真間・蘆屋の昔がたり

折口信夫




この国学院大学の前身の国学院、及び国学院大学で、私ども万葉集を習ひました。その時分ちようど、木村正辞先生といふ、近世での万葉学者がをられまして、私ども教へて頂きました。
その外に、畠山健先生が、万葉集を教へてをられました。木村先生といふのは、旧時代から名高い万葉学者で、謂はゞ正しい伝統を持つた方です。畠山先生は万葉やら、源氏やら、徒然草やら、宇治拾遺やら、いろ/\なものを教へて下さいました。だから当時の大学予科生なる私どもは、畠山先生の万葉集を教はることが残念に思はれました。高等師範部の前身の師範部の方に、木村先生の時間がありまして、師範部の方が、よい待遇を受けてゐるやうな気がして、師範部の時間を盗み聴きに行きました。けれども、年を取つてをられまして、昔の評判と、実際とは相当違ふといふやうな感じを、僣越ながら受けまして。所が、畠山健先生の万葉講義といふのは素晴らしいいい講義だつたので、大変我々万葉学の刺戟を受けまして、やはりかうして教へて下さるだけに、それだけの深い用意があつたのだといふことをば始めてつく/″\と知つたことでした。もうその先生たちも皆亡くなられて、お墓々々も冷えきつてゐます。さうして、今では亦、私の受けた印象などになかつた事のやうに、木村先生が、江戸持ち越しの万葉学の権威のやうな形に考へをさめられてゐます。其は其として、よい事なのです。かういふ話をしておくのも、それらの先生の供養にも、国学院大学の歴史の補ひにもなるかと思つて申上げてゐるわけですが、よく考へて見ますと、実際古典を専門にしてまゐりました我々の国学院でありますが、この国学院で本道に万葉を専門にしてをられた人を名ざしする段になると、容易なことではありません。木村先生に習ひましたけれども、もう先生の万葉には我々若干あき足らぬ気持を感じた位で、その外には、外の文科系統の文献の専門家は沢山いらつしやいましたが、万葉の専門家は木村先生を除けば一人もをられなかつた。だから我々は何とか万葉の本道の先生を得たい。この他に更に、さう言ふ先生を得たいといふやうな欲に燃えてをりました。その望みもとう/\達することが出来ずじまひになりました。恐らく武田君も少し遅れて這入つて来たのですから、或はその木村先生につかずにしまつたかも知れません。武田君への先生の伝統、これは、万葉学では、大事の事ですから、よく調べておきます。我々二人は万葉をば専門にして来たけれども、万葉の学者としては非常に不幸で、本筋の万葉学の伝統には、若い時代には、触れてをらないといふことにならうかと思ひます。木村正辞先生をある点まで無視したやうな話で、誠に申し訳ない事になりますが、――そんな有様なのでした。肝腎の国学院がそれですから、まあ世間の万葉学といふものも、筋を考へる段になると、大体おしはかることが出来ます。その後、明治三十年代を通つて、四十年代に入ると、世の中に、万葉学が非常に進んで参りました。
一つは正岡子規の門流の万葉ぶりの歌の方に、力が増して来まして、――万葉文学の本流と申しますか、そちらから非常に潮が満ちて来ました。それから戦争時代になりまして、やつと近頃、戦争後もう万葉一途の時代でもあるまい、源氏物語をそろ/\出して見ようではないかといふやうな考への起つて来まして、源氏学興隆の時が来ました。それで万葉と源氏の並立時代といふやうな有様になつて来ました。けれども、だがまだ/\万葉を探求しないでは、万葉の持つてゐる問題が、そのまゝ残る。今におき、我々の解決し切れない問題は、早晩貴方方にお任せしなければならないものとして、沢山残つてゐると思ひます。こんなに懸案を残して去るといふことは、それだけ、我々が無力で、不勉強であつたといふことになります。併し、源氏と申しますものゝ源氏にだつて万葉的要素が沢山ございます。我々は万葉と源氏との間、もつと平たく申しますと、奈良朝及び其前と、それから平安朝とのその間の聯絡といふことは、殆んど考へずにまゐつたので、この二つの聯絡をば何とか考へて行く者が、今後の学界に現れて、著しい、為事も残して行くことになるのだと信じて居ります。さうでなくても、古い言葉で解くことの出来ないものが、随分そのまゝになつてをります。源氏その他のものには出て来るけれども、記紀万葉の世界には出て来ない、併し、その言葉は、古代からひき続いて来たものに違ひないといふ――古代語でゐて、古代文献に現れず、まるで中世に生れたものゝやうな形で残つてゐる。――さう言ふ言葉も沢山ございますし、その他、いろ/\な事柄――民俗など――につきましても、どうしても、万葉と源氏と、きり放しておいては、聯絡も説明もつかぬといふやうな文化現象が沢山あるのです。さういふ中間時代の学問が、今後現はれて来なければ、古代と中世とは、木と竹をつぎ合せたものになりませう。
源氏物語で言ひますと、光源氏が、須磨へ流れて行きました。――流されて行つたのでは、少々問題がありますから、流れて行つたといふことにしておきます――が、小説の本体から言へば、流されたのでせうが、流されたといふことをば避けた表現法をとつてゐるのです。自ら進んで流れて行つたといふやうに書いてゐるわけですが、あの源氏と同じやうな物語が源氏以前にもあり、源氏以後にもございます。これは私等の言葉で「貴種流離譚」――貴い種の人がさすらひ歩くといふやうな点に寄せて名前をつけてをりますが、貴種流離の話といふものは、実に沢山ございます。その話の一部分で片附くことはかたづけて置かうと言ふ計画なのです。別に珍しい話をするわけではありません。
万葉集でも、万葉全盛時代と言ふべき、花の時代、天平十一年、万葉では十年であつたと思ひますが、十一年三月頃のことだつたと思ひますが、万葉作家としても残る石上乙麻呂が、土佐国に流されます。又相手の久米若売といふ女性は、下総国に流されます。「たをやめのまどひ」によりて、流されて行つたわけですが、その歌と言ふのが、誰にも知られてゐるのです。全体古い叙事詩は、作物の主人公か、作者自身か、さう言ふ点が、常にごつたになつてゐるやうな形をとり易い。さう言ふ詩を誦み馴れた習ひから、「主」と「客」どころか、詩――長歌――そのものを切半して、問者答者二人分に分けたといふ風になつてしまつてます。この乙麻呂が土佐国に流されたと言ひましても、すぐさま都に召し還されて役に就いてゐるのですから、実は大したことゝも思はれませんけれども、併しそれでも、続日本紀にはつきりと書いてある。万葉集にも凡きつぱり書いてあります。けれども、どういふわけか、文学だといふので、万葉の方は信じない癖が、日本の学者にはついてゐます。万葉と続日本紀では、どちらが正しい。さう言ふことになると、どちらが何といふことはないと思ひますけれども、日本紀でもすでにさうなので、万葉は歌謡の集成本だから信じない。これは国史だから編纂の動機が、もつと確実だ。さういふ、昔からの学問の態度は、いつまでも続いてゐるのに不思議はない。けれども大体さういふ風な考へ方で、史実の形をとつたものは眺められて来てゐるのです。万葉の方では、前にも言つた、天平十年説なのです。さういふ考へ方をする人も、続日本紀を見ると、こちらの方が本たうだと言ふことになる。併しこの事実は、事実に違ひないとしても、さう言ふ事実は、昔からある。それから其後にも起つて来た事柄なのです。即ち、類型的な事件であつたことでせう。決してなかつたことゝは言へないのです。
併しすでにその時万葉集が取扱つてをります歌を見ましても、石上朝臣と久米若売といふ形で、それを表はしてをります。さう言ふことを伝へるには、きまつて条件のやうなものがあつて、これ/\の事柄を伝へるには、一つの伝説の型によつて伝へようとする勢といふやうなものゝあることが考へられます。それを世間が受入れて、受入れる心は伝説的にものを考へ、扱ふ心であつた。だから伝説の胸に消化してしまつて、事実や事実を記録したものと思はれてゐる記録が、最平常な伝説型に直されて来る。一層いつそ事実らしいものがなかつたら伝説になつてしまふ所だつたのでせう。事実といふことより伝説の方が何回でも繰返すのですから伝説の世界に這入つた方が広く長い命を持つて来るわけです。謂はゞ伝説哲学とでも言ふべきものに這入つてしまふのです。
さてかういふ風に二つの書物に現はれてをりましても、二つについて我々が受ける印象といふものは、いづれも伝説的だといふことは言うて差支へないことだと思ひますし、恐らくその当時はつきりしたことを知つてをつた人々は、それを取巻いてゐる事件、更に遠い所にゐるといふ人達は、それと同じやうに起つた事件を伝説として取扱つてゐたに違ひないと思ひます。所がさういふことを万葉集から拾つて見ますと、いろいろな事柄が出て参りまして、それこそ枚挙にいとまもないわけですが、それで非常に似てゐることで違つた形を見せてゐること、これも名高い事実をかりて来た万葉集の初めの方にあります麻績ヲミノ王といふ人が、伊勢国の伊良虞の島に流された。伊良虞の島では外から見た地形に、はつきり別々の区画が見えるから、伊良虞崎のことだらうと云ふ人も多いが、いや伊良虞崎に向つて行く途中にある神島といふ島だらうといふ説があります。――私も実は其説ですが、そこに麻績王が流されたことになつてゐる。例の通り万葉集に出てゐるから、その歌だけで、その地から伝つて来たものと云ふことも考へられるでせうけれども、これはもつと材料があります。天武天皇紀には、麻績王は因幡へ流され、麻績王の二人の子供は九州の血鹿島と伊豆の島の二つの島へ流されたといふ風に書いてございます。これはいつも註釈本に引用することですから、新しく申すのも恥しい位のことです。所が常陸風土記にも御承知の通り、行方郡の板来で、あの事実は、自分の所の歴史だとしてをります。此は後の出島の潮来であつた訣です。万葉では伊良虞の島といつてゐる。常陸国では板来だといふ。因幡説でも、やはり別のいたこ・いらこがあつたのでせう。
因幡国の一地方で伝へてゐたのか、或は宮廷などの資料がさふ言う形で残つてをつたのか、謂はゞ、日本紀系統ではさう伝へた訣ですが、さういふやうになるともう訣りません。実際は、初めから訣らないのでせう。日本紀が正しいと言ふのは、以前の学者ならきつと、さうするでせう。ともかくさういふ伝へのあつた所が、奈良朝には、奈良朝関係の文献に三ヶ所ある。三ヶ所あるから、其中一つは正しいのだとさう簡単には行きません。どこかが真実の所で、あと二つは物語がその後から出来た。或は前からあつたものが、物語が一緒になつてしまつたといふ風に考へられゝば、学問は楽なのです。さういふ風な地名があつたのでせう。それはその地名をば歌が指定してをりますから。
「いらごの島の玉藻刈ります」と同情した歌も、「浪に濡れ、いらごの島の玉藻刈りはむ」と答へた歌も、伊勢国説を主張してゐるのです。何にしても、この地名を中心にして、三ヶ所がさういふことを言つてゐたものでせう。これは、三種類の奈良文献から起つたことでなしに、歌が元になつてゐるのです。三通りの外にまだ幾通りか、麻績王流竄の地が主張せられてゐたかも知れません。其上に麻績王ではなしに、別の王を中心として伝へたもの、さう言ふ無限の伝来が残されてゐたことが思はれます。
併し今我々はさういふことを問題にするのではなしに、貴い人が波にぬれていらご(いたこ其他)の島の玉藻を刈つて喰べてゐる。さういふ境遇に落ちてゐる。これは都から遠い田舎にさすらうて来て、苦しんで生きてゐるといふことを、行きずりの同情者が歌ひ、麻績王が答へてゐる。
さういふ事柄は、他にもいろ/\沢山ございまして、平安朝に入つてもありますし、又奈良朝以前に遡つてもありました。そのうち今日問題にしたいのは、それが男の貴い人、或は女の貴い人、どつちかゞ流されて行く。或は自分自身で、流れて行つてゐる――さすらふといふ風な形で、中でも一番均等に行つてゐるのは、允恭天皇の皇子の木梨軽皇子、それからその妹の軽大郎皇女、この二方が、一腹一生の兄妹なのに夫婦の契をしたといふことが、神意によつて現れて、それで皇女が伊予国に流された。これが日本紀の伝へです。古事記の方では、太子流されて伊予に行く。後からその皇女が跡を尾うて行かれた。これがいはゆる道行といふ、旅行のある理由なのですけれども。その途、或は以外でも出来ました歌の一部分が「天田振アマタブリ」といつて伝はつてをつて、非常にあはれな歌である。天田振ばかりではありません。その外の「歌群」の中にも、皇子・皇女の歌が入つてをります。我々はどんなに祖先を尊敬してゐるにしても、この時代の祖先が、まさか此程「物のあはれ」は、知つては居なかつたらうと思はれる程、あはれな歌を作られてをります。
かう言ふ歌を謡ふ人、其を聴くことによつて、祖先達のあはれを知る心が育まれて来たことは事実でせう。古代と言へば、一も二もなく信じなくなつたが、さう軽蔑は出来ないものです。さういふ風に、日本紀と古事記では伝へが一寸違ふ。
ところが女性の側の伝へといふのも、又色々な風に沢山ある。
仁徳天皇の皇后の磐姫といふ方は大変嫉妬の激しい方で、その嫉妬の表現といふものは或は今日古事記を見ますといふと、如何にも其自身文学だと謂つた感動を受けます。嫉妬の文学的だといふことは、今では喜ばれることではありませんけれども、あれはあゝいふ文学的になつて来なければならぬ理由があつて、あんなに力強い表現をしてをつたのでせう。つまり女の怒りを鎮めるための歌といふものが発達して、其「女怒り」の代表者としての磐姫皇后が存在することになつた訣です。それはやはり万葉集にも出て来てをります。所が万葉では一部分は、既に申しました軽皇女の歌になつてをります。軽皇女の歌か、磐姫の歌か、万葉と古事記、日本紀では、どちらへもきめてしまふ訣には行かなくなつた次第なのです。それでこの皇后が紀伊国に大嘗オホムベに使ふ、柏の葉をとりに行つた帰りに宮中に新しい女性を召されたといふことを聞いて怒つて、そのまゝ今の淀川を遡つて、山城に入つて、木津川を更に遡つて行かれたといふことになつてをります。古事記と日本紀では、これ亦表現が違ひまして、日本紀は還らず、大倭葛城の故郷に帰られ、古事記の方は途中から引き返して来られたやうです。山城では珍しくも、蚕を飼つてゐる者の家に暫らく居られたことになつてゐる。これはやはり女性のさすらひの旅なのです。女の流離の物語、磐姫の場合は、たゞ威勢よい「うはなり嫉み」の物語だと思つて来ましたから、或はそれをさすらひのあはれな旅だと思ひませんけれども、やはり貴種流離の要素は持つてゐるのです。
ずつとさがりまして、天武天皇の時にちようど似た立ち場の皇女が二人、見えてゐます。一人は、大伯皇女。大津皇子といふ男性の兄弟が殺されたのでその墓へ行かれました。その道の叙述は、万葉では飛び/\に僅かの歌で述べるのですから道の叙述は分りませんが、恰も道の旅を考へることが出来るやうになつてをります。それと同じやうな位置の十市皇女といふ方は、自分の夫である所の弘文天皇崩御の後に、伊勢斎宮に参られる、その途で名高い「河上かはのへの五百箇磐群」の歌が――御自分の作ではないが――出来ます。その刀自の自発的に作つた歌と言ふことになつてゐますが、万葉の、誰某の作だとか言ふ意味は、いろ/\考へて見なければならない問題だと思ひますが、まあさういふ風に書いてをります。これも女の旅なんです。さうしてこの方には、更に都に帰つて宮中で俄かに死なれたといふやうな、小説的に考へれば小説的にも考へられ、そんな風に考へるのがいけないと言へば、もつと平凡にも考へられるやうな死に方をしてをられます。貴い女性がさういふ風に旅にさすらふといふ話を、沢山集めれば集められるのです。男ばかりが旅をしてゐるわけではない。女の人も旅をしてゐる。併しそれはずつと後世の事とする考へ方がある。日本の女の人はどこにも出ない。家をも出ないと考へて来てゐる。平安朝時代の貴族の女性は、自分のゐる室すらも出ないものとなつてゐる。さういふ生活が続いてをりますから、男兄弟と女姉妹とは他人見たいで、顔を見たら、女と男だから恋愛の心が起つたりする。だから平安時代の系統を引いた恋愛物には、男と女の兄妹及び、肉親の愛のもつれを扱ふものが出て来る訣です。
さういふ風に、女の人は陽の目も見ないと言ひますが、本当に陽の目も見ないやうな、部屋に生活をしてをつた。尤も日本では本当のことかどうか知りませんが、ふれいざあ教授のごうるでん・ばうを見ますと、日本の天子は地上に足をつけない。顔も日にさらして外出せない。尤も地や、外光が天子の威光を吸ひ込んでしまふからだといふやうなことを書いてをりますが、併しそれも種のないことではない。さういふことを、日本に来た外国人が聞いて書いた。まさかそこまで伝説化してもゐないでせうけれども、さういふ風に、宮廷その他の神事に仕へる人たちは、禁忌を守つてゐたに違ひない。さういふ風に神事の生活をしてゐる所では、非常な謹慎の生活をしてをりますために家庭にをつてもなか/\陽にあたらない。いはゆるあめのみかげひのみかげといふ言葉がそれを示してゐるのです。宮殿の屋根が天日の陰となつて、神秘な人の威力の逸出を防ぐことなのでした。さういふ家の暮しがある。だから女の人は男性の家族から、顔も知られないでゐる。さういふ女の人が沢山ゐる。そんな女性の、宗教的な聖職にある人が、長い道を旅行して行くといふやうなことは考へられないことなんですね。本当か嘘かといふ気がします。幾ら本当にありましても、怪しまなければならぬ程沢山の伝へがある。沢山あつた所でそれが真実だといふことにはならぬ。即ち一つの信仰をばずつと長い間日本の国で貫いて持つてゐるのですから、その信仰を以て旅をしないでも、信仰の旅をする女の人を考へる事は出来る訣です。そこに伝説は幾らでも出来て来ます。さういふことが伝へにありましても、恐らく遠い旅の空想が、女宗教人の上には纏綿して居たのでせう。
天子の御即位の後、新しく立つた斎宮は、伊勢まで長い道をば「群行」と言ひまして、行列を作つて……、神々の行列になぞらへて見ればわかりますが、旅に出られます。さうして伊勢に行くまで倭姫皇女が昔通られた通りの道筋を古い儀式によつて行かれました。かういふことは事実である。空想ではない、夢ではない、現実です。それですからないことゝは言へませんけれども、或はかういふことは十分よく考へて見なければならないことかも知れない。昔神の世からかういふことをしてをつたから、我々の時代にも、さうしたことを行はうといふことになつて、初めた儀礼がないとも言はれません。
万葉集を見ますと、女の人の旅のことも沢山出て来たり、人の中に入つて旅をするといふこともあるし、一人旅をする女のこともあります。ともかくいろ/\な旅があります。それをあなた方の考へる旅とはお認めにならないかも知れませんが、女の人が家出をする話……。昔の女の旅には目的が考へられない。万葉時代の女の人の旅には目的がそんな風にはつきりきまつてはゐない。きまつてゐないと言ふと悪いのでせう。目的は恐らく死ぬるための旅でせう。家を出て行くといふことは、亡命です。女の亡命は、其女性の死を意味するものです。死ぬるための旅と言つていゝでせう。古代女性が家をさすらひ出るといふやうな種類の物語、歌を中心とした物語が相当見えてをります。場合によると、その当事者の作つた歌、死なれた後に残つた男達が作つた歌、そんな風な形で残つてをります。或はさういふ語り伝へがあつて、昔のそれを思ふと昔が恋しいといふやうな、旅行者の作物もあります。
万葉集で名高いのが、真間の手児奈、まう一つは、摂津の蘆屋の海岸にをつた女ですから、蘆屋の菟会ウナヒうなひは海岸の義)処女と言ふのですが、この二人のことは幾通りかの長歌、短歌になつて伝はつてをります。その他では、万葉集の巻十六にあります桜児、鬘児といふ女が、やはり男の競争者を避けて山に入つて木からさがつて死ぬ。或は死場所を求めて池へはまつて死んでしまふといふやうな死に方をしたことを伝へてをります。さう言ふのが非常に沢山あるわけです。さう言ふ木や水で死ぬのは、躰を傷け、血をアヤさぬ死に方で、禁忌を犯さぬ自殺法なのです。我々はこれは簡単に今まで考へてをります。日本の古代女性には、其職掌上、結婚を避ける女があつた。日本の女のすべてが、必ずしもこの世で結婚するために生れて来てゐない。結婚よりももつと先の条件があるのです。何であるかといふと、神に仕へるのです。人間として、人間の女としては神に仕へることが先決問題で、その次に結婚問題が起つて来る。だから一番優れた女の為事といふものは、神に仕へることである。かう考へてをつたことは事実でせう。事実といふよりさう考へてをつた人達が、昔はをつたといふことをば、後の人々も、多く信じてゐる。さう考へてゐるから、つまり沢山の美しい処女達が死んで行くといふ伝へを継承してをつた。で、真間の手児奈の歌でも、或は蘆屋の菟会処女の歌でも幾通りもありますが、並べて見ますと、作者にもよりませうし、或はそれの出来た時代もありませうし、やはり表現がいろ/\違ひます。真間の手児奈の歌でも、「古に在りけむ人の しづはたの帯解きへて、廬屋フセヤ立て 妻問ひしけむ云々」といふやうな言葉があるのを見ると、これは真間の手児奈がすでに男性を持つたといふことを、表してゐるやうに思はれる。真間の手児奈は、男を持たないで死んだ処女だとばかり従来は解して来たけれども、「昔をつた人が倭文シドリの帯を解き交換して、そこに迎へるために、婚舎としての廬屋を立てて妻問ひした」といふやうなことが歌つてあるのですと、これはどうも、この表現の仕方は結婚したといふことになる。さうするとどうも、すつかり異なる範疇に属するものと見て来た、安房のすゑの珠名に近づいてゐる。他のものは皆さうではない。中に非常に民謡的なものがあるかと思ふと、まう少し進んで来て、本当に手児奈が居つたと信じ、手児奈をばまるで聖処女みたいに見上げて歌を作つてゐる。菟会処女の歌なんかでも、その文章通り解釈すればいよ/\死ぬ時に、その母に死にゝ行かなければならぬわけをいうて死にます。夢のやうな叙述だけれども、彫りの浅い描写をしてゐるのが常の叙事詩を、ある部分だけはつきり言ふと、漠然とした処が大きくなつて出て来る。恐らく模倣の上に、個人的な理会を加へて来るから、一つ/\では、余程かはるのです。大伴家持の歌もさういふ風に作つてゐる。我々には、親の了会を得て死にゝ行くといふことは考へられませんので、さういふ風に解釈しないやうに/\してゐますけれど、さういふことがあつたことも考へてよいのです。宗教的な信仰の形式によつて死ぬるのは、親も止めることは出来ません。それで驚きますことは、たいへん時代が違つてをかしい話だとお思ひでせうが、「堀川」といふ浄瑠璃を見ますと、お俊と伝兵衛がこれから心中に行くといふことをはつきり言つてゐるのに、母親や兄がそれを止めない。どうしても死ぬものなら死ぬで仕方がない。もし生きてゐられたら生きてゐてくれといふやうな考へ方を示してゐる。比はもう、我々には、呑み込めない。我々は何でも経済問題に結着させて、世の中が逼迫して、貧民階級の生活といふものは、親子心中する我々の時代よりももつとひどかつたのだといふ風に簡単に解釈してをり、何か共通のものがあるのかも知れないといふ気がしますけれども、ともかく親に暇乞ひをして死にゝ行くらしい。
同じ長歌と申しましても、色々な人が、色々の工夫をして作りますと、いろ/\かはつた表現がかど/″\に出て来て興味を覚えさせます。その中でも高橋虫麻呂といふ人、――この高橋虫麻呂といふ人の歌集の取扱ひ方は、以前から私は問題を持つてゐましたし、今でもなほ問題を多く持つてゐるのですけれども、一応虫麻呂の歌として話します――虫麻呂の作つた歌を見ますと、非常に素質のいい、物語の伝承者として、極めて適した人らしい所が出てをります。文学者といふより、伝承者としての素質が十分出てゐるやうな感じがします。とにかく「死に行く処女」といふものがございまして、何のために死ぬるのか、死ぬる目的といふものが本たうは訣らない。一番出過ぎた解釈は、つまりそれは信仰の純粋を保つためとか、神以外の夫を特つことは、神の怒りに触れるからといふので、それで死んで行くのだといふ風にとつてゐるのです。だから死なゝいでいゝ場合もあるわけです。
沖縄の方に行きますと、やはり同種類の話が沢山ありまして、普天間フテマといふ所の普大間権現の由来は、内地でも名高いものです。名前は権現と言つてをりますが、祭神がとつくに沖縄的に変つてしまつてゐます。普天間権現といふ神様は女神で、首里の町の桃原御殿トオバルオドンといふ貴族屋敷の娘です。姉さんが結婚した。ところが姉の夫が、女の部屋に入つて来て、その妹娘の顔を見た。さう言ふ場合には、内地では恋愛を表示したからとか、何とかといふところですが、沖縄ではそこまで言つてゐない。男が妹の顔を見たくなつて、女部屋に入つて行つたので、妹娘はそのまゝ家を飛び出してしまつた。その時に内地の苧環――芭蕉の糸を捲いたものを持つて家を出た。首里から普天間まで二里もありませうか、その道を逃げて行つたのです。どん/\逃げて、後を一度も振り返らなかつたが、途中の坂道の所にかゝつて振り返つた。それからはそこを、後見坂(くしみしびら)と言ふやうになつた。更にその女性が逃げて行つて、普天間の岩穴に入つてしまつた。その乳母は、自分が仕へてをつた娘が逃げて行つたその後を追ひ掛けて行くと、道の草が、娘の神秘な威力に押されて、皆伏してをつたのですけれども、たつた一種類の草だけが頭をあげて上を向いてをつた。乳母が怒つて、その草を踏みつけた。そのために今でも沖縄では、その芝だけが踏みにじられたやうな形になつてゐる。平草ヒラクサといふ草です。さういふことを普天間権現の由来として伝へてをります。かういふ風に沖縄の伝説を例にとつたのは、つまり、処女は神聖な生活をして、絶対に男を避けるものだといふ説明にぴつたりかなふからです。ところが日本の女性、――少くとも昔の人の考へてをつた日本の女は、それ以外にまだ目的をもつて、この世に現はれて来たやうに思はれる。例へば竹取のかぐや姫のやうに、何のためにこの土地に出て来たのか訣らぬ女性が相当に沢山あります。この世界を騒がせに来たやうなものです。かぐや姫は幸福だからいゝけれども、かぐや姫よりもつと不幸な女性の話は、丹後風土記に出てをります。即、比治山真名井といふ所に降りた天津処女の話はあはれです。その山の下にをつた翁夫婦が、羽衣を隠し、其を悲しんでゐる娘を自分の家へつれて来て養つた。酒を造らせればうまく造るし、機物も巧に織る。所が女の力で家が富んで、必要がなくなると天女を追ひ出してしまふのです。それで天女は怒つて、家を出て道を歩いて奈具といふ所に行つた時に、「わが心なぐしくなりぬ」といつたのが、奈具の社の名の由来だといふことになつてをります。名高い話ですが、この話も、その天女が転生して、とようかのめの神になつたと伝へてゐる。豊宇賀能売神といふのは外宮の神様と、非常に性格の通つた所のある神です。つまり、神名が似てゐるのは、神の性質が近似してゐるのだし、それと同時に名前が一寸違つてゐても性格の上に細かな相違のあることを示してゐるのだ。酒の神です。これには間に飛躍がありまして、天女が死んで、それが神になつたといふ訣なんです。それを、死んだといふ手順だけ外してしまつたのか、強ひて忘却を装うたのか、さういふ風な形で伝へてゐるわけです。かぐや姫の話も偶然、竹取の翁といふ者が正直で、いゝ心を持つた人ですから、あんなに幸福に天に昇つて行きましたけれど、さうでなかつたら同じ運命に落入つても仕方がないのです。
さうしますと、つまりこれらの女性は、この世の中に死ぬために生れに来たといふことになります。死ぬるためにこの世に生れる、或は死ぬるために生れに来るといふことは恐らく意味のないことだと思はれるでせうが、併し死ぬるために生れに来るといふ信仰が、非常に深く保たれてをりました。我々の国にはこれが後に段々難しい理窟を持つて、真実性を備へて来ました。極く平凡な大昔の田舎では、遠い所に我々の世界とは違つた世界がある。即、他界があると信じてゐました。さうして、普通我々はその世界へ行く事は出来ない。併し時として偶然に、或は神から幸ひせられた、恵まれた人達だけが、他界へ行くことが出来ると信じてゐました。併しあちらの世界からは屡々来るものがありました。あつちの世界とこつちの世界に共通のものがあつて、それはあちらから来ることも出来、又こつちから他界に行く事も出来ました。さういふ世界のあることを信じてゐる。つまり一つの他界観念を持つてゐたのです。
日本人がとてみずむを持つてをつたか、どうかといふことは、大変な問題ですけれども、とてみずむがなかつたら、恐らくこの他界観念も出て来なかつたらうと思はれるのです。他界に生物がをつて、それが我々と共通した条件で生きてゐるから、我々とそのものとの間に生活条件の通ずるところがある。さういふものがこの世界へ来て、再び他界へ帰ると、つまり完全に神になるのだと、さういふ風に信じてをつたらしいのです。だから日本の地方の社の伝へや、由来書を集めて見ますと、その中の大きな何分の一といふ程度に、「この祭神は昔外国から船に乗つて渡つて来た神様だ」或は外国とまで言はなくても、「どこからか知らない国から渡つて来た神様だ。その船を開いて見たら、若い神が死んでをつた。それを祀つたのが、このお社だ」といふ社がなか/\沢山あります。さうかと思ひますと、それを拾ひ育てたのが、社の神主の祖先だといふ風に説いてゐる所も多い。今までの神道の研究では、そんなものではいけない。そんなことは正当な神道的の考へではない、中間に起つた蒙昧な信仰に過ぎないのだと言うてをりました。けれども、かうした神は非常に数多くあるのです。さうすると、何かその間に理由を考へなければならない。皆嘘だと言つてすましてゐることが出来ないのです。つまり、我々の持つてゐる神様のある大きな部分までは、何の説明も出来ないで、間違ひだと放置してしまふことなのです。それを我々が考へて行きますと、例へばあいぬの熊を殺して祭る熊祭りがあります。よその人間は非常に残酷だと考へますけれども、あいぬ人には熊自身の感情も訣つてゐるのです。死ねば天に昇つて神に生れ変るのだと思つてゐる。さう信じて殺すわけなんです。これは日本と比較研究すべきことなのか、日本の信仰があいぬの社会に移つて行つたのか、簡単に言ふことは出来ませんけれども、あいぬとは種族において全然違つてゐるにも拘らず、信仰の上に非常に似た所があるといふことは事実です。これは偶然の暗合なのか、それとも当然の理由があるのか考へなければなりません。
他界の生物がこの世界を訪れて来るのは、この世界に来ることによつて、再び他界に帰つたとき、立派な神になることが出来る。かぐや姫も犯しがあつて日本の地へ来たが、それが償はれたから帰へるのだといふことを言つてをりますけれども、その理由は誰も説明出来ないから、天から来るには皆何か失敗してやつて来てゐるやうなことになつてしまつてゐます。何のために失敗をしたのか、失敗はどうして償へるのかといふことの説明なしに済ましてゐる。
先に申しました万葉に出てくる、死んでゆくをとめ達の伝へにしても、本当にさうして死んだのだと思ふ人はないでせう。偶然死んだこともあるでせうけれども、あゝした歌は本当に死んだことを見て作られたものではないでせう。死んだといふ事実よりも、もつと大事な、もつと有力な、つまり昔からの伝へ、伝説といふものが力強く行はれてをつたわけです。それを伝へる土地々々によつて、桜児であり、あるところでは鬘児であり、真間の手児奈であり、思ひきつて天津処女になるといふ形をとつて、ところ/″\で違つて来るわけです。それが皆死んだといふことは、巫女が、神の外は、男を避けるといふ神道的の普通の解釈の上に、まう一つ古い解釈がなければならないのでせう。つまり「をぐな」とか「をとめ」とか言はれるやうな年齢の者が、生れて直ぐ死んで行く。
それでその死んで行く間に少しの旅をしてゐる。つまりそれは、他界からこの世界に来て、この世界で死んで他界に神となつて現れる。その手順が短くなつたり、長くなつたりしてゐるけれども、ともかくそんな形で現れてゐるものと私共は見てをります。このことは更に男のさすらひ物語を申上げれば、もつと話が理会し易くなるのですが、男の話はすでに度々繰返してをりますので省きませう。
女の場合は殊にあはれに死んで行つたといふことで、悲しまれてをつた人達が多いのですから、幾分若い方々の、荒だち易い心をやはらげることが出来るかと思つて話をして見ました。
この話は、歌を一つ/\解釈して行かなければ、話にならないのですけれども、平凡な皆の知つてをられる歌を、解釈して行く気にもなりませんでしたから、大変筋の立たぬ殺風景な話になつたと思ひます。





底本:「折口信夫全集 6」中央公論社
   1995(平成7)年7月10日発行
初出:「国学院雑誌 第五十三巻第一号」
   1952(昭和27)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本の題名の下に書かれている「昭和二十七年四月「国学院雑誌」第五十三巻第一号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:H.YAM
校正:門田裕志
2008年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について