言文一致

水野葉舟




死語となつた「言文一致」


「言文一致」といふ言葉は、今では既に推移し去つた過去のものになつてしまつてゐる。死語になつた感がある。その役目をすまし、次ぎの段階に移り進んで死んで脱殻になつてしまつたのである。
 私は時折、日本の文章が、この半世紀の間に急流の勢ひで変遷して、今日の姿になつて来た跡が思ひ出される。言葉の生死もそれにつれて激しかつた。これはもとより止る処なき進歩の跡だ。固い殻、型にはめられてゐた境から、その古い殻を割つて、どこまでも心の動きを言葉に移して表さうとする意慾の激流が、この変遷を作り、今日が到来したのである。これに口火をつけた或る人々はあつたとしても、実は吾が民族の精神の活躍、心の煥発の実に若々しい力が求めて進んだ結果であると、思はざるを得ない。
「言文一致」の着手実行は、際立つた文体変遷の初ではあるが、流れのはじまりではない。これは明治文学史家の各々が何れも詳しく説明してゐる事実で、改めて言はなくつてもいい事と思ふが、簡単に私なりの考へも述べて見たい。
 文章に対する国字或ひは表現の問題は、既に明治の初めから、いろいろの学者に依つて称へられ始めてゐた。これは決して欧米文化の模倣からではなく、新文化の移入に従つて、従来破る可からざる殻のやうに思はれてゐた表現形式に対する自覚が生じたのに因るものと見られる。これは当然生るべき自覚ではあつたらうが、時を隔てた今日からそれを振り返つて見ると、如何にも慧敏な心の動きで、それ等の憂悶を心に抱いた先人に対し、尊敬を禁じ得ないものがある。しかし、その主張をいろいろの書で読んで見ると、それらの文章が悉く旧い表現の「漢文」読み下し体のものなので、それらの意見が一つの机上の理づめの主張か、感能不随の心から生じたものかといふ疑ひが生ずる。さう考へたと言ふばかりで、それを現前する表現に移し得なかつたのが全く、思慮と行動とに有機的の働きがなかつたあとを見せてゐる。感能不随と見えるのはこの点である。
 かういふ不思議なほどの矛盾には、明治の御代を越えて大正年代になつてからでさへ、私も面をつきあはせた覚えがある。それはローマ字を国字に採用する陳情書の趣旨が出来てゐて、それの末席に署名をするといふ場合であつた。ローマ字を国字にしようといふ位の意気ごみを書くのに、極めて生硬な漢文体の古い表現で文章が書いて有つた。その文章をローマ字書きにしたらば、何人もその意味を了解するやうには読めなかつたらう。それに対して会の主脳の人達は皆署名してゐられたので、私は深く考へさせられた事がある。それはもう日本の文章がはるかに複雑になり自由に表現出来る大正の年代だつたのであつた。
 この時には、私はつくづくそれに連つて署名する事が躊躇された。この意見書はどう考へて見てもローマ字で日本の言葉を書かうといふ心になり切つてゐる人の書いたものではなく、全く実行とは干はりのない空言に思はれたからであつた。かういふ自分の覚えから思ひ合せて見ると、明治の初めの頃の国字論、新文体論などの主張者の心持と実行との間の矛盾に就いての心理が、幾分かはつきりと考へられるやうだ。必要を感じてはゐる、しかし自分は習慣のままでやつてゐるといふ事で尽きてゐる。万事が新しい初めの黎明期であらうがどうであらうが、一つの主張が実行に移されないままで公けにされるといふ事は、自ら所論を裏切つたもので、不完全でも実際に行ひつゝ主張されるのでなければ、夢を談るのと同じ事になるのではないだらうか。
 これが実行に移されたのは物集高見の「言文一致」がまづ初めらしい。それは明治十九年に公けにされたものでたどたどしいながら口語体の文章で書かれてゐる。処でこれらの考照、取り調べは史家に譲るべきだ。しかしこれら先覚の考慮の跡を見る時に、私どもは切実な感銘をもつてその時代の「心の悩み」に触れるのである。何か一面に汪洋として新しい眼界が展け、そこからの未知の新しい流れが流れこみ、心がそれに向つて激しい鼓動をして――さぞ黎明の初々しい勇ましさが有つた事であらう――ゐる時に、自分たちの表現は古い殻の中に閉ざされて、唖のやうな口しか持つてゐない――この矛盾から来る苦悩が時を隔てた今日でも明かに感じられるのである。そしてこの苦悩の生じる心は、全く慧敏で、尊敬すべき飢ゑであつた。しかもこれは単なる文章表現の一つだけの事でなく、その後半世紀の間に日本が内部で伸び育ち、肥え太つた万般の事の上に働いた知性の表れの一面でもあるのをよく教へられる。

言文一致の実現は小説からはじまる


 それで、私がいつも面白い事だと思つてゐたのは、その言文一致の文章が実際の用としては小説から始められたといふ事である。もつと短かい実用の文章の方に早くこの実行が現れなかつたのは、「型」が半ばは記号の性質を持つてゐて、人々の心に通じるものが有り、それの不自由さ、不自然さ、不完全さに対する覚醒が起らなかつた故であらう。実際に明治二十年代の頃に、まだ少年であつた私達が、昔から伝へられた型の通りの文章で手紙を書き、それを少しも不思議の事に感ぜずにゐた心持を思ひ合せて見ても、それから、当時の成人たちが、相応に複雑な用事を書き、心持ちを述べた達意の手紙を読んで、その文章が全く口語性から離れてゐたのを見ても、言はんとする事の表現に対して形式の点での約束、即ち伝統から来た「ものの言ひ方」が有り、それを決して変へようと思はなかつた心持がそのまゝ残されてゐたのである。
 その古い文体に対しての変更を必要と感じなかつたといふ消極的の考へではなかつたので、これには信仰のやうに固い伝統を守る心持が働いてゐて、後に「言文一致」の流れが、随分それに対して苦しい闘を永年に渉つてして来たのを思ひ浮べる。「二葉亭研究」第六号(昭和十三年四月十六日)に載せられた前田晁氏の「二葉亭主人の事」の終りの処をここに引用すると、

「翌年(明治四十二年)五月十三日、印度のベンガル湾で不帰の客となられたといふ飛報がわたしたちを驚かしてから二十数日の後、染井の斎場で告別式が営まれた時に、その霊前で島村抱月氏が初めて言文一致の弔文を読まれたことをも序でに記録しておきたいと思ふ。
 言文一致の創始者に言文一致の弔文はふさはしいといふだけの意味でではない。すでに全く口語文の世の中になつた今日ではちよつと想像がつかないかも知れないが、当時、言文一致は小説以外の一般の文章界にも次第にさかんになりつゝあつたにもかかはらず、一部にはなほ言文一致は卑俗であつて、到底荘重謹厳を要する儀式文には適用するにたへないと非難してゐた者もあつたのである。ところが、島村さんの弔文はどこまでも荘重であつて、いささかも儀礼を失はずに、しかもよく情意をつくしてゐた。島村さんは実に事実をもつて難ずる者の蒙を啓いたのである。そしてこれが口語体の弔辞の嚆矢でもあつた。」

 前田氏のこの話を読んでゐると、当時、将に消えようとする燈火のやうな状態でありながら言文一致を不当な文章表現の形として反対してゐた人達のあつた状態を思ひ浮べて来られる。私達若い者はそれが一方に横たはつてゐる積乱雲を見るやうな気持がしてゐた。今になつて見ると、それは古い習慣の伝統を信じ切つてゐる人達の心持で、新しく進歩した表現の進路にそつて横たはつてゐながら、時とともにおのづから消え去つた昔の「習慣・心持」だつたのである。
 それにしても、この口語に基準を置いて文章を書かうとする新しい実行が小説から始まつたのは、実に自然の流れであつたのも今になつて私にはよくうなづける気がする。
 文章と現在使つてゐる口語とを二つの別ものにするのは間違つてゐる事だといふ意見を持つた人、その議論を公けにした人は、明治の文学史を読んで見るとずつと前から有る。それにもかゝはらず、実際に言文一致の文章を書くのは、なかなかさう議論どほりに容易な仕事ではなかつた――これが恐らく初めの頃の状態であつたらう。前にも述べたが、この主張をした人が、自分では古い形式の文章を書き、平気でその文体で新文体の必要を説いてゐるのを見ると、全く矛盾至極の事であるが、よく考へて見ると、その明治の初めの言文一致主張者が、自分でその文体を試みて見なかつたと言ふわけでもないかも知れない。各々、その人その人の考へで試みて見たかも知れない。もしこの想像の通りであつたとしたら、試みた人々が誰も皆、試みに失敗したといふ事が、ひとしくその人々の帰着する処であつたのだらう。
 議論の正しい事は信じてゐるが、やつて見ると巧く行かなかつた。それでやつぱり被り馴れた古帽子をかぶつて、新しい考へだけを説いたといふ事ではなからうか。私は物集高見の口語体の文章を読んで、一層この想像を明かに描くのであつた。私自身の経験から推察してだが、嘗つて一切をローマ字書きにしたいと思つて、それの実行に熱中した時、相当の熟練はしたし、大体どんなものも書ける自信は持つたが、どうしても世間一般からはづれて、或る範囲だけにしか通用しないといふ不自由さから、やはり漢字かな交りの文章を主として書く方に逆もどりをしてしまつた。この経験も極く初期の言文一致論者との間に幾分か相通じたものが有ると思はれる。
 それは一面で、一方には物集高見の文章を読んでも感じられる事だが、口語体の文章を書くといふ事と、口語をそのまま文字に移すといふ事との間に、一つ重要な差別のある事が、まだ実験ずみになつてゐなかつた時代なので、自分の意見に従つて文章を書いて見ると、無駄が多く、だら/\と長く、まどろつこしく、いかにも「文章になつてゐない」――つまり読んで見て、心持がすつきりと通らないのを自分でもよく感じる、といふ自家撞着に堕ちたといふ点も考へられる。そこで自分でもあきれてしまひ、手がつけられなかつた苦しい経験を、その人達は味はつて居はしなかつたらうか。かういふ想像は決して架空ではないと信じられる。そこで初めて、二葉亭や美妙斎が、「だ」「です」で文章を切るのを各々定めたといふ事が、重要な苦心の表れであつたとうなづけるのである。
 主張はありながら、誰も手をつけにくかつた言文一致の文体が、小説の製作に限つて、すらすら書けたといふ事はちよつと奇異の感がする。その作者が偉かつたので、その以前の主張者はたゞ思ひついただけで論議したといふ事になるかも知れない。つまり主張、論議が先に立つ、それをする人が自分では手をつけないで、実行をする人を待つてゐるといふ点も有つたらう。それが一二の先覚者であつた小説家の手で実際に着手された。かういふ順序になるかも知れない。しかしかういふ考へ方があるとしたらば、それはもつと考へて見なければならないやうである。
 私は大胆にかう考へてもいゝと思つてゐる。小説の文体が「言文一致」になつてゐるのは既に三馬一九の時代からだと。「膝栗毛」でも「浮世風呂」「浮世床」でも、あれは口語と文章とを極めてよく調節して書かれた言文一致の文体であつた。もつと前に遡つてもいゝのかも知れない、兎に角徳川後期の小説の文体が、当時物語草子は砕いて話すと言つてゐたその事が言文一致だつたのだと私には受取られる。小説の文章には既にさういふ訓練も伝統もが古くからある。勿論それは必要が教へてさうさせたのだ。
 たとへさういふ穿鑿をしないとしても、坪内先生の「書生気質」は、古い伝統を受けついだ文章ではあるが、それが明かに口語を土台にして自由に書いた作品であつた。現在文学史家が一つの「劃期の仕事」として称へてゐる言文一致創始者は、小説を書くのに、これらの素地から生れ出ても一歩文語体の習慣を捨てた、それが言文一致の創始者の事業だと思つてもいいやうだ。かういふ素地が有つたから小説の製作に、言文一致の体が明かな調節のあるものとして現れたので、初めの主張者達が「思へども為し能はざりし」事が、立派な一つ形となりそして更らに幾階段もの鍛錬と変遷とを重ねて行くやうに生育し始めたのである。前に引用した前田晁氏の言に、後年明治の時代が終らうとする頃までも、世間が小説の文章には言文一致は適してゐるがといふ風に見てゐた理由、その観念の本性は実は、曖昧なものだつたが、言文一致を卑俗だと見てゐた理由が改めて考へられる。

言文一致の創始者


 ところで、その「言文一致」の創始に就いて、山田美妙斎と二葉亭四迷と、この両氏のどちらが早いとかおそいとか一寸本家争ひのやうな事が、それとなしに主張されてゐるが、それは余り重要な事ではない。それよりも私は両氏が各その親炙したヨーロッパ文学の影響が、その表現に就いても働かざるを得なかつた結果だと思つて、その点に深い興味を感じてゐる。元来、文学の芸術に身を委ねるものにとつて、表現のくふうといふ事は、一つの肉体上の要求と見て然るべきものであらう。どうも文章を書くのに自分に対して満足するやうなものの言ひ方を――つまり表現をしなければ治らないといふのが、誰しもの本能からの要求であるべき筈である。これが無い作家もあらうがそれは論外で、誰のでも文章の「癖」と見られるものが――全体から見ての癖である――その人のものの言ひ方である。
 美妙斎の方から考へて見る事にするが、美妙斎はイギリス文学に親しんだらしい。習得したヨーロッパの言葉がイギリスのだつた関係から、その小説を多く読んだものと見える。そしてそれらの物語ぶりがちやうど心にはまつたものと見える。同じ仲間で(親しかつたかどうかは解らないが)あつた尾崎紅葉もやはり同じやうに、多分同じやうな範囲の読書(外国文学に就いて)をしてゐたのであらうが、趣く処がまるで違つてゐるのは、両氏の性情の違ひに基づいたものであらう。尾崎紅葉が言文一致の創始者の「群の一人」でなかつたといふ事を考へて見ると、実に面白い。紅葉の方が我が強くしつかりしてゐた点もあるし、伝統の表現をさらにずつと自由に豊富にする才能もあつた。も一つは美妙斎のやうな抒情詩家風の空想家よりずつと実際家だつたやうに思はれる。必ずしも文才が勝れてゐたなどと言ふ位の簡単なわけではなしに、どうして言文一致などといふやうに新表現に手をつける気などの起る人ではなかつたやうである。
 本間久雄氏の「明治文学史」を読んで見ると、なるほど美妙斎は慧敏な青年であつた。本間氏は美妙研究者らしいが、同時に少し度をすごした賛嘆者でもある。それで思ひ合されるのは内田魯庵の美妙斎観察記で、この方を読んで見ると靴を隔てて痒きを掻く感がなく、且つ同年輩の青年期の初めに受けた印象をずば/\書かれてゐるので鮮かにその人と時代とを会得出来る。私には魯庵が
「丁度此の欧化主義(鹿鳴館時代)の最絶頂に達して、一も西洋、二も西洋と、上下有頂天となつて西欧文化を高調した時、此潮流に棹さして極端に西洋臭い言文一致の文体を創めたのが忽ち人気を沸騰して、一躍文壇の大立者となつたのは山田美妙斎であつた。美妙斎は恰も欧化熱の人工孵卵器で孵化された早産児であつた。」(「明治の作家」――〔美妙斎美妙〕」)と言ひ切つたこの論断と、自分の古い記憶に残つてゐる美妙斎の作品の印象と、さらに本間氏の明治文学史に詳細な説明をしてゐられるのとを思ひ合せて見て、改めて美妙斎の新文体のよつて来る所以が明白になつた感がされる。
 まづ私は本間氏の文学史によつて初めて美妙斎の主張した言文一致論の大体を知る事が出来たのは有難い事であつた。勿論、その時代のとしてもその議論は極めて簡単であつたし、も少し精密に当時の他の言文一致論と対比したらば、必ずしもそれが独創と見られないもので有りさうに思はれた。たゞひどく目につくのは美妙斎の居丈高になつてすべてを否定してかゝつてゐる気焔である。本間氏はそれを抱負の大きい所以に帰してゐられるが、私には年少の客気の思ひ上つた姿はいいとしても、その抱負らしく見せてゐる高慢な点が如何にも変に感じられるのを止められない。
 特にそれを感じる所以は、その議論で他の文章を否定してゐる当人が、作者としての作品の表現――その人自身の文章が、極めて不自然なこしらへものである点である。その時代とか、作者の年齢とか、いろいろの条件をつけて見ても、不自然な、無理な、粗末な理づめのこしらへものである事は、翻つてその議論も必然の要求からでないと考へるより外に考へやうがあるまい。魯庵は美妙斎の文章のあくどさを罵倒してゐられるが、私にはあゝいふ風にものを言はずにゐられなかつたのは普通ではないと思はれる。
 私はヨーロッパの文学作品に対しての智識は貧しいが、私の知つてゐる中にあんな擬人法もあんな変な表現法も有るのを見た覚えはない。才華を誇つてと見る人が有るとしたら、私はそれにさへ反対したくなる。要するに新しいものを考へついたから、それに依り貧しく狭い心でいろいろの独りぎめの理由をつけてこしらへ上げた細工ものにすぎない。ただしかし、あの表現が作者自身に少くとも美しく見えたのだらうが、その自ら良いと思ひ、美しいと思つた心持が既に変だ。
 要するに美妙斎は細工屋にすぎなかつたと、私は判断してしまつた。同時に私ども年少の時、口語の文章を書き始めた頃には、たゞの文壇の人気とか、忘却された人とか言ふ表面の理由だけでなしに、美妙斎から流れ出した文体の痕跡は絶対に無かつたと思はれる。たとへ短い期間でも、或る間あれほど賛嘆された作家でありながら、そして久しく言文一致の創始者として言はれてゐながら、その人自身がたゞその変な口語体で小説を書いたといふ事実が残つてゐるだけで、そこから流れ出して後の口語体表現の土台をなしたものは、何にもなかつたのである。魯庵が「早産児」と言つてゐられるのは、生れはしたが育たなかつた月足らずの児といふ意味にとりたいと思はれるほどである。

二葉亭の言文一致


 二葉亭主人は、美妙斎の頻りと気負立つて議論したのと反対に一切沈黙の中から「浮雲」を書き、翻訳を公けにした。これらの二葉亭の書かれた作品はすべて「言文一致」で、恐らくその表現に苦心惨憺された事であつたらう。一方、世間では如何にも華かに見える風の「名文」或は「名作」らしい美妙斎のこてこての表現に比べて、あくまで地道な直ぐな態度で口語に依る新しい日本の文章を書かうと努めた二葉亭の表現は明かに後年の口語体の文章の源流になつたと言つていい。
 二葉亭主人のは次ぎにあげる「余が言文一致の由来」といふ談話で自ら言つてゐるやうに、新文体を創始しようといふ野心に依つたのでもなく、一面に翻訳をするに就いて原作を味ひ得たすべてを――忠実な翻訳といふやうに曖昧な考へ方はいけない――日本の文章に移したいといふ要求と一緒に、自分の製作も出来るだけその内に動くものを粉飾なしに、直接に表現しようといふ、必然の要求に依つて生れて来た文章と見るのが正しいやうに感じられる。美妙斎とは質を異にしてゐる。一方は粉飾を美と信じ、拙劣なこしらへものを巧みないゝ文章と信じたのに、これは直接な呼吸を文章に移して表さうとする要求を唯一の道として歩いた。そこで、時がたつに従つて、世間一般が文章の美しさを所謂美辞麗句の空虚な粉飾の中にない事をおのづから知るやうになるにつれて、二葉亭の苦しんで書いた表現が、それとなく了解されそのまゝ流れをつくるやうになつたと思はれる。これは日本の文学の為めに慶賀すべき事であつた。
 二葉亭の「余が言文一致の由来」は、いろいろの点で考へさせられるものが多いから、その全文を転写して、私の考へあはせる事を書いて置きたい。


   『余が言文一致の由来』――二葉亭談話

 言文一致に就いての意見、と、そんな大した研究はまだしてないから、寧ろ一つ懺悔話をしよう。それは自分が初めて言文一致を書いた由来――も凄じいが、つまり文章が書けないから始まつたといふ一伍一什いちぶしじふの顛末さ。
 もう何年ばかりになるか知らん、余程前の事だ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元来の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで坪内先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は円朝の落語を知つてゐよう、あの円朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。
 で、仰の儘にやつて見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京弁だ。即ち東京弁の作物が一つ出来た訳だ。早速、先生の許へ持つて行くと、篤と目を通して居られたが、忽ち礑と膝を打つて、これでいい、その儘でいい、生じつか直したりなんぞせぬ方がいい、とかう仰有る。
 自分は少し気味が悪かつたが、いいと云ふのを怒る訳にも行かず、と云ふものの、内心少しは嬉しくもあつたさ。それは兎に角、円朝ばりであるから無論言文一致体にはなつてゐるが、茲にまだ問題がある。それは「私が……で御座います」調子にしたものか、それとも「俺はいやだ」調で行つたものかと云ふ事だ。坪内先生は敬語のない方がいいといふお説である。自分は不服の点もないではなかつたが、直して貰はうとまで思つてゐる先生の仰有る事ではあり、先づ兎も角もと、敬語なしでやつて見た。これが自分の言文一致を書き始めたそもそもである。
 暫くすると、山田美妙君の言文一致が発表された。見ると「私は……です」の敬語調で、自分とは別派である。即ち自分は「だ」主義、山田君は「です」主義だ。あといて見ると、山田君は初め敬語なしの「だ」調を試みて見たが、どうもうまく行かぬと云ふので「です」調にさだめたといふ。自分は初め、「です」調でやらうかと思つて、遂に「だ」調にした。即ち行き方が全然反対であつたのだ。
 けれども、自分には元来文章の素養がないから、やゝもすれば俗になる。突拍子もねえことをやがる的になる。坪内先生はも少し上品にしなくちやいけぬといふ。徳富さんは(其頃国民之友に書いた事があつたから)文章にした方がよいと云ふけれども、自分は両先輩の説に不服であつたと云ふのは、自分の規則が、国民語の資格を得てゐない漢語は使はない、例へば、行儀作法といふ語は、もとは漢語であつたらうが、今は日本語だ、これはいい。併し挙止閑雅といふ語は、まだ日本語の洗礼を受けてゐないから、これはいけない。磊落といふ語も、さつぱりしたと云ふ意味ならば、日本語だが、石がころがつてゐると云ふ意味ならば日本語ではない。日本語にならぬ漢語は、すべて使はないといふのが自分の規則であつた。日本語でも、侍る的のものは已に一生涯の役目を終つたものであるから使はない。どこまでも今の言葉を使つて、自然の発達に任せ、やがて花咲き実の結ぶのを待つとする。支那文や和文を強ひてこね合せようとするのは無駄である。人間の私意でどうなるもんかといふ考へであつたから、さあ馬鹿な苦しみをやつた。
 成語、熟語、凡て取らない。僅に参考にしたものは、式亭三馬の作中にある所謂深川言葉といふ奴だ。「べらぼうめ、南瓜畑かぼちやばたけおつこちたたこぢやあるめえし、おつうひつからんだことを云ひなさんな」とか「井戸の釣瓶ぢやあるめえし、上げたり下げたりして貰ふめえぜえ」とか「紙幟のぼりの鍾馗といふもめツけへした中揚底なかあげぞこで折がわりい」とか、乃至は「腹は北山しぐれ」の「何で有馬の人形筆の」といつた類で、いかにも下品であるが、併しポエチカルだ。俗語の精神は茲に存するのだと信じたので、これだけは多少便たよりにしたが、外には何にもない。尤も西洋の文法を取りこまうといふ気はあつたのだが、それは言葉の使ひざまとは違ふ。
 当時、坪内先生は少し美文素を取りこめといはれたが、自分はそれが嫌ひであつた。否むしろ美文素のはいつて来るのを排斥しようとつとめたといつた方が適切かも知れぬ。そして自分は、有りれた言葉をエラボレートしようとかかつたのだが、併しこれはとうとう不成功に終つた。恐らく誰がやつても不成功に終るであらうと思ふ、仲々困難だからね。自分はかうして無駄骨を折つたものだが……
 思へばそれも或る時期以前のことだ。今かい、今はね、坪内先生の主義に降参して、和文にも漢文にも留学中だよ。


 この「余が言文一致の由来」は、改造社版「現代日本文学全集第十巻」「二葉亭四迷集」から抄録したもので、同集の年譜によると、この談話は――二葉亭のした談話の筆記で、明治三十九年五月の雑誌「文章世界」に載せられたものである。私の古い聞き覚えの記憶をたどるまでもなく、この談話の筆記者は当時「文章世界」の記者だつた前田晁氏である。その事も、そしてまた二葉亭自身でも前田氏が談話を筆記されるのが巧いのに信頼してゐたことも同氏の「明治大正の文学人」に収められた「二葉亭主人の事」に細かに書いてある。それでこの談話は前から信頼していいと思つて読んでゐた中の一篇である。
 第一に「何か一つ書いて見たいとは思つたが、元来の文章下手で皆目かいもく方角が解らぬ。」そこで坪内先生のとこに行つて談すと、円朝の落語あれをならへといつて教へられたといふ点、美妙斎が古今の文章を軽々と論じてゐるのより、この「途方にくれた」心持の深さを私はずつと痛切な同感をもつて聞く。恐らく二葉亭が心を打ちこんで深く読んだ文学の作品は、その表情と一緒に生きて心に響いてゐたに違ひない。それはやがてどうしても新しく心の姿、動きそのまゝの表現によらずにはゐられない必然の要求になつてゐた、心がそこまで到達してゐながら、まだ適当な形を備へてゐなかつた、それであつたと思はれる。文章下手と自分で称してゐるのは、当時の文学上の文章、或は雅文と称してゐたものが、大凡死んだ表現の型であり、一方の新文章らしい政治小説その他のものは雑駁で生命のないもの、それらの横溢してゐた中で考へて、さういふ文章を好まなかつたといふ心持であらう。全くそれらに興味がない、従つてその中に交つて上手に書けると思ふ気持は持ち得ないと思つた事は、これは時を隔て聞いても当然と思はれる。だからこの二葉亭の言条を一種の反語として受取るのは間違ひである。二葉亭ほどの立派な作品翻訳を残した人が、自分で「元来文章下手で」と言ふのは、その時代に対しての反語だと見るが間違つてゐると思ふのである。二葉亭ほどの芸術に対する良心が明かだつたから、真実さう感じたのだと思ふからで、同時にその言葉に対して、実に同感が湧くやうである。――その結果がかの言文一致の文章がおのづから生れて来たのである。(二葉亭自身は苦心惨憺した文章であらうが、必然にそこに到着したといふのは、おのづから生れた姿である。)
 次ぎに、坪内先生が円朝の落語を学べと言はれたと書いてあるのが、私には久しく忘れてゐた親しみの深い記憶の復活になつて来る。その指導が先生から出たといふ事も久しく忘れてゐたが、若い時分(明治三十四五年頃かに、)二三の友達の口から折よくそれを話された。その前に当の円朝の落語といふのを一二度聴いた事が有るのだが――私は学生の中には友達づれで寄席ばいりをした事は一度も無かつたが、時々父に連れられて行つた時に、運よく円朝のはなしに出くはしたのであつた。聴いた時にはたゞ面白かつたといふだけしか心に残つてゐなかつたが、後でこの先生から出た指針の言葉といつたらいゝか、それを聞くと、たしかに或る暗示があるのを感じた。
 今の言ひ方でいふと、その描写力だ。何れは落語の事であるから、さう複雑な情景ではないが、しかも平俗な日常の話しぶりの中で、それを聞いてゐる者の心に、はつきりした映像になつて情景が映り、人間が生きて活躍し、随分下賤な人を描きながら、その話しにはおのづからの品格が備はつて居り、といふ描写の力を備へてゐるのであつた。と、この坪内先生から出た言葉による暗示で、後になつて漠然とながら円朝を考へ出してゐたのであつた。――自分の事をかういふ場で述べるのはよくないが、さういふ指針を知つて、それからおそまきにでも円朝を聴きに出かけたかといふと、私は聴いた方がいい勉強にもなるのだらうなどとは思つたが、さて行くといふ事もしなかつた。今になつて自分の無精を後悔されるが、一方にはそれが却つてよかつたとも思はれる。若年の頃の私にとつて、さういふ先導者を持つ事の方が危険が多かつた気もする。
 二番目に、「だ」調「です」調について書いてある処を読んで、つくづく「言文一致」になる初めの頃にこの文章の切り目の落ちつきに就いて、先人が苦労された事が思ひやられる。この文章の切り目、それの落ちつきが、当時の――明治二十年代前後の、意識した言文一致創始の時にはひどく気になつた理由は一応考へて見る必要がある。そこが文章を口語体へ移すに就いてのくくり結びになる言文一致の態をつくる鍵のやうに思へたのであらう。一文の中に当時俗語と言つてゐた言葉を交ぜて使ふ事は、さほど苦にならなかつたらしいが、くくり結びの切れめに到ると、どうもはつきり考へを定めないと心持が落ちつかない。その点で二葉亭も美妙斎もいろいろ迷つたらしい。
 この「です」「だ」の取捨については、その後も引きつづいての是非の論が――際立つた論文などを書いた人も無かつたらうが、またそれほどむつかしい問題でもないが、その後も文章を書く人達の間で、いつまでも気になる事であつたらしい。四十年代にかかる頃でも、折ふしそれを言ひ出す人が有つたやうな覚えがある。
 今日になつて見ると、それはすつかり通りすぎてしまつた後で、ちやんとした安定が出来、軽重が明かになり、自在になつてゐるので、誰もが初めの日のこの迷ひを思ひ返して見る事が一寸困難であらう。当時を親しく知つてゐる人も、まだ生存してゐられる人が幾らもあらうが、その日頃の気持などは拭ひ消されたやうになつてゐる事であらう。それほど、またこの事は小さい末の問題であつたやうでもある。――しかし、この口語の文体がすつかり安定して、おのづからの姿を備へ、自在の境にはいつたのは、明治も末期の四十年代にはいつてからの事だと思はれる。――つまり今では、二葉亭の「だ」調が基本の表現になり、「です」調は特別の、そして適宜の表情をもつ現し方になつてゐるのは改めて言ふまでもない。
 三つ目、この談話を読んだのは、「文章世界」の誌上でではなく、それよりはるかに後の事だつたと覚えてゐるが、この談話を読んで実に深く考へさせられた一点は、この「国民語の資格を得てゐない漢語は使はないといふ覚悟であつた。」それは実に目に見えない壮挙と言つていい。
 たとへ、二葉亭自身では、それには失敗したと言つてゐるとしても、これに少しでも手をつけたといふ事は偉い仕事で、また偉い覚悟だつたのである。この覚悟の大きな価値は今日でも実際には文字の業にたづさはつてゐる人々の中で、どれほど認められ感じられてゐるかは疑問である。これがもつとすらりと一般に認められ、それに対しての意識が行き渡つてゐたら、日本の言葉は、今よりもずつと美しく明晰になつてゐたらう。
 私はこの主張――二葉亭の規則とは関聯してでなかつたが、後に日本語をローマ字書きにする運動に加つて、それをやつてゆくうちに、この意見と同じ処に到達した。それにつゞいて日本語の取捨整理について考へて見なければならないと思つたが、さうなると広漠たる中に無数に棲息してゐるものと面をつき合せるやうで、自分でも茫然としてしまひ、結局は思ひ切つてその中に飛びこむ勇気が得られなかつた。且つはその緒も明かには掴み得ずに今日に到つてゐる。――だが、これは日本の言葉にとつて、如何なる方法かで、誰れかが明かに考へて実行にかゝらねばならない重要な問題の一つである。
 二葉亭が大胆に、この壮挙を敢へて為さうとされたのは、吾々が心に銘して嘆賞しなければならない事であるが、同時にその言文一致の文章を書かうと考へられる心組からは、これは必然の結果でもあつたと思つていいやうだ。しかしこの規則は考へて実行せんとし、そして失敗した。といふのは二葉亭自身の失望苦悩であつて、その二葉亭自身は、国民語の資格を得てゐない漢語を安心して自分の文章に使へない神経を備へてゐるのであつた。この事が、実は実質上から言文一致の流れの方向を正しくしたと思はれる。
 四つ目の点は、「坪内先生が美文素を取り込めといはれたが」二葉亭はそれが嫌ひであつた。この嫌ひであつたのは、前の国民語の資格を考へた人が、口語の中に美を認め、それを撰び出さうとする上からの必然の心持である。特に「美文」と当時以後しばらくの間、よく世間が称へてゐた言葉の飾り、それに対して当時の考へ方の習慣や迷信を思ひ併せて見ると、二葉亭にはそれは死んだ粉飾としか感じられなかつたらう。坪内先生のこの忠言は、真実を知つてそれを身に帯びてゐる人に向つて、迷盲の説を送つたのである。
 以下のやうな事を、この二葉亭の談話に依つて考へさせられる。事実、明治十年代から微かな自覚となつて芽ばえ始めた、日本文体の革正は二十年代にはいつて生長し始め、いろいろの試みの中で、その生存が強まつて来たのである。そして最も正しい要素を備へてゐた二葉亭の事業がおのづから主流となつて流れ進んだと、私は思つてゐる。

春のやの「書生気質」と矢崎嵯峨のやの作品


 幾つかの年譜によると、「書生気質」は明治十八年から分冊として刊行され、十九年一月に完了した。(本間久雄氏の「明治文学史」、「明治大正文学全集」三、「坪内逍遥」などに依る。)それでこの小説は美妙斎の「柿山伏」又は二葉亭の「浮雲」などよりも、早く世に出てゐる。「柿山伏」が初めの題号「嘲戒小説天狗」として「我楽多文庫」第九集に載せられたのが十九年十一月、それから第十三集まで連載され、「浮雲」第一篇の刊行されたのが、二十年七月。まづこんな風で「書生気質」は、これらの言文一致で書かれた作品より先きだつて刊行され、そして少くとも小説の制作に心を向けてゐた人達に、殆ど全体誰も彼もにはつきりした印象を与へてゐる筈である。
「書生気質」を、今日になつて読んで見て考へて見るべき点は、当時どうして坪内先生が小説を書かうと思はれたか、その時代の環境の中でさういふ要求を心に感じられた点と、何かと理屈のついた用意はあつたらうが――実は私には八九分通り習慣から出て来た文章と思つてゐる――どうしてあゝいふ文体を撰ばれたかといふ二つの点である。作品としては公けにされた当時でも少くとも多少の新しい心をもつた人には余り感心されなかつたと思ふのが正当らしい。この点内田魯庵の回想記は正直直截にその心持の印象を述べてある。「有体ありていに言ふと、坪内君の最初の作『書生気質』は傑作でも何でも無い。(中略)であるから坪内君の『書生気質』を読んでも一向驚かず、平たく言ふと、文学士なんてものは小説を書かせたら駄目なものだと思つてゐた。」(とんで)「けれども『書生気質』や『妹と背鏡』に堂々と署名した「文学士春の屋おぼろ」の名がドレほど世の中に対して威力があつたかも知れぬ。」(「明治の作家」による)この魯庵の言を、一種の皮肉と見る可きではないと思はれる。
 何れの時代でも、驚き易い雷同はいつも似た姿で現れるもので、ものゝ実質を考へてといふ余裕を与へないで、拍手喝采が賑かに全体をくるんでしまふ。しかし、「書生気質」の時代に於いてはその、「軽躁」の奥には新しく生々したもの、時代の眼をぬぐつてくれるものを要求してゐた潜在の力が非常に強かつた事を考へなければならない。この心こそ明治の中期以後の文学を生んだ母胎だつたので、だから魯庵の言ふ「下らない作品」も大きな劃期の鍵になつたのである。かういふ現象は、私などさへも後に幾度か親しく経験してゐる事であつた。
 処で、こゝで特に「書生気質」を引合に出したのは、さういふ批評めいた事を言はんが為めではなかつた。私はこの小説の叙述の文章が、どの位「言文一致」の体で書かれた小説と近いものだつたかといふ事を言ひたい為めなのである。
 私は、「書生気質」が全く文学史の一存在としてばかり取り扱はれる四十年後の日に、改めてそれを読む必要が起り、やうやくの事で通読し了つたが、その時に一番興味深く感じたのは、坪内先生がその当時既に多少の論議が公けにされてゐた「言文一致」に対して注目せずに、かういふ表現の態でこの小説を書かれたといふ事であつた。しかし叙述と描写とを自由にやりこなして、たゞの話のすぢを通すだけより、聊かでも描く処に踏み入る、そこまで進んだ心を持つた人には、所謂「美しい雅文」よりも「俗文」といふ風に当時も呼ばれてゐた文章で表す方が便利であつたらしい。徳川期後期の小説家が、だんだんと細かく描かうとする必要に依つて、習練されたその「俗文」がやはり「書生気質」を書く当時の坪内先生には一番いゝ文体だつたらしい。それが少し――話し手が変ると必然に変る程度で先生風の文章になつてゐる。これが既に実質の上から言文一致へ進むについての温床であつたのだが、先生は何故こゝを一歩踏み越えられなかつたのだらうか――後日になつて見ると、そんな事は一挙手一投足の事に考へられるのだが、当時では実に鉄壁を突破するほどの困難が感じられたのであらうか。
 この所謂「俗文」――雅文に対して言ふ俗文から、一階程を踏んだ言文一致の「創始者」諸氏が、この「書生気質」を読んだといふ点に幾分の重きを置いて見る。創始者たちは必ずしもこの作品に敬服もしなかつたらうし(魯庵の言ふ通り)それから直接の影響も受けなかつたらうが、少くともこれだけの力は加へられたのではなかつたらうか、即ち、新進のそして自分達より少し立ち勝つた学識のある人が書いた小説の文章といふ点で、おのづから自分等と空気を同じうしてゐる表現の中に、口語の自由な言ひ表しが含まれてゐるといふ事、それを感じなかつたらうか。――この想像は少くとも何かの真実を持つてゐると私には思はれる。そして明かに意識はしなかつたらうが、それが充分力になつてゐるらしく思はれる。
 古い作品を参考(研究と軽くいふ人もあるが)にするよりも、すぐ近い日に現れた作品の方が及ぼす力は却つて活溌なものである。
 それで言文一致の流れを考へる時、私は近頃は、すぐ前の階程の見本として「書生気質」を思ひ出すのである。
 も一つ、明治二十二年以来、つゞけて公けにされた矢崎嵯峨の屋の小説、例へば改造社版「現代日本文学全集」に収められてゐる「くされ玉子」「初恋」「野末の菊」(何れも二十二年に公けにされた作品。「初恋」――一月。「くされたまご」――二月。「野末の菊」――七月。)などを見ると、何れも素直な自由な言文一致の体で書かれてゐる。美妙斎などの変奇な文体から見ると、遥かに立派な文章でこれを見る時、その頃まだ硯友社の小説家たちが、文章を弄んでゐたのに対し、これは二葉亭の源流にも一本清らかな流れが加つたのを感じられるのである。

それから後


 私はこの創始者たちの、初めの時期に就いてこの一篇は書いて置きたかつたので、それから以後の、この口語体表現の推移に就いては別に新しく書く機会を待つつもりでゐた。ここで一つ、どうも変なのは魯庵の「明治の作家」(柳田泉氏編)を読んでゐて、以下の事の書いてあるそれであつた。

「言文一致の創始者として山田美妙が多年名誉を独占し、今では美妙と言文一致とは離るべからざるものの如く思はれてをる。が、美妙の『夏木立』は明治二十一年八月の出版で、『浮雲』第一編よりは一年遅れてゐる。尤も『夏木立』中の『武蔵野』は初め読売新聞に載つたのであるが、矢張『浮雲』の方が先んじてゐた。」

 本間久雄氏の文学史によると、前に挙げた「柿山伏」が美妙斎の言文一致の最初の作になつてゐるので――処で、私はこの「柿山伏」をどうしても手にする事が出来ないので、実はこの心覚えを書くのに就いてそれを読まずにゐるのだが――これに依ると美妙斎の作品の方が世間に公けにされたのは早い事になる。そこらは魯庵の記憶の誤りででもあるのか?
 そこだが、こんな先後は余り重要には思はれない。少くとも私にとつては美妙斎の言文一致は議論としても、作品としても、後の吾々に重要な恩恵を残してゐない。単にさういふ文体に手をつけて見た一人、そしてそれに対する議論を、しかも悪く言へば饒舌を弄したといふにすぎないと思はれる。しかも言文一致を主張した先人は、それよりもさらに古くから幾人もあり、物集高見などは、美妙斎よりもずつと真剣な文章を書いてゐるのが残つてゐるに於いておやである。私どもが今日の日本の文体が、ここまで口語に近づき、これほどの調節をもつやうになつたに就いて、その源流となつたものを考へる事と、源流を生んだ母胎を知る事が大切であると思ふのである。何れはこれほどの大きい変化が日本の文体に生じたに就いては、その生れる初めの日が偶然で、又或る一人の考への中からだけ生ずるものである筈がない。私はさう思つてゐる。それだから、言文一致で書かれた作品の前後を争ふやうな考へ方に対して興味が持てないのである。その上美妙斎の作品の如きは泡沫にすぎないと思はれる。
 さて、その後この言文一致の文体はどういふ流れをたどり、どんな風に世間から受け入れられたらう。一言にして言へば三十年代の終り頃までは、表面からはたゞの傍流としか見えなかつた。露伴も鴎外も紅葉もそれにつゞく高名な小説家の人々も、大体その作品を文語の体で書いてゐた。私どもが少年期から青年期、二十歳前後までの間に読んだ文学上の作品及び論議の大部分は文語の文章で書かれたものであつた。
 しかし、二葉亭或ひは嵯峨のやの作品が見せてゐる表現を、その間に有つて、しかし私どもは特に珍しいものと感じながら読んでゐたといふ記憶が少しもない。これを思ひ出して見ると不思議な事だと思はれる。普通言ふ「変つた書き方」といふやうな感じで読む方があたりまへであつたかも知れないほど、大体の文学作品が文語の体の文章で書かれてゐた時代だつたからである。
 それを思ひ出してゆくと、言文一致体の文章が「変つた文体」と、奇異の感をもつて見られたのは初期の一時で、その間は割合短かかつたのではなからうか。既に三十年代にはいつた頃には二様の文体が併び行はれながら、それを誰もが気に止めない時になつてゐるのではなからうか。
 二十年代前後に、言文一致体の小説が発表された後、一般の小説は文章表現の源流を元禄に求めたり、さらに「優雅」な古文に遡つたりしてゐたが、しかしそれに依つて、それぞれの作家が各自の表現の美しさを備へようとする苦心があつた。それは言文一致とは全く反対の方向をとつた流れのやうであつた。けれども私はこれがあの時代の「生みの苦しみ」をしてゐる姿だと見る。それぞれの人が模索して進んだ「入り乱れ」の現象であらう。結局は従来の芸術性の貧寒な、粗雑な、そして極言すると下劣な文学上の表現をのり越して、ずつと美しいものにしたい要求からの悩みであつたらう。
 この悩みの中に――依つて来る処に、芸術に対する或る覚醒があつたのだと思ふのである。

「言文一致」といふ語の終り


 さて最後に、私どもの記憶の中に、言文一致といふ呼び方がいつの間に消えてゆき、その言葉が死語となつていつたのは、いつ頃の事からであつたらうか、それを思ひ出して見るのは興味の深い事である。勿論、かういふ事にはつきりした境界が目に見える筈もなく、又何かの記録のある筈のものでもない。しかしいろいろの記憶をたどつて行くと概略の推定をする事は出来ると思ふ。
 それはほゞ大正年代の末期頃であつたかと私は思つてゐる。国語問題が熱心に論じられ始め、当時の小学校の国語教育が新展開してそれが盛んに考究され、実行に移され始めた前後を一くぎりとして、古い「言文一致」の呼び方は「口語体」といふ名に代つた、と、私はまづさう見当をつけてゐる。この頃には既に日本の文体は殆ど口語体になつて居て、従来の幹流であつた文語の体は、一つの特殊の領域に属してゐるものになつてゐた。それで「言文一致」といふ名が消える頃には、それをわざわざ口語体とことわるのは、何かその文体を文語の文章と対比する場合か、その他に特に説明を要する場合に限られてゐた、といふ有様であつた。





底本:「明治文学遊学案内」筑摩書房
   2000(平成12)年8月25日初版第1刷発行
底本の親本:「明治文学の潮流」紀元社
   1944(昭和19)年初版発行
入力:川山隆
校正:R
2010年10月6日作成
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