日本史上の奧州

原勝郎




 抑も奧州地方は、多くの場合に於て出羽と併稱し、奧羽と云ひならされて居るのであるけれど、しかし日本海を負ふ所の出羽と、太平洋に面して居る奧州とは、歴史上必ずしも一概に論じ難い點が多いのである。北陸道からして海傳ひに開けた出羽と、主として常陸下野から陸路拓殖を進めて行つた奧州との間には、日本文明波及の點に於て少からぬ遲速の差のあつたこと明かであつて、一方は阿曇比羅夫時代に既に津輕まで屆いて居るのに反し、一方は日本武尊東征の傳説を除いては、之と比肩すべきほどの事實を見出すことが出來ぬ。奧州の方面に於ては彼の有名な白河の關なるものがあつて、これより以北は支那でいふ荒服の地同樣に目せられて居つたことは今日に傳はつて居る數多の文學其中にても卑近な例を擧ぐれば能因法師の作として人口に膾炙[#「膾炙」は底本では「※(「口+會」、第3水準1-15-25)炙」]して居る「都をば霞と共に立ちしかど」の歌、降ては梶原源太景季の「秋風に草木の露を拂はせて」の歌等に徴しても分かるのであるが、出羽の方には此白河の關ほど經界として明かに認められて居るものがないといつてよい。鼠ヶ關(念種關)などいふ所もあるけれども、奧州の方の咽喉なる白河の關の如く世に知れ渡つては居らなかつた。つまり昔の日本人が出羽をば奧州程に半外國扱をしなかつたことは、此例によつても分かるのである。越(古志)といふ汎稱につきては、從來種々の議論もあるやうではあるが、予は之を以て、北陸道から出羽津輕及び北海道の少くも西部を包括する所の總名であつたと考へるのが、穩當であると信ずるので、一方に於て和銅年間に越後を割いて出羽の國を置かれたのは、日本港岸の拓殖の大に進んだ證據であるのに、之に反して太平洋に面した方の常陸以北は、日本に於て文化の浸潤の最も緩漫であつた地方といふべきで、若し和銅年間に郡家を閉伊に置いたといふ事實を大げさに考へるとすると、當時奧州の拓殖も出羽に劣らず捗つたとも想はれるのであるけれども、之果して如何であらうか。其所謂郡家なるものが今の閉伊郡の何の邊であつたかは不明であるが、多分は海岸に近い所であつたらうと想像されるからして、若し彼の「黄金花さく陸奧」といふ其黄金が、果して今の遠田地方から出たものとするならば和銅の郡家も、之を閉伊沿岸でも氣仙界から餘り離れぬ邊に置くのが安全であるのである。若しさうでなくして陸路拓殖を進めた結果として閉伊に郡家を置いたとするならば、前九年の戰などは、少し説明しにくゝなる恐れがあらう。つまり此和銅に郡家の置かれたといふ事は、察するに太平洋沿岸の航海區域が一段北に延長した爲と見るべきである。今日でも京都附近の神社に縁りのある神社が、出羽の方に多くして奧州の方に少く、又出羽の羽黒山の如く早く靈場として開け、且つ都人士の間に有名になつた山の、奧州の方に見出し難いことなども、予の上述の假定説を慥かにする種と考へて不都合がなからうと思ふ。大體拓殖の進んだ程度を以て比較すれば、奧州の方は藤原時代に至つて、漸く王朝の出羽位に開けたものだとするのが適當であらう。然らば何故日本北端の兩半に斯かる差異が生じ、且つ其差が久しく消えなかつたかと云ふに、出羽奧州兩國の關に連互して居る脊梁の大山脈が、兩國相互間の交通に尠からぬ妨害をなして居つた爲と見る外はない。同じく山脈の中でも、南北に走る山脈は、東西に走るものよりも、餘計に交通を遮斷するとの説が、人文地理學者中に唱へられて居るのであるが、陸羽間の山脈は即ち此後者に屬するものである。今日でも陸羽を聯絡する山道の數は少く、且いづれも峻嶮であるによつて推せば、昔は其數更に少く、且つ一層難澁な峠であつたに相違ない。中尊寺に近い所でいふと、前九年の役に、清原武則の率ゐた出羽の軍勢が、松山を越えて、磐井郡中山大風澤に著陣、翌日同郡萩の馬場に著、此所は小松柵を去る事、僅か五丁餘なりと云ふ記事が、傳はつて居るから、一ノ關附近にも當時陸羽聯絡の通ひ路が一筋あつたらしいのであるが、抑も此道路たるや今日通行者のさまで繁きものでないのによつて見ても、當時は今にもまさる惡路であつたと見做さゞるを得ない。此より以北になると、彼の文治の頼朝の奧州征伐の時に、出羽を進んだ側衞が比内から東に越えたといふ山道、これは多分今の仙岩街道でもあらうか、それを泰衡の首級を携へて降人がやつて來たといふ今の鹿角街道、その外には同じく鹿角から馬淵河の流に沿ひて海に出づる通路、以上三筋程あるのみで此外に藤原時代の終り迄には、陸羽を結ぶ交通路とてはなかつたらしいのである。而して出羽奧州兩國間の交通果して此の如く不便であるとすれば、假令出羽の方の文明が、昔の奧州に比して一段進んで居つたものとしても、この優秀文明が直に奧州の方に影響するといふ譯には行かぬ。要するに日本國中最も廣く仕切られ、且開發の最も久しく停滯して居つた地方は即ち奧州で、其奧州の中でも殊に北上川流域、及び其以北に走る舊南部領などは、當時の日本全國中何處よりも進歩の遲くれて居つた地域と見做すを得べきである。
 此の如き日本のはてともいふべき奧州も漸次に王化に霑うたことは言ふを須ゐないが、前九年役の頃までは、所動的に霑うたといふのみで、自ら働きかけて上國の文明を輸入するといふやうな努力の痕跡が見えぬ。して見ると中尊寺を立てたり、佛像を上方の佛師に誂へ造らしめたりするやうになつた平泉中心の、即ち藤原時代の奧州は、阿部氏以前の奧州に比して、莫大の進境があると云はねばならぬ。而してこれは當然斯くなるべき筈のことであつて、遙か後世の今からして昔を回顧すれば、阿倍時代と相距ること、甚だ遠からぬやうにも思はれるけれど、計算すると前九年役の終りから文治年間の泰衡征伐までには、其間約百廿年の[#「約百廿年の」は底本では「約廿年の」]歳月を經て居るからには、進歩の遲い奧州とても、可なりの進境なかるべからざる譯である。然らば此進歩を促がしたことに與りて力のありしものは何々かといふに、奧州から上方に、觀光に出かけて歸つた人々と、上方の人士で遙々奧州に下り、優等なる文化の種を邊陬に撒いた人々と此二樣にある。上國から下向した者の例に就いては、花かつみの歌に風流をとゞめた流人實方卿の[#「實方卿の」は底本では「實力卿の」]如き縉紳は云はずもがな、前九後三の役に從軍して、家族移民をなした下級の者も等閑に附し難い。其外にも平泉藤原氏以前に於ては、若し奧州後三年記の記事を信じ得るとすれば、清原眞衡が其「護持僧にて五所うのきみといひける奈良法師」と碁を圍んだといふ話がある。平泉藤原氏時代の始めには、散位道俊といふ者が、清衡の許に赴き、弓箭の任に堪へざるを以て、筆墨を以て之に事へたと、三外往生傳に見えるもある。また良俊といふ公卿の清衡をたよつて陸奧に下向したのは、これ五位以上の者猥りに京畿を離るべからずとの制禁を蔑如し、國家に背きて清衡に從つた者であるとて、其廉を以て相當の制裁を加へむとの僉議があつたことが、中右記天永二年正月廿一日の條に載つて居る。なほまた同じ清衡の妻が、其夫の歿後上洛して、檢非違使義成といふ人に再嫁したといふことが、長秋記大治五年六月八日の條に見えて居るから、此妻女も元は都から下つて、清衡に連れ添つた者と推察される。さもなくて、もし此女人が奧州生え拔きの人であつたならば、斯かることには成るまいと思ふ。此の如くして或は身輕な、漂泊ずきな僧侶或は京都で生活難に追ひ立てられたはした公卿、さては大膽な婦人などの、遙々奧州に罷下るといふことが、清衡の頃及び其以前から既に時々あつたとすれば、まして基衡秀衡と代を累ぬるに從ひ、斯る族の愈※(二の字点、1-2-22)多くなつたことを想像し得られる。扨て此連中の大部分は、何か己に利する所あらむと欲して、遠路を厭はず奧州くんだりまで下向した者共で、必しも邊陲の開拓を思ひ立ち、それが爲に奇特にも態々出張したのではない。現に前述の清衡の妻と稱する女などは、其上洛の際に夥しき珍寳を持參したと記されてある。しかしながら彼等の下向の目的が那邊にあつたにせよ、上國の文明が、彼等の力によつて、徐々と奧州に輸入されたことは、蓋し疑を容れざることであらう。
 それと逆しまに、奧州の方から上方に出かけた人々に就いては、姓名の知れて居る者が少いが、しかし其實は多數あつたに違ひない。久野山縁起には、平泉館師忠の子僧源清の事が見える。恐らくは久野山のみならず、僧となつて京洛に住した者もあつたらう。又清衡は志を叡山に運び、其千僧供の爲めに七百町歩の保を立て、其後此莊園が次第に擴張されたといふからには、其等の用向で上る人も勿論あつたらう。貢賦に關しては頼長の台記で其一端が窺はれる通りであつたらうし、中尊寺建立の爲めには、殊に往返を繁げからしめたであらう。續世繼(みかさの松)に見ゆる、基衡が其寺の爲めに仁和寺に依頼して勅額を乞ひ下したとの事、既に以て秀衡以前に京都式文物の摸倣に就いて、少からぬ努力のあつたことを證するのであるが、秀衡の時に至つては、單に京都のみでなく、東大寺造立供養記によると、奈良にも慇懃を運んだ樣であるし、又阿闍梨定兼の承安三年の表白文によると、高野山にも歸依して四ヶ年の衣糧を運んだとある。此等の用向を辨ずる爲には奧州人が少からず上方に往來したに相違ない。遠く隔つた畿内地方との交通にしてすら、既に可なりに頻繁であつたとすれば、それよりも平泉に近い地方との往來は尚更のことで、越後との間には、しかも海路の交通が開けて居つたらしい。撰集抄に越後國志この上村といふ所を「奧よりの津にて、貴賤あつまりて朝の市のごとし、只海のいろくす、山の木のみ、布絹のたぐひをうりかふのみにあらず、人馬のやからを賣買せり」と述べてあるが、唯茲に奧といふ丈けでは奧州を斥するものとは限られぬけれど、長秋記(大治五年六月八日)清衡の二子相鬪へるを記せる條に、兄の方が「依難堪卒子從廿餘人、乘小舟迯越後」とあるのを參考すると、陸奧と越後との海上の往來のあつたことが分かる。唯當時發著の港灣の明かに知り難いことのみが遺憾といふべきだ。而して此の如く奧人が遠近の上國を觀光して歸へることにより、東北陲の文化が次第に其舊態を替へた事は云ふ迄もなからう。つまり秀衡の時に平泉に中尊寺の建てられたのは決して偶然でなく、而して此中尊寺の建立が因となつて、更に四圍の文物を向上せしめたこと、亦歴史上自然の成り行きである。
 此の如くにして奧州は平泉藤原氏三代の間に、其平泉を中心として可なりの發達を仕遂げたのであるけれども、然し京都の方からは之に格別の敬意を拂ふに至らず、基衡が折角に請ひ得たる額は、其の頼み主の素性が知れると共に奪ひ返され、嘉應に至りて秀衡が鎭守府將軍に任ぜられると兼實は其玉葉に於て之を評し、夷狄のくせに征夷の任を拜するとはこれ亂世の基だと云ひ、つまり奧州の者は共に齒すべからざる夷狄で、日本の國家の化外に立つ者だと考へられて居つたのである。されば奧州の地の眞に日本の一部と認められ、内地同樣の統治が茲に行はるゝやうになるには、一方に於ては奧の藤原氏の亡滅、一方に於ては、京都藤原氏の攝關政治がやんで、幕府の鎌倉に開かれるのを待たなければならなかつたのである。
 文治の役は日本と奧州との間の障壁を殆ど徹し去つたものと云つてよろしい。「君が越ゆれば關守もなし」と源太景季が詠じたのは文明北漸史上の眞理を言ひつくして居る。今迄は上國の文明奧陬に及んだとは云ふものゝ、國内波及といはむよりは、寧ろ國際波及といふ姿を持つて居つたのが、鎌倉時代になると、一國の内で文明が中樞から偏僻の地に流るゝといふ形を奧州に對しても始めて持つやうになつた。要するに以前よりは一層自由に弘宣波及するやうになつたのである。而して斯く成り來つたのは一般氣運の漸移によること勿論ではあるが、政權が兵馬の權に伴つて、其の中心を京都よりも奧州に近い鎌倉に移したこと、與りて大に力がある。王朝の地方政治も、藤原氏の莊園制度と、共に未だ深い印象を與へて居らなかつた其奧州の地に、守護地頭の制度は上方に踵いて布かれるやうになつた。千葉葛西等の、武總に蟠居したる有名な平氏、伊豆相模の豪族たる工藤曾我等の諸氏、野州の宇都宮藤原氏、さては甲斐源氏の諸族等、所謂關東豪族の歴々が多く陸奧に采邑を得るに至つた。中には關東と奧州と兩方で地頭を兼ねたものもある。紫波郡の國道筋に近く、唯今も走湯神社といふのが殘つて居るが、これ或は其附近の地が伊豆國出身の某武人の采邑になつた事がある一證ではあるまいか。總じて東北地方には、歴史の研究に必要な記録も文書も共に殘存する所のもの至て稀で、北に進むに從ひて愈々少く、藤原時代は勿論鎌倉時代の事をも明かにし難く、岩手縣以北に關したもので、今日の所稍※(二の字点、1-2-22)まとまつて居るといふべきは、結城文書、宇都宮文書、遠野の南部家文書、石卷の齋藤氏文書、盛岡新渡戸仙岳氏、紫波郡宮崎氏の所藏文書等である。此等の文書中時代の最も早いのは、承久四年三月十五日、津輕平賀郷に關したもので、之によれば、曾我五郎次郎の父小五郎の時から、即ち鎌倉時代の始めから之を領して居ることがわかる。其他今の岩手縣廳の所在地盛岡の一區劃は、仁王郷といふ名で鎌倉時代から知られ、駿河大石寺の所藏文書の中に、後藤佐渡三郎太郎基泰といふ人が、建武元年頃に之を領して居つた事が見える。それから少しく南になると、今の稗貫郡八幡村であらうと思はれるのが、結城小峯文書に八幡庄として載せてある。此の如く北は津輕のはて迄も、鎌倉の政令に服して居つたのであるからして、三衡以來の遺跡である此中尊寺の保存に就ても、當時決して注意を懈らなかつたもので、其詳細は中尊寺文書にも見えるが、其外にそれに關する史料で、一寸思ひがけなき場所に在るものを擧ぐれば、京都下京區住心院の文書中、文永元年十月の鎌倉將軍宗尊親王の下知状に當時の執權が連署したものである。
 政治の勢力による開發と相伴ひて奧州の文明を進め導いたのは宗教の勢力である。此時代に出來た宗派といへば、いづれも當時新に政權の中心となつた鎌倉は勿論のこと、其周圍即ち東國地方の布教に盡力したのであるが、更に進んで出羽奧州にも及ぼした。それより以前天台眞言の二宗亦出羽奧州に入らなかつたといふではないが、新宗派の方が其活動振りに於て遙かに前二者にまさつて居る。先づ淨土宗に於ては、法然上人の高足なる證空上人の白河の關を踰える時詠んだ歌といふがあるから、同上人も奧州に入つたのであらうし、法然上人の弟子で有名な隆寛律師は奧州に配流になつたことがあり、其弟子實成房も亦奧州に活動した。其外法然門下の一人なる石垣の金光坊といふ僧の如きは、奧州の布教を其終生の事業として、遂に津輕で歿した(或は栗原郡で歿したとの説もある)禪宗に於ては榮西の弟子記外禪師、聖一國師(辨圓)の弟子無關禪師、歸化僧佛源禪師、空性禪師、佛智禪師等、いづれも奧州の布教に力め、道隆の風化も奧州の南邊には及んだらしい。面白い事には鎌倉時代奧州に於ける禪宗の布教的活動は、中山道や北陸道よりも時代の早いことである。次に眞宗に於ては最も有名なのが岩代東山に居を占めたる如信上人で、親鸞面授の弟子の一人と稱せられてある。それよりも更に深く北に入つたのは、紫波郡に遺跡を有する同じく親鸞の弟子の是信房であつて、本願寺第三世の覺知宗昭も、如信の遺跡なる東山迄は來たことがある(最須敬重繪詞)。日蓮宗では日蓮の直弟子日辨日目共に奧州に入り、日興に至つては、今の陸中迄深入りして布教したといふ傳説になつて居る。其他にも日蓮の孫弟子、曾孫弟子等の、奧州に布教したもの數多ある。時宗に至つては開祖の一遍上人が親ら奧州に巡錫したので、弘安三年には江刺郡に祖父河野通信の墳墓を訪ねたとあつて、唯今稗貫郡寺林にある光林寺といふ時宗の寺院は、即ち一遍上人の此巡錫を因縁として出來たとの傳説である。此の如く新に勃興した諸宗派の僧侶が、當時尚ほ麁野の境遇に在つた奧州の住民に與へるのに、宗教的の感化を以てしたのみならず、一般文化の進歩にも少からぬ貢獻をなしたであらうとは、蓋し何人も想像し得る所であるが、それと同時に歴史の研究者にとりて興味の深いことがある。即ち當時此等諸宗の僧侶で奧州に宣教した者は多く奧州にのみ其活動を限つて、出羽の方には入らず、出羽の方へ布教を志した人々は、越後からして入るのを普通とし、出羽奧州兩國を跨いで布教した者とては、其數甚少い。これは此兩國の、鎌倉時代に於ても、やはり其以前と同樣に、風馬牛互に沒交渉と云つて可なる關係に在つたことを示すものと認むべきである。而して王朝文明は奧州よりも出羽の方に早く、且つ深く影響したに反し、鎌倉時代の文化は出羽よりも寧ろ奧州の方に多く感化を與へたことが、これまた此布教の歴史からしても推測され得るのである。
 さりながら、斯る諸の事情が共に働いて奧州の文明を向上せしめたとは云ふものゝ、鎌倉時代に於ける奧州は、要するに大した開け方をなし了はせたとは見えない。馬は既に名産の一つになつて居り、閉伊郡大澤牧、糖部郡七戸牧、同宇曾利郷中濱御牧等は、牧場として其名上方にも聞えた事であるが、さて馬の外に名産として算ふに足る程のものがあつたとも見えぬ。蝦夷は此時代を終るまで集團をなして陸奧に居住し、安東家の差圖によつて屡※(二の字点、1-2-22)叛亂を企て、それが爲め東北地方に兼ねてより關係のあつた關東の豪族即ち工藤右衞門祐貞、宇都宮五郎高貞、山田尾張權守高知等が、嘉暦年間に相踵いで出征を命ぜられたことが、北條九代記に出て居る。而かも此征伐は蝦夷の殄滅によつて落著したのではなく、和談を以て結末をつけて歸參したとあるからには、蝦夷は其儘に居殘つたに相違ない。藤原氏は武家の爲めに政權を失つたが其武家殊に源氏が勢力を養つたのは奧州征伐によつてゞある。然るに其源氏の開いた鎌倉幕府も、其亡滅のきつかけは、安東征伐、手短かに云へば奧州の蝦夷を征伐したが爲めといふ。して見れば數世紀に亘つて日本の爲政者を惱ました問題は、實に此奧州の始末方の如何であつた。されば兩統對立の時代になつてから、南朝が主として此奧州に於て官軍を募る事を力め、中尊寺には殊に關係の深い彼有名な北畠顯家卿を、陸奧守として派遣したのも、亦決して偶然ではないのである。此顯家卿については舞御覽記と云ふものに元徳三年(元弘元年)其宰相中將たりし頃蘭陵王を舞しときの樣を叙して「夕づく日のかげ花の木の間にうつろひて、えならぬ夕ばへ心にくきに、陵王のかゞやき出たるけしきいとおもしろくかたりつたふるばかりにて」と云ひ更に「この陵王の宰相中將君は、この比世におしみきこえ給ふ入道大納言(親房)の御子ぞかし、形もいたげして、けなりげに見え給ふに此道にさへ達したまへる、ありがたき事なり」と云へり。斯樣なやんごとなき殿上人の奧州、蝦夷のまだ住んで居る其奧州に、國司として赴任するといふことは、俗にいふはき溜めに鶴の下りた樣なものであるが、此顯家は靈山に居つて下知を傳へ、南部を始めとして其他奧州の官軍を其麾下に從へ、延元二年には十萬餘騎と號する大軍を組織して白河の關を越え、關東の平野に殺到し、鎌倉を陷れ、延元三年には東海道を打登り、追躡して來た足利勢を美濃垂井に逆撃し、首尾よく畿内に乘り込んだ。奧州人の大擧南下したのは、これが始めてである。其前に義經に從つて奧州の者共が源平合戰に參加した事があるけれど、其規模の大小迚も此延元の時に比すべくもない。若し此時に顯家の軍勢が勝利を得たならば、南朝方の御利運といふのみでなく、奧州の者で上方に地歩を占める者も多くあつたらうし、又上方から奧州へ下る者の數も殖え、鎌倉の始に既に殆ど撤廢されて尚ほ少しく殘つて居つた日本と奧州との障壁も、爰に全然取り去られ、奧州の文化は其お蔭で長足の進歩をなし得たであらうと思はれるが惜しい事には事此に及ばず、奧州勢が其中堅をなした顯家の軍は安倍野の合戰に打ち敗れ、顯家は泉州石津といふ所で戰死し、神皇正統記に所謂忠孝の道極まつたのである。が、これ單に顯家卿忠孝の道極りて、親房准后の嘆きを増したのみではない、奧州開發の運命もこれが爲めに暫く閉ぢらるゝ事になつた、これ誠に遺憾の次第と云はざるを得ない。
 足利時代になると奧州は鎌倉管領の支配に屬し、諸大名は關東衆といふ名の下に一括され、所謂謹上衆と稱する第二流諸侯の資格を與へられ、篠河殿といふ觸れ頭が奧州に置かれてからは、其統率を受くることゝなり、要するに奧州と上方とは間接の關係になつた。けれども公け以外には上方との個々直接の交通絶えたるにあらずして、大名の遙々見物がてら京都に參覲し、將軍の諱の一字を貰ひ受け、それを土産に歸國するもの少からずあつた。南部家の歴代の中に晴政といふ人があるが、此人上洛して將軍義晴の一字を貰ひ受け、晴政と名乘つたなど其一例である。南部系圖には、甲斐源氏として同族なる武田晴信の晴の一字を請ひ受けたと記し將軍義晴の一字を賜はつたことをば唯別説として記してあるが、却へりて公儀日記の方には、此度偏諱を賜はり度いとて上洛して居る南部といふ者は、奧州でも聞ゆる豪の者であるから、望み通り與へられて宜しからうと評議一決したことが載せてあつて、晴の字が將軍の偏諱であること紛れもない。斯かる例は南部に限らず、その他奧州の諸大名に共通なことで、義輝將軍の頃までは此連中可成りにあつたらしい。義昭の時には將軍の光りが大に薄くなつて、參覲者の數も殆ど皆無となつたが、それでも、石川大和守ばかりは、義昭將軍に謁見し、諱の一字を賜はりて昭光と名乘つたといふ。上洛者の獻上物は南部などは馬であるが、一般には鷹であり、京洛に滯在し久しきに渉る者は、歌道などを稽古し、一廉の歌人となり、名を新菟玖波集に列し得て歸へるもあつた。大名のみならず其臣下の者共までも伊勢參りをし京都見物をして歸へるもあり、兵亂の爲めに歸路を斷たれた上洛者の中には、その儘都に留まりて、或は旅宿の娘などに契り、彼の地で一生を終へた者もあつたらしい。上方からして奧州へ下る者には鷹買、馬買、遍歴藝人、武者修行、僧侶等であつて武者修行の中には根來法師等も交つて居つた。奧州に始めて鐵砲戰を教へたのは、其等根來法師のやうである。斯く上方と奧州と兩方からの往返絶えず、その爲めに奧州に於ける文武二道は振興し、住民の見聞も大に擴まつたから、足利末の奧州は之を鎌倉末の奧州に比べて、若干の進境を見たこと爭ひ難い。有力なる大名の城下には、未熟ながら文化の小中心も出來た。會津の如きは其尤なるものである。
 若し大彦命に關する傳説を、其儘に信じ得るならば、奧州の内で古るい歴史を有して居る土地といへば、先づ會津に越すものはなからう。又之を假托説とするも、それにしても會津の名稱は、書紀編述時代に既に知られて居るから、今日奧州にある諸都市よりも遙かに古るいこと明かである。蓋し會津の地たるや、四方山脈に取卷かれて居るにも拘はらず、奧州からして出羽と越後とに入り得る要樞であるから早くよりして可なりの繁昌があつたらしく、鎌倉時代の末には、此土地の平民の家に生まれた孤峰和尚といふが應長元年商舶に附して入元したとある。後醍醐天皇の歸依を博した、雲樹國濟國師といふのが即ちそれだ。斯かる人を出した事によつて、當時の會津の文化の、まんざらでなかつたことが推せる。其後戰國時代になつてから、會津は蘆名、伊達、上杉、蒲生等の名族の城下となつたが、主は頻繁に替はつても、會津の繁昌は益※(二の字点、1-2-22)加はつた。といふのは前にもいふ如く地の利を得て居るからである。徳川時代になつて有力なる親藩を爰に置いて、奧羽の諸大名を監視させたのも、斯かる理由あればである。いま繁昌の一端を述ぶれば、蘆名家記によると、盛重時代に其城下たる會津黒川、即今の若松の大町柳の下といふ所に風呂屋があつて、蘆名家の侍共が、毎日それに出入りする故、伊達政宗からして、太寄金助といふ間諜を、此の風呂屋につけ置いて蘆名家の内情を探らしたとある。今こそ錢湯が何處にもあつて、珍らしいものではないが、江戸ですら徳川幕府開設の當初は、風呂屋といふものが、珍らしかつた。それが天正頃に會津に在つたのであるから、當時黒川即若松の、決してありふれた田舍町でなかつたことを知るに足るのである。されば上方からの素浪人のみならず小笠原長時の如き名將も、漂泊の末此所に來り、遂に此地に歿したが、其の長時の會津滯在中に星野味庵に授けたのが、即味庵流、畑奧實に授けたのが即畑流と稱し、共に小笠原一流の弓馬の古實である。文藝も茲に一種の發達をなしたものゝ如く、當時廣く日本にもてはやされた平家の如きも、爰で相應に流行したものと見え蒲生氏郷の從妹で南部利直の室となつた人の、嫁入の際に持參した道具の中には、他に類の少い平家の語り本が一部あり、其奧書には、永禄年中に會津黒川の諏訪某が所持して居つた旨記されてある。又相當に文化の中樞となつて居つたればこそ、耶蘇教もいち早く此方に入つたので、其事は日本西教史にも記されてあるのみならず、上述の平家物語と同じ持參道具の中に、念入りな宗教畫を張つた屏風のあるのでも證據立てられる。
 足利時代に奧州地方が右の如き發達をなし得たのは、陸上交通の發達を前提としなければ、想像の出來難いことであるが、しかし各地方とも秩序の定まらなかつた當時のことなれば陸路の外に、海上の交通をも併せ考へなければ、十分な説明が出來ぬ。然らば此陸運は[#「陸運」はママ]どうであつたかと云ふに、彼の北畠顯信が義良親王を奉じて、伊勢から海路陸奧に赴かむとした事によつても、鎌倉末足利の初に既に斯かる航路の開かれて居つたことが分るし、又日本海廻りの航路に就いては、永享文安の頃、奧州十三湊の豪族安倍康季が、後花園院の勅命によつて、若州小濱の羽賀寺を再建したといふ、羽賀寺縁起の記事、若州の武田氏が北海道に渡つたとの傳説等によりて、鎌倉以來依然として、絶えずあることを知る事が出來る。蓮如上人御文章の第一帖に、上人が文明四年吉崎に坊舍を建て、暫し之を根據地とせし際の記事あり。其中に出羽奧州等七ヶ國の一向門徒此吉崎へ集まり參詣せしとあるが、七ヶ國の中に野州は見えず。さすれば奧州人は野州を通過して吉崎に赴きしものと考へられず。その上に前述の事項を併せ考ふるときは、奧州の信者の日本海廻りにて、吉崎に參詣したらむこと、強ちに有り得がたきことゝ斷ずべからず。扨て此日本海廻りにて北海道、それより更に京都に至るべき道筋は、新井白石の奧羽海運記にもある如くに、越前敦賀に著津の後、山中を駄運して近江の鹽津に出で、それから舟にて琵琶湖を横ぎり、大津を經て京都に達したものであらう。越前坂井郡三國の港は、今こそあまり振はない場所であるけれど、昔は北陸の要津であるが、此港に、久末といふ舊家が今でも存して居る。其久末家で先年内藤文學博士が採訪された文書によると、同家の祖先久末久五郎といふ人が、元和元年大阪夏陣の時、南部利直の爲めに、其武具雜品を手船にて輸送し、又翌年南部領内大凶作の際、同じく手船を以て米を輸送した度々の功により、其手船を以て船役なしに南部領田名部浦に入港する特許を與へられ、其特許状は家老連署を以て幾回も書き改められて右久五郎の代々の子孫に交附されてあることが分つた。此事なども日本海海運の好史料であると思はれる。
 當時の船舶の構造から考へると太平洋沿岸の航海すら既に頗る危險であるから、まして風浪荒き日本海廻りに至つては、白石の所謂備さに難辛を極め、勞費最多くして遭利廣からざるものであつたので、彼の定西法師傳に在る天正頃琉球の日本町に奧州の者もあつたとの記事に至りては、其漂流人でない限り、少し受取りにくい話であるとしても、足利時代の奧州の海運は陸上交通と相俟ちて其開發を助けたもので、決して輕視すべからざるものと思ふ。
 海陸の交通の發達に伴つて、邊鄙の奧州も段々に開けて來たことは、上述の如くであるが、然しながら奧州はやはり依然として文明進歩の遲々たる所で、足利時代を終つても、まだ/\上國と比肩する迄には行かなかつた。其の例を擧げれば數限りもないが前に一寸述べた安倍康季が日之本將軍と稱したのでも其一斑を窺はれる。此日之本將軍といふ名稱は、多分蝦夷を威かす爲めに用ゐたのであらうけれど、それにしても可笑しく立派過ぎて、夜郎自大の譏りを免れない。また鐵砲使用の年代に徴して見ても當時の奧州の文明が、どれ丈け上國よりも遲くれて居つたかゞ分かる。天文十二年に種子島に渡つたといふ鐵砲は、永禄の末にはまだ東國に少く、奧羽永慶軍記に、永禄十二年小田、眞壁兩家の合戰を叙して、「鐵砲は、まだ東國に稀にして、今日も以上八挺の外は來らず、爰に根來法師大藏房鐵砲の上手なりしが云々」とある。稍廣く行はるゝに至つたのは天正の半ば過ぎてからであらう。
 物ごと何によらず斯く上國に遲くれて居るからして、一方に於ては朴素の風が尚ほ存し、輕薄に流れず、士人の間にも、恩を思ひ忠を盡くすの念は頗る厚かつた。松隣夜話にある太田三樂から長尾景虎への注進状の中に「奧筋諸將の所存專ら族姓を撰申事に候」とあるは其一端を示すもので、清和の嫡流とでも云へばうつけたる人をも神の如く敬つたらしく、重恩の武將死する時は、其臣下の二三人殉死せるのみならず、其殉死者にまた殉死する者もあり、友人の殺されたのに居合はさざりしを遺憾として切腹した者もあつた。殉死は當時一般の風習にして珍らしからずとは云ひながら、さりとは念入りと評せなければならぬ。而して斯く人物が固くあり過ぎる代はりに、一つまかり違へば、途方もなき傍若無人の所業を敢てした者も亦少くない。足利時代に出來たかと思はれる彼の人國記に、奧州人の氣質風俗を評して、「日本ノ偏鄙成故ニ、人ノ氣ノ行詰リテ、氣質ノカタヨリ、其尖ナル事萬丈ノ岩壁ヲ見カ如ニ而、邂逅道理ヲ知ルトイヘトモ、改テ知ルト云事スクナク、タトヘ知ルトイヘトモ、江水ノ流ナクテ、塵芥之積リテ清ル事ナキカ如シ(中略)右之如之氣質故、頼母敷トコロ有テ、亦ナサケナキ風俗也」と云ひ又「人ノ形儀イヤシフ而、物語卑劣ナレトモ、勇氣正キ事、日本ニ可劣國トモ不被思也、因茲也朋友無益討果、主君ヘ志ヲ忘、父母ヘ孝ヲ忘ナトスル類、不知其數、雖男子上下トモニ勇ヲ以テ本トスル處ナレハ、偏鄙偏屈ナリトイヘトモ、潔キ意地アツテ恥ヲ知故、是ヲ善トス」とも云へるは、褒貶共に先づ要領を得て居ると云はなければならぬものであらう。
 國史に於ける奧州といふのは、先づ大體は上に述べた如くであつて、以て徳川時代に入つた。徳川時代には太平につれて偏僻の奧州も可なりの進歩をなし、人國記に「名人ノ名ヲ呼フ程ノ人ハ不得聞ヲ也末代以テ如此成ヘシ」と一言で以てけなされて居るにも拘らず、多少の人材を出し、日本全體の文明にも少は貢獻する所あつた。けれども大勢はやはり足利時代の通りで、絶えず上方の後塵を拜し來り、それが惰性をなして明治時代まで續いて居る。米國エール大學の教授にハンチングトンといふ人があつて、世界各地方の住民の文明進歩の程度を測る爲め、諸國の學者に十點を滿點として評點せしめ、其平均をとつて各地の文明點數を定めるといふ試みをやつて見たが、其地方の區分法もかなり綿密で、一國の内の中でも人情氣風の差によつて幾つにも分けて居るから、世界は總計百八十五區に分かれ我日本の如きも、南日本と北日本との二つにして、別々に點をつけることになつて居る。而して其採點の參考となるべき要件としては、其地方の住民の自發的活動力、新思想形成力及び其實行能力、自治力、他人種を統治指導する能力等諸種能力具有の程度、及び道徳の標準の高低等であつた。五十四人の採點平均の結果最高點は英國の十點であるが、日本のうち南日本は八點三分、北日本は六點二分とある。斯かる計算法は隨分精密に見えて、而かも危ないものであるのみならず、私は日本の南北兩半の間に果して二點一分の差あるかどうかを斷言し兼ねるが、兎に角日本の北半、殊に奧州が、南日本よりも文明の今もなほ遲くれて居ることは爭ふべからざることゝ思ふ。されば奧州史の研究は、奧州にとりて得意な懷古の種たらしむるよりも、寧ろ將來發奮の資たらしむること、何よりも願はしいことである。





底本:「日本中世史の研究」同文館
   1929(昭和4)年11月20日発行
初出:「奧州沿革史論」仁友社
   1916(大正5)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:はまなかひとし
校正:土屋隆
2010年1月21日作成
2010年2月18日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について