創業記事端書
世の中をわたりくらべて今ぞ知る
阿波の鳴門は浪風ぞ無き
予は第二の
故郷として徳島に住する事殆んど四十年、為に数十回鳴門を渡りたるも、暴風激浪の為めに苦しめらるる事を記憶せざるなり。然るに今や八十一歳にして既往を回顧する時は、数十回の天災人害は、思い
出すに於ても
粟起するを覚うる事あり。然れども
今日迄無事に生活し
居るは、実に
冥々裡に或る保護に
頼るを感謝するのみ。
明治三十四年には、我等夫婦に結婚後五十年たるを以て、
児輩の勧めにより金婚式の祝を心ばかりを挙げたり。然るにかかる幸福を得たるのみならず、身体健康、且つ僅少なる養老費の貯えあり。此れを保有して空しく楽隠居たる生活し、以て安逸を得て死を待つは、此れ人たるの本分たらざるを悟る事あり。亦
曾て予想したる事あり。
夫れ我国たるや、現今戦勝後の隆盛を誇るも、然れども生産力の乏しきと国庫の
空なるとは、世評の最も唱うる処たり。
依て我等老夫婦は、北海道に於ける最も
僻遠なる未開地に向うて我等の老躯と、僅少なる養老費とを以て、我国の生産力を増加するの事に当らば、国恩の万々分の
一をも報じ、且亡父母の
素願あるを貫き、霊位を
慰するの慈善的なる学事の基礎を創立せん事を
予め希望する事あるを以て、明治三十五年徳島を退く事とせり。然るに我等夫婦は
此迄医業を取るのみにて、農牧業に経験無きを以て、児輩及び知己親族より其不可能を以て思い
止むべきを懇切に諭されたるも、然れども我等夫婦は
確乎と决心する所あり、老躯と僅少なる資金と本より全成効を
得べからざるも、責めては資金を希望地に費消し、一身たるや骨肉を以て草木を養い、牛馬を
肥すを方針とするのみ。成ると成らざるとは、只天命に在ると信ずるのみ。故に徳島を発する時は、其困苦と労働と
粗喰と不自由と不潔とを以て、最下等の生活に当るの手初めとして、永く住み慣れたる旧宅を退き、隣地に在る穀物倉に
莚を敷きたるままにて、鍋一つにて、飯も汁も炊き、碗二つにて最も不便極まる生活し一週間を経て、粗末なるを最も快しとして、旅行中にも此れを主張して、粗喰不潔の習慣を養成せり。故に北海道に着して、仮りに札幌区外の
山鼻の
畑の内に一戸を築き、最も粗暴なる生活を取り、且つ
此迄慣れざるの鎌と鍬とを取り、菜大根豆芋
等を
手作して
喰料を補い、一銭にても牧塲費に貯えん事を日夜勤むるのみ。然るに
甞て成効して所有するの
樽川村の地には、其年には
風損と
霜害とにて半数の収益を※
[#「冫+咸」、173-11]じたり。為に悲境を見る事あり、
大に失望して、更に粗喰と不自由とを以て勤めて其損害の幾分
乎を
償わんことを勤めたり。三十六年には主務なる
又一は一年志願兵となり、其不在中大雪に
馬匹の半数を
斃したり。三十七年には
相与に困苦に当るの老妻は死去せり。続いて又一は出征し、同秋に至り病馬多く、有数の馬匹を斃したり。為に予は一時病む事あるも、
幸に
復常せり。又一は三十九年五月
帰塲せり。予は三十七年迄は
夏時のみ牧塲に在るのみ。故に其概略を知るのみ。
片山八重藏夫婦の最初より今日迄の詳細を知るには及ばざるなり。
依て予が見聞する処の概略を記して、後年に至り幾分か創業の実况を知るが為ならんか。
本より此れを世人に知らしむるにはあらざるなり。我子孫たる者に其創業の困難なるの一端を知らしめんと欲する
婆心たるのみ。
明治四十三年八月※別[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、174-10]停車塲開通の近き日
八十一老 白里 関寛誌す
[#改ページ]
十勝国中川郡本別村字斗満
関牧塲創業記事
八十一老 白里 関寛誌す
(一)
明治三十三年八月、又一は札幌農学校在学中シホホロ迄
来り、同地にて実地を検して且つ出願せんとす。
三十四年一月、又一は釧路を経て
※別[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、175-7]に
来る。
同年五月、斗満原野三百万坪余の貸付許可を得たり。
同年七月、又一農学校卒業す。
直に※
[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、175-9]別に来る。
同年十月、
藤森彌吾吉に
左の牛馬を追わせて
愛冠に至らしむ。
牛八頭 馬廿一頭。
明治三十五年三月十七日、片山八重藏夫婦
樽川を発し、
北宝号、
耕煙号、
瑞
号、札幌号の
四頭を追うて、落合迄

車にて着。(中略)。廿五日藤森彌吾吉夫婦が牛馬を飼育するの愛冠の小屋に着し、同居して雪の溶けるを待つ。五月二十四日早朝発にて斗満に向う。愛冠には我小屋のみにて、
夫れより斗満迄十二里間は更に人家無く、………其困難たるや言語筆紙の及ぶべからざるなり。………片山夫婦、藤森彌吾吉夫婦、
西村仁三郎、
谷利三郎、土人一名合せて七名、同夜九時※
[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、176-9]別第五十四号にある測量出張員の仮りに用いたるの小屋ありて此れに着す。………四五日にして小屋の木材を切り取り、樹皮を剥ぎて屋根とし、且つ四囲を
構い、
或は敷きて座敷とせり。………夫れより開墾して六月十八日迄に一反半を開き、
燕麦牧草を
蒔付たり。
廿七日、
仮馬舎に着手して、七月一
日出来あがりたり。
七月一日、又一
着塲せり。
八月十日、
寛は
餘作を同伴して初めて来塲す。寛は餘作が暑中休業にて五郎同行
来札するを以て、五郎を母の
許に残し、同五日発にて牧塲に向う。落合迄

車、夫れより国境の
嶮は歩行し、清水にて一泊。夫れより帯広に出で、来合わせたる又一に面話し、一泊。高島農塲に一泊。
利別一泊。
足寄にて
渋田に一泊し、西村
氏が傷を
診す。翌日土人一名を案内として
傭い、乗馬にて早発し、細川氏にて休み、
後三時牧塲に着す。其実况は
左に。
細川氏にて茶を饗せられて径路を通行し、「トメルベシベイ」にて
十伏川を渡る。
河畔に鉄道測量の天幕あり。一名の
炊夫ありて、我牧塲を能く知る。
最も
懇篤に取扱いくれたるはうれし。
茲にて弁当を
喰す。茶を饗せられたり。
此迄は人家無く、附近にも更に人家無しと。河畔に土人小屋あり。此れ
鱒を
捕るなりと。此れより山間の屈曲せる処を通る。径路あるも、然れども予が目には知る事
能わざるなり。
数回川を渡り、
峻坂を登り、オヨチに至る。
此処は最も密樹の繁茂せるの間をくぐるには、
鞍にかじりつきても尚危く、
或は帽を脱せんとする事あり、或は袖を枝にからまれて既に一身は落ちんとする事
数回なり。且つ大樹の為に昼尚暗く、漸く案内者の跡を慕うのみ。
頗困苦するも、先ず無事に亦河を渡り、平坦の原野に出でたるも、また密林あり。(現今クンベツ)且つ
行く処として倒れたる大樹ありて、其上を飛越え、或は曲り或は迂回する
等は、
迚も言語を以て語り筆紙を以て尽すべからざるあり。亦
一の驚きたるあり、オヨチにては
蝮多くして、倒れ木の上に丸くなりて
一処に六七個あるあり。諸方にて多く見たり。
其度毎にゾッとして全身
粟起するを覚えたり。
平坦地を通り過ぐるの処に密林あり、湿地あり、小川あり。其
傍らに
蕗の多く生えたるあり。
蕗葉は直径六七尺、高さ或は丈余なるあり。馬上にて其蕗の葉に手の届かざるあり。
試に
携うる処の蝙蝠傘を以て比するに、其
大さは倍なり。此れより川を
渉りて原野に出でたり。(今の
伏古丹)。
行く事十丁ばかりにして湿地あり、馬脚を没し
馬腹に至る。近傍の地には
蘆を生じ、其高さは予が馬上にあるの
頭を
掩うあり。此れを過ぎ、東には川を隔てて密樹あるの山あるを見る。亦平坦の地に至る。西には樹木の生ずる山あり。北には樹木無く、平坦なるの高き地に緑草の繁茂するを見たり。更に能く凝視するに
馬匹をつなぐ「ワク」あるを覚えたり。故に偶然に此れ我牧塲なるかと思いつつ、更に北に向うて進むに、
一の広き湿地あり。馬脚は膝を没するも馬腹に至らず。此れを過ぎて次第に登り、平坦地に至る。少しの高低あるのみなる広く大なる原野あり。内に道路あり、幅六七尺にして十字形を為して東西に分れ、南北に分れたるを見たり。余り不思議なるを以て、かかる
無人境にて此道路は何たるやを土人に問う。土人答て曰く、此れは関牧塲にして、馬の往来するが為にかくはなりたりと。
爰に至りては予は実にうれしくして、一種言うべからざるの感にうたれて、知らず識らず
震慄して且つ一身は
萎靡るが如きを覚えたり。此時たるや、精神上に言うべからざるの感を為すは、これ終身忘るる事能わざるべきなり。故に
今日に於ても時々思い出す事あり。ああ此現状に遇するに於ては大満足たるや如何なる憂苦困難を重ねたるも、此れにて万難を打消すべきを感じたり。ああ世人は斯くの如きの実境を得る事を知らず、只空しく一身一家を固守するの人にては、予が此現状を得る事無き人に対して自ら誇るのみならず其人をあわれに思うなり。尚牛馬の多く群れたるを遥に見つつ河を
渉る。(斗満川)。
川畔に牛馬の
脚痕の多きを見る。
新に柵を以て囲めるを見たり。ここに至りて尚うれし。進んで少し登りて
行くに、樹間に小屋を見る。喜んで進んで着するに、片山夫婦谷利太郎は大に喜んで迎えらるるは実にうれし。然るに奇遇にも土人は鱒
弐尾を捕りたるを以て、調理して晩飯を
喰して
眠につけり。此夜は
恰も慈母の懐に抱かれたる心地して、大安堵せり。
小屋は四間に六間にして、堀立柱に樹皮を屋根とし、草を以て四囲を構え、草を敷きて座敷とし、外に便所一つあるのみなり。片山夫婦、彌吾吉、利太郎の四名なり。家具着類は不自由ながらも僅に用を便ずるのみ。臥して青草を握り、且つ星を眺むるなり。
此際は殊に小虫多く、眼口鼻に入る為めに、畑に出るには何れも覆面して時々逃げて小屋内にて休息す。便処にても時々「タイマツ」の様なるものを携うる事とせり。此れは小虫は火を嫌うを以て、小虫を避くるの為めなり。
十二日、七時より放牧塲(ノフノヤウシ)即ち昨日見る処に至りて馬匹を観んと欲し、彌吾吉王藏同行せり。
現塲に至り、彌吾吉は馬匹の群を一見して馬匹中に異動あり、或は不足なりとて、尚調査するに、仔馬一頭は
熊害にて臀部に裂傷あるを見たり。尚
瑞
北宝も見えざるを以て、或は昨夜熊害の
他馬匹にも及ぼす事あるかとて、王藏に命じて尚馬匹を集めて調査するに、瑞

北宝両
種馬の見えざるをもって深く案じたるも、両種馬は遥に
他群馬中に見えたり。且つ数十頭の遠くより揃うて
急馳するの勢い盛なるを見、且つ其迅速なるを見ては、実に言うべからざるの大快楽を覚えたり。且つ予は幼時
小金原にて
野馬捕とて野に放ちたる馬を集めて捕るを見たる事を想起せり。然れども
彼時は只眼にて観るの
楽なるのみなりしも、現今我牧塲としてかかる広漠の地にて、且つ多数の我所有たる馬匹の揃うて進みて予に向うて馬匹等は観せたしとの意あるが如きを感じて、更に一種言うべからざるの感あり。其内に追々進みて近きに来り、瑞

北宝は無事に群中にありて大に安堵せり。然るに
彼の両種馬は、予が傍らに来りて心あるが如く最も
親く接したり。他馬匹も同く、予は群馬の
中に囲まれて、
何れも予に接せん事を欲するが如く最も親しく慣るるは、此れ一種言うべからざるの感あり。
昨夜熊害は仔馬一頭を
傷めたるのみなり。
創は
裂創にして、熊の爪にかけられたるも逃げ出して無事なりと。
熊は時々馬匹に害を与うるを以て、
甞てアイヌ一名を
傭置き、一頭を捕れば金五円
宛を臨時賞として与うることとせり。
十七日、又一帰塲せり。
依て又一を先導として、餘作同道にてウエンベツ
山に登る。川を渉り、或は沿岸を往き、或は樹間或は湿地を通行するに、熊の
脚痕臥跡あり。漸く進んで
半腹に至るに、大樹の多きに驚けり。中には我等の
三囲四囲等の老樹多きに驚けり。山頂に登り、近くは斗満※
[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、184-1]別、遠くは阿寒山を眺め、近き
渓々は緑葉樹の
蓊鬱たるを望み、西に斗満の蓊鬱たるを望み、近き西には斗満川を眺めたり。帰路※
[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、184-3]別に出でたるに、土人小屋あり、
一人の住する無きも、傍らに熊送りの為め
熊頭を木に刺して久しく晒したるを以て
白色となれる数個を見たり。珍らしく覚えて一個を携え帰れり。昨夜仔馬一頭
斃れたり。此れ熊害にかかりたるものなり。
十八日、餘作と共に寛は発足す。又一、八重藏は、放牧塲迄見送りくれたり。放牧の牛馬は、予を慕うが如きを覚えたり。
十一月七日、又一札幌に向うて発す。此れ三十六年志願兵として一ヶ年間騎兵に服役する為めなり。
* *
* *
本年は樽川の畑は風損霜害にて収穫
大に※
[#「冫+咸」、184-13]じたり。依て我等夫婦殊に老妻は大に此れを憂いて、此損害の為めに収穫※
[#「冫+咸」、185-1]ずるを以て、牧塲に大に関係するを以て、此れを
償わんが為めに、我等夫婦は
未だ慣れざる畑仕事を為し、屋敷内にて菜大根及び
午蒡人参等を植付けて
喰料を助けて、
一日に責めては我等夫婦の喰料たる白米を五勺
宛にても※
[#「冫+咸」、185-4]ずる時には、一ヶ月には何程か費用を※
[#「冫+咸」、185-5]じて、其金員を貯えて又一が手許にて牧塲の資本たらしめん事を日夜怠らず。更に初めて寒地に来りて彼此に慣れざるが為めに、知らざる
裏に空費あるをも省略せんと欲して、或は夕食には
干菜を
粉として雑炊とし、或は製粉処にて粗末にて安価なるものを求めて団子として
喰する等は、実に恥ずべきの生活を為したるも、却って健康なるを以て、日中は夫婦共に畑に出で鍬鎌を握る為めに、
手掌は腫れ、腰は痛むも、耐忍して怠らず。然れども本年は最初たるを以て、樽川の収入にて
若干の予定を※
[#「冫+咸」、185-11]ずるを補わんが為めにて、决して焦眉の急を防ぐの為めにはあらざるなり。我等の子孫たる者は、此れを忘るる時は、必ずや家を亡すに至るべきなり。
馬匹五十二頭
牛七頭
蒔付一町余
ソバ、馬鈴薯、大根、黍は霜害にて無し。
(二)
明治三十六年
五月廿六日、寛は王藏に送られて牧塲に着す。
同三十日には、寛は蕨を採りて喰料を補わんとして、草鞋はきにて
藁叺を脊負い、手には小なる籠を持ち、籠に
満る時は藁叺に入るる事とせり。然るに片山夫婦は予に告げて曰く、通例の和服にては、小虫を防ぐには足らず、
迚も耐忍すべからずと。斯く示されたりしも、
強て和服にて股引をはきて出掛けたり。然るに初めての事なるを以て、最も近き山に
入り、蕨を採りたりしに、四囲より小虫の集る事は、
恰も
煙の内に在るが如くにして、面部
頸手足等に附着して
糠を撒布したるが如くにして、皮膚を見ざるに至れり。然れども
甞て决する事ありて、如何なる塲合にも耐忍すべきとするを以て、強て一時間ばかりにして
眼胞は腫れて、且つ諸所に出血する事あり。此痛みと出血するとは耐忍するも、
如何せん払えども及ぶべからず。
加之眼胞は腫れて視る事を妨げ、口鼻より小虫は
入るありて、為めに呼吸は困難となり、耳内にも入りて耳鳴するのみならず、脳に感じて頭痛あるを忍ぶも、
眩暈を起して卒倒せんとするを以て、
無余儀小屋に向うて急ぎ逃げ去らんとするも、目くらみて急に走る事能わず。為めに小虫は身辺を囲みて離るる事無し。
漸く小屋に帰り、火辺にて煙の為に小虫の害を脱するを得たり。実に尚一時間も強て耐忍する時は、呼吸困難と、視る事能わざるに至らん乎。甞て聞く処あり、小虫の群集に害せられて危険に陥る事ありと。予は其実際に
当て最も感ぜり。其以前に片山夫婦は予に示して曰く、面部は僅に眼を残して木綿にて包み、
頸囲も密に巻き、手足に至る迄少しも隙無き様に働き着用の服類を用意して此れを用ゆる事と。丁寧に教えくれたるも、予は如何にも我慢をして小虫を忍ぶべしと強情を主張したるも、然れども実際に当ては迚も
耐る事能わざるを以て、片山夫婦にわびして服従せり。依て片山夫婦に大に笑われたり。
夫れよりは彼を着用する事とせり。其使用は面部は只眼を
出すのみ、厚き木綿にて巻き
二重とし、頸部も同じ薄藍色木綿の筒袖にて少しも隙無き様にして、且つ体と密着せしむ。腕にて筒袖口をくくり、隙無き様にして、脚には
紋平とて義経袴の如くにて上は袴の如く下は股引の如きものを穿き、足袋をはき、足袋との隙をくくるに厚き木綿を用ゆるなり。肌と着類の間に少しにても隙ある時は、小虫は此れより刺すを以て、隙の無きに注意するなり。
此の如く着用するの
貌を自らは其全体を見る事能わざるも、傍人の有様を見て、其昔宇治橋上に立ちて
戦たる
一來法師もかくあらんかと思われたり。
かかる着用にて、炎熱の日に畑に出でたるには、炎熱と厚着の為めに全身は暑さを増すのみならず、汗出でて厚く着重ねたる木綿
衣は汗にて流るるが如きに至るを以て、
自ら臭気を発して、一種の不快を覚ゆると其
苦さとにて、
一日には僅に三四時間の労働に当るのみ。実に北海道の夏は、日中は最も炎熱甚しく、依て此厚着にて労働するが為めには実に
労るる事多し。且つ畑の
傍にて
朽木を集めて焼て小虫を散ずるとせり。故に少しの休息間にも、火辺にありて尚炎熱に苦むなり。
予は初めは和服にて蕨採りに出でし際に、小虫を耐忍する事
一時ばかりなるも、面部は一体に腫れ、殊に
眼胞は腫れて、両眼を開く事能わず、手足も共に皮膚は
腫脹と
結痂とにて
恰も
頑癬の如し。為めに四五日は休息せり。且つ頭痛と
眩暈とにて
平臥せり。
小虫を防ぐの着類は揃いて、皮膚及び眼胞の腫れも※
[#「冫+咸」、190-5]じたり。依て蕨採りとして出掛て、
藁叺を脊負い、手には樹皮にて作りたる小籠を持ち、草鞋はきたり。然るに小虫は四囲より集り、只眼のみあきたるにより、為に
眼囲に向て集るを以て、絶えず手にて払わざる時は尚多く集りて耐ゆべからず。依て手にて絶えず払いたり。然れども
右手に籠を持ち、
左手にて蕨を採るゆえに、小虫を払う時は蕨を採る事能わず。故に時々は籠を手より離して、地上に置く事あり。為めに蕨を採る事少きを以て、翌日より籠に紐をつけて頸にかけて出懸たり。依て都合よく片手に蕨を採り、片手にて絶えず小虫を払いたり。此れにて蕨は多く採りて、籠に
満れば叺にうつして脊負たり。然れども
後には叺を脊負い、前には籠をさげて、体には厚き木綿着類を重ねたるゆえに、総身の重きと且つ前後にぶらさげたるゆえに、慣れざる老体には実に苦き事多きも、日々勤めて四五町を隔てたる処にて採りたりしも、追々耐忍力も出来且つ慣れたるを以て多く採る事となれり。依て尚多く採らんとの希望を起し、八九町も隔りたる所に多くあるを知り、且つ片山ウタ谷利太郎は其近き畑にて仕事をするを以て、
其処に出懸けたり。然るに蕨は多く採りて叺に入れたるに、僅に六七貫目たるも、予が老体には重きに耐えざるを以て、地上に叺を置き専ら蕨を採りたり。然るに蕨の多く採れるを喜びつつ、小虫を払うを怠れり。故に小虫は多く集りて恰も煙の内にあるが如くにて、予が一身の四囲を最も濃密に集りて、且つ眼も小虫の為めに
塞り、十分に見る事能わざるを以て、小虫の此群集の内を脱せんとして、疾行して諸方に歩を転ずるも、其小虫の群集の内を脱する事能わず。尚眼は塞りて視る事不分明となり、置きたる叺を見出す事能わずして苦めり。尚如何にしても叺を見出す事能わざるを以て、
無拠大声を発して遠き畑に在るの利太郎を呼びて、漸く蕨を入れたる叺を見出したる事あり。
此際は蕨のみならず、
蓬も多く採りたり。其時
直に用うる時は、
黍と共に蓬を以て草餅として
喰する時は、
珍く
味あるを
何れも喜んで喰するによりて、大に経済上に於て益あり。予は
別て草餅を好むを以て日々の喰料とせり。亦久しく貯えて長く用ゆるには、煮て干し上げて貯うる時は、
何日も草餅を喰せんと欲する時に臨んで草餅と為す事を得るなり。亦蓬の少き地方に贈物として大に親睦を取るの事となるあり。当地の蓬は殊に
大く且つ多く、採り易きを以て予は現今の喰料のみならず、貯うる事とも為し、或は諸方へ贈りものとして誇れり。此れ苦中の一楽なり。………当地にては、白米は都会の地に比すれば倍額たるを以て、未開地の新住居たる者は、殊に白米を喰するを減ずるを最も
心懸るは最要方法たり。依ては年中絶えず第一には
馬鈴薯を多く常喰する事にて、第二は諸種の豆類をも多く喰するを以て、馬鈴薯と豆類には足りて忌むべきを覚ゆるあり。其際に時々草餅を以て祝いの時や或は祭りの日など用ゆる時は、
何れも大に喜んで喰するを以て、只都会の草餅の如く色と香とを以てするのみにては名のみなるも、喰料の助けとして多く蓬を用ゆる時は、味と共に喰料を助くる事最も多きなり。尚雪中に青物の乏しき時に此れを一同に喰せしむる時は、何れも大満足する者なり。実に僻地に於て隣家も遠くして平生他の人を見る事なく、亦語る事少く、他に心を慰むるもの無きにより、殊に
傭人等は日々馬鈴薯と豆類のみを多く喰するを
楽とするのみなるを以て、折には異る
喰物を大に楽とするのみなり。実に未開地に於ける農家の喰料は、都会人士の知らざる処にして、其粗末なるも自然に慣れ、且つ労働多きに
由りて消化機能も盛なるを以て、かかる喰料にても
却て都下の人より健康を増加するのみならず、
生出する処の
児輩は却て健康と
怜悧たるが如し。
昔時に於ける山中鹿之介坂田公時も山家育ちなり。現世に於ては、
高木兼寛三浦謹之助両氏の如き、最も深山の内にて粗食にて生長せるも、医門の大家たり。ああ自然たるや平均を怠らざるを感ぜり。
当地の蕨は太さ
拇指の如く、長さ二尺以上たる物なれば、殊に
味あり。故に珍とすべし。実に採りて
直に木灰と熱湯とを以てアク出して喰するにも、或は其儘酢味噌或は醤油酢にて喰し、或は煮て喰する時は、最も味多し。亦此れを煮て干しあげて貯うる時は、何時にても湯でて水に一二日浸す時は、原形の如く太くなりて、味あり。此れも雪中には珍しく喰すべし。且つ大に喰料の助けとなるあり。或は貯え置き遠方に送りて大に珍重せらるる事あり。且当地にては、蕨と蓬とは多くして且つ太くて味あるを以て、日々採るも尽きざるなり。実に天の賜たるを覚えたり。昔時支那にて
伯夷叔齊の高潔を真似るにあらずして、創業費の乏きを補わんが為めにして、実に都下及び便利の地に住して
衣喰するの人として决して知るべからざる事にして、かかる
卑吝を
記するは或は耻ずるが如きも、然れども未開地に於て成効を方針とするに於ては、尚此れよりも衣喰に於ける幾多の困難に当るを以て、甘じて実行せざるべからず。予が此実際よりは更に困苦と粗喰とを取るは、未開地を開墾するの農家の本分たり。ああ創業の
難いかな。
蕨蓬を採るの時は、樹皮の籠を用いたるも、然れども籠は歩行するにぶらぶらとして邪魔となり、或は小虫を払うにも不便なるを以て、更に木綿袋に換えたり。此れにて小虫を払うも手軽くなりて、大に便利となりて、蕨蓬を採るの量多きを喜びつつ、日々出でて採る事とせり。又小虫を払う事にも慣れて、
成丈小虫の集らぬ様に避け、或は払うて、
左手に蕨を握り、且つ小虫を払い、
右手にて採る。左手に握り余る時は、袋に入れ、又袋に余りある時は叺に入れて、其重さ六七貫目以上に至る時は、其重さに耐うる事能わざるを以て帰るとするも、然れども小屋を離るる僅に六七丁なるも、然れども予が肩に負う事は旅行の際には二貫目ばかりの重きを以てするのみ。依て六七貫目以上の重量に
至ては、強て耐忍する時は両肩は其重さにより
圧されて、其
疼みに
耐る事能わざるを以て、其重さに困る事を知るも、蕨を採るの際には少しにても多く採らんと欲するに傾きて、知らず識らず多きに至れり。依て帰路は僅に六七丁なるも、然れども既に帰路に臨む時は、漸く十間以上を歩行する時は、重荷の為めに両肩疼み、強て忍ぶも呼吸は
促迫し、尚忍ぶ時は涙と鼻汁とは多く流れ出で、両肩の疼み次第に増すを以て、両手を
後にまわし叺の底を持ちあげて肩の重きを
軽くするなり。然るに肩は軽くなるも両手に
久く
耐る事能わず。依て亦両手の労を休まんとして両手を前にする時は、
直に叺を両方より結びたる藁縄に
喉頭を
押しめて呼吸
絶なんとして痛みあり。依て亦両手にて藁縄を下方に引く時は、
喉頭を押すは※
[#「冫+咸」、197-3]ずるも尚肩の疼みは増加するのみならず、両肩は前後より圧迫せられたるを以て殆んど痲痺するが如きに至れり。全身も弱りて倒れんと欲し、耐忍する事能わずして草上に座して休息するに至れり。然るに休息するによりて全身は俄に安静なるに至れるが故に、小虫は此れにて四囲より群集して亦呼吸を妨げ、或は眼胞に向うて来りて払えども更に散るも亦来り尚群集を増加するによりて、此れにも耐忍する事能わずして、依て叺を
脊負て袋を前にかけて歩行するも前の如く困苦にて、僅に三十間或は四十間ばかりにて休息するが故に、六七町なるの帰路は一時間余を
経るに至れり。漸くにして小屋に帰りて直に横臥して言語する事も出来ざるに至れり。少時間は発熱するが如きを覚えて、精神も或は失するが如くにして休息す。
少く眠るが如くにして、漸く本心に復したるを待って、或は湯を呑み薯を食するに其
味の言うべからざるの美を覚えて、且つ元気つきて、
夫れより採りたる蕨蓬を選びわけて煮るには
半日を費す。故に午前には出でて採り、午後には煮て干しあげる事に当れり。依て日々に終日労するには予が老体には最も労苦たり。午後には火をたき湯をわかすには、炎熱中には随分大なる困苦たり。故に日中には労に当り自らも大なる困苦を覚ゆるも、少しも屈せずして実行するには、
恰も地獄の苦みもかくやあらんと思うのみ。然れども
予め决する事たるを以て、生活する間は耐忍するとせり。然るに
夜に
入り
臥床に就く時は、熟眠して快き夢ありて、此れぞ極楽界たるを覚えたり。故に予は地獄と極楽とを一昼夜の間に於ける実地に於けるを感ぜり。依て自ら心に誇る処あり。ああ予は
甞て徳島に在るの時に於て、七十歳を以て古稀と自ら唱えて、僅少なる養老費あるを以て安堵して
孫輩の顔を眺めて楽みとし、衣食住の足れるを満足とする事に至るのみに
止まりて、此牧塲を創起して意外の金員を消費しつつ、かかる困苦に当る事無くんば、かかる毎夜の極楽園裡の熟眠にて快楽ある夢をみる事もあらざるべき乎と熟考する時は、ああ予は大幸福と云うべき乎、或は大不幸と云うべきかと、自ら一種言うべからざるの感あり。然れども人たる者は生活間は苦んで国に対し亦世に対するが為めに労苦を実行するは此れ人たるの本分なりとする時は、或は不幸にはあらずして却て大幸福なりとすべく、予は大満足として、生活間に於て地獄と極楽との真味を最も能く知れるを以て大に誇る処也。
六月二十七日、土人イカイラン熊の子二頭を馬の
脊に載せて
持来れり。此際は蓬と蕨とを採るに
忙く、日々干し面白く、働くには頗る困難なるも、創世記を読みて古今同く労苦と厄難と人害とは此れ創業の取るべきを感悟して最も満足せり。
此際には豆類
甘藍等に兎と鼠と日中にても群を為して来り食するや実に驚くのみ。依て百方其害を防ぐに忙きも、其効を見る事能わざるなり。
七月三日、一奇遇あり。一官吏来り泊す。
伴氏と告ぐ。然るに予は先年
伴鐵太郎なる者を知れり。故に伴鐵太郎なる者を知るやと問うたり。然るに伴鐵太郎の二男なりと。予は
甞て長崎に在りし時、幕府の軍艦にて
咸臨丸は長崎滞泊中は該艦に乗組の医官無くして、予は臨時傭として病者及び衛生上に関する事を取りたる事あり。其際伴氏は上等士官として艦長の代理たり。其際には最も
親く且つ予と年齢も
同きを以て最も親くせり。爾後政府も代り、
数十年を経て互に其音信を為せる事ありしも、然るに偶然に同氏と面会するに、かかる山間なる僻地に既往を伴氏の実子と語る事あるの奇遇を感じたり。
七日、三角測量吏吉村氏は※
[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、201-1]別山に三角台を
建るが為めに来泊す。
此際道路新設にて、請負人堀内組病者多しとて、
藤森彌吾氏を以て頼み来れり。此れ我牧塲に向うて道路新設たるを以て、喜んで諾す。
此際土方人夫は逃げて北見に走る者多く続いて来り、予が一名にて留守するに当りても来り強て喰物を乞わるる事あり。或は川をわたり、或は裏口より突然に
来るあり。或は跡より追い来るの人あり。其混雑なるは実に一種の世界たるを覚えたり。
八月廿七日、初雪あり。
九月十六日、堀内組病者診察として
愛冠に行くに、道を曲げて「ニオトマム」に馬匹を見んが為めに、「ヤエンオツク」を同行せり。王藏が番小屋に泊す。傍らに土人の小屋を立ててヤマベを捕るあり。其の小供は裸体にて山中をかけ走るを見る。ヤマベを釣り、味噌汁に五升芋とヤマベを入れて煮たる汁を喰す。最も妙味あり。且つ予は倒れたる
枯木の丸太橋を
彼方此方と小川をわたりながら馬匹の遊ぶを見るは実に言うべからざるの感ありて、恰も太古にはかくやらんと思われたり。殊に此地は水清く、南に平原ありて
沙地なり。北には
緑葉の密に針葉樹多く、其奥に高山ありて、為めに小虫は
少し。
十七日、雨ふるも強て発して愛冠に向う。四里間に家無きも、山間或は原野にして、シオポロ川の源に出で、川畔に
傍うて
降る。終日暴雨なり。
后三時愛冠に着す。全身は肌迄
湿うたり。
夜中熟眠す。夜半独り覚めて「ニオトマム」の成効して所有権を得るの後を思うて、尚全身若がえりたるを覚えたり。ああ
昨日馬上にて全身の冷水に湿うるを忍びて、却て大に健康を増加するを覚えたり。
廿九日、寛は札幌に向うて発す。
牛十頭
馬九十五頭
畑地開墾四町
牧草地二十町
(三)
三十七年一月一日。
寛は札幌にありて牧塲を遥に祝す。
二月七日、又一帰塲す。
三月一日、瑞

北宝を
舎飼とし、他の馬匹を
昨暮よりさる人に預けたり。然るに本年の大雪にて多くの馬匹を
傷め、四十頭を
斃したり。或は衰弱して流産するあり。此れ
我家の不注意と、預り人の怠りとに由るなり。
五月廿八日、寛は着塲せり。
六月十日、又一は札幌に向うて発す。………
倉次氏より、アイ衰弱の報あり。
十二日、朝アイ死去せり。
老妻は渡道後は大に健康なりとて自ら畑に出で鍬を取り、蔬菜豆類を作り喰用の助けとして、
一日に一銭たりとも多く貯えて又一が手許に送り、牧塲の資本を増加せん事をとて熱心に働き、自らも大快楽なりとて喜び居れり。然るに昨年より心臓病に罹り、貧血となり、次第に一身に疲労を起し、且つ痩せて時々心動亢盛の発作あるも、然れども性として仕事好きにて、少しも休息せず。自らも牧塲の為めには一身を尽すは本より望む処なりとて、労苦を取りて休まず。移住後は滋養の為めとて在東京周助
妻より蒲焼及び鯛サワラ等の味噌漬其他舶来品の滋養物を絶えず送られて好みつつ喰するも、次第に衰弱せり。或は温泉を好むを以て、近所なる山鼻の温泉にも予は同行する事もあり。或は快く、或は発作し、自分にても
此度は
迚も全治すべからざるを悟りて、予に懇切に乞うて曰く、
此度は决する事あり、依て又一に面会して能く我等夫婦が牧塲に関する
素願たるの詳細を告げ示し置きたし、依て牧塲に行き又一と交代して又一をして早く帰宅せしめられたしと。乞う事切なり。且つ此れは
妾が大に望む処なりと、
数回促されたり。予は
今世の別れとは知り、忍びざるも、然れども露国に対するの戦端開け、又一が召集せらるるも近きにあらんか、依て
速に又一を札幌に出でしめ、責めては存命中に又一に面会せしめて、十分に話を致させるとして出発するも、心は残りて言うべからざるに迫まれり。尚死後の希望を予に向うて乞う事切なり。
左に。
一、葬式は决して此地にて執行すべからず。牧塲に於て、卿が死するの時に、一同に牧塲に於て埋めるの際に、同時に執行すべし。
一、死体は焼きて能く骨を拾い、牧塲に送り貯えて、卿が死するの時に同穴に埋め、草木を養い、牛馬の腹を肥せ。
一、諸家より香料を送らるるあらば、海陸両軍費に寄附すべし。
五郎は常に看護を怠らず、最も
喰料には厚く注意して滋養品を取り、且つ何の不自由無し、故に予が傍らに在らざるも少しも差支無きとて、出発を促せり。予が発途後は何等の異状も無し。倉次氏は時々来診せられたり。然るに十二日の朝は、例により
臥床を放れて便所に
行きて、帰りて座に就くや、暫時にして俄かに面貌変じたり。夫れより只眠るが如くにして絶息せり。急ぎて倉次氏を迎うるも、最早致すべき無し。
然るに近隣及び知人は集りて五郎を助け、東京へも電信を発し、マスキはキク、ヒデを同行にて来り、厚く葬儀を営み、且つ遺言により骨は最も能く拾いて集め箱に入れ置きたるを、予は
其後に自ら負うて牧塲に帰りて保存せり。アア三十五年に徳島を発する時は、老体ながらも相共に手を携うるも、今や牧塲には白骨を存するのみ。肉体無きも、無形の霊たるや予が傍らに添うて苦楽を共に為すを覚えたり。早晩予も形体は無きに至るも、一双の霊魂は永く斗満の地上に
在て、其
盛なるを見て
楽まん事を祈る。
亡き魂よ、ここに来りて、諸共に、幾千代かけて駒を守らん。
秋の夜の、俤うつる夢さめて、ねやにただきく川風の音。
廿九日、餘作来塲して予を慰む。
寛は亡妻の病めるや既に不治にして必死たるべきを决定するを以て、死去後には憂いとは思わざるのみならず、亦忘れんと欲するも、
如何せん精神上に於ける言うべからざるの欝を以てし、且つ全身は次第に衰弱して喰料を※
[#「冫+咸」、207-12]じ、動作困難にして、耳鳴
眩暈して読書するにも更に何の感も無く、亦
喰物に味無く、只恍惚たるのみ。餘作にも語り合い、此儘にて
空く沈欝に陥る時は、或は如何に転変するに至らん乎と、自らも此れを案じ、餘作も共に慰めくれて、此際には精神上一大変化を実行して、此難関を一掃すべきの大奮励を要すべきを悟り、此れが為めには先ず例年暑中には海水浴を実行するを以て、此れに習い今回は
温別にて行い、且つ
甞て高岡氏より釧路支庁長に向うて予が為めに厚意を報ずるの一通あり、未だ釧路に出でざるを以て、此一通を釧路支庁長に呈し、且つ予が現状と牧塲の現状とを語るべし、更に甞て予が厚く信ずる処の二宮尊徳翁の霊位を
藻岩村二宮
尊親氏の家に至りて
親く拝せん、且つ其遺訓をも拝聴し、及び遺書をも親く拝読せん事を切望し、尊親氏にも約する処あるを以て、此れを実行せば或は精神上に於けると転地療法とを二つながら全うせん事に决し、七月五日餘作同行にて発途。足寄橋にて別れて餘作が
後貌を
遥に眺めて一層の脱力を覚えたるも、
強て歩行し、漸く西村氏に泊す。此際に
近藤味之助氏は学校に在勤して慰めくれたり。
然るに其後両日間は非常なる暴雨にて、休息し、晴れを待って発するに、センビリ川は増水して、漸く
増人を以て渡る。其日
上徳氏に泊し、夫れより釧路に出でたるも、支庁長不在なるを以て書状を置き、帰路
白糠軍馬補充部を一見して
菅谷氏に一泊し、温別にて海水に浴す。此際は汽車は
浦幌迄通ずるのみ。浦幌に泊し、
豊頃に至る。
前九時なり。此れより十勝川を渡り
藻岩村に向わんとす。然るに昨日迄は満水にて渡船無きも、
今日に至り漸く丸木舟にて渡すとて川向に着す。川には流材多く危険にして、泥水と腐草とは舟を妨げる事ありしなり。然るに藻岩村に行くの道路に向うて僅に四五十間行くに、昨日迄の洪水は去れども、
瀦水は膝を浸す。尚行くに従うて深きが如し。依て
渡人なる土人に其詳細を聴くに、道路は深くして腰を浸すべし、
強て藻岩に行くには堤防を行き、夫より畑の中を通り、遥に見ゆる処の小屋に至り、夫れより間道を通らば藻岩に至ると。依て土人を
傭て、助けられて行くとせり。然るに泥水とゴミと流れ、木材多く、歩行困難にして或は倒れんとする事あり。依て土人に手をひかれて歩するに、深さ膝を過ぎ、泥水中に
朽木を踏みて既に危く倒れんと欲するあり。或は
大なる流材ありて、此れを
跨りて越えるあり。或は畑の溝にて深き所ありて股を浸すあり。故に一歩毎に危く、片手は土人にひかれ、片手には倒れ木を握り、或は蝙蝠傘を杖として歩行するが為めに、胸迄泥水に浸されて、僅に脊負う所の風呂敷を浸さざるのみ。為めに或は立ながら休み、或は泥水中に倒れ木によりて休みて、数回倒れんとしたるを遁るるのみ。為めに呼吸促迫し、更に
今朝浦幌にて僅に粥二椀を喰したるままにて、豊頃にては
昼飯を喰せざるを以て、追々空腹を覚え、殊に歩行は遅くして、三時頃に至り彼の小屋に着したり。然るに泥水の中に三時間余在るを以て、寒くして震慄を覚えたり。依て農家に頼み、火にて暖まり、湯を飲みたるも空腹なるを以て食事を乞うも、黍飯なり、且つ硬くして喰する時は胃痛下痢を発する事を恐れて、忍んで藻岩村に向う。此間廿町ばかりなるも、泥水の溜まるあり、或は道路の
破む処ありて歩行甚だ究するも、漸く二宮家に着するを得たり。然るに尊親氏は不在なり。妻君に面会を乞うに、未だ一面識無きのみならず、大に怪むが如し。此れは予が半体以上は泥水に
汚れ、
面色も或は異様なりしなるべし。然れども強て尊親氏の面会を乞う。近隣にありて、帰宅す。予が現状を見て大に驚けり。依て其詳細を述ぶるに、俄に風呂をわかし、着類を洗いくれ、負う所の着類を換えて、初めて精神に復したり。尚乞うて粥を喰す。空腹のみならず疲労あるとて鶏卵を加えて饗せられたり。然るに
過般来は
喰味無く、且つ喰後は胃部には不快を覚えたるも、今や進んで喰するを好むも、然れども注意して少量にして尚空腹を覚ゆるを耐忍せり。且つ尊親夫婦は最も
喰味の調理に意を用いて、
漸次に喰量を増し、粥をも少しずつを濃くせり。実に初めは極薄きを用い、追々其喰料を増加して漸次に
復常し、書を読み、或は近傍を歩行するに至れり。然るに尊親夫婦は厚意を以て日々滋養品を
交々に饗せらるるにより、漸次体力復したり。従うて精神上に於ても大に安堵ありて、日々尊徳翁の霊位を拝し、且つ遺訓と其遺れる二宮家庭を視、或は遺書を拝写して、一週間を経て体力復し、精神上の快活を得たり。為に欝を忘れ、
喰気は追々増加して、一層の快を覚えたるを以て、
彼家を去るに至れり。爾後は漸次に喰量を増し、食後の胃痛も無くして、心身復常せり。ああ此時に在りて誤りて
空く床上に在て只平臥する事あらば、或は心身共に衰弱するに至るべきなり。此れ泥水の内に在て空腹にて困苦するのみならず、過度の運動するが為めに喰機を振起し、為めに心身一大変動を起すに至り、尚尊徳翁の霊前に侍したるの感動により精神上の活溌の地に進み、更に尊親夫婦の厚意の切なる喰料を饗せられたるとを感じて、夫れより二宮家と数層の親睦を厚うせり。
同廿五日、寛は帰塲せり。
八月、土人イコサックル我牧塲内の熊害を防ぐ為めに居ると定めて、橋畔に小屋をかける。
三日、馬、熊害にかかる。
十五日、又一動員令下るの報あり。
二十日、寛は又一を見送るが為めに札幌に向う。
二十九日、寛は又一に面語す。
甞て将来の事を語らんと欲したるも、然れども夫れは実に大なる予が迷いたるの事たるを悟れり。戦地に
出るは、此れ死地に勇進するなり。殊に世界第一等たる強兵たるの露国に向うて為す事あるは、此れ日本男子の名誉たり。殊に我家に於ては、未だ戦地に出でたる男子無し。依て此迄は我等夫婦は世上に向うて大に恥ずる処にして、既に清国と兵を交うるの際に当ては、実に我等夫婦は大に恥ずる事あり、為めに我等夫婦は一身を苦めて出兵者及び負傷者の為めに尽すのみならず、家計の及ぶ限りを以て実行せり。然るに其後北海道に来りて牧塲にのみ傾きたるも、然れども我国に於ける露国と兵を交うる事あらば、出でて其実行に当らんとの念を以て、為めに十分に寒気に耐うるの習慣を取りて止まず。然るに奇遇にも永山将軍に親くせり。同将軍は露国に向わん事を平生語れり。且つ予に同行をすすむる事ありしも今春病死せり。依て予は独行する事は難きのみならざるを
密に思うのみなり。然るに又一が出征せば、予は残りて牧塲を保護すべきなり。依て又一が出征は実に我家の名誉なり、予が大満足なり。故に又一には牧塲の事は一切精神上に置かずして勇んで戦地に出ずべき事死を决すべきを示すのみにて、他は决するの必要無し、依て又一が名誉の戦死あらば、第二の又一を以て素願を貫くべきとして、更に将来を議せざるなりと决して、勇みて別れたり。
十月二日、寛は帰塲す。
寛が帰塲するや、片山氏は左の現状を告げて曰く、九月廿日頃より斃馬病馬多く、既に此迄に於て殊に有数なるの馬匹を二十余頭は斃れ、尚追々病馬あり、此上は如何なるべき乎、關川獣医の説によれば、病症不明にして治療に於けるも拠るべき処なしと、依て今後は如何なる事実に陥るか。とて片山夫婦は勿論高橋富藏も共に大に苦慮して、何れも落胆の極に至り、或は各自决する事ありて一身を退かんと欲するが如く、且つ精神沈欝して共に惨憺たり。其景况たるや言語に絶したり。然るに予は帰着後未だ草鞋ばきの儘なるも、其実况を見るに実に如何とも致すべからざる事たりしにて、予も同く大落胆するのみ、且つ言うべからざるの感に打れたり。然るに予は大に决する処あり、予が共に沈衰するに至らば如何なる塲合に陥らんか、依て今後に於ける如何なる事あるも、現状を回復するには大奮起せざるに於ては、我が牧塲は忽ち瓦解に帰せんや必せりと悟りて、一同に向い大声を以て第一に片山を呼び、其他を集めて叱

して曰く、我牧塲の現状を恐るる者あらば、
直に我牧塲を立退けよ、とて大に怒鳴りて衆に告げたり。且つ曰く、予は生活する間は决して此牧塲を退かざるなり、予は生活する間はココを退かずして、
仮令一人にても止まりて牛馬の全斃を待つ。尚語を継ぎ曰く、全斃の後に至り斃馬の霊を弔わんと欲するなり、
若し幸にして一頭にても残るあらば後栄の方法を設くべし、我等夫婦が素願を貫くの道なりと信じて動かざるなり、幸にして
種牡馬二頭は無事なり、依て此上に病馬あらば、十分に加療を施して死に至らしむるこそ、馬匹に対するの大義務たるべきなり、予は老体を
忘て尚活溌に至らんと欲するなり、
甞て札幌に於ては又一が出兵するを以て、其不在中は全く独立自営を主とし、官馬を返納して一家計を細く立て、其及ぶ限を取らんと决したるも、ココに
至ては官馬は斃るるも、我牧塲と共に予も死する迄として実行すべきを决したるを告げて、大に一同を責めたり。然るに片山初め一同は、予と同情を以て大奮励するとして、
何れも予が説に伏して、初めて復常するに至れり。ああ此時に於て予も共に
憂に沈みて活気を失う事あらば、或は瓦解に至る事あらん乎。此れを熟考する時は、予が如き愚なるも平生潔白正直を取るの応報として、
冥々裡に於て予を恵みたるかを覚えたり。実に予が愚なるもかかる
断乎たる説を
立たるを感謝す。かかる
数回の厄難を重ねたるは、此れ天恵の厚き試験たるを感悟して、老朽に尚勇あらん事を怠らざるなり。
四日、斃馬一頭あり。
五日、
今日に至り病馬全く無きに至れり。内祝として餅をつく。
今日に至り病馬無く、且つ一般の順序を得るを喜びて、
西風吹送野望清 万樹紅黄色更明
扶杖草鞋移歩処 只聞山鳥与渓声
此れより層一層の勤倹を守り、一身を苦境に置くに勇進せり。
十九日、瑞

号
種牡馬の検査合格、十勝国一等の評あり。
十二月二十日、寛は七福の夢あり。
牛十四頭
馬六十七頭 今年斃馬五十六頭なり
(四)
明治三十八年
一月一日
昨三十七年は
我家の大厄難たるも、幸にして漸く維持を得たるを以て、尚本年は最も正直と勤倹とを実行し且つ
傭人等に
成丈便宜を与えん事を怠らず、更に土人及び近傍の農家にも幸福なる順序を得せしめん事に勤め。特に寛は七十六歳にして、昨年数回の病に罹るも、今日に至ては
健にして、且つ本年は初めて牧塲の越年たるを以て、如何なる事あらんかと一同配慮するも、寒さにも耐えて、氷結の初めより
暁夕毎に
堅氷を砕き、或は雪を踏んで
一日二回は習慣たる冷水灌漑を実行し止まざるはうれし。又一は入営兵の
留主中たるも、先ず牧塲の無事に維持あるを謝すると、尚本年は無事に経過あらん事を祈ると共に、最も衣喰を初め
仮令僅少にても節約を守り、物品金員を貯えて牧塲費に当てて、又一が無事に帰るの後には、更に幾分かの助けたらん事を日夜怠らざるなり。
寛は
昨秋より不消化の為めに悩む事あり。其後は喰慾は復するも、然れども大に喰量を※
[#「冫+咸」、220-5]ずるのみならず、昨年迄は硬き喰料黍飯等を食するに好んで用いたりしに、其後は
少く硬きもの黍飯等を用うる時は、必ず胃痛下痢等を発する事となりたり。然るに一月三ヶ日間は、祝として黍餅を雑煮として喰したりしに、三日の夜大に胃痛にて
苦めり。依て四日間は
粥汁のみを喰して復常するを得たり。然れども昨年よりは、一身は大に平均を失うて起居動作には頗る困難を覚ゆるのみならず、記憶力及び考慮の上に於ても、大に※
[#「冫+咸」、220-11]乏を覚うるの外に、消化器の機能も衰えて、少く硬き品を喰する時は、忽ち胃痛を発し嘔吐下痢する事ありて、総体に於ける衰弱するを覚えたり。
乍去強て注意して運動を怠らず、更に喰料にも成丈
軟きものを選み、且つ量に於ても三分一を※
[#「冫+咸」、221-2]ずるとして、夕飯は必ず後四時として粥を用い、菜は淡泊なるものを用うるとせり。此れにて次第に平均を得るも、尚注意して漸次に復常を得たり。然るに他処に
出る時は、余儀無く喰するの時を
過り、或は硬き飯及び不消化物を食する時は、胃痛下痢を発するには殆んど困却せり。依て
一日の旅行には弁当を携え、一泊する時は前以て粥と時間を早くするとを頼むとして、注意を怠らざるのみ。依て次第に心身共に復常するを得たり。アア老境は実にアワレなり。依て世上の壮年者に忠告す。人たる者は必ずや盛衰の範囲を脱する事能わず。夫れ発育期を経て成熟期に至れば、続いて老衰期の
来るを能く銘記せよ。老人たるや肉喰と
絹服とにあらずんば養うに足らずとは、古きより
訓たり。実に然り。喰物は歯にて噛む事能わず。着類も重きに耐えざるなり。故に壮年者は老人に対するの責任たるを忘るべからざるなり。尚此れより最も注意すべきは精神上に於ける無形の感動なり。
抑人たる者は、肉体よりも無形たる精神上の或感動は忽ちにして
凋衰を
来す事多きのみならず、或は死に至る事あり。故に老人に対しては安慰と快楽とを与うるは壮年者の大責任たり。依て安慰、滋養品、運動との
三は、実に
相待てこそ長寿すべきを能く銘記あらんことを祈る。寛は幸にして此
三を以てするに怠らず。幸にして精神上の安慰と滋養品とは、能く家族の注意ありて、絶えず実行を
持長せり。依て此際は自ら運動の為めに、或は紙張物、或は雪中歩行等にて運動を怠らず。且つ病者の
来るを喜んで診療するを勤め、尚好む処の
謡と鼓とを以て
楽とせり。二月、亡妻の白骨を納むるの装飾ある外囲の箱を片山氏は作る。出来上るを以て、餅をつき霊前に供し、一同に饗したり。
十日、雪深くして歩行して河に至る事能わざるを以て、冷水灌漑に換うるに雪中に転ぶ。
三月、寛は種痘の為めに諸方に行く。
六月、寛は
伏古の地を検し、帰路落馬せり。然るに幸にして負傷する事無きも、然れども老体の負傷あらば或は大に恐れあるを感じたるを以て、今後は乗馬を止むるとせり。
此際は寛は
蓬蕨を採るに野に
出るも、亦他の人も蒔付に出るも、小虫は一昨年に比すれば
半を※
[#「冫+咸」、223-7]じたり。昨年は大厄難たるを以て、小虫の事は深く心に置かざるも、本年は無事たるを以て、又々小虫の事を彼此と唱うるに至れり。
七月、寛は海水浴として釧路に向う。九日に帰塲す。
廿八日、又一出征の報あり。
此際に
左の希望を企てたり。
積善社趣意書
維昔天孫豊葦原を鎮め給いしより、文化東漸し、今や北海辺隅に至る迄億兆斉しく至仁の皇沢に浴せざるものなし。我が一家亦世々其恵を受け、祖先の勤功と父母の労苦とに由り今日あるを致せり。豈幸ならずや。されば我等上は国恩を感謝し、祖先の神霊を慰し、父母に孝養を厚うし、下は子孫の教育を厳にし、永遠なる幸福の基礎を定め、勤倹平和なる家庭と社会とを立てん事を謀らざるべからず。
然るに人生の複雑なる、安危交錯して、吾人の家庭と社会とに屡不測の惨禍を起して其調和を失うことを免れず。思うに人生の惨禍は、彼の厄難屡来りて遂に貧に陥り、居るに家無く、着るに衣無く、喰うに食無く、加うるに宿痾に侵され、或は軽蔑せられ、人生に望を失うものより甚きはなからん。而して其由来する所を繹れば、多くは自ら招くものなれど、事茲に至りては自ら其非を覚ると雖ども、其非を改むる力なく、或は自暴自棄となりて益悪事を為すあり、或は空く悲歎して世を恨み人を怨むものあり。其惨状実に憐憫に堪えざるものあり。是れを救済し、其生活を安全ならしむるは、誠に人生の一大善根にして、固より容易の業にあらずと雖ども、吾人は其小を積み止まず遂に其大を致さむ事を勉めざる可からず。此の如くにして初めて吾人の目的に近くことを得べきなり。
我家は北海道十勝国中川郡本別村字斗満の僻地に牧塲を設置し、塲内に農家を移し、力行自ら持し、仁愛人を助くることを特色とし、永遠の基礎を確定したる農牧村落を興し、以て此れに勤倹平和なる家庭と社会とを造らん事を期せり。コレ実に迂老が至願なりとす。迂老は幼にして貧、長じて医を学び、紀伊国濱口梧陵翁の愛護を受け、幸に一家を興すことを得たりと雖、僅に一家を維持し得たるのみにして、世の救済については一毫も貢献する所なし。今に至り初めて大に悟る所あり。自ら顧るときは不徳※才[#「菲/一」、226-2]事志と違うこと多しと雖、而も寸善を積みて止まざるときは、何れの日乎必成の期あるべきを信ずる事深し。乃ち先ずコレを我牧農の小村落に実施し、延いて他に及ぼさんことを期し、コレを積善社と名づく。凡そ我社中の人には、労苦を甘んじ、費用を節し、日々若干金を貯えて、コレを共同の救済集金とし、以て社中に安心を与え、上は国恩を感謝し、祖先の神霊を慰し、父母の孝養を厚うし、下は子孫の教育を厳にし、永遠なる幸福の基礎を定め、勤倹平和なる家庭と社会とを立て得るに至らん事を祈るなり。
明治三十八年 積善社発起 七十六老 白里 關寛
此際亦胃痛あり。
八日、又一出征の報あり。依て餅をつきて祝う。
創世記を読み、創業を銘記せり。
十月
一日、清水沢にて紅葉を観る。帰路迷う。一同に心配をかける。
十五日、寛は足寄帯広方面に出で、二宮農塲に滞留。
十一月、寛は六日帰塲す。
此際
約百記を読み、牧塲維持の困難を悟る。
(五)
明治三十九年一月一日
例により斗満川の氷を破り、
氷水に入り、灌漑して爽快を覚えて、老子経を読み、
左の語の妙味を感ぜり。
不失其所者久、 死而不亡者寿
十九日、雪深くして川に行く事難し。依て雪中に転んで灌漑に代う。
二十日、瑞

と北宝とが
前脚を挙げて
恰も相撲の如くして遊ぶを見て
楽めり。
三月十日、
栃内氏より電報あり、又一室蘭迄帰ると。
赤飯を製して一同に祝せり。
三十日、川氷解け初めたり。
四月四日より日々南方を眺め、或はニタトロマップ迄行きて、又一が帰るを待つ。
十三日、後二時、又一無事帰塲す。