葉集に見える例も、浮動してゐるので、記・紀・万葉等の用語例を、日本最古のものとする考へ方は、よくないと思ふ。もつと前に、もつと古い意味があつたのが、幾度か変化して後、記・紀・万葉等に記録せられたのである。惟神にあつても、万葉集に出てゐるから、其が本義だ、と考へる人もあるが、其は日本の国語の発達の時代を、あまりに短く、新しく見過ぎてゐる。
惟神の意味をくにしても、記・紀・万葉等で訣らぬところは、新しい学問の力を借りて、民俗を比較研究した上に、古い用語例を集め、此と照合して、調べて行かなければならない。古い神道家の神道説はまだよいが、新しいのは哲学化し、合理化してゐる。其代表とも見るべきは、筧克彦博士の神道である。其は、氏一人の神道であり、常識であるに過ぎないので、残念ながら、いまだ神道とは、申すことが出来ないのである。
神ながらの道は、主上としての道であつて、我々の道ではない。類聚三代格に、出雲国造――政治上の権力と関係のない所は、国造と称することを、黙認してゐた。後には、公に認められた――筑前宗像国造が、采女と称して、国の女を召して自由にしてゐたのを、不都合だとして、禁止されたことが見えてゐる。当時にあつては、国造が、采女を自由にするのは、当然のことであつた。宮廷にあつても、現神として、天皇は、采女に会はれたのである。其生活を、前記国造等が、模倣してゐたのである。宮廷の神道が盛んになつて、出雲国造等の、言はゞ小さな神ながらの道と言ふべきものが、禁ぜられたのである。国造等の行うた、小さな神ながらの道も、神主たちにはあつても、民間にはなかつたのである。
主上が神祭りの時に、神として行為せられるのが、惟神の道であつた。処が主上は、殆一年中、祭りをしてゐられるので、神と人との区別がつかなくなつた。神道家は、現神アキツミカミを言語の上の譬喩だ、と思うてゐるが、古代人は、主上を、肉体をもつた神すなはち現神と信じてゐたのだ。
惟神の道とは、今述べて来たやうに、主上の神としての道、即主上の宮廷に於ける生活其ものが、惟神の道であつた。今では、神道を道徳化してゐるが、何事でも、道徳的にのみ、物を見ると言ふ事は、いけない事である。道徳以上の情熱がなくては、神社は、記念碑以外の何物でもなくなつて了ふ。今日考へられてゐる神道は、もつと道徳以外に出て、生活其物に、這入つて来なければならない。宮廷の生活だと言うても、道徳的なことばかりでなく、いろ/\な生活があつたのである。
神道の長い歴史の上から見ると、既に澆季の世のものである万葉集に、人麻呂は大宮人・労働者の区別なしに、その行為してゐることを「神ながらならし」と歌うてゐる。主上の御行動は、すべて惟神と感じ、毫も、道徳的には見てゐないといふ事は、我々も、惟神について、もう一度、考へ直して見ねばならぬ事実である。日本の神道は、新しく研究する余地の十分あるもので、国学の先輩によつて、研究し尽されたものではない。又、哲学的・倫理学的に見ることが、今直に、正しい見方だ、とする事は出来ないのである。

     四 古代詞章に於ける伝承の変化

語原解剖から、物の本質を定める事は、危険の伴ふものである。そして、或一方面から、明りがさして来たやうに思はれる。今までは、祝詞・古事記等の文章は、其自身完全なものであつて、解釈出来ないのは、我々の方が未熟なのだ。鈴木重胤・本居宣長に訣らなかつた所は、古く解釈する鍵が、既に失はれてゐて、如何とも出来ない。時代の故だと考へてゐた。
併し此は、速断から来る誤りに陥つてゐる。祝詞・古事記等を比較すれば、訣ることであるが、文中既に、矛盾が沢山ある。譬へば、天御蔭アメノミカゲと言ふ語は、祝詞だけでも、四種の用例がある。大和の如き、訣りきつたやうな語も、記・紀・万葉・祝詞と辿ると、四五種以上、意義の変化がある。其を比較すると、意義の変化につれて、用ゐられた時代の、異つてゐることが訣る。
祝詞の如きは、神代乃至は、飛鳥・藤原時代以来、伝つてゐる古いものだ、と考へられてゐるが、此は奈良朝の末から、平安朝の初め百年頃までに、出来たものである。延喜式祝詞は、全部新作とは言へないまでも、平安朝に這入るまでに、幾度か改作せられてゐる。古い種をもつてゐながら、文章は、新しいのである。新古、入り混つてゐるのに、何を標準として、解釈したらよいか。神代の用法も、飛鳥・藤原・近江、下つては、奈良・平安の用法も混つてゐる。其も純粋に、時代々々の語を用ゐてゐるのならばよいが、まじなひのやうに、伝承してゐる中に、意味が訣らなくなる。すると、訣らせる為に、時代の解釈の加つた改作をする。語についての考へが、変化して了ふのである。
此種の改作は、一再ならず、度々行はれたものと思はれる。自然の間に起る、語意の変化の外に、忘れられて、訣らなくなつてから加へられた、其時代の合理観があるのである。故に、文章や単語に、誤りがある。若し其がないならば、禍津日神・直日神の出て来る訣がない。
允恭天皇の世、大和国味白檮岡アマカシノヲカ言八十禍津日前コトノヤソマガツヒノサキで、探湯クガタチをしたことがある。家々の系図ツギブミ――古くはつぎ、記録になつたのがつぎぶみ、後にはよつぎと言ふ。天皇では、ひつぎ又はあまつひつぎといふ――の、正邪を判断する為に、其を口に唱へさせながら、手を湯につけさせた。即、当時にあつても、伝承による言葉に、誤りあることを知つてゐたのである。
天孫降臨の章は、大切な所であるが、尚、古事記・日本紀・日本紀一書皆、おなじ言葉の伝へが、区々である。日本紀は、漢文で書いたものであるが、其天孫が、日向へ下られた道筋の大切なところは、日本語でうつしてゐる位である。語部の伝ふべき一番大切な言葉が、固定した為に訣らなくなり、神聖な言葉なので、改作もせなかつたが、伝へを異にするやうになつた。或家の伝として、三種又は、四種の伝へがあるが、皆訛つてゐる。此様に、変つて行くのであるから、単語の変るのは、当然のことであつた。
今日残つてゐる、祝詞の最古いのは、延喜よりもつと早く、書き留められたものであらうが、新しい息のかゝつてゐないものはない。平安朝の末になつて、不思議にもたゞ一つ、古い祝詞が、偶然と言うてよい事情によつて残つた。宇治の悪左府藤原頼長の書いた「台記」の中に、近衛天皇の大嘗祭の時に、中臣氏の唱へた寿詞――中臣天神寿詞――が、記してある。天神寿詞といふものが、此他にも、古い家に伝つてゐたであらうが、神秘を守つた為に、亡びて了うた。氏の長者としての勢力によつて、大中臣――藤原氏が分れてから、中臣は、大中臣と称した――に伝つてゐた神秘な寿詞をも、書き留めることが出来たのである。
頼長によつて亡びずに済んだ、この中臣天神寿詞も、古い形その儘ではなく、代々少しづゝ、変化させてゐることゝ思ふ。此寿詞も、最神秘なところは、書き漏してゐて、伝へてゐない。
延喜式祝詞は、公の席上で述べることの出来るものだけで、神の内陣で、小声で唱へる神秘な語、即、宮廷の采女等によつて、神秘が守られてゐたものは、亡んで了うた。亡びない迄も、固定して訣らなくなり、或は改作せられて、半分訣つたものとなつた。訣り過ぎると、神聖味が薄くなると思うたのであらう。
古事記・日本紀ともに、其文章は、同時代のものを記してゐる、とは言へないばかりでなく、此事を頭に入れて置かなくては、国語の研究は行きづまる。此点を突き破ると、国語・国文及び、日本神道の研究も、変つて来ると思ふ。此までの研究は、余りに常識的な、一時代前の研究を、基礎としてゐたのである。

     五 信仰推移

日本の神道並びに、日本の国民道徳は、大昔なりに、一つも変つてゐないやうに、予め考へてゐるが、実は段々、変化してゐるのである。其は、此迄の考へ方からすれば、不愉快な事であらうが、変ればこそ、良くもなつて来てゐるのである。我々の祖先は、いづれ今程、いゝ生活はしてゐなかつたらうと思ふ。
もう一つの考へは、昔は理想的の国であつたが、今はおとつよ、仏教の所謂、澆季の世であるとする事である。其は、空想にすぎない。昔の道徳・信仰が、今までの間に、次第に変化してゐることは訣る。それだからと言うて、今の道徳・信仰が、直に宜しくないとは言へない。動揺してゐるのが統一され、整理せられるだけの時代を経て、後に、価値の多寡を言ふことが出来る。其原理を導き出すのには、今の方法では駄目で、今一度、昔に還つて、省みなければならない。
日本の神典を見て、一番困ることは、神と神でないものとの区別が、明瞭でない事である。古事記その他の書物に現れた、霊的な人々の記録は、同じ時代の事であると考へては、何時まで経つても、ほんとうの事は訣らない。古事記にしても書きとめられた時より、五百年以上も前の事があると見て、はじめて訣つて来る。古事記の中には、神になり切らない、霊的なものと、神になつたものとがある。
日本の信仰には、どうしても、一種不思議な霊的な作用を具へた、魂の信仰があつた。其が最初の信仰であつて、其魂が、人間の身に著くと、物を発生・生産する力をもつと考へた。其魂を産霊ムスビと言ふ(記・紀)。産霊は、神ではない。神道学者に尋ねても、産霊神と、神とを一処にする人は、まづあるまい。此神は無形で、霊魂よりは一歩進んだもので、次第に、ほんとうの神となつて来るものである。
日本の神典を見ると、神とたまとを書き分けてゐるが、此には理由がある。不思議な霊的な魂の外に、人間に力を与へてゐた魂で、其人の死後も、個人のもつてゐた魂だ、と考へられるものがある。此魂の一部分は、聖なる資格ある人に著くものである。其の他の部分は、其人だけのものである。国・邑の魂の数は、定つてゐる。此には、証拠がある。其魂が、出たり這入つたりしてゐる。一人の人が死ぬと、其魂は、外のむくろに著いて、生きて来る、と考へた。其処から魂が個人持ちのものだ、と言ふ考へが、導き出されて来た。其で考へて来たのが、魂の集る処といふことである。此が、神典で一番大切な、カムづまるである。
結局、玉留産霊タマツメムスビカミの語原は、神づまるとおなじであると思ふ。つまるは、集中する意味だとおもふ。日本神道の純化して来た時代には、高天原が神づまる場所として、斥されてゐるが、もとは、日本の国土の外、遠く海の彼方の国が考へられてゐた。其処に集つた魂が、時を定めてやつて来て、人に著くと、人が一人殖えると考へた。
此海の彼方の国が常世国トコヨノクニで、浄土・ぱらだいす或は、神の国と考へられてゐる。次第に純化せられて来て、宮廷の神道では、高天原と考へた事は、既に前に述べた。
昔は、海境ウナサカ――水平線――で、海はどかつと落ち込んでゐて、其処を越すと、常世国があると思うてゐた。海境は、行けば行くほど遠のくので、とても行きゝれない。たゞ不思議なものゝみが行く、と見てゐた。又この海境で、天と海と一つになつてゐるので、空と海とは同じだ、と思うてゐた。水と天との境が訣らなくなつて、海の彼方と言ふ考へを、空に移して来た。
此は宮廷の考へであるが、ずつと後の奈良朝の頃まで、海の彼方又は海の底と考へてゐた。其が次第に、高天原と一つになり、純化せられて、其処に、総括的な地位にある神がゐる、と信じた。常世国には、国・邑の魂が集中してゐるから、国・邑の関係が、密接である。自然、血族的に考へて、親の魂・祖先の魂の集つてゐる所と考へて来て、人間との気持ちに、親しさが出て来る。同時に、尊敬の心が生じて来る。此が魂から、神の考への出て来る基となつてゐる。

     六 数種の例 一

記・紀に、おほくにぬしの命が、海岸に立つて、葦原の中つ国の経営法を考へてゐると、海原を照して寄つて来る神がある。名前を尋ねると、俺はお前の和魂ニギミタマ荒魂アラミタマだと答へたと言ふ話が出てゐる。
神道学者は、この事をいろ/\議論してゐるが、結局、理窟に合せた、説明ばかりをしてゐる。其は、外から来る帝王となるべき人、或は、其土地を治める人が、持たねばならない、威力のある魂が、数種類ある。和魂・荒魂もそれである。此魂が、前述のおほくにぬしの命に著いて、此世を治める資格を得た。後に其魂を、大和の三輪山に祀つた、と説明してゐる。
一方、此話は、神の話になつてゐる。おほくにぬしの命が、出雲の御大ミホの岬に立つて居られた時、り来た神に、侏儒のやうなすくなひこなの神がゐた。そこで協力して、天孫降臨以前の葦原の中つ国を作つたといふ。書物によると、すくなひこなの神は、粟にはね飛ばされて、常世国に帰つた。おほくにぬしの命が、其を悲しんでゐると、海原を照して来る光りがあつたとも云ふ。即、三種の伝へがある訣である。
此は、伝へが区々になつたゞけで、常世から出て来る威霊が、おほくにぬしに著いて、葦原の国を経営する力を、与へたのである。其を、魂と感じた時に、和魂・荒魂の話となり、神と感じた時に、すくなひこなの話となつた。
常世の国から来るのは、大抵小さな神である。譬へば、信州南安曇郡の穂高の社は、物ぐさ太郎の社だといふ(お伽草紙)。つるまの郡あたらしの郷に流された、公家に出来た子が京に上つて、一度にえらくなるのは、魂が著いたからである。其肝要なところが、此話には脱けてゐる。物ぐさ太郎の話は、穂高の話ばかりでなく、山城の愛宕の本地と、関係が深い。その様な、神の話を持つて歩いた神人が、諸国にゐて、越後から川づたひに、信州に這入つて、根を下したのである。
小さな神が、人間の助けを得て、立派な神になる話は、日本の昔物語・神話に沢山ある。すくなひこなの話も、此である。物ぐさ太郎は、人間が育てゝゐる間に、立派なものになつたのである。ともかく、常世国から渡つて来る、小さな不思議な神は、もとは霊魂の信仰であつた。荒魂・和魂が、時代を経てから、すくなひこなの神に考へられて来た。魂から、神になつて来たのである。かう見なくては、日本の神典の、神と魂との関係は訣らない。この一例によつても、信仰の推移のあつたことは訣ると思ふ。即、宮廷の信仰が最進んでゐたので、其が地方の信仰を、次第に整理して行つたのである。
今述べた例は、純化せられて行つた話であるが、時代を経ると共に、不純になつた例もある。河童は、妖怪の一種のやうに考へられてゐるが、もとは、田に水を与へる、水の神様であつた。其が後に、水を祀るのに、物を賭けるやうになり、かけ物が重く見られて来ると、水欲しさに、命まで賭けて了ふやうになつた。其が何時か、神が命を要求する、といふやうに考へられて、妖怪のやうな河童が、農村に考へられた。逆推すると、河童は、純粋の水の神であつた。即、これは、堕落した神の例である。淫祠・邪神とせられてゐるものゝ中にも、元は純粋であつたものも、多く含まれてゐるのである。
更に考へると、出雲大社にあつても、記・紀では、おほくにぬしの神と教へてゐるのに、中世の事実では、立派に、すさのをを祭る事になつてゐる。此は、神が代つてゐるのである。
又、信州の諏訪明神は、たけみなかたの神を祭つてゐるのに、中世では、甲賀三郎に変つてゐる。伊吹山の洞穴に、妻覓ぎに行つて、蛇体となつた三郎は、法華経の功徳で、人界に戻つた。さうして死後、諏訪明神となつたといふ。諏訪明神が、蛇体と考へられたのは、新しい信仰ではなく、平安朝末からの事である。浄土宗の説経を集めた、安居院アグヰ神道集には、諏訪明神の本地として、右の甲賀三郎の話が出てゐる。此不思議な話の出来た理由は、他の機会に譲るが、何故、かうした信仰が、平安朝の末から、鎌倉時代にかけて、盛んになつたのであらうか。現に法華宗には、諏訪霊王といふものがあるが、甲賀三郎のことである。此は、神が零落した例である。
反対に、神の資格の昇つて来た例も多い。神の資格が昇るにつれて、神社が、国中に一ぱいになつて来た。其は、国家組織の完成に伴うてゐる。古代では、神は、もりや山に祀られた。此に対しては、反対論もあるが、三輪の神も社がなく、人によつては諏訪明神も、社がなかつたと言ふ。諏訪・三輪の社の有無は、問題外としても、社が無かつたと言ふことは、或神は社が無かつたのだ、と言ふ記憶から出た話である、とだけは言へる筈である。
古くから、天つ社・国つ社と称せられてゐる社のほかに、社の数が、次第に殖えて来た。奈良朝から平安朝にかけて、続日本紀以後の国史を見ると、天皇が、神に位をお与へになつてゐる。此に就いて、仏教では、王は十善、神は九善と称して、王の方が、一善だけ上である。だから王が、神に位を与へるのは、不思議でも何でもないことだ、と後世説明してゐるが、其を待つ迄もなく、天皇は、天つ神として、此世に出現なさつた故に、此土地で、最、尊い神である。だから天皇が、神に贈位せられ、天つ社・国つ社をお認めになるのである。
大昔から、現在のやうに、神社の数が多かつた、と考へるのは誤りである。古代に溯つて行けば、建て物のある神社はなかつたと思ふ。家の中に祭つたものが、神社になつたのであらう。殿に祭られる神は偉い、と考へられる様になると、神が殿に祭られたがりなさると思うて、次第に、殿に祭る様になつて来た。つまり国民が、自分等の周囲の、霊的な力を感ずる能力を増し、その上に、宮廷の神道の考へ方が、地方に張つて来たからであると思ふ。
信仰は、神代のまゝでなく、次第に進んで来た。明治以来、昭和の今日に至るまでの間に、神社の組織が、幾度か変つてゐる。単に為政者ばかりの為でなく、自然の要求から、神の位置を高めてゐることは、事実である。何事でも、昔からのまゝと言ふことはない。
少し話が、複雑になつて来たが、やしろは、家代と言ふことに違ひない。しろは、材料といふことであるから、家そのものではなく、家に当るもの、家と見做すべきものといふことである。
ちはやぶる神の社しなかりせば 春日の野辺に 粟蒔かましを(万葉集巻三)
春日野に、社がなかつたならば、粟を播かうものを。即、ほんとうの奥さんが無かつたら、私があなたの奥さんにならうものを、と皮肉に言うた、といふ風に釈かれてゐるが、此だけの解釈に、満足してはゐられない。神の社といふのは、今見る社ではなく、昔は所有地を示すのには、縄張りをして、野をめた。其処には、他人が這入る事も、作物を作る事も出来なかつた。神のやしろといふのも、神殿が出来てゐるのではなく、空地になつてゐながら、祭りの時に、神の降りる所として、標の縄を張つて、定めてある所を言ふ。その縄張りの中には、柱が立てゝある。
日本紀を見ると、いざなぎいざなみの二神が、天御柱アメノミハシラをみたてゝ、八尋殿を造られたとある。これ迄の考へでは、柱を択つて立て、そして、御殿を造つたとしてゐるが、みたてると言ふことは、柱にみなして立てる、と言ふ意である。仮りに、見立てるのである。此は、大嘗宮にも、伊勢皇太神宮の御遷宮の時にも、建築に関係のない斎柱イムハシラ(忌柱とも書く。大神宮の正殿のシンの柱)と言ふものを立てゝ、建て物が出来た、と仮定してゐるのでも、この意味だといふことが、想像出来る。即、柱を立てると、建て物が出来た、と想像し得たのである。斎柱の立つてゐる所がやしろで、其処へ殿を建てると、やしろではなく、みやとなる。神聖な方の住んでゐられる所は、みやである。
これの一番、適切に残つてゐるのは、諏訪である。諏訪明神で、七年目毎に行はれる御柱祭りは、元の意味は訣らなくなつてゐる。其は、大陸地方の習慣である、と言ふ人もあるが、誤りである。宮を造営するに先だつて、やしろめ、神のゐる所を作るために、柱を立てるのである。もつと簡単なのは、め縄を張るだけである。こゝに立てる柱は、一本でもよいのに、諏訪では、四本立てゝゐる。此は、古い形を遺して、適確なやしろの信仰を伝へてゐるのである。もつと溯ると、一本で、斎柱と同じであつたらう。諏訪の御柱も、宮には関係がない。此処にもほんとうは、宮を建てる前に、やしろだけの時代があつたのかも知れない。
不思議なもので、柱さへ立てば、家が建つたと同じに見立てたので、いざなぎいざなみ二神の章の、天御柱をみたてたと言ふのも、此意味である。神典の書き留められた時分になつては、神聖な語として伝へられたが、其本意は、既に忘れられて、立派な御殿を見立てたと考へてゐる。
八尋殿をお建てになつて、天御柱を廻つて、夫婦メヲトの契りをなさつたと言ふ。此は不思議なことで、新しく結婚して、夫婦になると、家を建てる。此を妻屋ツマヤ(又、嬬)と言ふ。万葉にもある。妻屋を建てなければ、正式に結婚した事にはならない。結婚する為に、家を建てるのは、いざなぎいざなみ二神の故事によつて、柱を廻るのに、傚うたのである。特に、新夫妻の別居を造る、と言ふ意味ではない。此が逆に新屋を建てると、新しい夫婦を造つて、住はせなくては、家を建てた、確実な証拠にはならない、と言ふ考へを導いて来る。夫婦になる為に家を建て、家を建てる為には、夫婦を造らなければならない、と言ふ変な論理である。日本では、逆推理・比論法を平気でやつてゐたのである。をかしいながら、理窟が立つてゐる。
いざなぎいざなみ二神が、神々をお産みになつた後、大八島をお産みになつた、と言ふことは、信仰だからいゝのだ、とだけでは済まされないので、説明するのに、ちよつと困る話である。肉体を持つた神が、何故に土地を産むのか。其が神聖なのだ、と言うたゞけでは通らない。日本紀に、淡路島をとして、大八島を産まれた、と明らかに書いてある。長兄・長女をと言うた。其で此処も、淡路島を最初に産んだ、と解釈してゐる。其様な無理な解釈でよいならば、文字はいらない。土地を産む時には、淡路島を胎盤としてお産みになると考へてゐた。つまり、腹が別なのである。昔の人としては、よく考へてゐたのだ。

     七 数種の例 二

それから、日本の国では、年の考へが、まち/\であつた。其は、暦が幾度も変つた為である。天皇は、日置暦ヒオキゴヨミといふものを持つてゐられたが、後に、それが度々、変化してゐる。
その昔の暦を考へて見ると、天皇が高処に登られて、祝詞を唱へられると、春になる。初春に、祝詞が下される、と言ふのと反対であつて、天皇が祝詞をお下しになると、春になる、と考へてゐた。
商返アキカヘシしろすと、みのりあらばこそ。わが下衣 かへしたばらめ(万葉集巻十六)
商返を、天皇がお認めになる、と言ふ祝詞が下つたら、私の下衣を返して貰ひませうが、お生憎さま。商返の祝詞がございませんから、返して頂く訣にはゆきません、と言ふのである。
商返は、日本の歴史の上では、長い間隠れてゐた。歴史の上に見えないと言ふ理由で、事実が無かつたと思ふのは、早計に過ぎる。室町時代以後になつて、徳政と言ふ不思議なことが、突然記録に現れて来たが、此は今まで、記録にも歴史にも現れずに、長い間、民間に行はれてゐたのが、時代の変化に伴うて、民衆の力が強くなつて来たので、歴史の表面に出たのである。
商返と言ふのは、社会経済状態を整へる為、或は一種の商業政策の上から、消極的な商行為であつて、売買した品物を、ある期間内ならば、各元の持ち主の方へとり戻し、又契約をとり消すことを得しめた、一種の徳政と見るべきもので、此がちようど、夫婦約束の変更、とりかはした記念品のとり戻しなどに似てゐるので、一種の皮肉な心持ちを寓して、用ゐたのである。
かうした習慣の元をなしたのは、天皇は一年限りの暦を持つて居られ、一年毎に総てのものが、元に戻り、復活すると言ふ信仰である。此信仰は続いてゐたが、事実を見ると、人間は生きてゐて変らない。其処に、信仰と現実との矛盾を感じて来た。其でも地方では、売買貸借で苦しめられて、やりきれないので、十年目とか、二十年目とかに一度、と言ふ風に、近年までやつてゐた。土地をきりかへて、班田法のやうな方法によつて、分けてやるのである。江戸時代の末まで行はれてゐたが、明治になつて、絶えて了うた。万葉時代に、事実行はれてゐたのか、それとも、伝説となつてゐたのか、不明ではあるが、商返と言へば、皆に意味が訣つたのである。男女契りを結ぶと、下の衣を取りかへて著た。著物は、魂の著き場所で、著物を換へて身に著ける、と言ふ事は、魂を半分づゝ交換して著けてゐる事である。魂を著物につけて、相手に預けてあるので、衣服を返すと、絶縁したことになる。此処に引いた歌は、軽い洒落で、半分嫉妬し、半分笑うてゐる、おどけた、つまらない歌である。併し此歌で見ても、徳政の起原の古いことが知れる。
明治初年まで、年が悪くて、稲虫がついたとか、悪疫が流行したとかすると、盆に、二度目の正月をしてゐる。暑いのに、門松を立てゝ、おめでたうを交してゐる。すると、気持ちがよくなると共に、総てが新しくなる、と考へてゐた。
正月について考へて見ても、正月の中に、正月を重ねてゐる。元日に続いて、七日正月を迎へ、更に十五日を、小正月と言うてゐる。古来の暦法と、其後に這入つて来た暦との矛盾が、其処に現れた為である。十五日は、支那の暦法でも上元の日で、重く見られてゐる。その印象が、人の頭を支配してゐた。古い時代の暦に較べて、新しい暦法では、正月を早くしてゐる。けれども、昔の正月として、上元の日を定めて、農村では守つてゐた。
地方によると、立春の日を正月と考へ、又七日も正月としてゐる。信州の南の方では、正月元日から、十五日までの間に、正月を四五回繰り返してゐる。従つて、歳暮・大晦日・節分等も、度々やつてゐる。此考へ方は、近世から起つたことではなく、大昔からあつた。暦が、幾度にも渡来したばかりでなく、日本人は、何度も繰り返さなければ、気が済まなかつたのである。
初春には、常世国から、神が渡つて来た。春の初めに行はれる春田うちは、信州にもあるが、此時は、爺婆の姿か、普通の男女の形かで出て来て、田を耕し、畔を塗り、苗を植ゑる形をして、雪中に松を刺して、稲が出来たなど言うて喜ぶ。一年中の事を、とり越してやつて見せると、土地の魂が、其様にしなければならないと感じて、春田うちにやつたとほりに、農作の上に実現して呉れると考へた。初春に、一度すればよい訣であるのに、気がすまないので、田植ゑにやり、更に二百十日・二百二十日前後にやつてゐる。其頃になると、神嘗祭りに近づいて来る。
天皇が、初春の祝詞を下される時には、必復活の形をとつて、高御座にのぼり給うた。実際は、お生れになつた形を、とらなければならなかつたのである。
昔の考へ方は、堂々めぐりをしてゐて、一つ事をするのには、其に関聯した、いろんな事をせねばならなかつた。天皇初春の復活に際しても、皇子御降誕の時の形式をとつて、大湯坐オホユヱ若湯坐ワカユヱ飯嚼イヒガミ乳母チオモがお附きする。この大湯坐は、主として、皇子に産湯をつかはせる役目をするもの、若湯坐も同様である。飯嚼は、食物を嚼んで、口うつしに呉れる者、乳母は、乳をのませる者である。この形を繰り返してせなければ、完全な式ではない。それを後世からは、この形式を、或天皇がお生れになつた時の事を伝へてゐるのだ、と考へてゐるが、これは或天皇に限つた事ではなく、常に行はれてゐる事であつた。初春ばかりでなく、祭りの時は、何時でもこの形式を執つた。
更に不思議なことがある。天皇が高所に登つて、祝詞を下すと、何時でも初春になり、その登られた台が、高天原になつて了ふ。此信仰が、日本神道の根本をなしてゐる。此を解かないから、神道の説明は、何時でも粗略なものになつてゐる。台に登つて、ものを言はれると、地上が高天原となる。この時、天皇は天つ神となる。大和及び、伊予の天香具山アメノカグヤマ、同じく大和の天高市アメノタケチ、近江のやす川などの名は、皆天にある名を移したのである。後になると、忘れられて、天から落ちて来たものだ、と考へるやうになつた。
奈良朝のものゝ断篇だ、と言はれてゐる、伊予風土記の逸文に、天香具山は、伊予にもあると記して、天上のものが二分して、大和と伊予とに落ちて来た、と考へてゐるが、此は、後代の説明である。
宮廷の祭りの時に、天上と地上とを同じものと感じ、天上の香具山と見做された処が、大和・伊予にある香具山である。天の何々と呼ばれてゐるところは、天上と地上とを同じものと見た時に、移し呼ばれた、天上の名前である。
天子は常に、祭りをなさつてゐる為に、神か人か、訣らなくなつてゐる位、天上の分子の多いお方である。後世――と言うても、奈良朝頃――は常識的に、現神と言うてゐるが、古代にあつては、神であり、神の続きと見てゐる。
此処で、天子の意味を考へて見たい。
天皇は、天つ神の御言を、此土地にもつて来られたお方である。昔は、言葉によつて、物事が変化する、と言ふ言霊コトダマの信仰をもつてゐた。言霊は単語、又は一音にあるやうに、古く神道家は解いてゐたが、文章或は、その固定した句に於て、はじめてある事実である。文章に、霊妙不可思議な力がある、と言ふ意味からして、其が作用すると考へ、更に、神の言葉に力があるとし、今度は語の中に威力が内在してゐる、と考へた。其を言霊と言ひ、其威力の発揚することを、言霊のさきはふ(又は、さちはふ)と言うた。
天皇は、天上の神の御言詔ミコトを伝達して、其土地の人、及び、魂に命令せられる。其間は、天神と同じになられるのである。
上使が「上意なれば座に直る」などゝ言ふのも、此と同じことである。天皇には、神聖な瞬間が続いてゐるのだから、神であるが、元は、御言詔持ミコトモちであらせられた。天神の御言詔どほり、其土地に実現なさるのである。
其が後には、天皇の為に、更に御言詔伝達ミコトモチを考へて来た。かうして、実権は次第に、低い位の者の手に下つて行き、武家時代には所謂、下剋上――易経の語を借りて――と言ふ事が、現れて来る。此は、上位の人と、下の者とが、同格になる時があつたのである。
天皇は、天つ神とは、別なお方であるが、同格になられる事があるので、我々の信仰では、天皇と、天つ神とを分つことが、出来なくなつてゐる。ところが、天皇と神との間に、仲だちといふものを考へて来た。信仰上の儀礼で、介添への女がゐる。天皇は、瞬間々々に神となられるが、其より更に、神の近くに生活し、直接に、神の意志を聴くものである。
 ┌a'
a┤↑
 └b
aは天つ神。a'は其御言詔持ちなる地上の神。bは介添への女性。a'に仕へねばならない尊貴族、最高位にいらつしやる方に当るbと言ふものは、信仰的にはaの妻であるが、現実的には、a'の妻の形をとる。祭りの時も、此形式をとるものである。
宮廷で、神を祭るのは天皇で、神来臨は、信仰の上のことであつて、神主が即、神であつた。今の神主は、昔の斎主イハヒヌシに当るものである。神其ものが神主で、神職は斎主の地位に下つたのである。神祭りの時には、主上は神主であると同時に、まれびとであつて、非常に神秘なことである。だから結局、自問自答の形式も、お在りになることゝ察せられる。今日の我々の、窺ふことの出来ない、不思議なことであるが、此が当然の事と考へられてゐた。只今から考へると、矛盾が沢山あるが、古代生活の感情の上の論理では、差し支へがなかつたのである。比論法の誤りに陥つてゐるが、此が日本の、根本の論理である。
天竺の因明インミヤウが、日本に渡り、又支那から、新しい衣を著た因明が、輸入せられて、支那風と、仏教其まゝの論理学とが、日本古来の論理を訂正して来たが、其処に、矛盾を生じて来た。暦法の上でも、新・旧・一月おくれの三通りの暦を、平気で用ゐて、矛盾したことをしてゐる。最後に這入つて来たのが、西洋の論理学――此とても、天竺の因明が、希臘に這入つて、変化したものに違ひないが――であつた。
この因明的の考へ方で言ふと、日本古代の論理は、感情の論理である。外国の論理学が這入つて来なかつたら、別の論理学が、成立してゐたかも知れない。前述のことも、現代の環境・論理で考へるから、不思議なのである。此は、大切な問題だとおもふ。
日本の信仰には、女神の信仰があるが、私の考へでは、女神は皆、もとは巫女であつた。此処に、永久に論断を下すことの出来ない仮説を申してみると、天照大神も最高至尊の地位にあらせられた、女神である。この仮説への道筋を述べて見よう。
記・紀を見ると、天照大神の蔭にかくれてゐる神がある。たかみむすびの神(たかぎの神とも)と言ふ神である。何の為に、此神が必要なのであらうか。日本の古い神道で、此事を考へなければならない理由がある。此神が何時も、天照大神の相談相手になつてゐられる。天照大神は、日の神ではなく、おほひるめむちの神であつた。
此神には、おほひるめの神・わかひるめの神と二種あつて、前者は御一方、後者は沢山あつた。すさのをの命が、斑馬の皮を斎服殿イミハタドノに投げ込まれた時に、気絶したのは、わかひるめの神であつた(日本紀一書)。
ひるめと言ふのは、日の即、日の神の・后と言ふことである。ひるめは、である。水の神の后を、みぬめ又は、みるめと言ふのと同じである。
出雲国造神賀詞カムヨゴトに、
此方コチカタノ古川岸フルカハギシニ生立オヒタテル若水沼間ワカミヌマノ……
と見えてゐる。神賀詞自身「若水沼間」を植物と解してゐる。日本紀の神功皇后の巻には、みづはとあつて、みづ/″\しい草葉のことになつてゐるが、よく討ねて見ると、水の神に仕へる、女の神の名前であつて、同時に、禊ぎの時に、何時も出て来る神であつた。みぬめ又はみるめで、水の妻即、水の神の后である。即ひるめは、疑ひもなく、日の神の后の意であらう。
其が次第に、信仰が変つて来ると、日の神に仕へてゐる最尊貴な、神聖な神の后を、神と考へる様になつた。私の考へでは、天照大神も、かうした意味の神である。此点で、社々にある姫神と、同じに考へることが出来ようと思ふ。神典を見ても、大神は始終、たかみむすびの神に御相談なさつていらせられる。此たかぎの神が、日の神かどうかは、此処では触れないでおく。

     八 語原論の改革

今の一例でも訣るやうに、記・紀・万葉その他の語の研究は、まう一度、根本から、やり直さなければならないと思ふ。訣つてゐる、と思うてゐる語も、冷やかに考へ直して見ると、訣らないで、通つてゐることが多い。此は、語原的の説明が、あやふやだからである。学者がかうだ、と説明する以前に、学者が疑ふことが出来ない程、昔から確かに、信ぜられて来た伝へがある。こゝで最初から、語原論をやり直す必要がある。
今日までの語原論は、奈良朝を出発点として、其以後の言葉で調べてゐるが、日本の言葉には、もつと古い歴史が見られる。何と言うても、古代研究には、材料が乏しい。諸外国の民俗と比較し、日本の書物に残つてゐる、古語・死語の解剖――尤、此には危険が伴ふが、今一度、新しく通らねばならない、大切な手段である――をして見なくては、日本の語原論は、奈良朝まで行けば、先は闇である。
現在正しいと信ぜられてゐる語原説も、学問の進歩によつて、変つて、行かなければならない。譬へば「津」と言ふ語は、一般に渡り場と考へられてゐるが、古くは、津と言はずに、御津ミツと書いてゐる。此はどうも、神に関係のある語らしい。用語例を集めて見ると、御津は大抵、貴い方の、禊ぎをなさる場所を斥してゐる。「津」に「御」と言ふ敬語がついた、と考へられ易いが、みつは、神聖な水と言ふこと、つまりみつみづとは、同じことである。
大昔は、水は神聖な、常世国から来て、此を使ふ人を、若返らせたものであつた。其水の来る場所は、定つてゐた。天皇の禊ぎをなさる場所、又なさつてはならない場所といふものが、定つてゐた。神聖な液体がみづであり、その或時期に来る場所をみつと言ふ。みつは大抵海岸で、御津と書かれてゐる。後に、其意味が訣らなくなると、言葉の感じが変つて来て、「御」を敬語と考へ「」を独立させて了うて、支那のシンの意味に、文字の上から聯想して来たのである。昔の人も、合理的に、よい加減に考へてゐた。
合理とは、らしよなりずむの訳であるが、合理と言ふことはいけないことで、無理に理くつに合せ、都合のよい理くつをつけ、無理に理くつに叶はせると言ふことで、此は、合理の意味の用ゐ方が違うてゐる。尤近頃では、好ましい用語例を持つて来た様である。ともかく、みつも、其合理的な考へ方によつて、は敬語、は船どまり場だ、と言うてゐるが、其は、支那の文字の「シン」の説明にはなつても、日本のの説明にはならない。
摂津国をの国と言うたのは、禊ぎの国として、最大切な国であつた為である。
仁徳天皇の皇后いはのひめミコトは、嫉妬深い方であるが、或時御綱柏ミツナガシハを採りに、紀の国に行かれた間に、天皇がやたのわきいらつめを宮殿に入れられた、とお聴きになり、非常に恨み怒られて、船に積んでゐた御綱柏を、悉く海に投げ込まれたので、其処を御津の崎と言ふ、といふ話があるが、この御綱柏と言ふのは、禊ぎに使ふ柏、と言ふことである。いはのひめは、他氏出の后である。この他氏出の后といふのは、天皇に禊ぎをすゝめる方である。

     九 伝襲的学説

この様に、段々探ると、今までの語原論・伝襲的学説は、次第に破られてゆく。国学の四大人は、其時代のあらゆる知識を利用して、研究されたのである。我々の時代には、又、我々の時代としての知識によつて、研究して行かなければならない。先輩の研究は、有難いものではあるが、我々は其を越えて、伝襲的学説を、改めて行かなければならない。定論と言ふものは、さうあるものではない。正確か、不正確かの問題である。

     一〇 神典解釈上の古今

神典の解釈も、古来種々と行はれてゐるが、信仰といふものは、現実に推移して行く。故に神典の解釈に当つては、古典として固定したものを、理会して行くのであるから、理会の為方があるのである。其方法及び助力が、時代によつて異つてゐる。古くから、江戸時代に至る迄は、日本紀の研究ばかりで、古事記は顧みられなかつた。日本紀は、平安朝の初めから、漢学者によつて研究せられた。日本紀講筵と呼ばれてゐる。其中に、理会の為方に違つた要素が、這入つて来てゐる。即、安倍晴明によつて知られた陰陽オンミヤウ道を、補助学科としてゐる。陰陽道には、漢学風のものと、仏教風のものとがある。其為に、日本紀の解釈も、僧の畑に這入つて行はれ、仏教式の色彩が濃くなる。神仏習合と言ふ事は、仏教派が、日本紀を中心としてやつた事である。
其が次第に進んで来る間にも、やはり、古代の精神は亡びないで、時々、その閃めきを見せてゐる。此が、江戸時代の新しい学者を刺戟して、新しい神道を築かせた所以でもある。其組織の基礎には、陰陽道・儒学・仏教等の知識が這入つてゐる。純粋の日本の神道だと考へてゐる中にも、存外、かうした輸入の知識が、這入つてゐるのである。又、古代のよい点のみを採つて、神道だとしてゐるが、かゝる常識を排して、善悪に拘らず、日本の事である以上、考へて見なければならない。即、長所短所を認め、総決算をした上で、優れた日本精神が出て来れば、よいのである。
神道の研究は、昔に立ち戻つて、始めねばならない。信仰としては、全然別問題であるが、学問としては、筧博士の「神ながらの道」に説かれたところを以て、日本の古代精神であると考へては、誤りであると思ふ。世間では、あまりに、今日に都合よいやうに、神道を変へ過ぎてゐる。

     一一 神道と仏法と

神道と言ふ語自身、神道から出たものではなく、孝徳天皇紀の「仏法を重んじて、神道を軽んず……」とあるところから出てゐる。尤、こゝの神道の語は、今日の意味とは違つて、在来の土地の神の信仰を斥してゐる。仏教の所謂「法」は、絶対の哲理であり、「道」は異端の教へである。日本に仏教が這入つて後、仏教を以て本体と考へ、日本在来の神の道を異端、又は、天部テンブの道或は、仏教の一分派のやうに感じた。
陰陽道・仏教が栄えるやうになつて、神道は、仏教から離れて来た。而も尚、仏教家が、仏教を説く方便として、何処の神は、何仏の一分派であるとか、仏法を擁護する為に、此土地にゐた精霊であるとか、言うてゐる。此考へを示してゐるのが、安居院アグヰ神道集である。
神道の語は、実は神道にとつて、不詮索な語であつた。命名当時に溯つて見れば、迷惑を感ずるものである。神ながらの道などゝ言ふ方が、まだよい。併し、語は同じでも、意味は、時代によつて変化するものであるから、「神道」と言ふ語の出所も、意味も忘れられてゐる。故に、神道と言うてゐて、何等さし支へない訣である。

     一二 神道と民俗学と

今後の神道は、如何にして行けばよいか。今までは、民間の神道を軽んじて、俗神道と称して省みなかつた。これは、江戸時代の学者が驕つて、俗神道は、陰陽道・仏教等の影響を受け過ぎてゐる。自分等の考へてゐるのが、古代の神道である、と自惚れた結果である。ところが、彼等の考への基礎は、漢学や仏教であつて、却て俗神道の中に、昔から亡びずに伝つてゐる、純粋な古代精神が、閃めいてゐるのである。
其純粋な古代精神を見出すのが、民俗学である。今まで述べて来た中に、若し多少でも、先輩の説よりも、正しいものがあつたとすれば、其は民俗学の賜である。俗神道中から、もつと古い神道を、民俗学によつて、照し出したお蔭である。かうして行けば、新しい組織が出来、而もそれは、従来の神道を破るものではないと思ふ。今の神道は、余りに急拵へに過ぎる。江戸時代に、急に組織したものを、明治政府が、方便的に利用したもので、半熟である。今の中に、まう一度、訂正することなしに、捨てゝ置いたならば、古代精神を閃めかしてゐる、国中の古い民俗が、次第に亡びて行つて了ふに違ひない。幸に日本は、他の国に較べて、確かに、非常に古い精神を遺してゐる。物忘れをしないのか、頑固なのか、古い生活を、近代風に飜訳しながら、元の形を遺してゐる。陰陽道にも、仏教・儒教にも妥協しながら、新しい形の中に、古いものを遺してゐる。
譬へば、盆の精霊棚は、仏教のものではなく、神道固有のものに、仏教を多少取り入れたものである。又七夕も、奈良朝以前に、支那の陰陽道の乞巧奠の信仰、即、星まつりの形式の這入つたものだ、と思はれてゐるが、ほんとうは、日本固有のものである。其が、後に迄伝つたのは、陰陽道の星まつりの形式と、合体した為である。表面だけを見て、俗神道だ、仏教的だ、など言うてゐてはならない。
神道家の中には、陰陽師・法印・山伏しなどで、明治に這入つて、神官となつたものがある。三四十年の間に、神道の形が出来たのであつて、其処には、陰陽道・仏教・儒教等への変な妥協や、欠陥があるに違ひない。其を指摘し、更に今までの法印や、陰陽師等のやつてゐた事の中にも、神道の古代精神を、見出さなければならない。此は神道そのものゝ為ばかりではなく、日本人の生活に、まう一度、新しい興奮を持ち来す為でもある。
今の世がよくない、とは思はないが、糜爛し切つてゐる事は、事実である。其には、文芸復興によつて、清新な気持ちを吹き込まなければならない。十年前に、万葉熱の起つたのは、その先触れと見る事が出来る。今は、万葉ぶりを標榜しながら、新しい精神のない時代に這入つてゐる。此処に、おぞんが必要となる。海の彼方、常世国から、遠く高天原から、青い/\空気を、吸ひ込まなければならない。

     一三 国民性の基礎

明治以後、安直な学問が栄えたが、もつと本式に腰を据ゑて、根本的に、古代精神の起つて来るところを研究して、古代の論理を尋ねて来る必要がある。其が、日本の国民性の起りである。芳賀先生の「国民性十論」以来、日本の国民性と言へば、よい処ばかりを並べてゐるが、事実はよい事のみではない。もつと根本に溯つて、国民性の起つて来る、周囲の法則・民族性の論理、即、古代論理の立て方を、究めなければならない。此処から、国民性も起つて来るのである。何の為に、忠君愛国の精神がありながら、下剋上の考へが起つて来たのであらうか。どうしても、古代論理にまで溯つて、考へて見なければならないのである。かう言つた種々の問題は、まう一度、ほんとうに情熱をもつて、祖先の生活を考へ、以て古代論理を研究しなければならないと思ふ。





底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行
初出:「民俗学 第一巻五・六号、第二巻第二号」
   1929(昭和4)年11、12月、1930(昭和5)年2月
※「昭和四年八月三十・三十一日、信濃人会講演筆記」の記載が底本題名下にあり。
※底本の題名の下に書かれている「昭和四年八月三十・三十一日、信濃人会講演筆記。昭和四年十一・十二月、五年二月「民俗学」第一巻五・六号、第二巻第二号」はファイル末の「初出」欄、末尾注記に移しました。
※底本では「訓点送り仮名」と注記されている文字のうち「ノ」「ツ」「能」「爾」は本文中に小書き右寄せになっています。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2006年4月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について