奇獄小説に読む人の胸のみ
傷めむとする世に、一巻の
穉物語を著す。これも人
真似せぬ一流のこころなるべし。
欧羅巴の穉物語も多くは
波斯の
鸚鵡冊子より伝はり、その本源は印度の古文にありといへば、東洋は実にこの可愛らしき詩形の家元なり。あはれ、ここに染出す新
暖簾、本家再興の大望を達して、子々孫々までも巻をかさねて栄へよかしと
祷るものは、
本郷千駄木町の
鴎外漁史なり
[#改ページ]
一 この書題して「少年文学」といへるは、少年用文学との意味にて、独逸語の Jugendschrift (juvenile literature) より来れるなれど、我邦に適当の熟語なければ、仮にかくは名付けつ。鴎外兄がいはゆる穉物語も、同じ心なるべしと思ふ。
一 されば文章に修飾を勉めず、趣向に新奇を索めず、ひたすら少年の読みやすからんを願ふてわざと例の言文一致も廃しつ。時に五七の句調など用ひて、趣向も文章も天晴れ時代ぶりたれど、これかへつて少年には、誦しやすく解しやすからんか。
一 作者この『こがね丸』を編むに当りて、彼のゲーテーの Reineke Fuchs(狐の裁判)その他グリム、アンデルゼン等の Maerchen(奇異談)また我邦には桃太郎かちかち山を初めとし、古きは『今昔物語』、『宇治拾遺』などより、天明ぶりの黄表紙類など、種々思ひ出して、立案の助けとなせしが。されば引用書として、名記するほどにもあらず。
一 ちと手前味噌に似たれど、かかる種の物語現代の文学界には、先づ稀有のものなるべく、威張ていへば一の新現象なり。されば大方の詞友諸君、縦令わが作の取るに足らずとも、この後諸先輩の続々討て出で賜ふなれば、とかくこの少年文学といふものにつきて、充分論らひ賜ひてよト、これも予め願ふて置く。
一 詞友われを目して文壇の少年家といふ、そはわがものしたる小説の、多く少年を主人公にしたればなるべし。さるにこの度また少年文学の前坐を務む、思へば争はれぬものなりかし。
庚寅の臘月。もう八ツ寝るとお正月といふ日
昔桜亭において 漣山人誌
[#改丁]
むかし
或る
深山の奥に、一匹の虎住みけり。
幾星霜をや経たりけん、
躯尋常の
犢よりも
大く、
眼は百錬の鏡を欺き、
鬚は
一束の針に似て、
一度吼ゆれば声
山谷を
轟かして、
梢の鳥も落ちなんばかり。一
山の
豺狼麋鹿畏れ従はぬものとてなかりしかば、虎はますます猛威を
逞うして、自ら
金眸大王と名乗り、
数多の
獣類を眼下に
見下して、一山
万獣の君とはなりけり。
頃しも一月の
初つ
方、春とはいへど名のみにて、
昨日からの大雪に、野も山も岩も木も、
冷き
綿に包まれて、寒風
坐ろに堪えがたきに。金眸は朝より
洞に
籠りて、
独り
蹲まりゐる処へ、
兼てより
称心の、
聴水といふ
古狐、
岨伝ひに雪踏み
分て、
漸く洞の入口まで来たり。雪を払ひてにじり入り、まづ
慇懃に前足をつかへ、「昨日よりの大雪に、
外面に
出る事もならず、洞にのみ籠り給ひて、さぞかし
徒然におはしつらん」トいへば。金眸は身を起こして、「

聴水なりしか、よくこそ来りつれ。
実に
爾がいふ如く、この大雪にて
他出もならねば、独り洞に眠りゐたるに、
食物漸く
空しくなりて、やや
空腹う覚ゆるぞ。何ぞ
好き獲物はなきや、……この大雪なればなきも
宜なり」ト嘆息するを。聴水は打消し、「いやとよ大王。大王もし
実に
空腹くて、
食物を求め給ふならば、
僕好き獲物を
進せん」「なに好き獲物とや。……そは
何処に持来りしぞ」「
否。
此処には持ち
侍らねど、大王
些の骨を惜まずして、この
雪路を歩みたまはば、僕よき処へ
東道せん。
怎麼に」トいへば。金眸
呵々と打笑ひ、「やよ聴水。
縦令ひわれ老いたりとて、
焉ンぞこれしきの雪を恐れん。かく洞にのみ
垂籠めしも、決して寒気を
厭ふにあらず、獲物あるまじと思へばなり。今爾がいふ処
偽ならずば、
速に
東道せよ、われ
往きてその獲物を取らんに、
什麼そは
何処ぞ」トいへば。聴水はしたり顔にて、「大王速かに
承引たまひて、
僕も
実に喜ばしく候。されば暫く心を静め給ひて、わがいふ事を聞き給へ。そもその獲物と申すは、この山の
麓の里なる、
荘官が家の飼犬にて、僕
他には浅からぬ
意恨あり。今大王
往て
他を打取たまはば、これわがための
復讐、僕が
欣喜これに
如かず候」トいふに金眸
訝りて、「こは
怪しからず。その
意恨とは
怎麼なる
仔細ぞ、苦しからずば語れかし」「さん候。
一昨日の事なりし、僕かの荘官が家の
辺を
過りしに、
納屋と
覚き
方に当りて、鶏の鳴く声す。こは好き獲物よと思ひしかば、
即ち裏の垣より忍び入りて
宿近く往かんとする時、
他目慧くも僕を
見付て、
驀地に
飛で
掛るに、不意の事なれば僕は
狼狽へ、急ぎ元入りし垣の穴より、走り抜けんとする処を、
他わが
尻尾を
咬へて引きもどさんとす、われは
払て出でんとす。その勢にこれ見そなはせ、尾の先少し
齧み取られて、痛きこと
太しく、生れも付かぬ不具にされたり。かくては大切なるこの尻尾も、
老人の
襟巻にさへ成らねば、いと口惜しく思ひ侍れど。他は犬われは狐、とても
適はぬ処なれば、
復讐も思ひ
止まりて、
意恨を
呑で過ごせしが。大王、
僕不憫と
思召さば、わがために
仇を返してたべ。さきに獲物を
進せんといひしも、
実はこの事願はんためなり」ト、いと哀れげに
訴れば。金眸は
打点頭き、「憎き犬の
挙動かな。よしよし今に
一攫み、目に物見せてくれんずほどに、心安く思ふべし」ト、かつ慰めかつ怒り、やがて聴水を
前に立てて、
脛にあまる雪を踏み分けつつ、山を越え
渓を
渉り、ほどなく麓に出でけるに、
前に立ちし聴水は立止まり、「大王、
彼処に見ゆる森の陰に、今煙の
立昇る処は、即ち
荘官が
邸にて候が、大王自ら踏み込み給ふては、
徒らに
人間を驚かすのみにて、
敵の犬は逃げんも知れず。これには僕よき
計策あり」とて、金眸の耳に口よせ、何やらん
耳語しが、また金眸が
前に立ちて、高慢顔にぞ進みける。
ここにこの里の
荘官の家に、
月丸花瀬とて
雌雄の犬ありけり。年頃
情を
掛て飼ひけるほどに、よくその恩に感じてや、いとも
忠実に
事ふれば、年久しく
盗人といふ者
這入らず、家は
増々栄えけり。
降り続く大雪に、
伯母に逢ひたる
心地にや、月丸は
雌諸共に、奥なる広庭に戯れゐしが。折から裏の
宿の
方に当りて、鶏の叫ぶ声
切りなるに、
哮々と狐の声さへ聞えければ。「さては彼の狐めが、また今日も忍入りしよ。いぬる日あれほど
懲しつるに、はや
忘しと覚えたり。憎き奴め用捨はならじ、
此度こそは打ち取りてん」ト、雪を
蹴立てて真一文字に、

宿の方へ走り
往ば、狐はかくと
見よりも、
周章狼狽逃げ行くを、なほ
逃さじと
追駆けて、表門を
出んとする時、一声
※[#「口+翁」、U+55E1、66-5]と
哮りつつ、
横間より
飛で掛るものあり。何者ならんと打見やれば、こはそも
怎麼にわれよりは、二
層も
大なる虎の、
眼を怒らし
牙をならし、
爪を
反らしたるその
状態、恐しなんどいはん
方なし。
尋常の犬なりせば、その場に腰をも
抜すべきに。月丸は原来心
猛き犬なれば、そのまま虎に

てかかり、
喚叫んで
暫時がほどは、力の限り
闘ひしが。元より強弱敵しがたく、無残や肉裂け皮破れて、悲鳴の
中に息
絶たる。その
死骸を
嘴に
咬へ、あと白雪を
蹴立つつ、虎は
洞へと帰り行く。あとには流るる
鮮血のみ、雪に紅梅の花を散らせり。
雌の花瀬は最前より、物陰にありて
件の様子を、残りなく
詠めゐしが。身は
軟弱き
雌犬なり。かつはこのほどより乳房
垂れて、常ならぬ身にしあれば、
雄が
非業の
最期をば、
目前見ながらも、
救くることさへ成りがたく、
独り心を
悶へつつ、いとも哀れなる声張上げて、
頻りに
吠え立つるにぞ、人々漸く聞きつけて、
凡事ならずと立出でて見れば。門前の雪八方に蹴散らしたる上に、血
夥しく流れたるが、
只見れば
遙の
山陰に、一匹の大虎が、嘴に咬へて持て行くものこそ、
正しく月丸が
死骸なれば、「さては彼の虎めに
喰はれしか、今一足早かりせば、
阿容々々他は殺さじものを」ト、
主人は
悶蹈して
悔めども、さて
詮術もあらざれば、悲しみ狂ふ花瀬を
賺かして、その場は漸くに済ませしが。済まぬは花瀬が胸の
中、その日よりして物狂はしく。
旦暮小屋にのみ入りて、与ふる
食物も
果敢々々敷は
喰はず。怪しき声して
啼狂ひ、
門を守ることだにせざれば、物の用にも
立ぬなれど、主人は事の
由来を知れば、不憫さいとど増さりつつ、心を籠めて介抱なせど。花瀬は次第に
窶るるのみにて、今は肉落ち骨
秀で、
鼻頭全く
乾きて、この世の犬とも思はれず、頼み少なき身となりけり。かかる折から月満ちけん、
俄かに産の気
萌しつつ、苦痛の中に産み落せしは、いとも麗はしき茶色毛の、雄犬ただ一匹なるが。背のあたりに金色の毛混りて、
妙なる光を放つにぞ、名をばそのまま
黄金丸と呼びぬ。
さなきだに
病疲れし上に、
嬰児を産み落せし事なれば、今まで張りつめし気の、一時に
弛み出でて、重き枕いよいよ上らず、
明日をも知れぬ命となりしが。
臨終の
際に、兼てより
懇意せし、裏の
牧場に飼はれたる、
牡丹といふ
牝牛をば、わが枕
辺に
乞ひよせ。苦しき息を
喘ト
吻き、「さて牡丹ぬし。見そなはす如き
妾が
容体、とても
在命る身にしあらねば、臨終の際にただ一
事、
阿姐に頼み置きたき
件あり。妾が
雄月丸ぬしは、いぬる日猛虎
金眸がために、非業の最期を遂げしとは、阿姐も知り給ふ処なるが。
彼時妾
目前り、雄が
横死を見ながらに、これを
救けんともせざりしは、見下げ果てたる不貞の犬よと、思ひし獣もありつらんが。元より犬の
雌たる身の、たとひその身は
亡ぶとも、雄が危急を救ふべきは、いふまでもなき事にして、義を知る獣の本分なれば、妾とて心付かぬにはあらねど、
彼時命を惜みしは、妾が常ならぬ身なればなり。もし妾も
彼処に出でて、虎と争ひたらんには。雄と共に殺されてん。さる時は
誰か仇をば討つべきぞ。
結句は親子三匹して、命を
捨るに異ならねば、これ貞に似て貞にあらず、
真の犬死とはこの事なり。かくと心に思ひしかば、忍びがたき処を忍び、
堪えがたきを
漸く堪えて、
見在雄を殺せしが。これも
偏へに
胎の
児を、産み落したるその上にて。仇を討たせんと思へばなり。さるに妾不幸にして、いひ
甲斐なくも病に打ち
臥し、
已に絶えなん玉の緒を、
辛く
繋ぎて漸くに、今この児は産み落せしか。これを
養育むこと
叶はず、折角頼みし仇討ちも、仇になりなん口惜しさ、推量なして給はらば、
何卒この児を
阿姐の児となし、阿姐が
乳もて育てあげ。
他もし一匹
前の雄犬となりなば、その時こそは妾が今の、この言葉をば伝へ給ひて、妾がためには雄の仇、
他がためには父の仇なる、彼の金眸めを打ち取るやう、力に
成て給はれかし。頼みといふはこの
件のみ。頼む/\」トいふ声も、次第に細る冬の虫草葉の露のいと
脆き、命は犬も同じことなり。
悼はしや花瀬は、夫の
行衛追ひ駆けて、
後より急ぐ
死出の山、その日の夕暮に
没りしかば。
主人はいとど
不憫さに、その
死骸を
棺に納め、家の裏なる小山の蔭に、これを
埋めて石を置き、月丸の名も共に
彫り付けて、
形ばかりの比翼塚、
跡懇切にぞ
弔ひける。
かくて
孤児の
黄金丸は、西東だにまだ知らぬ、
藁の上より牧場なる、
牡丹が
許に養ひ取られ、それより牛の乳を
呑み、牛の小屋にて
生立ちしが。次第に成長するにつけ、
骨格尋常の犬に
勝れ、
性質も
雄々しくて、
天晴れ頼もしき犬となりけり。
さてまた牡丹が
雄文角といへるは、
性来義気深き牛なりければ、花瀬が遺言を堅く守りて、黄金丸の養育に、
旦暮心を傾けつつ、
数多の
犢の
群に入れて。或時は
角闘を取らせ、または
競争などさせて、ひたすら
力業を勉めしむるほどに。その甲斐ありて黄金丸も、
力量あくまで強くなりて、
大概の犬と
噬み合ふても、打ち勝つべう覚えしかば。文角も
斜ならず喜び、今は時節もよかるべしと、或時黄金丸を
膝近くまねき、さて
其方は
実の児にあらず、
斯様々々云々なりと、
一伍一什を語り聞かせば。黄金丸聞きもあへず、初めて知るわが身の
素性に、
一度は驚き一度は悲しみ、また一度は
金眸が非道を、
切歯して怒り
罵り、「かく聞く上は一日も早く、彼の山へ
走せ登り、
仇敵金眸を
噬み殺さん」ト、
敦圉あらく
立かかるを、文角は
霎時と押し
止め、「
然思ふは
理なれど、暫くまづわが言葉を、心ろを静めて聞きねかし。原来
其方が親の
仇敵、ただに彼の金眸のみならず。
他が配下に
聴水とて、いと
獰悪き狐あり。
此奴ある日鶏を盗みに入りて、
端なく月丸ぬしに見付られ、
他が尻尾を噛み取られしを、深く意恨に思ひけん。
自己の力に及ばぬより、彼の虎が威を仮りて、さてはかかる事に及びぬ。
然れば
真の
仇敵とするは、虎よりもまづ狐なり。さるに今
其方が、徒らに猛り狂ふて、金眸が洞に駆入り、
他と雌雄を争ふて、万一誤つて其方負けなば、当の仇敵の狐も殺さず、その身は虎の
餌とならん。これこそわれから死を求むる、
火取虫より
愚なる
業なれ。
殊に
対手は年経し大虎、其方は犬の事なれば、
縦令ひ
怎麼なる力ありとも、尋常に
噬み合ふては、彼に
勝んこといと難し。それよりは今霎時、
牙を
磨き爪を鍛へ、まづ彼の聴水めを噛み殺し、その上時節の
到るを
待て、彼の金眸を打ち取るべし。今匹夫の勇を
恃んで、世の
胡慮を招かんより、無念を
堪えて英気を養ひ
以て時節を待つには
如かじ」ト、事を分けたる文角が言葉に、
実もと心に
暁得りしものから。黄金丸はややありて、「かかる義理ある中なりとは、今日まで露
知ず、
真の
父君母君と思ひて、
我儘気儘に
過したる、無礼の罪は
幾重にも、許したまへ」ト、
数度養育の恩を謝し。さて
更めていへるやう、「知らぬ
疇昔は是非もなけれど、かくわが親に仇敵あること、承はりて知る上は、
黙して過すは本意ならず、それにつき、
爰に
一件の願ひあり、聞入れてたびてんや」「願ひとは何事ぞ、聞し上にて許しもせん」「そは余の事にも候はず、
某に
暇を賜はれかし。某これより諸国を
巡ぐり、あまねく強き犬と
噬み合ふて、まづわが牙を鍛へ。
傍ら仇敵の
挙動に心をつけ、
機会もあらば名乗りかけて、父の
讐を
復してん。年頃受けし御恩をば、返しも
敢へずこれよりまた、
御暇を取らんとは、義を弁へぬに似たれども、親のためなり許し給へ。もし
某幸ひにして、見事父の讐を復し、なほこの命
恙なくば、その時こそは心のまま、御恩に報ゆることあるべし。まづそれまでは文角ぬし、
霎時の暇賜はりて……」ト、涙ながらに
掻口説けば、文角は
微笑て、「さもこそあらめ、よくぞいひし。其方がいはずば
此方より、
強ても勧めんと思ひしなり。
思のままに武者修行して、天晴れ父の
仇敵を討ちね」ト、いふに黄金丸も勇み立ち。善は急げと
支度して、「見事金眸が首取らでは、再び
主家には帰るまじ」ト、
殊勝にも言葉を
盟ひ文角牡丹に
別を告げ、行衛定めぬ草枕、われから
野良犬の
群に入りぬ。
昨日は
富家の門を守りて、
頸に真鍮の輪を
掛し身の、今日は
喪家の
狗となり
果て、
寝るに

なく食するに肉なく、
夜は辻堂の
床下に雨露を
凌いで、
無躾なる
土豚に驚かされ。昼は
肴屋の
店頭に
魚骨を求めて、
情知らぬ人の
杖に
追立られ。或時は
村童に
曳かれて、
大路に
他し犬と争ひ、或時は
撲犬師に襲はれて、
藪蔭に危き命を
拾ふ。さるほどに黄金丸は、主家を出でて幾日か、山に暮らし里に明かしけるに。或る日いと広やかなる
原野にさし掛りて、行けども行けども里へは出でず。日さへはや暮れなんとするに、宿るべき木陰だになければ、
有繋に心細きままに、ひたすら路を急げども。今日は朝より、一滴の水も飲まず、一塊の食も
喰はねば、
肚饑きこといはん
方なく。苦しさに堪えかねて、
暫時路傍に
蹲まるほどに、夕風
肌膚を侵し、
地気骨に
徹りて、
心地死ぬべう覚えしかば。黄金丸は心細さいやまして、「われ主家を出でしより、到る処の犬と
争しが、かつて
屑ともせざりしに。
饑てふ敵には勝ちがたく、かくてはこの原の露と
消て、
鴉の
餌となりなんも知られず。……里まで出づれば
食物もあらんに、それさへ四足疲れはてて、今は
怎麼にともすべきやうなし。ああいひ甲斐なき事
哉」ト、途方に
打くれゐたる折しも。
何処よりか来りけん、
忽ち一団の
燐火眼前に現れて、高く
揚り低く照らし、
娑々と宙を飛び行くさま、われを招くに等しければ。黄金丸はやや
暁得りて、「さてはわが
亡親の
魂魄、仮に
此処に現はれて、わが危急を救ひ給ふか。
阿那感謝し」ト伏し拝みつつ、その燐火の行くがまにまに、路四、五町も来ると覚しき頃、忽ち鉄砲の音耳近く聞えつ、燐火は消えて見えずなりぬ。こはそも怎麼なる処ぞと、
四辺を見廻はせば、此処は
大なる寺の門前なり。
訝しと思ふものから、門の
中に入りて見れば。こは大なる
古刹にして、今は住む人もなきにや、
床は落ち柱斜めに、破れたる壁は
蔓蘿に縫はれ、朽ちたる軒は
蜘蛛の
網に張られて、
物凄きまでに荒れたるが。折しも秋の末なれば、屋根に
生ひたる
芽生の
楓、時を
得顔に色付きたる、その
隙より、
鬼瓦の傾きて見ゆるなんぞ、
戸隠し
山の
故事も思はれ。尾花
丈高く
生茂れる中に、斜めにたてる
石仏は、
雪山に悩む
釈迦仏かと忍ばる。――
只見れば
苔蒸したる石畳の上に。一羽の
雉子身体に
弾丸を受けしと覚しく、飛ぶこともならで
苦みをるに。こは
好き獲物よと、急ぎ走り
寄て足に押へ、
已に喰はんとなせしほどに。忽ち
後に声ありて、「憎き野良犬、
其処動きそ」ト、
大喝一
声吠えかかるに。黄金丸は打驚き、
後を
顧りて見れば、真白なる
猟犬の、われを噛まんと
身構たるに、黄金丸も少し
焦燥つて、「無礼なり
何奴なれば、われを野良犬と
詈るぞ」「無礼なりとは
爾が事なり。わが飼主の打取りたまひし、
雉子を爾盗まんとするは、言語に断えし
無神狗かな」「
否、こはわれ此処にて拾ひしなり」「否、爾が盗みしなり。見れば頸筋に輪もあらず、爾
曹如き奴あればこそ、
撲犬師が世に
殖えて、わが
們まで迷惑するなれ」「許しておけば無礼な
雑言、重ねていはば手は見せまじ」「そはわれよりこそいふことなれ、爾曹如きと問答
無益し。
怪我せぬ
中にその鳥を、われに渡して
疾く逃げずや」「返す返すも舌長し、折角拾ひしこの鳥を、
阿容々々爾に得させんや」「
這ツ面倒なりかうしてくれん」ト、
飛でかかれば黄金丸も、
稜威しやと振り
払て、また
噬み付くを
丁と
蹴返し、その
咽喉を
噬んとすれば、
彼方も去る者身を沈めて、黄金丸の
股を噬む。黄金丸は
饑渇に疲れて、勇気日頃に劣れども、また
尋常の犬にあらぬに、
彼方もなかなかこれに劣らず、互ひに
挑闘ふさま、彼の
花和尚が
赤松林に、
九紋竜と争ひけるも、かくやと思ふ
斗りなり。
先きのほどより、
彼方の木陰に身を忍ばせ、二匹の問答を
聞ゐたる、一匹の黒猫ありしが。今二匹が噬合ひはじめて、互ひに負けじと争ひたる、その
間隙を見すまして、静かに忍び寄るよと見えしが、やにはに捨てたる
雉子を
咬へて、脱兎の如く逃げ行くを、ややありて二匹は心付き。
南無三してやられしと思ひしかども今更追ふても及びもせずと、雉子を咬へて
磚※[#「片+嗇」、U+245FC、75-7]をば、越え行く猫の後姿、打ち見やりつつ
茫然と、噬み合ふ
嘴も
開いたままなり。
鷸蚌互ひに争ふ時は
遂に猟師の
獲となる。それとこれとは異なれども、われ
曹二匹争はずば、彼の猫如きに侮られて、
阿容々々雉子は取られまじきにト、黄金丸も彼の
猟犬も、これかれ
斉しく左右に分れて、ひたすら嘆息なせしかども。今更に悔いても
詮なしト、
漸くに思ひ定めつ。ややありて猟犬は、黄金丸にうち向ひ、「さるにても
御身は、
什麼何処の犬なれば、かかる処にに
漂泊ひ給ふぞ。最前より
噬あひ見るに、世にも鋭き御身が
牙尖、
某如きが及ぶ処ならず。もし彼の鳥猫に取られずして、なほも御身と争ひなば、わが身は遂に
噬斃されて、雉子は御身が
有となりてん。……これを思へば彼の猫も、わがためには救死の恩あり。ああ、危ふかりし危ふかりし」ト、
数度嘆賞するに。黄金丸も言葉を改め、「こは過分なる
賛詞かな。さいふ御身が
本事こそ。なかなか
及ばぬ処なれト、心
私かに敬服せり。今は何をか
裹むべき、某が名は黄金丸とて、以前は去る人間に
事へて、守門の役を勤めしが、宿願ありて
暇を
乞ひ、今かく
失主狗となれども、決して怪しき犬ならず。さてまた御身が尊名
怎麼に。苦しからずば名乗り給へ」ト、いへば
猟犬は
打点頭き、「さもありなんさもこそと、某も
疾く
猜したり。さらば御身が言葉にまかせて、某が名も名乗るべし。見らるる如く某は、この
辺の
猟師に事ふる、猟犬にて候が。ある時
鷲を
捉て押へしより、名をば
鷲郎と呼ばれぬ。こは鷲を
捉りし
白犬なれば、
鷲白といふ心なるよし。元より
屑ならぬ犬なれども、
猟には得たる処あれば、近所の犬ども皆恐れて、某が前に尾を
垂れぬ者もなければ、天下にわれより強き犬は、多くあるまじと誇りつれど。今しも御身が
本事を見て、わが慢心を
太く恥ぢたり。そはともあれ、今御身が語られし、宿願の
仔細は怎麼にぞや」ト、問ふに黄金丸は
四辺を見かへり、「さらば
委敷語り
侍らん……」とて、父が非業の死を遂げし事、わが身は牛に養はれし事、それより虎と狐を
仇敵とねらひ、
主家を出でて諸国を遍歴せし事など、落ちなく語り聞かすほどに。鷲郎はしばしば感嘆の声を発せしが、ややありていへるやう、「その事なれば及ばずながら、某一肢の力を添へん。われ彼の
金眸に
意恨はなけれど、
彼奴猛威を
逞うして、余の
獣類を
濫りに
虐げ。あまつさへ
饑る時は、
市に走りて
人間を騒がすなんど、片腹痛き事のみなるに、
機会もあらば
挫がんと、常より思ひゐたりしが。名に負ふ金眸は年経し大虎、われ
怎麼に
猟に
長けたりとも、互角の勝負なりがたければ、虫を殺して無法なる、
他が
挙動を見過せしが。今御身が言葉を聞けば、
符を
合す互ひの胸中。これより両犬心を通じ、力を合せて
彼奴を
狙はば、いづれの時か討たざらん」ト。いふに黄金丸も勇み立ちて、「頼もしし頼もしし、御身
已にその
意ならば、某また何をか恐れん。これより両犬義を結び、親こそ
異れこの
後は、兄となり
弟となりて、共に力を尽すべし。某この年頃諸所を巡りて、
数多の犬と
噬み合ひたれども、一匹だにわが牙に立つものなく、いと
本意なく思ひゐしに。今日
不意く御身に
出逢て、かく頼もしき
伴侶を得ること、
実に
亡父の
紹介ならん。さきに路を照らせし
燐火も、今こそ思ひ合はしたれ」ト、
独り感涙にむせびしが。猟犬は
霎時ありて、「某今御身と
契を結びて、彼の金眸を討たんとすれど、飼主ありては心に任せず。今よりわれも
頸輪を
棄て、御身と共に
失主狗とならん」ト、いふを黄金丸は
押止め、「こは
漫なり鷲郎ぬし、わがために主を
棄る、その志は
感謝けれど、これ義に似て義にあらず、かへつて不忠の犬とならん。この儀は思ひ止まり給へ」「いやとよ、その
心配は無用なり。某
猟師の家に
事へ、をさをさ猟の
業にも
長けて、
朝夕山野を走り巡り、数多の
禽獣を捕ふれども。
熟ら思へば、これ
実に
大なる不義なり。
縦令ひ主命とはいひながら、罪なき
禽獣を
徒らに
傷めんは、快き事にあらず。彼の金眸に比べては、その悪五十歩百歩なり。
此をもて某常よりこの
生業を棄てんと、思ふこと
切なりき。今日この
機会を得しこそ
幸なれ、断然
暇を取るべし」ト。いひもあへず、頸輪を振切りて、その決心を示すにぞ。黄金丸も今は止むる
術なく、「かく御身の心定まる上は、某また何をかいはん。幸ひなる
哉この寺は、荒果てて住む人なく、われ
曹がためには
好き
棲居なり。これより両犬
此処に棲みてん」ト、それより連立ちて寺の
中に踏入り、方丈と覚しき所に、畳少し朽ち残りたるを
撰びて、
其処をば棲居と定めける。
恁て黄金丸は
鷲郎と義を結びて、兄弟の約をなし、この
古刹を棲居となせしが。元より養ふ人なければ、食物も思ふにまかせぬにぞ、心ならずも鷲郎は、
慣し
業とて野山に
猟し、小鳥など
捉りきては、
漸くその日の
糧となし、ここに幾日を送りけり。
或日黄金丸は、用事ありて里に出でし
帰途、独り
畠径を
辿り
往くに、
只見れば
彼方の山岸の、野菊あまた咲き乱れたる
下に、黄なる
獣眠りをれり。
大さ犬の如くなれど、
何処やらわが
同種の者とも見えず。近づくままになほよく見れば、耳立ち口
尖りて、
正しくこれ狐なるが、その尾の
尖の毛抜けて醜し。この時黄金丸思ふやう、「さきに
文角ぬしが物語に、
聴水といふ狐は、かつてわが父
月丸ぬしのために、尾の尖
咬切られてなしと聞きぬ。今彼の狐を見るに、尾の尖
断離れたり。恐らくは聴水ならん。
阿那、有難や
感謝や。此処にて逢ひしは天の恵みなり。
将一噬みに……」ト思ひしが。
有繋義を知る獣なれば、
眠込みを噬まんは快からず。かつは誤りて他の狐ならんには、無益の
殺生なりと思ひ。やや近く忍びよりて、一声高く「聴水」ト呼べば、
件の狐は打ち驚き、
眼も開かずそのままに、一
間ばかり
跌
んで、
慌しく
逃げんとするを。逃がしはせじと黄金丸は、
※[#「口+畫」、U+35F2、79-4]叫んで
追駆るに。
彼方の狐も一生懸命、
畠の作物を
蹴散らして、里の
方へ走りしが、
只ある人家の
外面に、結ひ
繞らしたる
生垣を、
閃と
跳り越え、家の
中に逃げ入りしにぞ。続いて黄金丸も垣を越え、家の中を走り抜けんとせし時。
六才ばかりなる
稚児の、余念なく遊びゐたるを、
過失て蹴倒せば、
忽ち
唖と泣き叫ぶ。その声を聞き
付て、稚児の親なるべし、三十ばかりなる大男、裏口より飛で
入しが。今走り出でんとする、黄金丸を見るよりも、さては
此奴が
噬みしならんト、思ひ
僻めつ
大に
怒て、あり合ふ手頃の棒おつとり、黄金丸の
真向より、骨も砕けと打ちおろすに、さしもの黄金丸肩を打たれて、「
呀」ト一声叫びもあへず、後に
撲地と倒るるを、なほ続けさまに打ちたたかれしが。やがて太き
麻縄もて、
犇々と
縛められぬ。その
間に彼の聴水は、危き命助かりて、
行衛も知らずなりけるに。黄金丸は、無念に堪へかね、
切歯して
吠え立つれば。「おのれ
人間の子を
傷けながら、まだ飽きたらで
猛り狂ふか。憎き
狂犬よ、今に目に物見せんず」ト、
曳立て曳立て裏手なる、
槐の幹に
繋ぎけり。
倶不戴天の親の
仇、たまさか見付けて討たんとせしに、その仇は取り逃がし、あまつさへその身は
僅少の罪に縛められて邪見の
杖を
受る悲しさ。さしもに猛き黄金丸も、
人間に
牙向ふこともならねば、ぢつと無念を
圧ゆれど、
悔し涙に地は掘れて、
悶踏に木も
動揺ぐめり。
却説く鷲郎は、
今朝より黄金丸が用事ありとて里へ行きしまま、日暮れても帰り来ぬに、漸く心安からず。
幾度か門に出でて、
彼方此方を
眺れども、それかと思ふ影だに見えねば。万一
他が身の上に、
怪我はなきやと思ふものから。「
他元より
尋常の犬ならねば、
無差と
撲犬師に打たれもせまじ。さるにても心元なや」ト、
頻りに案じ煩ひつつ。
虚々とおのれも里の
方へ
呻吟ひ出でて、或る人家の
傍を
過りしに。ふと聞けば、垣の
中にて
怪き
呻き声す。耳傾けて立聞けば、
何処やらん黄金丸の
声音に似たるに。今は少しも
逡巡はず。結ひ
繞らしたる生垣の穴より、入らんとすれば
生憎に、
枳殻の針腹を指すを、
辛うじてくぐりつ。声を知るべに忍びよれば。太き
槐の
樹に
括り付けられて、
蠢動きゐるは正しくそれなり。鷲郎はつと走りよりて、黄金丸を
抱き起し、耳に口あてて「
喃、黄金丸、気を
確に持ちねかし。われなり、鷲郎なり」ト、呼ぶ声耳に通じけん、黄金丸は苦しげに
頭を
擡げ、「こは鷲郎なりしか。
嬉しや」ト、いふさへ息も
絶々なるに、鷲郎は急ぎ縄を噬み切りて、
身体の
痍を
舐りつつ、「
怎麼にや黄金丸、苦しきか。
什麼何としてこの
状態ぞ」ト、かつ
勦はりかつ尋ぬれば。黄金丸は身を震はせ、かく
縛められし事の
由来を言葉短に語り聞かせ。「とかくは此処を立ち
退かん見付けられなば命危し」ト、いふに鷲郎も心得て、
深痍になやむ黄金丸をわが背に負ひつ、元入りし穴を抜け出でて、わが
棲居へと急ぎけり。
鷲郎に助けられて、黄金丸は漸く棲居へ帰りしかど、これより
身体痛みて堪えがたく。
加之右の前足
骨挫けて、物の用にも立ち兼ぬれば、
口惜しきこと限りなく。「われこのままに不具の犬とならば、年頃の宿願いつか
叶へん。この宿願叶はずば、
養親なる文角ぬしに、また合すべき
面なし」ト、
切歯して
掻口説くに、鷲郎もその心中
猜しやりて、共に無念の涙にくれしが。「さな嘆きそ。世は
七顛八起といはずや。心静かに養生せば、
早晩は
癒ざらん。
某身辺にあるからは、心丈夫に持つべし」ト、あるいは
詈りあるいは励まし、甲斐々々しく介抱なせど、
果敢々々しき
験も
見ぬに、ひたすら心を
焦燥ちけり。或日鷲郎は、食物を取らんために、
午前より
猟に出で、黄金丸のみ寺に残りてありしが。折しも小春の空
長閑く、
斜廡を
洩れてさす日影の、
払々と暖きに、黄金丸は
床をすべり出で、
椽端に
端居して、独り
鬱陶に打ちくれたるに。忽ち天井裏に物音して、
救助を呼ぶ
鼠の声かしましく聞えしが。やがて黄金丸の
傍に、一匹の
雌鼠走り来て、
股の下に忍び入りつ、
救助を乞ふものの如し。黄金丸はいと
不憫に思ひ、
件の雌鼠を
小脇に
蔽ひ、そも何者に追はれしにやと、
彼方を
佶ト見やれば、
破れたる板戸の陰に身を忍ばせて、
此方を
窺ふ一匹の黒猫あり。
只見れば
去る日鷲郎と、かの
雉子を争ひける時、
間隙を狙ひて雉子をば、盗み去りし猫なりければ。黄金丸は
大に怒りて、一飛びに
喰てかかり、
慌てて柱に
攀昇る黒猫の、尾を
咬へて曳きおろし。
踏躙り
噬み裂きて、
立在に息の根
止めぬ。
この時雌鼠は恐る恐る黄金丸の前へ
這ひ寄りて、
慇懃に前足をつかへ、
数度頭を垂れて、再生の恩を謝すほどに、黄金丸は
莞爾と打ち
笑み、「
爾は
何処に
棲む鼠ぞ。また彼の猫は
怎麼なる故に、爾を
傷けんとはなせしぞ」ト、尋ぬれば。鼠は少しく
膝を進め、「さればよ
殿聞き給へ。
妾が名は
阿駒と呼びて、この天井に棲む鼠にて
侍り。またこの猫は
烏円とて、この
辺に棲む
無頼猫なるが。
兼てより妾に
懸想し、道ならぬ
戯れなせど。妾は定まる
雄あれば、更に
承引く色もなく、常に
強面き返辞もて、かへつて
他を
窘めしが。かくても思切れずやありけん、今しも妾が巣に忍び来て、無残にも妾が雄を噬みころし、妾を奪ひ去らんとするより、逃げ惑ふて遂にかく、殿の
枕辺を騒がせし、無礼の罪は許したまへ」ト、涙ながらに物語れば、黄金丸も不憫の者よト、
件の鼠を慰めつつ、彼の烏円を
尻目にかけ、「さりとては憎き猫かな。
這奴はいぬる日わが鳥を、盗み去りしことあれば、われまた
意恨なきにあらず。年頃なせし悪事の天罰、今報ひ来てかく成りしは、
実に気味よき事なりけり」ト、いふ折から彼の鷲郎は、小鳥二、三羽
嘴に
咬はへて、
猟より帰り来りしが。この
体態を見て、事の
由来を尋ぬるに、黄金丸はありし仕末を落ちなく語れば。鷲郎もその
功労を称賛しつ、「かくては御身が
疾病も、遠ほからずして癒ゆべし」など、いひて共に打ち興じ。やがて持ち来りし小鳥と共に、烏円が肉を裂きて、思ひのままにこれを
喰ひぬ。
さてこの時より彼の阿駒は、再生の恩に感じけん、
朝夕黄金丸が傍に
傅きて、何くれとなく
忠実に働くにぞ、黄金丸もその
厚意を
嘉し、
情を
掛て使ひけるが、もとこの阿駒といふ鼠は、去る
香具師に飼はれて、
種々の芸を仕込まれ、縁日の
見世物に
出し身なりしを、
故ありて小屋を忍出で、今この
古刹に住むものなれば。折々は黄金丸が枕辺にて、
有漏覚えの舞の
手振、または綱渡り
籠抜けなんど。
古し
取たる
杵柄の、
覚束なくも
奏でけるに、黄金丸も興に入りて、病苦もために忘れけり。
黄金丸が病に伏してより、やや一月にも余りしほどに、
身体の痛みも
失せしかど、前足いまだ
癒えずして、歩行もいと苦しければ、心
頻りに
焦燥つつ、「このままに打ち過ぎんには、遂に生れもつかぬ跛犬となりて、親の
仇さへ討ちがたけん。今の
間によき薬を得て、足を
癒さでは
叶ふまじ」ト、その薬を
索るほどに。或日鷲郎は
慌しく他より帰りて、黄金丸にいへるやう、「やよ黄金丸喜びね。
某今日
好き
医師を聞得たり」トいふに。黄金丸は
膝を進め、「こは耳寄りなることかな、その医師とは
何処の
誰ぞ」ト、
連忙はしく問へば、鷲郎は
荅へて、「さればよ。某今日里に遊びて、古き友達に
邂逅ひけるが。その犬語るやう、此処を去ること南の方一里ばかりに、
木賊が原といふ処ありて、其処に
朱目の
翁とて、
貴き兎住めり。この翁若き時は、彼の
柴刈りの
爺がために、
仇敵狸を海に沈めしことありしが。その功によりて
月宮殿より、
霊杵と
霊臼とを賜はり、そをもて
万の薬を
搗きて、今は
豊に世を送れるが。この翁が
許にゆかば、
大概の
獣類の
疾病は、癒えずといふことなしとかや。その犬も
去る日
村童に石を打たれて、左の
後足を破られしが、
件の翁が薬を得て、その
痍とみに癒しとぞ。さればわれ直ちに往きて、薬を得て来んとは思ひしかど。御身自ら彼が許にゆきて、親しくその痍を見せなば、なほ
便宜よからんと思ひて、われは行かでやみぬ。御身少しは苦しくとも、全く歩行出来ぬにはあらじ、
明日にも心地よくば、試みに往きて見よ」ト、いふに黄金丸は打喜び、「そは
実に嬉しき事かな。さばれかく貴き
医師のあることを、今日まで知らざりし
鈍ましさよ。とかくは明日往きて薬を求めん」ト、
海月の骨を得し心地して、その
翌日朝未明より立ち出で、教へられし路を
辿りて、
木賊が原に来て見るに。
櫨楓なんどの色々に染めなしたる
木立の
中に、柴垣結ひめぐらしたる
草庵あり。丸木の柱に木賊もて
檐となし。
竹椽清らかに、
筧の水も音澄みて、いかさま
由緒ある獣の
棲居と覚し。黄金丸は
柴門に立寄りて、
丁々と
訪へば。中より「
誰ぞ」ト声して、
朱目自ら立出づるに。見れば耳長く毛は
真白に、
眼紅に光ありて、
一目尋常の兎とも覚えぬに。黄金丸はまづ
恭しく礼を施し、さて病の由を
申聞えて、薬を賜はらんといふに、彼の翁心得て、まづその
痍を打見やり、
霎時舐りて後、何やらん薬をすりつけて。さていへるやう、「わがこの薬は、
畏くも
月宮殿の
嫦娥、
親ら伝授したまひし霊法なれば、
縦令怎麼なる難症なりとも、とみに
癒ること
神の如し。今御身が痍を見るに、
時期後れたればやや重けれど、
今宵の
中には癒やして進ずべし。ともかくも
明日再び来たまへ、
聊か御身に尋ねたき事もあれば……」ト、いふに黄金丸打よろこび、やがて別を告げて立帰りしが。
途すがら
只ある森の木陰を
過りしに、忽ち
生茂りたる木立の
中より、
兵ト音して飛び来る矢あり。心得たりと黄金丸は、身を
捻りてその矢をば、
発止ト牙に
噬みとめつ、矢の来し
方を
佶ト見れば。
二抱へもある赤松の、幹
両股になりたる処に、一匹の黒猿昇りゐて、
左手に黒木の弓を持ち、
右手に青竹の矢を採りて、なほ二の矢を
注へんとせしが。黄金丸が
睨め
付し、
眼の光に恐れけん、その矢も
得放たで、
慌しく枝に走り昇り、
梢伝ひに
木隠れて、忽ち姿は見えずなりぬ。かくて次の日になりけるに、不思議なるかな
萎えたる足、朱目が言葉に露たがはず、全く癒えて常に異ならねば。黄金丸は
雀躍して喜び。急ぎ礼にゆかんとて、
些ばかりの
豆滓を携へ、朱目が
許に行きて、全快の由
申聞え、言葉を尽して
喜悦を
陳べつ。「
失主狗にて思ふに任せねど、心ばかりの薬礼なり。
願くは納め給へ」ト、彼の豆滓を差し
出せば。朱目も喜びてこれを納め。ややありていへるやう、「
昨日御身に聞きたきことありといひしが、余の事ならず」ト、いひさして
容をあらため、「
某幾歳の
劫量を
歴て、やや神通を得てしかば、
自ら獣の相を見ることを覚えて、
十に
一も
誤なし。今御身が相を見るに、世にも
稀なる名犬にして、しかも
力量万獣に
秀でたるが、遠からずして、抜群の功名あらん。某この
年月数多の獣に逢ひたれども、御身が如きはかつて知らず。思ふに必ず
由緒ある身ならん、その素性聞かまほし」トありしかば。黄金丸少しもつつまず、おのが素性来歴を語れば。朱目は聞いて膝を打ち。「それにてわれも
会得したり。総じて
獣類は胎生なれど、多くは雌雄
数匹を
孕みて、一親一子はいと稀なり。さるに御身はただ一匹にて生まれしかば、その力五、六匹を兼ねたり。
加之牛に養はれて、牛の乳に
育まれしかば、また牛の力量をも
受得て、けだし
尋常の犬の猛きにあらず。さるに
怎麼なればかく、
鈍くも足を
傷られ給ひし」ト、
訝かり問へば黄金丸は、「これには深き
仔細あり。原来某は、彼の金眸と聴水を、
倶不戴天の
仇と
狙ふて、常に
油断なかりしが。
去る日
件の聴水を、途中にて見付しかば、名乗りかけて討たんとせしに、かへつて
他に
方便られて、遂にかかる不覚を取りぬ」ト、彼のときの事
具に語りつつ、「思へば憎き彼の聴水、重ねて見当らばただ一噬みと、
朝夕心を
配ばれども、彼も用心して更に里方へ出でざれば、
意恨を返す手掛りなく、無念に得堪えず候」ト、いひ
畢りて
切歯をすれば、朱目も
点頭きて、「御身が心はわれとく
猜しぬ、さこそ無念におはすらめ。さりながら黄金ぬし。御身
実に
他を討たんとならば。われに
好き
計略あり、及ばぬまでも試み給はずや、
凡そ
狐狸の
類は、その
性質至て
狡猾く、
猜疑深き獣なれば、
憖いに
企みたりとも、
容易く捕へ得つべうもあらねど。その好む処には、君子も迷ふものと聞く、
他が好むものをもて、釣り
出して
罠に落さんには、さのみ難きことにあらず」トいふに。黄金丸は打喜び、「その釣り落す罠とやらんは、
兼てより聞きつれど、某いまだ見し事なし。
怎麼にして作り候や」「そは
斯様々々にして
拵へ、それに
餌をかけ置くなり」「して
他が好む物とは」「そは鼠の
天麩羅とて、
肥太りたる雌鼠を、油に揚げて掛けおくなり。さすればその香気
他が鼻を
穿ちて、心魂忽ち空になり、われを忘れて
大概は、その罠に落つるものなり。これよく
猟師のなす処にして、かの狂言にもあるにあらずや。御身これより帰りたまはば、まづその如く罠を仕掛て、他が
来るを待ち給へ。今宵あたりは彼の狐の、その香気に浮かれ出でて、御身が罠に落ちんも知れず」ト、
懇切に教へしかば。「こは
好きことを聞き得たり」ト、
数度喜び聞え、なほ
四方山の物語に、時刻を移しけるほどに、日も
山端に
傾きて、
塒に騒ぐ
群烏の、声かしましく聞えしかば。「こは意外長坐しぬ、
宥したまへ」ト会釈しつつ、わが
棲居をさして帰り行く、途すがら例の森陰まで来たりしに、昨日の如く木の上より、矢を射かくるものありしが。
此度は黄金丸肩をかすらして、思はず身をも沈めつ、大声あげて「おのれ今日も
狼藉なすや、
引捕へてくれんず」ト、走り
寄て木の上を見れば、果して昨日の猿にて、黄金丸の姿を見るより、またも
木葉の
中に隠れしが、われに
木伝ふ術あらねば、
追駆けて捕ふることもならず。憎き猿めと思ふのみ、そのままにして打棄てたれど。「さるにても
何故に彼の猿は、一度ならず二度までも、われを射んとはしたりけん。われら猿とは
古代より、仲
悪しきものの
譬に呼ばれて、互ひに
牙を鳴らし合ふ身なれど、かくわれのみが彼の猿に、
執念く狙はるる覚えはなし。明日にもあれ再び出でなば、
引捕へて
糺さんものを」ト、その日は怒りを忍びて帰りぬ。――
畢竟この猿は何者ぞ。また狐罠の
落着怎麼。そは次の
巻を読みて知れかし。
上巻終
[#改頁]
かくて黄金丸は、ひたすら
帰途を急ぎしが、
路程も近くはあらず、かつは途中にて狼藉せし、猿を
追駆けなどせしほどに。
意外に暇どりて、日も全く西に沈み、夕月
田面に映る
頃、
漸くにして帰り着けば。
鷲郎ははや門に
馮りて、黄金丸が
帰着を待ちわびけん。
他が姿を見るよりも、
連忙しく走り迎へつ、「
※[#「口+約」、U+55B2、89-6]、黄金丸、今日はなにとてかくは
遅かりし。待たるる身より待つわが身の、
気遣はしさを
猜してよ。
去る日の事など思ひ出でて、安き心はなきものを」ト、
喞言がましく聞ゆれば、黄金丸は
呵々と打ち笑ひて、「さな恨みそ。今日は
朱目ぬしに引止められて、思はず
会話に時を移し、かくは
帰着の
後れしなり。構へて待たせし心ならねば……」ト、
詫ぶるに鷲郎も深くは
咎めず、やがて笑ひにまぎらしつつ、そのまま
中に引入れて、共に
夕餉も
喰ひ果てぬ。
暫して黄金丸は、鷲郎に打向ひて、今日朱目が
許にて聞きし事ども
委敷語り、「かかる良計ある上は、
速かに彼の聴水を、
誑き
出して
捕んず」ト、いへば鷲郎もうち
点頭き、「狐を釣るに
鼠の
天麩羅を用ふる由は、われ
猟師に
事へし故、
疾よりその法は知りて、
罠の掛け方も心得つれど、さてその
餌に供すべき、鼠のあらぬに
逡巡ひぬ」ト、いひつつ天井を
打眺め、少しく声を低めて、「御身がかつて
救けたる、彼の
阿駒こそ
屈竟なれど。
他頃日はわれ
曹に
狎みて、いと
忠実に
傅けば、そを無残に殺さんこと、情も知らぬ
無神狗なら知らず、
苟にも義を知るわが
們の、
作すに忍びぬ処ならずや」「
実に御身がいふ如く、われも
途すがら考ふるに、まづ
彼の阿駒に気は付きたれど。われその必死を救ひながら、今また
他が命を取らば、
怎麼にも恩を
被するに似て、わが身も快くは思はず。とてもかくてもこの外に、鼠を
探し
捕らんに
如かじ」ト、言葉いまだ
畢らざるに、
忽ち「
呀」と叫ぶ声して、
鴨居より
撲地ト
顛落るものあり。二匹は思はず左右に分れ、落ちたるものを
佶と見れば、今しも二匹が
噂したる、かの阿駒なりけるが。なにとかしたりけん、口より血
夥しく流れ
出るに。鷲郎は急ぎ
抱き起しつ、「こや阿駒、怎麼にせしぞ」「見れば
面も血に
塗れたるに、……また猫にや追はれけん」「
鼬にや襲はれたる」「
疾くいへ
仇敵は討ちてやらんに」ト、これかれ
斉しく
勦はり問へば。阿駒は苦しき息の下より、「いやとよ。猫にも追はれず、鼬にも襲はれず、
妾自らかく成り
侍り」「さは何故の
生害ぞ」「仔細ぞあらん聞かまほし」ト、また
連忙しく
問かくれば。阿駒は
潸然と涙を落し、「さても情深き殿たち
哉。かかる殿のためにぞならば、
捨る命も
惜くはあらず。――妾が自害は黄金ぬしが、御用に立たん
願に侍り」「さては今の物語を」「
爾は残らず……」「鴨居の上にて聞いて侍り。――妾
去る日
烏円めに、無態の恋慕しかけられて、
已に
他が
爪に掛り、絶えなんとせし玉の緒を、黄金ぬしの
御情にて、不思議に
繋ぎ候ひしが。
彼時わが
雄は
烏円のために、非業の死をば遂げ給ひ。残るは妾ただ一匹、年頃契り深からず、
石見銀山桝落し、地獄落しも何のその。
縦令ひ石油の火の中も、
盥の水の底までも、死なば共にと
盟ふたる、恋し雄に先立たれ、何がこの世の
快楽ぞ。生きて甲斐なきわが身をば、かく
存命へて今日までも、君に
傅きまゐらせしは、妾がために雄の仇なる、かの烏円をその場を去らせず、討ちて給ひし黄金ぬしが、御情に
羈されて、
早晩かは君の
御為に、この命を
進らせんと、思ふ心のあればのみ。かくて今宵図らずも、殿たち二匹の物語を、鴨居の上にて
洩れ聞きつ。さても嬉しや今宵こそ、御恩に報ゆる時来れと、心
私かに喜ぶものから。今殿たちが言葉にては、とても妾を
牙にかけて、殺しては給はらじと、思ひ定めつさてはかく、われから
咽喉を
噛みはべり。恩のために捨る命の。露ばかりも惜しくは侍らず。まいてや雄は妾より、先立ち登る死出の山、峰に
生ひたる若草の、根を
齧りてやわれを待つらん。追駆け行くこそなかなかに、心楽しく侍るかし。願ふはわが身をこのままに、天麩羅とやらんにしたまひて、彼の聴水を打つて
給べ。日頃
大黒天に願ひたる、その甲斐ありて今ぞかく、わが身は恩ある黄金ぬしの、御用に立たん嬉れしさよ。……ああ苦しや申すもこれまで、おさらばさらば」ト
夕告の、とり乱したる前
掻き合せ。西に向ふて
双掌を組み、
眼を閉ぢてそのままに、息絶えけるぞ殊勝なる。
二匹の犬は
初より耳
側てて、
阿駒が語る由を聞きしが。黄金丸はまづ
嗟嘆して、「さても珍しき鼠かな。国には
盗人家に鼠と、
人間に憎まれ
卑めらるる、鼠なれどもかくまでに、恩には感じ義には
勇めり。これを彼の猫の三年
飼ても、三日にして主を忘るてふ、烏円如きに比べては、雪と炭との
差別あり。むかし
唐土の
蔡嘉夫といふ
人間、水を避けて
南壟に住す。或夜
大なる鼠浮び来て、嘉夫が
床の
辺に伏しけるを、
奴憐みて飯を与へしが。かくて水退きて後、
件の鼠
青絹玉顆を
捧げて、奴に恩を謝せしとかや。今この阿駒もその類か。
復讐の
報恩に復讐の、用に立ちしも不思議の約束、思へば
免れぬ因果なりけん。さばれ
生とし生ける者、何かは命を惜まざる。
朝に生れ
夕に死すてふ、
蜉蝣といふ虫だにも、追へば
逃れんとするにあらずや。ましてこの鼠の、恩のためとはいひながら、自ら死して
天麩羅の、辛き思ひをなさんとは、
実に得がたき阿駒が忠節、
賞むるになほ言葉なし。……とまれ
他が
願望に任せ、無残なれども油に揚げ。彼の
聴水を
釣よせて、首尾よく
彼奴を討取らば、
聊か
菩提の
種ともなりなん、善は急げ」ト勇み立ちて、黄金丸まづ阿駒の
死骸を調理すれば、鷲郎はまた庭に
下り立ち、青竹を拾ひ来りて、罠の用意にぞ掛りける。
不題彼の聴水は、
去る日途中にて黄金丸に出逢ひ、
已に命も取らるべき処を、
辛うじて身一ツを助かりしが。その時よりして
畏気附き、
白昼は更なり、
夜も里方へはいで来らず、をさをさ
油断なかりしが。その
後他の獣
們の
風聞を聞けば、彼の黄金丸はその
夕、
太く
人間に
打擲されて、そがために前足
痿えしといふに。少しく
安堵の思ひをなし、忍び忍びに里方へ出でて、それとなく様子をさぐれば、その
痍意外重くして、日を
経れども
愈えず。さるによつて
明日よりは、
木賊ヶ原の
朱目が
許に行きて、療治を
乞はんといふことまで、
怎麼にしけんさぐり
知つ、「こは
棄ておけぬ事どもかな、
他もし朱目が薬によりて、その痍全く愈えたらんには、再び怎麼なる
憂苦をや見ん。とかく
彼奴を亡きものにせでは、
枕を高く
眠られじ」ト、とさまかうさま思ひめぐらせしが。忽ち
小膝を
礑と
撲ち、「
爰によき
計こそあれ、
頃日金眸大王が
御内に
事へて、新参なれども
忠だちて働けば、大王の
寵愛浅からぬ、彼の
黒衣こそよかんめれ。彼の猿弓を引く
業に
長けて、先つ年
他が叔父
沢蟹と合戦せし時も、軍功少からざりしと聞く。その
後叔父は
臼に
撲たれ、
他は木から
落猿となつて、この山に
漂泊ひ来つ、金眸大王に事へしなれど、むかし
取たる
杵柄とやら、
一束の矢
一張の弓だに持たさば、彼の黄金丸如きは、事もなく
射殺してん。まづ
他が
許に
往きて、事の
由来を
白地に語り、この
件を頼むに
如かじ」ト思ふにぞ、直ちに黒衣が許へ走り往きつ、ひたすらに頼みければ。元より彼の黒衣も、心
姦佞し悪猿なれば、異議なく
承引ひ、「われも久しく
試さねば、少しは腕も鈍りたらんが。
多寡の知れたる犬一匹、われ一矢にて射て取らんに、何の難き事かあらん。さらば先づ弓矢を作りて、明日
他の朱目が許より、帰る処を待ち伏せて、見事仕止めてくれんず」ト、いと頼もしげに見えければ。聴水は打ち喜び、「
万づは
和主に
委すべければ、よきに計ひ給ひてよ。謝礼は和主が望むにまかせん」ト。それより共に手伝ひつつ、
櫨の弓に
鬼蔦の
弦をかけ、
生竹を
鋭く削りて矢となし、用意やがて
備ひける。
さて
次日の夕暮、聴水は
件の黒衣が許に往きて、首尾
怎麼にと尋ぬるに。黒衣まづ
誇貌に
冷笑ひて「さればよ聴水ぬし聞き給へ。われ今日かの
木賊ヶ原に行き、
路傍なる松の幹の、よき処に坐をしめて、黄金丸が
帰来を待ちけるが。われいまだ
他を見しことなければ、もし
過失ちて
他の犬を
傷け、後の
禍をまねかんも
本意なしと、案じわづらひてゐけるほどに。
暫時して
彼方より、茶色毛の犬の、しかも一
足痿えたるが、
覚束なくも歩み来ぬ。
兼て和主が物語に、
他はその毛茶色にて、右の前足痿えしと
聞しかば。
必定これなんめりと思ひ。
矢比を測つて
兵と放てば。
竄点誤たず、
他が右の
眼に
篦深くも
突立ちしかば、さしもに
猛き黄金丸も、何かは
以てたまるべき、
忽ち
撲地と倒れしが四足を
悶掻いて
死でけり。仕済ましたりと思ひつつ、松より
寸留々々と走り下りて、
他が
躯を取らんとせしに、
何処より来りけん一人の大男、思ふに
撲犬師なるべし、手に太やかなる棒持ちたるが、歩み
寄てわれを
遮り、なほ争はば彼の棒もて、われを打たんず
勢に。われも
他さへ亡きものにせば、躯はさのみ要なければ、わが
功名を
横奪されて、残念なれども争ふて、
傷けられんも
無益しと思ひ、そのまま棄てて帰り来ぬ。されども聴水ぬし、
他は
確に仕止めたれば、証拠の躯はよし見ずとも、心強く思はれよ。ああ彼の黄金丸も今頃は、
革屋が軒に
鉤下げられてん。思へばわれに
意恨もなきに、無残なことをしてけり」ト、
事実しやかに物語れば、聴水喜ぶこと
斜ならず、「こは有難し、われもこれより気強くならん。原来彼の黄金丸は、われのみならず
畏くも、大王までを
仇敵と
狙ふて、
他が
足痍愈なば、この山に
討入て、大王を
噬み
斃さんと計る由。……
怎麼に
他獅子(
畑時能が飼ひし犬の名)の智勇ありとも、わが大王に
牙向はんこと
蜀犬の日を
吠ゆる、愚を極めし
業なれども。大王これを
聞し召して、
聊か心に恐れ給へば、
佻々しくは
他出もしたまはず。さるを
今和主が、一
箭の
下に
射殺したれば、わがために
憂を去りしのみか、
取不直大王が、
眼上の
瘤を払ひしに等し。今より後は大王も、枕を高く休みたまはん、これ
偏へに和主が働き、その功実に抜群なりかし。われはこれより大王に
見え、和主が働きを申上げて、重き恩賞得さすべし。」とて、いと嬉しげに立去りけり。
かくて聴水は、
黒衣が
棲居を立出でしが、
他が言葉を
虚誕なりとは、月に
粲めく
路傍の、露ほども
暁得らねば、ただ嬉しさに堪えがたく、「明日よりは天下晴れて、里へも野へも出らるるぞ。
喃、嬉れしやよろこばしや」ト。
永く
牢に
繋れし
人間の、急に
社会へ出でし心地して、足も空に
金眸が
洞に
来れば。金眸は折しも最愛の、
照射といへる
侍妾の鹿を、
辺近くまねき
寄て、酒宴に余念なかりけるが。聴水はかくと見るより、まづ
慇懃に安否を尋ね。さて今日
斯様のことありしとて、黒衣が黄金丸を射殺せし由を、
白地に物語れば。金眸も
斜ならず喜びて、「そは
大なる
功名なりし。さばれ
爾何とて
他を伴はざる、他に
褒美を取らせんものを」ト、いへば聴水は、「
僕も
然思ひしかども、今ははや夜も
更けたれば、今宵は思ひ
止まり給ふて、明日の夜更に他をまねき、酒宴を張らせ給へかし。さすれば僕明日里へ行きて、
下物数多索めて参らん」ト、いふに金眸も
点頭きて、「とかくは爾よきに計らへ」「お
命畏まり候」とて。聴水は一礼なし、
己が
棲居へ帰りける。
さてその
翌朝、聴水は
身支度なし、里の
方へ出で来つ。
此処の畠
彼処の
廚と、日暮るるまで
求食りしかど、はかばかしき獲物もなければ、尋ねあぐみて
只ある
藪陰に
憩ひけるに。忽ち車の
軋る音して、一匹の
大牛大なる荷車を
挽き、これに一人の牛飼つきて、
罵立てつつ
此方をさして来れり。聴水は身を潜めて
件の車の上を見れば。
何処の津より運び来にけん、俵にしたる米の
他に、
塩鮭干鰯なんど
数多積めるに。こは
好き物を見付けつと、なほ隠れて車を
遣り過し、
閃りとその上に飛び乗りて、積みたる
肴をば音せぬやうに、少しづつ
路上に
投落すを、牛飼は少しも心付かず。ただ
彼牛のみ、車の次第に軽くなるに、
訝しとや思ひけん、折々立止まりて見返るを。牛飼はまだ
暁得らねば、かへつて牛の怠るなりと思ひて、ひたすら罵り打ち立てて行きぬ。とかくして一町ばかり来るほどに、肴大方取下してければ、はや用なしと車を飛び下り。投げたる肴を一ツに拾ひ集め、これを山へ運ばんとするに。
層意外に高くなりて、一匹にては持ても往かれず。さりとて残し置かんも口惜し、こは
怎麼にせんと案じ煩ひて、
霎時彳みける処に。
彼方の森の陰より、
驀地に
此方をさして
走せ来る獣あり。何者ならんと打見やれば。こは彼の黒衣にて。小脇に弓矢をかかへしまま、
側目もふらず走り過ぎんとするに。聴水は
連忙しく呼び止めて、「
喃々、黒衣ぬし待ちたまへ」と、声を
掛れば。漸くに心付きし
乎、黒衣は立止まり、聴水の
方を見返りしが。ただ眼を見張りたるのみにて、いまだ一言も発し得ぬに。聴水は
可笑しさを
堪えて、「
慌し何事ぞや。
面の色も常ならぬに……物にや追はれ給ひたる」ト、
問かくれば。黒衣は初めて
太息吻き、「さても恐しや。今かの森の中にて、
黄金……黄金色なる鳥を見しかば。一矢に射止めんとしたりしに、
豈計らんや
他は
大なる
鷲にて、われを見るより
一攫みに、攫みかからんと走り来ぬ。ああ 恐しや恐しや」ト、胸を
撫でつつ物語れば。聴水は打ち笑ひ、「そは
実に
危急かりし。さりながら黒衣ぬし、今日は和主は
客品にて、居ながら
佳肴を
喰ひ得んに、なにを苦しんでか自ら
猟に出で、かへつてかかる危急き目に逢ふぞ。毛を吹いて
痍を求むる、
酔狂もよきほどにしたまへ。そはともあれわれ今日は大王の
御命を受け、和主を今宵招かんため、
今朝より里へ
求食り来つ、かくまで
下物は獲たれども、余りに
層多ければ、独りにては運び得ず、
思量にくれし処なり。今和主の来りしこそ
幸なれ、大王もさこそ待ち侘びて
在さんに、和主も共に手伝ひて、この
下物を運びてたべ。
情は
他しためならず、皆これ和主に
進らせんためなり」ト、いふに黒衣も打ち
笑て、「そはいと
易き事なり。幸ひこれに弓あれば、これにて共に
扛き往かん。まづ待ち給へせん用あり」ト。やがて
大なる
古菰を拾ひきつ、これに肴を包みて上より
縄をかけ。
件の弓をさし入れて、
人間の
駕籠など扛くやうに、二匹
前後にこれを
担ひ、金眸が洞へと急ぎけり。
聴水黒衣の二匹の獣は、彼の
塩鮭干鰯なんどを、
総て一包みにして、金眸が洞へ扛きもて往き。やがてこれを調理して、
数多の
獣類を呼び
集ひ、酒宴を初めけるほどに。皆々黒衣が昨日の働きを聞て、口を極めて
称賛すに、黒衣はいと得意顔に、鼻
蠢めかしてゐたりける。金眸も常に
念頭に
懸けゐて、後日の憂ひを気遣ひし、彼の黄金丸を失ひし事なれば、その
喜悦に心
弛みて、常よりは酒を過ごし、いと興づきて見えけるに。聴水も黒衣も、
茲を
先途と
機嫌を取り。聴水が
唄へば黒衣が舞ひ、彼が
篠田の森を
躍れば、これはあり合ふ
藤蔓を張りて、綱渡りの芸などするに、金眸ますます興に入りて、
頻りに笑ひ
動揺めきしが。やがて
酔も十二分にまはりけん、
照射が膝を枕にして、前後も知らず
高鼾、
霎時は
谺に響きけり。かくて時刻も移りしかば、はや
退らんと聴水は、他の獣
們に
別を告げ、金眸が洞を立出でて、
※※[#「にんべん+陵のつくり」、U+5030、98-15][#「にんべん+登」、U+50DC、98-15]く足を
踏〆め踏〆め、わが
棲居へと
辿りゆくに。この
時空は雲晴れて、十日ばかりの月の影、
隈なく
冴えて清らかなれば、野も林も
一面に、
白昼の如く見え渡りて、得も言はれざる
眺望なるに。聴水は
虚々と、わが
棲へ帰ることも忘れて、次第に
麓の
方へ来りつ、
只ある切株に腰うちかけて、
霎時月を眺めしが。「ああ、心地
好や今日の月は、
殊更冴え渡りて見えたるぞ。これも日頃
気疎しと思ふ、黄金
奴を亡き者にしたれば、胸にこだはる雲霧の、一時に晴れし故なるべし。……さても照りたる月
哉、われもし狸ならんには、腹鼓も打たんに」ト、彼の黒衣が
虚誕を、それとも知らで聴水が、
佻々しくも信ぜしこそ、年頃なせし悪業の、天罰ここに報い来て、今てる空の月影は、即ちその身の運の
つき、とは
暁得らずしてひたすらに、興じゐるこそ愚なれ。
折しも
微吹く風のまにまに、
何処より来るとも知らず、いとも
妙なる
香あり。怪しと思ひなほ
嗅ぎ見れば、正にこれおのが好物、鼠の
天麩羅の香なるに。聴水忽ち
眼を細くし、「さても
甘くさや、うま
臭や。
何処の誰がわがために、かかる
馳走を
拵へたる。
将往きて
管待うけん」ト、
径なき
叢を踏み分けつつ、香を
知辺に
辿り往くに、いよいよその物近く覚えて、香
頻りに鼻を
撲つにぞ。
心魂も今は空になり、
其処か
此処かと
求食るほどに、
小笹一叢茂れる中に、
漸く見当る鼠の
天麩羅。得たりと飛び付き
咬はんとすれば、忽ち
発止と物音して、その身の
頸は物に
縛められぬ。「
南無三、
罠にてありけるか。
鈍くも
釣られし
口惜しさよ。さばれ
人間の来らぬ間に、
逃るるまでは逃れて見ん」ト。力の限り
悶掻けども、更にその
詮なきのみか
咽喉は次第に
縊り行きて、苦しきこといはん
方なし。
恁る処へ、左右の小笹
哦嗟々々と音して、
立出るものありけり。「さてはいよいよ
猟師よ」ト、見やればこれ
人間ならず、いと
逞ましき二匹の犬なり。この時
右手なる犬は進みよりて、「やをれ聴水われを
見識れりや」ト、いふに聴水
覚束なくも、彼の犬を見やれば、こは
怎麼に、昨日黒衣に射らせたる黄金丸なるに。再び
太く驚きて、物いはんとするに声は出でず、
眼を見はりて
悶ゆるのみ。犬はなほ語を
続ぎて、「怎麼に苦しきか、さもありなん。されど耳あらばよく聞けかし。
爾よくこそわが父を
誑かして、金眸には
咬はしたれ。われもまた爾がためには、罪もなきに
人間に打たれて、
太く足を
傷けられたれば、重なる
意恨いと深かり。然るに爾その
後は、われを恐れて里方へは、少しも姿を
出さざる故、意恨をはらす事ならで、いとも
本意なく思ふ折から。
朱目ぬしが教へに従ひ、今宵此処に罠を
掛て、
私かに爾が
来るを待ちしに。さきにわがため命を
棄し、
阿駒が
赤心通じけん、
鈍くも爾釣り寄せられて、罠に落ちしも
免がれぬ天命。今こそ爾を思ひのままに、肉を破り骨を砕き、
寸断々々に噛みさきて、わが
意恨を晴らすべきぞ。思知つたか聴水」ト、いひもあへず左右より、
掴みかかつて噛まんとするに。思ひも懸けず後より、「
※[#「口+約」、U+55B2、101-4]黄金丸
暫く待ちね。
某聊か思ふ由あり。
這奴が命は今
霎時、助け得させよ」ト、声かけつつ、
徐々と
立出るものあり。二匹は驚き何者ぞと、
月光に
透し見れば。
何時のほどにか来りけん、これなん黄金丸が
養親、
牡牛文角なりけるにぞ。「これはこれは」トばかりにて、二匹は再び
魂を消しぬ。
恁る処へ文角の来らんとは、思ひ設けぬ事なれば、黄金丸驚くこと大方ならず。「珍らしや文角ぬし。
什麼何として此処には
来たまひたる。そはとまれかくもあれ、その
後は御健勝にて喜ばし」ト、一礼すれば文角は
点頭き、「その驚きは
理なれど、これには
些の仔細あり。さて其処にゐる犬殿は」ト、
鷲郎を
指し問へば。黄金丸も見返りて、「こは鷲郎ぬしとて、
去る日
斯様々々の事より、図らず兄弟の
盟ひをなせし、世にも頼もしき勇犬なり。さて鷲郎この牛殿は、日頃
某が
噂したる、養親の文角ぬしなり」ト、互に
紹介すれば。文角も鷲郎も、
恭しく一礼なし、初対面の
挨拶もすめば。黄金丸また文角にむかひて、「さるにても文角ぬしには、
怎麼なる仔細の
候て、今宵此処には来たまひたる」ト、
連忙しく尋ぬれば。「さればとよよく
聞ね、われ元より御身たちと、今宵此処にて
邂逅はんとは、夢にだも知らざりしが。今日しも主家の
廝に
曳かれて、この
辺なる市場へ、塩鮭
干鰯米なんどを、車に
積て運び来りしが。彼の
大藪の陰を通る時、一匹の狐物陰より現はれて、わが車の上に飛び乗り、
肴を
取て投げおろすに。
這ツ憎き野良狐めト、よくよく見れば年頃日頃、憎しと思ふ聴水なれば。
這奴いまだ黄金丸が牙にかからず、なほこの辺を
徘徊して、かかる悪事を働けるや。
将一突きに突止めんと、気はあせれども怎麼にせん、われは車に
繋けられたれば、心のままに働けず。これを廝に告げんとすれど、悲しや
言語通ぜざれば、
他は少しも心付かで、
阿容々々肴を盗み取られ。やがて市場に着きし後、
代物の
三分が
一は、あらぬに初めて心付き。廝は
太く
狼狽へて、さまざまに
罵り狂ひ。さては途中にふり落せしならんと、引返して求むれど、これかと思ふ影だに見えぬに、今はた
詮なしとあきらめしが。
諦められぬはわが心中。彼の聴水が
所業なること、
目前見て知りしかば、いかにも無念さやるせなく。
殊には
他は黄金丸が、
倶不戴天の
讐なれば、意恨はかの事のみにあらず。よしよし今宵は
引捕へて、後黄金丸に逢ひし時、
土産になして取らせんものと、心に思ひ定めつつ。さきに牛小屋を忍び出でて、其処よ此処よと尋ねめぐり、
端なくこの場に来合せて、思ひもかけぬ御身たちに、邂逅ふさへ不思議なるに、憎しと思ふかの聴水も、かく捕はれしこそ嬉しけれ」ト、語るを聞きて黄金丸は、「さは文角ぬしにまで、かかる
悪戯作しけるよな。返す返すも憎き聴水、いで思ひ知らせんず」ト、
噬みかかるをば文角は、再び
霎時と押し隔て、「さな
焦燥ちそ黄金丸。
他已に罠に落ちたる上は、
俎板の上なる
魚に等しく、殺すも
生すも思ひのままなり。されども彼の聴水は、金眸が
股肱の臣なれば、
他を責めなば
自から、金眸が
洞の様子も知れなんに、暫くわが
為さんやうを見よ」ト、いひつつ進みよりて、聴水が
襟頭を
引掴み、罠を
弛めてわが
膝の下に引き
据えつ。「いかにや聴水。かくわれ
曹が計略に落ちしからは、
爾が悪運もはやこれまでとあきらめよ。原来爾は
稲荷大明神の
神使なれば、よくその分を守る時は、人も
貴みて
傷くまじきに。性
邪悪にして慾深ければ、奉納の
煎豆腐を
以て足れりとせず。われから宝珠を棄てて、明神の
神祠を抜け出で、穴も定めぬ野良狐となりて、彼の山に
漂泊ひ行きつ。金眸が
髭の
塵をはらひ、
阿諛を
逞ましうして、その威を仮り、
数多の
獣類を害せしこと、その罪
諏訪の湖よりも深く、また
那須野が
原よりも
大なり。さばれ爾が尾いまだ九ツに
割けず、
三国飛行の神通なければ、つひに
鈍くも罠に落ちて、この野の露と消えんこと、けだし
免れぬ因果応報、大明神の
冥罰のほど、今こそ思ひ知れよかし。されども爾
確乎に聞け。過ちて改むるに
憚ることなく、
末期の念仏一声には、
怎麼なる罪障も消滅するとぞ、爾今前非を悔いなば、
速かに心を翻へして、われ
曹がために尋ぬることを答へよ。
已に爾も知る如く、年頃われ曹彼の金眸を
讐と狙ひ。
機会もあらば討入りて、
他が髭首
掻んと思へと。怎麼にせん他が棲む山、
路嶮にして案内知りがたく。
加之洞の
中には、怎麼なる猛獣
侍べりて、
怎麼なる
守備ある事すら、更に探り知る由なければ、今日までかくは
逡巡ひしが、
早晩爾を捕へなば、糺問なして語らせんと、日頃思ひゐたりしなり。されば今われ
曹が前にて、彼の金眸が洞の様子、またあの山の要害怎麼に、
委敷く語り聞かすべし。かくてもなお他を重んじ、事の
真実を語らずば、その時こそは爾をば、われ曹三匹
更る更る。角に掛け牙に裂き、思ひのままに
憂苦を見せん。もしまたいはば一思ひに、息の根止めて楽に死なさん。とても逃れぬ命なれば、
臨終の爾が一言にて、地獄にも落ち極楽にも往かん。とく
思量して返答せよ」ト、あるいは
威しあるいは
賺し、言葉を尽していひ聞かすれば。聴水は何思ひけん、両眼より
溢落る涙
堰きあへず。「ああわれ誤てり誤てり。
道理切めし文角ぬしが、今の言葉に
僕が、
幾星霜の迷夢
醒め、今宵ぞ悟るわが身の罪障思へば恐しき事なりかし。とまれ文角ぬし、
和殿が言葉にせめられて、今こそ一
期の思ひ出に、聴水物語り候べし。黄金ぬしも聞き給へ」ト、いひつつ
咳一咳して、
喘と
吻く息も苦しげなり。
この時文角は、捕へし
襟頭少し
弛めつ、されども
聊か油断せず。「いふ事あらば
疾くいへかし。この期に及びわれ
曹を欺き、
間隙を
狙ふて逃げんとするも、やはかその
計に乗るべきぞ」ト、いへば聴水
頭を打ちふり、「その
猜疑は
理なれど、
僕すでに罪を悔い、心を翻へせしからは、などて
卑怯なる
挙動をせんや。さるにても黄金ぬしは、
怎麼にしてかく
恙なきぞ」ト。
訝り問へば
冷笑ひて、「われ
実に
爾に
誑られて、
去る日
人間の家に踏み込み、
太く
打擲されし上に、裏の
槐の
樹に
繋がれて、明けなば皮も
剥れんずるを、この鷲郎に救ひ
出され、
危急き命は辛く拾ひつ。その時足を
挫かれて、
霎時は歩行もならざりしが。これさへ
朱目の
翁が薬に、かく
以前の身になりにしぞ」ト、
足踏して見すれば。聴水は皆まで聞かず、「いやとよ、和殿が
彼時人間に打たれて、足を
傷られたまひし事は、僕
私かに探り知れど。僕がいふはその事ならず。――さても和殿に追はれし日より、わが身
仇敵と
附狙はれては、
何時また怎麼なる事ありて、われ遂に討たれんも知れず。とかく和殿を亡き者にせでは、わが胸到底安からじト、
左様右様思ひめぐらし。
機会を
窺ふとも知らず、和殿は昨日彼の
痍のために、朱目の翁を訪れたまふこと、
私かに聞きて打ち喜び。直ちにわが腹心の友なる、黒衣と申す猿に頼みて、途中に和殿を射させしに、見事仕止めつと聞きつるが。……さては
彼奴に欺かれしか」ト。いへば黄金丸
呵々と打ち笑ひ、「それにてわれも会得したり。いまだ鷲郎にも語らざりしが。昨日朱目が許より
帰途、森の木陰を通りしに、われを狙ふて矢を放つものあり。
畢竟村童們が
悪戯ならんと、その矢を
嘴に
咬ひ止めつつ、矢の来し
方を打見やれば。こは人間と思ひのほか、
大なる猿なりければ。
憎き奴めと
睨まへしに、そのまま
這奴は逃げ
失せぬ。されどもわれ彼の猿に、
意恨を受くべき
覚なければ、
何故かかる事を
作すにやト、更に心に落ちざりしに、今爾が言葉によりて、
他が狼藉の
所以も知りぬ。然るに
他今日もまた、同じ処に忍びゐて。われを射んとしたりしかど。
此度もその矢われには当らず、肩の
辺をかすらして、後の
木根に立ちしのみ」ト。聞くに聴水は歯を
咬切り、「口惜しや腹立ちや。聴水ともいはれし古狐が、黒衣ごとき山猿に、
阿容々々欺かれし悔しさよ。かかることもあらんかと、覚束なく思へばこそ、
昨夕他が
棲を訪づれて、首尾
怎麼なりしと尋ねしなれ。さるに
他事もなげに、見事仕止めて帰りぬト、語るをわれも信ぜしが。今はた思へば彼時に、
躯は
人間に取られしなどと、いひくろめしも
虚誕の、尾を見せじと思へばなるべし。かくて他われを欺きしも、もしこの
後和殿に逢ふことあらば、事
発覚れんと思ひしより、再び今日も森に忍びて、和殿を射んとはしたりしならん。それにて思ひ合すれば、さきに藪陰にて他に逢ひし時、
太く物に
畏ぢたる様子なりしが、これも黄金ぬしに追はれし故なるべし。さりとは露ほども心付かざりしこそ、返す返すも不覚なれ。……ああ、これも皆聴水が、悪事の
報なりと思へば、他を恨みん由あらねど。
這奴なかりせば今宵もかく、
罠目の恥辱はうけまじきに」ト、
悔の
八千度百千度、眼を釣りあげて
悶えしが。ややありて胸押し
鎮め、「ああ悔いても及ぶことかは。とてもかくても
捨る命の、ただこの上は文角ぬしの、言葉にまかせて金眸が、洞の様子を語り申さん。――そもかの金眸大王が洞は、麓を去ること二里あまり、山を越え谷を
渉ること、その数幾つといふことを知らねど。もし間道より登る時は、
僅十町ばかりにして、その
洞口に達しつべし。さてまた大王が配下には、
鯀化(
羆)
黒面(
猪)を初めとして、猛き獣
們なきにあらねど。そは皆各所の山に分れて、
己が持場を守りたれば、常には洞の
辺にあらずただ
僕とかの黒衣のみ、
旦暮大王の
傍に侍りて、
他が機嫌を
取ものから。このほど大王
何処よりか、
照射といへる
女鹿を連れ給ひ、そが容色に
溺れたまへば、われ
曹が
寵は日々に
剥がれて、
私かに恨めしく思ひしなり。かくて僕
去る日、黄金ぬしに追れしより、かの
月丸が
遺児、僕及び大王を、
仇敵と狙ふ由なりと、金眸に告げしかば。
他れもまた少しく恐れて、
件の鯀化、黒面などを呼びよせ、洞ちかく守護さしつつ、
自身も
佻々しく
他出したまはざりしが。これさへ昨日黒衣めが、和殿を打ちしと聞き給ひ、喜ぶこと
斜ならず、
忽ち
守護を解かしめつ。今宵は黄金丸を亡き者にせし
祝なりとて、
盛に酒宴を張らせたまひ。僕もその席に侍りて、先のほどまで酒
酌みしが、独り早く
退り
出つ、その
帰途にかかる
状態、思へば死神の誘ひしならん」ト。いふに黄金丸は立上りて、
彼方の山を
佶と
睨めつ、「さては今宵彼の洞にて、金眸はじめ配下の獣
們、
酒宴なして
戯れゐるとや。時節到来今宵こそ。宿願成就する時なれ。
阿那喜ばしやうれしや」ト、天に喜び地に喜び、さながら物に狂へる如し。聴水はなほ語を
続ぎて、「
実に今宵こそ
屈竟なれ。さきに僕
退出し時は、大王は
照射が膝を枕として、前後も知らず
酔臥したまひ。その
傍には黒衣めが、興に乗じて躍りゐしのみ、余の獣們は腹を満たして、
各自棲居に帰りしかば、洞には絶えて
守護なし。これより
彼処へ向ひたまはば、かの間道より
登たまへ。少しは路の
嶮岨けれど、幸ひ今宵は月冴えたれば、
辿るに迷ふことはあらじ。その間道は……あれ
臠はせ、
彼処に見ゆる
一叢の、杉の森の
小陰より、小川を渡りて東へ行くなり。さてまた洞は岩畳み、
鬼蔦あまた
匐ひつきたれど、
辺りに
榎の大樹あれば、そを
目印に討入りたまへ」ト、残る隈なく教ふるにぞ。鷲郎聞きて感嘆なし、「げにや悪に強きものは、また善にも強しといふ。
爾今前非を悔いて、吾
曹がために討入りの、
計策を教ふること
忠なり。さればわれその
厚意に
愛で、おつつけ彼の黒衣とやらんを
討て、爾がために
恨を
雪がん。心安く
成仏せよ」「こは有難き
御命かな。かくては思ひ置くこともなし、
疾くわが
咽喉を
噬みたまへ」ト。覚悟
極むればなかなかに、
些も騒がぬ狐が本性。
天晴なりと
称へつつ、黄金丸は牙を
反らし、やがて咽喉をぞ噬み切りける。
黄金丸はまづ聴水を噬みころして、喜ぶこと限りなく、勇気日頃に十倍して、直ちに洞へむかはんと、
連忙しく用意をなし。文角鷲郎もろともに、彼の聴水が教へし路を、ひたすら急ぎ往くほどに、やがて山の
峡間に出でしが、これより路次第に
嶮岨く。
荊棘いやが上に
生ひ茂りて、折々
行方を
遮り。
松柏月を
掩ひては、暗きこといはんかたなく、
動もすれば岩に足をとられて、
千仞の
渓に落ちんとす。鷲郎は原来
猟犬にて、かかる路には慣れたれば、「われ
東道せん」とて先に立ち、なほ路を急ぎけるほどに、とかくして
只ある
尾上に出でしが。此処はただ草のみ生ひて、樹は
稀なれば
月光に、路の
便もいと
易かり。かかる処に
路傍の
叢より、つと走り出でて、鷲郎が前を横切るものあり。「
這伏勢ござんなれ」ト、身構へしつつ
佶と見れば、いと
大なる黒猿の、
面蘇枋に
髣髴たるが、酒に酔ひたる
人間の如く、
※※[#「にんべん+陵のつくり」、U+5030、109-3][#「にんべん+登」、U+50DC、109-3]きよろめき
彼方に行きて、太き松の幹にすがりつ、
攀登らんとあせれども、
怎麼にしけん登り得ず。
幾度かすべり落ちては、また登りつかんとするに。鷲郎は見返りて、黄金丸に打向ひ、「怎麼に黄金丸、
彼処を見ずや。松の幹に攀らんとして、
頻りにあせる一匹の猿あり。もし彼の黒衣にてはあらぬか」ト、
指し示せば黄金丸は眺めやりて、「いかさま
見違ふべきもあらぬ黒衣なり。
彼奴松の幹に登らんとして登り得ぬは、思ふに今まで金眸が洞にありて、酒を飲みしにやあらん。
引捕へて吟味せば、洞の様子も知れなんに……」「
他果して黒衣ならば、われまづ往きて他を
噬まん。さきに聴水とも約したれば」ト、いひつつ走りよりて、「やをれ黒衣、
逃るとて逃さんや」ト、一声高く
吠えかくれば。猿は
礑と地に
平伏して、
熟柿臭き息を
吻き、「こは
何処の犬殿にて渡らせ給ふぞ。
僕はこの
辺に
棲む
賤しき山猿にて候。今
宣ふ黒衣とは、僕が無二の友ならねば、元より僕が事にも候はず」ト。いふ時鷲郎が後より、黄金丸は歩み来て、
呵々と打笑ひ、「
爾黒衣。
縦令ひ酒に酔ひたりともわが
面は見忘れまじ。われは昨日
木賊ヶ原にて、爾に射られんとせし黄金丸なるぞ」ト、罵れば。他なほ知らぬがほにて、「黄金殿か
白銀殿か、われは一向
親交なし。
鉄を掘りに来給ふとも、この山には
銅も出はせじ」ト、訳も解らぬことをいふに。「酔ひたる者と問答無益し、ただ一噬み」ト寄らんとすれば、黒衣は慌しく松の幹にすがりつつ、「こは情なの犬殿かな。和殿も知らぬことはあるまじ、わが
先祖巌上甕猿は。和殿が先祖
文石大白君と共に、
斉く
桃太郎子に従ひて、
淤邇賀島に押し渡り、軍功少からざりけるに。
何時のほどよりか
隙を生じて、互に牙を
鳴し争ふこと、
実に本意なき事ならずや。さるによつて
僕は、常に和殿
們を貴とみ、
早晩は
款を通ぜんとこそ思へ、
聊かも仇する心はなきに、
何罪科あつて僕を、
噬んとはしたまふぞ。山王権現の
祟りも恐れ給はずや」ト、様々にいひ紛らし、
間隙を見て逃げんと構ふるにぞ。鷲郎
大に
焦燥ちて、「
爾悪猿、
怎麼に人間に近ければとて、かくはわれ
曹を侮るぞ。われ曹
疾くより爾が罪を知れり。たとひ言葉を
巧にして、いひのがれんと計るとも、われ曹いかで欺かれんや。重ねて
虚誕いへぬやう、いでその息の根止めてくれん」ト、
※叫[#「口+畫」、U+35F2、110-10]んで飛びかかるほどに。元より
悟空が神通なき身の、まいて酒に酔ひたれば、
争で犬にかなふべき、黒衣は忽ち
咬ひ殺されぬ。
鷲郎は黒衣が
首級を咬ひ
断離り、血祭よしと喜びて、これを
嘴に
提げつつ、なほ奥深く
辿り行くに。忽ち路
窮まり山
聳えて、進むべき
岨道だになし。「こは
訝かし、路にや迷ふたる」ト、
彼方を
透し見れば、年
経りたる
榎の
小暗く茂りたる陰に、これかと見ゆる洞ありけり。「さては金眸が
棲居なんめり」ト、なほ近く進み寄りて見れば、彼の聴水がいひしに
違はず、岩高く聳えて、
鑿もて削れるが如く、これに鬼蔦の
匐ひ付きたるが、折から
紅葉して、さながら絵がける
屏風に似たり。また洞の外には累々たる白骨の、
堆く積みてあるは、年頃金眸が取り
喰ひたる、
鳥獣の骨なるべし。黄金丸はまづ
洞口によりて。
中の様子を
窺ふに、ただ暗うして
確とは知れねど、奥まりたる
方より
鼾の声高く
洩れて、地軸の鳴るかと疑はる。「さては
他なほ
熟睡してをり、この
隙に
跳り入らば、
輒く打ち取りてん」ト。黄金丸は鷲郎と
面を見合せ、「
脱給ふな」「脱りはせじ」ト、互に励ましつ励まされつ。やがて両犬進み入りて、今しも
照射ともろともに、
岩角を枕として
睡りゐる、金眸が
脾腹を
丁と
蹴れば。蹴られて金眸
岸破と
跳起き、一声

えて立上らんとするを、起しもあへず鷲郎が、
襟頭咬はへて引据ゆれば。その
隙に逃げんとする、照射は洞の出口にて、文角がために突止められぬ、この時黄金丸は声をふり立て、「やをれ金眸
確に聞け。われは
爾が
毒牙にかかり、非業にも最期をとげたる、月丸が
遺児、黄金丸といふ犬なり。
彼時われ母の胎内にありしが、その
後養親文角ぬしに、
委敷き事は聞きて知りつ。爾がためには父のみか、母も
病て
歿りたれば、
取不直両親の
讐、年頃
積る意恨の牙先、今こそ思ひ知らすべし」ト。名乗りかくれば金眸は、恐ろしき
眼を見張り、「爾は昨日黒衣がために、射殺されたる野良犬ならずや。さては
妄執晴れやらで、わが
酔臥せし
隙に
著入り、
祟をなさんず心なるか。
阿那嗚呼の
白物よ」ト。いはせも果てず
冷笑ひ、「
愚や金眸。爾も黒衣に欺かれしよな。
他が如き山猿に、射殺さるべき黄金丸ならんや。爾が
股肱と頼みつる、聴水もさきに殺しつ。その黒衣といふ山猿さへ、われはや咬ひ殺して
此にあり」ト、携へ来りし黒衣が
首級を、金眸が前へ投げ
遣れば。金眸は
大に怒り、「さては黒衣が
虚誕なりしか。さばれ何ほどの事かあらん」ト、いひつつ、鷲郎を払ひのけ、黄金丸に
掴みかかるを、
引ぱづして肩を
噛めば。金眸も
透さず黄金丸が、
太股を噛まんとす。噛ましはせじと
横間より、鷲郎は
躍り
掛て、金眸が
頬を噛めば。その隙に黄金丸は跳起きて、金眸が
脊に
閃りと
跨り、耳を噛んで左右に振る。金眸は痛さに身を
悶きつつ、鷲郎が横腹を
引※[#「爪+國」、U+24529、112-7]めば、「
呀嗟」と叫んで身を翻へし、少し
退つて洞口の
方へ、行くを続いて
追かくれば。猛然として文角が、
立閉がりつつ角を振りたて、寄らば突かんと
身構たり。「さては加勢の者ありや。
這ものものし金眸が、死物狂ひの
本事を見せん」ト、いよいよ猛り狂ふほどに。その

ゆる声百雷の、一時に落ち
来るが如く、
山谷ために震動して、物凄きこといはん方なし。
去るほどに三匹の獣は、互ひに尽す秘術
剽挑、右に
衝き左に躍り、縦横
無礙に
暴れまはりて、
半時ばかりも
闘ひしが。金眸は
先刻より飲みし酒に、四足の働き心にまかせず。
対手は名に負ふ黄金丸、鷲郎も
尋常の犬ならねば、さしもの金眸も敵しがたくや、少しひるんで見えける処を、得たりと
著入る黄金丸、金眸が
咽喉をねらひ、
頤も透れと
噬みつけ、鷲郎もすかさず後より、金眸が
睾丸をば、力をこめて噬みたるにぞ。
灸所の痛手に金眸は、一声
※[#「口+翁」、U+55E1、112-16]と叫びつつ、
敢なく
躯は倒れしが。これに心の張り弓も、一度に弛みて両犬は、左右に

と
俯伏して、
霎時は起きも得ざりけり。
文角は今まで洞口にありて、二匹の犬の働きを、
眼も放たず見てありしが、この時
徐ろに進み入り、悶絶なせし二匹をば、さまざまに
舐り
勦はり。漸く元に
復りしを見て、今宵の働きを言葉を極めて
称賛へつ。やがて金眸が
首級を噬み切り、これを文角が角に着けて、そのまま山を
走せ
下り、
荘官が家にと急ぎけり、かくて黄金丸は主家に帰り、
件の金眸が
首級を奉れば。
主人も
大概は
猜しやりて、喜ぶことななめならず、「さても
出来したり黄金丸、また鷲郎も
天晴れなるぞ。その父の
讐を
討しといはば、事
私の意恨にして、深く
褒むるに足らざれど。年頃
数多の
獣類を
虐げ、あまつさへ人間を
傷け、猛威日々に
逞しかりし、彼の金眸を討ち取りて、
獣類のために害を除き、人間のために
憂を払ひしは、その功けだし
莫大なり」トて、言葉の限り
称賛へつ、さて黄金丸には金の
頸輪、鷲郎には銀の頸輪とらして、共に家の
守衛となせしが。二匹もその恩に感じて、忠勤怠らざりしとなん。めでたしめでたし。