霧陰伊香保湯煙

三遊亭圓朝

鈴木行三校訂・編纂




        一

 さて、お話も次第に申し尽し、種切れに相成りましたから、何かい種を買出したいと存じまして、或お方のお供を幸い磯部いそべへ参り、それから伊香保いかほの方へまわり、遊歩かた/″\実地を調べて参りました伊香保土産のお話で、霧隠伊香保湯煙きりがくれいかほのゆけぶりと云う標題に致してお聴きに入れます。これは実際有りましたお話でございます。の辺は追々と養蚕がさかんに成りましたが、是は日本にっぽん第一の鴻益こうえきで、茶と生糸の毎年まいねんの産額は実におびたゞしい事でございます。外国人も大して之を買入れまする事で、現に昨年などは、外国へ二千万円から輸出したと云いますが、追々勉強でございまして、あの辺は山を開墾してだん/″\に桑畑にいたします。それにまた蚕卵紙たねがみかいこに仕立てます故、丹精はなか/\容易なものでは有りませんが、此の程は大分だいぶ養蚕が盛で、田舎は賑やかでございます。養蚕を余り致しませんところ足利あしかゞの方でございます。此処こゝはまた機場はたばでございまして、おもに織物ばかり致します。高機たかはたを並べまして、機織女の五十人も百人も居りまして、並んで機を織って居ります。機織女は何程位どのくらいな賃銀を取るものだと聞いて見ると、実に僅かな賃でございます。機織女を抱えますのに二種有ります。いつ反織たんおりと云い、一を年季と申します。反織の方は織賃銀何円に付いて何反なんだん織ると云う約定で、すべて其の織る人の熟不熟、又勤惰きんだによって定め置くものでござります。勉強次第で主人の方でも給金を増すと云う、兎に角うちへ置いて其の者の腕前を見定めてから給料の約束を致します。又一つの年季と申しますると、一年も三年もあるいは七年も八年もございますが、何十円と定めまして、其の内前金ぜんきんります。皆手金の前借が有ります。それで夏冬の仕着しきせ雇主やといぬしより与える物でございます。これは機織女を雇入れます時に、主人方へ雇人請状やといにんうけじょうを出しますので、若い方が機に光沢つやが有ってよいと云うので、十四五か十七八あたりの処が中々上手に織りますもので、六百三十五もんめ、ちっと木綿にきぬ糸が這入りまして七十寸位だと申します。其のうちで二崩しなどと云う細かいしまは、余程手間が掛ります。一機ひとはた四反半掛に致しましても、これを織り上げて一円の賃を取りまするのは、中々容易な事ではございません。機織場のうしろに明りとりの窓が開いて居ります。足利あたりでは大概これを東に開けますから、何故かと聞きましたら、夏は東から這入りまするは冷風だと云います。って東へ窓を開け、之をざまと云います。夏季なつ蚊燻かいぶしを致します。此の蚊燻の事を、彼地あちらではくすべと申します。雨が降ったり暗かったりすると、誠に織り辛いと申しますが、何か唄をうたわなければ退屈致します処から、機織唄がございます。大きな声を出して見えもなくみんな唄って居ります様子は見て居りますると中々面白いもので、「機が織りたや織神さまと、何卒どうぞ日機ひばたの織れるよに」と云う唄が有ります。また小倉織おぐらおりと云う織方おりかたの唄は少し違って居ります。「可愛い男に新田山通にたやまがよい小倉峠が淋しかろ」、これは新田山と桐生きりゅうの間に小倉峠と云う処がございます。是は桐生の人に聞きましたが、はやしがございますが、少し字詰りに云わなければ云えません、「桐生で名高き入山書上いりやまかきあげの番頭さんの女房に成って見たいとうしの時参りをして見たけれども未だに添われぬ」トン/\パタ/\と遣るのですが、まことに妙な唄で。さて、足利の町から三十一町、行道山ぎょうどうざんかたへ参ります道に江川えがわ村と云う所が有ります。此処に奧木佐十郎おくのぎさじゅうろうと云って年齢とし六十に成る極く堅人かたじんがございます。もと戸田とだ様の御家来で三十石も頂戴したもので、明治の時勢に相成りましたから、何か商売をなければならんと云うと、機場のこと故、少しは慣れて居りますから、せがれ茂之助ものすけを相手に織娘おりこを抱えて機屋をいたしますと、明治の始めあたりは、追々機が盛って参り大分だいぶ繁昌で親父おとっさんうか早く茂之助にい女房を持たせたいと思ううち、織娘の中で心掛けの善いおくのと云うが有りまして、親父おやじ鑑識めがねでこれを茂之助に添わせると、いことにはたちまち子供が出産できました。総領を布卷吉つまきちと申して今年七歳になり、次は二月生れで女のをおさだと申します。

        二

 さて、奧木茂之助は、只機が織り上るとちゃんと之を畳みまして綴糸とじいとを附ける。れもまた一役ひとやくで、悉皆すっかり出来た処で此品これを持ち、高崎たかさき前橋まえばしの六斎市さいいちの立ちまする処へ往って売るのでございますが、前橋は県庁がたちまして、大分だいぶ繁昌でございまして、只今はなお盛んで有りますが、料理茶屋のいのも有る。其の中で藤本ふじもとと云う鰻屋で料理を致すうちが有ります。六斎が引けますると、茂之助は何日いつ其家そこへ往って泊りますが、一体贅沢者で、田舎の肴は喰えないなどと云う事を平生ふだん申して居ります。処が此の藤本は料理が一番宜いと云うので、六斎市の前の晩から、翌日あしたの市の時も泊り、漸々だん/″\馴染なじみとなり、友達が来て共に泊ると云うような事に成りました。すると此の藤本の抱えで、小瀧こたきと云う芸者は、もと東京浅草猿若町さるわかまちに居りまして、大層お客を取りました芸者で、まだ年は二十一でございますが、悪智あくちのあるもので、情夫いろおとこゆえに借金が出来て、仕方なしに前橋へ住替えて来ましたが、当人は何時までも田舎に居るのは厭で、早く東京へ帰りたいと思うとお金が欲しくなって来ます。すると、誰でも遊びに来る時などには、うちに金瓶が八つに、ダイヤモンドが八十六も有るように大法螺おおぼらを吹きます。
茂「今度は何千反持って来て、何処どこへ何百反置いて、此処へ何百反渡して金を何百円持って帰る」
 と云うように、大業おおぎょうな事を云うから、小瀧も此の茂之助を金の有る人と思いますと、容貌こがらも余り悪くはなし、年齢としは三十三で温和おとなしやかな人ゆえ、此の人にすがり付けば私の身の上も何うか成るだろうと云うと、此方こちらもとより東京の芸妓げいしゃと云うのを当込んで掛りましたのだから、ついした事から深く成り、うつゝを抜かして寝泊りを致しました事も度々たび/\なれども、茂之助の女房おくのは、苟且かりそめにもいやな顔をません。幾ら夫につらくされても更に気にも止めず、かえって夫の不始末をおとっさんに取成し、
くの「私はもとは此のうちへ機織に雇われた奉公人を、うやって若旦那に添わして下さるとは冥加至極のこと、お父さんのお鑑識めがねにかない此の家の女房に成り子供まで出来ましたから、若旦那さまに幾ら辛くされようとも、もとの身分を考えれば何も云う処はございません、それは男の楽しみゆえ一人や二人情婦おんなの有るは当前あたりまえ
 と諦めて居るをい事にして、茂之助はちっともうちへ帰って来ません。しまいには増長して家の金を持出して遊びに出て、小瀧に入上いれあげて仕舞いますので、追々借財が出来ましたが、親父は八ヶましいから女房のおくのが内々で亭主の借金の尻をつぐのって置きます。此のおくのは、年齢とし二十七だが感心なもので、亭主の借金をぽつ/\内証で返す積りで働きまするのだが、夜業よなべを掛けても、一反半織るのは、余程上手なものでなければ出来ませんのを、おくのは一生懸命に夜業を掛けて、毎日二反ずつ織上げませんと、亭主の拵えた借金が払えないと精出してって居ります。ういう結構な女房を持って居ながら、茂之助は心得違いにも、とうとう多分の金をもっの小瀧を身請いたしました、もっとも其の頃の事ゆえ、身請と云っても旅の芸妓げいしゃやすかったもので、こま/\した借金を残らず払っても、百二十円も有れば治まりがつくと云うくらいのもので、藤本の方を綺麗に極りを附けて小瀧を連れて来ましたが、うちへ入れる事が出来ませんから、足利の栄町さかえちょう六十三番地に、ちょっとした空家あきやが有りましたから、これを借受け、飯事世帯まゝごとしょたいのように小瀧と二人で暮して居りましたが、小瀧は何か旨い物がべたいとか、あゝいう物を織らして来てお呉んなさいと云う我まゝ気随でありますが、茂之助は宅へく了簡もなく、差向いで酒を呑み、小瀧の爪弾つめびきを聞いて楽しんで居りますうちに、商売をなまけて居るから借金に責められるが、持立ての女だから、見え張った事ばかりて居ります。

        三

 塩町しおちょうと云う処に、相模屋さがみや[#「相模屋さがみやと」は底本では「相摸屋さがみやと」]云う料理茶屋が有ります。此家これ彼地あちらでは[#「彼地あちらでは」は底本では「彼他あちらでは」]一等の家でございます。或日あるひのこと、桑原治平くわばらじへいと云う他所よそへ反物を卸す渋川しぶかわ商人あきんどと、茂之助は差向いで一猪口いッちょこりながら、
治「こう茂之助さん、君イね、何もも心得の有る人なり、それに前々はず戸田さまの御藩中であって大小を差した人に向って、僕が失敬な事を云うようで済みませんが、何うせ君の気に入るまいけれども、君の妻君のような者を持つは、実に此の上ない幸福だと思うが、おくのさんの心掛てえものは別だね、其の代り田舎育ちだから愚図だと云うは、何うもまア何かその云うことが、わしも田舎者だから田舎の贔屓ひいきをするてえ訳じゃア無いが、言葉が違うので貴方あなたの気に入らんか知りません、言葉は国の手形さ、亭主の留守を守るのが細君の第一の勤め、家事を治めるのが当然あたりまえの処だが、如何にもその、おくのさんの家事の守りようが真実で、無駄のないようにして、織娘おりこの手当から、織上げさせてからに自分ですっかり綴糸を附けて、直ぐに六斎へ持出せるように拵えて置くのに、貴方あんたは少しもうちへ帰らねえのは心得違いで有りましょう、尤も今じゃア別に成っておいでなさるから宅へく事も有りますまいが、おとっさんは義理が有るから、おくのさんにあれは宅へ寄せ附けないと云う、又おくのさんは、舅の機嫌を取って、貴方あんたの借金の方を附けるてえ事を、僕は此間こなえだ聞いてゝ落涙をしましたが、本当に感心な心掛だとおめえました、貴方あんたも子は可愛いだろうね」
茂「ヘヽヽ子の可愛く無いものは有りません」
治「それはね君も惚れて、大金を出してからに身請までした女を、よせと云うのは僕が強気ごうぎに失敬な事を云うと君思うかは知れんが、のお瀧を、君に持たして置くのをよさせいね、し給え、君の為に成らんから」
茂「誰もう云うが、何うも自分の好いた女と、とこ取膳とりぜんで飯でも喰わなけりゃア詰らんからね、何も熱く成ってると云う訳じゃア無いが、僕の方からおくのを好いて持った訳でも無い、親の意を背かずに厭な女だけれども仕方なしに持ったが、自分の好いた女を愛して居るのがマア男の楽しみだからね」
治「それは楽しみさ、何も僕が君の楽しみをとゞめるてえ訳では無いが、如何にも君の細君の心に成って見ると、僕は君の楽しみをめたいね、のお瀧なるものは……君の前でお瀧と云っては済みませんが、僕もあれが芸者で居る時分二三度買った事も有るが、おくのさんのように、あゝ遣って留守を守って固くして、亭主の借金しまでして、留守を守って居るようなら宜しいが、中々彼は守らんぜ、密夫みっぷの有る事を君知りませんかえ」
茂「え……誰か/\」
治「誰かと云うて顔色を変えて……迂濶うっかりした事は云えない、しかと是はと云うしょうもなし、何も僕がその密夫と同衾ひとつねていた処を見定めた訳では無いけれども、何うも怪しいと云うのは、うから馴染の情夫おとこに相違ないようだ、君の前で云うのはんだが、本当にあれが君を思って貞女を立て通す気かも知れないが、君の処へまつろうと云うものが遊びに来ましょう」
茂「なにあれは東京の駿河台するがだいあたりの士族で、まだわかえ男だが、お瀧が東京の猿若町で芸者をて居た時分に贔屓に成った人で、今零落おちぶれて此地こっちへ来て居ると云うので、福井町ふくいまちに居ると云って時々遊びに来るから僕も酒を飲合って居るのさ」

        四

治「君は気い附かずに居るんだかね、君の留守への松五郎が来て、お瀧と差向いで飲んでゝ、僕の這入ろうとたのを、気い附かないようだったから、すーッと外して出たが、其の両度ほど松五郎と差向いで酒を飲んで居た処を見たが、何も差向いで酒を飲んで居たから密通をして居ると云う訳でも無いが、実は色を売って居た芸者の事だから、何んとも云えないのさ、それに君も細君に苦労を掛けて、子まで有る身の上で、負債もかさんでられる事だから、日頃御懇意に致すに依って申すのだが、入らざる事を云うと君に愛想をつかされて立腹を受け、再び取引せんと云われゝば止むを得んが、全く君のお為を心得るから云いますので」
茂「有難う……う云えばの松五郎は度々たび/\来ます」
治「度々来ましょう」
茂「私彼奴あいつたゞア置きませんヘエ……」
治「それは悪い……顔の色を変えて、たゞア置きませんなんて、刃物三昧をするのは時節が違いますよ、成程あんたはと戸田さまの御藩中だが、今は機屋だから機屋らしい事をなければなりませんよ、御近所に原與左衞門はらよざえもんも居りますから、たれか解るものを頼んで、体能ていよあれを東京へ帰すとか、又はへ縁付けるとかして、話合いで別れなえといけませんぜ、先方むこうで君に惚れて何処どこまで居る了簡か、又は出てえ了簡なのかそれは分りませんが、君も然う思っては最う添っちゃア居られますまい、岡目八目だが」
茂「いえ何うも御真実かたじけない、成程浮気稼業の芸妓げいしゃだからちっとはましょうけれども、わしが大金を出して、多分の金も有る身の上では無いが、あれの借財を返して遣り、請出した恩誼おんぎも有るからよもやと思います、の時など手を合せて、わたしは生涯此地こゝに芸妓を為て居る事かと思いましたが、貴方のお蔭で足を洗って素人に成れまして、んな嬉しい事は無い、時節が違うからべん/″\と何時までも芸妓をして居る心は有りませんと云って拝んだ事も有りますから、此の恩誼は忘れまいかと思いますが、何う為たら宜かろう……二人の悪事を見定め、何うかして松五郎と密通して居る処へ踏み込んで遣りたいね」
治「じゃア斯うたら何うだろう、君は時々松五郎をうちへ呼んで酒を飲み合うだろう、じゃア何うだえ、今夜は淋しくって夫婦差向いで酒を飲んでも面白くないが、東京の人の云う事は面白いから松さんを呼んで来なと云って、遅くまで飲んで、夜短よみじかの時分だから泊っておいでな、是から帰るったって一人身の事だから、女郎買でも始めると宜くないと云って無理に止めてサ、貴方あんたが端の方へ寝て、中央まんなかへお瀧を寝かして、向うの端へ松五郎を寝かして、貴方が寝た振をしていびきを掻いて居る、其のうちにお瀧が中央に居るから、情実わけが有ればソレ夜中に向うの床の中へ這入るとか、男の方からお瀧の方へ足でも突込つッこめば、貴方が跳起はねおきて両人ふたりをおさえ付け、実は斯ういう訳の有る事を知ってるからてめえを呼んだのだと云って、長熨斗ながのしを付けて呉れて遣る、おれも男だ、もとより芸妓げいしゃの浮気は知って居るから汝に呉れて遣ると云えば、銭入らずに事が済むから、然うしてあんなものは早く追出して仕舞って、何うかおくのさんを可愛がって上げなんし、宜くねえよ」
茂「誠に有難う」
治「しかし僕が云ったと云ってはなりません」
茂「いや御親切誠に有難う」
 と真実な治平の言葉に感じて宅へ帰りました。

        五

 其の翌日は丁度所の休み日で、
茂「今日は松五郎を呼んで一ぱい飲みたい」
 と手紙を以て松五郎を呼びに遣ると、早速まいりました。
茂「何ぞ旨い肴は無いか」
 と云うので是から三人で酒を飲み合って居るうちに、茂之助が気を付けて見ると、何うも二人の様子がおかしい、気が付かずにればうでもないが、疑心を起して見ると、すること成すこと訝しく見えます。ちょいと見る眼遣めづかいの時に、眼の球が同じ横にきながらも、松五郎のかたを見る時は上のほうへ往くが、僕の方を見る時は、下眼さがりめで、何んだか軽蔑して見るような眼つきだ、どじょうの骨抜を皿へとりわけるにも、僕の方には玉子の掛らない処を探して、松五郎の方へばかり沢山玉子の掛った処が往くと、一々気になって来ます。斯う遣って僕にばかり盃を差すのは、僕に酒を勧め酔わして置いて寝かしてから彼奴あいつの方へ往く了簡だろう、と思いましたから、なるたけ酒を飲まぬようにして、お膳の隅へあけて、お瀧に盃を差し、女を酔わして堕落させようと思い、しきりに酒を勧める。其の心のうちたゝかいは実に[#「実に」は底本では「実た」]修羅道地獄の境界きょうがいで、三人で酒を飲んで居りましたが、松五郎は調子のい男で、
松「何うも大きに酩酊しました、もうお暇をしましょう、お暇をしましょう」
茂「まアいじゃア無いか、今夜は泊ってき給え、是から福井町へ帰れば、貸座敷と云ってもあんまいのは無いが色を売る処、ことに君は独身者ひとりものだから遊女にでも引ッかゝると詰らんよ、一つ蚊帳かやの中へ這入って三人混雑ごったにお泊りよ」
瀧「お泊んなさいよ、お前さんは独身ひとりみだから余程よほど遊ぶてえ事を聞いたが、詰らないおあしつかって損が立つばかりではなく、第一身体でも悪くするといけないし、それに余程よっぽどもう遅いよ、たしか一時でしょう」
茂「だからさ、泊ってきたまえ」
 と無理に引止め、片端へ茂之助が寝て、中央まんなかへお瀧、向うの端へ松五郎が寝まして、互に枕を附けると、茂之助は胸に一物いちもつ有りますからわざとグウー/″\と鼾を掻いて居りますが、少しも寝ない。何うして居やアがるか見て遣りたいと、眼をねむって居ながらも時々細目に開いて、わざとムニャ/\と云いながら、足をバタァリと遣る次手ついでにグルリと寝転ねがえりを打ち、仰向あおむけに成って、横目でジイとお瀧の方へ見当を附けると、お瀧はスヤリ/\と寝て居る様子、松五郎もグウー/\と鼾を掻いて居ますから、いまにお瀧が彼方あっちくに相違ないと思って居るうちに、次第/\に夜が更けて来る、渡良瀬川わたらせがわの水音高く聞えるように成ると、我慢して起きて居たいが飲める口へ少し過したので、ツイとろ/\と茂之助が寝まして、不図ふと眼を覚して見ると、お瀧がへッついの下をき附けて居て、もう夜が白んで、松五郎は居りませんから、アヽ失策しまったと思い、
茂「お瀧/\」
瀧「あい」
茂「松さんは何うしたえ」
瀧「あの誠になにだがお暇乞いとまごいをしなければ成りませんけれども、少し用が有ると云って早アく帰りました、又四五日内に来ると云いましたよ」
茂「はアー然うか、少し頼みたい事が有ったのに……アヽー眠い/\、何故此の頃は斯んなに眠いんだろう」
 とごまかして居りましたが、何んでも己がトロリと寝たに逢引をしたに違いねえ、と疑心が晴れませんから、又一日いて松五郎を呼び、酒を飲ましていつもの通り蚊帳を釣って三人の床をべ、茂之助は仰臥あおむけになって横目で二人の様子を見ながら、空鼾そらいびきを掻くうちに、あとの二人もグウー/\と寝て居ます。時々細目に開いては見ますけれども、二人とも側へ寄る様子も有りません。お瀧は茂之助の方を向いて寝て居ります。

        六

 茂之助は、二人の様子に目を付けて居るが、何うしても知れない。何んでも是は明方人の起る時分に何うかするに違い無い、今夜こそは、と心を締めて居るうちに、漸々だん/″\眠くなって来たから、もゝつめッたり鼻をねじったりして忍耐がまんしても次第に眠くなる、酒を飲んで居るからいけません。明方になると、トロ/\と寝ました。……アヽ失策しまったと眼をいて見ると、お瀧はへッついの下を焚付けて居ますが松五郎は居りません。
茂「お瀧/\」
たき「あい」
茂「松公は何うした」
たき「早く帰りました」
茂「少し用が有るんだッけ……アヽーまた明日あした呼ぼう」
 と云って同じく遣って見たがいけません。口惜くやしい/\と思って不図考え付いてお瀧を呼び、
茂「お瀧、己は東京へ金策に往って事に寄ると横浜へ廻って来る」
 とうちを出まして、じき近村の太田の知己しるべの家に居て、日の暮れるを待って、ソッと土手伝いに我家へ忍んで来ました。畠には桐を作り、大樹が何十本となく植込んで有り、下は一杯の畠に成って居ります。裏手の灰小屋へ身を潜め、耳を引立ひったて宅の様子を聞いて居りますると、お瀧が爪弾つめびきで何か弾いて居ります。此の爪弾が合図に相違ないと思って居るうちに、は次第に更けわたり、しんと致すと、何処どこの寺の鐘かかすかにボーンと聞え、もう十二時少し廻ったかと思う時刻に、這入って来たのは村上松五郎と云うお瀧の情夫いろおとこで、其の時分は未だ髷が有りました。細かい縞の足利織では有りますが、一寸ちょっと気の利いた糸入の単物ひとえものに、紺献上の帯を締め、表附おもてつきのノメリの駒下駄を穿き、手拭を一寸頭の上へ載せ、垣根くねの処から這入って後姿うしろすがたを見て、
茂「むう松五郎か、来たなうぬ
 と息をこらして中へ這入る様子を見て居りますると、ガラ/″\と上総戸かずさどを開けると、土間口へお瀧が出迎い、
たき「お這入りなさいよ」
 と坐敷へ上げました。お瀧は情夫に逢うのだから嬉しい、れば少し寒うございますなれども五月上旬はじめと云うので、南部のあい子持縞こもちじまあわせで着て、頭は達磨返だるまがえしと云う結び髪に、*ひらとの金簪きんかんを差し、斑紋ばらふの切れた鬢櫛びんぐしを横の方へ差し、年齢としは廿一でクッキリと灰汁抜あくぬけい女で、
たき「何うしたえ、私の手紙が往違いきちがいにでもなりやアしないかと思って何んなにか心配したよ」
松「塩梅あんばいに僕の手に這入ったが、家主やだまア東京へ往ったじゃアねえか」
たき「宜いよ。私は本当に案じたよ、お前の来ようが遅いから待ちぼけは詰らないと思ってたが能く来たね、何ね少しお金の出来る事が有って東京へ往ったんだが、一体才覚はたらきの無い人だから出来る気遣きづかいは無いよ、誰がおいそれと金を貸す奴があるものかね、屹度きっと出来やアないが、二百両借りて来ると云ったから十日や十五日は帰るまいと思うよ、□□□□、□□□□□□□□□□□」
松「だって体裁きまりが悪くて成らねえんだ、親指これが感附きゃアねえか知ら」
たき「大丈夫だよ、んなでれすけだから気の附く気遣は有りゃア為ませんよ」
 と云うひそ/\話を窓の下で聞いて居りました茂之助は腹を立て、
茂「己の事をでれすけよばわりをしてえやアがる、罰当り、前橋の藤本で手を合せて、私を請出して素人にしておくんなさる此の御恩は忘れないと云やアがった事を忘れたか」
 とグーッと癇が高ぶって来ると、額に青筋を現わし、唇をふるわし、踏込ふんごもうかと思ったが、いや/\二人枕を並べて居る処へ踏込まなければ遣り損うと思いましたから、尚おそっと窓の下に茫然ぼんやり立って居ると、藪蚊と毒虫にさゝれるのでかゆくて堪りませんから、掻きながら様子を立聞をして居ました。
* そろばんがたの、すかしのあるかんざし、この頃流行せしもの。

        七

たき「何んにも無いが、魚屋に頼んで置いたらっとばかり赤貝を持って来たからおあがりな」
松「何んだか何うも心配だなア」
たき「大丈夫だよ、お前が前橋へ来た時には私は貧乏して居たが、縁と云うものは妙だね、私が芝居町で芸妓げいしゃをして居た時分に、まだ私が十五六で雛妓したじっこで居た時分からお前さんに岡惚をして居て、みんななぶられて居るうちに、一度が二度逢引をすると、其の時分には幾ら私が惚れたッてお前さんは未だ殿様株で、立派な気の詰るような人でありましたが、思う念も遂げられたけれども、それがため借金が出来て、此様こんな田舎へ出稼でかせぎするような身になって、前橋に居た時にもお前さんに逢いたいばかりで、厭だけれども茂之助を金持だと思って来て見れば、矢張やっぱり金は有りゃアしないんだアな、の時は有る振りをしていたから、此の人に取っつかまって居たら、またお前さんに逢える時節も有ろうかと来て見ると、立派な女房も有るんだよ、是まであんまり道楽をしたとか云うので、実家うちへも帰られないので此様な汚ない空家を借りて世帯しょたいを持たして、爺むさいたッてお前さん茅葺かやぶき屋根から虫が落ちるだろうじゃアないか、本当に私を退ひかしたって亭主振って、小憎らしいのだよ、此間こないだの晩も種々いろ/\話したいことが有るんだけれども出来ないと云うのはね、茂之助が、寝て居て鼾は掻くが時々動いたりバタ/\したりして気味が悪いから、じっと我慢をして居たが、本当に松さん居難いにくいと思っておくれ、お前に逢って斯う云う訳に成ったら、茂之助が厭に成って何か彼奴あいつに云われると、本当に身の毛立つほど厭なんだよ、しかし大金を出して、私の身を請出してくれた恩が有るから、黙って居るけれども、実は厭なんだよ、私は半年でもお前さんと夫婦に成らなけりゃア置かないよ、し夫婦に成れなければいっそ死んで仕舞う積りだよ」
 と話して居るを聞き、茂之助は一層怒りを増し、
茂「畜生め/\芝居町にもと居た時分からくッついて居やアがったんだ、己と口をきくのも厭だてえやアがる、うーむ彼奴に逢いてえばッかりに己をお客にしてだましやアがッて、畜生めむうー」
 とあんまり腹が立つと鼻がフー/\鳴るから、自分で鼻を押え、なおも身を寄せて立聞くとも知らず、
たき「ちょいとこれをべて御覧よ、□□□□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□、お前に逢うと、何んだか私は我儘になって変になっちまうんだよ、と云って此家こゝを出る訳にもかず、何うかして茂之助が死ねばいと思って居るのに、中々悪達者わるだっしゃで死なゝいのだよ、此間こないだもおはらひどく痛むと云うから、宜い塩梅だ、コレラに成るのかと思ったと云うは、悪いお刺身の少しベトつくのを喰べたから、便所ちょうずばへ二度もきゃア大丈夫だと思ってると一日経つとサバ/\熱が取れて薩張さっぱなおって仕舞ったから、私はがっかりして仕舞ったのさ」
茂「畜生、亭主の病気が癒ってがっかりする奴が有るものか」
 ともうこらえ兼ねて、短い脇差へ手を掛けて抜き掛けて土間口から這入って来るとも知らず、奥では一盃飲みながら松五郎の膝へもたれ掛り、
たき「□□□□□□□□□□□□□□□」
 と、一盃の酒を飲み合い、もたついて居るのを見たから堪りません。平素ふだん温和おとなしいい人のおこったのはひどいもので、物をも云わずがらりと戸を開けて中へ飛込み、片手に抜身ぬきみげて這入ると、未だ寝は致しません、お膳の前でピッタリ寄添って酒を飲んで居る処へ飛込んだから、少し間合が早かったけれども、我慢が出来ませんから松五郎を目懸けて斬り込むと云う、此の事が騒動の始まりでございます。

        八

 東京でも他県でも色恋の道では随分自分の身を果します、間男をされて腹を立てぬものは、一人もございません、男同士でも交情なかくって手を曳合ひきあって歩いても、わきの人とこそ/\耳こすりでもされますと男同士でも嫉妬ちん/\を起して、あれ茂山しげやま氏のそばへばかり往って居る、一体彼奴あいつは心掛けが宜くない、軽薄を以てほうへ取附こうと云う考えだろう、などと詰らない事を云っておこります。同じようなお膳が出まして鯛の浜焼が名々めい/\皿に附いて出ましても、隣席となりの人の鯛は少し大きいと腹を立て、此家こゝの亭主は甚だ不注意きわまる、鯛などは同じように揃ったのを出せばいんだ、と云ってもう揃ったのは有りません。また隣で蔵でも立派に建てますと、何うだえ此の頃はいやにぎすついて来たが、成上りてえものはけねえ者だ、旦那然としたつらやアがって、朝湯で逢っても厭に肩で風を切って、彼奴が蔵を建ったので丁度南から風の這入る処を、蔵の為に坐敷が暗くなっていけません、何あれだってい蔵じゃア有りません、こわしか何か買って来たんでしょう、火事でも有りゃアじきに火が這入ります、などゝ自分で建てる事が出来んとグッと込上げて参りますが、誰も此の嫉妬心しっとしんは離れる事は出来ませんものと見えます。ましてや大金を出しまして連れて来たお瀧が、松五郎の膝へしなだれ寄って亭主の事を悪口あっこうを云うのだから腹の立つのも道理、茂之助は無茶苦茶に斬込んで来ましたから二人は驚き、お瀧は慌てゝ逃げいだす。松五郎はもとは士族だけに腕に覚えの有る奴、もとより剛胆の奴ゆえのみに驚きませんで、一歩退さがってあとに有りました烟草盆を取ってポカリと投げ附けると、茂之助の肩をかすッてパチリと柱へ当ると、灰は八方へ散乱致す、其のうちにお瀧は一生懸命だから四巾布団よのぶとんを取ってうしろから茂之助を抱き締めましたが、女の事で身丈せいが低いから羽がい締めと云う訳には参りません、脇の下をお瀧に押えられたが、茂之助は無茶苦茶に刀を振り舞しながら、
茂「間男見附けた、さア二人重ねて置いて四つにしようと八つにようと己の了簡次第だ、間男見付けた」
 と死物狂いの声で呶鳴どなり立てゝ、ピン/\と鼻へ抜けて出る調子で、精神たましいはもう頭へのぼって居ます。松五郎は何か無いかと四辺あたりをキョロ/\探すと、巻手まきてと申しまする何か機織道具で、たけ二尺ばかり厚み一寸も有ります巻手と云うものを取って打って掛る。
たき「誰か来ておくんなさいよ、うち良人ひとが大変でございますよ、人殺ひとごろしイ」
 と云っても田舎の事ゆえ誰有って来るものは有りません。すると一軒いて隣に川村かわむら三八ろうと云う者が居ますが、妙な堅いようなとぼけたような変な人でございまして、早く開化の道理を少し覚え、開化はいもんだと考えを起して居りますが、未だちょん髷が有りまして、一体何うも此の人は聞覚えの分らぬ漢語を交ぜて妙なことを云います、漢語と昔のお家流の御座り奉るを一つに混ぜて人を諭したり口を利くのがきな人でございます。処が今茂之助のうちで女の声で、キイーキイー人殺しイと云うを聞き付け、捨置き難いと存じましたから飛び込んで見ると、茂之助が抜刀ぬきみを振廻して居ます。松五郎を目懸けて打って掛るを抱き留め、
三「先ず待ち給え」
 と云いながら茂之助の手を押え、
三「いさゝか待ち給え、いては事を為損しそんずるから、宜しく精神たましい臍下丹田さいかたんでんに納めて以て、即ち貴方ようく脳膸をおさめずんばあるべからず、怒然どぜんとして心を静め給え」
茂「へえ有難う……ございますが、どうか放して下さい」
 と云う。

        九

茂「三八さん、誠にお恥かしい事でございますが、此のお瀧の畜生、間男を引摺込んで貴方私の事を悪口あっこうして居るのを私が聞くとも知らず、大それた枕を並べて寝に掛ったから助けちゃア置かれません、私だってもとは御領主さまの家来で、いさゝ御扶持ごふちも戴いた者ゆえ親父に聞えても私が顔が立ちません、名義がすたります、ヘエ」
三「いや、御尤もの事だが、能くこゝの道理を君かんと宜しく無いて、のような事が有ろうとも僕が斯う遣って此処へ仲来ちゅうらいして、今君だちの困難を発明することは公然たる処を得たりといえども、お瀧どのが一体逃去ったる義で御座り奉つりそろ、茂之助さんが大金をいだして身請に及び、かゝる処の一軒の家まで求め、即ち何不足なく驚愕安然あんぜんとしてられるのを有難く存じ奉る義と心得あるべからんに、密夫みっぷを引入れてからに、何うも酒肴さけさかなをとり引証いんしょうをするのみならず、安眠たる事は有るまからんと存奉候ぞんじたてまつりてそろ其処そこの道理を推測おしはかって見ますと、尊公の腹立ふくりゅう致さるゝ処は至極何うも是は沈黙千万たるの理合りあいにあらずんば有るべからず」
 と何んだか云う事はちっとも分りません、可笑おかしいのものぼせて居りますから気が付かず茂之助は夢中で居ります。
茂「お前さんの云う事は何んだか薩張さっぱり分りませんが、男女なんにょとも此の儘何うも捨置く事は出来ません、御意見に背くようですが親父の前へ対しても打棄うっちゃっちゃア置かれませんから、私は彼奴あいつを斬らずにゃア置きません、何うぞお手をお引き下さいまし」
松「さア斬れ、二人並べて置いて斬れ……にイ当然あたりめえよ、密通すればれだけと処分は極って居るんだ、仮令たとえ間男をしても亭主が無闇に斬るような世の中じゃアえや、さア何処へでも勝手に持出せ、一年の間赤い筒袖つゝっぽを着て苦役くえきをする事はもとより承知の上だが、何も二人で枕を並べて寝てえた訳じゃアなし、交際酒つきええざけを一盃飲んで居ただけで、何も証拠の無え事を間男よばわりをやアがッて、何処が間男だえ」
たき「静かにしておくんなさい、三八さんぱっさんにまで御苦労を掛けて済みませんが、申し茂之助さん、何う為たんだよ、お前さんようく気を落着けておくれよ、大金を出して私を身請えしたと云うとこを恩に掛けて居なさるけれども、丸で私をおさんどん同様にこき遣って居るじゃアないか、請出されて来て見ればお前には立派なお内儀かみさんも有って子供まで出来て居るじゃアないか、だから実家うちへ這入る事も出来ないで斯んな裏家住居うらやずまいの所へ人を入れて、てかけと云っても公然おもてむき届けた訳でもなし、碌なものも着せず、いまに時節が来ると本妻つまにすると私をだまかして置くじゃアないか、間男を為たと云われた義理かえ、何うにもお前さんからんな事を云われる訳は有りませんよ、しおくのさんが松さんと一緒に寝てゞも居たら、それは斬るともるとも勝手にするがいけれども、私は斬られちゃア詰らないから立派に出しておくんなさいよ」
茂「えゝ―出すも退くも有るものか」
 と打ちに掛るをやっと押え留め、
三「まア/\それでは即ち人民たるものゝ権利をないがしろにすると云うものだから、先ず心を静め給え、一体当県は申すに及ばず全国一般の幸福たるをおしはかって見れば、そのエー男女なんにょ同権たる処の道を心得ずんば有るべからず、しばらく男女同権はなしと雖も、此事これは五十百把の論で、先ず之をたきゞ見做みなさんければならんよ、貴方の方にたきゞが五十把あると松五郎殿の方にはまきが一把もえから、君が方にまきが有らばおらの方へ二十把ばかり分けて貰いてえ、いや分ける事はなんねえと云う場合に於てからに、松五郎殿が其のまきぬすんでくような次第と云わざるべからざる義だから、恐入り奉る訳ではない、なれど白刃はくじんって政府かみお役人の集会を蒙むるような事に於ては愍然びんぜんたる処の訳じゃア無いか、先ず即ち僕も斯う遣ってこゝへ這入った事だから、兎に角僕に預け給わんければ相成らんと心得有らずんば有るべからず」
 と何んだか訳の分らん事を云いながら無理遣りに押別おしわけて、お瀧、松五郎の二人を自分のうちへ連れて参りました。

        十

 三八郎は再び茂之助の処へ来て、段々茂之助の胸を聞いて見ると、彼奴あいつには愛想が尽きたから何処までも離縁をする気だが、身請の金を取返さんければならんと云い、おたきの方では手切をよこせというので掛合が面倒に成り、ついにはお瀧の方へ遣るような都合になりましたが、其の金が有りませんから、三八郎が茂之助の親奧木佐十郎の処へ参り、
三「えゝ御免を蒙ります」
くの「おや、おいでなさいまし……おとっさま、栄町の三八さまがおいでなさいましたよ」
佐「まア、此方これへ、これはうこそ、さア何うぞ此方こっちへ」
三「御免なさいまし……えゝ追々気候も相当致しまして自然暑気あつさが増します事で、かるが故に御壮健の処はしかと承知致しまかりあれども、存外寸間すんかんを得ず自然御無沙汰に相成りました」
佐「拙者方てまえかたよりも誠に御無沙汰……好うこそ、さア/\もっと此方こっちへ……貴方はお若いに能く人の世話をなさると聞いて居りますが、誠に感心な事です」
三「いえ何う致しまして、しかし貴方は何時も御壮健で」
佐「いえ最ういけません、年をったので何も手伝いが出来ん事に成りました」
三「恐入ります、尊君さまの御令貌ごれいぼうの処は中々御壮健な事で……えゝおくのさん、誠に御無沙汰を致しました、此の間はまた何よりの物を戴き誠に有難う……つい離れて居りますから存じながら御無沙汰に相成ります……えゝ今日こんにちは少々御内談を願う義が有って態々わざ/\推参致したる理合と云うは内々ない/\の事で、何うも御尊父さまの御腹立ごふくりゅうの処はかねて承知致し罷り有るが、実は茂之助殿の儀に就いて奈何いかにとも詮術せんすべ有る可からざる処の次第柄に至りまして、何とも申し様も有りません」
佐「えゝあれは魔がさして居りますから頓とうちへは寄せ附けません、子は無い昔と諦めて居りますなれども、嫁に至っては如何にも孝心な者でござって、少しも悪い顔を致さず、誠にわしを真実の親のように大切だいじにしてくれますから、んな白痴者たわけものは要りません、最うおくの一人で沢山でござる、孫も追々成人しますから、田地其の他所持の財産は皆孫に譲り与えて奧木の相続を致させますから、貴方決して彼には構わんで下さい、金円の儀はいさゝかたりとも御用立下さらんが宜しい、お心得のため申上げ置きます」
三「へえ……さて何うも此処に於て謝せずんば有るべからざる事件が発して、如何いかにとも恐入り奉ります儀で」
佐「ムー何んで、何事でござるか」
三「誠に何うも申しにくいが、何時までぐず/″\かくしてもられませんから一伍一什いちぶしじゅう申上げる儀でござるが、実はの婦人の手を切るに三十円と云う訳で、段々先方せんぽうへ掛合った処が、間男をた覚えはないから出る処へ出ると云うのだが、出る処へ出れば第一尊君のお名前に障り、当人の耻にも成る訳で悪い、女の方から先方むこうへついて三十円よこせと云う次第で、誠に恐入りますが三十円此の川村三八郎へ下さると思召おぼしめして、御腹立ごふくりゅうでは御座いましょうけれども願いたい」
 と云われて見れば捨てゝ置けず。うもして遣ったら茂之助もうちへ帰ろうかと思いまして、右の金子を川村に渡しました。是れでお瀧は茂之助へ面当つらあてしく、わざとつい一里と隔たぬ猿田村やえんだむら取附とりつきに山王さんのうさまの森が有ります、其の鎮守の正面むこうに空家が有りましたからこれを借り、葮簀張よしずばり掛茶店かけぢゃやを出し、片傍かたわきへ草履草鞋を吊して商い、村上松五郎は八木やぎ八名田やなだ辺へ参っては天下御禁制の賭博てなぐさみを致してぶら/\暮して居ります。茂之助は三八郎のはからいで、手切金を出しお瀧を離縁しましたが、面当に近所へ世帯しょたいを持ったので口惜くやしくって、寝ても覚めても忘られず、残念に心得て居りました。

        十一

 丁度盆の事でございます。茂之助は少し用が有って町へ買物に出ますると、足利地方では立派なうちのお内儀かみさんが風呂敷包を脊負しょって買物にきます。日傘をし包を十文字に脊負せおい、ガラ/\下駄を穿いて豪家ものもちのお内儀さんでも買物に出まするくらいだから、お瀧も小包を提げて買物を致し、自分の家へ這入りに掛る処を茂之助が見付け、
茂「おい、お瀧/\」
たき「あい……びっくりしたよ、何んですえ」
茂「何んですとは何んだ、何んですもねえもんだ」
たき「何を云うんだよ、何うしたんだねえ」
茂「何うもしねえのよ、おめえに少し云う事が有って己は[#「己は」は底本では「已は」]来たんだ、お前と云うものは何うも実に不実な女だぜ、己に済むけえ、前橋に居た時に何卒どうぞして東京へ帰りたい、何時までも此処に芸者をして居ても堅くして居ちゃア衆人ひとの用いが悪うございます、此の節は厭な官員さんが這入って来て御冗談を仰しゃる事が有るから困ります、私ももと武士さむらいの娘ですからんな真似もたくないと云うから、己が可愛相だと思えばこそ無理才覚をして、藤本へ掛合って、手前てめえの身請をして遣った時にゃア手を合せて拝んだじゃアねえか、その恩を忘却して何んだ、松公に逢いたいから請出されて来たとは何んの云い草だ、何うも然ういう了簡とも知らず騙されたのは僕が愚だから仕方もえが、あまつさえ三十金手切を取って、これ見よがしに此の猿田村へ世帯しょたいを持ち、二人仲好く暮して居られた義理かえ」
たき「然んな事を今云ったッて仕方が無いじゃアないか、然んなら何故の時出さないようにおしなさらない、一旦得心ずくで離縁に成って仕舞えば仕方が無いじゃア有りませんか、もう書付まで取交して悉皆すっかり極りが付いて仕舞って、今の私の亭主は松五郎ですよ、成程それはもとお前さんのお世話に成った事も有りますけれども、今に成って然んなぐず/\した事を云うと、今度はしっぺえ返しに松五郎さんの方から理不尽に喧嘩でも仕掛けるといけないから、後生ですから早く帰って下さい、お前さんより松さんの方が余程よっぽどやきもちやきで困るんだよ、ちょいと他の男と差向いで話でもして居ると、直ぐ嫉妬やきもちいて、おかしい処置振りをするって怒るんだよ」
茂「誰だってそれは怒るのが夫婦の情だ、お互に情が有れば夫婦の情だが、お前の方では夫婦の情を尽す事がえんだ、何う考えてもお前に出られちゃア己の顔が立たねえんだ、聞けば松公はあそんでばかりる……賭んでる……そうだそうだが、行先ゆきさきの認めのい松公を慕って居ても末始終お前の身の上が覚束無おぼつかねえよ、縁有って一度でも二度でも苦労をした間柄だから、少しの金で松公の手が切れる事なら、何うか金の才覚はするから旧通もとどおりに話が附くめえものでも無えから、帰る腹なら帰ってくれねえか」
たき「厭だよ、シト何うしたんだね、私はもとよりお前さんに惚れて来たんじゃア無いよ、前橋のような知りもしない処へ芸者に往って、逢う人も/\馴染めないやぼな人ばかりで、厭で/\堪らない処で松さんに逢ったんだが[#「逢ったんだが」は底本では「逢ったんだか」]の人は私が東京に居た時分からの馴染だが、お金が無くって気儘に成れないから困って居ると、お前さんが舌の長い事を云ってポン/\法螺をお吹きだから、い金持の旦那様と思い違えて、請出されて来て見ると、うちではお内儀さんが機を織って働いて居るような人だから、然んな人の傍に何時までくっ附いて居ても仕方が無いから、私も斯う云う訳に成ったんだから、何もお前さんに未練を残して帰りたいなんてえ了簡は無いよ、然んな未練な事を云うと気障きざが見えてたまらないよ」
茂「耐らないとは何んだ…」
たき「私はもう縁が切れて見れば赤の他人だよ、その他人へ失敬な事を云うとかないよ」
茂「失敬も何も有るものか」
 と腹立紛れに突然いきなりお瀧のたぶさを取って引倒す。
たき「何をするんだえ、お前」
茂「何もねえもんだ、殺して仕舞うのだ」
 と互いに揉み合って居たが、やがて茂之助はお瀧を組み伏せ、乗し掛って拳を振り揚げ、五つ六つって居る処へ村上松五郎が帰って参りました。

        十二

 村上松五郎は此のていを見るより飛掛り、茂之助のたぶさを取って仰向けに引倒し、表附の駒下駄で額の辺を蹴ったからダラ/\と血が流れるを、
松「やい手前てめえも愛想の尽きた女だから金まで附けて手を切ったんだろう、何をするんでえ、僕の妻に対して失敬な事をするとゆるさんぞ、僕の妻を捕まえて無闇に打擲ちょうちゃくする事が有るかえ」
茂「僕の妻もえもんだ……やア己の頭を割りやアがったなア」
 と口惜しいから松五郎にかぶり附きに掛ると、松五郎は少しく柔術やわらの手を心得て居りますから、茂之助の胸倉をとらえて押してきますと、の辺には所々ところ/″\に沼のような溜り水が有ります。これは水溜みずためで、旱魃かんばつの時の用意でございます。茂之助は其の水溜の沼のような処へポンと仰向けに突き落され、もんどりを打って転がり落ち、ガブ/\やって居るを見て、二人とも嘲笑あざわらいながら帰って参り、
たき「私を厭という程五つちやアがったよ」
松「打たれながら勘定をする奴もねえもんだ、今度来やアがると只ア置かねえ、本当に彼奴あいつ狂人きちげえだ、ピッタリ表を締めて置け」
 と云う。此方こちらは茂之助が泥ぼっけになって沼から這上りましたが、松五郎に踏んだり蹴たりされたので、身体も思うように利かず、
茂「あゝー残念だが何うする事も出来ねえか」
 とい人だけにのぼせ上り、ずぶ濡れたるまゝ栄町の宅へ帰り、何うやら斯うやら身体を洗い、着物を着替えたが、たもとからどじょうが飛出したり、髷の間から田螺たにしおっこちたり致しました。
茂「もう只ア置かねえ、彼奴等あいつらを殺して己も其の場で腹を切って死ぬより他にようは無い」
 と無分別にも善い人だけに左様な心得違いを思い起しましたが、差料の脇差を親父が渡しませんから、何うかして取りたい、是は女房を頼んで取るよりほかに仕方が無いと、にくいけれども勘忍して、丁度午後三時少し廻った時分でございましょう、恐々ながら江川村へ這入りました、此処から我家わがやに近いから、寺の門の下に立って居たら子供でも出て来やアしないかと思って居ります処へ、布卷吉と云う七歳になる、色の白い、下膨れな可愛らしい子供が学校から帰りでチョコ/\と向うから出て来たのを見附け、
茂「おい布卷吉」
布「いやアおとっさん能く来たねえ、おっかさんがね案じて居るよ」
茂「あい……誠にお父さんは面目ないから、お前からお母さんに詫言わびことを云ってくれ、お祖父じいさんは何うした」
布「アノ祖父おじいちゃんはね、恐ろしく怒ってるよ、お祖父ちゃんはね、アノんなやくざな者は無い、駄目だって、アノ芸妓げいしゃや何かに、アノ迷って、アノ此んな大切だいじなお金をつかうようなものは愚をきわめたんだって、それだからとても此の身代は譲れないから、てまえの親父は寄せ附けないって、アノ坊が大きくなると此の身代は悉皆みんな坊にやるから、彼奴を親と思うじゃア無い、おっかあばかり親と思って勉強しろってね、それから学校へくの」
茂「わしはお前のお祖父さんにもおっかあにも面目無い、私はもう縁が切れて居るから他人のようなものだが、たった一目お前のお母に逢って詫言わびごとたくって、お父さんは態々わざ/\忍んで来たんだが、ちょいと内証ないしょでお母を呼び出してくんな」
布「呼び出せってお母は来やアしないよ、お父さんに内証で逢うと、うするとアノ誰も彼もうちに置かないとお祖父ちゃんが然う云ってるのだから、お母さんに来いたって、お父さんには逢えないよ」
茂「それは然うでも有ろうけれども、お祖父さんに内証ないしょうでお母に逢い、一言詫がしたいんだ、お父さんは最う悉皆すっかり眼が覚めて、本当に辛抱人に成ったと然う云って、ちょいとお母さんを呼んで来てくれ」
布「だってお祖父ちゃんに叱られるもの、愚を極めた者に逢うと此方こっちも愚になるから逢うなと然う云ったもの」

        十三

茂「お前は俄かに怜悧りこうに成ったの、年がかなくって頑是がんぜが無くっても、己が馬鹿気て見えるよ、ハアー衆人みんなに笑われるも無理は無い」
 と差俯向さしうつむき暫らく涙に沈み居たるが、漸く気を取直しておもてげ、袂から銭入を取出し、
茂「こゝにおぜゝが有るからお前に遣る、もう私は要らないから是だけ悉皆すっかりお前に遣るから、これをお父さんの形見だと思って、これでお母さんに何か買って貰いな」
布「イヤー大変にくれたね、今までは何処へ往ってもお土産みやを買って来てくれた事は無いが、そのお銭はみん芸妓げいしゃに入り揚げちまって、女郎買の糠味噌ぬかみそが何うとかたってう云ったよ、今度坊にお銭をくれるようではお父さんも辛抱人に成ったんだろう」
茂「お祖父さんに然う云ってはいけないよ、お父さんの来た事が知れると、あの通りやかましいから、お祖父さんに内証ないしょでお母を呼んでくれ、わしに逢ったと云うではないよ、あのざまの処から、内証ないしょで呼んでくれ」
布「じゃア内証で往って来るよ」
 何心なく頑是なしに走って参り、織場へ往って見ますると、おくのは夜は灯火あかりけて夜業よなべようと思い、襷掛たすきがけに成って居るうしろへ参り、
布「お母さん/\」
くの「何んだよ、昨日きのうも学校から帰ると日暮方まで遊んでいたが、あんまり表へ出ねえようにしな、何んだよ」
布「あのね、お父さんが来たよ」
くの「え……何処へ」
布「あのね内証ないしょうでお母さんに逢って詫言をしたい、辛抱人に成ったてえが、本当に成ったかも知れないよ、内証でお母さんに逢いたいって坊に斯様こんなにお銭をくれたよ、お銭をくれるくらいだから辛抱人に成ったかも知れないから、お前逢ってお遣りな」
くの「逢いたいってお祖父さんがに知れると、でけえ小言が出るが……決して云うじゃアねえよ、黙って居なよ、然うして少し此の機を気イ附けて居ろ、蚊遣火くすべが仕掛けて有るから」
 と夫婦の情で逢いたいから、すぐに飛出してこうかとは思ったが、一歳ひとつになるおさだの顔を見せたいと思いまして、これを抱起して飛んで参り、
くの「おやまア貴方あんたは何うしておいでなせえました」
茂「あい誠に面目次第も有りません」
くの「お父さまが物堅くってうちへ寄せ附けないと云っても、おくのが附いて居ながら、事の済んだ暁には何とか詫言をして家へ出這入りの出来るようにそうなものだ、それとも私がお父さんに悪く取做とりなしでもして居や為ないかと、貴方あんたが腹でもたてゝいやアしないかと、そればっかり心配して居やしたよ」
 と云われて、流石さすがの茂之助もおくのの貞実に感動され、暫く泣き沈みました。
茂「アノー誠に何うも面目次第もない、もう此処が辛抱の仕処しどころだから、わしは一生懸命に稼いで親父にしかとした辛抱のしょうを見せてうちへ帰る積りだが、もうあの女には懲々こり/\したから真面目になって夫婦仲善く可愛いゝ子の顔を見て暮そうと云う心になったよ、しかし只辛抱するったって親父が中々得心しまいから、横浜へ往って、少し商売の取引の事が有るからく積りだ、これまで私は馬鹿をて拵えた借財をお前が内証ないしょうで払ってくれた借金の極りも附けなければならないから、是非横浜へ往きたいのだが、何うも身装みなりが悪いと衆人ひとの用いが悪いから、羽織だけはわきで才覚したが、短かい脇差を一本お父さんに内証で持って来てくれねえか」

        十四

くの「脇差なんぞを差さねえでもいじゃア有りませんか」
茂「脇差を差さねえと人の用いが悪いのだから持って来てくんな」
くの「お定がこんなにでかく成りやしたよ、ちょっくらでえて遣っておくんなせえ」
茂「じゃア己が抱いて居るから持って来ておくれ」
くの「あんた、大分でえぶ顔の色が悪いが、詰らねえ心に成ってはいけませんよ、一人のお父さまを見送らねえうち貴方あんたの身体ではえから、たとんなにやかましいたって、お父さまが塩梅あんべえが悪くなって、眼を引附ひきつける時に来て死水を取れば、誰が何と云っても貴方のうちに極って居るから、腹の立つ事も有りましょうが、子供やわしに免じて何うぞ軽躁かるはずみな事をねえようにしてお呉んなせいよ」
茂「はい/\……決して軽躁は為ない、是までは殺して仕舞おうかと思った事も度々たび/\有ったが、お瀧の畜生に騙されて、子供の傍へ来る事も出来ねえ身の上になったが、ん畜生あんまりと云えば悪い奴だけれども、さっぱり縁を切って仕舞ったから、彼奴あいつは松五郎と夫婦になったし、もう何も彼奴に念は無いから其処そこに心配は有りません」
くの「それでも能く思い切ったね、勘弁する時にしねえばなんねえが、それも是も子供やわしに免じて勘忍したで有りましょうが……おや貴方あなたつむりに疵が出来てるのは何うやした」
茂「此の間中独身者ひとりもので居るから、棚から物を卸そうとすると、砂鉢すなばちおっこって此様こんなに疵が付いたのさ」
くの「あらまアうかね、危ねえ、定めて不自由だろうと思っても、近いとこだがく事も出来ないんだ、……然んならわしが脇差を持って来るからお定を抱いて居ておくんなさいよ」
茂「泣くといけねえからなるたけ早く」
くの「はい、じきに往ってめえりますよ」
 と是からうちへ帰り、親父に知れぬように脇差をこっそり持って来て茂之助に渡しました。
茂「有難う/\……さア、お定は少し泣いたよ」
くの「誠に御方便なもので……布卷吉は何うやら一人学校へめえりますし、わしはお定を寝かし付けて、出来ない手で機を織ってっとずつ借金を埋めて置くようにます、わりい跡はいだアから貴方あんたも気を落さずに身体を大切でいじにして下せえまし、何事も子供と年寄に免じて勘忍しておくんなさいよ」
茂「あい……あいお前のような貞実な女房を余所よそにして悪党女に騙されて迷ったのは、己の身にばちが当ったのだが、何うぞわしの留守中親父を頼みます、いかえ、私は是から一旦栄町へ帰ってすぐに立つ積りだ」
くの「お茶でも上げたいが往来なかで」
茂「なに、お茶も何も飲みたくはない、留守中おくの身体を大切だいじにしなよ」
くの「はい、貴方あんたが横浜から帰って来たらば、ちょっくら栄町のうちを訪ねますから」
茂「あいよ、子供を頼むよ」
 と何もも人情が分って居ながら、諦めの附かんと云うものは因縁のしからしむる処でもございましょうが、茂之助は松五郎お瀧の二人を殺し、自分も腹を切って死ぬ決心故、是がもうおくのゝ顔の見納めかと、あとを振返り/\脇差を腰に差して帰ってく後姿を見送って、
くの「はてな、の顔色は……うっかり脇差を渡したのは悪かったが、事に寄ったらお瀧さんを殺す心でも有りゃアないか、わしが猿田へ先へ往って此の由をお瀧に知らせようか」
 と心配して居ります。くとも知らず茂之助は猿田村の取付なるの松五郎の掛茶屋へ斬り込むと云う、大間違になりまする処のお話でございます。

        十五

 えゝ、久しく上方へ参りまして大分御無沙汰を致しました。新聞にも僅か出しまして中絶いたしました霧隠伊香保湯煙のお話で、なかばからおきゝに入れまする事でございますが、細かいとこを申上げると、前々よりお読み遊ばしたお方は御退屈になりますから、すぐに続きを申上げます、足利の江川村で茂之助が女房に別れるとき、横浜へくからお父さんに内証ないしょうで脇差を持って来てくれと頼みました。これは恨みかさなるお瀧と松五郎を殺して、自分は腹でも切って死のうと云う無分別、七歳なゝつになります男の子と生れて間もない乳呑児ちのみごを残し、年取った親父や亭主思いの女房をもすてて死のうと云う心になりましたが、これは全く思案のほか、色情から起りました事で、此の色情では随分怜悧りこうなお方も斯様になりますことが間々あります。女房おくのは夫茂之助に別れる時に、何うも様子が変で、気になってなりませんから、万一ひょっとして軽躁かるはずみな事をしてはならぬと、貞女なおくのでございますから、一歳ひとつになりますおさだと申す赤児あかんぼを十文字におぶい、鼠と紺の子持縞の足利織の単物ひとえものに幅の狭い帯をひっかけに結び、番下駄を穿いて暮方から江川村を出まして、猿田の松五郎の宅へ参りました。見世は片付けて仕舞い、縁台も内へ入れて一方かた/\へ腰障子が建って居ります、なれども暑い時分でございますから、表は片々かた/\を明け放し、此処に竹すだれを掛け、お瀧が一人留守をして居りますと、門口から、
おくの「はい、御免なさいまし」
お瀧「何方どなたでございますか」
くの「松五郎さんのお宅は此方様こちらさまでございますか」
瀧「はい手前てまいでございますが、何方いずれからお出でゞす」
くの「はい貴方あなたがお瀧さんでござりますか」
瀧「はい私が瀧でございますが何方どちらからおいでゞすか」
くの「はいお初にお目にかゝりまして、お噂には毎度承知いたして居りやんしたけれども、是迄はおかしな訳で、染々しみ/″\お目にかゝる事も出来ませんで、私ゃア茂之助の女房のおくのと申す不束者でござんして、何うかお見知り置かれましてお心安う願います」
瀧「おやうですか、私もおかしなわけで、かけ違ってお目にかゝりませんでしたが、能くまア斯んな処へお出で下すって、まア此方こちらへお上んなさい、何だか暗くっていけませんから、今あかりけます、這入口は蚊が刺していけませんから、まア此方へ」
くの「はい有難うございます、まア是ア詰らんもんでございますけれども、私が夜業よなべ撚揚よりあげて置いたので、使うには丈夫一式に丹誠した糸でございます、染めた方は沢山たんとえで、白と二色ふたいろ撚って来ました、誠に少しばいで、ほんのお前様めえさんのお使い料になさるだけの事でござります」
瀧「はいそれはまア何よりの品を有難うございます、さアずっと此方こちらへお出でなさいまし、おや子供しゅおんぶで、其処は蚊が刺しますから団扇をお遣いなすって」
くの「はい、団扇は持って居ります、わしゃ貴方あんたに少しお目にかゝってお願い申したいと存じまして」
 と是からおくのが話し出します事は明日みょうにち

        十六

くの「うちへはちょっくら買物にくって嘘をいてめえりましたが、わし良人うちのひとの茂之助もまア御縁があって、あんたを前橋から呼ばって栄町に世帯しょたいを持たせて置いた事は聞いて居ましたけれども、男の働きで当前あたりまえのことゝおめえましても、年寄てえ者は取越苦労して、私にあんた義理もあるだから、やかましく云いますし、やかましく云えば意故地いこじになって家へも帰んねえようにするれが気象でござりまして、あんな我儘な気象、あんたも知っての通り誠に心配しんぺえして、まア縁が切れても男の未練で、ひょっとして貴方あんたのとけえでも来て、詰らねえ事でもハア言い出せば、貴方だっても、まア松五郎さんでも黙っては居なさらねえ、縁の切れたとけえ来て、たわいもねえ事をいえば合点しねえぞと云えば、売言葉に買言葉、んなえらい事になるかも知れねえとまア、女のせめえ心で誠に案じることでござります、年寄子供をひかえて軽躁かるはずみな事がなければいがと思って居ます処の、昨日きのう私がとけえねえ……少し家へ来られねえだけれども、逢いてえッて来た様子が誠に案じられますから、それからまア何うかしてと思って居ましたけれども、太田へめえったことを聞きましたから、また此方こちらへでもめえか、ひょっとして軽躁な事がありはすめえかと心配しんぺえして、栄町へめえりましたら栄町あちら世帯しょてえは仕舞って、太田の方へ行ったてえから、気になってなんねえで、此方へ参りましたが、し茂之助が此処こけえ参りまして、どんなハア詰らねえことを言いかけても、あんた取合わずにまア柳に受けて居て下さると、あれえこともめえから、打遣うっちゃらかして居て下すって、其の時云った事が貴方のお気に障れば、其の時はどんなにきもがいれる事があっても、あとでまた気の静まるときに意見をすれば聴入れてくれる人でござりますから、何うか若し参りましたらば、何卒どうぞあんた逆らわずに柳に受けてお置き下さるようにおねげえ申してえもので」
瀧「はい、そうで御座いますか、困りますねえどうも、まア貴方あんたには初めてお目にかゝりましたが、茂之助さんは前橋の六斎の市のたんびにお出でなすったが、お前さんという立派なお内儀かみさんや子供のある事は存じません、当人も隠して女房はないから斯うもしてやると仰しゃって下さるから、頼り少い身体で、そんならばと云って来て見ると、子供しゅもあり、お内儀さんもって、手前てめえうちに置かれないからと栄町へ裏店うらだな同様なとこ世帯しょたいを持たして、何だか雇いばゞあとも妾ともつかぬ様な仕合しあわせで、私も詰らねえから、何しろ身を固めるには夫を持たなければ心細いからと思いまして、それで浮気をしたてえ訳じゃアありませんが、今の松さんが前橋へ来なすったが、私も東京とうけいに居た時分からねえ馴染のお方で、恩になった事もあり、それに少しハイ約束をした事もありました、それが縁でちょく/\遊びに来たのを茂之助さんが嫉妬やきもちをやいて、むずかしい事を言ったから話もれて仕舞って、まア示談はなしあいで離縁になったのですよ、それから斯うやって夫婦になって居ると、未練らしく此の間も来てひどい事を言って、私のたぶさって引摺り倒し、散々にちましたから、私も口惜くやしいから了簡しませんでしたが、それは兎も角もまた茂之助さんが来て種々いろんな事をいうのをハイ/\と柳に受けてれば、また増長して手出しをする、そうなれば良人うちのひとも腹を立てゝ茂之助さんを手込てごみに打擲しまいものでもない……まアあるかないか知れませんが、他人ひとうちへ来て、縁の切れた人が刃物三昧でもすれば聴きません、松さんも元は武士さむらいだから黙っては居りません、お互いに男同士で切り合って、松さんがまた茂之助さんに傷でも付けまいものでも有りませんから、それだけはお断り申して置きます」

        十七

くの「はい、それが心配しんぺえでござります、そんだから苦労でござりますから、斯うやって此処こけめえったのです、どうか軽躁かるはずみな事をしてめえるような事がござりましたら、松五郎さんも腹も立ちましょうけれどもわしや年寄子供に免じて下すって、私らを可愛相と思って、そこだけ御勘弁なすって……時経ってまた意見を致す事もござりますから、何うぞお願で、お瀧さん」
 と田舎気質かたぎの正直に手を突き、涙ぐんで頼むので、流石の悪婦も気の毒に思い、
瀧「まア私の一了簡にもきませんから、福井町の店受たなうけとこへ往って松さんが遊んで居ますから、私は是から行って呼んで来ましょうから、松さんにお前さんが逢って頼んで下さい、ね、そうして相談ずくに致しましょう、私も気味が悪い、松さんは留守勝だから無闇な事をして刃物三昧でもされると困りますから」
くの「わたしもお目にかゝって是非お頼み申しやすが、貴方あんたからも能くお話なすって……年寄も居りますが、わしも機織奉公にめえりまして、それが縁になってかたづきましたのだから、誠にわしが中へ這入へえって困りやすから、どうかお願いで」
瀧「宜うございます、私が往って来ます……アノ明けッ放して置きますから、貴方あんたさん少し留守居をして下さい」
くの「はい、宜しゅうござります、お留守いたします、帰ってお茶でも上る様にお湯をかけて置きます」
瀧「じゃア私は一寸ちょっと往って来るから、アノ子供衆に乳でも呑ましてゆっくりしておいでなさい」
 と台所へ立って、ぶら提灯を提げて、福井町までは近い処でございますから出てきました。すると秋の空の変り易く、ドードーッと一じん吹いて来ます風が冷たい風、「夕立や風から先に濡れて来る」と云う雨気あまけで、やがてポツリ/\とやッて来ました、日覆ひよけになった葦簀よしずに雨が当るかと思ううちに、バラ/\と大粒が降って来ました。あゝ降出して来て困るだろうと思って居ると、ドーと吹込む風に灯取虫あかりとりでも来たか行灯あんどうの火を消して真暗まっくらになりましたから、おくのは手探りで火打箱は何処にあるかと台所へ探しに参った。其の頃はまだマッチは田舎では用いません、火口箱ほくちばこを探しに参りますると、雨は益々ます/\烈しくドッ/\と吹降ふきぶりに降出して来る。赤城の方から雷鳴かみなりがゴロ/\雷光いなびかりがピカ/\その降る中へ手拭でスットコかむりをした奧木茂之助は、裏と表の目釘を湿しめして、のぼせ上って人を殺そうと思うので眼もくらんでる。裏手へそっと忍んで来て見ると、ピカ/\とさし込む雷光に女の姿が見えたから、お瀧が彼処あすこると心得、現在我が女房とも知らず、引抜いた一刀を持って飛掛かった。おくのは真暗闇に人が飛掛かったから驚き、
くの「何方どなたか」
 と云う声も雷鳴らいめいの烈しいので聞えません。もとより逆せ上った茂之助ゆえ無慚にも我が女房おくのがおぶってる乳呑児の上から突通したから堪りません。おくのは
「アッ」
 といって倒れた。茂之助は乗っかゝって、
茂「此の悪党思い知ったか」
 と力に任して二ツ三ツこじりましたから、無慙にもおくのは、一歳ひとつになるお定を負ったなり殺されました。
茂「あゝ……畜生め……あゝ能くも/\己に耻をかゝしたな、足利ばかりの耻ッかきじゃアねえぞ前橋の友達までに耻をかいてるぞ、畜生め、此の位の事は当然あたりまえだ……松五郎は居るか」
 と探したが他に人も居りません。
茂「松五郎は居ないか口惜くやしい」
 とガタ/\ふるえながら血だらけの脇差を提げて探りながら、柄杓ひしゃくで水を一杯飲みました。

        十八

 茂之助が柄杓で水を飲んで居るうち、夕立もれてたちまちに雲が切れると、十七日の月影が在々あり/\します。
茂「畜生め、能くも己に耻をかゝせやアがったな」
 とたぶさって引起し、窓から映します月影にて見ると、我が女房おくのでございますから茂之助はびっくりして、これは己のうちじゃアないか知らんと四辺あたりをキョト/\見て死骸へ眼を着けると、おくのが子供をおぶったなりに死んで居ります。あゝ、おさだ迄かと思うとペタ/\と臀餅しりもちいて、ただ夢のような心持で、呆然ぼんやりとして四辺を見まわし、やがて気が付いたと見えて、
茂「おくの……堪忍してくんねえよ……アヽ何うしてお前は此処へ来た……間違いだよ、お前を殺すのじゃアない、お瀧松五郎の畜生を二人諸共殺そうと思って来たに、何うしてお前此処に居たのか、お前を殺そうと思ったのじゃアない……あゝ済まねえ、腹一杯苦労をさせて、お前を殺して済まねえ、己はばちがあたって此様こんな事になったのだ……あゝお前ばかり殺しやアしねえ……おくのしっかりして呉れ、おくの/\」
 と呼ぶ声が耳へ這入ったか、我にかえって片手を漸々よう/\出して茂之助の手へすがって、
くの「茂之助さん間違いだろうね」
茂「ウーム間違えだ、お瀧を殺そうと思ってお前を殺したのだ、堪忍してくれよ」
くの「はいうだろうと思って……知って居りやす、わしはもうとても助からぬ、こんな事もあろうかと思ったから、私は此家こけえ間違の出来でかさねえように頼みに来ただけれども、最早仕様がねえが、おさだが可愛相だよ……お父さんの身を貴方あんた、心にかけて大切でえじにしなんしよ」
茂「あゝ己も生きては居ない……堪忍してくれ、あゝ済まねえ事をした」
 と云っている内におくのは絶命こときれましたから、茂之助は只呆然ぼんやりして暫く考えて居ましたが、ふら/\ッと起上たちあがって、自分の帯を解いてへっついかどから釜の蓋へ足を掛けて、はりへ二つ三つ巻きつけ、くびへかけて向うへポンと飛んでついくびれて死にました。誠に情ないことで。処へ提灯を点けて松五郎とお瀧は雨も止みましたから帰って来て見ると此の始末。さア何うしたのだろう鮮血淋漓ちみどりちがい、一人は吊下ぶらさがって居るから驚きまして、隣と云っても遠うございますから駈出して人をあつめて来ましたが、此の儘に棄て置く訳にもきません、此の段を直ぐ訴えて宜かろうと云うので、それから警察署へ訴える事に相成りまして、検死の査官が来られてお調べになりまして、直ぐ奧木佐十郎の処へお呼出しでございます。佐十郎も一通りならん驚きで、布卷吉を連れて飛んで参りまして、段々お調べになって、尚お松五郎夫婦の者を調べると、茂之助が軽躁かるはずみな事をはしないかと案じて来たから、どうか其様そんな事のないようにと存じて頼まれても、一存で挨拶も出来ませんから、夫を福井町へ呼びにきますると、大雨に雷鳴かみなり、是々の間手間を取って帰って見ますると、留守中に斯様な次第と云う。段々調べると、成程店受の処に居りました時間もありますし、江川村から出た時間もありますから全く間違えて女房を殺し、転倒てんどうしてくびれて死んだ事であると分ったので事果てましたから、死骸はまず佐十郎方へ引取らせて、野辺送りをいたしました。初めは少しむずかしかったが、松五郎お瀧も別に処分もありませんで、それなりに事済みになりましたが、松五郎お瀧は此の辺の村の者に憎まれてられませんから、早々世帯しょたいを仕舞って、信州へと云うので旅立ちました。

        十九

 お話二つに分れまして、これは明治七年六月の末のお話でござります。夏になると湯治場が流行はやりますが、明治七年あたりは湯治場がまだそろ/\是から流行って来ようと云う端緒こぐちでございました。熱海あたみ修善寺しゅぜんじ箱根はこねなどは古い温泉場でございますが、近年は流行りゅうこういたして、また塩原しおばらの温泉が出来、あるい湯河原ゆがわらでございますの、又は上州に名高い草津くさつの温泉などがございます。先達せんだっわたくしは或るお方のお供をいたして、堀越ほりこしだんろうと二人で草津へ参って、の温泉に居りましたが、彼処あすこは山へあがるので車が利きません。矢張り昔のように開けません、近郷の人が入浴に参りますが、当今は外国人が大分参りまして入浴いたします。温泉場でもやり尽しまして、斯うしたらお客様の御意に入るか、斯う云う風に家を建てようかなどと心配いたして、追々開けて参る様子でございます、其のうちにも丁度近くって伊香保と云う処はい処で、海面から二千五百尺高いと云う、空気は誠によく流通いたして、それから湯が諸病に利くと云う宜しい処で、脚気かっけに宜しく、産前産後血の道に宜しく、子宮病に宜しく、肺病に宜しく、僂麻質斯りょうまちすもとよりの事、これはわたくしが申す訳ではございません、独逸どいつのお医者様が仰しゃったので、日本温泉論にありますそうで、随分大臣方がお出向になります。何う云うものか俚諺ところことばに、旅籠屋はたごやのことを大屋おおや/\と申します。此の大屋の勢いは大したもので、伊香保には結構なのが沢山ございますが、中にも名高いのは木暮金太夫こぐれきんだゆう、木暮武太夫ぶだゆう永井ながいろう、木暮八ろうと云うのが一等宜いと彼地あちらで申します。木暮八郎の三階へ参って居ます客は、霊岸島川口町れいがんじまかわぐちちょう橋本はしもとこうろうと申して、おやしきへお出入を致して、昔からお大名の旗下はたもとの御用をしたもので、只今でも御用を達す処もござりますが、まア下質したじちを取って金貸と云うのだから金満家でございます。おとっさんはなくなって、当人は相続人になりました。たった一人のおっかさんがありまして、幸三郎に嫁を貰った処が、三年目に肺病にかゝりまして、佐藤さとう先生と橋本はしもと先生にもて貰ったが、思うようでなく、到頭死去みまかりました。今は独身ひとりみで嫁を探してる身体、まだ年が三十七と云うので盛んでございまする。箱根へ湯治に行ったが面白くない、今度は伊香保へ行って見よう、一人では淋しい、連れをと云うので、是れは木挽町こびきちょう三丁目の岡村由兵衞おかむらよしべえと云う袋物商ふくろものやと云うとていが宜しいが、仲買をしてお出入先から何品なにしなをと云うと、じき宮川みやがわへ駈付けるという幇間おたいこ半分で面白い人で、また一人は伴廻ともまわり、これは渋川の車夫で、車に乗って来た処が、正直で能く働き、気の利いた男で、しまいには馴染になって、正直者だから次の間に居れ、帰途かえりは又乗ると云う、此方こちら居得いどくだから小用こようを達して茶をいれたり何かする。年はまだ二十八だが、車夫には似合わぬい男でございます。今日は昼飯を食ってから少し運動をしようとぶら/\出かけました。

        二十

 只今では彼処あすこは変りまして湯本へきます道がつき、あれからふただけの方へ参る新道も出来ましたが、其の頃はそう云う処はありませんから、まず伊香保神社へくより外に道はございません。石坂をあがってくと二軒茶屋があります、遠眼鏡が出て居りますが曇ってゝちっとも見えません、かえって只見る方が見えるくらいで、ほんの景気に並んで居るのでございます。お婆さんが茶を売って居る処へ三人連で浴衣に兵子帯へこおび形姿なりで這入ろうとすると、何を思ったか掛茶屋の方を見て、車夫の峯松が石坂をトン/\駈下りました。
幸「おい……峯公何うしたのだ、駈下りたじゃアねえか」
由「其処そこまで来て駈下りましたが、何か忘れ物でもしたのでしょう、貴方がカバンを提げて居らっしゃるとキョト/\して居ます、初めて伊香保へ来たから華族さんや官員さんの奥様や、お嬢さん達の衣装が綺麗で、日に二三度も着替えて御運動だから、彼奴あいつは安物買が勧業場かんこうばへ来たようにキョト/\して、危い石坂を駈下りたりなにかするので、今は何で行ったか分りませんが、時々能く物を買って食う男で、随分意地のきたない男で」
幸「何しろ何処どこかへ休もうじゃアねえか」
 とかたわらの茶見世へ這入ると、其処に四十八九になる婦人が居ります。髪は小さい丸髷に結い、姿なりも堅いこしらえで柔和おとなしい内儀かみさんでございます、尾張焼の湯呑の怪しいのへ桜を入れて汲んで出す。其のお盆は伊香保で出来ます括盆くりぼんで。
女「此方こちらへお掛けなさいまし」
幸「い景色だな、ちょうど今頃は好い景色に向う時だ」
女「はい、御緩ごゆるりとお休みなさいまし……おや、貴方あんたは橋本のこうさんじゃアございませんか」
幸「おや、これは御新造ごしんぞさん……何うして貴方あなたが此処に」
女「誠にどうもお珍らしいたって久しくお目に懸りませんが、まア御承知の通りおかみなくなりまして、私も此様こんな処で、お茶を売るまでに零落おちぶれましたが貴方あなたはまア大層お立派におなりなすって、見違いますようで……おや由兵衞さん」
由「これは御新造ごしんぞさん……これはどうも村上の御新造ごしんぞうさん、此処でお茶を売って居らっしゃるとは何様どんな探報者たんぽうしゃでも気が付きません……どうしてまア」
女「どうもお恥かしくって……実は貴方あんたさんも御存じの通り、旦那様もア云う訳になりましてねえ、仕方なく私ももう段々身体も悪し、微禄よわりまして[#「微禄よわりまして」は底本では「微碌よわりまして」]しまったから、何を内職にするにも身体がもとだから、其様そんなにくよ/\せずに湯治に行ったら宜かろうと勧めてくれる者もありまして、此方こっちの方に縁の家来筋の者が居りましたから、これへ参って湯治をすると、湯中ゆあたりがしてドッと悪くなり、五週間ばかり居るうちにお恥かしいお話でございますが、金を使い果してしまい、何うする事も出来なくなったのを、木暮武太夫と申す大家さまが真実な人で、種々いろ/\云ってくれましたから、お前さん此処へ参ると、望月もちづきと云う書画なぞの世話をする人がって、其の人に道具を東京で買ってもらい、此処へ茶見世を出して居りますのも、大家さん方に願ってお話をして、とうとうまア此の五月の末からこんな事をして居りますが、ほんの湯治かた/″\やって居りますので、初めは間が悪くって知った方に逢いますと顔から火が出るようで、茶を汲んで出す事も出来ませんでしたが漸く此の頃は馴れて参りました……お懐しい東京の方を見ると、思い出して、東京のようすも大層違ったろうと思いますが、浅草の観音様は相変らず彼処あすこにありましょうねえ」
由「えゝ、ありますとも、ほかに地面がありませんから」

        二十一

由「御新造ごしんぞ様、わたくしは余計な事を申すようでございますが、岡野おかの太夫だゆう様なぞは、以前は殿様/\と申上げたお方だが、拙宅うちへお手紙で無心をなさるとは、どのくらいの御苦労か知れません、わたしに手を突いて御無心をなさる有様にお成りなすったかと、少し恵むと云う程な訳ではござりませんが、それから見ると御新造様なんぞは気楽で、何んだって朝夕斯様ない景色を庭のように見て居る、此のくらいな御養生はありません、お気楽でげしょう」
女「皆来る方は其様そんなことを云いますが、お前さん方はたまに来るからで、朝夕のべつゞけに山を見ると山に倦々あき/\しますよ」
由「そうでしょう、こりゃアそうでしょう、わしの懇意な者が高輪たかなわに茶店を出して、旧幕時分で、可笑しかった、帆かけ船は見えるし、二十六の月を見て結構でしょうと云うと、左様そうでない、通るものは牛馬うしうまばかりで、島流しにったようだと云ったが、これは左様でげしょう、しか男子山おのこやま子持山こもちやまの間から足尾庚申山あしおこうしんざんが見える、男子子持の両山の景色などはいねえ……あゝ子持で思い出したが、お嬢さんはお身大きくおなりでしょうね」
女「あれも十九になります、お耻かしい事でありますが、詮方せんかたなしに身過世渡よすぎしも福田屋龍藏ふくだやりゅうぞう親分さんの処で抱えもすると云うので、行立ゆきたたぬから、今では小峰こみねと云って芸妓げいしゃになって居ります」
由「お嬢様が……だからねえ、もうお鼻などは垂れやアしますまい、おちいさい時分にお馴染の方が芸妓に出て、お座敷でお客様に世辞を云うようになるのだから、此方こっちはベコと禿げるのは当前あたりまえで、左様そうでげすか……旦那ちょうどいのでげす」
幸「御新造様、旧来のお馴染である旦那様にも種々いろ/\御懇命ごこんめいを蒙むったこともありますから、またお力になるお話もありましょう、またお嬢様にも久し振でお目にかゝりたい、事に寄ったら明日あしたの晩向山むこうやまへお嬢様を連れておいでなさい、あなた是非連れて来てください」
女「有難うございます、どんなに悦ぶか知れません、東京の知った方がお出でになると帰りたいと涙ぐんで話すので、中には連れてこうと云う人もありますが、私があるからく訳にもきません、私もきたいと云うと、ばゞアが一緒じゃア困ると仰しゃる、それゆえまア此処に居ります……お前さんは相変らずお元気で」
幸「何うも仕方がありません、親父が死んでからは何もません、只遊び一方で仕様がない、怠惰者なまけものになって仕様がありません」
由「御苦労なすった御様子ですが、まだ御新造さんなどは宜しいので、先刻木暮へ漬物を売りに来た方は五百石取ったとか云う、ソレの色の白い伊香保の木瓜きうり見たいな人で、彼の人が元はお旗下だてえから、人間の行末ゆくすえは分りません……じゃア御新造さん私も種々お話もありますからあすの晩」
女「屹度きっと見世を仕舞うと参ります、もう仕舞いましょうと思います」
由「翌の晩ですよ、左様なら」
 と其処そこを出て暗くなって帰って来ましたが、木暮八郎の三階の八畳と六畳の座敷を借りて居る二人連れ、婦人の若いかたの女中がしゃくが起って、お附の女中が落着おちつく様に押してるが、一人では間に合いません、次の間に居た車夫の峰松が手伝ってバタ/\してる処へ帰って来ました。

        二十二

峰「由さん、今手こずったよ」
由「何うした」
峰「今お癪で困りますから、早々障子を開けて這入っておくんなせえ」
由「なにを」
峰「癪が起ったので」
由「男が癪を起すのは珍らしいじゃアねえか」
峰「私じゃアねえ、隣座敷の御新造様が起したので」
由「なに御新造がお癪」
 とガラリ障子を明けて見ると、御新造は歯を噛〆くいしってるを女中が押してるが力の強いもので男の二三人ぐらいはねかえしますから、由兵衞が飛込んで押えます。
女「有難うございます、此方様こなたさまで助かります、女一人では仕様がございません」
由「宜しゅうございます、此方こなたへ首をおかけなさいまして、脊割せわりすねで押せば宜しいので、何しろお薬を……旦那お薬を」
幸「ナニ薬……峰公、床の間に己のカバンがあるから、あれを持って来な」
峰「カバン」
幸「早く/\」
峰「カバンはございません……貴方が其処そこに持って居らっしゃる」
幸「おゝ、そうか……神薬しんやくがある、早く水を」
 というので薬を飲ませるといゝ塩梅に薬も通ってさがる様子
「反らしちゃアいけない……」
由「あいてえ石頭を打付ぶッつけて……旦那ナニを……まじないでげすから貴方の下帯を外して貸して下さい下帯で釣りを掛けるといので、私のは越中でいけませんが、貴君あなたのは絹でげしょう」
幸「失礼な、僕の下帯で奥様方を……」
由「だッて御病気の時は、そんなことを云ったって仕方がありません、咒いでげすから、失礼だって構いません」
幸「じゃアまだ締めないのがあるからあれを」
由「締めないのではいけません、締めたのが宜しいので」
幸「だって此処でれるものか」
 とやがて新しい絹の下帯を持って来て釣りをかけ漸くに治まりも着きました。
女「なにいよ、もう宜しい、いわや治まったから心配せんで宜しいよ」
岩「貴方どんなに心配したか知れません、お隣のお客様お三方がお出で下すって、結構なお薬を戴き治まりが着いたのでございます、しっかり遊ばせ」
女「いよ、あゝ……有難うございます、皆さんもう宜しゅうござります」
由「恐れ入りました、お癪は治まるとあとはケロ/\致します……中々お強いお癪で」
峰「私の拇指おやゆびはこんなになりました……随分強いお癪で」
幸「お薬はまだ私の方にありますから、これは此処へ置いて参ります、お構いなくおあがりなすって」
岩「誠に有難う存じます、お若衆様わかいしゅさまに一と通りならんお世話になりまして恐れ入ります……貴方能くお礼を仰しゃいな」
女「有難うございます」
幸「左様にお礼では痛み入ります」
 と是から自分の座敷へ帰りまして、
幸「ひどいお癪だねえ」
由「強いたって癪の起るような身体つきであるよ、痩せぎすで、歯をい〆めて居る処は人情本にあるようでげす、い女でげすな、伊香保で運動して居る奥様方や御新造さん方を見るに一番別嬪はお隣の御新造で、のくれえ品が宜くって、あのくれえ身体つきの好いのはありません、外のは随分お形装なりは結構で、出るたんびに変り、でこ/\の姿で居ても感心しない、って歩く処を見ると、せいがづんづら低かったり、おしりが大きかったりするが、お隣の御新造は別で」
幸「峰公ひどかッたろう」
由「だけれども奥様のお癪を押すのは嬉しかったろう」
峰「そうさ、初めは嬉しかったが、段々ひどくなって来て、仕舞には一人で、押し切れず困りました」
由「そこへ私が後押あとおしで、旦那の下帯で綱ッぴきと来たら水沢山もかるく引上げました」
幸「悪いよ、静かにしろ」

        二十三

由「何でもあれは後家さんだねえ……い女だ」
幸「止しねえ、何だか知れるものか」
由「いゝえ後家さんだ、姿なりの拵えが野暮でござえます、お屋敷さんで殿様が逝去おかくれになって仕舞ったので、何でも許嫁いいなずけの殿様が戦争いくさ討死うちじにをして、それから貞操みさおを立てるに髪を切ろうと云うのを、年が若いからお止しなさいとお附の女中がとめて、再縁をさせようと云うが、御夫人は貞操を立て、生涯尼になってと云うのでげしょう……形装なりも宜し、金側の時計に鎖は小さな珊瑚珠が間に這入ってゝ、それからこうくびへかける、パチンなどはこんな幅の広いので、竜が珠をこうやってる処が着いてるのは妙で」
幸「止しねえ」
由「大変に旦那に惚れて居ますぜ、初め私が話をして、れは東京の方だが、おうちは川口町てえんで」
幸「下らねえことを云うな」
由「なにたゞ川口町と云ったので番地は云いません」
幸「番地など云ってはいかん」
由「どうも本当に品と云い人柄と云い、あんな方はないとお附の女中に云いましたら、本当に左様そうですねと云って、お附の女中が横眼で見たが、これはどうも只ならんと思います」
幸「止しねえ、詰らんことを云って、聞えるぜ……峰公、止しな、覗いては悪い」
峰「覗きやアしません」
 と次の間で火鉢 火を[#「火鉢 火を」はママ]起して居た車夫の峰松は、火鉢へ火を取って湯を沸しながら耳を寄せると、此方こちらは癪も治まったと見えて。
岩「どんなにかびっくりいたしましたろう」
女「私は久しく起らなかったが、今日は強く起って………お湯に動ずると云うが動じたのだろうか」
岩「貴方のようにくよ/\して、斯う云う処へ入らっしゃっても頓とお宅のことをお忘れ遊ばさんからいけません、斯う云う処へ入らしったら悉皆すっかりお宅の事はお忘れ遊ばせ」
女「思うまいと思ってもそうは行くまいじゃないか」
岩「そうでございますが、其の替りには貴方幾日いくか何十日お宅を明けて居らっしゃっても宜しいので、貴方のは気癪きじゃくでございますよ、それをなおさなければならないと旦那様が仰しゃって、私を附けて此処に幾日いっか何十日入らっしゃっても何とも御意遊ばさないじゃアありませんか、それで貴方どんな我儘を仰しゃっても、柳に受けて入らっしゃる、貴方はお仕合しあわせじゃアありませんか、他家よそには疳癪かんしゃくを起して、随分御新造様方を手込てごみになさるおうちさえ有りますじゃアございませんか」
女「それは、御自分様に悪い事があるから、私へも優しく遊ばさなければお義理が悪いだろう」
岩「だけれども男は仕方がありませんよ」
女「それは男の働きで、たま芸妓げいしゃを買うか、お楽みに外妾かこいめをなさるとも、何とも云やアしないけれども、旦那様ばかりは余りと思うのは、現在私の血を分けたいもとじゃアないか」
岩「それだから斯うやって長く居ても、何とも仰しゃらない、今年一杯居てもお小言は出ませんよ」
女「それは早く帰ればお邪魔になるから、たんと居ろと仰しゃるので」
岩「貴方はそうお思召ぼしめすからいけません」

        二十四

岩「貴方木暮武太夫へ菊五郎きくごろうが湯治に来て居ります、家内を連れて来て居ります、松助まつすけも連れてるそうです」
女「私は俳優やくしゃは嫌い」
岩「落語家はなしかも来て居ります」
女「落語家は饒舌おしゃべりで嫌い」
岩「それでは貴方琴をお調べなさいな、どうせ借物かりもので悪うございますが、何か一つおさらい遊ばせ」
女「私は厭だよ……芝居と云えばなんじゃアないか、前橋へ東京の芝居が来て居るって」
岩「左様さようで、たし左團次さだんじが来たそうで」
女「左團次と云えば、お隣の旦那様は左團次に能く似て居らっしゃるねえ」
岩「左様そうでございますよ、好男子いいおとこで人柄で、そうしてお隣のお方ぐらい本当に御親切なお方はございません………そしてアノ若い気の利いた車を引く人、あんな身分に似合わぬ親切な人は有りません、まア一生懸命に汗を掻いて貴方のお癪を押してねえ、それにもう一人のかたはとぼけて居て、あの方は本当に可笑しい方で、なんか仰しゃって居るといつかお洒落になって居て、私は分りませんから御挨拶をすると、洒落に挨拶は驚くと仰しゃってねえ、みんな気が揃って面白いお方で、本当に親切な方ですねえ」
 と噂をすればさす影の障子を明けて這入って来たのは車夫の峰松。
峰「先刻は」
岩「おや今お噂をして居りました」
峰「旦那が大変案じておいでなすって、それからお薬がお入用いりようなら、もっと上げたい、お丸薬の良いのがあるから上げたいと申すので、なんなら持って参りましょうか」
岩「有難うございます、奥様ももう大丈夫で……まアお茶を一つ召上れ、まア此方こちらへ」
峰「有難うございます……これは結構なお菓子で……大変ですねえ、お宅から参るので、此方にはございません、伊香保饅頭はあったかいうちは旨いがひえると往生で、今坂いまさかなんざア食える訳のもんではありません……へえー藤村ので、東京とうけいから来るお菓子で、へえ」
岩「今日のは一つ目の越後屋のお菓子で、一つ召上れ」
峰「有難うございます……此方はお二人切りだからお淋しかろうって旦那が心配して居ります」
岩「誠にい旦那さまで、結構なお薬を頂き有難う存じました、只今お返し申しに上ろうと思って居ました」
峰「なに返さなくっても宜しゅうございます、幾らも持っておいでになるので、カバンを開けると用意に腹痛はらいたの薬だの頭痛の薬だの、是れは何んだとかって幾つもあるのだから、何処が悪いっても大丈夫で、ゆっくり御養生なさい」
岩「あなたの旦那さまは川口町とかで何御商売で」
峰「なに金貸かねかしで、下質したじちを取ってお屋敷へお出入りがあるので」
岩「の方様今度は御新造様はお連れ遊ばさずに」
峰「なに御新造さまはないので、段々聞くとお死亡なくなりになって仕舞ったので、是から探すので、伊香保へ探しに来たと云うわけではないので、これは湯治でげすが、へえ此方こちらの奥様見たいなあゝ云う御様子のい方を女房に持ちたいなどと仰しゃいました」
女「あれまア冥加至極な事を仰しゃる」
峰「茗荷みょうががどうしました」
女「いゝえ貴方そんな御冗談ばっかり」

        二十五

峰「本当でげす、貴方のお癪を押したのは誠に有難いと云っていました」
女「恐れ入った事で、まだ癪を押して下すった御親切のお礼にも上りませんで、本当に貴方方の御親切で助かったと思って居ります」
峰「あの由兵衞という男は助平だからお前さんのこともいろんなことを云って居ましたよ」
岩「御冗談ばっかり」
峰「貴方お癪にはなんでげすねえ四万しまてえ処がありますが、是から九里ばかりありますが、これは子供の虫と癪には覿面てきめんくってえのでみんな行きます、これは三日居ればどんな癪でも癒るてえますから入らっしゃいましな」
女「そう云うお話を聞きました、勧めた方もございますが、初めてゞ知らない処でねえ」
峰「なに車が利くし、道は出来てきにかれます、天狗坂てんぐざかてえのが少し淋しいが、それから先は訳はねえ、私のとこの旦那もくがの」
女「貴方のとこの旦那さまが、そう何日いつ
峰「明日あす明後日あさってくてえます、へえ」
岩「折角お馴染になったに、残らずでくのですか」
峰「へえ私もくので」
岩「心細うございますねえ、本当にねえ、お隣へ厭な者でも来るといけないと思って居たが、飛んだいお方が入らしったと喜んで居たのに、四万へ入らっしゃるって、淋しいねえ」
峰「じゃアあなた方も入らっしゃいな、また四万へ往って隣合って居ますから入らっしゃいましな」
女「でも貴方、男しゅばかりのとこへ女二人一緒に参るのは、また知れでもしますと」
峰「知れたって宜うがす、別れ/\に往っても一方道で、四万へ往ったら又お隣り座敷にれば知れやアしません、そうしてふすまを明ければ一緒になります、へえ一緒にお出でなさい、旦那も是非お連れ申したいといって居ましたからお出でなさい」
女「本当に御一緒に参りたいがねえ、うちから郵便でも来て此家こゝに居ないとまた……」
峰「それは此方こっちへ頼めば宜うございます、四万の關善せきぜんと云うこれはい宿屋で、郵便もじきに来ます、一日遅れぐらいで届きます」
女「参りたい事は参りたいのでございますが」
峰「入らっしゃいまし、入らっしゃいよ、それに貴方明日あしたね向山へくので、私は留守居でげすが、向山へ往って芸妓げいしゃぶので、あなた方なんなら御一緒に入らしって月見を成すっては如何いかゞです、向山の玉兎庵ぎょくとあんてえので、御迷惑でございますか」
女「何ういたしまして、迷惑ではございませんが」
峰「由兵衞さんは大変喜んで居りますよ、坂をお手を曳いて歩くのは大変仕合せだって云って居ますが、手がこわいと云って気を揉んで、種々いろ/\の物を付けて居りました」
女「御冗談ばっかり、そんなら明晩月見にお供をいたしても宜しゅうございますか」
峰「宜しいのなんて、入らっしゃい、それから四万へ入らっしゃいまし、旦那はねえ駕籠と云うが、由兵衞さんはポコ/\歩くかも知れねえ、此方こちらは遅れて渋川まで私の車で往って、渋川で車を一挺雇って貴方が乗って追っかけりゃアじきで、一日でかれます、届けものがあれば当家こちらへ言付けて置けばかてうちで屹度届けます」
女「なんだかお別れ申すのがいやですから、じゃアそう云うことに願います」
峯「左様そんならそうして入らっしゃいまし」
 と妙なとこ幇間おたいこを叩き、此方こっちも心淋しいからく了簡になりまして、是れから玉兎庵という料理屋へ参り、図らずも此の奥様の身の上が分ると云うお話でございます。

        二十六

 橋本幸三郎と岡村由兵衞は、向山の玉兎庵と申します料理屋へ参りましたが、只今では岩崎いわさきさんがお買入れになりまして彼処あすこが御別荘になりましたが、以前まえには伊香保から榛名山はるなさんへ参詣いたしまするに、ふただけへ出ます新道しんみちが開けません時でございますから、一方道で是非彼処を参らなければなりませんが、彼処に福田屋龍藏親分が住居致して居りまして通ります人の休みどこで飴菓子を売って居ましたのがはじめで、伊香保が盛ったに付いて料理屋を始めましたが、連藏れんぞうと云う息子が居て、その息子が一寸ちょっと料理心があって胡麻豆腐と胡瓜揉きゅうりもみという物が当所の名物でございます。一寸鮒かあるいは鯉なぞを活洲いけすにいたしましたから、活きたのが食べられます。現今たゞいまでは伊香保に西洋料理も出来ました。その玉兎庵へ参って、広間の方で橋本幸三郎が一杯やって居りますと、あとから連れて来たのは隣り座敷に居ります処の御新造でございます。年が未だ二十四と云う実に品のい別嬪でござりまする。世間を余り見ない人と見えます。お附の女中はお岩と云って四十二三でございます。是は品のい訳で、出が宜しい。旧幕の折には駿河台胸突坂むねつきざかに居まして、二千五百石頂戴致した小栗上野介おぐりこうずけのすけと云う人の妾の子でござりまする。この小栗と申す人は米国あめりかへ洋行した初めで外国奉行を兼ね御勘定奉行で飛鳥とぶとりを落す程の勢い、其の人の娘で、わたくしどもは深い事は心得ませんが、三倉さんのくらで小栗様は討たれ、又市またいち様と云う若殿様は上州高崎へ引取られ、大音龍太郎おおおとりゅうたろうと云う人のため故なく越度おちどもなきに断罪で、あとで調べて見ると斬らぬでも宜かったそうであります。飛んだ災難でございました。それから散々ちり/″\になって奥方は会津に落ちて、会津から上方へ落ちて、只今駿府におでと聞きましたが、何う成行きましたか。此のおふじと申す婦人は小栗様の娘で、幼年の折久留島くるしま様と云うお旗下へ御養女においでなすったお方で、維新になりましてからお旗下様は御商法を始めて結構なお暮しでございましても、何処か以前のお癖がありますから、どうも御身代のお為に悪いそうでございまして、殿様育ちのお癖かお冗費むだが立ちだすような事がありますから、商法なすっても思うようには儲けもないが、段々開けて来まして、な殿様方も商法は上手におなり遊ばしました。出が良いから品と云い応対と云い蓮葉はすっぱとこは少しもありません、落着いて居て、盃を一つ受けるにも整然ちゃんと正しいので、
幸「そう貴方お堅くなすってはいけません、どうか私どもはぞんざい者で、お屋敷様へお出入りをいたした者でも、町人の癖でおんもりとした事は云えないので……こんな饒舌おしゃべりも付いて居りますが、此の通りずぼらなことは云うが堅いことは云えませんから、お打解けなすって召上りまし」
由「今日こんにちは私は奥様の前は堅くやろうと思ったが、堅くやると云いそこない、漢語なぞを使おうとすると、時々変なことを云いますから、矢張やっぱり天保時代昔者でげすから、昔の言葉でなければいけません、殿様方もおいくさに往って入らっしって命がけを度々たび/\なさったお方が、段々商人あきんどにおなり遊ばして、世の中の人と同等の御交際をされますが、昔を知って居りますからとうとく思いまして」
 などゝ話のうちに追々肴が真中まんなかへおし並びますので、
幸「由兵衞一猪口いっちょこ…」
由「有難う……、胡麻豆腐は冷えませんうち召上ると云うことは出来ません、先から冷たいからこれもあったかゝったら旨かろうと思います……瓜揉は感心で、少し甘ったるいのは酢が少し足らない……今日きょう小峰こみねさんと云う芸妓げいしゃが参りますが、是も昔は長刀なぎなたの、ぞうりをはいてと伊左衞門いざえもんではありませんが大層なお身の上の人で」
 と話のうち小峰が参りましたから、
由「ヤア来た/\……あゝ来た、どうも綺麗だ」

        二十七

幸「さア/\此方こっちへ、貴方大きくおなんなすって」
由「御覧なさい、お小さいうちに逢ったぎりで、昔馴染と云うものはねえ旦那」
幸「お上りなすって、さア……どうもお美くしくお成りなすった」
由「上等/\……さア/\大変先刻さっきからお待ち申して居りました」
やま「誠に遅うなりまして……御免下さい、貴方ねえ昼間のうちから上りたいと申してはそわ/\して居りまして、早く行ってお目に懸りたいと申して、すぐに木暮さんへ行こうと申して居りましたが、大屋さまへ行っても運動にでもおで留守だといけまいから、それより暮れてからのお約束だからと申してね貴方」
由「へえ大変に待って居たので……イヤこれはどうも誠に」
小峯「昨日きのうは母が誠に失礼を致しまして」
幸「どうも暫く、実にお見違い申して、往来で逢っては知れませんよ」
由「実にお見外みそれ申します……えゝ貴方のおちいさい時分に私はお屋敷へ上ったことがございます、あの時はそれ両方のお手に大きな金平糖と小さい金平糖、赤いのが這入った袋を二つ持って入らしって、私が頂戴と云うと貴方一つ下すった、お気象がよくって入らしって、もう一つと云うと、また袋の中から、もう一つ/\とみんな貰って仕舞って、しまいにはもう一つもないから、袋を覗いてお泣きなすったことがありましたが、の時分からお馴染でげすから」
小峯「有難うございます、おっかさんが帰って来てまア、由兵衞さんがおでなすったから早くお目にかゝれと申して……また昨日は有難うございます」
幸「どう致して」
やま「あんなにお茶代を頂き済まないと申して、お茶代なぞ頂く了簡ではないと申して」
由「貴方そう思召しますからいけないのです、茶見世を出したら茶代は沢山たんと取る方が宜しゅうございます、料理屋なら料理を無闇に売るのが徳で、由兵衞なぞは莨入たばこいれなら少々ぐらい破れて居ても売って仕舞います、それが商売で………これはお隣りの座敷においでの方で」
やま「おや何方様どなたさまも……」
女「誠に……おや思いがけない、お前やまじゃアないか」
やま「おやお嬢様……お岩さまがお供でございますか」
由「おや、これは/\御存じで」
やま「御存じだっておちいさい時分お乳を上げたのでございますもの」
幸「不思議でげすねえ、これはどうも、へえー」
やま「誠に御無沙汰申上げましたが、もう実にお見違い申すようにおなり遊ばして、只今ではお尋ね申すことも出来ませんで……左様で、小石川へ入らしったと承わりました……お岩様誠に貴方いつもお変りもなく」
岩「誠に久しくお目にかゝりませんで、つい/\ねえ貴方種々いろ/\な事があって、申すにも申されぬことがございまして、小石川へお引込ひっこみになって、何もも御存じでありましょうが、此の節のお身の上、実においとしい事でございますが、お少さい時分御案内の通りの事が決りませんで、わたくしが只一人でじゃ/\張ってお側にお附き申して居りますから、お心丈夫に入らっしゃいと申して、種々深い理由わけがあって今度は当地へ湯治が宜かろうと仰しゃるので、三週間のお暇を頂き、私もお蔭様で保養いたしますが、実にどうもねえ、貴方にお目に懸ろうとは思いませんでした」
やま「お嬉しゅうございますわ、わたくしも此の橋本にお目に懸ったのですが、昔のことを仰しゃると面目次第もない、どうもねえ……これ芸妓げいしゃをして、娘は貴方それ七歳なゝつの時に御覧なすった峰と申す娘で、誠にこれが芸妓をして私は誠にもう面目ない葭簀張よしずっぱりの茶見世を出して、お茶を売るまでに零落おちぶれました、それから見ればお岩様なぞは此方様こなたさまのお側だから何も御不足はないので、まア/\結構でございます」
岩「はい実に苦労しても貴方お屋敷と違ってね、それに殿様があゝ云う訳にお成りなすったから、何うすることも出来ませんで、思いがけないまた外に苦労がございまして」
由「これは妙でげす貴方、此方こなたは」
やま「はい此方さまは駿河台のソレ胸突坂に入らっしゃった殿様のお二方目ふたかためのお嬢さまでございます」

        二十八

幸「どうも思い掛けない、不思議な御縁付で」
やま「御縁付はまだお極りにはなりませんので」
岩「へ、まだ御婚礼は済まないので、誠に生涯お一人で暮したいなぞと心細い事を仰しゃるから、わたくしがお附き申しては居りますが、そんならって御姉妹ごきょうだいでありますので、うちの方の極りが着けば何うでも斯うでも此方様こなたさまはおあねえさまの事ですから、極りが着こうと思って、只今はお一方ひとかたで入らっしゃるので」
由「不思議でげすねえ……だからわたくしが申したので、御様子が違うてえので……お屋敷はやはり駿河台の胸突坂で、旧幕時代二千五百石もお取り遊ばしたのでげす……違いますなア……え、お癪の起し振もどうも違います、二千五百石だけのお癪をお起しなさる……これはどうも」
やま「何しろお嬢様にお目に懸りますのは尽きせぬ御縁と申すもので」
由「ごまをするというので瓜揉を一つ頂戴」
 と由兵衞がしきりに喋って居ると、向うの四畳半の離れに二人連の客、一人は土岐とき様の藩中でございまして岡山五長太おかやまごちょうだと云う士族さん、酒の上の悪い人、此の人は三十七八になりいまだ道楽も止まぬと見える。今一人は三十六七で小粋な人でございますなれども、田舎の通り者、桑原治兵衞じへえと云う渋川の糸商人いとあきんどでございますが、折々此の地へ参って遊んでばかり居ります。頻りにポン/\手を敲きますが、余り返辞を致しません。人が出て来ませんのは、沢山奉公人も居りませんから出ないと、癇癪を起して国会の演説が始まった様にピシャ/\手を敲きます。
岡山「たれも来ねえのか、これ/\」
男「へえ/\」
 と黄色い声で、
男「此方こちら様で」
 とチョコ/\と来た者は妙な男で、もと東京の向両国むこうりょうごく※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)しゃもや重吉じゅうきちと云う、体躯なりの小さい人でございます。身の丈は二尺五寸しかないが、首は大人程ありまして、小さいたっての位小さい人はありますまい。なりに応じて手足の節々も短かい。まるで子供のようであります。反物を一反買いますと、自分の着物に、半纒はんてんに、女房の前掛に、子供のちゃん/\が取れるというのでございます、三布蒲団みのぶとんを横に着て足の方へあんかを入れて、まだ二寸ばかりたれているというから、余程小さい男であります。割合にふとって居て頭が大きいから、駈けるとよろけて転覆ひっくりかえる事がありますが、一寸ちょっと見ると写しの口上云い見たいで、なんだか化物屋敷へ出る一ツ目小僧の茶給仕のようでありますが、妙に気が利いて居て、なか/\発明な人であります。
重「へえ、お呼びなすったのは此方こちらでげすか」
 というを見ると二人は驚きました。
岡山「なんだ化物か、アヽ何んだ」
重「お呼びなすったからめえりました」
岡山「何んだ、エ何んだ」
重「エヘ、お手が鳴りましたからめえりました」
岡山「お手が鳴ったって、何んだ、ウン……亭主は居らんか、総体当家ではなんだ僕たちを愚弄してるな、なんだきもを潰す薄暗い処へピョコと出て驚く、真人間をよこせ、五体不具かたわなる者を挨拶に出すべきものでない、退さがって普通なみの人間を出せ、なんだ」
重「へえ五体不具ふぐかたわと仰しゃるは甚だ失敬で、何処が不具かたわで、足も二本手も二本眼も二つあります」
岡山「それで一つ眼ならまるで化物だ、こんな山の中で猟人かりゅうどが居るから追掛けるぞ、そんな姿なりでピョコ/\やって来るな、亭主を呼べ」
重「亭主は前橋へ往って居りませんからわたくしが代りに出たので」
岡山「じゃア家内が居るだろう、家内を呼べ……これ先刻さっき小峯に口をかけた処が、小峯は病気で出られぬと其の方が申した、其の小峯がどう云う理由わけで向うの座敷へ参ってるか、さアそれを聞こう」
重「えい、病気で居たのでございますが、旧来ながらくのお馴染で、お客様へ一寸ちょっと御挨拶と云うのでめえったので」
岡山「なに馴染だと、これ僕等は馴染でないから大病であるか、立聞はせんが誠に静かであれば、馴染の客であればたちまち大病が全快すると申すか、口をかけても偽病にせやまいを起して参らぬのは何う云う理由わけか、さアそれを聞こうと云うのだ、来なければ来ないでよい、早く申せば旨くもねえものをこんなに数々とりはせぬぞ、長居をして時間ときついやし、食いたくもない物を取り、むだな飲食のみくいをしたゆえ代は払わんぞ」

        二十九

重「誠にどうも仕様がございません、向うは馴染で御挨拶だけで」
岡山「挨拶だけという事があるか……」
桑原「まア/\君、待ちたまえ、僕も度々たび/\来ては厄介になるけれども、能く考えて見ろ、此の旦那様を此処へ連れて来て、芸妓げいしゃを呼ばっても来ず、その小峯が向うへ来て此処へ来ねえで見れば、己が呼ぶたんびに祝儀でも遣らぬようで、朋友に対しても外聞の至り赤面の至りじゃアねえか、ねえばねえでいが、どうも此方こゝへは病気でめえられませんと云うて向うに居るのは奇怪きっかいじゃアねえか、どう云う次第であるか、胸を聞こう、向うへ挨拶なら此方こゝへも挨拶だけ来て貰わねえばなんねえ」
重「あれはおっかさんが堅いから出しません」
岡山「愚弄いたすな、なければんでい、此の方の酒食いたした代価は払わぬから左様心得ろ」
重「それは困ります」
岡山「困るたって、何故べん/\と待たした、来るか/\と思って要らんものまで取った」
重「貴方が召上ったので」
岡山「それは出たからちっとは食う、食ったけれども代は払わぬ……」
桑原「いや、それは代は払ってもいが、能く積っても見なんし、どう考えてもいやに釣られて、小峯が来るか/\と思って、長い間時間を費し、それ/″\要用ようようのある身の上、どう云う理由わけか我々どもを人力車夫くるまや同様に取扱われては迷惑だから、親方を此方こちらへ呼ばって貰おう、どれほど此の家に借りでもあるか、芸妓げいしゃに祝儀でも遣らぬ事があるか、どう云う次第か、さアそれを聞こう、呼ばって来い」
重「前橋へ往って居ないと申しますのに」
岡山「前橋へ往った……帰るまで待とう」
重「何時いつ帰るかどうも知れません」
岡山「帰るまで泊ってる」
 と云いながら突然いきなり重吉の頭をポカン。
重「おや何でつのです」
岡山「ったがどうした、大きな頭を敲き込んで遣ろうと思って打った」
重「無暗むやみに打って失敬ではございませんか」
岡山「何がどうした、コレなんだ、化物見たいなものをよこしやアがって」
 と云いながら其処にありましたヌタの皿をってほうりましたから、皿小鉢は粉々になりましたが、他に若いしゅが居ないから中へ這入る人もない。するとあがはなに腰を掛けて居たのは、吾妻郡あがつまごおり市城村いちしろむらと云う処の、これは筏乗いかだのり市四郎いちしろうと云う誠に田舎者で骨太な人でございますが、弱い者は何処までも助けようと云う天稟うまれつきの気象で、さんくらうまれで、今は市城村に世帯しょたいを持って筏乗をして母を養う実銘じつめいな人。此の人は力がある尤も筏乗は力がなければ材木を取扱いますから出来ません。市四郎は侠客おとこだての気質でございます故見兼ねて中へ飛込み、
市「貴方あなた待ってくんなせえ、困った人だ皿をほうっちゃア困りますよ、よええ者いじめして貴方あんた困るじゃアねえか、大概ていげえにしてくんなせえ、此家こゝ連藏れんぞうさんは居ねえが、内儀かみさんは料理して居る、奉公人は少ねえに皿小鉢を打投ぶっぽうってこわれます、三百や四百で買える物じゃアねえ、大概てえげえにするがい」
岡山「手前てめえ何んだ」
市「おらア此処へ用が有って来合せていたのだ」
岡山「手前てめえ仲へ這入るなら僕らの顔を立てるのが仲裁の当前あたりまえだ」
市「お前方の顔を立てゝ上げてえが立てようががんしなえ、相手が悪いならば、あんた方の顔も立てゝ上げやしょうが、よええ者いじめをするにも程がある、此様こんなかたはナニ子供のような重さんの頭をぶちなぐる事はハアねえだ」
岡山「そんな不具者かたわもんの顔を立てんでもい、拙者どもは芸妓げいしゃ小峯を呼びに遣わしたる処、病気と欺き参らんのみか、向うへ来て居るのは甚だ奇怪きっかいに心得るから申すのだ」
市「それが奇怪だって、そりゃ無理だ、芸妓だっても厭なとこへはなえ、貴方あんたの方は厭だから来なえのだろう」
岡山「コレ甚だ失敬な事申すな」
市「失敬たって、芸妓だって、酒飲さけのみで小理窟をいう客はたれでもきれえだ、向うはやさしい客でい座敷だ、向うへくのは当りめえの話で貴方あんた御扶持を出して抱えて置くじゃアなえし、仕様ねえから早く帰っておくんなさえ……なにする、おれ胸倉ってどうする」
 と市四郎の胸倉を捉った岡山の手を握ると市四郎は大力だいりきでありますから。
市「何をする」
 とさかに取って岡山の胸をポーンと突くとコロ/\/\/\ッとのどうも深い谷川へ逆蜻蛉さかとんぼをうって五長太が落ちますと、桑原治平はこれを見て驚き駈下りたが、けわしい坂でありますから踏み外してこれもころがり落ちました。

        三十

 岡山五長太と桑原治平の二人がゴロ/\落る騒ぎに、一人奥に働いて居た人が何時のまにか伊香保の派出所へ訴えたから、巡査さんが官棒をたずさえ靴を穿いて、の高いとこをお役とは云いながら駈上ってお出でになり、
巡査「これ、どうか、え、お前じゃアなえか、此の谷川へ二人とも打落うちおとしたは何故か」
市「はい、わし打落ぶちおとしたって、私を打殴ぶちなぐるから私も先の相手を打落しやした」
巡「コラ、仮令たとい其の方をぶち打擲ちょうちゃくを致したにもせよ人を打擲するのみならず、此の谷川へ投落すと云う理由わけはあるまい、乱暴な事をして、えゝこれ、派出へ来なさい」
市「わしそんなとけえくのは厭だねえ」
巡「これ、厭と云うて済もうか、すぐにさア来なさい」
市「わしは派出などへ何のとががあって私めえるのだね」
巡「コラ分らぬ奴じゃ、これへ二人の者を打込うちこんだではないか」
市「打込ぶちこんだと云って、先でおらって掛るから己だって黙ってはられねえから、手エひんねじって突いたら、向うの野郎逆蜻蛉をっておっこちたので、わし打落ぶちおとしたのではねえ」
巡「じゃアから分らぬ事を云わんで派出へ参れ」
市「派出てえ何処どけえ」
巡「屯所とんしょへ参れ」
市「屯所たってお屯様たむろさまへ呼ばれるわし罪はなえ」
[#「巡」は底本では「市」]「分らん奴であるぞ、罪と云うは今の事じゃ、二人を打落ぶちおとしたのが罪じゃ」
市「おらを先へつ奴の方が罪があると思いやんすが、どうだえ」
巡「分らん事を申すな、お前は布告を知らんなア」
市「へい知りません、わしの方へ布告が廻った事もありやんすが、読めねえだ、手習てなれえした事がねえから何だか分らねえから印形いて段々廻すだ、時々聞きに来いなんど云うが、郡役所だって一里半もあるので、其処まで参るには商業しょうべえを休まなければなんねえだから、聞きにく訳にはめえりませんよ」
巡「どうもはや分らぬ奴……参れ」
市「めえれませんよ」
巡「なぜ参らぬか」
市「なぜめえらぬだって、貴方あんたわしが悪くアねえのだに、先にちやした奴を先へ連れてくがいゝのだ、私ばかり悪いからって連れて行くてえなア無理な話で」
巡「どう云う理由わけで此の谷へ打込ぶちこんだか、それを申せ」
市「はい打込んだってえ、わしを打ったゞからよ」
巡「じゃが理由わけなく貴様を打つという事もあるまい、貴様に悪い事があるから向うでも打擲したのだろうから隠さず云え」
市「隠すも何もねえ、此処なうちへ来て芸妓げいしゃねえって皿小鉢をほうって暴れるので、仕方がねえから、わし用があって此家こけえ来て居りやんしたが、見兼て仲へ這入った処が、わし胸倉アるから、仲人ちゅうにんだと云うのに聞入れず私を打ちに掛ったから、まご/\すると打たれるから引外ひっぱずしたらよろけたので」
巡「また左様そう云う悪い者があったら手込てごみに谷川へ打込む事はならぬ、すぐ派出もるものじゃから訴えなければならんに、手込てごめにする事はない、なぜ届けいでんのじゃ」
市「だって此の谷を下りて、貴方あんたの方へ訴えて此処こけえ来る時分には逃げてしまうから、打たれ損にならねえ先に、貴方だって間に合いませんから、わしは貴方の代りに打殴ぶちなぐって、谷へ投り込んだので、早く云えば貴方の代りにしたので、大きに御苦労ぐれえ仰しゃっても宜かろうと思いやんす」
巡「えゝ、僕を愚弄致すか」
市「愚弄てえ何か」
巡「えゝ分らぬチュウものじゃ、まア参れよ」
市「まいりませんよ」
巡「参らぬと云う事があるものか」
 と分らぬ奴もあるもので、田舎育ちでも今は開けましたが、其の頃は無学文盲の無法者がありまして、強情を張ってお困りでございますが、これを丹誠して引張ひっぱってく、実に御難儀なお役で。
巡「参れ/\」
 と手をって引こうとしたが大力無双の市四郎が少しも動かず、引く途端に官棒でお打ちなすったのではありませんが、グッと引くはずみに市四郎の手先へ棒が当ると、市四郎がおこって、
市「やわしったな、貴方あんたなんで打った、無暗むやみに打って済むか、お役人が人民ひと打殴ぶんなぐって済むか、貴方では分らねえから、もっと鼻の下に髯の沢山たんと生えた方にお目にかゝり、掛合いいたしやす、さア一緒にきましょう」
 と反対あべこべに巡査さんの手を捉って向山の坂を下りましたが、世の中には理不尽な奴もあれば有るもので、是からお調べに相成ります。

        三十一

 さて引続きまする伊香保の湯煙のお話でございます。向山の玉兎庵で五長太という士族を谷へ投込みました者は、大力無双の筏乗市四郎という者でありますが、此の人は誠に天稟うまれつき侠客きょうかくの志がございまして、弱い者を助け、強い者は飽くまでも向うを張りまするので、村方で困る百姓があれば、自分も困る身上みじょうでございますが、惜し気もなく恵むというごく義堅い気質でございまして、三の倉に居りますうちは御領主の小栗上野介様が討たれました時其の村方を御支配なさるお方が彼様あんなお死にようをなすって誠にお気の毒の事というので、其の人に附いて居りました忠義の御家来、老人であるからというので自分方へ引取って三ヶ年介抱を致して、此の人が此の市四郎のお蔭で見送りをされますなどという細かきお話はあとで申上げますが、中々聞かない気質で、其の代り此の市四郎は学問がございませぬから開化の事は頓と心得ませぬが、巡査さんでも何でも見境なく無暗むやみに強情を張って巡査様の手を取って向山の坂を降り、また登って派出所に参りました。巡査様もお驚きで、左様なる暴な奴に逢っては仕方がないもので、此の事を警部さんへお伝えなされた事でございますから、警部公お出向きなされたが、恐れる気色けしきもなく仁王立に突立って居ります。
警「これ、手前か向山の玉兎庵で口論の末士族ていの者を谷川へ打込ぶちこんじゃというが、それは何うも宜しくない、どういう訳でそういう乱暴な事を致すか」
市「先刻さっきわしが云います通り、乱暴でねえで、何方どっちが乱暴だかねえ、貴方あんたの方で能く調べねえで無闇にう/\と云って此処まで連れて来て、私もコレ用のある人間で、一日幾許いくらって手間を取って居る者が、暇アつぶして此処まで引張られるは難儀だから、めえらねえというものを何んでもという、私ア暇を消してめえったが、私がわりいか向うな士族とかいうが悪いか見定めて人を引張ったら宜かろう」
警「そうじゃが、其の方は谷川へその士族体の者を打込んだという、巡査がしかと是を見届け、又福田連藏方からも届けがあった故に出張したとこが、全く其の方が投込んだという、其の方住所姓名は何と申すか、えゝ其の方の住所姓名を申せ」
市「何もわしア……住持に悪体あくてえ清兵衞せいべえいたという訳でねえが、ありゃア三の倉の間違えでしょう」
警「いや其の方の住んでる所は何と申す」
市「わしとこか、私の居る処は吾妻郡の市城村で」
警「其の方は姓名は何と申すか」
市「姓名てえ何か」
警「其の方の名」
市「おらア名か、己ア市四郎と云います」
警「営業は何か」
市「えゝ」
警「営業」
市「なに」
警「分らん奴じゃ、ウーン営業を知らんてえ事があるか」
市「知りません、其様そんな事どうして、只の字せえ知らねえで習わねえに英語なぞに知る訳がねえ、それは外国人げえこくじんのいうことだ」
警「英語ではない、営業というは其の方の渡世なりわい商売じゃ」
市「商売しょうべえか商売は市四郎てえ筏乗でがんす」
警「何故なにゆえあって向山へ今日こんにち参ったか」
市「何をたって連藏さんとは心安いもんで、きのこちっとばかり採ったから商売の種に遣りてえと思って持って来て、縁側で一服って居ると、向うの離座敷で暴れ廻る客があるだ、若い衆をなぐっていけえこともねえ皿を打壊ぶちこわしたりして見兼ねたから、仲へ這入へえって何故なぜ此様こんな事をすると段々尋ねたとこが、仲人ちゅうにんわしがに悪口あっこういてって掛るから、打たれては間に合いませぬから胸をくと逆蜻蛉を打って顛覆ひっくりけえったゞ、ねえまア向うがよええからだ」
警「何故なぜ其の様な暴な事をするか」
市「するッたって向うでつからおらア方でも打ったゞ、黙って見てはられねえから打ちやした」

        三十二

警「仮令たとえそういう者があるにもせよ、何故左様な暴な事を士族体の者が致したら、此の方へ届けん、自身手込てごみに打擲するという事はない、人をつてえ事はない、殴打創傷そうしょうの罪と申して刑法第二百九十九条に照して其の方処分を受けんければならんじゃないか」
市「えゝ、あれはナニ二百五十銭ばかりの銭で腹ア立てゝ、あれは根が太田宗長おおたそうちょうという医者が悪いので、薬礼しろというが、銭ねえならお前二百五十銭に負けて遣ってくれというが、負けられねえっていうから喧嘩になったゞ」
警「ナニ……そんな事を尋ねるのじゃアない、ウーン誠に困るナ……其の方は人の身体を無闇に打つものではない、人の身体は大切のものじゃ、分らんか、この肉体というものは容易なものではない造物主より賜わる処の此の肉体は大切なものじゃ」
市「誰が呉れやした、虚言うそばかりいて、此の体は木彫きぼりじゃアねえし仏師屋ぶっしやが造ったなんてえ」
警「仏師屋じゃアない造物主、早く言えば神から下すった身体、無闇とち打擲して、殊に谷川へ投込むなどとは以てのほかであるぞ」
市「じゃア先方むこうの体ばっかり神様から貰って、おらア体は粗末ぞんぜえにしても構わねえと云わっしゃるのか」
警「粗末そまつにするという事があるか、先方せんぽうの身体も貴様の身体も同じじゃ、それじゃに依って喧嘩口論して、粗暴に人を打擲する事はならん」
市「何だか貴方あんたの云うことは明瞭はっきり分らねえ、だがねえおらア身体は大事、先方むこうな身体も大事と一つにいうなら、何故己ア身体を先方な奴がったか、打たれては腹が立つ、先方で打って此方こっちで手出しが出来ねえといって、此方の坂を下りて亦登って貴方へ打ちやしたと届けて出て、それから又坂ア下って又登って向山までにゃア向うの奴は逃げて仕舞うからぶたれ損で、此の体にきず出来でかしたら貴方其の創を癒す事は出来ねえだろうが、先方でちやアがったから己が打返ぶちけえしたので、わばあんたの代りだ」
警「代りという事があるか、全く先方せんぽうから先に手出しをした証拠があるか」
市「ナニ……」
警「先方から先に手出しをしたしょうがあるか」
市「えゝ、すりア有りやんす、此処に居る重吉という者、主人あるじが居りやせんからソノ番頭役を致しやす、此の人が証拠だ、のう出來助でくすけどん」
警「出來助……其の方か」
重「へえ、それはヘエ私が申します、乱暴をして、毎日/\お酒をべて無闇に皿小鉢をなげうってったりして、殊に私の頭を二つ打ったので、へえ、見兼ねて此の親方が仲へ這入って下すったので、二言三言云いやってねえ…親方に打って掛ったねえ、証拠は親方の頭に少々ソノ創がございます、へえ」
市「ねえ此の人が証拠で、神様から貰ったわしが身体をったから打返ぶちかえしただ、ねえ、だから貴方あんたちったア手助かりをしたゞ」
警「なに手助かりと云うがあるか……先方で先に打ったとあれば……まアよいわ……不論罪ふろんざいじゃ、それでは宜しい、宜しいに依って向後は左様な粗暴な事をしてはならんぞ、もう其の方も三十を越えて血気な若い者とも違うから、以後は喧嘩口論をして人を打擲することは相成らぬ、能くわきまえろ」
市「それから」
警「それからということはない、いからもう参れ」
市「へえ、そうか、もう宜いのか、あんたも骨が折れるねえ、あんたも早く云えば仲人ちゅうにんだ、おらアも仲人にべえ頼まれて、能く村で仲人に這入へえって人の事をさばくだが、中々骨え折れる役だねえ、あんた方もなア」
警「早くけ」
 と巡査様もお困りで、分らん者でございますけれども、別に悪い事をしないのに、近村で問いましても正当しょうとう潔白という事、是は巡査様も御存じだから先ずかろく済みましたが、向山に居りました橋本幸三郎、岡村由兵衞は混雑ごたすたが出来て面白くもない、殊に女連というので一とまず木暮八郎方へ帰りまして、翌日になりますと、朝飯を食べるとあつらえて置いたから山駕籠が一挺来ましたから、是へ幸三郎が乗り、衣類の這入った大きな鞄が駕籠の上に付き、手提てさげが前に付きまして、其の葡萄酒のびんが這入り、又東京から持って参った風月堂ふうげつどうの菓子なども這入り、すっぱり支度をして四万の温泉場へ参る事になりました。岡村由兵衞は昔風でございますから、一寸ちょっと致したくすんだ縞の浴衣に、小紋のこっくりと致した山無やまなしの脚絆に紺足袋、麻裏草履に蝙蝠傘をさして鞄を提げて駕籠の側につきまして、これから出まして、あとの事は車夫くるまひきの峰松に残らず頼みましたから、
峯「万事心得ました、遅くも参ります、由兵衞さん旦那を何分宜しゅうお願い申します」
由「よろしい、頼む」
 と是から出ましたが、ぜん申上げて置きました隣座敷のお藤という別嬪は、お附の女中岩と峰松が供をして、一緒に出るも極りが悪いから、あとから出る約束に成って居ります。

        三十三

 橋本幸三郎、岡村由兵衞の両人は伊香保をりまして、御案内の湯中子村ゆなかごむらへ出ます。れから岡崎新田おかざきしんでん町田ちょうだの峠を越し、五町田の宿しゅくを出まして右へ付いて這入って、是から川を渡りますが、吾妻川には大きな橋が架って居る、これは橋銭はしぜにを取ります、これを渡るとあとはもう楽な道で、吾妻川べりに付いて村上山むらかみやまを横に見て、市城村青山村あおやまむらに出まして、伊勢町いせまちよりなかじょうというとこに掛った時はもう二時少々廻った頃、木村屋きむらやと申す中食ちゅうじき場所がございます。表にはむまを五六匹つなぎ、人足が来てガア/\と云って居るとこへ駕籠をズッと着けました。
女中「入らっしゃいませ」
由「大きに若衆わかいしゅ御苦労、今あとで飯を食わせるが、何しろ休みねえ……おい/\女中さん、おい女中彼処あすこの畳の上に何だ……黒豆が干してあるようだが、彼処を片付けておくれよ」
女「豆じゃアござえません、あれは蠅がたかって居りやすので」
由「蠅か……わしは黒豆かと思った、大層てえそう居るねえ真黒まっくろで……旦那御覧なさい、此の蠅はどうもひどいじゃアございませんか、ハッ/\ハッとたちますとまた直ぐに来ます、大変ていへんだ」
幸「大変ていへんだねえ、蠅の中へ大きなものが飛込んで来るが、なんだいねえさん」
女「あれはあぶでねえ」
幸「虻……大層てえそう居るぜ、さゝれると血が出ますからねえ……女中さん何かあるかえ」
女「左様そうでがんす、何もえでがんすけれども、玉子焼に鰌汁どじょうじるに、それに蒸松魚なまり餡掛あんかけが出来やす」
由「えゝ鰌や蒸松魚のプーンと来るのア困ります、矢張無事に玉子焼が宜うがす……鰌のお汁それは宜かろう、鰌のお汁に玉子焼で……貴方召上らぬが一猪口いっちょこ酒をつけて持って来て……アハヽ一猪口が分らねえな可笑しい……尤も千万だ……何しろね若衆わかいしが来て居るからおまんまべさせて、お酒を飲ましておくれ、若衆は是から山道へ掛るから、酔うとまたいけねえから気を付けて」
女「ヒエーかしこまりました」
由「閑静でげすねえ……あんたが駕籠で、わしが歩くのでお話もできませんが、あの村上山の景色はありませんねえ、どうも山がつながって居て、あの間にチョイ/\松が、どうも大きな盆裁でげす、あれから吾妻川の真中まんなかとこへずうと一体に平坦たいらな岩が突出つきだして居て[#「居て」は底本では「居で」]彼処あすこの上へずっとフランケットを敷いて、月の時に一猪口やったら宜うがしょう、なんぼ地税が出ねえたって、一杯にの大岩が押出している様子はい景色でどうも……だけれども五町田の橋銭はしぜにの七厘はふただけより高いじゃアありませんか」
幸「だけれども、あのくらいの橋を架けるのだから、どの位の入費だか知れねえ、だが景色は段々離れる方が由さん、好いたって、実にどうもないねえ、有難い…女中さん早くしておくれよ……えゝ、これから四里八町というから」
由「わしむまをいたゞきたいが、馬にのっかってつかまってヒョコ/\くなア好い心持で、馬をねえ……女中さん」
女「ヒエ」
由「馬を一匹、四万までくのだから帰り馬の安いのがあったら頼んでおくれ」
女「毎日めえにちなんかえりも行ったり来たりして居りやすから、もうが極ってるでがす、六十五せねでがんす」
由「六十五せんは高いねえ」
女「たけえたって極って居るのでがんすから、その代り楽でねえ、坂へ廻ってはハア道がハアえらいでねえ、急の坂ががんすから、此処から折田おりたへ出る道が極って居て楽でがんす」
由「じゃアねえさん、馬はれねえのを頼んでおくれ、いゝかえ馬に附ける物があるから、間違まちげえちゃアいけねえよ……何しろ虻が大変てえへんで……あゝ玉子焼が出来た、おゝ真白まっしろだ」
幸「白身ばかりは感心だ」
由「じアってみましょう………これは恐入ったね、中々柔かで仕末にいけません、姉さん、此の玉子焼は真白だねえ」
女「ヒエ」
由「玉子は沢山入れねえで豆腐が九分で……これは恐れ入ったねえ、豆腐入の玉子焼は恐れ入った、道理で真白だと思った、豆腐焼、これはないねえ、面白い、これは乙でげす、何うも閑静過ぎますねえ」

        三十四

由「いゝや鰌汁の中に人参が這入って[#「這入って」は底本では「這人って」]居る、これは感心でげす、牛蒡ごぼうで無い処が感心で、斯ういう処が閑静……旦那何しろ旨い、貴方あんた駕籠の上の葡萄酒をおろしましょうか、まア此方こっちって御覧なさい、話の種で丹誠なもので、此の徳利の太さ、私が握るに骨が折れるが女中は苦もなくつかむ、感心で、どうもこれは不思議で、表にうまが一杯というのは面白い、それで中はお客がたった二人、閑静なことじゃアございませんかね……女中さん、これは驚くねえ人参が牛蒡に成りますくらい蠅がたかります、玉子焼へたかると豆腐入が今度は胡摩入り豆腐に成ります、何うも宜うがす」
 その内に、
幸「女中さんお膳をさげて勘定しておくれよ」
由「女中さん勘定、いゝかえ……旦那あんたは駕籠で私が馬で、ぶら/\お出かけは何うです、先刻あとの伊勢町というとこに二三軒女郎屋じょうろやがあって、いやな島田に結って、びんのほつれ毛を掻いて、色の白いような青いような、眼の大きな、一寸ちょっと見ると若いようだが年を取って居りますぜ、三十二三には見えたが……女中さん伊勢町には女郎屋が何軒あるえ」
女「えゝ御座ごぜえやす、もと達磨でがんす」
由「あれは二軒切りかえ」
女「へえ只一軒で、女郎じょろうが一人居りやんす」
由「閑静なものだね……やア勘定かんじょ幾許いくらになるえ」
女「ヒエ、九十せね若衆わかいしゅが十二せねで、金一円二せねになりやす」
由「申し旦那銭々せね/\というのはどうも面白い……六十五せねの馬はこれかえ」
馬「はいはい」
由「コウ馬士まごさんどうだい、馬はれはせんかえ」
馬「えゝちもしねえがいもしねえ」
由「起ったり噛われたりしてたまるものか、大丈夫かえ」
馬「大丈夫だえじょうぶで、なに牝馬めんまで、大概たえげえ往復いきかえりして居るから大丈夫で、ヘエ」
由「いゝかえ」
馬「さア其処そけえ足イ踏掛ふんがけちゃア馬の口が打裂ぶっさけて仕舞う、踏台ふみでえ持って来てあげよう……尻をおッぺすぞ」
由「おッぺしちゃアあぶねえ、いごくよ」
馬「いのきやすよきて居るから……さア貴方あんたしっかりと、荷鞍にぐらへそうつかまると馬ア窮屈だから動きやすよ」
由「若衆いゝかえ大丈夫かえ、気を付けて」
馬「大丈夫だえじょうぶで、此の道は馴れて居りやんすからね、もうハア一日には何返なんかえりもくだからねえ、此の頃は馬アまなこを煩らって居るから、はっきり道が分らねえからしずかにあるきやんす」
由「冗談じゃアねえ、盲目馬めくらうまでは困るねえ」
馬「盲目でも歩くよ、此の道は一筋道だから心配はがんしねえで」
由「驚いたねえ、盲目馬の杖なし、大丈夫かねえ」
馬「大丈夫だえじょうぶだが、只牛が来ると困るねえ」
由「おいおい牛が何処どっから来るえ」
馬「なアに牛がねえ、米エ積んだり麁朶そだア積んだりして大概たえげえ信州から草津沢渡さわたりあたりを引廻して、四万の方へいて行くだが、その牛がけえって来る、牛を見ると馬てえものは馬鹿に怖がるで、崖へ駈込んだりしやす、たまげて此の間もお客さんを乗せたなりで前谷まえだにへ駈込みやアがった」
由「冗談云って、人間を乗せたなりで谷川へ駈込まれてたまるものか」
馬「なに貴方あんた、滅多にはねえ大丈夫だえじょうぶだが、先月谷川へ客一人打込ぶちこんだが、あの客は何うしたか」
由「コウ冗談云っちゃアいけねえ」
馬「ハイ/\/\」
 と中の条を降りまする、左方ひだりへ曲ると沢渡右方みぎへ這入るとの四万の道でございます。是から折田へ一里、折田を離れてしも沢渡へ参ると、是迄中の条から二里でございます。六七年以前より新道が開け、道も大きに楽になりましたが、其の折は未だ道幅狭く、なだれ登りに掛ると、四方どちらを見ても山また山でございまして、中を流るゝ山田川、其の川上は日向見川ひなたみがわより四万川に落る水で有りますから、トツ/\と岩に当って砕ける水の色は真青まっさおにして、山の峰には松かしわの大木ところ/″\に見えて、草の花の盛りで、いうにいわれぬ景色でございます。到頭四万の山口へ参りましたが、只今は車道くるまみちが開けましたので西の方の山岸へ橋をかけまして下道しもみちを参りますが、以前はかみの方を廻りましたもので中々難所なんじょでございました。

        三十五

 此の山口と申す処にも五六軒温泉宿が有ります、其のほか餅を売ったりあるいすし蕎麦などを売る店屋が六七軒もあります。小坂こざかへかゝると馬士まごが、
馬「もし旦那さん誠にねえお待遠まちどおだろうが、少しねえ荷イおろしてかなければなんねえ、貴方あんたおりて下さい、おりて何もねえが麦湯むぎゆがあるからゆっくりと休んで、煙草一服吸ってまアちっとべい待って居ておくんなんしよ」
由「宜しい、じゃア下りるから、さア」
馬士「さアおりられやすか、腰イ抱いてやるから待ちなせえ」
由「大変ていへんだ、まるで病人の始末だねえ、あゝ腰がすくんであるけませんが……やア大層ていそう立派なうちだが……おかしい、坂下から這入るとまるで二階下で、往来からすぐに二階へいる家は妙で、手摺が付いてある……」
馬「かゝア麦湯でも茶でも一杯上げろよ、中の条から打積ぶっつんで来たお客様だ…」
由「打積んだは恐れ入った、まるで荷物の取扱いだ」
幸「むこう土蔵くらがあって、此の手摺などの構えはてえしたものだ……驚いたねえ、馬方むまかたさんが斯ういう蔵持くらもちの馬方さんとは、此方こっちは知らぬからねえ、失礼な事をいいましたが、実に大したお住居すまいで、二階などが斯うお神楽かぐらでもなさるように妙に欄干が付いて居りますねえ」
馬「えゝ、是からねえ盆過ぼんすぎになると、近村ちかの者が湯治にめえりますので、四万の方へくと銭もかゝって東京のお客様がえらいというので、大概ていげい山口へ来て這入へえる、此処が廿年さきには繁昌したものだアね、今じゃア在のものばかりのお客しますからねえ」
由「驚いた、それじゃア大屋さんだ大屋さんで、馬方むまかたは恐入った……そう精出したら銀行へ預けきれめえが、金持だろうねえ、是から關善といううちまで八丁かえ」
馬「えゝ是から八丁は山道でがんす、關善まで送って、それからけえるのでがんすが、御用があるなら關善からおらの方までそう云って来れば、中の条の方へ出る用があるから、用を聞きに毎日きますから、る物があるなら四万で買うとたけえから、中の条で買えば砂糖でも酒でも何でも安いものがあるからねえ、買って来やんす、また退屈なら己方おらほうで蕎麦ひいて、又麦こがしも出来るからねえわしイ持って往きやすから、どうせ毎日往くだからねえ駄賃はいりやしねえ、むまの上へえっけていくから、彼処あすこ貴方あんた買わねえでねえ己が持って来て上げやんすからねえ」
幸「そりゃアどうも御親切に馬方むまかたさん何分願います、どうも感心なもので、是は少しだがお茶代だよ」
馬「へえ、これは有難うがんす……」
由「もし旦那……内儀かみさんでしょうが、結髪すきあげに手織木綿の単衣ひとえものに、前掛細帯でげすが、一寸ちょっと品のい女で……貴方あなた彼処あすこに糸をくって、こんな事をして居るのは女房の妹でしょう、好くて居る、鼻が高くって眼がクッキリとして、眉毛が濃くって好い女です、斯ういう処にくすぶらして置くからいけねえが、これが東京の水で洗ってあかが抜けた時分に、南部の藍万あいまんあわせを着せて、黒の唐繻子とうじゅすの帯を締めて、黒縮緬の羽織なら何処へ出しても立派な奥さん、また商人あきんどの内儀にも好し、権妻てかけにも、新造だって西洋げんぶく大丸髷おおまるまげでも好し、束髪そくはつにして薔薇のかんざしでも挿さしたらお嬢さま然としたものです、何しろ此の山の中に居て冷飯ひやめしって、中の条のお祭に滝縞の単物ひとえものに、唐天鵞絨とうびろうどの半襟に、たもと仕付しつけの掛った着物で、縮緬呉絽ちりめんごろ赤褌あかゆまきで伊香保の今坂見たように白くのふいた顔で、ポン/\跣足はだしで歩いて居てはいけませんが、洗い上げるとよっぽど好い」
幸「悪口わるくちをきゝなさんな」
由「そうですが、妙なもので、山の中にも斯ういう別嬪があるのでございますからねえ」
馬「へえ、身支度が出来ました」
由「おゝ来た/\、馬方さんいゝかえ」
馬「さアのっかってくんなせえ、山道だから荷鞍へしっかりとつらまって、えゝかえ」
 と是れからまたむまに乗り、駕籠を先に立たせ馬も続き、關善平せきぜんぺい方へ着きました。

        三十六

 幸三郎と由兵衞が關善の玄関に着くと、皆迎いに出ます。昨年わたくし堀越團洲子ほりこしだんしゅうしとともに或る御大臣様お供で關善へ参りましたが、只今では三階造りの結構な新築でございますが、その以前は帳場より西の方が玄関でございまして、此処に確か十畳の座敷、入側いりがわ付きで折曲おりまがって十二畳敷であります、肱掛窓ひじかけまどで谷川が見下みおろせる様になって、山を前にしてい景色でございます。二階家で幾間も座敷つぼがございます。其処へ着きますと直ぐ湯を汲んで来たから、足を洗って上り、
幸「あゝ好い心持だ、おい由兵衞さん、何か忘れ物のないように」
由「万事心得ました」
幸「若いしゅ、湯にも這入るだろうが、ゆっくり今夜泊って、旨い物でも食わせるから彼方あっち座敷つぼに居ねえ」
由「よし/\心得ました、葡萄酒の瓶がこわれるかと心配した、斯ういうとこへ来ては何もないからねえ……」
甲女「へえ叶屋かのうやでございます、なんぞ御入用ならかよいを置いてきますから」
由「なにを」
甲女「叶屋でどじょう玉子※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)しゃもも出来ます、醤油味淋もございます」
由「そりゃア何か」
甲女「叶屋でございます」
乙女「へえ鈴木屋すゞきやでございます、何んぞ御用はございませんか、これへおかよいを上げて置きますから、どうかお取付けになります様、誠に有難いことで、えゝ鈴木屋でございます」
由「今這入ったばかりで、まア仕様がない」
甲女「叶屋でございます」
幸「そう大勢幾人いくたりも来たって仕様がない、困りますねえ」
甲女「叶屋で」
由「叶屋でも稻本いなもとでも角海老かどえびでも今日こんにち初会しょかいだ、これから馴染が付いてから本価ほんねくから、まだ飯も食わねえ、湯へも這入らねえうち種々いろ/\の物を売りに来るのは困るねえ」
幸「わしは話に聞いて居るが、料理屋のようなものがあるので、取付けにして貰おうというのだろうよ」
由「もし、また豆腐入の玉子焼なぞが出来るので……どうも旦那お茶代を其様そんなに遣らねえでもようございます、此処ですから」
幸「それでも出したものだから……おいねえさん」
女「ヒエー」
由「可笑しな返辞だねえ、面白い…もし旦那でも番頭さんでも呼んでおくれ、用があるから一寸ちょっと
女「ヒエー」
由「早くして」
 という、やがて番頭がそれへ参りまして、
番「ヒエー」
幸「お前さん御亭主かえ」
番「手前は当家の番頭でござりやす」
幸「はア番頭さんか、当家は何というえ」
番「關善平と申しやす」
由「番頭さんの名は」
番頭「ヒエー與兵衞よへえと申しやす」
由「成程關善の家に與兵衞ありというのは面白い」
番「左様でございます、皆様がそう仰しゃるので、旧来居りやすから」
由「ハヽヽ……これはいけません、洒落を云っても通じませぬ、皆様がそう仰しゃるなぞはこれは妙だ……これはお茶代で、これは雇人中やといにんじゅうへ」
番「えゝ有難うございます、主人あるじが直ぐお礼に出まするで、有難いことで、ヒエ」
幸「何しろお前さん初めて来たので馴れませぬから、またあとからつれも来るから宜しく頼みます」
番「ヒエ、明日あすから世帯しょたいをお持ちなさるのでございますか」
由「何処へ世帯を」
番「えゝ一週間ひとまわりなり二週間ふたまわりなりお席をおきまして、お座敷つぼの内へへッついでも炭斗すみとり火鉢すべて取寄せまして、三週間みまわりもおいでになれば、またまかないのばゝあも置きまして、世帯をお持ちなさいますなら、炭たきゞ米なぞも運びますから」
由「ハヽア此の座敷つぼへ世帯を…成程うから持ちたいと思ったが、今迄店請たなうけが無いから食客いそうろうでいたが、是から持ちますからお前店請になっておくんなせえ」
番「御冗談ばっかり、宜しゅうございます」
幸「何卒どうぞお頼み申します、賄いの婆さんも頼みますよ、給金なぞはようがすか」
由「此様こんな処へ来て洒落なぞを云っても通じませんので、むだです」
幸「少し口を休めな」
由「只もう私は好い心持で……旦那湯へ一杯這入って」
幸「己は少し駕籠で腰がいてえからまア先へ這入んねえ」
由「左様ですか、此の温泉はどうしたッてそばからぶく/\出る湯ですから、私が先へ這入ったって汚れるというわけではなし、の者も這入るのですから」
 と喋りながら由兵衞は湯へ這入りにきました。

        三十七

 岡村由兵衞は湯に這入って来まして
由「どうも宜いお湯で、どうもあり難い/\、だがねえ少し熱うございます、此処の湯は大変ていへん熱い様で、一むねの中へ湯櫃ゆびつが幾つもあるので、向うへまた下駄を穿いてくと、着物を入れる棚があって、それからはしごを三段ばかり下りて這入るのです、心配なし、気が詰らず、残らず東京の人なし、皆田舎の人ばかりで髷があります、男ばかり、女は子供を抱いて這入って居りますが、芝居の話などはございません、只畑の話で、お前さんのとこの胡摩は何時蒔きましたか、わしとこでは茄子なすを何時作った、今年は出来が悪いとか菜漬なづけがどうだとかいう話ばかりして居るので面白いわけで東京の人は居ないから話はない、隅の方へ往って湯のはねないところへ這入って、小さくなって洗うのです」
幸「是は恐れ入ったねえ」
由「だがい湯で、塩気があって透通すきとおるようで、ごく綺麗です、玉子をゆでて居る奴があるので、手拭に包んで玉子を湯にけて置くと、しんが温まるという、どういう訳かとみんなに聞くと、黄身きみから先にゆだって白身があとからゆだるという、嘘だろうというと本当だと番頭も云ったが、白身はなんともない、きみが温まるので、上の方があったまらねえで、心がちゃんとへその下があったまるので、心臓肺臓などがあたゝまるので、こんな嬉しいことはありません、時にお茶代の礼に来ましたか」
幸「未だ来ない」
由「へえ腰があったまり草臥くたぶれけます、這入ってお出でなさい」
幸「初めてで勝手が知れぬから、代りばんこに気を付けて、湯場ゆば危険けんのんだから」
由「そう湯場働ゆばばたらきというのがあります、湯場を働くに姿を変えてというのは河竹かわたけさんに聞いた訳ではありませんが、芝居の台詞せりふにもありますから気を付けて、何かゞ面白いからうっかり致します……」
婆「こゝな処に世帯しょたいをお持ちなせえやんすか」
幸「びっくりした、何んだえ」
婆「こゝなとけ炭斗すみとりを置きやすが、あんた方又洗物あらいもんでもあれば洗ってめえりやすから、浴衣でも汚れてれば己が洗濯をします」
幸「お前何だえ」
婆「賄いのばゞアで、あんた方のお世話アするからお頼み申しやんす」
幸「頼みやんすは面白い、勝手を知りませんから万事お前にまかせるからよ、お前何歳いくつだえ」
婆「わしは六十一になりやんす」
由「フウ田舎の人は丈夫だから此の年で働けるのです、これから見ると富藏とみぞうばアさんなぞは五十八で身体が利かねえって、ヨボ/\して時々もらしますから、の人の事を思えば達者だ……是は汚いが茶碗は清潔きれいなのと取換えておくれよ、汚い物は見ぬ方が宜うございます、見ぬ事清してえから……お湯へ這入へえってお出でなさい」
幸「せわしいね、お前茶を入れる様にしておくれよ……」
由「婆さん湯沸ゆわかしを借りて」
婆「なに」
由「湯沸」
婆「ええ」
由「ゆわかしだよ、分らねえなア、鉄瓶でも薬鑵やかんでもいから小さいのを借りて、急須へお湯をさす様に、宜いかえ分ったかえ、どうも……一寸ちょっとも通じねえのはひどいな……それから菓子を入れる皿でも蓋が出来るような蓋物ふたものを持って来て、宜いかえ、菓子器をお願いだから……宜しく万事此処へこう置いて……お茶は鞄のうちにあります、茶が変るといきませんから………ハッ/\/\面白いどうも……もう御膳ごぜんが来るよ、早いねえ、もうそろ/\灯火あかりく、早いものです、膳が来ました……旦那に何か」
番頭「これは主人おやかた左様そう申しました、今日こんにちつきの事でございますから、折角世帯を持って是彼これあれとお取り遊ばしても、もう好いお肴もございませんから、今晩だけはこれで御辛抱なすって、明日みょうにちは又宜しいお肴をお取り遊ばして」
由「宜しい」

        三十八

由「あなた湯へ這入っても一度いちどきに這入っちゃアいけません、私が伊香保で何度も這入って逆上のぼせてね困りました、初めは面白いから日に七度も這入って鼻血が出ました」
幸「左様そんなに這入るから悪いや……お平椀ひらに奇妙な物が這入ってるぜ」
由「へえ、お平椀の下に青物が這入ってが切ってある、これは分ったわらびだ、鳥肉とりが這入って居る……お汁に丸まッちい茄子のおつけは変だ……これは何んで」
幸「なにを」
由「皿に切ってありますが、これは東京で云えば鯛の浜焼が付くとか何とか云うので、何もなければ玉子焼だ、何だろうか、薄く切ったものが並んであるが、東京の者と見て気取りやがったんだ、何だかこれを一つって見よう……婆さん灯火あかりを早く此処へ持って来て……何だ奈良漬の香物こうこか、これは妙だ、奈良漬の焼魚代やきものがわりは不思議、ずーッと並べたのはいな」
幸「此処は大層てえそう香の物をたっとむてえから、奈良漬を出すのは東京の者へ対しての天狗なんだよ」
由「何だか御法事の気味がありますからね、奈良漬におつけ油揚あぶらげは恐れ入った」
女「えゝ鈴木屋で」
由「また来た、何んだ」
女「えゝ枕を持って来やした、何卒どうぞお買いなすって」
由「枕をどうする」
女「枕、貴方方あなたがたがなさる枕」
由「此の宿屋では枕がないのかえ、新しい枕を買うのかえ」
女「へえ」
由「幾らだね」
女「左様です、二ツで十四せねに致しやす」
由「高いねえ、此の枕は一寸ちょっと縁日で買うと安いが、これは小枕が小さくッて、これじゃア出来やしねえが、何うしてもこれは買わなければならねえのかえ」
女「十四せねたかかアござえやせん」
由「この小枕は高天原たかまがはらに紙が一枚はひどいねえ、これは酷いが、まアいゝ、これを買っても宿屋で夜具を出すから枕も付きそうなものだ」
女「えゝ宿屋のは古うございますから、し又お帰りの時お邪魔なら私が方へひけを立って取りますから」
由「幾らに取るえ」
女「左様そうでがんす、一つまア七厘ずつに取りやす」
由「じゃアまア買って置きますよ……七厘ばかり取ってお前の方へ売っても詰らねえから……申し旦那、これを買って東京へ土産に持って帰って、是は四万の名物首痛枕くびいたまくらとか何とか云って提げてくのは洒落です」
 とこれから酒を飲み御膳を食べにかゝる。其のうち又由兵衞がおしゃべりをして居ると、しとやかに障子を明けて、
女「御免なさい、私は鈴木屋でございます」
由「鈴木屋さんか、先刻さっきから」
 と見ると前の女とは大違い、年の頃は廿一二でございましょう、色のくっきりと白い、品のい愛敬のあります、何うして此様こんな山の中に斯ういう美人がすまうかと思うくらいで、左様そんな処へ参ると又尚更目に付きますから二人とも見惚みとれて居ります。
女「おかよいをこれへ置きますから、若しも御用がございますなら仰しゃり付けて下さいまし、度々たび/\出ますでございますから」
由「へえ宜しゅうございます、是非戴きます、貴方のなら何でも戴きます、何がございます」
女「はい、鳥と鰌鍋ができますので」
由「それもよし」
女「玉子焼」
由「それもよし」
女「鯉こくもございます」
由「それも」
幸「其様そんなに誂えてどうする」
由「まア誂えやアしませんがねえ……何か外に肴が出来ますか」
女「アノやまめが出来ます」
由「寡婦やもめ、それは有難い、やもめいのはないかと心掛けてるので」
幸「お前の隣のは寡婦じゃアねえか」
由「ありゃア西洋洗濯を此の頃覚えた六十八歳という寡婦の大博士、毛が生えて天上する、ありゃアいけません……」
幸「じゃアお前さんあとでその鰥を持って来ておくれ」
女「へえ誠に有難うございます……」
 と云いながら静かに障子をしめて出てく。
由「旦那何でしょう、どうもお辞儀の丁寧だってえないねえ、様子がずっとどうも、あのお辞儀の仕方は此方こっち自然ひとりでに頭がさがるくらいで、丁寧で、何でしょう」
幸「何だか知れねえが只者じゃアねえ」
由「山の中へ逃げて来たのでげしょう」
幸「何か仔細がある事だろう、關善の親類でもありはしないか、鈴木屋の身寄か、士族さむらいさんのお嬢さんのはてだろう」
 と云って居る。二度目に鰥と鯉こくが出来たというので岡持へ入れて持って来る、是から酒をつけて橋本幸三郎が此の婦人の身の上を問います、これはのちに申上げます。

        三十九

 さて岡村由兵衞はしきりに幇間口ほうかんぐちでお酒が流行はやって居ります。
由「えゝ旦那唯今見た女は何うしても東京の言葉で、女は滅法好くって、旅出稼と云って湯治をしながら稼ぎに来る女はいかい事ありますが、くれえなのは珍らしい女で、丁寧で口が利けねえのは余程よっぽど出がいんですねえ」
幸「余程よっぽど品がいが、どういう身上みじょうの位の女は沢山無い」
由「有りません、東京を立って伊香保へ来て、伊香保から此方こちらへ来るまでにありません、伊香保のお隣室となりの奥様ねえ、れは又品が違いますが、此方はあれよりもまだ年がかないようで、伊香保の奥様も明日あした来るか、又今夜来るかも知れませんよ」
幸「お前又なんとか云ったのか」
由「えゝ云ったのでげす、峰公にちゃんと話したので」
幸「お前悪いよ、此方こっちがお母様っかさまと一緒なら宜しいが、男ばかりの処へ女を呼ぶのは悪いから止しねえ、奥様然として居るが、殿様でもある者で知れでもすると悪いよ」
由「あれはもう何もございませんよ、主は無い、主なしの栄太楼えいたろうの女は無いので」
幸「無い、だって分りゃアしめえ」
由「何んだッてお付の女中と伊香保の茶見世でお茶を売って居た村上の御新造が、お嬢様/\と申すのでしょう」
幸「あれは、おちいさい時分に一つお屋敷に居てお乳を上げたので」
由「お乳は松でも笹巻でも此方こっちは構わねえ、りゃアもう確かに亭主はありませんよ、御婚礼は済みませんが、是から追々御婚礼にもなりかゝると、其処に苦情があって、何うとか斯うとか話したと聞きました、向山の玉兎庵で申しました」
幸「だけれどもお前無理に呼んでは悪いよ」
由「悪いたってあとから峰公が引張って来るので、お付の女中は忠義者でしょう、一緒にきたいが、女二人であなた方と一緒に参っては、ひょっと人がおかしく思うといけませんから、後から参ると云うので、病身で時々癪がおこると云うが、その持病を癒そう為に伊香保へ来て居たのだが、貴方に一寸ちょっと岡惚れでしょう、新造しんぞうがサ」
幸「止しねえ」
由「そこは僕が心得て居ますよちゃんと認めを付けて居ます、貴方のそばに……居ると気分がいゝので、貴方のお顔を見るとお癪も紛れて居るので、くよ/\と思うが病の根で、病気だから何うかお邪魔ながらお連れ申したいと云う忠義の心から、堅い女中だけれども側に連れて来たい念が一杯あるから来ますよ」
幸「悪いよ」
由「悪いたって構やアしません、あれが来て今の別嬪が来て落合ったら面白うございましょう、だが御亭主ごてえしが無ければ町人だって身分が宜ければ縁付かたづくという、其処は又相談ずくでねえ、もし奥様が貴方の処へ嫁に来ると云ったら何うなさるえ、それとも鯉こくを持って来る女が好うがすか」
幸「ウヽ、そんな事を云っても分りゃアしねえよ」
由「分らないたって向うが奥様で此方こっちは丁度ごんかたで」
幸「止しねえよ、詰らねえ事を云って、まア湯へ這入って寝ようと云うのだが、腹が北山になって草臥くたびれたから酔ったよ」
由「貴方を酔わしたい、貴方は酔わないと真面目でいけません、ズーと酔ったって正気になって、助平根性を出してお仕舞いなさい、旅では構やアしません」
幸「止しねえ……まア/\そんなについではいけねえよ」
由「だがねえ、唯後からくっついて来るなア可笑しいねえ」
幸「可笑しいたって悪いよ」
由「だがね真面目で一生懸命に来るので、変な事があるもので」
幸「もとお出入りをしたお屋敷の御妾腹ごしょうふくと云うが、けれどもお眼に懸った事もねえが、何んだかお可愛そうな様な筋合すじあいがあるのだよ」
由「お可愛そうだって何んだか知れませんが、しゅうとめの意地の悪い奴、叔母さんか御隠居さんかがって、ひねった事を云って、そうお茶をつぐからいけねえの、そうお菓子を盛てはいけねえ、赤いのは上へ乗っけて又其の上へ乗っけては赤いのがくからいかねえとか、種々いろ/\な事を云う奴があるので、それが種になって段々お癪になったのだから、お癪を癒そうてえので……お癪てえば今来たも癪持にちげえねえ」
幸「何故」
由「なぜったって此処の湯は癪に宜しいから、癪を癒しながら働きに来て居るので、働きと云うような身分じゃアないが、只病気にはかなわぬから余儀なく働き、運動かた/″\斯うして居ると云うのではありませんか」
幸「そんな奴があるものか、鯉こくを持って来るぐらいに運動てえ事があるものか」
由「けれども……オヤ是れはお出でなさい」
女「誠に遅くなりました」

        四十

由「おや先刻さっきから待って居ました、遅くっても結構、鯉こく結構、これは不思議で」
女「これは誠においしくは御座いませんが、召上るように」
由「此方こちらうちからかえ」
女「いゝえ鈴木屋からで」
由「そうで、鉄火煮は恐れ入った……貴方の様な別嬪にお酌をして貰うのを楽しみにして来たので、貴方の居るのを知って来たので、貴方が居ないと伊香保から此処まで来はしません……貴方苦笑にがわらいしてはいけません、何うもお品が好うがすな、何か云うとこう苦笑いなどは恐れ入りますねえ」
幸「ねえさん、此の人はお饒舌しゃべりで失敬な事を言うから腹ア立っちゃアいけません」
女「どう致しまして」
由「いや何うも此の鯉こくなどは……中々どうも恐れ入りましたね」
幸「鯉こくなどは此処へはいのが来る、信州から来るのは不良いけねえのがあるという……これは結構……ウム鯉のこけなどを引いたのア不思議で、鱗がちっとも無いねえ」
女「へえ、これはこけは引いてありますから」
由「鯉の鱗なしはやわらかい、羊羹ようかんをしゃぶったようで、鯉の鱗なしは不思議で、こりゃア頂戴……鉄火煮はうがす……ウム、ゴソ/\するのは何んです」
女「あの鯉の鱗を煮ましたので」
由「へえ、鯉の鱗を引いて鱗ばかり煮たの……ヘエこりゃアどうもないね、ヘエこりゃア不思議で、鱗ばかりの鉄火煮、しゃぶって居ると旨いが、醤油したじッ気が抜けると後はバサ/\して青貝を食って居るような心持で不思議な物で……ねえさん一寸ちょっと此処に居て遊んで」
女「はい有難うございますが、余り長く居りますとやかましゅうございますから、又御用がございましたら」
由「まア/\/\一寸おいでなさい、今旦那がね貴方のお身の上をひどく心配して、お品と云いお行儀と云い、裾捌すそさばきと云い何うも抜目の無いお美しい嬢さんだが、どう云う訳で山の中へ来て居ると云うのでね、旦那が大変心配ですが、貴方は東京ですね」
女「はい東京でございます」
由「どういう訳で」
女「はい、いえなにもう種々いろ/\深い訳があります」
由「へえ、こりゃアどうも深い訳があるに違いないのでしょう、どうも此の鯉のこけばかりを煮て出すなんてえのは恐れ入りました、不思議で、どういう訳で、えゝ」
女「なにもう種々」
由「そこをお聞き申したいので、姉さん困りましたねえ」
幸「これはほんの心ばかりです」
由「旦那がこれを」
女「誠に恐入ります」
由「構わずお仕舞なさい、落すといけませんから、仕舞いにくいものですが帯の間へ……宜しい私が挟んで上げましょう」
女「いえ、いけません」
由「どうも恐入った、手を付けて帯の間へヒョイと云う、これは遣りたがるからねえ、ヘエー、どうも有難い」
幸「姉さん東京は何処、私共も東京で」
女「はい、東京のお方と見ますと誠にお懐かしくって、つい何うもお座敷へ参りましても、東京のお方だと、種々御様子を承わりとうございますから、遂々つい/\長く居ります」
由「こりゃアそうでげしょう、伊香保でも、東京は違いはしませんか、観音様は矢張彼処あすこにありますかッて聞いた人がありましたが、あれだね、どうも妙なもので、此処は旅で、旅で会うのは親類で無くっても落合うと親類のような気がして、懐かしいもので、変なもので、伊香保なんぞへって居ると交際つきあいふえる、帰って見ると先達せんだっては伊香保でと云うので、麻布あざぶの人が品川しながわ、品川の人が根岸ねぎしへ来て段々縁がつながり、お前さんの処へ娘を上げましょう養子に上げましょうなどと云って、親類がこんがらかる事があります、湯治場は一体親類ふやしの処で、貴方は東京は何方どちらで、何か訳があるのでしょう、えゝかくしたっていけません、んな山の中でも思う人と添うならばと云う、これは当り前で、吾妻川で布などをさらして、合間に鯉こくの骨を取って種々な事をなさるんでしょう」
女「そんな訳で来たのではございません」
[#「由」は底本では「女」]「どう云う訳で」
幸「止しねえよ…貴方お屋敷だねえ」
女「はい誠に不粋者ぶいきものでございます」

        四十一

幸「私もお屋敷へお出入をした者で、大概お屋敷は存じて居りますが、貴方の御様子は御家中でも無いようですが、御直参ごじきさんかね」
女「はい」
 と段々聞かれゝば聞かれるほど胸が迫ると見えて、の女は下を向いて居りますと、膝へバラ/\涙を落します。
由「旦那……少しお泣きのようだから、こんなことは深く聞かれません、此処で貴方癪でも起されると旦那が押すような事が出来ます、峰松は今日こんにちは居りませんから、二人で間に合えば宜しいが……御心配と見える」
幸「どう云う心配で」
女「はい……兄が放蕩で、私は田舎の事はさっぱり存じませんから田舎へ連れて往って、良い処へ奉公をさせる、かえって田舎には豪農や豪商があるのだからと申しまして、私も東京に居りまして知る人に顔を見られるも、恥かしゅう存じますから、そんなら田舎の奉公をしようと申しまして、宇都宮うつのみやへ参りますと、わたくしは兄にだまされまして置去になりました」
由「ひどあにさんで……旦那酷いじゃアございませんか、お兄い様がどうも……原の中かっかでしょう」
女「いえ何、イエもうアノ……これで宜しゅうございます」
由「これで宜しいたって、言いかけてめてはいけません、かまわないからあとをお聞かせなさい是非……まアお坐りなさい」
幸「お気の毒なわけでねえ」
由「えゝ貴方、どう云う訳で」
幸「失礼ながら何んですか、お兄い様は矢張やっぱり士族様か、違ったお兄い様かえ」
女「いえ真実の兄でございます」
由「どうしてお妹御いもとごを宇都宮へ置去に、何ですか宿屋かえ」
女「いえ、私はさっぱり存じませんで居りましたが、往来の方から這入りませんで裏路うらみちから這入りますと、広い庭がございまして、それから庭伝いに座敷へ通りまして、立派な席へ参って居りますうちに、アノ表の方へ参って掛合を致して、私をソノ或処あるところへ、なんで、質入れに致してお金を沢山借りて、兄は表から逃亡だしぬけを致したのでございます」
由「こりゃアどうも酷うごすね、貴方を質にいれて流す気ですね、酷いこと」
幸「どうも酷い事をしたものですねえ、そりゃアまア貴方もびっくりなすったろう、あとで勝手も知れず」
女「段々聞きますと宇都宮で娼妓つとめをするだけの証文を貼って、アノお前も得心の上で証文は是れ/\で、金も五十円兄様に渡したから何んでもと申されますから、私も恟り致しまして、其様そんな事は出来ません身の上でございまして、老体の母もございますから、母に相談の上に致さんければなりませんと云って、十日のあいだに情を張りまして泣き明して居りました処が、此家こゝの關善さんが日光からお帰りに宇都宮へお泊りで、段々様子をお聞きなすって、気の毒な事と御親切に五十円をみついで下すって、關善さんに連れられて参って、お手伝を致して居りますが、とても宿屋奉公では五十円と云うお金は返す事は出来ません、鈴木屋さんで人が足りないから御祝儀も貰えるし、そうしたが宜かろうと申されますが、關善さんと鈴木屋さんと両方で稼ぎを致しても五十円のお金では幾年此処に奉公をして居りましたら返せますか、承われば夏ばかり繁昌致しても、冬のうちは遊んで居ると申しますから、中々お金の返しようもございません」
幸「それはどうも、で其の東京におあにいさんが逃げてしまっても、お母様っかさまがおいでなさるか、お母様はさぞお驚きで」
女「母はもう六十二になりまして、母はアノ恟りいたしまして身体も大分あしくなりましたが、此方こっちより手紙を出しましてもむこうから参ることも出来ませんで、此の頃は兄が諸方の借財方に責められまして、わずかばかりの夜の物諸道具も取られまして、此の頃はわずらって」
由「へえ、どうもあるねえ、一度ね、わし伊豆いず網代あじろへ行ったことがある、其処に売られて来た芸妓げいしゃは、矢張叔父さんにだまされて娼妓じょろうにされまして来たと云うので、涙を落しての話で有ったが、それはお気の毒な事だねえ、左様でげすか、お屋敷は何方どちらでございます」
女「屋敷の名前なぞは親共の耻になりますから、それだけは御免遊ばして」
幸「ハヽ、それじゃアお聞き申しますまい」
由「旦那、そんな遠慮をしてはいけません」
幸「それでも耻になると仰しゃるから」

        四十二

由「貴方、旦那が御親切だから貴方の身の上を心配して、お名前をお聞きなさるので、貴方は親の耻になると云うは御尤ごもっともだけれども、何もこれは決して言いませんよ、誰が聞いても……わたしは随分お饒舌しゃべりだが、旦那にむかえばわしだって言わぬと云ったら決して言いませんから、仰しゃい身の上を、旦那にすがれば何うにか成るかも知れません」
女「有難うございます、屋敷は旧麻布もとあざぶ二本榎にほんえのきでございます」
由「麻布二本榎え、何処、六本木と云うのはあるが、六本木の方でありますか」
女「いえ二本榎で、瀧川左京たきかわさきょうと申す者の娘で」
幸「えゝ、アノお側を勤めた瀧川さん、千五百石も取ったうちのお嬢さん…」
由「えゝ、これは恐れ入った、失礼でございます千五百石も取った方の、私なぞはぜんからいまだに貧乏だからちっとも変りませんが、只貧乏慣れている処が不思議で、少しも身代は開けないのだから、どうも恐れ入ったわけです」
幸「わたくしは瀧川様へお出入をした事もありますが、まことに貴方は瀧川様のお嬢さんでございますか」
女「はい、決して神かけて嘘は申しません、どうぞ此の事はくわしくまだ大屋様へは申しませんから、どうか内聞になすって下さいまし、東京のお方で御親切に仰しゃって下さいまして、お懐かしいから迂濶うっかり申したので、どうぞ御免なすって」
 と娘は胸一杯になりまして口も利かれません、おろ/\して居ります。
幸「お前さんは幾歳いくつで」
女「はい、廿一でございます」
幸「お気の毒だねえ、どうか貴方を五十円で失敬ながら身請をして上げたいと存じます、お母さんが御病気でおいでなさる事ならば、私が關善へ話をして五十円のきんを出したら、東京へ連れて帰ってお母様に会わせる事も出来ましょう」
女「はい、それが出来ます事なら……」
由「旦那、私も少し助けますよ十分の一……一度にはどうも出来ませんから、日掛ひがけに追々入金をいたしますが、どうか身請をして上げて下さい」
幸「關善さんへは帰る時話をして、今パッと話すと面倒だから……それから貴方の身の上だけはお母様っかさんにお逢わせ申しますが、お母様っかさま矢張やっぱり東京においででございますか」
女「はい唯今では小石川こいしかわ餌差町えさしまちに居ります」
幸「宜しい、屹度きっと連れてきます、身請を致します」
女「あの、本当で」
由「本当だって心配なし、どんな事をしても虚言うそは大嫌いの旦那さまで、十二時に此処へ来い、御膳を食べさせると云うと整然ちゃんとお膳が出て居るので、御心配ない……此方こっちも感じてホロリと来ますねえ」
女「有難うございます、わたくしは夢のような心持で」
由「旦那……お手水ちょうずですか、き突当って右の方です……だがねねえさん、の旦那様と云うものは御新造様が無いのですよ……アレサ実は御新造さんは三年あとなくなってお独身ひとりでおいでだが、貴方いたって金満家でありますから、貴方がお出でなさるような事があればお母様ぐるみ引取って、生涯安楽でげすが、何うです」
女「其様そんな事は」
由「其様な事だって、それが肝腎なので、ウンと仰しゃい、男がくって、ちょいと錆声で一中節が出来る、それで揉むのが上手でお灸をえたり何かするので……」
女「私は実に夢のようでございます」
由「夢見たいですが、是れがさめない夢です……後からまた夢が来るので……今夜はねえ何うかして此処へ入らっしゃいまし、寝就ねついた処へ私が周旋致しますから」
女「夜出ますと叱られます」
由「たれに」
女「あの大屋さんに知れると悪うございます、橋のきわ瓦斯がすが消えますと宿屋の女が座敷つぼへ参るはやかましゅうございます」
由「壺ッてえのは此処ですか、やかましいなんて生意気な事を云いますね、いゝじゃア御座いませんか、貴方を身請してくのですから、大屋が何んたって構やアしません、大屋が云っても差配人が苦情を鳴らしても何うでもしますから宜しいではありませんか、貴方心配はございませんお出でなさい、ちょいと、まんざらわるい男でもございますまい、ようがしょう様子が、お厭かえ……ハア/\これは恐れ入りました」
 といってる処へ幸三郎が便所から帰って参り、
幸「何を掛合って居るんだ」
由「フハア……掛合筋があって誠にハヤ貴方、手水を長くして居らっしゃるといのに」
女「あの私は又参ります」
幸「貴方又入らっしゃい、証拠でも何でも上げる、決して虚言うそきませんよ」
女「有難う存じます、御機嫌宜しゅう」
 と嬉しそうな様子で帰りました。
由「どうも御機嫌宜しゅうと云って、手をついて小笠原流で、出這入に御機嫌宜しゅうなんてえ様子は無いねえ、此処の女中などは、ガラリピシャ用はねえかなんてえ山家やまがの者で面白おもしれえが、彼女あれア旦那何処へもき処がないので、可愛相で、彼女はちょいと様子がい、貴方の傍へ置いて権妻ごんさいと云っても奥様と云ったっても決して恥かしくございませんね」
幸「そんな事を云ったって年が違わア」
由「年が違うたって何も構やアしません、此の間も六十七になる老人としよりが十七になる女房を貰ったが、世の中が開けたから構やアしません、貴方は堅過ぎるから」
幸「馬鹿を云え、可愛そうだからよ」
由「其処をなんして一寸ちょっと可愛がって、貴方の手生ていけの花にしてお遣りなさい」
幸「馬鹿ア云うな」
 と是からはずんでお酒を飲んで寝ましたが、さてお話あとへ返りまして。

        四十三

 丁度其の日に峯松が万事都合好く話を致して、のお藤と云う隣座敷のお客を車に乗せて引出しまして、伊香保の降り口から一挺車を雇いまして、女中を乗せて渋川へ下りて、金子かねこへ出まして、金子から橋を渡り北牧きたもくへ出まして、角屋かどや昼食ひるしょくをして、余程おくれました。それから、男子村おのこむらへ出まして村上むらかみへかゝりまして、市城いちしろから青山伊勢町あおやまいせまち中の条へ掛ると日は暮れかゝりまして、木村屋きむらやで小休みに成りますから十分手当をして遣り、車夫も疲れた様子だから車を取換えようと云うが、是非四万まできますと云うも十分手当をして遣りましたからでございます。酒の機嫌で遅くはなったが十時までには屹度きっと引張ひっぱるからと、峯松も疲れては居るが親切者、早く往って逢わせようとガラ/″\/″\/″\車をいて折田村まで一里ばかりも参りますと、どっぷり日は暮れて、隠れに田舎家のがちら/\見えまして、かすかに右の方は五段田ごたんだの山続き、左は吾妻山、向うは草津から四万の筆山、中を流るゝ山田川の水勢は急でございまして、皀莢瀑さいかちだきあざないたします、本名は花園はなぞのたきと云う巾の七八間もある大瀑おおだきがドーッドッと岩に当って砕けちる水音。林の蔭に付いてさがる道があります。気味の悪い処にさいかち橋が架けてあります。これを渡ると直ぐ山田村、近道で其の小坂の処に庚申塚こうしんづかがあります。そこまで来ると車をおろして、
峯「若衆わかいしゅ大きに御苦労だのう、骨が折れても急いで遣ってくんねえな、十時までに中の立場たてばまでこうじゃアねえか」
車夫「何しろ昨日きのう沢渡までの仕事で、えらバアーテルから、女客おんなでも何うもとても挽けねえよ」
峯「挽けねえたってお前どうするんだ」
車夫「此処で若衆わけえしゅ暇ア貰いてえものだ」
峯「ふざけちゃアいけねえじゃアねえか、此処まで来て、此処じゃア立場もえ、下沢渡へ別れ道の小口こぐちまできねえな、彼処あすこけば又一人や二人帰り車も居るだろうから、此処じゃア何うもしようがねえやな」
車「どうもしようがねえたって、挽けねえものア仕かたがねえ、今朝から渋川の達磨茶屋で疲れて寝て居たんだ、其処をけえって又来たが、身体がバーテルでどうも……」
峯「馬鹿にしちゃアいけねえ、そんなら何故中の条の木村屋で左様そう云わねえ、木村屋で挽けませんと云えば他の車を頼もうじゃアねえか、からかっちゃアいけねえぜ、東京者だって東京ばかりの車を挽くんじゃアねえ、此地こけえ来て渋川で一円に一升の仲間入をして居る峯松だ、大概てえげえにしやアがれ、馬鹿にするな」
車「何だ峯松だか荒神松だか知んねえが、怖くもおっかなくもねえ、挽けねえんだ、何を云やアがる、なぐるぜ」
峯「なに撲って見ろえ……」
岩「まア峯さんお待ちよ、私ア歩くよ……しからんよ、こんなものに構っては損だからお止しよ」
峯「構うたって、そんなら中の条で云やア何うにでもなるに、人を馬鹿にしやアがって、女連だと思って脚元あしもとを見やアがって」
岩「まア/\いよ、鞄を此方こっちへ下してね」
峯「挽けなけりゃアそうと早く云えばいに……」
岩「そんな事を云わずに、私が困るからよ……挽けなけりゃアさっさとお出で」
車「おゝかねえで何うする」
峯「なに、生意気な事を云やアがる」
車「何が生意気だ」
峯「なに」
岩「お止しよ、峰さん/\」
 と云ううちの車夫は折田おりたの方へガラ/″\/″\/″\と引返しましたが、道中には悪い車夫くるまやが居ります。
車「ざまア見やアがれ」
峯「なに」
岩「お前おからかいでないよ」
峯「面ア覚えて置け」
岩「まア/\お止しよ」
峯「詰らねえ事を云やアがって、脚元を見やアがって、此処まで来て挽けねえなんて、酒え飲まして置いて手当も遣って居るので、中の条だけの賃は遣りましたが、それから先の賃は遣りません、彼奴あいつ無駄挽むだっぴきをしやアがって……どうも済みません」
岩「私だけは歩くからいよ……お前さまはさぞお厭でございましたろう」
藤「私はびっくりして、怖いから何うしたら宜かろうかと思ったが、岩や、お前歩けるかえ」
岩「えゝ私はもう宜しゅうございます、二里や三里は歩けますからお前様さえお乗せ申せば宜しゅうございます」
藤「山道だよ」
岩「いゝえ宜しゅうございます、歩けますから」
藤「お前疲れると」
岩「いえ大丈夫で」
峯「まア一服遣りましょうから、もう是からは遠くもねえ道でござえますから」
藤「峯松さん、さぞお疲れで私のような者二人を連れて来てお厭でしょう」
峯「わっちは心配な事はありませんが、まア早くお連れ申して旦那にお会わせ申そうと思って、私も骨を折るのでどうか…へえ」
 マッチを摺ってパクリ/\と火をうつし烟草をんで居ながら、
峯「実はねえ草臥くたぶれました」
岩「さぞお疲れだったろう、貴方にも種々いろ/\お世話になったから、どのようにもお前様に願ってお礼も致します、誠に御親切なお方だと云ってお喜びで」
峯「いえ、もうお礼も何も入りません、旦那も待ってるものだから早くお会わせ申してえと思って何したので……えゝ、貴方、もしお岩様え、礼をようと仰しゃるなら…」
岩「はい」
峯「わっちは、あの誠に申し兼ねましたが、折入って願いたい事があります」

        四十四

岩「どんな事か知らないが、草臥くたびれたらまたあとへ戻って車夫を雇っても宜しいよ」
峯「いえ、そんな事じゃアございません、わしは誠にねえ身分に合わねえような事を申すようでがすが、伊香保においでなさる時分から、お藤さまと云う此の奥様に属根ぞっこん惚れて居るのでがす、どうか□□□□□云う事を聴いておもらえ申したい」
 と云われてお藤はびっくりしてうしろの方へ下りますと、お岩と云う女中は顔色を変えて、
岩「な、何を云うのだえ」
峯「えゝ正直なお話でございますが、此方こっちア高が車挽くるまひきで、元は天下のお旗下はたもと御身分のあるお嬢様に何うの斯うのと云ったって叶わねえ事と知っては居りやすがね、貴方も武士のお嬢さまで身性みのじょうの正しい女なら又諦めもつけやすけれども、橋本幸三郎と云う人に逢いてえと思えばこそ、夜道を掛けて四万村まで、此の物すごい山の中をお出でなさるからにゃア満更色気のえお方でもごぜえやすめえ、□□□□□□□□□□、其の美くしいお嬢さまを□□□□□□□楽しみに此の山道を来たのです、□□□□□□□□□□□□□、もしお岩さん、取持っておくんなせえな」
岩「まア呆れた事をいう奴じゃ、女とあなどり身分もわきまえないで、仮令たとい御新造様はお弱くても私が付いて居るからは……てまえたちに指でもさゝせる気遣い無い、兎やこうすると許さんから左様心得ろ」
 とて懐よりり出したは、旧弊きゅうへいであります故小さい合口を隠し持って居ますから、柄へ手を掛けて懐から抜きにかゝると、
峯「ナニ何をしやアがる、刃物三昧をするからア元は旗下の嬢様とかお附の女中とか、長刀なぎなた一手ひとてぐらいは知っても居ようが、高の知れた女の痩腕、汝等うぬらに斬られてたまるものか、今まで上手を使って居たが、こう云い出したからは己も男だ、□□□□□□□□□□□□□」
岩「どうも呆れた奴、手込てごみにすれば許さんぞ」
峯「どうでもしやアがれ」
岩「どうでも」
 と合口を抜いて飛付くと、車夫の峰松はよけながらあとへトン/\/\と下りると、うしろからズーッと出た奴は以前の車夫であります。これは渋川のもく八と云う奴で、元より峰松と馴合って居りますからはずしたので、車を林のかげに置き、先へ廻って忍んで居りましたがゴソ/″\と籔蔭やぶかげから出て、突然お岩のたぶさって仰向あおむけに引摺り倒しました。
岩「あれー何をする」
 と飛付いて参った時、これを見て驚きましてのお藤は
「あれー」
 といって逃げにかゝる。
峯「逃がすものか」
 と飛付こうとするを見て、お藤は逃げるも真暗まっくらがり、思わず崖を蹈外ふみはずしてガラ/″\/″\と五六丈もある山田川の渦巻立った谷川へ、のお藤は真逆まっさかさまに落ちましたが、これは何様どんな者でも身体が微塵みじんに砕けます。
峯「どうした杢八」
杢八「なんだ、己が横ッ腹アたら婆アおっんだ」
峯「大きに御苦労だ、何しろ惜しい事をした、肝腎のたまア此の谷へ落しちまった」
杢「どうした」
峯「川の中へ飛込んだ」
杢「どうする」
峯「どうするたって仕様がねえ、とても助からねえ、愚図ッかして人が来ると仕様がねえ、鞄は車へ乗せるから……手前てめえ、何処へく」
杢「往くッたっておめえ唯は往かれねえ」
峯「そりゃア極って居らア、さアこれを持って往け」
杢「これだけありゃア今月一ぺいは休みだ」
峯「うめえ物でも食って娼妓じょろうでも買え」
杢「有難ありがたえ、こんな手伝てつだえしなけりゃアうめえ物が食えねえから」
峯「己は乗せて来た鞄を持って往くから、あとア又伊香保で会おうぜ」
杢「じゃア別れる」
 との鞄を付けて峰松は折田村の傾斜なだれを下りましたが、見かけによらぬ大悪人でございます。此の峯松は三年あとに足利栄町に於きましてお瀧と密通して、茂之助夫婦が非業な死を遂げた村上松五郎と云う士族さむらいで、今姿を変えても斯様な悪業を働いて居ります。

        四十五

 さて車夫の峯松が、欺いて連れ出しましたお藤と云うの婦人を、皀莢滝の谷間たにあいへ追込みましたので、お藤は勝手は知らず、足を蹈外ふみはずして真逆まっさかさまに落ちましたが、御案内の通りの折田の谷は余程深うございまして、下には所々しょ/\巨岩おおいわが有りまして、これへ山田川の流れがあたって渦を巻いて落します。水色真青まっさおにして物凄い所であります。前面むこうには皀莢滝と申します大滝が有りまして、ドウードッと云うすさまじい水音でございます。其処へ落ちては五体粉微塵となるくらいの嶮岨けんそな処でありますから、決して助かりよう筈はないのでございます。丁度其の晩山田川へ筏を組みに参って居りましたのは、市城村の市四郎と云う侠気おとこぎの人で、御案内の通り筏乗と申すものは、上州でも多く五町田、市城村、村上の辺にすまいを致して居ります。此の日向見川ひなたみがわ荒川あらかわと云うのが二筋ふたすじに別れて来ます。是は信州と越後との境から落して参り、四万川と称え、流れの末が下山田川しもやまだがわがっして吾妻川へ落しますゆえ、山から材木を伐出きりだし、尺角しゃくかく二尺角あるいは山にて板にき、貫小割ぬきこわりは牛のおろして参ります。山田川で筏を組みますには藤蔓ふじづるを用います、これを上拵うわごしらえととなえ、筏乗の方では藤蔓のことを一二把と申しませんで、一タキ二タキと云います、一ずつ有りまして、其の頃では一駄七十五銭で、十四五本ぐらいずつからげましてこれを牛の脊で持って来るのを、組揚げて十二段にして出しますが、誠に危い身の上でございます。筏乗は悪く致すと岩角に衝当つきあたり、水中へおちるような事が毎度ありますが、山田川から前橋まで漕出こぎだす賃金はようやく金二円五十銭ぐらいのもので、長いかじを持ち筏の上に乗って、前後あとさきに二人ずつ居りまして、中乗なかのりが三人ぐらい居まして、たちまちに前橋まで此の筏が下りて参りますが、中々容易なものでは有りません。只今の市四郎が上拵えの手伝いを致して居りますると、
「きャー」
 と云う女の声にびっくり致して、市四郎が仰向あおむいて見ますと、崖の上からバラ/″\/″\とくしこうがいが落ちて来ました。
市「おや……何か落ちて来た」
 と身をかゞめてすかして見ますと、谷間たにまに繁茂致してる樹木にからんで居ます藤蔓は、井戸綱ぐらいもある太い奴が幾つも八重になってからんで居ます、其処へおちいりましたはお藤と云う女の運がいので、藤蔓と藤蔓の間へ身がはさまって逆さまに成りましたから、髪も乱れ、お藤は一生懸命に藤蔓へつかまったなり気が遠くなりました。
女「あゝ……」
 と云う声に恟りして市四郎が仰向いて見ますと、一人の女が藤蔓の間に挟まってさがって居ましたから、
市「おゝ/\落ちたこと、あゝ危い」
 ともとより勝手を知って居りますから、忽ちに市四郎が岩角につかまって這い上り、の根へ足をけてのお藤を助けまして、水を飲ませせなさすり、
市「何か薬でもあるか」
 と聞きましたが、お藤は更に物も云えません様子だから流れの水を飲ませ、脊中を撫り、種々いろ/\介抱致して居るうちに漸く生気しょうきに成って、
藤「実はこれ/\の悪党の為にだまされて此様こんな難に遭いましたが、従者とも下婢おんな岩と申すのは、何う致しましたか、何卒どうぞたずねなすって下さいまし」
市「ムヽーそれは飛んだ事だった、わしが往って探して上げやんしょう」
 と素より侠気おとこだての人ゆえ、御案内の通り恐ろしい谷間の急な坂を登って参り、庚申塚の[#「庚申塚の」は底本では「庚辛塚の」]ります折田の根方へ来て見ますると、血が少し流れて居るのみで、供の女中岩と申すものゝ死骸が見えません。櫛や笄は折れて其処そこ落散おちちって居ながら死骸が分りません。すると其処こゝ[#「其処こゝ」はママ]野口權平のぐちごんぺいと云う百姓がございます、崖の方へ引付ひッついてあるうちで、六十九番地で、市四郎はかね知合しりあいの者ゆえ其家そこを起して湯を貰い、
市「何か薬はあるか」
權「だらにすけならある」
 といったがらちが明きません。
市「まアお女中御心配なさるな」
 と是からすぐにお藤を連れまして、市城村の我が宅へ帰って来まして、深くお藤の身の上を聞きました。

        四十六

 此方こちら左様そんな事は知りませんから、明日あしたは来るに違いないとまちに待って居りました、橋本幸三郎、岡村由兵衞の二人は、鈴木屋の下婢おんなは瀧川左京と云う以前は立派なお旗下のお嬢さんと知りませんでしたから、
幸「あゝ何もあれに酌をさせて、おめえねえさんと云ったぜ」
由「旦那本当にお気の毒じゃア有りませんか、あなた五十両でを身請して東京へ連れてけば、おっかさんがさぞお悦びなさいましょう、さっそく貴方の御新造にお取持を致しましょう」
幸「うお太皷口をきかれちゃア困る」
 と幸三郎は飲めない酒を飲んでグッスリ寝付きますと、温泉場も一時(午前)から三時までの間は一際※(「門<眞」、第3水準1-93-54)しんと致します。往来ゆきゝもとよりなし、山国の事でございますから木に当る風音かざおとと谷川の水音みずおとばかりドウードッという。折々きこゆるは河鹿かじか啼声なきごえばかり、只今では道路みちがこう西の山根から致しまして、下路したみちの方の川岸かしへ附きましたから五六町でかれますが、わたくしが十ヶ年前に参りました時には上路うわみちへ参りましたから八丁もありまして、足場が余程悪く、上路へ参りますとなだれに橋が架って居りまして、是からの關善と云う大屋のうちへ参ります。橋を渡らずに左に附いて谷川をザブ/″\膝越で渡って参る曲者くせものにん山路染やまみちぞめの手拭に顔を深く包み、身軽に尻からげをまして四辺あたりへ眼を付けて居りますと、灯火あかりもほんのりと薄暗く障子に写ります、橋のそばいてありますランプ灯も消えかゝりましたを幸いと、何時か忍入りたる悪者は、四五間の川を渡って石垣に取附き、そろ/\關善の玄関のすみの座敷へ這上りました。只今でも開けん処へ参りますと、温泉場などでは余り戸締りを致しません、わたくしが参りました時分には頓と締りが有りませんから、自由にそっと障子を開けて、濡れた足で窓から忍び込み、なが四畳の入側いりかわの処へ踏込みまして、二重に締って居りました唐紙を細目に開けて、覗いて見ますと、行灯あんどう火光あかりがぼんやり点いて居ります。幸三郎も由兵衞もグー/″\と云う鼾の声、そっと襖を開けて枕元へ忍び込み、布団の間に挟んで有ります金側きんかわの時計に珊瑚珠の大きな玉の附いたポン筒の腰差の煙草入を盗んで自分の腰へ差し、時計を懐へれ、まだ何か有るかと探したが、大概の物はみんな鞄へ納れて此の旅亭やどやへ預けて置きましたから何も有りません、岡村由兵衞の枕元へ参って見ると煙草入が一個ひとつ有りました、これをも盗んでわが腰へ差そうとする途端に、
「ウーン」
 と由兵衞が寝返りをする様子に驚き身を引いて、入側いりがわの方へ出に掛ると、玄関口から這入って来ましたのはぜん申し上げました瀧川左京の娘おりゅうにて、私の身体を身請してくれると云う旦那様に一言ひとこと頼みたいことも有るが、何うかしてお目に懸りたいが、鈴木屋さんに知れても悪いし……なれども旦那様が夜が更けたらソッと忍んで来いと仰しゃったけれども……参るのも恥かしい……が、どうも真実ほんと虚言うそか旦那さまのお心持が聞きたいと思ったのでございましょうか、今そっと抜足を致して玄関の式台を上り、長四畳へ這入って参り、折曲おりまがって入側の方へ附いて来ます途端に、頬冠ほうかむりをた曲者が、此方こちらへ出に掛るから、びっくりしてあと退さがりました。此方の曲者も人が来たなと思いましたから怖いゆえ窓から戸外そとへ出ようと思い、這うようにして玄関の方へ出に掛ります。此方では襖へピッタリ身を寄せてすかして見ますると、橋の傍にいて居ますランプ灯の火光あかりばかりで有りますけれども其の姿が見えます。悪者の方でも相手が女だからびくともせず、し己を取捕とッつかまえたらちのめして逃げようと腹を据え、今出に掛ると、
りゅう「おい/\松さんじゃアないか、松さん」
 とおのが名を呼ばれましたから恟りして透し見まして、
曲者「何だ……おたきか」
りゅう「あゝ、私はまア種々いろ/\お前に話が有るんです、逢いたかったが何うして此処に居るの、まア此方こっちへお出でよ」
 とむりやりに松五郎の手を取って、
りゅう「此処からくと知れないから」
 とソッと忍んで關善の裏手へ出まして、叶屋のわきから小橋こばしを渡り、田村の下の小商人こあきんどの有ります所に蕎麦店そばやがございます。此家こゝかねて自分も時々借りる家と見えまして、此の二階へ夜半よなかに忍び込んで頬冠をり、ほッと息をきました。

        四十七

松「何うしたえ」
りゅう「私も何うかしてと種々いろ/\心配して居ましたけれども、さっぱりお前さんの様子が分りませんでしたが、能くまアお前此方こっちへ出て来ておくれだね」
松「おらア此の通り姿を変えて人力[#「人力」は底本では「人方」]ひき、何んでも手前てめえが上州路に居ると聞いたから、草津か、沢渡か、伊香保にでも居るかと思って居たのよ、しかおれあぶねえ身の上だが、渋川へ来て車夫になって、東京の客を当込んで、車引くるまひきの峯松と是まで化けて居るのも、実は手前に逢いたいばっかりで彼方此方あちこちとまごついて居たが、碌な仕事もする訳じゃアねえ、と思ううちにい塩梅に今度霊岸島川口町の御用達だてえ橋本と云う野郎を乗せた処が、己を正直者だとか律義者だとか惚込んで次の間へ置くばかりに、すっかり彼奴あいつの腹へ這入っちまったからたんまりした仕事が出来ようかと思って居ると、隣室となりに居た女が其奴そいつに岡惚をした様子だから、ちっとばかりい仕事をようと思うと、こいつア失策どじをくんだが、伊香保へ残した荷物を取りにく証拠の手紙が有るから、是れを持って往けば先方むこうでも雑物ぞうもつを渡すにちげえねえと思うんだ、少しばかりの仕事だけれども、これをまとめてドロンと決めようと思うんだが、往掛いきがけの駄賃に幸三郎が金を持って居るから跡をけて此処まで来たが、首尾好く座敷へ忍び込んだが、枕元に鞄がねえから其処に有合せた煙草入や時計をさらって表へ出ようとする途端に、手前に出会でっくわしたのよ」
りゅう「私も宇都宮で少し失策どじを組んだから此方こっちへ来たんだがね、此の鈴木屋へ身を落着け、色気の客があったらと思う処へ泊った奴はお前の話の幸三郎、此奴こいつだまして旗下のお嬢様だと出鱈目なことを云って隠れて居るのさ、始めて橋本に逢ったのに舌の長いことを云うから、生空なまぞらつかって泣いて見せてとう/\……關善には内証だよ、鈴木屋さんに知れても悪いから黙ってゝおくれよと尽底すっかりだまして口留くちどめたが、夜半よなかに最う一遍根締ねじめを見ようと思って往ったのだが、ちょうどい処で出会ったね、実はね關善か鈴木屋か二人のうち誰でも宜いから金を受取り、私の身を渡したと云う請判うけはんが有れば宜いんだがね……三文判でも構やアしないが、男の手でなければいけないの、おりゅうの身の上に付いて……マお聞きよ、今私はおりゅうと云う名前になって居るんだよ、金子かね五十両たしかに、受取り、おりゅうの身の上を宜しくお引渡し申しますって、お前は其様そんな事をこしらえるのは上手だから、本当らしく巧く書付を拵え、金子かね先方むこうへ妾にでもく積りにして、宜いかえ、兎も角もそうしておくれよ、お互に別れ/\になっても隠れ場所があれば、時々出て逢えるような事がなくっちゃア私も苦労をする甲斐がないよ、私だって身を切られるほど厭だけれども、表向き明るい処をのそ/\歩かれる身の上じゃないから」
松「ウン斯様こんな書付じゃア何うだえ」
 と硯箱を借りましたが、松五郎はもと旗下の用人の忰で、少しく書付が堅ましく出来ました処へ有合わした三文判を押して、おりゅうの名前の下には爪印をし、これを懐に入れて橋本幸三郎より五十両の金を取り、松五郎を越後の浅貝あさがい間道ぬけみちを逃がそうと云うたくみでございます。此方こちらでは夜が明けると大騒ぎでございます。
幸「枕元に置いた金側の時計と煙草入がない……」
由「わしの烟草入もない」
 と是から關善を呼んで派出所へ訴えに成りましたから、早速警察官が御出張に相成り、段々取調べましたが、少しも当りが附かない、随分湯場は稼ぎ賊が多いものでございます。

        四十八

 翌朝あけに成ると皆々打寄り届書とゞけがきを書いたり、是から原町はらまちの警察署へ訴える手続が宜かろうかなどとゴタ/″\致して居りまする処へ這入って来ましたのは、年頃三十八九に成る色の浅黒いでっぷりとしたせいの高い大きな男でございます。長四畳の方の襖を開けまして、
男「はい御免なさい……」
由「はい、お出でなさい何方どなたです」
男「はい、え、二三日前から伊香保の……ナニの伊香保の木暮八郎ンとっから此方こちらへ湯治におでなさった橋本幸三郎さんてエのは貴方でございますか」
幸「はい、橋本幸三郎は手前てまいでございますが、何方でげすか」
男「わしア市城村の市四郎という筏乗ですが、お初にお目にかゝります、少しお訊ね申してえ事が有って出やした、え此処ですぐにお話をしても宜うがすかな」
幸「はい、左様そうでございますか……只今種々いろ/\取込が有りまして、是から少々山の派出所まで参らんければならんでげすが何御用でげす」
市「なに別の事でも御座えませんが、貴方が伊香保から此方こっちへおいでなすった供に峯松てえ車夫くるまひきが有りやすか」
幸「はい峯松と申すものはございますが、伊香保へ残して私共は此方こっちへ参りましたが、何か御用でげすか」
市「その峯松を隠さずに此処へ出してお貰え申してえ」
幸「左様さようでございます、何う云うなんでげすか……おい由さん引込ひっこんでちゃいけねえよ、此処へ来て掛合っておくれなお前」
 といわれて由兵衞が其処へ出て参り
由「へえおいでなさいまし」
市「お前は何んだ」
由「へえ手前てまいは此の旦那のお供をして参りました由兵衞と申すものでございますが、貴方は何んの御用で入らっしゃいました、峯松と申す車夫くるまひきは伊香保へ残して置き、旦那と私だけ先へ此方こっちへ参りまして、二週間ばかり見物かた/″\湯治に参ったのでげすが、へえ」
市「其様そんな事は何うでもいから、早く其の峯松てえ奴を此処へ出してくれ」
由「へえ…早く此処へ出せと仰しゃっても只今申上もうしあげる通り当人が居りませんので」
市「居ねえたって貴下方あなたがたの供だから出さねばなんねえ訳じゃアねえか」
由「何んでげす、何う云う訳なんですか存じませんが、居らんものを出せと仰しゃっちゃ困ります」
市「その野郎を此処へ出しておくんなさらなけりゃア、わしイハア、お前さんがたをたゞア置かねえぞ、首でも引んねじっておさめえて、本当に原町の警察署へしょぴいてッて、私イハア屹度それだけの処分さばきを附けねばなんねえ」
由「驚きやしたな、無闇に首を捻るなどと仰しゃっても、私共わたくしどもは生きて居る人間だから、捻るたって黙って貴方に首を捻られるものでも有りませんが、タヾ峯松は居ねえが此処へ出せと無闇に御立腹に成って仰しゃっては分りませんので、へえ」
市「分らねえ事はねえ、其方そっちに悪いかどが有るから参ったゞ、人を殺して物をる奴ア盗賊どろぼうちがえねえから、警察署へしょぴいてくのに何も不思議はねえ、当然あたりめえの話しだ」
由「へえー、彼奴あいつが人を殺しましたか」
市「ムムーしらばっくれるな野郎、うぬらも峯松の同類にちげえねえ、伊香保の木暮八郎ンとこにお前方めえがた逗留して居る時分、おらア知んねえけれども、何だか御用達の旦那さまだとか金持だとかなま虚言ぞらいて、漸々だん/″\隣座敷の者と親しく成った其の上で、うまだましてよ、此様こんな山ン中へ連れ出して来て刃物三昧をやアがって、女を斬殺きりころして、その死骸を河ん中へ打込ぶちこんで、えれエ奴だ、われが言附けてさせたにちげえねえ、二人ながら同類だろう、己アにがさねえぞ」
 とつかみつきそうないきおいで有りますから。

        四十九

 由兵衞は市四郎をなだめまして、
由「マヽ静かにして下さいまし、私共を同類だの盗賊どろぼうだのと仰しゃっちゃア困りますが、何う云う訳でげす」
市「わしア筏乗ゆえ上仕事うわしごとに時々参るんだ、すると、昨夜ゆうべ山田川の崖の藤蔓へ引懸ってキイ/\えてる女が有るだから、私も驚いてようやく助け、段々様子を聞くと、その女の云うには、伊香保の木暮八郎方に逗留しているうちに、隣座敷に居た橋本幸三郎さんてえ人が、此方こっち温泉きゝい、案内しようといわれて、跡から供の峯松と云う奴の車に乗って参るみちで、その峯松てえ奴が刃物三昧をして供の下婢おんな斬殺きりころされ、私は逃げようとして足を蹈みはずして崖から下へ落ちましたが、幸いにして藤蔓へ引懸ってあやうい命を助かりましたが、アヽー口惜しい、だまされたって泣いてるだ、湯場稼ぎの有る事は聞いてるが、貴方あんたの供のた事だから、仮令たとえ貴方らは手をおろして殺さねえでも、大概同類にちげえねえ事は分るだ、御領主様と縁繋がりの御内室ごしんぞうさまだし、お前方も掛りえゝだからわしと一緒に警察まできなせえ」
由「何う致しまして私共わたくしどもは決して同類などではございません」
市「いや同類でねえたって掛り合いだ」
由「これは驚きましたな」
幸「是は何うも思い掛けねえ事で、あの車夫しゃふの峯松と云うものはわたくしの供じゃア有りません、雇人やといにんでもないので、実は渋川の達磨茶屋で私共わたくしども昼食ちゅうじきを致して居りますと、車夫が多勢おおぜい来て供をようと勧めました其のうちで、江戸ッ子で気の利いた様子のい奴だと思いましたから、あれを雇って来ますと、至って正直者のように思いましたから目を掛けて遣りましたが、そんなら彼奴あいつがお藤さまを連れ出して無慙むざんにも殺しましたかえ」
市「殺したって殺さねえってとぼけてもいかねえ、さア警察署へ一緒にきなせえ」
幸「まア/\静かにして下さいまし、わたくしも籍のないもんじゃアありませんから、決して逃げ隠れは致しません、私は全く橋本幸三郎と申して少々ばかり御用をす身の上でございまして…この岡村由兵衞と申すものは奉公人てえ訳ではない、日頃宅へ出入りを致すもので、木挽町に居ります何も胡乱うろんの者では有りません、全く私が連れて参った供でないと云う証拠の有るのは、伊香保の木暮八郎方でお聞きなすっても、渋川の達磨茶屋で聞きましても分りますが、私共へ縄を掛けて引くと仰しゃるのは誠に迷惑致しますが、其の代り出る所へ出て申訳は致しましょう」
市「さア早く出る所へ出なさい」
幸「それではお藤さまには誠にお気の毒でげしたが、なんにしてもお怪我は有りませんでしたか」
市「怪我はないだってよ、藤蔓の間へぶら下って居たからいようなものゝ、下へ落ればおおきな岩が幾つも有るから身体は微塵にっ砕けるだが、幸いわしが下に居たから助けて上げたけれども、二人の車夫は人を殺し鞄と荷物を引っさらって何処かへ逃げやがったのだ」
幸「へえ、成程、わたしの方でも昨夜賊難にいまして、是から其の届けを致そうと存じ、騒ぎをやってるのでげすが、兎に角斯う致しましょう、ねえ由さん、此処から使つかいを遣って伊香保の木暮八郎の手代と渋川の達磨茶屋の主人を呼びましょう、幾ら金がかゝっても仕方がないから」
由「うでございますとも」
 とすぐに手紙をしたゝめ、早速来てくれるようにと申して遣ると、木暮八郎方の番頭も参り、達磨茶屋の亭主も来ましたから、打連れ立って原町の警察署へ参りまして、段々調べになりますと、全く車夫の峯松と杢八という渋川からいて参った処の悪車夫二人にて人を殺し、鞄と荷物を引っ浚って逃げたに相違ない事が判然いたしました。されども其の者の行方は未だ知れませんが、全く知らん車夫ゆえ橋本幸三郎はい塩梅に身遁みのがれは出来ましたが、是がために二週間ばかりと云うものは頓と出るも引くも出来ませんで、空しく湯治を致して居りました。
幸「あゝ案外つまらん目に遭った、しかし東京に帰るに付いてほかに土産もないから」
 と前々ぜん/″\思いを掛けましたの鈴木屋と云う料理茶屋の働き女おりゅうを五十円で身請を致しました。おりゅうのお瀧は何処までもすがって橋本幸三郎を騙し五十両の金子かねを取ってひそかに松五郎に持たせて越後へ立たせてしまい、自分はずう/\しくも請出され、東京へ来て橋本幸三郎の妾となって橋場に囲われて居りました。すぐにおりゅうの母をたずねると死にましたと云う。是も皆うそでありますが、幸三郎はおりゅうにすっかりだまされまして、あれは世間へ出るのが嫌いで、至って温順おとなしい、志も感心なものだ、芝居も見たがりもせず、い着物を着たがらんで信心一三昧で温順しくうちにばかり居る、彼様あんな感心なものはない、いずれ気象が知れたら女房にようと幸三郎は思って居りました。

        五十

 橋本幸三郎が瀧川左京という旗下のお嬢さまと存じて悪党のお瀧を五十円にて身請を致し、橋場の別荘へ囲って置きました。只今の権妻ごんさいは極く勉強でございます。先ず旦那のおいでのない日には洋学をして見ようとか、或は少しずつ歌でも習おうとか、それとも編物をやって見ようとか云って何か遣って居りますなれども、昔の妾ぐらい怠けたものは有りません。只今なれば起るのが十時でげすな、往時まえ巳刻よつと云った時分にようやく眼を覚して、
権「誰か火を持って来ておくれな」
 と是から枕元へ下女が煙草盆へ切炭をけて持って来ますと、腹這はらんばいになって長い烟管きせるで煙草をむこと/\おおよそ十五六服喫まんければ眼が判然はっきり覚めないと見えます。是から寝衣ねまき姿なりで、ずうッと起上って障子を開け、廊下伝いに往って便所へ這入り、小用こようすのでございましょうが、此のまた便所の永いことやゝ三十分ばかりも這入って居ります、出て来ると楊枝箱ようじばこ真鍮しんちゅうの大きな金盥かなだらいにお湯をって輪形りんなりの大きなうがい茶碗、これも錦手にしきでか何かで微温ぬるまの頃合の湯を取り、焼塩が少し入れてあります。下女が持って参ります。是から楊枝を遣い始めようとすると、ゴーンと云うのが上野の午刻こゝのつだから今の十二時で何う云う訳か楊枝が四本あります、一本へ歯磨を附けまして歯のもとと表を磨き、一本の楊枝で下歯の表を磨き、又一本の楊枝で歯の裏を磨き、小さい楊枝が有りまして、これで歯の間々あいだ/\を掃除いたします。舌をこきますときは化物が赤児あかんぼでも喰うような顔付を致しまして、すっかり溜飲を吐いてからうがいを致しまして、顔を洗い、それから先ず着物を着替るので、其の永い事、それから神仏へ向いまして線香を上げまして一心に拝みはませんが、神棚や仏壇に向ってごちゃ/\云いながら拝んで居りますうちに、漸く下女が茶を入れて持って参りますから、これを飲んで居ると、ポーンと未刻やつの鐘が響きますから、
権「お湯にこう」
 と昔は種々いろ/\のものを持って往ったもので、小さい軽石が有りまして朴木炭ほうのきずみ糠袋ぬかぶくろの大きいのが一つ、小さいのが一つ、其の中に昔はうぐいすふん、また烏瓜からすうりなどを入れたものでございます。爪の間を掃除致すものを持って参り、下女に浴衣を抱えさせてお湯に這入りますのがこと/″\く長い。先ず悉皆すっかり洗い上げて、すうッと湯屋から出てうちへ帰って来ますと、ポーンと鳴る、是が申刻なゝつと云うので、それから
「さアおまんまを喰べようねえ」
 と是から朝御膳に成るのでございます。お膳の上には種々な物が載って居ります。自分のすきなものが小さい葢物ふたものに這入ったり、一寸ちょっと片口に這入ったり小皿に入れたりして有りますが、碌なものはありません、お芋の煮たのや豆の煮たのやなにかを取交とりまぜて有ります、総唐草の輪形の茶碗へ銀の股引を穿いた箸を出して喰べようと致して、
権「あゝー痛いこと……ちょいとその丸薬を取っておくれ」
 と丸薬を七粒んでお膳に向い、
権「是じゃア喰べられやアしないよ、いつもの処で何か見つくろって来ておくれ」
 と喰いません。仕方がないからあつらえにくと間もなくお椀に塩焼とか照焼が来ます。
権「気に入らないよ、わたしはいやだよ、それより甘いものがすきだから口取くちとりか何かありそうなものだ、見附めっけて来ておくれ」
下女「はい」
 と下女が二度目に使いに参り、帰った時にポーンと酉刻むつが鳴ります、朝飯あさはん夕六時くれむつでございます。是からお化粧に取り掛ります。すっかりたぼや何かを櫛で掻上げて置いて、領白粉えりおしろいを少し濃めに附け、顔白粉を附けてから、濡れた手拭で拭い取ってしまいます。誠に無駄な事を致します。唇へ差した余りの紅を耳たぶや眼の間へ差して、髪を掻揚げてしまい、着物を着替えたりするとボーンと亥刻よつになります。
権「ちょいと其処の三味線を取っておくれよ」
 と、柱に倚掛よりかゝって碌に弾けやアしませんが、いやアな姿になってポツ/\端唄はうたの稽古か何かを致して居りますうちに、旦那がおいでになります。是からお酒が始まるとボーンと子刻こゝのつに成りますから、昼だかよるだか頓と分りません。それに引替えて今の権妻は権威が附いたのか、旦那の為に学問をようといって御勉強でございます。

        五十一

 さて橋本幸三郎は霊岸島から橋場へ通いますには何かかこつけなければなりません。今日は斯う云う権門けんもんだとか、明日はあゝ云う集会があってよんどころなく遅く成りましたら橋場の別荘へ泊りますと、断っては出掛けます。何時も岡村由兵衞が一緒で、或日丁度自分のうちの少し手前に懇意なものがありまして、此家こゝでの宴会を済まして表へ出ると、れ一時でございます。
幸「由さん遅く成って気の毒だね」
由「なに遅くなったって、斯う云う時に御別荘の有るてえ此の位便利な事はありません、だが矢張川口町へ帰るつもりでしきりに急ぎましたが知れるといけません、い塩梅によし原の(芸者)おしめ、のぶしん、おなおなぞが、貴方の此処へ帰る事を知りませんから宜うございますが、知った日にゃア、ヘエーてんで無闇に来ますよ」
幸「お前ばかり知ってるんだから誰にも喋っちゃアいけねえよ」
由「なにわたくしは喋りゃアしませんが、実に世間にも権妻は幾許いくらもございますが、いずれ芸者上りが多いので、旦那が大金を出して身請をてサ、増長させて云う芽が出るんですが、それとちがいお宅のおうちさんぐらいの温和おとなしい方を私は未だ見た事がありません、第一信心者しん/″\しゃでげす」
幸「ウン余り外へ出るのがきれえで、芝居は厭だ花見は厭だといって、うちに居て草双紙を見るのがいてえんだ」
由「御自慢なせえ/\、実にの方は品が違いますねえ、わたくしが参っても物数云わず、にっこりと笑われると胸がむか/\して来て、カアーと気が遠くなる位のものでげすが、一向にお化粧しまいもなさいませんが、何処ともなくお美しゅうございますなア、此の間の黄八丈はすっかりお似合なさいましたぜ」
幸「平素ふだんは木綿でいなんてあれは少し変って居るね」
由「変ってる処じゃアありません、彼様あんなものが上州四万村あたりに居ようとは思いきやで、御運が悪くって御苦労なすって、あゝやっていらっしゃるくらい御苦労のはてだからさ、大概の権妻は朝寝がすきで、第一喰物選くいものえらみをして、あの着物を買いたいの、此処へ往って見たいとか劇場しばいきたいとか種々いろ/\云い出して、チン/\をするくらい無理なのはありませんよ、旦那が奥さんの処へ往って寝るのを権妻がチン/\をするくらい何う考えても無理なのはありません、旦那がお茶を習えとか活花を稽古ろってえといやアにひねって仕舞い、女の癖に変なこうポツ/\毛の生えた羽織などを着ていけません、それに洋学などを習ったりすると変な気位きぐらいばかり高くなって、外国の話なんぞを為ますが、僕などにはちっとも分りませんで面白くありませんが、のおりゅうさんなぞは柔和でね、何もも心得てゝ女らしくいらっしゃるのは、ありゃアちょっと出来ないて……」
犬「ワン/\」
由「シッ畜生……」
犬「ワン/\」
由「畜生/\」
幸「かめ/\……帰ったよ……トン/\/\、おさんや帰ったよ、トン/\/\」
さん「はい」
 と小声で返辞をしてふるえながらそっと戸を開け、
さん「静かにして下さいましよ、盗賊どろぼうが這入りましたよ」
幸「えゝ……何処から這入った、締りは厳重にして置いたんだろう」
さん「あれ……貴方其方そっちへ往っちゃアいけませんよ」
 と云われて慌てゝ由兵衞は柱へ頭をコツリ。
由「あ痛い何うも……わたくしは直ぐに帰りましょう……」
さん「あれ、お庭の方へ出ちゃいけませんよ、盗賊はお庭から這入ったんですよ」
 と云われてまご/\して彼方あっちぶッつかり、此方こっちへ突当って滑ったり、たらいの中へ足を突込つッこんで尻もちをつくやら大騒ぎで、
幸「静かに/\」
由「し静か処じゃアありません、あ痛い何うも……痛くって口がきけませんくらいで」

        五十二

幸「おい/\……おこまやおりゅうは何うした」
さん「何うなさいましたか知りませんが、何でも庭から這入りました様子でございます、判然はっきりとは分りませんが、是はい妾だ、なぐさんで殺して仕舞え、お金をってこうと云う声が聞えたように思います、キャーと云う声がいたしましたから、何でもお駒どんは斬られやアないかと存じます」
幸「ムヽー、おい…マアこれ沈着おちつかないかよ、静かにしなくっちゃアいけねえじゃアねえか」
由「静かにしろって、わわたくしは、さ騒ぎたくっても口がきかれません、是れでは」
 とワナ/\ふるえて居るを見て、
幸「気をしっかり持ちなよ」
さん「確りも何もありませんから私を逃して下さいまし」
幸「これ/\其方そっちへ出ちゃアならん」
 と幸三郎は沈着おちついた人ゆえ悠々ゆう/\と玄関の処へ来ますとステッキがあります。これをげ、片手に紙燭ししょくともしたのを持って、
幸「何処の所だ、何にしてもお駒が案じられるし、おりゅうに怪我は無かったか、賊は逃去って仕舞ったか」
下女「何うでございますか私は只台所のおへッついの下へ首を突込つッこんで居りましたから、しっかりとは分りませんでしたが、多分お怪我をなさいましたろう」
幸「えゝ、怪我をするのに多分などを附ける奴があるものか……おい由さん一緒に往っておくれよ」
由「へえ……一緒にッたってわたくしは逃げられませんよ……あゝ宜しい、心得ましたがう引張ったっていけませんてえに……あ痛い……足へ手桶が引掛って居ます……あ痛い……是は何うも大変なとこへ帰って来ましたなア、私を引張って往ったって何の役にも立ちませんよ」
幸「チョッ静かにしねえか」
由「あ痛い……何うも是は痛い、暗いもんだからお茶棚の角へ頭を打附ぶッつけました、木齋もくさいに此の角を円くさせて置いて下さいな」
幸「お前後生だから外へ出て一寸ちょっと派出所へ届けるか、其処らに巡査さんが歩いて居たら御出張を願って来てくれねえか」
由「へえ……わたくしは巡査はごくいけねえんで、へえ何うも私は巡査さんを見ると何となく怖いので」
幸「お前は盗賊どろぼうじゃあるめえし」
由「ないが何処ともなく巡査さんは凛々りゝしくって怖味こわみがありますから、わたくしが届けちゃいけますまい、何卒どうぞ是は一つお女中に願いましょう」
幸「チョッ……意気地いくじがねえなア」
 と云いながら倉前へ来て見ますと、の縮緬のしごきが一本、そばに浴衣が有りまして、ポタリ/\と血が垂れて居ますを見て由兵衞は慄え上り、
由「あゝ、血が、タ垂れて居ます、南無阿弥陀仏/\血と聞いたらまた腰がぬけッちまいました」
幸「えゝ、此方こっちへ来な」
 と漸々だん/″\庭伝いに来て見ますと、庭に櫛だのかんざしが落ちてあって、向うを見ると桟橋の木戸が開いて居ます。
幸「ムヽ、……此処が開いて居るからにゃア此処からでも這入ったか知ら」
 とつぶやきながら桟橋へ出て見ますと血が垂れて、其処におりゅうの寝衣ねまき浴衣と扱きが落ちてあったのを取上げすかし見て、
幸「ムヽ、是はおりゅうの寐衣と帯だが……おい由さん、何をて居るんだ、わしは此処に居るよ」
由「へえ……わたくしはとても其処までは参られませんよ、へえ」
幸「チョッ……困るなア」
 と云ったがうっかり倉の方へ這入り、盗賊どろぼうに長いものひっさげて出られちゃア堪りませんし、由兵衞はぶる/\して役に立ちませんから、幸三郎が自身に駈出して参ると、丁度巡行の査公さこうに出会いました。

        五十三

幸「只今私宅わたくしかたへ強盗が押入りまして、家中うちじゅうに血が垂れて居りますから、すぐに御出張を願います」
巡「ウン承知致した」
 と云ったが、一人では万一賊の方が多勢おおぜいではいけませんから派出所へ立帰り、呼子よびこにて同僚を集め、四人ばかりにて其の場へ駈附け、裏口台所口桟橋の出口へ一人いちにんずつ立番をして居り、一人いちにんが表口からズーッと這入り、段々取調べると、
幸「今年十六才になりますお駒と云う少女むすめが見えません、尤も同人の寝衣、扱きとうが倉前に落ちて居りますから、賊が倉の中に隠れて居りまするかも知れません」
 と申しますので、是から段々取調べました処何処にも居りませんが、大した品物を盗んで参りました。
巡「大方妾のおりゅうとお駒と申す少女むすめを辱かしめたる上に斬殺きりころし、死骸は河の中へほうり込んで、舟で逃げたものだろう」
 と取調べ、探偵は入替いりかわり/\四五名きたり、名刺てふだを置いて帰りました。是から先ず其の筋へ訴えなければなりませんから大した騒ぎでございます。斯うなっては幸三郎も母に明さん訳には参りませんから、母にも明し、是から番頭を呼んで来まして、くまなく取調べた上、訴書うったえしょしたゝめさせました。
盗難御届とうなんおんとゞけ
京橋霊岸島川口町四十八番地
橋本幸三郎
明治八年九月四日午前一時頃我等別荘浅草区橋場町一丁目十三番地留守居の者共夫々それ/″\取締致し打伏し居り候処河岸船付桟橋より強盗忍び入りそろものと相見え裏口より雨戸を押開け面体めんていかくし抜刀を携え二にんとも奥の方へ押入り召使りゅう雇女駒と申す者を切害せつがい致し右死体は河中へ投込候ものと相見え今以て行方相知れ不申候もうさずそろ又土蔵へ忍入りしやわたくし所持の衣類金銀ともことごとく盗取り逃去り候跡へ我等参合まいりあわせきよと申す下婢かひに相尋ね候処驚怖の余りおのれの部屋に匿れ潜みおり候えば賊の申候言葉ならびいずれへ逃去候しか不相分あいわからず申出候もうしいでそろしかるに一応家内取調申候処庭前ていぜん所々しょ/\に鮮血の点滴有之これあり殊に駒の緋絹縮ひぎぬちゞみ下〆帯したじめおびりゅうの単物ひとえもの血に染み居候まゝ打棄うちすて有之候間此段御訴申上候
 右盗取られ候金高品数之通りに御座候
一金二千円 内訳金千円十円札、金千円五円札○一金三百円内訳金百円二円札、金二百円一円札○一金側時計一個たゞし金鎖附此代金二百円○一同一個但銀鎖附此代金百円○一掛時計二個此代金五十円○一衣類二十七品此代金五百円○一ぎょく置物一個此代金二百円○一古銅こどう花瓶一個此代金百五十円、合計金高三千五百円也
 さて右の書面を以て其の筋へ訴えましたゆえ、探偵の方が段々調べました処、後に致ってお駒の死骸が中洲なかずに掛って居て是が揚りました。尚厳重に調べに成りましたが、何うしても盗賊の行方が分りません。此の後明治十一年七月十日、千葉県下下総国しもふさのくに野田宿のだのしゅくなる太田屋おおたやという宿屋へ泊り合せて、図らずも橋本幸三郎が奧木佐十郎と云う前申上げました足利江川村の機織屋はたやが、孫の布卷吉を連れて亀甲万きっこうまんという醤油問屋しょうゆどいやへ参るに出会い、かたきの手掛りをると云うお話でございます。

        五十四

 明治十一年七月十日野田に祇園会ぎおんえと云う事がございますが、豪商の居ます処ゆえ御祭礼は中々立派に出来ます。両側へずーっと地口行灯じぐちあんどうかゝげ、絹張に致して、良い画工えかき種々さま/″\の絵をかせ、上には花傘を附けまして両側へ数十本立列たちつらね、造り花や飾物が出来ます。水菓子屋或は飴菓子団子氷水を商う店が所々しょ/\に出まして、中々賑やかな事でございます。近郷のものが皆参詣に出ます。鎮守は愛宕あたごでございます。彼地あちらへ往らっしったお方は御案内でいらっしゃいますが、社殿はけやき総彫そうぼりで、花鳥雲竜かちょううんりょうが彫ってごく名作でございます。是は先代の茂木佐平治もぎさへいじが建立致したのでございます。境内には松杉銀杏いちょうの大樹が繁茂して余程広うございます(寳暦ほうれきの年号が彫ってあります)牝狗あまいぬ牡狗こまいぬの小さいのが左右にあり、碑が立って居て、之にたし鐵翁てつおうの句がございまして、句「三光さんこうの他は桜の花あかり」句「声かぎり啼け杜鵑ほとゝぎす神の森」これは先代茂木佐平治の句で、他に眞顏まがおの碑が建って居ります「あらそはぬ風の柳の糸にこそ堪忍袋縫ふべかりけれ」という狂歌が彫ってあります。大門だいもんを出ると、角に尾張屋おわりやと云う三階の料理茶屋があります。日の暮から村の若いしゅや女中がぞめき半分で見物に出掛けますが、妙な扮装なりで若い衆は頬冠りを致しますが、全体頬冠りは顔を隠そう為に深く致しますが、彼地あちらの若い衆は顔を出して皆後方うしろへ冠ります、なるたけ顔を見せるように致しますから、髷の先と月代さかやきとが出て居ります。手織の糸織縮いとおりちゞみを広袖にして紫縮緬呉羅むらさきちりめんごろうの袖口が附いて居ます、男子おとこの着物には可笑しいようで、ずいと前を広げても白縮緬か緋縮緬のふんどしをしめるのではありません、矢張晒木綿さらしもめんの褌で、表附ののめりの下駄をいて団扇を持って出ますが、女も其の通り華美はで扮装なりて出ます。矢張女も手拭を冠って居ります。彼地あちらでは女が、誠に済みませんが手拭も冠りませんで御挨拶を致します、と云う処を見れば手拭を冠るのが礼になって居る事と見えます。実に非常の群集で、其処にツクノリと云う事があります、何う云う事かと聞きましたら、是は蟇目ひきめの法だと云う。よいから夜中に掛けてツクを乗りますが、是は不思議なもので、代々近村の重次郎じゅうじろうと云う人がツク乗りを致します、其の扮装なりが誠に可笑しゅうございます。白木綿の着物を着て、茜木綿あかねもめんたッつけ穿き、蝦蟇がまの形をいたしてるものを頭に冠り、すその処に萌黄木綿もえぎもめんのきれが附いて居ますから、角兵衛獅子形かくべえじしがたちで、此の者を、町内の寄合場所へ村の世話人が附いて招待しょうだい致し、屏風を立廻し馳走を致して居ます。年番ねんばんに当ったうちの前にツクと云うものを建てますが、丸太で長さ十二間もありまして白布で巻き、上に醤油樽が白木綿で包んで乗せてあります。それを綱で張ってありますが、乗損のりそくなって落ちて死んだ時には、ツクの下へ其の死骸をうめるのがの祭の法だと云いますが、危険けんのんわざであります。なれども慣れて上手なものでございます。下に囃子はやして居ます。弥々いよ/\重次郎さんが来る時には早めて囃子を致します。笛が二管、〆太皷が二挺ある切りで囃子が極って居ます、テレツク/\スッテンテン、テレツク/\スッテンテンと叩きます。重次郎さんを送って参ります時の囃子が可笑しゅうございます、唄のような節を附けて「ツークの重次郎どんがツークへ登ってヤレエーヘンヨ、テレツク/\スッテンテン」他に何も文句は云いません。処の風と云うものは妙なもので、充溢いっぱいの人立ちでございます。太田屋という旅宿やどやがございまして、其の家に泊って居りますのは橋本幸三郎に岡村由兵衞でございます。

        五十五

幸「おい何うだえ此処の祭てえのは」
由「何うも驚きやした、是は何うも実に驚きました、是程の騒ぎじゃアないと思いましたが、狭い処にしちゃア珍らしゅうございますね」
幸「僅か離れた所でも大層風俗の変ったものだね」
由「変ったって何だって何うも大変り、女がの吹いたように白粉おしろいを付けて、黒い足へ紺天こんてんの亜米利加の怪しい鼻緒のすがったのを突掛つッかけて何処から出て来るんだかいね、唐縮緬とうちりめん蹴出けだしをしめて、何うしても緋縮緬と見えない、土器色かわらけいろになった、お祖母ばあさんの時代に買ったのを取出してチョク/\しめるんでしょう、実に面白うげす……此のうち※(「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)あんころ餅が旨いからわたくしは七つ食べましたら少し溜飲りゅういんこたえました」
幸「手塚屋は古河の在手塚村の者が出て売始め、今では上等の菓子屋に成ったてえが、今お前に御馳走だと云うのは、亀甲万の醤油蔵は何うだえ」
由「何うも大きなもんですねえ、一年に何の位造るんでしょう」
幸「大して造るてえ事だ、何でも一ヶ年に並亀甲万が七万樽以上に、上等のが七万樽で、両方で合計十四五万樽も出るてえことだなア」
由「へえ沢山の桶が並んで居ましたが、醤油蔵が二十三間あって此方こっちが十八間あるてえましたね」
幸「桶の高さが七尺五寸から八尺ぐらいで、の中へ落ちて死んだものがあると云うが、あの石を附けて絞る様子などは大したものだね」
由「へえ何うも実に驚きました」
幸「並の醤油を造る大桶の数が百四十五もあると云うが、近い処だけれども大きいものだね」
由「大きいたってわたくしは実に驚きました、醤油を三十石ぐらい造るんで、蔵の中に居る人数ひとかずが四五十人ぐらいも有って、事が大きいたって、あのかまどの釜は何うでげす、矢張れは釜屋堀かまやぼりの七右衞門うえもん(今の釜浅鋳造所かまあさちゅうぞうじょ)が拵えたんでげしょうが、七右衞門と六右衞門が釜を売って、たった一右衞門違いで五右衞門は其の釜で※(「火+(世/木)」、第3水準1-87-56)うでられたてえのは妙でげすな」
幸「詰らねえ事を云うな」
由「亀甲万の旦那にあれは旦那の御紋ですかと聞いたら、なにうじゃアない、是には種々いろ/\訳のある事だ、南新堀みなみしんぼり萬屋忠藏よろずやちゅうぞうと云う仲買があって鱗の紋だから、それを二つ合せて萬屋の萬の字を附けたのが始りだと申しますが、不粋ぶいきな紋もありますが、僕のは太輪ふとわにして中を小さくても抱茗荷だきみょうがはいけません、あれを細輪にして中を大きく出すと商人あきんどらしく成ります、形が悪うございますね、抱茗荷を太輪にすると馬の腹掛のようでいけませんな、ハヽヽヽヽ」
幸「静かにしねえか」
由「はい、大きな声で喋りましたが、何うでげす、のツークの重次郎どんテレツク/\スッテンテンてえのは」
幸「止しなよ」
 と話をして居りまする。其の隣座敷に居りましたのは前申上げました奧木佐十郎という年齢としは六十六に成り、忰も嫁も死んだのでよんどころなく機織女を抱え、僅かの事で其の日を送って居りますが、一体達者な爺さんだから、今年十三に成ります孫の布卷吉と云うものを亀甲万へ奉公にやって置き、孫に会いに参ったのでございます。
佐「これは詰らん物だけれども、い物を上げたって何もも御不自由のないおうちだから、是だけお祖父じいさんが持って来たから、旦那様へ上げておくれよ、お前何でも能く辛抱して、うして、いか、何もわしがお前にすごして貰おうてえのじゃアねえが、奧木の家を相続するのはお前より他にはねえから、奉公は辛い、辛いものだけれども詰りお前の為だ、取分け朋輩しゅも多かろうから、番頭さん始め若い衆から朋輩衆の機嫌を取損とりそこなわねえようにして、怠りなく旦那さまを大切だいじなければならねえよ」
布「お祖父さん、わしは奉公が厭になりましたから、今日すぐに足利へ連れて帰って下さいな、誠に御無理な事を云うようでございますけれども、今日お前さんのおいでなすったのは幸いでございますから、何卒どうぞひまを戴いて帰り、わたしはお祖父さんのそばに居とうございます」
佐「お前はわしの顔を見ると其様そんな事ばかり云う、それだから私は滅多に顔出しをしないのだ……それは辛らいさ、辛いけれども何様どんな人だって奉公をて、他人の中を見て其の苦しみをして来たものでなければ役には立ちません、お祖父さんの傍に置いて、何でもはい/\とお前の云うなり次第に気儘にすれば馬鹿に成っちまいますから、辛かろうが他人のうちで辛抱して、何様な事でも生涯の立つ事を覚えなければ成りません、殊に結構なおたなで、旦那さまもお慈悲深なさけぶかいし、文明開化の事も能く御存じのお方ゆえ、何でもすがって居なければならねえのに、かりそめにも帰りたいなどと云っては成りません、何だって其様なことを云う」

        五十六

布「お祖父さん、あんたはるお年でございますから、おとっさんおっかさんも死んでから、お祖父さんのお蔭で私は斯様こんなに大きくなりましたが、幾らお達者だって、最う六十の上六つも越して入らっしゃるから、あすが日病みお煩いに成っても、お薬一服煎じて貴方にませるものはありませんと思えば、熱かったり寒かったりするたびに気になりまして、お前さんの事を朝晩忘れた事はありません…また奉公に参りますまでも一旦は帰りとうございますから何卒どうぞお暇を戴いて下さいまし」
佐「お前そんな事を云っては困ったなア……お祖父さんは無いものと思え、お祖父さんの事などを思って奉公が出来るものか、お祖父さんも以前まえは大小を差して、戸田家にて仮令たとえ少禄でも御扶持ごふぢを戴いたものだ、其の孫だからお前も武士さむらい血統ちすじを引いて居るではないか、忠孝まったからずと云うて、奉公をする身は仮令両親があっても主人につかえるうちは親の事を忘れなければならんものじゃ、それが忠義と云うもの、お祖父さんの顔を見ると其様そんな事を云う、これから其様な事を云うとお祖父さんは最う決して構いませんよ、わしも何うかしてお前の多足たそくに成るようにと思って、年寄骨としよりぼねはたの仕分をているのに、其様な弱いを吐くとかんぞ、お祖父さんは再び此処へ来んぞ」
布「はい……お祖父さん昨夜ゆうべ祭礼まつりで講釈師の桃林とうりんの弟子の桃柳とうりゅうと云うのが来ましたが、始めて此処へ来たもんだから座敷をてやろうと旦那さまがお口をお利きなすったもんですから、聴衆きゝて多勢おおぜい出来ましたので、お店の方も皆な寄って講釈を聞きました」
佐「ウンそれは有難い事で、足利の江川村などに居ちゃア講釈でも義太夫でも芝居でも見聞みきゝをする事は出来やアしない」
布「その桃柳てえ講釈師が金比羅御利生記こんぴらごりしょうきの読続きで、田宮坊太郎たみやぼうたろう[#ルビの「たみや」は底本では「なみや」]」が子供ながら親のあだを討ちました所の講釈でございましたが、あれを聞きましてお祖父さん私は親の仇が討ちたく成りました」
佐「え、なに親の仇が」
布「へえわたしも茂之助の忰であります、母といもとは村上松五郎とお瀧の為に彼様あんな非業の死様しにようを致しましたのは、親父が間違えて母親おふくろを殺したんでございますが、実に驚きまして途方に暮れ、の様に親父は首をくゝって死にますような事になりましたのも、みんなお祖父さん村上松五郎お瀧から起った事でございます、わたくしも子供心に二人の顔を覚えて居ますから、彼奴等あいつら二人を殺さんではわたしが親に対して済みませんから、何卒どうぞお暇を戴いて下さいまし」
佐「あゝ……、うか、手前てめえ年もかねえで能く親のあだを討とうてえ心になってくれた、おくのや茂之助が草葉の蔭で此の事を聞いたらさぞ悦ぶであろう……じゃが今の世の中では仇討あだうちと云うことは出来ないが、彼奴等は天罰でいまにお上の手に懸って、その悪をただけの処分は屹度受けようから諦めてくれ、よ、其様そんな事を云ってくれるとわしが困るから」
布「いえ、お祖父さん何卒どうぞお暇を戴いて下さい、私は最う一日もられません、しお祖父さんが私を置いてけば、明日あしたにも彼家あすこを駈出します」
佐「どうでも手前てめえ討つと決心したか、しかし人を殺せば手前の身にもそれだけの処分が附くぞ」
布「いえ私は死んでも宜しゅうございます、彼奴等二人を仮令たとえ私が手をおろして討ちませんでも、つかまえてお上の手を借りましても思う存分にませんでは腹が癒えませんから」
佐「ウム…宜し、お暇を願って遣ろう……あゝー能く仇を討つと云った」
 としめやかに話をて居るを隣座敷で聞きまして、岡村由兵衞が、
由「旦那え/\」
幸「何だ」
由「仇を討つてえますが何でしょう」
幸「講釈だろう」
由「ナアニちいさい子が仇を討つてえと、何だか傍に居る老爺じいさんが能く討つと云ったてえましたぜ」
幸「ムヽもう討ったのか」
由「なに討ったとか討つとか云ってますが、此処でチョン/\始まっては大変で」
幸「まさか始まりゃアしめえ」
由「何でげしょう」
 と岡村由兵衞が怖々廊下へ立出で、そっと障子の破れから覗くと、六十有余歳の老人と十二三に成る小僧と二人にてのひそ/\話、幸三郎も覗き見て、
幸「はて変だな」
 と怪しみました。さて是から奧木佐十郎が茂木佐平次方へ参って、布卷吉のいとまを貰って、川蒸汽に乗りまして足利へ帰るのでございますが、此の汽船ふねへ再び橋本幸三郎が乗合せるのも妙な訳で、上州の川俣かわまた村と[#「川俣かわまた村と」は底本では「川俟かわまた村と」]云う処で筏乗の市四郎に会いますと云う、是れからかたきの手掛りが分ります。

        五十七

 野田の祗園祭でございまして、亀甲万のうちへ奉公を致して居りまする布卷吉と云うは、今年十二歳ではありますが、至って温和おとなしい実体じっていものでございます。祖父そふ奧木佐十郎が顔を出しに参りましたのを見ると、親のかたきが討ちたいからおひまを戴いてくれと云うので、祖父じいが亀甲万の主人に面会致し、只管ひたすら暇をくれるようにと頼み、幾ら止めてもきません。亀甲万の御主人も親切なお方でございますから、懇々こん/\説諭を致しました。
主人「当今は復讐などは決して無い事じゃから、そんな事は思いまったら宜かろう、それより相変らず当家に奉公してればわしあれ温順おとなしい事も看抜みぬいてるから、後々には私も力になってやろう、年をったお祖父じいさんが先に立って仇討などという事を勧めちゃアいかん、それは時節が違うから、まア私の云う事をいて思いとゞまんなさい」
 と種々さま/″\に意見を加えましたが、一方かた/\が頑固な老爺じいさんで肯きませんから、そんならば暇をやろうと万事行届ゆきとゞいた茂木佐平治さんだから多分の手当をてくれ、今上川岸いまかみがします田と申す出船宿から乗船切符まで買うて与えました。是から出船宿へ参るには、太田屋と申します宿屋の向横町むこうよこちょう真直まっすぐに這入りますと、突当りに香取かとり神社の鳥居がありまして、わき青面金剛せいめんこんごう彫付ほりつけたおおきな石塚が建って居ります。鳥居から右へ曲ると高梨のうちで、左右森のように成って居り、二行の敷石がございまして、是からずいと突当ると小高いどてが有ります。其処それあがってだら/\とおりると川岸でございます。此処に出船茶屋があります。升田仁右衞門ますだにえもんと申してはの辺きってのい出船宿でございます。船へ乗りますお客は皆早く此家こゝへ参りまして待受けて居ります。切符を買ったり弁当拵えの支度をするとか、あるいは菓子を買って入れるなど多勢おおぜいがごた/″\して居ります中に、前申上げました橋本幸三郎、岡村由兵衞の二人が野田から参りまして、先刻さっきから出船を待って居ります。
由「旦那、只何うもわっしが今日驚きましたのは、のツク乗りで、何うもさかさまに紐へ吊下ぶらさがって重次郎さんがさがって参ります処には驚きました」
幸「あれはまア珍らしいなア」
由「珍らしいなんて実に見る事は出来ませんよ、灯台もと暗しで、東京の近処ちかま彼様あんな変ったお祭の有る事を是までちっとも知らずに居りましたが、実に何うも不思議、へゝゝゝのテレツク/\なんぞは悉皆すっかり覚えましたが、重次郎さんの扮装なりてえのはまるで角兵衛獅子でございますね、白の着物に赤い袴で萌黄色もえぎいろのきれの附いている物を頭部あたまかぶって、あれで獅子が附いてれば角兵衛獅子だが、あれは蛙だから重次郎蛙です、只々重次郎さんの出て来る処が不思議でげすが、彼様あんな事は開化の今日こんにちは種切れに成りそうなもんだが、代々重次郎さんてえものが出るのがおかしいね、あれで乗りそこなって死んじまうと、ツクの下へ死骸をうめるのが法だと云いますが妙でげすねえ」
幸「おい/\汽笛が聞えるようだぜ、汽船ふねが来たんじゃアないか」
由「うでげすな……おッ旦那月があがって来ました、うがすなア、月の光で川の様子を見ながら参りますと退屈しのぎになりますよ……あ来ました/\お前さん此の鞄を持ってゝ下さい」
下女「笛が聞えたってあれでまアだ半道程も先だアから、ゆっくり支度をしておいでなせえましよ」
由「でも、ピイー/\と川へ響けて大層聞えますね……何だかわっしア気がきますから、旦那徐々そろ/\支度をなさいな…大きに姉さんお世話さま、お茶代は此処へ置きましたよ」
下女「これは有難うございます、まア御緩ごゆっくりおいでなせえましよ、滅多に汽船ふねは来ませんから」
由「なくっても先へ出て居た方が宜しい、へゝゝゝゝ呑気でございますね」
幸「田舎は是だけがいのう」

        五十八

由「姉さん桟橋が何処にかありませんかい」
下女「はい、今度出来るてえ事ですが、まだえだから、どての草へつかまって下りるだアね」
由「草へ掴まって…あぶねえなア、早く桟橋をこせえたら宜さそうなものだ……すべりゃアしないかい」
下女「大丈夫でござえますよ、慣れてるものは船へ飛込むだが、岸の方は水が来ねえから泥が深くなってますよ」
由「深い……困ったねえ、ずぶりと這入っちゃア大変でげすから、船が来たら板か何かむこうへ渡して貰いましょう」
下女「慣れた人は皆またいで船へ打飛ぶっとんで這入りますよ」
由「此方こっちは慣れねえから打飛べねえよ」
 と云って居るうちにシャ/\/\/\と汽船きせんたちまちに走って参りました。其の頃には通運丸つううんまる永島丸ながしままるとありまして、永島の方は競争して大勉強でございます。
幸「さア/\お前先へ這入んなよ」
由「宜うございますから、荷物は後からとして……上等の方は何方どっちだえ、なに此方こっちだ、大変だなア……これは危い、ちょいと貴方此の鞄を持ってゝ頂戴……両手でなければとてもいけません、ズブ/\と這入っちゃア大変でげすからナ…へえ御免なさい/\……これは/\何うも旦那御覧ごろうじろ、まるで鮪を転がしたようにみんなゴロ/\寝ていますが、上等の方でさえ是れでげすもの、下等の方はゴタゴタして大変なもんですぜ……此の通り実はすいて居るのだが皆な寝ているので幅を取っちまいますが、仕方もありません、しかしね旦那、此処に包や何か整然ちゃあんと掛ける処が出来てるのは流石さすがに手当が届いて居ますね……蝙蝠傘などを窃取どろぼうされるといかねえから此処へ斯うまとめて置いて……貴方最う少し其方そっちへお寄んなさいな、此処を広くしていましょう……貴方寝耋ねぼけて居ますか、アハヽヽヽ野田に遊んでたので何んだか百姓ばかり乗ってるような心持が致しますね……おいボーイさん、火を持って来ておくれな……なにマチが這入って居ると、マチはあってもいから火を一つ持っておいでな……さみしくっていけねえから……なに夜は火はない、虚言うそばかり吐いて居る、面倒だもんだから彼様あんな事を云ってる」
 とマチで火を擦付すりつけ、煙草に移し一口吸い、
由「フー……これで何んでげすね、今夜一晩船の中では何うで寝られませんな、東京とうけいからスイと来て上州の川俣村まで[#「川俣村まで」は底本では「川俟村まで」]くにゃア随分退屈は退屈でげすな……おッ是は大変に蚊が居ますね、そばから/\這入って来ます事、是は恐入りましたなア……永島さん早く船を出す訳には参りませんか」
水夫「荷が悉皆みんな這入らねえじゃア出しません」
由「荷てえば大層ころがってますね」
 と見ますると、傍に居ましたのは年の頃二十七八にも成りましょうか、大丸髷の婦人で、色の黒い処へベルモットでも飲んだような顔付で、鼻がいやアに段鼻になって、眼の小さな口の大きいほうで、服装なり木綿縮もめんちゞみの浅黄地に能模様丸紋手のうもようまるもんて単物ひとえもの唐繻子とうじゅすの帯をめ、丸髷には浅黄鹿あさぎがの手柄を掛けて居ます、朱縮緬の帯止をこて/\巻付けて、仕入物の蒔絵まきえの櫛に鍍金足めっきあしに土佐玉のかんざしで、何処ともなく厭味の女が、慣れ/\しく、
女「貴方此方こちらへ入らっしゃいまし、御緩ごゆるりお坐りなさい」
由「へえ有難うございます、誠にお邪魔さまで」
女「お婆さん其の包みを脊負しょっておいでよ…貴方方は東京とうけいでいらっしゃいますか」
由「えゝ東京で」
女「東京のお方と聞くとお懐かしゅうございますこと」
由「貴方も東京でございますか」
女「はいわたくしは足利の方の親類共に厄介に成って居りまして、時々博覧会や何か有りますと東京へ参りますが、上野はまた別でございますね」
由「へえ左様です」
女「今度の博覧会は立派な事でございますね」
由「えゝ盛大な事でございます」
女「大して人が出ますね」
由「えゝ出品ものも余程多い事でございます」

        五十九

女「私もそれから彼方此方あっちこっちと見物も致しましたが、私は此の様にふとってますもんですから、股がすくむようで何だかがっかり致しますので、それから何でございますね、弁天から上野の辺が誠に綺麗に成りましたこと、それに松源まつげん鳥八十とりやそなどと云う料理茶屋も立派に普請が出来ましたね」
由「えゝ大層……立派に普請が出来ました」
女「それに花火の仕掛ものなどは昔とは全然すっかり違ってしまいました」
由「えゝ大した勉強な事で」
女「是までの東京とうけいの玉屋鍵屋などで拵える仕掛とは違いまして、ポッポと赤い火や青い火が燃えまして誠に不思議で、あの水の中をチュ/\/\と走って歩くのはあれア何てえのでございましょう」
由「へえ何てえますか私は知りません」
女「貴方は新富町しんとみちょうへいらっしゃいましたか」
由「えゝ参りました」
女「大層いたしますね、今度の狂言は中々大入で、私が参りましたら一杯で、尤も土曜日でございましたが、ぎっしりでございましたよ」
由「へえ、土曜日曜は大入で」
女「團十郎なりたやは何うもうまいもんでございますね、渋い事をさせてはの位の役者はございませんね、ほかの役者とは違いますね、むずかしい事を致しますが、実に巧いもんで」
由「えゝ堀越ほりこしは別でございます」
女「それに菊五郎は上手なことで、左團次さんも巧いものですが、菊五郎と左團次と一対揃って巧いものでございますね」
由「へえあれは中々巧いもので」
女「小團次こだんじは大層役者を上げましたね、それに私は福助しんこまの人気の有るには本当に驚きましたよ、往来そと福助ふくすけが通ると私共のような者まで駈出して見る気になりますのは別で、また娘なぞに成ると実に綺麗でございますね」
由「えゝ誠に綺麗で……(小さな声で)これは延べつだ」
女「大層綺麗で人気の有ることは別でございますから、何うかして身体をくして遣りとう存じまして、私も心配致して居りますが、何う云うものでございましょう、なおりましょうかね」
由「へえ癒るかも知れません、松本先生などがお骨折ですから癒りましょう」
女「それに家橘かきつが大層渋く成りましたのに、松助まつすけが大層上手に成りましたことね、それに榮之助えいのすけ源之助げんのすけが綺麗でございますね」
由「えゝあれは誠に綺麗な事で……これは堪らん、旦那少し代って下さいまし、わたくしは小便にきますから」
女「お手水は其方そちらじゃアいけません此方こちらでございますよ」
由「へえ種々いろ/\御親切に有難う存じます」
 と由兵衞はこそ/\逃出しました跡で、の女は橋本幸三郎に向いまして、
女「貴方も東京のお方で」
幸「へえ」
女「の方と何方どちらへいらっしゃいますの」
幸「わたくしは足利まで参りますので」
女「おやまアお嬉しいこと私も足利へ参りますの、私は足利町五丁目の親類共に居りまする吉田屋よしだやのふみと云うもので、何うかちっとお訪ね下さいまし」
幸「左様でございますか」
女「貴方は足利は何方でございます」
幸「ヘヽヽ極く外れの野暮な処へ参りますが、いずれまたお訪ね申しましょう」
女「何卒どうぞ入らしって下さいましよ」
幸「有難うございます」
女「私は五丁目に居りますので、右側の何でございますよ、貴方は」
幸「へい栄町の変なとこを這入って桐生の方へ参る道でございますよ」
女「へえ左様でございますか」
幸「由さん早く来ておくれよ」
由「まだ話が途切れませんか、是は驚きましたな」
 と云ってうちに船が出ました。また寳珠鼻ほうしゅばなへ着くと乗込むものも有り、是から関宿せきやどへ着きますと荷物が這入るので余程手間がかゝり、堺へ参りますと此処にて乗替え、栗橋くりはしへ参り、が昇って川に映り、よい景色でございます。栗橋から上州の川俣という処へ船が着きますと、かれこれ十時、い塩梅に天気もよく皆々客は上りましたから一同大きに安心致しました。是から幸三郎由兵衞も上ることに成りますと、いゝ塩梅にの段鼻の大年増も居なく成ったから、二人はホット息をきました。

        六十

由「旦那何うでございました」
幸「何うも本当に驚いちまった」
由「吉川屋よしかわやてえ料理屋は此処でげす、昨夜ゆうべの女にのべつにしゃ[#ルビの「しゃ」はママ]られたので私ア胸が一杯に成りました……さア這入りましょう」
下女「此方こっちへお掛けなさいまし……此方へお上りなさいまし」
由「何処か斯う景色のい、見晴しの有る、風通かざとおしの好い、しんとした、乙に賑やかなとこがありませんか」
幸「そんなむずかしいとこがあるものかアね」
女「此方こちらへ入らっしゃいまし」
由「昨夜ゆうべちっとも寝られませんでしたから、此処で昼寝をして顔を洗ってから、何かあつらい物を致しましょう……姉さん何が出来るかい」
女「鯉こくに玉子焼どじょうでがんす」
由「結構、じゃアその鯉こくに玉子焼でお酒の好いのを、と云ったところが別に好いのもあるまいが、成たけ気を附けておくれ、兎に角顔を洗って参りましょう」
女「お顔をお洗いなさるなら此方こっちへ入らっしゃいまし」
 と下婢おんなの案内に従って顔を洗って参り、
幸「浴衣が湿じめついたから」
 と着物を着換え、酒も飲み、御飯ごぜんべてから昼寝をしようかと思いますと、折悪おりあしゅうドードッと車軸を流すばかりの強雨おおぶりと成りましたから立つ事が出来ません、其のうちの辺は筑波は近し、赤城山あかぎさんへも左のみ遠くありませんから、ガラ/\/\と雷が烈しく鳴って参り、二三ヶ所へ落雷致しましたので立つ事も出来ず、ぐず/\して居ますうちに、午後の四時半時分に成ると、フーと雲が切れましたから幸三郎も由兵衞もホッと息をきました。
幸「是から立つてえのも遅いから今夜は此処へ泊ろうじゃアねえか」
 と皆泊りも多うございますから宿屋でも気を利かして湯を立ってくれました。
由「旦那わたくしは雷にゃア驚きましたが、お湯へれただけは当処こゝも中々気が利いてますね」
幸「ウン此処のうちは宜く手当が行届ゆきとゞくねえ」
由「大届きでげすとも、しかわたくしは雷は大嫌いだね、ひどく怖うございました、尤も雷が怖いてえ顔付でもありませんが、今の雷と昨夜ゆうべの段鼻の大年増には実に驚きました、貴方の様子のとこからちょいと横目でキョト/\見たりして、本当にいやでございましたな、のべつに喋ってさ」
幸「うさ、併し雷と云えば四万で一遍大雷鳴おおがみなりに遭って驚いたっけな」
由「左様さ、宿屋の裏の口へ落た時には驚きましたね」
幸「此の頃では雷避かみなりよけが出来たので安心だが、日光へ往った時に霧降きりふりの滝へく途中で大雨大雷鳴に出会い、甚く困ったが、あの時を思えば霧降の滝壺まで下りたっけねえ」
由「それは何んですが、伊香保でお癪を起した御新造ね、のくらいまた人柄のい御新造も沢山たんとはありませんね、お可愛そうに世の中の事を御存じないのだから驚きましたろう、峰松と云う車夫くるまひきだまして引摺り出して、折田村で正直そうな彼奴あいつがやったてえのでげすが、彼奴が鞄が残ってあったと云い持って来たのが手で、お金は入りません、車に残ったものをお届け申すのは当然あたりまえの事だてえのでげすから、たれも一杯喰おうじゃアありませんか、つい正直者と思って次の間へ置きました、どっちりお金の這入って居た大鞄は木暮の方へ預けて置いたから宜うございましたが、うでないと何様どんな目に遭ったかも知れません、何しろ暇を潰した上に四万ではおお御散財でげしたが、關善へ大きな男が談判に来た時にゃアわたくしは本当に怖うございましたよ、首をねじるなんて親切ものだから、烈しく掛合われた時には本当に驚きました」
幸「の時は怖かったな、彼の時に種々いろ/\災難の重なったのも詰りおっかさんが止せと仰しゃったのを無理に出たから悪かったが、鈴木屋に働いていた彼のおりゅうには驚いた」
由「えゝ彼奴には喰ったね、ポロ/\涙をこぼして、えゝ何とか云いましたっけ、私は瀧川左京のお嬢さまでございますって身の上話を並べたから、此方こっちもホロリと来て、あゝお気の毒だって、貴方はお慈悲深なさけぶかいもんだから五十円で身のしろをくぎって、東京とうけいへ連れて来て権妻になすって、目を掛けておやんなすったが、実に怖いな、漸々だん/″\様子を聞けば芝居町の芸者で小瀧と云う奴だそうで」
幸「わしが東京へ連れて来ると芝居をるのも厭だ、物見遊山は嫌いだ、外へ出るのは厭だと神妙らしく云ってたのは、本当に出嫌いのではなくって、実はお尋ねものゝ日向見ひなたみお瀧と云う奴で、真実温順おとなしいのではない、何処へも出て歩く事が出来ねえんだ」
由「亭主は村上何んとか……ウン松五郎てえ肩書の有る旅稼ぎだそうでげすが、得て湯場などには然う云う奴がありますね」

        六十一

幸「おい/\此処でうっかりお尋ねもんだなんて、彼奴あいつの事ア喋られませんよ」
由「へえ…彼女きゃつもあゝ云う目に遭ったのはばちでげすね、だが橋場の御別荘へ押込の這入った時には私は驚いて腰が脱けちまいました、あゝ血が流れて居るのを見たが、実に何うも彼様あんいやな心持はありませんね、何んとか云うお女中が其方そっちから這入っちゃアいけません、此方こっちくと其処に泥坊が居りますよと云われた時にゃアわっちアとっちたね、しかしまアの女は天罰で賊に斬殺きりころされ、桟橋からほうり込まれたのでげすが、あれ矢張やっぱり悪事のばちだろうね」
幸「ウン彼奴きゃつ窃盗ぬすッとうをする奴だが、お瀧も矢張やっぱりお尋ねものの悪党だから殺されたって却ってわしい気味ぐらいに思ってるが、のお駒と云う小女は誠に可愛そうな事をしたね」
由「そう/\おっかさんが来ておい/\泣いて居た時には、流石さすがわっちも気の毒に思いましたが、おたきの死骸はいまだに知れませんかえ」
幸「まだ知れねえが、多分海へ流されて、天罰だから何処かの岸へ打揚げられ、烏につッつかれるぐらいの事は何うしたってなければならないよ」
 と話をして居ると、唐突だしぬけに一人の老爺おやじうしろの襖を開けて這入って参りまして、
老「はい御免下さい」
由「はい……おや旦那、何処かの老爺おじいさんが這入って来ましたよ」
老「はい御免下さい……えゝ只今隣の席で承わりましたが、何かソノ村上松五郎と申すものにお瀧と申す者が盗賊に殺されて、川へ投り込まれ、死骸が知れんとか云う事をちょっと承わりましたが、貴方がたは其の松五郎と申すものゝ行方や何かくわしく御存じの御様子で」
 と問われて両人はびっくりして互に顔を見合わせ、小声にて
幸「だから無闇に喋舌しゃべっちゃアいけねえてんだ、掛合かゝりあいに成るよ、此の事に付いて一昨年おとゝし大変に難儀をした者があるんだよ」
 由兵衞は胸は早鐘、どぎまぎしながら此方こちらに向い両手を突き、
由「へえ入らっしゃいまし、私共わたくしどもは何も知ってる訳じゃアありませんが……ちょいと只今……へえ人の噂を聞きまして、ちょいとおちゃッぴいを致しましたので、精しく知ってると云う訳じゃアありません、只人の噂を聞きましただけの事で」
老「それでも何かお瀧と云うものを尊宅あなたへお連れ帰りなすって、目を掛けお使いなすった処が、其の者が案外盗賊どろぼうで、これこれいうお尋ね者ゆえ、あゝ云う死様しにようをするのも天罰だと仰しゃったが、貴方は何方どちらのお方さまか知りませんが、お瀧を奉公人にでもしてお使いなすった事でございましょうが、仰しゃって下さいませんと、わたくしの方にちっと困る事がありまするので、何卒どうぞお隠しなさらず仰せ聞けられて下さい」
由「これは驚きましたなア……」
幸「お前は余りペラ/\喋るからいけないんだ、旅だアな、此様こんな処で探偵にでも捕まって調べられると日数ひかずがかゝるよ、四万でも二週間程余計に逗留したじゃアねえか」
由「へえ……貴方ソノ何んでげすソノ……ヘエ何んで」
幸「何を云ってるんだ」
由「実はソノ何んでげす、此の旦那がのお瀧という女を正直者だと思召して、田舎から東京とうけいへ連れて来て、少しばかり雇人やといにんのようにしてお使いなすって居らっしゃると、盗賊とうぞくが這入りまして斬殺きりころされ、未だに死骸が知れませんのでげすが、貴方もお掛合いてえ訳でございますか」
老「いや掛合と云う訳ではございませんが、少し調べんければならぬ事が有ると云うは、其の村上松五郎と申すものゝ事で」
由「へえ/\/\」
老「何卒どうぞ細かに仰せ聞けられて下さい、し隠し立をなさると何処までもお附き申してたゞさねばならん事があります」
由「へえ、これは恐れ入りましたなア旦那」

        六十二

幸「お前本当に困るじゃねえか、余計な事を云うからいけねえんだ……何卒どうぞ御勘弁なすって」
老「いや貴方が何もわしに謝る訳はないが、ちょっとお姓名なまえだけを承わって置きましょうか」
幸「へえ……」
老「いやさ御姓名ごせいめい一寸ちょっとめて置きたいから」
幸「へえ……真平まっぴら御免なすって」
老「何も謝る事はありませんよ、御姓名だけを」
幸「へえ、何う云う何ですか掛合なれば仕方もありませんが、わたくしあれ正道しょうどうな女と存じまして、お屋敷ものが零落おちぶれて斯様に難儀をして居るとはお気の毒な事だ、あゝ不憫だと思いまして、多分の金子を出して彼の身請を致し、東京へ連帰って私のてかけにして、橋場の別荘へ置きました処が、盗賊が這入りまして斬殺きりころされ、いまだに死骸が知れませんので、尤も其の筋へお届けには成って居りますが、お再調さいしらべに成りましても当人は助かって居りますか助かって居りませんか、其処は分りませんので、へえ」
老「ムヽー貴方は何と云うお姓名なまえだ」
幸「えゝ私は橋本幸三郎と申します」
老「ムー橋本幸三郎」
 と手帳へしたゝめ、
老「お宿所は」
幸「霊岸島河口町四十八番地で」
老「ウン……貴方は」
由「えゝわたくし……あの、ヘヽヽ私が何もソノてかけにしたと云う訳でも何でもないので、私は只此の旦那のうちへ時々出這入って御用事を伺うだけの事でげすから、ヘヽヽ」
老「いやくわしい事を御存じだろうから、仰しゃらんならわたくしと一緒に同道していらっしゃい、御姓名ぐらい伺うのは当然あたりまえの事だ」
由「へえ……えゝわたくしは木挽町で」
老「木挽町……」
由「三十六番地で、へえ」
老「御姓名おなまえは」
由「岡村由兵衞」
老「お神楽かぐら
由「お神楽じゃアありません、幾らひょっとこ見たような顔でも……岡村由兵衞」
老「ウン……そこで村上松五郎と申すものゝ行方はたしかに知れませんか、更に心当りもございませんか」
由「へえ、それはもとより知らん奴でございますから」
老「で、そのお瀧と申すものは慥に賊に斬殺きりころされ川の中へはまりまして、いまだに死骸も知れませんか」
由「へえ死骸も知れないのでございます」
老「愈々いよ/\知れませんか」
由「へい知れませんのでございます」
 と云切ると、襖の蔭で何者か知れませんがワーッと声を揚げて泣出しましたから、由兵衞は驚きましたの驚かないなんて顔色を変えて、
由「あゝー誰か泣きました」
 というと、の老人は静かにうしろみかえ[#ルビの「みかえ」は底本では「みりかえ」]り、
老「泣くな/\泣いたって致し方がないから此処へ出ろ、泣いたって何うなるものか、みっともない、声を出して泣くなんて男らしくもない、何んだ」
由「旦那、まだ誰か居るんで、此の人は年寄だから何んでげすけれども、若い人が出て来ると大きに怖いような訳ですが……たれかいらっしゃいますので」
 と云って居る処へ泣きながら出て参りましたのは、今年十三に成りまする布卷吉と云う小僧だから大きに安心を致しました。
由「子供なら安心を致しました……が何ういう訳でお泣きなすった」
老「はい……此者これわたくし秘蔵ひそうな孫でございますが、松五郎お瀧の行方を探してる身の上で、此者が両親と申すものは其のお瀧松五郎ゆえに非業な死を遂げましたのは、此者が七歳の折でございますが、何うかして両親の敵を討ちたいと子心にも心掛け、奉公中いとまを取って立帰り、其の者を取押えて、手に合わんときにはお上のお手を借りても親のあだを討ちたいと心掛けて居ります、処が敵と狙うお瀧めが今お話の通り死骸も知れんように成ったと承わり、残念に存じまして此者が泣きましたので」
由「へえー御両人は野田の太田屋で隣座敷に居たお方でございますね、此のお子のおとっさんおっかさんまで非業に殺しましたと、へえー彼奴あいつ幾人いくたり人を殺したか知れねえ」
 と話をして居ますと、唐突だしぬけに隔ての襖をガラリ引開け這入って来たは大きな男で、
男「はい御免なせえ」
幸「はい」
 と何者かと首をげて見ると、筏乗市四郎でございます。

        六十三

 幸三郎も由兵衞も驚きました。
市「えゝ老爺おじいさん、お前さんに又此処でお目に懸るてえのは誠にふけえ御縁かと思ってるのよ……貴方あんたたしか四万の關善でお目に懸った橋本幸三郎さんてえお方でげしょう、裁判沙汰になって警察へも毎度出ましたが、いつもまアお達者で」
幸「これは思い掛けない、親方で、由さんソレ筏乗の市四郎さんだよ」
由「これは何うも御機嫌宜しゅう……先刻さっきもちょいとお噂を致しましたが、是れは何うも……今度は首ねじりじゃアないのでしょう」
市「いや貴方あんたは由兵衞さんとか仰しゃったね……あの折はなげえ間お目に懸り、また帰り際には飛んだ御馳走になりまして、何んとハアお手当をね沢山に遣ってくれろと云って下すったが、のお藤さまと云う御新造が堅い人だもんだから中々受けませんだったが、彼ののちわしも時々参りますがね、何時でもハア貴方のお噂ばかり致して居りやすだ」
幸「いや何うも誠に思い掛けない事で、そして親方は何方どちらへ」
市「なに関宿まで参りやしたが野田の祭を見ようと思ってくと、此の老爺じいさんが此の子に意見しているのをわしが隣座敷で聞くと、此の子が、田宮坊太郎の講釈を聞いてから急に敵が討ちたくなったから、お祖父じいさんひまを取っておくんなせえと云うと、此の老爺じいさんが今の世の中には敵討はえ事だ、其様そんな事をするとわれ御処刑おしおきを受ける、駄目だから止せてえと、御処刑を受けても殺されても、おらア死んだ両親の恨みを晴らさねえば子の道が済まぬと云うのを聞いて、私は隣座敷で胸が一杯になって涙をこぼしながら聞いて居やした、それから汽船へ乗ると船で会い、また此処で一緒に成るとは何とまアふけえ御縁かと思ってるだ、しかし其の相手の村上松五郎てえ奴は、もとさむれえだと聞いてるから、此様こんな小せえ子に敵の討てる訳もなしするから、し剣術でも習いてえなら、私の御主人筋の人が剣術がえれえから其処そけへ往って稽古をさせてよ、自分で敵を討たねえまでも剣術が習いたくば其の人に頼んで、おめえの志を話したら、あゝ感心な訳だ、おらうちに置いて剣術を教えてくれべえと云って、引取ってやろうと仰しゃるにちげえねえから、おらアおまえ其家そこへお連れ申そうと思って、入らざる事だが、十二や十三で親の敵を討とうてえ心が感心だから、愈々いよ/\てえ時にア頼まれやしねえがおれも助太刀に出て、その松五郎てえ奴の首でも捻ってやろうと思うんだ」
由「ヘエヽ昨日きのう野田の太田屋でソレ申し貴方、隣座敷に居たのは老爺じいさんと此の子でございますか、それを聞いて此の市四郎さんが御親切な親方ゆえ……首捻くびねじりは恐入りましたが、お力がありますからね、そう云う奴の首はひねってもいんでげすからね」
幸「へえー成程妙な訳で」
市「わしも是れから帰り掛けにちょっくら顔を出さねえばなんねえが、此の瑞穂野村みずほのむらてえ処に万福寺まんぷくじと云うお寺があるんだ、其処にもと九段坂上に居た久留島修理くるしましゅりさまてえ方が田地を買って、有福ゆうふくに隠居をなすってらっしゃる。其処にね橋本さん貴方あんたが伊香保で世話アして上げたお藤さまが女隠居になって居るだ」
幸「へえー、そりゃア何うも思い掛けない事で……何んでげすか、一時は谷中の団子坂下に入らっしゃる事を聞きましたが、それじゃア此の頃では田舎へ引込ひきこんで入らっしゃるのですか」
市「久留島さまと少々御縁引ごえんびきであるから、おらほうへ来るがえと引取られてるんだそうだが、御亭主も妹も去年お死去なくなりなすって、久留島さまが引取って、小せえうち這入へいり、田地を買って楽にしておいでなさるが、わしも久留島さまへ出入ではいるから、れが御縁になって時々お藤さまを訪ねると、先方むこうさまでもやれこれ仰しゃって下さるから、私もハア時々機嫌聞きにくと、種々いろ/\結構な物を戴きやすが、其のたびに伊香保で癪を起して種々お世話になったが、の橋本さんの御恩は忘れられねえって貴方あんたの事ばかり云ってますぜ……どうせ館林へ出て足利までくのなら、瑞穂野へは通り道で遠くもねえから、私と一緒においでなさらねえか」

        六十四

由「へえー何うも是れは思い掛けない事で、矢張やっぱりこれは御縁があるのでげす、の時から岡惚れをして居たので、いまだに忘れないで居て、貴方が会うとまた尚お惚れますぜ」
幸「止しねえな」
由「親方是非是れはお供を願いたいもので、此の旦那は大変な御親切な方で、の御新造がお癪を起した時などは大骨折りで、御介抱をなすって寝ずにさすって上げなすった位で」
幸「其様そんな事はありゃアしない」
由「なに……此の坊ちゃんの剣術習いやなんかもありますから私共も共々に往って願いましょう」
幸「余計な事を云いなさんな……わたくしも誠に久し振でお目に懸りとう存じますから、何うか御案内を願いたいもので」
市「えゝ参りましょうが今夜は最う遅いから明日あすの事に致しましょう」
 と是れから酒を酌交くみかわせ、橋本幸三郎がの老人にも御馳走を致し、翌日腕車くるまで瑞穂野村なる万福寺へ参って見ると、樹木繁茂致し、また一面に田畑も見晴しのい処で、生垣にてちょっとした門形もんがたとこを這入りまして、
市「はい御免なさい、御免なせえ、何んとか云ったっけお女中……」
女中「はい……おやおいでなさい……旦那、の筏乗の市さんと云う方が参りましたよ」
修「うか……おゝ能く出て来たなア、堅いから時々訪ずれてくれて誠にかたじけない……さア此方こっちへお出で」
市「これは殿さま、其ののちは誠に御無沙汰を致しやした、ちょいと上らねえばなんねえが、遂々つい/\御無沙汰になりまして相済みません」
修「此の間は結構な茸をくれて大層旨かったが、今は初ものだのう」
市「然うかね」
修「今日は何処へ」
市「なに関宿までめえりやして、野田へ廻ったり何かして、蒸汽で川俣まで[#「川俣まで」は底本では「川俟まで」]参りまして雨に降られやしたが、でけえ雷鳴かみなりで驚きやした、今朝は腕車くるまで此処まで参りました」
修「道理で大層早いと思った」
市「えゝ殿さま、今日わし貴方あんたに折入ってねげえがあってめえりやしたが、貴方何うかお庭で剣術ウ教えて下せえな」
修「何んだえ、唐突だしぬけに剣術を教えてくれてえのは」
市「へえ……おめえさまマア此方こっちへ這入んなせえ……旦那さま此の子でござえますが、まア年齢としイいかねえけれども剣術を習いてえと云うだ」
修「はい/\、さア/\此方こちらへお這入り、おゝ大分だいぶ人柄な可愛らしいだが、今の世の中で武芸を習ったってすたれもので無駄だが、マア何う云う訳で」
市「何でもハアすきで習いてえので」
修「ムヽー……何処の者だえ」
市「おい老爺おじいさん此方こっちへ這入んなせえ」
老「はい御免下さい、えゝお初にお目に懸ります、手前は足利在江川村と申します処に住み、微かに暮す奧木佐十郎と申す者であります、お見知り置かれまして己後いご御別懇に願います…えゝ此の子はわたくしの孫でございますが、武芸を習いたいと云う心掛けで、実は是れまで商家へ奉公させて置きましたが、って武芸を習いたいと申すので、主人方の暇を取り連れ戻る途中において、不図ふとした事にて此の親方にお目に懸りました処、これ/\の殿さまが当時御隠居なすっていらっしゃるから、剣術を教えて下さるように願ってやろう、と此方こなたの勧めに任せて御無理を願いに参りましたが、何卒どうぞ手許てもとへお置き遊ばして、お役にも立ちますまいが、使い早間にお使い下され、お暇の節には剣術を教えて下さるように願いとう存じます」
修「是れはお前の子か」
佐「いえ孫でございます」
修「左様か、妙だなア剣術を習いたいというのは……老爺おじいさんは矢張やっぱり商人かえ」

        六十五

佐「へえ只今では機屋を致して居りますが、前々ぜん/″\はヘヽヽ戸田釆女匠とだうねめのしょう家来で」
修「あゝ足利の、左様かえ……矢張やっぱり武士の家に生れた子供だけあって、剣術を習いたいと云うは妙だな」
市「へえ妙でござえます、尤も是には種々いろ/\訳もありますが、パッとなっちゃア此の子ののぞみも叶わねえ訳でごすから申しませんが、まアお手許へ置いて使って下せえまし、流石さすがわし魂消たまげえたねえ」
修「はアー……其方そなたが泣いた」
市「へえ、後日あとで分りますが、さアと云う訳になって、アヽうかてえば貴方あんたも泣かねえばなんねえ」
修「はてね、何う云う理由わけわしが泣かなければならんか」
市「何う云う訳って……云えばなア老爺じいさま……訳は云えねえが置いて下すって無闇に剣術を教えて下せえまし……おめえも遠慮しちゃア駄目だから、旦那さまのお暇の時には一本ねげえますって、いか、わしも筏乗で力業ちからわざすきだから時々来て一緒にやる事もあるから……旦那さま実に此の子ぐれえ感心な者はありませんよ、私イハア胸え一杯いっぺえになりやしたが、貴方あんたも屹度泣くよ……それからアノ御隠居さまは相変らず御機嫌宜しゅうござえますかえ」
修「ウン藤か、ハヽヽ藤や、ちょっと此処へおいで、市四郎が来たから」
 と云われてお藤は奥より出て参り、
藤「おやまア能く出ておいでだ、毎度尋ねておくれで誠に有難う」
市「はい御機嫌宜しゅう……何時もお若いね御器量のいてえものは違ったもんで、今日は貴方あんた大嗜だいすきな人を連れて来ましたよ」
藤「わたしの大嗜な……兼吉かねきちという百姓かい」
市「あ、なに……さア貴方あんた此方こっちへお這入りなせえましよ」
幸「是は何うもお懐かしゅうございます…」
藤「おやまア…何うも……由兵衞さんも」
由「へえ、マ有難い事で、是まで貴方のお噂たら/″\でげすが、斯う云う処にいらっしゃろうとはちっとも知りませんで、昨夜ゆうべも今日も先刻さきほどまでも貴方のお噂が漸々よう/\重なって、ポンと衝突ぶッつかって此処でお目にかゝるなんてえのは誠に不思議でげすが、些ともお変りがありませんな」
市「へえ、なに是には種々いろ/\深い訳もありますけれども、其様そんな事は構わないで……昨日きのう図らず一緒になって、貴方あなたの話をしたら何うかお目にかゝりたいと仰しゃって、どうせ足利まで往らっしゃるから通り路の事ゆえ、わしが御案内をしてお連れ申して来やした」
藤「さア何卒どうぞ此方こちらへ……あなた、何時もお話を致しますお方で」
修「ウン、成程伊香保で御懇命ごこんめいこうむった……是は始めて御意得ます、予々かね/″\此の者からお噂ばかり聞いて居りますが、此者これは私の姪筋めいすじに当る者でござるが、不幸にして男縁がなく、許嫁いいなずけ見たようなものもありましたが、不縁になったり、其の者が死にましたり、種々いろ/\理由わけがありまして、年若の者を女隠居とするも不憫なれども、再縁致す了簡がないと申して独身ひとりで居りますが、常々貴方のお噂ばかりで……成程橋本さんは大分い男で」
幸「ヘヽヽ恐入ります……」
由「いえ是は旦那さま、橋本さんの男の好いのは東京中の評判で大変なもんでげす、昨晩の段鼻の女などは此の旦那にのくらい惚れたか知れません、跡を附けて来るてえとこい塩梅にのがれて来ましたが、へばり附いてゝ弱りましたっけ」
修「幸三郎さんはたしか霊岸島辺においでになって、其の頃はお独身ひとかたのよう承わりましたが、只今では御妻君をお迎えになりましたか」
幸「へえ未だ縁なくして独身どくしんで居ります」
修「ムヽー……私の姪に当る此のお藤ねえ、日頃貴方の事ばかり誉めて居ますが、少し年は取って居りますけれども、貴方此娘これを貰ってくれませんか」
幸「ヘヽヽ御冗談ばかり仰しゃって、恐入ります」

        六十六

修「いえ若いのにいまだ男の味知らず、是なりに隠居をさせるのも惜いもので、文明開化の世の中だのに昔気質むかしかたぎに後家を立て通すの、尼に成るのと馬鹿なことを申すから、旧弊な私でさえ開けぬ女だと意見を云うて居る位で、尤も別に支度はない、貧乏士族だから心に任せんが、少しは田地を買って持って居ます」
幸「へえ、うなればわたくしも嬉しゅうございますが、余りお手軽で殿さま御冗談ばかり仰しゃって、私のような町人風情ふぜいへ」
由「旦那ア遠慮をしちゃアいけませんよ、是は自然にちゃんと斯う云う事に出来て居るんでげす……、え、由兵衞申上げますが、これは出雲の神さまが御縁を八重に結んで、伊香保結び四万結びこま結びてえ事になってるんでげすから、是は是非願いましょうじゃアありませんか」
修「今直ぐと云う訳ではない、貴方も旅の事だからいずれ又改めてわしがお話に出るで、是は只ほんの下話したばなしだけで」
由「いえ下話より上話うわばなしに願いたいもので、是は何うか」
修「然うなれば誠に芽出度い」
 と云われると、お藤は慕う人の事ゆえ真赤になりましてモジ/\ながら、
藤「私のような不束者を其の様な事を仰しゃって橋本さん…」
 と云ううちに自然と情の深い処があらわれます。此方こっちも貰いたいから話も早くおッ附きました。
修「何れ改めてわしが出る」
 と其の晩は此家こゝへ一泊致し、翌日一方かた/\は足利へ立ちましたが、これも奇縁でございまして、改めて久留島修理殿が東京とうけいへ出て参り、橋本幸三郎の母に会って右の縁談を申入れると、
母「それは幸いな事で、何うか願います」
 と幸三郎の母も異議なく承知を致しました。
 さてお話別れまして、伊香保に永井喜八郎と云う大屋がございます、夏季なつは相変らずごく忙がしいとこでございます。此方こっちの三階はずーッと長くつな[#ルビの「つな」は底本では「つなが」]がって、新座敷が玄関の上の正面に出来て居ますが、普請は中々上等で、永井喜八郎のうちの湯殿も綺麗で機械にて水を吹出して居ます。入浴したあとで水にかゝり、風を引かんようにまた入浴致します方法を、加賀病院の岡先生が覚えてから湯殿も新しく出来、誠に繁昌なうちでございます。此家こゝの三階の角座敷に来て居りますのは前橋の商人で、桑原治平と云う男で、年齢とし四十五に相成り、早く女房に別れ、独身者で、年中さえあれば馴染も有りますから冬でも寒湯治かんとうじと云うて参ります、独身で鞄を提げて参り、暫く保養して、また横浜へき、儲かると[#「儲かると」は底本では「儲かるとは」]伊香保へ参り、芸者も買い飽き二階に寝転んでしきりと新聞を読んで居りますと、ガラ/\とむこうの二階の障子が開きましたから、ふと見ると、年頃廿六七にも成りましょうか色のくっきりと白い、鼻梁はなすじの通りました口元の可愛らしい、目許めもとに愛のある、ふさ/\と眉毛の濃いい女で、いずれの権妻か奥さんか如何にも品のある方で、日に三度着物を着替るが、浴衣によって上へ引掛ひっかける羽織が違うと云うので、色の黒い下婢おんな一人いちにん附いて居ります。年は三十一二で其の下婢が万事切盛きりもりを致して居ります。
治「あゝい女だな」
 と治平は起上り、頻りとの女の顔を見て居りますと、女の方でもジッと治平の顔を見詰めてかたえを振向き、下婢に何かコソ/\話を致して居りますから、治平も何うも見たような女だと思いながら、また見て居りますと、見られると見返すもので、情が通ずるか先方むこうでも頻りと治平の顔を見たり何か致して居ります。

        六十七

 湯場の習慣くせで、運動などを致してる時には知らん人でも挨拶を致します。
治「お早うございます、いお天気に成りましたが御運動でげすか……」
 なんてごまかし込み、い程に挨拶を致し、しまいには何かお遣物つかいものをしよう、何を遣ったら宜かろう、八崎はっさきから幸いい鮎が来たから贈りたいものだと云うので、是から大皿へ鮎を入れて二十疋ばかり贈りました。すると先方むこうの女からお礼が参りました。葡萄酒の瓶を三本に東京から来た菓子折を持って、
下婢「御免下さいまし」
治「これは入らっしゃいまし、さア此方こちらへお這入んなさい」
下婢「先程は結構なものを沢山に有難う存じました、誠に大悦びでございまして、大層お珍らしい美事な鮎で、大層子がありまして塩焼にして召上りましたが、おすきでございますから三度も続けて召上る位で、誠に大悦びでいらっしゃいました……此品これは誠に詰らんものでございますが、此のお菓子は東京とうけいから参りましたから何卒どうぞ召上って」
治「いや是は恐れ入りましたな、斯様な何うも頂戴致すような訳なのではありません、多分に何うも…是では却ってえびで鯛を釣るような訳で、恐れ入りましたな」
下婢「いえ詰らんお菓子で」
治「お茶を一つ」
下婢「有難う存じます……貴方は何んですか久しく此処に湯治をして在っしゃいますか」
治「ヘヽ僕はひまさえ有れば、ちこう御座いますから、来たくなるとスイと参ったり、別に用もない時は大概来て居ります」
下婢「だからお馴染が多いので、皆さんとお話をなさる御様子が……しかし永井のいえは誠に手当が宜うございますね」
治「えゝ中々うちで、永井一郎という俳諧師で武芸も上手なり、鉄砲も打ったりして有名の人だったが、故人になり、その家内は今の母親おふくろで、今の主人も堅い人でお客を大事に致しますから、此の通り繁昌でげすが、貴方の在っしゃるお二階は結構に出来ましたな」
下婢「本当に当家こゝは客を大切にするが、此の位に致しませんではお客が殖えますまい……貴方はお一方ひとかたですが、御新造をお連れなさいませんのですか」
治「ヘヽヽ私には其様そんなものはないので、独身者でございます」
下婢「おやうでございますか」
治「ヘー……おうちは」
下婢「極く野暮な処でございますよ、青山で」
治「へえー東京とうけいの青山と申すと四谷の方でございますか」
下婢「四谷とも違いますが、信濃殿町しなんどのまちと申しまするので奥さまは未だお若うございますが、御運が悪くって殿さまが御逝去おかくれになりまして、今年で丁度四年の間お一方でいらっしゃいますが、何も御不自由のないお身の上でありますから、お寒いうちは大概熱海の藤屋へ往っていらっしゃいますが、今度は伊香保へ来たいと仰しゃって、箱根へ往らしったりなんかなさいますけれども、箱根のお湯は遊山には宜しゅうございますが、お血の道には当地の方がいと云うので、いらっしゃいましたのですよ」
治「へえ、殿様はお逝去に……官員さまで在らっしゃいましたか、何処どれへお勤めなさいましたので」
下婢「何とか云いましたっけえ、お寺見たような名で、アノー元老院とか云う」
治「えゝー成程、左様でございますか、それじゃア上等の官員さまで」
下婢「お実家さとはおあにいさまは銀行の頭取をなすって居らっしゃいますので」
治「銀行、ヘエー前橋にも支店が有りまして御懇意の方もありますが、ヘエー左様でございますか、成程深川でいらっしゃいますかお実家さとは」
下婢「あの今晩は月が宜しゅうございますので、裏の方を見ますと流れが見えて、誠に景色が宜しゅうございますから、別段何もございませんが、頂戴の鮎で一口上げたいが、知らない人ばかりでいけないと思ってますと、貴方のお身の上を承わりまするのに、あれは前橋の斯う云う身の上のお方だと承知致しまして、のお方なればって、奥さまも御退屈ですから何卒どうぞ入らしって下さいまし」
治「それは誠に有難う……ヘエ是非出ます、屹度参ります」
下婢「屹度お待ち申して居ります、左様なら」
 と云い捨てゝ出てきました。

        六十八

 桑原治平は嬉しいのでのぼせ上りました。別嬪に一こん差上げたいから来て下さいと云われたのでありますから、治平は是から急に髪を刈込み、ひげを剃り、お湯に這入り、着物を着替え、大装飾おおめかしで正面の新座敷へ参り、次の間から、
治「へえ御免下さいまし」
下婢「おや入らっしゃいまし」
女「まア宜く入らっしって下さいました、先程は結構な物を沢山頂戴致しまして、何ともお礼の申上げようがございません」
治「何う致しまして、却って詰らんものを上げ、結構なものを戴きましたから、わたくしは徳を致したような勘定で相済みません」
女「さ、座布団へ」
治「オヤお構いなすってはいけません、わたくしはヘヽ前橋の田舎者いなかもんでございますから、東京とうけいのお菓子は大層結構で」
女「いえ、何ういたしまして……今日は何もございませんが、当地の名物だと申しますから、瓜揉うりもみと胡麻豆腐だけを取りましたから、さア一口召上って」
 と酌をする。
治「これは恐れ入りましてございます、向山の名物で……先程お女中から種々いろ/\お話でございましたが、殿様は飛んだ事でございました」
女「いえ最う過去すぎさりました事で、今はもう諦めて仕舞いました、ト申すと何か不実なようでございますが、去る者日々に疎しとやらで、漸々よう/\忘れてしまいましたが、深川の方に少々身寄が有りますので」
治「左様でございますか、しかし未だお若いのにお独身ひとりいらっしゃるのはおしい事で、まだ殿様は四十代でいらっしゃいましょう……へえ頂戴致します」
女「誠に失敬ですが、何うぞおあがり下さいまし」
 といつおさえつ酒を飲んで居るうちに、互にえいが発して参りました。の女は目のふちをボッと桜色にして、何とも云えない自堕落な姿なりに成りましたが、治平はちゃんとして居ります。
女「大層かしこまってらっしゃいますこと、何卒どうぞお膝をお崩し遊ばして」
治「いえ大層酔いました」
下婢「いじゃアありませんか、まア御緩ごゆっくりなすっていらっしゃいましよ…奥さん私はお湯に這入るのを忘れましたから、ちょいとお湯に這入って参りますから」
女「じゃアふみや這入っておいで、其処に石鹸しゃぼんがあるから持っておいで、それは私の使いかけで入らぬから」
下婢「はい…それじゃア貴方御免遊ばして」
 とい程に其の場を外して下婢かひは下へ降りて仕舞いました。治平は少し色気がありまして、何となく間が悪いから煙管であごの処を突衝つッついて見たり、くるりと廻して頬辺ほッぺたへ煙管の吸口を当てたり、ポン/\と叩いて煙草ばかりんで居ります。
女「貴方は何でございますか、前橋の何と云う処で」
治「ヘヽ竪町と云うごた/\して居ります処で」
[#「女」は底本では「治」]「お盛んな大層い処だそうで……貴方は御新造さまをお連れ遊ばしませんのですか」
治「家内は無いのです、手前のさいは五年ぜんに歿しまして、それからは独身ひとりみで居ります、へえ、至って手狭ではありますが、ちっとお立寄を願いとうございます」
女「はい……まだ私は参った事はありませんから一度見物したいと思って居りますが、お寄申して万一ひょっと奥さんか又権妻さんでもいらしって、お悋気りんきでもあるとお気の毒だと存じまして」
治「いえ家内は全く無いのでございます、尤も世話をして呉れるものもありましたが、長し短かしで何うもいのがありませんから独身どくしんで居りますが、却って気楽でございます」
女「それはマアいお身の上で……貴方のようなお方の御新造になる方は本当にお仕合せで」
治「へゝ、なに仕合せでもありますまい、何うもヘヽ誠に不粋な人間で何も心得ませんからなア……貴方さまもお一方で、お子供しゅはございませんか」

        六十九

女「はい子供はございません、親類が深川に居りまして、これが銀行へ出ますので、私は其のほうへ引取られて参るより他に仕方のない身の上でございますが、うッから嫁付かたづけ/\再縁しろと申しまして、兄が申すには官員はいやだから遣らない、商人あきんどが一番いが、んなら他県で堅い商人であって、横浜へ来て取引をするような田舎の商人の方が、田地なども持って居て身代が堅いから、う云う処へ縁付けたいとればかり申して居りますが…何処かに好い口があったら縁付けると兄が申すので」
治「へえーなアる程……実は東京とうけいも盛んなとこでげすが、また手堅いところへ参っては田舎の方が手堅うございますからな、へえー成程お世話ア致しましょうか」
女「お世話たって私のようなものですから、たれも貰ってくれる人がありませんもの……貴方は本当に奥さんがありませんか」
治「本当にありません、真実でげす、本当にないから無いと申上げましたので」
女「貴方はまアお調子が好過よすぎますよ……ま一杯お酌を致しましょう……何んですね……私の様なものだってサ、本当に貴方のような結構なお身の上はありませんね」
治「なに余り結構じゃアございません」
女「巧く云っていらっしゃるよ」
 と治平の手首を握るを振払い、
治「ヘヽエ御冗談なすっちゃアいけません」
女「いじゃアありませんか、貴方本当にお独身ひとかたですか」
治「へえ……」
女「私は当家へ参りましてから、貴方のらっしゃるお座敷ばっかり見て居りましたことを御存じですか」
治「ヘヽ何かどうも、飲酔たべよいまして誠にどうも」
女「飲酔ったっても私は嘘は云いませんが、貴方は本当にお罪だと思いますよ」
治「其様そんなことを仰しゃると、わたくしは田舎者ですから本当にますよ」
女「嘘にされると却って腹が立ちますが、私のようなものでも貴方本当に貰って下さると仰しゃるなら、すぐに兄の方へ話しを致しますが、本当ですか」
治「奥さん本当だって……貴方はそりゃア真実に仰しゃるんですか」
女「私に嘘はありませんが、貴方あんたが真実なら何うかしっかとした貴方のお心の証拠が見とうございます」
治「心の証拠と仰しゃっても別に何もありません、と云って、まさか髪をるの指を切るのと云う訳にもきませんが」
女「女の口から此の様な事を云い出すは能々よく/\の事ですからよう」
治「ようたって……わたくしにも何うしていか分りません」
女「何うしてって、貴方あんたのお心の証拠をさ」
治「いえ決してわたくしは嘘を吐きません、神かけて嘘は云いません、しお疑りなさるなら、書付でも何んでも証拠を上げます、へえ」
女「本当に貴方あんたうなんですか」
 と少ししなだれ掛る途端にガラリと障子を開け、スーッと立った男はひげの生えて居る、眼のギョロリとした、鼻の高い、年紀としごろ三十四五にも成りましょうか、旅行たび洋服で、一方の手には蝙蝠傘とステッキとを一緒に持ち、片手には鞄を提げて居るを見て治平は驚きましたから、にわかに飛退とびのき両手を突き、
治「これは入らっしゃいまし……何方どなたかお客さまが」
 と云われて女も驚きまして飛退きますと、
男「此の始末はマア何う云うもんか、呆れて仕舞しもうたなア……僕が僅かに十日ばか東京とうけいに参って居た留守の間に、隠し男を引入れるとは実にしからん事じゃ……これ密夫みっぷ貴様は何処のもんじゃ」
 といわれて治平は「はてな此の人は銀行に出ると云った阿兄あにきか」と思いましたが、の女に向い、
治「此れは何処のお方で」
女「はい、貴方に対しては誠に済みませんが、私の良人つれやいでございますよ」
治「えゝ……御亭主」
 と治平は真青まっさおになりブル/\慄え出すを見て、ガラリと鞄をほうり出し、どたアりと大胡座おおあぐらをかいて、かくしからハンケーチを取出とりいだし、チンとはなをかんで物をも云わず巻煙草に火を移し、パクーリ/\とみながらジロリ/\と怖い眼で治平の顔を見るばかり、此の時桑原治平の驚きは一方ひとかたなりません。此の者は谷澤成瀬たにさわなるせと申す青山信濃殿町の官員でございます。

        七十

 洋服打扮ようふくでたちの人がスッと這入って来ました時には、桑原治平も驚きました。丁度今風呂に這入って来ましたお文と云う女中が、湯から上って来て此のていを見てびっくり致し、一旦座敷へ這入ったが次の間から再び出かゝるを目早く見付け、
成「コラ/\……コラー何処へもかんでも宜しい、其処に居れ、跡をピッタリって其処に坐って居れ……さたかこれは何うか、ウーン此の始末は何う云うもんじゃ……貴方は何処のものじゃ、えゝ……貴公はいずれの者か姓名をお聞き申したい、僕は東京とうけい青山信濃殿町三十六番地谷澤成瀬と申すものじゃが、貴公の姓名をお聞き申そう」
治「へえ/\手前は前橋竪町の商人桑原治平と申します」
成「コレ高、己が五日か十日の間東京へ往ってるに斯う云う密夫を引入れて、此の為体ていたらくは何う云うものか、実にどうも何とも何うも言語道断の仕末じゃアないか、お前は僕にくまで恥辱を与えたからには、僕も此の儘では捨置く訳にはいかん」
高「はい重々私が悪うございますけれども、此の治平さんと云うお方にはちっともおとがはないので……貴方の有る事を申せば遊びにも入らっしゃいませんから、私は孀婦暮やもめぐらしのものだ、亭主はない身の上だと申しましたから遊びに入らしったのでございます、が、何もおかしい事のあったと云う訳ではございません、しかし斯うなる上は何ももお隠し申しは致しません、実は私も此のお方をいたらしいいお方だと思いました了簡の迷いから、私の方で無理に入らしって下さいとお勧め申して引入れたのでございますから、此のお方には少しも悪い事はありません、重々私が悪いのですから、貴方の思召通おぼしめしどおりお手討にでも何でもなすって下さいまし」
成「ムー……それは女の方が悪いのじゃろう、訝しな眼遣いをするか、私の方へおいでなさいと云うか、何か怪しからん挙動そぶりがなければ、そりゃア男の方から無闇に主有る女のとこへ這入って来るものではありません……じゃが仮令たとえ婦人の方で此方こっちへ来いと招いても、主ある者と席をともにすると云うのは、治平殿貴方そなたも心得てなすったので有ろうが、君も前橋では立派な商人あきゅうどじゃと云う事だが、実に此の上ない不品行な事じゃアないか」
治「へえ…それでは貴方が此のお方の御亭主さんで」
成「左様」
治「これは何うも心得ませんでしたが、奥様おくさんの仰しゃるには御亭主はない、とこう仰しゃってでございました……がそりゃア困りましたね、何うも貴女あなたう云う嘘をお吐きなすっては私が迷惑いたしますからな」
成「今に成って兎や角云ったとて跡へは還らん事じゃのう、僕は詰らん者でも、マ幾らか官職を帯びてもんじゃ、亭主の留守には宅に居る下男といえども、家内と席をともにせんと云うのが女子おなごの道じゃ、うなければ家事不取締のそしりは免がれん事じゃ、僕も御用に付いて他府県へ出張する事もあり、又は洋行をもする、其の長い間、三年でも五年でも僕の留守中まさか禽獣とりけだものじゃアなし、鎖で繋ぎ置く事も出来ん、しかし斯う云う心掛の悪い女子じょしなれば、僕じゃとて決して連添ってる事は出来んから即刻離別して、戸籍はあとから送る事に致そうが、マ何うも主ある身の上でありながら、密夫を引入れるなどと云う事がありますか、左様な事を知らん其方そなたでもあるまいが、余程此の人を想うてるに相違ない……治平殿、此の高と云う女を引取り、女房にして遣る心か、但し斯う遣って遊びに来てうちの慰みものにする気か、亭主のあるものとは知らんと云いなさるが、風体ふうていを見たって大概分ろう、是が茶屋女や芸者じゃアなし、宿帳しゅくちょうあらためんと云うのは不都合じゃアないか、併し貴公も手を出したからには万更まんざら気に入らん訳でもあるまいから、真に貴公のさいに致して呉れるなら、改めて僕が離別して実家へ沙汰をするから、貴公の方で此婦これの実家へ貰いにけば話も早くまとまって、少しも手間の要らんこっちゃ、見合も何も要らん訳じゃが、何うか」

        七十一

治「へえ…左様でございます、貴方の方で全く愛想が尽きて御離縁に成りまして、此の御内室が御実家へ帰る事になれば、此の方から御実家へ話をしてお貰い申すかも知れませんが、何も枕を並べた訳じゃアございません、其処へお帰りがあって私を密夫に落されては甚だ残念でがすからな」
成「残念だって女の首筋へ手を掛けて抱締めたとこへ僕が帰って来て、障子を開けたればこそ離れたのであろうが、う云う事を云って何処までも情を張れば、止むを得ず公然おもてむきにするばかりだ、けれどもんな事をちゃア僕も此の上ない恥辱じゃから、あえて好みはせん、好みはせんが貴公の出ように依って之を公然こうぜんにすれば、云わずと知れた重禁錮、貴公に土をかつがせる事を好みはせんが、止むを得ん、何うだえ」
治「へえ……私も決して好みは致しません、何うかソノ内分ないぶんのおはからいが出来ますれば願いたいもので」
成「ウン然うせんければ僕も実に此の上ない恥辱じゃアないか、し此の事が人の耳に這入って、明日あすにも新聞紙上へでも出るような事があっちゃア僕もつとめは出来ず、何うしても職を辞さんければならんから、今霄こよいうちすぐに僕は此者これを一旦連れ帰って、前橋から高崎までさがって、それから実家へ帰る積りだ、離縁のうえ籍を送ったら、治平殿貴公の方へ郵便を上げよう、え解ったかい、え治平殿、ついては治平殿貴公へちと予が難儀な事を云い掛けるようじゃがな、此の女が僕のとこへ縁付いて参る折に千円の持参金を持って参ったから、此の者を実家へ帰す折には、何うしても一旦かどなく公然おもてむき離縁をするンじゃに依って、此者これ実兄あに深川佐賀町の岩延いわのべという者のところへ、千円の持参金に箪笥長持衣類手道具とう残らず附けて帰さなければ成らん、処で今此処に僕は千円の持合せがないし、東京とうけいへ帰っても至急才覚も出来んのじゃ、就ては貴公誠に迷惑じゃろうが、其の千円の持参金の処を才覚して、一僕に渡してくれんか」
治「へえ千……これは少し驚きましたな、私が千円なんてえ金を中々持っては居りません、えゝ只今手許には二百金程ありますが、ヘヽ二百金で何うか一つ御内々に願いたいもので」
成「いやさ千円取ったって僕が取切る訳じゃアない、一旦佐賀町の岩延方へ渡し、此者これがまた貴公のとこへ嫁す時に、其の千円の持参を持ってくのじゃ、ちっとも出すのじゃアない、詰り貴公の懐へ這入るじゃが、然うせんければ事おだやかに治まらん、内分沙汰に致すのだから一旦然うして、じきにまた其のきんを持って貴公のとこへ嫁せばいじゃアないか」
治「へえ……しかし何うも千円と申しては大金で、の様に美人だって、千円出して囲いますような贅沢な事は滅多にございませんからな」
成「いや出せんければ宜しい、無理に出して呉れろとは云わん、僕も君の手から只取るのじゃアない、君は此の女子おなごを愛して首へ手を掛けて引寄せるくらいに思うてるから、一旦君が千円出して遣れば、其のきんを附けて実兄のとこへ帰すて……のうお高、お前も其のかねを持参としてから治平殿のとこきなさい、然うすればいじゃアないか」
高「はい……じゃア斯うして下さいまし、貴方あんたには済みませんが、し此処で千円出して下されば、仮令たとえ兄が千円出さんと申しましても、私は衣類櫛こうがい手道具から指輪のような物までも売払い、其の是まで心掛けて少しは貯えもありますから、貴方お厭でも、マ然うなすって下さいませんか、今になって若しいやだなんと仰しゃいますと私は生きてはられませんから、死にますよ」
成「これは呆れたもんだ……左程まで貴公を想うて」
治「へえ……それでは只今手許にはございませんゆえ、永井喜八郎から用達ようだてゝ貰って参りましょう、毎年まいねん参って顔も知って居りますから」
 と云捨て立ちにかゝるを引止め、
成「アこれ何処へかっしゃる」
治「へえ、鞄を取りに」
成「いや往かんでも宜しい、硯箱もあるから手紙を書きなされ、鞄の中に千円くらい這入って居ろう……いや隠したっていかん」
治「でも懐中に印形がありませんから」
成「なければ喜八郎を此処へ呼びなさい、下婢おんなを呼びにやりましょうから、貴公の手で手紙を書きなさい」
 と硯箱を突付けられ、
治「へえ、宜しゅうございます」
 と治平は手紙をしたゝめて女中に持たして遣りました。

        七十二

 治平が手紙を書いて女中に持たして遣ると、直ぐに永井喜八郎に預けて置いた千四百円這入りました重たい鞄を女中が提げて参りまして、慄えながら怖々に治平の背後うしろから出すを受取り、中より千円取纒とりまとめて差出し、
治「えゝ仰せに従い千円のとこは差出しますが、金はたしかに受取った、女の処は相違なく貴殿方へ嫁にやると云うしかと致した書付を一本戴きませんでは、何分大金でございますから、ヘイ」
成「お前は分らん事を云う人だな、其様そんな証書を取って公然おもてむきにする気かい、僕も恥じゃから公然には出来ないし、お前も之を公然にすれば何うしたってそれだけの処分につかなければなるまいから、証書も何も要る話じゃアない、どうせ此の女が金を持って貴公のとこくのじゃアないか、いて分らん事を云えば公然にようか」
治「へえ、成程……詰り私の方へ廻って参りますかな……左様なら何卒どうかしかとお受取りを願います」
成「金額に違算いさんもあるまいがお前受取るがい、早く勘定をしなさい、面倒でも十円札だから造作もない、ちょっと勘定をなさい」
高「はい」
 と積上げたる札を数えまして、
高「千円慥かにございます」
成「んなら鞄へ入れて置きなさい……永う此処に居て、万一他の者の耳へ這入ってもならんし、此の下女も堅い奴と思ったに、斯う云う不始末に及んだが、此の者の口も確と止めなければ相成らん、何にしても何処こゝ[#「何処」はママ]に居ては事面倒だから、至急前橋か高崎までさがるが、貴公此の女を見捨てずに生涯女房にして遣んなさい……またお前も治平殿方へ嫁付かたづいたら、もう斯様こんな浮気をちゃアならんぜ、己後いご斯う云う事をしたらいかんぞ、治平殿から千金と云う大した金を出して貰った位だから、仮令たとえ治平殿の方へ再び返るにもせよ、それ程に思って下さる治平殿に不実があってはならんぜ、此の上は心掛けを正しゅうして、能く女子おなごの道を守らんければ済みませんよ」
高「今度は何様どんな事がありましても、見捨てられても治平さんのとこは出ません、私は深川のたくへ帰れば、すぐ貴方あんたの方へ手紙を出しますから、きっと貰って下さいましよ」
治「深川の何う云うおうちか、ちょっとお書付を願いたいもので」
高「あの、深川佐賀町二十二番地で岩延傳衞つたえと申します」
治「へえ」
 とすら/\ 書いて[#「すら/\ 書いて」はママ]
治「しかとです、間違うといけませんよ」
高「お前さんの方でこそ間違うときませんよ」
 と是は最う別れだと思うのか、お高は[#「お高は」は底本では「お瀧は」]治平の膝へ手を突いて、もたつきながら涙を拭きます様子を見て、谷澤成瀬も心悪しく思いましたか、苦々しく顔を反向そむけて居りましたが、
成「サこうじゃアないか」
 と立上る途端にガラリと障子を開けて這入って来ましたのは、例の筏乗市四郎が今年十五歳になるの布卷吉を連れて参り、
市「少し此処に待っておいで……はい御免なせえ、少々お待ちなせえましい」
成「何んじゃ其の方は」
市「わしア市城村の市四郎てえ筏乗でがすが、貴方あんたは村上松五郎さんでございますね」
成「え……イヤそれは人違いだ、僕は谷澤成瀬と申すものじゃ、人違いだろう」
市「いやお前さんは元渋川で腕車くるまいて居なすった峯松さんと云う車夫だアね」
成「なに……これは怪しからん事を云う、失敬な……車夫とは何んだ、いやしくも官職を帯びてる者を……大方人違いだろう」
市「人違ひとちがえじゃアねえ……此の奥さんみたような人はたしもと猿若町の芸者で小瀧と云って、中頃前橋の藤本へ来て、芸者に出て居た小瀧さんだアね」
高「な何んですと……まア呆れますね、怪しからん人違いで」
市「いや人違えじゃアねえ、見知り人があるだ……さア此方こちらみんなお這入んなすって下せえ」
「御免」
 と云いながら這入って来ましたのは橋本幸三郎で、お瀧も松五郎も見てびっくり致し、顔の色を変えました。

        七十三

 橋本幸三郎の跡から続いて這入って来ましたのは岡村由兵衞と云う、前々ぜん/″\橋本の取巻で来ました男で、皆是が見知みしりと成って這入って来たのを見ると、お瀧も松五郎も面体めんてい土気色に成り、最早のがれるみちなく、ぶる/\手先が慄え出しました。
市「さ旦那さま此方こちらへお這入んなすって下せえまし」
幸「はい親方此間こないだア……やい斯うなったらもうお前方は知らねえと云う訳にはくめえ」
市「どうせ駄目な話だから白状して仕舞った方が宜かろうぜ、もう遁れる路はないから逃途にげどはない」
幸「やい盗人ぬすびと峯松、其方そちは何うもふてえ[#「ふてええ」はママ]奴だなア、七年以前に此の伊香保へ湯治に来た時、渋川の達磨茶屋で、わっちア江戸ッ子でござえます、江戸のお客を乗せれば此様こんな嬉しい事はありませんて……ね此の由さんが鞄を忘れたら態々わざ/\持って来て見せやアがったから、わし正道しょうとうの人間だと思って目を掛けて、次の間へかす位にまでてやったのに、何んだヤイ悪党、鼻の下へ附髭つけひげか何だか知らねえがはやかして、洋服などを着て東京とうけい近い此の伊香保へ来て居るとは、本当に呆れちまったな」
由「これは驚きやしたな……おい/\もういけないよ/\、ひどいじゃアありませんか、お隣座敷にらしったお藤さまと、お岩さまてえお附の女中まで引張り出して、私達が先へ四万へ往ってると、あとからお連れ申すって取持がった事を云って、折田の山ン中まで連れ出して、お二人を殺したと思っても、お附のお岩さんは殺されたろうが、お藤さまは神が附いてますよ、谷へおっこちたって、ちゃんとお助け申す人があって御無事で在らっしゃるんだ」
市「イヤ何うだ、の時にわしが筏の上荷拵うわにごしらえをして居た処へ、山の上からち落ちて来た婦人が藤蔓の間へ引懸って髪の毛エからみ附いて、吊下ぶらさがって居たあぶねとこを助けて、身内に怪我はねえかと漸々だん/″\様子を聞くと、私が元三の倉に居た時分、御領主小栗上野さまのお妾腹てかけばらのお嬢さまと分ったので、私も旧弊なア人間だから、まアい塩梅に助かったって、ばゞあとも相談のうって、うして久留島さんまで送り届けて、すぐに四万へ追掛おっかけて往って掛合をしたが、其の時此の野郎を踏捕ふんづかめえれば宜かったアだが……うぬ此処へ来やアがって何んだえ化けやアがって、官員さまのお姓名なめえかたってふてえ野郎だ……これ此処にござる布卷吉さんと云うのは、年イ未だ十五だが、えれえお人だ、忘れたか、両人ふたり共によく見ろ、此のお子が七歳の時われが前橋の藤本に抱えられて小瀧と云ってる時分、茂之助さんが大金を出して身請えすると、松五郎てえ悪足わるあしが有って、よんどころなく縁を切ったものゝ、あゝ口惜くちおしいと男の未練で、お瀧を殺すべえと云って茂之助さんが脇差イ持ってくと、物の間違てえものはなさけねえもので、汝を殺すべえと思ったのが、闇の夜とは云いながら、此の布卷吉さんのおっかさんを殺した処から、茂之助さんも顛倒てんどうしてしまって、あゝ済まねえと思ったか、梁へ紐を下げて首を吊って死ぬくれえ非業な真似エしたのも、みんな汝から起った事だから、何うかして松五郎お瀧の二人を捜し出し、両親ふたおやあだ、妹のかたきを討ちてえと、十三の時から心掛けなすった其の時に、私も入らざる事だが助太刀をようと云ったのが縁となって、汝を捜しに来たら、丁度橋本さんにお目に懸ったのだ、サ最う斯うぼくが割れたら駄目な話だ」
治「へえー実に驚きました、此のお子は茂之助さんの子かい、へえ……道理で此の女は何処かで見たようだと始まりから思ったが、わしも斯う係蹄わなに掛るとは知らず、真実私に心があるのかと、男の己惚うぬぼれ手出てだ[#ルビの「てだ」はママ]をしたが、お瀧でがんすか、其の時分には眉毛を附けて島田だったが、へえー、何うもずうずうしい奴で……私の時貴方あんたのおとっさんにう云っただよ、彼の女を持ってゝは駄目だ、夜々よゝ斯う云う奴が這入って、斯う云う訳があるって、貴方のお父さんに意見を云っただが、何うも是は、何うも魂消たまげたね、へえー」

        七十四

幸「やいお瀧、てめえ四万に居やアがった時に何と云った、瀧川左京と云う旗下のむすめでございますが、兄にだまされてと涙をこぼしたをに受けて、わしは五十円と云う金を出し、汝を身請して橋場の別荘へ連れてッて、妾にして置くと、何んだ、しおらしく外へ出たくない、芝居へくのは勿体ない、旨い物は喰べませんと云ったのは其の筈だ、汝はお尋ねもので外へ出る事が出来ねえ、日向見ひなたみのお瀧と云う日蔭の身の上とも知らず、欺されて橋場へ置くうち強盗おしこみに殺されたと思ったら……由さん何うだえ、ずう/\しく此処に居るたア」
由「開化に成っては幽霊が生きて種々いろ/\なものに化けるんでげしょう、の時桟橋に血が流れて居ましたから、旦那も私も必然てっきり盗賊どろぼうに殺されて川ン中へほうり込まれたものと思って居ましたが、ずう/\しく大丸髷で此処に居ても最ういけないよ、早く正体あらわしておしまい、逃げたって騒いだッて開化の世の中、ビン/\と電信と云う器械がある、恐ろしい鉄砲時世に成ってるのに、昔流行はやったつゝもたせ其様そんな事をしても役には立たねえぜ」
市「さアぐず/\したっていけねえ、何うだ、返答しろ、どうせ駄目だから、年齢としかねえ布卷吉さんが親の敵を討とうてえが、刃物で斬合うような事ア出来ねえから、尋常に縄に掛って、派出もちかえから引かれてくがい、うして是まで犯した悪事を自訴するが宜いわ、しじたばたすればうぬ腕を引ン捻るぞ」
 と逃げもすれば殴飛はりとばす勢いで、市四郎は拳を固めてひかえて居ます。松五郎お瀧の両人は多勢に云いまくられ、何も云わず差俯向さしうつむいて居ました処へ、
山「少々御免下さいまし」
 と這入って来ましたのはお山、年齢とし五十五でございますが、昔気質むかしかたぎの武家に生れ、御新造と云われた身の上だけに何処か様子が違います。娘小峰年齢二十五歳で、最う分別も附いて居ります。母と娘は摺寄りまして、
やま「皆さん御免くださいまし」
小峰「お母さん、もっと先へ出てお云いなさいよ」
やま「あい……さ松五郎、此処へ出ろ」
松「ヤおっかアか……これは何うも面目ねえ、何うして此処こけへ来た」
やま「なに……これ人非人にんぴにん……その形姿なりは何んだ、能くもずう/\しく其様そんな真似をして此処へ来て、まだ性懲しょうこりもなく悪事をするな……皆さま何ともお恥かしくって申そうようはございませんけれども、此の者はね貴方……ちいさい時分から碌でなしの根性で、放蕩無頼で、何う云う訳か他人ひとさまの物を盗み取りましたり、親の物を引浚ひっさらって逃げますような悪い癖がございましたから勘当致しましたが、御維新己来このかたそちの行方ばかり捜して居たが、東京とうけいには居らんから、大方函館へでも行ったろうと他人さまが仰しゃったが、三の倉で旦那さまがの騒動の時、汝は賭博打ばくちうちと組んでよくも旦那さまへ刃向い立てをたな、知らないと思ってるか、そればかりじゃアない、今承われば殿さまのおたねのお藤さまを欺して、汝は折田村で殺そうと掛ったそうだが……まアどうもいぬとも畜生とも云いようのない此様こんな悪人を……私はマア沢山もない子でございますが、惣領と生れ、跡目に成る奴が此様な恐ろしい根性な奴でございますとは、ハア何たる事の因縁かと存じまして、私は此の娘と二人で、毎度松五郎の事を申しては泣暮して居りますが、此の奴に引替えて此の娘はやさしくして、芸者になっても精出して能く稼いで呉れますから、何うやら斯うやら致して居ります」

        七十五

やま「実に何うも松五郎のような不孝不義な奴はございません、お父さまの御命日に、お墓参りでもた事があるかと、たま東京とうけいへ出てお寺へ往って、これ/\のもので年頃はこれ/\でございますが、塔婆とうばの一本もげてお墓参りには参りませんかと、方丈さまや寺男に聞くのも、少しは悪をしながらも、親の有難いも主人の大切な事ぐらいは分りそうなものだと思って居るのに、つい墓参りをした事もない、尤もう云う心があれば此様こんな悪い事も出来ませんが……どうせのがれる道はないから、私は年をって何うなろうとも、小峰の掛合かゝりあいにならんよう立派に名乗り出て、自分だけの罪をるがい……誠に何うも皆様に面目次第もございません」
 と泣き沈むを見て流石さすがの悪人松五郎も心に感じ、
松「橋本の旦那え、わっちア何う云う訳で此様こんな悪い事をしたかと思ってね、今夢のめたような心持で……その布卷吉さんは茂之さんの子たア知らねえ、年のかねえで親の敵を討とうと云う其の孝心を考え、今まで此方こっちの作った悪事と不孝を思い合せれば、同じ人間に生れても迷えば此様なにも悪の出来るものかと、我ながら実に先非を悔いて改心致しました、もう何うせ遁れる道もありませんから、斯う云う親孝行なにいさんの手に掛って死にゃア本望で、昔なら腹ア切るとこでござえやすが、此の家を血でけがしちゃア客商売の事ゆえ永井の家に気の毒だから、向山へ引摺ってって思う存分に斬ってしまって下せえ、決して手出しは致しやせん、それとも縄に掛け派出へ引いてって、親の敵を捕まえましたといって処分に附けて下されば、私の罪も消えます、兄さん早く引張って往って、貴方のお手柄になすって下さい……サお瀧、おめえも此処らが死処しにどころだ、成程考えるとなア茂之さんがお前を殺そうと思って裏口から這入って来た時、お前は己んとけへ知せに来ていて、茂之さんのお内儀かみさんが一人で留守居をして居ると、大夕立大雷鳴おおがみなり真暗まっくらとけへ這入って、女房を殺した時の心持は何うだったろうと、悪事をするうちにも時々思い出すと、あんまい心持じゃアありません……ナアお瀧、手前も時々うなされた事もあったな、手前も死処だぜ」
瀧「あゝ何うも面目次第もございません……私どもに縄を掛けて、布卷吉さんお前さんの思う存分胸の晴れるようにしてお呉んなさいまし」
松「決して手出しはませんから引摺ってって下せえまし」
市「ウン能く覚悟をした、わしア縛る役じゃアねえけれども、逃げ隠れを為ようたって、捕めえたら動かさねえぞ、お役人の手数てかずを掛けるより私が引張ってく、無闇に人を縛っちゃア済まねえから、私が手前てめえを捕めえてこう」
やま「能く其方そちは覚悟をして縄に掛り、名乗り出る心になった、人は心から悪いものではない、一念の迷いから悪い事をすると聞く、何もも知って居ながら此様こんな事をして…其方は暴れもんだが、親方さんのような力の強いお方に捕まって逃げ隠れを為ようとして怪我でもするといけないから、尋常に名乗って出ろ」
小峰「本当になまじ逃げようなぞとして怪我アしてはいけませんから、おとなしく名乗って出て下さいよ」

        七十六

松「大丈夫だよ、どうせ己はえ命だ……あゝ是まで母親おふくろには腹一杯はらいっぺい痩せる程苦労を掛けて置いたから、手前てめえ己の無えあとは二人めえの孝行を尽してくれ、あゝ実に面目なくって何も云えません……何卒どうぞすぐにお引きなすって下せえまし」
 というので、是から市四郎が松五郎の手をって二階を下りましたから、永井喜八郎は驚きました。是より引張ってき、派出へ此の旨を届けて申立てますと、警部公が一々お書取りに成り、渋川の警察署へ引かれましたが、桑原治平とお瀧との関係は相対密夫あいたいまおとこでございますから、詐欺取財しゅざい未遂犯と云うので処分は決って居りますが、何分にも謀殺を致したかどがございますので、松五郎は天命遁れ難く遂に死刑に処せられ、復讐と云う事は尤もない事でございますから、松五郎は此の儘死刑となり、お瀧は悪事をともにしただけでございますが、人殺しがございますので重禁錮に処せられて、悪人はこと/″\く罰せられる事になり、お文は構いなし。跡で只嬉しいのは桑原治平で、千円取られるのを助かったのでございますから、
治「何共なんともお礼のようがない」
 と、吝嗇けちな人で女の事でなければ銭を使わん人でありますが、其の時は余程嬉しかったと見え、二百円出して、
治「何うか市四郎さん二百円だけで……」
市「いやわっちア金を取る訳はねえ」
治「それではせめて此のお子に」
市「此のお子にたって、布卷吉さんも此の金を受ける訳はないから、何うしても受けられやせん、松五郎が名乗って出たんで此方こっちの恨みは晴れたが、此の母親おふくろさんや妹が可愛そうだから、小峯さんを請出して遣ったら、首を斬られた松五郎へ追善にもなり、母親さんも安心だし、親子のものが助かる訳だから、左様そうなすったら何うです」
幸「これは宜うがす、お請出しなさい……峯ちゃんが得心なら、縛られて出たお瀧ね、お瀧より少し器量は少し悪いからお気に入らんか知らんが、小峯を貴方の女房にして遣っては下さいませんか、此の橋本幸三郎がお媒妁なこうどを致しましょう」
治「へえ、有難う……お幾歳いくつで」
幸「二十五で」
治「ヘヽヽそれは有難い事で、女がくったって悪党は驚きます、生血いきちを吸われますからな、何うもそれは有難い事で、幸三郎さん何うか願いたいもので」
 というので、是から橋本幸三郎が媒妁なこうどで、小峯を桑原治平方へ世話をする事に決し、前橋竪町へ母お山もろともに縁付きました。此方こなたかねて約束もありますから、橋本幸三郎方へお藤を縁付けたいと云う事で、の川口町の橋本幸三郎と云う御用達の家へ縁付けました。此の時の媒妁は桑原治平が宜かろうと云うので桑原治平が媒妁になって、お藤は橋本方へ縁付く事になりました、芽出たく事納まって後、布卷吉は祖父佐十郎を永い間介抱して見送りました後、奧木佐十郎の跡を継ぎまして、桑原治平は生糸いと商人だから糸を送り、橋本幸三郎が金を出して呉れましたから、立派に機屋を出して大層栄えました、末お芽出度いお話でございます。又筏乗の市四郎は、只今では長野県へ参りまして、材木屋を致してると云うことを、五町田の百姓からわたくしが聞いて参りました、其の儘取纒めた愚作でございますが、此のお話はこれで読切りに相成ります。へい御退屈さま。
(拠酒井昇造速記)





底本:「圓朝全集 巻の三」近代文芸資料複刻叢書、世界文庫
   1963(昭和38)年8月10日発行
底本の親本:「圓朝全集巻の三」春陽堂
   1927(昭和2)年1月28日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号は原則としてそのまま用いました。誤用と思われる箇所も底本の通りとしました。
また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。
底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」、「の」と「あの」は、それぞれ「其の」「此の」「彼の」に統一しました。
また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「小峯/小峰」「峯松/峰松」「桑原治平/桑原治兵衞」の混在は底本の通りです。
入力:小林繁雄
校正:門田裕志、仙酔ゑびす
ファイル作成:
2009年6月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について