子をつれて

葛西善蔵




     一

 掃除をしたり、おさいを煮たり、糠味噌を出したりして、子供等に晩飯を済まさせ、彼はようやく西日の引いた縁側近くへお膳を据えて、淋しい気持で晩酌の盃をめていた。すると御免とも云わずに表の格子戸をそうっと開けて、例の立退き請求の三百が、玄関の開いてた障子の間から、ぬうっと顔を突出した。
「まあお入りなさい」彼は少し酒の気の廻っていた処なので、坐ったなり元気好く声をかけた。
いやもうこゝで結構です。一寸そこまで散歩に来たものですからな。……それで何ですかな、家がまりましたでしょうな? もう定まったでしょうな?」
「……さあ、実は何です、それについて少しお話したいこともあるもんですから、一寸まあおあがり下さい」
 彼は起って行って、頼むように云った。
「別にお話を聴く必要も無いが……」と三百はプンとした顔して呟きながら、渋々に入って来た。四十二三の色白の小肥りの男で、紳士らしい服装している。しかし斯うした商売の人間に特有――かのような、陰険な、他人の顔を正面まともに視れないような変にしょぼ/\した眼附していた。
「……で甚だ恐縮な訳ですが、さいも留守のことで、それも三四日中には屹度帰ることになって居るのですから、どうかこの十五日まで御猶予願いたいものですが、……」
「出来ませんな、断じて出来るこっちゃありません!」
 斯う呶鳴どなるように云った三百の、例のしょぼ/\した眼は、急に紅い焔でも発しやしないかと思われた程であった。で彼はあわてて、
「そうですか。わかりました。ござんす、それでは十日には屹度越すことにしますから」と謝まるように云った。
「私もそりゃ、最初から貴方を車夫馬丁同様の人物と考えたんだと、そりゃどんな強い手段も用いたのです。がまさかそうとは考えなかったもんだから、相当の人格を有して居られる方だろうと信じて、これだけ緩慢に貴方の云いなりになって延期もして来たような訳ですからな、この上は一歩も仮借する段ではありません。如何なる処分を受けても苦しくないと云う貴方の証書通り、私の方では直ぐにも実行しますから」
 何一つ道具らしい道具の無い殺風景な室の中をじろ/\気味悪るく視廻しながら、三百は斯う呶鳴り続けた。彼は、「まあ/\、それでは十日の晩には屹度引払うことにしますから」と、相手の呶鳴るのを抑える為め手を振って繰返すほかなかった。
「……実に変な奴だねえ、そうじゃ無い?」
 よう/\三百の帰った後で、彼は傍で聴いていた長男と顔を見交わして苦笑しながら云った。
「……そう、変な奴」
 子供も同じように悲しそうな苦笑を浮べて云った。……

 狭い庭の隣りが墓地になっていた。そこの今にも倒れそうになっている古板塀に縄を張って、朝顔がからましてあった。それがまた非常な勢いで蔓が延びて、先きを摘んでも摘んでもわきから/\と太いのが出て来た。そしてまたその葉が馬鹿に大きくて、毎日見て毎日大きくなっている。その癖もう八月に入ってるというのに、一向花が咲かなかった。
 いよ/\敷金切れ、滞納四ヵ月という処から家主との関係が断絶して、三百がやって来るようになってからも、もう一月ひとつき程も経っていた。彼はこの種を蒔いたり植え替えたり縄を張ったり油粕あぶらかすまでやって世話した甲斐もなく、一向に時が来ても葉や蔓ばかし馬鹿延びに延びて花の咲かない朝顔を余程皮肉な馬鹿者のようにも、またこれほど手入れしたその花の一つも見れずに追い立てられて行く自分の方が一層のみじめな痴呆者たわけものであるような気もされた。そして最初に訪ねて来た時分の三百の煮え切らない、変に廻りくどく持ちかけて来る話を、幾らか馬鹿にした気持で、塀いっぱいにいのぼった朝顔を見い/\聴いていたのであった。所がそのうち、二度三度と来るうちに、三百の口調態度がすっかり変って来ていた。そして彼は三百の云うなりになって、八月十日限りといういろ/\な条件附きの証書をも書かされたのであった。そして無理算段をしては、細君を遠い郷里の実家さとへ金策にたしてやったのであった。……
「なんだってあの人はあゝ怒ったの?」
「やっぱし僕達に引越せって訳さ。なあにね、明日あしたあたり屹度母さんから金が来るからね、直ぐ引越すよ、あんな奴幾ら怒ったって平気さ」
 膳の前に坐っている子供等相手に、斯うした話をしながら、彼はやはり淋しい気持で盃を嘗め続けた。
 無事に着いた、屹度十日までに間に合せて金を持って帰るから――という手紙一本あったきりで其後消息の無い細君のこと、細君のつれて行った二女のこと、また常陸ひたちの磯原へ避暑に行ってるKのこと、――Kからは今朝も、二ツ島という小松の茂ったそこの磯近くの巌に、白い波の砕けている風景の絵葉書が来たのだ。それには、「勿来関なこそのせきに近いこゝらはもう秋だ」というようなことが書いてあった。それがこの三年以来の暑気だという東京の埃りの中で、藻掻き苦しんでいる彼には、好い皮肉であらねばならなかった。
「いや、Kは暑を避けたんじゃあるまい。恐らくは小田を勿来関に避けたという訳さ」
 斯う彼等の友達の一人が、Kが東京を発った後で云っていた。それほど彼はこの三四ヵ月来Kにはいろ/\厄介をかけて来ていたのであった。
 この三四ヵ月程の間に、彼は三四の友人から、五円程宛金を借り散らして、それが返せなかったので、すべてそういう友人の方面からは小田という人間は封じられて了って、最後にKひとりが残された彼の友人であった。で「小田は十銭持つと、渋谷へばかし行っているそうじゃないか」友人達は斯う云って蔭で笑っていた。晩の米が無いから、明日の朝食べる物が無いから――と云っては、その度に五十銭一円と強請ねだって来た。Kは小言を並べながらも、金の無い時には古本や古着古靴などまで持たして寄越した。彼は帰って来て、「そうらお土産……」と、赤い顔する細君の前へ押遣るのであった。(何処からか、救いのお使者つかいがありそうなものだ。自分は大した贅沢な生活を望んで居るのではない、大した欲望を抱いて居るのではない、月に三十五円もあれば自分等家族五人がえずに暮して行けるのである。たったこれだけの金を器用に儲けれないという自分の低能も度し難いものだが、併したったこれだけの金だから何処からかひとりでに出て来てもよさそうな気がする)彼にはよくこんなことが空想されたが、併しこの何ヵ月は、それが何処からも出ては来なかった。何処も彼処も封じられて了った。一日々々と困って行った。蒲団が無くなり、火鉢が無くなり、机が無くなった。自滅だ――終いには斯う彼も絶望して自分に云った。
 電灯屋、新聞屋、そばや、洋食屋、町内のつきあい――いろんなものがやって来る。へやの中に落着いて坐ってることが出来ない。夜も晩酌が無くては眠れない。頭が痛んでふらふらする。胸はいつでもどきん/\している。……
 と云って彼は何処へも訪ねて行くことが出来ないので、やはり十銭持つと、Kの渋谷の下宿へ押かけて行くほかなかった。Kは午前中は地方の新聞の長篇小説を書いて居る。午後は午睡や散歩や、友達を訪ねたり訪ねられたりする時間にあててある。彼は電車の中で、今にも昏倒しそうな不安な気持を感じながらどうか誰も来ていないで呉れ……と祈るように思う。先客があったり、後から誰か来合せたりすると彼は往きにもまして一層滅入めいった、一層圧倒された惨めな気持にされて帰らねばならぬのだ――
 彼は歯のすっかりすり減った日和ひよりを履いて、終点で電車を下りて、午下りの暑い盛りをだら/\汗を流しながら、Kの下宿の前庭の高い松の樹を見あげるようにして、砂利を敷いた坂路を、ひょろ高いまがった身体してテク/\上って行くのであった。松の樹にはいつでも蝉がギン/\鳴いていた。また玄関前のタヽキの上には、下宿の大きな土佐犬が手脚を伸して寝そべっていた。彼は玄関へ入るなり、まず敷台の隅の洋傘やステッキの沢山差してある瀬戸物の筒に眼をつける――Kの握り太の籐のステッキが見える――と彼は案内を乞うのも気が引けるので、こそ/\と二階のKの室へあがって行く。……
「……K君――」
「どうぞ……」
 Kは毛布を敷いて、空気枕の上に執筆に疲れた頭をやすめているか、でないとひとりでトランプを切って占いごとをしている。
「この暑いのに……」
 Kは斯う警戒する風もなく、笑顔を見せて迎えて呉れると、彼は初めてほっとした安心した気持になって、ぐたりと坐るのであった。それから二人の間には、大抵次ぎのような会話が交わされるのであった。
「……そりゃね、今日の処は一円差上げることは差上げますがね。併しこの一円金あった処で、明日一日しのげば無くなる。……後をどうするかね? 僕だって金持という訳ではないんだからね、そうは続かないしね。一体君はどうご自分の生活というものを考えて居るのか、僕にはさっぱり見当が附かない」
「僕にも解らない……」
「君にも解らないじゃ、仕様が無いね。で、一体君は、そうしていてちっともこわいと思うことはないかね?」
「そりゃ怖いよ。何もも怖いよ。そして頭が痛くなる、漠然とした恐怖――そしてどうしていゝのか、どう自分の生活というものを考えていゝのか、どう自分の心持を取直せばいゝのか、さっぱり見当が附かないのだよ」
「フン、どうして君はそうかな。些とも漠然とした恐怖なんかじゃないんだよ。明瞭な恐怖なんじゃないか。恐ろしい事実なんだよ。最も明瞭にして恐ろしい事実なんだよ。それが君に解らないというのは僕にはどうも不思議でならん」
 Kは斯う云って、口をつぐんでしまう。彼もこれ以上Kに追求されては、ほんとうは泣き出すほかないと云ったような顔附になる。彼にはまだ本当に、Kのいうその恐ろしいものの本体というものが解らないのだ。がその本体の前にじり/\引摺り込まれて行く、泥沼に脚を取られたように刻々と陥没しつゝある――そのことだけは解っている。けれどもすっかり陥没し切るまでには、案外時がかゝるものかも知れないし、またその間にどんな思いがけない救いの手が出て来るかも知れないのだし、また福運という程ではなくも、どうかして自分等家族五人が饑えずにきて行けるような新しい道が見出せないとも限らないではないか? ――無気力な彼の考え方としては、結局またこんな処へ落ちて来るということは寧ろ自然なことであらねばならなかった。
(魔法使いの婆さんがあって、婆さんは方々からいろ/\な種類の悪魔を生捕って来ては、魔法で以て悪魔の通力を奪って了う。そして自分の家来にする。そして滅茶苦茶にコキ使う。厭なことばかしさせる。終いにはさすがの悪魔も堪え難くなって、婆さんの処を逃げ出す。そして大きな石の下なぞに息を殺して隠れて居る。すると婆さんが捜しに来る。そして大きな石をあげて見る、――いやはや悪魔共が居るわ/\、塊り合ってわな/\ぶる/\慄えている。それをまた婆さんが引掴ひっつかんで行って、一層ひどくコキ使う。それでもどうしても云うことを聴かない奴は、らしめる為め何千年とか何万年とかいう間、何にも食わせずに壁の中や巌の中へ魔法で封じ込めて置く――)
 これがKの、西蔵チベットのお伽噺――恐らくはKの創作であろう――というものであった。話上手のKから聴かされては、この噺は幾度聴かされても彼にはおもしろかった。
「何と云って君はジタバタしたって、所詮君という人はこの魔法使いの婆さん見たいなものに見込まれて了っているんだからね、幾ら逃げ廻ったって、そりゃ駄目なことさ、それよりもおとなしく婆さんの手下になって働くんだね。それに通力を抜かれて了った悪魔なんて、ほんとに仕様が無いもんだからね。それも君ひとりだったら、そりゃ壁の中でも巌の中でも封じ込まれてもいゝだろうがね、細君や子供達まで巻添えにしたんでは、そりゃ可哀相だよ」
「そんなもんかも知れんがな。併しその婆さんなんていう奴、そりゃ厭な奴だからね」
「厭だって仕方が無いよ。僕等は食わずにゃ居られんからな。それに厭だって云い出す段になったら、そりゃ君の方の婆さんばかしとは限らないよ」
 夕方近くになって、彼は晩の米を買う金を一円、五十銭と貰っては、帰って来る。(本当に、この都会という処には、Kのいうその魔法使いの婆さん見たいな人間ばかしだ!)と、彼は帰りの電車の中でつく/″\と考える。――いや、彼を使ってやろうというような人間がそんなのばかりなのかも知れないが。で彼は、彼等の酷使に堪え兼ねては、逃げ廻る。食わず飲まずでもいゝからと思って、石の下――なぞに隠れて見るが、また引掴まえられて行く。……既に子供達というものがあって見れば! 運命だ! が、やっぱし辛抱が出来なくなる。そして、逃げ廻る。……
 処で彼は、今度こそはと、必死になって三四ヵ月も石の下に隠れて見たのだ。がその結果は、やっぱし壁や巌の中へ封じ込められようということになったのだ。……
 Kへは気の毒である。けれども彼には何処と云って訪ねる処が無い。でやっぱし、十銭持つと、渋谷へかよった。
 処が最近になって、彼はKの処からも、封じられることになった。それは、Kの友人達が、小田のような人間を補助するということはKの不道徳だと云って、Kを非難し始めたのであった。「小田のようなのは、つまり悪疾患者見たいなもので、それもある篤志な医師などに取っては多少の興味ある活物いきものであるかも知れないが、吾々健全な一般人に取っては、寧ろ有害無益の人間なのだ。そんな人間の存在を助けているということは、社会生活という上から見て、正しく不道徳な行為であらねばならぬ」斯ういうのが彼等の一致した意見なのであった。
「一体貧乏ということは、決して不道徳なものではない。好い意味の貧乏というものは、却て他人に謙遜な好い感じを与えるものだが、併し小田のはあれは全く無茶というものだ。貧乏以上の状態だ。憎むべき生活だ。あの博大なドストエフスキーでさえ、貧乏ということはいゝことだが、貧乏以上の生活というものは呪うべきものだと云っている。それは神の偉大を以てしても救うことが出来ないから……」斯うまた、彼等のうちの一人の、露西亜文学通が云った。
 また、つい半月程前のことであった。彼等の一人なるYから、亡父の四十九日というので、彼の処へも香奠こうでん返しのお茶を小包で送って来た。彼には無論一円という香奠を贈る程の力は無かったが、それもKが出して置いて呉れたのであった。Yの父が死んだ時、友人同士が各自に一円ずつの香奠を送るというのも面倒だから、連名にして送ろうではないかという相談になって(彼はその席には居合せなかったが)その時Kが「小田も入れといてやろうじゃないか、斯ういう場合なんだからね、小田も可愛相だよ」斯う云って、彼の名をも書き加えて、Kが彼の分をも負担したのであった。
 それから四十九日が済んだという翌くる日の夕方前、――丁度また例の三百が来ていて、それがまだ二三度目かだったので、例の廻りくどい不得要領な空恍そらとぼけた調子で、並べ立てていた処へ、丁度その小包が着いたのであった。「いや私も近頃は少し脳の加減を悪るくして居りましてな」とか、「えゝその、居は心を移すとか云いますがな、それは本当のことですな。何でも斯ういう際は多少の不便を忍んでもすぱりと越して了うんですな。第一処が変れば周囲の空気からして変るというもんで、自然人間の思想も健全になるというような訳で……」斯う云ったようなことを一時間余りもそれからそれと並べ立てられて、彼はすっかり参っていた処なので、もう解ったから早く帰って呉れと云わぬばかしの顔していた処なので、そこへ丁度好くそのお茶の小包が着いたので、それが気になって堪らぬと云った風をしては、座側わきに置いた小包に横目をやっていた。また実際一円の香奠を友人に出して貰わねばならぬ様な身分の彼としては、一斤というお茶は貴重なものに違いなかった。で三百の帰った後で、彼は早速小包の横を切るのももどかしい思いで、包装を剥ぎ、そしてそろ/\と紙箱の蓋を開けたのだ。……新しいブリキ鑵の快よい光! 山本山と銘打った紅いレッテルのうるわしさ! 彼はその刹那に、非常な珍宝にでも接した時のように、軽い眩暈めまいすら感じたのであった。
 彼は手を附けたらば、手の汗でその快よい光りが曇り、すぐにも錆が附きやしないかと恐るるかのように、そうっと注意深く鑵を引出して、見惚みとれたように眺め廻した。……と彼は、ハッとしたさまで、あぶなく鑵を取落しそうにした。そしてたちまち今までの嬉しげだった顔が、急にしょげ垂れた、にがいような悲しげな顔になって、絶望的な太息を漏らしたのであった。
 それは、その如何にも新らしい快よい光輝を放っている山本山正味百二十匁入りのブリキの鑵に、レッテルの貼られた後ろの方に、大きな凹みが二箇所というもの、出来ていたのであった。何物かへ強く打つけたか、何物かで強く打ったかとしか思われない、ひどい凹みであった。やがて、当然、彼の頭の中に、これを送った処のYという人間が浮んで来た。あの明確な頭脳の、旺盛な精力の、如何なる運命をも肯定して驀地まっしぐらに未来の目標に向って突進しようという勇敢な人道主義者――、常に異常な注意力と打算力とを以て自己の周囲を視廻し、そして自己に不利益と見えたものは天上の星といえども除き去らずにはかぬという強猛な感情家のY、――併し彼は如何に猜疑心を逞しゅうして考えて見ても、まさかYが故意に、彼を辱しめる為めに送って寄越したのだとは、彼にも考えることが出来なかった。……それは余りに理由いわれないことであった。
「何しろ身分が身分なんだから、それは大したものに違いなかろうからな、一々開けてしらべて見るなんて出来た訳のものではなかろう。つまり偶然に、斯うした傷物が俺に当ったという訳だ……」
 それが当然の考え方に違いなかった。併し彼は何となく自分の身が恥じられ、また悲しく思われた。偶然とは云え、斯うした物に紛れ当るということは、余程呪われた者の運命に違いないという気が強くされて――
 彼は、子供等が庭へ出て居り、また丁度細君も使いに行ってて留守だったのを幸い、台所へ行って擂木すりこぎで出来るだけその凹みを直し、妻に見つかって詰問されるのを避ける準備をして置かねばならなかった。
 それから二三日経って、彼はKに会った。Kは彼の顔を見るなり、鋭い眼に皮肉な微笑を浮べて、
「君の処へも山本山が行ったろうね?」と訊いた。
「あ貰ったよ。そう/\、君へお礼を云わにゃならんのだっけな」
「お礼はいゝが、それで別段異状はなかったかね?」
「異状? ……」彼にもKの云う意味が一寸わからなかった。
「……だと別に何でもないがね、僕はまた何処か異状がありやしなかったかと思ってね。……そんな話を一寸聞いたもんだから」
 斯う云われて、彼の顔色が変った。――鑵の凹みのことであったのだ。
 それは、全く、彼にも想像にも及ばなかった程、恐ろしい意外のことであった。鑵の凹みは、Yが特に、毎朝振り慣れた鉄唖鈴てつあれいで以て、左りぎっちょの逞しい腕に力をこめて、Kの口調で云うと、「えゝ憎き奴め!」とばかり、殴りつけて寄越したのだそうであった。
「……K君そりゃ本当の話かね? 何でまたそれ程にする必要があったんかね? 変な話じゃないか。俺はYにも御馳走にはなったことはあるが、金は一文だって借りちゃいないんだからな……」
 斯う云った彼の顔付は、今にも泣き出しそうであった。
「だからね、そんな、君の考えてるようなもんではないってんだよ、世の中というものはね。もっと/\君の考えてる以上に怖ろしいものなんだよ、現代の生活マンの心理というものはね。……つまり、他に理由はないんさ、要するに貧乏な友達なんか要らないという訳なんだよ。他に君にどんな好い長所や美点があろうと、唯君が貧乏だというだけの理由から、彼等は好かないというんだからね、仕様がないじゃないか。殊にYなんかというあゝ云った所謂道徳家から見ては、単に悪病患者視してるに堪えないんだね。機会さえあればそう云った目障りなものを除き去ろう撲滅しようとかゝってるんだからね。それで今度のことでは、Yは僕のこともひどく憤慨してるそうだよ。……小田のような貧乏人から、香奠なんか貰うことになったのも、皆なKのせいだというんでね。かと云って、まさか僕に鉄唖鈴を喰わせる訳にも行かなかったろうからね。何しろ今の娑婆というものは、そりゃ怖ろしいことになって居るんだからね」
「併し俺には解らない、どうしてそんなYのような馬鹿々々しいことが出来るのか、僕には解らない」
「そこだよ、君に何処か知らけてる――と云っては失敬だがね、それは君は自分に得意を感じて居る人間が、惨めな相手の一寸したことに対しても持ちたがる憤慨や暴慢というものがどんな程度のものだかということを了解していないからなんだよ。それに一体君は、魔法使いの婆さん見たいな人間は、君に仕事をさせて呉れるような方面にばかし居るんだと思ってるのが、根本の間違いだと思うがな。吾々の周囲――文壇人なんてもっとひどいものかも知れないからね。君のいう魔法使いの婆さんとは違った、風流な愛とか人道とかいつくしむとか云ってるから悉くこれ慈悲忍辱にんにくの士君子かなんぞと考えたら、飛んだ大間違いというもんだよ。このことだけは君もよく/\腹に入れてかゝらないと、本当に君という人は吾々の周囲から、……生存出来ないことになるぜ! 世間には僕のような風来坊ばかし居ないからね」
 今にも泣き出しそうにしばたたいている彼の眼を覗き込んで、Kは最後の宣告でも下すように、斯う云った。

     二

 …………
 眼を醒まして見ると、彼は昨夜のまゝのお膳の前に、肌襦袢一枚で肱枕して寝ていたのであった。身体中そちこち蚊に喰われている。膳の上にも盃の中にも蚊が落ちている。嘔吐を催させるような酒の臭い――彼はまだ酔の残っているふら/\した身体を起して、雨戸を開け放した。次ぎの室で子供等が二人、蚊帳も敷蒲団もなく、ボロ毛布の上へ着たなりで眠っていた。
 朝飯を済まして、書留だったらこれを出せと云って子供に認印みとめを預けて置いて、貸家捜しに出かけようとしている処へ、三百が、格子外から声かけた。
「家もまったでしょうな? 今日は十日ですぜ。……御承知でしょうな?」
「これから捜そうというんですがな、併し晩までに引越したらそれでいゝ訳なんでしょう」
「そりゃ晩までで差支えありませんがね、併し余計なことを申しあげるようですが、引越しはなるべく涼しいうちの方が好かありませんかね?」
「併し兎に角晩までには間違いなく引越しますよ」
「でまた余計なことを云うようですがな、その為めに私の方では如何なる御処分を受けても差支えないという証書も取ってあるのですからな、今度間違うと、直ぐにも処分しますから」
 三百は念を押して帰ってった。彼は昼頃までそちこち歩き廻って帰って来たが、やはり為替かわせが来てなかった。
 で彼はお昼からまた、日のカン/\照りつける中を、出て行った。顔から胸から汗がぽた/\流れ落ちた。クラ/\と今にも打倒れそうな疲れた頼りない気持であった。歯のすり減った下駄のようになった日和ひよりを履いて、手のやにでべと/\に汚れた扇を持って、彼はひょろ高い屈った身体してテク/\と歩いて行った。それは細いだら/\の坂路の両側とも、石やコンクリートの塀を廻したお邸宅やしきばかし並んでいるような閑静な通りであった。無論その辺には彼に恰好な七円止まりというような貸家のあろう筈はないのだが、彼はそこを抜けて電車通りに出て電車通りの向うの谷のようになった低地の所謂細民窟附近を捜して見ようと思って、通りかゝったのであった。両側の塀の中からは蝉やあぶらみんみんおうしの声が、これでもまだ太陽の照りつけ方が足りないとでも云うように、ギン/\溢れていた。そしてどこの門の中も、人気が無いかのようにひっそりかんとしていて、敷きつめた小砂利の上に、太陽がチカ/\光っていた。で「斯んな広いお邸宅の静かな室で、午睡でもしていたいものだ」と彼はだら/\流れ出る胸の汗を拭き/\、斯んなことを思いながら、息を切らして歩いて行った。左り側に彼が曾て雑誌の訪問記者として二三度お邪魔したことのある、実業家で、金持で、代議士の邸宅があった。「やはり先生避暑にでも行ってるのだろうが、何と云っても彼奴等きゃつらはいゝ生活をしているな」彼は羨ましいような、また憎くもあるような、結局芸術とか思想とか云ってても自分の生活なんて実に惨めで下らんもんだというような気がされて、彼は歩みを緩めて、コンクリートの塀の上にガラスの破片を突立てた広い門の中をジロ/\横目に見遣りながら、歩いて行ったのであった。が丁度その時、坂の向うから、大きな体格の白服の巡査が、剣をガチン/\鳴らしながらのそり/\やって来た。顔も体格に相応して大きな角張った顔で、鬚が頬骨の外へ出てる程長く跳ねて、頬鬚の無い鍾馗しょうきそのまゝの厳めしい顔をしていた。処が彼がちらと何気なしに其巡査の顔を見ると、巡査が真直ぐに彼の顔に鋭い視線を向けて、厭に横柄なのそり/\した歩き振りでやって来てるので、彼は何ということなしに身内の汗の冷めたくなるのを感じた。彼は別に法律に触れるようなことをしてる身に憶えないが、さりとて問い詰められては間誤まごつくようなこともあるだろうし、またどんな嫌疑で――彼の見すぼらしい服装だけでもそれに値いしないとは云えないのだから――「オイオイ! 貴様は! 厭に邸内をジロ/\覗き歩いて居るが、一体貴様は何者か? 職業は? 住所は?」
 で彼は何気ない風を装うつもりで、扇をパチ/\云わせ、息の詰まる思いしながら、細い通りの真中を大手を振ってやって来る見あげるような大男の側を、急ぎ脚に行過ぎようとした。
「オイオイ!」
 ……果して来た! 彼の耳がガアンと鳴った。
「オイオイ! ……」
 警官は斯う繰返してものの一分もじっと彼の顔を視つめていたが、
「……忘れたか! 僕だよ! ……忘れたかね? ウヽ? ……」
 警官は斯う云って、初めて相好を崩し始めた。
「あ君か! 僕はまた何物かと思って吃驚しちゃったよ。それにしてもよく僕だってことがわかったね」
 彼は相手の顔を見あげるようにして、ほっとした気持になって云った。
「そりゃ君、警察眼じゃないか。警察眼の威力というのは、そりゃ君恐ろしいものさ」
 警官は斯う得意そうに笑って云った。
 午下りの暑い盛りなので、そこらには人通りは稀であった。二人はそこの電柱の下につくばって話した。
 警官――横井と彼とは十年程前神田の受験準備の学校で知り合ったのであった。横井はその時分医学専門の入学準備をしていたのだが、その時分下宿へ怪しげな女なぞ引張り込んだりしていたが、それから間もなく警察へ入ったのらしかった。
 横井はやはり警官振った口調で、彼の現在の職業とか収入とかいろ/\なことを訊いた。
「君はやはり巡査かい?」
 彼はそうした自分のことを細かく訊かれるのを避けるつもりで、先刻から気にしていたことを口に出した。
「馬鹿云え……」横井は斯う云って、つくばったまゝ腰へ手を廻して剣の柄を引寄せて見せ、
「見給え、巡査のとは違うじゃないか。帽子の徽章にしたって僕等のは金モールになってるからね……ハヽ、この剣を見よ! と云いたい処さ」横井は斯う云って、再び得意そうに広い肩をゆすぶって笑った。
「そうか、警部か。それはえらいね。僕はまたね、巡査としては少し変なようでもあるし、何かと思ったよ」
「白服だからね、一寸わからないさ」
 二人は斯んなことを話し合いながら、しばらく肩を並べてぶら/\歩いた。で彼は「此際いい味方が出来たものだ」斯う心の中に思いながら、彼が目下家を追い立てられているということ、今晩中に引越さないと三百が乱暴なことをするだろうが、どうかならぬものだろうかと云うようなことを、相手の同情をひくような調子で話した。
「さあ……」と横井は小首をかしげて急に真面目な調子になり「併し、そりゃ君、つまらんじゃないか。そんな処に長居するもんじゃないよ。気持を悪くするばかしで、結局君の不利益じゃないか。そりゃ先方むこうの云う通り、今日中に引払ったらいゝだろうね」
「出来れば無論今日中に越すつもりだがね、何しろこれから家を捜さにゃならんのだからね」
「併しそんな処に長居するもんじゃないね。結局君の不利益だよ」
 彼の期待は外れて、横井は警官の説諭めいた調子で斯う繰り返した。
「そうかなあ……」
「そりゃそうとも。……では大抵署に居るからね、遊びに来給え」
「そうか。ではいずれ引越したらお知らせする」
 斯う云って、彼は張合い抜けのした気持で警官と別れて、それから細民窟附近を二三時間も歩き廻った。そしてよう/\恰好な家を見つけて、僅かばかしの手附金を置いて、晩に引越して来るということにして帰って来た。がやっぱし細君からの為替が来てなかった。昨日の朝出した電報の返事すら来てなかった。

     三

 その翌日の午後、彼は思案に余って、横井を署へ訪ねて行った。明け放した受附の室とは別室になった奥から、横井は大きな体躯からだをのそり/\運んで来て「やあ君か、まああがれ」斯う云って、彼を二階の広い風通しの好い室へ案内した。広間の周囲には材料室とか監督官室とかいう札をかけた幾つかの小間があった。梯子段をのぼった処に白服の巡査が一人テーブルに坐っていた。二人は中央の大テーブルに向い合って椅子に腰かけた。
「どうかね、引越しが出来たかね?」
「出来ない。家はよう/\見附かったが、今日は越せそうもない。金の都合が出来んもんだから」
「そいつあ不可いかんよ君。……」
 横井は彼の訪ねて来た腹の底を視透かしたかのように、むずかしい顔をして、その角張った広い顔から外へと跳ねた長い鬚をぐい/\と引張って、飛び出た大きな眼を彼の額に据えた。彼は話題を他へ持って行くほかなかった。
「でも近頃は節季近くと違って、幾らか閑散なんだろうね。それに一体にこの区内では余り大した事件が無いようだが、そうでもないかね?」
「いや、いつだって同じことさ。ちょい/\これでいろんな事件があるんだよ」
「でも一体に大事件の無い処だろう?」
「がその代り、注意人物が沢山居る。第一君なんか初めとしてね……」
「馬鹿云っちゃ困るよ。僕なんかそりゃ健全なもんさ。唯貧乏してるというだけだよ。尤も君なんかの所謂警察眼なるものから見たら、何でもそう見えるんか知らんがね、これでも君、幾らかでも国家社会の為めに貢献したいと思って、貧乏してやってるんだからね。単に食う食わぬの問題だったら、田舎へ帰って百姓するよ」
 彼は斯う額をあげて、調子を強めて云った。
「相変らず大きなことばかし云ってるな。併し貧乏は昔から君の附物じゃなかった?」
「……そうだ」
 二人は一時間余りも斯うした取止めのない雑談をしていた。その間に横井は、彼が十年来続けてるという彼独特の静座法の実験をして見せたりした。横井は椅子に腰かけたまゝでその姿勢を執って、眼をつぶると、半分はんぷんとも経たないうちに彼の上半身が奇怪な形に動き出し、額にはどろ/\汗が流れ出す。横井はそれを「精神統一」と呼んだ。
「……でな、斯う云っちゃ失敬だがね、僕の観察した所ではだ、君の生活状態または精神状態――それはどっちにしても同じようなもんだがね、余程不統一を来して居るようだがね、それは君、統一せんと不可んぞ……。精神統一を練習し給え。練習が少し積んで来ると、それはいろ/\な利益があるがね、先ず僕達の職掌から云うと、非常に看破力が出て来る。……此奴こやつは口では斯んなことを云ってるが腹の中は斯うだな、ということが、この精神統一の状態で観ると、直ぐ看破出来るんだからね、そりゃ恐ろしいもんだよ。で、僕もこれまでいろ/\な犯人を掴まえたがね、それが大抵昼間だったよ。……此奴怪しいな、斯う思った刹那にひとりでに精神統一に入るんだね。そこで、……オイコラオイコラで引張って来るんだがね、それがもうほとんど百発百中だった」
「……フム、そうかな。でそんな場合、直ぐ往来で縄をかけるという訳かね?」
「……なあんで、縄なぞかけやせんさ。そりゃもう鉄の鎖で縛ったよりも確かなもんじゃ。……貴様はのがれることならんぞ! 貴様は俺について来るんだぞ! と云うことをちゃんと暗示して了うんだからね、つまり相手の精神に縄を打ってあるんだからな、これ程確かなことはない」
「フム、そんなものかねえ」
 彼は感心したように首肯うなずいて警部の話を聞いていたが、だん/\と、この男がやはり、自分のことをもその鉄の鎖で縛った気で居るのではないか知らという気がされて来て、彼は言いようのない厭悪と不安な気持になって起ちあがろうとしたが、また腰をおろして、
「それでね、実は、君に一寸相談を願いたいと思って来たんだがね、どんなもんだろう、どうしても今夜の七時限り引払わないと畳建具を引揚げて家を釘附けにするというんだがね、何とか二三日延期させる方法が無いもんだろうか。僕一人だとまた何でもないんだが、二人の子供をつれて居るんでね……」
 しばらくもじ/\した後で、彼は斯う口を切った。
「そりゃ君不可んよ。都合して越して了い給え。結局君の不利益じゃないか。先方だって、まさか、そんな乱暴なことしやしないだろうがね、それは元々の契約というものは、君が万一家賃を払えない場合には造作を取上げるとか家を釘附けにするとかいうことになって居るんではないのだからね、相当の手続を要することなんで、そんな無法なことは出来る訳のものではないがね、併し君、君もそんなことをしとってもつまらんじゃないか。君達はどう考えて居るか知らんがね、今日の時勢というものは、それは恐ろしいことになってるんだからね。いずれの方面で立つとしても、ある点だけは真面目にやっとらんと、一寸のことで飛んでもないことになるぜ。僕も職掌柄いろ/\な実例も見て来てるがね、君もうっかりしとると、そんなことでは君、生存が出来なくなるぜ!」
 警部の鈍栗眼どんぐりまなこが、喰入るように彼の額に正面まともに向けられた。彼はたじろいだ。
「……いや君、併し、僕だって君、それほどの大変なことになってるんでもないよ。何しろ運わるく妻が郷里に病人が出来て帰って居る、……そんなこんなでね、余り閉口してるもんだからね。……」
「……そう、それが、君の方では、それ程大したことではないと思ってるか知らんがね、何にしてもそれは無理をしても先方の要求通り越しちまうんだな。これは僕が友人として忠告するんだがね、そんな処に長居をするもんじゃないよ。それも君が今度が初めてだというからまだ好いんだがね、それが幾度もそんなことが重なると、終いにはひどい目に会わにゃならんぜ。つまり一種の詐欺だからね。家賃を支払う意志なくして他人の家屋に入ったものと認められても仕方が無いことになるからね。そんなことで打込ぶちこまれた人間も、随分無いこともないんだから、君も注意せんと不可んよ。人間は何をしたってそれは各自の自由だがね、併し正を踏んで倒れると云う覚悟を忘れては、結局この社会に生存が出来なくなる……」

 …………
 空行李、空葛籠からつづら米櫃こめびつ、釜、其他目ぼしい台所道具の一切を道具屋に売払って、三百に押かけられないうちにと思って、家を締切って八時近くに彼等は家を出た。彼は書きかけの原稿やペンやインキなど入れた木通あけびの籠を持ち、尋常二年生の彼の長男は書籍や学校道具を入れた鞄を肩へかけて、袴を穿いていた。幾日もったらかしてあった七つになる長女の髪をいゝ加減に束ねてやって、彼は手をひいて、三人は夜の賑かな人通りのはげしい街の方へと歩いて行った。彼はひどく疲労を感じていた。そしてまだ晩飯を済ましてなかったので、三人ともひどく空腹であった。
 で彼等は、電車の停留場近くのバーへ入った。子供等には寿司をあてがい、彼は酒を飲んだ。酒のほかには、今の彼に元気を附けて呉れる何物もないような気がされた。彼は貪るように、また非常に尊いものかのように、一杯々々味いながら飲んだ。前の大きな鏡に映る蒼黒い、頬のこけた、眼の落凹んだ自分の顔を、他人のものかのように放心した気持で見遣りながら、彼は延びた頭髪を左の手に撫であげ/\、右の手に盃を動かしていた。そして何を考えることも、何を怖れるというようなことも、出来ない程疲れて居る気持から、無意味な深い溜息ばかしが出て来るような気がされていた。
「お父さん、僕エビフライ喰べようかな」
 寿司を平らげてしまった長男は、自分で読んでは、斯う並んでいる彼に云った。
「よし/\、……エビフライ二――」
 彼は給仕女の方に向いて、斯う機械的に叫んだ。
「お父さん、僕エダマメを喰べようかな」
 しばらくすると、長男はまた云った。
「よし/\、エダマメ二――それからお銚子……」
 彼はやはり同じ調子で叫んだ。
 やがて食い足った子供等は外へ出て、鬼ごっこをし始めた。長女は時々ドアのガラスに顔をつけて父の様子を視に来た。そして彼の飲んでるのを見て安心して、また笑いながら兄と遊んでいた。
 厭らしく化粧した踊り子がカチ/\と拍子木をたたいて、その後から十六七位の女がガチャ/\三味線を鳴らし唄をうたいながら入って来た。一人の酔払いが金を遣った。手を振り腰を振りして、尖がった狐のような顔を白く塗り立てたその踊り子は、時々変な斜視のような眼附きを見せて、扉と飲台テーブルとの狭い間で踊った。
 幾本目かの銚子を空にして、尚しきりに盃を動かしていた彼は、時々無感興な眼附きを、踊り子の方へと向けていたが、「そうだ! 俺には全く、悉くが無感興、無感激の状態なんだな……」斯う自分に呟いた。
 幾年か前、彼がまだ独りでいて、斯うした場所を飲み廻りほつき歩いていた時分の生活とても、それは決して今の生活と較べて自由とか幸福とか云う程のものではなかったけれど、併しその時分口にしていた悲痛とか悲惨とか云う言葉――それ等は要するに感興というゴムまりのような弾力から弾き出された言葉だったのだ。併し今日ではそのゴム鞠に穴があいて、凹めば凹んだなりの、頼りも張合いもない状態になっている。好感興悪感興――これはおかしな言葉に違いないが、併し人間は好い感興に活きることが出来ないとすれば、悪い感興にでも活きなければならぬ、追求しなければならぬ。そうにでもしなければこの人生という処は実に堪え難い処だ! 併し食わなければならぬという事が、人間から好い感興性を奪い去ると同時に悪い感興性の弾力をも奪い取って了うのだ。そして穴のあいたゴム鞠にして了うのだ――
「そうだ、感興性を失った芸術家の生活なんて、それは百姓よりも車夫よりもまたもっと悪い人間の生活よりも、悪い生活だ。……それは実に悪生活だ!」
 ポカンと眼を開けて無意味に踊り子の厭らしい踊りに見恍みとれていた彼は、彼等の出て行く後姿を見遣りながら、斯うまた自分に呟いたのだ。そして、「自分の子供等も結局あの踊り子のような運命になるのではないか知らん?」と思うと、彼の頭にも、そうした幻影が悲しいものに描かれて、彼は小さな二女ひとり伴れて帰ったきり音沙汰の無い彼の妻を、憎い女だと思わずにいられなかった。
「併し、要するに、皆な自分の腑甲斐ない処から来たのだ。彼女あれは女だ。そしてまた、自分がかかあや子供の為めに自分を殺す気になれないと同じように、彼女だってまた亭主や子供の為めに乾干ひぼしになると云うことは出来ないのだ」彼はまた斯うも思い返した。……
「お父さんもう行きましょうよ」
「もう飽きた?」
「飽きちゃった……」
 幾度か子供等に催促されて、彼はよう/\腰をおこして、好い加減に酔って、バーを出て電車に乗った。
「何処へ行くの?」
「僕の知ってる下宿へ」
「下宿? そう……」
 子供等は不安そうに、電車の中で幾度か訊いた。
 渋谷の終点で電車を下りて、例の砂利を敷いた坂路を、三人はKの下宿へと歩いて行った。そこの主人も主婦かみさんも彼の顔は知っていた。
 彼は帳場に上り込んで「実は妻が田舎に病人が出来て帰ってるもんだから、二三日置いて貰いたい」と頼んだ。が、主人は、彼等の様子の尋常で無さそうなのを看て取って、暑中休暇で室も明いてるだろうのに、空間が無いと云ってきっぱりと断った。併しもう時間は十時を過ぎていた。で彼は今夜一晩だけでもと云って頼んでいると、それを先刻から傍に坐って聴いていた彼の長女が、急に顔へ手を当ててシク/\泣き出し始めた。それには年老としとった主人夫婦も当惑して「それでは今晩一晩だけだったら都合しましょう」と云うことにきまったが、併し彼の長女は泣きやまない。
「ね、いゝでしょう? それでは今晩だけこゝに居りますからね。明日別の処へ行きますからね、いゝでしょう? 泣くんじゃありません……」
 併し彼女は、ます/\しゃくりあげた。
「それではどうしても出たいの? 他所よそへ行くの? もう遅いんですよ……」
 斯う云うと、長女は初めて納得したようにうなずいた。
 で三人はまた、彼等の住んでいた街の方へと引返すべく、十一時近くなって、電車に乗ったのであった。その辺の附近の安宿に行くほか、何処と云って指して行く知合の家もないのであった。子供等は腰掛へ坐るなり互いの肩をもたせ合って、疲れたいびきを掻き始めた。
 湿っぽい夜更けの風の気持好く吹いて来る暗い濠端を、客の少い電車が、はやい速力ではしった。生存が出来なくなるぞ! 斯う云ったKの顔、警部の顔――併し実際それがそれ程大したことなんだろうか。
「……が、子供等までも自分の巻添えにするということは?」
 そうだ! それは確かに怖ろしいことに違いない!
 が今は唯、彼の頭も身体も、彼の子供と同じように、休息を欲した。
(大正七年三月「早稲田文学」)





底本:「哀しき父・椎の若葉」講談社文芸文庫、講談社
   1994(平成6)年12月10日第1刷発行
底本の親本:「日本現代文學全集45 近松秋江・葛西善藏集」講談社
   1965(昭和40)年10月19日発行
      「葛西善蔵全集 第一巻」文泉堂書店
   1974(昭和49)年10月刊
初出:「早稲田文学」
   1918(大正7)年3月
入力:任天堂
校正:小林繁雄、門田裕志
2008年3月13日作成
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