数学史の研究に就きて

三上義夫




 私が数学史の研究に着手したのは、明治三十八年のことであった。これより先米国の数学者ハルステッド博士とふとしたことから文通上の知りあいとなり、同氏の勧めによって外国へ紹介する目的で少しばかり日本の数学のことを書いてみるつもりで着手したが、この頃に参考の書類といえば、故遠藤利貞翁の、『大日本数学史』(明治二十九年刊)があるばかりで、しかもその記事は了解し難きところ多く、古い日本の算書すなわち所謂和算書について研究しなければならぬことを感じた。しかるに新たに蒐集しようとしても経費があるでもなく、随分苦しんだのであった。幸いに岡本則録翁などの好意によって幾多の貴重な書類を供給されることが出来て、幸いにも一通りの記述を成し得たのである。
 私は初め日本の数学の研究に従事するにあたり、元来支那の数学を基礎として発達したものであるから、支那の数学発達の跡を明らかにすることが先決問題であろうと考え、出来るだけ支那の数学をも研究してみたけれども、支那の数学についてはわずかに阮元の『疇人伝』があるだけで、他にほとんど拠るべき書類もなく、支那の算書といっても帝国図書館などに若干の所蔵があるくらいのもので、資料の欠乏にはいかばかり苦しめられたかしれない。支那の数学上に最も貴重なる『九章算術』の如きはその頃には未だ全く見ることを得ないのであったが、幸い本郷の一書店で見いだすことが出来た。しかも「算経十書」一部四円というのが、その頃の私には買い入れることが出来ないで、まことに心を苦しめた。その頃あたかも故ありて上総の大原へ転住することとなり、そのままになったのであるが、どうしてもこの書に対する未練が棄てられかねて、やっと四円の金を工面し、在京の友人に托して買ってもらった。この「算経十書」は私が支那の数学史をとにかく一通り取りまとめるために、どれだけ役に立ったかもしれない。「算経十書」は勿論珍本でもなく、またこの書がなくては支那数学の根幹は尋ね得られない重要なもので、支那の数学史を考えるほどの人は必ず参照すべき普通の算書であるけれども、この書物を見つけて、しかも手に入れかねた時のつらさは今に忘れ得られぬのである。
 かくして私は極めて貧弱な資料しか参照することは出来なかったのであるけれども、ともかく、明治四十二年に至ってかねての約束の如く、独逸ドイツのライプツィッヒ市トイブナー社から出版すべき英文の『和漢数学発達史』と、またほかに米国コロンビア大学師範科の教頭スミス博士と共著の『日本数学史』との原稿を書き上げることが出来た。今から思えば、こういう貧弱な材料で二部の書を書き上げ、しかも海外で発表するなどいうことをしたのは、無謀の大胆さであったことを恐縮する。
 この二部の書の一方は独逸での出版であり、一方は米国の出版ではあるが、これもまた印刷は独逸で行い、その校正は独逸から西比利亜シベリア鉄道によって送られ、それを再び米国へ送るのであって、随分多くの時日をも要した、けれども両書の一方は世界大戦の始まる一、二年前に出版を終わり、一方はその年の初めに出来上がって、両方ともに戦争に煩わされることもなく、無事に完了したのであった。スミス博士と共著の方は、同博士が文筆に達した人であるから、はなはだ流暢に説述せられ、これがために日本の数学史が欧米の学界に紹介される上に極めて好都合であったのは、しあわせである。
 これより先、菊池大麓博士が英文で和算の算法を説いた数篇の論文があり、また藤沢利喜太郎博士が巴里パリで開かれた万国数学会議に出席して、日本の数学のことを略述されたものがあって、この藤沢博士の論文は短篇ではあるが、かの国でははなはだ有名なものになって居る。そうして林鶴一博士が和蘭オランダの雑誌へ「日本数学略史」と題して紹介を始め、独逸ではキール大学の教授で、同所の天文台長であるハルツェル博士が、「旧日本の精密科学」と題し、主として日本の数学史を説いた論文も現われ、それが私の研究起草中のことであって、これがためにかなりに悩まされもしたが、私のためには起草を断念するほどの必要にもならないのであった。これらの諸論文に対し、私は少しばかり意見をかの国の雑誌上で発表したこともあり、それから日本の数学に関する寄稿を依頼されるようのこともあって、白耳義ベルギーのサルトン博士が科学史専門の雑誌『イジス』を創刊した時にも、同博士からの依頼によって多少の関係を結ぶこととなり、同雑誌第二巻へ日本の行列式論のことを紹介したのは、その結果であった。しかもその第二巻の初号が出て間もなく、世界大戦となり、サルトン博士は蔵書や雑記を庭内に埋めて米国に避難し、雑誌はしばらく休刊のことになったのである。
 世界大戦が勃発してから以後には、和算に関する寄稿を依頼して来るむきは、いっこうに中絶してしまった。
 かくて一九一七年に至り、伊太利イタリーの数学者で希臘ギリシア数学史の一方の雄であるローリア博士が、日本の数学史を論じたことがあるが、その中には私の書いたものが引用中の大半を占めて居る。博士のこの論文は有益なものであって、和算史の研究上には他山の石としてはなはだ尊重すべきである。なにぶん伊太利語であるために、これを翻訳することもなし得ないで居るけれども、これを邦文に翻訳してわが学界に伝えることも決して徒爾ではあるまい。
 翻ってわが国内の事情を見るに、明治三十九年に故菊池大麓博士は帝国学士院で和算史調査の事業を起こし、『大日本数学史』の著者遠藤利貞翁がその算書蒐集及び調査にあたることとなった。菊池博士もその頃には閑地にあったので、遠藤を相手に自らも研究に従事するつもりであったとは、博士の直話であるが、ついで博士は英国へ行くこととなり、またついで京都帝大総長に就任したので、自ら研究をこととすべき余暇を得られないこととなった。遠藤翁は勢州桑名の江戸詰藩士であって[#「江戸詰藩士であって」は底本では「江戸諸藩士であって」]、和算家の出身であるが、洋算に対して和算の萎微振るわざるを慨し、明治十一年の頃から奮って和算史の研究に従事し、貧苦と闘いつつ、明治二十六年に至って初めてその大著を脱稿し、三年後の明治二十九年に三井八郎右衛門氏の出資によってこれを刊行したのである。和算史のまとまったものが作られたのは、これを嚆矢とする。こより先菊池博士は和算史の研究を思い立って、これを順天求合社の設立者福田理軒に図ったこともあり、また岡本則録氏を煩わさんとしたこともあったが、議まとまらずしてそのままとなり、その後、上州の和算の大家萩原禎助翁を聘してことにあたらしめ、また川北朝鄰翁の如きも算書を提供したことがあった。しかもこの頃にはさまでその事業は進まなかった。しかるに遠藤翁の『大日本数学史』の作られたのが機会を与えて、明治二十八年から理科大学で算書を蒐集することとなったが、明治三十二年に菊池博士が大学を去るに及んで、中止されたのである。東京帝大にはこの時の蒐集にかかれる和算書あるをもって、私は三上参次博士を介して、その閲覧方を依頼したのであるが、三上博士は特に菊池博士を訪うて紹介の労を執られたのである。しかるに菊池博士は学士院にて再び調査を始める計画があり、また私が外国で発表した一、二の論文をも見て居られたので、私がその事業に関係することを希望されたのであった。かくして私は明治四十一年から、自由に資料の使用を許可するとの条件の下に学士院の嘱託となり、その当時は大原に居たので、未だあまり便宜を得ることも出来なかったけれど、私が和算史について豊富な資料を自由にすることが出来たのは、全く菊池博士の好意によったのである。
 菊池博士と同時に狩野亨吉博士もまた和算調査の計画を立て、やはり遠藤翁を煩わすつもりであったが、遠藤氏が学士院の嘱託になったので、その計画は進行せずに終わった。
 私も初め米国カーネギー・インスチチューションの研究費支給を仰がんと欲し、米国の数学史家で去年物故せるカジョーリ博士なども尽力されたのであったが、時経て国内の研究者が多いからとの理由で成立しなかった。後で聞くと、菊池博士へ問い合せて来たということで、博士は私を知らないから見合せたがよかろうと言ってやったのであるが、実は悪いことをしたと、語られたことがある。狩野博士もまた同じ学院の研究費に頼ろうとされたのである。
 かくして遠藤翁は大正四年四月、七十三歳で歿し、これから私は学士院のために和算書蒐集のことをも担当することとなり、広く全国各地を跋渉して、諸算家の家につきて調査し、和算の各地方に広まった状態などのことは、かなりこれをうかがうことも出来たし、また幾多の算書及び史料を得たことは、まことに感謝するのである。遠藤翁病歿の時に、その数学史増補の遺稿があって、菊池博士の希望によりてこれを学士院に収め稍々整理して、『増修日本数学史』の書名を附して刊行したのであり、その出版費についても再び三井男爵家から学士院へ寄附し、それで出来たのである。この書は著者にとってももとより未定稿であり、また不完全のところもはなはだ多いのであるが、しかもまた見るべきところがあり、そうして他の諸研究は続々これを発表してその欠陥を補うという計画であったが、この書の刊行前、すなわち大正六年八月に菊池博士は脳溢血のためににわかに他界せられ、その計画もまた実行されることが出来なかったのは、遺憾このうえもないことであった。
 仙台に東北帝国大学が設立されたのは、明治四十四年であるが、林鶴一博士が数学の主任教授として赴任した。博士は前から和算史の研究に従事して居る人であり、今やまた和算史の調査をすることになって、私に書状を寄せてその事業に関係することを頼まれたのであるが、私は同一の事業である学士院の方を棄てて仙台に行くことをよしと思わないし、また研究の結果は、一部分は教授の名義、一部分は共著とし、他の一部分は私一人の名前で発表するという条件であり、その条件も思わしからぬものであったので、私はその書状を三上博士に示して相談した上、遺憾ながらお断りした。後いくばくもなく、時の東北大学総長であった沢柳政太郎まさたろう博士から三上博士を介して、前の条件を取消し、数学主任教授の監督を離れ、総長の直属として和算史調査のために来てもらいたいという交渉を受けたけれども、三上博士の意に従い、沢柳総長を訪いて再びお断りした。これから東北大学では狩野博士の豊富な蔵書を購入したりなどして、和算書も貴重な蒐集があり、ついでまた新たに多く集められて、帝国学士院と相並び、和算書蒐集の二大宝庫となったのである。そうして同大学からは柳原吉次氏の如き人物も出て、和算の研究をしたりなどしたものであるが、後に同大学を去って山形高等学校の教授となり、それからはこの種の研究を発表されなくなった。しかも林博士はその豊富な蒐集を利用して、屡々多くの研究を発表している。
 帝国学士院の和算史調査は、大正十二年十二月に経費の都合というので一旦中止せられ、私は去ることとなったが、この後においては宇都宮乕雄という英語の教員をした人が目録を作り、同氏の歿後には和算の老大家岡本則録翁が和算書の整理及び目録の作製を担当している。しかも調査研究は全く中止された有り様であり、これほど遺憾のことはないのである。
 私は現に東京市史編纂上の依頼を受け、諸算家の事蹟を調査して居るが、何と言っても、和算の発達は江戸を中心としてのものであり、江戸の数学といえば和算の全体に関係を有するのであって、全部の調査を終わるのは一朝一夕のことでないけれども、いかなる犠牲を払っても、出来るだけは江戸文化の最も主要な一面としてこれを描き出してみたいと思う。この調査は同時に私自身の研究にもなるのであり、その間に分界線を画することももとより不可能である。この調査によって、私の研究もまたこれを取りまとめることを希望して居る。
 大正十五年の秋、東京で汎太平洋学術会議の開かれたとき、学術研究会議では『日本科学総覧』と題する英文の一書を編纂して、諸外国から来会した人々に分与したが、私は同会議の会員ではないけれども、特に同会議の依頼によりて和漢数学史の一班を略述してこれを寄せたのであった。日本の医学史については富士川游博士がその中に執筆されている。
 昭和三年春には「輓近高等数学講座」の刊行があり、私はその中の『東西数学史』を担当し、まず日本の数学から説き起こし、支那、印度、亜刺伯アラビア、西洋という順序をとってみた。勿論短篇の記述であって言うべきほどのものではないが、この種の教育用の刊行物中に数学史が利用されることになったのは、歓びである。ついでその翌昭和四年には「輓近高等数学講座」中に『数学史叢話』を説き、和漢数学のこともまた若干の記載を試みた。私は勿論鼓張や虚構のことは説かぬけれども、和漢ないし印度等の数学上にも見るべき創意に乏しからず、必ずしも西洋にのみ譲るべきでないことを示し、数学史の回顧によって後進子弟の自覚を促し、鼓舞に努めたつもりである。これから数学史が数学教育上の実用になるであろうことを、切に希望する。
 私が和漢の数学史について包懐するところの大体の見解は、上記の『東西数学史』、並びに大正十二年に『哲学雑誌』で公にした「文化史上より見たる日本の数学」の中に略々記されている。この後者は実は私の研究の「プラン」であり、着々その研究の実現を望んでいる。支那数学については、『東洋学報』上に載せたる「支那数学の特色」、「疇人伝論」、「清朝時代の割圜術の発達に関する考察」の三篇は、特に支那の数学史家の評論を待つのである。書肆の依頼で『支那数学史』を作り、昭和四年の夏に脱稿して印刷中であったが、書肆の都合で印刷を中止している。いずれ多少書き改め、なるべく早く発表したいことを希望する。支那数学の発達並びにその算法の性質を知るための参考にはなろうことを思うのである。
 日本の数学についてもなるべく委細に取りまとめたいと思い、既成の部分も原稿三千枚ほどとなり、なお補正添加に努めて居る。東京市史稿のための調査を待って一通り完成したということにしたいことを期待するのである。
 民国十九年(すなわち昭和五年)十二月十五日天津にて発行の新聞『大公報』に葉恭綽という人が宋の沈括の科学上のことを記した通信を載せ、記者はその附記において支那の科学史のことを言って居るが、その終わりに次の如く言う。

中国天文数学。歴史甚古。不発達。中古受印度阿刺伯之影響。近古受泰西耶教徒之影響。其間経路有極難明者。又其学問本身之発展。有出現代西洋該科学之系統。吾人既絶望於国内専家之闡明。不先学日本文。以傾聴日本学者之議論。例如於中国数学史、天文学史上有疑難。取読日本三上義夫、新城新蔵、飯島忠夫諸人之著作。雖議論紛紛。未必皆可一レ信。要亦能略得其梗概也。吾人対葉避庵君来函。又想及何炳松君之議論。不覚百感交集。

 この文中に見えたる新城新蔵、飯島忠夫の両博士は支那古代の天文学史の研究に偉功ある人、その所説は一は支那起源と言い、一は西方からの伝来といい、両々相反するけれども、両君の力によってこれまでに組織立てられたのは、実に偉観なりと謂わねばならぬ。支那で現にこの種の研究のないのは言うまでもない。しかるに私が支那の数学史について論じたものは片鱗に過ぎず、かつ支那には現に李儼、錢寶※(「王+宗」、第3水準1-88-11)、張蔭麟、茅以昇等の諸君があって、支那数学史の闡明に努めつつあるのである。私はこの諸君の中に伍して多少の新見解を述べたのみである。切にこの諸君の高評を望む。
 私はさきに上海の科学者鄭貞文君に会ったとき、支那の数学史家の中で、西洋へ紹介する人があって欲しいことを話したが、同氏の談では錢君が書けばともかく、外国文に堪能な数学者は索め難いであろうとの話であった。錢君は浙江大学の教授であり、英国に留学した人である。しかるに去年の夏同君から贈られた書状には次の如く言う。

於貴国算学※(「王+宗」、第3水準1-88-11)門外漢。以前毫無研究。今得大著。史料之豊富。考窮之精確。万分欽佩。万分慚愧。※(「王+宗」、第3水準1-88-11)前以貴国文字苦。本年従師習読。因得粗知文典。預料半年以後。或可覧浅近日語参攷書矣。将来擬請先生紹介貴国算学史書籍及和算旧書幾種。以資研究※(「王+宗」、第3水準1-88-11)二十年前。嘗在英国。留学数年。然英文程度浅薄。祇能読而不写。当引以為憾事。先生能以英語伝東洋文化。対於世界算学史。貢献実多。亦足以自豪矣。

 しからば錢寶※(「王+宗」、第3水準1-88-11)君の如きも、外国文に綴って欧米に紹介する意志はないのであろう。米国の女流数学者コナンツ女史は、支那数学研究の目的で、北平(旧北京)の燕京大学教授となり、現に同校の陳教授という人とともに『四元玉鑑』の英訳をしているが、この人など充分に研究を進めて西洋へ支那の数学を紹介してくれられることを希望するのである。現に多くその紹介に努めているのは、白耳義人ワネー師であるが、この人には誤解が多い。私が「疇人伝論」を作ったのは、この人の誤解を解いたのである。
 印度の数学史についても近年研究が次第に進むようであるが、先ごろ、カルカッタ大学教授ダッタ氏が印度と支那との関係を述べて居る中に、二十年前の私の旧著を参照しているので、近頃私自身もまた支那の数学史家の研究も段々進んでいるから、旧著の不精確であったのが愧ずかしいというようなことを申し送ったのであった。しかるに同氏からさらに寄せられた書状は、私も無感覚に読むことが出来ないのであった。試みに和訳してみよう。

……私ども支那語日本語に通ぜざる者には、貴下の前著『和漢数学発達史』が今でも唯一の信頼すべき憑拠に有之候。小生は貴下に対し、その後の御研究によって御増補に相成り、少なくも英語にて数学史を学び候者の便宜のために、適切なるものに被成下候事を懇望仕候。かくの如き和漢数学史の包括的にて権威ある著述が作られ候わば、一般数学史上のために大切に有之候のみならず、非亜細亜的諸学者がともすれば東洋人は数学について創見なきかの如く見なしがちに相成候処の証拠もなく正しくもあらざる非難に対して、亜細亜の文化をはなはだ正当に立証することにも相成り可申候事、容易に御承知可被下と存候。

 印度の数学については英国の高官たりしケー氏が随分曲解して、印度には数学の能力なしという如きことを説いた例もあるが、この人もまた支那との比較については私の前著を参照したのであった。支那の数学に関しては、ワネー師が支那人の能力なきことを立証せんとして居る。これも事実を語るものであれば、やむを得ないのであるが、どうも正鵠を得たものとは思われぬ。私も及ばずながら、事情が許すならば、ダッタ教授の希望に添うような支那数学史を説いてみたく、閑暇さえ得られるならば、再び欧文の著述に回らぬ筆を執ることにしたい。
 巴里に万国科学史委員会なるものがあり、伊太利の科学史家ミーリ氏が主になってやって居るのであるが、私はさきに誤ってこの委員会の通信会員に選挙された。勿論予め私の承諾を得てのことでも何でもない。けれども未知の人、未知の会からこの選挙に預ったことは光栄に感ずる。今のところ、東洋人中には私が唯一人でもあるし、相成るべくは支那日本の科学史特に数学史に関する報告をもしたいことに思う。もし数学史研究の傍ら欧米へ紹介の労をとることも出来るならば、これだけでもせめて多少の貢献になろうことを、心ばかりの慰藉とする。
 私は数学史の研究について、現にかくのごとき状況に立って居るのであるが、出来るだけは完成を急ぎたいので充分に識者の援助を請いたいのである。
 なお『日本数学史概要』はなるべく急いで書き綴り岩波書店から出版することにして居る。





底本:「文化史上より見たる日本の数学」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年4月16日第1刷発行
底本の親本:「文化史上より見たる日本の数学」創元社
   1947(昭和22年)
初出:「飽薇 第七巻第一―三号」
   1931(昭和6)年
※訂正注記は、底本の編者、佐々木力の修訂に基づいて入れました。
入力:tatsuki
校正:山本弘子
2010年10月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード