処女の木とアブ・サルガ

野上豊一郎




    一

 カイロに着いた翌日、町の北東五マイルほどの郊外にある昔のヘリオポリス(日の町)の遺跡にウセルトセン一世の建てたエジプト現存第一の大オベリスクを見に行った。そのついでに車を廻して、そこからあまり遠くない所にある「処女おとめの木」を見物した。
 その辺はマタリアと呼ばれる部落で、五千年前のヘリオポリスの殷賑などはいくら想像を働かしても実感することのできないほどに今は荒れさびれている。泥ででっち上げた低い家の飛び飛びに並んだほこりっぽい道路の片側に、牧場で見るような簡単な板を打ちつけた片折戸が締まっていて、案内者のサイドが車から下りてベルを鳴らすと、遠い奥の方からヌビア人らしい黒ん坊の子供が跣足で駈けて来て、その戸をあけた。入って行くと、奥は廃園といったような感じのする広場になって、シャリ・エル・ミサラと呼ばれ、三角州デルタ地方では最も古い庭園の一つといわれている。隅に小さい番人の小屋があり、其処から黒ん坊の小僧は飛び出して来たのだった。
 庭園のまん中ほどに一株の大きなシカモアの木が白っぽく朽ちた二股の幹を七八尺の高さに折れ残して枯れ立っている。それが謂わゆる「処女の木」で、処女マリアが赤ん坊のキリストを抱いて、ヨセフに伴われ、イスラエルの地から王ヘロデの迫害を遁れてエジプトに避難した時、しばらくその木の下で暮していたと伝えられている。幹はさながら古材のようで、皮などはなく、つるつるしていて、なかばうつろになってるが、それがシカモアだとわかるのは、その幹から太い逞ましい枝が三本斜めに突出して、それも白っぽく枯れてるが、そのうち二本の端に不思議にも生き生きした小枝が伸びて青葉を付けている。その葉を見ると、エジプトの到る所で出逢うシカモアだということが、すぐ知れる。シカモア Sycamore を『聖書』には桑樹と訳してあるが、葉だけは日本の桑に似ているけれども桑ではない。いちじくの種類で、学名は Ficus Sycamorus となっている。(イギリスでシカモアといわれるのは種類がちがい、楓に似てるように見た。)
「処女の木」のシカモアは枯れ朽ちてるのに、さきに葉が茂ってるのがおかしいと思ったら、バッジ博士の The Nile(第十二版、一九一二年)には「処女の木」が一九〇六年七月十四日に老齢のため朽ち折れたのを惜んでいる辞句があり、一九一四年の Baedeker には一本の若枝が芽を吹いたので大事に柵を繞したという記事があるので、一二年と一四年の間に此のシカモアの木は復活したものと思われる。謡曲の文句ではないが、老木おいきも若みどりといったような感じである。『ベデカ』に拠ると、此の老木は一六七二年以後に植え替えられた何代目かの「処女の木」らしい。小枝のそこここに細いきれが結びつけてあるのを日本流に解釈して、いずれ黒ん坊の若者や娘たちが縁結びの願いごとでもする習慣があるのだろうと思ったら、サイドの説明では、母親が子供の病気平癒のがんがけをするのだという。聖母とキリストを庇った聖木だから今も霊験あらたかだと信じているらしい。
 その話で私はウセルトセン一世のオベリスクの下で包囲されたきたない年若な親たちの群を思い出した。どれを見ても皆アラビア人らしく、オベリスクを見てしまって私たちが車に乗ると、それまでは筋骨逞ましいサイドが赤いタルブシュ(トルコ帽)をかぶって鞭を持って傍に付いていたので寄りつかなかった彼等が、用心棒も一所に車に入り車掌台の隣りに掛けたのを見ると、忽ちどっとたかって来て、バクシシュ、バクシシュと叫びながら手をさし出した。マリアのように、片手で赤ん坊を胸に抱えながら、中には十三四の小娘のようなのもあった。あれもお母さんかと聞いたら、そうだといってサイドは苦笑していた。皆きたないなりをして、跣足だった。子供たちも交っていたが、子供たちと母親たちの区別は見わけがつかないほどだった。あの憐むべき母親たちが此の木の枝にきれっぱしを結びつけて祈るところを想像すると、人間の迷信は何千年もそういった習慣から脱しきれないものと見えて、ひとごとではなく思われた。
「処女の木」の近くに一つの古井戸があって、水が湧いていた。マリアがその水を汲んで赤ん坊のキリストのむつぎを洗った所だというので神聖視され、付近の他の井戸の水はすべて飲めないのに、その井戸の水だけは飲めるそうで、それも聖母の余徳であろう。尤も回教徒のアラビア人がそれをありがたがるのはどういう解釈だか聞き洩らしたが。サイドはおいしそうにそれを飲んだ。私も勧められたけれども、クリスチャンでも回教徒でもない私は恵みの分け前にあやかる特権を辞退した。
 しかし、エジプトの古い伝説に拠ると、その井戸は大昔からアイン・アシュ・シェムス(日の泉)と呼ばれ、ヘリオポリス地方の主神ラー(日の神)が初めて此の世界に現れた時、まず此の泉の水で顔を洗ったといわれている。五千年前にはそういった言い伝えで神聖視されていたのが、その後エジプトの宗教は衰え、千九百四十一年前にマリアがイスラエルから逃げて来て赤ん坊のむつぎを洗濯をしたので、そのために今は有名になっている。

    二

 千九百四十一年前と限定したのは、キリストの生れたのは紀元元年ではなく紀元前四年が正しいと今日では年代史的に訂正されて居り、生れると間もなくベトレヘムからつれ出され、シュリアを南西へ下り、イスマイリアを通ってエジプトに入ったのは、翌年の春早早であったろうと推定されるからである。
 その頃ユダヤの郷国では王ヘロデ(ヘロデス大王)が支配していたが、キリストの生れたのはヘロデの晩年だった。東方の博士たちが星を見て「ユダヤびとの王」として生れた赤ん坊を拝もうと思い、エルサレムまで行くと、それを聞いて王ヘロデはひどく心をいため、その赤ん坊に嫉妬を感じて殺そうと企て、博士たちに子供の在りがわかったらすぐ立ち戻って知らせろと命じた。博士たちは尚も星の動きを慕ってベトレヘムへ行き、牛小屋の隅にキリストをマリアとヨセフと共に発見して礼拝し、王ヘロデには復命しないで、道を変えて東方へ去った。天使がヨセフに現れ、ヘロデの害意を告げ、赤ん坊をつれて速かにエジプトへ行けと勧めた。王ヘロデは博士たちに裏切られたことをさとり、大いに憤慨して、ベトレヘムとその付近なる二歳以下のすべての男の子を殺せと命じた。恐るべき嬰児虐殺が行われた時、キリストは母と父に護られてすでに此のシカモアの木蔭にすやすやと睡っていた。
 それは『マタイ伝』に出ているが、『童蒙福音書』(第八章九ー一三)にはこう記されてある。
「かくてシカモアの木のもとに行きぬ。今マタリアと呼ばる。マタリアにて主イエス一つの井戸を湧き出ださしめ、それにて聖マリア彼の衣を洗えり、その国に一つの香液パルサム生じたり。主イエスより其処に流れ落ちたる汗の滴より生じたるなり。それよりメムフィスに行き、パロ(エジプト王)に逢い、エジプトに三年住まいたり。」
 しかし、此の記事は信用ができない。聖家族がマタリアからメムフィスへ行ったというのは有り得べきことだと思うが、メムフィスとてもその頃はヘリオポリス(マタリア)同様すでに荒廃して王都ではなかった。その頃の首府はアレクサンドリアで、しかもパロはとっくに存在しなくなって居り、エジプトはローマ帝国の領土になっていたのだから、パロに逢ったということもおかしければ、エジプトに三年住まっていたということもどうかと思われる。少くとも『マタイ伝』の記事とは矛盾する。
『マタイ伝』に拠ると、初めて天使がベトレヘムでヨセフに現れて、イスラエルの国を去れと警告した時、またわれ汝に示さん時までエジプトに留まれと約束した。やがてベトレヘムの幼児虐殺の後で王ヘロデが死ぬと、再び天使はヨセフに現れ、起ちて幼児とその母を携え、イスラエルの地に行けと命じ、幼児の生命を求むる者はすでに死にたり、といった。それで、ヨセフはヤーヴェの命に従い、マリアとキリストをつれて、イスラエルへ帰ると、恐るべき王ヘロデは死んだけれども第二の恐るべきアケラオ(アケラオス)が支配していたので、エルサレムに入ることを避け、ガリラヤへ遁れてナザレに住むことになった。
 ヘロデの死んだのは紀元前四年か三年で、幼児虐殺の後あまり多く日数がたっていなかった。その間にヘロデは先妻の産んだ長男と二男を殺し、彼の弟をも殺したが、その死刑命令は王自身の死の床から発せられ、やがて後妻の産んだ息子のアンティパスがヘロデ二世としてユダヤの王となった。『マタイ伝』にアケラオの名を出してあるのは、アンティパスがまだ幼少だったので、その頃はアケラオが政治をしていたことを意味するのであろう。それはともかく、正直な天使はヘロデの死後すぐ約束通りヨセフに現れなかった筈はないから、そうして寝ていたヨセフはすぐ起ち上って帰国の旅に出たとなってるから、聖家族の人たちがエジプトに三年間住まっていたということは考えられない。つまり、聖家族は紀元前四年の暮にベトレヘムを出て、翌三年の春早くエジプトに着き、その年のうちには再び国境を越えてイスラエルの国に戻っていたと見るべきであろう。

    三

 キリストを抱いたマリアのことを思うとヘロデを思い出し、ヘロデのことを思うと帝国建設前後のローマを思い出すのは、私だけの癖だろうか。実際、その頃の地中海沿岸は、ローマの世界だった。ケーサルの斃れた後、ローマの勢力はアントニウスとオクタヴィアヌスに二分されていたが、アクティウムの海戦(前三〇年)後は勢力が急に一方的となり、三年の後には後者は自ら第一人者プリンケプスと称して統帥権を掌握し、次第に帝政の基礎を固め、名をアウグストゥスと改め、キリストの生れた頃はすでに事実上ローマ皇帝であった。
 一方、ヘロデは初めからローマに依存してユダヤを支配していた。ケーサルの暗殺者カシウスが地中海東部を支配していた時は彼に阿付していたが、カシウスが倒されて後はひたすらアントニウスの歓心を求め、アントニウスとオクタヴィアヌスの双方に取り入ってユダヤ王の名義を貰い出し、前三七年(三十七歳)にはエルサレムを手に入れ、以後三十四年間、都城を改修して其処に住んでいた。勢力絶倫で奸智にけ、天下の形勢の推移にも見通しが利き、エジプトにもローマにも秋波を送っていたが、ローマが世界を支配するだろうことをば逸早く予感していた。しかし、アントニウスとオクタヴィアヌスを両天秤にかけて操縦することに於いては多少見当を誤り、アントニウスの方に偏しすぎたため、アクティウムの決戦後は一時不安を感じていた。けれども巧みにオクタヴィアヌス(アウグストゥス)の前で尻尾を振り、終に絶大の信頼を得ることに成功し、その関係を利用してアジアの地盤を鞏固にした。
 彼は、ローマ人がギリシア的な生活様式にあこがれたように、ローマ的な生活様式にあこがれ、自分もしばしばローマへ行き、二人の上の息子をば長くローマに留学させていた。都市を改造し、大建築を起したのもローマに傚ってであった。例えば、サマリアを改造してセバステと改名したり、ストラトの塔と呼ばれる海角に大規模の築港をしたり、改造したエルサレムの町に大劇場を建てたり、それに隣接して円形競技場を設けたり、十年の日子を要する殿堂改築に着手したり、その他、ユダヤの各地に城塞を築いたりして、それがためには苛斂誅求をやって人民の膏血を絞ることを厭わなかった。それでも人民は彼の気ちがいじみた性格に恐れをなしてあらわに反抗することを敢てしなかった。やがてキリストが出て「神の国は近づけり」と説くのにふさわしい情勢をヘロデは生涯を費して作り上げていたようなものだった。
 ヘロデにとって気の毒なことは、彼は生涯の初めから終まで家庭的に苦悩しなければならなかった。性格の残忍刻薄が主因だったから自業自得といえばそれまでだが、もっと根づよい因果的な、謂わばネメシスの咀いに追及されているような形だった。一族を殺し味方を屠った数は数えきれないほどだった。最も顕著な事件は第一の夫人を殺した事と二人の息子を殺した事だった。第一夫人はマリアムネと呼んでユダヤの王族アスモネウス家の王女(ヘロデ自身はエドミ族)で、美人としてはエジプトのクレオパトラには及ばなかったとしても、しかしクレオパトラの前に出てもひどく見劣りのすることのないほどの容色の持主だった。彼女にはアリストブルスと呼ぶ弟があり、美貌の少年で、殿堂の祭司で、何よりも血統が人民の信頼を集め、嫉妬ぶかいヘロデにとっては目の上の瘤だったが、人民の思わくを顧慮して容易に手をつけることをしなかった。そこヘエジプトの女王クレオパトラが、ペルシア遠征のアントニウスをエウフラテス河まで見送っての帰りに、ダマスクスから道をユダヤに取ってエルサレムに訪ねて来た。アリストブルスの母アレクサンドラは衷情を披瀝して息子の身の安全を相談した。クレオパトラは機会があったらユダヤをもエジプトに併合したいという下心があったし、ヘロデに対してはもともと好感を持ってなかったので、その相談に乗り出し、アレクサンドラに息子をつれてエジプトへ来るようにと勧めた。事は秘密に計画されたけれども、船に乗る直前にヘロデの部下の者に見破られて、遮られた。ヘロデはクレオパトラを暗殺しようとさえ企てたけれども、アントニウスの復讐を恐れて中止した。しかしアリストブルスを巧みに欺いて庭苑内の池の中で溺死させた。母のアレクサンドラは憤慨して、手紙でクレオパトラに訴えた。クレオパトラはアントニウスに使を出して彼を動かした。アントニウスはラオディケア(トルコ)にいたが、ヘロデを呼び寄せて詰問した。その時ヘロデは王妃マリアムネをエルサレムに残して出発し、腹心の部下の者に命じて、もし自分の一身上に大事があったら、逸早く王妃を殺せと言いふくめた。それを知ってマリアムネは、ヘロデが帰って来ると、明らさまにヘロデを責めて彼の愛を否定した。ヘロデはマリアムネを殺した。
 悲劇は悲劇を産んだ。ヘロデの二人の息子(マリアムネの産んだアンティパテルとその弟)は、ヘロデが次第に老齢に入ったので、ローマから呼び返された。彼等は母系の血統のために人民に人気があった。けれども長くローマの生活に馴れて、ユダヤ風ではなかった。それが却って父の自慢でもあった。けれどもヘロデの弟妹はアスモネウス家の血を引いた王子の勢力を喜ばないで、ヘロデに中傷した。ヘロデは自分の息子を疑い出した。ヘロデには多くの妻妾があった。マリアムネの死後はサマリアのマルタケが閨房の勢力を独占していた。エルサレムの王宮は陰謀と策動の巣窟となり、血で血を洗うような事件が続出した。その陰惨な空気の中でヘロデは晩年を送らねばならなくなった。マリアムネの産んだ二人の息子は王位簒奪の謀計を実行しようとしていると知らされ、ヘロデは遂に二人の息子を絞刑に処したが、その後から謀計者は却ってヘロデの弟であったことがわかり、彼をも絞刑に処した。
 そういった事件の瀕出で、さらでだに狂暴なヘロデはますます狂暴になった。そこへ東方の博士たちが救世主出現の星の跡を追うてエルサレムを通り過ぎたので、赤ん坊のキリストを殺そうと考え、その所在がわからなくなったので、ベトレヘムの嬰児鏖殺を行ったことは前述の如くである。

    四

 二代目のヘロデは、マルタケを母としたアンティパスで、キリストの同時代人だった。『新約』にヘロデの名で出ているのは、此のヘロデス・アンティパスのことで、キリストに「狐」と呼ばれたヘロデである。(『ルカ伝』一三・三二)
 此のヘロデについての最も著名な事件は、洗礼者ヨハネの首を斬ったことと、裁けといわれたキリストをピラトに送り返したことである。
 ヨハネとキリストは母同士のつながりから親戚の間柄で、年はヨハネの方が半歳ほど上だった。長くユダヤの曠野をさまよい、殊にヨルダンの流域で説教して「神の国は近づけり」と叫び、予言者エリヤの再来といわれ、民衆に多大の信頼を受け、ヘロデさえ彼には一種の畏敬を感じていたといわれる。キリストが彼に洗礼を受けた時、二人は三十歳前後だったが、ヨハネはキリストを自分よりも遙かに偉大な者と知っていた。やがてヨハネはヘロデに殺された。それはなぜかというと、ヨハネがヘロデの不倫の結婚を非難したからだった。ヘロデは初めアラビアの王女を妻としていたが、弟のフィリポの妻ヘロデアに懸想し、フィリポのローマヘ行っている留守中にヘロデアと同棲した。(同時に前の王妃はアラビアに逃げ去った)。それをヨハネはあからさまに厳しく批判したので、ヘロデアはヨハネを殺したく思った。けれども彼女にはどうすることもできなかった。ヘロデにとっては、予言者として人民に尊敬されてるヨハネであったから、捕えて土牢に入れたけれども殺すつもりはなかった。ところが、ヘロデの誕生日の祝宴にヘロデアの娘サロメが踊って、賓客たちをいたく喜ばしたので、ヘロデは満足のあまり何でも所望のものをその場で与えようと約束した。サロメは母に相談した。母はヨハネの首を所望せよといった。サロメはそれを所望した。ヘロデは躊躇したけれども、遂に獄卒に命じた。獄卒は洗礼者の首を銀の盆に載せて持って来た。そのことはマタイもマコも記しているが、近代人はオスカー・ワイルドの劇で最もよく知っている。
 それはヘロデの心によほど忘られぬ印象を与えたと見え、間もなくイエス・キリストの名が広まった時、彼は洗礼者ヨハネが蘇えったのだろうといった。最後にキリストがエルサレムに来て、パリサイ人の奸計に陥り、捕えられてローマの太守ピラトの前に引かれると、ピラトは彼をヘロデの手に渡した。ヘロデは初めてキリストを見たが、評判にも似ず、魔法も奇蹟も演じないのでつまらなくなり、彼をばピラトに返した。ピラトもヘロデもキリストの罪を認めなかったけれども、キリストは十字架の上に磔りつけられたことは皆人の知る通りである。その時の社会情勢をキリストに最も縁の遠いピラトとその友人の側から描いた短編がアナトール・フランスにある。
 そんなことを思い出しながら見て歩いていると、キリストもマリアも何となく親しみが感じられるのは、ヨーロッパに於いての如く、壮厳にきらびやかに飾り立てられた寺の中や美しく塗り立てられた絵の前でなしに、エジプトでは、キリストが話しかけたであろうと同じようによごれた着物や跣足の間に交って、その影像を描いて見ることができるからだろうと思われた。

    五

 カイロでは今一つマリアとキリストの遺跡を[#「遺跡を」は底本では「遺跡をを」]見た。
 ニルの上流地方から帰って来てからだったが、カイロの町を南へはずれ、ローダの島を右に見て、ニルを遡りつつ、シャリ・エル・カスルの通をまっすぐに行くと、旧カイロと呼ばれる区域に達する。昔バビロンと呼ばれた都の跡で、クリスチャンの居住区域である。今も住民の多くはコプトだそうだが、町角に車を止めて、カスル・エム・シャムとかいった裏町の、アラビア風の白壁の、唐草模様の木格子の嵌まった[#「嵌まった」は底本では「嵌まつた」]家々の並んだ狭い小路を曲りくねって行くと、アブ・サルガ(聖セルギウス)の教会と呼ばれる小さい古い建物を見出す。モハメド教徒侵入以前の教会として伝えられているけれども、それは地下塋窟クリプトについてのみ真実で、上の部分は多分九世紀の中頃に改造されたものだろうという説が正しいと思う。
 様式はバジリカ風で、エジプト・ビザンティウム式教会の原型的なものである。建物は長方形で、西の隅の入口から入るとすぐ前房で、中央に方形の洗盤があり、それに続いて内陣があり、内陣は本来は男の会衆の席で、女の会衆の席は前房から右へ折れた廻廊であるべきだが、今は本陣を二つに仕切り、右が男の席、左が女の席となっている。本陣の両側は型の如く側堂で、本陣の先には一段高くなって内陣(唱歌席)があり、その先の突きあたりの中央にはヘイカル(聖所)と呼ばれる半円形の壁龕になった祭壇があり、その左右に礼拝堂が一つずつある。
 入って一番に目を惹くものは、本陣の周囲に立つ十二本の大理石(内一本だけは花崗岩)の円柱と、祭壇と礼拝堂の前に置かれた木製の仕切屏風で、その上には『聖書』からの二三の事件が巧みに浮彫で描かれてあった。
 クリプトには内陣の片隅から石の階段を踏んで下りるようになっている。その階段以下が此の建物の最古の部分で、イスラエルの国から逃げて来たマリアが赤ん坊のキリストを抱いて一個月間潜んでいたと伝えられる所はその下にあるというので、私たちは下りて行こうとしたが、石段を下りきらないうちに、水が一ぱいに湛えていて立ち止まらねばならなかった。一体これは何だと聞くと、ニルの水が氾濫期になって侵入したのだとサイドは説明した。石段の中途から薄暗くなってよく見えなかったので、初めはそれが水だとは気がつかず、私は先に立って下りていると、後からサイドに腕をつかまえられて立ち止まったのだが、危うく水の中に片足を突っ込むところだった。こごんで鉛筆で深さを捜ろうとしたら、鉛筆は皆隠れ、指の先がやに色に染まった。その濁水のしみはエジプトの土地を離れるまで消えなかった。数日の後、アレクサンドリアからイタリアの汽船でロードスへ行く時も、まだそのしみが気になって、キャビンの洗面所で何度も石鹸で指を洗ったほどだった。
 そこで最後の石段の上にこごんだまま奥の方をすかして見ると、広さは三間半に二間半もあろうか、割合に小さいクリプトで、丁度上の内陣の真下にあたり、大きな円柱が幾つも立っていて、下の方は水に浸ってるのが、水がどんよりと暗く湛えて泥地の如く見えるので、円柱がいやに短いような印象を与えた。その円柱は本陣と側堂の仕切になっていて、つきあたりの正面が祭壇だが、それは初期の地下塋窟の見本ともいうべき壁龕になってるらしく、其処にマリアと赤ん坊のキリストは起臥していた。というよりは、その片隅に聖母子の起臥していた中庭を後でクリプトの形に改修したのであろう。カイロの町の古い部分の市場へ行って見ると今も見られるが、カーンといって内庭を持った二階建の倉庫風の宿屋がある。昔はその内庭に夜になると家畜を追い込んだが、宿屋に泊れない人間はその片隅に寝せて貰う習慣があった。エジプトからパレスティナへかけてそうだった。マリアとヨセフがベトレヘムの牛小屋に泊っていたというのもそういう場所であっただろうし、エジプトへ来て、バビロンのカーンの片隅に夜露を避けていたというのもそういう事情からであっただろう。そのカーンの跡が、キリストが尊敬されるようになってから、それをクリプトに造り変えて、その上に寺を建てたものと思われる。それはコプトの信仰の盛んになった六世紀頃のことだと推定されている。
 コプト Copt はアイギュプティオス Aigyptios またはエギュプト ※(リガチャAE)gupt(即ちエジプト Egypt)の転訛で、エジプト土着のキリスト教徒のことを今はそう呼んでいるが、彼等はモハメド教徒侵入前から既にエジプト各地に教会を建てて熱心な信仰を持っていた。今日でもコプトの数は七十万以上あるといわれ、中には福音書を全部暗記してる者さえあるそうだ。服装は回教徒のアラビア人と区別がつかないが、外貌はずっときゃしゃで、顔も明色に近い。昔のエジプト人を偲ぶにはコプトを見るのが便利だと注意されたが、今エジプトの到る所に充満してるアラビア人(といわれているが、純粋のアラビア人はエジプトには殆んど見られない)とはまるでちがった形貌である。
 私はそういったコプトがキリスト世紀の初期にニルの沿岸にすでに堅固な信教団体を組織して Monophysites(キリストの神人合一性を主張する一宗派)を形づくっていたことを考え、ひそかに敬意を感じながら石段をあがり、もとの本陣へ戻って来ると、さっき前房のあたりをうろついていた牧師(だとは初めは気づかなかった)が、いやに飾り立てた法服をまとって絵端書を手に持って其処に立っていた。回教徒のサイドは私たちを代表して彼に銀貨をつかました。私はその牧師から絵端書を一組買い取った。その取引がすんで、私たちはまだ見なければならないものがたくさん残っていたので――哈利発ハリハの墓、マメリュクスの墓、等、等――急いでアブ・サルガを辞した。私が最後に出た。すると、今まで入口にいて何か仕事をしていた一人の男が私を呼び止め、小声で、バクシシユ、ジェントルマン、と片手をさし出した。ノウ、ノウ、バクシシュはまとめて坊さんにやったのを君は見ていたじゃないか、というと、彼はふくれつらをして踵を回した。
(昭和十三年)





底本:「世界紀行文学全集 第十六巻 ギリシア、エジプト、アフリカ編」修道社
   1959(昭和34)年6月20日発行
底本の親本:「西洋見學」日本評論社
   1941(昭和16)年9月10日発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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