足利時代を論ず

原勝郎




 足利時代が多くの歴史家からして極めて冷淡な待遇を受け、單に王室の式微なりし時代、將た倫常壞頽の時代とのみ目せられて、甚無造作に片付けられて居つたのは、由來久いことである。されば若し此時代に特有なる出來事として、後世の研究者の注意を惹いたものがあるとすれば、それは書畫、茶湯、活花、又は連歌、能樂等に關係した方面に興味を持つた場合であるので、一口に之を評すれば骨董的興味から觀察した足利時代であつたのである。足利時代が抑も我國史上如何なる地位を占め、其前後の時代と如何なる關係を有して居るか、又今迄知られてあるものゝ外に、尚ほ同時代に於て史家の注意を惹くに足るべき題目の有無如何等に至りては、あまり深く講究されては居らなかつた。換言すれば足利時代史の眞相といふものが未だ充分に發揮せられて居なかつたと云つてよい。
 足利時代の眞相の研究が此の如く久しく等閑に附せられて居つたのは、其必しも鎌倉時代の如く、史料の不足であるが爲めのみではない。鎌倉時代は其前半の史料として、吾妻鏡といふ頗る結構な記録を有して居り、其記事の豐富にして且つ多方面に渉つて居る點に於ては、足利時代を通して搜しても、到底其匹儔を見出すこと困難な次第ではあるが、併しながら其吾妻鏡なるものも、其中で最も面白い部分は前半である。而して此前半は、吾人の見を以てすれば、後代の編纂物であつて、どう見ても或史家の云ふ如き、正確な官府の日記とは、受け取れない部分である。されば吾妻鏡が、鎌倉時代前半の史料として、非常に貴重なものであることは、勿論であるけれど、其吾妻鏡に載つて居るからと云つて、吾人は直に之を輕信することは出來ぬ。けれども吾妻鏡に記載してある時代は、此記録を第一の便りとして、兎に角見當をつけることが出來るからまだしもであるが、鎌倉時代の後半、即吾妻鏡を離れた時代に入ると、何を重な史料として研究したらよいのか、殆ど雲をつかむやうな氣がする。武家記録の皆無であることは論を費すまでもないが、公卿日記の方も、園太暦の時代に入るまでは、殆ど缺乏と云つてよろしい。否全く無いと云ふのではないが、殆ど採るに足る日記が無いのである。而して其園太暦とても史料としては餘りに一方に偏したものであつて予の意見を以てすれば、玉葉よりも明月記よりも興味の薄いものである。して見ると鎌倉時代後半について、少し氣の利いた歴史を組み立てるには、數多の文書に頼る外はない。數から云へば此時代に關係のある文書は決して少い方ではないが、文書のみを土臺にしなければならぬ時代の歴史は、隨分心細いものである。
 足利時代は史料の多少といふ點について、鎌倉時代と大に其選を異にして居る。成る程足利時代には吾妻鏡ほどに重寶な記録のないことは事實であるけれど、それより少しく下つた價値のものを求むれば、公武共に中々多く、足利時代全體に亘りて殆ど缺漏なしと云つて可なる位である。殊に蔭凉軒日録の如きに至りては、被覆する時代の長短に於てこそ、吾妻鏡に及ばぬけれど、其多方面なる點に於ては、殆どこれと雁行し得るものであつて、社會史、人文史の研究者にとりては、多く得難い好記録である。而して此等記録を補ふべき文書の數に至りても、足利時代は遙かに鎌倉時代に勝れて居る。是によりて之を觀れば、足利時代は決して史料缺乏の時代ではない。足利時代の研究の久しく捗らなかつたのは、其原因は他に存するではなく、唯研究を怠つて居つたからである。
 然るに近年になつて、此史學上久しく荒蕪地となつて居つた足利時代に、耒耜を施すものが次第にあらはれて來たことは、吾人の大に愉快とする所である。雜誌「歴史地理」に掲げられた堺港につきての三浦博士の論文の如きは、該時代研究中の最も出色のものである。尚ほ本年四月下旬東京に催されたる史學會の大會に於て、同博士の足利時代の外交論の外に、笹川文學士の東山時代につきての講演のあつたことは、これ我國の有力なる史家の努力が既に大に足利時代に傾注さるゝに至つたことを明に示すもので、吾人が今更該時代研究の必要を爰に呶々するのは、少しく時機に後れたる趣があるけれど、尚少しく所感を述べて蛇足を添へやうと思ふ。
 或る意味から云へば、足利時代は藤原時代の再現とも見られる。藤原時代に出來た歌集、物語の類、殊に源氏が、惟り足利時代の縉紳にもてはやされたのみならず、武家及び其被官、家來、さては其また陪臣に至るまで、非常に盛な好尚を以て、此等の古文學に耽溺した。主を尅し、骨肉を屠つた人々の中にも優艶なる詞藻のあつた輩も少くない。能狂言に於て古の風流兒在原業平が、歌舞音曲の化神として現はれたのを見る毎に、吾人は數百年を隔てたる此兩時代の間に、案外に深き關係のあることを考へるのを禁ずることが出來ぬ。されば本邦人文史上に於て、足利時代を以て藤原時代に對し、之をルネッサンスと見立てるのも、必しも全く謬見ではあるまい。
 勿論足利時代は足利時代であつて、藤原時代をその儘に再現したものでないのは、丁度歐羅巴のルネッサンスが、決して古代希臘をその儘復活さしたのでないと同じことである。歴史は繰り返へすと云ふ格言は、一面の眞理を含んで居らぬではないけれど其繰り返へすと云ふ意味は、彼の走馬燈が一回轉を了へて、以前の位置に戻つたのと同樣なのではない。ロレンツォ・デ・メヂチが、カレッジの別墅に文士を集めて清談を試みたと云ふ夜遊は、プラトンがアカデミアの昔を忍んだのであるといふけれど、單に人相同じからざるのみにあらで、其の山河もちがふ。よしそれをば眼中に措かぬことが出來るとしても、如何とも致し方のないのは背景となる時代の相違である。此繰り返へすが如くにして必しも繰り返へさず、繰り返へさぬやうに見えて、而かも繰り返へす所、即ちこれ歴史の興味が眞に存する所である。
 享樂主義が支配した點に於て、足利時代は猶ほ藤原時代の如くである。而して若し淫靡といふことが享樂の流弊であるならば、此點も亦兩時代に共通のものである。源語其他の古文學を讀みて猥褻だと感ずる者は、足利時代にもてはやされたお伽話を見て其甚しく露骨なるに驚かぬ筈はない。然れども同じくこれ享樂主義であるとは云ひながら、足利時代と藤原時代との間には、大なる差別がある。若し藤原時代の享樂を以て、苦勞を知らぬ千金の子の道樂に喩へることが出來るならば、足利時代の方は燒ヶ腹の道樂である。燒ヶ腹の道樂と評するのが、餘りに時代を自覺させ過ぎて居るといふ嫌ひがあるならば、更に之を盜賊や詐僞師が刹那の不義の快樂を貪りつゝ而かも戰々兢々として居るのに喩へてもよろしい。否此方が却りて適切かも知れぬ、櫻かざして日※(「日/咎」、第3水準1-85-32)の永きを喞てる者と、戰陣の門出でに隻脚の草鞋をしめ殘して連歌をやる者とは、決して同日に論すべきものではない。藤原時代を春とすれば、足利時代は小春である。小春の暖かさに催されて返へり咲きをする櫻があつても、小春はやはり小春であつて、明かに眞の春と異る所がある。要するに吾人は足利時代の文物に對して不安の念を懷くのを禁ずることが出來ないのである。
 次に吾人は色に譬へて足利藤原の兩時代を比較して見やうと思ふ。松の緑の間に朱の鳥居といふ取り合はせは、奈良や京都に多く見る所の景色であつて、吾人は之に對する毎に藤原時代を追想せざるを得ない。倭繪の主色である所の緑と朱とが、藤原時代の代表的色彩であるとすれば、足利時代は銀色である。藤原時代が緑朱二色の中で、主として孰れに傾いて居るかは、一寸決し難い問題であるのみならず、簡單な色に配して、以て複雜なる時代の特徴を表示し盡くすことは、抑も無理な注文かも知れぬが、然かし足利時代は慥かに銀色である。而かも※(「金+肅」、第3水準1-93-39)びた銀色であることは、動かし難い評であると信ずる。足利時代のすべての事物は、皆此銀地を土臺として、其上に畫かれて居るのであつて、彼の多年江湖に落莫し、朝倉家に投ぜむとして、琵琶湖を渡れる義昭將軍が詠じたと云ふ、蘆花淺水秋なる句は、實に此銀色を遺憾なく發揮して、足利文物の總まくりをなしたものと云つて差支ない。
 連歌も亦足利時代の特徴の一面を代表するものである。論者の中には此時代の文物を一括し、禪の一端を以て之を擧ぐるものがある。これは一理ある説で、榮西によつて興つた禪宗は、既に鎌倉時代に於て宮廷にも入り、又數多の武將の歸依をも博したけれど、要するに禪宗の鎌倉時代に於ける活動は、地位あり文字ある少數者の修養に影響したに過ぎぬので、禪宗と一般文明との關係は、鎌倉時代に於ては、未だ密接だとは云ひ難い、禪宗が一般文物に浸潤したのは、足利時代に至りて始めて認めらるべき現象である。換言すれば所謂禪味なるものは、足利時代に於て始めて顯著なるものである。されば此點からして論ずる時は、禪が足利時代の代表であるとも云ふ事が出來る。或る論者はまた茶の湯の一端を以て東山時代の文明を括擧し得るものだと云ふ。これも亦尤な説で、茶の湯こそは鎌倉時代及び其以前には無く、全く足利時代に始まつたものである。然れども若し足利時代の自暴自棄に陷りて居るさまを表示するに、最も適當なものを求むるならば、それは連歌に越すものはない。連歌は其淵源甚古くして、決して足利時代に始まつたものではないけれど、足利時代以前の連歌と云ふものは、上句と下句と合して、渾然たる一首の歌を成すものであるに反し、足利時代に盛を極めた連歌は、上句と下句との間に少しのヒッカヽリがあるのみで、意味の完全なる連絡とては見出し難く、要するに際どい機智の運用を貴としとするのみである。而して連歌に「て」の字を以て結べるものゝ多いのは、これ即ちウッチャリの氣象を自ら發露したもので換言すれば自暴自棄を表示するものである、絶望を語るものである。若し吾人の説を疑ふ人があるならば、試に連歌の集を繙いて見るがよい。必ず吾人と所感を同くするに違ひない。さてまた宗祗其他の連歌師が、田舍の風流氣ある大小名の招きに應じて、遍歴に暇なかつたのは、彼の歌枕をさぐりに出たと云ふ藤原時代の歌人と大に其趣を異にして、文藝の行商人たる點に於ては、歐洲の中世にあつたと云ふ、ミンネゼンゲルやトルバドールに類似して居るけれど、我國に於て適切に此西歐の漫遊藝術家に相當するものは、足利時代の連歌師よりも寧ろ平泉の秀衡若くは鎌倉將軍の幕庭に收容された歌人又は伶人の徒である。足利時代の連歌師は、ミンネゼンゲルやトルバドールに比べて、權威が少い、熱がない、温みが乏しい。澁いと同時に甚淋びしいものである。ワルトブルグの歌ひ戰の如きは到底彼等連歌師に望み得べきものではなかつた。
 さりながら銹びたりと雖銀色なる足利時代には、淋びしげなる光りがある。散文的な實際的な鎌倉時代とは少からぬ相違がある。此點に於て足利時代は歐洲第十八世紀に於けるロココ式の文物に似たとも云へるだらうと思ふ。散文的な十七世紀に比べたならば、次の十八世紀は光澤に於て大に優る所のものがある。それと同じく足利時代は、之を鎌倉時代に比して、新鮮な活力を有する點に於てこそいくらか遜色があるけれども、而かも鎌倉時代に缺乏して居る光澤といふものがある。デカダンと云へばそれまでゞあるが、光澤はやはり光澤である。然らば如何なる種類の光澤かと云ふ問が起らうが、適切な例は能衣裳である。能衣裳の今日傳はつて居るものゝ中には、無論徳川時代の意匠に成れるものも混じて居やうが、大體に於ては吾人は之を足利時代の意匠だと思ふ。而して此能衣裳ほど適切に足利時代の好尚を表露したものはない。とり分けて微かに金絲を文どつた能衣裳に對して此感が最も深いのである。斯かる能衣裳を着けて居りさへすれば、極めて現代的な能役者に舞はせても、それでもなほ四條の河原能の光景を想ひ浮べることが出來る。能樂を以て西洋の歌劇に擬し、其中に存する所の、現代趣味に追從し得る部分をのみ樂む場合は別として、若し多少の史的興味をも混じて能樂を觀やうとならば、能衣裳は缺くべからざる附き物であつて、袴能や素謠のみでは、迚も此感興を遺憾なく與ふることが出來ぬ。而して此能衣裳が即ち實に吾人をして足利時代とロココとの相似を思ひつかしむる種となるものである。ロココの美術には金色の燦たるものがないではない。併しながら其金色は金閣寺の金色、能衣裳の金色と同じであつて、金色其ものゝ本性を發揮さす爲めと云はむよりは寧ろ其光によつて周圍の淋びしさを掲焉に反映する爲めに、換言すれば對照の具として用ゐられて居ると云ふ方が適當であると思ふ。換言すればロココを文やどる金色は極めて微かなものであつて、ロココの全體の銀色であることは決してこれが爲めに妨げられて居らぬやうに思はれる。加之瀟洒たるロココの後に燦爛として且つ堂々たるアムピール式の接するのは、丁度我國に於て足利文物の後に桃山式なるものゝ來ると一般で此點に於ても東西趣を同くする所がある。此の如く論じ來らば、或は吾人の説を難じて、西史に於けるルネッサンスは中世的であるに反し、ロココは近世に屬するものである。然るをルネッサンスに似たる足利時代が亦ロココにも似ると云ふは、これ甚しき矛盾であつて、論旨の歸著する所を知るに苦むと云ふ人もあるかも知れぬ。然れどもロココなるものは、或意味からして論ずれば即ち第二のルネッサンスであるから、足利時代が、此兩者に共通な點があると云ふことは、格別驚くに足らぬことである。但し斷はつて置くが足利時代はロココよりも寧ろルネッサンスに近く、近世的ではなくして、中世的と云ふべきものである。
 以上の外に我足利時代の歐洲の中世史とを對比して、尚ほ數多の類似の點を發見することが出來る。海外遠征熱の勃興の如きは即ち其一である。歐洲人の新陸地發見をば或る史家は之を近世の始めとなし、他の史家は之を中世の終りとするのであるが我國に於て海外遠征の盛になつたのは實に足利時代である。成る程鎌倉時代にも宋元との交通はあつた。しかし夫は其頻繁の度に於て、冐險を試みた距離の遠近に於て、求法の僧侶以外に各種の人物が遠征した點に於て、將に貿易が一定の體裁を具備した點に於て、共に足利時代に於ける明との交通に比肩し得るものではない。足利時代の明貿易は、殊に其起點を堺港に移してより以來は、彼の以太利諸市が十字軍時代に營んだ東方貿易と酷似する體裁を具ふることゝなつた。商人僧侶の外に、武人も行き美術家も出かけた。行く先きも必支那とは限らず、足利時代の末には更に進んで交趾、呂宋までも赴いた。往返の船舶が鎌倉時代に比して遙かに多かつたことは、自ら想像が出來る。されば若し我國史に於て地理發見時代を求むるならば、之を足利時代に擬する外はなからう。
 更に類似の點は、商業市の勃興である。歐洲に於ける十二世紀以來の都市の興隆は、今爰に之を説くことを要せぬが、我國に於て幾分にても之に比すべきものありとすれば、それは足利時代である。足利時代以前に在りては、政治の中心たる京都や鎌倉にこそ、時代相應の都市生活を認むることが出來るけれど、通商貿易の結果として著るしき發達を遂げた都市といふものは、殆ど見當らない。其之れあるは足利時代に始まる。但し足利時代に於ける斯かる都市の數は、歐洲の中世に於ける以太利南佛等の地中海沿岸諸市、及び北歐のハンザ諸市等の如く多いのではなく、僅に堺、山口等若干あるのみであるが、其多少を論ぜず兎に角かゝる現象を見るのは、實に足利時代に始まることである。而して此等諸市中最も繁榮で、且つ其歴史もいくらか精確に辿ることの出來るのは、唯堺港のみであつて、山口及び其他に至りては、茫として之を明にし難いが、しかし其堺港の歴史だけでも頗る興味あるもので、若し王侯の武力も容易に屈することが出來ず、隱然獨立の勢をなした彼のハンザや以太利の諸市の如きものを我國に強て求めたならば、それは足利時代に於ける堺港のみであらう。予曾て黎明リヰエラ・ヂ・レ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンテを過ぎて、檸檬、橄欖の木の間から、風に飽いた數隻の帆船が、將に白まむとする東天に向へるのを望みて、十字軍時代に於けるジェノア市民の傲然たる意氣を想ひ起こした。昔堺港の納屋衆が、淡路島かくれに西せる渡唐船を見送つた意氣は、正に此のジェノア市民の壯心と相伯仲するものであると思ふ。
 尚ほ一歩を進めて、本邦史上に於ける足利時代の出色なる所以を擧ぐれば、それは下層人民の發達である。抑も武家政治が始まつてから、社會の中心も亦下に移つたことは、これ吾人の屡々論ずる所であるが、しかし鎌倉時代の間は、武士といふものが社會の表面に浮き出しただけで、平民といふものは、まだ物の數に算へられて居らぬ。嚴密に云へば、或は既に物の數に入つて居つたらうと思はれる節もあるけれど、之を徴するに足るべき文献は甚少い。然るに足利時代に入ると此平民と云ふものが、中々に侮り難い社會的勢力となつて來る。平民の中に算へらるべきものゝ一なる彼の近畿の和戰の決を左右したといふ堺商人のことは、今更繰り返して論ずるまでもないが、それ等よりも遙に低い生計を營んだもの、即ち現代の通用語を借りて云へば、所謂第四級民なるものも此時代に於ては可成りの勢力となつた。土一揆の爲めに大小名が苦められたこと屡々であるのみならず、將軍と雖、亦これが爲めに惱まされたといふのは、これ即第四級民の下尅上であつて、而して其姑息な療法として實施された社會政策は、實に彼の枚擧するに遑なき程の徳政である。之を歐洲の歴史に徴するに、宗教改革の運動に伴ひて、多く平民の崛起を見るを例とする。英吉利のロラード、ベーメンのフッシイテン等皆それであつて、佛國にも亦此種の運動があつた。就中最も後れて起つたのは、ルテルの改革運動に伴ひて發生せる、有名なる獨逸の農民の亂である。此農民の亂なるものは歐洲に於ける第四級民の最初の大運動であると云ふ所から、特別の興味を以て西洋の史家に研究せられて居る題目であるが、吾人は我國足利時代の土一揆を以て、正に此農民の亂と併せ考へて、互相發明する所あるべきものであると確信する。
 斯くの如く論じ去り論じ來れば、鎌倉時代に於て既に宗教改革を成就した我國は、尚ほ足利時代を終るまでに、文藝復興、都市の勃興、海外遠征、及び平民勢力の發達等、凡そ歐洲の中世史に於て大事件と目せらるゝ殆ど總てのものを經驗し了つたと云て差支ない。事件によつては歐洲に顯著にして、我國に稀薄であるものもあるけれど國情の異る所、多少程度の相違のあるのは、當然のことである。して見れば歐洲の歴史に於て、十六世紀の宗教改革以後を斥して近世と云ふと同じく、足利時代に接する徳川時代を以て、我國の近世史となし、此兩時代の間に一段落を劃するを、研究の便宜上適當と認めざるを得ない。
 最後に論じなければならぬのは、我國史に、特に足利時代といふ一時代を劃する必要の有無である。足利時代の終りについては、今論じた所に讓つて別に辯じないが、其足利時代と鎌倉時代との間に段落を設くることにつきては、少しく言を費す必要がある。鎌倉時代と足利時代とは、共に日本の中世史に屬すべきものであると同時に、兩者の間に差別があるのは、恰も歐洲の中世に於ても、其前期と後期と一概に論ぜられぬのと同樣である。一言を以て言へば、鎌倉時代の文物の特色は、其ナイーヴな點にあるのであるが、これは足利時代に於て大に缺乏して居るものである。ナイーヴな度は、鎌倉時代の末期に於て漸次に減退し、足利時代に入りて甚しく稀薄となつて居る。足利將軍が其政廳を京都に置いたことは、單に政治上のみではなく、所謂文明史から見ても、重大な事件であるのみならず、抑も政治と文明とは、實に決して沒交渉のものではなく、文明の諸要素中、政治が其最も重大なものであることを考ふる時は、吾人は我國史に特に足利時代を設くることの決して徒爲でないことを信ぜざるを得ぬのである。





底本:「日本中世史の研究」同文館
   1929(昭和4)年11月20日発行
初出:「藝文 第三年第十一号」京都大学文学部
   1912(大正1)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:はまなかひとし
校正:土屋隆
2010年1月21日作成
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