山越しの阿弥陀像の画因

折口信夫




極楽の東門に 向ふ難波の西の海 入り日の影も 舞ふとかや
渡来文化が、渡来当時の姿をさながら持ち伝えていると思われながら、いつか内容は、我が国生得のものと入りかわっている。そうした例の一つとして、日本人の考えた山越しの阿弥陀像あみだぞうの由来と、之が書きたくなった、私一個の事情をここに書きつける。
「山越しの弥陀をめぐる不思議」――大体こう言う表題だったと思う。美術雑誌か何かに出たのだろうと思われる抜き刷りを、人から貰うて読んだのは、何でも、昭和の初めのことだった。大倉粂馬さんという人の書かれたもので、大倉集古館におさまって居る、冷泉為恭筆の阿弥陀来迎図らいごうずについての、思い出しばなしだった。不思議と思えば不思議、何でもないと言えば何のこともなさそうな事実たんである。だがなるほど、大正のあの地震に遭うて焼けたものと思いこんで居たのが、偶然助かって居たとすれば、関係深い人々にとっては、――これに色んな聯想れんそうもつき添うとすれば、奇蹟談の緒口いとぐちにもなりそうなことである。喜八郎老人の、何の気なしに買うて置いたものが、為恭のだと知れ、其上、その絵かき――為恭の、画人としての経歴を知って見ると、絵に味いが加って、いよいよ、何だか因縁らしいものの感じられて来るのも、無理はない。
古代仏画を摸写もしゃしたことのある、大和絵やまとえ出の人の絵には、どうしても出て来ずには居ぬ、極度な感覚風なものがあるのである。宗教画に限って、何となくひそかに、愉楽しているような領域があるのである。近くは、吉川霊華を見ると、あの人の閲歴に不似合いだと思われるほど濃い人間の官能が、むっとする位つきまとうて居るのに、気のついた人はあろうと思う。為恭にも、同じ理由から出た、おなじ気持ち――音楽なら主題というべきもの――が出ている。私は、此絵の震火をのがれるきっかけを作った籾山半三郎さんほどの熱意がないと見えて、いまだに集古館へ、この絵を見せて貰いに出かけて居ぬ。話は、こうである。ある日、一人の紳士が集古館へ現れた。此画は、ゆっくり拝見したいから、別の処へ出して置いて頂きたいと頼んで帰った。其とおりはかろうて、そのまま地震の日が来て、忘れたままに、時が過ぎた、と此れが発端である。しょうの物を見たら、これはほんとうに驚くのかも知れぬが、写真だけでは、立体感を強いるような線ばかりが印象して、それに、むっちりとしたししおきばかりを考えて描いているような気がして、むやみに僧房式な近代感を受けて為方しかたがなかった。其に、此はよいことともわるいこととも、私などには断言は出来ぬが、仏像を越して表現せられた人間という感じが強過ぎはしなかったか、と今も思うている。
この絵は、弥陀仏の腰から下は、山の端に隠れて、其から前の画面は、すっかり自然描写――というよりも、壺前栽つぼせんざいを描いたというような図どりである。一番心の打たれるのは、山の外輪に添うて立ち並ぶ峰の松原である。その松原ごしに、阿弥陀は出現しているわけであった。十五夜の山の端から、月の上って来るのを待ちつけた気持ちである。下は紅葉があったり、滝をあしらったりして、古くからの山越しの阿弥陀像の約束を、いかそうとした古典絵家の意趣は、併しながら、よく現れている。
此は、為恭の日記によると、紀州根来ねごろに隠れて居た時の作物であり、又絵の上端に押した置き式紙の処に書いた歌から見ても、阿弥陀の霊験によって今までのがれて来た身を、更に救うて頂きたい、という風の熱情を思い見ることが出来る。だから、漫然と描いたものではなかったとえる。心願を持って、此は描いたものなのだ。其にしては絵様は、如何にも、古典派の大和絵師の行きそうな楽しい道をとっている。勿論、個人としての苦悶くもんあとなどが、そうそう、絵の動機に浮んで見えることは、ある筈がない。絵は絵、思いごとは思いごとと、別々に見るべきものなることは知れている。為恭は、この絵を寺に留めて置いて、出かけた旅で、浪士の刃に、落命したのであった。
今こうして、写真を思い出して見ると、弥陀の腰から下を没している山の端の峰の松原は、如何にも、写実風のかき方がしてあったようだ。そうして、誰でも、こういう山の端を仰いだ記憶は、思い起しそうな気のする図どりであった。大和絵師は、人物よりも、自然、装束の色よりも、前栽の花や枝をかくと、すこしの不安もないものである。
私にも、二十年も前に根来・粉川あたりの寺の庭から仰いだ風猛かざらぎ山一帯の峰の松原が思い出されて、何かせつない気がした。滝や、紅葉のある前景は、此とて、何処にもあるというより、大和絵の常の型に過ぎぬが、山の林泉の姿が、結局調和して、根来寺あたりの閑居の感じに、適して居る気がするのではなかろうか。
さて其後、大倉集古館では、何ということなく、掛けて置いたところが、その地震前日の紳士が、ふらりと姿をあらわして実は之を別の処に出して置いて、静かに拝ましてくれというたのは、自分だったと名のるという後日譚になり、其が、籾山さんだったという事になって、又一つ不思議がつき添うて来る、ということになるのだが、此とても、ありそうな事が、狭い紳士たちの世間に現れて来た為に、知遇の縁らしいものを感じさせたに過ぎぬ。が、大倉一族の人々が、此ほど不思議がったというのには、理由らしいものがまだ外にあるのであった。事に絡んで、これはこれはと驚くと同時に、山越しの弥陀の信仰が保って来た記憶――そう言うものが、漠然と、此人々の心に浮んだもの、と思うてもよいだろう。一家の中にも、喜六郎君などは、暫時ながら教えもし、聴きもした仲だから、外の族人よりは、この咄のとおりもよいだろう。
どんな不思議よりも、我々の、山越しの弥陀を持つようになった過去の因縁ほど、不思議なものはまず少い。誰ひとり説き明すことなしに過ぎて来た画因が、為恭の絵を借りて、えときを促すように現れて来たものではないだろうか。そんな気がする。
私はこういう方へ不思議感を導く。集古館の山越しの阿弥陀像が、一つの不思議を呼び起したというよりも、あの弥陀来迎図を廻って、日本人が持って来た神秘感の源頭が、震火の動揺に刺激せられて、目立って来たという方が、ほんとうらしい。
なぜこの特殊な弥陀像が、我々の国の芸術遺産として残る様になったか、其解き棄てになった不審が、いつまでも、民族の宗教心・審美観などといえば大げさだが、何かのきっかけには、駭然がいぜんとして目を覚ます、そう謂ったあり様に、おかれてあったのではないか。だから事に触れて、思いがけなく出て来るのである。そう思えば、集古館の不思議どころでなく、以前には、もっとしばしば、そう言う宗教心を衝激したことがあったようである。手近いところでは、私の別にものした中将姫の物語の出生なども、新しい事は新しいが、一つの適例と言う点では、疑いもなく、新しい一つの例を作ったわけなのである。
だが其後、おりおりの感じというものがあって、これを書くようになった動機の、私どもの意識の上に出なかった部分が、可なり深く潜んでいそうな事に気がついて来た。それが段々、姿を見せて来て、何かおもしろおかしげにもあり、気味のわるい処もあったりして、私だけにとどまる分解だけでも、試みておきたくなったのである。今、この物語の訂正をして居て、ひょっと、こう言う場合には、それが出来るのかも知れぬという気がした。――其だけの理由で、しかも、こう書いていることが、果してぴったり、自分の心の、深く、重たく折り重った層を、からりからりと跳ねのけて、はっきり単純な姿にして見せるか、どうかもそれはわからぬのである。
日本人総体の精神分析の一部に当ることをする様な事になるかも知れぬ。だが決して、私自身の精神を、分析しようなどとは思うても居ぬし、又そんな演繹式えんえきしきな結果なら、して見ぬ先から訣っているような気もするのだから、一向して見るだけの気のりもせなんだのである。
私の物語なども、わば、一つの山越しの弥陀みだをめぐる小説、といってもよい作物なのである。私にはどうも、気の多い癖に、又一つ事に執する癖がありすぎるようである。だが、そう言うてはうそになる。何事にも飽き易く、物事を遂げたことのない人間なのだけれど、要するに努力感なしに何時までも、ずるずるべったりに、くっついて離れぬという、ふみきりがわるいと言おうか、未練不覚の人間といおうか、ともかく時には、驚くばかり一つ事に、かかわっている。旅行なども、これでわりにする方の部に入るらしいが、一つ地方にばかり行く癖があって、今までに費した日数と、入費をかければ、およそ日本の奥在家・島陰の村々までも、あらかたは歩いている筈である。それがそうなって居ぬのは、出たとこ勝負に物をするという思慮の浅さと、前以てものを考えることを、大儀に思うところから来るのは勿論だが、どうも一つ事から、容易に、気分の離れぬと言う性分が、もとになっている様である。
さて、今覚えている所では、私の中将姫の事を書き出したのは、「神の嫁」という短篇未完のものがはじめである。此は大正十年時分に、ほんの百行足らずの分量を書いたきり、そのままになっている。が、横佩垣内よこはきかきつの大臣家の姫の失踪しっそう事件を書こうとして、尻きれとんぼうになった。その時の構図は、すべてけろりと忘れたようなあり様だが、藕糸曼陀羅ぐうしまんだらには、結びつけようとはしては居なかったのではないかと思う。
その後もどうかすると、之を書きつごうとするのか、出直して見ようと言うのか、ともかくもいろいろな発足点を作って、書きかけたものが、幾つかあった。そうして、今度のえじぷともどきの本が、最後に出て来たのである。別に、書かねばならぬと言うほどの動機があったとも、今では考え浮ばぬが、何でも、少し興が浮びかけて居たというのが、何とも名状の出来ぬ、こぐらかったような夢をある朝見た。そうしてこれが書いて見たかったのだ。書いている中に、夢の中の自分の身が、いつか、中将姫の上になっていたのであった。だから私から言えば、よほど易い路へ逃げこんだような気が、今におきしている。ところが、亡くなった森田武彦君という人のすすめで、にわかに情熱らしいものが出て来て、年の暮れに箱根、年あけて伊豆大仁おおひとなどにこもって書いたのが、大部分であった。はじめは、此書き物の脇役になる滋賀津彦に絡んだ部分が、日本の「死者の書」見たようなところがあるので、これへ、聯想れんそうを誘う為に、「穆天子伝ぼくてんしでん」の一部を書き出しに添えて出した。そうして表題を少しひねってつけて見た。こうすると、・漢・洋の死者の書の趣きが重って来る様で、自分だけには、気がよかったのである。
そうする事が亦、何とも知れぬかの昔の人の夢を私に見せた古い故人の為の罪障消滅の営みにもあたり、供養にもなるという様な気がしていたのである。書いている内の相当な時間、その間に一つも、心に浮ばなんだ事で、出来上って後、段々ありありと思い出されて来た色々の事。まるで、精神分析に関聯した事のようでもあるが、潜在した知識を扱うのだから、其とは別だろう。が元々、覚めていて、こんな白日夢を濫書するのは、ある感情が潜在しているからだ、と言われれば、相当病心理研究の材料になるかもしれぬ。が、私のするのは、其とは、違うつもりである。もっとしかつめらしい顔をして、仔細しさいらしい事を言おうとするのである。だから、書かぬ先から、余計な事だと言われそうな気おくれがする。
まず第一に、私の心の上の重ね写真は、大した問題にするがものはない。もっともっと重大なのは、日本人の持って来た、いろいろな知識の映像の、重って焼きつけられて来た民俗である。其から其間を縫うて、もっともらしい儀式・信仰にしあげる為に、民俗民俗にはたらいた内存・外来の高等な学の智慧である。
当麻たぎま信仰には、妙に不思議な尼や、何ともわからぬ化身の人が出る。謡の「当麻」にも、又其と一向関係もないらしいもので謂っても、「朝顔の露の宮」、あれなどにも、やはり化尼けにが出て来る。曼陀羅縁起以来のつながりあいらしい。私の場合も、語部かたりべうばが、後に化尼の役になって来ている。
此などは、確かに意識して書いたように覚えている。その発端に何ということなしに、ふっと結びついて来たのだから、やはりそう言うことになるかも知れぬ。が、人によっては、時がたてば私自身にも、私の無意識から出た化尼として、原因をここに求めそうな気がする。それはともかくも、実際そんな風に計画して書いて行くと、歴史小説というものは、合理臭い書き物から、一歩も出ぬものになってしまう。
岡本綺堂の史劇というものは、歴史の筋は追うていても、如何にも、それ自体、微弱感を起させる歴史であった。其代りに、読本作者のした様な、史実或は伝説などの合理化を、行って見せた。その同じ程度の知識は、多くの見物にも予期出来るものであって、そうした人達は、見ると同時に、作者の計画を納得するという風に出来ていた。其が、綺堂の新歌舞伎狂言の行われた理由の一つでもあった。何しろ、作者と、読者・見物と並行しているという事は、大衆を相手にする場合には、余程強みになるらしい。その書き物も、其が歴史小説と見られる側には十分、読本作者や、戯曲における岡本綺堂が顔を出して居る。だが、私共の書いた物は、歴史に若干関係あるように見えようが、謂わば近代小説である。併し、舞台を歴史にとっただけの、近代小説というのでもない。近代観に映じた、ある時期の古代生活とでもいうものであろう。
老語部を登場させたのは、何も之を出した方が、読者の知識を利用することが出来るからと言うのではない。殆無意識に出て来る類型と択ぶ所のない程度で、化尼になる前型らしいものでも感じて貰えればよいと思うたのだ。こんな事をわざわざ書いておくのは、此後に出て来る数条の潜在するもののはたらきと、自分自身混乱せぬよう、自分に言い聞かせるような気持ちでする訣である。
称讃浄土仏摂受経しょうじゅぎょうを、姫が読んで居たとしたのは、後に出て来る当麻曼陀羅の説明に役立てようと言う考えなどはちっともなかった。唯、この時代によく読誦どくしょうせられ、写経せられた簡易な経文であったと言うのと、一つは有名な遺物があるからである。ところが、此経は、奈良朝だけのことではなかった。平安の京になっても、慧心僧都えしんそうずの根本信念は、此経から来ていると思われるのである。ただ、伝説だけの話では、なかったのである。此ひじり生れは、大和葛上郡――北葛城郡――当麻村というが、くわしくは首邑しゅゆう当麻を離るること、東北二里弱の狐井・五位堂のあたりであったらしい。ともかくも、日夕二上山ふたかみやまの姿を仰ぐ程、頃合いな距離の土地で、成人したのは事実であった。
ここにあらかじめ言うておきたいことがある。表題は如何ともあれ、私は別に、山越しの弥陀みだの図の成立史を考えようとするつもりでもなければ、また私の書き物に出て来る「死者」のおもかげが、藤原南家郎女なんけいらつめの目に、阿弥陀仏とも言うべき端厳微妙な姿と現じたと言う空想の拠り所を、聖衆来迎図しょうじゅらいごうずに出たものだ、と言おうとするのでもない。そんなものものしい企ては、最初から、しても居ぬ。ただ山越しの弥陀像や、彼岸中日の日想観の風習が、日本固有のものとして、深く仏者の懐に採り入れられて来たことが、ちっとでもわかって貰えれば、と考えていた。
四天王寺西門は、昔からわれている、極楽東門に向っているところで、彼岸の夕、西の方海遠く入る日を拝む人の群集くんじゅしたこと、およそ七百年ほどの歴史を経て、今も尚若干の人々は、淡路の島は愚か、海の波すら見えぬ、すすふる西の宮に向って、くるめき入る日を見送りに出る。此種の日想観なら、「弱法師よろぼうし」の上にも見えていた。舞台を何とも謂えぬ情趣に整えていると共に、梅の花咲き散る頃の優なる季節感がなびきかかっている。
しかも尚、四天王寺には、古くは、日想観往生と謂われる風習があって、多くの篤信者の魂が、西方の波にあくがれて海深く沈んで行ったのであった。熊野では、これと同じ事を、普陀落渡海ふだらくとかいと言うた。観音の浄土に往生する意味であって、※(「水/(水+水)」、第3水準1-86-86)びょうびょうたる海波をぎきって到りく、と信じていたのがあわれである。一族と別れて、南海に身を潜めた平維盛これもりが最期も、此渡海の道であったという。
日想観もやはり、其と同じ、必極楽東門に達するものと信じて、謂わば法悦からした入水死じゅすいしである。そこまで信仰においつめられたと言うよりもむしろ、自らたまのよるべをつきとめて、そこに立ち到ったのだと言う外はない。そう言うことが出来るほど、彼岸の中日は、まるで何かを思いつめ、何かにおびかれたようになって、大空の日を追うて歩いた人たちがあったものである。
昔と言うばかりで、何時と時をさすことは出来ぬが、何か、春と秋との真中頃に、日祀ひまつりをする風習が行われていて、日の出から日の入りまで、日を迎え、日を送り、又日かげと共に歩み、日かげと共に憩う信仰があったことだけは、確かでもあり又事実でもあった。そうして其なごりが、今も消えきらずにいる。日迎え日送りと言うのは、多く彼岸の中日、朝は東へ、夕方は西へ向いて行く。今も播州に行われている風が、その一つである。而も其間に朝昼夕と三度まで、米を供えて日を拝むとある。(柳田先生、歳時習俗語彙ごい)又おなじ語彙に、丹波中郡で社日参りというのは、此日早天に東方に当る宮や、寺又は、地蔵尊などに参って、日の出を迎え、其から順に南を廻って西の方へ行き、日の入りを送って後、かえって来る。これをともと謂っている。宮津辺では、日天様にってんさま御伴おともと称して、以前は同様の行事があったが、其は、彼岸の中日にすることになっていた。紀伊の那智郡では唯おともと謂う……。こうある。
何のわけとも知らず、社日や、彼岸には、女がこう言うぎょうの様なことをした。又現に、してもいるのである。年の寄った婆さまたちが主となって、まれに若い女たちがまじるようになったのは、単に旧習を守る人のみがするだけになったと言うことで、昔は若い女たちがかえって、中心だったのだろうと思われる。現にこの風習と、一緒にしてしまって居る地方の多い「山ごもり」「野遊び」の為来しきたりは、大抵娘盛り・女盛りの人々が、中心になっているのである。順礼等と言って、幾村里かけて巡拝して歩くことを春の行事とした、北九州の為来りも、やはり嫁入り前の娘のすることであった。鳥居を幾つ綴って来るとか言って、菜の花桃の花のちらちらする野山を廻った、風情ある女の年中行事も、今は消え方になっている。
そんなに遠くは行かぬ様に見えた「山ごもり」「野あそび」にも、一部はやはり、一処に集り、物忌みするばかりでなく、我が里遥かに離れて、短い日数の旅をすると謂う意味も含まって居たのである。こう言う「女の旅」の日の、以前はあったのが、今はもう、極めて微かな遺風になってしまったのである。
併し日本の近代の物語の上では、此ほのかな記憶がとりあげられて、出来れば明らかにしようと言う心が、よほど大きくひろがって出て来て居る。旅路の女の数々の辛苦の物語が、これである。尋ね求める人に廻りあっても、其とは知らぬあわれな筋立てを含むことが、此「女の旅」の物語の条件に備ってしもうたようである。
女が、盲目でなければ、尋ねる人の方がそうであったり、両眼すずやかであっても行きちがい、尋ねあてて居ながら心づかずにいたりする。何やら我々には想像も出来ぬ理由があって、日を祀る修道人が、目眩めくるめく光りに馴れて、うつの明を失ったと言う風の考え方があったものではないか知らん。
私どもの書いた物語にも、彼岸中日の入り日を拝んで居た郎女が、何時かおのずから遠旅におびかれ出る形が出て居るのに気づいて、思いがけぬ事の驚きを、此ごろ新にしたところである。
山越しの阿弥陀像の残るものは、新旧を数えれば、芸術上の逸品と見られるものだけでも、相当の数にはなるだろう。が、ことごとく所伝通り、すべて慧心僧都以後の物ばかりと思われて、優れた作もありながら、何となく、気品や、風格において高い所が欠けているように感じられる。唯如何にも、空想に富んだ点は懐しいと言えるものが多い。だが、脇立ちその他の聖衆の配置や、恰好かっこうに、宗教画につきものの俗めいた所がないではないのが寂しい。何と言っても、金戒光明寺のは、伝来正しいらしいだけに、他の山越し像を圧する品格がある。其でも尚、小品だけに小品としての不自由らしさがあって、彫刻に見るような堅い線が出て来ている。両手の親指・人さし指に五色の糸らしいものがまとわれている。此は所謂いわゆる「善の綱」に当るもので、此図の極めて実用式な目的で、描かれたことが思われる。唯この両手の指から、此画の美しさが、にわかに陥落してしまう気がする。其ほど救い難い功利性を示している。此図の上に押した色紙に「弟子天台僧源信。正暦甲午歳冬十二月……」と題して七言律一首が続けられている。其中に「……光芒忽自眉間照。音楽新発耳界驚。永別故山秋月送。遥望浄土夜雲迎」の句がある。故山と言うのは、浄土をしているものと思えるが、尚意の重複するものが示されて、慧心院の故郷、二上山のふもとを言うていることにもなりそうだ。
此図の出来た動機が、此詩に示されているのだろうから、我々はもっと、「故山」に執して考えてよいだろう。浄土を言いながら同時に、大和当麻を思うていると見てさし支えはない。此図は唯上の題詞から源信僧都の作と見るのであるが、画風からして、一条天皇代の物とすることは、疑われて来ている。さすれば色紙も、慧心作を後に録したもの、と見る外はないようだ。
一体、山越し阿弥陀像は比叡の横川よがわで、僧都自ら感得したものと伝えられている。真作の存せぬ以上、この伝えも信じることはむつかしいが、まず凡そう言う事のありそうな前後の事情である。図は真作でなくとも、詩句は、尚僧都自身の心を思わせているということは出来る。横川において感得した相好とすれば、三尊仏の背景に当るものは叡山東方の空であり、又琵琶の湖が予想せられているもの、と見てよいだろう。聖衆来迎図以来背景の大和絵風な構想が、すべてそう言う意図を持っているのだから。併しし更に、慧心院真作の山越し図があり、又此が僧都作であったとすれば、こんなこともえぬか知らん。この山の端と、金色の三尊の後に当る空と、さざなみとを想像せしめる背景は、実はそうではなかった。
禅林寺のは、製作動機から見れば、やや後出を思わせる発展がある。併し画風から見て、金戒光明寺のよりも、幾分古いものと、およそ判断せられて居る。さすれば両者とも、各今少し先出の画像があり、其型の上に出て来たものなることが想像出来る。此方は、金戒光明寺の図様が固定する一方、その以前に既に変化を生じて居たものの分出と見ることが出来る。但中尊の相好は、金戒光明寺のよりも、粗朴であり、而も線の柔軟はあるが、脇士わきじ梵天ぼんてん帝釈たいしゃく・四天王等の配置が浄土曼陀羅まんだら風といえば謂えるが、後代風の感じをたたえている。其を除けると、中尊の態様、殊に山の端に出た、胸臆のずっしりした重さは如何にも感覚を通して受けた、弥陀みだらしさが十分に出ていて、金戒光明寺の作りつけた様なのとは違う。其に山の姿もよい。若し脇士を仮りに消して想像すれば、更に美しい山容である。此山、此山肌の感触はどうも、写実精神の出た山である。
これで見ると、山の端にしあがった日輪の思われる阿弥陀の姿である。古語で雲居というのは、地平線水平線のことだが、山の端などでも、夕日の沈む時、必見ることである。一度落ちかけた日が、ぬっと伸しあがって来る感じのするものだが――、この絵の阿弥陀仏には、実によく、其気味あいが出ている。容貌の点から言うと、金戒光明寺の方が遥かに美男らしいが、直線感の多い描線に囲まれただけに、ほんとうのふくらみが感じられぬ。こちらは、阿弥陀というよりは、地蔵菩薩ぼさつと謂えば、その美しさは認められるだろう。腹のあたりまでしか出ていぬが、すっくと立った全身の、想見出来るような姿である。ところが其優れた山の描写が亦、最異色に富んで居る。峰の二上山形にわかれている事も、此図に一等著しい。金戒光明寺の来迎図らいごうずは、唯の山の端を描いたばかりだし、其から後のものは、峰の分れて見えるのは、すべてそこから道が通じて、聖衆が降って来るように描かれている。雲に乗って居ながら、何も谷間の様な処を通って来るにも及ばぬわけである。禅林寺の方で見ると、二脇士は山のたわに関係なく、山肌の上を降って来る様に見える。上野家や川崎家のでは、今も言った来迎の山を「二上」型に描く習慣が脱却出来ず、而も何の為に、其ほどに約束を守らねばならぬかわからずなった為に、聖衆降臨の途次といった別の目的を、見つけることになったと見る外はない。
上野家蔵のも相好の美しさ、中尊の姿態の写実において優れているのや、川崎家旧蔵の山越図の古朴な感じが充ち、中尊仏の殊に上体と山との関聯かんれんに、日想観を思わせるものが、十分に出て居るが、二つながら聖衆と中尊との関聯の上に、稍不自然な処がある。即、阿弥陀は山の端に留り、聖衆ばかり動いていると謂った画様の川崎家の物や、何やら、中尊の背後にした聖衆の動静に来迎図離れの感じられる上野氏の物、特に後者は、阿弥陀の立像を膝元近くで画いたところに、山越し像の新様式の派出を示している。なぜなら、そうなると西に沈む日の姿が、よほど態様を変えて来ることになるからだ。而も、此図に見られる一つの異点は、阿弥陀浄土変相図に近づいて居ることである。こうなって来ると、私などにも「山越し」像の画因は、やっとつかむことが出来るのではないかと思う。
大串純夫さんに、来迎芸術論(国華)と言う極めて甘美な暗示に富んだ論文があって、この稿の中途に、当麻寺の松村実照師に示されて、はじめて知ったのだが、反省の機会が与えられて、感謝している。此には、山越し像と、来迎図との関聯、来迎図と御迎講又は来迎講と称すべきものとの脈絡を説いて、中世の貴族庶民にわたる宗教情熱の豊けさが書かれている。唯一点、私が之に加えるなら、大串さんのひきおろした画因――宗教演劇にも近い迎え講の儀式の、芸術化と言う所から、更にずっと、卸して考えることである。
山越し像において、新しいほど、御迎講の姿が、画因に認められるのに、古いほどかえって来迎図の要素たる聖衆が少くなって、唯の三尊仏と言うより、其すら脇士なるが故に伴うているだけで、眼目は中尊にあると言う傾向がはっきり見えるのは、其が唯阿弥陀三尊に止るなら、問題はない。阿弥陀像には、自ら約束として、両脇士のしたがうものなのだから。ところが、之に附随して山の端の外輪が胸のあたりまでおおうていることになると、そう簡単には片づかぬ。常に来迎が山上から、たなびく紫雲に乗って行われ易いと考えたにしても、画面は必しも、其ばかりではない。
慧心の代表作なる、高野山の廿五菩薩来迎図にしても、興福院こんぶいんの来迎図にしても、知恩院の阿弥陀十体像にしても、皆山から来向う迅雲に乗った姿ではない。だから自ら、山は附随して来るであろうが、必しも、最初からの必須条件でないといえる。其が山越し像を通過すると、知恩院の阿弥陀二十五菩薩来迎像の様な、写実風な山から家へ降る迅雲の上に描かれる様になるのである。
結局弥陀三尊図に、山の端をかき添え、下体を隠して居る点が、特殊なのである。謂わば一抹の山の端線あるが故に、簡素乍らの浄土変相図としての条件を、持って来る訣なのである。即、日本式の弥陀浄土変として、山越し像が成立したのである。ここに伝説の上に語られた慧心僧都の巨大性が見られるのである。
山越し像についての伝えは、前に述べた叡山側の説は、山中不二峰において感得したものと言われているが、其に、疑念を持つことが出来る。
観経曼陀羅の中にも、内外陣左辺右辺のとり扱いについて、種々の相違はあるようだが、定善義十三観の中、最重く見られているのが、日想観である。海岸の樹下に合掌する韋提希夫人いだいけぶにんあり、婢女一人之に侍立し、樹上に三色の雲かかり、正中上方一線の霞の下に円日あり、下に海中島ある構図である。当麻の物では、外陣左辺十三段のはじめにある。即、西方に沈もうとする日を、観じている所なのだ。浄土を観念するには、この日想観が、緊密妥当な方法であると考えたのが、中世念仏の徒の信仰であった。観無量寿経に、「汝及び衆生まさに心を専らにし、念を一処に繋けて、西方を想ふべし。云はく、何が想をなすや。凡想をなすとは、一切の衆生、生盲に非るよりは、目有る徒、皆日没を見よ。当に想念を起し、正坐し西に向ひて、日をあきらかに観じ、心を堅く住せしめ、想を専らにして移らざれ。日の歿ぼつせむとするや、形、鼓を懸けたる如きを見るべし。既に見へば目を閉開するも、皆明了ならしめよ。是を日想となし、名づけて、初観といふ。」そうして水想観・宝地観・宝樹観・宝池観・宝楼観と言う風に続くのである。ところが、此初観に先行している画面に、序分義化前縁の段がある。王舎城耆闍崛山に、仏大比丘おおびく衆一千二百五十人及び許多あまたの聖衆と共に住んだ様を図したものである。右辺左辺と、位置を別にしているが、順序として、定善義第一日想観に続く様に解せられる所から、何かの関聯が、考えられて居たのでないかと思う。強いて、曼陀羅の中から、山越し像の画因を引き出そうとすれば、これがまず、或暗示を含んでいるとは言えよう。雲湧き立つ山下に、仏を囲んで、聖衆・大比丘のある所である。山の此方にあるのが違うのだが、此違いは大きな違いである。日想観及び次の水想観には、ただ韋提希夫人観念の姿を描いたのみであるが、其より先は、如来・菩薩の示現を描いている。日想観において観じ得た如来の姿を描くとすれば、西方海中に没しようとする懸鼓の如き日輪を、しんにして写し出す外はない。さすれば、水平線に半身をあらわし、日輪を光背とした三尊を描いたであろう。だが、此は単に私どもの空想であって、いまだ之を画因にした像を見ぬのである。併しながら、今も尚、彼岸中日海中にくるめき沈む日を拝する人々は、――即庶人の日想観を行ずる者――落日の車輪の如く廻転し、三尊示現する如く、日輪三体に分れて見えると言って、拝みに出るのである。
此日、来迎仏と観ずる日輪の在る所に行き向えば、必その迎えを得て、西方浄土に往生することになる、と考えたのは当然過ぎる信仰である。此は実践する所の習俗として残っていて、而も、伝説化・芸術化することなくして、そのまま消えて行ったのである。その消滅の径路において、彼岸の落日を拝む風と、落日を追うて海中に没入することと、また少くとも彼岸でなくとも、法悦は遂げられるという入水死じゅすいしの風習とにわかれて行ったのである。
ここで山越し像に到る間を、少し脇路にみ入ることにしたい。
さて、此日東の大きなる古国には、日を拝む信仰が、深く行われていた。今は日輪を拝する人々も、皆ある種の概念化した日を考えているようだが、昔の人は、もっと切実な心から、日の神を拝んで居た。
宮廷におかせられては、御代みよ御代の尊い御方に、近侍した舎人とねりたちが、その御宇ぎょう御宇の聖蹟を伝え、その御代御代の御威力を現実に示す信仰を、諸方に伝播でんぱした。此が、日奉部ひまつりべ(又、日祀部ひまつりべ)なる聖職の団体で、その舎人出身なるが故に、詳しくは日奉大舎人部とも言うた様である。此部曲かきべの事については、既に前年、柳田先生が注意していられる。之と日置部・置部など書いたひおきべ(又、ひきへき)と同じか、違う所があるか、明らかでないが、名称近くて違うから見れば、全く同じものとも言われぬ。日置は、日祀よりは、原義幾分か明らかである。おくは後代算盤そろばんの上で、ある数にあたるたまを定置することになっているが、大体同じ様な意義に、古くから用いている。源為憲の「口遊くゆう」に、「術にはく、婦人の年数を置き、十二神を加へて実と為し…」だの、「九々八十一を置き、十二神を加へて九十三を得……」などとある。此は算盤を以てする卜法ぼくほうである。置くが日を計ることに関聯かんれんしていることは、ほぼ疑いはないようである。ただおくなる算法が、日置の場合、如何なる方法を以てするか、一切明らかでないが、其は唯実際方法の問題で、語原においては、太陽並びに、天体の運行によって、歳時・風雨・豊凶を卜知することを示しているのは明らかである。
此様に、日を計ってする卜法が、信仰から遊離するまでには、長い過程を経て来ているだろうが、日神に対する特殊な信仰の表現のあったのは疑われぬ。其が、今日の我々にとって、不思議なものであっても、其を否むわけには行かぬ。既に述べた「とも」のなつかしい女風俗なども、日置法と関聯する所はないだろうが、日祀りの信仰と離れては説かれぬものだということは、およそ考えていてよかろう。
其に今一つ、既に述べた女の野遊び・山籠やまごもりの風である。此は専ら、五月の早処女さおとめとなる者たちの予めする物忌みと、われ人ともに考えて来たものである。だが、初めにも述べた様に、一処に留らず遊歴するような形をとることすらあるのを見ると、物忌みだけにするものではなかったのであろう。一方にこうした※(「日/咎」、第3水準1-85-32)ひかげを追う風の、早く埋没したおもかげを、ほのかながうかがわせているというものである。
昔から語義不明のまま、わかった様な風ですまされて来た「かげのわずらい」とった離魂病なども、日※(「日/咎」、第3水準1-85-32)を追うてあくがれ歩く女の生活の一面の長い観察をして来た社会で言い出した語ではないか。其でなくては、此病気は、陰影を亡くするという意味でもなく、「わが身は陰となりにけり」の実体を失う程せると言うことでもない。だからなぜそう呼び習したか、此意味ならではわからぬことになる。
比叡坂本側の花摘はなつみやしろは、色々の伝えのあるところだが、里の女たちがここまで登って花を摘み、ついでにこのほこらにも奉ったことは、確かである。而も山籠りして花をつむと言うことは、必しも一つの隠れどころにじっとして居ることではなく、てんでに思い思いの峰谷をわたってあるくこともあった、ただの物忌みの為ばかりでもないようだ。女たちのけまわる範囲が、野か、山の中に限られて、里つづきの野道・田のあぜなどを廻らぬところから、伝えなかったまでであろう。日の伴の様な自由な野行き山行きは、まだ土地が、幾つとも知らぬ郡村に地割りせられぬ以前からの風であったのである。如何ほど細かに、村境・字境がきまるようになっても、春の一日を馳け廻る女人にとっては、なかなか太古の土地を歩くと、同じ気持ちは抜けきらなかったであろう。それ故と言うより、そうした習俗だけが、時代を超えて残って居た訣なのである。此ように、幾百年とも知れぬ昔から、日をうて西に走せ、ついに西山・西海の雲居に沈むに到って、之を礼拝して見送ったわが国の韋提希夫人が、幾万人あったやら、想像にあたわぬ、永い昔である。此風が仏者の説くところに習合せられ、新しい衣を装うに到ると、其処にわが国での日想観の様式は現れて来ねばならぬ訣である。
日想観の内容が分化して、四天王寺専有の風と見なされるようになった為、日想観に最適切な西の海に入る日を拝むことになったのだが、依然として、太古のままの野山を馳けまわる女性にとっては、唯東に昇り、西に没する日があるばかりである。だから日想観に合理化せられる世になれば、此記憶は自ら範囲を拡げて、男性たちの想像の世界にも、入りこんで来る。そうした処に初めて、山越し像の画因は成立するのである。
だから、源信僧都が感得したと言うのは、其でよい。ただ叡山横川において想見したとの伝説は伝説としての意味はあっても、もっと切実な画因を、外に持って居ると思われる。幼い慧心院僧都が、毎日の夕焼けを見、又年に再大いに、之をた二上山の落日である。今日も尚、高田の町から西に向って、当麻の村へ行くとすれば、日没の頃を択ぶがよい。日は両峰の間ににわかに沈むが如くして、又更に浮きあがって来るのを見るであろう。
もし韋提希夫人が行する日想観に当る如来像を描くとすれば、やはり亦波間に見える島山の上に、三尊仏をおくことであろう。そうした大水の、見るべからざる山の国では、どうしても、山の端に来り臨む如来像を想見する外はなかったのである。
相摸国さがみのくに足柄上郡三久留部氏は、元来三廻部名みくるべみょうに居た為に称した家名で、又釈迦牟尼仏しゃかむにぶつとも書いて、訓は地名・家名の通りである。恐らくその地にあった仏堂の本尊の名の、顕れた為にさようんだものだろうとせられている。併し、ここに一説がある。と言うことは、釈迦三尊においても、阿弥陀像の場合のように、やはり拝まれた場合の印象が、そうした特異事情を醸し出したのではなかろうか。即、目眩めくるめく如く、三尊の光転旋して直視することの出来ぬことを表す語とも見られるのである。即みくるべめくるめ又は、めくるめきであろうと思うのは誤りか。或は歴史地理の説明にも少し骨を折れば、この考えなどは、たちまち消え失せるものかも知れぬ。が、あまり原由近似なるが故に、試みに記しておく。
私の女主人公南家なんけ藤原郎女いらつめの、幾度か見た二上山上の幻影は、古人相共に見、又僧都一人の、之を具象せしめた古代の幻想であった。そうして又、仏教以前から、我々祖先の間に持ち伝えられた日の光の凝り成して、更にはなばなと輝き出た姿であったのだ、ともわれるのである。





底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
初出:「八雲 第三輯」
   1944(昭和19)年7月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年2月15日作成
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