熟語構成法から観察した語根論の断簡

折口信夫




私が単語の組織を分解するのは、単語の研究が実の処、日本の詞章の本質を突きとめて行くことになると思つてゐるからである。語根の屈折に就いて考へるには、先づ熟語に就いて見るのが一つの方法である。其には、語根と熟語の主部と言ふものを考へて見なければならない。茲に山と言ふ言葉があると、其を修飾する言葉がついて熟語が出来る。この主部に関しては、只今は問題にせずに置く。蓋然の儘に残しておいてもさし支へのないものとして、話を進めて行かうと思ふ。
さて、熟語の中の主部に対して、此に或語根がついて熟語を作つて行く。即語根は、修飾的につく訣である。其つき方は、今日の我々から考へると、古代もやはり今の様に、熟語をつくる修飾語が主部の上に乗りかゝつて居るといふ風に、もつぱら考へられさうである。事実さういふ例も沢山ある。ところが、今一段考へを進めて見ると、古代には、修飾の職分をとる語根が、主部より下に据ゑられた事実が沢山あつたのである。却て、其方が、正式であつたらうと思はれる位である。我々の口頭文章の基礎としての国語は、かうした時代を過ぎて記録せられて来たのであつて、さうした前代の熟語法の痕跡が、文献時代に残つて居つたのである。例へば、梯をはしだてと言うてゐる。播磨風土記を見ると、俵を積み上げて天に昇る梯を作つた時に、梯のことを立橋と書いてゐる。橋は梯である。我々の知つて居る限りでは、はしと言へば水平に懸つてゐる橋ばかりを考へるが、昔は渡る或は渡すと言ふ様な場合、即、此方から彼方へと二つの場所を繋ぐものは総てはしで、垂直的のものをもはしと言うたのである。其を立橋と言ひ、これを名詞とした場合にははしだてと言つて居る。此を我々の文法意識から言へば、たてはし(竪橋)といふはずのものであるが、此を橋の立つた物と理会してはならないものなのである。
次の例は、大和に於ける地名例が文献的には一番古いが、山城或は其他の各地にも、或は又普通名詞のやうにも使はれて居るものに、傍丘カタヲカ(又、片岡。或はかたをかやま)といふ言葉がある。只今の言語情調から言へば、丘の傍の平地の其又傍にある所の其丘、といつた方になるのである。里・野があつて、其処に丘がある訣である。併し、此は現在の理会である。其が後になると、直接丘を指す様になつたので、丘其は傍にある丘、といふ風に、再び丘に還つて来る。それで、傍丘が丘の名で、丘を修飾してゐるのだ、と思つてゐるが、昔の人は今の人と文法意識を等しくするものでないのだから、地或は野など言ふ主部は、暗示に止めておいて訣つた。その為、かうした形をとつたのである。謂はゞ、丘のカタの「土地」といふ形でも宜いのである。傍丘は丘の名ではなく、丘の傍といふ事で、今ならば、恐らく不安定を感じる筈の丘傍と同じ意味の言葉であつた。此は、はしだてとも同形式で、我々なら竪橋と言ふところをはしだてと言ひ、丘傍を傍丘と言うたのである。をかべ或はをかびには普通辺を宛てゝ居るが、(又は、み)はほとりと言ふ事ではないのである。従つて、傍丘を或はもとほりの丘辺など言ふ語でうつすことはいけないので、地名にあるものは、ただし此とは別である。かういふ言葉が文献時代になつても、散列層のやうにはさまつて残つて居るのである。同時に、幾分昔の熟語法の意識が残つてゐて、新時代の熟語法即、修飾語は主部に対して上につかねばならぬ、と言ふことを知り乍らも、昔の文法意識が仄かに働いてゐたことが考へられる。
平安宮廷・貴族の生活上の言葉にしたぐつ(韈)がある。此を音韻変化して、したうづと言うてゐる。此には、昔の熟語を作る意識があつて出来たものであらう。車の前面には簾が垂れてあるが、揚げれば主の顔が見える。其為に簾下がある。其を下簾シタスダレと言うてゐる。我々の熟語法からはちよつと訣りにくい言ひ方だ。謂はゞ簾下なのである。下沓・下簾などいふ語を見ると、沓・簾に熟語の主部があり、下が修飾してゐる様に見えるから、当然の熟語の様に考へられるが、実はさうは言へないのである。したが下に来るのが本当である。同時に、傍丘の場合の如く、下「なる物」の暗示が、皆に享受せられることゝ予期してゐるのである。此は、新時代の熟語でありながら、昔の熟語法と通じてゐるものがあるのだ。忘却の間歇的復活か、古い方法の遺存してゐるものに学んだのか、此説明は、単純には出来ない様である。此などは、語根が上にある様になつてゐるから、一見新しさうに考へられるが、此熟語法は実は、古いのである。此形は実に沢山あるのであつて、珍しい例をあげた次第ではないのだ。又、現代においても、かうした見地から、精密に方言の古格を存してゐる部分を探せば、類例はまだ/\出て来ると思ふ。殊に、我々の国の周囲民族・種族に於いて、我々と同種の裔族であつて、文献時代前に岐れたものを検断して見ると、其が訣る。沖縄がさうである。朝鮮になると関係が少し複雑になる。沖縄の言葉は、謂はゞ日本の方言に過ぎないことは事実である。唯、非常に早く岐れたものである。我々の先輩同人の考へて居る様に、日本と文法組織が極点まで一致してゐるにしても、様式に差のあることだけは、認めなくてはならぬ。我々の古代・中世の文法組織と異つてゐるものも多いのは、文献時代前に分派して居たからである。だが、ある種の文法や造語法は、全然一致してゐる。日本の文献にも、国語学関係の材料として特殊なものは、さう多くない。其で、日本の国語の為、殊に、古代文法を研究する為には、沖縄語は大事である。これを補助として、俤でも残つてゐる古代国語とつきあはせて、相俟つて一宗形を還元して見るより仕方がない。さうして見ようとすることが、色々な効果を予期させる。其一部の為事として、古い熟語法をも見ようとするのである。
日本の古語と近代の朝鮮語との対比を以てする日鮮語同祖の研究は、他の語族の事より見ても考へられない事だと、金沢博士の説を排撃する学者も多い。併し、其は言ふものが間違つてゐる。民間伝承としての特質を言語の上に考へることの出来ない常識論が、さう導いてゐるのである。言葉の伝承といふ事実は、或点まで、時間空間を超越する力を考へなければならないものなのである。
沖縄語と言つても、村々で言葉は違ふ。其は村の神の違ひに依る。必要以外言葉を交さない村々が彼方此方にあり、其為に古い言葉が維持せられて居る。神々の発する神言に依つて、支配されてゐる部分が尠くないのである。おもろおたかべみせゝりなどいふ種類、或はまたその系統のものが、まだ地方に残つて居る。此が地方の方言を今も尚支配してゐて、日常語を古い状態に置いて居るのである。おもろさうしは、さうしたおもろを六百年前から中央に集め蓄積したものである。
沖縄語では、小いと言ふ意味の言葉が下につく。関東から東北地方へかけて、盛んに語尾にをつける事実に似てゐる。小い何々と言ふ義で、橋ぐゎぁ・牛ぐゎぁなどゝ言ふ。小い橋・小い牛といふ組織である。ちやうど日本語の接尾語に似てゐるが、此は必しも小いと言ふ意味ではない。国語でもなど言ふ接頭語は小いものゝ意味であるが、ぐゎぁは親愛の意味で、さゝやかなでりけいとな感じを以て接する時の言葉で、かならずしも小くなくても宜いのである。沖縄では、この熟語法が直ぐ眼につく。かうした文法組織が沖縄には幾らもあつて、おもろ以来の文献にも、方言にも残つて居る。ぐゎぁの古形は、がまである。母及び妣の国を懐しんで「アモがま」と言つたのが、「あんがまあ」となつてゐる。宮廷女官の称号であつた「あむしられ」は「知られアモ」と言ふ義である。「きんまもん」なる霊神は、「真物君父キミ」の義に過ぎない。かうした事は、更に台湾にもある。台湾人の言葉と言つても、蕃族調査報告書などに依つて見るだけでも、生蕃・熟蕃の言葉を整理して見ると、言葉は固より文法組織は部落々々に依つて違つて居る。うらるあるたい型の組織の幾分を持つた処もあるが、多く所謂南洋系の構成法を持つたのが普通である。最後が述語で終ると言ふ形とは全く異り、英語の様な形式を持つものもある。従来の言語学者は、語序を以て同語族を組立てゝ行くのであるが、其は、殆、単なる形式主義の偏執であつて、早晩訂正しなければならぬ方法でありさうだ。蕃族は、語序が日本及び琉球と違つて居る。更に南方の日本委任統治の島々から、蘭領印度地方に考へ及すと、語序は全く相違して居る様であるが、単に見た上の考へ方で、根柢の一致は多く求めることが出来るのである。だが、此は、只今当面の問題ではなく、且私には其だけの知識がない。而も此等の種族の言語を見ると、やはり日本の古い熟語法と同じ形式をとつて居るのである。文章の語序が違ふやうに、熟語を作る方法が、近代の国語とは全く違つて居る様に見えるだらう。だが、昔の我々は、併し其を持つて居たのである。
ところが、さういふ熟語の作り方、即、修飾部を先立てる形の外に、熟語の作り方はまだいろ/\ある。此を時間的に言ふのは避くべき事なのだが、文献時代には著しく現れて来るのであるから、前の形よりは幾分新しいのではないかと思はれる形は、修飾する語根が先に行つて、修飾せられる主部が其後に来るといふ、一見普通の形である。即、二個の言葉が並んで居るのか接続して居るのか訣らぬ為に、或方法に依つて此を区別する形をとつて居る。此が、前述の形式を古いとすれば、次に来るものであらうと思ふ。其は先づあくせんとで表すであらう。事実、さうした試みも、古人は行つたらしいのである。二つの言葉を並べて、今なら小読点を入れるといふ風に、昔の人は単に言葉を並べて行く場合と、熟語を作る場合を区別して、熟語の場合はあくせんとを以て下に接続してゐるものなるを示した。詳しい事は訣つて居ないが、古事記だけには、其が僅かながらある。重んずべき伝統的な固有名詞又は、神秘な文句には、此方法をば採用して居る。熟語があくせんとを促すのか、あくせんとのある為に熟語の職能が果たされるのか訣らぬが、ともかくも、此考へは、とりのける事は出来ない。
其に関聯して、熟語を作る場合に、語根が屈折することに注意を要する。従来、この体言及び名詞の屈折については、多く言はれてゐない。だが、此は大切である。今では体言の語尾は動かぬが、昔は動いたらしい。此事実は、沢山ある。まづ普通音便と称するものからはじめる。エ列の音を持つた名詞が熟する場合は、ア列音に変る。例へば、さけだるさかだるに、かぜぼろしかざぼろしに、すげがさすががさに変る。此は単なる音韻変化ではないのであつて、熟語を作る場合の語根の屈折が、自然に機械的に整理せられる様になつて取つて来た規約である。元を突きとめると、熟語を作る時に、先づウ列の形をとるといふことである。
神風は例外なしにかむかぜと言うて居る。斎は両音あつて、音価が動揺してゐる様に考へて居たが、此はが動かぬ音で、熟語を作る時にに変るのである。何故かういふ事が起つて来るかと言へば、かうなる一段前の状態を考へると、総ての語根といふものは、終末音が謂はゞウ列音――即、子音に近い為に、一つ揺れるとウ列――になつて来る。従つて、動詞を作つても終止形がウ列音になる。動詞の中一番動かぬものは、この終止形である。語根と語根が繋つて行くと、ウ列の音が出て来るのである。
語根はウ列に近いものであるから、此考へが先づあつて、熟語を作る場合に其性質が生きて来る。ウ列に近いと言ふ意識が出て、語根だけで満足しきれないで、屈折を生ずる。修飾語の方がウ列に変つて来る。例へば、黄金といふ言葉がある。黄はで、我々の考へるが如き黄ではなからうが、此きがねこがねになる。このこがねも動揺してゐるに違ひない。古くはくがね或はくがにと言うて居る。昔はといふ名詞であるが、熟語を作る時には、熟語の主部に対して語根と主部が結びついたといふ形を意識すると、ウ列音を分出して来るのである。我々の国でも、イ列とウ列は近い。木は始終と言うて居る。木の神をくゝのちの神と言ふ。瓠の神をくひざもちの神と言ふ。くひざで拵へたのことである。に変るのにも、一つの原因がある。語根が熟語を作つた習慣に還つて来るのである。火は熟語を作る場合には、殆例外もなくと言ふ。と殆一つ音である。は近いが、は更に近い。単なる音韻変化では済まされぬ訣である。かういふ事実があつて、無意識ながら意識を起して来て、其規則を宛てはめて来るから、あたかも、音韻変化と言ふ考へに這入つて来るのである。此が第二段の熟語法で、名詞的な語尾の屈折と言ふことになつて来る。つまり、用言は独立的に屈折を起すが体言の屈折は下に続いて行くべき主部がある。此は、体言・用言を考へる上の大事なことである。
次に起つて来ることは、我々が音韻変化だと考へてゐる現象で、最目に立ち易いのは、熟語を作る時に修飾部の語根が、ア列の音に屈折するものである。即、修飾の主部がア列の屈折韻になる場合である。すがゞさなどの例である。此には、我々が独立した名詞だと思つて居るもので、熟語の主部を脱落させて居るのが多い。白髪シラガは、に屈折したと言ふ事がほぼ考へられる。併し、毛のは上にあつて修飾する場合は訣るが、下にある場合に何故になるのか。白毛の髪の意味であるから、此下にまう一つ熟語の主部がなければならない筈である。親はおゆ(老)から出たものに違ひなく、動詞のおゆか、動詞以前の語根おゆとでも言ふやうな言葉から出て居ると思ふ。「老いびと」とでも言ふ言葉が、下に予期出来るのである。ひとと言はなくても、これを暗示してゐるのである。其が、さう言ふ語を引き離しても理会がゆく様になつたもので、其が屈折したのである。おゆは年よつて居る、年長だ、と言ふことに過ぎぬ。年長者が家を切り廻して居るのであるから、古代に於いては、主に女性で、古代のおやは母権時代にあつてははゝである。後には男を言ふことになつた。昔ははゝを祖と書いてゐる。祖の字は祖先の場合に宛てる事もあるが、多く母親の意味である。御祖神も其処に意義がある。
縄は、元、なふと言ふ言葉から出たに違ひない。はじめ、縄は野生の植物を其儘用ゐて、綯ふ必要は殆無かつた。つたつらつるなど言うた。太く強くする為、縒り合せねばならぬ。さうして縒つた蔓が出来た。或はしもとを縒つて使つた。しもとは灌木の新しく出た直枝である。「糸に縒る物とはなしに」など言ふ。大小に依つて区別があつて、小い物ではよると言ひ、大い物ではなふと言ふ。その意味は訣らないが、縄は綯ふ物の意味である。は物或は綯ふツラといふ風な形から音を落して、なはとだけ言うて表はして来たことが考へられる。此で見ても、ア列に音を変へて熟語を作るといふ事の理由は、単なる音韻変化ではなかつたのである。
次には、イ列の熟語である。此例は、甚多く、又平凡な事実と見られてゐる。上の修飾部も其主部も、各別個の生命を持つてゐる。名詞と動詞が結ばれる場合、或は動詞と名詞が結ばれる場合に、とり・さしとりさし共に生きて居る。二つの言葉が結ばれて一つの言葉になつて居るが、別々にも生きてゐるのである。思ひごとゆきあしなども同じである。而も亦、熟語なることに疑ひはない。ごく簡単な熟語法である。
このイ列に変つて行くもの以外の熟語法では、昔は普通の連用形のイ列からつかずに、連体形からつく熟語の方が多かつた。連体形から来る熟語は、熟語の感じが不完全だと感じよう。例へば、もゆる火・いづる湯などは、熟語と認めにくいであらう。形は熟語ではあるが、ぴつたり体言の感じが来ない。併し、実は昔は此形が多いのである。文献時代は、此連用形と連体形の熟語が戦つてゐる時期であつて、イ列から連体形ウを伴うた熟語法の方が、実は古かつたことが考へられる。此も先に言うた、ウ列から主部に続いて行く形になつて来る。ところが、此ウ列から主部に続いて来ると言ふ意識が段々変化して来る。此が用言の終止形と連体形の出来た原因で、第四変化は熟語を作るところから出来て来た。此点は、日本の用言の活用の発生には大事なことであつて、連体形から出た熟語いづる湯は、ぴつたり熟語的の言語情調が出ないのであるが、いで湯より古いのである。昔の人には、其感じがあつたのである。言ひ換へれば、連用形イ列の熟語法は、主部と修飾語が別々の意味の感じがあるが、ぴつたりして居る。ところが、連体形よりする熟語は、別々の意味が感じられるばかりでなく、主部が動詞的の感じを持つてゐるのである。
語根の屈折を言ふには、熟語のことを言ふ必要がある。其為、先づ此処では、ア列イ列ウ列の熟語法に就いて言へば足るだらうと思うたのである。
次に、進んで動詞の活用の、どうして出来て来たかを、考へ得る範囲で言うて見ようと思ふ。言葉の研究は、ある程度以上に考へを進めれば、勢ひ推測になるのであるから、或程度に停めて置かなければならないのである。熟語が出来るその前に、語根が屈折を起すと言ふことは説明した。又、語根と同じ形、即、名詞の形でひつくるめられる体言が、やはり屈折をすることも、訣つて貰つた筈だ。扨、これを、今日の我々が使つてゐる動詞の起源と結びつけて見ると、どうなるかと言ふと、実は動詞の起りは訣らないのである。溯れる過去の我々の国語には、ある進歩を遂げた形しかないからだ。唯どうしても、語根のもつと自由に働いた時代を考へる事が、動詞並びに用言の発生に薄あかりを与へることにならうと考へるのである。其には、二通りの道がある。一個の体言が直ちに屈折を起したもの、他の一つは、熟語の形を作つて比較的完全な用言形式を持つやうになつた、即、用言形式を作る為に熟語の形を経て来る、と言ふ此二つである。ふると言ふ言葉は、何処まで体言で何処まで用言か訣らぬ。この用言風のふるは、同時に体言らしい意義も発揮してゐる。熟語とならなくても、明かに体言の職能を示して居るのである。其が屈折を生ずる。我々の知つてゐる限りの形では、ふらふりふる即、四段の活用に近い。さうして、ふるゝふるれといふ形は不完全である。体言からすぐに動詞になつて来たものは、過去の或時代に都合のよい形だけ働いて、他は働かなかつたものである。此は沢山ある。ふるでも、連体形以前の形は疑はしいと私は思ふ。
ふゆ即、ふえると言ふ言葉は、唯増殖する意味だけではなく、分割する即、同じ性質を持つたものに分裂することである。このふゆと言ふ言葉が、我々の考へて居るところでは、下二段の動詞だけであるが、昔程増殖する意味より分割する意味の方が多かつた。「品陀の日の御子 大雀オホサヾキおほさゞき、佩かせる大刀。本つるぎ 末ふゆ……」(応神記)と言ふのは、根本が両刃の劒で尖が幾つにも岐れてゐる、即、刃物に股があり末が分裂してゐると言ふのである。ふゆは魂を分裂さすことだから、一種のことほぎの唱言であつた。このふゆと言ふ言葉が、はつきり名詞になると、季節の冬になる。これは疑ひない。年の終りになると、みたまのふゆの祭りを行ふ。その時期がふゆなのである。それから極く小な形が出来て、季節の冬になつた。「みたまのふゆ祭り」を間に置いて考へると訣る。ふゆまつりふゆが、名詞的な感じを持つて来るのである。
文法学者の挙げる例は、古代と近代とを混合する。其為、実例なのか、其とも譬喩として使つてゐるのか、訣らない物がある。それで、私は近世の例を避けて言ふ。例へば、鎮魂歌をたまふりの歌と言ふ。国々に於ける鎮魂歌は、くにぶりと言うて現れた。後には段々本義を忘れて、所謂風俗歌の感じになつて来る。くにぶりが、国のたまふりの歌といふ意味を持つ迄には、大分な時間を経て、人の頭に熟して来なければならない筈である。ふゆも其と同じ訣なのである。ふゆとだけ言つて、今の冬の感じが出て来る訣ではない。ふゆと言ふ言葉を持つた印象深い事実があつて、其からふゆといふ単純化せられた言葉が出来、初めて我々にぴつたり訣つて来るのである。熟語の形をとる場合は、其が割合はつきりして居る。みたまのふゆは魂を分割する式の事で、語形としては割に不安がない。後に御蔭を蒙るといふ意味になつて来る。語根と言ふものが段々用言状になつて行くにしても、幾分熟語を作ると言ふ予期を持つて動いて行く。熟語があつて、その上に、その修飾せられる主部を離れた形になるのだ、と考へなければ、完全な用語とはなりにくいのである。つまり、語としての暗示を含まないからだ。語根の屈折と、語根が熟語にくつついて行つて用語が出来るのであるが、屈折を生ずるには、熟語を作る感じを含んでゐるのである。其感じの強く働いて居るのが、語根の屈折の動詞・助動詞・形容詞でなく、語尾を伴つた用言である。此は文法学者の言ふ、活用するしないの語尾ではない。語原的の分解をして見た、意義上の境ひを以て分けられるものである。語根と語尾との間に語幹を入れて来る学者もあるが、其方の議論は省いて、此処では語根の問題だけにして置く。語尾は終止形をとつて考へると、多少の差こそあれ、皆ウ列音が使はれて居る。の語尾を持つてゐる言葉は、来る意味で、は往ぬ、あるが結合して在るの意味に使はれたと言ふ論は、或点までは事実と認められる。万葉集のやうに、日本語を漢字で書いてゐるものを見ると、けりなどは来と書いて居る。即、其時分の考へで、語尾を漢字で現してゐるのであるから、一応道理である。又、誰もさう考へたのである。併し、意味の訣つてゐないものがある。一音だからは来るであらうが、かくとくなどのは訣らない。これは語根が屈折して出て来るのだが、今までは統一的の事実を予期して語尾を使つたとする、所謂一音に一義を認める音義説である。更に進むと、母音と子音とに又意味を求めて行くのである。橘守部は、言葉の研究には非常に優れて居たが、語尾の点では何時も此考へに深く陥つて居る。
接頭語が無意味である如く、語尾は無意味なものであつて、語根を動かすに過ぎない、と言ふ考へは捨てなければならないと思ふ。意味あると考へ過ぎるのも、又無意味だと考へるのもよくないのである。或はの語根意識は全然誤つてゐるとは言へないのであつて、此は或期間を経て、さう言ふ語尾の組織が出来て来た、即或時期以後の語尾の形だと見るのがよい。語根と語尾の関係も、熟語を作る場合の語根の形から推して行かなければならないのである。
割合近代的の感じを持つ言葉を例に引いて見る。みのるは、のるだと言ふ説がある。我々には此言葉が、句乃至文章だといふ感じが退化して、動詞の感じが深い。たがやすは一語だと思ひ乍ら、「田をかへす」と言ふ気持もおさへられぬのである。従つて、熟語から出て来る動詞を考へても、段々二つの言葉が結びついて居る、と言ふ感じのなくなつて行く筋道が見えてゐる。併し、古い用言の起源を説く場合、此をみのると言ふ様な形、即のると言ふ様な文章風な感じのするものから出来て来たと考へるのは、宜くないのである。もつと心理的な、語根と主部との間に、密接な関係と言ふよりも、飛躍があるものと見なければならないと思ふ。
多く用言殊に動詞の場合は、主部が小くて語根が大い。しかも此主部が、動詞そのものゝ職能を定めてゐる。即、活用形が動詞の形を決めて行く訣である。思ふに、語根と主部とで成り立つた動詞は、最初の動詞ではなく、まう一つ前の形は、語根から屈折を生じて出来たものである。いくは生活する或は呼吸する意味に考へて居るが、語根の場合にはいく弓・いく矢など言うて、威力を持つてゐる意味である。形容詞になるといかしなど言ふ形を持つて居る。さうなる語根の屈折の状態が、第二義の熟語の場合から動詞を作つて来る場合をも、宿命的に支配して居る。単純な熟語ではないのである。所謂動詞といふ形が、一度単純から複雑な形になつて行かなければならないので、みのると言ふ形も余程進まねば出て来ないのである。
ウ列の語尾の意味は、必まう少し意義のある完全な言葉が壊されてなつた、即、体言から動詞に屈折して来る習慣から出来たもので、古い意義の具つた言葉が破壊されて固定したものと思ふ。さう言うてしまへば、やや語弊がある。うくすつぬはウ列の終止形であるが、終止形は一番後れて出て来るのである。形容詞で見ると、其がよく訣る。どうしても、終止形から始つて居るものとは考へられぬ。連用形・連体形が先づ出来て、其から終止形が具つて来た傾向がある。第二次的のものになると、一番単純に見える終止形から始つたとは思はれぬのである。動詞の語尾の起源は、ウ列の語尾をいくら研究して見ても訣らぬことであつて、もつと活用全体に通じて考へる必要がある。
其為、昔の誤つた説を以て、まう一度吟味して見ようと思ふ。部分としては認められても、全体では棄てねばならぬ説であるが、動詞は名詞の形を通つて活用して来るとする説である。例を挙げて言へば、ながめると言ふ言葉には、同音で違つた成立を持つ物が幾つかある。即、同音異義の言葉がある。其うち平安朝に専使はれてゐるものに、男と女が逢へないで憂鬱な気持でゐる意味に使つた、「ながめ」と言ふのがある。ながめには尚遠くの物を見る眺めと、溜息声を出して諷ふ場合がある。かういふ似た言葉の意義をも、少しづゝ兼ねて居るやうである。此ながめは、従来否定して来た説に這入つて来る。性欲的に憂鬱になつてゐる、或は恋愛上のもの思ひしてゐる場合に使つて居る。景行天皇記に、「恒に長目を経しめ、またしもせずて、物思はしめ給ひき(古訓)」と書いてある。は男と女が逢ふことで、其が名詞的の感覚を強める様になつてからは、になつて来る。「ながめを経しめ」は逢ふことの久しい事であるから、夫婦の語らひをばしない、と言ふ意味である。此ながめが、ながむの語根である。正しいに違ひないが、これまで否定して来たのである。一度名詞の形をとつたものが動詞的に働いて来ると言ふことは、誤りだとして来たのであるが、併しこれは考へに入れる必要がある。ながめ(経)或はと言ふ観念の引き続きを持つたのである。ながめから直ちに活用を起すのでなく、ながめ或はといふ形を漠然と意識して居るその中に、ながむが出て来るのである。即、形の上でながめるが融合して出来たのではないが、一聯の心理がある訣である。みたまのふゆ祭りからふゆを独立させて来るのと同じ状態である。さうして、動詞の語尾の発達を考へなければならないと思ふ。
ちやうど適切なことは、ながめには尚説明が出来る。これも事実に相違ない。ながめは霖雨の時期の物忌みである。此時期に、神がこの世に現れて来ると信じてゐた。さつきながつきとは霖雨の時期で、九月と共に五月は物忌みの厳重な時であつた。其中、九月は風俗を離れて信仰だけになつてしまつたが、五月は田植の信仰と結びついて永く残つてゐるから、その理由がよく訣る。五月には、田植の終る迄は逢ふことが出来なかつた。其をながめ忌みと言うて居る。夫婦であり乍ら、逢へないのである。「ながめを経しめ……給ふ」と言ふのと同じである。果して何れが元か訣らぬが、仮に決着をつけて見れば、長雨の時期で禁欲生活をすることからながめが出で、此からが出て、「ながめを経しめ……給ふ」になつたと言へるのであるが、我々は昔の言葉に対する用意や感覚に乏しいのであるから、簡単には決められないのである。
一つの言葉が出来て用ゐられると、他の類似の言葉に対する理会が働きかける、即、第二義的の語原が元の言葉にかぶさつて来るのである。さうさせるのは、所謂民間語原説である。さうなると、何処から起つて来たのか訣らなくなつて来る。さうして用語例と言ふものが、無限に拡がつて行く。ながむと言ふ動詞は、先づながめと言ふ名詞から来たのに違ひないのである。長雨にせよ、ながにせよ、名詞である。其ながめが既に語根の屈折したゞけで出て来たのではなく、動詞状の心理的変化の過程を経て来て居るのである。即、仮に言へば、ながめふと言ふ、謂はゞながめを為上げると言ふ感じが、非常に働きかけて来てゐるが、といふ語尾をとるには、何等参与して居らぬのである。ながめながむはきつぱり分れるが、語原説を持つて来ると、一筋の繋りがある。第二義になると、語根と語尾のはつきり分れるものもある。ともかく、語尾が先づウ列音をつくつたと言ふことは考へられない。さうして、先づ連用或は将然、稀には連体と言ふやうな形が出来て来る。
茲にまう一つ言はねばならぬ事は、動詞の終止形を発生させた原動力の問題である。総て、一つの傾向を無意識に感じて、その傾向の下に置かうとする心である。我々の使つてゐる言葉が統一せられて、下二段・上二段・四段・変格と決つて居た訣ではないが、段々整理されて、幾つかの活用形式を生じて来たのである。各動詞の語尾は刈り込まれて、或形式に統一されて来たのである。大体八種の活用に決つてゐるが、音韻変化を頭に置いて考へれば、もつと単純になる。動詞の活用すらも刈り込まれて、統一せられた形に決つて居る。一つの傾向と見るべきは、終止形と連体形が一つに歩み寄るものである。音を刈り込んでなるものである。此を例に見ると、語尾の単純な形と複雑な形となる。四段のものでは訣らぬが、下二段で見ると、終止形と連体形とが分れて複雑になつて居る。其を刈り込んで単純な形に整へて来たものが、四段活用なのである。併し、言葉と言ふものは、さうした所で、他の点から活用を起して行く事情もある。さうして段々活用形式が整うて来るのであるが、古い終止形は連体様の形が多かつた。其を刈り込んだのが何かと言へば、熟語の動詞の中の主部と語根の中、主部が縮小して出来た語尾であつて、古くは勿論意味のあつたものなることは考へられる。今の人の考へるよりも、更に複雑だつたのであるが、とにもかくにも終止形は語尾が次第に展開して来る径路を示してゐるものと言うてよい。

(私は所謂、動詞の活段・活用形に関する用語をそのまゝ使ふには、満足しきれない、別の立ち場に立つてゐるものです。併し、かうした小論文に、一々こむづかしく名目にこだはつた新術語を連ねて、一々その説明をして行かねばならぬと言つた方法をさけさせて頂くことにしました。
其と共に、お断りしておかねばならないのは、あわたゞしいうちの筆記によつたものなので、読み返して見て、其啓蒙式な書き方になつてゐるのに驚きました、この種の物を御覧になる大方諸子に対して礼を失した気がねを感じます。)





底本:「折口信夫全集 12」中央公論社
   1996(平成8)年3月25日初版発行
初出:「川合教授還暦記念論文集」
   1931(昭和6)年12月
※底本の題名の下に書かれている「昭和六年十二月刊「川合教授還暦記念論文集」」はファイル末の「初出」欄に移しました
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年8月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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