遠野へ

水野葉舟




     一

「いま、これから東の方に向って、この花巻を発つ。目的地の遠野に着くには、今夜、夜が少し更けてからだそうだ。」――この頃は、もう少しずつ雪が解けはじめたので、途中が非常な悪路だと聞いた。私は今日の道の困難なことを想像しながら、右の文句をはがきに書いた。私はこんどその遠野に帰っている友人に会うために、東京を出て来たのである。
 ところへ、宿の女がはいって来て、馬車がくる頃だから用意をしろという。私は急いで、そのはがきに午前九時十分と時間を書き入れた。それを留守宅の宛名にして、それから、ほかの一枚にも同じ文句を書いて、来る路に仙台で世話になったうちに宛てた。
 手ばしこく洋服を着た。宿屋の勘定は前にすましてあったから、用意ができると玄関に出て行った。宿のものに送られて、靴を穿きながら空を見ると、つめたい、灰色の煙が立ち籠ったような空の色だ。
「これが、北国空ほっこくぞらか……」と思いながら、寒さと寂しさとがからだに沁みて来るようなので、私は堅く唇をむすんだ。
 宿屋を出て、町の街道とおりにくると、出たところに白い布の垂幕たれまくをおろした、小さな箱形の馬車が二台並んでいた。

 昨日、日の入るころ着いた時には、雪が解けて、この町には濁った水が流れていた。それが今朝はすっかり凍っている。その上を飛び飛び馬車に近づくと、私は馬の丈夫そうな先き立っている方に乗ろうとした。
 すると、そこに立っていた、赭顔あからがおの喰い肥った馭者が押し退けるような手真似をして、うしろのに乗れと言った。うしろのはその馬車にくらべると、馬も瘠せて小さかった。
 私は知らぬ土地に来た、旅人の心弱さで、黙って二三歩歩きかえして、瘠せて肋骨の出た馬が牽いている方に乗ろうとした。その時、前の馬車の垂幕があがって、うしろ向き美しく髪を結った娘が首を出した。

 私の乗った方には、二重マワシを着た長顔の鬚の白い老人と、黒羅紗くろらしゃの筒袖の外套を着た三十恰好の商人体しょうにんていの男とが乗っていた。私が入るとつづいて毛糸の襟巻をした若い男がはいって来て入口の戸を閉めた。
 やがて馭者がてんでに馭者台の上に座を占めると、二台の馬車がつづいて駆け出した。軒の低いくすぶった町並がどこまでもつづく。板で囲って穴を作っているような、薄暗い花巻の町が。
 私の馬車の方は、寒いのに垂幕が巻き上げてあった。馬車が町を駆けぬけると、目にひろびろとした雪の野が見えた。その中に、鉛のような色をして北上川が遙々と流れている。
 川の堤に出ると、上の方に長い舟橋が見えた。それに近づくと、「さ、降りねば……」と、奥に坐っていた老人がからだを振り向けて、車の中を一じゅん見た。
 馬車が橋のたもとで止ったので、私は一番に降りて、堤の上から、川の流れを見下ろした。大きい緩い水の流れが、広い平野の中に横わっている。寒い痛いような、風がそっと水面を渡って顔を吹いた。
 私は四辺あたりを見廻わして、自分がいま、ここに……この寒い国の大きい川の岸で広い雪の野を見ながら、こうして立っているのが実に思いがけないことのように思われた……。私は冬でも雪が積ったことのない国に永らく育てられたのだ。
 どやどや降りて来た、車の中の人にまじって、そのまま一人で橋を渡った。
 中途まで来て振り返って見ると、一間ばかり後のところに同じ車の老人がくる。私は歩みを止めて老人が追いついてくるのを待った。一緒に並ぶと、しばらく無言で歩いていた。
すると、
「どこまでおいでです?」と老人らしい調子で先方から口を切った。
「遠野までです。」私は待っていたように答えた。老人は歩きながら、改めて私を見返した。私はなお何か話そうと思ったが、心が重くって次の言葉が出なんだ。
 向いの岸に着いて馬車のくるのを待っていると、そこへ二台の馬車に乗っている人達がしだいに集まって来た。前の車に乗っていた娘は二人だった。色の赭黒い血肥りのした丈の短い……一人の方は頬に火傷やけどあとがあった。その娘達のうしろにそのおやじかと思われる鼠色の古びた帽子をかぶって顔も着物もぼやけたような四十五六の男が一人歩いて来た。
 その人達が思い思いに河岸に立って、馬車のくるのを待っていた。やがて、馬車はゴトリ、ゴトリと橋板の上に音をさせて近づいて来た。
 すると、前に来た馬車の中から、一人の男が顔を出していた。垂幕を上げて、窓のふちにひじをもたせながら、そこに待っている人達を見おろして、得意そうににやにやして笑いかけた。その目と私の目とふと見合うと、私は妙な不快な感じがした。売卜者うらないしゃのような人を馬鹿にした、……それでいてびようとするような顔をしている。角ばった、酒に酔ってでもいるような赤い顔で、大きいいやしい口に、赤い疎らな鬚をはやしている。
 私はその男の目と見合わせると、すぐ傍を向いてしまった。そして肩を聳やかして、つっと自分の馬車の方に歩み寄った。
 また前の馬車の中に座を占めた。窓から見ると、北上川の末の方まで、広い空は寒そうに曇っている。私は手提の中から、参謀本部の地図を出して、遠野と書いてある山間の小さい町へ[#「町へ」は底本では「町の」]つづいている道を指でたどって見た。道は殆んど山の中にばかりついている。それを見ながら、樹がしんしんと立っている、幾千年も前から、おし黙っているような、人気のない山間の道を想像した。私は心がじっと寂しくなってくるのを覚えた。と、美わしい顔色をした東京の女が懐かしく目に浮ぶ。華やかな笑い声も、もう久しく聞かぬような心持ちがする。
 それで永いあいだ、その遠野に行こう、……山で囲まれた町、雪の中の町を見に行こうとねがっていた、好奇心がすっかり消え去ってしまうようだった。
 馭者が鞭を振った。さも嫌やそうに、馬がのそりのそりと動き出した。と思うとビシリと、鞭があたる音がして、急に駆け出した。息がはずむように、揺り上げられる。
 私は寂しい、少しぼっと気が遠くなったような心持ちがして、揺られながら目の前に移って行く景色を見入っていた。

 道が山の中に入った。その時には私達の馬車は、もうよほど遅くれていた。前の馬車は、二町ばかり先きの松林の中を走っている、と思うと、道が曲って見えなくなった。
 一つ、ゆるい坂を上って下ったと思うと、馬車はさらに勢いよく駆けた。そして、道の行手に二三軒家のあるところにくると、前の馬車がそこに止っている。私の乗っている方の瘠せた馬は躍り上るようにして、それへ駆けつけた。
「休むのか?」とうちから黒羅紗の外套が声をかけた。
「ああ。」と、台の上から馭者が返事をした。
 車が止まった。私は地図を持ったまま外に出た。一時間ばかり乗っていたのだが、もうからだが痛い。私は思う存分、足を伸ばして、凍った雪を踏みながらその家のうしろに出た。寂然せきぜんとした冬枯れの山林が小さな田を隔てて前にある。地はすっかり雪がかぶさって、その中から太い素直に伸びた若木が、白っぽい枯木の色をして立っている。私はその奥をすかして見た。ただ、雪と、林の木と幹とが見えるばかり。空を見れば、風もなく、けむりのような灰色の曇った空だ。空疎な、……絶えがたい寂莫な自然の姿だ。
 ギュッと自分のごむ靴の底が雪に鳴った。私は立ったまま手にあった地図と鉛筆とをしっかり握って、しばらくこの寂莫が恐ろしいもののようにその林をすかして見ていた。
 家の前で馬がいなないた。私は心づいて前の方に出て来た。すると、右側の雑貨をならべた家の前に、例の男が、……橋の上も馬車を降りなかった男が立っていた。
 その男が私を見るとにやにやしく笑いかけた。私は知らぬ顔をして、ずっとその向い側に入って行った。その男は奉書紬ほうしょつむぎの紋付を着て、黒い山高帽子をかぶって、何か村の有力家と言った姿をしていた。
 私のはいった家には、はいったとこの土間に炉があって、それに馭者が大きくなって火に当っていた。同じ車の老人も、黒羅紗の外套を着ていた三十男も、襟巻の男もいた。私はその傍に立って時計を見るともう十一時だ。
「ここはなんと言うところです?」と、私は地図をひろげて、こっちの端にいた老人に聞いた。
「さ、……××村の中でしょう。」と、地図を覗き込んで、「××と言う村は出とりませんかな。」と聞く。
「ありました。」とその場所を指して見せて、「この次は土沢って言うところですね。そこまでどの位ありますか?」
「一里半かね。」と振り向いて馭者に聞いた。
「そうです。一里半少し遠いか。」と、くらふとった方が言った。体格から、言葉から兵役に行って[#「行って」は底本では「行つて」]来た男らしく見える。
 私は立ったまま黙って地図を見ていた。この「磐井」「盛岡」の地図の表は山の記号しるしで埋まっている。この山と山の重なっている中には、どのような寂莫な、神秘がかくされているだろう。
 ふと、顔を上げると、炉端の人達が何かさぐるような、物珍らしいような目をして私を見ていた。私の目がみんなの方に向くと喰い肥った方の馭者が、大きく欠伸あくびして、さも不精無精ふしょうぶしょうに、
「行くかな。」と、私の乗っている方の馭者を振り向いて見た。
「うむ。」と、その男が従順にうなずく。と、
「行くのかね?」例の老人が言って立ち上った。私はその人達より先に黙って戸口を出た。続いてさきの馬車の馭者が出て来て、のびのびと肥った両手を張ると、
「出んじょ!」と怒鳴りつけるように言った。
 両側の家にいた人達がみな出て来た。私は道端に立って、老人達のはいるのを待っていると、例の鼠色の帽子をかぶった男が、向いの家から出て来て、ぼやっとした顔つきをしながら、車の中にはいった。つづいて赤面の紋付がにやにやしながら出てくると、馬車の窓の下から、両手に持っていた紙に包んだものを、差し出して、
「ほれ、姉さん達、駄菓子だが一つあがりなさい。」と言う。中から「あれ、すみません。」と言って、二人の娘がはしゃいだ声を立てた。男は、
「まあ、まあ。」と押しつけるように、その包みを中に入れると、私を振り返って、したり顔に笑いかける。私はまた傍を向いた。

 人がみんな乗ってしまうと馬車がゆるゆると動き出した。道が少し上り坂になっている。
 私は煙草をふかしながら、二枚の地図を継ぎ合わせて、こまかに、行手の道を見た。この次に通る土沢つちさわを通り越すと、道が川に沿っている。
 渓流?……と、その変化の多い景色を想像して、心に微笑した。そして、強く煙草の烟を吸った。すると、烟が苦く刺すように舌に触る。ただ手持ち無沙汰なのをまぎらすばかりの煙草なので、この二三日の喫烟きつえんのために、私は舌をすっかり荒らしているのだ。
 と、前の馬車から娘達の賑やかな笑い声が起こった。それにまじって男の声も聞こえる。私は無聊なままに聴き耳を立てた。
 笑いながら言うらしい男の声で、――少しかすれているが上声うわごえの、にごりのある調子で、
「まあ見せなさい。左の手、左の手だ。わしが運勢を見て上げる。」と言う。ひつっこく押しつけようとするらしい。その声で、あ、あの男だ、と、私はすぐ紋付の男の顔を思い浮べた。
「やんだ! おれは。」と言って娘の一人が、身をもがくように笑うのが聞こえた。と男がまた、
「そう言ったものではない。運勢を見て上げるんじゃから……」と、真面目らしく言いながら、娘の運勢や、性分などを占いでもするらしく説きはじめる。娘はいつまでもキャッ、キャッ言ってはしゃいでいた。
 すると、
「前では賑かだな。」と私とならんでいた商人体しょうにんていの男がつぶやいた。老人もハハハハと大きい口を開けて笑った。私もつい微笑せずにはいられなかった。
 その時に道が下りになったので、馬が急に駆け出した。車の中では一時に下をぐっと引っぱられたので、みんなうしろの方によろめいた。「やけにやるナ」と商人体の男が窓から馭者の方を見て言って置いて、振り向くと軽く笑った。その拍子に前の馬車は四五間も離れたので、その笑い声も聞こえなくなった。

 車が今にもこわれてしまいそうに揺れる。からだがただ揺れるままにして、車の中では誰れもものを言わぬ。で、しばらくすると商人体の男がふと老人に話しかけた。
 それは芝居の話だ。数日前まで盛岡で興行していた、某一座を遠野に連れてくることになった談判の模様らしい。
 私はその話に耳を貸しながら、次第々々うしろに残されて行く景色を眺めていた。道は山に入るかと思うと、山を離れて畑のあいだを行く。だが、どこもかも、白々と雪が積って凍りついたまま野も山も深く眠っている。やがて土沢に着いた。一度夢に見たことのあるような町だ。材木を組み合わせたような造りの勾配の急な屋根の家が、高低を乱してつづいている。町の色が黒い。
 馬車は町の中ほどでちょっと止まったばかりで、いそがしそうに出発した。前の馬車では娘の一人が馭者を呼んで菓子を買わせていた。

     二

 やがて、渓流に沿った道に出た。道がしだいに上りになって行く。山が迫ってくるので、あとの方が広い野のように見える。私は地図によってこの川が猿ヶ石川であることを知った。
 道がまがるに連れて、景色が変って行く。見ると先きの方に大きい山の中腹を一條の道が走っている。それがわれわれの行く道であろう。
 私はもう疲れた。からだの自由は利かず、目に見える自然に飽いた。ねむりたいと思ったけれど、眠ることもできない。ただじっとからだを据えたまま、心でいろいろのことを思い描く。私は四年ぶりで逢った従妹の顔を思い出していた。子供の時分にはほとんど一緒に育った女だったが、四年逢わずにいたうちに結婚して、子供を生んでいた。その従妹の家に泊っていたあいだに私はしばしば、従妹が自分にはどうしても解することができない女になったと思った。……その従妹の顔がふと胸に浮かぶ。
 着いたはじめには、二人で向い合っていると、何か話さずにはいられなかったが、ふっと二人とも言葉が切れて、黙って顔を見合った。その時に女の顔には妙に底にもののよどんでいるような表情が見えた。しかも強味のある表情だった。この娘の時には見たことのなかった表情を見ると、私の心は波立った。その女が心の底を開いてものを言わぬのが、不思議に思えてならなかった。
 その黙って、目を動かさずにいる女の顔が胸に浮かんだ。私の目には、ぼっと白っぽい色をした冬枯れの林が映っている。耳にはしだいに深くなった渓の底からくる水の音が聞こえている。
「スフィンクス!」
 私には、時によると自分のこの肉体より、ほかのものは、すべてその存在していることが不思議でならなく思われる。
 と、私の目の前にぬっと馬が顔を出したので、はっとして今まで思っていたことが消えてしまった。
 どこからか、荷を背負った馬が一匹、この馬車について来ていたのだった。

 空がしだいに暗くなった。日が暮れて行く頃のように、四辺あたりしんとしている。馬車がいま絶壁の上を行くのだ。
 そのうちにちらちらと雪が降って来た。
「雪か!」といま迄、疲れたかしてものを言う人もなかった車の中で誰かが言った。
 雪がしだいに降りしきって来た。私達が急いで垂幕を下した狭い車の中が俄かに呼吸がつまるようだ。
「これじゃ、盛岡からの役者も明日はどうかな。」と老人の顔を見て、商人体の男が言った。
 私は折ふし、垂幕を上げて見た。あとからくる荷馬の顔に雪がしとしとと降りかかって、冷たそうに濡れていた。
 車の中では老人と商人体の男とのあいだにこんどくる歌舞伎芝居の噂がはじまった。盛岡での人気や、役者の技量などについてしきりと話し合っていたが、しまいに老人が「遠野のものは一体に芝居好きだもの……」と言った。この言葉が私には妙に心に止った。芝居好きな町……。
 雪がまた止んだ。私は急いで垂幕を上げた。冷たい風がすっとはいってくる。行手をすかして見ると、道が山のむこうへ廻っていて、前の馬車が見えなかった。
 私達の馬車も、その道を上り切ると、駆け出した。私は舌をあらしているのにこりもせず、煙草を取り出して火をつけた。そして路のきを見ると路に沿って山吹や木苺が叢生していた。月見草の種がはじけたまま枯れた莖もその中に絶えることもなく続いていた。

 道が渓流を離れたと思うと、小さい村をいくつか通った。チラチラと村の人に逢う。男も女も頭巾をかぶって、股引のようなものを穿いていた。
 珍らしそうに、その顔を見ながら行った。私はその中のどの顔も、いま私が訪ねて行く友人に似ているところがあると思われた。まるい輪廓のぼっとした、目と鼻の小さい、赭黒あかぐろい顔。それを見てこの人達も私の友人のような封じられているような声でものを言うのだろうと思った。
 馬車を継ぎ代える、宮守と言う村に着こうとする時には、雪がまた前よりもひどく降り出した。
 宮守も土沢に似た町並をしていた。馬車が着くと雪の降る中に、村の人が幾人も立って迎えていた。ここで私達はいままでの馬車を降りて、遠野から来ている馬車に乗り継ぐのである。着いたのはかれこれ三時半過ぎていた。
 馬車は或る家の戸口で止った。車の中でからだを堅くして、身に沁むような寒さを忍んでいた人達は急いで降りて家の中にはいった。入り口に火がある、それをすぐ取りかこんだ。
 前の馬車の連中は上った、すぐ次の間でもう炬燵にはいっていた。私達がはいってくるのを見ると、例の赭顔あからがおの紋付がにやにや笑いかけた。
 私達は二階に通された。おなじ馬車に乗って来たのだと言うためか、私達の四人は一つ室で食事をした。
 私はからだが非常に疲れているので、食事にはただ卵をと注文した。すると、ほかの三人は不思議そうな顔をして私を見た。
 ここはもう花巻から七里ばかり離れている。この半日以上同じ馬車に乗っていて、私は誰ともろくに話さなかった。二ことこと老人にものを聞いただけであった。どの人の顔も他人らしい表情をして私を見た。

     三

 雪の盛んに降る中に宮守みやもりを発った。これから遠野まで五里半ある。
 一緒に食事をしたので幾分か心が解け合ったのか、さあ出発と言う時には、互いに賑かに誘いあった。そとはもうすっかりと黄昏たそがれたようになっていた。私は馬車に乗って座を占めながら、寒さのほかに、広野の中で行き暮らしたような心細さが、ひしひしと心を襲った。ここからは私達の車の方に遠野の中学の生徒だと言う学生服を着た青年が一人乗った。
 こんどは私達の馬車が先きに立った。雪はしとしと降ってくる。宮守をはずれたところでそっと垂幕たれまくを上げて見ると、目に見える限りがぼっと白く、重い幕を垂れたようになっている。私は深く呼吸をして、遠野! 遠野もやはり薄黒い、板造りの尖った屋根がならんだ、陰鬱な町だろうか……と思った。東京にいては私はこの寒い国がこれほど、親しみにくいとは思ってはいなかった。
 雪の中を発って町端れまでのろりのろりくると、私の方の馭者は、何かくどくど言っていたが、やけのようにピシリ、ピシリと馬を打った。それを見ると、
由爺よしおじ、どうした?」と、中から例の老人が声をかけた。
「どうしたんでもねい。おれの車に五人も乗れるか。荷物もあとのより倍ある。」と、このキッカケに調子がついたと見えて、急に馬車を止めて怒鳴り出した。
 老人はしきりとなだめていたが、由爺はたけてて誰の言うことも聞かない。あとの方の馭者も、雪の中だから次の宿まで行けと言ったけれど、
「フン次の宿まで、……鱒沢までか。」と言って馬車を立てたまま動こうともせぬ。それで、こんども最後に乗った、毛糸の襟巻をした男が降りて、後の馬車に乗り換えた。

 馬車は小山の腹を一廻りまわった。道がまた緩い上りになっている。山の峡を登ってうねる道を二台の車がつづいて行く。私はまた、うしろの口の窓に肱をかけて、垂幕の下から雪の中に暮れて行く山を見ていた。積っている上にも雪が積って行く。
 後の馬車の白馬が全身を濡らして、白い息を吹きながら歩いてくる。馬という奴は大きいがどこか可愛い獣だ。と思っていると、この馬車と、白馬との間にぬっとその由爺が身を入れた。
 肩幅の広いのに兵卒の着る外套を着て、腹のところを皮帯でしめている。頭巾で頭から頤をつつんで、その間から、黒い荒い鬚がムシャムシャ生えた頬を見せている。手には長い枝を折って鞭にしたのを持ち、足には藁靴(ツマゴ)を穿いて、雪の上をのしのしと歩いてくる。熊のような男だが、ギロッとした目に言われぬ愛敬がある。そして東京では豆腐屋の持っているような貝の形をしたブリキのラッパに緒をつけて、肩からさげていた。歩きながら幾度となく、
「ホーッ!」と言って、腹から出たような大きな声をして、肩の上から覗き込もうとする、白馬の顔をはらった。

 疲れと、寒さと、……迫まってくる黄昏の色との中に馬車の中ではものを言う人もない。私はただ雪でぼっと白らんでいながら、大きい山も、深い渓も一様にじっと暗の中に沈んで行く眼前の景色を驚ろいて見ていた。自然がつく緩い深い吐息を聞いた。この奥に不思議な世界が静かに千年の昔から横わっているようで。……すると、後の馬車で垂幕を上げた。ほの白い中に見えるのは例の赤い面の男と、それに対い合ってのぼせたような娘の顔とだった。と同時に、その中から二三人が声を合わせて笑った。男も女もはしゃぐ絶頂にのぼっているような顔をしていた。男は例のように対手なしににたにたしていた。
 寒さが身に沁みてくる。私は幕をおろして、肱でからだを支えて、煙草をくわえたが、目をつぶっていると何とも知れぬ深い暗い底に堕ちて行くようだ。
 道はまだのぼりだと見える。私はいくどもからだを動かしては、そっと恐ろしいものを覗うようにしてそとの景色を見た。そしてじっと心が一つに集るようになってくると、折々、後の馬車でドッと笑う声が聞こえる。女がうわずった、少し熱でも病んでいるような声をして笑う。私は苦笑した。と、馬車は俄かに駆け出した。薄暗くなって行く中を嵐と雪との中にまじって狂うように駆けて行く。由爺は馭者台の上に腰をかけて、ラッパを吹いた。長い息で、いつまでも吹く。……その響きがこの人気のない山の中に響きわたる。それで馬も人も勇んでいる。
 ぼっとりと闇になってしまった。車の中では互いに顔が見えなくなるのをわびしく思った。で、そろそろ話をはじめた。
「一体、遠野に何しにおいでです?」と老人が今朝からの疑問を、はじめて私に聞いた。
「ええ? 友人がいますのでね。遊びに来ました。」私は軽くこう言って笑った。
「遊びに?」老人は信じないらしい口振りでつぶやいた。
「大変おもしろい話のある土地だと聞いていましたので。」と言うと、
「ハア、遠野が?」不思議そうにしているので、私は単純に遊びに来たとだけ言っても、腑に落ちまいと思って遠野に古跡があるそうだがと聞いた。と、こういうところに折々そういう人がくると見えて、私をこの地方の歴史の研究者だと思ったらしく、その方の土地の人を三四人紹介してくれた。それから話のいとぐちがついて、商人体の男も暗の中でいろいろの話をはじめた。私は幾度もマッチをすって時間を見た。遠野へ着くのは早くも十時過ぎだろう。私は心ひそかに夜更けてからの寒さを恐れた。
 由爺のラッパはますます調子よく響く。と、そとに燈火が見えて、馬車が十五六軒ならんだ家の間を通った。
上鱒沢かみますざわ」と、商人体の男が言った。
 また一しきり走ると、やがて馬車がとまった。
「休むのかね?」と中から聞くと、「ちょっと一休みしてから。」と雪に吹きつけられたような声で由爺が答えて馭者台を降りてしまった。私もそとに出た。
 馬車の響きが止ると、四辺あたりがしんとなる。どこかで遠く水の流れる音がする。雪の中に立って四辺を見ると、私達はいつか広い野に出ていた。迫っていた山が離れて、黒い巨大な影が雪の中に屏風のように聳えている。その裾野のところどころから火が見える。雪の中に火がぽっと赤く隈どっている。
 私は深く胸の奥で呼吸をした。
「ああ、神話がいま現実に生きているような国」と或る人が、遠野の話を聞きながら言った言葉を思い出した。
 後の馬車では誰れも降りなかった。雪の降る中に、笑い声もしない。また馬車に乗った。遠野まではあと一里半だ。道は平らな広い暗い野の中についているらしい。
 垂幕が風にあおられるあいだからは、あとの馭者台についている小さなランプの火に照らされて、雪が狂って降ってくるのが見えるだけ、その路を一時間ばかりも駆けたと思うと、馬車が止った。
 後の方で、不意に、
「さよなら!…御機嫌よう。」と娘が叫んだ。誰れか降りる様子である。
 娘の声は押し止めていた声を一時に立てたようだった。そしてあとはまた何かくすぐられるようにはしゃいだ、笑い声が聞こえた。色を売る女のような笑い声だった。
 すると、私達の車の下に黒いものが、つっと表われて、襟巻をした男の声で、
「そんだら、誰方どなたも。」と言う。
「はあ、これはお休みヤンせ。」と、中から声を揃えて言った。と、その男は暗の中に消え去った。

 寒さで足の指先きが、痛くなって来た。不意と暗の中で、耳近く瀬の音が聞こえた。ちらと橋の欄干が見えた。やがて並木らしい、松の幹が見えたり消えたりすると、町にはいった。馬車はさらに勢い込んで駆けた。折々、家の灯で馬車の中がぼっと見える。由爺は最後に息のつづく限りラッパを吹いた。
 馬車が旅宿やどやの前に止った。私は馬車の中で挨拶をして、手提を持って降りた。家にはいろうとすると、後の馬車からも、男も娘達も降りて来た。
 上り口で、私はまたその紋付の男と顔を見合わせた。その男は相変らず笑いかけた。私の顔を見ると、宿の主人が、
「失礼ですが、あなた松井さんでは?」と聞く。そうだと答えると、「昨晩、野口さんがおいでになりまして、お手紙が置いてございます。」と、言って一通の手紙を出した。それを受取ると言って立っている私を、紋付の男が笑いながら二階に上った。
 私も二階に案内された。
 私はいよいよ遠野に着いたのだ。
 野口君の手紙に、野口君はちょっと用事ができて一晩泊りで村の方へ行くとしてあった。私は次の日一日は、この旅宿やどやの二階にひとりでぼつねんとしていねばならぬ。

     四

 朝起きると、私は町に出て見た。広い町すじは、軒が長く出て家が暗く見える。私はあてもなくその通りを歩いて行った。すると家々から、店を整頓させながら、町の人が不思議そうな顔をして私を見ている。水にまじった油の一滴のように私は見られているのを感じた。
 帰ってくるところに、きのうの紋付の羽織が今日は紺の背広を着て、ぼやけた四十男と二人で町を通った。

 昼少し過ぎたころ、私はひとりで唖のような顔をして室の中に坐っていた。あまりの無聊なために私は心がどろっとなってしまった。
 ところへ、隣の室にドヤドヤと人がはいって来た。疲れたらしい調子で、
「ヤレ、ヤレ」と大きく言って、一人がドタリと坐った。それに続いて下女がはいって[#「はいって」は底本では「はいつて」]行くと、
「姉さん、何よりまあめしを喰わせて下さい。また早速出かけるのだから。」と高調子に言った。何か汗ばんだ[#「汗ばんだ」は底本では「汗ばんた」]顔をしてでもいるように思われる。
「それで……」と、ちょっとひっそりしたと思うと、またそのせわしそうな声が聞こえる。
「君、まず愛国婦人会の名簿は見たから、午後は一つ有力家の家を訪問するんだ。ね、役場に行って町長さんにお目にかかりとうございますとやったのはよかったろう。」
「うむ、僕も大いに感心した。それで午後はどこに行こう?」と、ぼやけた声がする。
「一つ愛国婦人会の幹部の家に行こう。そして、ぜひあなた方の御盡力で一つ、……とやるんだね。」
 二人は食事しながら話しているらしい。私は何をしに来た人達かと思った。
 下女がはいって来たから聞くと、盛岡の孤児院の人で、こんど遠野で慈善音楽会をするのだと言った。
 慈善音楽会か。私は昨夜の馬車から見た雪に埋もれた山野を思い出して、慈善音楽会があると聞いた時には、深山で波の音を聞くように思った。
 それで、いつから来ている人かと聞くと、昨夜私と一緒に来た人だと言った。ではあの紋付か?

 やがて二人はまた出て行った。私はその足音を聞きながら、紋付がこの町の婦人達の前でする饒舌を想像した。
 日の暮れ方に野口君が来た。二人で顔を見合わせると野口君は私の着く時日の違った不平を言った。私は来て見ると思ったよりも田舎だと言った。
 そのうちに隣りでも帰って来たらしい。いつか話がはじまっている。折ふし、
「もう占めたものだ。明日愛国婦人会の幹部が集まりさえすればそれからはいくらでも話が進む。」とか、「郡長の夫人おくさんはあれでなかなか分ってるぞ。」とか、「君は明日役場に行って、も一度愛国婦人会の名簿を借りて名をうつしたまえ。」など言うのが聞こえた。
 高調子の男の語調はかつて伊勢から来ていた友人とそっくりだ。
 私はその夜、野口君から野口君の友人達が集まって私と話そうと計画しているということを聞いた。

     五

 次の朝、私がまだ寝ているうちから、野口君が来た。二人はしきりと別れたのちの話をしながら、町を歩いた。
 私のする話……われわれの友人達の消息や、或るとき、互いに出逢って話し合った話などを話していると、野口君は熱心に聞いていながら、どこか妙にそわついた調子を見せ出した。やがて、
「ね君、ね。僕こんなところに来ていると心寂しくって、……気が苛立ってたまらない。Hはそんなに勉強してるかね。」とぎ込んでいる。
「勉強しているよ。この秋までには必ず例の論文を書くと言っている。」
「いつかの『海運史』かい?」これを聞くと私は野口君の顔を振り返えって、大きく笑って、
「どうしたんだい。オイ。」と言った。
 それで野口君もはっとしたと見えて、夢でも覚めたように声を出して笑った。私は、
「何だ、君のは熱の病人見たいな笑い声じゃないか。」と言うと、
「ああ、つい釣り込まれちゃった。東京に行きたい。ねえ!」と言って私の肩を打った。
「行こうよ。」私は調子よく言ってしまった。野口君はしばらく沈んでいたが、
「東京は夜でも明るいやね。それにあの華々しい女の声が聞きたい。」と言って、冗談じょうだんらしく笑った。
こうして話しているうちに、私達はいつか町はずれの松並木の前に出ていた。

 夕方、私は一人でぽつねんと食事をしていると、隣りの人達が帰って来た。「ああ、弱ったね。今日は!」と室に入るとまず重荷をおろしたと言った調子で一人が言った。例の紋付だ。
「いや、実に君の手腕には敬服した。実に君は外交家だ。」と一人が感嘆した。
「なに、ああやらねばいけないんだ。女の集まったところでは、一方ではああやって煽動おだてて置いてね、承知してもしなくっても、話をずんずん進めて行かないと、ことはまとまらないからね。‥‥だけれど君、うまく行った。郡長の夫人はさすがよく分ってる。そりゃ経験のある人の言うようにしなければって、さすがだね、あれは分ってるよ。」
 一人の方はただうなずいている様子だ。
「ああ良く行ったね。これも全く君、郡長の夫人の盡力だよ。それでね、君は明日はね、昨日うつして置いた名簿を持って行って、会員のところを訪問するんだ。するとね、君、大抵の家では主人が留守だからと言ってことわるからね。行くと、誰か出てくるね、その時にすぐ郡長の夫人から参りましたがと、やってしまうんだ。そうすれば誰でも郡長の夫人だからすぐ逢うからね。その時にこれこれだと言い出すんだ。すればきっと一枚や二枚はいやだと言えないじゃないか。」
「成程!」と、一人が深く感じたように小声で言った。
「女ってものは君、名誉心が強いね。今日で見たまえ。あの若い細君が、小学校の先生が発起人に名を出すなら、私のも出せと言ったじゃないか。あれだからこんどでも、すぐまとまったのだ。」
「それで」と急に言葉を改めて、「明日は切符を印刷しなければ、白と青と、赤と、……君、ここでは(と声を低くした)まだ音楽会などをしたことはないと見えるね。入場券を五十銭、二十銭と言ったら皆で反対したではないか。十五銭、十銭、五銭にするなんて……」
 その時に膳を運んで来たと見えて、話は止んだ。私は例の紋付のあかつらを思い浮べた。

 夜、私は室で野口君や、その友人のくるのを待って[#「待って」は底本では「持って」]いた。
 食事がすむと、隣りではまた話がはじまった。のびのびした調子で互いに生国や、若い時分の――二人とも四十三とか五と言っていた。――ことを話し出した。一人の男は信州で生まれて東京で育ったといっていた。
「僕も長く東京にいた。」と伊勢の男は自慢らしく言った。
 そのうちに、私の室には三人の客が来た。みな野口君や私と同年ぐらいの人だ。で急に賑やかになった。

     六

 つぎの朝も、私が起きた時には隣りではもう出ていていなかった。
 昼の食事を運んで来た時に、下女がしきりと孤児院の慈善音楽会が町で大評判になっていることを話した。演奏者は町の人達で、それぞれ隠し芸を見せると言った[#「言った」は底本では「言つた」]
 午後、私は野口君の誘いにくるのを待って、じっとしていると、町を芝居の寄太鼓よせだいこをたたいて通った。芝居も今夜からはじまるのだ。

 夜は雪が降り出した。その中を私達は四五人連れでその芝居を見に行った。更けてから帰ってくると、見る間にすっかり雪が積っていた。静かに、ああこの町は眠り切っている。静かな中に何物か大きな足で、町の上を歩いて行くのであるようだ。私は歩きながら、野口君に、
「雪国だね。」と言った。
「まだ今日は風がないから。」と野口君は答えた。
 宿に帰って、私は寝ようとして、寂然しんとした心持ちになると、隣室の人達が計画している音楽会が、この今夜のように静かに眠っている町に、何か新らしい波紋を起こそうとしているように思われる。
 で、心に隣室の人の顔を思い浮べて、しみじみとこう思った。文明の悪い波のはしが、押し寄せて来ようとしているのだ。こんなところの女までがおだてられて、仕事の真似をするのか……と。

     七

 つぎの夜、私の室にまた三人の青年が集まった。その中の一人がこんな話をした。
「今日昼になす、裏町では(遊廓のある町)大騒動だった。昨夜の役者が一同で大浮かれさ。」
 それで、私は、
「ほう、なるほど、夜は行かれないから昼間行くんですね。」と言ったが、旅から旅に渡って歩く淫蕩な男と、みさおと言うことを壊されてしまった女とが、相抱いて別れる時にも、捨てたものとも、拾ったものとも思わないように両方で平然としているその顔が見たいような気がした。それを話すと、それから、恋に対する話がさかんに起こった。
 そのうちに夜も更けた。四人とも話に倦んだ顔をしていると俄かに家が揺れ出した。
「地震!」と一人は腰を立てかけた。
「まあ、静かにしたまえ。」と私は坐ったままでその人を制したが、しだいに強く揺れる。するとMと言う人は立って釣るしてあるランプを押えた。野口君は入口の唐紙を開けた。
 そして、四人はじっと顔を見合わせていると、ぐっすり寝ている隣室で、
「おい、おい。」と寝惚ねぼけた声をして、一人を起こし出した。
「地震だ、地震だ。」と早口に言うと、[#「言うと、」は底本では「言うと。」]俄かに二人とも起き上って、カタカタ言わせ出した。そして、見ていると、両手に一杯荷物を提げながら、寒そうに身をかがめてしょぼしょぼと、私の室の前を通って行った。
 その時は、地震はすでにおさまっていた。
 私達は四人で、何と言うことはなしに、その姿を見て手をって笑った。
(四十二年四月作)





底本:「遠野へ」葉舟会
   1987(昭和62)年4月25日発行
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2004年2月19日作成
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