この「窓」(Les Fen

リルケにはかういふ插話がある。「リルケの思ひ出」といふ本を書いた、トゥルン・ウント・タクジス公爵夫人といふ婦人が、その本の中に引用してゐる詩人の手紙の一節に據ると、――一月の或日(それは一九一三年のことで、リルケは巴里に居た)詩人はなんとも説明しがたい誘引を感じて、聖ルイ島の、ホテル・ラムベエルの方へ向ひ、アンジュウ河岸に沿つて歩いて行つた。一つの町から他の町へと、簇がり起つてくるさまざまな思ひ出に一ぱいになりながら。それは本當に奇妙な午後だつた。町々の、注意深く覆はれた、ひつそりした、高い窓の下を通りかかると、きまつてその窓帷がふいと持ち上げられたやうな氣がし、そしてそれが何んだか自分のためにされたやうに思はれるのだつた。その度毎に、自分が其處へはひつて行きさへすればいい、さうすれば何もかもが、そこいらに漂つてゐる匂まで、説明されるやうな氣がされた、――恰も自分が其處ではずつと前から待たれて居つて、そしてその中へ自分がはひつて行く決心さへすれば、それらの暗い、厭はしい家は思はずほつとするであらうやうな……
この「窓」一卷を成してゐるすべての詩は、さういつた詩人の巴里滯在中のかずかずの經驗を背景にしてゐるのであらう。一九一九年以來、殆どその晩年を「ドゥイノ悲歌」を書くために瑞西に隱栖してゐた詩人も、ときどきその好きな巴里にだけは出て來たらしい。しかし巴里にゐても殆ど彼が何處でどう暮らしてゐるのかは誰にも分からなかつた。時としてリュクサンブウル公園などで小さな手帳をとり出して即興的に短い詩などを書き込んでゐる、いかにも人生に疲憊したやうな詩人の姿が見うけられたとも云はれる。……
これらの未熟な佛蘭西語で書かれた即興詩だけではこの大いなる詩人の全貌が窺へないことは云ふを俟たない。しかし、これらの詩の或物、――たとへばその最後の「窓」の詩など――にも、詩人の心血を注いで書いた「悲歌」の沈痛なアクセントのほのかな餘韻のやうなものは感ぜられるのである。