渡嘉敷守良君が戦争中を無事でゐたことは、何にしても、琉球芸能にとつて幸であつたと思ふ。戦争前に新垣松含が亡くなり、又最幸福さうに見えて、定めて円満な晩年を遂げるだらうと思つてゐた玉城盛重老人が、国頭のどこかの村で、斃れ死んだと聞いてゐる。そんな中に、恰も琉球芸能の命脈を、この程度につゞけて行つてくれると言ふことは、芸能人にとつて、どれ程喜んでよい為事か訣らない。渡嘉敷君は正にその位置にゐる訣だから、十分その名誉と、更に大きな責任を負うてゐる事を自覚してもらひたい。渡嘉敷君は特に女踊りの達人であるが、年輩からして、老人踊りを踊つても如何にも優雅な味を示すやうになつて来た。舞や劇に優れてゐる事に、此人の才能を尊敬するよりも、まづ第一に、私などは、もつと此人の人間の優秀なのを知つてゐる。芸人らしくない、人間のよさにおいては、前にあげた二人よりも出来た人間だと思つてゐる。唯それだけに、人のよさから来る意志の弱さのあるのを、歎かずにはゐられない。あれだけ力を持ちながら、まゝ自信を失ふことがあるのではないか、と言ふ気がする。又その周囲にゐる人間に対しても、もつと目をる必要がある。さうした人の不心得が、渡嘉敷君の欠点として、人に写つて来る。それよりももつと惜しむことは、男子の弟子を育てるだけの意力を欠いてゐる点である。沖縄の踊りは、ちつとも女性の力に依頼することなく、永い歴史を経てゐる。女踊りにしても、女性の参加にたよることなく発達して来ただけに、その良さも、すべて男性的な点にある。女性が琉球踊りに不適当なことは、
まづ渡嘉敷に男弟子あれ。
これが渡嘉敷君並びに沖縄同胞の方々に言ふ第一のことばである。