續プルウスト雜記

堀辰雄




 プルウストに關する三つの手紙を神西清に宛てて書いてから數ヶ月が過ぎた。
 その間、私は心にもなく、プルウストの本を殆ど手離してゐた。
 唯、ときたま、ガボリイのプルウスト論の中で見つけた「私の月日が砂のやうに私から落ちるのを感ずる悦び」と云ふクロオデルの言葉が思ひがけずに私の口をついて出てくるやうな瞬間があつた。そしてちよつとの間だけ、私はその文句そつくりの悦びに浸つてゐるのだつた。
 そしてその時はまた、私に、數ヶ月前プルウストを夢中になつて讀んでゐたときの思ひ出がいつの間にか蘇つてゐる時でもあつた。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 その數ヶ月の間に私は何をしてゐたか? 私はバナルな小説を二つばかり書いた。
 夏のはじめに、ふと口に頬ばつたボンボンの味が、ながいこと忘れてゐた夏休みの樂しさだとか、悲しみだとかを、私のうちにまざまざと蘇らせた。輕井澤のホテルに飛んで行つて、私はせつかちにその思ひ出を書取つた。
 秋になつた。ジョルジュ・ガボリイの「マルセル・プルウストに就いてのエッセイ」を讀んだ。ガボリイは、すでに死に瀕してゐたプルウストの代りに「ソドムとゴモル」や「囚はれの女」の校正をした時のことなどを物語つてゐる。これを讀んでゐたら私は急にその二つが讀みたくなつた。
 私は「ソドムとゴモル」を讀み出した。が、すぐにそれを放棄しなければならなかつた。秋には定期的に出る熱がまたしても私を襲ひ出したから。
 一月ばかり私はぢつと寢てゐた。そして僅かに「※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ルヘルム・マイステル」などを讀んだ。
 冬になつた。私の二十代はそんな空虚のまま、この冬のうちに閉ぢようとしてゐた。
 私は再びせつかちに私の二十代の最後の小説にとりかかつた。それが私の過去の作品の無意味な繰返しになりさうなことは自分にも分つてゐた。しかしその時はどうしてもこれを書いてしまはなけれは他のものには手がつかないやうな氣持だつた。
 私はそれを書き上げた翌日、上野の美術館にフランス繪畫展覽會を見に行つた。そして私はたくさんの騷がしい乾いた印象しか受けないやうな繪の前を通り過ぎた後、一枚の大きなパステルの前までくると、そこに三十分ばかり私は釘づけにされた。その畫面一ぱいに何だか得體の知れぬ壞れたものがごたごたに積み上げられてゐる間から、或る不思議な靜寂がひしひしと感じられてくるのだつた。そして私にはその苦しさうな古代的靜けさのみがひとり眞實なもののやうに感じられ、それだけが現代にしつかりと根を張つてゐるやうに思へた。それはジォルジオ・デ・キリコの「戰勝標トロフェ*」だつた。
「こんな繪を見せられちやたまらないなあ――」
 昂奮してその繪の前を去りながら、私はただ溜息をついた。私はひどく疲れたやうな氣がした。そしてなんだか急に自分の書き上げたばかりの作品があまり性急で、あまり乾いてゐるやうに思へだした。
* そのキリコの繪と向ひ合つてピカビアの數枚の繪が並んでゐた。ピカビアは古代とたはむれてゐる。それをからかつてゐる。だからその繪は騷しいだけなのだ。さう云ふ缺點がキリコの古代のやうに靜かな繪の前だけに一層目立つて見えた。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 眠りから醒めた瞬間、いま夢みてゐたばかりのごたごたした不確かな事物の間から、一つの像――たとへば一つの女の顏だけが、私の目にありありと殘つてゐる。そしてその不思議な美しさが、私に、以前から彼女に對して抱いてゐる愛をその時はじめて氣づかせるやうなことがある。キリコの繪のなかの漂流物の間に混つてゐた一個の青ざめた石膏の首はそれに似てゐた。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 今、考へて見ると、さう云ふキリコの悲痛な繪を自分の二十代が終らうとしてゐる瞬間に私が見たと云ふことは何か意味がありさうに思へるのだ。
 その繪を見てきてから數日といふもの、私はへんに切なくてならなかつた。キリコの悲痛な美しさが、そしてこの頃そんなキリコの繪にだけすがりついてゐるやうに見えるコクトオの苦しい氣持が、私には今までになくしみじみと分かつたのだ。
 私は突然、獨逸語を勉強し直さうと思つた、ゲエテが原文で讀みたくなつたのだ。キリコが私をゲエテに向はせたのだ。私は、今日のすぐれた詩や繪の中で死に瀕してゐるやうに見える靜かな古代的な美しさを、その昨日の生き生きした完全な姿でもつて見直したいのだ。
 私はインゼル版の「詩と眞實」などを買つてきた。しかし永いこと獨逸語を讀まない私にはすぐにはそれを讀めさうもなかつた。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 私はしばらくどうしやうもない氣持で日を過してゐたが、或日、ぶらりと神戸へ出かけた。
 露西亞人ばかりのゐる、小さなホテルに泊つた。そのホテルのことを私は「旅の繪」といふ小品の中に描いた。
 私はトランク一個すら持たず、勿論、本などは一册も持つて行かなかつた。そんなものは讀みたくもなかつたのだ。しかし、最初の夜、慣れないベッドの上になかなか寢つかれず、本がなくて困つたので、翌日私は海岸通りの何とかいふ藥とパイプと洋書を賣つてゐる店でサミュエル・ベケットの「プルウスト」といふ小さな英語の本を見つけて買つてきた。
 晝間は町や波止場をぼんやり散歩をして、夜寢るときだけそれを讀んだ。言つてゐることには大して獨創的なところはないが、しかしプルウストの方法をかなりてきぱきと紹介したものなので、ある頁は私に私の嘗つて讀んだことのある數十頁にわたる長い情景を一瞬間に蘇らせ、また他の頁は今度は是非そこを讀んで見たいものだと私に空想させたりしてくれるので、なかなかその夜毎の一二時間の讀書は樂しかつた。
 そこに一週間ばかり滯在してゐるうち、私は扁桃腺をやられて、しかたなしに家へ歸つた。ベケットに刺戟された私は寢ながらプルウストの「再び見出された時」を讀みはじめた。
 私はもうすでに三十歳になつてゐた。

          ※(アステリズム、1-12-94)

「再び見出された時」は漸く私を活氣づけてくれた。
 プルウストがそれまで私の内部に奧深く眠つてゐたものを少しづつ呼び醒ましたのだ。すでにコクトオやなんかが私の内部をすつかり耕してしまつたものと思つてゐたのに。私の内部に眠つてゐるものはまだまだうんとあるのだ。その發見が何よりも私を元氣づけた。
 私は當分プルウストを讀んでやらう。さうだ、それからゲエテも讀まう。私は自分の跡にどんなジグザグな線が殘るか知らないが、ともかくもこの二つの相異つた精神について行つてやらう。その一方が詩に對する私のやや性急な愛をもつと平靜な愛に變へてくれるだらうならば、また一方は*、私のこれまで殆ど打棄らかしておいた自己の考へへの誠實を養つてくれるだらう。
* プルウストのなげやりな混雜した文體は私の簡潔な文體への好みを困らせる。しかしそれはガボリイも言ふやうに、彼の美徳――誠實であることの結果であるやうに見える。私は今までのなまじつかな簡潔さよりも、さう云ふ誠實な混亂を欲しいのだ。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 私がその秋のはじめに讀んだジョルジュ・ガボリイの「マルセル・プルウストに就いてのエッセイ」は、彼の内部に眠つてゐたものがプルウストによつて呼び醒まされた過程を精しく語つてゐて、面白い。
 プルウストの死んだのはある冬の晩(一九二二年十一月八日)だつた。前から彼が重態であることは知つてはゐた。しかし彼の側近ではなかつたので、ガボリイはその翌朝、新聞を讀んではじめてその死を知つたのだつた。新聞にはごく小さな記事しか出てゐなかつた。それにはただ彼が一九一九年度のゴンクウル賞の受賞者だつたと云ふことだけが書かれてゐた。
「それは日曜日だつた。私は、アペリティフの時間になつてもまだブウルヴアルのあるカッフェの中に、プルウストが死んだといふことなぞ知らない人々の間に、坐つてゐた。私はボオドレエルの死を、そしてその死を知つたにちがひない人々のことを夢想した。それから私は再びプルウストの死の上に戻つて行つた。……私のホテルの部屋には、花模樣のある机掛で掩はれたテエブルの上に、『囚はれの女*』の原稿が載つてゐるのだ。……晩、私はそこに歸つて行つた。しかし、どうしても私はそれを讀み續けるやうな氣にはならなかつた。私のことを子供らしいと云ふ奴は云ふがいい。だが、前もつて自分の容態をはつきり知つてゐて、一生の間あんなにも死について考へてゐたその死者のことを思へば、この、タイプライタアで打たれてあるとは云へ、彼の手が觸れ、彼の眼差が注がれ、その餘白やその端に貼られてある(まるで未知の國の地圖のやうに擴げられる)薄つぺらな紙の上に彼が澤山の書入れをした、この原稿を諸君は何と見るか?」
* 重態になつてゐたプルウストには「囚はれの女」の原稿を訂正することが出來なかつたので、前に「ソドムとゴモル」の校正を見たガボリイがその仕事を託されてゐた。「囚はれの女」は彼の死後間もなく刊行された。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 ガボリイは「ソドムとゴモル」の校正をするまではプルウストを殆ど讀まないでゐたことを告白してゐる。
「スワン家の方」の最初の部分をほんの少し讀んで、なんだかそれから晦澁な、ぎごちない印象を受けたままそれを放棄してしまつたのだと云ふ。そしてそれの文章の長過ぎることを彼は讀まない口實にしてゐた。ともかくも彼はプルウストを理解しなかつたのだ。が、心の底ではそれが單なる時の問題にすぎないやうに感じてゐた。
 さう云ふガボリイをプルウストの方へ導いたのは、フロイドだつたのだ。
 そこでガボリイは、フロイドの學説が初めて巴里に這入り込んできたときの話をし出してゐる。フロイドの弟子である、あるポオランドの婦人がやつてきて彼女の小さなサロンで初めてその學説を紹介した。その會にはN・R・Fの作家たちも殆ど全部出席した。しかし或者にはその會の目的は科學ではなかつた。それを氣晴らしだと思つてゐた。だんだん皆は不注意になり、不眞面目になつて行つた。そして最後の會はとうとう馬鹿笑ひの中に終つた。
 その會はそんな不首尾に終つてしまつたが、しかし精神分析に對する興味はガボリイをプルウストの方へ導いて行つた。プルウストは勿論フロイドを知らないだらうし、フロイドも恐らくプルウストを讀んでゐないであらうが……
 その時丁度、ガボリイはN・R・Fの社長から「ソドムとゴモル」の校正を託されたのだ。

          ※(アステリズム、1-12-94)

「『ソドムとゴモル』の書き出しは私に私の初期のボオドレエル熱を思ひ出させた。」とガボリイは書いてゐる。
「……ボオドレエルの思ひ出が私をプルウストの作品へ導いて行つた。プルウストとボオドレエルの間には多くの類似點があるのだ。プルウストはボオドレエルのやうに、死に先立つところの死苦をはつきりと知つてゐた。又彼のやうに、少からずカリカチュアの趣味、レスビアンの趣味を有つてゐた。『ボオドレエルに就いて』といふジャック・リヴィエェルに宛てた手紙の中で、彼は『惡の華』が最初は『レスビアン』と題されてゐた事を、そして『惡の華』といふ題はバブウによつて發見されたのであることを喚起させてゐる。又二人とも屡々珍らしい形容詞を搜してくる。ボオドレエルが『秋の歌』の中で「出發のごとくに響く」ところの「神祕な物音」と形容したのは、プルウストが『ソドムとゴモル』の中で一少女の笑ひを「ジェラニウムの香りのやうに、きつくて、肉感的で、挑發的な笑ひ」と形容したのにも比較されよう。二人の間には、もつと他の類似點がある。不意打に關するボオドレエルの理論と、プルウストの作品の中にまるでヴォドヴィルのやうに仕組まれてある多くの不意打の効果と。ボオドレエルの傳説と、プルウストの傳説と。それから惡魔主義がボオドレエルの作品に於けるのは、スノビスムがプルウストの作品に於けるやうなものだ。ともに裝飾であり、缺點だ。……しかしながら、プルウストがボオドレエルの「影響」(この言葉に普通持たされる惡い意味で)を受けたとは言へない。ボオドレエルが彼に與へたものはすべてプルウストは自分の物としてゐる。(バルザックが「創造の錬金術」と名づけたものによつて)……私はペンを手にしたまま、讀んでゐるそのテキストからどうしても離れられなかつた。ときどき章句の美しさや、反省の情熱的興味が私の注意をそらしはしたが、そしてまたハムラン街の彼の部屋(いつも鎧扉の閉まつてゐる)の中で、眞夜中、死の床にならうとしてゐるそのベッドの上に體を折り曲げて、作品を校正したり、書き直したりしてゐるプルウストの幻が目の前にちらついてならなかつたけれども。死にかかつてゐる者によつて完成された、何といふ仕事! 死についての感想を筆記させるために死苦の中から再び身を起したプルウスト、そしてその痛ましい部屋の散らかりやうと云つたら!

箱だの、壜だの、熱くなつた枕の皺の中に
くしやくしやになつてゐる貴重な手帳だの、
インキの汚點しみのついた机掛の上にちらばつた本だの……

          ※(アステリズム、1-12-94)

 以上抄したものはガボリイのエッセイの最初の一部分に過ぎない。ガボリイの筆は更らに、プルウストが非常な關心を持つてゐたやうに見える夢の分析に向ひ、それから更に彼の描いたレスビアン達の方へ向けられてゆく。
 しかし其處は、私がまだ充分に讀んでゐない「ソドムとゴモル」や「囚はれの女」を讀み終つてからにでもした方がいい。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 サミュエル・ベケットの「プルウスト」はガボリイのエッセイ風なものと異つて、プルウストの方法を丹念に追究してゐる。(ベケットと云ふ人のことは少しも知らないが、聞けば「トランジション」などによく詩を出してゐるイギリスの若い詩人ださうである。)
 ベケットは先づプルウストの謂ふところの無意的記憶を説明してゐる。(それに就いては私もこの前の「雜記」の中で説明した。)さうしてベケットはその無意的記憶の主要な例が「失はれた時を求めて」全卷のうちに約十一許りあることを指摘してゐる。次に擧げるのがそのリストだ。
1 茶の中に浸したマドレエヌ。(「スワン家の方」☆)
2 ペルスピエ醫師の馬車から認めたマルタンヴィルの鐘塔。(同右☆)
3 シャンゼリゼエの亭の黴くさい臭ひ。(「花さける少女の影に」☆)
4 バルベックの近くで、ヴィユパリジス夫人の馬車から認めた三本の樹木。(同右☆☆)
5 バルベックに近い山査子さんざしの籬。(同右☆☆)
6 バルベックのグランド・ホテルへ二度目に行つた時、彼は彼の靴のボタンをはづさうとして屈む。(「ソドムとゴモル」☆☆)
7 ゲルマント邸の中庭のでこぼこな石疊(「再び見出された時」☆☆)
8 皿にぶつかるスプウンの音。(同右☆☆)
9 彼はナプキンで口を拭く。(同右☆☆)
10 水管を通る水の音(同右☆☆)
11 ジョルジュ・サンドの「フランソワ・ル・シャンピ」。(同右☆☆)
 私は此處でベケットの本を離れて、それらの十一の無意的記憶に關して私のための覺書をつけて置きたい。
 最初の有名なマドレエヌは前の「雜記」にも引用したから省略する。第二の經驗は、幼時、ペルスピエ醫師の馬車に乘せて貰つてコンブレエへ歸る途中に起る。ある道の曲り角で、夕日に照らされてゐるマルタンヴィルの鐘塔を認めたとき、彼はなんとも云ひやうのない悦びを感ずる。「私にはそれらの姿を地平線に認めて私の受けた悦びの理由は分らなかつたし、その理由を是が非でも發見しようとすることはずゐぶん苦しいやうに思はれた。……」そのうちその鐘塔の背後に隠されてゐるものがいくらかづつ彼にはつきりしてくる。これまでになかつたやうなある考へが浮んでくる。それが言葉といふ形式をとり出す。彼は醫師から鉛筆と紙を貰ふと、すぐその場で、鐘塔の與へつつある印象を書きつける。それを書き上げてしまふと、とても嬉しくなつて、彼は聲をかぎりに歌ひはじめる。
 第三の場合は、シャンゼリゼエで少女たちと遊び疲れて、自分の家への歸り途、四目垣のあるちんの黴くさいやうな臭ひを嗅ぐと、突然、いままで潛伏してゐたイマアジュが浮び上るのだ。その幻はそれとそつくり同じやうにじめじめした臭ひのしてゐた、コンブレエのアドルフ叔父さんの小さな部屋のそれなのだ。しかし何故こんなつまらない幻の喚起がこんなにも異樣な悦びを彼に與へるのか分らないでゐる。
 第四の場合。バルベックの近郊をヴィユパリジス夫人などと共に馬車を駆らせてゐる間に、彼は三本の樹木を認める。「私は三本の樹木を見つめた。私はそれを十分に見ることが出來た。しかし私の心にはそれらが何かしら得體の知れないものを隱してゐるやうに感じられた。……私はどんなにか一人きりになつてしまひたかつたらう。……さうしなければいけないやうにさへ私には思へた。私は一種特別な悦びを覺えてゐたけれども、それはもつともつとそれに就いて考へるやうにと私を強ひたのだ……」
 しかし馬車は遠ざかつて行く。
「馬車は私がそれのみ眞實であると信じてゐたものから、私を眞に幸福にさせもしたであらうものから、ずんずん私を引き離して行つた。……私はまるでひとりの友人を失つたやうに、自殺をしたやうに、ひとりの死人を知らない振りをしたやうに、神を否認したやうに、大へん悲しかつた。」
 第五の場合も同じバルベックである。アンドレエといふ女友達と一緒に散歩をしてゐるうちに、
「突然、とある凹んだ小徑で、私は幼時のやさいし思ひ出に心臟をしめつけられて立止つた。私は私の足許にまで延びてゐる、擦り切れた、艶のある葉によつて、もうすつかり花の落ちつくした山査子さんざしの茂みを認めた。私のまはりには昔のマリアの月や、日曜の午後や、すつかり忘れてゐた信頼だの過失だのが一つの雰圍氣になつて漂つた。私はそれをつかまへたいと思つた。私は一瞬間立ち止つてゐた……」
 第六の經驗は「心の間歇」と呼ばれてゐる有名な一節だ。彼はその愛してゐた祖母の死後、母に連れられてバルベックのグランド・ホテルへ二度目に行く。(最初の時はその死んだ祖母と二人きりで行つたのだ)「最初の夜、私は心臓が苦しくてしやうがなかつたので、その苦痛をごまかすために、私は靴をぬがうとして注意深くしづかに屈んだ。しかし、私が私の深靴の最初のボタンに手をふれるや否や、私の胸は見知らない神々しいもので一ぱいになつて脹らんだ。鳴咽が私をゆすぶり、涙が私の目から流れた。」
 その瞬間に、數年前の、このホテルへ着いた最初の晩、疲れ切つた彼のために靴をぬがせてくれようとして、その上に身を屈めてゐた祖母のやさしい、氣づかはしげな顏が、その腕のなかへ身を投じたいやうな衝動を彼が感じたくらゐ、生き生きと完全に蘇つたのだ。そしてそれと同時に彼は初めてその祖母が死んだといふ事に、死んだのが誰であつたかといふ事に、氣づくのだ。そして彼はその祖母が死んでから一年許りと云ふもの、彼女のことも、彼女に對する自分のこまやかな愛情すらも、すつかり忘却してゐたこと(プルウストはそれを「心の間歇」と呼んでゐる)を認めて驚く。
 さて、最後の五つの經驗は「再び見出された時」の第二部のはじめに次から次へと連續的に起る。だからそれ全部でもつて一つの靈感を形づくるものと見て差支へない。其處でプルウストは彼の作品がいかにして生れたかを自ら語つてゐるのだ。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 ゲルマント邸に於けるマチネに招待されて、彼は途すがら、いかに自分には文學的才能が缺けてゐるか、のみならず文學そのものが空虚なものであるかを悲しい氣持で考へながら、其處へ出かけて行く。中庭を横切らうとしたとき彼はあんまりぼんやりしてゐたものだから、向うからくる自動車に氣づかなかつた。運轉手の叫びで、彼は慌てて脇へどく。そして彼は思はず出つぱつてゐた敷石につまづく。が、眞直にならうとして、彼がその足を前のよりもいくらか低くなつた石の上にのせた瞬間、彼の悲しい氣持は突然消えてしまふ。そしてその代りに、彼がバルベックの近くで馬車の上から認めた三本の樹木だとか、マルタンヴィルの鐘塔だとか、茶の中に浸したマドレエヌの味だとかが嘗つて彼に與へたのとそつくりな異樣の悦びが彼を襲ふ。が、何故このやうな悦ばしさが二個のでこぼこした石疊によつて喚び起されたのか? 彼は突然、自分の足の下の凸凹が、ヴェニスのサン・マルコ洗禮堂の二個のでこぼこな石疊の上で感じてゐたあらゆる感覺を生き生きと彼に喚び起させたからであることに氣がつく。だが、何故こんなつまらない感覺の喚起の中にこんなにも異樣な悦びがあるのだらうか? その不可思議に苦しめられながら、彼はゲルマント邸へはひつて行く。
 彼は小さな圖書室に導かれる。丁度サロンでは音樂が演奏されてゐる最中なので、それが終るまでそこで待つてゐなければならないのだ。その時その圖書室の隣りの食器室から皿にスプウンのぶつかる音が聞えてくる。するとさつき凸凹な石疊が彼に與へたのと同じやうな悦ばしさが再び彼を襲ふ。それは森のにほひと煙のにほひとの混つた、なんだか熱いやうな感覺である。皿にぶつかつたスプウンの音が、小さな森の手前に汽車が停まつてゐた間その車輪の何かを修繕してゐた工夫のハンマアの音を喚起させたのだ。……給仕長が彼のためにオレンジエェドを持つてくる。彼は渡されたナプキンで口を拭く。すると今度は突然、青空の幻が彼の目の前をよこぎる。彼はまるで今自分がバルベックの海岸に臨んだホテルの窓の前に立つてゐるやうに感ずる。昔その窓を前にして彼が糊の利いたタオルでもつて骨を折りながら自分の體を拭いてゐた時のことが、いま彼が口を拭いてゐたばかりの硬ばつたナプキンによつてありありと思ひ出されたのだ……
 さう云ふ經驗を繰り返してゐるうちに、彼は遂に彼の搜し求めてゐた一つの法則を發見するに至る。
「私のうちに再生したもの、……そのものは物體の原素エッセンスだけを食つてゐるのだ。そのものはその原素の中にのみ彼の食物、彼の無上の快樂を見出す。……嘗つて聞いたり嗅いだりしたことのある或る音響とか、或る匂ひとかが、再び――現在と過去とに於いて同時に、實在はしなくとも現實的に、抽象的にならずに觀念的に――聞かれたり嗅がれたりするや否や、忽ち物體の永續的なそして平常は隱れてゐるところの原素エッセンスが釋放される。そして或る時はずつと前から死んでゐるごとくに見え、また他の時はさうでないごとくに見えてゐた、眞の自我モアが、彼に齎らされた天の糧を受けて、覺醒し、活氣づいてくる。時間の秩序から飛び出した一分間が私にそれを感じさせるために私を時間の秩序から飛び出した人間に改造したのだつた。」
 このやうにして作品の結論が書き出しのマドレエヌの上に直接に結びつけられてゐるのだ。プルウストは作品を始めたごとくに作品を終へる。ただ、彼はとうとうマドレエヌの神祕の鍵を發見しつつ終へたのだ*。「これらの感覺を幾多の法則及び觀念の表象として説明しなければならないのだ。換言すれば、私の感じたものを薄くらがりから抽き出して、それを何か精神的に同値のものに變へなければならないのだ。ところで、私にとつてその唯一とも見える手段は、藝術的作品を創ること以外に有り得ようか?」
* バンジャマン・クレミユはこれらの點からプルウストの作品が古典的なピラミッド式構成持つものであることを主張する。しかしそれに對してそれは構成と云ふよりも、寧ろ統一と云ふべきだらうと反對してゐる論者もある。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 まだ私が説明しないでゐる最後の二つの無意的記憶もやはり、彼がその小さな圖書室の中でかかることを考へめぐらしてゐる間に、彼を襲ふのだ。水管の中で水が軋るやうな音を立てる。夏の夕方に、バルベックの沖合で遊覽船の立てた長い叫びにそつくりなその音響が、さながら自分がバルベックに居るやうな思ひを彼に抱かせる。……彼は書棚のうちにふと一册の本の表題――ジョルジュ・サンドの「フランソワ・ル・シャンピ」を見つける。すると彼は急に、何だか泣きたいやうな感動に襲はれてしまふ。子供の時分、いつも眠る前に、彼の母がその小説を讀んでくれたその折の、低い、子守唄のやうなくらゐにまで甘やかな彼女の聲が、いま彼の耳にまざまざと蘇つたからである。
 音樂がやつと終つたので、彼はその圖書室を去つて、サロンの中へはひつて行く。戰爭が長いこと彼を社交界から離してゐた。彼は其處でいきなり假面舞踏會のやうな印象を受ける。彼は灰色の髮だの、白い髯だの、皺だらけの顏のうちに辛うじて彼の知人等を認める。最初彼がフォルシュヴィル夫人(前スワン夫人)だとばかり思つてゐた肥つた未亡人は、何んとその娘のジルベルトなのだ! そして其處に集つてゐる人々はみんな「彼等の背後に重たさうに引きずつてゐる年月のためにひよろ長く伸びて」見えるのである。
「再び見出された時」はさう云ふ年をとつた主人公たちの長い、痛ましい描寫のうちに終つてゐる。





底本:「堀辰雄作品集 第五卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行
初出:「新潮」
   1933(昭和8)年5月号
※初出時の表題は「プルウスト覚書(三十歳にならうとしてゐる詩人の手記)」、「狐の手套」野田書房(1936(昭和11)年3月20日)収録時「續プルウスト雜記」と改題、「曠野」養徳社(1944(昭和19)年9月20日)収録時「覚書」と改題
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本の注釈以外の星印は、「☆」に代えて入力しました。
入力:tatsuki
校正:染川隆俊
2008年1月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について