キフホイザー

野上豐一郎





 ブロッケンに登つて、麓のシールケに泊つた次の朝、おびただしい鈴の音で目をさまされた。寢臺から這ひ出して窓をあけて見ると、下の川沿ひの道を一人の牧人が、牧場へであらう、牛の群をつれて通つてゐた。これを見ないとハルツの旅の氣分は完成しないやうな氣がしたので、L公使と谷口君の寢室のドアを叩かうかと思つたが、昨日はベルリンからハルツまで車で搖られ通しで疲れて眠つてるのだらうと思ひ、やめにした。
 空は昨夜の雷雨の名殘がまだはつきりしないで、今にも降つて來さうなはひだつた。顏を洗つて階段を下りて行くと、L氏夫妻も谷口君も、もう着替をしてサロンで私たちを待つてゐた。
 ゆつくり朝飯をすませて出かけたのは、やがて十時であつた。今日はハルツの南の斜面を下つて、ノルトハウゼンからキフホイザーに出る豫定で、キフホイザーの見物がすんだら、私たちはどこか途中の停車場でケルン行の汽車をつかまへようと考へてゐた。但し、いつまでに、どこへ、着かなければならぬといふ制限はなかつたので、それに、これがドイツの見納めだといふ氣持もあつたので、至つてのんきな心がまへで車に搖られてゐた。
 シールケから間もなくエレント、それから間もなくブラウンラーゲを通つた。どちらもボーデの流れに沿つた小ぎれいな山間の避暑地で、人がぞろぞろ歩いてゐた。ブラウンラーゲの村を出ると、昨日から顏なじみのタンネの樹林がまた道の兩側に黒黒と列んで、下の芝草も手入をしたやうに美しく、ブロッケンのやうに大きな岩石が散亂してないので、いかにも地貌の柔和な印象を與へられた。
 それから登り道になり、ホーエガイスとかいふ村を通ると、日曜日なので、寺の鐘が鳴り、質素に着飾つた村の人たちが鐘の鳴る方へ歩いてゐた。地圖を見ると、その邊は海拔六〇〇幾メートルとかになつてゐた。霧が下りて來て、その下から馬鈴薯の花の白く咲いてるのが浮き出して見えた。
 道はまた森の中を拔けるやうについてゐた。朝ホテルで目をさまされた時のやうな鈴の音が聞こえるので、見ると、右側の森の中で一群の牛が思ひ思ひの方向を向いて草を食つて居り、大きな前掛みたいなものを着て長靴を穿いた男が、長い杖をつき、犬を一匹つれて傍に立つてゐた。私たちのショファは車を停めてその男に話しかけ、ノルトハウゼンへ出るのはこれでいいのだらうと聞いた。牛飼は、それでいいのだと答へた。人のよささうな中年の男だつた。
 山を下つて耕地の間を駈けてゐると、向から大型の遊覽バスが三臺つづいてやつて來るのに出逢つた。團體遊覽者と見えて乘客は皆揃ひの派手な帽子をかぶつてゐた。森の中では時時ぽつりぽつり落ちてた雨が上り、小麥畑の上には薄日がさして來た。
 ノルトハウゼンはハルツ連山の南の出口で、ツォルゲの川に臨み、人口三萬三千の古い町で、中世には長い間王宮があつたさうで、見て通つたカテードラレなども後期ゴティク式の立派な建物で、二つの尖塔が格好よく聳えてゐた。町の中にも古風なゴティク式の人家が少からず見られた。
 町をはづれると道の兩側には林檎の竝木がつづき、青いのがたくさんなつてゐた。行手に二つ重なつて見える先の方の山の頂上に大きな塔が二つ立つてゐた。それがキフホイザーであつた。
 しばらくは平坦な溪谷の道を走つてゐたが、一つの小さい村を通ると右に折れて、また山道になり、タンネの森と濶葉樹の森の交錯が私たちの目を喜ばせた。キフホイザーの山越にかかつたのである。


 キフホイザーはハルツ連山とテューリンゲン森林地帶の中間の平野に孤立する山で、高さは僅かに四六〇メートル、ハルツの如くテューリンゲンの如く大きく根を張つた連山ではなく、東西八キロ、南北六キロに過ぎない山ではあるが、孤立してるだけに、いかにも山らしい形貌を持つてゐる。しかも全山密林で蔽はれてるので、王家の居城を据ゑるにふさはしく思はれたと見え、中世期の初めホーフェンシュタウフェン家の城が築かれ、今なほそれは破損されたまま頂上に遺つてゐる。その城は相當に規模の大きなもので、上の城オーバーブルク下の城ウンターブルクに分れ、下の城ウンターブルクから見物することになつてゐる。
 下の城ウンターブルクは殆んど全部淡紅色の沙岩で築かれ、正面の拱門も城壁も長い年月の間に石の表面はひどく磨滅してゐるけれども、大體の原形は保存されてあるので、その構成を想像で復原して見ることはさほど困難ではない。最も著しく印象されたのは、城壁の築き方が小さい平石を丹念に列べて網代型に疊み上げてあつたことである。奧の方にはゴティク式の禮拜堂が遺つて居り、細部は痕迹を留めないまでに壞滅してゐるけれども、拱門と小窓を持つた塀と、長方形の窓の附いた高い本堂の外壁だけが保存され、拱門から附近の山山のタンネの茂みが透いて眺められるのが美しかつた。
 上の城オーバーブルクは高さ二二メートルの塔を持つてるのが特色で、材料は同じく淡紅色の沙岩で、背景のタンネが緑林に對して一層赤赤と際立つて見えるが、山の最頂上に立つてゐるだけに風化の程度も甚しく、磨滅した塔が折から晴間を見せて來た青空に向つて突つ立つてる形がいかにも怪奇で、妖精の國へでも來たやうな感じがした。
 傳説に據ると、昔のドイツ皇帝フリードリヒ・バルバロッサは此の城の下に眠つてるといふ。フリードリヒ・バルバロッサは第三十字軍に參加して小アジアの或る河で溺死したことに歴史の上ではなつてるけれども、ドイツ人は、今も此の城の下に皇帝は眠つてゐて、ドイツが再び昔日の光榮を恢復する日を待つてるのだと信じてゐる。さうして、その日が來ると皇帝は目ざめるのださうだ。しかし私たちがキフホイザーを訪問した日――一九三九年八月六日――まではバルバロッサは確かにまだ目ざめてゐなかつた。私たちがドイツを去つて一箇月とたたないうちに、ヒトラーは戰爭を始め、今までのところ期待以上の成功を收めてるやうだ。ヒトラーがヨーロッパを支配するやうにでもなつたら、バルバロッサは目ざめるだらうか。アドルフ・ヒトラーの成功が眞にドイツの光榮であるなら、バルバロッサは目ざめない筈はない。
 上の城オーバーブルクに接近したテラスに新しい大きな塔が立つてゐる。赤赤とした岩の上にこれも淡紅色の沙岩で築かれ、二重になつた方塔の上に圓屋根で蔽はれた上層が載つかつて、全長六五メートルの高さに聳えてゐる。皇帝ヴィルヘルム一世の記念塔で、案内者の説明に據ると、設計者はブルノー・シュミット、一八九六年建設、當時のドイツ陸軍全員の寄附で、經費八十萬マークを要したといふことである。
 また記念塔と竝んで、高さ五七メートルの展望塔が立つてゐ、螺旋階段で頂上まで登れるやうになつてゐる。私たちが途中から遠く眺めた二つの塔は此の展望塔と記念塔だつたのである。
 一通り見物を終り、下のテラスのホテルに入つて晝食を取つたのはもう二時に近かつた。食堂の中も、テラスの上も、人が一ぱいだつた。日曜だからこむのだらうかとも思つたが、近頃は軍需景氣ですべての遊覽地は皆かうで、それも多くは今まで遊覽などできなかつた階級の者だといふことだつた。


 二時四十分、また車中の人となり、キフホイザーを下り、南麓のフランケンハウゼン(鹽湯のある小さい町)を過ぎると、それから先は平野で、進路を北へ取り、一五キロでアルテルンの村を通り、更に一八キロでザンガーハウゼンの町へ辿りついた。小さい町ではあるが、ラートハウスや十一世紀の寺などもあり一見に値しさうだけれども、實は此處でケルン行の列車をつかまへたいと思ひ、いきなり停車場へ駈けつけた。ところが、午前一時四十分まで待たないとケルン行の急行は來ないといふ(時計を見ると午後三時四十分だつた)ので、それに雨も降つて來たので、また車に乘つてベルリンへ引返すことにした。ベルリンまで、ハ※(小書き片仮名ル、1-6-92)レを經由して、自動車道路二一七キロ、考へると遙遙の道程ではあり、ベルリンからまたケルン行の急行に乘らなければならないのだから、ちよつと臆劫でもあつたが、その場合ほかにどうすることもできなかつた。
 雨はいよいよ本降りになり、兩側に果樹の竝木を持つた道路は一直線に濡れて白く光つてゐた。通行の人も車も殆んどなく、アイスレーベンの手前で、うしろにスカーフをかぶつた女を乘せた自動車が矢の如く擦れちがつたくらゐなものだつた。
 アイスレーベンの町を通り拔けながら、そこがマルティン・ルッターの生地だといふことを私は知らなかつた。市場らしい廣場に大黒帽のやうなものをかぶつてガウンを着た兩手を擴げて立つてる青銅の像が雨雫の流れ落ちる車の硝子窓の前を通り過ぎた時、私はルッターのやうだつたねといつたが、念のため『ベデカ』をめくつて見ると、やつぱりそれはルッターの銅像で、その町には、彼の生れた家も死んだ家も、洗禮を受けた寺も説教した寺も、昔のままに保存されてあることを知つた。みんな振り返つて見たけれども、その時はもうそんなものは皆アイスレーベンの町と共に雨飛沫しぶきの中に消え去つてゐた。見て過ぐる後姿や秋の雨、といふ句が浮かんだが、一體今は秋だか夏だかよくわからなかつた。さつきから雨になつて車の中まで冷え冷えとして居り、どこを見ても風物が蕭條としてゐるので、そんな感じがしたのであつたが、暦の上ではまだ日本の立秋には間があり、秋雨ともいへないやうな氣がした。今は秋ですか、夏ですか、とヒトラーの座席(ドイツでは運轉手の隣りの席をさう呼ぶさうだ)に頑張つてる谷口君に後から聞いて見ると、さあ、と首を傾げてゐたが、まだ小麥があんなですからねと指ざした。その時私たちは小麥畑の間の道路を駈けらしてゐた。右も左も一面にその耕地が黄いろく擴がつてゐた。左の方には、やがて湖水が現れ、湖水の向側も黄いろい耕地だつた。右手の丘には大きな風車が※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)らないままで雨に濡れしをれてゐた。
 ハ※(小書き片仮名ル、1-6-92)レを通つたのは五時だつた。町の入口に青芝の美しい飛行場があり、その上に夥しい飛行機が列んでゐた。ハ※(小書き片仮名ル、1-6-92)レは昔は鹽と大學で聞こえた町だつたが、今は砂糖と機械製造で有名である。またヘンデルの生地で、その銅像はドイツ人とイギリス人の共同寄附金で建てられたものだといふ。人口二十萬ほどの都市で、ザーレが幾筋にも分れて町の西側を流れてゐた。
 ハ※(小書き片仮名ル、1-6-92)レからベルリンまでまだ一六八キロもあるといふ指標を見て、私は少しうんざりしたが、例の如く續いた果樹の竝木道を駈けらしてゐると、やがて、道はライヒスアウトバーンに合流した。アウトバーンの上に乘つかるとスピードは百キロぐらゐ出しても平氣である。雨はますますひどくなり、道路の上には雨水が盛り上つて、向上りに天まで續いてるやうな錯覺を起させ、車輪は高い飛沫を立てて走るので、傾斜した幅廣い一直線の川の上を快速艇で登つて行くやうな感じだつた。
 ベルリンに歸りついたのは七時二十分で、その時はさすがの豪雨も降り飽きたと見えて止んでゐた。谷口君と私たちはL氏夫妻にさよならをして一まづもとの宿へ歸つた。途中から別れることになるつもりで携帶した二つの鞄は、またベルリンへ持ち歸つたので、結局、鞄にもハルツとキフホイザーの見物をさせたわけであつた。





底本:「西洋見學」日本評論社
   1941(昭和16)年9月20日発行
   1941(昭和16)年12月10日10版
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2011年3月10日作成
2022年9月2日修正
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