ヴィタミン研究の回顧

鈴木梅太郎




 顧みれば、蛋白質、脂肪、炭水化合物、これにカルシウム、燐、鐵、沃度等の無機成分を加へた榮養素を以て動物は完全に發育するものと考へられてゐた時代は相當長かつた。しかも、この點に疑問を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)むものは一人もなかつたのである。
 私は以上の四成分のみでは動物は生命を保ち得ないことを證明し、微量にして生命を支配する何物かの存在を提唱し、その神祕の成分の一つが米糠中に含有さるゝことを見出し、これを抽出分析して「オリザニン」(ヴィタミンB)と命名し、明治四十三年の冬、我が學界に發表したのであるが、當時は殆んど顧みられず、越えて大正七、八年頃、歐米の學界に勃興したヴィタミン研究熱は我國にも反響して、我國の學者達をも漸く目醒まさせ、今日では誰一人ヴィタミンを除外して榮養を論ずるものもなく、また、ヴィタミンを知らずして生命の科學を語るものもない。想へば、全く隔世の感がある。
 そのヴィタミンの研究は、明治三十九年に私が獨逸から歸つて直ぐに始めたもので、今日まで二十四五年になる。殆んど半生をこれに費した譯であるが、恐らく今後も、一生續けることだらう。この研究の動機と云へば、種々の空想もあつたが、外國に留學した時に日本人の體格の貧弱なことを痛感したのが主なものである。日本人が外國の學者と競爭して勉強しても一時は負けないが、どうしても永くは續かない。その原因はどこにあるかと、終始考へて居つた。
 當時ベルリン大學で、エミール・フヰツシャー先生が蛋白質の研究を始めて居たので、私は二年有餘、先生に師事してその仕事を手傳つた。その時初めて蛋白質の種類によつて榮養價が違ふといふことが判つた。それで日本人は米を主食としてゐるから、或は米の蛋白質が惡いのではなからうか、米の蛋白質と肉類の蛋白質とは榮養上に大なる相違があるのでなからうか、といふ疑問を抱いた。
 私が三十九年歸朝する時、フヰツシャー先生に、歸朝後どんな研究をしたらよからうかと相談したところ、先生の云はるゝには「歐洲の學者と共通の問題を捉へたところで、こちらは設備も完成し、人も澤山あつて、堂々とやつてゐるのだから、とても競爭は出來まい。それよりも東洋に於ける特殊の問題を見付けるがよからう」といふことであつた。私はそれは至極尤と考へたから、差し當り米の問題を研究することにしたのである。
 それで歸朝すると、盛岡の高等農林學校の教授に任命されたので、第一に吉村清尚君(現鹿兒島高等農林學校長)と協同して、白米、玄米、及び糠の蛋白質の性質を調べ、また糠から一種の含燐化合物(フヰチン)を抽出し、次で、糠の中には、鐵を含んだ蛋白質の存在することを見出した。

 蛋白質の榮養價を決定するには、單に分析だけでは駄目である。是非とも動物試驗を行はなければならない。私は農藝化學を修めたので、植物の肥料試驗法を知つて居つた。水耕法と稱して、純粹の水に植物の養分となるべきアムモニヤとか燐酸、加里、石灰などを適量に溶解し植物を浸して置くと能く生育するが、一つでも養分が不足すれば直ちに發育は停止し、或は枯死する。例へば、燐酸が缺乏すれば、葉が黄色に變じて枯れてしまふが如き……。
 又、砂耕法と稱して、純粹の硅砂中に植物を植ゑて各種の養分を與へても、同樣の試驗が出來るのである。それが動物に就ても同樣に、純粹の蛋白質と脂肪、炭水化合物及び無機成分を集めて人工配合飼料を作り、動物を飼育することが出來る筈である。そしてその中に米の蛋白質とか、肉の蛋白質とか、種類を違へて與へたならば、動物の發育が違ふだらうと考へたのでその方法で鳩や鼠などを試驗した。ところが意外にも右の樣な配合飼料では動物は數週間で死んでしまふ。何遍やり直しても同じことで、その原因がどうしても判らなかつた。その内に糠が特殊な成分を含んで居ることが判り、これを配合飼料に加へると、能く發育することを實驗した。
 當時、糠は粕の樣なもので、家畜の飼料或は肥料に用ひらるゝのみで、人間の食物としては全然顧みられなかつたものである。その糠をその儘與へる代りに、糠のアルコール浸出液にして加へると、同樣に有效であることを確かめ、種々の化學的操作を施して、一製品を得、從來未知の成分であることが判つた。これが即ち「オリザニン」(ヴィタミンB)である。

 この研究と併行して、醫學者間に脚氣の問題が起つた。それは和蘭の醫者でアイクマンといふ人がジャヴァで脚氣の研究をやつて居つた時(この人は當時日本へも來たことがある)偶然に病院の殘飯を鷄に與へると鷄がヒヨロ/\になつて死んでしまふことを見出した。そこで白米で鷄を飼つて見ると、皆同じやうに衰弱し、脚が麻痺して、恰度人間の脚氣に似た症状を呈する。が、玄米を與へれば病氣にはならない。また糠を白米に混じて與へても、矢張り效果のあることを確めた。
 併しアイクマンは白米に微生物が附着して居り、それが鷄の胃の中で繁殖して中毒を起すのであつて、糠の中にはこの毒素を中和する物質があるだらうと考へたのである。
 その頃から日本の醫學者も、米のことに注意するやうになつた。海軍の軍醫總監であつた高木兼寛男は、水兵が遠洋航海すると脚氣に罹つて死ぬ者が多いのに困つて、食物の關係ではなからうかと考へ、日本食を洋食にしたり、或は白米を麥に代へたりして試驗した結果、麥飯にすれば脚氣が非常に少なくなることを認め、遂に海軍の食物を改革したのであるが、何故に麥飯がよいかは説明が出來なかつた。
 私が獨逸から歸つて間もなく、蛋白に關する講演を赤坂の三會堂でやつた時、高木さんも聽いて居られて、「それは面白い話だ、蛋白質の種類によつて榮養價が異なることは初めて聞いた、米と麥とでも蛋白質の性質が違ふのではあるまいか、研究してもらひたい」と云はれたことがある。
 當時、白米が脚氣の原因であると考へる醫學者の中にも、白米に毒素があるだらうといふもの、有害な微生物が附着して居るといふもの等、いろ/\な説があつたが、又一方には、醫界の某々大家などは、アイクマンの説に賛成せず、寧ろ一種の流行病ではないかと考へられたやうである。また「さば」の如き青い色の魚を食ふと脚氣になるといふ説もあつた。

オリザニンの發見
 この間にあつて私は、脚氣の病原とは無關係に、純榮養學上の立場から、米の成分の研究を進め、また動物試驗を行つたのであるが、白米を與へて動物が死ぬといふことは、私は最初當然と考へた。それは白米を分析すれば直ちに判る通り、白米には蛋白質が七%、澱粉及纎維が九〇%を占め、脂肪は非常に少く一%内外であり、無機成分は更に少く、僅かに〇・五%に過ぎない。斯の如き偏頗な食物で動物が完全に育つ筈はない。それで白米に不足せる成分を加へたならばよからうと考へて、カゼインや豚脂、燐、鐵、石灰などを種々の割合に加へて試驗したが、意外にも動物は、白米のみの場合と殆んど同じ樣に衰弱して死んでしまつた。
 然るに糠を三%ばかり白米に加へると、アイクマンの云ふ通り健全に育つ。そこで私は糠から採つた「フヰチン」を加へたり、含鐵蛋白質を加へたり、或は糠の灰分を加へて試驗したが、それ等は何等の效果がなく、たゞ糠のアルコール浸出液を加へると、效力があることを觀察し、このアルコール浸出液の成分を研究して、遂に「オリザニン」を見出したのである。(前記配合飼料の試驗と同時にやつたのである)

「オリザニン」の發見には島村虎猪君が專ら動物試驗を擔當し、二年間一日も休まなかつた。また大嶽了君も大に助けて呉れた。それで明治四十三年(一九一〇年)の冬、愈々確實になつたので、東京化學會でこれを發表し、白米を與へて動物が早く死ぬのは「オリザニン」の缺乏の爲であり、「オリザニン」は從來未知の一新榮養素であつて、總ての動物生育に缺くべからざるものであると主張した。これが即ち今日のヴィタミン學説の基礎である。
 然るにその頃の化學者も醫學者も、榮養についての認識を持つたものが少かつた爲めに、私の發表も殆んど問題にならず、たゞ東京帝大の池田菊苗博士のみが「果してそれが事實であれば非常に面白いものである‥‥」と批評されただけであつた。
 私は引續きこの研究に沒頭して、四十四年の四月には陸軍の脚氣病調査會にこれを報告し、また東京化學會に於ては四十五年二月までに前後五囘に亘つて「オリザニン」の性質及びその榮養上不可缺の成分であることを報告したのであるが、それも左程注意を惹かなかつた。
 私は四十四年一月、この製法の特許を出願した處、許可せられたので、兎に角、三共株式會社に於てこれを試製し、醫界に提供して廣く實驗して貰ふことにしたのであるが、その製品も殆んど顧みられず、會社では厄介視せられて居た。

ヴィタミンなる名稱
「オリザニン」の發見より一年ばかり遲れて、英國リスター研究所に於て、フンク氏が私と同樣の有效成分を抽出せることを報告した(明治四十五年二月)。而してその命名せる「ヴィタミン」なる名稱が世界一般に使用された爲に、兎角フンク氏が先鞭をつけたものゝやうに思ひ誤まられ易いが、併し當時フンク氏は、單にこれを以て鳥類の脚氣樣疾患を治癒せしむべき成分と見做し、それが榮養上如何なる意義を有するかに就ては、實驗もせず、またこれに論及もしなかつた。たゞ氏がこれを結晶状に抽出したことを發表した爲め、世人の注意を惹いたのである。が、それは誤りで、その結晶なるものは有效成分ではなく、私が既に發見せるニコチン酸であつたのである。私は日本に於て數年前より發表せる成績十數報に亘る論文を一括して、一九一二年(明治四十五年八月)、獨逸生化學雜誌に掲載したのであるけれど、初めは日本文のみで發表した爲めに、素より外國人の目には觸れず、恰かもフンク氏より後れたかの觀を呈したのである。
 私は前に述べたやうに、配合飼料を造つたり、また白米を用ひて「オリザニン」の效力を確かめたので、更に多くの動物に試驗しようと企て、豚、羊、犬、猫、鳩、鷄、鼠等より、下等菌類や酵母バクテリヤの類にまで試驗したのであるが、特殊の糸状菌及びバクテリヤを除く外、高等動物には總て必要缺くべからざるものであることを證明した。これには多數の共同研究者の助力を得たのである。
 また人間に必要の程度を試驗するため、大正三年に鈴木文助氏(舊姓荒木)と東京市の養育院に於て滿一ヶ年間二十人の小兒に就て、「オリザニン」を與へたるものと、與へないものとの發育状態を調査し、良好の結果を得た。(これには養育院の伊丹醫學博士等の援助を得た。)

脚氣問題で冷笑さる
 斯くて人間にも「オリザニン」の必要なことが確められ、而して白米中には全然これを含まないから、人間の脚氣も必ず「オリザニン」缺乏が原因であらうと信ずるやうになつたのである。が、私が醫者でないために、人間に試驗をするのに非常な不便を感じた。
 最初泉橋病院の若い醫學士に「オリザニン」を送つて試驗を依頼した處 一ヶ月ばかり經つてから「一人の勞働者に試驗した處、その患者は三日ばかりで輕快したと云つて、その後は來なかつた。もう一人は餘程重症であつたが、數日間の服用で非常に輕快に赴いたと云ひ、未だ症状が充分消失しない内に退院してしまつた。多分「オリザニン」が效いたのだと思ふが、併し脚氣は他の療法でも癒るから、これが特效藥だとは云はれない、もつと繼續して試驗することは、主任の先生が許さないから、これでお斷りする」といふのであつた。
 その次に、私の同郷の開業醫が日本橋に居つたから、その人に頼んだが、斷りの手紙を寄越した。そんな譯で、甚だ信用がなくて閉口した。
 東京化學會で私が(「オリザニン」は脚氣に效くだらう」)と述べたことを、當時醫界の大立者だつた某博士が傳へ聞かれて「鈴木が脚氣に糠が效くと云つたさうだが、馬鹿げた話だ、鰯の頭も信心からだ、糠で脚氣が癒るなら、小便を飮んでも癒る……」と、或る新聞記者に話されたことがあつた。
 其後私が同博士に逢つた時「君が脚氣の原因を見付けたといふことを人から聞いたが、それは嘘だらうと云つてやつた」と私に云はれた。私が醫者でも藥學者でもないから、脚氣などが判るもんかと思はれたのであらう。
 程經て、私が青山の農業大學へ教へに行つた時のこと、途で一人の學生が他の學生の肩につかまつて來るのを見た。どうしたんだと聞いたら、脚氣で動けないのだが、今日は試驗があるから助けて學校へ連れて來たといふ。それで私が藥をやるからといつて、直ちに三共會社から「オリザニン」を二瓶取り寄せて、くれてやつた。すると二、三日後にその學生が私の宅までやつて來て、先生に藥を貰つて飮んだところが、不思議に早く癒つた、自分は青山の四丁目に下宿して居るが、今日は御禮に來たと云つて、普通の人の樣に、歩き方も確かであつた。その時分は電車もなかつたので、無論往復一里餘も徒歩だつたのである。その學生は一瓶で癒つたから、殘りの一瓶は大切に保存して置くと云つて居た。
 もう一つ、私の郷里の青年が脚氣になつたので、國に歸る爲に出發した處、汽車の中で衝心して、已むなく途中で下車し、小田原の病院に入つたが、危篤だから直ぐ來いといふ電報を、私の隣家の知人の許に寄越した。その時私は「オリザニン」を二瓶持たせて、院長と相談の上、服用させてくれと頼んだ。ところが、二、三日ですつかり輕快し、一週間ばかりで國へ歸つた。患者の方では、意外の效果に驚いたといつて、感謝の手紙を寄越したが、院長は私の與へた藥が效いたとは云はなかつたやうだ。
 また或時、私の實驗室の研究生が理髮店に行つたところ、奧で何だか大騷ぎをして居るので理由を訊くと、主人が脚氣衝心を起して悶へ苦んで居るのだといふ。その時、研究生は恰度ポツケツトに「オリザニン」を入れて居つたので、「これは脚氣に良い藥だ、眼の前で服用して見ろ」といつて、一瓶を半分ばかり服用させた。すると三十分ばかりの内に、今まで非常に苦悶して居つた病人がケロリと平靜になつたので、翌日までに全部服用させたら、全快して、大に感謝されたといふことであつた。
 そんな報告は、澤山集めて居つたが、自分が醫者でないから、發表する事が出來なかつた。

脚氣の原因確定さる
 明治四十一年に、陸軍に脚氣調査會が設立せられ、同四十五年頃より、糠が本當に效くかどうかを試驗することゝなつたが、それでも某醫學博士などは、糠の水浸液を煮沸して脚氣患者に試驗したが、何等效力はなかつたと云はれた。
 そんな風に、なか/\議論が片づかなかつた。これは結局、ヴィタミンBの強力なものを製し得なかつたのと、與へる分量が少かつた爲であることが、後になつて判明した。強力の製品を多量に與ふれば、奇效を奏するのである。
 大正七、八年頃、ヴィタミン研究が歐米に於て盛んになり、その反響が再び日本に傳はるに及んで、日本の醫學者も、この問題を眞面目に考へるやうになつた。なかんづく島薗順次郎博士は、その頃京大に居られて、私の製法によつて自ら強力「オリザニン」を製し、多數の脚氣患者に試驗し、また衝心性の重症患者にも試みて好成績を得、愈々脚氣の主原因はヴィタミンBの缺乏であると斷定された。
 これと前後して慶應大學の大森憲太博士も、數人の助手や看護婦などにヴィタミンBの少い食物を與へて人工的に脚氣を起さしめ、これにB製劑を與ふれば癒ることを實驗し、醫界の注意を惹いた。もつとも、それより前(一九一三年)ベルリン高等農學校でツンツ教授の助手モスコースキー氏が、自身にBの少い食物を攝り、二百餘日の後、脚氣樣の重患に陷つた際、糠の浸液を飮んで恢復したとて、その臨床報告を發表して居る。
 併し氏の食物は、絶對のB缺乏食ではなかつた。またその症状が日本の脚氣とは異なる點があるといふので、日本の醫學者は餘り信用しなかつた。
 兎に角、脚氣問題は幾多の波瀾を經て、遂にヴィタミンB缺乏説に歸着したやうである。それがために、B製劑が續出して、現時は數十種類にも達する有樣である。

化學者の大收獲
 私が四十四年に製出した強力「オリザニン」は未だ化學的純粹とは云はれなかつた。鳩の白米病を治癒するのに五―十ミリ瓦を要したのである。それを結晶状に抽出しようと企て、大嶽、島村、鈴木(文助)その他多數の諸氏の助力を得て盛んに研究したのであるが、なか/\その目的を達せなかつた。
 その内、大正三年となつて、歐洲大戰が勃發し、我國では染料や藥品の輸入が杜絶して大騷ぎをした。それで私等も化學者として默視するに忍びず、暫く「オリザニン」の研究を中止して、實驗室の總動員を行ひ、先づ酒の防腐劑サルチール酸を造り、次で酒の※(「酉+元」、第3水準1-92-86)に入れる乳酸やサル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルサン(六〇六號)の製造に成功し、またアンチピリンや人造藍などまで試みた。そんな事で四、五年は經過した。その間にまた私は二度も大患に罹つた。
 それで大正九年頃から再び「オリザニン」の研究を始めることゝなり、大嶽君が主としてこれを擔當し、糠と酵母中のあらゆる成分を片づける意氣込で多數の結晶成分を抽出し、その中には新奇なものも澤山あつたが、肝腎なBは、なか/\結晶とならなかつた。併し昭和四年になつて初めて二センチ瓦ばかりの結晶を得たので、大に勇氣を得、更に一年餘を費やし、翌五年の夏頃漸く〇・三瓦ばかり、立派な結晶を得、動物試驗を行つて有效であることを確めた。
 この結晶は〇・〇二ミリ瓦位で鳩の白米病を治す力があるから、人間には一ミリ位で充分效くものと思はれる。この結果を、昭和五年十一月、日本學術協會で大嶽君が發表したので、引續き元素分析やその他の化學的性質を試驗した。
「オリザニン」の結晶を一瓦も作るには、少くとも數百貫目の糠より出發せねばならないが幸に三共會社から注射用の強力「オリザニン」を多量に供給されたから出來たのである。一方また大嶽君の實驗の巧妙なのと、根氣のよいのには驚くべきものがあつた。
 今後Bの結晶の化學的構造を決定し、これを合成するのは何年かゝるか知らないが、兎に角結晶となつたのは、化學者の一大收獲である。

 脚氣問題を別として、オリザニンが果して榮養上の一新成分であるか、どうかと云ふことも隨分議論があつた、それは動物の榮養を支配する條件が澤山あつて、蛋白の種類とか、分量とか、或は無機成分中、微量のもので見逃して居るものはないかとか、リポイドが必要であるとか、ないとか、いろ/\判らないことが多かつたからである。
 米國でオスボルンやメンデル博士などは一九一四年までヴィタミン不必要を唱へ、ベルリン時代の私の學友アプデルハルデン氏も數年間反證を擧ぐる爲に實驗をやつた。ローマン博士は一九一七年まで頑強にヴィタミン説に反對したものである。兎に角、一つの學説が一般に承認せらるゝのは、なか/\容易のことではない。

ヴィタミンA以下の發見
 ヴィタミンAの發見はBより數年後である。オスボルン博士やマッカラム教授が人工配合飼料で白鼠を飼育する場合に、飼料中にバタを加へるのと、豚脂或は植物油を加へるのとは、動物の發育が非常に違ふことから、バタの中には普通の脂肪以外に何物か有效成分があるであらうと想像して、これを假りに脂溶性ヴィタミンと名づけた。
 併しその本體を捉へたのは我が高橋克己君である。高橋君は大正八年頃から駒場の實驗室でこの成分を研究し、大正十一年に遂に略ぼ純粹の状態に抽出して、これを「ビオステリン」と命名したのである。
 現在では「ビオステリン」中に二つの要素が含まれて居り、その一つは所謂ヴィタミンAで他の一つはDであることが確められた。植物の色素カロチンがAと同樣の效力があることは、瑞典のオイラー教授によつて確められ、また酵母、麥角等より得らるゝエルゴステリンに紫外線を照射すれば、Dが出來ることも、ウィンダウス教授によつて明かにせられた。恐らくカロチンが動物體内に於て還元せられて肝臟中に貯へらるゝものであらう。目下理化學研究所の川上、鷲見等の諸氏が專らこの方の研究をやつて居る。

 ヴィタミンCは最も難物である。これは空氣に觸れても、熱に會つても、直ちに破壞さるゝ故に、手のつけやうがない。保存することも困難である。結晶になるかどうか、今のところ見當がつかない。
 緑茶の中にヴィタミンCが豐富に含まれて居ることは、故三浦政太郎博士が見出したのであるが、昔、和蘭の商船が東洋に來ると、航海中壞血病に罹るものが多いので、これを豫防するために支那から茶を買つて歸つたといふ記録があることから、三浦君は日本の緑茶を試驗したところ、非常に多くのヴィタミンCの含まれて居ることが判つた。
 中央茶會議所では大にこれを宣傳して、茶の販路擴張をやつてゐる。内地の需要は確かに多くなつたと云ひ、二、三年來、ロシヤへも輸出せらるゝやうになつて、昨年は六百萬封度を超へた。ノルウエーからも注文があつたといふ。
 この外に、繁殖に必要なヴィタミンEの試驗も私は二、三年やつた。これは小麥の胚芽の油の中に多く含まれて居り、Aに能く似て居るが、生理作用が全くAとは異なるものである。これは未だ純粹の結晶にはならない。
 各種のヴィタミンは皆それ/″\必要な役目を持つて居り、なくてはならないものであるが、日本の食物ではBが最も缺乏し易い。その次がA・Dであらう。米國ではBは餘り問題にされず小兒のD缺乏が最もやかましくなつて居る。ロシヤではCが問題だ。斯くの如く各國皆趣を異にして居るのは面白いことである。
 ヴィタミンを産業の方面に應用することも澤山ある。余等はこの方面で役に立つことをやりたいと思つて居る。何の研究でもさうだが、かういふ研究は全く根氣が續かなくては駄目である。折角始めても、途中で止めては何にもならない。幸に私は理化學研究所と駒場に、多數の共同研究者を持つて居る。倦まずにやつたならば、今後も何か面白いことが出來るだらう。





底本:「研究の回顧」輝文堂書房
   1943(昭和18)年2月25日初版発行
   1943(昭和18)年11月11日再版発行
初出:「科學知識」科學知識普及會
   1931(昭和6)年2月1日発行
※底本では題名に章番号「一」が付け加えられていますが、独立した一編として取り扱うために省略しました。
※「フヰシャー先生」と「フヰツシャー先生」の混在は、初出誌を参照して「フヰツシャー先生」に統一しました。
入力:小林 徹
校正:大野 晋
2004年12月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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