人間惡の創造

折口信夫




若い頃、よく衆生の恩など言ふ語を教はつたものだが、その用語例に包含させては、ちよつと冷淡過ぎる氣もする。併し誰でも讀んで居り、又その中の何分の一かゞ、ちよつとも讀まないでゐて、而も讀んだ世間から押しよせて來る知識によつて、一體の智慧の水準の高まつてゐると言ふことは珍しく言ふ程のことはない。明治以後さういふ影響を殘した書物を數へ立てれば、きりもないが、その十種には入らなくても、最讀まれた五十種位に數へなければならない程、日本人の心にひろがつてゐる「知識の書」がある。こなんどいるしやあろつく・ほうむずだと言つても、恐らく餘程の頑固人でない限りは、快くうけ入れるだらう。愛讀者の中には、之を「選書十種」の中に入れる人もゐるに違ひない。私などが、ろくすつぽふ讀めぬ力で、僅かの原書を辿つたり、譯書で讀んだほうむずは、もう四十年或はもつと前の記憶になつてしまつてゐる。
此頃延原氏本によつて、すつかり忘れてゐた老先輩にめぐり遇つた樣な喜びを與へられてゐる。これに同感を表しておいでの同年輩の方も、多いことゝ考へる。かういふ風に、舊相識の書の復習を樂しんでゐる私には、漠としたものだが、心を掠めるどいるに對する感謝の心がある。
話の口ならし、手品の手ならし見たやうに、始中終シヨツチユウ論理演習の枕話マクラをふつてゐる部分は、今見ても、數枚飛ばして讀みたくなるが、此頃になつて、つく/″\感じる部分がある。若い時代に、かう言ふ所はどう讀んでゐたかと反省せずには居られない。話の解決に多く見える行き方である。私ならどう書くだらうと言ふ氣がする。きりすと教國人である作者が、きりすとの子としての當然の解決を、多くの場合つけてゐることだ。人間の目より、もつと大きな輝きが、法律・裁判・政治・習慣の上に臨んでゐることを、はつきりどいるが書いてゐることを、さうは言つても、多くの人は知らないでゐるかも知れない。これが、近頃の野村さんの作物の、何と言ふことなく、多くの支持者をもつてゐる理由ではなからうか。其大衆性の故でなく、大衆の間にもつと正しい判斷が抱懷せられてゐることを、どいるが最ハヤくに示してゐたのであつた。
戰爭後念書人ネンシヨジンの急場の救ひになつたのは、實際推理小説大小作家の業績であつた。極めて短い間だつたが、原書・飜譯書の自由に與へられなかつた時期が續いた。だが推理作家が勢に乘つて來て、凡、「血みどろ」「拔け穴知らず」など言ふ技術を競ふばかりで、探偵小説本來の目的など言ふことは考へても見ないやうである。
江戸川さんが、殆何も書かなくなつたのは、色々な理由の上に、更に、かう言ふ風潮に對するあきたらなさが、心を重くしつゞけてゐるのであらう。かつ/″\聞えて來る歐米の探偵物の傾向が、かう言ふ風を益助長した爲に、現實と探偵小説は非常に離れて來た。これは今の中に、何とかしてなければならない世界的の事實らしい。事實じようだんぢやないと言はずに居られないやうな殘虐や、詭計がみなぎつてゐる。實際かういふ小説の愛讀者は、木々さんの持説のやうに、推理が文學から逸出しても、問題にしない癖がついてゐる。だから何處までゆくか限度が知れない。若い時代の我々が、どいるに微かな感謝を抱いてをつたのは、間違ひではない。時々これがまあどいるかと思はれるやうな血の小説もあるが、同時に多く彼は甚屡、神の如き反省をしてゐる。
神だつて人を憎む。寧、神なるが故に憎むと言つてよい。人間の怒りや怨みが、必しも人間の過誤からばかり出てゐるとは限らない。而も度々、おそらく一生のうちに幾度か、正當な神の裁きが願ひ出たくなる。かう言ふ時に、ふつと原始的な感情が動くものではないか。多くの場合、法に照して、それは惡事だと斷ぜられる。併し本人はもとより彼等の周圍に、その處斷をウベナはぬ蒙昧な人々がゐる。かう言ふ法と道徳と「未開發」に對する懷疑は、文學においては大きな問題で、此が整然としてゐないことが、人生を暗くしてゐる。日本でも舊時代の「政談」類が、長く人氣を保つたのは、この原始的な感情を無視せなかつた所にあるとも言へる。どいるは極めてしばしば、人間の處置はこれまでゞ、これから先は、我々法に與る者の領分ではないと言ふ限界を、はつきり見つめて、其ははつきりと物を言つてゐるのである。即法律が神の領分を犯そうとすることを、力強く拒んでゐるのである。
こと/″\しく言ふ程のことではないが、ほうむずの據り所になつたもでるがあるにしろ、此神の如き素人探偵の持つた特異性は、いつも固定してゐない。人間の生き身が常に變化してゐるやうに、ほうむずは、生きて移つてゐる。而も彼の特異性が世間にはたらきかけて、犯罪を吸ひ寄せ、罪惡を具象して來る。さうして恰も神自身のやうに、犯罪を創造して行く。彼の口は、皮肉で、不逞な物言ひをするに繋らず、犯蹟を創作する彼の心は、極めて美しい。ほうむずを罪惡の神のやうに言つた風に聞えれば、私の言ひ方が拙いので、世の中の罪が彼の氣稟に觸れると、自ら凝集して、固成しないではゐられなくなる。そして次々に犯罪を發見し、又それ自身眞に、その罪惡と別れてゆく。
彼が往々事の起る前兆の樣に行つてゐる化學實驗――それは、さう言ふ殆空虚な、靜まりきつた氣雰の中に、世間犯罪の凝集して來るのを待つてゐるものゝやうにしか思はれない。だから、ほうむずの物語は、どいるの行ふ鎭魂術であつたと言つてもよい。
どいるの創造した異質的な義人も、民情の違つた他國では、其點は認められてゐないやうだ。海を渡つて、あるせいぬ・るぱんに戰ひを挑みに來るへるろつく・しよるむすに到つては、唯二人の魔法使ひが術比べの場をゲンじたに過ぎない。ほうむずの國とるぱんの國とでは、「人生詩」を異にしてゐる。――私には、さうとしか思はれない。





底本:「折口信夫全集 第廿七卷」中央公論社
   1968(昭和43)年1月25日初版発行
初出:「シャーロツク・ホームズ全集 月報」第10號
   1952(昭和27)年3月
※底本の題名の下に書かれている「昭和二十七年三月『シャーロツク・ホームズ全集』月報第十號」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:高柳典子
校正:大久保ゆう
2003年12月27日作成
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