短歌本質成立の時代

万葉集以後の歌風の見わたし

折口信夫




     一 短歌の創作まで

短歌の形式の固定したのは、さまで久しい「万葉集以前」ではなかつた。飛鳥末から藤原へかけての時代が、実の処この古めいた五句、出入り三十音の律語を意識にのぼせる為の陣痛期になつたのである。
囃しヲサめの還し文句の「ながめ」方が、二聯半に結著したのも此頃であつた。さうして次第に、其本歌モトウタなる長篇にとつて替る歩みが目だつて来た。記・紀、殊に日本紀、並びに万葉の古い姿を遺した巻々には、その模様が手にとる如く見られるのである。かうした時勢は、宮廷の儀礼古詞なる大歌オホウタ(宮廷詩)にも投影した。伝承を固執する宮廷詩も、おのれから短篇化して行つた。さうして民間に威勢のよかつた短歌の形が、其機運に乗り込んで来た。
かうして謡ひ物としての独立性を認められた短歌は、それ自体の中に、本歌モトウタ及び、助歌反乱の末歌スヱウタの二部を考へ出して、ながめ謡ひを以て、間を合せた。「57・57・7」から「57・5・77」へ、それから早くも、平安京以前に「575・77」に詠み感ぜられる形さへ出て来たのは、此為であつた。
第二聯の5の句が、第一聯の結びと、第二聯の起しとに繰り返された声楽上の意識が、音脚の上に現れて、句法・発想法を変化させて行つた。くり返しや、挿入の囃しことばは自由に使はれても、主要な休止の意識は「575・577」の形を採らせた。此には、一つ前の民謡の型として、なほ勢力を持ち続けて居た結集ケツジフ唱歌出身の旋頭歌セドウカの口拍子が、さうした第三句游離の形と発想とを誘うたのである。それが更に、短歌分化の根本律たる末句反乱の癖の再現した為に、最後に添加せられた7の囃しヲサめの力がはたらきかけて「575・777」と言つた諷誦様式を立てさせた。而も最後の一句は、百の九十九まで内容の展開に関係のない類音のくり返しであつた。
歌が記録せられる様になるに連れて、此即興的な反覆表現はきり棄てられて、完全に「575・77」の音脚が感ぜられる様になつて来る。かうなつて来ると、声楽の上では、旋頭歌と短歌との区劃が明らかでなくなる。さうして、尚行はれてゐる短歌の古い諷誦法「57・5・77」型の口拍子が、かへつて旋頭歌の上に移つて来て「57・7・57・7」又は「57・7・577」或は「57・75・77」となり、遂には「5・77・577」と言つた句法まで出来て行つた。
短歌が、声楽から解放せられて、創作物となり、文学意識をひらいて行つたのは、また声楽のお蔭であつた。私は此分離の原因の表面に出たものを「宴遊即事」にあると見てゐる。新室ニヒムロウタゲ及び、旅にあつての仮廬祝カリホホぎから出て来た「矚目吟詠」は、次第に叙景詩を分化して来た。列座具通の幽愁の諷誦が、既に意識せられて居た抒情発想の烈しさを静め、普遍の誇張から、自己の観照に向はせて居た。其処そこへ、支那宮廷の宴遊の方式と共に、カザり立てた園池・帝徳頌讃の文辞が入りこんで来たのだ。文化生活の第一条件は、宮廷の儀礼・集会を、先進国風に改めることであるとした。
歌垣を飜訳して踏歌と称し、宮廷伝来の春のことほぎの室踏みの歌舞をさへ、踏歌と改称する様になつた。朗詠の平安の都に栄えた理由として、踏歌タウカセチの「詠」に美辞を練つた事を第一に言ふべきである。而も踏歌の夜の詞曲は、唐化流行頂上の時勢にも、やはり大歌や、呪詞が交へ用ゐられた。
朗詠が、異様に、長目な音脚意識と、華やかで憑しい音調とを刺戟して、和漢混淆文の発生を促した様な事情が、短歌の側でも見られるのである、宮廷・豪家の生活に、神事の「解忌トシミ」として行はれた直会ナホラヒ肆宴トヨノアカリ以外にも、外国式の宴遊の儀が加へられて来た。踏歌の場合に限らず、かうした宴遊の酒間・水辺にも、即事の唱和カケアヒがあり、歌垣系統の勝負争ひもあつたらしい。男と女との間にも、さうした歌問答が行はれた痕は、万葉に明らかに見えてゐる。かう言ふ間に、相手なしに独吟する者が、次第に殖えて来た。かうした宴遊の場に於てくり返された労苦が積りつもつて、短歌成立前からきざして居た創作動機を、故意に促す文学態度が確立した訣である。

     二 奈良朝の短歌

奈良朝に入つての短歌は、其価値の問題はともかく、かうした文学作品として扱ふ事の出来るものが多い。山部赤人の作物の中、晩年の作風らしいものゝ一群には、あまりに文学意識が露出し過ぎて居るものがある。自然の中から或技巧を感ぜしむる部分を截りとつて来て見せる。其に逢著する力は情熱でなく、自然を人間化する機智である。平静な生活に印象する四時の変化の、教養ある階級の普遍の趣味に叶ふ程度の現象であり、其に絡んだ人事である。
けれども真に「美」の意識を持つてゐた事の明らかに認められるのは、赤人の作品にはじまると言える。「美」の発見、――其は大した事である。だが、美の為に自然を改め、時としては美の為に、生活を偽つてさへ居る。赤人の個性を出す事が出来た時は、既に其以前に示して居た伝統の風姿や、気魄を失うてゐた。自然を人間化し、平凡な人間の感情を与へてゐる。すさみ易い野性を、宮廷生活から放逐する為には、彼の齎した「歌ごゝろ」は、非常に役に立つて居るであらう。優美を目標とする平安中期以後の宮廷生活が、彼によつて予告せられ、導かれもした。
春の野に菫つみにと 来しわれぞ、野をなつかしみ、一夜寝にける
明日よりは春菜つまむとめし野に、昨日も、今日も、雪はふりつゝ
百済野の萩が古枝フルエに、春待つと 来居キヰし鶯、鳴きにけむかも(万葉巻八)
此等は、美は美であつても、趣味に触れると言ふ程度のものである。
ぬばたまの夜のふけゆけば、ヒサギ生ふる清き川原に、千鳥しば鳴く
みよし野のキサ山の木梢コヌレには、こゝだも さわぐ鳥のこゑかも(万葉巻六)
等に見えた観照と、静かな律に捲きこんだ清純な気魄の力とは、何処へ行つたのか。前のは黒人の模倣であり、後のは人麻呂を慕つてはゐながら、独立した心境を拓いてゐる。文学態度に煩されて居ないのである。
人麻呂を手本にした「旅の歌」には、二人の間に区別のつかぬまで、よい影響を自由にとり入れてゐる。個性から出て、普遍の幽愁を誘ふものである。後期の優美歌になると、具通の美と官覚とはべられてゐるけれど、個性の影は技巧の片隅に窺はれるばかりになつた。「百済野のはぎが古枝に、春待つと、来居キヰし鶯、鳴きにけむかも」の歌は、純な拍子で統一してゐる様だ。併し「来居キヰし鶯」の経験ではなくて、空想である事が、内容の側から不純な気分を醸し出してゐる。
かうした空想は、鳴き絶えぬ千鳥の声を夜牀に聴きながら、昼見た「ヒサギ生ふる清き川原」を瞑想した態度が、わるく変つて来たものである。此瞑想・沈思と言つた独坐深夜の幽情をはじめて表現したものは、高市黒人であつた。
奈良朝後半期には、長歌は既に古典化しきつてゐた。憶良の社会意識・生活呪咀などを創作した長篇なども、気魄の欠けた、律動の乏しいもので、情熱を失うてまで音脚を整へようとして、延言を頻りに用ゐるなど、態度のわるさが、すべてのよい「生活」を空な概念にしか感じさせない。反歌に移ると、生れかはつた様に自在で、多少の叙事式構想をも、律化したものが多い。
だが其短歌とても、ある点からは、先代文学にならはうとして居た。それは大伴家持等の古詞採訪に努めて居る様子、又家持自身創作に悩んで居る様などを見ても言へよう。詩形の生きて動いてゐる民謡側では、早くも又形式破壊の時を経て、再度やや長目な自由詩になりはじめて居た。第一句は枕詞・地名・修飾辞の常場処になり勝ちで、形式的にも第二・第三句の繋りが固くなり、第一句は稍浮いた続き合ひになつて、音律を予覚しはじめてゐる。其方面に探りを入れかけた社会的傾向であつたと言ふ事も出来る。既に平安朝の「75」の基礎音脚は目ざめようとして居たことは実証出来るのだから、民謡は短歌の形からやうやく遠のいたと見てよい。そして流行に遅れた東国に於ては未だ盛んに民謡として短歌形式が行はれて居たのが、奈良盛時の状態であつたらう。其を記録したのが、万葉巻十四であるので、巻二十の東歌になると、ある部分の東びとには、創作を強ひられゝば、類型式ながら抒情表現の出来るやうな状態になつてゐたことを示して居るものであらう。
だから、東歌以外の民謡になると、新しくも大津宮以前に、大体、まとまりもし、既に崩れてもゐたと見える古い詞章の短歌成立以前の形と、そして奈良の都盛時或は末期に、短歌を離れて、前代の形に近づきながら、聯数は乏しく、音脚の制約のゆるみはじめたらしいものとが、ごつたになつてゐる。此後のものも、反歌を伴はぬ長篇式である。
其点から考へて見ると、短歌は或は民間では大した発達をしなかつたので、片哥や、旋頭歌や、短い長歌などゝ「組み歌」として現はれ始めてゐたのを、宮廷詩人らが他の発生動機などゝ併せて感受して、大歌の上で固成させたものと言ふ事も出来よう。片哥調は稍速めて謡へば、短歌の音数をも諷誦することが出来た。事実其証拠として、神武記の片哥問答に、一方は片哥、一方は短歌に近くなつて居るものが残つてゐる。
奈良の古詞憧憬は、儀礼・宴遊の詞章を神聖視した為で、本縁あるもの、豪家に伝来久しいもの、歴史背景を思はせるものなどの散佚したのを、採録して置かうとしたのに違ひない。前説はどうなりともよい。まづ、古詞の内容に限りがあつたものと見ねばならぬ――或は舞を伴ふものをめどにしたのかと推せられぬでもない――。だが、一時唐化熱の為、古詞章を顧る者がなく、短歌を創作する者もなくなつて居たのが、支那文学の軟派書の影響を受けた人々が、国土・人情の違ひを超えて一致する民譚や、風習や、考へ方のあつたのに気がついた。さうして、此を支那の小説・伝奇の体に飜訳した。其試みが嵩じて、序・引・跋等を律語風の漢文に書いて、文中に古事記式の記録体又は、民譚或はほかひ人の芸謡などの長篇の抒情詩をめこんで喜んだ遊戯態度が、進んで純文学動機を、創作の上に発生させたのである。一方宴遊の場合に詩文を相闘し、鑑賞し合ふのに、国語を以て出来ぬまだるこさと、教養不足とから、自然宴遊詩から宴遊歌に移つたのであらう。ともかくも、一時衰へた短歌は其衰へさせた人々によつて、復活せられて、文学遊戯の対象となり、宴遊を種とした小説や、更に進んでは、上官への哀訴を寄せた告白文などにさへなつた。貧窮問答などの構造は小説体である。
家持の賀歌・宴歌などに苦吟したのは、彼の才分の貧しい為とも考へたが、此事情から見れば、さうは言へなくなつた。氏上として諷誦の責任のあつた前代の奏寿其他の天子を対象とする呪言ヨゴト、氏人に神言ノリトなどは、新作を以てする様になつても、特別の心構へを以てせねばならなかつた。歌も宴席で吟ずる物は多く古詞で、新作は神聖さが尠いのである。天子・皇親に対しての呪言の系統なる「ほぎ歌」を予め作つたのは、氏上としての古い神秘を忘れなかつたからである。だから、奈良朝末に、短歌製作気分が衰へてゐたとしても、家持の古詞採蒐・賀詞予作を以て其証拠とする事は出来ない。
其ばかりか家持は、歌人として時代を劃するだけの天稟てんぴんを備へてゐた人であるのだ。黒人の開発した心境は、家持が此を伝へて、正しく展開させて、後継者に手渡して居る。家持は、長歌は、憶良程達意ではないが、概念風な処は幾分尠い。思ふに、人麻呂が長歌を飛躍させ、叙事詩から抒情詩の領分に引きこんだが、同時に其様式を極端に固定させて、自在を失はせた。奈良の宮廷詩人・貴顕文人等の間に幾度繰り返されても、生命のない模倣と外形の過重せられたものばかりしか出来なかつた。だから短歌の価値・態度ばかりから、此人の才分・文学史上の価値を、きめてもよいのである。
家持は、黒人の瞑想態度・観念的作風に深入りすることを避けて、今少し外的に客観態度を移した。感じ易い心を叫び上げないで、静かな自然に向いて、溜息つく様な姿を採つた。さうした側の歌が、彼の本領でもあり、開発でもあつた。黒人よりも、作者自身の姿が浮んで、而も人に強ひない。ほのかに動くものゝ、沁み出る様に、調子を落してさゝやいて居る。武人・族長など言ふ自覚を唆りあげて、人を戒めてゐる作物などは、短歌でもよくない。けれども、さうした側の長短歌を通じて見られるよい素質は、よい平安人の先ぶれだつたことを思はせる。人を戒めてもねぎらうても、其ことばつきには、おのれを叱り、我を愛しむ心とおなじ心持ちが感じられる。家門を思ふ彼は、奈良の世の果ての独りであつたが、神経や、感覚は、今の世からも近代風な人と言ふことが出来る。人麻呂の影響は、却つてわるく出てゐて、寂しいうら声を叫び上げる様な作品を残した。

     三 平安初期の大歌

平安朝では早く、大歌は、短歌が本体と見られる様になつて了うた。そして宮廷に其を用ゐる事は、恐らくは、鎮魂祭と神楽の場合との外は段々廃れて行つた。其他の宮廷詩は「詠」を主とせぬ雅楽の影響を受けたり、又は伝統を失ひ、さらでも時の花となる資格の永久にない声楽のわき役であつた事から、舞あるものは舞に先立つて亡び、舞のないものは、新宮廷詩の創作の盛んだつた奈良或は其前から、伝へる者も張り合ひなく、永劫の世界に持ち去られた。謡ひ物としての短歌の末は、古今集・拾遺集の大歌所の歌、其他「神楽歌譜」に記録せられた分を最後と見てよい。
併し、仏家の讃歌方面には、尚一脈の生気が保たれて居て、声楽上の曲節は声明しやうみやう化しながらも、平安末に大いに興る釈教歌の導きにはなつた。謡ふ物としてゞなく、神の託宣の文言として、歌が文学以外に口誦せられた事は、室町の頃までも続いたらしい。歌占ウタウラを告げる巫女の口に唱へられる歌であつて、此も神託とは言ひでふ、其所在の大寺の庇護を受けた社々にあつた事故ことゆゑ、やはり長篇の讃歌から単純化した今様と、足並みを揃へた曲節であつたらう。かうして室町から江戸に持ち越したなげぶしなどの、擬古的な文句に仮りに用ゐられて、どゞいつよしこのぶしの分化する導きとなつた。が、其は、真の生命あるものとしての短歌ではなかつたのである。
大歌が短歌を標準とすると共に、短歌は唯一文学としての位置を占め得た。その為奈良の盛時までもあつたらしい宮廷詩人の為事が、辛うじて勢を盛り返して、享楽文人の手に移つて行つた。
大歌の新作は、大歌の用途が狭まつた為に無くなつたが、貴顕の参詣・願果しなどに社々の神の享ける法楽の詞曲として、短歌の新作せられるのが例であつた。東遊あづまあそびの歌が其である。其が、讃歌と一つに考へられて、舞踊抜きに歌だけを献じる風を生じた。此が法楽の歌で、平安の都も末になるほど、神祇歌・釈教歌の流行に連れて、益々盛んになり、数も多さを競ふやうになつて行く。
神事舞踊の曲には、替へ唱歌が、多く用意せられて居なければならなかつた。
大原や小塩ヲシホの山も、今日こそは、神代のことも、おもひ出づらめ(古今集巻十七)
の歌も、二条后の社参に随行した在原業平の、あてつけ歌だと言ふ事になつてゐる。けれどもやはり、其は伝説であると思ふ。此時代にも既に、法楽の舞が献ぜられる風があつて、其詞章として召された時の、唯の神遊びの歌に過ぎないのを、いつかさういふ曲解が此歌の背景となつたのであらう。かういふ当時の歌人と許された人々の、神遊び歌を召されると言つた風が、宮廷詩人のおもかげを見せて居るのである。
家持は平安の都に遷る前、長岡の都造営中に亡くなつた。晩年になつて一度、死後にもまた、疑獄に坐した。さうして平城天皇の御宇まではりなかつた。家持がをとこ盛りに、出入でいりした歌※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)所の内の後に(或は当時も)大歌所と言つた日本楽舞部の台本(伝来の大歌・采風理想から採集した民謡集)や、雑多な有名・無名の人の歌集や、家持自身大部分材料を蒐めて整理して置いた大伴集――仮りにかう名をつけておく。家持の近親・縁者・知人の贈答・創作歌の上に、自身でも集め、人にも依頼して蒐めた様々な詞章の集団――や、大体此三部類の資料が、万葉集の名で纏められようとしたのが、平城天皇の時代の事であつたらしい。此天子は奈良の古風な生活に愛著深く、情熱も強く、作品も(疑はしいが)残つて居りする方であつて、其孫王に行平・業平が出たのも納得出来る。

     四 六歌仙の歌

業平の生活は、小説だといふ訣で、伊勢物語からひき放して考へようとしても出来ないまで、かの書が完全に其一生を伝奇化して了うてゐる。私は、張文成・宋玉・登徒子等の一人称発想法を採つた遊仙窟や、楚辞末流(此は既に伝来してゐたと信じる)の艶文学が、奈良の貴族や、学者を魅した力は、平安の都にも持ち越されてゐたものと思ふ。それで業平一代の自叙伝と思はせる企図を持つて、伊勢物語は書かれたものであらう。三人称風の叙事詩や、それから散文化した説話の表現法の定型を採りながら、叙事詩以来の聞き癖を利用した痕が見える。特別な知人がする物語でなければ、語り手・話し手の自叙伝と感じる風が離れない為に、しらばくれた様な気分をさせる「昔男ありけり」といふ型で、十二分に効果を収めたのである。
業平の生涯は平安の色好み(大体後世のすゐに近い)の前型とまで考へられて来てゐるけれども、二条后・斎内親王との交渉がなかつたとすれば――或はまる/\の伝説だつたとすれば――、惟喬親王が、業平に美しい感激を発せしめる境遇に沈淪せられなかつたとすれば、業平は記憶せられなかつたらうか。私は決してさうではないと思ふ。業平の歌の背景なる伊勢其他の伝説がすつかり消えても、歌だけで、伝ふる事の出来た人である。彼の歌は、家持のや黒人のと違うて、自然の前に朧ろに光る孤影を見入つてゐた心、其を更に外へ出して、他人の心の上に落ちる自分の姿をみまもつて、こゝにも亦、寂しく通り過ぎる影しかないことを、はかなんでゐる様な心境である。彼の調子は、家持の細みを承けてゐる。併し業平の違うてゐる処は、事実に即した複雑が、真の単一に整頓せられたのではなく、それに対する方法として、出来得る限りの節約を用語の上に行うてゐることである。文法の許すだけは、言語の影を利用し、曲節を附けて、姿態の上に細みを作らうとしてゐる。調子でなく、内容と形式との交錯から来る趣きを整理しようとして居たのである。
だから、業平の作物には、趣きを出す為に無用の論理に低徊することがある。
月やあらぬ。春や昔の春ならぬ わが身一つはもとの身にして(古今集巻十五)
の如きは、姿の為に却つて趣きが犠牲になつてゐる。月にも、春にも依然たる旧態を見ると、印象を強めた上に、柔軟性を失はせる反語の圧迫を感じさせる。下の句の自由な拘泥のない「わが身一つはもとの身にして」の調子が安易に浮いて聞える。恋人の上を言はないで、我が身を言ふのも、上の句の形式上の曲節が過重して居らなければよかつたらう。が此場合、下の句の内容の上の曲節が堪へられなくなつてゐる。さういふ処へ、又此反転法に行き遭ふ為、論理の遊戯をいとはしくさへ感じる。姿は自在の様であり、発想は曲節を尽して居る様だけれども、業平の特色とせられてゐる余韻が、形式はもとより内容の上にもなくなつてゐる。「心剰りて、詞足らず」と古今集序の貫之の評語は、実は「詞剰りて、匂ひ足らず」とでも言ひ替へねばなるまい。
彼に、若し、自然に対する理会があつたとしたら、情景の絡みあひから生じる趣きは、姿のしなと相俟つて、真の象徴発想をひらいたであらうに、黒人から赤人に、赤人から家持につたはつた調子の「細み」と、かそかでそして和らぎを覚える「趣き」は、彼にも完成せられず、壬生忠岑になつて、稍其に近よつたものが出て来たゞけであつた。偶発的に時々「趣き」を出した者があつても、さうした心境を把持し得た者はなかつた。平安の都も末に近づくと、態度としてさうした境涯を自覚し、標榜する者が出て来た。併し仏教知識の影響を受けたもので、万葉に現れた「細み」の正式に伸びたものではなかつたのである。
業平は自然に対して驚くばかり無感激であつた。其叙景の歌とても、宴遊の即景に祝言を託する様なものか、人の意表に出る様な誇張や、言ひ廻しで、興趣の嵐を起して、当座の人の心を捲き込んで行くと言ふ風なものであつた。
あかなくに、まだきも月のかくるゝか。山の逃げて、入れずもあらなむ(古今集巻十七)
狩り暮し、たなばたつめに 宿借らむ。天の川原にわれは来にけり(古今集巻九)
などを見ても知れる。拘泥なく歌ひ上げてゐる。さうして其詞を押し出して、一挙に「心」を形づくるのは、機智だけでは出来ぬことである。そこに濫費せられてゐる情熱があるのだ。彼の生時は、其宴遊の歌の、在来の型を破つた新しさ、放胆らしい其調子によつて、騒がれてゐたものであらう。業平の作品の時代的評価は抒情詩以外にも、あつたことを考へに入れて置く必要がある。
何と言つても、業平の真の価値は、抒情詩を醇化した点にある。万葉集の抒情詩すら、叙事詩脈の劇的表現・民謡式の誇張発想・儀礼上の伝襲的叙述法などから出来たと言ふ事情の忘れられた後代に、古代人の素朴と言ふ予断で、製作動機も醇化せられ、不当に高く評価せられたものであつた。贈答・問答の類も、歌垣の唱和から筋を引くもので、かけあひ特有のあげ足とりはぐらかし人たらし情らしさなどが皆過分に含まれてゐる。恋愛発想の歌が贈答せられたからとて、恋仲の人々と速断することは出来ない例が多い。今も、男女の贈答文章に、恋愛気分が纏綿してゐるのは、古い歴史のあることである。
かうして見ると、平安宮廷の女房生活を、其等の人の歌詞から推して、みだれきつてゐた様に言ふのは間違ひである。万葉さへさうであつた。後世ほど、浮薄な技巧を弄するやうになつたのは、当りまへである。前後にさうした歌を控へながら、業平の作品は、さうしたかけあひ風の贈答にも、まじめなものが多い。相手の笑ひを誘はうと企てゝゐる様子が、目に見える様なものもある。其等は技巧を弄してゐるが、そんなものにまで見える事は、恋歌通有の軽みのなくて、重くるしいことである。又、恋愛を題にして歌つたらしいものは、恋人に与へた抒情歌に比べると、非常に格が下つてゐる。やはり情熱派として天分の高い人だつたのである。たとひ其作物に、現代まで段々進んで来た標準から見ては、無条件に採ることの出来ない箇処々々が、必あるとしても、彼の恋歌は、万葉の相聞歌の大部分よりも、態度としては、純正なものになつて来てゐる。其屈折の激しい発想も、当時の公卿階級通有の拍子で、業平が其傾向を進めるに、与つて力のあつたものと見てよからう。源融・小野篁などの歌と並べて見れば、此は新様ではあるが、共通なものが認められる様である。上流の作物にはまだ、万葉の拍子が痕跡を消しきらずに居たのである。調子を張らうとする努力が、かうしたしなを、姿の上に顕した訣である。
六歌仙は、形の上から見れば、万葉と古今との過渡期を示すものだが、全体としては、古今調と言うてよい程に、後者に非常に近よつて居る。六人の中、業平と並べて論じられるのは、世評のとほり、小野小町である。男たちとの贈答に、柔軟な而も折れ合はぬねばり気を、調子の上に見せて居る。恋愛心理の解剖は、新古今前後に盛んになるのだが、其先駆者は小町であつた。といふよりも、小町を偶像視した後代歌人に、僅かな歌が、大きな影響を齎した。併し其はよいものではなかつた。小町のものはまだ抒情詩としての潤ひを失はないで居るが、後々のものは小説家が、生活を観照する様な態度になつて、抒情詩の領分を離れて行つた。小町集の中に、一首
ひぐらしの鳴く山里の夕ぐれは、風よりほかに、訪ふ人ぞなき
と言ふのがあるが、真に小町の作物とすれば、古今調のよい方面にも、踏みこみかけて居たと言へよう。
六歌仙と前後する頃又は、平安京最初の時分の――中には、万葉のものも入り込んでゐる――人々のだと思はれる無名氏の作物には、古今集の中での、最価値のあるものが多くある。此等の歌に現れた細みは、家持の境地を、柔らかにふくよかな言語情調で包んだ趣きの深いものである。
木の間より洩り来る 月のかげ見れば、心ヅクしの 秋は来にけり
蜩の鳴きつるなべに、日は暮れぬ と思ふは、山の陰にぞありける
鶯の鳴く野べごとに来て見れば、うつろふ花に、風ぞ吹きける
などが其例である。小町の「風よりほかに」の歌も、古今には無名氏の作物として居る。万葉の「太み」は、つひに継承する者がなかつた。ますらをぶりを叫んだ真淵以後も、さうした試みをした人がない。調子を高くするだけなら、釈教歌から出た平安末・鎌倉初の歌人たちにもぼつ/\ある。調子をさかんにする事で、太みある発想を導くことは、「細み」の場合の様には行かない様だ。

     五 古今集の歌風

古今の作家では、四人の選者のうち、壬生忠岑が一等天分が豊かな様だ。貫之は、一種の改革家で、要領を掴む才能は持つて居た。やや物になりかけた国語を以てする文章を、小ざつぱりした感じのよい、段落の短いものにしたのも、彼の為事らしい。歌の方面では、上流の重くるしい調子の、変化のない内容をやゝ軽くて明るいものにした。山部赤人の態度を、新しい歌のとるべき道とした。自然から「美」をもとめないで「美」に似た事象のある所とした。理想の「美」を絵画に据ゑてゐた。が、其も墨書きやの絵巻若しくは、屏風の構図であつた。自然は、平凡な絵模様に描き直された。彼等の空想に浮ぶ自然は類型に過ぎなかつた。併しさうした「美」以外に、問題となる自然はなかつた。黒人以来の自然描写の態度は、彼等の心には影もさゝなかつた。彼等は調子の上に、自負を持つて居たらしい。朗らかで軽くひきしまつた、滑らかでさつぱりした長閑さが、彼等の新しい歌の生命をやくする音律であつた。
四時の交替と自然の変化の関係に興味を持ち過ぎた傾向は、万葉集の巻八・巻十にも既に見えてゐるが、情熱がよく解決した。古今集以後、暦日と自然現象の矛盾に興味を持ち過ぎて、幼稚な構想を、明るい調子に託して歌ひあげたものが多くなる。抒情の歌で見ても、選者等の目ざす処は、淡泊な感情を、例の調子で拘泥なく歌ふことであつた。生活から游離した心境を娯しむことが、彼等の生活の上の「美」であつた。貫之の歌は、其理想通りの形をとつた。かうした態度からよい作物の現れよう筈がない。貫之の歌は、名のみ高くて、実の其に添はぬ物であつた。
忠岑だけは、其仲間に列つてゐて、大して彼等の主張と喰ひ違ふことなく、而もかなりの値打ちある作物を出した。無名氏等の歌に現れた「細み」は、彼に明らかにとり入れられてゐる。もつとも、あゝした態度からは、わるい作物も生れないはずはない。けれども、忠岑はそうした処から、深く印象する歌を残したのだから、天分の豊かであつたことが思はれる。
畢竟古今集は、万葉集の細みから筋を曳いてゐると言うてよい。さうして其が二様に現れた。一つは、細みを正しく育んで行つたものであり、一方は、赤人風の優美を目標にして、当世好みの題材と調子とを扱はうとしたのである。後者は古今の正調であり、まづは文学態度として見る事の出来るものである。が、作物の価値は却つて、しづかな情熱を以て技巧を突破した形の前者の方にあつた。而も此間にはさまつて、女性の歌は、亦変つた道を採つた。謂はゞ万葉以前からの贈答歌の態度が伝つてゐて、而も宮廷の女房生活に伴ふ、しらけた遊戯分子が加つて来てゐるのだ。
かうして、古今の歌風と言ふものが出来た。此で短歌がともかくも文学と立てられ、其本質も、ほゞ成立した様なあり様である。此から後は、古今選者たちの立てたものを絶対に信頼して行つた後進者の、わづかづゝの時代的の※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)アガきを見るに過ぎないのである。
後撰集には、其でも古今に対する競争意識が見えてゐる。拾遺集になると、古今を理想とし出した痕があり/\と見える。後拾遺集には、もはや行きづまりが見え出した。唯、宮廷其他の女房生活の頂上とも言へる時代で、男性の文学動機は鈍つて来たのに、散文のみならず、短歌にも自在をふるまふ様になつた。贈答或は恋歌に限られてゐても、其感触は洗煉せられて来てゐる。が其も見渡しての話で、一つ/\の歌に就て言ふと、寂しまずには居られない。和泉式部は、其中ではづぬけてゐる。小町よりも、情熱的にさへ感ぜられる。

     六 短歌改新に与つた人々

曾根好忠は、歌の固定した事を其野性の敏感でとりわけ早く嗅ぎつけた。さうしてその抜け路として、表現法をへようと試みて、単語や句法の上に苦心をした。其処に印象の鮮やかな、新しげな作物も生れて来た。けれども、真の内容や趣きの発想と言ふ点には心づかなかつた。然し、よい作物になると、無自覚にではあらうが、「細み」が十分に出て来てゐる。短歌の固定する毎に、新語を以て其を救はうとする試みが、歴史的にくり返されてゐる。其次には、珍らしい材料――むしろ、名詞――を局部的にとりこむ事が行はれてゐる。此が「歌枕」と称せられるものだが、歌の全内容となる題材としてゞなく、修辞上の刺戟の為ばかりに使はれた様である。
かう言ふ処へ、平安京に於ける広い意味の芸術の天才らしい人が出て来た。桂大納言源経信である。彼は当時の文学芸術のすべてに達したと言はれた人である。殊に琵琶では、桂の一流を開いた人であつた。「君子器ならず」と言ふが、天才の直観力も、才能の専門的固定を救ふものである。今存する彼の作物は、あまりに尠い。此から彼の才分をきめるのは気の毒な気もする。が、偶然を考へることの出来ない個性の透徹した作品がある。
朝戸あけて 見るぞさびしき。傍丘カタヲカの 楢の広葉に ふれる白雪(千載)
ひたへてめ縄の たわむまで、秋風ぞ吹く。小山田の庵(続古今)
後のは桂の里での作であるが、四五句の続きのあやふさが、其写生に徹して居ない事を見せて居る。ただ二三句の緊張は、観照の把持力を思はせる強さである。前の歌になると、細みが展開せられて来てゐる。楢の木は作者の誤解かも知れぬが、広葉と言うた処から見れば、木立ちを見渡したのでなく、一本の木の局部に目を注いでゐるのである。私はかうしたものが、尚あつたのであらうと思ふ。此歌の如きも経信集にはなくて、千載集にのみ見えてゐるのから見ても、此想像の余地はある。一体、経信には、新しい趣向の歌が多くて、其が本領と思はれたらしい。
山守りよ。斧の音高く聞ゆなり。峰のもみぢは、よきてきらせよ(金葉)
深山ぢにけさや出でつる。旅人の笠白たへに雪つもりつゝ(新古今)
(家集……ぢを……雪はふりつゝ)
夕日さす、浅茅が原の旅人は、あはれ、いづくに宿をかるらむ(新古今)
早苗とる山田のかけひもりにけり。ひくめ縄に 露ぞこぼるゝ(新古今)
大井川 いはなみ高し。筏士いかだしよ。岸の紅葉に あからめなせそ(金葉)
此中、一と五は、平安末の趣向歌の先駆で、古今のものとは別途ではあるが、正しい道ではない。第三の歌も追随者の多かつた型であるが、まだ趣きは失はない。併し「あはれ」が、同化しきれない不純なものを交へてゐる。客観し得ないで、小我を出してゐる。或は釈教歌などの影響かも知れない。此歌と、第四の歌とは、細工物らしいが、大体に正しい方へ歩みよつてゐて、鎌倉以後の模倣者によい類型を残した。
三島江の入江のまこも。雨ふれば、いとゞしほれて 刈る人もなし(新古今)
は写生ではないが、趣きからは完成してゐる。此歌と「朝戸をあけて見るぞ寂しき傍丘カタヲカの楢の広葉にふれる白雪」とは、別趣の物だが、細みと、静けさと、温みとは共通してゐる。
今宵 わが 桂の里の月を見て、思ひ残せることのなきかな(金葉)
花の散るなぐさみにせむ。菅原や、伏見の里の岩つゝじ見て(経信集)
ところが、此歌などになると、少しキヨしてゐる様な歌口である。病的ではあるが、一種の単純化はある。かうした点も、彼の、他人と違ふ処から来るのであらう。経信の歌風を、よいにつけ、悪いにつけ、全体としてとり入れてゐるのは、西行法師である。
俊成も、その幽情を目がけたのは、此人の影響を意識してとり入れてゐるのである。私は、経信に、千載及び新古今の歌風の暗示が、含まれてゐたのであると思うてゐる。
好忠の後に出て来た短歌改新の二番手は、経信の子の俊頼である。好忠よりは時代自身、固定を感じることが深くなつて来てゐるから、彼の試みは、更に大胆になつてゐる。歌枕も、修辞の上ばかりでなく、全体としてとりこまれてゐる。其結果、歌が著しく叙事詩的の興味に陥つて来た。民間伝承などまで思ひのまゝに採用して、誹諧歌に似た味ひが出て居る。尤、彼は連歌の滑稽味を愛好した。彼は、短歌に対して、刺戟はかなり与へたが、結局其本質と、反りの合はぬ態度を持つてゐたのである。彼の喜んだ新しい材料は、連歌・誹諧を通じて後に完成した季題趣味を導いた。其程、彼の作風は、連歌及び誹諧の成立の為に効果を顕したのである。鎌倉初めには、歌・連歌、有心・無心の対立となり、室町になつては、明らかに短歌に対する文学として、競争者の位置を占めた連歌及び誹諧味は、彼によつて飛躍の機運が作られたものと見てよい。併し、私は彼の作物の価値を短歌として見ても、世評以上に高く買ひたく思うてゐる。
俊頼に対して旧風を守つてゐたのは、藤原基俊である。天分に於て、到底前者に及ぶことが出来なかつた様だ。彼は、短歌に関する知識を以て、俊頼に対抗してゐた。彼が準拠としてゐる様に唱へてゐた万葉集に就ての知識・理会・消化の程度は極めて危いものであつた。一・二句万葉の引用をする外は、万葉調も出て居ない。彼の歌に、万葉の正しい影響などは、殆ど見ることが出来ない。寧、俊頼の作物に時々万葉の気魄の浮んでゐるものがあるなどは皮肉である。だが、さうした万葉主義をいだく様になつたのは、短歌が学問的基礎を欲してゐた時代だからである。此対立は、ともかくも平安末の短歌史上の見物である。さうして此二人の影響と、尚ほかに歌学の伝統を他から継承して、其を綜合して現れたと称せられるのが俊成である。此点から見ても、二人の歌風には、目を通して置かねばならぬ。
前にも述べたとほり、よかれあしかれ女性の歌は、短歌史上に特殊な領分を示してゐるのであるが、其かけあひ趣味を離れて、文芸化したのは、平安京の末に迫つてからである。
道長盛時を中心に輩出して、平安の文学態度を飛躍させた女房たちの中、幾分古風な者は短歌に止り、今様に進んだ連衆は、物語・日記に赴いた傾きが見える。女房歌の上手といふのも二色ある。一つは真に価値のあるものを作り出す情熱家。一つは場合々々贈答を、もつとも適切に処理して、婉曲に、委曲に、あはれな感じを残すものを、而も口疾クチドに詠み出す機智のある人。だから、後者は当時人を感じさせても、普遍性のない、後世には訣らぬものも多い。それでも歌人として許されたのである。前の意味の歌人の、歌から出ないのに反して、後の方の女房は物語・日記類の脚色もある、歌の多く交つた散文に進んで、さうして、盛んに引き歌・故事・縁語等で、律文化した文章を書いた。

     七 実生活を詠んだ歌

物語の主人公は勿論、もでるを思はせる様な書きぶりで表されてゐる。其に配せられた女の主な者の中には、作者自身の影を濃く落すやうな書き癖が、其に通じてあつたらしい。此事実は日記になると殊に目立つ。日記には、単なる女房の後宮記録・執務覚え書きとしての外に、先例書・典故録と言つた側の職分から、知識宝典・詞藻類典の様な姿を採る物さへあつた。又、一方、個人の生活記録としての意味も既に出て来た。其例の物に伊勢物語系統の歌物語の型をとり容れて来たのがあつて、自分の贈答や述懐の短歌の製作動機を、あはれに書く風が出来た。かうした例には、或は他人が書いたのかと思はれるほど、脚色が加つてゐるのさへ見える。多くは事件に客観が出来ない処から、自身書きながら、事実を修飾・誇張して、物語風にしたてゝ了うたのである。
而もものゝあはれを知り、色をこのむ――好もしい状態に男女関係を処理すること――のが、紳士・淑女の理想主義とせられた時代である。で、かうした小説と記録との間を行く抒情式な日記を書いた者及び其書き物は、宮廷生活の間にもてはやされたのである。此態度は、短歌集の中にも入りこんで来た。女房の歌集に見えた「はしがき」に、後人のは固よりだが、当人自身の潤色・見てくれを交へてゐることは考へてかゝらねばならぬ。私は平安京の中期以後の歌集殊に女房歌集から、個人の伝記を引き出さうとすることに、危さを感じてゐる。「はしがき」にあはれを競ひ、単なる座興のかけあひをも有意義化したものが、必あるであらう。前にも述べた和泉式部の歌集をはじめ、さうした色あひは、大なり小なり見えるのである。
こゝに自然と起つて来るのは、文学動機の洗煉である。印象の再現若しくは、空想の具体化能力や、技巧の近接努力が進んで来る。叙事詩化し、心理の表現よりも描写に傾くが、ともかくも発生以来わるい道を通つて来た日本の抒情詩は、業平・小町につけられた方角から、活路を見つけ出した訣であつた。和泉式部の様な情熱家の作物は、さすがに不純を一挙に捲き飛した佳作が尠くない。内生活から、美化するに足るものを見出す様に向いて来てゐるのである。唯、女房歌集は、全体を叙事的連作歌集として味うて行くのが、ほんとうの見方ではなからうかと思ふ。
かうして展開して来た女房歌、其影響を受けた抒情詩は、緻密な感情の写実をする様になつて行つた。俊成女・式子内親王に代表せられた平安末・鎌倉初めの恋を主題とした歌である。だが其にも、語又は句の上から部分的に放射する情調によつて、しなやかで、ねばり強く、美しくて、纏綿する様に、技巧が積まれてゐた。それによつて、叙事式表現の上に気分効果を添へようとしたのである。語句の持つ聯想や、音韻の弾力を、極度まで利用してゐるのだ。併し、かけ語・縁語・枕詞・序歌・本歌などで、幻象を畳み絡めるのとは違うて、とにかく、内部からする発想上の弾力であるから、よい傾向であつた。
木の葉散る山偏付カタツきの笹の庵は、埋れぬべきふし処かな(待賢門院堀川)
かうした発想法は、短歌の細みを土台にして、女流好みの情趣を語句から引き出して、一首に光被したものである。頼政や西行などのにも、かうした実生活が、だしぬけに顔を出して、調和を破ることがある。
誰も皆、今日のみゆきに誘はれて、きえにし跡をとふ人もなし(堀川)
此歌の「誰も皆」は、実生活から来た口語式発想に近いものである。好忠・俊頼の新傾向や、僧家の歌や、連歌などから養成せられた現代語趣味は、平安朝末の抒情歌、主としては「述懐」風のものに用ゐられたが、其も一時のはやりで、仏徒の外には用ゐなくなつて了うた。
これ聞けや。花見る我を 見る人の、まだありけりと驚かすなり(頼政)
連歌趣味が露骨に出てゐるが、実生活の響きがほのかに聞える。頼政以後、西行・秀能などの武士階級の歌人が、見出しに預る様になつて来たのは、一つは武家興隆の時勢だつたからでもあるが、題材や、見方・感じ方の、幾分型に入らない処を珍重せられたのであらう。頼政の面目をあげたのは、経信の系統に薬を強くした絵模様や、絵詞見立ての趣向歌の印象の新鮮な点が、さうした潮先に乗りかけた為である。
西行にもさうした渾沌たる実生活味や、誹諧趣味・口語式発想・趣向歌等がある。さうしたおし窮つた処から、西行を脱け出させたものは、女房歌のねばり気と、廻国修行から得た生活の種々相の理会や、孤独感に徹して起る人生の普遍観である。歌を通して見た西行には、仏教の影響は、人々の考へてゐるよりは、わり合ひ深く潜んでゐる。却つて、当時――平安末・鎌倉初め――の概念式な釈教歌・讃歌の類を作つた公卿たちよりは、囚れぬ境涯を示してゐる。学曹でなかつた為もあらう。けれども、此頃から頭をもたげ出して、武家時代の最後二百年を除く外は、伝統的に文学及び倭学継承階級となつた所の隠者の生活に近い形で暮して居た事が、主な原因であらうと考へる。地方の武家に、短歌や、倭学の伝へられたのは、もう此頃からの事実であつた。西行が殆ど完成し、芭蕉に飛躍させられて、誹諧に移植せられた内容のさび、形式のしをりは、実は女房歌の模倣を経て、達し得た「細み」であつたのだ。此が西行の幽情に、誹諧の「さび」よりも、曲節や、弾力のある所以である。
此細みを抽き出した原因の一つに、数へ残しがある。其は雰囲気の力である。当時の京都の文壇主義の影響である。経信に著しく見えた幽情が、公卿の流行となつてゐた仏教凝りや、釈教歌・法楽の歌などに溢れた仏教味に合体した為、と言ふ様な速断は許されない。併し、かうした間の生悟りから、万有無実相・庶物一如の義を曲解敷衍して、
心なき身にも、あはれは 知られけり。鴫たつ沢の秋の夕ぐれ(西行)
見渡せば、花も紅葉も なかりけり。浦の苫屋の秋の夕ぐれ(定家)
など言ふ様な物の出来る機運はかもされて来た。悪い傾向だが、やはり一種の単純化である。
勅撰集の出る毎に、非難者の出る風は、後拾遺集に経信が試みた、と言はれてゐるが、此などは早いもので、其後、いつもあつたことである。さうした論難の癖は、恐らく、平安京の初頭にも既に、行はれたらうと思はれる――或は其以前からも――「歌合せ」の席上の討論の風が理論化せられて、歌式となり、歌論となり、更に、勅撰集撰者の態度批評とまでなつて来た。歌人の間にも、短歌の沿革・様式論・故事出典を集めて、学問にするものが出て来た。顕輔の伝統の所謂六条派の歌学や、歌の師範が起つたのも、当然の順序である。其子清輔・顕昭等から、学問としての色合ひが立つて来た。
日本の書物が学問の対象となつたのは、日本紀が始りで、万葉が其次に古点・次点を加へられ、平安の末に源氏が研究の目的になつて来た。俊成などが、源氏学の先駆者である。其等の間を縫うて、歌学が段々、物になり出した。歌学の始りとしては、まづ、古今を中心にした故事の詮索から、古くは万葉、新しくは後撰以後の出典・歌枕などまでに手が及んで、日本学としての姿を具へ出して来た。けれども、修辞論や不純な様式論が交つてゐた為に、容易に学問化は出来なかつた。かうして、創作態度に学問理論がわりこんで来た事実が、平安末の短歌に見えるのである。
短歌に神秘観を抱くことは、古代からであるが、俊成にとつては、作物の一つ/\は、報謝の為に作らるべきものであつた。かうすることが、彼として仏恩に酬ゆる唯一の道だつたのである。自己を虚しうして、歌に当つたらしい人であつたのだ。だから、彼の歌には、安住があり、輝いたあきらめがある。
千載集えらび侍りける時、古き人々の歌を見て、
行く末は 我をもしのぶ人やあらむ。昔を思ふ心ならひに(新古今)
さすがに、野心を蔵した歌も盛んに詠じてゐるが、年よつて、段々静かに、平易に詠み出す様になつて行つた。もつと感激が出ねばならぬ所だ。
如何に言ひ、いかにはむと 思ふ間に、心もつきて、春も暮れにき(玉葉)
拘泥することなく、つぶさに述べ尽してゐる。併し情熱は失はれてゐる。近世の僧家の歌人などに多い、自在であつて、併し心の拍子の出ない歌の類である。でも、かうした調子を具体化する為に、短歌史上に類例少い長い生涯を文学の為、又此を通して、仏の為に費して来たのであつた。此等の歌は、当時の口語律に近づいて居た物であらう。彼自ら、自讃歌と推した「夕されば」の境地は、此風に野心を交へた概念歌で、上句の外は採れない。調子づき過ぎて、若々しい。
だが、彼の自ら否定した
おもかげに 花の姿をさき立てゝ、幾重越え来ぬ。峰の白雪(新勅撰)
は、なる程、俊成の態度から見れば、前期に属するものである。こしらへ物だ。が、印象は明らかに来る。
夕されば、野べの秋風身に沁みて、うづら鳴くなり。深草の里(千載)
の方は、印象がうぢや/\してゐる。幽情も、やはらぎも見えない。此が、俊成の第二種の代表的な発想であらう。世間はそれでも「おもかげに」の傾向を愛して、其に傾き寄つた。新古今の歌壇は、此歌などを出発点として、展開を重ねて行つたのに違ひない。
俊成は、鎌倉はじめまでも、歌壇の長老として、残つてゐた。けれども彼の歌の平易は、四句讃歌(梁塵秘抄調)に近づいてゐる間に、若い人々の間には、めざましいと言ふより、目まぐるしい変化が起り続けて居た。

     八 新古今の歌風

新古今集の撰定の幹部等にとつて、先輩となつてゐた人たちは、多くは入道生活をしてゐた。俊成・西行・慈円・寂蓮・寂然――此等の法師や居士の間に漂ひ出るものは、西行・寂蓮・寂然等の修道生活から来るものに向ふのは、当然である。おなじ語を首句や尾句に据ゑて、十数首の変化を見せたり――西行の「山深み……」、寂然の「……大原の里」、慈円の「……住吉の神」――首句と尾句とを各同じにして、趣向を練つたりする様な――見せばやな。志賀の唐崎、麓なるながらの山の春の景色を(慈円)――暇つぶしの遊戯をしたのも、僧家の人たちである。そして、互ひに慰め合うて居る間に、実生活を主題にしたものが出て来た。其等には、互ひに、自然の寂しさ・人事の無聊を述べカハす様になり、短歌固有の細みと、仏徒の生活情調とが融合した。さうしてやや、東洋思想特有の型に入つた、単純にして力づよい、静かで湛へたものゝ姿をとつて来た。
短歌の上の細みは、元来、修道禁欲から生れる辛苦の結晶ではない。ほしいままに放つて置いて、而も、湧然として動き来り、心を掠め去る瞬間の影である。ある態度の生活者に限つて達し得る心境ではなく、凡下ぼんげの者の飽満の上にも来る響きであつた。西行を代表として完成した形の細みは稍、形が歪んで出て居る。鎌倉室町の京・アヅマの五山の禅僧の漢文学の影響を、極度にとり入れた後世の文学・芸術・芸道が、西行の境地を更に拡げて、細みを、不惑に基礎を据ゑたさびに徹せしめたのも無理はない。唯、短歌に於ては、江戸にも明治にも、さびに煩はされたものはなかつた。けれども、此歪んだ形の細みを以て、歌の本質と見ねばならぬ様な場合が往々あつた。古今無名氏の歌に還れ、万葉の家持に戻れ、更に、黒人の細みを回復せよ、と言ひたい。
此二つの時代にかけての僧家の歌は、さうした時々の問ひ交しの歌及び、其から導かれた独白の時々に、細みが見られる。其外は概して、驚くほどに騒々しいものばかりである。奈良以来、僧家の歌は、宮廷流行の表現法には遠い古風なものであり、散文律を交へ、また口語脈さへ混じさせてゐる。後の明恵の如きは其著しいものである。讃歌・釈教歌なども、随うて、漢語・漢語音から来る変態律で、国文脈を動揺させてゐる。此等は僧家にもあるが、貴族の人の仏典を讃する歌を作る場合に、殊に其癖を著しく見せてゐる。此は、講式の讃歌の口調を短歌にも移したので、古い物には其癖はわりに尠い。此頃の物には、仏典を和讃する場合は勿論、仏者関係の物から、更に唯の歌にすら、さうした言語情調を好んで入れる様になつた。
呼子ヨブコ鳥。うき世の人をさそひ出でよ。入於深山ニフオジンセン思惟仏道シユヰブツダウ 良経(月清集)
時により、すぐれば 民のなげきなり。八大龍王。雨やめたまへ(実朝)
此等はまた仏語を国語脈にとり込んでゐるが、此などは極端な例である。連歌の一体とすら見る事の出来る程、思ひきつた試みである。
金葉・詞花の時代は、短歌の創作動機が鈍つて、或は、連歌が室町を待たずに勢力を持つに到つたかも知れない状態になつて居たらしい。歌学・歌論は喧しくなつても、文学製作階級は、短歌に興味を失ひ出して居た。其をともかく盛り返したのは、俊成の努力である。武家や、僧家に歌人の出たのも、短歌が公家を去らうとしてゐた形勢を示してゐるのであらう。
千載集は、ともかくも、平安中期以後の歌風の変遷を、一つ処に集めて見せる様な歌集である。ある側は極めて複雑化し、ある側の人々は「たゞごと」をしか述べて居ない。一代前の新派も旧派も、ここには肩を並べて居る。而も、俊成・西行等の当代の代表歌風も見え、直に迫つてゐる新古今時代を待ちあぐんだ人々の作さへも含めて居るのである。
新古今集の時代は、女房が文学上の実力を失ひかけて居る事が、まづ目につく。才女と言はれた宮内卿の如きは、新古今の発足点に低回してゐた。天分はあつても、変化は出来なかつたらしい。此等の基礎は、此女房の腕を振うた所と一致してゐる。経信以来の絵様見立てを、動的に描き改めた。さうして、其画面を美しくする者は、其物を目的にして、其を以て、彩り絵の美しさの上で変化を示さうとした。情景の変化や、時間の推移の静かな調和であつた。総べて、美の思ひがけない発見を目がけた。静的な美を動的に、平凡を趣向によつて、美を衝かうとした。
だが、此種の作物には、中心たる自然の変化に関心しすぎるから、矛盾や、曲解の露れる不安がある。絵様を浮世画に替へれば、「冬の田は、山葵わさびおろしの様に見え」など言ふ川柳の穿うがちになつて了ふのである。此は感覚的現実たるべきものに、空想的誇張を前提としてゐるのだ。美しさには心惹かれても、結局、美の根柢が自然を「」で変造したものなのである。たとひ、誇張がなくとも、自然から人為に似た現象を抽き出して来たものすら、高級なものでないのに、かうした作風は空想だから駄目である。
中には、言ひまはし一つで、物珍しく見せかけたものさへある。
良経の早い頃の作
桜さく比良の山風、吹くまゝに、花になりゆく 志賀の浦なみ(千載集)
は、宮内卿の「花さそふ比良の山風ふきにけり。こぎゆく舟の跡見ゆるまで(新古今)」と相影響する所があらうが、此は四句と五句との修辞上のかねあひから出る興味で、其が虚象を描く処に、価値が繋つてゐるのだ。新古今にはまだ外に、此風は残つてゐる。
此等から見れば、
おもかげに花の姿をさきだてゝ、いくへこえきぬ。峯のしら雲(新勅撰)
俊成の此方は、姿を印象することは尠く、気分に絡みついて行くだけに強い。前者よりは空想分子の多いに拘らず、不安な印象を与へることは尠い。かうした情趣をこめた自然描写が、空想を払ひ去つて、健やかに成長したのが、後の玉葉・風雅の歌の主流である。新古今は早くかの二集に行く筈であつたのが、逸れたのである。
新古今の当時は、文学の天賦豊かな人が集り過ぎた。雰囲気はあまりに濃厚であつた。表現法・技巧が、互ひに鋭敏に影響しあうた。鑑賞法もどん/\移つて行つた為、歌柄を変へずには居なかつた。内容形式両方面の約束は、圏外の人々をとり残して、速かに展開して行つた。一人の新手法は模倣と言ふにはあまりに早く、他の人々の創作動機に入りこんでゐた。
春の夜の夢のうきはし、とだえして、峯にわかるゝ横雲の空(定家)
霞立つ末の松山。ほの/″\と、浪にはなるゝ横雲の空(家隆)
との「……に……るゝ横雲の空」の句は、調子から言へば、一つ物である。必、一方の拍子が、一方の作者の内律を刺戟して、一首全体を纏めるやうにさせたに違ひない。前の宮内卿・良経の作物も、強い印象が即時又は時を隔てゝ、創作動機を衝いた為に、類似の発想法を促したのであることは言へる。語・句から歌の様態までも、人々の間に伝染した。語・句の流行や、意義変化などは、仲間内では、急速なものである。其為に、変態的な発想法が、沢山に出来て、其が直に成長した。「おもかげに」の類の歌に出てゐる執こいまでの抒情気分は、もう一歩進めれば「春の歌」か「恋歌」かのわかちがつかなくなる。
一体、叙事詩時代からつたはつた情景纏綿の発想法は、短歌様式に特殊な気分をつけてゐるものである。其に力添へる者は、枕詞・序歌・懸け詞・縁語・本歌などである。新古今同人の最努めたのは「恋歌」であつたことは、疑ひがない。彼等の最洗練せられた技巧は、其部に見えてゐる。如何にして、語の陰を多く重ね、幻影を匂ひやかにすることが出来るか。どうすれば、気分効果を深め、愛執纏綿の情調を出す事が出来ようか。此が彼等の執意で、実感は顧ることなく、風情に重きを置いた。贈答以外の恋を題材にした、力こめた作物は、大抵閨怨である。俊成以来、短歌製作の為の源氏物語研究などが効果を表したのである。
女流作家の恋歌は、如何にあはれに、如何に世の常ならず焦るゝかを表さうとして、心理解剖に陥つてゐるが、尚自分にけて歌うてゐる。併し、新古今の主流のものは、作者はすつかり離れてゐて、歌の上に物語の女の俤をうつし出さうとする、小説作家の態度である。さうした女の心境を外界の風物に絡みあはせて気分的に表さうとする。譬喩と言ふよりは、象徴に近づいたものもある。が、すべて言語の修辞効果を利用して、心と物との間に浮ぶ虚象を融合させようとするのである。其ぴつたり合一せぬ点が、譬喩になつて了はないでゐる。此矛盾から起る気分が、象徴風の効果に近づかせるのである。

     九 幽玄体

併し、此所謂幽玄体なる発想法も、新古今集に始まつたことではなく、前代から段々積り積つた結果の整理せられたものである。「恋歌」には、とりわけ内容の複雑なものが、次第に多くなつて来た。余裕ある古風な感情なら、枕詞以下の助けを借りて、一首の中に畳みこんでも置ける。が、おなじ複雑でも当代のトガつた生活情調は、さうした修辞法では表されない。其で、女房等の「恋歌」には、直截な表現法をとつたものが多かつた。けれども、内容が多過ぎるのを、技巧を以て三十一音にはめこんだ為、其発想上の曲節はおもしろいが、意義の会得しにくい物もあつた。其等の歌から感じられる暗示的効果は多い。
かうした女房歌から出て、実生活から遠のいた表現だから、出来るだけ言語の影・幻を駆使することになつたことも、一面の事実であらう。尚一つは、平安末になつて、殊にしばしば行はれた神仏の託宣歌は、半以上理会出来ない物の、却つて包容する所広く、神秘観を誘ふことが多かつた。其等の影響も、歌と神仏との神秘関係を、今一度新に考へ直した時代であるから、さうした超描写性の効果に思ひあたる様になつた事情もあらう。
恋歌から出た発想法が、他にも及んで新古今調の主流と考へられたものが成立したのだが、今見ればさう言つた歌はわりに尠く、唯たけ――調子の張つた上に、単調を救ふ曲節のあること――を目安としてゐたことが知れる。
うつり行く雲に、嵐の声すなり。散るか、まさきの葛城の山(雅経)
なるほどたけは同感出来る。だが、其為に「散るかまさきの」の句が確実性を失うた。殊に「散るか」の効果は浮いたものになつてしまうた。おなじたけのすぐれた物にも
アフチ咲く外面ソトモの木かげ 露おちて、五月雨るゝ風わたるなり(忠良)
かう言つた見事な歌がないではないのに。
新古今時代になつて調子の緊張が問題になつて来たのは、万葉の影響も、多少出て来たのではあるまいか。調子を変化させるのは、新語や歌詞で短歌を改革しようとするよりは内的で、意義がある。けれども、万葉の気魄を再現して新しい生命を短歌にもたらさうなどゝは、考へても見なかつた。併し、純粋な叙景の歌によい物が散らばつてゐるのは、経信以後の発達とばかりは思はれぬ。西行あたりにも、既に
よられつる野もせの草の かげろひて、涼しく曇る 夕立の空(新古今)
の様な趣向もなく、抒情味をも露出しない立派な写生の歌がある。私は、古今に近い傾向の万葉巻八・巻十あたりの四季の歌などが、直接間接に与へた影響を考へに入れないでは、其道筋のわからぬ処がある様に思ふ。
新古今の歌風の中、調子と、叙景態度とには、万葉の影響を無視することは出来ないと思ふ。万葉に対する撰者等の理会の程度すら、幼稚なものではあつたらしいが。ところが尚一つ、全体の上に与へた外の影響が考へられる。新古今当時、其撰者同人等は、連歌又は誹諧歌をも弄んだ。連歌は新しい興味として、可なり喜ばれたらしく、作物も多く残つてゐる。連歌及び後世の誹諧に於て、目につく句法は下句の緊張ぶりである。語句の有機的な活動である。更に附け合ひの不即不離の状態である。かうした影響が、此集の歌人の「たけ」を生み、快く敏い語句の連環、其に加へて、意義の不透徹で、幽かに通ずる感じのある発想を導く様になつたとも言へよう。
畢竟あまりに、高踏的に構へ、唯美主義に溺れた為である。享楽態度を持ち続けて、ますます深みへ這入つたのである。だが、他の方面から見ると、事実此頃、既に動いてゐた短歌の本質完成の時機の近づいて来た事の予想が、才人たちをして、其具体化に焦慮せしめたのであらう。
後鳥羽院は歴代天子の中で、第一流の文学の天分を示して入らつしやる。歌人としては、勿論、第一位に据ゑてよい方である。定家・家隆をはじめ新古今同人の誰よりも、或は優れて居られたかも知れぬ。唯、院みづから其を知り過ぎて居られた様に見える。其あまりとして院の好みが、多く新古今に現れ過ぎた。此技巧は連歌から習得せられたものが多い様だ。
見わたせば 山もと霞む水無瀬川。夕は秋と なにおもひけむ(新古今)
此下句の附け方など、全く連歌である。姿の張りも、語句の利き方も、連歌系統の物が多い。
思ひいづるをり焚く柴の夕煙。むせぶもうれし、忘れがたみに(新古今)
此などの緊り方はどうも、連誹趣味である。此呪ふべき技巧に囚はれながらにも、残された作物には、文学として価値のある物が、尠くない。情熱と技巧と相具つた方だが、惜しい事には技巧が勝つた。情熱に任せて作られた様な物に、却つて佳作がある。
良経も院同様、時代の文学態度に呪はれた一人である。良経は豊かな天賦を持つて生れながら、其をまつ直には伸べないで了うた。彼の家集「秋篠月清集」は、拘泥なく歌うた痕が見えておもしろい。彼は、院ほど情熱家ではない。色々な試みもしてゐるが、此集は、わりあひに、創作動機のこまやかに動いた痕は見えない。可なり安易な気分で辞をつけて居る様な風にさへ見える。さうした時々優美に徹した歌を交へてゐる。「月清集」は謂はゞ、彼の習作集である。

     一〇 家集と撰集と

当時の都の歌風から少し遅れた千載集様の歌口を保つてゐたに限らず、実朝が、万葉調をある点まで正しくうつし出したことを土台として、当時の文壇を考へると、万葉集のとり扱ひ方に、時代的の変遷が見られるやうである。私の一つの見方からすると、短歌の上に万葉の影響の正面から来なかつた理由も訣る。万葉調は、古今風が短歌の正調ときめられてゐた時代には、ある軽みと、背優美味が感じられたかも知れない。近代で見ても、万葉の中、常に人に喜ばれ易かつたのは、戯咲歌或は其一類の即興歌などの、優美至上主義者にとつては、あまりに露骨な滑稽感を誘ふ実生活に近い作物であつた。真淵の様に万葉の巻一・二を本体とした人は別だが、単なる万葉調歌人は、人間の哀感ともつかず、あきらめともつかず、ちやかし気分ともつかず、楽天態度ともつかないものを、多く万葉調によせてゐる。其によつて、生活気分の他人と違うてゐることの明らかな、自覚を見せてゐる。
似た事は、平安末・鎌倉初め、古今調短歌固定時代にも言へよう。万葉の歌風・調子などが、連歌誹諧歌趣味を刺戟するものとして、此頃の感じ方から見られたのであらう。新興の連歌が、式目を言つて、文学論を持つと共に短歌に於ける古今の位置に、本拠として万葉集を据ゑることは、ありさうである。短歌作家と連歌作者とが、実際まだ専門化して岐れてゐなかつた頃である。短歌・連歌二つながら作り教へるやうな、隠者生活の人たちがあつて、さうした者から得た感化ではあるまいか。仙覚が頼経に近づいて行つたのも、さうした事情に考へることも出来ると思ふ。
かうした古今と万葉との対立の為に、当時の人は、万葉を読んでも其影響は、自覚的にはうけ容れなかつたもの、と見た方がよさゝうだ。実朝は、さうした間に、習得し、会得することもあつたであらう。又多少予期してもよからうと思はれる添刪を経て、あゝした歌をこしらへ出したものであらう。だから金塊集一部には、第一短歌、第二連歌から出た無心歌――まじめな――態度の作物とがまじつてゐるのである。さうして、其当時の目で見れば一見、無心派めいた作物が、実朝の値打ちを高めた万葉調の歌であるのだ。其にしても、彼のよい方の歌には万葉の調子の外に、讃歌調があり、ごく、くだけた無心態度の自由さから、世相を詠んだものなどが出て、其が融合してゐるのである。単純に万葉一本の調子と言へないやうである。
習作集と謂へば、家隆の「壬二集ジンジシフ」、定家の「拾遺愚草シフヰグサウ」及び員外も同じく、下書き歌までも録した物であるらしい。新古今其他の勅撰集に出たもの以外の、此等の集にこみになつてゐる作物を見ると、驚くばかり見劣りがする。彼等の日常の作物と百首歌や歌合せなどに文壇意識を交へての作物とは、非常に心の持ち方に開きのあつた事が訣る。一つは、召し歌や法楽歌や、歌合せが、文壇の生命・傾向を握り過ぎる様になつた為もある。歌の価値定めが、衆議制に拠る傾きは、平安末からのことで、明らかに歌合せの副産式の慣例であつた。
其延長として起つた新古今の選択法などは、明らかに衆議を土台に、其上、後鳥羽院の鑑賞を脇にしてゐる。此は、隠岐本新古今に、はつきり見えてゐる。其外当時の史書・日記類からも知れる。技巧と、冒険とで衆議制に優位を占めようとした、歌人仲間の気風が、見えすいてゐる。
衆議制を経て、喧伝せられたものを採用するのが、文壇意識の出た前期末頃からの傾向で、其が一面、他派の非難を防ぐ楯にもなつた訣だ。此が勅撰集に採られた作物と、習作集とで、値打ちの違つて見える大きな原因であつた。何にしても大体一般に認められた物は、ある点に於て、均整なり、的確なり、普遍なりを備へてゐるはずである。其時代の特殊な病的鑑賞は勿論あるとしても、まづは洗練せられた作物に違ひない。良経の作物の如きも、新古今に出た物は、ある一方の立ち場からは優美・豊満・閑雅・濶達など讃辞を尽しても足りないほど、貴族の風格のよさを極度に示してゐる。しかし生気は欠けてゐる。たけはあつても、彼自身の生活を游離した、律動から出てゐる。雑然たる習作集には、性格や、境遇・時代などが不用意の間の自由な拍子に沁み出てゐる。家隆・定家の作物の如きも、習作集は極めて平凡で、選集には、すこぶる、特色を見せてゐるのは、そこに原因があるのであつた。
けれども、定家の作物は、後代程絶対価値が認められ、どんなものでも、自由に採られることになつた。八代集の後の選集が採つて来た定家の物には、伝襲的に描かれた面目と違つた、定家が出て来てゐる。此は技巧に悩んだ後、晩年になつて、平易で自在な境地に達したものとも言へる。が、さう見るよりも、自由な習作の中に現はれてゐた定家のよい姿なのであつた。
私は、此解説のむやみに長くなつたことを恥ぢながら、まだ書いてゐる。此過剰は、土岐さんを困らせ、出版元を苦笑ひさせるに、もう十分過ぎる。家隆と定家との比較を論じないで、一挙に新続古今・新葉辺に到達する幅飛びを試みなければならなくなつてゐる。併し其には都合よく、此本に択ばれた作者の時代が一飛びに跨げてよい様になつてゐる。
末遠き若葉の芝生 うちなびき、雲雀鳴く野の 春の夕ぐれ(定家)
などに、如何によい暗示を含んでゐたかを見ればよい。定家の子の為家は、庸物を以て目せられてゐるが、私は彼の歌にある風格の変化を見てゐる。此が其伝統をいだ二条流、其から更に連歌の平凡趣味と混淆して悪化して行つた後世の堂上風を導いたのである。彼の死後分裂した二条・冷泉・京極の三流の中、前二者の流派から出たすべての勅撰集及び、多くの家集は、今日までの私の鑑賞法からは、寧、劫火の降つて整理してくれることを望んでゐる。其程、個性と輪廓とのぼやけた物が多いのである。
土岐さんの此本の第一稿は、さうした連衆の作物の検査にまで手が及んでゐた筈である。そして其結果、此本の編者なるわが友をして「あゝ、呪はれた千数百年の短歌史よ」と叫ばせ、かあど箱を投げ出さしめた。其程、今後も出るはずの幾人の忠実な研究家・鑑賞者の差別・批判の能力を衰弱せしめるに十分な類型の堆積があるのである。
其結果、すつかり態度を替へて出来上つたのが此本で、実は、土岐さんにとつては第一次の大きなむだ修業の結果である。読者諸君は、其為に大いに救はれる事になつた訣である。人物の選択については、議論もあらうけれど、其には私も責任の片棒を落してゐる。敢へて此よき友がきの上に、更に反古張りの楯を竪てる所以である。

     一一 新葉集

南朝の新葉集の値ぶみは、昔から歴史の背景を勘定に入れ過ぎてかゝつてゐるところがある。だが、二条伝統の欽定――此集は準勅撰集――歌集では、まづ殆ど、最後の飛躍を示したものと言うてよからう。後醍醐院の気魄は、技巧を経れば、後鳥羽院の其に達するであらう。藤原師賢の叙事と抒情との調和――やゝ感傷に過ぎるが――した態度は、此集の後世から与へられた値うちづけの第一の目安らしいが、彼は確かに成功した作物を残した。此集になつて自叙伝歌集の態度が、明らかに復活して来たのであつた。其中、殊に個性の明らかなのは、何と言うても、後村上天皇であらう。表現の的確さは乏しいけれども、がらの極めて大きな歌口である。
新葉集は、詞書きの殊に多く、長いものゝ沢山ある集である。其だけ、事実と即してゐるのである。若し二条系統の無刺戟に、円らかな調子が、今少し揺ぎ出し、せめて京極系統の客観態度が出て来てゐたら、もつと我々を感激させることが出来たであらうと思ふ。此集は全体として、南朝の抒情連作歌集と見てもよいであらう。
歌の師範家は、其最初から、公家武家の譏嫌きげんを見るのに敏かつた。定家になると一の檀那を失ふと同時に、第二の擁護者の軒に其影を現してゐた。主従関係を游離した芸道指南者の生活法が生れて来たのである。公子公女の文学顧問であつた女房の位置に、外部から入り替らうとして、隠者の一部なる入道歌人・居士学者が、其伝統を構へたのである。さうして代々、其擁護者の家に出入でいりして、それを高家に負うて、他の派に対抗した。定家以前は元より、以後も、六条家伝統の者や、隠者の歌人・学者があつたけれど、皆多く武家を檀那として、宮廷・公家を遠ざかつた。源光行等の系統が、其著しいものだ。さうさせたのは、定家伝統の師範家と其背景の力であつた。武家に出入りした隠者系統の者は、遂には連歌に傾くか、でなくば、事大的に宮廷の師範家の支配を受ける様になつた。さうして後者とても、次第に連歌誹諧歌の方に向つて、時好の中心をもとめて行つた。
歌道師範家と言うても、かうした気風であつて、職業化してしまつてゐるのである。大覚寺派は伝統的に二条家を擁護し、持明院統は之に対して京極家を眷顧した。都を出た南朝には二条の伝統はあつても、師範家は京に止つて、京極家を失うて後の持明院派を新しい大檀那と憑んでゐた。「新葉集」は、此に対する強い反感から生れたものと見ることが出来る。
短歌は南北朝に入つて、再、前途の光明を失うてしまうた。でも勅撰集は、師範の面目を維持する為の無意義の頻繁を続けた後、ふつつりと永久に断絶して了うた。二条良基等の愛著と隠者たちの努力とによつて、文学論と制約と歴史的根拠と高雅な形式を装ふ様になつた連歌は、此間に準勅撰集として、唯一の文学だつた短歌と肩をならべさうな機運をきつけてゐた。「菟玖波集」の編纂二十巻が此である。短歌は、次第に連歌化してゆく。連歌は次第に文学化して来る。かうした時勢に、伝習の惰力の振ひ落ちる時が迫つて来た。朝廷では、既に此期の初めに当つて、我が国信仰上の一大事たる伊勢斎宮の群行を廃止せられた。神と巫女との間に発生した歌の末が、茲に退転するのは、理を超越して、何だか、当然の帰結らしい気がする。
此時代に入る少し前、持明院派では、京極為兼を迎へ用ゐられた。為兼は、藤原資朝が建武中興の企ての中心人物となる事に、大きな刺戟を与へたほどの――徒然草、為兼配流の条――人と伝へられる。時代変改の予感者であつたであらう。彼は、民間の隠者歌の影響を受けたと共に、万葉集の時代的の理会としては最よい程度に達してゐた様である。其上、新古今の早く忘れて過ぎた、真のはなやかで、正確な写生態度を会得してゐた。其を明らかに意識したのは、この頃の連歌の叙景態度からも来てゐよう。彼は其に止らないで、行きつまつた歌の題材は、歌風はどうして展開して行つたものであらうか、といふ悶えを、常に抱いて居たらしく思はれる。
彼は、先へ/\と進んで行つた。彼は更に言語の象徴性を極端に伸し、描写性を振り捨てようとする試みから、新古今歌人に成功せなかつた幽玄体を完成しようとした。彼の此企ての内的に進んだ処はよかつた。けれども、結局さうした企ての帰著が、芸術の破壊であることを知らなかつた。けれども、江戸の俳人の象徴派が試みたことは、彼が鎌倉の末に手をつけて、失敗のてつを示して置いたのであつた。彼は、自分の後進者には、この方面には進ませようとせなかつたらしい。彼のツクつた選集の「玉葉」及び、其系統の「風雅」の二勅撰集は、毘沙門堂――彼の派の別名――風のよい方面を示してゐる。
其頃には、よい教導者を戴いて出来たよい雰囲気の上に、優れた多くの宮廷歌人が出た。其最注意してよいのは、男性では伏見院、女性では永福門院である。私は玉葉・風雅二集の為に、今まで書いた文章位の分量の評論を作つて見ても飽くまい。けれども今は、思ひ切らねばならぬ。だが、土岐さんの此本が機縁になつて、歌の邪道・地獄の歌とまで、二条派及び其末流並びに伝説を信じて研究を怠つた耳食の学者たちから、久しく呪はれてゐた玉葉・風雅が、正しい鑑賞の下に置かれる様になつたことを欣ばずに居られない。此為に此文章は、有頂天の嬉しさを持ちつゞけて、くど/\書かれたのであつた。
今一つ、言ひ添へる未練が許されるなら、明敏な読者には、既に悟られた筈の事を、更に明らかにして置きたい。我々の時代まで考へて来た所の短歌の本質と言ふものは、実は玉葉・風雅に、完成して居たのである。そして世の中の文運は、未だ其実蹟をない先に、既に進んで、短歌の本質を理想してゐた。其が、一度は、過去に於て明らかに実証せられてゐた事実に、符合する事である。万葉の細みは可なりの歪みは含んで居ても、かうして完成せられたのである。





底本:「折口信夫全集 1」中央公論社
   1995(平成7)年2月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第二部 国文学篇」大岡山書店
   1929(昭和4)年4月25日発行
初出:「『万葉以後』解説」
   1926(大正15)年12月発行
※底本の題名の下に書かれている「大正十五年十二月、土岐善麿編『万葉以後』解説」はファイル末の「初出」欄に移しました
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年5月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について