日琉語族論

折口信夫




完全な比較研究が、しばらく望まれない。単に類似点を、日琉語族の間につきとめて行くと言ふ程度のものにとゞまるであらう。唯さう言ふ簡単な為事も、人文地理上の変革から、問題にせられなくなる時が来ないとも限らぬと思ふ。その不安から、この小論文は纏めておく気になつたのである。日琉同祖観による長いよしみの記念ともなれ、と思ふ記録に過ぎない。

日本語・沖縄語は、今日では、疑ひもない同系の語だと定つてゐる。だが仔細に観察すると、その両方の語の含んでゐる古格の言語表情が、可なり複雑な姿を見せてゐて、さう言ふところに、尋常一様ではいかぬ文法上の問題があるのではないかと言ふ気持ちの、時々の偶感には、起つて来るものがある。其と共に、尚一層熟考してゐる中に、両者の間の相違点と思はれたものが、存外却てこの二つの語族のきり放されぬ関繋にあることを示してゐる、さういふ事に心づく。――かう言ふ経験が、私には屡※(二の字点、1-2-22)あつた。かう言ふ点も、私だけに限つた感情か、其とも、誰の上にも起つて来る普遍質を持つたものか、さう言ふことを考へて見ようと思ふのである。
私の之に続けて書かうとする第一部は、私個人にとつては、久しい懸案で、殆ど書かないまゝで四十年に近い年月を経た。その間に、進んだ学者は既に、幾分その成迹の報告をしてゐられる。大正初年の「東亜の光」に出された、坪井九馬三博士の論文は、その有力なものであつたと記憶する。私の此から引用する若干の例の中、既にその論文に出てゐるのもあるほどで、私としては自由に考へて来たことながら、どんな点かで、そのおかげと影響とを受けてゐるかも知れぬのである。

   第一部 日本語の語序

     一 下何

後代の語序からすれば、「簾下」「沓下」と言ふ所を、古くは、下簾「シタスダレ」、韈「シタウヅ」と、全く逆装法を以つて言つてゐる。かう言ふ考へから出発して行かう。
簾或は他の器用の下に、更にかけられてゐる簾を言ふからの名の下簾ならば、問題はない。又、クワクツの下に今一重別にはいてゐるので、下沓シタグツと言ふのだとすれば、此も亦あたりまへである。ところが、下簾・韈は、さう言ふものではなかつた。
車の正面にかけた簾の下に垂れる布類の名が下簾であり、沓の下にはく足袋のやうな類をしたうづ(したぐつ)と言つたのである。この二例とも、平安時代の言語の気分の多い語なのだが、其前にも既に言つてゐたのではないか。したぐつの方は、万葉巻十六にも、「二綾フタアヤ下沓」と言ふ語が出てゐる。沓下として穿ちはいた二重紋綾の足袋アシブクロなのである。
「……をちかたのふた綾下沓、とぶとりの飛鳥壮夫アスカヲトコ霖禁アマツヽミ(普通ながめいみと訓む)縫ひし黒沓」と言ふ続き合ひを見ると、右の沓下と、それからその上に、飛鳥郷人の霖雨期間に謹慎をして縫ひあげた黒沓をはいてゐると言つた姿で、沓と韈の著用次第もよくわかるし、語の時代は又溯つて藤原奈良時代或は其より古いものと言ふことは出来るらしい。勿論、語の意義も、そのまゝ持続してゐた様子が見える。さうすると、万葉集における語の位置排列が、二通りあつたといふことになる。
通常の語序をとつた文章では、先行する筈の語の、反対に後置せられてゐると言つてよい形の熟語が、飛鳥時代にあつたことの想像せられる程、其に続く長い時代に渉つて生きて居り、或はもつと後世までも、固定して熟語として残つたことも考へられるのである。而も其事実は、当然かういふ事情の内に行はれてゐたのである。日本語の普通語序にあるものとして用ゐられた極めて多くの熟語に介在して、すつかり語序の違つた、謂はゞ逆になつた語のあることである。さうして、今日残つた古い文献の綜合せられ考へられて来た我々の知識では、どちらか一方の語序を以てする表現ばかりの行はれてゐた時代が空想せられ易い。勿論文献の上では出来るだけ古代に溯つて見ても、普通語序の熟語が極めて多く、その逆様式のものはごく稀なと言ふよりも遥かに少い。さう言ふ語が鏤められたやうにまじつてゐるのが、事実である。決して逆語序の語ばかりの行はれた時代は勿論、其が非常に勢力のあつた時期の姿と言ふのをすら、見ることが出来るのではないのである。
其かと言つて、日本語成立の一つの方向から出て来る、当然の二分派とは考へられない。恐らく別々の系統から出た二様の様式が、日本語の上に、長く痕を引いて残つたものと見るのが、一番無理のない考へ方なのであらう。所謂逆語序の方が優勢を持つた時代は、書史の現実には見ることが出来ないのだが、だからと言つて、其が全然空想だとは言へない――理論的確実性を持つてゐるのである。
「したぐつ」の方は、右様の溯原を試みることが出来るが、下簾の方は、遅くはじまつたものか、今日存する文献・古典類に留りにくい事実があつて、早い姿を見せなかつたものか、ともかく、平安時代より、古いものは見出すことが出来ぬ。併し此と同類の様式のものは、当然臨時にも出来る訣なのだから、「した××」と言ふ形の熟語のあつたらうといふことは、言つてさし支へのないことである。

     二 片何

必しも万葉に偏寄つて、同種の例を求めねばならぬと言ふ理由もないが、語に、円満な理会の得易い、親しみがあるから、之を採る訣である。万葉にもあり、他にも相当に多く現れて来る語に「片岡」といふ地形・地理に関した語がある。地名である理由から、古語でありながら、今も生きて使つてゐる地方が相当にある。語原意識を明らかに見せた傍岡・傍丘など言ふ記載例もある。
「をか」と言ふ地形の印象の強い所から、岡を中心としての地形を思ひ浮べる習慣が我々の間には出来てゐる。「岡の傍の山」と言つた風に、片岡山など言ふ地名にして、地理観念の調節を行うた地方もある。
「かた山」と言ふのも、同型の語である。傍岡・傍山は岡の傍の一地・山の傍の一地で、その山・岡の傍なる地が直に山や岡であることは要せぬのであるが、普通変化のない地の状況から、岡・山の傍にあるそれ/″\の地までも、岡・山と考へくるむ癖があつたのである。
皇陵の散列してゐる大和北葛城郡の傍丘は、狭いけれども、極めて長い地勢である。南北三里に渉る平地で、逆語序に言つた習慣に固定したかたをかの地で、如何にも「丘傍ヲカガタ」と言ひ替へてもよい気のする地である。ところが、後漸く語感の変化に誘はれて傍の丘又は、里の傍の丘と言ふのに近く、聯想の移動して行つて、久しく固定したまゝに用ゐられた地である。
傍丘の名のついた其丘は、近代「馬見山マミヤマ」と称へる丘陵で、北は法隆寺の南方の岡崎と言ふ地から起り、その丘陵地帯が西から南へ廻り、東に向つた所に又、岡崎と言ふ地があつて、そこで岡はきれてゐる。この岡崎から岡崎に渉る丘陵を「丘」と言ふやうになつたので、元はその「丘」のほとりの平地帯が、傍丘であつたのである。この傍丘地方にある丘故、遂に丘を傍丘といふ風に考へ、片岡山と言ふ名で、その丘を呼ぶのが、古くから岡の方に移つた地名なのである。
片岡は分布の多い地名で、山城にも、名高い二つの片岡がある。万葉には、何処の丘陵地帯を言つたのかわからないが、「片岡のこの向つ尾に椎まかば……」(巻七)と言ふのがある。「傍丘山即この向ひのなる傍丘山」と言ふ風に解するやうだが、こゝも亦、「岡の傍の村(平坦地)の向ひの岡」と言ふことで、岡から起つた地名の、其地の前に立つ岡をさすのである。

     三 竪橋との関係

次に誰でも承認しさうな例は、はしだてである。天梯立など言ふと、今も、我々の中に生きた語序として歴然として残つてゐるのだが、おなじ古廃語らしい感じにある「かけはし」(桟)「いははし」「つぎはし」などとは、全く別の素質を持つてゐることが考へられる。普通、橋が横(水平)か、勾配を作つてか懸けられてゐるのに対して、タテ(垂直)に上屋や屋上や、又軒先から上の空にかけられることがあり、時としては信仰の上から――その場合が却つて多いのだらうが、屋上の虚空を横ぎつてある地点に渡されてゐるものと考へた――さう言ふ橋に到るまでも、(まだ間木ハシと言つた語原観を意識しながら)はしだてと言つてゐた。我々はやゝ遅れて、ハシはしごと言ふ愛称を加へた語ととり替へるやうになつた。かう言ふはしの両語序に渉つて聞える様に出来てゐるのが、くらはし(倉梯)である。空想上の天の梯を、さう頻繁に考へなくなつた頃に、倉梯立と言ふやうな語原意識を持つたまゝで固定させ簡略にしたものであらう。「神の秀倉ホクラも、梯立のまゝに」(垂仁紀)とあるはしだては、倉の上屋階アチツクに鎮安する神霊に奉仕する為のはし(梯)であつたのだ。
昭和年代に入つても、沖縄本島でまだ見かけた梯子の古風なものは、太い一本の柱に、足がゝりとなるやうに、鉈でゑぐつて間隔をつけた、一本梯子といふべきものであつた。之を何処にでも立てかければ、極簡易に梯子の用をするやうになつてゐた。はしだてなど呼んでゐた時期は、此種のものを用ゐたのだらう。水平にかける橋のやうに、両端を物にもたせかける要がないのである。
播磨風土記揖保郡の「御橋の山は、大汝命の造つたもので、ツミテ、山、石橋に似る」とある。竪橋として空に向けて竪てたことを考へてゐる。同じ印南郡の「八十橋」が、天に届いてゐた時分、八十人ヤソヒトの上り下りした石橋と言ふ伝説と通じる所がある。此も一本梯子を考へてゐるものと見られる。
梯立が逆語序のものであらうと言ふことは、坪井博士も述べてゐられた筈である。

     四 殯(もがり)

今まであげた熟語は、私の考へを裏切る筈はないと思ふが、相当に疑はしいものもある。
殯宮・殯斂の殯の字は、もがり或はあらきと訓むことは誤りでないらしい。今日でも、大体語原ははつきりしない。ほなしのあがりの、火無殯斂を意味するらしい所から、あがりが神あがりなどのあがりと同じであり、もがりは、喪あがりだといふ風に説いて来たが、この説自体やゝ矛盾があり、ほなしのがりの古語も、ほなしのがりの誤記でないとは言へない。もがりは元、本式に喪葬することでない。ある時期の間、いまだ離れない霊を持つたまゝの屍を、別所に据ゑて置く儀礼である。まだ生人の待遇を捨てないのだから、宮廷では、「大行天皇」と、古くは称してゐた。屍を呼ぶ名であり、霊魂を名ざしての称へである。
もがりと言ふと共に、かりもがりとも言つて、両方共、別に異同のある訣ではない。思ふにもがりは元々、一時の行為で、結局喪葬の手順の一つを考へてゐたやうだ。だから、かりもがりと称へて、恰も仮りに行ふ喪葬といふ風な感覚を抱いたことを示してゐる。だが、もがり自体が、仮りの方式だから、仮りに行ふことゝ言ふ意識が重つてゐる訣になるのである。所々の氏民に存続してゐる方言のもがりと言ふのは、既に昔の殯斂ではない。埋葬した新墓に立てる割り竹の類を言ふやうになつてゐる。葬式の先頭に振つて行く竹の髯を垂れた花籠の、新墓の上に立てられてゐるのを見かける――あれが、墓土の中に埋められて、髯の一部が外に出てゐる形なのである。其が窮極の目的を示してゐるらしい名称となつてゐるのは、「目はじき」と言ふ語である。掘り起して屍を喰ふ野獣を追ふと言ふやうな用途を其に持たして考へてゐるのだ。此が古い方言らしい呼び方では、右のもがりと言ふ地方のある外に、逆茂木サカモギ虎落モガリなど言ふ、戦場・城塞などの防衛の障碍物の名として伝へられてゐたことが思ひ起される。近代になつても尚、乾し物竹の類の枝の多くついてゐて、長い布などの掛けられるやうになつたのを、紺屋などが使つてもがりと言ひ、其聯想から、口実を設けて、言ひがゝりし、絡んでかゝる詐偽者・喧嘩売り・美人局ツヽモタセの類の無頼漢を言ふことになつてゐた。
古代の仮葬場モガリ(殯所)に設けた障碍物が、直にもがりと言はれるやうになり、更に転義を経たものであらう。此等語義の中、古いものなる「仮り喪」の儀式まで溯つて考へる事は許されてよい。喪葬の最初の形で、次で行はれる儀礼を予想してゐるものとしての名、仮喪なる称呼を以てすべきところを、古い逆語序の形を以て言つてゐたのである。殯に続いて、真葬のあつたことは、そのまゝ正当にうけついだとは言へぬまでも、今日尚日本民俗の上に痕跡の歴然としてゐる両墓制は、二つ或は二つ以上の喪葬行事を経なければ、完全な喪事を営んだといふ満足感の起らなかつた古代の民俗印象を、ある点まで伝へてゐるものと言うてよい。
さうした喪葬の行事の重複から、仮葬と言つた気味あひを表現したがる傾向が現れて、もがりと言つた上に、更にかりもがりと言ふ「重言」のやうな表現が出来たのであつた。
殯斂の式だつて、様式の相当に違ふ所から、必しも漢土の喪葬を学んだのではなく、わが民俗にも固有してゐたものと言へるが、其も亦、古代日本全体に渉つて行はれたとも断言は出来ない。之を行はない地方や、部種族のあつたことは、痕跡を認めることも出来る。沖縄地方全体に、風葬・洗骨の風が認められるが、此とても、どの時代にも、どの地方にも通じてあつた葬風であるとは言へない。沖縄より北の日本人全体には、近年まで、同じ風の存在したことは、承認せられてゐなかつたが、今日では、曝骨・洗骨と近接した民俗の痕跡は、次第にその姿をあらはにして来てゐる。

     五 赤裸

今一人の逆語序論者金沢庄三郎先生は、裸(はだか)は赤肌(あかはだ)と言ふ旧来の説によつて、語序の逆になつたものとしてゐられた。
唯、殯と言ひ、此と言ひ、語原観から推して、之を証明しようとするのは、結局一つの学説の上に立つて、更に今一つの学説を立てることになるのである。語原説が完成しなければ、学説として確かなものには見なされない。
もがり説よりも、肌赤説の方が、直観的に真実らしい気はする。この場合にも、赤裸(アカハダカ)と言ふやうな形で、古い印象を呼び返さうとする、重言のやうな現象が出て来るのは、注意すべきことである。語序転換には、重言過程を経てゐるとも言へるし、日本における重言の成立には、語序の変化が原因となつてゐる点があると見ねばならぬ。
私は、日本の国の文献の辿ることの出来る限りの最古の時代に溯る前に、まづ、平安朝式の語感を持つた語を検査した。今はまう少し進んで、日本語として最古い時期の古語においては、どんな姿をとつてゐたかを見ようと思ふ。

     六 「さね」と言ふ語及びぬし

神主・神実といふ語は一括して説いてよい。むざねと言ふのは、語原的には身実ムサネ身真ムサネなど宛てゝよい語で、シンになつてゐるからだ・からだのシンなどと訳してよいだらう。正身シヤウミ・本体など言へば、近代的にもわかる。神実カムザネ・神主など言ふ語も、神の中心的な存在・生きてゐる神の精髄、神主は主神シユジンといふことになる。神主をさすことの多くて、之を神髄なる神といふ風に解してもよい訣だ。即、祭られるべき神髄になるものを持つてゐるものを意味する語である。たとへば実身(サネミ)といふ風に逆に言つても、身のシンと言ふのと同じである。神主も又神人の主体又は神々のヌシといふことになつてゐるから並べて考へてよい訣だ。漠たる表象に、偏向あらせられる所から、意義も固定するので、中には浮動したまゝと謂ふやうなものがある。表象を追求する心が、半ば以上言語発想当初の意想よりも発育したものにする。
シンになるものを考へる。其が、神自体であつても、神以外のものであつても、さうした点に、深い顧慮のない所から出発して、その語の宿命的な意義が定まる。だから、「神ざね」は神であるか、神主であるか、どちらにも考へ得る所があり、神道が儀礼化すると共に、人神信仰が強くなると、神実即神主の方に重くなる。而も、正確にはやはり動揺してゐるといふ外はない。
身のさねと言つても、サネなる身と言つても、固定以前にはどちらでも理会出来る筈であつた。其が語形がきまると、却つて一方の外は訣らなくなつてしまつたものであらう。むざねでなくてはならないことになつたらしい。むざねと言ふ古語が、現存の文献には見られなくなる頃、――或は、唯多く行はれなくなつたゞけで、地方的にはあつたかも知れぬが、之に代り、又それから幾分意義が踏み出したと見える語に、さうじみがある。正身(シヤウジン)といふ漢語を国語化してしやうじみと言つたのである。其が音韻変化してさうじみと言はれるやうになつて、如何にも国語らしい情調を持つて来た。当然むざねと交替するのに適当な機会があつて、漸くふり替つたものと見てよい。国語化しようとする努力の著しく現れた語である。正身は意義から言へばむざねであり、語を解体すれば、さねみである。必しも、さうして分解的に語は造られてはゐないのだが、語の成立に、さう言ふ意識を含んでゐるのは事実だ。精神から見れば、ある時期が、語序をとり替へさせる力になつてゐると言へる。語序交替期は、若しあつたと言へるにしても、遥かに古い時代の事であつて、其は現実としては考へられないやうなもので、空想と同じである。が、さうした努力は、相当長期に渉つて続けられてゐたので、唯何となく、語原的にはふり替るやうに感じてゐるだけで、必しも順から逆へ逆から順へとも言ふ意識なく、唯今までの形と、変化さへ行はれゝばよいと言ふやうな精神誘導力の為に、何となくかはり/\して来たものと思うてよいのだらう。恐らく徐々として、全体に及んだ筈の語序変化の余勢が、遅れて尚行はれてゐるものもあり、又逆に再、正序から逆序へ戻つたものもあらうし、――どちらが逆だといふことはない訣だが、後世の日本語では、基準として姑く、さう称へてゆく外なからう。正語序に置かれたものゝ方が、殆絶対に多いのであるから――其と同じ語序が可なり遅くまでくり返されてゐて、むざねさうじみの様な、後世的特徴を持つた国語的性質を、新入漢語の上に表して来たものもあつた訣だ。だから中には勿論、語序変化にとり残されたものもあるので、中世国語がその散列相を示してゐる訣である。そのとり残された姿が、新しい変化の及びにくい固有名詞の上に見られる事の多いのは、当然である。而も其間に、其以外のものにも残つてゐるものゝ見つけられる、今までの例のやうなものも、時としては、語序が逆になつてゐても、其は当然あるべき普通のことのやうに思つて来たことであつた。

     七 人名について

新羅媛善妙シラギヒメゼンメウ
百済媛妙光

中臣
中臣鎌子連(又、中臣鎌足連)

蘇我稲目宿禰
蘇我馬子宿禰
蘇我蝦夷宿禰
蘇我赤兄
蘇我倉麻呂

物部
物部尾輿大連
物部弓削守屋大連

大伴カタリ
大伴金村カナムラ大連
大伴長徳

この日本紀の人名排列は、一見正逆の語序をまじへたものゝ様に見え、又自然な並べ方のやうにも見られるだらう。
たとへば、「百済イケ媛」など言ふのを順当と解すれば、媛といふ称号は、唯の敬称のやうに、近代の感じ方では思はれるだらう。併し古代宮廷の慣例によれば、夫人・媛は、三韓の貴族の女性の官或は族姓を示す称呼である。「狛夫人某と、新羅百済の媛善妙・妙光其他をした」(崇峻三年紀)とあるのは、新しく彼地から来た人々で、菩提寺で得度せしめたものゝことを言ふのである。新羅媛・百済媛はその族姓を示し、善妙・妙光は名を言ふものと見られる。雄略二年紀には、媛を後にしてゐる。此はやはり同様に見るべきもので、百済媛池津とあるに等しく考へてよい。中臣氏のカネ・鎌足等に、連姓のつく様子は、日本紀記録――或は日本紀資料記述時代に、既に姓の下に廻る風の現れてゐたことを示すものであらうが、一方又、姓が敬称としての感覚を表す様になつて来たことを見せてゐるらしいのである。他の家々の宿禰・臣・連などの位置が、同じ時代に上にも下にも置かれるが、概して下になる傾向が出てゐる所に、新古の感覚の相違が出てゐる。後になるほど、真人や朝臣が姓と言ふより敬称として用ゐられた。某位以上を朝臣と敬称すると言ふやうな風は、かう言ふ傾向から誘はれてゐるのであらう。
元来、敬称を示すことを目的とするものではなかつた姓が、氏名から放されて、人名の下につくやうになる。此は単なる語序変化に過ぎない。ところがさうなると、人名に対して、姓が個的な関係を深めて感じさせる。
かうして、姓と氏と名との位置の動いて行くのは、社会感覚の変化によるやうに見えるが、根柢の理由は、語序変化にある。さうした語序と敬語感覚との交錯交替する様子が思はれるのである。
傍丘の如きは、半固有名詞と言ふ事も出来るもので、日常常用物の表現例として、下簾・韈・梯立のやうに残つたものと、一様に見てよからう。

旧語序によつて、表現せられてゐた時代――或はさう言ふことが、旧語序を持つ言語族に偏して甚一方的な言ひ方であるかも知れぬ。――は、相当に古い過去で、我々が想像する古代とは、状態が違ふやうである。さうした語序の語が、普通に使はれてゐた状態は、古代文献によつて印象せられてゐるばかりで、我々の想像を超越したものと思はねばならぬ。その後の文献には窺はれないほど、連絡のきれたと思はれる姿があるやうにも見える。日本の重要な部族の祖先――人数の多いことを意味させて言ふのではないが、――の移住以前の故土時代に用ゐた語といふ思ひきつた表現をしても、無理ではない程、後の正語序の発想とは違つてゐる。

     八 媛の位置

たとへば、媛踏※(「韋+備のつくり」、第3水準1-93-84)五十鈴媛命の名に媛の語の畳用せられてゐることに、極めて遠い古代も疑ひを持つてゐたことが察せられる。ほとたゝら・いすゝぎひめと言はれた名であつたのが、ひめたゝら・いすゞひめ(又は、いすけよりひめ)と呼ばれるやうになつたと言ふ語原説話が行はれてゐた。語原説は語原説として、やはりひめたゝらが元で、ほとたゝらの称号の派生して来た直接の原因があり、更にさうした語原拡張を行ふ理由がつけ加つて来たのである。其は其として、此御名は、謂はゞ新古の語序を示してゐるものと言はれる。新語序で言へば、たゝらいすゞ媛と言ふべきものであつた。其が旧語序では、媛たゝらいすゞ或は媛たゝらいすけと言ふ様な形であつたのであらう。古い称号では、もつと複雑なものがあるのだらうが、さう言ふ想定を加へることは、却つて不自然になるから、素朴な形で考へて見よう。
媛たゝらいすゞに対して、尠くとも、「ミコト」は、相当後の附加で、第二次の称呼と言ふべきものである。種々雑多な古代の歴史的或は地方的な称号を統一した宮廷的称呼であつて、「ひめ……ひめ」だけで、通じるのである。
次に、末尾につく媛は、後代風には正当な位置に、接尾語としてあるものゝやうに見えるが、当然ある筈の地位に、敬語語尾として据ゑたゞけで、若し敬語語尾が、古くこゝにないのが、語序として正当ならば、前に言つたやうに、ひめたゝらいすゞでよい訣である。
後代の習慣で、語感に不安を覚えるなら、仮りにひめたゝら・いすゞの命としてもよい。唯、語尾に敬語を置かず、語頭に据ゑるのが正しいとすれば、問題はない。併しひめ乃至ひこと言つた語が、敬語といふ意識を以てはじめから使はれてゐたか、どうかは問題である。神聖な資格を示す名であつたのが、次第に敬意を孕み出したのであるから、古くは自ら別途の意義を表してゐたものと考へてよい。語頭にひこの遺つた例は、之に比べると、極めて豊富である。

     九 彦の論

ひこ・くにぶく(彦国葺)
ひこ・さしり(彦狭知神)
ひこ・いつせ(彦五瀬命)
ひこ・ますミコ(彦坐王)
      ┌   主┐
ひこ・さしま│彦狭島  │
      └   神┘
ひこ・ほゝでみ(彦火々出見命)
ほゝでみ(火々出見命)
あまつひこね(天津彦根命)
あまつひこねほのにゝぎ(天津彦根火瓊々杵尊)
あまつひこひこほのにゝぎ(天津彦々火瓊々杵尊)
かむやまといはれひこほゝでみ(神日本磐余彦火々出見天皇)
ひこなぎさたけうがやふきあへず(彦波瀲武※(「顱のへん+鳥」、第3水準1-94-73)※(「茲+鳥」、第3水準1-94-66)草葺不合尊)

「彦」を名頭ナガシラに頂いた人名(神名)は、単に之に限らず相当に多いが、大抵は、純然たる逆語序時代に固定したものが、忘却の時代に入つて安定状態にあると言つた風のおちついた語感を与へてゐる。だから、かうした人名が行はれ、固定し、運搬せられて来て、死語化した歴史を、一語々々が示してゐると言つても、言ひ過ぎではない。殊に神名の系統の語の中には、旧語序によつて出来てゐる語の形に倣つて出来た――たとへば奈良時代前になつたと見える新しい古典語などもあつたらしい。中には、くにぶく彦・さしり彦・いつせ彦・さしま彦など言ひかへても、元の名の持つた感覚をうけとることの出来さうな種類もあつて、多くの古代人名の間には旧語序から新語序におき替へて伝つたものもあることを思はせてゐる。併し書物に残つた多くは、新語序時代には、すでに静かに固定して、さう言ふ風に言ひかへる必要がなくなつてゐたのであらう。
殊に、ひこいつせの場合は、五瀬命を、古い語序では成程さう言つたらうと思はれるものがある。即、五瀬命或は「五瀬彦命」と言ふべき所である。
「ほゝでみ」「ひこほゝでみ」は、古代宮廷で尊信した祖先に共通した呼び名であつたらしく、彦火々出見尊からその前の瓊々杵尊に溯り、又降つて神武天皇に至るまで、たとへば神日本磐余彦火々出見天皇と言ふ風に、ひこほゝでみと称してゐた。
詳しく考へれば、尚問題はあるが、大体には、「彦火々出見」が天皇の聖名で、神日本磐余が天皇の個称――元来、地名――と言ふことになる訣だ。此も、後の古典的に整頓した称呼、ひこほゝでみの命と言ふ訣だが、古くは、ほゝでみ彦といふ風の名であつたのだらう。
ひこなぎさは「波瀲彦 武※(「顱のへん+鳥」、第3水準1-94-73)※(「茲+鳥」、第3水準1-94-66)草葺不合尊」と言ふ風な語序に置き替へて見れば、理会し易い語であらう。
ひこほの上に、あまつを伴ふ呼称例も多い。更に一つひこがついて、あまつひこひこほのにゝぎと言ふ例もある。文献時代の誤写か、其にさきだつ伝承時代の聞き違へ、聯想の錯誤かとも思はれるが、古典研究に大切な準拠をなくする事になる。この名などは、同時にさうした形が、最正しい古い名の形と考へてかゝる必要があるやうだ。天つ彦が一部、彦火瓊々杵尊が又一部、と言ふ風に、一称号を分けて考へれば理会することが出来る。
「天つ彦」は新語序時代に入つてゐるし、「彦火……」は旧語序の姿を止めてゐるのである。かうした語序錯雑は、伝承と歴史との時代を経て重つて来たものと思はれる。又逆に、彦天津といつた逆語序も行はれてゐたことは想像出来るが、この外にも後代に「天津彦」が残つてゐる。大抵天津彦であると同時に、天の神聖に属するその聖子と言つた意を持つ、纏つた熟語になつてゐる。
天津彦根と熟することが、其事を明らかに示す。天津彦根 火瓊々杵尊から、寧ろ単純化せられた形と思ふべき天津彦根命・天津彦尊などが出て来る。更に再複合して、天津彦 国光クニヒカル彦火瓊々杵尊と言ふやうな複雑なのにもなつてゐる。「国光火瓊々杵」といふ形に彦がつき、其が対句になつて、天津彦国光彦と言ふ形を採つたと見られる。(おなじ理由で、形は違ふが、天津国光彦々瓊々杵と言ふ風にも説ける。)かうした神名を表出する宗教的恍惚時の心理は、潜在する印象の錯出するものだから、単純な一方的な理会をしようとすることの方が、却つて不安を誘ふ。
何にせよ、長い伝承の間に、語序が入り乱れて、ひこの用語例さへ明らかでなくなつたのだが、此だけは言つてもさし支へがない。
逆語序時代には、ひめたゝら同様、語頭に来てゐたものが、正語序になつては、語尾に移された。併し尚古典感の極めて固定してゐたものは、語頭に留めておくと共に、正語序時代の方法によつて、今一つ同様な語を、据ゑることになつた。其為に、『ひこひこ(彦々)』の場合の如く、唯古典感を添へるだけのものになつて残るのである。
彦穂は、ひこほと熟してゐる語のやうに普通考へて来てゐる。併し此も、ひことは元は結合してゐたものでない。やはりひこは逆序の「ひこ……」であつたのが、後に、たとへば天つひこと言ふ様に正序の考へ方から、上の語について来た。さうした段階を経たものゝ上に、更に正序の「天つひこ」に「ほの……」が接したものと考へねばならぬ様だ。併し「ほ」は支那風に言へば、火徳ある上帝と言ふやうな、一種の讃頌の語と考へられ易い。さう考へられるやうになつたのも事実に近いが、元々帝徳を言ふものゝ様に、古代において既に解釈してしまつてゐたやうであるが、恐らくある時代の君主のとてみずむの標示であつたものと解すべきであらう。動物・植物以外の天体・光線・空気等の族霊トテムを持つ部族の首長の類であつたことを見せてゐるものと見る方が適当らしい。即、「ほ」は「火」或は「日光」を標示してゐるのである。
ほの・にゝぎ・ひこと言つた正序の形が成立しないでしまつたものと見られる。その以前の姿で残つたのが、ひこ・「ほのにゝぎ」であり、其に尊称語尾を整頓して、「ひこほのにゝぎのみこと」と、正語序時代の語感を満足させてゐるのである。
彦や媛の上にあつた事実が、他にあつても不思議はない。前に出た「ひこなぎさ・たけ・うがやふきあへず」と言ふ名は、「なぎさひこ・うがやふきあへずたける」と正語序時代なら言ふ所であらう。これは、讃称を二つ持つた神名である。ひことおなじ位置にあるたけは、語頭にある時の形で、語尾に来る時はたけると言ふのである。たけわか(稚)など、性格表示と、讃称とを兼ねた語頭の語が、語尾に廻ると、「……タケル」「……ワケ」と言ふ風に、古いカバネのやうな感覚を持つて来る。さてこゝに、神名らしい感覚を持つものをあげて見たい。
神功皇后紀に、「七日七夜に逮びて、乃答へて曰く、神風伊勢国の百伝度会県モモツタフワタラヒカタ析鈴五十鈴宮サクスズイスズノミヤに居る神、名は撞賢木厳御魂天疎向津姫ツキサカキイツノミタマアマサカルムカヒツヒメノ命……」と言ふ名のりをはじめに、幾柱の神が出現して来る。此最初に現れるのは、天照大神の荒魂であると言ふことになつてゐる。此条の日本紀には、一書があつて、別の伝へがある。「……三神の名をりて、且重ねて曰はく『吾が名は、向匱ムカヒツ男聞襲大歴五御魂速狭騰尊なり』……」と言ふのである。此神名は、本書と一書で、別々の二様の男女の神名になつて現れてゐる。が、共通の部分の多い語組織である。向匱=向津(ムカヒツ)・五御魂=厳御魂(イツノミタマ)・速狭騰=天疎(ハヤサカリ=アマサカル)此だけ共通で、神の性が本書では姫、一書では向匱とあるから男神なのであらう。此点は、同神が女性と男性とに別れて現出したものと見るべきで、問題はない。それと、聞襲大歴(キキソオホフ?)と撞賢木ツキサカキの句、姫命の語尾、この二つが対照して見える所である。聞襲大歴と撞賢木は一方は疑ひなく、つきさかきだが、一方はどうしても、さうは読まれない。つきさかきと言ふ枕詞式の句が、一方にも同じくあるが、こゝだけ非常に違つて、他には別に変りはない。唯認められる変化は神名の語序が、よほど入れ違ひになつてゐる点である。かうまで変つてゐるのは、記憶や記録の錯乱とは言へない。却つて両方ともある確かさを示してゐる。
本書流に整頓して見ると、

聞襲大歴 ┐       はや┐           をの ┐
     ├いつのみたま・  ├さかる(り)むかひつ・   ├みこと
つきさかき┘       あま┘           ひめの┘

かうした神名が、単に偶然に関係なく現れたものとは言へない。必、相当に自由な語序の入り替りのあることが考へられる。
私は今まで、普通日本語の語序による言語排列を正語序とし、それに対照的な姿を見せる、其より古い排列を示すものを、逆語序と称へて来た。が、言ふまでもなく、此は常識を目安として言ふだけである。正逆と言ふ拠り所はないのである。強ひて言へば、われ/\の使つてゐる語に出て来て極めて多くの語に通じる語序を、正序と言つてゐるだけで、新を以て判断の標準とするのだが、古い形を正しいものとする今一つの常識からすれば、この正逆語序は、逆様に考へられても為方がない。この件の神名の変化は、長い年月日の間に起つたのではない。信仰上の記憶の実情として、割りに近い期間に、かうした語序変化は現れたものに違ひない。
正逆語序の事実について、今一つ注意せねばならぬことは、語序変化と言ふ様な、久しい時間をかけての事実は、その原因を明らかに示すことは出来まい。さうした観察の為になる、平凡な事実を今すこし書きつけておかう。

     十 荷前 かたみ

その年に出来た初刈り上げの荷、野からまづ搬び出した稲を神に示す地方農村古代の行事があつた。地方の旧国から、その誰にも触れさせてゐぬ荷を、宮廷に搬ぶことの意味において、のざきと言つたのである。此初荷を更に宮廷から、伊勢や、陵墓へ進められる使者をのざき使ひといふ。荷前と書いた字面の示すやうにまつさきの荷と言ふことである。久しい慣用の後、中世までも此語は使はれた。其様に、のざきは先荷の意味を見せた逆語序の語である。而もと言ふ形でさきと熟した形を見ると、音韻変化がからに単純に行はれたのではない。もつと有機的な屈折があつたのである。其と今一つ、われ/\が機械的に考へてゐる、さきとの結合が、さきとの結合に飛躍したばかりでなく、もつと言語心理の複合形態の深さが窺はれるのである。
語の古さは、荷前より或は古いかとも思はれるが、その行はれた範囲が広く、生存期間も其より長かつたかたみと言ふ語――、平安期には相当の古語であつたにかゝはらず、まだ語の青春期の姿が見えるやうだつた。此は古くからの信仰、身のカタ――身形の逆語序である。信仰する当体の身その物と信じるものを、自分の身にとりつけておくことによつて、その身についた霊魂を放さないでおくことが出来るものと考へた。此信仰が広がつて、旅行者自身の霊魂に、巫女・親近女の霊魂を併せ持つて行くことの出来るものと信じてゐた。さうした意味においての「身がはり」であり、身のかたである。が、代表的なものは、相手が身にとりつけてゐた衣服である。愛人の肌に近い著物を、我が身に著こめることである。この信仰が広がつて、衣服贈答の風が、我が国では、久しく保たれた。死後のかたみと言ふものは、広い意味の遺物・遺産である。これが、古代・中世から近代――若しくは現代に到るまで、内容の変化・信仰の深浅はあつても、語としては存続した。これが後代に現れた語でなく、前々代からの襲用であつたのだ。
また「互に」を意味し、「迭に」といふ宛て字の用ゐられてゐる「かたみに」と言ふ語も、此名詞の慣用の上に生じた、特殊な意義である。
かたみの衣は互にとりかへて著るものだからである。身がはりとして衣を与へると、其に対して、相手の人から贈られる形式が、普通に行はれるやうになつた為である。
古代の文学的な表現では、「おのがきぬぎぬ……」とも言ふ。かたみかたみとを交互にとりかはす行為を元として、相互に・交互にの意味を持つた「かたみに」と言ふ副詞が分化したのである。かたみと言ふ語は、近代に近づくほど、「死にがたみ」に傾くが、古代から中世へはむしろ、「生きがたみ」、或はもつと「身がはり」と訳した方が適切な用語例を持つてゐた。
「身のかた」「かたみ」といふ風に、正逆にふり替つたものと一往は言へるが、必しも意義の端々――論理や、言語表現の端々にまで、そつくり逆になつてゐると言ひきれないものがある。
意義の根柢になる表象は、「身」と「カタ」とが聯関してゐるのだが、其がそつくり、ひつくり返つてゐるのではない。正語序の時代になつて、譬へば「みかた」「みのかた」と言ひかへる慣しが出来てゐたとしても、「したうづ」「したすだれ」のやうには、裏返しにはなつて居まい。抑、此場合は、逆序時代に出来た熟語を、正序時代の語意識に置いて考へることになると言ふ不自然がある。
さうした正逆いづれか一つに止ると言ふことは、結局正語序だけがあると言ふことになるので、かたみの如きは、時代の古いものなる為に、さうした判断をするわけである。
明らかに時代によつて、語序をふりかへてゐたものゝ中では、「とり見る」「みとる」などが、著しいものだらう。みるは「世話をする」「ねんごろにとりあつかふ」など言ふ内容を持つてゐて、うしろみる(後見る)・たちみる(立ち見る)、中へ入つて世話をやく=仲裁すると言つた用語例の語=とるは「手づからする」「扱ふ」、さう謂つた意義に使はれることが多い。この「とる」と「みる」との二つの観念の間に加つて来、又オノヅカら生じるものがあつて、唯とるみるとの機械的な接合ではない。古くはとりみるであつたのが、何時か、「みとる」に移つてゐる。「みとる」は看護すると言ふ風に飜訳せられてゐるが、直接にめんどうをみ世話すると言つた所から、介抱する・看護するといふ風になつて来たものなのだ。とりみるもおなじであるが、母がとりみる・妻がとりみるなど言つて、看護よりも手づから、髪や、手や身など持つて、撫で育むやうな用例だから、今少し、個々の表現のしかたで、自由な意味に動いて行くことは考へられる。大体において、とりみるみとるには語序時期が示されてゐる。
其と共に、これなどは語序転換の根本条件なる、言語部族の変化と言ふことに関係は薄いかも知れぬ。語序の変化を経歴した語族の中で、単一な時代的変化が起つて来る。一部族の中に、語序変化の起るといふことの事実を見せてゐる例だとすることも出来よう。併しこれなどは、語序問題について注意を促すほど著しいものと思はれないだらう。とりみるみとるとの間に、普通の人は、それほど感覚的な差異を感じないであらう。が、訣り易く言へば、万葉と新古今との用語ほどの相違はあるのである。少くとも、歌で言へば、古今集といふ溝渠を隔てゝ対ひあつてゐる語のやうな気がする。此はわかり易い比喩で、三つの歌集が、適切に事実を示してゐるのではない。

   第二部 日本語としての沖縄語

私のこの論述は、単に日本と沖縄との言語の親縁関係ばかりを説く為の計画から発足したものではなかつた。多くの学者によつて、いまだに明らかに認められてゐない、日本語における古い別殊の語序が、曾て存在した事が事実であり、その印象が、今日尚近代語的な感覚を持つ文章語の上に見られることを言ひ、さうした事実が、同族言語の中で、どの方面へ最有力に関聯性を著しく見せてゐるか、さうしたことが見たかつた。之を逆語序の事実の上において見ることが一等有効ではなからうかと思つた為である。
日本語との本末関係は固より、その後度々方言としてとり入れた為の複雑な混淆状態を経て来た沖縄語と、まづ比べて見たかつたのである。さうして、今までのところでは、親近関係の、想像してゐるほど明らかにせられてゐない南方諸語族との比較の為の準備をしておかうとしたのである。
琉球系統の言語では、語尾につくグワアが、まづ人の注意を惹く。その中には、何子・何々子と言ふ風の愛称、日本語にも通常用ゐられ――殊に東北語に多い、あの愛称又は愛玩物を言ふ語尾の ko …… kkoo …… ko …… kko ……に当るものがある。其と共に「小なる」「小き物」と言ふ観念を表すグワアが極めて多い。此は二つながら一つで、愛称のぐわあは心理的に言ふのであつて、小観念を表す方は、差等観を出してゐるのである。日本の人名・器用・動物などに接尾語のやうにつくは、小観念が抽象的に心的なものを示すのであつて、対象物を比較において言ふのではない。畢竟、何よりも愛賞に堪へるものと言ふ極愛観から来るのである。時としては、比較を設定しておいて、大小を観じることも、唯一つに向けて愛を言ふことも、おなじであつたらう。其が自然に分れて来たものと言はねばならぬ。語序的に見れば、人名の語尾・器用の語尾などの「子」は、逆語序的な言ひ方と考へることも出来る。「こ何」と言ふ風に観じてもわかる。我々は今も、「小さい所の」「大きい方でない方の」と言つた理会の外に、愛称として感じることの出来る余地は、心に持つてゐるのである。

     一 「ぐわあ」と「がま」と

首里の巫女「大阿武志良礼ウフアムシラレ」は代々久高クタカ氏の女性を出す、極めて古い為来シキタりであつた。中古と伝へる時代に、一門にふさはしい人がなく、臨時に「大あむしられ」を見立てたが、一方旧慣を守つて、七歳の久高氏の女を「首里のろがま」と称へ、祭に当つて、「のろがま」を「大あむしられ」の先に立てた、と琉球国諸事由来記その他に伝へてゐる。小さかつた人を立てたのが恒例となつて、「のろがま」といつた訣である。小女神主と言ふやうな意味においていふのが、のろがま――「巫小」である。がまは後代普通にぐわあ(小)となつた語である。
日琉共に、愛玩の意を持つた子・ぐわあがある場合には、「何子」「何ぐわあ」と言つた形で、正語序の「小何」「子何」に当る意義を示す。
琉球の方で言ふと、犬ぐわあ(犬小)が「小犬」であり、橋小ハシグワアが「小橋」であることを通例としてゐる。東北方言における「橋こ」「犬こ」である。我々は今「橋子」「犬子」といふ風に感じるが、小犬・小橋でもない替り、橋子・犬子でもなく、鍾愛の橋、可憐の犬なることを示す、心理的表現なのである。形は同じであつて、彼と是とでは、両方に別れてゐる。だが、沖縄では必しも、今も昔も、両方に渉つて用ゐられてゐる例が、ないとは言へない。寧ろ一つの偏向として、差等観を示す「何小」が次第に殖えて来たまでゞあらう。一つの心理を元としてゐるものなのだから、中間の観念が次第に自由になつて、両方に跨つて使はれるやうになつたものと思はれる。
併し何としても、形は純乎たる逆語序である。おなじ小観念を示すものに、(<)がある。鳥小堀・魚小堀など言ふ地名がある。首里の「とんぢよもい」、那覇東村の旧地「うをぐぶい」など発音する地が其だ。小は、く・ぐ(<こ・ご)であるから、ぐわあと音韻上関係がありさうに見えるが、此は、別の語である。其に語序も、濠・渠を意味する「小堀」に鳥・魚がついたのである。即、である。ぐわあは之と別に成り立つた語で、古くはがまであつたらしい。先に出た首里大巫の幼巫を以てした「のろがま」も同じ語である。又、那覇由来記にある「いべがま」は墓であつて、ガマではない。いべは神性を表す語だから、「神小」又は「小神」といふ位の称号が、古塚について残つたのだらう。
姓名の語序も、近代に及んでも、やはり逆で通して居た例が多い。明治卅七年に書いた『よきや(与喜屋)のろくもい由来並家譜』には、家長は代々「比嘉筑登之親雲上ヒカツクトンペイチン」と呼び、比嘉ヒカが家名である。その外はたとへば、「加那比嘉」「山戸比嘉」「武太比嘉」「蒲戸比嘉」など皆幼名のまゝである。「武太比嘉の子の山戸比嘉」「まつ比嘉」など記録してゐる。正式の呼び名ではない童名だが、其だけに古風であり、一般性のある名で、沖縄の名家に生れて継承しなかつたのは、かう言ふ呼び方をせられるのが普通であつたのである。即、家名・姓が逆語序になつてゐる訣だ。遠い琉球の昔には、姓を称へなかつた筈で、昔の君主なども、追号が多い。唯、童名ワラベメ――と言ふより通称――に、字を宛てゝ、しかつめらしく見せたものゝ多いことは、既に東恩納寛惇氏・伊波普猷氏らの研究で明らかになつてゐる。地名や、家名から、姓に変つて行つたものゝ多いことは疑ひがない。
琉球王宮廷は、一つの特殊な民俗圏を画して、沖縄本島自体や、島々の民俗に対して居る部分が多い。固定した知識として、極めて古いものを、文献的にも、伝承的にも保存してゐた。その中でも、さうした知識の維持機関のやうになつたのは、宮廷及び其に附属してゐた島々の巫女――を綜合した、女官(大巫)の信仰の上にあつた。私は此から、幾つか、例をあげて行きたい。

     二 特殊な意義分化の例としての「かなし」

敬称の接尾語の、人間に対して言ふ最高いものは、極めての古代は別だが、さうした統一の行はれるやうになつてからは、「かなし」が一等上級のものゝやうである。国王も妃・嬪も高巫も大体おなじ称号であり、之にならつて王族たちも、其に敬称を統一したやうだ。更に古くなると、まち/\で統一してゐないやうだが、素朴な姿の見えるものは、きみであらう。王にも、大巫にも用ゐてゐるのだが、多くは巫女の称となつて、「三十三君」などと、汎称するやうになつた。
第二は恐らく、あんじ(按司)であらう。此は男性には、貴族・領主の称号として通つてゐる。が、あじ(按司)と単音化するやうにもなつた。語から見れば、あるじの音化したものとも言へるが、かわらといふ敬称と対句になつてゐるのだから、その点も考へねばならぬ。男にかわらちやらさらといふ如く、女性にもをなさらをなちやらなど言ふ。勿論あんじは女性の尊称としても、多く使はれた。其上、あんじには、諸侯階級を示すやうな慣用が著しい。
あんじかなしとを重複させると、敬意が深くなる。王妃又は其に相当する尊称であつた。複合する敬称は、こゝには省くが、さうした複合の為に、かなしなどの敬意表現の程度が弛緩して来たらしい。恐らく王又は最高巫に使つたらしいかなしが、相当に自由に用ゐられたのであらう。琉球最上の女性が王妃と言ふことになつたのは、尚質の代からである。其までは、宮廷の大巫、きこえおほきみ(聞得大君)が神に親近する関係から、最上位の女性であつた。国王を天かなし首里かなしと呪詞の上では言つてゐるのと同様である。あんじの場合も、尚円を神号「金丸按司添カナマルアジソヒ」、尚清を神号「天続之按司添アジソヒ」、尚元を「月始按司添」、尚寧を「目賀末メガマ按司添」、尚豊を「天喜也末按司添」とつけてゐる。明の崇禎十四年、王位に即いた尚賢以後は、神号が絶えてゐる。添はおそひで、「浦添」など記されてゐる襲に当るもので、合理的に解釈すれば、按司たちを支配するものだから、襲――添をそへて「按司添」と称したととれる。が、添の義はさうであつても、既に敬称が重複してゐるものと見てよい。でないと、按司の尊称たる謂はれがなくなる。その後、貴族一般に用ゐるやうになつて来たから、如何にも王号としては、不似合に感じて、更に別の敬称を重ねる様になつたものと見るべきであらう。初代の尚円を、按司添など称するのは、如何にももの/\しい。遥か後の追号としてさうなつたのである。「金丸按司」だけで通用したものであらう。
琉球では童名を為来シキタりの上から重んじてゐる。其は古くは、童名だけだつたのである。だから、王でも神号がなければ、童名のまゝ伝るのであつた。王号は其に加へるやうになつたものである。童名も、古いのを並べて見ると、意味が見出される。
思徳金オミトクガネ(尚円)。音智殿茂金(尚円女、聞得大君)。於義也嘉茂慧オキヤカモヱ(尚真)。思戸金按司加那志オミトカナアジカナシ(尚真夫人)。思徳金(子、浦添王子)。真武礼金(同子、今帰仁王子)。真三良金マサンラウガネ(同子、越来王子)。尚清は童名真仁尭樽金。妃は、思銭金按司加那志、夫人(1)真鶴金マツルガネ、夫人(2)真美那古金マミナコガネ、夫人(3)真世仁金。尚清子の中、伊江王子は童名金千代金と伝つてゐるのは、伊江家の元祖として、其家での伝へだらう。童名は近代に到るまで、正式にはかねを敬称語尾に持つてゐて、男女に通じてゐる。といふよりも、元から区別のなかつたものと見るべきであらう。
日本の古語中世語に渉つて、かなしかはゆいいとしい愛すべきもの或は繊細なものを意味してゐた。糸を言ふかないと略してかな、蛇に似て繊細なるが故のかなへびとかげであつた。娘の名にもかな(半固有名詞)が多かつた。幼童の鍾愛に堪へぬ者をかな法師と言つた。かなしは古い形容詞であり、かな(かね)はその語根だつたのである。琉球王族等の童名の「金」は先祖金丸王の金と関係してゐるのだ。が、固よりかなしと近接した関係から、敬称と童名とに残つた訣だ。恐らくあらたまつた感情を添へて言ふことを続けたのが、敬称になつたもので、一方には、馴れ/\しい感情で呼びかけるのだから、熟称とも言ふべきものとして童名のあとにつくものと固定化させた。此が尊称と熟称とに分れたゞけの事である。熟称なるが故に、語根だけになり、尊称なる故に正式にかなしといふ形を持ち続けて行つたのだ。其には今一つ、日本の愛すべきものと言ふのと、琉球の尊いものといふのとでは、おなじかなしかなが、心に融合しては受けとれない。其には、も一つの感情の流れがある。
かなし名のついた女君の中、注意すべきは、伊平屋イヒヤ阿母嘉那志アンガナシである。尚円の姉の系統をつぐものとして、離島女君の中第一に置かれてゐる。女性に対する親称で、目上に言ふ。母、伯叔母の義。あんがなしかなしあもの逆語序である。
かなし可愛いだが、尊敬すべきものと直に変化したのではない。思ふに「神によつて愛せられるもの」と言つた考へ方から、「さうした神鍾愛の人」と言ふことによつて、特定の人をさし示し、神の恩寵に与らしめ、禍から守らうとした――さうした、此は神の愛すべき人として、神に向つて指示したのが、「……かなし」であつた。「金」の場合は、一層よくわかる。童子なるが故に幼年から成人するまで、神の恩寵を保証して、かね或はかなと言つたのが、かねと音が固定したものと思はれる。其は、おなじ童名にまだ類例がある。此も男性女性に通じて、多くついて居り、金と併用し、又は別々に使つた「思」である。尚円は思徳金であり、尚真は真加戸樽金で、「思」は見えぬやうだが、神号於義也嘉オキヤカ茂慧モヱ(又は、おきやかもい)が「思」の存在を示してゐる。おきやかは名の根であり、もい(茂慧)は「思」である。其は父尚円の妃世添大美御前加那志と言はれた人の童名宇喜也嘉といふのと同じであつて、其にもいがついて居るものと知れる。
思(オモヒ)は、かなしと同義語と言つてもよい程、「思ひ子」「思ひ君」など言ふ風に、特に寵愛を言ふ日本語である。此亦神の愛を受けるものなることを示す。女君の中、相当の高級にあつたうわもり(上森と宛て字する)――首里うわもりあんじ我謝うわもりあんじ世高うわもりあんじ伊良部世高うわもりあんじもりは、このもい(思)である。親雲上ウヤクモイのろくもいと男女並び言うたくもいもいも此で、「く」は別語であらう。「つかさくもいあんじ」のくもいもいも此らしい。「神のかなし人」「神の思ひ子」なる表現が、呪術的意味を持つてゐることは勿論である。古代日本語の習慣で言ふと「カナしき何某」、もつと古い言ひ方だと、語根風になつたかなしを用ゐて「カナし何某」と言ふ所だ。日本語琉球語の近接性から言へば、「何某かなし」は、さうした「かなし何某」の逆語序だと言つてよい。さうして旧語序によつて出来た語が、それ自身時代を経て、語序は語序のまゝに進んで行つた言語情調を経た訣である。かう言ふ相違が、同族どうしの間の分化状態を示すものなのである。
日本語では、おもひを接尾語風においては、理会が出来ない。「思ふ何某」「思ひ何」といふ。其が逆語序で、「何某思」といふ風に表現せられて、童名の「何々思」「何思加那志」となるのである。だから、此「モイ」も逆語序である。

     三 按司

按司系の語については、語序の上の考へはまだ纏つてゐない。唯女性の按司は、按司といふ時は、かはりはないが、その対語のちやら(<かわら)をいふ時は、ヲナちやらと称した。又、あや按司しられとも言ふ。此場合は、按司部――諸侯に当る――の室である。あや君真物キンマモン出現の時、女按司部ヲナチヤラベは、「綾の衣を著たから」と、女官御双紙にはあるが、危い説だ。あやは国王の夫人の称号から出て、貴族の妻の称へとなつたのである。此語などになると、語形の崩壊が多く加つてゐるから、合理的な説もいろ/\立つ。沖縄の古典語には、殊にさうした語原を交錯したやうな語が多い。
対語的の語といふより、同一語の変形かと思はれるほど通用したあんじかわらちやらは、きつと代用語とでも言ふべきであらうか、あんじは重く、かわらは軽い――さうした時に、とり替へて使つたのであらう。かわらは頭目とか、酋長とか言ふべき語で、按司などの出来る前からのものであらう。又、玉とかわらが対語になつてゐるから、玉の義から出て、玉を佩用する人――佩用を許された人――酋長・頭目とか言ふことになつたのであらう。其があんじが盛んに用ゐられる時代にも、地方領主の義の古語或は、馴れを感じる語として使つたのだらう。
加那志・按司についで言ふべきは、先にのべた君である。「君」は殊に女性に関係が深い。按司なども、女君が本来の意義であるかと考へてゐる程なのである。
離島の大女君の中、伊平屋の阿母加那志につぐものは、久米島の君南風キミハエである。近代、きんばいちんべいなど言ふ。南風ハエは、日本語の南又は南風を意味する。沖縄語は南が即はえなのだが、日本の用字になじんで、はえに南風を当てたので、意は南方であり、君南風は南君ハエキミである。南方諸離島の女君の代表的なものであり、八重山征伐の時も、先導として出向いてゐる。実際ハエの君なのである。君南風が逆語序なることは、まづ問題はないだらう。
君といふ称へは、女君の首長「聞得大君」をはじめとして数多い中にも、正語序のもの、逆語序のもの、様々になつてゐる。

     四 君々

女官御双紙には、きみとよみ(真字、君豊)の名をあげて、其位置にあつた尚豊王の妃以下三人の貴女をあげてゐる。きみとよみ・あんじの外にも類例はあつて、きみつしあんじ(君辻按司)といふのがあつたことも記されてゐる。
別に、君嘉那志按司一員が出てゐる。敬称ばかりのやうだが、極めて素朴な神名から転じたらしい感情を持つたものだ。嘉那志按司君など言ふ風に、必しも正逆を論じなくとも、適切感が浮んで来る。かう言ふところに正逆の別れる以前の気味合ひが窺はれるのだらう。
今一つ、此は更つた気持ちのするものだが、君清良大按司志良礼キミキヨラオホアンジシラレ(尚氏北谷王子朝里女、尚氏具志頭按司朝受室)は、記録上の一員の名をあげたもの。「きよらぎみ……」と正語序には行つてゐない。この女君名は、如何にも拝所その他に斎く神名にもありさうな古風なもので、神号としても古いものだらう。言はゞおもろ風の名である。
弓張月を読んだ人は、皆「君真物キンマモノ」といふ霊物を、異様な妖怪のやうに感じた記憶をお持ちだらうが、沖縄では極めて神聖な君であつた。王宮附近に託遊する神で、神々の中、最霊威のあるものと見たのである。だが、首里にのみ現れるのでなく、所々に出たやうである。八重山攻めの際も、「彼島の君真物現れ、君南風を迎へる」と伝へてゐる。
おもろ双紙尚真を讃美したおもろにも「せだかさのまもの」とある。せだかさは、稜威高セヂタカき所の真物といふ事で、真物は其神格を褒めたのだ。君真物は、即真物君で、人間には神とも女君とも判断の出来ぬ霊力を持つて現れるもので、真実は、巫女の託遊するものである。「首里見物君」「平良見物君」とある女君の名が、逆序で行けば、君見物である。此為の註釈には役立つ。沖縄の神の出現は女君によつてするものが、その中女君の身に託して、男神も多く現れるのである。君の縁で言ふのだが、正語序のやうに見えるもので、世治新君セヂアラキミ按司といふ女君の名がある。おもろ双紙にも、王を褒めて「せちあらとみ」といふ語の見えることは、先に触れておいた。せぢは日本で言ふ稜威イツである。あらは新の字を宛てるが、出現の意に使つた類例が多い。「せちあらきみ」は神威著しき女君といふことらしい。扨今一つのとみは、とよみといふ語の熟語馴化である。宮廷に仕へてゐた勢頭シヅウ九員(諸事由来記)皆、勢遣富・世高富・謝国富・島内富・押明富・勢治荒富・相応富・世持富といふ風に富の字を以て意を示してゐる中、一員だけが「浮豊見」と書いてゐる。既に勢治荒富が出て来てゐるので見ても、関係は思はれるが、名だゝる人、評判高い人、響きわたつた人といふ位の意で、勢頭役は、さうした人が勤めたのだらう。本部親雲上モトブオヤクモイ政恒からはじまつた役だといふ。おもろ詞には、「とよむせたかこが……」など言ふ。「名だゝる稜威激しき人が」の意である。正語序らしくて、「とよむ何々」といふのがあり、宮古攻めの時の功臣「仲宗根豊身親ナカソネトヨミオヤ」などがある一方、女官名には先にあげた君豊(きみとよみ)があり、その記録せられた三員の名を書いてゐる。とよみ君といふ事で、名だゝる女君の褒め名だ。勢頭の「豊見トヨミ」「トミ」も其々「とよみ勢遣」「とよみ世持」などいふ風に解いてよいのだらう。
第四にあげたいのは、敬称・尊称よりも讃称ホメナとか、媚び名とか言ふべきもの。その一つ、しられをあげる。褒め名としての、とよむしられについては、柳田先生大正十年琉球渡島後、しばしば話してゐられるが、こゝには、其説を語序の側へ持ちこんだゞけである。
しられは「知らぬ者もなき」「著しい人」「顔のひろい人」などいふことであらうが、此は逆語序と思はれるものゝ方が普通である。之と対をなすものは、きこえである。「きこえ渡つてゐる」「名に響く」「よい名の伝つてゐる」いろ/\に説けるが、おもろには国王にも言うた痕がある。女君名として、常に用ゐてゐるのは、女君最上位の「聞得大君」である。王の場合は「きこえ・せたかこが……」がある。しられは逆語序に多く、きこえは正語序に多い。
王の母・夫人又は王子・按司・親方の室に、この称号はあつたらしくて、「大按司しられ」として録された女官の名が残つてゐる。
次には、「阿護武志良礼アゴムシラレ」として、王の嬪の称が伝つてゐる。
大阿母志良礼は首里三平等ヒミラの大巫や、王の乳母の称号となつてゐた。美御前ミオマヘの大あむしられと言ふのが、乳母である。宮中の女官にあむしられの称を伝へるものが多い。
大庫裡のあむしられ(三員)・真南風マハエのあむしられ(二員)・作事のあむしられ(三員)・よたのあむしられ(二員)・よちよくいのあむしられ(三員)等があり、外にも、しられを語尾に持つた称号の女性は多いが、省くことにする。又、しられを訛つた発音志多礼シダレで録してゐる名も多い。
これは皆、「しられ何某」といふことで、「名だゝる神」「名だゝる人」なることを表したのだ。
かう言ふ風に琉球語の古典的なものと、日本語とをつき合せれば、一とほり対訳の上で訣る語群である。だが此等の語彙は、必しも皆琉球の古語といへるか。私は別にさう言ふことを問題にしてゐるのでないが、中世の、併しさのみ古くない時代を、此等の古典語が示して居る。
古い語序を以てするものゝ中に、新しくとり容れた倭語を咀嚼した新語の、敬語的表情ではないか。民族分離以前に持つたものゝ上に、更に幾度か標準語として這入つた倭語には、時々の特徴があつた。少くとも奈良以前のさうした形をも明らかに見ることも出来る。今述べて来たものは、其等の中の新しい一つの著しいものなのである。奈良以前と言へども、単純な孤立した語を以て言ふことは出来ない。語序が古くとも、其言語が古いとは言へない。其やうに、語彙が古くとも、其語の伝来を信じることが出来るものではない。
うごなありといふ語が、「混効験集」にあつて、此だけが他の中世的な日本語をひき放して古ぶるとして見えてゐる。
伊波普猷氏は、先島の方に、なほ此語は生きてゐると言はれたが、先島語法の中に、ぽつんとして融けこまないで残つた様子を想像すると、さうした伝来を説く採集者の採集に、何かの誤りがあつたと考へないでをられぬ気が起る。殊に、外の日琉相関を示す古語にも沖縄側の方は、仮りに日本古語を標準に立てゝ見る時、幾分何か言語のだれ(緩慢性)を見せてゐるやうだが、うごなありほど甚しい物も珍しい。うごなはる――連体形が著しく残つた――の場合の、琉球残存形は、残存かどうかが疑はしくなるほどだ。何か、偶然な誤解が、沖縄の祝詞なるおもろおたかべの辞句理会の上に加つて、日本の祝詞語と結びついたものではないか。
かなしはまだよいとしても、きこえとよみしられなどの位置や、意義は日本的であつて、而も日本語的でない所を容易に観取することが出来る。つまり沖縄独自に発育した傾向をまじへてゐるのだ。唯、「君」は其等の中でも、古風であり、日本的に、非常に親近感を持たせる形態である。かう言ふ敬称の語には、逆語序にも正語序にも、かうしたものも亦、相応にあつたのだらう。其が又更に、琉球自身において、其を土台とした敬称の飛躍が行はれ、日本的にも理会出来るが、方言上に新しい方法が開けて来たものと思はれる。敬称の言語態様は、中世末の琉球で大きい飛躍をしてゐるやうだし、沖縄の歴史も、其頃明確度を増して来てゐる。敬称の問題は、此時期前後に属するものが多い。日本で言へば、鎌倉室町時代の後先のことである。
何としても、その前に漠たる古代が、沖縄の語の上にあつて、形容詞や副詞の上に、日本母語との間にひらきを作つて来てゐる。私どもはこの語法の相違を見ると、此は容易な短い時間の為事でないと思ふ。
元非常に近似してゐた形容詞・副詞の各条件が、日琉双方で、大きな分袂を遂げたのと、語序の問題とは、相関聯させながら考へて行く必要があるだらう。唯、品詞の分化よりも、語序の方は恐らくもつと時代をかけて来てゐるであらう。日琉共に、次第に語序を改めて行つた姿は明確につかまれないけれども、確かに双方に共通する幾つかの状態があるに違ひない。其を見る為には、此まで挙げて来た様な、逆語序に属する幾多の個々の単語を積み重ねて行く外はなからう。さう言ふ為事を、南方諸島の上にもひろげて行かねばならぬ。さうして、既にある部分まで整理せられて来た南方支那・南洋の語序研究に投合して行く日が来る。私は語序の一致を以て、語族圏を描かうとするのではない。が、我々がある点はまだ空想に残してゐる神話民族圏と、相当に一致するものがありさうなのである。
唯その中沖縄諸島ばかりは、語序の一致よりも、先に語族としての一致が言はれて居り、更にもつとひろく、民族の親近性が認められて来てゐるのである。
私が語序論を書くに到つた悲しみは、永劫に贖はれないものであらうか。





底本:「折口信夫全集 12」中央公論社
   1996(平成8)年3月25日初版発行
初出:「民族学研究 第十五巻第二号」
   1950(昭和25)年11月
※底本の題名の下に書かれている「昭和二十五年十一月「民族学研究」第十五巻第二号」はファイル末の「初出」欄に移しました
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年4月24日作成
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