演出

野上豊一郎




 能の芸術価値は、ひとへにそれが舞台芸術としての存在の上に係つてゐるものであるから、演出が殆んど能の全価値であるといつてもよい。
 それほど重大な演出の問題が、従来能の研究者の間に於いて等閑視されて来たのは、能の研究といへば多くは文学的に能の台本(謡曲)の訓詁註釈に没頭するとか、原典批判を試みるとか、或ひは、歴史的に能の発生・発展に関する史実の探究に専心するとか、さういつた方面にのみ注意が向けられてゐた結果である。それ等も、もとより必要な検討事項ではあるが、そのために能の研究の最も根本的な基本となるべき芸術学的・美学的研究が取り残されたことは遺憾である。
 能の芸術学的・美学的研究の対象となるものはどうしても能の演出そのものでなければならぬ。それを知るには、一流一派に偏することなく、能の実演を(なるべく良い技術を数多く)根気よく見なければならぬ。それには相当の年月を要することであり、しかも常に新鮮な目を以て批判的に観察してかからねばならぬ。毎月、或ひは毎週、能を見る人の数は少くないけれども、彼等の大部分はウタヒを稽古してゐる好事家で、しかも一流一派の盲目的信仰者であり、自分のウタヒの技術を増進する目的で(見るためでなく)単に聞くために能舞台へ出かけるやうな片寄つた熱心家であるか、さうでなければ稽古仲間の義理附合に席を取つて社交的に集まるといつたやうな有閑人である。いづれにしても、能舞台へは行くが能芸術とはおよそ関係のないやうな人間が大多数であり、能の研究はおろか、能の鑑賞をさへ敢へてしないやうな人たちである。さういつた人たちの会費を基礎にした会員組織乃至社団法人組織の上で舞つて見せなければならぬ能役者も気の毒ではあるが、それに較べると、芝居の方が(芝居その物は営業本位でかなり愚劣なものばかり毎月並べ立ててはゐるけれども)、見物人の大部分は見て娯しむために出かけるので、鑑賞といふ点からいへば、まだしも能よりは確かにより多く熱心に鑑賞されてゐるわけである。
 さうでなくてさへ、能の演出は見物人の教養を標準にするやうに制約されて、時代に依り、世態に依り、断えず変化しつつあるので、(演出者自身はそれを意識してゐなくとも)、教養の低い見物人を主体とする大衆に引きずられて演出その物が次第に低下して行くであらうことは避けられぬ運命である。
 それにつけても一見不思議に感じられることは、能には、少くとも近代の能には、厳密な意味での舞台監督者といふ者がない。今日では、シテ(主役)は必ずしも舞台監督者ではない。ワキよりも地頭よりも未熟なシテの役者をわれわれはしばしば見る。後見は、見方に依つては舞台監督者の資格を持ち得る筈であるが、近頃の後見は助手以上の資格を持つ者は殆んどなく、時としては助手の資格をさへ持ち得ない者さへ見受けられる。本来シテが舞台の上で故障を起して舞ひつづけることができなくなつた場合は、後見が立ちどころに代役を勤めるべき約束があつたのだが、さういつた頼もしい後見は殆んど見られなくなつた。故宝生九郎翁は舞台から引退して後も、しばしば後見を勤め、また時として地頭を勤めてゐた。後見座にゐても、地謡の中に交つてゐても、彼が目を光らしてゐる限り、舞台は奇妙に引きしまつて、隠然たる一箇の舞台監督者であつたことは皆人の知るところであるが、九郎歿後そんな有力な舞台監督者を一人として発見することができないのは、能界の混沌状態を如実に暴露してゐるものと言はなければならぬ。
 昔はどうであつたかといふと、一座の棟梁(大夫)といふ者が実力を持つてゐて、完全な統制が演出の上に及んでゐた。永享二年の奥書のある世阿弥の「習道書」を見てもわかるやうに、能は、もろもろの役員――シテ・ワキ・ツレ・アヒ・囃子方・地謡――の演戯が完全な一つの調和を保つてこそ初めて「舞歌平頭の成就」は生ずるのであるから、各員思ひ思ひの表現をすることは許されなかつた。誰が中心になつてゐたかといふと、もちろん棟梁のシテが中心であり、標準であつて、その他の役を担当するすべてを世阿弥は連人つれにんと呼んでゐるが、その連人たる者はすべて「一座棟梁の習道を本として、その教へのままに芸曲をなすべし」と規定されてゐた。即ち棟梁のシテの指導に従つて、その監督の下に演戯せねばならないのであつた。例へば、ワキに対しては、「棟梁の掟の程拍子を中心に案得して倶行同心の曲風をなすべし」と教へ、鼓方に対しては、「何をも一心のシテに任せ」「シテの心を受けて」事をなすべしと教へ、笛方に対しては、「シテの音声を聞き合せて調感をなし、音声を彩るべし」と教へ、アヒの狂言に対しても、「笑の中に楽を含む」といふことを記憶して、シテの調子をこはさない程度に自然の滑稽味を作り出すやうにすべしと教へてゐる。要するに、すべての役役の人は「一座のシテの感」を基準として行動すべきことを示したもので、その掟は長く守られてゐた。
 しかし、それには一座の棟梁たる者は他の誰よりもすぐれた技芸者たることが必要条件であつた。また、事実、幕府時代の能の制度は(多少の例外はあつても)概して一座の棟梁を第一の技芸者として作り上げ得るやうにできてゐた。けれども今日は必ずしもさうでなく、各流派の実際について見ても、家元自身が第一の技芸者であるものは一人か二人に過ぎない。殊にまた、ワキ・アヒ・囃子方に至つては、昔の座附の制度は滅びてしまつて相互の間に遠慮もあり、譲り合ひもあり、少くとも明治時代の統制さへも期待することはできなくなつてゐる。
 昔の能は統制の中にも或る程度の自由競争があつて、シテとワキと、シテと囃子方と、囃子方と地謡と、真剣に鎬を削つて、負けず劣らず張り合ひながらも、全体としての調和を皆考へてゐたといはれる。そこに能の面白味があつて、表面はシテを基本として推しながら、決して安価な妥協をせず、真実は懸命に対抗して、即かず離れずの妙技を見せることを最上とした。けれども今日では(全体の技術の水準が下つたせゐもあらうが)互ひにいいかげんな所で妥協して、昔の金春大夫と宮王大夫の逸話にあるやうな真剣勝負的な競演などは見られなくなつた。
 金春大夫、名は安照、禅曲と号し、俗に大大夫だいたいふと呼ばれた。太閤秀吉に贔屓されて、桃山時代の能界の第一人者であつた。或る日秀吉が大大夫に「二人静ふたりしづか」を所望した。大大夫は適当なツレがないからといつて辞退した。「二人静」は両ジテともいはれる能で、シテとツレと相舞をするので、シテに劣らぬほどのツレを得なければ舞へない。大大夫が辞退したのはその理由からであつた。しかし、金春には当時七大夫と呼ばれて、大夫を称するツレの家が七つもあつた。殊にそのうちでも宮王大夫は大大夫にも劣らぬ勘能の者であつた。秀吉は大大夫と宮王大夫を並べて「二人静」が見たかつたのである。ところが大大夫は宮王大夫と仲違ひをしてゐたので、彼と共演したくなかつた。その事情を陳述すると、秀吉は承知しないで、此の能一番に限つて共演しろ、その後はまた仲違をしたくば勝手にしろ、といつた。大大夫は仕方なく承諾した。当日まで二人は申し合せなどはもちろんすることなく、いよいよ幕を出る間際になつて、宮王大夫は大大夫に向ひ、どちらが先に出るのかと聞いた。大大夫は宮王大夫に先に出ろといつた。先に出る方がツレの役である。やがて二人は舞台に出ても、日頃の鬱憤が晴れないで、互ひに協調しなければならぬことは知つてゐながらもそれがしたくなく、互ひにむきになつて対抗しながらも併し不調和になつてはいけないといふことは知りきつてゐた。その真剣な競演はクセになつて絶頂に達した。「神の宮滝」の地で、一人が正面へサシ込むと、他の一人はわざと下をサシ廻し、「西河の滝」で、一人が下を見ると、他の一人は上を見る。と、いつたやうな風で、互ひに即くまい即くまいと努めながら、それでゐて、要所要所は一糸乱れず呼吸が合つてゐたので、秀吉は期待した以上の面白い能を見ることができて満足したといふのである。
 此の話はどの程度まで事実であるか知らないが、昔の能の演出の一つの情景を伝へてゐる点で興味がある。能に限らず、すべて昔の日本の技芸は各人が真剣になつて最善をつくすところに妙味があつた。剣道などでは殊にそれが生命となつてゐた。その場に臨むと、親、親に非ず、師、師に非ず、といつたやうな意気があつた。その意気が昔は能の演出の生命であつた。しかし、今日の能の演出にはその意気はあまり見られなくなつた。もしそれが全く見られなくなつた時は、能は(今日の舞楽と同じやうに)憐れな美しい屍骸と化した時である。能は、少くとも形式だけは、まだ長くつづくであらう。しかし、現下の状態では余命幾ばくぞやの感なきを得ない。
 事態かくの如くなつた以上は、もはや昔の演出の組織の如くシテを舞台監督者と見做して統制しようとしても、それは木に縁つて魚を求めるが如きものである。実行の可能な一つの方法としては、宝生九郎翁の如く、最も有能な実力者が後見となつて、或ひは地頭となつて、演出を監督すべきである。しかし、その前に、能役者・アヒ・囃子方・地謡の性根から入れ替へてかからなければならぬことは言ふまでもない。
 さて、舞台監督の談義が少し長くなつたが、前にも述べた如く、能の芸術価値は殆んど全くその演出の上に係つてゐるのであるから、その演出の理論と実際について少し詳細に亘つて述べて見たいとは思ふけれども、それだけでも優に一巻となるほどの大きな問題であるから、それは他の機会に譲ることとして、此処には極めて基本的な一二の点だけに触れて置くことにしよう。
 能の演出を根本的に裏づけるものはじよきふの原則である。序は初めの部分で、それをば遅滞しないやうに大まかに進め、見物人の興味を早く主要部の方へ導く方針で運ばせねばならぬ。次の主要部に於いては、見物人を十分に娯しませるやうに、表現を細かに砕き(それを砕破もしくば破といふ)、それが為の進行の遅滞は止むを得ない。しかし、最後の部分になると、もはや見せるべき重な物は見せてしまつたし、聞かせるべき重な物は聞かせてしまつたのだから、終局に向つて急ぐだけの仕事が残つてゐる。だから急といふ。此の序・破・急は、一面から見ればテンポの速さの原則であり、また他の一面から見れば、表現の密度の原則である。表現の密度が粗ければ、従つてテンポも早くなり、表現の密度が細やかになれば、同時にテンポも緩くなる。だから、序の部分は表現がやや粗く、テンポもやや早く、破の部分は表現が細やかで、テンポも緩く、急の部分は表現が最も粗く、テンポも最も早くなるのは自然の道理である。
 此の原則は能のすべての表現を支配する。一番の能を演じる時も此の原則で行はれ、一部の詞章を表現するにも此の原則で行はれ、また一聯の番組(例へば五番立の演能)を上演する場合にも此の原則以外にそれを支配すべき法則はない。
 例へば「高砂たかさご」を演じるとする。初めにワキ・ワキヅレが次第しだいの囃子で登場して一定の場所に着座するまでは序の部分であるから、これは粘らずにサラリと運ばねばならぬ。次に一声いつせいの囃子でシテ・シテヅレが登場して一定の場所に達する所はすでに破の部分に入つたのである(破の第一段)から、ワキ・ワキヅレの登場よりもずつと位を持つて、表現も細やかになり、それだけテンポも緩くなつてよい。次にワキとシテ・シテヅレの問答が始まつて初同(最初の同吟)の終るまで(破の第二段)は、同じ調子のつづきではあるけれども、まだその次に主要な部分が控へてゐるので、テンポも緩くなり過ぎてはならない。次のクリ・サシ・クセからロンギの終りまで(破の第三段)は全曲の最も主要な部分であり、表現も入念に、従つてテンポも緩くなつてよい。(といつても此の曲は脇能であるから、緩さにもそれ相応の程度のあることはいふまでもない。)併し、その次の中入後のワキ・ワキヅレの待謡まちうたひから、後ジテの出端ではの登場・神舞かみまひきりのロンギまでは、全曲の急の部分であるから、これはテンポを早めて颯爽たる所を見せねばならぬ。
 此の序・破・急の原則はすべての能に皆適用されるべきものであるが、曲に依つて必ずしも一一の能が悉く五段(序一段・破三段・急一段)に区分されるとは限らず、中には四段に区分されるのが妥当の物もあり、或ひは六段に区分されるべき物もあるけれども、概括的に見て序・破・急の原則に当て嵌らないものとてはないのである。
 その原則はまた一番の能の中の一部分にも適用される。例へば「高砂」の急の部分、即ち中入後の部分だけについて見ても、初めのワキ・ワキヅレの待謡は序の部分、次の後ジテの出端の登場から神舞までは破の部分、最後の切は急の部分である。
 更にその最後の切だけについて見ても、その中にもまた序・破・急があり、更にその中のどの一部分について見ても、そこにもまた序・破・急がある。といつたやうに、全体的にも部分的にも、序・破・急の原則は緊密に表現を支配してゐる。
 更に幾番かの能を連結して一つの番組を作成する場合にも、その演出を支配するものは序・破・急の原則である。例へば五番の能をつなぎ合せて上演する場合ならば、初番の脇能は序の能であり、二番目修羅物・三番目鬘物・四番目現在物は破の能であり、五番目鬼物は急の能である。さうして破の能三番の中心たる鬘物は、同時に番組全体の中心でもあるから、最も肝要の能であり、表現も最も慎重に行はれねばならぬ。また三番立の演能の場合ならば、その編成の方法は幾通りもあり得るが、例へば初番に修羅物を置けばそれが当日の序の能であり、次に狂女物を据ゑればそれが破の能であり、最後に早舞物を持つて来ればそれが急の能である。修羅物は五番立の演出の時は破の初めの能であつても、初番に置かれる時は序の能の位で演じられなければならず、また狂女物は本来(五番立の標準でいへば)破の末の能であつて、急の能に接近した調子を持つてゐるべきであるが、それが三番立の演出の二番目に据ゑられた時は、番組の中心となるのだから、破の能の位で演じられなければならぬ。
 かくの如く、一つ一つの能は単独にそれ自身の調子の位は持つけれども、演出の位置の変更に依つてその調子の位合に変動が生じるといふのは、どこまでも序・破・急の原則が演出を一つの完全な表現として仕立て上げねばならぬからである。
 序・破・急の原則は、歴史的には、もと舞楽の表現の原理として伝へられたものであつたが、それを巧みに能の表現の原理として取り入れたのは主として世阿弥の功績である。しかしその名称こそは特殊であるが、すべての芸術的表現に於いて、意識的にか無意識的にか、苟くも此の法則に支配されないものはないといつてよい。ただそれを逸早く自覚して表現の基本原理として適用した所に、能の演出の様式の確立が助けられたといふ強みがあつた。
 能の演出は割合に早く様式化されてしまつたけれども、能役者は、少くとも彼が芸術家である限りは、その様式化された技術の束縛の範囲内だけに跼蹐してゐることは忍べなかつた。彼は絶えず自由を求め、自己を表現しようと努めた。その努力が甚だ末梢的な技術の上にのみ止まるものもあつたけれども、またしばしば技術を突き抜けて、より多く精神的な芸術の根本表現を揺り動かさうとするものもあつた。能の技術は、昔から名人・上手といはれた多くの役者たちの発明の堆積であるから、その伝統を習得することは自己の表現の基礎を形作ることに役立つのはいふまでもないが、そこで止まつてしまつては徒らに先人の真似事をするのみであつて、彼自身の芸術ではない。真の芸術家は先人の伝統を踏まへてその上に一歩を踏み出さねば安んじられるものではない。ただ未熟な者が先人の技術の堆積の上にも攀ぢ登れないで、ほしいままに自己を発揮しようとすると甚だ拙劣醜悪なものを見せることになるので、それは慎まねばならぬとされてはあるが、すでに先人の伝統を体得した以上は、そこから彼自身の芸術が始まるべきだといふことを忘れてはならない。それ故に、創意に富む芸術家は、先人未踏の領域に分け入らうとする野心を持つ。能役者にも古来しばしばさういつた冒険者があつて、謂はゆる「一工夫ひとくふう」を試みる者が少くなかつた。いたづらに旧弊を固執しようとする者の目には異端視されるであらうが、能を自己の芸術表現の手段として考へる者に取つては止むに止まれぬ衝動の発揮であつた。われわれは、さういつた芸術的冒険者の努力を買つてやるべきである。
 一例を示せば、能の演出に小書こがきといふ様式がある。それは能の特殊演出を意味するもので、古来からの伝統を破つて別の形式で演出を変更しようとしたものである。中には怪我の功名ともいはうか、一場の失策が意外にも効果的であつたので、それが一種の小書として遺つたものもあるけれども、多くは芸術的冒険者が苦心惨澹して工夫し出した伝統破壊の記録である。
 小書といふのは能の曲目の左側に特殊演出の様式の名称を小さく書き記すからの呼びならはしで、それが諸流に夥しく堆積してゐる。例へば「高砂」の特殊演出としては、「流八頭ながしやつがしら」とか「八段之舞はちだんのまひ」とか「真之型しんのかた」とか「序破急之伝じよはきふのでん」とか「大極之伝たいきよくのでん」とか「真之掛留しんのかかりとめ」とか「作物出つくりものだし」とか「祝言之式しうげんのしき」とか「祝言之舞しうげんのまひ」とか、さういつた小書がある。もともと、一つの小書は或る一流に限られたものであつただらうが、次第に他流でもそれを真似るやうになり、今日ではどの流儀の創意に成つたのかもわからなくなつたほどに共通してゐるものも少くない。
 小書が附いて特殊演出となると、さまざまの変化が生じる。或ひは役者に移動が生じたり(例へば「老松おいまつ」に「紅梅殿こうばいどの」といふ小書が附くと常は登場しない天女のツレが登場するとか、「絵馬ゑま」に「女体によたい」といふ小書が附くと、常は力神をシテとする流儀がそれをツレに廻はして、女神をシテに立てるとか)、或ひは舞が変つたり(例へば「老松」の「紅梅殿」でいふならば、しんじよまひは常はシテが舞ふのであるがそれをツレの天女に譲り、シテはイロヘがかりの短い舞をまふだけになつたり、また「絵馬」の「女体」では、神舞を急の位でシテの女神が舞ひ、神楽かぐらをツレの天女が舞ひ、きふまひをツレの力神が舞ふことになつたり)、或ひはそれに従つて囃子がちがつて来たり、或ひは役者の扮装が変つたり、或ひは常は出さない作物を出したり、或ひは詞章が省略されたり、別の詞章を挿入したり、順序をちがへたり、更に或ひは演出の強調の要点が変つたりもする。これは五百年も六百年もの間、いつも同じ物を同じ行き方で演出するのに倦きて新奇を求めようとする心も手伝つてであらうが、それには役者の創意がなければ企て得ない仕事であつた。その創意には原作を訂正しようとする意向も含まれてゐた。少くとも原作をより効果的に仕活かさうとする意向が働いてゐたことは認められる。さういつた意向の働いてゐた間は、能は新らしく生きようとする努力を持つてゐたのである。しかし近来はさういつた意向さへあまり見られなくなつた。能界の一部には固陋な考へ方が行はれてゐて、先人の型を一歩も出ないことが最上の演出法であるが如く思ひ込んでゐる者がある。技芸習得の道程にある者に対しては、それは一つの良い教訓に相違ないが、それを全般に押し広めることは不聡明である。尤も彼等が自己の無能を自覚して自ら戒めるのであるならばまた何をか言はんやである。
 問題はその創意の演出に現はれる表現の如何である。それに依つて、その役者が立派な芸術家であるか、或ひは、単なる一箇の芸人に過ぎないかが決定される。今日われわれは多くの芸人を見るけれども、果して真の芸術家の幾人存在するかを知らない。





底本:「日本の名随筆87 能」作品社
   1990(平成2)年1月25日第1刷発行
   1999(平成11)年2月25日第8刷発行
底本の親本:「能の話」(特装版)岩波書店
   1982(昭和57)年3月発行
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2006年9月19日作成
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