鎌倉時代の布教と當時の交通

原勝郎




 佛教が始めて我國に渡來してから、六百餘年を經て所謂鎌倉時代に入り、淨土宗、日蓮宗、淨土眞宗、時宗、それに教外別傳の禪宗を加へて、總計五ツの新宗派が前後六七十年の間に引續いて起つたのは、我國宗教史上の偉觀とすべきものであつて、予は之を本邦の宗教改革として、西洋の耶蘇紀元十六世紀に於ける宗教改革に對比するに足るものと考へる、其理由は雜誌「藝文」の明治四十四年七月號に「東西の宗教改革」として載せてあるから、詳細はそれに讓つて今は省略に從ふ、併ながら講演の順序としては、此等各宗の教義の内容に深入せぬにしても、少くも此等の新に興れる諸宗派を通じての一般の性質を論ずる必要がある。
 王朝から鎌倉時代に遷つたのは、一言以て之を被へば、政權の下移と共に、文明が京都在住の少數者の壟斷から脱して、地方の武人にも行きわたるやうになつたのである、勿論この政權の下移に際して、眞の平民即ち下級人民までが政權に參與することを得るやうになつたと云ふ譯ではなく、寧ろ單に器械として使役されたのみに過ぎないので、從て移動のあつた後といへども、依然としてもとの下級の人民であつた、然れども既に社會の中心が政權と共に公卿から武家に下移したる以上、下級人民の立場から云つても、やはり社會の中樞に一歩近づいた譯であつて、社會史の上から論ずれば、下級人民の地位の比較的改良である、換言すれば鎌倉時代に於ては、王朝に於けるよりも、下級人民といふものをより多く眼中に置かなければならなくなつたのである。
 時代の趨勢既に此の如くであるから、之に適應する爲めには、文明のあらゆる要素が、いづれも狹隘なる壟斷から離れて普遍洽及のものとなつた、殆ど佛畫に限られ、稀に貴顯の似顏を寫す位に止まつて居つた美術も、鎌倉時代に入ると、多く繪卷物の形に於てあらはれ、單に浮世の日常の出來事が畫題の中に收めらるゝに至つたのみならず、美術の賞翫者の範圍も亦大に擴がり、文學は文選の出來損ひの樣な漢文から「候畢」の文體となり漢字假名交りのものを増加した、但し藝術も文學も文明の要素としてはいづれも贅澤な要素であつて、生計に多少の餘裕あるものでなければ、之を味ひ娯むことが出來ぬ、であるから予と雖、鎌倉時代の水呑百姓が今日の農民の如く文學の教育もあり美術の嗜みもあつたとは思はぬ、然るに宗教は之に反し、當時の樣な人智發達の程度に於ては、殊に一日も缺くべからざる精神上の食物であるから、此の點に於ては如何にしても下層人民を度外に置くことは出來なかつた、要するに極めて玄妙にして而かも難解で、見世物としてはあまりに上品で、而かも高價に過ぐる從來の聖道門の佛教では、到底新時代の一般社會の渇仰を滿足せしむることが出來ず、必や下級人民をも濟度することの出來るやうな宗教が起こらなければならぬ、爰に於て此必要を充足する爲めにあらはれたのは、前に述べた易行門の諸新宗である、尤も易行門と普通に云へば多くは淨土門の諸宗派を斥すので、日蓮宗は天台の復興とこそ云へ、簡易佛教とは自稱して居らぬ、けれども日蓮宗の大體の性質から云へば、やはり鎌倉式の易行宗に似た所がある、また禪宗の如きも教外別傳と云ふからには、爾餘の鎌倉佛教と同日に論じられぬものの如くにも見えるけれども、其手數を必要とせず、つまり直指人心で、階級制度に拘泥することなき點に於て、慥に天台眞言などよりも平民的なるのみならず、悟入につきて豫備の學問を必要なりとせぬこと、正に新時代の宗派である、唯禪宗が不立文字を呼號しながら其實は立文字の極端に流れ易く、それ故に其感化は武士に止まつて、それ以下の下級人民にあまり行はれなかつたのは面白き現象といはなければならぬ。
因みに斷はつて置くが、前に鎌倉時代の文明の特徴として論じた諸の點は同時代に至りて始めて生じた者ではなく、其實は王朝の末に於て既に端緒を啓いたものである、但し機運の熟さなかつた爲めに、充分の發達を遂げ得なかつたのが、政治上の大變動と共に、一時に隆興したのである、故に文明史上に於ては、之を以て鎌倉時代のものとする方が寧ろ適當である、元來政治上の變遷と云ふものは必しも他の文明の諸要素の變遷に先ちて起るものではないが、社會百般の事物將に大に變ぜむとして未だ變すること能はず、只管に氣運の熟するを待て居る際に、之が導火線となつて大變動を起さしむるのは、多くは政治上の出來事である、而してかく政治が文明史に多大の貢献をなすは、單に鎌倉に限つた事ではない、古今東西例證に乏しからぬことである。
 扨以上論じ來つた所によりて推すときは、文明を構成する諸の要素の中で、鎌倉時代を最もよく代表し得るものは、此時代に興隆した新宗教であつて、文學美術等は之に亞ぐものであることは明である、であるから今「鎌倉時代の布教と當時の交通」と題して一場の講演を試みるのは、實は宗教の流布を説くのみならずして、旁ら之によつて當時の文明一般の傳播せる徑路を辿らむと欲するのである、但し未研究の足らぬ所からして、今は文學や美術に説き及ぼすことの出來ぬのは、予の甚遺憾とする所である。
 尚本論に入るに先ちて、いま一つ斷はつて置かなければならぬのは、此講演の論證の基礎とした根本材料の甚脆弱なものであることである、といふのは、予をして此講演をなすに至らしむるについて、最多く暗示を與へたのは、各寺院に存する縁起であるが、凡そ史料中で何が怪しいと云つても恐らくは此諸寺の縁起ほど信用し難いものはあるまい、いづれの寺院も皆我寺貴しの主義に基きて、盛に縁起を飾り立てるのが普通で、中には飾り損ひて、有り得べからざる事實を捏造する向きもないではない、例へば日蓮や法然の生れぬ以前に出來た法華寺や淨土寺もある、中に無學の甚しい僧侶は禪僧を以て門徒寺の開基としてすまし込んだ縁起を作つて居るのもある、よし假りに一歩を讓つて縁起に誤りが無いとしても、生憎僧侶には同じ樣な名稱が多い、即淨土宗や淨土眞宗に屬する僧侶の名は、多くは三部經中の字を繋ぎ合せたものであるから同じ名が屡※(二の字点、1-2-22)出來する、例へば芝居などによく出て來る西念などいふ僧は、實際幾たりもあり得るもので、甲の寺の縁起に見える西念と、同時代に乙の寺の縁起に載て居る西念と、一々異同を甄別することは容易のことではない、また同一の名稱が數多の僧侶に適用することが出來て、甚曖昧なることもある、例へば淨土眞宗に屬するもので常陸の國に居つた順信といふ僧がある此順信の二字の下に房の一字を加ふれば同じく常陸の僧證信の名となる、然るに證信の名ある僧は必しも順信房と號したもののみではない、外に明法といふ僧侶があつて、これも證信といふ號を持て居る、そして尚此外に單に順信とのみ稱する僧侶も別にある、コンナに混雜して居つては到底安心して考證をすることが出來ぬ、然るに此の如き困難は單に淨土宗と眞宗とに於て出逢ふばかりでなく、時宗にもある、日蓮宗にもある、また禪宗にもある、時宗では阿の字の上にいろ/\の字を加へて名とする習慣であるから時々重複を免れないが、日蓮宗の方はまた二字の僧名の中で上の一字は日の字と定まつて居るから、區別の用としては二番目の字だけであつて、これも同名異人が多い、禪宗に至つては、一人で同時に三以上の號を有して居るのが珍らしくない、殊に少しエライ禪僧になると隨分長い諡がついて居る、若し丁寧に吟味すれば全く同名と云ふことは殆どないが、其うちの二字だけ書いてある場合には屡※(二の字点、1-2-22)他の名僧の諡號と間違ふことがあつて、之を區別するには非常の手數が入る。
 此の如く寺院の縁起を土臺として、宗教史を研究するには種々の危險と困難とを伴ふのであるが、それでも全く之を棄てるに忍ばざるのみならず、之を以て研究の根本材料としたのには、亦多少の理由がある、即個々の寺院の縁起の中には信用の出來ぬものあるけれども、さりとて如何なる縁起も盡く信用の出來ぬと云ふ譯ではないのみならず、宮廷にも出入しない、又幕府の眷顧をも得ない僧侶、及び僻陬にある寒寺につきては、縁起の外何等文獻に記載のなきことが多い、而して其他の場合に於けるよりも宗教界に於ては、此等無名の豪傑の手に成る事業が最も多いのであつて見れば、今講演せむとする問題の如きは、有名な本邦の佛教史籍を渉獵するのみに止まらず、世間に忘れられて居る寺や僧侶をも考察の材料とせざるを得ない、換言すれば此點に於て寺院の縁起も忽にし難い好史料である、唯此史料は甚危險な史料であるから之を採用するには一々査照を要するのであるが、予は未充分に此査照を了へて居らぬ、これは甚殘念のことであつて、而して講演に先ちて告白して置かなければならぬ義務があるのである、但し右の危險を自覺して今日演壇に上つた以上、成るべく安全な推論をなすに止め、あまり大膽な結論をなすのを避けるに力めるから、新奇な名論を紹介する能はざると、同時に大抵は動きのない邊で斷ずる積である、それでも尚怪しい所は更に他日の研鑚による外はないことになる。
 隨分冗長に過ぎた前置をして、これから愈※(二の字点、1-2-22)本論にとりかゝる順序となつたが、新興の諸宗の地方に傳播した徑路を探ぐるには、五宗派の中で淨土と禪宗との二宗に徴するのが、最穩當な方法だと考へる、何故と云ふに、鎌倉時代に於て北は奧州のはてから西は九州まで、兎に角當時の日本六十六國の全體に及んだのは此二宗で、其他の三宗は東北方には、いづれも傳はつたけれども西は、京畿附近を限り、偶ま大に西進した所で、中國の西端に止まつて居る、即地方に於て前の二宗よりも多く偏在して居ると云てよろしい、就中日蓮宗の如きは殆ど關東地方特有の宗教としても差支ない程地方的制限がある、されば當時の新佛教の傳播を考察して併せて交通の問題にも及ぼさむとするには、先づ淨土と禪との二宗の場合につきて見る方が至當と云はなければならぬ、因て予は今此二宗の場合から歸納して得た結果を査覈するに他の三宗の例を以てせむと欲するのである。
 淨土宗にも禪宗にも共通なる點の第一は、兩宗共に其布教上力を專ら東國に注ぎたることである、これは蓋し文明が毎に西方から始まつてそれから次第に東國に及ぼすことを以て習として居つた我國に於ては、當然のことではあるが、鎌倉時代には此歴史的惰性の外にも、尚ほ別に原因がある、それは即鎌倉に新に幕府が出來たが爲めに日本には爰に二つの中心が成立し、一は京都といふ在來の文明の中心で、これと鎌倉といふ政權武力の新中心が兩々相對立することとなつた、成り上がりの首府なる鎌倉は、文物の點に於て容易に京都と比肩することが出來ず、否遂に比肩することが出來なかつたけれども、しかし鎌倉に覇府が開けた爲めに東國の地位は著しく昂上し、今迄輕蔑して入らなかつた、或は入らうとしても受けつけられなかつた東國地方に、高等なる文物が翕然として流れ込むことゝなつた、而して文明の數多の要素の中でも特に政權を利用し得る性質を有する宗教は、文學や美術よりも一層速に其活動の中心を東方に移したので、相模の鎌倉といふものは彼等にとりては是非とも略取せざるべからざる根城であつた、京都の小天地にのみ跼蹐して滿足し得た時代は既に過ぎ去つたのである。
 然らば數多き東國の間を、如何なる徑路を傳はつて、此等新佛教の傳道者が鎌倉に向つたかと云ふに、それは王朝以來の東に向ふ大通りを進んだもので、近江の野路、鏡の宿より美濃の垂井に出で、それより箕浦を經て[#「經て」は底本では「輕て」]、尾張の萱津、三河の矢作、豐川と傳はり、橋本、池田より遠州の懸河を通り、駿河の蒲原より木瀬川、酒勾にかゝりて鎌倉に著したのである、即ち今の鐵道線路と大なる隔りはない、日數は日足の長い時と短い時とで一樣には行かぬが、冬の日の短き時には將軍の上り下りなどには、十六七日を要し、春の季や夏の日の長い時なれば十二三日位で達し得たのである、個人の旅行は行列の旅行よりも一層輕便に出來る點から考ふれば、いま少し短期で達し得る樣なものであるが、宿驛に大凡定まりあるが故に甚しき差異はなかつたらしい、それは東關紀行などに照らしても明かである、阿佛尼の旅行には十一月に十四日を費した、最もこれは女の足弱であるから例にならぬかも知れぬ、伊勢路即海道記の著者が取つた道筋は、山坂も險阻であるのみならず日數を費すことも多かつたところから、普通の人は皆美濃路を擇んだものと見える、而して淨土僧禪僧も皆此美濃路に出でたが爲、伊賀伊勢志摩の三國は京都に近き國々でありながら、鎌倉時代を終るまで殆ど新宗教の波動を受けなかつたと云つて差支ないのである。
 美濃以東に出でた淨土宗の布教僧は、宗祖法然上人の外數多あるが、其主なるものは相模地方まで傳道した隆寛(法然弟子)と善惠證空(同上)とである、就中善惠の事業はすばらしいもので、其布教路は中山道を信濃に出て、それよりして南は武藏、北は越後に及んで居り、其弟子隆信(立信)は三河地方に淨音法興は美濃から越前にかけて布教して居る、爰に注意すべきことは、同じく北陸道の國々でも、若狹や越前は京畿の布教圈内に入るが、越後は之と異りて、信濃から往復したもので、全くちがつた方面に屬することである、これは善惠の場合に於て然るのみならず聖光の弟子良忠一派の場合について考へても同じである、聖光は所謂鎭西派の開祖で其人自身は東國に關係を有して居らぬけれど、其弟子なる記主禪師即良忠は、實に善惠以後に於ける淨土宗の東國大布教者であつて、大往還に外づれて居る伊賀、志摩、伊豆、安房の四國を除けば、東海道中いづれの國も良忠か若くは其弟子なる唱阿性眞、持阿良心及び良曉等の風靡する所とならぬはない、否單に海道の諸國許りでなく東山道に於て信濃及び上野、下野、北陸の越後[#「越後」は底本では「趣後」]皆此良忠一派の化導を受けて居る、北陸諸國の中、加賀、能登、越中、佐渡は鎌倉時代の中にまだ淨土宗の風化に接しなかつた、これは地勢の不便によると思はれる。
 新宗教に特有なる現象として、淨土宗に於ても之を認むることの出來るのは、奧州の布教について割合に大なる盡力をなしたことである、陸奧に入つた淨土宗の布教僧の中には、隆寛の弟子實成房と云ふ者もあるが、それよりも此宗旨の奧州に於ける傳播に與りて大功のあつたのは、源空の弟子の金光坊である、但し此人の足跡は、殆ど陸奧の北端に及んだけれども、遂に出羽には入らなかつた、これは蓋し陸奧出羽兩國間の交通は甚稀で、出羽に入らうとするものは越後よりして進んだからであらう、文治年間の頼朝の泰衡征伐にも、左翼軍をば越後國より出羽の念種關に出でしめ、それより比内まで北上して、それから陸奧の本軍に合せしめたのを見ても、王朝末より以來の北方交通路の有樣がわかる、而して淨土宗の日本海岸に於ける布教は鎌倉時代に在つては、また越後以北に及ぶ遑がなかつたのかも知れぬ。
 淨土宗は此の如き布教路を辿り、東國に於て文永弘安の交其活動の盛を極めたのであるが、次に建長の頃より東國に頓に勢を得た禪宗の傳播は、果してどうであつたか之を淨土宗と比較すれば、極めて興味が多い。
 抑も禪宗と云ふものは、其宗派としても性質組織大に他の諸宗と異り、其布教も群衆を相手として撫切りをするのではなく、個々の有志者をのみ相手とするのである、從て禪宗僧侶の布教上の活動を批評するには、必しも參禪者の多少のみを以てすることが出來ぬ、加之禪宗の傳播を研究するに別に困難なる事情がある、それは外でもないが、禪宗には他宗と同樣、師資相承といふことがあるのは勿論であるけれど、一人の禪僧で數多の先進に就いた場合が非常に多い、そこで他宗に於けるが如く分明に傳統を辿るのは甚困難であるからである。
 禪宗の僧侶で東國に布教した主たる人々は、榮西、道隆、佛源禪師、大休、及び夢窓國師等であるが、一體禪僧と云ふものは、他宗の僧侶よりも一層世間離れがして居りながら、而かも頗る敏活に機微を察し得るものである、そこで鎌倉を取りこまなければ、將來の日本に於ての發展がむづかしいと云ふことは、禪僧の方が淨土宗の人々よりも、一層切實に考へた樣である即彼等の東方に向ふや、其徑路は淨土僧と同じ筋であつたけれど、其道筋を一歩一歩布教しつゝ進んだのではなく、驀地に鎌倉へと志したのである、されば伊賀、志摩の如き殆ど鎌倉時代の禪僧の顧みる所とならざりしこと、淨土宗の場合と同樣なるのみならず、伊勢又は尾張、三河の如き鎌倉街道筋の國々ですらも、禪宗の風化を受くること關東の諸國より後れ、而かも尾、參の兩國の漸次に禪宗の布教を受くるや、京都より東せる禪僧よりは關東よりして西に戻れる禪僧の感化をより多く受けたことは、頗面白き現象と云はなければならぬ、加之なほそれよりも奇妙なことは、後年禪宗界に於て一廉の根據地と目せらるゝに至りたる美濃の如きも其禪宗を接受したのは遙かに關東殊に相武よりも後くれ、近江と共に鎌倉中葉以後のことであつたのは、つまり淨土宗に比べて一層東進の方針の急劇な爲めである。
 然らば關東に於ける禪宗は如何なる地方的傳播をなしたか、鎌倉時代に於て關東の禪宗の中心とも稱すべきものは相模武藏甲斐の三國であることは云ふ迄もない、甲斐は京鎌倉間の大道ではないけれど、北は信越を控へ、南は駿河から或は相模から、或は武藏から頻繁なる往來があつたと見え、禪宗の感化早く及んだのみならず、其成効も亦頗る目覺ましいものであつた、されば其甲斐の國に夢窓國師の樣な名僧の生れ出でたのも決して偶然ではない、之に反して一部は鎌倉街道に當て居る伊豆は安房上總と同じく、淨土宗のみならず禪宗の感化を受くることも遲く、且つ薄かつた。
 關東に布教した禪僧及び其弟子等は、更に其活動の區域を擴張して信越及び奧州に入つた、即榮西の弟子記外の如きは陸奧の宣教を以て有名であつた、其後では道隆の風化も陸奧の南邊迄は及んだらしい、聖一國師辨圓の東方に於ける活動は甚目覺ましいものとは云ひ難いけれど、其弟子無關は陸奧に入りたりと覺ゆ、又歸化僧なる佛源禪師の如きは、其教化陸奧出羽二國に及んだ、然れども陸奧に入つた禪僧は、盡く佛源禪師の樣に出羽にも入つたのではない、淨土宗の場合に於ける同樣で出羽の禪宗は主として越後から入つたものである。
 禪宗中の臨濟と曹洞との二宗派の、地理的分布の大體を述ぶれば、鎌倉時代には東海東山に臨濟割合に多く、曹洞が少い、これは曹洞が臨濟よりも後れて出たので、曹洞の起つた時に此地方には臨濟の地盤既に固まつて居つたからでもあらう、之に反して北陸道には曹洞が多い、即道元(永平)營山(總持)瑩山の弟子明峯素哲歸化僧明極等は主として其活動力を北陸道に集注した、但し其徑路に至つては北陸道を若狹から越後に向て順次に感化したのではなく、越前から海路能登に向ひ、それより加賀へも、また越中へも傳はつた如くに見える、これは當時の海陸交通の關係或は之を餘儀なくしたのかも知れぬ、又上述の曹洞の禪僧の中明峯と明極とは、單に北陸道のみならず、陸羽にも宣教して居る、出羽が鎌倉時代に臨濟よりも多く曹洞の影響を受けたのは、これが爲である。
 時代を以てすれば禪宗は建長頃より關東に頓に盛にして鎌倉末葉に至るまで衰へず、中仙道は之に後くるゝこと半世紀、奧羽はそれよりも更に早きこと四分一世紀、これまた注意すべきことで、北陸道に至りては、鎌倉末の二三十年間に至つて始めて盛になつたのである。
 以上の如く淨土と禪との二宗の傳播の跡を見れば、大に相類似して居る點がある、即布教地として特に關東に重を措いたことゝ、其傳播をした交通路の状態とである、而して此點に於ては五宗中の殘りの三宗も皆同じ結果を示して居るのが面白い、今先づ淨土眞宗から始めて、此原則を適用して見やう。
 眞宗の開祖親鸞は京都の人と云ふことになつて居るけれども、眞宗の東方に於ける傳播の状態を察する時は、或はこれは東國の人の起こした宗教であるまいかとの疑を起こさしむる位である、今こそ眞宗と云ふものは京都風な宗旨であること紛ふ方なき樣であるけれど、鎌倉時代には、矢張關東を先きにした、これは親鸞が越後常陸の間に遍歴した爲と云へばそれ迄であるが、其痕跡は淨土や禪と殆ど同一轍である。
 越後、下野、常陸の三國を連結した日本を横斷する線は眞宗の發剏線である、此中で常陸の方面が最多く發展した樣に見える、即改宗の當初三十箇年許りの間に、常陸から下總、武藏、甲斐、相模と云ふ順序に海道筋を押し上つて三河に活動の大勢力を集め、一方に於ては越後から信濃に入り、美濃を犯した、これが即眞宗西漸の始である、然らば此時代に東國の布教に從事したものは誰かと云ふに、これは甚だ答へ難い問題である。
 何故と云ふに、東國と西國とを論せず、眞宗の傳播の仕方は餘程外の宗旨と違て居る所がある、他の宗旨で云へば、一人の名僧が足に任せて數箇國を行脚して、數多の歸依者改宗者を作ると云ふ順序になるのであるが、眞宗にありては右の如く諸國を遍歴する僧侶の全く無いではないが、甚僅少である、鎌倉時代に於ける眞宗は、潮の押寄せる樣に、洪水の氾濫する樣に、連續性を以て將棊倒しに傳播したもので、若干の個人が奔走した結果のみではない、他の宗旨から改宗した僧侶は、妻帶して其寺に居直つて、財産を私有にして動かない、俗人の改宗したものは、私宅を變じて寺としたとは云ふものゝ、今日で謂ふ説教所を開始したので、其寺號は數十年、若くは數百年の後に、始めて本願寺から許可になつたものである、故に斯かる俗人の説教所開始以後も、以前と同樣俗事に忙はしく鞅掌したのみならず、僧侶にして改宗した連中も以前より一層深く、而かも公然俗事の間に沒入し、中々遠國などへ布教に出かける餘裕はない、斯樣の次第であるから、眞宗では同一の僧侶の手で數個の寺が開かれた例が甚乏しく、從ひて布教の徑路を探ぐることが困難である、けれども今其等少數者の場合につきて考へると、關東に眞宗を流布せしめたのは、開祖親鸞の外、其弟子と稱する眞佛、了智、教名、明光、親鸞の孫唯善、其外明空、性信、西念、唯信、教念、善性、了海等である、中にも眞佛の一派は最盛に東國に布教した而して其基線より更に東北に進んだ眞宗僧には、陸奧に入つたものに前に擧げた性信や親鸞の弟子の是信房や、無爲信などゝいふ者があり、出羽の方へは淨土、禪と同樣越後からはいつて、明法や源海などゝいふ人があつた、しかしながら眞宗は禪宗ほど北陸に侵入はしなかつたのである。
 爰に看過すべからざることは眞宗が三十箇年許り東國に盛に流宣して後、暦仁頃からバツタリと其活動を停止したことである、最も之と同時に近江、美濃、越前、加賀、能登、越中等に於ける盛なる傳道が始まつたのであるから、眞宗が全く活動を止めた譯ではなく、唯關東に於てしたのを、方面を替へて中山道に北陸道に移したものと云ふことも出來る、然るに奇妙なことには、此眞宗が活動を停止した跡へ、同地方即東國に日蓮宗の興隆したことである、日蓮宗の興隆の爲めに眞宗が之を西に避けたのか、或は眞宗が西に向つた空虚に乘じて日蓮宗が傳播し得たのか、其邊はなほ詳に研究して見なければ分明せぬ。
 中山道から北陸道にかけて布教した眞宗の僧侶の重なるものを擧げれば、爰にも眞佛及び其派が中々働いて居る、其外には覺如及び其弟子宗信、覺善、覺淳、慶順、乘專、存覺、并びに善鸞法善など云ふ人々である、而して眞宗の氾濫的布教は、飛騨をも度外に置かなかつたが爲めに、越中から之に宣教師を進めて居る、要するに此地方に於ける眞宗の宣教の盛時は覺如以後と見て大なる誤はない。
 何よりも不思議の念に堪えぬのは今日本願寺の所在地たる京都及び其附近の諸國、即所謂近畿に於て眞宗の弘布したのが、鎌倉時代の[#「鎌倉時代の」は底本では「鎌、倉時代の」]末十年間であることである、最も其以前にもポツ/\眞宗の寺と云ふものが見えるが、其教[#「教」はママ]は甚少く、擧げて云ふに足らぬ程であつて、正中頃から漸く、活動らしい活動を見るのである、これは主として存覺の弟子なる佛光寺の了源の力である。
 日蓮宗に至りては其東國的宗教であること甚明瞭なもので、其傳播の著るしい地方と云へば、關東の八ヶ國に、駿、甲、豆の三國を加へたものであつて、遠江に入ると、其跡甚急に薄くなる、而して此東國地方に於ては文永の末から正應の末にかけての二十年間を以て最活動の盛な時期とするのであるけれども、其以後とても此範圍内に於ては、殆ど弛みなく其活動を持續して、以て鎌倉の末に達して居る、而して此地方に主として盡力した僧侶は宗祖の日蓮を第一とし、日昭、日朗、日頂、日向、日興、日持、日位、日辨、日朗の弟子日像、日善、日像の弟子日源等である。
 而して日蓮宗も亦前の三宗と同じく北陲の感化に尠からず注意を持つた、即日蓮の直弟子では日辨が磐城に同日興が陸中まで、日目が陸前に入りたるを首として、日朗の弟子日善の又弟子日圓が岩代に、日持の弟子日圓は磐城に、日向の弟子の日進のその又弟子の日榮は岩代に入いつた、傳説によれば日蓮其人の感化も既に岩代の一部に及んだとのことである、が、それは信ぜられぬとしても、兎に角日蓮宗が東北地方に力を盡くしたのが明である、羽前へは日昭の弟子の日成と云ふ者が入つて布教したが、これも以前の場合と同じく[#「同じく」は底本では「同じ、く」]、越後からして進だのて[#「進だのて」はママ]、陸奧から入つたのではない。
 北陸道では日蓮宗は他の宗旨と少しく異つた徑路をとつて布教して居る、これは日蓮が佐渡に配流せられた爲めであるので、一方に於ては北陸道を西から東に進んだものもあるけれど、又佐渡や越後からして海路をも利用し越中、能登等に布教した者もある、此後者のうちで重なるものは、日蓮の直弟子では日向、日乘等で、又弟子では日進の弟子の日榮の越前に赴いたのも、日印(日朗弟子)の越中に布教したのも、日印の弟子の日順日暹の越中に布教したのも皆此順路によつたものと見える。
 日蓮宗が京師に入つたのは、日像が永仁年間に傳道したのが始まりで、夫より鎌倉時代の末まで、振はず、衰へずに續いて居る、東方から京都へ入るのに、遠江、三河、尾張等を殆ど素通りにして、眞一文字に京都に突入したのは、日本に於て宗教として勢力を得るには、どうしても京都と云ふ文明の中心を陷れなければならぬと云ふことを、純粹に關東式なる日蓮宗すらも感ぜざるを得なかつたが爲であるらしく考へらるゝが、此時代と兩統迭立の始まつた時代と大差なきことを考へ、而して兩統迭立といふことは、必しも關東の希望ではなく、寧ろ關東の方から讓歩したものとする時は、此日蓮宗が京都に入つた永仁正安の頃といふものは、鎌倉開府以來勢力を失て居つた京都の、日本の中心としての價値が、丁度此頃に回復されたものとも考ふることが出來るので、氣運の變遷から觀察して鎌倉時代史中の一段落と認むることが出來る樣にも思はれる。
 日像の京都に於ける活動の影響は、他の畿内諸國には及ばなかつたが、丹波から若狹を經て越前、加賀、能登迄日像自身が巡錫した跡が見ゆるのみならず、其弟子の乘純及び日乘の能登に於ける、日禪の若狹に於ける布教、いづれも同系統に屬するものであるして見れば京都のみならず、中山道、北陸道に於ける日像の功績は、顯著なるものである。
 五宗中最後に現はれた時宗に就いて之を考察しても、前に掲げた原則の尚誤らざることを示すに充分である、一遍上人の一宗を建立したのは、近畿に於てしたのであつて而して此宗旨は、遊行宗と稱する程あつて、遍歴化道を主として、千里を遠しとせず邊陲の地までも普く及んで居るけれど、其主なる布教地は矢張關東諸國であることは、二祖たる他阿眞教及び同じく一遍の弟子たる一向上人の活動を見ても明かに分かる、又奧羽に於ける時宗の布教は、其遲く起こつた宗旨の割合にしては、中々盛で、宗祖一遍自身は磐城岩代から陸前邊迄遊行して居るのみならず、二祖眞教も磐城殊に岩代に布教し、二祖の弟子其阿彌は陸中邊まで、湛然は陸奧の北端まで行つて居る、其外一遍の弟子の宿阿尊道といふ僧も陸中邊まで巡錫した、又五祖の安國上人は磐城より陸前迄遊行した、其外時宗の僧侶の出羽に多く入つて布教したことは、他宗の遠く及ばぬ所で、一向上人が岩代から羽前にはいつたのを始めとして無阿和尚、辨阿上人、崇徹、礎念、證阿、向阿等羽前地方に活動して居る、而して此等の僧侶が他宗に於けるが如く羽州に入るに越後よりせずして、岩代より直にせるのは、蓋し遊行の名に背かず、天險をも事とせずして、布教し廻はりしことを徴するに足るものである。
 以上は畿内以東につきて觀察した所のものであるが、今にも述べた通り新宗教は、主力を東國に注いだのであるから、畿内以西に於ける布教的活動は其盛な點に於て到底東方と比べものにならぬ、然れども西國はまた西國で、其布教の徑路の研究に面白い點もあるから、一通り之を述べる必要がある。
 東國を説明した順序に從つて、先づ淨土宗から始むれば、京師以西には淨土宗が布教上大に重きを措いたと云ふ譯ではないけれど、元來西國は之を東國に比して、京洛文明の影響を被つたこと久しく且つ深いから、源空の新宗教は自ら西方に傳はらざるを得ぬ次第である、けれども其傳播は當時の交通の關係によつて規定せられて居るのは已むを得ざることで即山陰道では、丹波は直接に京都の波動を受けて居るけれども、丹後から以西伯耆に至るまでは、鎌倉時代を通じて殆ど淨土宗の侵略を蒙つて居らぬ、山陽の播磨は猶山陰の丹波の如きものであるが、美作(源空の出生地)から西備中に至るまでの間も、山陰の丹後以西と同じく淨土宗の感化を受けて居らぬ、南海道の紀伊は播磨と同樣であるが、四國に於ては讃岐と伊豫に淨土宗が傳はり、これと前後して向ひ側なる山陽道では備後に傳はり、備後から更に出雲、石見に流布して居る、聖光の弟子良忠が中國に布教した時は、まさしく此徑路によつたものである、又九州に於て豐前の淨土宗は論ずるに足らぬに反し、豐後に於ける傳道の跡見るに足るものあるのは、豐後の佐賀の關が伊豫の佐田岬と相對し、兩國の交通が甚頻繁である爲めで、此等と中國の例并びに北陸の例を併せ考ふれば、當時の布教は必しも陸地傳ひにのみ進んだものでないと云ふことが分かり、從て當時の日本の主要なる交通線の中には海路も少からず含まれて居つたことが明になる。
 然しながら九州の淨土宗の主なる活動は、此伊豫から豐後に渡つたものではなく、鎌倉時代の始に於て筑後の善導寺を根據とした聖光及び其弟子蓮阿等の努力によるのである、これが筑前、肥前、肥後と擴がつたが、日薩隅の三州には新宗教の布教者は足を入るゝことが出來なかつた樣に見える。
 禪宗の山陰道に落莫なるは、淨土宗の場合と同じである、して見れば、丹後、但馬、因幡、伯耆の四ヶ國は、京都から左程遠くないにも拘はらず、鎌倉時代には天然の不便から、自ら別境をなして居て、一般に注意を惹く度に於て、奧州などにすら及ばなかつたのかも知れぬと思はれる、唯山陰道に於て禪僧の活動として見るに足るものは、法燈國師の弟子の三光國師の、鎌倉時代の末に出雲に活動したことのみである、山陽道は京都から九州に通ずる大道であるけれども、淨土宗の場合に於て見えたと同樣、當時は九州に赴くに主として海路を利用したものゝ如くで、播磨を除いて、其以西備中までは、あまり禪宗の影響を受けて居らず、備後以西に於て始めて其痕跡を見る、三光國師も淨土僧と同樣備後から出雲へ入つたらしい、宗派から云へば播磨には臨濟も曹洞も混入して居るけれど、備後以西は臨濟のみであつた。
 南海道の禪宗と云へば紀伊の法燈國師の外、伊豫に傳道した聖一國師の弟子の佛道禪師、并びに南山士雲、寒岩義尹あるのみである。
 九州に於て禪宗が他の宗旨に比べて一層の盛況を呈して居るのは、これは蓋し博多が當時支那との交通の要路にあたつて居る所からして、渡唐僧や歸化僧は、多くは暫く爰に滯留し、從つて、九州の禪宗は必しも京都の方からの布教のみによらずに傳播した爲めであらうと思はれる、であるから九州で禪宗の最流行したのは筑前、其次は豐後で、肥前、肥後はまた其次に位して居る、九州の布教に盡力した禪僧の有名なものは、先づ榮西を第一として、その外聖一國師、大應國師、(南浦)南山士雲、及び寒岩義尹などである、寒岩は南山士雲と似て、東國をも風化したのみならず、西國にも巡錫して居る、即南山同樣伊豫に布教し、それから九州に渡つた、但し南山は肥前筑前に傳道したけれども、寒岩は其弟子鐵山等と共に、專ら豐後、肥後の布教に盡力をした、されば禪宗が豐後に盛で、隣りの豐前に寥々として居るのは伊豫からの交通の關係から怪むに足らぬのである、而して寒岩は道元の弟子であるから、豐後と肥後とには筑前に比べて曹洞が多いのである、其外大應は主として力を筑前に注いで居る。
 時代を以てすれば、九州の禪宗は仁治建長の間筑前に盛に、豐後より進んで兩肥に及んだのは、鎌倉の末六十年位の間のことである。
 眞宗が京師以西に及ぼした影響は、頗る稀薄な状態で鎌倉時代を終つた、但しこれはさすが氾濫的傳播[#「氾濫的傳播」は底本では「※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)濫的傳播」]をなす宗旨だけあつて乘專の如きは近畿布教の序に但馬へも入つた樣である、しかし因幡や伯耆に眞宗が殆ど入らなかつたのは、淨土や禪と同樣である、山陽道に於ては播磨に少しく入つた外にはやはり備後を中心として備中安藝の二國に及んだのみである、此眞宗の備後に於ける布教は專ら親鸞の弟子明光(光昭寺開山)の盡力によるもので、明光は眞宗には珍らしく遍歴布教をした人である、單に山陽のみならず、山陰の出雲も亦明光の手によつて眞宗の教化に接した、而して此明光のとれる布教路が、淨土宗及び禪宗のとつた布教の道筋と符合して居るのは甚面白いことである。
 四國では眞宗の波動の及んだのは阿波と伊豫とのみであると斷言して差支ない位で、それも影響が甚少い、そしてこれもやはり明光の宣教の力による者の如くである、九州で鎌倉時代に眞宗の入つたのは殆ど豐後のみであるが、これも伊豫との交通の結果である。
 日蓮宗でも山陰布教の微々たることは前の三宗と同樣である、これは純東國的宗旨であるから一層然るのであらうとも思はれる、中に目立つのはやはり出雲で、出雲に布教した人には日尊を始めとして日頼と云ふ者もある、之に對して他宗の場合に於ける如き備後の布教は見えぬが、備中には日印、日圓などの布教があるから、他宗の場合とあまり甚しく矛盾しては居らぬ。
 九州では肥前に鎌倉時代の末に日祐(日高弟子)が入つて傳道したが、それよりも顯著なのは日向に入つた日郷の弟子の日叡の成績である、南海道には日蓮宗は全く入らなかつた。
 時宗に於ては一遍の足跡は山陰道では但馬にも、伯耆、出雲にも、山陽道では備後に、南海道では、紀伊并びに四國の伊豫は勿論讃岐にも、九州では筑前にも及んだのであるが、其他の遊行僧では、四祖呑海及び、其弟子の隨音といふが、新に石見、隱岐に布教し、二祖眞教が備後と伊豫に巡錫した位のもので、外に取り立てゝ云ふ程のこともない。
 終りに臨んで新宗派が從來の宗派を蠶食し、或は新宗派の間に互に相呑噬した樣子を簡單に述べて、此の論を結ぶことにする、淨土宗の最も多く蠶食したのは天台で、眞言之に次ぎ法相又之に次ぐ、新宗の中では禪の淨土に轉じたものもあるけれど、淨土がまた轉じて眞宗になつたことも稀ではない。
 禪宗の最も多く侵略したものも亦天台で眞言は之に次ぐ、淨土に對しては侵し方が侵された分より多い。
 淨土眞宗に至ては天台を侵略したこと最甚しく、今日現存の鎌倉時代からの眞宗寺で、天台から轉宗したのが二百許りある、眞言の七十三が之に次ぐ、遙かに下るが、之に次では法相である、又眞宗は新宗派の中で淨土と禪とを少しづゝ侵略して居る。
 時宗の侵略したのも天台に最も多く眞言之に次ぐ、但し小規模の宗派丈け侵略した數は少い。
 以上の四宗がいづれも天台を最も多く侵略して居るのは其以前に天台宗の寺が眞言其他の諸宗よりもすぐれて數多かつた爲でもあらうが、之と全く異つた有樣を示して居るのは日蓮宗で數字に於ては其侵略の度眞宗の多いのには及ばぬけれど、兎に角日蓮宗の最も多く侵略したのは眞言で、天台は却つて其三分一位である、これは注意すべき事だ、又新宗派の中では禪を少しく侵略して居る、眞言亡國、禪天魔を叫んだだけあると云つてもよろしい、但し念佛宗をば無間と譏つたけれど、淨土寺を少しく侵略したのみで、眞宗とは全く沒交渉である、眞言よりは少いけれども、天台も亦侵略を免れなかつたのは、假令日蓮宗が天台の復興を主張するとしても實際此兩宗の間には性質上大差があるからであらうと思はれる。





底本:「日本中世史の研究」同文館
   1929(昭和4)年11月20日発行
底本の親本:「史學研究會講演集 第四輯」冨山房
   1912(明治45)年4月16日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「蓮」は底本では、「二点しんにょう+(くさかんむり/車)」となっています。これらの差異を、JIS X 0208規格票「6.6.2 字体の実現としての字形」に言う、「デザイン差」とみてよいか判断が付かなかったので、本文は「蓮」で入力した上で、その旨をここに記載します。
※「獻」と「献」の混在は底本通りにしました。
※誤植を疑った箇所は底本の親本を参照して改めました。また、底本には以下に挙げるように誤植が疑われる箇所がありましたが、底本の親本でも同様であり、正しい形を判定することに困難を感じたので底本通りとし、ママ注記を付けました。
○其教:「其數」の誤植か。
○進だのて:「進だので」の誤植か。
入力:はまなかひとし
校正:小林繁雄
2005年1月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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