我々には、相撲と言へば、春場所・夏場所の感じだけしかなくなつたが、誹諧の季題では、これが秋の部に這入つて居る。宮廷の相撲の節会が、初秋の行事だつたからである。しかし、実際に諸国の村々では、今でもこれを秋に行つて居るところが多い。
宮廷では、早くに、すべての行事が整頓せられて、相撲節会なども出来たのであるが、これは、村々の行事がとり入れられたと見るよりも、宮廷も、もとは一箇の邑国であつたので、その当時から行はれて居たと見る方がよいと思ふ。
村々で行ふ相撲の事を、草相撲と言ふのは、今では、民間の相撲の意味だと思はれて居る様だが、実は、相撲の古い形は、体に草をつけて行うたのである。これは、古代の信仰では、遠くからやつて来る
何故、相撲をするには、体に草をつけて異人の姿をしなければならなかつたか。それは、此神事がもとは、神と精霊との争ひを表象したものであつたからだ。即、遠くから、威力のある神がやつて来て、土地の精霊を征服する形だつたのである。そして、外から来る神は大きく、精霊は小さいと考へて居た。だから、相撲は、もとは大きいものと小さいものとで取り組んだのであるが、後に、力競べの方に興味が傾く様になつて、大人の相撲と子供の相撲とが、別々に行はれる様になつたのである。
村々で行はれる相撲の場所には、大抵、田の用水がある。川・池のほとりが選ばれるが、これは水の神の信仰があつたからだ。しかし、農村では、常に信仰の変化が激しいので、後には、水の精霊が相撲を好むと考へる様になつた。それから、河童が相撲を好むといふ伝説なども出来たので、河童は、実は水の神がこんなにも形を変へてしまうたのである。中古以後、相撲の節会に、左方の力士は葵花、右方の力士は
相撲が、初秋に行はれるのは、もとは、二百十日・二百二十日の厄日を控へた、農村では最大切な時期に、此神事が行はれたのだと思ふ。もとは、もつと演劇的要素の多いものだつたと思ふが、それが、力競べにのみ興味が傾いて来たのは、此、時期の関係からであつた。即、神と精霊との争ひといふ原の意義が忘れられて、部落同士の争ひが主になつたからだ。これも、もとは豊年の神を取り合ふ争ひであつたのが、後には、たゞ年占だけの考へで、勝てばいゝといふ風になつた。これが、諸国でやかましく言はれる様になつたのは、宮廷で、諸国から
とにかく、相撲は、もとは力競べだけでなく、もつと演劇的要素の豊かなものであつたと思ふ。今も、土俵入りなどゝいふ事が行はれるが、宮廷の相撲の節会にも、舞ひが伴うて居る。しかし本来は、相撲そのものが、もつと演劇的なものだつたので、それは、春の初めに、遠くの神が来て、その年を祝福して、田の行事をして見せて行く演劇的所作が行はれた、それの復演であつたと思はれる。即、田の作の実らうとする時期に、まう一度それを行つたのが古い形であつたと思はれるのである。