七重文化の都市

野上豊一郎




 Augescunt aliae gentes, aliae minuuntur ; inque brevi spatio mutantur saecula animantum, et quasi cursores, vitae lampada tradunt.
          ―――Lucretius[#「Lucretius」は底本では「Lucretitus」]

    一

 カイロの町は、東洋でもなければ西洋でもない謂わば東洋と西洋の奇妙に融合した特殊の外貌を持っていて、旅行者にはたしかに一つの大きな魅力である。殊に私どものように、印度洋の諸港を次々に見物して、紅海からスエズ地峡を抜け、地中海を横断して、西洋の境域に入ろうとする者には、カイロは地理的にも文化史的にもまず見て置くべき都市である。
 N・Y・Kの船が夕方スエズに着くと、その以前に船客の中からカイロ観光の希望者を募集してあって、幾台かの自動車に積み込み、徹宵アラビアの沙漠を横断して、翌日カイロの町と博物館とギゼのピラミッドを見物させ、船がポート・サイドに入る頃までに汽車で其処へ落ち合えるようにスケデュールを作る。これは親切な工作ではあるが、エジプト文化のすばらしい御馳走のほんの匂いだけ嗅がせるようなもので、却って充たされない食欲の誘惑となりはしないかのおそれがある。エジプトの古代文化の偉大を知るためには、どうしてもしばらくエジプトに滞在しなければならない。そうして、ニルの沿岸をできるだけ上流へ溯らなければならない。私たちはそのつもりで計画を立てていたから、例の観光団には加入しない、ポート・サイドまでスエズ地峡を船で通った。
 ポート・サイドに着いたのは十月三十日(一九三八年)の午前八時頃だった。地峡の左側の岸を船と殆んど同時に小さい列車が町へ入って来た。カイロ見物の観光団はそれで帰って来たのだ。其処で私たち二人は、日本を出て三十日目に靖国丸にさよならをして、初めてアフリカの土を踏んだ。長い間想像していたエジプトの驚くべき文化の遺跡が今に見られると思うと、異常な亢奮を感じた。もちろん、現在のエジプトの人間の動きや風土の変化をも見たいと楽しみにしてはいたけれども。
 その日、午前は大野領事の厚意で市内と近郊をドライヴしていろんなものを見せてもらい、此の町に店を持ってる南部氏の世話で丁度カイロから来ていた通訳ドラゴマンサイド・マブロウグを傭うことにして、午後早目にポート・サイドを立ってカイロに向った。鉄路約一五〇マイル。

    二

 汽車はイスマイリアまでは地峡の西岸を、船で通ったと反対に南へ走り、それから西へ折れて、強烈な陽光の下に威勢よく伸びてる三角州デルタの植物の濃緑の間を、ベンハという大きな駅へ出て、また南へ曲り、トゥクフとかカリウブとかいう所を過ぎた。ニルの沿岸に起伏する山脈が遠く姿を現わすのはその辺からで、行くに随って右手にはギゼのピラミッドが三つ並んで小さく見え出し、その先にはリビュアの沙漠が大洋の如く連り、左手にはアラビアの沙漠の裾が少しばかりのぞいて、手前にモカタムの岩山が横たわり、その端に聳えてるサラディンの城が目を見張らせる。かと思うと、その下に黄塵の如く拡がっているのがカイロの町であった。傾いた太陽の反射でそんな錯覚を起したのだろうが、よく見ると、灰黄色・淡褐色・白色の石塊を撒き散らしたように街衢が交錯して、その間に回教伽藍モスク円屋根キューポラ尖塔ミナレットのおびただしい聚落がある。サイドに聞くと、カイロにはモスクが大小四百ばかりあるそうだ。カイロが回教都市だということは知っていたけれども、そんな盛んな回教的第一印象を受けようとは思わなかった[#「思わなかった」は底本では「思わなった」]。それは北緯三十度の、十月尽とはいいながら、まるで日本の夏の盛りの如き灼熱の日光の下に、もやもやと蒸し返された夕靄の底から、無数の石筍の簇生を発見したような驚きであった。
 そうやって初めてカイロを見た時、私は昔の侵略者たちが此の辺からそれを俯瞰して勇躍した心持を想像した。実際、カイロほど、しばしば外国人に侵略された都市はあまりないだろう。もしエジプトはエジプト人のエジプトでなければならぬとするならば、今のエジプトは侵略されたままのエジプトであり、カイロは侵略者の都市だから、エジプトは本来のエジプトでなく、カイロはまたエジプトの首都ではないということになりそうだ。そんなことを考えているうちに、列車は薄暮の渾沌カオスの町へと滑り込んだ。公使館の勝部書記官と、私たちと同県の阿南君が停車場に迎えてくれた。
 忙しい見物がその晩から始まった。
 まずカジノ・ベバというのに案内してもらった。他にもヨーロッパ風のカジノやオペラはいろいろあるけれども、カイロではカイロらしい土俗を見たいと思った。カジノ・ベバは浅草か本所あたりのさかり場といったような感じのする区域にあって、あまり広くもない土間にはアラビアの若者たちがぎっちり詰まっていて、綺麗な少年や少女が唄ったり踊ったりするのを囃し立てていた。
 映画館に行くと、トーキーはフランス語でしゃべっているが、説明の字幕は左端にアラビア語、右端にギリシア語が出た。フィルムはフランス物が多かった。
 市街で買物をするにはフランス語でも英語でも用事は足せるが、ギリシア語かイタリア語の方が便利のようだ。バザーへ行くと、しかし、アラビア語でないと幅がきかない。カイロのバザーは、イスタンブルのバザー、ダマスクスのバザーと並んで世界の三つのバザーといわれる。バザーは回教国に特有のもので、特長の一つは、同種の店が同一区域内に集まってることで、宝石屋の通は軒並に宝石屋ばかり、絨氈屋は絨氈屋同士で群落をなしている。バザーへはサイドをつれて車で出かけたが、街路が狭くて二台とは並べないので、たまに向からも車が来たりすると厄介だ。往来には土地の男女がぎっちり詰まって極めて緩慢な動き方をしてる。その中を驢馬に曳かせた馬車が押し通って行く。鞭が唸り、リグラク・リグラク! ウワ・ウワ! と鋭い声が叫ぶ。それに圧倒されて通行人はのそのそと道をあける。自動車は更に圧倒的であるべきだが、いずれ徐行するだろうとたかをくくってか、通行人の方ではのそのそでなしには避けない。自動車が驢馬車に出っくわすと、驢馬の魯鈍にはかなわないと見え、いつも自動車の方が譲歩する。
 カイロの町の旧い区域は街路が狭く、曲りくねっていて、家は二階の方が一階よりも出っ張って居り、薄暗い往来の上をうごめいている人間は、アラビア人だか、シュリア人だか、アルメニア人だか、トルコ人だか、ユダヤ人だか、コプト人だか、ベドゥイン人だか、通りすがりの旅行者には容易に見わけがつかない。モハメド・アリ通を中心とする新市街はヨーロッパ風の豪華な町並で、通行人もヨーロッパ風の服装の者が多いが、旧市街部へ行くと昔のままの家屋と風俗で、多少穢くはあるが、見た目には絵画的だ。男は白か竪縞の長い寛衣の裾を引きずり、頭に※(「巾+白」、第4水準2-8-83)ターバンを捲き立てている。ターバンは七捲がきまりだが、いちいち捲かないでもよいように捲いた形に縫いつけて、すっぽりと冠れるようになっている。色は白が多いけれども、黒・紺・赤などもある。(メッカ巡礼には緑のを捲くそうだ。)もとは種族的・階級的の色別だったが、今日では必ずしもそうではなくなったということだ。女は上層の者はめったに外出しないので、われわれの目に触れるのは下層の者か、たまに中層の者である。服装は一様に黒ずくめで、バルクといって目だけ出して足の爪尖まで垂らした黒布の上から、ハバラという黒い被衣かつぎを掛けている。装身具は耳環・頸環・腕環・踝環などで、上物は金銀、普通は真鍮、安物はガラスなどで出来ている。われわれの目に最も奇異に映るのは、多少身分のある女が目を出して鼻を隠してることだ。目は巴旦杏アマンドのように大きく見開き、長い睫毛が美しく蔭をさして、それが全身を包んだ黒紗のバルク(その下に白紗を重ねている)の間からのぞいてるのだが、目だけは出してよいけれども、その他のものは見せてはならないという掟でもあるものか、鼻の付根からヤシマクとかいう長さ二三寸の金属や象牙で出来た管を付け、その管にはきまって金環が三つ通してある。尤も、近代はそういった風習も次第に下火になったそうで、面紗なしで往来を濶歩する女も多く見られる。もちろん男もヨーロッパ風の服装をした者が多く、それでも黒房のついた赤いタルブシュ(謂わゆるトルコ帽)だけはかぶっている。われわれの親愛なサイド君も、脊広を着て、そのでっかい頭の上にはタルブシュを必ず載っけている。彼は時時短い鞭を携帯する。郊外や田舎へ行くと女子供が乞食のようにたかって来て、バクシシュ・バクシシュ! と手をさし出す。それをわれわれから防いで追っ払うためだ。

    三

 カイロで見るべきものは何といってもエジプト古代博物館である。けれども、それは貴重な記念物を方方から寄せ集めた陳列所で、昔からその場所を占めている遺跡ではない。古来の遺跡としては、カイロにはローマ時代以前の物は殆んど見られない。ローマ時代の物といっても、僅かに城砦の礎石と水道の一部ぐらいである。及び、二三の初期キリスト教寺院の遺跡もあるが、それとても当時の建造物が保存されているのではなく、昔の遺跡の上に建てられた中世の建物である。今日カイロの誇りとしてる建造物といえばすべて中世以後のモスクと墓と、及びサラディンの築いた城砦である。文化史的にいえば、カイロの誇りとするものはすべて回教的なものでありアラビア的なものであって、パロ的なもの・エジプト的なものではない。
 これはエジプト的なものを求めようとする旅行者をば一応失望させないでは措かない。
 けれども、カイロの発展の歴史を考えて見ると、必ずしもその範囲を今のカイロ市その物に限定しなくてもよい理由がある。というのは、カイロは昔から何度も位置を替えて移動した都市であり、その移動の径路を跡づけて行くと、初めは今のカイロの南方約十二マイルのメムフィスの土地から発展したことが発見されるから。そうしてカイロはメムフィスから発展した都市だとなると、少くとも当初は最もエジプト的に特長づけられていた筈なのに、それが却って今日では最も回教的な最もアラビア的な色彩を持つようになったというのは何故だろう?
 それを理解するためにはカイロ発展の沿革について一瞥する必要がある。
 エジプトの王祖といわれる第一王朝の最初のパロなるメネスは、南北エジプトを統一して「白壁」と呼ばれる壮大な王城を建てた。それがメムフィスであった。メムフィスはエジプト人がメン・ネフル・ミレー(ミレーの美の町)と呼んだのをギリシア語にした言葉である。ミレーは第六王朝の王ペピ一世のことで、彼はメムフィスを拡張して美しい大都市にした。その頃、メムフィスは、ヘリオポリス(カイロの北東約五マイル)と並んで三角州デルタの殷賑の中心だった。ヘリオポリス(日の町)は字の如く太陽礼拝の土地だったが、メムフィスは技術の神プタ※(小書き片仮名ハ、1-6-83)礼拝の土地で、多くの殿堂・宮殿の中でもプタ※(小書き片仮名ハ、1-6-83)の殿堂がすぐれて見事だったといわれる。しかし今は何物も遺ってない。棕櫚の木の繁茂の間からラメセス二世の二つの巨像と手頃なスフィンクスが一つ発掘されただけである。メムフィス創始の年代は半ば伝説的で正確なことはわからないけれども、メネスのエジプト統一が(ブレステッドに従って)紀元前三四〇〇年頃だったとすれば、メムフィスは今から五千三百年以前に開けた都だということになる。其処で繁栄は千年以上つづき、中期王朝時代に上流のテバイの新都が始まるまで首都だった。
 テバイが首都になると共に、三角州デルタの政治的勢力は衰微し、長い間メムフィスにあった活動力は次第に河を越して対岸に移り、北へ北へと動いて、一つの新しい活発な商業都市を作り出した。バビロンと呼ばれたのがそれであった。バビロンも長くつづき、降ってローマ帝国時代が繁栄の絶頂で、トラヤヌス帝は其処に城砦を築き防備を固めた。その頃は古代エジプトの王統はすでに絶え、ギリシア統治時代も過ぎ去り、ローマの支配の下に、初期キリスト教は迫害に抗しながら根強い力で弘まりつつあった。カイロを初め、エジプトの各地に、今日もコプトのキリスト教が相当に信者を持っているのはその頃からの子孫だといわれる。それ以前にマリアが赤ん坊のキリストを抱いてユダヤ王の迫害からしばらく隠れていたのも今のカイロ付近だった。実際、エジプトのバビロンといえば、その頃は昔のアジアのバビロンよりも有名だったが、今もカイロの郊外にデイル・エル・バビロンの名が残っている。
 七世紀の前半にアラビア人の侵入が始まった。哈利発ハリハオマルの派遣したアムル・イブン・エル・アジという猛将が攻め込んで来て、バビロンの城砦を陥れ、エル・フスタト(フォスタト)と呼ばれる都市を作った。今のカイロ市の南に隣接する謂わゆる旧カイロがその記念として残ってる区域で、エジプトの回教化はその時代から間断なく行われた。フスタトの語意についてはいろんな説があるが、ローマ人がバビロンの城砦に外濠を繞らしてフォサトゥムと呼んでいたのを、アラビア語化してフスタトとし、陣営の意味で用いたという説が妥当らしい。スタンリ・レインプールの『中世』に拠ると、その時アラビアの侵入軍は破壊したバビロン城砦の付近に陣営を張ったまま長駆してアレクサンドリアを攻略し、帰って来てその陣営フスタトの位置に新都市を経営した。それがエジプトに於ける最初のアラビア都市で、後のカイロは其処から発展したフスタトである。新しい宮殿やモスクが次々に建てられた。
 その後トルコ人がエジプトに勢力を得て、フスタトの北部(即ち今のカイロ市内の区域)に新都市を拡げ、マスル・エル・フスタト或いは略してマスル(またミスル)と呼んだ。現在イブン・トゥルンのモスクを囲む一廓がその頃の遺跡として残っている。名称も今なおマスル・エル・アティカ(旧マスル)と呼ばれている。マスル(ミスル)はエジプトを意味するアラビア語である。
 やがてトルコの勢力はまたアラビア人回教徒のために駆逐され、九世紀の末葉にはアハメド・イブン・トゥルンがマスルを拡張し、十世紀に入っては更にギリシア系の哈利発ハリハムイズの代官ガウハル将軍が宏大な城廓を築いて市街を整頓し、モスクを建て列ね、町の名をもマスル・エル・カヒラと改めた。後に回教大学に改変されたガミ・エル・アザールもその頃建てられた。エル・カヒラ El-K※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)hira はアラビア語のカヒル K※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)hir(火星)の転訛で、それが都市の名称となったについてはおもしろい記録が残っている。九六九年八月五日の夜、ガウハル将軍は新都市の設計を完了して、砂原に繩張をし、占星者が天体を観測して、吉兆の瞬間に鐘を鳴らせば、最初の鋤が入れられるように用意して、土工たちは合図の鐘を待っていた。その時、一羽の大鴉が鐘の柱につないだ綱にとまったので、鐘が俄かに鳴り出し、土工たちは一斉に鋤を入れた。その瞬間、観測者の眼鏡に火星カヒルの上るのが見られた。それでカヒラと新都市は命名されたが、アラビア人の伝説で火星カヒルは不吉の兆とされていた。けれども同時に火星カヒルは軍神(ローマのマルス)でもあり、勝利者を意味するということに故事つけて、カヒラは以後「勝利の町」として理解されるようになった。
 近世に入ってカヒラは再びトルコ帝国の支配下に属したが、ナポレオンの指揮するフランス軍の侵入のためにそれを抛棄しなければならなくなり、その機会を利用してモハメド・アリが奮起し、またアラビア人が主体となって、古いモスクを修覆し、新しいモスクを建立し、都市に近代的設備を施して今日のカイロを造り上げた。カイロ Cairo はカヒラのヨーロッパ語化である。町の名がヨーロッパ化したと共に、都市その物の実質もヨーロッパ化したのは、フランスとイギリスの勢力がエジプトを動かすようになった結果で、それがカイロの現状である。
 そんな風にして、カイロは五千五百年間に複雑な変遷を経験したのであるが、それを大まかに区劃すると七通りの変遷をしたことになる。初めは(一)古代エジプト王朝発祥の地としてメムフィスの名で長い間知られ、次に、エジプト[#「エジプト」は底本では「エジプと」]王朝没落後(二)バビロンの名でローマ帝政時代の遺跡を留め、初期キリスト教の流布に貢献するところが多かった。次に中世に入っては(三)アラビア人に依って回教化され、フスタトと呼ばれて今の旧カイロの部落を残し、更に(四)トルコ人の治下でマスルと呼ばれて今のマスル・エル・アティカの区域を残し、次に(五)ギリシア系回教徒に依って今日のカイロの基礎が置かれ、名称もカヒラと改められ、次に近世に入って(六)カヒラはカイロとなり、中世以来の回教都市はその上に国際都市的色彩を加えた。それには(七)フランスとイギリスの勢力が根強く潜在するようになったのを見遁すことはできない。つまり、七種の文化が七重に堆積して出来上った複雑怪奇な都市でカイロはあるということになる。
 そうしてその変遷の過程を跡づけて見ると、発展の径路はニルの左岸に始まって右岸へ移り、更に南から北へと移動している。これは一つはニル流域の地理的変化に因るといわれるが、一つはまた時代に依って変った交通機関の影響もあっただろうし、更にまた新しい侵入者がいつも古い都市を灰燼にする習慣のあったことも考慮に入れなければならないだろう。
 とにかく、そんな風にして都市が動き変り、古い物の上に新しい物が重ねられ、その度に文化の様式が改変され、以前からの種族の中に別の種族が割り込み、殊に近代に於いては近東地方からもヨーロッパ諸国からも多くの種族が流れ込んで、全く今日のカイロは宛然たる人種市場の如き景観を呈するようになってしまった。

    四

 私たちはニルの奥地へ行く前と、帰ってからと、毎日時間を都合してカイロの町と郊外を見て歩いた。諸種の博物館(エジプト古代博物館・アラビア民族博物館・等)に入ったり、モスクを訪問したり、哈利発ハリハの墓やマメリュクスの墓を見たり、コプトの教会へ行ったり、サラディンの城に上ったり、ローマ時代の城壁を横ぎったり、水道の遺物を眺めたり、また大通を歩いて見たり、裏町を抜けて見たり、公園を散歩したり、動物園を訪ねたり、カフェで休んだり、夜店をひやかしたりして、あらゆる角度からカイロの(同時にエジプトの)概念を作り上げようと試みた。
 その場合、いつも突きあたって解決に苦しんだ問題は、一体、カイロは(或いはエジプトは)誰の町であるか?(また誰の国であるか?)ということだった。
 或る都市に幾ら外国人が多く居住していても、例えばロンドンならイギリス人の町であり、パリならフランス人の町であり、ローマならイタリア人の町であり、ベルリンならドイツ人の町であることに問題はないが、そういった意味で、カイロは何人なにじんの町だといったらよいのか? エジプト人の町だといえるなら簡単だが、それでは、エジプト人とはどんな国民かと考えて見ると、また厄介なことになる。
 文化的にエジプト人というと古代王朝時代のエジプト人のことで、彼等の功績は古代ギリシア人の功績に優るとも劣らないほど偉大なものだったが、それはもはや今日地球上に存在しない。血族的にその子孫といわれる者は残っていても、文化史的にすでに無価値な人間である。丁度ギリシアにギリシア人と称する者は生きているけれども、古代の輝かしい文化の生産者だったギリシア人とは文化史的に殆んど何等のつながりをも持たないと同じように。その意味で今日のエジプトは、三千年乃至五千年前のすばらしい文化の遺跡となってしまい、その文化の直接の後継者がいなくなったがらんどうの空地のようなものである。その空地には古代エジプトの文化と無関係の侵略者が押し入り、断えず争ったりいじめ合ったりして来たのである。
 地理的・政治的にいうと、近代エジプトの人口を構成している人種はざっと十種を数えることができる。まず古代エジプト以来の遺族と認められる者が二種ある。その一は(一)フェラヒン(農民)と呼ばれ、エジプト人の人口の大部分を占め、すべて耕作者で、主としてニルの上流地方に居住している。人種学的にはコプト人と共にハム種族の直系と認められ、謂わゆる「エジプト人」だが、政治的には全く無能である。女は結婚しても年とっても決して肥大せず、濃い睫毛が蔭深く密生して切れの長い目を際立たせるのが特長であり、男は数千年来の習慣で皆頭を剃りこくっている。色は両性とも相当に黒く、顴骨が突起して唇が相当に厚ぼったく、見たところいかにも賤民らしく、事実、今日に於いても賤民である。古来頻繁な外敵侵入にもかかわらず、彼等に比較的純血が保たれてるのは、早婚(女は十歳から十二歳で婚姻する)が主な理由だとされている。古代エジプト人の遺族の今一つは(二)コプト人で、早くからキリスト教化され、今日に至るまで世界のどの種族より『福音書』を厳正に信じ、それに依って生活してるといわれるだけあって、血の純粋もよく保たれているという。皮膚の色はあまり黒くなく、骨格も比較的きゃしゃであり、技能は精密な細工物にすぐれ、多くは都市に居住している。それもルクソルとかアスアンとかの上流地方の都市に居住する者が大部分で、カイロにもいるようだが、要するに小市民で、活力の範囲は制限されている。
 以上は古来土着の「エジプト人」であるが、侵入者としては、(三)ベドゥインというのがある。元来沙漠に住むアラビア人で、その中にもいろんな種類があるが、エジプトに流れ込んでるベドゥインは概して温良で、多くは遊牧的生活者である。皮膚は青銅色に近く、頭髪は濃く、体格はやや瘠せ気味で、労働に適しそうで、そのくせ怠け者が多く、カイロ付近にもいて、ギゼ[#「ギゼ」は底本では「ギセ」]のピラミッドの胴内に入ると必ずベドゥインに案内されるが、ひどい体臭に悩まされる。次には(四)都市居住のアラビア人がある。エジプトの到る所にアラビア語が一番多く用いられてる事によってもその勢力は想見される。職業としては、上は官吏・商人・医師・技師・弁護士等から下は召使・御者等に至るまで、その生活様式は広汎に亘り、近時は科学芸術方面にも進出する者が多いとのことで、従って回教イズラムの信仰も彼等の間では弛んで来たそうだ。私たちは丁度ラマダン(回教の斎戒断食の月)の期間にエジプトを見て廻ったが、そういえばその斎戒なるものもかなり形式化してるように見受けられた。次には(五)トルコ人。これは昔の支配時代の盛んな勢力にも似ず、今では甚だ微力で、官吏・軍人・商人の中に少数交っているが、トルコ語がエジプトでは殆んど通用しないのを以っても、勢力のなくなってることが想見される。次には(六)シュリア人、その他近東アジア人。これ等は先祖を忘れてアラビア語を母語としてるが、それでも言葉の習得に達者で、近代ヨーロッパ語をよく話し、店員として重宝がられ、領事館などにも使用されてる者が多く、しかし政治的・社会的には非力である。次に(七)アルメニア人がある。ユダヤ人と共に金儲けにかけては抜群の素質を持つ種族で、語学の方面でもすぐれた才能を示し、貴金属・宝石類を取扱って資産を作り出す者も少くないということである。次には(八)ユダヤ人。その数は少いが天成の素質を利用してエジプト財界の中心力となっているという。
 次に蕃人の系統に属するものとしては(九)ヌビア人がある。エジプトでバラーブラといわれるのはヌビア人のことで、ニル上流地方に多く住んでいる。昔からエジプト人とそりが合わないで、今日でもエジプト人(フェラヒン)との間では婚姻が行われないそうだ。アスアン付近に行くと殊に多くのヌビア人が見られるが、皮膚の黒さは煤で塗られたようである。耕作が嫌いで、家僕となるように出来て居り、その方面では正直で潔癖で使用者に喜ばれる。カイロのホテルや料理店レストランには到る所に彼等が白の寛衣に赤帯を締めて食卓のサーヴィスをしてる姿が見られる。私たちが、アスアンでフィレの島へ小舟を雇った時、ヌビアの子供が四人で橈を漕ぎ、年とった親爺が舵を引いた。子供には可愛らしさもあったが、親爺の方は干し固めたように痩せしなび、真っ黒な額に白髪が乱れかかり、目がぎょろりとしてるところは、葬頭河そうずがの奪衣婆を男にしたようで、いかにも物凄く、広々とした江上に漕ぎ出した時はさすがに少し気味がわるかった。その実、物凄さは見かけ倒しで、恐らく気質は素樸なのだろうけれども、見た目にはたしかにバラーブラの印象を与えられた。ヌビア人は種族的に皆回教徒であるが、(一〇)スーダン人もそうである。スーダンはヌビアよりも更に上流の山地で、其処から昔奴隷としてエジプトに売られた者の子孫が多く、また近頃流れ込んだ者も少くない。家僕としてはヌビア人以上に使いよいというのが定評である。
 以上が今日エジプトを形成してる人間の概観である。その外にエジプトに定住してるヨーロッパ人も相当の数があり、一番多いのはギリシア人で、次がイタリア人、その他イギリス人、フランス人、ロシア人、ドイツ人を初め、ヨーロッパの大がいの国人が定住し、アメリカ人も相当に定住している。そのうち、ギリシア人についていえば、彼等は商人としてはエジプトに於いて成功してるほど他国では成功しないそうだが、移民の大部分は下層生活者で、ただ数の多いのが特長である。数は少いけれどもエジプトで重要な仕事をしてるのはイギリス人とフランス人である。
 しかし、だからといって、カイロをイギリス人の町ともフランス人の町ともいうことはできない。カイロは何といっても上に述べた十または九つの人種(フェラヒンだけは地方居住者だから取り除けにして)の寄合世帯の町という外はない。雑多の者が集まっててんやわんやの生活様式を作り出してる不思議な町である。
 カイロについての観察はまたそのままエジプトについても適用ができる。

    五

 或る民族は栄え、或る民族は滅び、長い目で見るとわずかの間に時勢が転変する。そのことをルクレティウスはギリシアの炬火競走に譬えて、先の走者が後の走者に生命の炬火を渡すようだといった。彼は物質の発生分子はいかなる運動に依って別の物を産み出し、またすでに生れてる物を解消させるかを論じて、事物の更新に説き及ぼし、延いて人間の仕事の集積としての国家の興亡にも触れているが、その意識の中にはローマがギリシア文化の炬火を受け継いだことが思い浮かべられていたのだろう。しかし、ギリシアの前にエジプトは長い間文化の炬火を振りかざして駆けていたのである。
 エジプトが古代に於いてその輝かしい姿を現わしていた時、エジプトと一緒に駆けていた仲間には、バビロニアがあり、アッシュリアがあり、ハティがあり、クレタがあり、その他、地中海沿岸の多くの群小競走者があった。けれどもエジプトの大跨な快足に及ぶ者はなかった。エジプトは駆けるだけ駆けて、その炬火をギリシアの手に渡した。その後、炬火は次々に西洋諸民族の手から手へと渡された。(世界のこちら側では、それとは別にまた炬火競走が行われていた。印度・支那・日本が選ばれた走者であった。今日では世界が皆一緒になって一つの大きな新しい炬火競走が始まろうとしている。)
 エジプトの古代のすばらしい優越の姿を思うと、今日のエジプト人のみじめな姿があまりにもひどい対照をなすので、旅行者は多少の感懐なしに見ることはできない。庇を貸して母屋を取られたという諺は、エジプトほど適切に当て嵌まる国は見出せない。居間にも座敷にも他所者よそものが一ぱいに詰まって采配を振り、家付の無能な子供たちは裏の菜園で黙黙として土いじりをしていたり、気抜けのした別の子供たちは穴倉に追いこめられて『福音書』の暗誦で日を立てたりしてるという有様である。
 カイロ付近に堆積された七重の文化についていえば、初めのパロの文化が最も寿命が長く、第一王朝のメネスの時代を前述の如く紀元前三四〇〇年頃とすれば、その文化の系統は約三千年間続いたことになる。その後、紀元前六世紀の中葉即ち第二十七王朝から最後の第三十王朝の間へかけてペルシアの侵略があり、更に紀元前四世紀の前半にはアレクサンドロス大王に征服され、以後三百年間ギリシア系のプトレマイオス王朝が続き(その最後が女王クレオパトラであった)、その後ローマ帝国の支配が来たが、それは謂わゆるバビロン時代であった。
 だからカイロの第二文化以下は約千九百年間に六つの文化が交替したわけで、第一文化の三千年継続に比較すると、短い期間に割合に変化が頻繁であった。第二文化は初期キリスト教文化であったが、第三以下はすべてイズラム文化に改変されたのである。
 カイロの誇りとする約四百のモスクのうち約二十は時代の古さ(九世紀)または規模の宏壮さを以って代表的と見做されるものであるが、それ等の建造には初期キリスト教の寺院を破壊してその円柱(大理石・花崗岩)などを利用したものが多かった。アハメド・イブン・トゥルンは旧マスルに今残ってる見事なモスクを建てた時、キリスト教の寺院から素材を盗むことを禁じたと伝えられるが、その柱は皆煉瓦を積み上げて漆喰で包んだものである。但し、それはメソポタミアのサマラのモスクを模倣したもので、伝説のような潔白な意向から来たものではないという説もある。いずれにしても、回教のモスクを建てる時、初期キリスト教の寺院またはパロ時代の殿堂から一本石の円柱を盗んで来たことは事実である。丁度ローマでキリスト教の寺院を建てた時、古典時代の殿堂を大っぴらに利用したと同じように。しかも建築は一例で、すべて過去の文化要素を利用されるだけは利用し、利用しきれないものは棄てて顧みなかった。少くともエジプトでは、新しい文化の建設は古い文化の破壊を意味する場合が多かった。それは後継者が異人種であり、異端であったから、当然そうなるより外はなかったともいえる。
 その結果として、カイロは今見るが如きイズラムの町と化し、円屋根キューポラ尖塔ミナレットを持った輪奐の美を誇るモスクが簇生しているが、例えば、モハメド・アリのモスクにしても、スルタン・ハサンのモスクにしても、エル・アザールのモスクにしても、イブン・トゥルンのモスクにしても、エル・リファイエのモスク(俗称戴冠コロネイションモスク)にしても、それだけの様式として見ればいずれも相当に高く評価されるべきものではあるけれども、諸君がそれを見た後で、若しニルの上流地方へ行き、ルクソル、カルナク、エドフ、デンデラなどの古代王朝時代の壮大華麗の殿堂の遺物を見たならば、それこそ日光から奈良へ行ったような感じがするに相違ない。古代王朝の遺物は、大きさに於いても、美しさに於いても、殊に芸術的品格の高さに於いては、殆んど比較を絶するものであるから。
 同じことは芸術の他の部門についてもいえる。例えば、墓にしても(墓もエジプトでは芸術である)、ルクソルの対岸の岩山を抉り抜いて造った古代の王と王妃の無数の墓窟の構造と装飾は、カイロ東郊の哈利発ハリハの墓やマメリュクスの墓などの比較になるものではない。
 その他、古代王朝の最大の遺物なるピラミッド、スフィンクス、オベリスク等のすばらしさに至っては、今更いうまでもなく、到底中世のイズラム文化の造り出した記念物などの及ぶところではなく、強いてその対比を求めれば、わずかにただ古代ギリシアの芸術的遺物を挙げ得るのみである。
 その古代エジプト王朝時代の遺物がメムフィスの地に殆んど全く見られなくなってるのは返す返すも惜しむべきである。最古の「白壁」の王城とか、初期のプタ※(小書き片仮名ハ、1-6-83)殿堂とか、そういったものはもとより保存を望むべくもないが、ルクソル付近の実例からいっても、第十九王朝のラメセス二世の遺物ぐらいは、度々の兵火さえなかったら、今も見られる筈であったと思う。ラメセス二世はアジア攻略の便利のためにテバイから三角州デルタに都を移した。それは今のタニス付近といわれるが、メムフィスにも大きな殿堂が建てられた。その殿堂の前に立っていたと推定されるラメセス自身の花崗岩の巨像が、メムフィスの棕櫚の木の茂みの中に仰向けに倒れている。頭から王冠が折れ飛んでるのもあわれであれば、穢ない子供たちがその上に攀じ登って遊んでるのもあわれである。
 メムフィスにはラメセス二世の巨像が今一つ残っている。今いった野天の巨像から西の方へサッカラ道を少し行くと、棕櫚の木の更に夥しく茂った間に泥土の家が建っていて、家の中一ぱいに巨像が横たえられてある。巨像の倒れてる上を後から家で包んで、入場料四ピアストルを徴収するような設備にしたのであろう。長さ四十二フィートのひどく堅い一本石の石灰石の立像で、殊にその顔の晴れやかな美しさは無類である。少し吊り上った口角の素樸アーケイクな微笑も印象的であれば、王冠の前部のコブラの形もうまい。非常に技術のすぐれた彫像である。此の巨像は今にカイロに運ばれてラメセス広場に立てられる計画があるというが、その時は恐らくカイロにあるすべての物を圧倒するほどに異彩を放つであろう。





底本:「世界紀行文学全集 第十六巻 ギリシア、エジプト、アフリカ編」修道社
   1959(昭和34)年6月20日発行
底本の親本:「西洋見學」日本評論社
   1941(昭和16)年9月10日発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月9日作成
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