心の仕事を

或未知の友への手紙

堀辰雄




 御手紙拜見しました。
 ドゥイノの悲歌に就いての御質問の事、只今生憎手許に充分本がありませんので、御滿足の行くやうには御返事が出來かねますが、――第十の悲歌のあの冒頭の部分は、此の最後の悲歌の主題として考へられる、悲しみをぎつて本當の生に到達する「道」の探究へと我々を導いてゆくために、先づ、我々、地上の愛に充ちた者らにおける悲しみの位置といつたものをはつきりとさせてゐるのであります。
 本當の人生への道は悲しみをぎりながら通つてゐる。その悲しみを浪費したり、その果てるのを欲したりしてはならない。そしてそれを大事にしなければならない。何故なら、すべてのものが死んで、我々が無限の生の新しい季節にはひつてゆくとき、我々に殘されるのはその悲しみだけだからである。現世ばかりでなく、さういつた死後の我々の永遠の住家としてまで、リルケは、人間の悲しみといふものを大事にしてゐる。
 死と、悲しみと、子供や動物の無心と、――この三つのものをリルケが悲歌全篇にわたつて人生の重要な要素と考へてゐることは誰にも分かる位、屡※(二の字点、1-2-22)詩の前面に持ち出されて來てをりますが、さういつた要素をメタフィジカルに書かずに、常に詩人の體驗したものをもつてきて書く。それが此「悲歌」では、――

Werk des Gesichts ist getan,
tun nun Herzwerk.
目の仕事は仕遂げた、
これからは心の仕事をしよう……

 と或詩で既にリルケも書いてをりますやうに、ロダンの影響の下に製作した前の「新詩集」のやうな「目の仕事」ではなくなつて來た、そして「心の仕事」として其處に新しい世界を創めてゐる、――そこで此詩中の image が大へん曖昧模糊としたものになつてきてゐるやうです。ですからその數行が君にロダンのダナイデの像の美しさを喚び起したなら、それはそれなりに味つてゐて好いのでありませう。只その形象がさういふ彫刻的な美しさを君に喚び起しただけに止つてゐてはならない。それはもつと君を人間の悲しみといふものの本質に導いて行かなければならない。あくまでもそこには停滯があつてはならないと思ふのです。
 私は君の質問を讀んで、すぐ以上のやうなことを考へました。君が私にお訊きしたかつたことは君のロダンの彫刻の聯想を私に確かめて貰ひたかつたのでせう。しかし私はそれへの直接の返事は避けて、かういふ事を書きました。しかし、それが現在の私にとつては可能な唯一の返事なのです。
 もう一つの御尋ねの私の作品(「菜穗子」)は、あれでもつて一先づ打ち切つて、今度創元社から上梓します。もう校正も了へましたので、十月半ば頃には本屋に出るだらうと思ひます。
 以上、とりあへず御返事まで。





底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄小品集・薔薇」角川書店
   1951(昭和26)年6月15日発行
入力:tatsuki
校正:染川隆俊
2010年3月5日作成
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