能楽に於ける「わき」の意義

「翁の発生」の終篇

折口信夫




     一 二つの問題

日本の民俗芸術を観察するにあたつて、我々は二つの大きな問題に、注意を向けなければならぬ。平安朝の末から、鎌倉・室町時代にかけて、とび/\に、其中心がある事を考へて見ることが、其一つ。江戸に接近しては、歴史家の所謂桃山時代が、やはりさうなのであるが、ともかくも、さうした衒耀ハデな時代が、とび/\に山をなして、民俗芸術興隆の中心となり、其が連結して、漸層的に発達して来てゐるのである。
第二に注意を向けねばならぬ大切な問題は、日本の芸能には、常に副演出が伴うてゐる事である。此は、日本の古いあらゆる芸能の上に見られる事実であるが、殊に、民間の芸能において著しい。小寺融吉さんは雑誌「民俗芸術」昭和四年二月号で、能楽の根本は脇能にある、と述べてをられるが、此には訣があるのである。脇能とは、脇方の役者が主になつてやるから言ふのではなく、或神事舞踊に附随した能、と言ふ風に考へねばならぬのだと思ふ。訣り易く言ふなら、神事舞踊の説明が脇能である。現在能楽の上での術語になつてゐるしてわきを土台にして考へたのでは、説明が出来ない。やはり、神能と言ふのが、最適した名であらう。小寺さんの論文では、能楽の根本は脇能にある、とだけはあつたけれども、何故さうなのかの説明にまで及んでゐなかつた様であるから、日本の芸能に副演出が伴ふ理由の説明として、一応、能楽に於けるわきの意義を闡明して置かうと思ふ。

     二 もどきをかしあど

古く御神楽ミカグラサイが配されたのは、決して睡気覚しの為ではなかつた。田楽に於けるもどきを考へて見なければならない。もどきは普通、からかひ役だけのものゝ様に感じられてゐる。――此を動詞にした「もどく」の用語例で見ても、反対する・逆に出る・非難するなどの意味を持つたものばかりである――が、古くはもつと広い意味があつたと思はれる。尠くとも演芸史の上からは、物まねする・説明する・代つて再演するなどの意味を持つ、説明役であつた事が考へられる。猿楽に於けるをかしは、此から変転してゐると見られるのである。
をかしは、をかしがらせることから言ふのだとするのが、一般の解釈の様であるが、実は、他人の領分にまで侵入するからのをかしで、犯しである。勿論これにも、からかひの意味を持つた用語例もある。平安朝の用語例で、をんなをかしなどゝ言うたのは、女をからかふことで、今日警察の厄介にならねばならぬやうな意味の事を言うたのではない。
併し、猿楽に於ける此役名には、もどきと同様、説明役の義があつたらしい。狂言と言うたのは、興言利口などゝあるやうに、言ひ立て・語りの義から出た名称で、此に狂言の字を当てたのは、其言ひ立て・語りに、をかし味があつたからだと思はれる。いづれにしても、猿楽能のわき芸だつたので、此脇方からの分立が、やがて、能と狂言とにワカれて行つたのである。
一体、能楽ほど多くのわきを持つてゐるものは尠い。あい能力がそれであり、狂言の方には、あど――して役をおもと言ふに対して、脇方を言ふ名――がある。茲で、多少結論に近い事を言ふなら、猿楽はもと/\、脇芸であつた。能楽と改称はしても、もと/\其が本領であつたのだから、宿命的に此約束が守られて、幾つものわき芸を重ねて行く様になつた。能の演芸番組は、さうして成立してゐるとも見られるのである。

     三 わきの語原

猿楽の先輩芸は、田楽であつた。田楽は、五月の田遊びから出てゐる。田遊びに呪師ノロンジ系統の芸能が加味し、更に、念仏系統のものが加はつて、田楽が出来たのであつた。此田楽には、それの副演出として、田楽能が行はれた。後世では、田楽と言へば、舞ふ事と奇術・軽業カルワザ様のものとだけが、記憶せられる様になつたけれども、田楽での主なるものは、田楽能だつたのである。さうして、此わき芸を勤めたものが猿楽であつた。
かうして、もと、田楽のわき芸だつた猿楽は、だん/\それの面白い部分だけを吸収して行つて、やがて自立する様になつた。田楽が舞ふことゝ、軽業・奇術様のものとだけになつたのは、此猿楽との分離による残滓と見られるのである。
わき芸は同時に、二つの意味を兼ねてゐる。まじめなものに対するおどけで、おどけの方は、狂言・をかしとなつて行つたのであるが、能楽の本芸となつてゐる脇方能は、至極まじめな正式なものである。
わきと言ふ言葉は、脇腹から出てゐるものゝ様に考へた人もあつたが、さうならば、二人の対立が必要である。此言葉は、本来は日本の神事から出てゐる。巫女で言ふなら、一人の兄媛エヒメに幾人もの弟媛オトヒメがある様に、随伴者の意味もあるが、ほんとうは若いと言ふ言葉から出てゐる。即、わくといふ古動詞から出てゐるので、わかわきおなじなのである。さうして、此から控へ役・神聖な役を勤めるものなどの観念が、生れもしたのであつた。

     四 能楽の根本組織

日本古代の神事演芸は、神と精霊との対立に、其単位があつた。してわきは、其から出来たのであるが、能楽の本領は、其わき方にある。小寺さんが、能楽の根本は脇能にある、と言はれたのに符合する訣であるが、此わきが醇化して行くと、わき方からして方を生み出す。わき芸其ものゝ中にして方を生じる。此は、わき芸が本芸のやうな形をとつて、発達したからである。幸若などでは、してが一人でない。
かやうな訣で、わきは必しもおどけ役を意味してゐるものではないが、此が分化したものになると、極めて自由なものになる。をかし・狂言はかうして、能と岐れて行つたのであるが、更に狂言の方にはあどといふものが生れた。あどは大鏡にも「あどうつめりし」などゝある様に、あいの手をうつこと、相手方となり動作を示すもので、やはり説明役の一種である。
あどと同じ意味から出たものに、能楽のあいがある。此も脇方から出たもので、をかし・狂言に似たものではあるが、多少役どころが違ふ。前してが中入りをした後で、間語アヒガタりと言ふ事をする。其があいである。だからあいとは、間の繋ぎをするからの名称と考へてゐる人もある様だが、其は誤りである。あいの職分を分解して行くと、能楽の根本組織を理会する事が出来る。のみならず、古代の文学を生み出して行つた、芸能の基礎的事実に触れる事にもなるのである。

     五 副演出を必要とした訣

昨春、旧正月の十八日に、遠州の山奥、水窪町を訪ねて、西浦ニシウレ所能の田楽祭りを見学した。田楽とは言うても、編木ビンザヽラを使ふことも、舞ふことも忘れて了ひ、高足をさへ忘れかけて、手に持つて歩くほどのものであつたが、田楽能だけは覚えてゐた。此点で極めて、古色蒼然たる感じを与へたが、とりわけ暗示に富んでゐると思つたのは、番毎に「もどきの手」と言ふことがくり返されてゐる事であつた。まじめな一番がすむと、装束や持ち物など稍、くづれた風で出て来て、前の舞ひを極めて早間にくり返し、おどけぶりを変へて、引き上げるのである。我々は此を見て、日本の芸能が、おなじ一つのことを説明するのに、いろ/\と異つた形であらはし、漸層的におなじことを幾つも重ねて来た事実を、よく感じることが出来たのであつた。
併し、かうした事のくり返されるのは、何故であつたらうか。根本は、日本の宗教が極めて象徴的なものである為に、其を説明するのに、いろ/\と具体的な形で示す事が必要であつた。さうしてそれには、いろ/\な現し方があつた。いろ/\な現し方で、一つの事を説明して行く中に、姿・形が変ると同時に、だん/\大きく育つても行つたのである。そこに、日本の演芸の発達があつたので、主たる一人が発言し、動作したことを、いろ/\な方法で説明して行つた。要するに、日本の芸術はその発生するにあたつて、まづ説明をまたねばならぬやうな事実が、横はつてゐたのだ、と見なければならぬのである。

     六 幸若舞ひの影響

能楽のあいが、間のつなぎでなく、前の舞台の説明であるとすると、能楽には既に一番の中に二つの副演出が重つてゐる。後じては更に、具体的な説明である。即、前に現れたものはこれ/\のものである、と説明するのが後じてである。勿論、新しいものゝ中には、此論理を踏んでゐないものもある。曾我もの・判官ものなどは新しいものであるから、此約束が忘れられてゐる。幸若舞ひの影響を受けて出来たものだからであらう。
ともかく曾我ものは、謂はゞ後じてだけのものである。曾我の姿を説明してゐない。船弁慶では、前して後じてとが、何の関係もないものになつてゐる。能楽本来の論理で説明すれば、前してシヅカは、後じて知盛トモヽリの霊の化身である、と謂はねばならぬ。此で見ると、元来後じては一種のわき役なのであるから、前してとは、別人でなければならぬ訣であるが、役として重いものなので、いつかして方が、其両方を兼ねてしまふ様になつたのだと思はれる。
能楽の新作が、幸若舞ひの影響を受けた適切な例は、修羅ものである。修羅物を見ると大抵、組織は同じでも、現代の生活――当時の武士の生活の写生――に近いもので、さうしたものが面白がられた結果、従来のものとはだん/\に、離れて行く傾向を持つてゐた事が、明らかに見られるのである。

     七 翁と三番叟

能楽で重要なものになつてゐるのは「翁」である。明治になつてからは、年の始めと、新築の舞台開きとだけしか演らなくなつたが、江戸時代までは、興行日数のある限り、毎日これを演つたのである。明治以後、所演が尠くなつた訣は、役者がものいみの生活を嫌ふ様になつたからである。要するに、翁を毎日演つたと言ふことは、此があらゆる演芸種目を超越したものであり、どの能にも深い意味を持つてゐる。言葉を換へて言ふなら、すべての能が翁の副演出だ、と言ふ事になるのである。
翁は元来して方の役目のやうに見えるが、実は脇方で始めたもので、脇役者がしてをつけた、と見なければならぬ。翁に対する黒尉、即三番叟は、誰が見ても、白式の尉のもどきである事が理会出来る。翁が神歌を謡ひながら舞うた跡を、動作で示すのが三番叟である。三番叟を勤める役者が、狂言方から出るのには、深い意味があつて、動作が巧妙だからだなどゝ言ふ、単純な理由からではない。白式の尉の演ずるものは、歌も舞ひも、頗象徴的のもの――河口慧海氏は、とう/\たらりは西蔵語だと言うて、飜訳されたが、これは恐らく、笛の調子であらう――であつて、その神秘な言動を動作によつて、説明するのであるから、此はどうしてもわき方の役者によつて、演じられなければならない。脇方としては、重要な役目である訣だ。

     八 翁の副演出

ところで、能楽では更に、此上にそれの説明がつく。能の本随である、神能の所演が其である。翁が入り、三番叟がすむと、殆ど、お茶を呑みに行くもない程の間で、神能が始まる。養老・田村・高砂・嵐山など、神仏に関係したものが演じられる。前してで田夫野人であつたものが、後じてで、実はかうしたものであると、神・仏或は聖なるものゝ姿となつて、現れるのである。
翁に対する神能の関係は、副演出と見なければらない。翁の芸を三番叟が飜訳し、更に神能が説明することになるのであるが、尚此上に、次の番組で神能の説明が試みられる。能の番組は、さうして作られたのだと思ふが、いつか其意味が忘れられ、たゞ神の意志を伝へればいゝと言ふやうになつたのである。
翁が毎日繰り返された意味は、これで訣る。どの能もが、翁の説明であり、副演出であるからである。猿楽の基礎は、翁であるが、此「翁」は、もとは田楽附属の芸であつた。それが幾つもの副演出を重ねて行くことによつて、遂に猿楽を分離せねばならぬほどにまで、発達したのである。猿楽は其最著しい例であるが、かうして副演出を重ねて行つたのは、単に猿楽ばかりではない。日本の芸術はかくして、豊かに発達して行つた。かくて、能の源流は脇能にあると言ふことは、日本の演劇史を研究する上に、極めて大切な問題となるのである。





底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第一部 民俗学篇第二」大岡山書店
   1930(昭和5)年6月20日
初出:「民俗芸術 第二巻第三号」
   1929(昭和4)年3月
※底本の題名の下に書かれている「国学院大学講義の一節。昭和四年三月「民俗芸術」第二巻第三号」はファイル末の「初出」「注記」欄に移しました
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年5月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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