玉手御前の恋

折口信夫




一 戯曲に於ける類型の意義


……おもはゆげなる玉手御前。母様のおことばなれど、いかなる過去の因縁やら、俊徳様のおんことは、寝た間も忘れず恋ひこがれ、思ひあまつてうちつけに、言うても親子の道を立て、つれない返事堅い程尚いやまさる恋の淵。いつそ沈まばどこまでもと、跡を慕うてかちはだし蘆の浦々難波潟身を尽したる心根を不便と思うてとも/″\に、俊徳様のゆくへを尋ね、めをとにしてくださんすが、親のお慈悲と手を合せ、拝み廻れば、母親も今更あきれわが子の顔、唯うちまもるばかりなり。
「摂州合邦辻」の合邦住家の段のくどきの一番よい所、所謂さはりの所である。くどきとしては長い文句であつて、聞いてゐると、奥へ行く程、心をひかれて来る。詞章としては見られる通りの、何のへんてつもない文句なのである。でも幸福なことに、我々は浄瑠璃の節を聞き知つてゐるので、たゞ読んでも、記憶の中に、こゝのよさが甦つて来る。こればかりでなく、浄瑠璃の文句は一体に、皆さうだと言へる。名高いさはりのところも、文句ばかりを見ると、案外何のとりえもないものが多い。特に美しくも何ともない文句に、太夫や三味線弾きが節をつける前のあるかんで、何もない所からある節を摸索して来る。節づけの面白さは、こゝに発現する。与へられた文学の中から、特殊なものを引き出して来る。即、音楽でもつて、新しいものを創り出して来る訣である。――さう言ふ場合ばかりでは、勿論類型を辿つて、前の行き方をなぞると言ふ方が、多いのであらうが――。それと同じ様な事が、浄瑠璃の作者の場合にもある。一体浄瑠璃作者などは、唯ひとり近松は別であるが、あとは誰も彼も、さのみ高い才能を持つた人とは思はれぬのが多い。人がらの事は、一口に言つてはわるいが、教養については、どう見てもありさうでない。中には寧、軽蔑したくなるやうな行状の人も多かつたらうと思はれる。
さう言ふ連衆が、段々書いてゐる中に、珍しい事件を書きあげ、更に、非常に戯曲的に効果の深い性格を発見して来る。論より証拠、此合邦の作者など、菅専助にしても、若竹笛躬にしても、凡庸きはまる作者で、熟練だけで書いてゐる、何のとりえもない作者だが、しかもこの浄瑠璃で、玉手御前と言ふ人の性格をこれ程に書いてゐる。前の段のあたりまでは、まだごく平凡な性格しか書けてゐないのに、此段へ来て、俄然として玉手御前の性格が昇つて来る。此は、凡庸の人にでも、文学の魂が憑いて来ると言つたらよいのだらうか。
併し事実はさう神秘的に考へる事はない。平凡に言ふと、浄瑠璃作者の戯曲を書く態度は、類型を重ねて行く事であつた。彼等が出来る最正しい態度は、類型の上に類型を積んで行く事であつた。我々から言へば、最いけない態度であると思つてゐる事であるのに、彼等は、昔の人の書いた型の上に、自分達の書くものを、重ねて行つた。それが彼等の文章道に於ける道徳であつた。昔の型から離れようとすると、咎められたのである。かう言ふ道徳の上に立つて昔のものを書きなほして行つた。それが本道だと思つてゐた。
一体文学の場合には、誰にも示すことなしにしまふものは、まあないと言つてよい。人に見られない文学と言ふものは、短詩形の文学にはまゝあるが、長いものは、どんなものでも、どんな呑気な時代でも、読者を考へてゐるし、又其目的通り人が読む。そして次の人がその類型の上に、その類型に拠つて書くので、たとひ作者がつまらぬ人でも、其類型の上に重ねて行くのと、前のものゝ権威を尊重して書く為に、新しいものは前のものよりも、一段も二段も上のものになる事が多い。残念な事に、江戸時代には、初期の僅かな人達数人を除いて、優れた人は少かつた。戯曲の場合、近松の発見した性格が、更に昇つて行つたり、戯曲的な仕組みが更に進められて行くと言ふ事はなかつた。むしろ、悪い方向に、つまり類型が悪く重ねられて行く方が多かつた。「大内裏大友真鳥」に就いて伝へられてゐる話によると、近松が、これが浄瑠璃のこつだと言ひ、それを襲うた竹田出雲は、見物には知らせておいて、舞台の上の人は知らぬと言ふとりつくを悟つて、此後、さう言ふ類型を重ねて行く事になつたと言ふ。後の作者達は、皆此類型を重ねて行き、とりつくを重ねて行くうちに、精神のない、とりつくの型ばかりのものとなつて行つた。浄瑠璃から来た歌舞妓の一部には、だからやはり、かう言ふとりつくばかりで動いて行つてゐるものがある。此は類型が重ねられてゆく事の悪い場合である。併し作者が凡庸である場合には、却つて、少しづゝよくなる事もある。玉手御前の場合は、おそらく、それであつたと思はれる。

二 類型の累積と飛躍と


「摂州合邦辻」の、積み重ねられて来た先行芸能の道筋は、割りに骨を折ることなしに、辿ることが出来る。俊徳丸には、遠く能楽の「弱法師」があり、近く古浄瑠璃の「しんとく丸」がある。古浄瑠璃では名がしんとく丸になつてゐるが、しんとくと言ふ語は、天竺を意味する「身毒」と言ふ語があるから、「天竺丸」と言ふ位の意味かも知れない。「弱法師」では、古浄瑠璃を越して後の人形浄瑠璃と同じく、俊徳であるから、此名に就いての問題は、かなり昔まで、遡つて行く訣である。とにかく俊徳丸の話の方は、戯曲を尋ねて行つても、筋がたつが、まう一つ外のものがある。此方も、既に大体研究が届いてゐる様であるが、類型がどう言ふ風にかさなつて行くかと言ふ考へに、暗示を与へる参考として、話してみよう。
合邦の初演は、安永二年であるが、恰度其時分、合邦が辻で、非人仇討ちがあつた。此話は表へは出なかつたが、写本の上で、小説として伝つたのであらう。此を隔てゝ、四代目の南北が「絵本合法衢ヱホンガツパフガツジ」を書いてゐる。安永の非人仇討ちの影響を受けたものである。南北と言ふ人は、よそからの影響を受けてゐて、而も影響を受けてゐることを、作の表からは払ひのけてゐる。それが此人の作の味噌になつてゐる。此「合法衢」も、此筋は関係のない事が訣るが、非人仇討ちの事柄を知つてゐて書いたのだらうと思ふ。もとの非人仇討ちを、われ/\は知らないが、南北は知つてゐればこそ書いたのであらうと思ふ。
処が、浄瑠璃の中に這入つて来てゐる、非人仇討ちの中に、一つ特別なものがある。それは「花上野誉碑ハナノウヘノホマレノイシブミ」を頂点とする、田宮坊太郎の仇討ちの系統のものである。
田宮坊太郎は、幼少の折に父を討たれ、恰も仇を討つ為に此世に生れて来た様な人で、金毘羅の利生によつて仇を討つと、まもなく死んで了つた様である。仇討ちは、必しも坊太郎に限らず、仇を覗つてゐる間が生活が充実してゐて、終ると、ごくつまらぬ人に帰つて了ふか、それきりどうなつたか訣らなくなつて了ふのが多い。坊太郎なども、子供の中に、極度に苦労をして、その苦しんだ話が、色々な形に育つて行つてゐる。もと/\、非人仇討ちは、返り討ちに遭ふ話や非人の生活にまで落ちて、やつと相手を討ち果すと言ふ、討つ人の辛い苦しさを伝へる処に、作のつけ目がある。そして此は、戯曲には早くからかう言ふたいぷがある。非人仇討ちに並行して、女巡礼の仇討ちも此中に入れて考へることが出来る。巡礼を非人と同一に見ては、巡礼の側から苦情が出るかもしれないが、今の我々から見ても、又当時の人達も、一緒に見てゐた様に思はれる。女巡礼の方には、木曾街道の仇討ちや、佐夜の中山の仇討ちが名高くて、芝居にもなり、又実録にもなつて伝つてゐる。皆一つの型の中に入れて考へる事が出来る。
摂州合邦辻の出た前後に、坊太郎の仇討ちの系統のものが、浄瑠璃で三種類出てゐる。合邦の十年程前の「敵討稚物語カタキウチヲサナモノガタリ(明和元年)、次いで「敵討幼文談カタキウチヲサナブンダン」、更に十五年程経つて「花上野誉碑」(天明八年)の三つである。此最後のものが一番名高く、歌舞妓の脚本にもなつてゐるが、此は坊太郎の乳母が活躍して、水垢離を取り火物断ちをしたりする。此は芝居の役柄から言へば、女武道の、片寄つた融通のきかぬ例であるが、堅苦しい、しつかりし過ぎてゐる女になつてゐる。失意で生きとほした女である。所が此女の出て来るのには、歩みがあるのであつて、前の二つの戯曲では、乳母ではなくて母親になつてゐる。そして非人となり果てた母親が、返り討ちに遭ふ話である。そしてやはり、此母親が女武道に書かれてゐる。
此、「花上野誉碑」まで転化して行つた非人の仇討ちに通じてゐる、女武道の型に這入る女の物語の要素が、先に言つた、合邦辻で行はれた仇討ちと結びついて、それと関聯して、合邦の玉手御前、即、合邦娘お辻が出来て来てゐるのではないだらうか。此お辻と言ふ名は「誉の碑」の乳母と同名であつて、表面は関係はないが、同じ名を付ける様な同じ刺戟が働いてゐるのだらう。さう言ふ心理的要素を、やはり考へて見なくてはならない。
勿論、合邦には、仇討ちの要素はない。唯考へられるのは、玉手御前を女非人の様に扱ふのが、下の巻の作者の計画ではなかつたか、と言ふことである。
今までの上演では、歌右衛門がしても、梅幸・菊五郎・梅玉がしても、亡くなつた雀右衛門がしても、いかにも大家の奥方が逃げて来た事にして演じてゐる。地理から言つても、河内の高安から、天王寺までは、女の足でも半日の道程で、そんなに時間がかゝる筈がないと言ふことは考へてゐるだらう。
併し、玉手御前は、頬かむりして、親の家にやつて来る。
気は烏羽玉の玉手御前、俊徳丸の御行方、尋ねかねつゝ、人目をも忍びかねたる頬かぶり、包み隠せし親里も……
此頬かむりは、普通の女の服装ではない。身分の低い者は、普段の生活にも頬かむりをするであらうが、まあ異例であらう。それをしてゐる女は、乞食に多い。其ばかりでなく、父の合邦が「そのざまになつてもまだ俊徳様と女夫になりたいと言ふのか」と言ふが、此も非人乞食の服装を言つてゐるのではなからうか。更に、始めにあげたくどきの中でも、玉手自ら、「跡を慕うてかちはだし」と言ひ、次第に流転して身が落ちて行く様が示されてゐる。たゞその後で、母が尼になれと勧めると、玉手はそれをいやがつて、
折角艶よう梳きこんだ此髪が、どうむごたらしう剃られるもの。今迄の屋敷風はもうとりおいて、これからは色町風。随分派手に身を持つて、俊徳様に逢うたらば、あつちからも惚れて貰ふ気。
と言ふ台詞があるが、こゝだけは俄かに作者の気持ちがはなやいで書かれてゐる。それで、玉手を演ずる役者が、今屋敷から抜け出して来たばかりだと言ふ様な玉手御前にして演ずるのだらうと思ふ。
今までの玉手を見馴れてゐるし、これが写実の玉手になつてはつまらないと思ふであらうが、併し、肩当てをして、非人の著物を著て出て来ても、見苦しくはないし、美しくも出来ると思ふ。そしておそらく作者の計画では、女乞食、少くとも「朝顔日記」の乞食になつた朝顔の姿位にはなつてもいゝのだらうと思ふ。
そこまで還元してゆくと、もつと玉手御前のあはれが効いて来ると思ふ。今までの玉手は、歌右衛門も梅幸も、女武道的な所を性根として演じてゐるし、菊五郎もさうしてゐる。菊五郎は、真女形の素質の少い人であるが、珍しく玉手はいゝ。真女形をして成功してゐるのは玉手だけである。併しそれでも、あはれな玉手ではない。つまり芝居では今まで、美しくてしつかりした、気丈な玉手だけで、あはれな玉手はなかつた。だから或はさう言ふ玉手があつてもいゝのではあるまいか。又、或時代には、さう言ふ玉手があつたのではないか。そしておそらく作者の計画もそこにあつたのではあるまいか。
それに、合邦住家の段の前、天王寺西門の場は、乞食の集りであり、此場でも玉手は道心者で乞食の一歩手前まで行つてゐる境遇であるし、俊徳丸も盲目で癩病である。すると下の巻の二場は、非人の集りと見てよいと思ふ。それなのに、俊徳丸はあくまでも若様で、玉手はどこまでも奥方風であるが、さう言ふ歌舞妓の絵空ごとを離れて、作者の計画に沿うた性根を考へた演出を工夫してもいゝと思ふ。菊五郎の玉手が、出の所で舞台を半廻しにして、下手を拡げてして見せたが、そんな事をするよりも、旅路のやつれを見せる工夫の方が肝腎だ。やはり、きちんとした奥方風で出て来るのである。
まう一つ玉手御前は、女腹切の型である。成程突くのは合邦であるが、あとでは合邦も入平も手を下さず、自分で肝臓をつくのである。此は近松に「長町女腹切」があり、又やはり近松の歌舞妓の脚本にもある。かう言ふ型は、一つの女武道として、人に悦ばれたのである。此点だけを探つて行つても、作者を刺戟した、まう少し近い、劇の原因が見出されるかもしれない。
つまり、しつかりしてゐながら、我々の心に訴へかゝる女、女だけが持つてゐる苦しみを、一人代表して訴へかゝる女が、或時には浄瑠璃作者の心に浮んで来る。浄瑠璃作者は、真心のある女は書いてゐるが、併し大抵の女は知的ではない。知性の女は浄瑠璃には書かれてゐない。それが次第に、訴へかゝる女で同時に知性のかつた、真心のある女が現れて来る。それはおそらく町女房を写した浄瑠璃が与へた結果であらう。町人の女房を書き馴れて、さて後に、武家の女を書くことになつたのだらう、と想像される。一体浄瑠璃作者は階級に対する理会はない。武家の階級は、無暗に違つてゐると思つてゐて、自分の知つてゐる町人の階級を延長して、書いてゐるだけだ。つまり、武家を書く時には、空想してゐる人形みたいなものを書いて、それへ自分達の知つてゐる町人の魂を入れてゐる。男でさへさうなのだから、まして女は、全く町人の女への理会から来てゐる。だから、其女の持つてゐる真心は、町人の女の持つてゐるものだ。又理知的な面を書く場合にも、町人の女が経済的に動くことに見馴れてゐるので、それから割り出して来てゐる。だから、其意味の知的な女は相当に書かれて来るが、本道の理知的な女ではない。
かう言ふ風に、合邦の玉手御前の性格や境遇を創り出すのに、類型が色々と作者の心を刺戟してゐる。意識的なばかりでなく、知らぬまにのしかゝつてゐるものもある。ともかくかう言ふ性格を発見して来る筋道は、説明出来たとは思はないが、筋道があると言ふ事だけは言つたつもりである。

三 性格ともどり


玉手御前は、町人に対する理会から生まれてゐる女で、根本は、歌右衛門が表現する様な、春日の局の様な女ではない。勿論、さう言ふ表現は、此は歌右衛門の発見で、劇の上で歌右衛門の権利であつて、否定も出来ない。梅幸も、それに色気は加へたが、その上には出なかつた。雀右衛門はひすてりつくな女にして、理知を乗り越しはしたが、やはり理知にとらはれてゐた。併し、浄瑠璃の玉手は、根本はやはりいきすゐな女と言ふ事が、もとになつてゐるのであらう。つまり、見物を悦ばせる完全な理会に這入つて行く女と言ふものは、みだしなみをよくしてゐる女でなくてはいけないのである。親の前で「随分派手に身を持つて」と言ふ様な女でなくては、いけない。さう言ふ要素を持つてゐなくては、戯曲の上の女ではない。
玉手御前の性格を考へて見ても、そこまでは許される範囲であつて、それをなくして了ふと美しさの失はれる限界があつて、そこまでは書いてもいゝのである。大体、浄瑠璃の女は、あぶない所まで、女性としての特質を押しのばしてゐる。こんな女では、どんな間違ひをするだらうか、と言ふ所まで書いてゐる。そして今でも、読者や見物はさう言ふ女を認容出来る。実際にゐたら擯斥するに違ひないのに、戯曲・小説の上では、あぶない所まで行くことを認めてゐる。つまり、文学の上では、踏み止る線が、ずつと前まで進んでゐる。
玉手御前も、俊徳丸が女の心を惹くよさを持つてゐることを、充分に知つてゐる。上の巻の始めの住吉の場でも、ここの合邦の場でも、玉手は其心を正直に告白してゐる。此をすべてとりつくだとして了ふのは間違ひである。玉手が本たうの女としても感じてゐるものを、正直に言つてゐるのである。人によつては、前段の玉手の恋慕がとりつくでなくては、玉手を傷つける事になると説明するが、さう難しく考へては、玉手は消えて了ふ。浄瑠璃作者の書いてゐる玉手は、しつかりした女だが、精神が錯乱することがもしあれば、俊徳と恋に陥ることがあるかもしれぬ。そこまで玉手はいつてゐるので、それをとりつくだとして了つては、間違ひである。さう言ふ所が、正直に、作者によつてはきだされてゐる。玉手が時々ひすてりつくな気持ちになる。其場合には多く、女武道の型になつてくる。一々例を引くまでもないが、作者の心に緻密に這入る為に、あげてみる。
上の巻の口、住吉のあられ松原毒酒の段で、酒をすゝめた上で言ひ寄つた玉手の言葉に、
(俊徳丸が)立退き給へば縋り付き、母呼はり、聞きとむない。年はお前に一つか二つ、老女房がそれ程いやか。否でも応でも、惚れた/\。抱かれて寝ねばいつまでも放しはせじと、抱き付く。
狂乱状態であるが、おさへる所は、女武道としての理会である。又、次の高安館の場で、俊徳を慕つて館を抜け出す玉手を、家老の妻羽曳野が支へ、両人の争いとなるが、そこも女武道となつてゐる。
妨げすれば一討ちと、丁と受けたる傘の骨を砕きし互ひの手練、雪は尚しも降りかゝり、凍える手先、傘も抜身も倶に取落し、一度につかむ髻髪タブサカモジホドけて乱れ髪、乱心か、白妙の雪を蹴立てゝ挑みしが、拾ひ上げた傘の柄に、羽曳野があばらを一当て。うんとのつけに倒るゝ隙、玉手御前は飛立つ嬉しさ。足をはかりに走り行く。
こゝでは殊に女武道を発揮して、殆、狂乱狂気と見える。そこが又作者が技巧を充分発揮出来る所で、作者が理由を附けて、そこまで玉手の性格を露出しなくては、作者の考へてゐる玉手が現れなすぎるのである。さうして書かれてゐる恋慕の狂乱だから、見物がそれを見て、美しいと見ることが出来るのだ。作者の計画では、美しい女が美しい心で荒れてゐると言ふ所に、心理的根拠をもつて、見物に迫つて行かうとしてゐる。そこに、作者の、文学者としての、せめてもの生きる所がある訣である。
所が此玉手御前が、父親の合邦に、刀を腹につきこまれてから、俄然として変る。つまり「もどり」になる。もどりと言ふのは、もとは本心に立ち帰る、或は、もとの善心の姿にかへることが、もどりであるが、其用語例が変つて、かくしてゐた腹を見せる事を言ふ様になつた。
玉手御前は、腹に刺された刀を押へて、はじめて、何故俊徳丸に恋慕して、その様を人にみせびらかす様なことをしたか、何故俊徳をつけ廻す様なことをしたか、何故、自分の腹を人につき刺して貰ふ様にしむけたかを漸層的に説明して行く。其時になると、見物は、とりつくの面白さに手を打たず、寧、ほつと救はれた心持ちがする。こゝで救はれないのは、劇評家だけである。即、今まで真実な恋愛だとばかり思はせて来て、玉手を真実の玉手らしく書いて来て、こゝで、それが玉手のとりつくだつたとなる。同時にそれが、作者のとりつくでもある。だから、こゝから急にお座がさめる、と言ふのである。併し私はさうは思はない。日本人の共通の感じを分解してみると、決してさうでない。
もし、もどりにならなかつたら、どうであらう。もし、玉手がそのまゝ、俊徳の裾を握つて死んで了つたなら、どうであらうか。さう言ふ性格も面白いとは思ふ。実際大抵の批評家はそれを言つたのである。そして、歌舞妓にとらはれてゐる者だけが、それは違ふと、批評家に反対しただけだつた。併し、今になつて見ると、私にはもつと理由があると思ふ。もし、もどりにならなかつたら、見物の心は救はれないのである。玉手は実は清らかな心だつたんだ、と安心するのである。合邦内の場で、浅香姫への嫉妬の乱行が募つて来て、もうこゝらで見物が玉手に愛想をつかさう、手をわかたうと言ふ時に、このもどりになつて、あゝ助かつた、玉手を傷つけずにすんだ、と言ふ気がして来るのである。継母の玉手が俊徳に思ひをかけて、つけまとひ、もつれかゝり、其上毒を盛つて癩病にまでしてゐる、だから此まゝだつたら或点は美しい欲望を遂げようとしてゐるが、或点はきたない欲望の女として、我々の玉手への好意が報いられずに、玉手は死んで了ふことになる。だから、もどりになつて死んで、始めて、あゝよかつたと言ふ安心を我々は感じるのである。作者の試みたとりつくは、成程、とりつくとして終つてゐるが、玉手のとりつくは真実であつた。かう言ふ解釈が出来ると思ふ。
近代文学を読んだ人は、さう言ふ見方で性格を見ようとするので、玉手が恋愛に終始した女だつたら、と言ふ様にみるのだが、果してどつちがいゝだらう。われ/\としては、さう言ふありふれた型の女よりも、かう言ふ型の女があつてもいゝと思ふ。自由で我まゝな女の間に、かう言ふ女が介在してもよいと思ふ。たゞ、作者が凡庸な為、玉手の試みたとりつくが解けた後にも、心に滓がのこる。それは作者が下手だからだ。もし作者がうまければ、告白した後に、美しい清らかなものだけが感じられる筈だ。文章も下手だが、さすがに先へ行く程澄み切つて来て、色々の人の口をかり、澄んだ清らかな心境を抱かうと、努めてゐる。其点からみても、作者が、或は作者と同じ気持ちの呑みこめたものが、清らかな花の開いた様な解決をつけようと、試みてゐる事が訣る。悲しいけれど、明るく輝いた最後でしまひにしてゐる。勿論時代によつても違ふ。此が書かれた安永の頃には、恋愛に終始した女として死ねば、見物は救はれなかつたに違ひない。それは同時に、我々の時代でも、救はれない。いまだに我々は此解決で、明るい寂しい光りを感じるのである。

四 玉手御前の恋


浄瑠璃では、簡単に、玉手御前が試みたとりつくは、作者が考へたと言ふことになるが、作者が問題となるのは、其作を作つたと言ふことで、我々はたゞ作品を問題とすればいゝ。菅専助・若竹笛躬などは問題にしなくてよい。つまり、作品を見て行けば、作者の計画はひきはなして考へていゝと思ふ。
玉手御前の恋はどういふ風なものか、数条にわけて考へてみよう。
第一に、玉手に全く恋の心がなかつた、恋を念じてゐなかつたと言ふ風に考へることが出来る。作品の形式的な考へ方をすればさうなる。つまり始め計画した時の形はさうであつたと言へるだらう。
次に、恋は感じてゐるが、総べての恋を犠牲にした女である、と作品の上では考へられる。自分のもらるの為に、犠牲にしたのである。
第三には、かうも言へる。恋は感じてゐるが、苦しい恋から解脱する為に、憎まれる様にして、斬り殺されることを願つた女として書かれてゐると見ても成り立つであらう。斯うみると、或点、消極的な意味だが、恋の為に身をすてた女と言ふことになる。併し又、此作物に出て来る玉手は、作者の出来心から生れた者とも見られる。つまり、江戸時代の作者の、女に対する理会、言ひかへれば、女と言ふ者はかう書かなくては面白くないと言ふ、昔の文学の型通りの女の書き方から生れて来たのだとも言へる。すると此恋は、空な恋になる。
併し、舞台に出て来る玉手のする所をみると、確かに、妖婦毒婦と言つた面影がある。さう言ふ所が出てゐる。ともかく衒つてゐるには違ひないが、毒婦と言ふ感じが横溢してゐる。そしてそれが又、此場の、見物を誘惑する所でもある。それがなければ、みたくない。歌右衛門の玉手が、不満に思はれるのもそれだ。梅幸のはやゝそれが出てゐたが、雀右衛門の方が、その点上であつた。雀右のは、本人の持つてゐる癖から、自らさうなつて来たのだ。梅玉がすると、著実な町女房が奉公して出世した律義な女で、しかたなしにあゝ言ふはめになつたのだと言ふ女が画かれる。
同じ事だが、恋をしてゐて、恋の忍苦を、しのびにしのんでゐる女、恋の辛苦を積んで行く事に、生き甲斐を感じてゐる女、と言ふ風にも考へられる。辛い目に遭ひ、総べての茨を、かよわい女の身で一身に背負うてゐる女、秘密にする為に、たつた一人で総べてを担うて、恋の忍苦を潔く背負うてゐる女、さう言ふ風にも解釈が出来ると思ふ。そして此場合にも、事実は恋の心を抱いてゐるとした方が、女の性格としてはあるべき事で、其方がすなほな女になると思ふ。其処から、玉手の試みた詭計が生れてゐると言ふ風に考へられる。
我々が人形芝居や舞台を見て受ける印象は、平凡だけれども、力強いものを受ける。江戸時代の女は、今と違つて、社会的にも宗教的にも宿命を負うてゐるので、玉手が、自分と同じ様に苦しんでゐる女に向つて、強く生きて美しく死んで行くものだ、詩人的な表現をすると、哀れな死を遂げた屍が此だ、と人が言ふ様に生きなさい、とわれ/\に言つてゐるのだと感じても、その受け入れ方はあやまりではないと思ふ。凡庸な作者がそんな事を言ふのでは、反撥する心がおこるが、玉手が――作物の上の主人公がさう言ふのなら、不都合ではないと思ふ。
私の話は、殊に今の若い人達に、どう受けられたか訣らないが、われ/\は、今、合邦の芝居を見て玉手の生活に後からついて行くべきではないかもしれないが、やはり受けとる印象は、深い、強いものを受けるのである。





底本:「折口信夫全集 22」中央公論社
   1996(平成8)年12月10日初版発行
底本の親本:「演劇評論 第二巻第四号」
   1954(昭和29)年4月発行
初出:「慶応義塾歌舞妓研究会講演」
   1947(昭和22)年6月12日
   「演劇評論 第二巻第四号」
   1954(昭和29)年4月発行
※底本の表題の下に書かれている「昭和二十二年六月十二日、慶応義塾歌舞妓研究会講演。同二十九年四月「演劇評論」第二巻第四号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2021年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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