東山時代における一縉紳の生活

原勝郎




 予がここに東山時代における一縉紳しんしんの生活を叙せんとするのは、その縉紳の生涯を伝えることを、主なる目的としてのことではない。また代表的な縉紳を見出すことが至って困難であって見れば、一人の生活を叙して、それでもって縉紳階級の全部をおおわんとするの無理なることは明白だ。しかしながら予の庶幾しょきするところは、その階級に属する一員の生活の叙述によりて、三隅ともに挙げ得るまでには行かないでも、せめてこれによって縉紳界の一半位をば想知することを得せしめ、もしなおその上にでき得べくんば、当時の文明の源泉なる京都における社会生活の一面を、これをして語らしめようというにある。しかしながら叙述の出発点を個人にのみとり、それから拡充して社会を説明しようとするのは、企てとしてはなはだ困難である。ここにおいて予は便宜上この論文を二段に分ち、その第一段には、性質上結論であるべきはずの東山時代に関する予の意見を、先ず一通り縷述るじゅつしよう。しかして第二段に至って或る一縉紳の生活を叙してみたい。結論の性質のものを前にするのは、冠履顛倒のやり方で事実を基礎として立つべき歴史家の任務を忘却したわけになるようであるけれど、一縉紳の生活をいかに綿密に叙述したとて、それのみで、時代の大勢を推し尽くすことは、とうてい不可能であって見れば、予の第一段は必ずしも第二段の結論ではなくむしろ序論の性質を帯びたものである。これを第一段として先ず説くのは、第二段において叙せらるべき一縉紳の生活の背景を画かんがためである。しかして第二段においてなすべき叙述をば、たんにこれをして如上の背景を利用せしむるのみでなく、第一段の概括的評論と相反映し、少なくもその一部分だけでも立証させたいものだと思う。読者あるいはこの論文をもって帰納によらざる空論なりとし、あるいは帰納と見せかけた演繹えんえき論だと評するかも知れぬが、予はひたすらに帰納をくりかえすことをもって史家の任務の第一義だとは考えておらぬのであるから、かかる批評はあまり苦にならぬ。手品だと評せられるならば、それでも甘受しよう。ただ恐るるところは拙い手品の不成功に終りそうであることのみである。先ず第一段から始めよう。ちなみに述べておくが予はかつて『芸文』第三年第十一号に、「足利時代を論ず」と題する一篇を掲げたことがある。東山時代は足利時代の中軸であるからして、本篇とそれと、大体の帰趣において重複を免れない。しかしながらかつて論じたのは東山時代を主としてにらんだ足利時代の総論で、本篇は足利時代を東山時代に総括しての論である。したがって両者の間に多少の差異の生ずることは、一に読者の諒察を願いたい。

 鎌倉幕府の開設は、たんに政柄の把握者を替えたのみではない。政庁の所在地を移したのみでもない。これと同時に日本の文明が従来の径路と違った方向をとりかけたという点において、歴史上重大な意義を有するのだ。行き詰った藤原時代の文明はかくして新生面を開こうというのであったのだが、しかるにその文明の方向転換は鎌倉幕府の衰滅とともに失敗におわり、将軍の幕府は京都へ戻り、世間の有様は再び藤原時代の昔に似かよった経路を辿ることとなった。復古といわば、復古ともいわれよう。さて何故に鎌倉時代の初期にあらわれた彼の新気運が、そもそも頓挫してこの始末になったかということについては、けだし種々の原因もあろうが、主因としては、従来の文明の根柢がすこぶる堅く、これを動かして方向を転ぜしめることの容易でなかった点にある。従来藤原時代の文明に関しては種々な説が史家の間に闘わされてあったので、当時の文明は決して輸入分子を主としたのではない、付焼刃の文明ではない、日本を本位にしたその基礎の上に支那文明の長所のみを採り加えたのだと主張する論者もある。この論はわれわれの祖先の名誉を発揮する所以のものであるからして、それがもしはたして真を得ている論であるならば、これに優る結構なことはないのである。しかしながら退いて考えると多少ショウヴィニズムの臭がある。この種の論者の論拠とするところは、大宝の律令をもって唐の律令に対照し、その全部が彼の模倣でなく、所々にわが国情に適するごとき修正を加えているという点を力説するにあるのであるが、これははなはだ強くない論であるので、全然彼を模倣してはおらぬと言うだけでは、輸入分子を主としておらぬという証明にはならぬ。もし当時の日本の指導者が、行き届いた細心をもって取捨を行ない、己を主として然る後に彼に採るところがあったとすれば、換言すれば彼らのやり方が進歩的保守主義であったとすれば、藤原時代の文明というものは、決して然るがごとく早く行き詰まるはずのないものである。予の見るところではどうしても彼を本にしてこれに若干の修正を加えたと考えるほかはない。
 すでに彼を主にしたといえば、次に起こってくる問題は、そのこれを輸入した当時の彼国の文明の如何なるものであったかというまでに及ぶのであるが、隋唐の文明はこれを輸入した当時のわが国のナイーヴなのに比べて、宵壌しょうじょうの差ある優秀のものであった。隋はともかくとしても、唐にいたっては、その文明が支那においてすら行き詰まるほど発達してしまった時である。かくのごとき高度に達した一種の文明は、これをいっそう進歩した国に移植したとて格別の累をばなさず、かえって進歩を助けるのであるけれども、これをはるかに彼に劣った当時の日本に移植したのであるからして、日本でもいくばくもなく行き詰まるべき運命を持っていたのだ。日本は幸いにして、これを齟嚼そしゃくするのに反芻はんすう作用をもってしたので、はなはだしい害をば受けずにすんだのであるけれども、もしそれがなかったならば、日本も朝鮮のようになったにきまっている。だいたいにおいては一旦行き詰まりかけたに相違ないのである。しかしてこの行き詰まりを切り開いたのはすなわち鎌倉幕府の建設である。いわゆる窮してまさに通ぜんとしたものだ。それが十分に通じかね転じかねたのは、輸入された方があまりに優勢であったからであって、たとえてみれば一河まさに氾濫せんとし、幸いに支流の注入によってしばらく流路を転ぜんとする勢いを示すも、原流のあまりに水勢強きがために、ついに大いに流路を転ずることあたわずして終るがごときものである。要するに幕府が鎌倉からして京都に移されるとともに、せっかく鎌倉に出来かけた新しい文明の気運はここに萎靡いびし果てて京都のみがまた旧のごとく文明の唯一中心となるに至った。しからばその京都はどんな有様であったか。
 奈良朝以前から輸入されきたった文明は、平安奠都によって京都において涵養かんようされ、爛熟し、しかして行き詰まったのであるが、さてこの文明とともに終始すべき運命の京都も、またその文明の行き詰まりとともに行き詰まった。時代の推移に従う多少の変化をるる余地がまったくなくなったというでは無論ないけれど、その大体において京都はすでに都会として出来上がってしまった。根本的の変更をなすことのとうてい不可能なほどに出来上がってしまった。本邦には珍しい、むしろ支那式ともいうべき都市生活が発達してしまった。かかる高度の文明を具体した京都は、将軍の幕府が鎌倉から引き移って来たからとて、それがために鎌倉式に成るものではない。その鎌倉すらも実は末になるにしたがって、だんだん京都風になりかけておったのであるからして京都が今度そのかわりに征夷将軍牙営の地となったからとて、その故に京都の趣が大いに替わるということのあるべきはずがなく、かえりて反対に将軍が鎌倉時代よりもいっそう公卿化したのである。しからば足利時代の京都は全然藤原時代と同様な有様に逆戻りしたのか。
 余は前文において京都は鎌倉に打ち勝った、武家政治は終に旧文明の根本的性質を変更することができなかったと述べた。然り、根本的には変革を来たし得なかった、しかしながらまったく何らの影響をも及ぼし得なかったというのではない。予は元来足利時代をもって大体において藤原時代の復旧と見なさんと欲する者であって、もし藤原時代を日本の古典的時代と考え得るならば、足利時代はルネッサンスに擬せらるべきものであると思う。ただそれと同時に忘るべからざることは、彼のルネッサンスが決して古典時代そのままの再現ではないごとくに、足利時代もまた決して藤原時代そのままの復旧ではないということである。鎌倉時代はおおよそ一百五十年の久しきにわたりており藤原時代と足利時代とは時間においてそれだけのへだたりがある以上、仮りに武家政治というものが開設せられなかったにもせよ、その他何らレジームを攪乱するごとき事件がその間に出来しゅったい[#「出来しゅったい」は底本では「出来ゅしったい」]しなかったにせよ、藤原時代の有様が、そのままに引いて足利時代まで伝わるべきものではなく、外部からの影響がなくても、内面的変化を免るることのできるはずはない。しかしてあくまでも従来の傾向を続け、爛熟の上にも爛熟することがとうていできぬことであるとすれば、その行き詰まった末には遂に頽廃期に入るべきものである。しかしながら足利時代において認め得べき変化は単にこの種のもののみではない。換言すれば鎌倉幕府は失敗に終ったとはいいながら、武家政治がともかく一たび開設せられたということは、まったく歴史に影響を及ぼさずにはいられぬ重大なことであって、足利時代というものは、ある意味における武家政治の継続になる、公卿化したとはいいながら、将軍およびその臣隷は武人に相違ない。もし承久の事変に宮方が勝利を得たと仮定しても、それは足利将軍が京都から号令した有様と異ったものでなければならぬのであるが、いわんや藤原時代にいたっては、承久時代ともまた大いに相違があるからして、足利時代は決して藤原時代そのままの再現であり得ぬのである。要するに足利時代は武人化したる藤原時代ともいえる、復古とはいいながら中間に挾まった鎌倉武家政治の影響を少なからず受けている。さてそれならば、武人化するというのはいかなる意味か。およそ武人化したという義の中には、世の中において武力によって決せられる場合の多くなって来て、事実上の執政者の間に尚武の気象が旺盛になったという点もある。足利義尚の六角征伐のごときは、藤氏全盛時代の公達きんだちには見られぬ現象であって、この見地からするも両時代の差を分明に示すものであろう。しかしながらこのほかにも武人化なる語に尚別の意義がある。
 元来藤原時代の文明はすこぶる階級的な文明であった。この文明の下に庶民もいくらかの進歩をなし得たことはもちろんであるけれど、それはいずれの階級的文明にもあることで、この文明の浸潤がある故をもって、藤原時代の文明がかなりに庶民をも眼中に置いたもので、すなわち階級的なるに甘んじた文明ではないというのはこれ少しくいい過ぎた論である。そもそも庶民を眼中に置いたか否かが階級的であるないの標準となるものではなく、上流社会が庶民を自分らとははるかに隔った徒輩と目して、もってこれを眼中に置くということがそれがすなわち立派な階級的精神である。さてその階級的であった状態からして、次第に平等の域に向って移り行くのには、かの慈悲とか憐愍とかいうように、己を先ず一段高き地位に標置して、それから下に向って施すところのその厚意に基くことははなはだ稀であって、多くは上流者が下級者の己に接近するのを認容することによって実現されるのだ。しかしてかかる厚意は稀に自発的に発することもないとは限るまいけれど、多くの場合においてはむしろ強請によってやむを得ず表現せざるを得ぬ事情に立ち至るのである。しからばかかる強請が時と場合とを択ばずに行ない得るものであるかというに、それは決してそうでない。強請といえば少々語弊があるが、要するに請求してよいだけの資格が生じて、しかる後にした請求でなければ、真にその欲するところを貫徹することができぬ。換言すれば階級精神を打破するか、あるいはその衰微を促すのには、下層人民が進歩し、向上し、その属する国家社会において己らがいかに重要なる分子を構成しているかを自覚することが最も必要である。喜んで上流よりする仁愛を仰ぎつつある間は、とうてい階級精神の打破はできぬものである。藤原時代においては最下層の者はもちろん、それよりもなお一段上に在る中流階級すらも、みな文明の上において所動者であって、概括すれば社会は階級上三というよりもむしろ二に大別され、藤原氏の一部および少数の異姓者が上流を組織し、もって武士以下の下級者に臨んだものだ。武士らは中流社会というよりも、むしろ下級中の上層に位すというべきものであった。その証拠には現に彼らの多数は、保元の頃まで藤原氏に臣事しつつあったのである。平氏が政権を握るに至ったのはこの下級中の上層に在った一族が跳びこえて上流の仲間入りをしたのであるが、しかしその目的を達するに至った手段は、平氏の本職たる武力によったのではなく、むしろ藤原氏中の一族が久しき沈淪から脱出して栄達したというような有様で、要するに宮臣的のやり方が、あずかりて大いに力をなしている。であるからして平氏中の特別な一族が立身したからとて、これにつれて平氏一門が栄達したというわけでもなく、また武士たる者の社会的地位が総体に向上したというわけでもない。武士という者が相胥あいもちいてその位置を高め、社会の表面に現われるようになったのは、武力によって、詳言すれば一個人の勇気ではなく多数武人の集合したる武力によりて、鎌倉の幕府が開かれてからの、その以後のことである。予が上文において武人化したというのはすなわちかくのごとき推移をさすので、階級的精神がこれによりてまったく打破されたというのではないけれども、ともかくかくのごとくして中流階級が出来たといおうか、もしくは上流階級が多人数になり、しかも単純なる一種に限らず、廷臣のほかに武人という分子をもその中に算するに至ったという有様になったのが、これすなわち階級精神を弱むる一因たるに相違ないので、つまりその打破に向って一歩を進めたものである。しかしてこの傾向は承久の役の鎌倉の勝利および建武中興の不成功によりて、いよいよ跡戻りし難い大勢となった。武人化は常に階級制度の衰微に伴うものとはいえないけれども、この場合においてはたしかに民主主義に一歩を進めたものなのである。しかして足利時代というものは、実にこの大勢の成した結果だとすれば、たといその文明の本質において大いに復古的の点があるにもせよ、これを藤原時代に比して顕著なる差異のあるものと考えざるを得ない。
 第三に足利時代のその既往に比して異り、したがいて藤原時代と大いに同じからざる点は、文明の伝播力の強弱の差である。足利時代において日本の文明の分布が、前時代に比し、すこぶる普遍平均の度を加えたのは、これ一には当時における文化なるものが、藤原時代において上流社会の壟断ろうだんするところとなっておった文明に比べて、その典雅の度を減じて通俗になり、卑近になり、必ずしも上流者流の間にのみ限らなければならぬていのものでなくなったことに基づくとはいいながら、なおそのほかに伝播力が藤原時代に比して大いに増加したということも、そのまた有力な一原因をなしている。そもそも文明の伝播なるものは、ある意味において伝染病と同様であって、同じ伝染病でも時と場合によって、伝染性の強弱一様でないごとくに、本質を同じくする文明でも、時代によってその波及力に差等がある。本質と伝播力とは必ずしも並行するものではない。しからばこの伝播力が何からして最も有力なる衝動を受けるかというに、それはすなわち政治である。政治は文化の一要素をなすのみでなくあわせてこれを波及せしむる原動力をなすものである。藤原時代においては、その文明の品位がいかに優秀であったにせよ、その制度がいかに整然たるものであったにせよ、その政治の実施に必要な統治力が微弱であったため、大いに伝播すべきはずでありながら、しかもその伝播ははなはだ遅々たるものであった。あたかも道路の予定線の網のみが系統的に整備しておって、しかしてその線をたどる通行人の極めて寥々りょうりょうたるがごときものである。しかして何故に統治力が微弱であったかというに、その原因は主として非尚武的な支那文明を過度に採用したからである。支那人が人種として尚武的であるか、あるいは非尚武的であるかは、しばしば論議せらるることであるが、これは今予の論ぜんと欲する点ではない。のみならず仮りに支那人をもって、本来の非尚武的人民ではないとしたところで、およそ民族の尚武的分子というものは、その文明の爛熟とともに次第に比較的減少をなすものであるからして、支那文明の絶盛期である唐代に、尚武的色彩があまり濃厚でないのは、これはなはだしく怪しむに足らぬ。しかしながら文明の燦然たる盛唐ですらも、予は尚武的分子の減退の程度はなはだしきに過ぎたと思う。ましてそれよりも未開の程度にある当時の日本が彼の系統的なのを喜んで、その本質をそのままに輸入し、日本が支那よりもさらに深く尚武的要素の必要を感ずるものだということに思い至らなかったのは、これすなわち政治の統治力の足らなかった有力なる原因であると考える。血液そのものの成分には欠点が少なくとも、日本の血管に文明の血の循環が十分でなかったのはその故主としてここに存せなければならぬ。
 鎌倉時代の文明は藤原時代の継続で、多少デカダンに陥りていこそすれ、古典的なる品質において向上しているとはいい難い、しかれども武力を基とした、新政治は、その系統的制度としての価値こそ前時代に劣る観があるとはいえ、溌溂たる活力をそなえたもので、したがって、その文明の伝播力に与えた衝動は、前代におけるがごとく微弱な者ではなかった。もし鎌倉幕府が今少し長く持続し得たならば、日本の文明はおそらくもっと早く進歩したであろう。しかしながらたといさほど長く持ちこたえなかったにもせよ、この新政治が与えた衝動の決していたずらに終らなかったことは争われない。しかして足利時代はその後を承けたものである。将軍が、公卿化して京都におっても、政治は武家政治に相違なく、その与うる衝動力は藤原時代よりもむしろ旺盛であった。そればかりでなく、武家政治の本拠が文明の源泉である京都にあったということが、鎌倉時代すなわち幕府の京都になかった時代よりも、むしろ京都文明の伝播に好都合であった。ここにおいて足利時代の京都文明は古典的見地からしていえば鎌倉時代のそれよりもさらにデカダンの趣を加えているのにかかわらず、日本全体の文明はその尚武的分子の加わったために、藤原時代そのままの復活にはならぬと同時にかえって新しき光彩を発揮したのである。都鄙の交渉の頻繁なるがごときは、まさにもってこの伝播の盛んなのを徴すべき有力なる証拠といえるだろう。
 かくいわばあるいは異論が起こるかも知れぬ。鎌倉時代はその論でよろしいとしても足利時代は乱世であるではないか。その文明にはあるいは藤原時代になかった伝播力が具わっているにもせよ、群雄は各地に割拠かっきょし盗賊は所在に横行し、旅行の安全を害しつつあったではないか。しかして交通安全でなければ、いかなる文明も遠隔の地に波及すること至難ではあるまいか。伝播力があっても、壅塞ようそくの方が強くして、伝播の事実が現われ難いだろう云々。この説は一応もっともではあるが、実は考察の未だ至らぬ点がある。なぜかというに藤原時代に文明の波及が遅々としておったのは、一はその伝播力の強からざるにもよるが、また一には伝播に対する自然の障碍しょうがいの未だ除かれざるものが数多あったに坐する。しかしてこれらの自然的障礙は、鎌倉時代から足利時代にかけて次第に打ち勝たれ取り除けられた。これは交通をやすからしめ、したがって文明の伝播に資したこと少なくない。文明の伝播に最も必要なる書籍の足利時代に入ってから頻繁に刊行されたということも伝播を促す原因を成すと同時に、伝播の可能である形勢を前提として始めて起こり来るべきことである。小人数の仲間にのみ行なわれ、一局地以外に伝播する見込みのない時代にたとい木版とはいいながらも、とにかく書籍の刊行がしばしば行なわれるはずがなかろう。まだ以上のほかに足利時代の交通を論ずるにあって忘れてはならぬことは、当時の交通は陸よりも海を主としたということである。徳川時代からして以来陸上の交通が安全になり便利になったその状態に馴致じゅんちし、その旅行に際しては、主として鉄道によりて海路を避け、やむを得ず乗船するとしても、いわゆる聯絡航路なるものを採って、なるべく乗船時間を短縮せんとする現在の日本人は、徳川時代以前の交通に関してややもすれば誤れる考えに陥りやすく、当時の田舎人が京都に往来するには専ら陸路により、あたかも徳川時代の関西と江戸との間の往来が五十三次を伝わったごとくに、つねに長亭短亭を一々に経過しつつ旅行したものの様に考えむとする。換言すれば五畿七道という建制順序に過重の意義を付し、京都からして東海、東山、北陸、山陰、山陽の五道に進発するのには、国尽くしに挙げてあるような順序で国々を通り貫いたものと合点したがる。かように考えれば、なるほど東山時代に交通の障碍が到る処に横わり、いかに強い力のある文明でも伝播ができず、日本の大部分が暗黒に想像されるのも無理はない。しかしながらかく想像したのでは、大内家と京都との関係のごときはまったく説明のできぬことになる。船舶というものの広く用いられなかったその昔のことならばいざ知らず、いやしくも航海の相応に行なわれるようになった以後の時代においては、日本のような環海の国にあって、交通が専ら陸路にのみ便たよるというわけのあろうはずがない、海に風浪の難があるというかも知れぬけれど、陸上にも天然の困難がないでもない。兵庫なるもののかつて用いられたことのない日本において、坦々たる大道の存在を足利時代以前に想像することは不可能であるからして、狭隘と峻険とは共にしばしば旅客の忍ばねばならぬ苦痛であったろう。また陸には覆没の憂いがないにしても、旅舎の設備の不完全は、海上の旅行者のめずにすむところの欠乏であった。海には海賊の禍があるとするも、陸上とても群盗所在に出没した。この点においては海陸ほとんど択ぶところがない。されば乱世のために陸路が往々梗塞こうそくを免れなかったとしたところで、海というもののある以上、足利時代の交通がはなはだしく阻礙そがいされたと考えるのは、少しく早計ではあるまいか。いわんや陸上の危険においてすら、足利時代必ずしも藤原時代よりもはなはだしかったとは、にわかに断言し難いことを考えると、われわれは強いて足利時代における文明の伝播を否定するにも当らぬことになる。
 論者は往々にして足利時代殊に応仁以後の群雄割拠の状態から概論して、これを乱世だという。また群盗の横行に徴してこれを秩序紊乱びんらんの時代だとする。足利時代はその太平恬熈てんきの点において、むろん徳川時代に匹儔ひっちゅうし得べきものではないが、しかしはたして藤原時代よりも秩序がはなはだしく紊乱しておったであろうか。足利時代の記録によって、京洛の物騒なことを数え立てる人もあるかは知れぬが、京都はその実平安朝時代から物騒な所であったのではないか。かつずっと古い時代の記録に地方群盗の記事の少ないのは、必ずしもその事実上稀少であったという証拠とはならぬ。その時代の記録者が、あるいはこれをありがちのこととして特に書きしるすことをしなかったかも知れない。また時代が次第に降るにしたがって、群盗の記事の記録に多く見ゆるようになるのは、これを今まで少なかったものの増加したがためと解するよりも、かえりて社会の秩序が立ちかけて、擾乱者が目立ってきた、ないしは秩序を欲する念が、一般に盛んになってきたためと説明することもできよう。換言すればかかる記事の増加をもって、文明の進歩の表徴だと考え得ぬこともあるまい。なおその上に足利時代の方がかえりてそれ以前の時代よりも、群盗横行の害少なかったろうと思われる他の理由もある。群雄の割拠がすなわちそれである。
 群雄割拠の中央集権を妨げたのは、もとより極めて明白なことで、何人といえどもこれを否むものはあるまい。しかしながら藤原時代以前、すなわち群雄割拠のなかったと見なされる時代に、はたして、どれだけの中央集権の実があったろうか。中央政府の勢力が広く波及したようでも、その把握力が極めて脆弱ぜいじゃくなものでなかったろうか、中枢がただ一つであったということは、必ずしもその中枢の集中力の強大を意味するものではない。のみならず悲観論者は、群雄割拠になると、その群雄の各々の領内には数多の群盗が横行して、その秩序はいやが上に乱脈になると想像するらしいが、これが果して肯綮こうけいにあたった想像であろうか。もしこの想像が正鵠せいこうを得るものとすれば、ローマ帝国時代よりも、近世国家の樹立以後における欧洲の秩序が、一層紊乱しておらなければならぬ。はたしてそうであろうか。余の意見はこれと反対だ。群雄は国を盗む梟師たけるである。鈎を盗む小賊が到る処に出没するよりも、彼らの若干を制馭する有力者すなわち群雄が現われて、割拠の形勢を成すということは、まさにより大なる統一を致さんとする前において、先ず小なる数個の統一をなすものであって、換言すれば集中作用の大いに発動しかける端緒である。余は群雄の崛起くっきをもってむしろ小盗の屏息を促すものだと考える。かく考えきたれば応仁以後の群雄割拠時代が、必ずしも藤原時代より無秩序で交通の危険が多かったと断言することがむつかしくなるではないか。
 藤原時代と比較することをば、先ずこのくらいにしておこうが、次には足利時代に時代相当の交通の不便と危険とを認めた上に、さてそれらの不便や危険等が相当の人々からいかに感受されたか、換言すればこれらの故障がいかなる程度まで交通を阻碍したかを論じてみよう。それについて第一に弁じなければならぬのは当時のいわゆる乱世なる状態が、いくばくの不安の念を起こさしめたかについてである。たんに不安といえば、大疾患もその一であるけれど、蚤の食うのもまた不安である。安逸と奉養とに事欠かぬ今日の人は、些細なる市井の出来事にも驚いて、はなはだしく不安を感じやすいのであるけれどもこの感じ方は、現今においてすら国によりて差等あるごとくに、同一国においては時代による差等があるに相違ない。予といえども、足利時代をもって人々が大いに楽観した時代だとは考えておらぬけれど、さりとて余は徳川時代の歴史家、およびその説を踏襲する今日の一部歴史家の考うるごとくに、足利時代殊に応仁以後において、都鄙の人心が戦乱のために朝夕旦暮たんぼ恟々きょうきょうとして何事も手につかず、すべて絶望の状態にあったとは信じ得ない。道路の不便と交通の危険とのために、ほとんど旅行を断念したものだとは想像し得ない。海外との交通が、いわゆる乱世になってからして、かえって盛んになったのみならず、日本人の手が蝦夷島に伸びて、そこに恒久的根拠を有するに至ったのも、実にこの時代からの事である。五畿七道とてもまた同じことだ。数多の中枢が海運によって聯絡されてあったばかりでなく、陸上にも諸種の用向を帯びた旅客が絶えず徘徊しつつあった。しかしてその往来に必ずしも護衛を付するという次第でもなかった。かの宗祇およびその流れを汲む連歌師らは、鎮西から奥州まで、六十六国を股にかけ、絶えず旅行のしどおしであった。しかるに彼らの日記には、旅行危険に遭遇した記事が多くない。想像するほどに交通が杜絶しなかったことは、それによっても明瞭である。のみならず、不安の状態にも種々あって、全国に善く行き渡ることもあれば、あるいはまた一地方に局限されることもある。もし足利時代の不安が日本のある一部に限られておったものならば、その部分と他地方との連絡の、あるいはしばらく遮断せらるることがあるだろう。しかしながらこれに反して京都を始めとして六十六国ほとんど同じような不安の状態にある足利時代のごときにおいては、どこがまったく安心だというべき場所がないのであるから、不安の点において全国均一に近い。この均一の状態に近づいたという点は、すなわち文明の波及の行き届く下地になるので、この点において足利時代は、鎌倉時代および藤原時代にまさっており、この均一が基礎をなしたればこそ、徳川時代の大統一ができたのだ。
 論文の前半を終るに臨みて最後に付け加えておきたいことは、旅行と不安の念との一般の関係である。商売その他利益を得ることを目的とする旅行においては、その利益のために相当な危険を冒すことは、多数の辞せざるところだ。したがって大なる利益を獲得する望みがある場合には、大なる危険をも意とせぬことしばしばである。しからば獲利を主眼としない、たとえば快楽のための旅行はどうであるかというに、これとても不安の状態のために全然妨止せらるるものとはいい難い。否、多少の不安の念は、旅行者に与うるに、旅行に必要な設備の具まったからざるものとは異るところの一種の快感をもってするものである。言語不通の外国に旅行しても、なお一種の興味を感ずるのはすなわちそれだ。というとあるいはその場合における興味は不安の念からして来るのではなくして、新奇なる事物に接触することから来るところの快感だというかも知れぬが、新奇なものが何故に快感をひき起こすかというに、それもやはり不安の念を発せしむるからではあるまいか。不安の念はすなわち驚喜の感の前提である。何ごとも予期どおりになることのみが必ずしも旅行の興味ではない。一つ卑近な例をとってこれを説明しよう。わが国で数年前に茶代廃止運動というものがあった。この運動の目的は、旅行者のために無益の費用を節減すると同時に、置くべき茶代の額を見計らいする心配を除こうというにあったのだが、この心配を除くのがすなわち不安排除だ。ちょっと考えると誠に結構な運動のようであるが、この運動は一時多少景気づいたけれども、間もなくたれてしまって、今日このごろでは茶代廃止旅館などという看板を出しておく宿屋はほとんどなくなった。しからば何故にこの美挙が失敗に終ったかというに旅客が浪費を好むからだというわけではない。他にもいろいろ原因があろうけれど、主として不安の念を勦絶そうぜつしようといういらぬ世話が旅客に好まれぬからだ。この茶代の見計らいのごときは、不安の中でも最も危険の少ないものであるから、どうでもよいようなことであるが、そもそも不安の念というものは、元来旅行にとりて嫌うべきものでないのみならず、かえってある程度まで歓迎すべきもので、中には主としてこの不安を欲するがために旅行を企つることもあるくらいだ。いわゆる冒険旅行のごときすなわちそれである。また冒険というまでには達せずとも、秩序の定まっておらぬ国を旅行して興味を感ずるのは、すなわち同一の理に基くものである。今日の支那は戦乱のない時ですらも、決して秩序の定まった国とはいえない。しかるに支那の旅行において、日本の旅行で得られない興味を感ずるのは、決して旅行者に対する設備が具わっているからでなくして、つまりその秩序が十分に立っておらぬからで、旅客をして多少不安の念を起さしめるからだ。日本の足利時代は今の支那だ。現在の日本を旅行しても感じ難い興味をば、足利時代の旅行において感ずることができたに相違ない。これを要するに足利時代のいわゆる乱世であるということが必ずしも交通の阻碍とのみ見るべきものではなくして、かえりてこれに刺戟を与えて発見を促した点もあることは、足利時代の事物を観察するに際しての忘るべからざる鎖鑰さやくであろう。
 約言すれば足利時代は京都が日本の唯一の中心となった点において、藤原時代の文化が多少デカダンに陥ったとはいいながらともかく新たな勢をもって復活した点において、しかしてその文化の伝播力の旺盛にして、前代よりもさらにあまねく都鄙を風靡した点において、日本の歴史上の重大な意義を有する時代であるからして、これを西欧の十四、五世紀におけるルネッサンスに比することもできる。もしはたして然りとすれば、イタリアを除外してルネッサンスを論ずることのできぬと同様に東山時代の京都の文化の説明ができれば、それでもって同時代における日本の文化の大半を説明しおわるものとなすべきである。しかして当時の京都の文化が、その本質において縉紳の文化であるとすれば、京都に在って、文壇の泰斗と仰がれておった一縉紳の生活を叙述することは、日本文化史の一節として決して無用のことであるまい。しからばその叙述の対照たるべき縉紳として次に選択された者は何人なんぴとか。三条西実隆さんじょうにしさねたかまさにその人である。
 三条西実隆の生活を叙するに当って、第一に必要なのはその系図調べである。三条西家が正親町おおぎまち三条の庶流で、その正親町三条がまた三条宗家に発して庶流になるのであるから、実隆の生家は非常に貴いというほどでなく、父なる公保は正親町三条から入って西家を嗣いだためか内大臣まで歴進したけれど、養祖父実清の官歴はさまでに貴くなかった。養曾祖父とても同様である。しかして槐位まで達し得たかの公保すらも、その在職極めて短くして辞退に及んだ。これは家格不相応の昇進をなした場合によくあることである。つまり今日いわゆる名誉進級という格だ。また実隆の親類を見渡すにあまりに高貴な家は少ない。母は甘露寺家の出で房長の娘親長の姉である。妻は勧修寺教秀の女で、実隆の子公条の妻もまた甘露寺家から嫁入りをしている。要するにその一族の多くは、今の堂上華族中の伯爵級なのである。それらからして考えれば、実隆の生家というものは、公卿の中で中の上か上の下に位すべき家筋であるのであって、この家柄のよいほどであるという点は、すなわち実隆をもって当時の公家の代表者として、その生活を叙すると、それによって上流の公家の様子をも窺い、あわせて下級の堂上の状態をも知らしめることができる所以なのである。もし当時において誰か一人の公家を捉えてこれを叙するとすれば、実隆のごときはけだし最もよき標本であろう。のみならずかかる叙述をなすにあたっては、なるべく関係史料の豊富な人を択ぶ必要があるのに、幸いに実隆にはそのしたためた日記があって今日までも大部分は保存されてあり、足利時代の公家の日記としては、最も長き歳月にわたり、かつその中にある記事の種類においても最も豊富なものの随一であるという便がある。当人の日記がすでにかようの次第である上に、なおこれを補うべき史料としては、実隆の実母の弟甘露寺親長の日記もあり、また実隆の烏帽子子えぼしごであった山科言継やましなことつぐの日記もある。相当に交際のあった坊城和長の日記もある。また公家日記以外にも、その文学上の関係からして、実隆についての記事は、連歌師の歌集やら日記等に散見していること少なくない。かかる事情は研究者に多く便宜を与うるものであり、したがって予をして主題として実隆を選択せしめたおもなる理由の一つになるのだ。しからばそれら史料の利用によらば、実隆その人が目前に見えるように理解され得るのかというに、なかなかそうはゆかぬ、はがゆい事はなはだしい。しかし十分ならぬ史料からして生きた人間を元のままに再現することは、化学的成分の精密に知れている有機物を、人工で以て作り上げるよりも、さらにむずかしいこと勿論の話であるからして、その辺は読者の諒察を仰ぐ。
 三条西実隆は康正元年に生れ、天文六年八十三歳をもって薨じ、その日記も文明六年すなわちその二十歳の時からして、天文四年すなわちその八十一歳の時に至るまで、六十一年間のことを書きとめてある。一身でかく久しい間浮世の転変を味わったのであるが、およそ六十年といえば、その前と後とでは、世態も人情も少しならず変遷すべきであるからして、その移りゆきつつあった世の中に処した実隆の生活も、また随分と変わったに相違ない。けれどもその変遷の刹那刹那を活動写真のように描き出すことは不可能であるからして、便宜のために実隆の生活を三方面に分って記述することにしよう。第一はその家庭における私生活、第二は廷臣としての公生活、第三は文学者としての生活である。しかしてこれらを叙する前に、応仁一乱以後の京都の有様について先ず一言することにしよう。
 最初からしてあまり太平とは評し難かった足利の天下は、応仁の一乱を終って乱離いよいよはなはだしくなった。そこで当時の人々ですら、この兵乱をもって歴史上の大なる段落とし、一乱以前あるいは一乱以後という語をしばしば用いている。そもそも応仁の乱というものは、輦轂れんこくの下、将軍の御膝元での兵乱としては、いかに足利時代にしても、まことに稀有の大乱で、これを眼前に置きながら制馭せいぎょし得なかった将軍の無能は、ここに遺憾なく曝露され、それまでにすでに横暴をやりかけておった地方の守護およびその他の豪族は、ますますその我儘に募り出したとはいうものの、応仁の乱は、足利時代史において珍しい性質の兵乱とはいえない。応永・嘉吉にあった騒動をただ一層大袈裟にやったまでのことに過ぎぬ。したがって応仁の乱は乱離の傾向に加速度を与えたには相違ないけれど、太平な世の中がにわかにこれがためにどうこうなったのでは決してない。本をただせば応仁以前の状態が、すでに永続し難い無理な状態なのだ。武家政治創始以来さなきだに不都合な荘園制度が、ますます不都合なものとなり、最初段別五升を収めるかわりに、荘園内の警察事務を行なっておった地頭なるものは、後には地頭職という名の下に、その収入のみをも意味することとなり、その職務の方は地頭代がこれを行なうこと一般の例となった。あるいは全くこれを行なう者がなくなった場合もあろう。地頭の名義人が女でも小児でも、さては僧侶でも差支えないということになったのであるから見れば、あまり確実に職務が行なわれたらしくもないのである。建武中興から始まったいわゆる南北朝の争いは、ちょうどこの荘園の有様が移りゆきつつあった、その過渡の最中に起った出来事であって、絶えざるその兵乱のために、無意味な地頭の増加は、あるいは一時食い止められたのであろうけれども、南北合体とともにまた最初の傾向どおりに大勢は動き出したのである。さてこうなると、最初からして責任なくして権利のみあった本所や領家はもちろんのこと、地頭ですらも全く無責任のものとなり、荘園内に善意の有力者がある場合をば別として、さもなければ全く無秩序の状態に陥ることとなったのだ。かような有様が永続されては、本所や領家や地頭名義人にはよいかも知れぬけれど、日本のためにはこの上ない災難である。本所や領家は、最初鎌倉からして地頭を置かれた時には大いに憤慨し、何とかして侵害された権利を恢復しようと焦慮したのであるけれども、承久・建武の経験をした後は、もはやあきらめをつけ、この上は武家と争うことを止めるのみならず、反対に武家の勢力を利用して、もってまだ手許に残って失われずにある権利だけを繋ぎ留めようとした。まことに思い切りのよい賢い分別である。しかしながらそれでもなお無責任者の手に莫大なる権利を残しているのであるからして、日本の健全なる発達のためには、荘園制度をばどうにかして顛覆する必要があり、実際に大勢はその打破に向って進みつつあったのだ。かの守護あるいはその下にある有力な被官人らが荘園を横領し、年貢を本所領家に運ばなくなったのは、すなわち成るべきように成りいたもので、それらの横領者の御蔭でもって、将来の日本の秩序が促進されるということになったのだ。されば足利時代の末が群雄割拠の形勢になったということは、日本のためにひたすら悲しむべきこととのみはいい難く、しかしてこの大勢を促進したのは、すなわち応仁の乱であってみると、この兵乱は日本の文明史上案外難有味のあるものになる。ところが一条禅閤兼良は曠世の学者であったとはいいながら、政治家としては極めて簡単な保守主義で、准后親房のような達識ではなかった。この大勢を看破せず狂瀾を既倒に回さんとのみ考えた。して見ると日野家の出なる義政夫人を母とし、この兼良の教育を受けたという将軍義尚が、健気けなげな若殿であったけれど、やはりこの大勢には気がつかなかったのにも不思議はない。近江の守護佐々木六角高頼が、本所領家に納むべき年貢を横領するのはけしからぬというので、義尚は公家や社寺の利益保護のため、文明十九年に近江征伐を思い立った。その戦争はずいぶんナマぬるいものであって、あたかも欧洲中世の八百長戦のようであったけれど、師の名義に至りては堂々たるもので、つまり理想のための戦争であった。ただし大勢に逆らった目的を達しようとする戦争であるから、その成功を見なかったのも怪しむに足らぬけれど、二十歳を越えたのみの将軍が、公卿と武人とを取りまぜた軍勢を引率して、綺羅きらびやかに出陣した有様を日記で読むと、昔ホーヘンスタウフェン末路の皇族らが、イタリア恢復のために孤軍をもって見込なき戦闘をやったのと相対比して、無限の興味をひき起こさしめる。他日機会を得たならば、余はこの近江征伐を論じてみたいと思う。
 義尚将軍のまがりの里の陣は、応仁の一乱によって促進された大勢に、さらに動かすべからざる決定を与えたものだ。荘園制度の持ち切れないものなること、頽勢の挽回し難きものなることは、この征伐の不成功によっていよいよ明白になった。秀吉の時にて荘園が全然日本に地を掃うようになったが、その実この掃除は足利時代の後半において引き続き行なわれたので、その荘園取り払いの歴史中で、近江征伐のごときはまさに一つの大段落を劃するものだ。約言すれば応仁の乱があり、それからして近江征伐が文明年間の末に失敗におわると、その後はいよいよいわゆる天下の大乱となり、京都はその主なる舞台として物騒を加えるのである。京都市中の警察には細川、赤松らの大名その任に当っているわけであるけれど、直接その衝に立つものは、安富とか浦上などの被官人で、所司代の名をもって職権を行使しておった。しかし決して熱心な警察官とはいい難く、騒擾はなはだしきに及びてようやく手を下すのであるから、それらの力によって京都の粛清が十分にいたされ得たのではない。しばしば蜂起する土一揆は、あるいは東寺、あるいは北野または祇園を巣窟として、夜間はもちろん白昼も跳梁し、鐘をならし喊声を揚げ、富豪を劫掠する。最も多く厄に遭うものは土倉すなわち質屋ならびに酒屋であった。襲撃のおそれある家では、危険を避け、一揆が徘徊すると酒肴を出して御機嫌をとる向きもあったが、町内または知人らから竹木を集めて町の入り口に防禦の柵矢来を構うるやからもあった。いわゆる土倉の中には命よりも金銭を惜む輩もあって、刃を執って一揆等と渡り合い、夫婦共に非命の最期を遂げたという話もある。一揆は夜分こそこそ掠奪するのではなく、堂々と篝火を焚きて威嚇するのであったが、掠奪も多くは放火に終った。洛内の火災その半ばは彼ら一揆の仕業である。要するに一揆も群盗には違いがないが、一揆というほどに多勢でない群盗の横行もまた頻繁であった。したがって人殺しも珍しくない。下々の輩の気が荒くなって、何とも思わず乱暴を働く者の多かったこと勿論であるが、優にやさしかるべきはずの公卿も、殺伐の風に染みて、人を害することもあった。のみならずかく物騒なのは洛外も洛中と同じことで、大津や山崎との往来も折々は梗塞された。
 かく述べ来ると当時の京都の住民は、あしたをもってゆうべを計り難く、恟々きょうきょうとして何事も手につかなかったように想像されるが、実際はさほどにあわてて落ちつかぬ暮らしをしていたのではない。ノン気であったとはいえぬけれど案外に平気なもので、時に際して相応に享楽をやっている。遊散にも出かければ、猿楽も見物した。加茂や祇園の例祭には桟敷もかかり、人出も多かった。兵乱や一揆のために焦土と化した町もあると同時に、その焼け跡に普請ふしんをして新宅を構うる者も続々あった。土御門内裏のごときも、焼亡の後久しからずして再建になった。将軍の柳営とても同断である。これが決して驚くに足らぬわけは、内裏の御料所や公卿将軍およびその他に納まるべき年貢は、一乱以後大いに減少したとはいうものの、全く納まらなくなったのではないからである。あるいは規則どおりに、あるいは不規則に、とにかくに年貢が続いて運ばれ、越後、関東、西国等から金米その他方物が京都に輸入され、また諸種の用件を帯びて遠国からわざわざ入洛する者絶えず、故に京都には一定の地方を限りてその入洛者に特に便宜を与える店舗も出来た。これらの旅人からのコボレや輸入などで京都の町はその繁昌を維持し、殊に三条、四条辺にはかなり大きな店が並んでおったらしい。乱世であるのにこの状態は、一見すると矛盾のはなはだしいものと考えられべきはずであるが、実はそうではなくして、かえりて道理にかなった話なのである。というのは、いかに兵乱が危険でも、常習性の者になると恐れてばかりはおられないからであって、次第に危険を軽蔑するようになり、遂にはいよいよ焦眉の急に切迫した場合は別として、さもない時には成るべく取越し苦労などをしないこととなるのである。この呼吸が呑み込めずしてはとうてい足利時代を会得することができない。
 大体上述のごとき京都市民の生活の中で、特に公卿はいかなる特別の生活をなしておったか、これがすなわち次に起こってくる問題である。ちょっと考えると王権式微の武家時代であるによって、公卿の窮乏もさぞかしはなはだしかったろうと想われるのは当然のことであって、実際生活難に苦しんだ公家もまた少なくない。皇室の供御くごも十分とはまいらなかった時代であるからして、公卿の困ったのはむしろ怪しむに足らぬことであろう。坊城和長がその日記中女子の生れた事を記したついでに、「女の多子なるは婦道に叶うといえども、貧計なきにおいてはもっとも、こいねがわざるか」とこぼしている。その他の公卿日記にも、秘計をやることがしばしば見えているが、秘計とは金策をするという義なのだ。先ず食物から述べると、他の階級の輩はどうであったかわからぬが、少なくともそのころの公家は二食であったらしく、すなわち朝食と夕食とのみで、昼食というものはしたためなかったと見える。昼食に相当するものの喫せらるるのは、旅中の昼駄餉だしょうくらいであったろう。しかしてその朝食の喫せらるるのは、たいてい朝の八時から九時にかけてのことで、今日における日本人の朝食に比すると、案外落ちつきてゆっくりと認めたものらしい。時としては朝食からして引き続き酒宴に移ることもある。先ずフランス人のデジネのようなものであったろうか。かかる朝食であるからして、客を招きてこれを振舞うということもおのずからあるので、中以下の公家の間におけるその招待のさまがすこぶるおもしろい。心安い客を朝飯によぶ時には、主人の方では汁のみを支度することが往々であって、その汁とても無論一種のことが多く、あるいは松蕈まつたけ汁とか、あるいは鯨汁とか、あるいは菜汁とか、つまり汁の実にすべき季節の物かもしくは遠来の珍味を得た時は、それだけでもって客をするのである。しからば肝心の飯はどうしたかというに、それは招かれた者どもの方で持ち寄るのである。招待した方からは飯を供せぬ。朝飯をもろくに食することのできぬ同族を招く時はこの限りにあらずである。かくのごとき飯の持ちよりというシミッタレた招待は、無論極く懇意の間に限られたのであろうけれど、それにしても飯米というものがいかに彼らの間にすこぶる貴重に考えられておったかが想像される。また二人以上の男子を持った親は、そのうちの一人を出家にすることは珍しくなかったのだが、これも一つには糊口ここうの都合からしてのことらしい。しからば女子をばいかにさばいたかというに、宮中や将軍家の奥向きに奉公するか、または同輩の家へ嫁にやることができれば、さらに不思議のないことであるが、都合によりては将軍の家臣たる武人に嫁せしめることもある。武人も人によりけりで、幕府の直参じきさんかもしくは大国の守護へでもくれてやることならば、これまた怪しむに足らぬことで、すでに鎌倉時代にもその例多くあることであるが、東山時代になると必ずしも直参と限らず、陪臣すなわちそれら直参の被官人にくれてやることをすらもいとわなかった。中には体面を保つためかは知れぬが一旦幕府直参の武士の養女分にして、それからさらに一段低い武人に嫁入らした例もある。
 田舎の武人で相当な勢力を養い、場合によっては公家の娘でも嫁にもらおうかという権幕の者は、その日常生活においても公家の真似がしたくなるのは自然であって、それがまた公卿の財源になり、公卿の中には、手もと不如意になると遍歴を始めて、地方豪族を頼り寄付金を集めた者も少なくない。しかしてこの目的に最も好都合なのは、すなわち蹴鞠けまりの伝授であった。彼らが地方へ行くと蹴鞠のほかにも、連歌などをやったものだが、連歌は文学としてすこぶる愚なものであるにもかかわらず、その道に上達するのには相当の素養が必要で公卿なら誰でも連歌の師匠になれるというわけには行かぬ。故に地方の余裕ある豪族らの連歌を稽古するには、必ずしも公卿を要せずして、宗祇とかまたはその門下の連歌師に就いて教を受くる方が多かった。ただ蹴鞠に至ってはそうは行かぬ。これはほとんど公家の専売の芸であって、これを習うには地下の者を師としたのでは通らぬ、ぜひとも公家に弟子入りするほかはない。そこで蹴鞠に長じた公卿は、京都でももちろん弟子をとるが、また地方へはるばると出稽古をする。しかしてこの出稽古がなかなか実入りのよかったものだ。起原はともかく、連歌は先ず大体足利時代の特産物ともいうべきものであるが、しかしながら決して公卿の専有物ではなく、したがって武人中公家風を真似ようと思わぬ者すらも、連歌をばやったので、連歌をやる者必ず公家化したとはいえない。しかるに蹴鞠はこれと別で、公卿の真似をしようという者は、必ずこの蹴鞠から始める。これあるいは当時蹴鞠が京都で非常に流行しつつあったがためでもあろうか。その辺しかとはわからぬが、とにかく蹴鞠は公家の真似の序の口で、大名もやれば堺辺の富有な商人もやった。しかしてこれをやるものは必ず大いに余裕のある者であったから、したがって公家が地方へ出稽古をするとなかなか実入りのよかったものである。
 遠国へ出稽古というと旅行の必要が生ずるのであるが、それについては秩序の乱れた当時に物※ぶっそう[#「總のつくり」、「怱」の正字、356-上-15]な恐れがあろうと心配する人があるかも知れぬけれど、それにはまたそれ相当の方法を講じたものである。すなわち幕府に有力な武人の助けを借りるのだ。彼ら公卿は表面武人に雌服し、殊に将軍に対しては摂関家以上の敬意を払うことを否まなかった。さすがに太政大臣という官をば容易に将軍に許さなかったけれど、事実上の極位すなわち従一位をば、あまり惜しまずに与えた。義尚将軍はわずかに十九歳にしてこの極位に叙せられたが、これは摂関家ですらほとんどない例である。しかし内心公家は武家を軽蔑しておったので、武家に授ける官位をばあまり苦情をいわずに許したのは、武家なるが故に標準を別にしてもよいとの理由に基づくものであって、たとえていわばちょうど一しきり日本の留学生に対して、西洋の堂々たる諸大学が比較的容易に学位を授与した例があるのと似たもので、彼らの仲間内ではいつになっても官位をばいやしくもしなかったのである。つまり公家らはかくして武家の名聞みょうもん心を満足させてこれを喜ばすと同時に己らの品位をば保ち得るものと思ったのである。したがって武人の任官叙位の標準が鎌倉時代よりも高まったとて、公家がよく多く武家を尊敬したという証拠にはならず、公家の内心にはほとんど先天的とも評すべき軽侮心を武人に対して懐きつつあったのである。義政が文明五年の二月に参内して宮中の御酒宴に加わらんとした時に、「酒宴の事は内々之儀、男女混乱の間、外人は如何、」という理由で一旦は拒まれんとしたがせっかくに願い出でたるに対しこれを拒むことになると、武家の面目を傷つけ、感情を害する恐れがあるとの説が通って、ついに参内を許さるることになったのであった。しかしそれでもなお不平な公卿があって、禁色をゆるされた者が雑役に服する例のないことを言い張り、将軍参内当日には祗候せぬ、とダダをこねた話もある。将軍に対しての待遇すでにかくのごとくであるからして、公卿と武人との交際においてもまたこれに類することが往々にしてあった。たとえば連歌の会のごとき、風流の席であって、必ずしも階級をやかましく言わず、公卿も武人も地下も、共に膝を交えて韻事を楽しんでいるように見えるけれど、その実はなかなかそんなに平民主義の徹底したものではなく、階級の障壁をばあくまでも取り除くまいとつとめた。ある年の始めにさる公卿の家で連歌の発会のあった時、杉原某という武人が講師を勤めたことがあるが、それに出席した一公卿は、雲客坐に在るにもかかわらず、その中から講師を選ばず、また主人の公卿がその任に当ることもなさずして、この名誉の職を武辺者ぶへんものに勤めさすということは、はなはだ不審なことだと、その日記に認めている。畢竟ひっきょう貴族が己れの都合によっては、下級の者と伍することをいとわぬのは、一見平民主義から来ている現象のごとくではあるが、もし下級の者がそれらの貴族を対等視することになるとたちまちにして彼らの階級的の誇を傷つけ、不平の念を起こさしめるということは、要するに真に平民主義な貴族のはなはだ少ないことを証するものであるが、足利時代の公家の心理はまさにそれであった。武家を軽蔑するけれど、抵抗の無益なことはよくわかっているから、無謀な企てをばなさぬ。そのかわりにできるだけ武家を利用してやろう、これが公家らの立場であったのである。故に前にも述べたとおり己らの荘園からして全然地頭をしりぞけようとはもはや試みぬかわり、それらの武人らに頼んで、取れるだけの年貢をとるようにする。百姓らが納め渋ぶる場合に武家の命をもって催促させる。御奉書を出させる。それだけでは武人の方に利益がなく、真面目に依頼の件を実行してくれそうにもない場合には、もし催促の利目ききめがあって首尾よく年貢が納まるならば、その半分を周旋した武人にやろうと利をもって誘う者もある。
 これに類するような公私種々の関係が、公卿と武人、殊に幕府の権臣との間に生じ、公卿はさまざまの事件を持ち込んで武人に依頼する、旅行する場合とても同断である。先ず幕府の有力者からして、前もって近国の大小名らに、何某近々旅行の件を触れてもらえば、それで途中の旅宿に心配はない。野心ある武人のお宿はどこでも喜んで引き受けるというわけに行かぬが、公卿なればどこでも歓迎する。危険はないのみならず、連歌をやったり蹴鞠をやったりして、田舎生活の単調を破ることができるからである。ちょうど今の人が漫遊の書画家を歓迎するようなもので、なおその上に高貴の人を宿し、親しくこれに接し、もって一つには家門の誉れ、一つにはこれによって己らの麁野そやなる生活状態に研きをかけたいという希望も添うのである。したがって彼らは遍歴の公卿のために宿を貸し、路銭を給し、乗物を供給することをいとわない。たいして歓迎せず自己の館に泊めぬにしても、然るべき旅宿、多くは寺院に案内して、相応の待遇をなしたものだ。故に公卿らは、その遍歴に際してほとんど何らの危険なきのみか路用がほとんど入らずして、かえりて少なからぬ貰いがある。はなはだしきに至っては、出発の最初から無銭旅行で、然るべき幕府の武人に無心し得たものを持って、踏み出す連中もある。ほとんど名義のみとはいえ、とにかく朝廷に官職を帯びた者どもが、勝手に旅行をして公務に全く差支えがなかったかというに、それはもちろんのこと差支えがあったのだ。中に姉小路や一条家のごときその分国に永らくの滞在をしてほとんど京都に定住せず、また三条家のごときは、永らく今川氏に寄食した。こういう例は多くある。それがために宮中に祗候の人数が減る。したがって公事に事欠ける。けれどもそのころの公事というのはほとんど儀式のみであって、実際の政務というべきものでないから、差支えといったところで格別我慢のできぬほどの差支えではなく、したがってその差支えの顧慮からして遍歴を思い止まるというほどのものではなかった。また久しく京外に在ったなら、彼らの官位の昇進に影響があるかというに、この方にもたいした影響はなく、京都におらぬ者の叙任昇進には、わざわざ使者をもって遍歴先きまで辞令書を送り届けてやったから、田舎におっても昇れるだけは昇進ができた。
 しかしながらすべての公卿が皆この遍歴の方法によって暮らしたのかというに、もちろんそうはいかぬ。ずいぶん逼迫した公卿もあって位階昇進の御礼に参内する際、武人のほうを借り受けて間に合わした者もあるくらいだ。ただ読者の注意を促しておきたいのは、彼らの全部が、彼の蚊帳を著ておった某公卿のように、洗うがごとき赤貧でもなかったということである。禁裏の供御とても不足がちには相違なかったけれど、その不足は必ずしも幕府の専横からして来るばかりではなく御料所内の百姓の横着か、または村の有力者の私曲から起因することもあった。しかしそれらが滞りなく納入になったところで、その金額がたいしたものでなく、ずいぶん余裕の少ない御経済であったことはいうまでもない。費用のないところから即位式をも往々にして省略されたのは、けだしそのためであろう。しかしながら恒例の節会せちえ等の停廃をもって、直ちに宮廷の御経済向き不如意のためと、一概に断定するわけにはゆかぬ。というわけは、御料からの収入で支弁さるべきものと武家から差上ぐる御用脚で支弁さるべき分とその間おのずから区別があって、もし武家からの差上金が滞うる場合には、それがためにそれによって支弁さるべき儀式を見合わせられるので、必ずしもこれをもって官帑かんど全くむなしかったためのみということができぬからである。時には武家累代の重宝と称せらるる掛物が、武家からして質屋に入り、遂に質流れになったのを、二千疋以上を投ぜられて、御府に御買上げになることもあった。公卿の家に持ち伝えた日記を、その家の微禄のために散佚の恐れあるを憂えられて、代物を賜わって宮中に召置かるることもあった。従来歴史家がややもすれば王宮の式微を叙すること極端に失し、はなはだしく御逼迫のように説くのは、後に起こった勤王論と対照さすために、あるいは必要なことかも知れぬけれど、実際よりもはなはだしく御窮乏を叙し奉るのは、かえりて恐れ多いことだろうと考える。三条の大橋からして御所の燈火が見えたという話は、人のよく知っていることであるが、これは必ずしも御所の大破損のために燈火の洩れたのと断言ができない。兵乱のために京中の人屋一時ことごとく曠野と化した時、御所の東門からして鴨川原まで一望し得るようになり、したがってその荒野原で噛み合いをした犬どもが禁裏の中に紛れ込んで、しばしば触穢しょくえの原因をなしたということがあるから、多分同じころ一時の現象として、御所の燈火も大橋から見えたのだろうとも思われる。要するに応仁乱後の京都は乱前よりもいっそうさびれ、公家の生活は一段と苦しくなったであろうけれど、後世からして史家が想像したほどではなく、いろいろな工面をしつつどうにか過ごしたものらしい。下級の貧困なる朝臣が朝飯からして他人の家で認めなければ糊口が出来なかったもののあることは、日記などに見えているけれど、下級の朝臣の困窮は藤原時代からのことであって、足利時代において始めて見る現象でない。また足利時代の京都は、無警察であるとはいうものの、また公卿の家も時々賊に襲われたとはいうものの、生命の安全からいえば、公卿の家ははるかに武家よりも安全で、深く武家と結托し、戦陣まで同道するというような連中のほかには、生命の危険というものは極めて稀であった。されば公卿でも、中以上の連中になると、概して応仁後においても気楽な暮らしをなしつつあったのである。しからばその中で三条西実隆はいかなる生活を送ったか。さらに回を重ねてこれを説こう。
 先ず実隆の住宅からして説き起そう。『実隆公記』の明応七年五月十八日の条に、中山家の雑色ぞうしき黄昏たそがれごろ武者小路において、何者のためにか疵を蒙ったことを記して、その割註に「この亭垣を築く前」としてあるところを見ると、この時分の三条西家は武者小路に在ったらしい。しかも北側ではなかったろうかと思われる。というのは三条西家の東隣には正親町三条家がおったらしく、実隆のみならず家族までもそれと往来しているが、その東隣の宅地のたつみの角に、諏訪信濃守の被官人某が、明応七年に地借りをして、小屋を造ったということがある。さてその小屋なるものは地内でもたいてい武者小路の往来に近く建てられたものと想像し得べく、しかしてそれが巽の角であって見れば、これを街路の南側とは見なし難い。ところが文亀二年になると、西面の築地新造の際西の方があき地であったので、二間ほどそのあき地へ押し出したことが日記に見え、また南の方は不遠院宮と地続きであったがその不遠院宮でも同様に西の方へはみ出されたと日記に記されてある。しかしてそれがかつて応永の末日野資教の住した地だといっている。さすればこれは武者小路の宅ではない。実隆の家は明応九年六月下旬の火災に類焼したのであるから、おそらくはこれが移転の原因となったものであろうと思われる。さてその引移り以前の武者小路の住宅はいかなるものであったろうかというに、前に述べたとおり、宅地そのものは南向きで、北は今出川の通りまでぬけておった。一般の公卿の邸宅の例に洩れずして、往来に面した方は土塀すなわち築地をもって囲われ、その築地の外側には堀を穿ってあったのであるが、これが土砂のために浅くなるので、時々さらいをしたらしい。深くしておかなければならぬのは、盗賊の用心のためである。しかしながらこの外堀のみでは、安心ができぬによって、さらに釘貫をつけそのうえ土塀の内側にいま一条の堀を廻してあった。されば南門からして入っても、先ず一の橋を渡らなければならない。この内堀は東西南北の四面に在ったらしいが、東南の角だけは、後に埋め立てられて築山になった。これは多分物見に便するためであったろう。家屋は宅地の中心より少々西に偏しており、庭はその東方にあったらしい。母屋の西の方には、独立の小家屋があったが、これは三条西家で久しく召使った老官女の扣家ひかえやであって、明応九年の類焼の前年に取り毀ちになった。その理由は『実隆公記』に、「修繕手廻りかぬるため」とあって、その跡が用心のため、西内堀に直されたのである。旧宅は今出川の通りからして、武者小路の通りまで貫いておったのであるが、新宅の方は西の方が室町通りに面しているのみで、南は不遠院宮北は新大納言の典侍の間に挾まっておったらしい。新大典侍の方からして北方の地をいてくれとの交渉が永正七年にあったのを見ると、どうしても地続きとしか思われぬ。西側が往来に面しているからして、新宅の此側の用心はなかなか厳重で、例の釘貫の設備もあった。築地も造り直した。西北隅には矢倉があった。門の前には土橋を構えたとあるが、これはもちろん塀の外の堀に架した橋だ。南、東の側には塀内に堀があったらしく、北側の用心に、釘貫のあったことだけは明かである。文亀二年になって売物に出た小座敷を買入れて、これを邸内に建て直したとあるのは、これは子なる公条がこの年十六歳でその春には右中将に転じたほどであるから、だんだん家が手狭になったによっての故であろう。この建直しの普請のために、以前の堀を埋めて別に掘り直したとある。永正六年には公条邸の南面に水門を掘らしめ築山をも造った。しかして矢倉の方はその一年ばかり以前に取り毀ってしまった。南隣に住まわれた不遠院宮は文亀四年に薨ぜられたが、その後はその邸もあるいは実隆の差配に属したのかも知れぬ。大永七年に花山家からして借入れを申込まれた時に、実隆は今仁和寺宮の衆が宿舎としているから、貸すわけに行きかぬると断わっている。
 住宅は先ず右のとおりであったと仮定して、次にそれに住した家族について説こう。実隆の父は長禄四年に六十三歳をもって薨じたのであるが、そのとき実隆の年はじめて六歳。その後は専ら母親の手塩に育った。故に実隆は父を懐うよりも母を慕う情が深く、父の墓所二尊院に参詣するよりも、しの坂の母の墓に謁する方が、思い出の種も多かったのである。母というのは前にも述べたごとく、甘露寺親長の姉で、寡婦となってのち子の傅育ふいくに忙わしかったが、文明二年十月の末実隆が十六歳に達し、従四位下少将まで進んだ時、鞍馬寺において落髪した。当時鞍馬寺境内に公卿の居住すること稀ならず、長直朝臣などもおったらしい。三条西家もいかなる縁故あってかまだ穿鑿せんさくをしてはみぬけれども、以前からして鞍馬寺境内に家屋を所持し、もしくは寺の建物を借り入れて住居としておったらしく、実隆の母公の落髪も、やはりその宿所においてしたので、その時には母公の弟親長の妻が、はるばる鞍馬まで出向いた。翌文明三年尼公が執行作善の時には、実隆は叔父親長とともに出向き、親長は二泊して帰洛したとある。このころの実隆は主として母尼公とともに鞍馬の方に住居し、時々京都に下ったものらしく、文明三年の十二月下旬から出京し、己のやしきと親長のやしきとに、十余日淹留えんりゅう、正月年頭の儀を了えて鞍馬に帰ったとある。しかるに母尼公は落髪後久しからずして、文明四年十月中旬に歿した。実隆の室勧修寺教秀の女が、三条西家へ輿入れして来た年月をば探し当てかねたが、長子公順の生れたのは、文明十六年すなわち実隆が三十歳の時で、その後三年にして次男公条が生れた。子としてはこのほかに女子一人あったが、これは二人の男子の姉であって、後に九条尚経に嫁し、植通の母となった従三位保子である。
 しからばその召仕にはいかなる者どもがおったかというに、最古参者は父公保の時代永享十一年十八歳で三条西家へ奉公し、もって実隆の代に至るまで歴仕した右京大夫という侍女である。彼の武者小路の家で西の小屋に住しておった者すなわちそれで文明十五年ごろまでは、その母なる者も存生であったらしい。永正元年八十三歳まで勤続して落髪し、法名を光智禅尼といった。その後五年にして老病のため永正六年に歿したが、実隆はこの侍女の三十四歳の時に生れ、厚く介抱を受けているからして、その亡母の年回にも贈り物をし、その老官女が歿した時は、葬式その他万端特別の待遇であって、命日には法事をも営んでやったほどである。この老官女の下に梅枝という下女があった。これも久しく召仕われた婢で、永正二年その中風で歿した時の条に、「三十余年召仕う正直ものなり、不便にして力を失しおわんぬ」とあるから、おそらく文明の初年ごろからしてこの家に奉公した者であろう。されど老官女ですら、私穢をいとう当時の習慣のために、その病あらたまるに及び、来客の輿こしを借りて、急にこれを近所の小庵に移したくらいであるから、まして梅枝のごときは、死に瀕してから夜分今出川辺に出してしまった。大病人を逐い出すのは当時一般に行なわれたことで、三条家の知合なる某亜相のごときは、十一年間も妾同様にしておった女を、やはり大病になると近所の道場までき出させたことがある。されば実隆が二人の女中を死際に門外に出したとて、決して残酷な所為とはいい難い。この二人のほかに女中に関することは、総領娘保子の乳母にて雇った女が、男を拵えて逃亡を企てたところ、一旦は尋ね出された、しかし遂にはその男と奥州に下向したとの記事あるのみである。しかしながら女中はこの三人と限ったわけではなく、駈落した右の乳母の後任も入れたろうし、男の子のために別に雇われた乳母もあったかも知れぬ。また老官女や梅枝のかわりも出来たかも知れない。
 三条西家の男子の召仕には、雑掌すなわち家令のような役をしておった元盛という者がある。これは通勤の役人であって、時としては主人の一家を私宅に招待し宴を催すこともあったが、文明十九年三月末に賜暇を得て越前の国へ下向し、間もなくその地において病歿した。この者は青侍あおさぶらい中特別の者であったからして年回には相当の合力をしてやったのである。この元盛が老年になってからわざわざ越前に赴き、そのまま歿したところを見ると、越前に在った三条西家の所領の出身なのであったろう。しかし元盛の妻は本来尾州の者であったらしい。尾州には三条西家の所領があったから、あるいはその出身かも知れぬ。これは夫の歿後には尾州に下向した。その際夫婦が住みならした家屋をば、さる公卿に売り渡したことが、『実隆公記』に見えている。この元盛の子に盛豊というものがあった。父の後をけて三条西家に奉仕しておったが、父の功をかさに著てか、我儘の振舞多く、過言などもしばしばあったと見え、明応五年には実隆も堪忍しかねたらしく、一旦は召仕わぬと申し渡した。けれどもそれまでの好みを考えると、そうもできなかったらしく、明応八年四月、元盛の十三回忌に、盛豊が形のごとく僧斎を儲けた時に、実隆は家計不如意のため、志があっても力が及ばぬ、十分な補助ができぬのは遺憾だと歎いている。元盛父子のほかに三条西家の召仕としては、故参者に中沢新兵衛重種という者があって、元盛の歿後は、この者が家令のようである。この重種の父もやはり三条西家奉公人であったらしく、延徳二年その亡父の十七回忌に当ったので、家中衆が斎食の儲をした記事が見える。延徳三年の春からして、この中沢は年千疋の給金になった。ただしこの中沢は元盛のごとくに外から通勤したらしくはなく、三条西家の邸内に住んでおったらしい。そのほか実隆が永正六年に雇った青侍に、林五郎左衛門というのがある。近江高島郡の者で、数年間正親町一位入道の青侍をしたのであるが、日記に「新参のよう先ず召仕うべし」とあるから、返り新参ですなわち以前三条西家にも奉公した履歴のある者だろう。『親長記』文明六年の条に、内侍所刀自が病気になったにつき、親長は実隆の家の青侍林五郎左衛門といえる者を医師として、見舞にやったと記してあるからには、この林は同一人かあるいは親子であろう、そして当時しばしば見受ける素人医者であったものと考えられる。この林はその在所にいくらか資産のあった者と見え、永正七年近江が乱れた時、その資財の始末のため、賜暇を得て帰郷したことがある。なお森弥次郎、千世松の両人の三条西家の召仕人として見えているが、この両人は喧嘩両成敗で永正二年に暇を出されている。暇を出した後数日弥次郎の父が誅せられたということを聞いて、それとは知らず弥次郎を逐い出したのであったが、まことに好時分に出したもので、天の与うるところであったと、実隆は記している。千世松のことはつまびらかにわからぬが、少なくとも弥次郎は譜代の奉公人ではなかったらしい。

 上述のごとき家族と上述のごとき使用人とを有した実隆の家計は、いかにして支えられたか。先ずその領する荘園からして説こう。三条西家の所領は各地に散在しておりその最も近くに在ったのは、山城に在るもので、桂新免、石原庄、塔森庄、鳥羽庄。この四つはみな桂川に沿うている。美豆御牧、あるいは単に御牧、これは河を隔てて淀と相対している。それからして富森、三栖庄これは伏見の西南に在る。これらの所領からして得る収入は、石原庄で麦若干、米一石前後、地子月別五十疋くらい、塔森からは月別銭で少ない時は七十疋、多い時は百五十疋くらい、一か年一貫七百文納入になったことがあるが、それは大永五年のことであるからして、それ以前にはいま少し収入が多かったろうと思う。鳥羽庄は文明十一年に中沢重種をもってその代官職に補したと記してあるが、この中沢は鳥羽庄のみならず石原塔森等をすべて管理しておったことがあるらしい。この庄の収入は、つまびらかにし難い。ただ西園寺家と共同にこの鳥羽庄の領主であったらしく、畠山の被官人とこの荘園を争い、訴訟に及んだ時には、西園寺家と連合してこれに当り、本所の方が勝利を得たから、使者をもって互に祝著同心の旨を告げたとある。しかしながら、共に同一庄園の主であるところから、時として争いも起こる。荘園の住人鳥羽新三郎の闕所けっしょ作分につき、西園寺家の方よりして押妨おうぼうをしかけたから、重種が西園寺家へ出向き、先方の家職と談判していい伏せたとある。富森は麦の収納があり、地子は大永五年の年末に二十疋とあるからあまり多くはなかったろう。富森から川岸に沿いてさかのぼれば、三栖庄になる。この庄は三条家の古くからの所領で、正親町三条家からして分れた時に、これを分領することにしたものらしい。代官としては日記永正元年の条に、山本太郎左衛門という名が見え、塔森の侍なりとしてある。この三栖に上下の二つあるが、上は正親町三条家の手に残り下は西家に伝った。日記明応五年四月の条に、東隣すなわち正親町三条家から三栖庄内で鷹にとらしたという青鷺をもらった記事がある。この三栖の所領からも米と麦とがとれた。この麦をば祇園因幡堂に施入するのが、三条家の嘉例ということになっている。三条家に限らず、当時京洛の士民はみなこの因幡堂の薬師を信仰し、祈願を籠めたものであるが、わけても実隆のごときは、尊崇すこぶる厚かった。しかしてかかる施入に対し、因幡堂からは、年々香水を三条家に送ることこれまた例になっておったのである。三栖の年貢米は日記大永七年十月二十八日の条に四斗を般舟院から受け取ったとあるが、これのみならばはなはだ僅少なものである。のみならずその四斗も実際三条家で桝にかけて見たら、三斗一升しかなかったと記してある。紀伊郡散在の所領は前述のとおりであるが、その北にして対岸なる葛野郡の東南隅にあるが、すなわち桂新免河島の所領であって、年貢は米であった。かつこの地もまた西園寺家と共同の所有であったらしい。
 次は綴喜郡の北端、淀川と木津川との落ち合いで、後の淀城の対岸なる美豆の御牧である。日記には略して単に御牧と書いてある方が多い。その代官に関しては、明応ごろに中村宮千世丸という名前が同五年三月の日記に見えておる。ほかに辻某という有力家もあったらしく、その甥弥次郎という者が文亀三年に始めて被官として来たことが見える。これあるいは前に掲げた森弥次郎かも知れぬ。この庄からしての収入は百疋の年貢と茶とである。茶は一袋一斤半ずつの懸茶二十四袋が例となってあった。淀の魚市の年貢、これもまた収入の一であったが、これに関してもまた西園寺家との間に紛争のあったことは、明応五年の日記にしばしば見える。一旦は訴訟になり、幕府の裁決を仰がんとしたが、西園寺家からして、三分一年貢においては違乱を止めるとの一札を出して、事落著したことがある。この魚市からの収入は別に雑掌あるいは代官をしてこれを取り立てさせておったが、その代官の名には、明応四年ごろ玉泉という者をもってこれに任じたことがあり、永正元年には和泉屋すなわち四条烏丸太志万平次郎といえる者補任されて請文を出したとある。月宛銭は市況によって一定せず、百疋、百五十疋、二百疋等さまざまであり、正月七月十二月には別に増徴があり、往々にして二貫文以上に達したとあるから、三条家の収入として先ず主なる財源といわねばならぬ[#「いわねばならぬ」は底本では「いわぬばならぬ」]。また所領と称するのはいかがわしいかも知れぬが、京中にも三条西家の所有地があった。一は旧跡なる武者小路で、一年両度の地子百三十疋、ほかには六条坊門の地子で、盆暮八十疋の収入があった。
 以上は山城国に散在する所領からしての表向きの収入を述べたのであるが、なおその外にもこれら所領からの臨時の収入がある。正月には三栖庄から嘉例として八木の進献があり、武射饗三および打竹をも進上する。鳥羽庄からは鏡餅を持って来る。端午たんごの節句が近づくと、同じく鳥羽庄からして菖蒲の持参に及ぶ。続いて瓜の季節になると御牧から花瓜を持って来るので、その一部を禁裏に進上する例になっている。同じく御牧から八月には茄子を持って来る。九月になると祭礼の神酒一桶を三栖庄から送って来る。十月には自然生芋を御牧からよこす。屋根を葺くための葦は御牧から取り寄せる。また御牧の代官の嘉例の進物茶十袋という定めもあり、同じ御牧から秋には大根百本くらいを納めた。これも幾分を禁裏に献上したのである。なお御牧に在る三ヶ寺からは、正月年頭の礼に何か進上したらしい。のみならずこれら所領の多くは河沼に接しているので、したがいて魚介の利があり、石原庄からは鯉を献上しているが、なかんずく魚の最も多くとれるのが三栖で魚の種類はすずきを主とした。百姓の多数は半農半漁であって、その代替りの礼などにはこの鱸持参でやって来る。
 三条西家はこれらの物を収得するばかりでなく、当時荘園一般の例として、その所領から人夫を徴発した。人夫を出すのは主として御牧で、あるいは庭の草の掃除のため、あるいは屋根葺のため、あるいはその他の普請のために呼寄せられている。また三条西家自分用のためのみならず、荘園の主として幕府から人夫を課せらるることもあった。たとえば義政の東山の普請につき、文明十七年春厳重な沙汰を受け、西園寺家と相談のうえ百十人の人夫を出したごときはその一端である。
 かく述べたてると山城国から得られる三条西家の収入は極めて多端であるように見えるが、実隆の晩年大永七年ごろになると、御牧のみの未進が十二貫文の多きに至っているから、他もこれに準じて未進が多かったろうと思われる。山城に在る分すら右のとおりであるとすれば、ましてそれよりも遠い国々にある所領からは、満足に年貢の納まろうはずがない。次には実隆がいかなる苦心をして遠国からこれを取り立てたかを叙述しよう。
 山城国以外で京都に近い三条西家の荘園をかぞうれば、先ず丹波に今林の庄というがあった。本来どれほどの収入があったのか知れぬが、文明九年には十石の分を竜安寺に寄進したとある。おそらくは爾後三条西家へは、ほとんど年貢米の納入がなかったのではあるまいか。日記永正七年十月の条に「年貢米二石初めて運送の祝著極まりなく千秋万歳自愛自愛」とあって、思いがけなかった仕合わせのように記している。しかして同年内になお二駄の年貢米がまた今林庄から納付になっているからして、三石六斗の合計になり、かなりの収入となったのである。なお丹波にはこの今林庄のほかに桐野河内という所から莚の年貢があり、土著の代官として、明応四年に片山五郎左衛門、同六年に月山加賀守という者が見えている。これらの代官は主としてからむし公事くじのために置いてあるので、莚の方は実は第二だ。この地方から秋になると柿や松茸などを鬚籠に入れて送って来たことが日記に見える。
 遠近の丹波と相くのは、摂津富松庄である。富松は河辺郡と武庫郡とに分れて、東西富松の二つある。しかして富松庄は三条西家の専領ではなく、むしろ西園寺家の所領というべきもので、三条西家はわずかにその三分一をのみ取得としておったことが日記の永正三年四月の条に見え、西園寺家でこの荘園を沽却こきゃくしようとするから、その三分一の権利を三条西家に保留してあることを奉書の中に記入してもらいたいと、幕府へ申し入れた記事がある。して見ると東西に分けて分領したのではなく、富松庄の表向きの領主は、西園寺家だけであったろう。しかしこの庄の代官としては、日記文明十八年と延徳二年の条とに、富田某という名があらわれて、その註に「細河被官人薬師寺備後の寄子よりこ」とある。この代官が延徳元年に上洛した時には、柳二荷、がん、干鯛、黒塩三十桶、刀一腰(助包)持参に及んだから、実隆はこれに対面し、かつその返礼として、以前義尚将軍から鉤りの里で拝領した太刀一腰を遣わしたとある。丹瓜がこの富松の名物と見え代官からこれを進上しているし、それのみではなく正月の若菜および盆供公事物を送って来る例になっておった。年貢米がどれだけあったかは判明しない。
 摂津の先きの播磨はりま飾磨しかま郡にある穴無庄、同じく揖保郡にある太田庄、また共に三条西家の所領であった。穴無の郷の公用というのは、その公文職の年貢なので、年一千疋が定額であったらしい。守護不入の地とはいうものの、延徳ごろの代官たる中村弥四郎のごとき、守護赤松の被官人であって見れば、陣夫銭その他の課役を納めぬわけにも行かず、故に三条西家からしきりに催促されても、半分くらいはこれを翌年廻しにする。現に延徳三年十一月のごときは、右の中村が赤松に催されて、坂本の陣中に在り、そこへ三条西家の使者が出かけて催促したけれど、要領を得なかったのである。その後次第に納額が減少し、三百疋の年もあり五百疋の年もあった。この郷からの収入は三条西家の青女の所得になるので、あまりに少ない時には青女憤慨して受け取らずに突き返そうといきまいたこともあるが、代官の方から守護の配符数通を添えて、公用減少の理由を証明されると、どうすることもできなかった。かくて永正の[#「永正の」は底本では「永の正」]初年には遂に全く無音となり、同三年の春になってようやく前年分、しかも少分のみを納めたに過ぎなかったが、この時になると実隆もいよいよあきらめたと見え、「形のごとしといえども珍重す」と記して喜悦を表している。しかしてその翌年になると安宗左衛門という者が代官に補任され、大永四、五年ころの公用は、五貫三百文というのが定額と認められた。
 太田庄の所領もまた全部ではなくして三分の一であったろうと思われることは文亀三年正月二日の条に見えているが、とにかくこの庄からして三条西家に入るべき公用は年千疋であって、しかも他の諸庄に比べ、比較的正確に納付されたらしい。代官としては文明十六年の末に安丸なる者の没落したこと、その後任として太田垣与二なる者望んでこれに補せられたことが見えている。この庄からの収入をも、三条西家ではやはり青女どもの給分に宛てておったのであるが、これを受領するには直接ではなく、建仁寺の塔頭たっちゅう大昌院を経由した。故に滞りなく千疋納入になった時には、実隆大悦で、わざわざ大昌院まで出かけ一緡いちびんを礼に与えたくらいだ。明応五年に広岡入道道円という者をその代官職に補したところが、その年には恒例の千疋のほかに、補任料をも添えて大昌院経由で送って来たので、実隆はいよいよ喜んだ。享禄二年に土佐狩野の画家に扇十本を描かしめて、これを太田庄に遣わしたというのも多分かく都合のよい荘園であったからだろうと思われる。
 山城以西は上述のとおりであるが、以東の美濃・越前にも所領があった。越前の所領というは田野村にあるのであるが、その公用は千疋であったらしく、これも同じく滞納がちで、濃州の所領とともに文明十八年幕府に訴うるところがあったけれど、その効が見えず、ほとんど断念しておったのである。ところが明応元年になって宗祇の取次で千疋を送ってよこしたので、実隆はこれ「天の与えしところというべきものなり」とて大いに悦んだ。永正二年[#「永正二年」は底本では「正二永年」]に納付のあった節も同断である。翌三年にもまた千疋送られた。それといっしょに朝倉の妻からの進物として、美絹一疋をもらったと見えているから、この田野村の公用の納入は主として朝倉の尽力によったものらしい。そこで実隆はさらに一歩を進めて、永正七年の春にはその年の分を前借したらしいが、それにもかかわらずその年末に相変らず千疋到来した。それ故に実隆も「もっとも大いなる幸なり」と日記にしるしてある。
 美濃からの収入というは主なるはその国衙こくが料であって、これは直接に取り立てるのではなく、美濃の守護土岐氏の手を経由するものである。ただし土岐氏がみずからこれを取り扱うのではなく、その下に雑掌斎藤越後守というが見え、またその下に衣斐某という代官もあったらしい。ところがなかなかにこの国衙が納まらぬので文明十八年にこれを幕府に訴えたこと既述のとおりであるが、その時には有利な裁訴を得たけれど、土岐氏の方からして奉書遵行の請文を出さぬ。そこで例の中沢重種を催促にやった。この催促の使が頻繁に派遣されて、長享三年の春には一か月に三回くらいも出かけている。ただし濃州まで出張したのではなく、ちょうどこのころ近江征伐が再興されて、土岐も将軍の命に応じ江州阪本に出陣していたから、それへ談判に行ったのである。そもそも国衙公用の三条西家に納まらなかったこと、およそ三十年に及んだと、実隆の日記に見えるから、寛正年間からして不知行であったので、応仁の一乱のために無音になったのではない。約言すれば時効にかかるほど久しく放棄した財産なのである。ところが不思議にも催促の効能が見えて、長享三年の三月に三千疋だけ納入になった。実隆の喜悦一方ならず、「小分といえども先ず到来す、天の与えというべきか。千秋万歳祝著祝著」と記している。三千疋を小分というのは、今までの怠納を計算するとかなりの多額になっているからで、一か年の定額は千疋、盆暮に五百疋ずつというのがきまりであったらしい。長享三年の春からして、延徳三年の五月までおよそ二か年間に催促して取り得た総額は、二万疋以上に達し、延徳二年以前の分はこれで勘定がすんだとあるが、おそらくはあまりに古い未進をば、切りすててしまったのかも知れない。前にちょっと述べた通り長享二年からの催促には、ひととおりならぬ手数をつくしたもので、義尚将軍薨去につき土岐右京太夫が斎藤越後守を従えて四月入洛し、土岐は芬陀利花院ふんだりげいんに、斎藤越後守は東福寺に宿営すると、早速にまたたびたび催促の使者を差し向けた。延徳二年の秋には葉室家が義植将軍に昵近じっきんなのを利用し、葉室家に頼んで土岐への御奉書を出してもらった。翌年の秋に土岐がまた坂本の陣に戻ると、さらにそれへ使者を出した。葉室家からの手紙をも添えてやったこともある。しかして一方においてかく矢の催促をしたのみでなく、同時に種々と土岐や斎藤の機嫌をとった。三栖庄からして巨口細鱗の鱸がとれたとて進献になると、先ずその一尾を東福寺の斎藤のもとにやった。富松庄の代官が土産を持って来ると、すぐにその一部を土岐への音物いんもつにした。斎藤にも柳樽やなぎだるに瓦器盛りの肴を添えて送ることもある。きじねぎを添えてやったこともある。がんをやったこともある。太刀一腰の進物のこともあった。かかる関係からして延徳三年の二月末に、土岐が三条西家を尋ねたが、その時には主人の実隆が在宅であったけれど、折悪しく取次をすべき青侍がみな他行中であったので、土岐は来訪の旨を玄関でいい入れたまま、面会を得ずして帰ってしまった。美濃の土岐といえば、日本中に聞えた武家であるのに、実隆は取次の人がないというので、これに玄関払いを食わした。そのところちょっと当時の公卿が武家に対する態度が伺われる。しかしながら実隆ももちろん土岐を怒らすことをば好まなかったので、翌日すぐに使者を斎藤のもとへやって前日の土岐来訪の礼を述べ申しわけをした。そこで土岐も阪本に移ってから、三条西家に対しては疎略を存ぜぬ旨をいってよこしてある。
 かくのごとくして国衙の徴収を成し遂げたので、その収入によりて、延徳元年の拝賀の費用をも弁じ、亡父公保の月忌、例会は都合あしく無沙汰にしたことも多くあったのに、この年はこれを執行し、また大工二人を呼んで家屋の小修繕をもやれば、旧借をも少々返却し、中沢や老官女以下の男女の召使の給金をも下渡し得たのである。しかしながら一年平均一万疋といえば、当時において少なからぬ大金である。それだけの大金を催促と少しばかりの音物とだけで、しかも三十年間不知行の後に、徴収し得たとは考えられない。実は別にもっと有効な方法を講じたのである。それはほかでもない、前回にもちょっと述べた武人に利益分配することである。長享三年二月久しぶりで三千疋を受領した条に、南昌庵という者が坂本の扇屋で、これを斎藤から受け取ったが、「この儀については重々子細等あり、記すこと能わず」としてある。延徳二年七月の条には、「斎藤越後契約の間事いささかこれをつかわす」とあって、そのとき受け取った千六百疋の中から、何ほどかを与えている。これらの記事によって斎藤と三条西家との関係を伺い知ることができるので、かかる消息が通っておればこそ、斎藤越後守も時によっては、立替えをもなし、また用脚が到着するとわざわざ使者をもって受取人派遣の督促をなし、あるいはわざわざ太刀金二百疋の折紙持参でやって来て、実隆に謁することもあったのである。しかるに明応五年美濃の喜田城陥落し、土岐九郎は切腹、左京太夫は没落したので、この国衙料もまた不知行となること三十年ばかり、大永四年に至り持明院の周旋によりて、また納入さるることになった。
 美濃国からは、国衙公用のほかに、なお三条西家の収入があった。一に宝田寺役、これはだいたい西園寺家のもので、三分の一だけ実隆の方に入ったのである。第二は鷲巣の綿の年貢である。第三はからむしの関務である。この収入はもっぱら官女の給分等に充てたものらしく、年貢については文亀三年に三百疋の収入があったことを記しているのみで、定額がわからない。この苧の関務をばやはり斎藤氏の一族が取り扱っておったものと見えるが、美濃、坂本、京都の間をしばしば上下する金松四郎兵衛という者もまた周旋の労をとっておった。土岐の明応五年の没落を報じて来たのもまたこの男である。
 以上のほか三条西家の所領としては尾張に福永保があると記してあるけれど、つまびらかなことは知れない。また近江の阪田郡加田庄、これはもと正親町三条家のもので、転じて実隆の領有に帰したのであるが、岩山美濃守政秀なるもの半済をかすめ取ったので、これに交渉を重ねたことが見える。年貢としては明応五年に飯米三俵の収入があったほかに何もわからぬ。
 最後に三条西家の収入として叙せねばならぬことは、苧の課役の一件である。三条西家が美濃の苧の関務を領し、丹波の苧代官とも関係があり、阪本からも苧の課役が運ばれ、また天王寺の苧商人からも収得するところあった。して見ると二条家と殿下渡領とでもって、菅笠の座からの運上を壟断ろうだんしたように、三条西家は苧の売買からして課役をとる権利を有しておったので、必ずしもある一国に限った収入でなかったのかも知れぬ。しかして日記永正八年七月の条に天王寺商人からして、とても課役を納める力がないから、この上はじかに越後商人から徴収してもらいたいと申し出でているのによって考えると、その課役は便宜上買方なる阪本や天王寺の商人らからして納付の習慣となっていたのであろう。阪本からして取り立てた税については、阪本月輪院から送り来ったこともあり、また南林坊なるものが文明十六年堅田においてこれを沙汰したこともある。その時の年貢額は二百疋とあるが、これが平均額以上か以下かはわからぬ。明応五年正月からして阪本に苧課役を月俸にして沙汰をすることにしたと日記に見えているが、それ以前は年二回の徴収であったかも知れぬ。しかし苧の課役中で三条西家にとり最も収入の多かったのは、もちろん天王寺の座からして納入するものであった。天王寺の苧商人らは、越後からして荷物を取り寄せる時に船でもって若狭まで、次に若狭から近江を通さなければならなかった。ところが山門がその近江通過を要して課役でもかけたものと見え、苧商人から山門に対する苦情の出たことがある。また阪本の商人ら越後において青苧の盗買をし、課役をまぬかれんとしたので、その荷物の差押えがあり、それには天王寺の商人の一人なる香取という者が関係しており、その香取が金策をして三条西家の屋根葺の費用を弁じたことが日記にある。かくのごとき越後産の苧が課役の基礎になっておったのであるからして、その越後の国が乱れると、天王寺商人らも身を全うして逃げ帰るが精一杯で、苧の買入れどころではなく、したがって苧の公事も納まらなくなる。時としては越後から積み出しが実際にあっても、抜荷の恐れのあることもあったが、幸いに着船地たる若州の守護は武田で、その被官人の粟屋という者は、実隆の妻の実家なる勧修寺尚顕の女をめとって、実隆とも別懇にしているので、苧船が着くと早速にこれを留め置いて三条西家に報告してくれた。苧船の隻数は時々不同であるが、日記に見えるところでは、十一隻というのが最も多い。苧の課役の納期は年二回で五月と十月とであったろうと思われるのは、五月に受領しているのが、日記にたびたび見えるし、また延徳三年十二月の条に、次の年から十月中に究済せぬ時には利息を取り立てると苧商人らに申渡した記事があるからだ。しかしながらこの威嚇は効をなさなかったらしい。貢税額はハッキリわからぬ。明応七年五月の春成公用は二千疋とあるが、五年十二月の条には千二百疋とある。商人香取のことは前にちょっと述べたが、そのほかには日記には北林弥六という者苧商人雑掌と記されてある。こちらが苧商人の代表者であったかも知れぬ。この北林もまた時々実隆のために借金の周旋をしてやっている。
 実隆は大略以上のごとき収入をもって暮らしを立てておったのであるが、しからばかかる楽屋を有する彼の公生活は如何であったろうか。次においてこれを述べることにしよう。
 上文に述べたような楽屋を有する三条西実隆に、もし衣冠束帯をさしたならばどんな者になるであろうか。これがこれからして予の描こうとするところである。
 そもそも実隆というのは、彼の最初からしての名ではない。第一につけられた名は、公世というのであって、その公世時代、すなわち長禄二年の末に、四歳にして従五位下に叙せられた。これがいわゆる叙爵なるものであって、その遅速がすなわち家柄の高下を示すところから、公家にとっては重大な事になっている。叙爵と同時に改名したので、その二日後に侍従に任官した時にはもはや公世ではなく、公延であった。五歳で備中権介を兼ぬることになったが、その翌年父公保が六十三歳で薨じた。この公保は内大臣まで歴進したけれど、槐位に列することわずかに一か月余で辞し、その後五年、すなわち実隆が生れた康正元年に出家した。その後なお五年間在世であったとはいえ、親のすでに出家した後、しかして家督たる実隆がまだ元服せぬ前であるから、このころは三条西家にとりてはなはだ引き立たぬ時代というべきであるが、それに加えて公保の薨去となって後は、いよいよ沈みがちの日を送ることとなったのである。
 公延という二度目の名は文明元年すなわち彼の十五歳になるまで続いたが、元服と同時に官は右近衛権少将に進み、名は実隆と改まり、いくばくもなくして正五位下に叙せられ、翌年従四位下となった。このころからして禁裏にも出入し、一人前の公卿として働くこととなり、三条西家の人々もようやく愁眉を開くこととなったのに、好事には魔多くして、十八歳のとき母をうしなったのである。これからしておよそ五か年の間に右近衛権中将、蔵人頭くろうどのかみに進み、位は正四位にのぼり、文明九年二十三歳の時の暮にはようよう参議となり、公卿補任に載る身分となったので、実隆の公生活はまずこの辺からしてようやく多忙になった。
 公生活といえば大袈裟に聞えるが、実はさほど仕掛けの大きいものではない。政権が武家に移ったのは、昔の昔の話で、その武家すら政権というべきほどのものを持たなかった足利の中葉以後のことであるから、普通の意味で理解される政治とほとんど交渉を絶たれた当時の朝廷に、繁多の政務のあるべきはずがなく、したがって公卿の従事すべき公務とても、恒例臨時の節会せちえを除けば、外は時々の除目じもくまたは御料所の年貢のうながし、神社仏閣の昇格の裁許くらいのものである。しかしてその公家の数も明応二年のころ総計六十七家のみであったと『蔭涼軒日録』の六月五日の条に見えているによって考えると、それら公家衆が総出で行なう儀式とても、その綺羅びやかさに至っては、五百以上の参衆を数うること稀ならぬ当時の禅徒らの執行するものに比べて、規模のすこぶる小なるものといわなければならなかった。しかもそれらの儀式すら応仁の一乱以後は廃絶したものが多く、文明七年に至って始めて諸公事が再興されたのであるから、それまでの大内山のわびしさは、けだし想像に余ることであったろう。この文明七年の四方拝には、実隆はまた右近衛権中将でこれに勤仕したのであるが、その際の日記に、「一天昇平よろしく今春に在るものか」としたためているのを見ても、公卿一般に蘇生の思いのあったことが、ありありとわかる。その翌文明八年の正月には、実隆の地位一段と進み、四方拝には蔵人頭としてこれに勤仕したが、乱後のこととて調度の類もととのわなかったと見え、式場に建て廻わすべき四帖の屏風のうち、二帖だけは大宋屏風で、式場相応のものであるけれど、残り二帖に事を欠き、しかるべき屏風の見当らぬところから、平素風前に立て置ける屏風を持ち出して間に合わせた。ところが暁天の寒む空に御拝を行なわれつつあった最中、風が吹き出して御屏風が倒れそうになったので、列座の公卿らが式の間これを抑えて倒れぬようにしたとある。絶えず歓楽と悲哀との間を出入しつつあった当時において、四方拝の如法にしかも寒夜に行なわれたということは、さすがに神ながらのすがすがしさを失われざる朝廷の趣がしのばれて、一段の異彩を放っている。同じ正月朔日の日記に「鶏鳴き、紫階星落つ、朱欄曙色にして誠に新しきものなり」とあるが、これ叙し得て妙というべきで、この数句は『実隆公記』中の圧巻といって可なるもの、ほとんど『明月記』の塁を摩するものである。
 文明九年参議となった実隆は、それから一年余りで従三位に叙せられ、その後また一年あまりで権中納言に任じ、侍従をも兼ねた。しかしてその主として奉仕した職務は番直や儀式の外には書写であった。当時多少文筆のたしなみある公卿の多くは、勅命によって書写もしくは校合をやったのであるが、中にも能筆でかつ文字の造詣の深かった実隆は、他の公卿よりもいっそう頻繁にこの御用を仰せつけられた。書写をしたのは物語類とおよびそれに類した絵巻の詞書であった。あるいは書写をせずに勅命によって朗読したこともある。その書写または朗読したものを列挙するのは、当時の好尚を示すに足ると思うから、今繁をいとわずしてこれを掲げると、先ず絵巻の種類では『山寺法師絵巻』、『本願寺曼陀羅縁起』、『石山寺縁起』、『誓願寺縁起』、『因幡堂縁起』、『みしまに絵詞』、『源夢絵詞』、『春日権現霊験絵詞』、『東大寺執金剛絵詞』、『石地蔵絵詞』、『翻邪帰正絵詞』、『石山絵詞』、『介錯仏子絵詞』、『三宝絵詞』、『弘法大師絵詞』、『北野縁起絵詞』等で、このほかに書いたでもなく、また読んだでもなく、勅命によって一見を仰せつけられたものは数々あった。歌道は飛鳥井家の門人であって出藍しゅつらんほまれ高かったから、歌集の書写等を下命になったこともしばしばで、単に勅命のみならず、宮家、武家等からも依頼があった。歌集でないものにも筆を染めた。今それらを列挙すると、『続後拾遺集』、『殷富門院大輔集』、『樗散集』、『道因法師集』、『寂然法師集』、『鎌倉大納言家五十番詩歌合』、『北院御室御集』、『伊勢大輔集』、『出羽弁集』、『康資王母集』、『四条宮主殿集』で、これらの多くは伝奏たる広橋家を通じての武家からの注文であった。『万葉集』第一巻をば功成ると伏見宮に進献した。『十問最秘抄』と『樵談治要』と『心経』とをば禁裏に進上した。中身をば染筆せず、表題のみを勅命で認めた分もあった。
 朝廷にたぐい少なき文学者であったところからして、御製の讃等を遊ばす時には、実隆は多く御談合を受けて意見を奏上した。また書籍に明るいところからして、御買上げの場合にはしばしば実隆の意見を徴せられた。かくして御手許に召置かれることになったものの中には、成化戊戌つちのえいぬの年の述作にかかる『和唐詩』四冊、功徳院所蔵の『日本紀』の珍本および『園太暦』等がある。中にも『園太暦』のごときは、中院入道内府がかつて百二十三巻十四帙を千疋で買得して所持し来ったところ、同入道の歿後中院窮困したので、やむを得ず内幾冊かを沽却こきゃくしようとした。それを実隆が聞き込んで散佚さんいつを惜しみ、禁裏に奏上して、八百疋で全部御買上げを願うことにした。史料の散佚を拒ぐことに尽力した実隆の功績は、後世史家の永く感謝すべきところであろう。
 実隆はかくして朝廷で調法がられたのみならず、武家からも重ぜられ、風流の嗜み深かった義尚将軍のごときは、文明十五年七月からして、隔日に室町殿へ出頭してくれるようにと頼んだ。禁裏の御用もたくさんあるので、実隆にとってはすこぶる難有ありがた迷惑に感じたのであるけれど、何にせよ武命で違背し難く、これを承諾した。その用向というのはほかでもない。源氏の打聞きであった。されば義尚の方でも実隆をば等閑なおざりならずもてなし、禁裏当番かつは御連歌の御催しがあるので実隆にとりては是非祗候すべきはずの日にも、武家の招待のためにやむを得ず御断りを申し上げたこともある。京都での待遇のあつかったのみならず、文明十九年の十一月に義尚はわざわざ江洲鉤りの里の陣からして吉見六郎を使として京都なる実隆のもとへやり、その詠んだ歌に雁一双を添えて贈り物にしたこともある。同年の十二月に答礼かたがた実隆が鉤りの里に伺候した時には、特別に引見した。しかし実隆がかく公武の間にひっぱり凧になって、用いられたので、おのずから朝廷と幕府との間に立ち、円滑に事を運ぶにあずかって功を立てたこともある。たとえば延徳二年朝鮮の商人が来着して進物を献じた時に、朝廷のみで御受納なく、武家にも渡されるようにと進言し、また永正五年には実隆たびたびの口入れが功を奏し、武家からして御服用脚五千疋を献上し、その功によって禁裏から※(「虫+夫」、第4水準2-87-36)せいふ三百疋を賜わったこともある。義尚の時代のみならず、義植、義澄の代にわたって、実隆が幕府の眷顧けんこを得たのも主として文筆の功徳であって、文亀三年に実隆新作の能「狭衣」の曲が室町殿において演ぜられ、実隆がわざわざ見物に招かれたなども、一佳話として伝うる価値があろう。ただし実隆といえども能の作者としては不適材であったのか、この「狭衣」の曲のほかには「閔子蹇びんしけん」というのを作ったが、両曲ともに今は廃曲となっているとのことである。
 文筆に関したこと以外で実隆の干与かんよした職務といえば、御料所たる荘園の未進年貢の催促、勅額勅願所に関する出願の取次等もあった。神社仏閣等に関する取次は、当時の公卿の通有なことであって、その周旋料は彼らにとりて財源の一つであったのである。実隆のごときはむしろ稀にかかることに関係した方であるけれども、それでも日記の所々に散見しておって、中にも大内家の依頼した氷上山勅額勅願所のことにつき、斡旋した時などは、その礼として、大内政弘から、唐紗の浅黄文雲のもの一段、同じく無文白地のもの一段と、それに堆紅たいくの盆とをもらい、実隆にとりてはよほど珍しかったと見えて、浅黄紗の方はさっそく物尺で計ったらしく、二丈一尺七寸余あったと認めている。大内家との親しみはそれのみでなく、延徳元年実隆が権大納言になった時には、政弘から昇進の祝として太刀用脚等の贈遺があり、実隆の方でもまた政弘の所望に応じて『新古今和歌集』を書写して遣わした。大内家は外国貿易に従事し、西国でも有数な富裕の大名であり、その富むに従いてしきりに京都風の文化を模倣し、京都との連絡を濃くしようとしたのであるからして、大内家にとりては、実隆のごときは公卿中でも特に親しみを厚くしたい人柄であり、実隆の方でもまたこれによっていくらか家計を補ったことであったろう。永正五年大内義興が義植将軍を奉じて入京し、四位に叙せられた時には、礼のために太刀一腰と二千疋の折紙を持って、わざわざ実隆の邸を訪問した。この時は実隆すでに内大臣を辞した後であるけれども、やはり口入れの労をとったと見える。二千疋の臨時の収入は、意外に感ぜられたと見えて、日記十月一日の条に「いささか屋をうるおす云々」と記している。この大内との縁からして、彼家の重臣である杉二郎左衛門の所望に応じ、三十六歌仙の歌を色紙に認めたり、同じく重臣の陶三郎から、筑前名産の海児うに二桶をもらったなども、またこのころのことであった。
 次に実隆が旅行した話に移ろう。旅行は必ずしも公務ではないが、生活としてはよそ行きの部に属する。前回にもしばしば述べたとおり当時の公卿はしばしば遍歴をやったもので、その主なる動機は生活の困難から来たのであるが、実隆は台所向きずいぶん困難であって、殊に文明十九年ごろは「当年家務の儀毎事期に合わず」と日記に書いているほど難渋したのであったけれど、しかしながら遍歴をしなければ立ち行かぬほどの貧乏でもなかったのであるから、この種の旅行をばやらなかった。故に彼の旅行の範囲は極めて狭いものであった。けれどもさすがは実隆だけあって、その旅行の記事がなかなかおもしろい。奈良に最初行ったのが文明十年で、春三月花のまさに散らんとするころであった。落花を踏み朧月おぼろづきに乗じて所々を巡礼したが、春日かすが山の風景、三笠のもりの夜色、感慨に堪えざるものがあったといっている。二度目に出ている奈良旅行の記事は、実隆の長子で東大寺公兼僧正の弟子となり、西室公瑜と称した人が、京都から奈良に戻る時に同道した際のことで、明応五年閏二月中旬、花の早きは散り遅きは未だ開かぬころであった。宇治に近く三条西家の荘園があるので、奈良行きの時にはそこで中休をするの例であり、この時も南都からの迎馬に宇治で乗りかえ、黄昏奈良に着したのであるが、今見てすら少なからず感興をひく春日社頭の燈籠が、すでに掲焉けちえんとともっており、社中の花は盛りで、三笠山の月が光を添えた。この行はもと単に奈良のみでなく、大和めぐりを思い立ったのであるから、奈良に数日滞在ののち芳野に向い、道を八木市場から壺坂にとった。夕陽の時分芳野に着いて見ると、まだ花は盛りでわきの坊に一泊し、翌日は蔵王堂からそれぞれと見物し、関屋の花を眺めて橘寺に出で、夜に入り松明たいまつの出迎えを受けて安部寺に一宿し、長谷、三輪、石上を経て奈良に戻った。その後明応七年二月にもまた春日社参をやったが、この時は前駈ぜんくの馬がなかったので石原庄でもって借り入れたとある。永正二年には春日祭上卿をも勤めた。高野山の参詣に至っては、その記事が『群書類従』所載の「高野参詣日記」につまびらかであるからこれを省くが、その途中堺・住吉等を経由したことはもちろんである。奈良・高野の外に実隆の旅行区域といえば江州くらいのものであった。元三大師に参詣の序に石山寺まで趣いたこともある。鉤りの里に将軍義尚の御機嫌伺いに行ったことは前に述べた。このころは京都の兵乱を避けて大津・坂本に居を占めた公卿もあったし、また京都にすら多く見出し難い普請ふしんの立派な酒屋もあって、京都から遊士の出かけること頻繁であったので、実隆も江州には時々出向いた。
 実隆の官歴は文明五年以来とどこおりなく進んだ。まる二年と間を隔つることなしに、官もしくは位が高まった。しかるに文明十二年の三月に、権中納言になり、翌月侍従兼務となってからというものは、四か年ほど何の昇進もない。以前は人を超えて進んだけれど、今度はかえりて人にこさるるようになった。実隆も少し気が気でない。文明十六年の正月朔日に、「今夜節分の間、『般若心経』三百六十余巻これを誦す。丹心の祈りを凝らす」、とあるは、その辺の消息を語るものであろう。しかるにその年も何の沙汰とてなく、十七年の二月に至りてようやく正三位となった。官は依然として動かない。長享三年二月に至ってようやく権大納言となったが、その延引したのにすこぶる不平であった。昇進を賀する客が済々焉せいせいえんとやって来るけれども、嬉しくもないと日記に書いている。しかしながら文明十二年以来彼を超えて進んだのは、みな彼よりも年上の者ばかりで、権大納言になった時には、また上席の者六人を飛び越しての昇進であるから、彼にとりてはめでたいという方が至当だろう。
 実隆の立身は実隆の思い通りに行かないとしても、はなはだしく※(「土へん+可」、第3水準1-15-40)かんか不遇を歎じなければならぬほどでないことは、上文に述べたごとくであるのみならず、実隆は他の公卿に比して天顔に咫尺しせきする機会が多かった。これは彼が侍従の職にほとんど絶え間なくおったからで、しかしてその侍従として久しく召仕われたのも、畢竟ずるに彼の文才抜群の徳のいたすところであったろうと想像される。さてこの文才の秀でた実隆が、侍従として朝夕奉仕し、たんに表立った儀式に臨んだのみならず、内宴その他の宮中燕安の席にも陪し、その光景を日記に書きしるしておいたのが、これまた後世の人に教うるに、当時の九重の奥にも、いかに下ざまに流行した趣味好尚が波及しておったかをもってする貴重なる史料で、換言すれば日本の文化史に、大なる貢献をなしているのである。いま読者の参考に資するために、実隆が陪観したという遊芸のおもなるものを挙ぐれば、京都のものでは、七条辺に住居した西川太夫一座の猿楽で、中にも児舞は最も興がられた。大黒衆の拍子というのもあった。観世太夫の弟で、遁世して宗観と称した者がまかり出でて、尺八、音曲、太鼓等を御聴に達したこともある。旧遊女で後尼となり真禅と号した女が、曲舞を演じたこともある。幸若こうわかの流を汲む越前の芸人が上洛して、二人舞というを御覧に入れたこともある。また昔からありきたった傀儡子くぐつしが、宮中でもって輪鼓、手鞠等を興行したこともある。曲舞くせまいの児の上手を叡感あらせられて、扇を賜わった時に、実隆が仰せによって古歌を認めて与えたこともある。これによって見ると、能狂言の少ない点だけが朝廷の好尚の武家と異るところで、その他にいたってはほとんど差別のなかったことがわかるだろう。日記文亀元年四月七日の条に、内裏の女中衆が今熊野の観進猿楽を見物に出かけたことを叙して、故大納言典侍の在世中は、後宮の取締りも厳重であったが、その後自由になり過ぎたと記しているけれど、外出はできなくとも、宮中にも相応の慰めがあったのである。
 実隆が侍従として朝夕に禁闕に出入し、ますます眷顧に浴することが深くなるにつれて、時々の賜わり物も、他にすぐれて多かったようである。毎年灰方の御料所からして年貢米が納まると一俵を実隆に賜わることがほとんど恒例のようになっており、実隆の方からは、年々の嘉例として六月に瓜を進上した。この瓜はその領地なる御牧からして持参するのであるが、延徳三年のごときは、この美豆御牧が水損で瓜もとれぬ。しかし嘉例である瓜を進上せぬも残念であるというので、人を京都中に走らし、瓜を求め出して献上した。ただしいつもならば親戚知者にも配るのであるけれど、この年はそれだけは見合わせたと日記に見えている。実隆はまた庭に葡萄ぶどうを植えたとみえて、延徳元年の八月にこれを始めて禁裏に献上しているが、ちょっとわからぬのは、庭の榎の樹をって薪にした時に、三把を禁裏に進上していることである。薪三把の献上はいかにもおかしいが、これをも差し上げるくらいならば、けだしほかにもいろいろなものを献上しただろうと思われる。
 かくのごとくしていやが上に濃く成り行く宮廷と実隆との間は、一は実隆の姻戚関係にも基いているのである。実隆の室家は前にも述べたとおり、勧修寺贈左大臣教秀の三女である。さればこの教秀が伝奏を勤めておったということが、実隆と幕府とを結び付ける有力な原因をもなしたのかも知れぬ。しかるにこの教秀は役儀がら幕府に接近したのみではなく、それよりも密接な関係を皇室に結んでおったのである。というのはこの教秀の二女に房子というのがあって、これは後土御門院の後宮に召し出された。いわゆる三位局みのつぼねというのがすなわちこの房子で、大慈院宮と呼ばれた皇子、安禅寺宮と称せられた皇女、共にその出である。この三位局の誘引で、三条西家の奥向きの人々が、賀茂の山に躑躅つつじ歴覧のため出かけたことなどが実隆の日記に見えている。三位局は実隆の室の姉に当るのであるが、外にまだ一人の妹がある。これは藤子というので、後柏原天皇の後宮に召され、後奈良天皇および尼宮大聖寺殿の御生母であって、准三后、豊楽門院というのがすなわちそれだ。かくのごとく実隆がその室家の縁からして、二代の天皇と特別の関係があったのであるからして、したがって侍従をも久しく勤めることになったのであろう。実隆がその女を九条家へ嫁し得たのも、あるいはかかる事情が助けたのではあるまいか。
 三条西家は公卿の中で、決して低い階級に属すべきものではなかったけれど、さりとて九条家と並ぶべき家ではない。しからば実隆の娘保子が九条尚経に嫁したのは、異数の例であるかというに、それはそうでなく、九条家の家長または家長たるべき人の正妻は、多くこの程度の家から嫁入っている。されば三条西家からめとったとて、九条家の格例を破ったのではないが、嫁にやった三条西家にとりては名誉のことだ。しかるに保子が尚経に嫁したのは明応四年(一四九五年)のことであるに、実隆の方から遠慮してほとんど九条家に出入しなかった。これは実に九条家に対する遠慮もあるほかに、別の事情があったのだ。というのは保子の嫁入した翌年の正月早々に、九条家においてその家礼すなわち執事の役をしておった唐橋大内記だいないき在数が殺害された事件があったからであろう。そもそも二重の服従関係ということは階級制度の行なわれた時代に往々あることで西洋にも珍しからぬが日本にも多々あった。大小を論せず、諸侯たる資格においては同等でありながら、小諸侯は大諸侯に対してほとんど主従のような関係を結ぶなどはその一例である。徳川時代には幕府の勢力はなはだ旺盛で、諸侯の間にかかる関係の生ずるのを禁遏きんあつしておったけれど、それでもこの種のことが絶無であったとはいえない。また各藩の士族はその藩主なる諸侯の臣下たるにおいて一様でありながら、低い階級の士族は高い階級の士族に依り、その出入りとなり、役人をもやった。公卿においてもやはり同様で、身分の高くない公卿は、五摂家などに出入りしてその家職となり執事となった。一方においては低いながらも朝廷の官職を有する一廉の公卿であるかと思うと、それと同時に他の朝臣の使用人となっておったのである。しかしてこれは徳川時代に限ったことではなく、それ以前においてもそのとおりであった。唐橋在数は大内記という官を帯びた朝臣で、同時に九条家の執事であったのである。その執事としての勤めぶりが毎事緩怠至極で不義の仔細連続したという理由で、准后すなわち九条政基は目通りを止めておいた。ところが、七草の日に在数は無理に九条家に出頭したので、九条政基ならびにその子すなわち実隆の女婿じょせいたる尚経は、この在数をり殺した。二人とも下手人であるともいい、あるいは父なる准后一人が下手人だとも、または尚経一人の所為しょいだというが、その辺はたしかでない。殺した方に理があるか、殺された方に理があるかは、一方の死んでしまった後に、分明にし得べきことでない。九条家では不届な家職を手打ちにしたというのであるけれど、それは私事で、朝臣たる大内記唐橋在数を、同じく朝臣たる九条家父子が殺害したことにもなる。おまけに在数は当時あたかも菅家一門の公卿の長者であった。そこで菅家の連中が承知せぬ。一族の協議会を開いて申状を認め、公然と出訴におよぶことにした。一族中には九条家の威勢に畏れて首鼠しゅそ両端の態度に出でた者もあったけれど、多数はこれに連署した。菅家以外の公卿も多くは九条家に同情しなかった。この刃傷沙汰は朝廷としても捨て置かるるわけには行かなかったので、遂に子の尚経の方に責を帰し、その出仕を止められた。そうなると世間の手前もあり、舅たる実隆も公然九条家に出入することもできず、そのために遂に四年間も無沙汰をしたのである。この無沙汰中に娘保子は男子を産んだのであるけれど、実隆は初孫の顔を見る機会を得なかった。ところが明応七年十二月の十七日に、尚経の勅勘ゆるされて出仕することになったので、実隆も大手を振って九条家を尋ね得ることとなり、その翌日早速訪問に及んだ。婿の出仕祝と無沙汰のわびとを兼ねたのであるが、ついでに保子が生んだ九条家若公のいたいけな姿を見、その容儀神妙なるを喜び、馳走を受け、前後を忘るるほどに沈酔して帰宅したとある。ことわっておくが、この時の若公というのは、後に関白になった九条植通ではない。植通の前に生れて出家し、別当大僧正経尋といった人である。
 かかる間に実隆は明応の二年に従二位に叙せられ、それからして九年を経て文亀二年に正二位に叙せられた。それからして永正三年に至るまでに、官位共に変動がない。越えられて都合のわるい人に越えられたのでもなく、憤懣するほどの理由とてはないのであるけれども、彼の権大納言たること、長享三年以来足かけすでに十八年の久しきに及んだ。ずいぶん退屈しないでもない。父公保も内大臣までは昇進したから、自分もそれまでは進みたい。今までは闕位がなかったからいたし方もないが、前年の二月に左大臣公興がやめたので、くり合わせのやりようによっては、内大臣に空位を作ることも不可能でなくなった。のみならず舅教秀の歿した明応五年の九月と十月と、二度に吐血し、七年の十月にまた吐血をしてから、とにかく体がすぐれない。一方において子の公条は、年齢も二十に達し、順序よく昇進を重ねて来ている。それにはもはや心配がない。そこでこの辺でもって引退しようと決心したが、さていよいよ引くとすると、花を飾って引きたくなる。
 ここでちょっと実隆の相続人たる公条のことについて説明しよう。公条実は実隆の嫡子ではない。文明十六年に生まれ、公条よりも三歳長じている兄があった。しかるに実隆はこれに家督を相続させない。その理由は、実隆みずからその日記において語るところによると、抜群の器量でもない子は、しいて相続させたところで、笑を傍倫に取るのみで、その益ないことであるから、息子が何人生れようと、皆ことごとく釈門に入れようと、多年思慮しておったのである。しかしながらまたよく考えてみると、近ごろ世間には、数年断絶したことの知れている家を、ゆかりのない他氏他門から、勝手に相続することもある。いま自分が名を重んじて跡を断ったからとて、後になってどんな者に相続されるかも知れない。また自分の子を釈門に入れたからとて、それで永く家が断えるともきまらぬというのは、近ごろ出家した者の還俗げんぞく首飾する例が多いのでもわかる。なまじいなことをして、をもってちょうに続き、竹をって木を修むるような仕儀に立ち至らしむるよりは、いっそのこと己の子をもって、相続せしむる方がよいとのことだ。実隆が己の子に跡目をつがす決心をしたことは、それで合点が行くけれど、長子をいて次男を相続人に定めたことは、これだけでは分明でない。相続人の定まった長享二年には、長子五歳次男二歳であった。長子の方が格別の器量でないという見当がほぼついたので、それよりは未知数の次男にと決したのか、さりとも他の理由あってのことか。『実隆公記』には、長享二年三月第二子公条叙位の条に、「二歳の叙爵は数代の嘉例なり、次男相続また嘉模かぼなり」とある。叙爵の早い方がめでたいには相違ないけれど、「二歳の叙爵は数代の嘉例なり」とあるのは解し難い。現に実隆当人は四歳で叙爵している。もし自分を嘉例の中にかぞえぬというならば、「次男相続また嘉模」の方が了解し難い。実隆は次男で、父公保の跡を相続したのであるけれど、その公保に至りては、正親町三条家の次男で、三条西の跡を養子として相続したのである。要するにこれぞ十分な理由というべきものが知られてない。何か深い事情があるのかもわからぬ。長子誕生の初め、春日大明神に奉ることを祈念したというからには、あるいはそのためかとも思う。
 理由はともかく第二子公条は相続人と定まり、その兄は出家することになったが、場所は春日大明神の管領する大和国内でなければならぬというので、最初は興福寺を望んだが、都合がつかなかったので、東大寺の勧学院に入れることにし西室と称した。入室以来いっこう学問に身が入らず、実隆も心配しておったが十三歳のとき文殊講をやり、その所作神妙で諸人感嘆したというので、先ず大いに安心した。その得度とくどして名を公瑜と号することになったのは、翌々明応七年十五歳の時である。この間に公条の方は次第に昇進し、明応二年には美作権介みまさかごんのすけを兼ね、三年には従五位上、六年には十一歳で元服、右近衛権少将に任ぜられ、七年の十二月ちょうど兄の得度する少し前に正五位下に叙せられた。それからして父実隆の致仕ちしした永正三年までに、位は正四位上まで、官は右近衛権中将を経て蔵人頭となった。いま一息で公卿補任中の人となるのである。
 諸種の事態が輻湊ふくそうして実隆の辞意を決せしめた。日記永正三年正月二十七日の条に、「孟光いささか述懐の儀あり、不可説の事なり」とある。実隆が夫人から何事を述懐されたのかは記してないから、夫人が引退を勧めたのか、または抑止したのか、その辺は知り難い。とにかく実隆は内大臣にしてもらいたいと歎願に及んだ。一旦大臣になりさえすれば、直ぐに引退するということを、最初からして条件にして願っている。そこで朝廷では空位である左大臣へ、右大臣の尚経を転じさせ、その後に内大臣の公藤を移し、もって実隆を内大臣に任命した。任ぜられたのは二月の五日で、在職わずかに二か月、任大臣の拝賀をも行なわないで四月五日に致仕した。時に年五十四、実隆が引退すると、その翌年に公条が参議になり、従三位に叙せられた。実隆の希望どおり、相続がめでたく行なわれたのである。
 致仕後の実隆は望みを官場に絶ったから風流三昧さんまいに日を暮らした。永正十二年に従一位に叙せらるべき勅定があったけれども、固く辞し奉り、翌永正十三年春の花が散ると間もなく、四月の十三日というに、照雲上人を戒師と頼んで盧山寺において落飾し、法名堯空、逍遙院と号した。後世永く歌人の間に尊ばれた逍遙院内府の名は、これからして起こったのである。実隆は致仕以前からしばしば異様の服装で外出をしたもので、嵯峨の先塋せいえいに詣ずる時などは、三衣種子袈裟をもって行粧となしたとある。いかなる服装かまだ調べては見ないが、「十徳の体」と自分で日記にしたためているから、大抵は想像される。実隆はこれ家計不如意のためにやむを得ずやった服装だといっているけれど、一には彼の好みでもあったらしい。日記永正五年六月十八日の条には、夜一条観音に参詣するのに、山臥やまぶしの体をしたとある。されば落飾後、平素黒衣を著し律を持したというのも、さもあるべきことで、これからして天文六年後の物故するまで全く遁世人の生活をなし遂げたのである。
 普通尋常の一公卿を中心人物としての記述ならば、予が今まで説いただけでも、それすらすでに大袈裟に過ぎるので、その上にさらに呶々どど弁を弄する必要はないのであるが、事実上の主人公を三条西実隆にとった本篇においては、なお一回読者の忍耐を濫用しなければならぬかどがある。それはほかでもない文筆殊に歌道の方面からしての宗祇およびその他との関係である。
 当代能書の第一人として、禁裏からしばしば書写の命を受けたことは、前回にすでに述べたごとくであるが、彼の名の都はおろか、津々浦々のはてまでも永く記憶されたのは、一つにはその水茎の跡のかおりであって見れば、煩をいとわず今少しく彼の書について補いしるさんこと、必ずしも蛇足ではあるまい。実隆の入木道の妙を得、在来の御家流に唐様を加味した霊腕を揮ったことは、その筆に成れりという『孝経』によっても徴し得らるることであるが、彼が何人からしてこれを習い伝えたかは、予の不敏いまだこれを明かにしない。天稟にもとづいたことでもあろうが、必ずやしかるべき師もあったろう。あるいはまた古法帖などからして会得したところもあるかも知れぬ。とにかくに彼の能書であったことは、論をもちいぬのであるから、禁裏や宮方や武家の御用のほかに、随分と方々からの依頼があった。それにつれて[#「それにつれて」は底本では「それにつて」]筆屋や経師屋きょうじやの出入りも頻繁であった。経師では良椿法橋ほっきょうというのが、もっぱら用を弁じたが、筆屋の方の名はわからぬ。ただし筆屋というのは、今日のいわゆる筆商ではない。諸所の注文により、先方へ出張して筆の毛を結ぶ職工である。彼らのある者は、たんに京都の得意を廻わって、筆を結びあるくのみならず、また田舎の巡業をしたものらしい。現に実隆の邸に出入した筆工のごとき、高野山の学僧だちをも得意としておったことは、実隆の日記にも見えている。筆工を喚んで筆を結ばす場合には、軸をばいずれから供給したか判明しないが、結ぶべき毛をば頼んだ方から差し出す。毛に狸毛と兎毛とあったことは今日と同様で、実隆に贈り物をする人の中には、気転をきかして兎毛を持ち込んだ者もあった。結び賃は、ハッキリとは知れぬけれど、享禄五年に実隆からして十六本の結び賃を筆工に払ったことがある。もちろん筆の種類によっても差等のあったことであろう。ただし当時における筆の供給が、一般にかくのごとき出張製造の方法によったかどうかは疑問である。おそらくは書道に心掛けのあって、特に筆に関して選り好みをし、かつ多く筆を需要した人に限って、かかる方法に出でたので、大方の人々は、筆屋の仕出し物で用を弁じておったこと、今日の需要者のごとくであったのかとも思われる。依頼によって実隆が揮毫する場合に、料紙をば多く依頼者の方からして差し出すこと、今日見る例と変わりがなかったらしい。依頼を受けた書の種類は一様ではなく、『源氏』を始めとして長編の物語類、歌集類、諸種の絵詞、画賛画幅、色紙、扇面等で、中にも色紙と扇面との最も多かったのは当然のことだ。しかして実隆の書いた色紙や扇面は、彼の存在中すでに骨董品として珍重され、贈答品として流行した。あるいは売買の目的物となっておったのかも知れない。以上のほかに実隆は禁裏の仰せによって浄土双六すごろくの文字などを認めたこともあり、また人のために将棋の駒をも書いた。将棋の駒に書くということが、いかにも書家の体面に関するとの懸念があったのか、明応五年に宗聞法師から頼まれた時には、「予は不相応にして、いまだ書を物に試みざるなり、叶うべからず」といって、これを断わったのであるけれど、その翌年姉小路中将から懇望せられ、再三堪えざる旨を述べて辞退したがきかれず、やむを得ず書いてやった。すると続いて伊勢備中守からしての所望があった。一旦筆を執った上は断わることもできず、直ぐさまこれをも書いてやった。それからして同様の注文が追々とあったらしく、書いてやった先きの人に招かれて、己の書いた将棋を翫び、大いに興を催したことなどが彼の日記に見えている。
 他人に書いてつかわしたばかりでなく、実隆はまた自分のためにも書写した。心願あって書写したという『心経』や『孝経』のほかに、自分用の『源氏物語』をも写した。五十四帖の功をおわったのは、文明十七年の閏三月で、これをばよほど大切にしたものと見え、延徳二年の十月には、わざわざ大工をんでこれを納るべき櫃を造らしめた。題銘をば後成恩寺禅閤兼良に書いてもらったのである。しかるに永正三年八月、甲斐国の某から懇望され、黄金五枚千五百疋でこれを割愛した。その後享禄二年の八月に、肥後の鹿子木三河守親貞から切に請われて、また一部を割愛した。その代価は先のよりは高く二千疋である。惜しいことではあるけれど、やむを得ず売り払ったとあるからには、活計の都合によったものであろう。享禄二年は永正三年を隔つること二十三年であるから、二度目に売った源氏というのは、おそらくこの間に新たに書写したのであろう。ただし永正三年に売った時には、それと入れかわりに、破本の『源氏』を四百五十疋で買い入れたとあるからして、あるいはその不足分七冊のみを実隆がみずから補写し、それを享禄二年に売ったのかも知れぬ。二度目に売った時は、実隆の齢すでに七十五で、またと五十四帖を写すこともできず、その残り惜しさは推し測られる。
 実隆の書はかくまでに広く上下に持てはやされたが、しかしながらその持てはやされたのは、たんに彼が上手な書家であったためばかりではない。彼の文藻があずかって大いに力あるのだ。彼は歌人であり、連歌師であるのみならずまた漢詩をもよくした。作者として抜群なのみでなく、『万葉』『古今』等の古典的歌集はもちろんのこと、そのほかに物語類、歴史類にもかなり通暁し、また漢籍の渉猟しょうりょうにおいても浅からざるものがあった。みだりに美辞麗句を連ぬるのみでなく、彼の思想の根柢には、浄土教より得たるところの遒麗と静寂とを兼ねたものがあった。慧信の『往生要集』、覚鑁の『孝養抄』、さては隆堯の『念仏奇特条々』等、念仏に関した書で彼が眼をさらした数も少なくはなかったが、甚深の感化を受けたのは、そのころ高徳のひじりとして朝野に深く渇仰された西教寺の真盛上人であった。実隆は宮中やその他において、上人の講釈説教等を聴聞したのみならず延徳三年の春三月の十五日には、わざわざ江州の西教寺に詣でて、上人から十念を授けられ、その本尊慈覚大師の作と称する阿弥陀如来を拝して、浅からぬ随喜結縁けちえんの思いをなしたとある。かく上人とのなじみの深くなるにつれて、上人の来訪もあり、『円頓戒私記』の書写を頼まるることになったが、これも往生の縁というので、実隆は子細なく領状し、わずか二日間にその功を終えた。真盛上人との関係以外に、浄土宗信者としての実隆は、旭蓮社やその他の僧とも交りがあった。日記文明八年六月二十七日の条には、その日から日課として六万反の念仏を唱うることにしたとある。この日課はいつまで持続されたのか、その辺は知り難いけれど、とにかく彼は熱心な念仏の帰依者であったには相違ない、平素殺生戒を守ろうと念篤かったものと見え、明応六年の五月、薬用のために、庭上で土龍もぐらを捉えてこれを殺した時、やむを得ぬとはいえ、慚愧の念に堪えないと記している。明応六年といえば彼の遯世とんせいに先だつこと二十年である。しかるに当時すでにかくのごとくであったとすれば彼の遯世の決して世間一様のものでないことが知らるべきで、阿弥陀の尊像はいうまでもなく、土佐光茂に命じて画かしめた法然上人、善恵上人の両肖像は、彼の旦暮祈念をこらした対象であった。されば絵師に註文するにあたっても、用意なかなか周到なもので、善恵上人の肖像には黄色の珠数を添えるようにとの注意をすら、ことさらに与えている。
 予がかく浄土教と実隆との関係を縷説するのは、これが大いに実隆の文藻に影響を有するからなので、いたずらに言を費すのではない。その昔アッシシのフランシスの信仰が、トルヴァドールと密接なる関係を有したのみならず、この聖者の感化が、当時のイタリア美術に少なからぬ影響を与えたことは、史家の明かに認むるところだ。フランシスのキリスト教におけるは、ちょうど法然等の仏教におけるのと酷似している。しかしてわが国の浄土宗は、もし美術史家のいうごとくに日本美術に影響を与えたものとすれば、美術以外文学の方面にも、相当な影響のあって然るべきはずで、実隆の文学のごときはたしかにその実例を示すものであろう。予は単に実隆が連歌、または連歌気分の和歌を善くしたから、しかいうのではない。連歌にも和歌にも種々の色彩のものがある。禅宗的のものもあれば、浄土宗風のものもある。そもそも足利時代を風靡した宗教は、浄土宗よりもむしろ禅宗ではあろうけれど、実隆において浄土宗は全く無勢力ではなかった。狩野派の絵画と禅味との関係も、しばしば論ぜられることではあるが、絵画は当時まだ狩野派の独占に帰しおわったのでなくして、土佐派というものになおかなりの余勢があった。一概に評し去るのは如何いかがわしいけれど、もし狩野派の絵画をもって、禅的気分に富んだものとなし得べくんば、足利時代の土佐派をもって浄土気分のあるものといい得るかも知れぬ。少なくも浄土教が、狩野派よりも土佐派の方に相応ふさわしいとはいい得るだろう。わが国の肖像画というものは、足利時代に始まったのではないけれど、主としてこの時代から流行したもので、土佐派でもこれを画けば、狩野派でもこれを画いた。武家の側の、主として影像を狩野派に描かした事例は、『蔭涼軒日録』に数多く見える。禅僧の肖像とても同様多く狩野であった。実隆は交際の広い人であって禅僧にも、近づきがあったのみならず、画人において土佐派のみを知って狩野派を知らなかったというのではない。現に太田庄へくれてやる扇面の画をば、狩野家にも頼んだ例がある。しかるに旦暮仰瞻ぎょうせんしようという法然善恵の肖像を、武家のひそみにならって狩野家に頼むことをせずに、これを土佐光茂に頼んだということは、簡単にこれを出来心とのみ解釈するよりも、彼の浄土教好尚のおもむくところに従ったのだとする方が、むしろ適切な説明ではあるまいか。けだし実隆は縉紳しんしん中の流行はやり役者であり、蔭涼軒は武家社交界の中心であった。しかして実隆は武家からも尊敬されて、しばしば柳営に出入した。しかるに不思議にも実隆と蔭涼軒とはほとんど没交渉である。『実隆公記』に蔭涼軒の名の見えているのは、たんに一か所だけであったと記憶する。両者の日記は、東山時代を説明する絶好の二大史料であるが、両者ともおのおの別世界の人であるかのように、自己およびその周囲を叙している。史家からして見れば、そこにまた面白味があるので、これを対照することによって、浄土的な実隆の面影も、さらにいっそう判明になり得るのだ。
 実隆はその情緒を浄土宗的信仰によって養った。しかしながら宗教心のみで文学者ができるものではない。実隆がその詞藻を養うためには、またそれだけの修養を積んだのである。歴代の歌集をば、読みもし写しもしたのみならず、いわゆる和学の書で古典とも称すべきものは、ほとんど残りなく渉猟した。『曾我物語』や、『平家』や、『太平記』や、ないしはまた足利時代に流行した『秋夜長物語』の類にも通暁した。歴史物では『神皇正統記』を愛読した。漢籍においても相当の薀蓄うんちくはあったので、その師は今いちいちこれを尋ぬるに由がないけれど、菅大納言益長の文明六年十二月に逝去せるを悲しみて、「譜代の鴻儒当時の碩才なり」と称え、かつその孫和長とは特別に懇意にしておったのを見ると、年輩から推して益長などにも教えを受けたのかと思われる。次に師と頼んだというほどではあるまいけれど、長享から延徳にかけて、一勤という者の講義をたびたび聴聞したこともある。この一勤は厚首座といい、坂東から上京した博学の老僧であって、京都では宮方や縉紳の邸に迎えられ、漢籍の講義をしたものだ。実隆は彼からして『毛詩』、『孟子』、または兵書などの講釈を聴聞したことをその日記にしるしている。詩に関しては早くから稽古を始めたらしく、幼少のとき紹印蔵主という者に就いて、『三体詩』の読習を受けたことを、文明十年の日記に叙して、すでに十二年を隔てて今日相遭うといっているから、その『三体詩』の読習というのは、彼の十二、三歳くらいのころの話であったろう。何故に『三体詩』からして始めたかというに、これは当時流行の教科書であったからで、ちょうど徳川時代において、素読といえば『大学』からして始めたようなものだ。そのいかに流行したかは、明応四年に新板の出来たのでも知れる。その『三体詩』の講釈をば文明九年には、宗祇法師の庵で、正宗から、文明十一年に蘭坡から聴いた。翌年には同じく蘭坡からして山谷の詩の講釈をも聴いた。蘭坡和尚というのは南禅寺の詩僧である。また当時山谷とならんでもてはやされた東坡詩の講義をば、桃源周興から聴聞した。周興をば実隆は「間出の雄才なり」と称讃している。かくのごとく詩集に造詣のあったくらいであるからして、彼はまた時々作詩をも試みた。禁裏での和漢の席に列し、また勅命によって孫子※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)そんしばく[#「孫子※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)」は底本では「※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)子孫」]※(「嫡のつくり」、第4水準2-4-4)てきざんとを題とせる詩を作ったことは文明十二年の日記に見え、永正三年には陳外郎から和韻を求められてこれを書し与えたとあり、同六年には雲谷の書いた北野天神の尊像に賛詩を題したこともある。これらはたんに例に過ぎないことはもちろんである。漢籍で愛読したものの中には、『老子経』や『唐才子伝』、『黄梁夢』等の挙げられてあるのを見ると、この方面においても彼の読書の趣味のすこぶる広かったことが知られるだろう。日記永正元年五月の条に、実隆が『源氏』と『蒙求』とを講義したということが見えるが、これがすなわち実隆の実隆たる所以で、まことによく彼の才学の特徴を示している。
『源氏物語』は、足利時代の著作物でももちろんなく、また足利時代において始めてもてはやされたのでもないが、しかも足利時代と特殊の関係を有すものである。鎌倉時代において『源氏』がかなりに読まれ、行なわれたとはいうものの、それは京都の一部縉紳間にのみに限られたもので、『源氏』はまだ日本の『源氏』ではなかった。そもそも鎌倉時代には、いろいろな型の文化が芽ざし、既存の文化と相競わんとしたもので、まだ『源氏』をもって日本文学唯一の典型とするまでには行かなかった。『源氏』が文学界において独歩の勢を成し、文学といえば『源氏』が代表する趣味が最上のものであると考うるに至ったのは、将軍が京都に柳営を開き、一種の公武合体を成し、これに伴って日本の文化も統一しかけ、しかして王朝気分の復活となった、その足利時代のことである。もし足利時代をもって日本文化のルネッサンスといい得べくんば、そのルネッサンスの中心は『源氏』である。『源氏』は足利時代において始めて日本の『源氏物語』となったのである。『源氏』を読まずして足利時代の文化を理解することは、ほとんど不可能といってよろしい。足利時代の物語類の、千篇一律に流れているのは、その根柢においていずれも『源氏』を模倣するかで、これをもっても当時における『源氏物語』の勢力が推測される。しかして実隆は実にこの『源語』の熱心なる研究者であり、擁護者であった。
 実隆が『源語』を読み初めたのは何歳ごろからのことであるか、日記ではこれをつまびらかにし難いが、けだし文明の初年からのことであろう。始めは師に就いたのではなく、『花鳥余情』とか『原中最秘抄』などいう註解本によって研究したらしく、相談相手としては、牡丹花肖柏が出入したらしい。肖柏が実隆の少時よりの交友であることは、日記大永七年四月肖柏堺に歿した記事の中にも見えるとおりであるのみならず、肖柏の名の日記に見えているのが、宗祇の名よりも早いところからして考えても、実隆は先ず肖柏を知り、しかるのち宗祇を知ったらしい。文明八年の八月十九日の条に、この晩肖柏が来て『源氏物語』「夢浮橋」の巻を書写してくれと懇望したとある。あるいは肖柏の手引きによって、実隆は宗祇と近づきになったのかとも思われる。宗祇に関する記事の始めて日記に出ているのは、文明九年七月宗祇の草庵において『源氏』第二巻の講釈があって、実隆が連日これを聴聞した記事である。こののち文明十七年まで宗祇から『源氏』の講釈を聞く話はない。日記にも闕漏はあるが。それのみならず宗祇がその地方遊歴のために、講義を開く折がなかったからでもあろう。文明十七年の閏三月の下旬、五十四帖書写の功成ったというので、その晩宗祇と肖柏とが、実隆の邸に来り、歌道の清談に耽りつつ、暮れ行く春を惜んだとのことである。この写本が出来てからして、『源氏』の講釈はまた開講せられたが、このたびは宗祇の種玉庵においてではなく、実隆の邸において催されたのである。宗祇は宗観、宗作、または玄清等の同宿をかわるがわる連れてきた。肖柏もまたおりおりこれに同伴した。聴手としては、主人公の実隆のほか、滋野井、姉小路等の諸公卿の来会することもあった。宗祇の見えぬ時には、肖柏がこれにかわって講釈をしたが、先ず三度に一度は肖柏の代講という有様であった。場所も三条西家のみならず、時には徳大寺家などへ宗祇を誘引し、そこで講釈せしめたこともある。一帖を講じおわると、慰労として饂飩うどん[#「饂飩」は底本では「飩饂」]くらいで献酬することもあり、あるいは余興として座頭を呼び、『平家』を語らすこともあった。かくて文明十八年六月の十八日に『源氏』の講義その功を終えたというので、その夕実隆はわざわざ宗祇の種玉庵に赴いて、だんだんの謝意を表したとのことである。
『源氏物語』の講義の始まっている間に、それよりも少しく遅れて、文明十七年六月の朔日から、同じく宗祇の『伊勢物語』の講釈が、実隆邸に開かれた。『源氏』の方は夕刻を期しての催しであったけれども、『伊勢物語』の講義の方は、朝に開かれたものらしい。されば同日の朝に『伊勢物語』の講釈を聞きて、その晩になると『源氏』の講義を聞くというようなこともないではなかった。その聴聞衆としては、中御門黄門、滋前相公、双蘭、藤、武衛、上乗院、および肖柏等であったと見える。『伊勢物語』は同じく古典であっても、『源氏』などとは異なり、肩のあまり凝らぬ物語であるから宗祇も腕によりをかけ、『源氏』の場合とは違った手加減で語巧みに縦横自在の講釈をなしたらしい。したがって『源氏』の講釈にない面白味もあったらしく、実隆はその日記に、「言談の趣き、もっとも神妙神妙」と記している。『伊勢物語』は『源氏』のごとく浩翰なものでないので、わずか七回でもって、その全部を同月二十一日までに講了した。そこで実隆は檀紙だんし十帖、布一段を謝礼として種玉庵[#「種玉庵」は底本では「種庵玉」]に遣わした[#「遣わした」は底本では「遺わした」]けれども、宗祇はかたく辞してこれを返送したとのことである。
 宗祇の『伊勢物語』の講義は、よほど面白いものであったと見え、その証拠には伏見宮家からも実隆を経てしきりに所望せられた。宗祇は少々渋ったのであるけれども、実隆の切なる勧め辞し難く、ついに宮家に参入して講義をすることにしたのは、それは文明十九年閏十一月のことであった。しかしてその翌すなわち長享二年の四月には江州の陣に在る義尚将軍からして、同じく『伊勢物語』の講釈を宗祇に命ぜられ、宗祇はわざわざ江州の御陣まで出張して、八か度の講釈をなし、その功を終え、数々の拝領物をし、面目を施して帰洛したとのことである。
『源氏』の講釈が終ると、その翌月からして著手せられたのは、これもやはり宗祇を煩わしての『古今集』の講談であった。宗祇は先ず不立不断のこと、貞応本のこと、為世と為兼との六問答のことなどからして説き起こした。つまり実隆はここに日本文学史上の一秘事たる『古今』の伝授を受け始めたのである。『古今』の伝習にやかましい儀式の附随しておったことは、世人もよく知るごとくであって、宗祇は「先ず心操をもって本となし、最初思いよこしまなくこの義を習う」ともいい、また「口決の事等、ただ修身の道にあり」とも説いた。講談中は魚味を食することに差支えはないけれど、房事は二十四時を隔てなければならぬということなども、談義中の一か条であった。すべて秘事であるので講談も密々に行なわれ、文明十八年の七月から始めて、翌十九年四月下旬、宗祇の地方遊歴に出かける時に至り、一旦中止となった。皆伝かいでんになったのではないので、翌々年すなわち長享三年の三月、宗祇はさらに『古今集序』聞書ならびに三ヶ事のうち切紙一、題歌事切紙一、以上を、実隆の邸に持参して、口伝いろいろ仔細があったと、実隆はその日記に載せている。
『源氏』、『伊勢』および『古今』の講義は、実隆が宗祇に習った主なるものであるが、このほかにもあるいは『詠歌大概』を読んでもらい、あるいは独吟連歌に関する心得を聞き、また宗祇の勧むるに任せて、源氏研究会とも称すべきものを、明応の初年に催したこともある。この研究会に関しては、七人で四箇条ずつの問題を提出して討論をやったが、霜月の日脚短く、宇治に関する分五箇条ほど残ったなどという記事がある。明応ごろには総じて『源氏物語』の流行も縉紳間に衰えたので、さきには講釈などをもよく聞きにきたかの姉小路宰相宗高などは、この研究会へ案内されたけれど、故障があると称して来会しなかった。実隆はその日記において大いにこれを慨嘆し、今時の人は今日のような研究会をもって、愚挙であるとして嘲弄するだろうが、かくも『源氏』を翫ばぬようになったことは、はなはだ不便ふびんなりというべきだといっている。実隆のごときは真に『源氏』の擁護者で、換言すればこの点において足利時代における一種の文化の代表者である。足利時代はその終りに至るまで、ついに『源語』的趣味の滅絶を見なかったが、実隆のごときはこれにあずかって大いに力ある者であろう。
 実隆にとっては宗祇は師でもあり友人でもあったので、必ずしも彼に教えを仰ぐのみではなかった。前条に述べた研究会のごときはすなわちその一例であるが、歌道においても、宗祇の方からして実隆の批評を求むることもあった。文明十八年の暮に宗祇が独吟二十首を実隆に示して批評を求めたなどに徴してもわかる。その時に実隆はかれこれ批評すべきわけではないけれど、たっての要求故にやむを得ず厚顔至極をも顧みずして心底を述べておいたと、その日記に書いている。されば文明九年ごろからして始まったこの両人の交情は、普通の師弟関係とは異なり、宗祇が実隆に負うたところのものも、また決して少なからぬことであった。宗祇が室町殿に出入し、その連歌の会に臨んだのは、よほど以前からのことらしく、長享二年三月には義尚将軍からして連歌会所奉行を仰せ付けられた。これより以来この奉行人を時人呼んで宗匠と号したと、『実隆公記』に見えているが、これけだし宗匠なる名の濫觴らんしょうであろう。しかしてこの会所開きの会が長享二年四月の始めに催された。されば宗祇もその殊遇に感じ、将軍薨去の後、延徳二年三月に、故将軍すなわち常徳院殿のため、四要品を摺写し、十人ほどに勧誘して、和歌を詠ぜしめ、これを講じたことがあって、その時には実隆もその経の裏に歌を書いてやったとのことだ。これらから推しても、宗祇はその幕府との関係において、実隆の推挙によったのではないらしいが、『新撰菟玖波集[#「新撰菟玖波集」は底本では「新撰菟※(「王+攵」、第3水準1-87-88)波集」]』の修撰のことからいて、宗祇と宮廷との関係を生じたのは、これはひとえに実隆の取成しによったもののようだ。明応四年修撰に関して兼載との葛藤のあった際に、親王家に申し入れて、その御内意を宗祇に伝え彼を安堵あんどせしめたのは、すなわち実隆その人で、その際に宗祇は御蔭で胸襟愁霧をひらいたといっている。『新撰菟玖波集』二十巻がいよいよ出来上り、宗祇が肖柏、玄清、宗仲等を率いてことごとくこれを校訂し、九月十三日をもって恭しくこれを禁裏に奉献すると畏くも禁裏からは、御感の趣の女房奉書を、宗祇に賜わることになって、勾当内侍こうとうのないじこれを認め、実隆はこれを渡すために、宗祇の庵へと出向いたが、折節宗祇は他行不在であったから、留守の者にこれを渡して帰った。宗祇は庵に戻って見ると忝き恩命を拝したことがわかり、一壺の酒と一緡いちびんの銭とを持って、すぐさま実隆のもとへ礼を述べに駈けつけたが、今度は実隆の方が留守であったので、土産物を残して帰った。『新撰菟玖波集』には御製の金章長短の宸筆しんぴつをも交えているので、禁裏でも等閑なおざりの献上物のごとく見過ごされず、叡覧のうえ誤謬でも発見せられたものか、女房奉書を賜わった翌々日、また実隆に仰せて今一度校合の仕直しをして進上するようにと宗祇に命ぜられた。そこで宗祇はさらに宗坡とともに校合してこれを差し上げたのである。かくのごとくして宗祇の名九重の上に達し、明応七年十一月には禁裏からして三荷二合の酒肴を宗祇法師に下さるることになった。これもまた実隆の伝達によったので、翌日宗祇天恩の有り難きを謝し、かつ挨拶のため実隆邸を訪い、天恩の一荷を頒ちて、もって当座の礼心を表したとある。実隆はかく宗祇を禁裏に推挙し、その他何事につけても芳情を示したからして、宗祇もまた二なく実隆を頼んだので、在洛の間にたびたびの訪問をしたのみならず、地方遊歴に出かける前、旅行から帰洛した後そのたびごとに必ず実隆のもとに訪れるのを例としておった。そもそも連歌師の常とはいいながら、宗祇の旅行は、その回数においても、はたまたその範囲においても、共にすこぶる驚くに足るものであり、関東には七年も遍歴し、十一箇国それぞれの場所から富士山を眺めて、なかんずく筑波山から見るが最もよいと断定したほどの大旅行家で、したがって方言にも精通し、かつて実隆に『京ニ筑紫ヘ坂東サ』などの物語をしたこともある。
 実隆が文明十七年に、彼から『源氏』の講釈を聞くようになった以後、日記に見える彼の旅行だけでもおびただしいもので、最もしばしば、しかも手軽くやったのは、江州と摂州とであるが、江州行きなどは、あるいは彼にとり旅行の部に入るべきものでないかも知れぬ。摂州へ行ったのは、池田に用事があり、かつ有馬の温泉に湯治するための旅行であった。故に摂州行は必ずというではないけれど、多く気候の寒い時、すなわち十月から二月までの間にやったのである。以上二州よりもやや遠い所では、東北は若狭、越前、美濃、西南は紀、泉、播州等であった。それよりも遠くなると東北は越後、坂東、西南は中国筋から九州へかけての旅行もやった。特になじみが深かったのは越後である。これは上杉相模入道の子息なる民部大輔といえる者、仁慈博愛の武士であって、宗祇は特にその引立てを得、重恩を荷なったからである。されば右の民部大輔が長享二年三月生年三十六歳をもって鎌倉であえなき最後を遂げた際に、宗祇は哀慟のあまり、一品経を勧進して彼のための追善を営んだという。かくのごとき縁故があるので、その後も宗祇はたびたび越後におもむいた。また彼が中国九州におもむいたのは、主として大内家を目的にし、越前におもむいたのは、朝倉をたよって出かけたのであるこというまでもない。かく席暖まるいとまもなく、京田舎を出入した宗祇は、晩年遠国下向の時となると、その平素もっとも大切にしている『古今集聞書』以下、和歌、『左伝』、抄物等を一合の荷にまとめ、人丸の影像とともに、これを実隆のもとに預けて出発するを例とした。人丸の影像というものは、早くから歌人の崇拝の目的物となっておったもので、中には他の歌聖、京極黄門その他などを、影像にする向きもあったけれど、最も尊ばれたのは人丸像で、その影供は歌道の一大儀式となっておった。実隆は歌道において飛鳥井の門人であったこと前にも述べたごとくであるが、その門人たる実隆が、飛鳥井家へ年始の廻礼などに行くと、飛鳥井家では、これを人丸以下の影像を飾った室に引見したものだ。また実隆はかつて兼載から、信実の真跡と称する沽却物の人丸影像を示されて、大いにこれに涎垂えんすいしたこともある。宗祇の所持の人丸影像は、信実の真筆ではなく、これを手本にして土佐刑部少輔光信に写さした新図であった。宗祇がこれらのものを、旅行に際して実隆に預けることとしたというのは、たんに不在中の紛失を恐れたためのみではない。実は長享二年宗祇の北国行のさい実隆との間に約束が結ばれ老体でもあり、遠国へ下向すると再会は期し難いことであるから、もし旅先で万一の事があり、帰京かなわぬ仕儀となったならば、聴書等を実隆に附与しようといったのである。したがってこれを実隆に預けるというのは、万一の際そのまま留め置くようにとの意味なのである。はたして宗祇はその歿する前年すなわち文亀元年の九月に『古今集聞書』切紙以下相伝の儀ことごとく凾に納め封を施して実隆のもとへ送り届けた。実隆これを記して、「誠にもって道の冥加なり、もっとも深く秘するところなり」といっている。
 宗祇と実隆との歌道の因縁上述のごとくであるからして、その往来も頻繁に単に文学上の交際のみに限らなかった。宗祇は文明十七年に闕本ながら古本ではありかつ美麗な『万葉集』十四冊をば、実隆に送り、そのほか定家卿色紙形一枚を送り、また宗祇が香道の名人で、自身調合にも巧みであったから、種々なる薫物を送り、あるいは養性のためにせよとて蒲穂子を贈り、筆の材料にとて兎毛を贈り、唐墨を贈り、旅から帰ると、旅先の名物と称せらるる器物や食物や反物などを土産とし、しからざれば一壺の酒一緡いちびんの青※(「虫+夫」、第4水準2-87-36)をもって土産として、ある時は三条西家の青侍等の衣服にとてかたびら三を贈ったこともあった。実隆眼病になやむと聞きて、目薬を贈ったこともあった。実隆の方でもまた宗祇に対して一方ならぬ懇情を運んだ。秘蔵の『神皇正統記』をも、望むに任せて宗祇に与えた。宗祇の依頼に応じて、彼の連歌集なる『老葉わくらば』を清書してやった。同じく[#「同じく」は底本では「国じく」]依頼によって「桐壺」の巻を書写せる際などは、その出来上らんとした日に、禁裏から召されたけれども、実隆は所労を申し立てて不参し、もって書写の功を終えたのである。その他宗祇のために、あるいは『源氏』五十四帖の外題げだいを認め、『新古今』、『後拾遺』、『伊勢物語』等の銘を書し、またしばしば扇面に書し与えた。扇面は、時として実隆の方から旅行の餞別に出したこともあるが、多くは宗祇の所望によったものである。中には大晦日に頼まれて、即座に書いてやったこともある。色紙を三十六枚所望されてこれを書いたこともある。かくいえば頼む方もずいぶん無遠慮なやり方と称すべきで、書いてもらった扇子や色紙を、宗祇の方でいかに処分したかというに、無論自分の翫賞のためのみではなく、人に頼まれた分もあろうし、また中にはそれでもって宗祇が自分の義理をすませたことも多かろう。大晦日に頼みに来た節などは、さすがに実隆も不平であったと見えて、その日記に「※[#「總のつくり」、「怱」の正字、399-上-19]劇中の無心といえども、染筆してこれを遣わす」といって頼むままに扇三本に書いてやった。
 かく述べ来ると、それのみでは、宗祇の仕打ちがいかにも押しつけがましく聞えるのであるが、その内情を調べると、必ずしも宗祇を酷評すべきではない。実隆は生計不如意のために、一方ならず宗祇に手数をかけている。実隆は延徳、明応の交、年貢未進で三条西家を困らした越前田野村からの取立てをそのころ北国通いをした宗祇を経て、朝倉家に依頼し、若干の収納を得たことがある。明応の末年には、宗祇の摂津行きの次をもって、魚市の件に関する伊丹兵庫助との交渉をやらしたこともある。そのほかに何方いずかたよりか千疋の借金を宗祇にしてもらったことが、三度ほど日記に見えており、千疋以下の借入れを頼んだこともある。周防すほうの大内家からして用脚ようきゃくを調達する時にも、また宗祇の斡旋あっせんを得ておった。当時の大内家は中国と九州とにまたがり拠有した大勢力で、それに支那貿易に関する特権を有したところから、その富西国に冠たる有様であったことは、みな人の知るところ、実隆の大内家との関係についてもまたすでに述べたとおりである。されば宗祇のみでなく、連歌師としては兼載のごとき、また延徳ごろに周防に往復している。連歌師のみならず龍翔院右府公敦のごときを始めとして公家等のたよって行ったのもある。『平家』を語る琵琶法師等もはるばる中国下りしてその眷顧を受けた。実隆が大内政弘のために、いろいろ書写してやり、あるいは銘を書き、周防浄光寺のために朝廷に取り持ちて、灌頂かんじょう開壇の特許を与え、宗祇の勧めによって長門住吉法楽万首の奥書を書し、殊に用脚に関する場合に、宗祇と相談のうえ書状を発している。されば実隆と大内家との間を親密ならしめたのは、宗祇の居中周旋によるものだとも考え得られるのである。実隆のために金策の秘計をめぐらした者は宗祇のみではないけれど、その方面においての宗祇の尽力は、決して少小でなかった。実隆に書いてもらった扇子をば、宗祇はあるいは実隆のための金策の便宜上、これを他に贈遺したかも知れぬ。少なくも実隆が宗祇に書いてやった扇子は、間接に自分の家計を補う因となったのだ。大晦日に扇子を書かされたとて、あまり苦情をいうべき筋でもない。これを日記に書したのは、一時むっとしたからで、実隆もまたこれらのために宗祇に対し永く不快の念を懐いたのではないようである。
 宗祇はもと身体壮健であったけれど、寄る年波の争い難くて、明応五年のころから、耳聾し治し難く、その他にははるかに衰弱を見ざりしも、明応の末年より越後に遊び、立居のようやく意のごとくならぬを感じたれば、臨終のまさに近からんとするを覚り、少しにても都近き所に移らんとしたるをもって、宗長ら聞きてこれを伴い帰えりしに、文亀二年の七月二十九日というに遂に相模の箱根で入滅した。この報が京都に達し実隆の耳に入ったのは、それから約一か月半あまりの九月十六日で、宗祇の弟子玄清が来たり告げた。実隆大いに驚いて「驚嘆取喩に物なく、周章比類なきものなり」と記している。さて宗祇のすでに歿した後は、『古今』の伝授ひとり実隆によるのほかはないというので、玄清のごときは、この年の末に、実隆の教えを乞うた。実隆やむを得ずこれを承諾したが、いかにせん実隆所持したところの聞書をば、ことごとく焼失したために、大概のみのほか諮問しもんに答うることができなかった。宗祇の忌日は、歿後も斯道しどうにおいて永く記憶され、時としては遠忌の実隆邸に催さるることもあった。また当時一般の習いとして、宗祇の影像が幾通りも画かれ、宗碩の宗祇像には、実隆の取次によって、宜竹和尚これが賛を書した。しかしながら多くの人は、宗祇の後継者たる実隆の賛を望むので、実隆はあるいは己れ賛を草してこれを書き、あるいは宗祇の句を賛語に擬して書いたこともある。『国華』第二百七十号に載するところの宗祇の肖像のごときはすなわちそれである。
 宗祇との親交は、ひいて宗祇門下と実隆との交際となった。肖柏のごとく少年より交久しく、宗祇の関係によって、いっそうその交情を深くした者はいうもさらであるが、それ以外に宗祇の弟子で最も多く実隆の邸に出入りしたのは、宗長、玄清、宗碩等である。これらはいずれも実隆の家事向きに関係を有したこと宗祇同様であった。宗長は三河・駿河方面に多く旅行し、今川氏親の眷顧を受けたので、永正五年には氏親から実隆への贈与金二千疋を取り次いだことがある。今川と実隆との間は、必ずしも宗長をのみ介したのではないけれど、この二千疋の時には、実隆もよほど嬉しかったと見え、「不慮の芳志なり、闕乏の時分、いささかよみがえるものなり」と日記にしるした。玄清は文亀二年実隆が座敷を増築しようとした時に、相談を受けてその金策をしたことがあり、前に述べたごとく『源氏物語』を甲斐国の某へ売却の周旋をしたこともあり、実隆が宗長の所望に任せて抄物を譲り渡した時、宗長から代物として送って来た黄金一両を取り次ぎ、のみならずその黄金を両替してやったのも玄清で、その後いくばくもなく実隆が『伊勢物語』の本を玄清に遣わしたと日記に見えるのは、多分それらの礼心にくれたのであったろう。宗碩に至りては、しばしば美濃に往来した者であるので、実隆は同国苧関用脚の件につき、宗碩を煩わしたこともある。それ以外に宗碩は実隆のために金策をしてやり、また梅子の枝を実隆に、茶・杏一袋ずつを三条西家の不寝番の男どもに贈ったことも日記にある。その能州に行脚した時などは、行脚先きから書状に黄金二切を添えて送り来ったことすらある。肥後の鹿子木に『源氏』売却の周旋をしたのも宗碩である。宗碩のみならず、その小女までが乳母附添で実隆邸に来たことのあるのに徴すれば、宗碩は他の宗祇門下の人々よりもいっそう深く三条西家と関係のあったかも知れない。以上の三人のほかにも宗祇の弟子で宗聞という者が蟹醤一桶を実隆に送ったことが日記にあるが、その他の弟子につきては姓名の日記に見えるのみで記事のない者が多い。
 宗祇の門下は素人の方面になかなかに多かった。故に宗祇によって、それら本職ならぬ連歌師と実隆との交際も始まった。武人にして宗祇の弟子なる杉原伊賀入道宗伊、上原豊前守、二階堂入道行二、玄清の弟子宗祇の孫弟子なる明智入道玄宣等は、おりおり実隆と一座した人々である。宗祇はまたさまでに名のない田舎人をも実隆のもとに同伴し、または仲介となりて和歌の合点などを依頼した。薩摩の僧珠全や、美濃の衣斐出雲なども、皆かくして実隆に紹介された人々である。そのほか日記には明かに見えぬけれど、越後国の高梨刑部大輔政盛が『古今集』を書いてもらって、五百疋の礼をしたことや、越後上杉家の雑掌神余隼人が、実隆と別懇になったのも、直接あるいは間接に宗祇の越後通いによって作られた因縁だろうと察せられる。神余隼人の始めて実隆のもとを訪うたのは、宗祇の歿後永正元年の春のことで、初対面の土産として、太刀一腰、金一緡を持参におよび、色紙三十六枚に和歌を書いてくれと所望した。しかるに実隆は一儀に及ばずこれを承諾し、一盞を勧めてもてなした。これによって察するにこの神余なる者はよほど早くからして、少なくも音信くらいをした人らしく見える。されば永正七年には隼人のみならず、その女房衆まで三条西家に出入した記事が日記に見え、享禄二年には神余与三郎[#「与三郎」は底本では「与三部」]という者、三条西の召仕として抱え入れられている。多分隼人の近い身寄の者であろう。
 越後においては上杉の雑掌神余がかくのごとく実隆に親交ある以上、その主人たる上杉が、実隆に音信を通ずるにおいて、何の不思議もなく、永正六年に実隆よりして兵庫頭定実に遣わした書状の返事が、翌年七月に神余の手を経て実隆にいたされ、それと同時に太刀一腰と鳥目ちょうもく千疋とを送ってきた。その後も交通の継続しておったことは、日記からして想像される。駿河の今川家と実隆との間柄は、宗長を通じてのみならず、他の方面からしても聯絡を有していた。すなわち実隆の宗家や親戚を通じての関係である。今川氏は了俊以来文事を重んじた家柄であるのみならず、今川五郎氏親は中御門家と姻戚の好を結び、実隆の宗家なる三条大納言実望はしばらく駿州におもむいて、今川の客となり、遂にかの地に薨じた。この実望からも実隆に贈物の到来したことがある。今川の賓客として駿河におもむいた者には、三条実望のほかに冷泉為和等もあり、これも実隆と親しい。されば今川家と実隆とは、その音信に必ずしも宗長を介したわけではなく、永正六年氏親が黄金三両を実隆に送った時などは、相阿がその取扱いをした。
 駿河の今川家は、その京都との関係からしていうと、周防の大内家に似た点がある。されば実隆のごとき、当時の京都文明の一半を代表した人が、この両家に特別の交際をなしたことも怪むに足らぬ。しかして実隆とこれら両家との間には、好便による書状の往復や、遍歴する連歌師などがあって、これを聯絡しつつあったのである。ほかに、聯絡の一鎖をなした者の中には音一という座頭などもあった。音一はもと尾張生れの者で、六歳にして明を失い、十二歳のとき京都へ出で、『平家』を語ることを稽古してその技に熟達した。同人が実隆に紹介されたのは、永正三年その二十四歳の時で、紹介人は実隆と別懇なる渡唐の禅僧了庵であった。初対面の時には実隆に数齣の『平家』を語らせ一泊させて帰した。この音一これが翌永正四年五月、西国での文芸の保護者なる大内家をたよって周防に下向したが、その出発の際には、実隆より餞別として帯三筋、三位局と、新大納言典侍から帯各一筋、上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)局から白帷一を送ったので、音一は祝着の体で出発したのである。その音一の周防から上洛したのは翌年の十月であるが、その後検校けんぎょうとなり相変らず実隆邸で『平家』を語り、七年九月に駿河国に下向した時には実隆の手紙をも頼まれたのである。おそらくは久しからずして音一は駿河から帰洛したものであろう。永正九年閏四月には、能登へ遍歴のため出発したのであるが、その発足以前に、実隆はかねて音一から所望されてあった『伊勢物語絵詞』を書写してやった。伊勢の北畠と実隆との音信も、またこの音一の取次であったろうと思われるのは、永正七年五月、音一が伊勢に下向せんとした時、実隆がこれに木造ならびに龍興寺宛の書状を託したのに、同年七月北畠家からして任官の礼だといって、五百疋を贈ってきているからである。
 以上述べきたったほかに若州武田の被官粟屋左衛門尉親栄は、勧修寺家の縁故からして実隆のもとに頻繁に出入した。殊に文亀三年四月には、一日から十七日まで、毎日三条西家を訪うている。また永正元年には実隆のために金策をしたこともある。この粟屋が若州に在る伏見殿御料松永庄の代官職を命ぜられたのは、あるいは実隆の推挙によるかも知れない。同じ武田の被官に久村某というのがあって、土産物持参で実隆を訪うたことは、日記に見えるが、これは多分粟屋の紹介によったものであろう。
 実隆の交遊広く、雷名の僻陬へきすうまで及んでおったことは、日本のはてから彼を尋ねて来る者の多かったのでも推すことができる。薩摩からは、前にもちょっと述べた僧珠全が、一度は宗祇により、一度は宗碩と同道して、実隆に面謁したのみでなく、同国人吉田若狭守位清という者からは、和歌の合点ごうてんを依頼してきた。同じく島津西見は、十首和歌の儀興行のため、実隆を訪うたこともある。薩摩の者で、三条西家の近隣に小庵を結び、説経をした会下僧の、彼を訪れるもあった。薩摩も同様な大隅からは、禰寝ねじめ大和守という者が、礼と称して青※(「虫+夫」、第4水準2-87-36)一緡と太刀代とを携えて、実隆に謁したこともある。薩摩・大隅すらすでにかくのごとくであるとすれば、肥前の住人志自岐兵部少輔縁定のごときは、まだしも近国からの来客というべき分である。
 奥州のはてからも実隆に発句ほっくを所望して来る者があった。日記にはある巡礼男の同地方から訪ね来たった例をしるしている。岩城家の息女も歌を持ち来たって合点を所望した。伊達の一族も、二百疋を土産として対面を求め、連歌小巻の合点を頼んだ。常陸からは、江戸蓮阿という者が上洛のついでをもってたびたび訪問した。下野の小山左京大夫政長は、大永八年に連歌付句合点のことを依頼に来た。この時は実隆も、年老いたればにや、あるいは思うところありてか、かかるものに合点することを停止した後であったので、これを辞したけれども、政長かたく懇望し、黄金一両を懐中から取り出し、是非とも頼むといって、両巻を預け置いて去り、続いて葉雪という者をもってさらに依頼に及んだ。よって実隆もやむことを得ず書いてやった。そのほかに上野の僧も来た。信濃の僧も来た。しかしてこれら坂東者の多くは、しかるべき紹介の手蔓を有するもののほか、坂東屋という商人の取次によったらしい。
 これら人々の来訪や音信によって得たる実隆の見聞というものは、ずいぶん広かったろうと想像されるが、その上に彼は、当時の人には異域同様に考えられた蝦夷えぞヶ島に関する知識をも有しておった。というのは、彼が蝦夷人と交際したのではなく、蝦夷ヶ島に渡った僧友松という者が上洛して彼を訪ねたからである。実隆は細川家の被官で、阿波と丹波とへ往来する斎藤彦三郎なる者と懇意であったが、最初友松は丹波の出生者たる関係で、この斎藤につれられて実隆を尋ねた。蝦夷ヶ島から戻ってのち実隆に謁したのは永正四年で、土産として青※(「虫+夫」、第4水準2-87-36)半緡を携えたとある。談話の詳細は日記に見えないが、おそらく蝦夷ヶ島の奇談で時の移るを忘れたことであろう。
 実隆は文学者として禅僧等に比してはむしろ日本的趣味の人であった。さりながら漢籍をもかなりに渉猟せること前にも述べたごとくで、明人との交際もあった。ただし当時京洛の人士が目に触れた明人といえば、すなわち有名な陳外郎で、実隆の最も親しく交わったという明人も、この陳外郎にほかならぬ。しかしてその陳外郎なる者は、明人とはいえほとんど本邦人と同様で、連歌の会にまで出席したほどの日本通である。さればこの陳外郎と交際したからとて、これをもって外人との交際と見なすべきものであるか否かは考えものであるが、この人ばかりではなく、来朝の唐人で禅僧の紹介を持ち実隆に面会を求めた宋素卿のごときもあった。して見ると明人の間にも実隆の評判がいくらかひろがっておったのではあるまいか。
 かくのごとくして三条西実隆は、知己ちきを六十六国に有する一代社交の顕著なる中心となり、逍遙院前内府の文名が後の代まで永く歌人の欽仰するところとなり、ややもすれば灰色がちになり自暴自棄に傾かんとしつつあった彼の足利時代の文化に、微なりといえどもいくらか暖かみのある光を投げ得たのだ。本邦文化史上における彼の存在の意義はまさにここにあるべきである。むかし実隆の友なる宗祇の、山吹の花を愛したということは、肖柏の『春夢草』に見える。春の盛りをば飾らぬけれど、さりとてまた一種の趣なきにあらざるその山吹の花のごときは、けだしもって実隆を喩うべきものあろう。





底本:「現代日本思想大系27 歴史の思想」筑摩書房
   1965(昭和40)年1月15日発行
初出:「藝文」京都大学文学部
   1917(大正6)年8月号〜12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)に関して、「三ヶ寺」「三ヶ事」は大振りに、「蝦夷ヶ島」は小振りにつくっています。
※誤植を疑った箇所は初出誌を参照して改めました。
※「観進」は「勧進」の誤植を疑いましたが、初出誌でも「觀進」となっていたので、底本通りとしました。
※「聯絡」と「連絡」、「三分一」と「三分の一」、「坂本」と「阪本」、「径路」と「経路」の混在は底本通りにしました。
※底本中「宵壤しょうじょう(天と地と)」のように括弧書きされた部分がありますが、編集者注だと思われるので削除しました。ただし「刀一腰(助包)」は初出にもありますので残しました。
入力:はまなかひとし
校正:小林繁雄
2005年1月5日作成
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